2005年12月15日木曜日

12 金華山:戦国武将たちが見た山並み 2005.12.15

 長良川が山地から平野に出る位置に、金華山があります。金華山から見ると、濃尾平野が一望の下に見下ろすことができます。戦国武将が見た周辺の山並みには、日本の大地の生い立ちの秘密が隠されています。

 濃尾平野は、中京地方の産業が栄えているところです。濃尾平野は、南が伊勢湾に海に面し、北が岐阜県の岐阜市と各務原、愛知県の犬山市あたりで急な山並みで終わっています。
 鵜飼で有名な長良川を遡っていくと、金華山付近で急に険しい山並みに流れは入っていきます。その山並みは、川をさえぎるようにそびえています。平野を見下ろすような山地は、戦略的に重要な地点となっています。岐阜市には金華山の岐阜城、犬山市には犬山城があります。特に金華山の岐阜城は戦略的に重要で、鎌倉時代には砦が築かれています。金華山の城は、時代小説の題材としてよくでてきます。
 私は、2003年から2005年にかけて、ある研究の集まりで、たびたび岐阜に出かけることがありました。研究会のメンバーは大抵、金華山を長良川越しに見る旅館に泊まっていました。早朝に何度か岐阜城にも登りました。山としては、険しいのですが、それほど高くないので、朝ごはん前に登ることができました。こんな高い山の上に城をつくり、人が常駐していたことを思うと、昔の人の足腰の強さを感じます。
 斉藤道三がこの城を下克上で手に入れ、次には織田信長が道三の孫の龍興を倒して手に入れました。織田信長は、それまで稲葉山城と呼ばれていたこの城を岐阜城と改め、10年間拠点として使っていました。その後、関が原の合戦で、信長の孫の秀信が西軍に加わったため、東軍に攻められ、落城し、以降は廃城となり、城はなくなりました。
 岐阜城は地の利の良さから、難攻不落の名城として知られていますが、歴史上6回の落城にあっています。それに山頂は水も雨水を利用していたので、長期に及ぶ籠城には適さなかったようです。
 現在は、三層の城として1956年に再建され、1997年に改修されたものがあり、観光名所となっています。ロープウェイもつけられ、登りやすくなっています。頂上からの眺めはすばらしく、夜には城がライトアップされ幻想的な雰囲気をかもし出しています。私が登ったときは、早朝でまだロープウェイが営業していない時間帯でしたので、歩いて登り下りしました。
 私が、岐阜城に登っていて気になったのは、金華山をつくっている石です。登山道のいたるところで、非常に特徴的な石を見ることができます。この石は、10cm前後の厚さの板状で、何枚の板が重なって地層となっています。さらに、この地層全体が激しく曲がりくねっています。
 この石はチャートと呼ばれるものです。金華山全体が、チャートを主とする地層からできています。金華山のチャートは、白っぽい色をしています。
 チャートという石は、海に生きていた放散虫などのプランクトンなどが死んで、海底でたまったものが固まって地層となりました。放散虫は珪酸でできた殻を持っていたので、死んだ後、体の有機物は分解されてしまうのですが、殻が残って地層となっていきます。一つ一つは小さな殻なので、チャートのような地層が溜まるには、長い時間が必要になります。
 チャートは、ほとんどが珪酸からできているのですが、少し不純物が入っています。その不純物によってチャートには色が着きます。赤っぽい色は鉄やマンガンの酸化物の色で、黒っぽい色は硫化物や炭化物などの色です。緑のこともありますが、これは少量含まれている粘土鉱物の色です。
 白っぽい色はチャート本来の色で、不純物がもともと少なかったものと、もともと色はあったものが再結晶作用と呼ばれるもので色がなくなっているものがあります。海底から陸地へ持ち上げられる時に受ける変成作用で、鉱物が再度、結晶しなおして、不純物を含まなくなることがあります。
 チャートは、非常に硬い石で、他の石に比べて地上での風化には強く、あまり削剥や侵食を受けません。地層の中にチャートがたくさん混じっているところは、チャートの部分だけが侵食に耐えて残っていきます。つまり、周りが削られて低くなっていくのに、チャートのところだけが高く残っていきます。これが、金華山や周辺の切り立った山並みが、平野に唐突に高くそびえ立っているわけです。
 金華山だけなく、濃尾平野の北側にチャートの多い地層が広がっています。チャートを多く含む地層は、地形にもはっきりと現れており、北西から南東に直線的に延びる山並みが見えます。これは、チャートの多い地層が並んで延びていることを示しています。チャートが海から陸の持ち上げられたとき、その方向に並んで持ち上げられたものです。それが侵食によって残ったのです。
 チャートを含む地層全体は美濃帯と呼ばれています。美濃帯は、チャートのような深海底でできた石だけでなく、日本列島のような沈み込み帯で形成された地層の代表的な石が見られます。石灰岩と呼ばれる海の生物の化石からできた石や、海洋地殻の切れ端も、紛れ込んでいることもあります。石灰岩は、海洋でも島の周辺にできる礁とつくる生物の化石からできています。
 地層に含まれる小さな化石の研究から、美濃帯のチャートや石灰岩は、石炭紀から三畳紀、場所によってはジュラ紀にかけて、海底に堆積したことが分かっています。その後、ジュラ紀後期から白亜紀の最初にかけて、大陸にくっついて陸の一部になりました。
 海底にたまった地層が大陸にくっつくのは、海洋プレートが沈み込むところで起こります。海洋プレートのほとんどは、マントルに沈み込んでしまいますが、海洋地殻の上に溜まった軽いチャートや石灰岩などの堆積岩は、沈み込むことができず、プレートから削り取られて、陸地に持ち上げられます。このようにしてできた部分を付加体といいます。付加体の中には海洋地殻の一部も紛れ込むこともよく起こります。
 美濃帯だけでなく、日本列島はいろいろな時代の付加体があります。そして、時間と共に付加体は付け加わっていきますので、海側にある付加体の時代が新しくなっていきます。日本列島には、つぎつぎと南側から海洋プレートが沈み込んで、付加体が形成されてきたことになります。日本列島は付加体によって骨格が形成されているのです。
 濃尾平野よりさらに奥に、郡上八幡という町があります。その町の周辺にも、美濃帯のチャートや石灰岩が出ています。付加体の古い地層の境界が、郡上八幡の付近にあります。
 私は、郡上八幡の手前の新しい方の付加体と古い付加体の両方をみました。この付近のチャートは、赤っぽいものが多くなっています。また石灰岩が、陸で地下水によって溶けてできた鍾乳洞もありました。川原には、石灰岩や海洋底をつくっていた玄武岩など、多くの海でできた石が転がっていました。そんな石ころを見ながら、古き海洋の姿を思い浮かべました。

・鵜飼の長良川・
夏の夜の金華山付近は、なかなか情緒のあるところです。
夜になると鵜飼が行われ、
それを見るために屋形船が長良川を往来します。
鵜匠の船べりを叩く音、鵜の鳴き声、松明の燃える音、
日本の古くからある夏の光景には、
心和ませるものがあります。
背景に見える金華山の岐阜城はライトアップされ、
夕闇から夜の帳へと変わる空に、
くっきりと浮かび上がります。
なかなか幻想的な光景です。
ただし屋形船の大音響の音楽には興ざめしますが。

・長良川・
郡上八幡を訪れたのは、残念ながら、12月の寒い雨の日でした。
日程がないので、雨の中なかを、
川原に降りて、調査をしました。
長良川は、ダムがなく、雨が降れば、増水します。
ですから、川の増水に気をつけながらの調査でした。
岐阜の方にいたときも、前日に雨が降ったあとは、
長良川の水かさは、堤防近くまで増えていました。
私が泊まった旅館は、増水で水が堤防を越えると、
一階の駐車場は水につかりますが、
2階以上は、柵をして水がこない対策をしています。
そんな柵を本当に使うことがあるのかと思っていたら、
昨年の台風の時には、使ったようです。
自然の川の流れには、川原を更新する作用があり、
川原の石がきれいになります。
しかし、ダムのない川は、災害と隣り合わせでもあります。
濃尾平野の人たちは、川と戦ってきました。
長良川の流域の人は、災害に苦しみながらも
自然のままの長良川を守っているのです。

2005年11月15日火曜日

11 層雲峡:溶結凝灰岩の柱状節理 2005.11.15

 北海道にはたくさんの火山がありますが、その中でも大雪山は、北海道の中心に位置し、規模も大きいものです。大雪山の入り口の一つ、層雲峡を訪れました。

 大雪山は北海道の中心部に位置する巨大な山です。大雪山の旧地名は「ヌタプ・カ・ム・シュペ」といい、アイヌ語で「川の曲がりめの陸地の上にいつもいるもの」という意味でした。「山の上にいつもいるもの」とはヒグマのことで、曲がった川とたくさんのヒグマがいるところという意味でした。古くから「大雪山」とアイヌ名「ヌタプカムシュウペ山」が併用されていました。しかし、現在では大雪山が定着しました。
 大正時代の文人、大町桂月が、層雲峡から黒岳、旭岳を経て天人峡に下った時の様子を、紀行文として紹介しました。その紀行文は、「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」で始まる有名なものです。この文章も、大雪山という名称の定着に一役かっていることでしょう。
 大雪山は、アイヌ語で「カムイミンタラ」と呼ばれのを耳にしますが、これは固有名詞ではなく、場所の様子を示す言葉です。北海道には、いくつものカムイミンタラがあります。アイヌ語でカムイは「神」(ヒグマを指すことがよくあります)で、ミンタラは「庭」で、カムイミンタラで「神の庭」という意味になります。山の神聖な祭場やカムイ(ヒグマ)の多いところに使われた地名です。大雪山は今もカムイミンタラです。
 大雪山という名前は有名ですが、大雪山という山頂があるわけでありません。最高峰は、旭岳で標高2290mあります。旭岳の北東には、直径2kmの御鉢平と呼ばれるカルデラがあります。そのカルデラを中心として、カルデラ壁や周辺には2000mを越える山だけでも20座以上あります。多数の山が集まった巨大な山塊を大雪山と総称して呼んでいるわけです。
 大雪山は、国立公園に指定されており、その広さは約23万ヘクタールあり、神奈川県ほどの広さがあります。国立公園としては日本一大きな規模です。
 大雪山が、いかに大きな山かを、私は、大学の研究生の頃、アルバイトで思い知りました。そのときは、7、8名の人がその地質調査に参加しており、環境庁の許可をもらっていたので、腕章をつけて、国立公園の中を、自由に目的のルートや場所をあることができました。そのときは、大雪山を一月近く歩るきまわったのですが、層雲峡にも1週間以上滞在して、何度も黒岳に登っては周辺を調査をしていました。いくら歩いても歩きつくせることはなく、大雪山の広さをつくづく感じました。そのとき以来、層雲峡や天人峡、大雪高原温泉などは、馴染みあるところで、懐かしい場所となりました。
 2005年9月下旬に大雪山の調査に行きました。旭川を通り層雲峡に入りました。大雪山、それも層雲峡には過去に何度来ていたのですが、20年近く前のことです。その記憶では、層雲峡の街は、狭いところに旅館や土産物屋などが立て込んでいた記憶がありました。
 しかし、今回訪れて驚きました。町並みがきれいに整備されていて、建物の色や姿も統一されていました。街の周りを周回道路があり、街の中心を歩道が通り、歩道の両側に店や旅館があるというつくりでした。まるでヨーロッパのように、きれいになっていました。層雲峡も観光の街ですから、来た人がいい思い出ができ、また来たいと思えるようなところにすることが重要なのでしょうか。
 層雲峡に来ると、いつも、その切り立った崖に圧倒されます。崖は、まるで岩石の柱を、何本も直立させ、くっつけたような形をしています。これが層雲峡の道路沿いに、延々と連続してあります。この崖は、柱状節理というものからできています。
 一般に柱状節理というと、マグマが冷却したときにできる柱状の割れ目(節理)のことです。マグマが、液体から固体になるときに、体積が少し小さくなります。その時、冷却する方向と垂直に割れ目ができていきます。例えば、水平な地層の間に、マグマが平行に入り込む(貫入(かんにゅう)と呼びます)と、柱状節理は垂直にできます。その柱状節理の断面は、多角形で4角形から7角形になっています。本来なら6角形が一番効率のよい形状なのですが、自然は、それほど規則的ではないようです。でも、遠目では、きれいに柱が何本も立っているように見えます。
 このような冷却の条件を満たすものは、マグマでなくてもあります。その代表的なものが、層雲峡の柱状節理です。層雲峡の柱状節理は、溶岩ではなく、溶結凝灰岩というものです。
 溶結凝灰岩とは、火山灰などの火山からの噴出物がまだ熱いままたまり、それが熱のために一部溶けて固まったものです。冷めてくるとマグマのときと同じで、体積が減っていき、節理ができます。これが、層雲峡の柱状節理のできかたです。
 層雲峡の柱状節理をつくっている火山噴出物は、約3万年前に活動したものです。大雪山の中央に位置する御鉢平のカルデラを形成した火山活動にでよって、大量の火山噴出物を放出し、溶岩を流しました。それが、北東の層雲峡と南東の天人峡の谷間を埋め、平らな台地にしました。
 層雲峡の溶結凝灰岩は、一度の噴火ではなく、いくつかの噴火によってできたことが、溶結凝灰岩の冷え方からわかっています。火山噴出物の厚さは、最大で200mにもなります。
 層雲峡は、石狩川の源流近くにあたりますが、まだ上流にも石狩川の流れが続いています。ですから、雪解け時には、大量の水が流れます。そのような石狩川の侵食によって、溶結凝灰岩が削られて層雲峡ができたのです。石狩川が長い時間をかけて削ってきた証が、層雲峡の柱状節理です。柱状節理の巨大な岩石が倒れて事故が起きています。3万年たった今でも、この侵食は続いているのです。
 層雲峡に行ったのは9月だというのに、黒岳では、すでに初雪の便りがありました。黒岳を登り始めると、木の葉は色づき、秋の気配が漂います。黒岳の上に近づくと紅葉真っ盛りとなっていました。大雪山の秋は、日本一、早く来ます。

・たいせつざん・
大雪山は、地元の人は、昔から「たいせつざん」と呼んでいます。
今もそう呼んでいます。
1924(大正13)年に国土地理院が5万分の1地形図で
ヌタプシュぺ山(大雪山)として
「だいせつざん」と表記するようになりました。
そのため、「だいせつざん」と読む人が多く、
マスコミなどでも「だいせつざん」を用いていることが多いようです。
私は、北海道生まれでもないのですが、
にごらないで「たいせつざん」と発音しています。
アイヌ語の地名で漢字が当てられたものは残っていますが、
カタカナ書きされたものは、たくさん消えていったようです。
1902年(明治35年)に、師範学校教師から
大雪山のアイヌ語表記の「ヌタプカムシュウペ山」は、
「民間私名」であるので、
北海道の最高峰にふさわしい立派な名前に改めよう
という意見書が道長官あてに出されたそうです。
しかし、大雪山という名称は残りました。

・大雪山の大きさを語る・
大町桂月が大雪山を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
当時、桂月は、全国をめぐっており、
北海タイムス(現在は北海道新聞)の記者が誘って、山行がかなったようです。
同じ年に、「中央公論」に本文で紹介した有名な紀行文が掲載されました。
「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」
というものです。
私は、大雪山の大きさはアルバイトの時に思い知らされました。
1988年の夏ことです。
そのアルバイトでは、大学の山岳部の後輩がいたので、
厳しいルートの調査となりました。
ある沢の最上流部を上り詰めて調査を終えました。
帰る登山道に出るために、道のないハイマツの中を歩かなければなりません。
1時間ほどのハイマツのヤブコギをして、へとへとになりました。
ヤブコギの最中は、ここで力尽きたら、どうなるだろうかと、
不安にかられながら、歩いていました。
その翌年の夏のことです。
ある遭難救助活動をしていた北海道警察のヘリコプターから
風倒木を組んで「SOS」の文字をつくっているのが発見されました。
捜索したところ、近くで人骨と見られる白骨と
カセットテープレコーダなどが入った
リュックサックなどの遺留品が見つかりました。
私たちが通ったところではないですが、同じ大雪山の中でした。
多分道に迷って身動きが取れなくなり、そのまま力尽きたのでしょう。
カセットテープなど遺留品から、
その人骨は、1984年に行方不明になっていた愛知県の会社員だと
1991年になってようやく断定されました。
私は、道なきところを歩いていたのですが、
道に迷ってはいませんでした。
ただただ歩けば登山道に出れるので、
道に迷っているという心配はありませんでした。
しかし、その白骨の発見のニュースを聞いて、
あたらめて大雪山の奥深さ、大きさを思い知らされたのを覚えています。

2005年10月15日土曜日

10 相模川の段丘:関東平野の西に住んで(2005.10.15)

 かつて関東平野の西側の坂の多い街に、私は住んでいました。毎日、その坂を上り下りしながら、その坂道の起源に思いを馳せていました。

 私は、11年間、神奈川県に住んでいました。11年間、ずっと同じところに住んでいたのではなく、その間に4回も転居しました。その理由はさまざまですが、いずれにしても、移りたくて移ったのではなく、しかたなくという消極的な転居でした。この転居は、東から西へと住処を移していきました。そして住環境の変化のたびに、そこにどんな大地の歴史があるのかに思いを馳せました。
 最初は横浜市内の保土ヶ谷というところに、2年間、住んでいました。帷子(かたびら)川沿いに走る相模鉄線の保土ヶ谷駅から降りて、長い坂を上って登って帰途についていました。毎日登ったこの坂は、多摩丘陵が帷子川に侵食されてできたものでした。
 次に転居した先は、海老名市でした。相模鉄道の海老名駅は終着駅です。海老名駅に着く直前に、電車は山並みを抜けて平地に出ます。海老名市は、相模川の流域に広がる平地に発展してきました。私の住んでいたところは、電車が通り抜けてきた山並みの上にありました。ここでも毎日坂を登って帰宅しました。この坂道は、相模川がつくった低地から座間丘陵から相模原台地へと変化するところでした。
 私が身を持って体験していた急な坂には、大地の不思議が隠されていました。
 関東平野は有名な平野です。首都圏は、この関東平野を中心に発展してきました。関東平野は日本でも特別広い平野です。広さでは第2位である北海道の根釧平野と比べても、関東平野は3倍ほどの広さがあります。
 なぜこのような広い平地があるのでしょうか。
 それは、関東平野が、日本の他の平野とは違って、もともと海であったかところが平野になったためです。実際の海底でたまった堆積物が関東平野のいたるところから見つかっていることが証拠となります。ただし、地表に堆積物があちこちにでているのではなく、関東平野の地下をボーリングすると、海底で厚くたまった堆積物が見つかります。
 では、なぜ海が陸になったのでしょうか。3つの理由が考えられています。
 一つ目の理由は、大地の隆起です。
 関東平野のある地域は、ユーラシア大陸プレートに太平洋プレートとフィリピン海プレートの沈み込むとこです。また、丹沢山地や伊豆半島の陸地が衝突してきたところです。関東平野のあるところは、3つのプレートがせめぎあっている非常に複雑な位置にある場所となっています。詳細はまだ良くわかっていませんが、そのようなプレート境界の複雑な大地の運動によって、関東平野は第四紀に隆起してきました。今まで海底であったところが隆起したため陸になってきました。
 もう一つの理由は、海に大量の堆積物がたまり、海を埋めていったことです。
 第四紀になると、関東平野の北にある妙義山、浅間山、榛名山、赤城山、男体山、那須山などの火山と、西側にある伊豆箱根、富士山などで、激しい火山活動がおこります。このような火山活用によって、大量の火山噴出物が、関東平野に飛んできて、たまっていきます。関東ローム層も、これらの火山活動のよって飛んできた火山灰や、それが風で引き飛ばされてたまったものが、もととなっています。大磯丘陵では箱根と富士山の火山噴出物で300m以上の厚さのローム層があります。
 三つ目は、全地球的に起こる海水面の変動です。これは後で詳しく紹介しますが、その前にあらためて、関東平野の地形の概要をみていきましょう。
 関東平野の北側と西側には関東山地があり、北東には阿武隈山地があります。南は房総半島まで続く下総台地から上総丘陵があります。東京湾をはさんで、関東平野の南西部には、武蔵野台地があり、さらに南西に多摩丘陵から三浦半島の三浦丘陵へ連続する高まりがあります。その高まりのさらに西側には、相模原台地と座間丘陵があり、相模川流域の低地があります。
 地形の区分の名称として、山地、丘陵と台地、低地という言葉を使いましたが、それぞれ意味が違っています。
 山地とは、新しい時代の火山と古い時代(中・古生代、第三紀)の地層からできている地形的な高まりで。標高も高く険しい地形となっています。
 丘陵は、第四紀でも一番古い時代にできた、海でたまった地層、湖でたまった地層、扇状地の地層からできています。丘陵は、関東平野を取り囲むようにして山地と平野の間にあります。
 台地は、関東平野の中央に広くある高まりです。台地は、第四紀でも新しい時代にできた、海でたまった地層や、扇状地の堆積物からできます。
 これらの台地が河川によって削られたところが、低地となります。低地は現在の河川がつくった平らな平野です。川の侵食、運搬、堆積作用によってできたもので、現在もその作用は続いています。川が大地の高まりを削り、その削った土砂を運び、川の傾斜がゆるくなったとこで土砂を堆積します。時には、川が氾濫をして流路を変えると、新たな作用がその川の周辺で起こります。こんな繰り返しが、河川流域で低地として広がっていきます。
 河川は、現在も同じ作用を続けているのですが、人間は氾濫があると都会生活が成り立ちませんので、堤防や護岸をつくって、その流路が変わらないようにしています。ですから、都会周辺の河川の変化がなかなか起こらなくなりました。
 さて、今回取り上げた相模川流域では、さらに面白い地形が見られます。
 相模川が丹沢山地と小仏山地の間から城山付近で平野にできてます。山間から平野に出た川は、扇状地や氾濫原をつくります。その相模川の山間部や平野の扇状地付近には、いくつかの平らな面があります。平らな面は、急な崖で、次の平らに面に変わります。これらは段丘(だんきゅう)と呼ばれているものです。
 相模川は古くから段丘の研究がされており、日本でも段丘が典型的に発達する地域(模式地と呼ばれます)となっています。相模川流域では、火山灰の年代測定を利用して、細かく区分されています。段丘が9段あることがわかっています。
 ちなみに段丘の上の面(古い時代)から順に並べると、座間I面(約27万年前)、座間II面(約16万年前)、下末吉(しもすえよし)面(約13万年前)、善行(ぜんぎょう)面(約7万年前)、相模原面(約6万年前)、中津原(なかつはら)面(約3万年前)、田名原(たなはら)面群(群はひとつではないという意味)(約2万年前)、陽原(みなみはら)面群(約1.5万年前)、完新世段丘面群(約1万年前)となっています。
 段丘のでき方には、2通りあります。一つは川の作用によってできる河成段丘(河岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものと、もう一つは海の作用によってできる海成段丘(海岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものとがあります。
 河成段丘は、大地の上昇によって、川の浸食作用が再び強くなり、かつての川や谷底の平野部が再び侵食されていくことです。ですから、河成段丘は古いものが高い位置で外側にあり、新しいものが低く川に近い位置にできます。
 海成段丘は、海が侵食でつくった平坦地な地形が、海底が上昇することによって陸化しできた平坦な面です。海底が上昇しなくても、海が後退することでも海成段丘ができます。これは、海水面の上下変化と読み直すことができます。
 地球が温暖化が起き大陸の氷が解けると、海水が増え海が陸に侵入していきます(海進と呼びます)。逆に寒冷化すると、水は氷として大陸にたまり、海水が減り、海が後退していきます(海退と呼びます)。
 海成段丘が地球の気候変動なのか、地域の大地の上下運動なのかは、同時代の他の地域の平野を調べれば判明します。
 地域的大地の変動であれば、その地の大地の歴史を解き明かすことになります。もし、海進や海退が起こったがことがわかれば、地球の気候変動を読み取ることとなります。
 関東平野は、最初に述べましたように、大地の上昇運動が起こりました。しかし、実際には、海進と海退による変化も加わっています。このような複雑な大地の営みが、相模川流域の段丘をつくってきたのです。
 座間I面は、扇状地でたまった礫岩が河川によって浸食された河成段丘です。その上の座間II面は、内湾でたまった地層で海進によってたまったものが海の作用で侵食されたものです。次の下末吉面は、海食台の堆積物と三角州の堆積物からできている地層が海の作用で侵食されたものです。この面あたりから海とは関連がなくなっていきます。海退が起きたことになります
 善行面は、扇状地の堆積物が河川の浸食によってできたものです。相模原面、中津原面、田名原面群、陽原面群は、いずれも火山灰層をたくさん含む礫岩層からなり、川の作用によってできた河成段丘です。
 また、完新世段丘面群は、もっとも海退が起こったときに相模川が運んだ川の堆積物から、だんだん海進が進み、三角州や砂州から現在の川の堆積物になっていきます。しかし、相模湾付近の平野の多く谷や段丘は埋もれています。これは、関東地方の隆起が一様ではなく、かたよっていたことを示しています。
 以上のように、関東地方では、段丘から複雑な川と海、大地の関係や、地球の気候変動まで読み取られています。そんなことに思いを馳せながら、坂道を毎日登っていました。しかし、当たり前のことですが、そんな思いを巡らせても、登りが楽になるわけではありませんでした。

・その後の転居・
その後、私の転居は海老名市から、小田原市、湯河原町へと続きました。
関東平野から箱根の麓へと西へ西へと向かって進んでいったことになります。
小田原では、酒匂川がつくった低地に住んでいました。
湯河原に至っては、箱根の火山の山麓でした。
湯河原では標高190mの火山の中腹に住んでいました。
駅は標高30mでしたから、毎日標高差160mを登り下りしていました。
これは、通勤というより登山といった方がいいかもしれません。
おかげで足腰は強くなりましたが。
こうして神奈川での11年間の生活の場を考えていくと、
関東地方の生い立ちを探るためには、うってつけの場所であったわけです。
そんなことを、離れてから考えています。
現在は、北海道の野幌丘陵に住んでいます。
箱根の箱根の関所を越えることなく、北の地に来ました。
この北の丘陵の生い立ちにも、関東平野と似たところががありますが、
それは別の機会としましょう。

2005年9月15日木曜日

09 オホーツク海沿岸:丘陵と湖と湿原(2005.09.15)

 北海道のオホーツク海沿岸を車で走っていると、原生花園がたくさんあります。それこそ次々と出てきます。それに原生花園だけでなく、どうも似たような丘陵や湖、湿原が続いているように見えます。そんな景観に隠された謎を探ります。

 北海道のオホーツク沿岸は、流氷で有名です。しかし、それは冬のことです。春から秋にかけてが、やはり一番の行楽シーズンとなり、外での活動も活発になります。そんな時期に、私は北海道の北(道北)からオホーツク海沿岸にかけて調査に出かけました。それは、2004年の春のゴールデンウィークの頃と、秋の10月の渇水期の頃でした。
 そのとき、オホーツク海沿岸走りながら、海岸沿いに転々と湖や湿地、そして海岸に沿う丘陵が非常にたくさんあり、どことなく似た景観だと思いました。
 主だった湖を北から見ていくと、猿骨沼、ポロ湖、モケウニ湖、クッチャロ湖、コムケ湖、シブツナイ湖、サロマ湖、能取湖、網走湖、藻琴湖、涛沸湖、涛釣沼などがあり、知床半島へと続きます。そして湖周辺には湿地があり、原生花園もあります。丘陵も点々とですが、さまざまな高さのものがあります。
 なぜか、枝幸から雄武には丘陵はあるのですが、湖はありません。その他の海岸沿いには、丘陵や湖あります。この地域は、オホーツク海沿岸平野と呼ばれ、サロマ湖周辺はオホーツク海沿岸湖沼群と呼ばれています。
 丘陵には特徴があります。海岸線に沿って丘陵が延びているのですが、丘陵の上の面が平らになっています。そんな平坦面が丘陵には何段かあります。
 オホーツク海沿岸では、サロマ湖は大きくて有名です。サロマ湖は、東隣にある能取湖と共に、海につながった湖です。ですから、塩分を含んだ湖となり、汽水湖とよばれています。サロマ湖は、湖としては北海道では最大で、日本でも、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで3番目に大きなものです。
 では、オホーツク海沿岸に、なぜ湖や丘陵が多いのでしょうか。それは、大地を構成する地質と運動、地球に流れる長い時間と関係があります。
 地球の表面には、風が吹き、雨が降り、川ができます。このような作用は、程度の差はありますが、大地全体におよぶ作用です。つまり、大地は常に浸食を受けているます。例えば、大地が変動で盛り上がったとしましょう。そこは丘陵や山地になります。もし、硬い岩石や地層でできていたら、地球時間で見ても、ゆっくりとしか侵食されず、丘陵や山地として長く維持されるでしょう。もし、軟らかい岩石や地層でできていたら、侵食を受けると短い時間で低くなっていくでしょう。
 丘陵や山地をつくる岩石や地層の性質の違い、つまり地質の違いと、長い地球時間によって、地形の違いが生まれていきます。地球の地形とは、このような地質、変動、時間がつくり出したものなのです。もちろんオホーツク海沿岸の湖や湿地も同じ作用でつくられました。
 大地の変動には、実はさまざまな規模のもの、そしていろいろ原因によるものがありますが、今回のような広域的な特徴をつくるには、大規模な変動を考えなければなりません。大規模な変動は、大地自身の変動によるものと、全地球的規模の気候変化によるものに分けられます。
 大地の変動とは、プレートテクトニクスに由来するような地球内部の営力によるもので、広域的な変動が起こります。地下深くに由来する変動なので、岩質の違いや、それまでの地表の状態と関係なく起こる大規模なものです。必ずしも水平に上下運動するとは限りません。大地が傾いて、なだらかな斜面ができることがあります。
 もう一つの全地球的に起こった気候変化とは、どのようなものでしょうか。地球時間では新しい気候変動として、氷河期とその後の温暖な間氷期の変動があります。氷河期には地表の水が氷として陸地に蓄えられます。そのため、海水が減り、海面が下がります。このような状態を陸から見ていると海が退いていくように見えることから、海退と呼びます。今から1万8000年前頃の氷河期の終わり頃には、最も海退が進み、海面は現在よりも100mほど低かったことがわかっています。
 その後、1万4000年前から6000年前にかけて地球は暖かくなり、海面は100mも上昇し、現在と同じような位置に達しました。しかし、一様に海面上昇が起こったのではなく、何度か海面上昇が止まった時期があります。
 1万1200年前から1万年前には現在の海面より45mほど低く、8000年前頃には現在よりも30mほど低い時期が続きました。
 また、日本の縄文時代にあたる6000年前ころには、海面上昇が最大となり、現在よりも4mほど海面が高くなりました。これを、日本では縄文海進と呼んでいます。平野によっては、100kmも海岸線が内陸に進入しました。その後も、海面は数mの範囲で3回上下していることがわかっています。そして現在は、比較的高い海面になっています。関東地方では、海面変動による約40万年前からの段丘面が読み取られています。
 海面の変動が止まっている時期には、海水の量は変わらないので、海岸線沿いでは侵食が起こり、波打ち際では平らな面ができていきます。その後別の海面変動が起これば、平らな地形も侵食されていくでしょう。大地の変動とは違って、海面変動は水平は地形を形成する作用です。
 さて、このような気候変化による海面変動と大地の変動とが組み合わさるとどうなるでしょうか。もし、海底に平坦面ができているときに、大地の変動でその海岸付近が盛り上がったら、そこには平坦な面を持つ丘陵ができます。海水による侵食は起こりませんから、平坦な地形は残されます。
 氷河期以降何度か平坦な面をつくる時期がありました。それと大地の上昇が加わると、何段もの平坦面をもつ丘陵ができます。このような海でできた段を持つ丘陵を海成段丘(海岸段丘ともいいます)と呼んでいます。オホーツク海沿岸は、海成段丘が発達しているところで、それが似た景観をつくっていたようです。
 もし段丘の面が硬い岩石でできていれば、なかなか侵食されません。川はできるでしょうが、海岸線には平野もできず、湖も湿原もできないでしょう。そのような地域が、枝幸から雄武の地域だったのです。
 もし段丘が比較的侵食されやすい岩石でできていたら、平坦面が消されながら、川ができ平野ができます。海に近いとことでは、川は海につながるでしょう。川は海に流れ込み、土砂も一緒に運びます。沿岸には沿岸流と呼ばれる海水の流れがあります。川から海に達した土砂は沿岸流によって海岸沿いに運ばれます。それが海岸に砂浜をつり、時には、湾を囲うように砂浜が延びることがあるでしょう。これが砂嘴(さし)と呼ばれるものです。ときには湾を完全に閉じ込めることもあるでしょう。これを海跡湖といいます。
 このような侵食、堆積の繰り返しが、オホーツク海沿岸の湖や湿原、原生花園をつくってきたのです。地球の気候変動、大地の運動、大地の地質、そして地球に流れる長い時間が、オホーツク海沿岸の景観を似させていたのです。

・サロマ湖・
サロマ湖には、いくつかの川が流れ込んでいます。
川の出口がサロマ湖で、サロマ湖自身は海につながっています。
サロマ湖は、現在は、両側から延びる砂嘴があるように見えます。
しかし、もともとサロマ湖は海跡湖で、
秋の渇水期には砂で海と閉ざされ、冬の間中、その状態が続いていました。
春になると、川の流量が増え、
東端の涛沸(とうふつ)付近で、海とつながるところができました。
人が暮らすようになると、サロマ湖の水面変動は何かとも問題となります。
生活や漁業を考えると、
常に海とつながっているほうがいいことになります。
かつては、地域の人たちは、毎年融雪期になると
砂を掘り、海とつなげていました。
しかし1929年、三里番屋付近を大規模に開けたところ、
これがうまく閉じることなくつながっていました。
その状態が現在にいたっています。
サロマ湖は、人が少し手を加えて、
海跡湖から汽水湖にしたものなのです。
自然と人間が作り出しか、地形なのです。

・サンゴ草・
道北からオホーツク海沿岸にかけて2度、調査に出かけました。
それは、春の調査を失敗したからです。
私の調査の方法は、河川沿いの川原や河口、海岸などで
砂や石の採集をします。
海岸は雪さえなければ調査可能なのですが、
川は条件を満たさなければなりません。
それは、川原があるかどうかです。
川原が見えていて、なおかつそこに行けなければなりません。
ところが、ゴールデンウィークの時期は、
札幌近郊の雪解けによる増水は、
もうだいぶおさまっているのですが、
道北では、雪解けの増水で、河岸いっぱに水がありました。
川原の石ころなど、ほとんど見ることはできません。
つまり、目的の調査をできなかったということです。
しかたがないので、秋の渇水期に再度出かけました。
その調査の最終地点が、サロマ湖でした。
時期はもう終わりに近かったのですが、
サンゴ草の真っ赤な花を見ることができました。

2005年8月15日月曜日

08 沖縄:列島の縮図(2005.08.15)

 暑い夏ですが、北海道はもう盛りを過ぎたようで、爽快な気候になってきました。観光客も、夏には涼しい高原や北国を目指すのではないでしょうか。しかし、今回は沖縄の話題です。

 私は沖縄には、2度、訪れたことがあります。一度目はずいぶん前ですが3月末に学会発表のためで、二度目は2月末から3月はじめにかけて調査のためでした。いずれも春のシーズンでした。いずれも北海道に住んでいる時のことでしたので、季節が一気に冬から夏へ突然変わったきがしました。北国から来た者にとっては、沖縄は楽園に来たような気がしたものでした。しかし、帰ってくると、春まだ遠い北国の寒さが一層こたえました。
 このような気候変化を見ていると、日本が南北に伸びる長い列島であることが体感できます。これは日本が南北に長いため、風土が多様になっているのでしょう。
 沖縄は、日本という国の一部です。しかし、北海道や本州と比べると、沖縄は明らかに小さな島です。南西諸島としてみると、いくつもの島が連なっていますが、大きな面積を持つ陸地ではありません。ところが、大地のようすを見ていくと、日本列島の持つ特徴と同じであることがわかります。日本列島の地質と沖縄(南西諸島)の地質と共通性をみていきましょう。
 まずは、日本列島の特徴をみていきましょう。日本列島をよくみると、いくつかの弧状の陸や島を連ねた形をしています。そのひとつひとつの弧の中身は、日本列島の大地の形成を物語っています。
 日本列島の代表として、本州を見ていきましょう。本州は大きな2つの弧がくっついています。その接合部は本州の中央部、長野県のあたりになります。長野県内には南北に延びる大断層があります。この大断層はフォッサマグナと呼ばれるもので、北は日本海にから、南は静岡県を通り抜け太平洋に達します。地質学ではフォッサマグナより北東側を東北日本、南西側を南西日本と呼びます。
 西南日本で日本の代表的な大地のつくりをみていきましょう。西南日本は典型的な列島形成のメカニズムでつく上げられています。そのメカニズムとは、海洋プレートが海溝で陸側のプレートの下に沈み込むときにできるものです。海溝とは海洋プレートと大陸プレートが出会い、消滅する地質学的には非常に「活発な場所」であり、「多様な岩石」が集まり形成される場所であります。そのような作用が、何度か起こって、西南日本の大地が形成されてきたのです。
 「活発な活動」とは、海洋プレートの沈み込みによって起こる「地震」や「火山活動」のことです。いすれも、沈み込むプレートによって起こる現象でますから、陸側の地下深部で起こります。
 沈み込むプレートは、年間10数cmで移動する硬い岩石の板のようなものです。硬い岩石が沈む込むときに、その境に強い力が加わります。やがて周囲の岩石やプレートの岩石はこらえ切れなくなって壊れてしまいます。それが地震となります。
 地震は、規模(マグニチュード)が大きくても、深いところで起こったのであれば、地表の揺れ(震度)は小さく、被害が少なくなります。しかし、浅いところでこる地震は、規模が小さくても、地表での揺れは大きく、被害も大きくなります。北海道の釧路から十勝や東北、関東、東海、南海などの太平洋側では大きな地震が起こり、大きな被害を与えます。
 海洋プレートの押す力は、地表へも力を加えます。そのような力に地表付近の岩石が耐え切れないと、断層としてあわられます。地表近くの大きな断層による地震は規模が小さくても大きな被害を与えます。兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、新潟中越地震は活断層による地震です。
 沈み込む海洋プレートは、海の底にあったので、水をたくさん含んでいます。海洋プレートが沈み込む時、水はしぼり出されます。しぼり出された水分は、軽いので地表に上がっていこうとします。沈み込むプレートは列島の地下深くまで沈み込みます。深いところでしぼり出された水分は、列島の地下のマントルに入り込みます。暖かいマントルに水分が入ってくると、それまで固体であったマントルが溶け始めます。これがマグマとなります。マグマが地表で活動したら火山となります。列島の火山はこのような仕組みでできます。
 「多様な岩石」とは、海で形成された岩石と陸で形成された岩石の両方があります。海からは、海洋プレート自身の岩石(玄武岩や斑レイ岩、かんらん岩)や、海洋プレートの上の深海底にたまった堆積物(チャートと呼ばれる岩石)、海底火山や海洋島の火山活動によってできた岩石(海洋底のものとは少し違った性質の玄武岩)や、それらの島の周辺にできたサンゴ礁などの岩石(石灰岩)が集まります。一方、陸からは、列島をつくっていた岩石が河川によって堆積物として大陸棚に運ばれてきます。時には列島の火山から火山灰などが飛んできて堆積します。
 海と陸の岩石が、海溝の陸側の地下で混じって付け加わっていきます。海と陸の岩石が海溝に沿って次々と付け加わっていきます。このような特徴を持つ岩石でできた地質体を付加体と呼んでいます。付加体が、沈み込み帯で形成される特徴的な地質となります。
 付加体を貫くようにしてマグマの活動が起こります。そのようなマグマの活動の記録は、マグマが地下で固まった深成岩や、マグマが地表に噴出した火山岩からみることができます。
 深成岩は、付加体の深部で固まったものです。ですから、現在の地表で見ることができるようになるには、隆起して、上を覆っていた岩石や地層が侵食によって削剥されなければなりません。列島では深成岩が地表に出て見ることができるので、隆起し、侵食の激しいところとなります。
 古い沈み込み帯には、結果として、付加体と多数の断層や火山が残されていきます。このような古い付加体が西南日本にいくつかあります。付加体を構成する岩石や地層を広域で見ると、大きな時代区分の違いがあり、大断層(構造線と呼ばれています)で境されています。そのような時代や構造の境界を利用して、日本列島の地質構造を区分しています。有名な中央構造線も付加体の境界と位置づけられます。
 日本列島では、中央構造線を境にして、太平洋側を外帯、日本海側を内帯とよんでいます。外帯の中でも重要な境界として、仏像(ぶつぞう)構造線というものがあります。仏像構造線とは、内帯側に傾斜した大きな逆断層で、中央構造線側に古生代後期から中生代中期の付加体(三波川変成帯と秩父帯とよばれる2つの帯があります)があり、海側に中生代後期より新しい付加体(四万十帯とよばれます)があります。
 さて、沖縄の話です。本州、四国、九州から連続した構造をもった地質が、沖縄にもあります。沖縄を含む南西諸島では、太平洋側(正確にはフィリピン海)には、沈み込み帯である琉球海溝があります。その内帯側(西側)には、列島があり、縁海にあたる東シナ海(正確には沖縄トラフといます)という構造をもっています。
 また、南西諸島は、3つの構造帯が列をなしています。東シナ海側、つまりいちばん内帯側に、新しい火山島列があります。硫黄島、口永良部島、中之島、諏訪之瀬島、硫黄鳥島などで、現在も活動中の火山がたくさんあります。
 列島の中央は、古い時代の付加体で、奄美大島、沖縄島北部などと、南西諸島の一番南にあたる石垣島、西表島、与那国島も、古い時代の付加体です。ペルム紀とみられる化石が見つかっていますが、多くはジュラ紀から白亜紀にかけての付加体です。本州でいう三波川変成帯と秩父帯に相当するものです。
 最後に、太平洋側、つまり一番外帯側には、白亜紀から第三紀の堆積岩からなる付加体があり、種子島や隆起サンゴ礁の沖永良部島や宮古島など低平な島が多い。本州でいう四万十帯に相当するものです。
 深成岩の活動も見られます。深成岩は主に花崗岩で、すべて第三紀に活動したものです。北から、屋久島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、渡名喜島、沖縄島、石垣島などで、規模はさまざまですがみられます。
 このように見ていくと、南西諸島は、狭い範囲に日本列島の内帯を除く地質の要素と同じようなものが、出ていることになります。沖縄周辺も地質学的は日本列島と同じような構造を持っているのです。

・弧状列島・
なぜ、弧状の地形ができのでしょうか。
不思議に思うことがあります。
しかし、これは、地球が平面ではなく立体であること
それも球体であることが重要な意味があります。
海洋プレートと大陸プレートがぶつかり、
海洋プレートが沈み込むときの形態です。
これは硬い球体に、押し込まれたくぼみができるという現象です。
ピンポン玉を押してへこませたときでききる窪みは、小さな弧状のものです。
これが大規模に地球でも起きているのです。
ピンポン玉の窪みの反対側には、弧状の高まりができます。
これが列島の陸側に隆起が生じます。
日本列島は、今も、いくつもの沈み込み帯があります。
過去にもあったことが知られています。
それぞれが弧状の形態となっています。
日本列島は弧状の地形の集まりでもあるのです。
これは日本列島だけの特徴でなく、
多くの沈み込み帯では、ごく普通にみられる地形的形態です。
日本列島のような島が集まっているところを
弧状列島(島弧ともいいます)と呼ぶことがあります。
南西諸島も立派な島弧なのです。

2005年7月15日金曜日

07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて(2005.07.15)

 断崖から海覗き込むと、海に吸い込まれそうに感じることはありませんか。海の色が深いコバルト・ブルーならなおさらです。夏の積丹半島の海は、特有の鮮やかなブルーとなります。そんな海の色を、シャコタン・ブルーと呼んでいます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。

 積丹半島は、小樽の西部にあり、北海道の南西部にあたります。日本海に対して北西に突き出た半島です。半島の周りは、断崖が多く、交通の難所となっています。でも、そんなところだからこそ、素晴らしい手付かずの自然が残されているのかもしれません。2004年9月に私は積丹半島を一周する調査に出かけました。
 台風18号は、九州をかすめて日本海に出て、2004年9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を通過しました。日本海で勢力を強めた台風は、北海道を直撃して、多くの被害をもたらしました。台風18号の影響で、半島を周回する国道229号線が、半島の西に位置する神恵内村の大森から柵内間で、高波によって橋が壊され、途中で通行不能になっていました。この台風18号は、死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える大きな被害を出しました。
 北海道には台風があまり来ないために、台風が来ると被害が大きくなります。今回は、日本海で成長するという予想に反する台風の挙動が、災害を大きくしたのかもしれません。
 私は、台風通過の直後に積丹半島に出かけました。積丹半島の西側の海岸沿いでは、高波による被害の様子を生々しくみました。この調査の予定は、台風が来る以前に立てていたものです。当初の目的は、海岸沿いで古い火山の地形やマグマが固まるときにつくるさまざまな岩石の形態など見るつもりでした。
 周回道路の通行は、遮断されていますが、そこを迂回すれば予定通り地質を見ることはできます。なにも災害直後に出かけなくてもいいのではないかという気もしましたが、私は、出かけました。それには、理由があったのです。
 災害直後の様子を、自分自身が専門とする地質学の目で見ること、そしてそれらの様子を少しでも記録して、何らかの形でアウトプットすることが必要ではないかと考えたからです。2003年の台風10号のときも、洪水直後の鵡川と沙流川の調査をそのような目的をもって出かけました。
 災害はできれば避けたいものです。でも、どうしても起こる災害もあります。その災害から学ぶことがあるはずです。ですから、私は自分の範囲で、現場の邪魔にならない範囲で、地質学的情報の収集に協力し、貢献したいと考えています。私が被災者、被災地に貢献ができるのは、ボランティアとして働くことよりも、私の身に付けた専門知識や経験、見る目、持っているアウトプットの方法を提供することではないかと考えています。
 私の専門は地質学です。直接、台風災害と関係がないかもしれません。しかし、まったく関係ないこともありません。ですから、地質学者の目で災害の地を見ると、他の分野の専門家とは違った見方や情報収集ができるかもしれません。まして、災害直後しか手に入らない情報であったら、二度と手に入らない情報であったら、という思いがあります。
 このように思うに至ったのは、次のような出来事があったからです。
 2003年の十勝沖地震で、札幌でも液状化現象がおこり、傾いた家がでたことがニュースになりました。誰か専門家が調査しているだろうと、専門家みんなが思っていました。しかし、誰も調査していないことに産業技術総合研究所北海道センターの地質学者のOさんは気づかれました。液状化現象を、Oさんは記録するために、急遽現地に赴き、調査されました。そして緊急調査の内容は、地質学者にメーリングリストとホームページを使って公開されました。
 このメールとホームページを見て、これは、非常に重要なことだと感じました。直後に専門家でないと収集できない情報を、収集して、記録に残すことは大切です。公的機関の人間としてOさんが、それを責務と考え、急遽調査され、報告されたことは、素晴らしいことだと思います。このような情報は、今度の対策に不可欠なデータとなるはずです。
 私もそのような意図で、せっかく出かけるのであれば、許される範囲で、現場を見てこようと考えています。もちろん専門家が、仕事として現地で調査をしているでしょう。しかし、上で述べたように、情報は多くの専門家が、さまざまな視点で収集しておくべきだと考えています。
 もちろん、一市民としていくわけですから、一般の人と同じように制限されているところにはいきませんし、許されている範囲で見ることになります。そんな立場からでも、災害の記録はそれなりにできるかも知れません。そして、その感想を人に話したり、学生に紹介したり、公的な場で意見を述べることもできるでしょう。
 それが私にできる災害地へのボランティア活動だと考えています。
 積丹半島の被災地の様子は、すざましく、生々しいものでした。積丹半島の西側の中央に位置する神恵内村では、大森から柵内間が通行止めで、大森大橋が高波で壊されていました。ここは、事前に通行止めにしていたため、死傷者がなったということも聞いていました。しかし、高波に破壊された家、浸水した家がたくさんありました。私が行ったときは台風後の快晴の日でした。被害受けた住民の方が、復旧に懸命でした。
 2004年12月には、神恵内の復旧道路は開通しました。安全を図るために、今では、新たなトンネルが掘られています。完成はだいぶ先のようですが、より安全な対策がなされてきたわけです。災害の教訓が活かされたのです。
 このような災害が起きたのは、台風による高波が予想以上でもあったのですが、積丹半島の周辺の海岸は険しい崖の多いことが、一番の理由ではないでしょうか。
 そのため道路の整備も遅れ、古い狭くて険しい道も多いのです。トンネルも多く、昔の人が苦労してつくったトンネルが今も使われているようなものも見られます。特に東部の海岸沿いは細い道が多く、夏ともなると交通量が多く、通行が恐ろしい道となります。雨がたくさん降ると通行止めになるところもたくさんあります。積丹半島は、札幌や小樽からも近いのですが、観光地とはいえ、開発が遅れているのです。
 積丹半島の海岸は、険しい海岸地形で切り立った崖が多く、崖崩れがよく起こる場所でもあります。1996年2月の古平町豊浜トンネル付近の大規模な崩落は、今も記憶に残っているものです。激しい降雨による通行規制も、雨による崖崩れの被害を事前に防ぐことが目的です。
 なぜ、積丹半島の地形が、海岸から切り立ったようになっているのでしょうか。同じ北海道の日本海側海岸でも、石狩湾では砂浜が広がるようなところもあります。何がその差を生んでいるのでしょうか。
 北海道の南から見ていくと、熊石町から大成町にかけての海岸、瀬棚町から島牧村の海岸、寿都町の海岸、岩内町の雷電の海岸、雄冬の海岸と、転々と険しい海岸があります。そのどれもが海に突き出るような地形となっています。北海道の日本海側の南西部で切り立った海岸線は、いずれも新第三紀や第四紀に活動した火山でできているということが共通しています。積丹半島でも、全体が新第三紀の火山があり、中央部には余別岳や天狗岳の第四紀ころに活動した新しい火山があます。
 一方、なだらか海岸地域は、新しい時代に形成された堆積岩でできていたり、大きな川の河口周辺に平野部に多く見られます。同じ堆積岩でも、松前の海岸では、古くて硬い地層であるために、険しい崖となっています。もちろん望来海岸のように新しい堆積岩でも切り立ったところがあり、例外があります。まあ、それはそれで理由があるのですが。
 新しい時代の火山は、できてあまり間がありません。もともと現在の海岸付近で活動したものですから、火山自体が侵食を受けやすい地域にあます。海の波の作用で激しく侵食されます。火山では溶岩や貫入岩だけでなく、火山噴出物や砕屑物など軟らかい堆積物も含まれています。すると、軟らかいところと硬いところでは、侵食の程度が違っていきます。軟らかいところは激しく侵食されます。硬いところは侵食を免れて、できたまま切り立った荒々しい状態の地形として残ります。
 積丹半島の先端には、西に神威岬、東に積丹岬があります。いずれも険しい崖ですが、火山噴出がたくさん含まれている地層(野塚層と呼ばれています)があります。この新しい地層は、半島の西部の海岸ではよく見られるものです。堆積岩でできた地域は比較的やわらかいので、海の波による侵食を受けます。その結果、新しいものでは海食崖、古いものでは海岸段丘などの地形ができます。海岸段丘は積丹半島の西側で、海抜50mあたりによく見られ、最後の間氷期のものであることがわかっています。弱いがために侵食を受け、段丘と海食崖で険しい崖となっています。
 このような地質の背景が、積丹半島の海岸の景観をつくっています。険しい崖は交通を困難にしています。しかし、その侵食が生み出した奇岩や荒々しい地形が、素晴らしい景観をつくっています。自然の荒々しさを味わう観光地として人を集めています。
 積丹半島を囲む海は透明感が高く、魅惑的なブルーとなっています。このブルーは、シャコタン・ブルーと呼ばれます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。海と大地の織り成す景観が、神秘さを増します。

・積丹マグロ・
積丹半島は、きれいな海を背景にした漁業が盛んで、
泊まったところは海の幸がいろいろあって
それもおいしかったです。
とりわけマグロの刺身には感動しました。
宿のご主人の話では、積丹沖でとれたもので、
積丹マグロと呼んでいました。
冷凍ではなく生なので、よりおいしく食べました。
たった3切れしかありませんでした。
でも、これくらいがいいのでしょう。
堪能しました。
北海道だけではないのですが、
海沿いの民宿や旅館に泊まると、
海の幸が豊富で素晴らしいです。
しかし、シャコタンブルーの海で獲れたマグロはやはり格別でした。

・サケ・
朝、旅館の前を散歩していると
多くの釣り人が、河口付近の海で釣りをしています。
何をつっているの見ていると
どうもサケを釣っているようです。
川ではサケは禁猟で捕れないのですが、
遡上前の海は、禁猟になっていないようです。
川にかかる橋から見ると、サケが何匹も川の中に見えました。
でも、それはまだ遡上のピークではないのでしょう。
北海道の田舎のきれいな川に秋に出かけると、
多くの場所でサケの遡上を見ることができます。
もちろん積丹半島でも、何箇所でもサケを見ることができました。
サケは台風の影響を受けなかったのでしょうか。

・北海道の自然・
ついつい話題が秋のものになりました。
今は夏ですから、夏の話をしましょう。
今度の連休に私は、富良野を中心に3泊4日で調査をします。
家族も一緒です。
富良野はテレビドラマの舞台ともなっているので、
田園風景が素晴らしいところです。
私の目的は、観光名所よりも、
地質学的に興味のあるところを見ることです。
石狩川支流の空知川と幾春別川の調査と
十勝岳の火山が目的です。
北海道は、なんといっても、春から秋にかけてが、いい季節です。
こんな時期は、北海道に住んでいてよかったとつくづく思います。
もちろん、時には今回紹介したような災害もあります。
それに、冬の寒さや雪も、北海道の自然です。
すべて丸ごと北海道の自然です。
地域の自然とは、いいことも悪いこともすべて含めて考えるべきです。
北海道の冬の厳しさがあるから
より一層夏のありがたさが味わえるのだと思います。
さて、北海道の夏はまだまだ続きます。
もっともっといいところを味わっていきましょう。

2005年6月15日水曜日

06 仏像構造線:断層と大地の営み(2005.06.15)

 断層によってもともと違ったところになったものが接したり、あるいは今まであった関係がずれることがおこります。そんな断層をみていると、人間の営みと大地の営みは、時間でも大きさでもスケールの違いがありますが、どこか似たようなものを感じます。

 愛媛県西予(せいよ)市は2004年4月1日に、明浜町・宇和町・野村町・城川町・三瓶町の5つの町が合併して、誕生しました。合併したそれぞれの町も、「昭和の大合併」で市町村合併をしたものです。愛媛県はかつては伊予と呼ばれ、この町は伊予の西にあるため、西予市と名づけられました。市町村合併は、今まで別であったものが、ひとつものにまとまっていくということです。そのようなことが、自然界にもよく起こっています。それは断層というもので、断層は私たちがよく知っている地震と密接な関係があります。そんな断層を見ていきましょう。
 市町村合併をした西予市のうち、城川町は私のよく知っている町です。城川町に、私は、1991年以来、毎年のように通っています。城川町には地質館という博物館があります。その設立に協力して以来、博物館の展示だけでなく、インタネットを使った博物館情報の公開、市民教育のための普及講座、博物館のネットワーク化など、さまざまな共同作業をしながら、何度も訪れるようになりました。今では、第二の故郷のように思えるほどです。新しい市長さんにも、2度ほどお目にかかり、私たちの成果や目的を紹介しました。
 愛媛県の山間の小さな町である城川町に地質館ができたのは、この地が地質学的に有名なところだからです。地質学を勉強をした人なら、日本の地質の名称として、黒瀬川構造帯、寺野変成岩、三滝火成岩類などという名称を聞いたことがあるはずです。たとえそれらがどの町にあるかわからなくても、聞き覚えのある名称です。これらは、城川町にある地名から由来しています。ですから、城川町という地名を聞いたことがない地質学者でも、城川町にある地名を知っているのです。
 城川町から西予市になって、一気に面積が広がりました。海から四国脊梁の四国カルストまで、多様な自然をかかえる市となりました。私も新しい市の全域の地質をみるために、いろいろなところを巡りはじめました。そんな調査の折に、仏像構造線が見ることができるということを、知りました。さっそく、その断層が見ることのできる崖(露頭(ろとう)といいます)を訪れました。
 四国には東西方向に延びる大きな断層が、2本あります。ひとつは中央構造線で四国の北側を東西に走り、もうひとつが仏像構造線で四国の中央を東西に走ります。仏像構造線は、北側にある秩父帯が南側の四万十帯に押し上げているような構造の断層(逆断層と呼ばれています)です。仏像構造線は、秩父帯と四万十帯の境界になっています。仏像構造線という名前は、高知県土佐市にある地名にちなんで、小林貞一という地質学者が、1931年に命名したものです。残念ながら、城川由来の地名ではありませんが。
 秩父帯も四万十帯も、南にあった海洋プレートが海溝に沈み込むのに伴って、陸側にいろいろな堆積物が押し付けられ、くっついてできたものです。このようにしてできた地層群を付加体と呼びます。四国では、常に南側に沈み込み帯がありましたので、北から南に向かって新しい地質体が付加しています。
 秩父帯が付加したのはジュラ紀で、四万十帯は白亜紀から第三紀にかけてです。さらに南側にはもっと新しい付加体があります。ここで示した時代は付加体が形成された時代で、付加体の中には、海洋プレートが運んできた石も一緒に出てきます。ですから、付加体ができた時代よりもっと古い石も含まれています。秩父帯には、3億1000万年前(石炭紀後期)~1億5000万年前(ジュラ紀後期)の石がみつかり、四万十帯には1億3000万年前(白亜紀前期)~2200万年前(中新世初期)の石が混じっています。
 秩父帯を構成する石は、砂岩や泥岩を主としますが、海山を構成していた石(玄武岩や石灰岩)や深海底に溜まったチャートと呼ばれる堆積岩などを含んでいます。四万十帯も同様に、砂岩や泥岩を主とした石の中に、海山や海嶺できてた石(玄武岩)やチャートなどが混っています。その秩父帯と四万十帯の一番の違いは、付加した時代です。
 また、秩父帯の中には、黒瀬川構造帯と呼ばれる異質な石をいろいろ含む地帯があります。これも一種の大きな断層帯とみなせます。黒瀬川構造帯は、連続性はよくないのですが、断続的に分布しています。中には、シルル紀からデボン紀の地層や花こう岩類、変成岩が含まれています。シルル紀からデボン紀の地層は、岡成(おかなろ)層群と呼ばれ、この地層名は城川にある地名に由来しています。角閃岩や片麻岩などの変成岩は寺野変成岩と呼ばれ、砕かれた花こう岩類は三滝火成岩とよばれ、いずれも城川にある地名に由来しています。
 仏像構造線は、時代の違った付加体が接しているため、地質学的に見て第一級の大断層になります。ランドサットなどの人工衛星から見ると、中央構造線は、明瞭な大地形としてみることができます。仏像構造線もよく見ると大地形としてその連続を追いかけることができます。四国の東西に延びる山並みは、仏像構造線などの付加体の構造をそのまま反映した地形なのです。
 このような大きな断層は、一本の大きな断層がきれいに地層や岩石を割っているのではありません。多数の大小の断層が複雑に入り混じって、大断層を構成しています。大断層の本体を露頭で近くから見ることはできませんが、人工衛星から遠めで見ると巨大断層はよく見えるのです。
 第一級の大断層を見ようとしても、断層の本体はなかなか見ることができません。見ることのできるのは、いくつもある大断層を構成するひとつの小さな断層になります。同じ意味を持つ断層かどうかは、断層の両側にある地層が、秩父帯と四万十帯の地層であれば、それは仏像構造線の一部をなす断層とみなせます。
 それでも、このような一級の大断層を見ることはなかなか難しいのです。なぜなら、断層とは、地層や岩石が割れた場所のことです。そしてその断層が大きければ大きいほど、断層の幅は大きくなり、中には砕けた石ができます。このような部分を断層破砕帯と呼びます。断層破砕帯は、砕けた石でできているので、まわりの石と比べると弱い部分となります。断層が地表付近にあると、断層破砕帯は弱いですから、風化や浸食を受けやすくなります。破砕帯が大きければ、そこは谷となるでしょう。四国の中央構造線は、大きな川(吉野川)や平野(新居浜平野、松山平野)、海(伊予灘)、半島(佐多岬半島)になっているところがあるほどです。
 大きな断層を露頭で見るのはなかなか大変なのですが、仏像構造線が西予市でみることができるのです。私が見ることのできたのは、海岸沿いの道路の露頭や工事中の露頭でした。第一級の大断層にしてはあまりにも、さりげなく、みすぼらしいような気がします。
 しかし、断層の北側には、秩父帯の特徴的な石である石灰岩があり、断層破砕帯をはさんで南側には、四万十帯の砂岩と泥岩の地層がありました。明らかに、仏像構造線の特徴をもっています。この断層は、かろうじて、露頭として残っています。断層破砕帯があるのですから、崩れやすいところとなっています。もし、道路拡張や落石防止のためにコンクリートを吹きつけられたら、明日にも見ることができなくなります。
 近くに工事中の露頭があり、そこの石を見ると、激しく砕かれた石からなる大きな破砕帯がありました。一部でかろうじて石を見分けることができましたが、大半の石はぐしゃぐしゃに砕かれています。近くにこのような大きな破砕帯があるということは、やはり仏像構造帯がこのあたりを走っていることは確かです。考えてみると、海岸沿いのこの小さい露頭に、断層が残っていることの方が、不思議なぐらいです。
 直接断層を見ることは、なかなか困難なのです。ほんの小さいな露頭で垣間見るだけです。しかし、そんな小さな露頭でも、周囲には大断層の痕跡がたくさん見つかります。
 この海岸の露頭よりさらに東の陸側では、断層がそのまま山の崖をつくっているところが見ることができます。このような断層のずれによってできた崖を、断層崖と呼びます。途中で別の断層に切られて南北にずれていますが、20kmほどにわたって断層崖が連続します。しかし、断層崖で断層を直接見ることはできませんでした。
 さて、今までは、第一級の断層の話でしたが、小さな断層であれば、地層や石ころの中に、身近にみることができます。断層とは、石が破壊されてできる割れ目(断層面といいます)で、ズレ(変位といいます)があることをいいます。断層はその規模を問いません。ですから、小さなものであれば、手軽に断層を見ることができるのです。
 石や地層を見ると、さまざまなサイズの割れ目があり、固まっていることがあります。もしその割れ目で左右の石や地層が別のものだったり、模様がずれていたりとすると、その割れ目は小さいながら断層といえます。石がずれて固まった割れ目は、いってみれば、大地の動いた跡、大地の変動の化石といえます。そのような断層を持つ石や地層は探せばいっぱい見つかります。
 断層は、それほど珍しいものではないのです。しかし、断層が持つ意味を考えると、実は重要なことを、小さいな断層が物語っていることに気づきます。
 断層とは、まず石が割れることから始まります。石が割れるということは、大地に働く力が岩石の強度を上回り、岩石に破壊が起こるということです。そのような破壊がおこると、地表で感じるような振動が起こることがあります。それを、地震と呼んでいます。一度の地震でいくつもの断層ができます。小さな断層は、大きな地震によってできた多数の破壊のひとつにすぎないかもしれません。大きな断層は何度も地震を起こします。ですから、断層の数と地震の数とは、一致するわけではありません。どんな規模のものであっても断層があるということは、規模はわかりませんが、地震が起こったことを示しています。
 地層や石の中にみられる断層とは、地震の化石ともみなせるのです。石に記録された断層がいつの時代に起こったものかを特定するのは、なかなか難しものです。特別な場合を除いて、いつかを特定することはできません。しかし、多数の断層が石や地層に記録されているということは、大地では、いたるところで地震が起こっていることを意味します。
 日本では、いや大地には、いたるところに断層が見つかります。その断層とは、大地の営みといえます。大地の営みとは、断層つまり地震を伴うことなのです。そして大地の営みが継続することによって、その規模は、想像を絶するほどのものとなります。山脈をつくり、海溝をつくり、海と陸など地球表層の構造すべてをつくっていくことが、大地の営みなのです。その営みには、岩石の破壊という断層が不可分な作用として伴います。断層があること、それは地球の営みが、起こっている証でもあるのです。
 小さな今にもなくなりそうな露頭にみらる第一級の大断層から、手のひらに乗る小さな石ころの中の断層まで、大地の営みの記録なのです。

・そうは見えない・
このエッセイでは、断層を見るたびに、
いつも感じていること書きました。
第一級の断層をあちこちで見てきたのですが、
どれを見ても、ついついこれがあの有名な断層なのか、
という気持ちがいつも沸きます。
中央構造線でもフォッサマグナでも同じ気持ちを味わりました。
何箇所も見ています。
それよりも名前もない見事な断層が、
大きな露頭の地層では見ることができます。
名もないけれども断層らしい断層、
有名だけれども見栄えのしない大断層があります。
もちろん大断層とは多数の断層からできていること、
見えている断層は、本体の一部に過ぎないことも知っています。
でも、やはりそんな大断層を見るとがっくりしてしまいます。
理性的にはそれが第一級の大断層であること、
地質学的にはそこに大きな不連続があること、
そしてそこに重要な地質学的意味があること、
すべて理解しています。
でも、見ると、やはりそう感じないのも事実です。
人知れず、ひっそりと目立つことなくあるからでしょうか。
断層とは地震の写し身で、
人にとっては害をなすものだからでしょうか。
どうもそうではなさそうです。
第一級の大断層とは、規模も大きく見えてい欲しいという
願望があるからなのかもしれません。
そんな願望が満たされないから、
みすぼらしく感じるのかもしれません。
論理がないと理性は納得しません。
しかし、人が感動するのは感性です。
感性は見た目や大きさなど、
理屈ではないものから発生するようです。
さてさて人の心とは、断層を解明するより難解なものですね。

・市町村合併・
ここ数年、市町村合併で、新しい町の名称が生まれています。
昭和30年頃にあった「昭和の大合併」以来、
50年を経て、今、新たな市町村合併が起こっています。
国の構造改革の一環で打ち出された政策です。
合併でより大きな行政単位となり、
施設の効率化や人員の合理化、
10年間の交付税の確保、
合併のために補助金、
などなどが大きなメリットがあるため、
多くの市町村で進んでいるようです。
一方で、古い町の名称がなくなることへの抵抗、
地域の伝統が消えること、
過疎化の促進への不安、
補助金亡き後の財政危機、
などなど、問題もいろいろありそうです。
しかし、市町村合併の最終判断は、
そこに住む住民たちが下します。
ある地域では、市町村合併をやめ、
ある地域では市町村合併が進んだり、終わったりしています。
いずれにしても、平成の大合併は進行中です。

2005年5月15日日曜日

05 樽前山:過去を知る重要性(2005.05.15)

 樽前山は、支笏湖カルデラの縁にできた火山です。樽前山に登って、噴煙とドームを間近かに見ながら、科学的に探る歴史の重要性を考えたことがあります。

 私のいる大学は、札幌の隣町の江別市というところにあります。そこは、野幌丘陵と呼ばれる小高い丘になっているところです。天気にいい日に、大学の高い建物から眺めると、遠くの山並みが見えます。
 北側には暑寒別の山塊、東には馬追丘陵と遠くの夕張山地、西から南に向かっては手稲山、藻岩山、無意根山、恵庭、漁岳、樽前山へと山並みが連続します。
 中でも、樽前山は、その山の形が変わっていることから、すぐに見分けられます。その変わった形とは、江別から見ると台形に見え、冬でも黒々として雪の少ない姿が眺められます。横から見ると台形ですが、立体的に見ると、円錐を途中でちょん切ったような薄いプリンのような形になっています。
 これは、ラバードームと呼ばれるものです。このラバードームのラバー(lava)とは溶岩のことで、ドーム(dome)とはおわんを伏せたような丸い状をいいます。日本語では溶岩円頂丘(えんちょうきゅう)や溶岩ドームと呼ばれています。
 ラバードームは名前のとおり、マグマによってできたものです。流れにくい(粘性が大きいといいます)性質のマグマが、地表に出て、流れることなく、そのまま固まったときにできるものです。
 樽前山は、支笏湖の南湖畔に面して聳える風不死(ふっぷし)火山の南南東側に約3kmのところにあります。支笏湖畔には、東側に支笏湖温泉、西側には小さいですが伊藤温泉、丸駒温泉、オコタン温泉があります。支笏湖周辺は、支笏洞爺国立公園にも指定されていて、風光明媚な観光地です。しかし、それらの名所は、火山活動によってつくられたものなのです。
 今は一見穏やかにみえる樽前山ですが、火山活動は現在も活発で、噴気も出ていますし、火山性地震もあり、噴火の危険性があるため常に監視されています。
 ラバードームは、1909年(明治42年)の噴火活動によってできたものです。その時の様子を、少しみていきましょう。
 樽前山は、1909年の1月から小規模な噴火をはじめていました。3月30日と4月12日には、激しい噴火を起こして、火山灰を降らしました。その火山灰は札幌にも届いて、降りました。4月17日の夕方から山頂には雨や雲がかかり、それ以降の様子は観察されていません。しかし、19日の夕方に山頂が見えたときには、ドームが見えたそうです。これが現在もあるラバードームの誕生の物語です。神秘的な誕生なのですが、長くても48時間、少なければもっと短時間で、このドームが形成されたことになります。
 現在、ラバードームは直径が300から400m、高さが130mほどあり、体積は約2000万立方mあります。このようなラバードームが、たったの2日足らずでできたのです。火山活動の脅威、あるいは威力を見せ付けらる気がします。
 このラバードームは、マグマの出口をフタをするようにできました。下にはまだ熱いマグマが残っていました。そのため、ラバードーム近くの火口では、火山のガスを噴出すような小規模な噴火をたびたび繰り返してきました。
 札幌管区気象台火山監視・情報センターの観測では、火口の中は、2005年3月でも約600℃という高温であることがわかっています。火山性地震や噴気も続いています。100年たってもまだ、熱いマグマがラバードームの下にはあるのです。樽前山は活火山なのです。そして、いつ噴火してもおかしくないのです。
 樽前山のラバードームには、以前は近くまでいけたのですが、今では噴火の危険があるので、立ち入り禁止になっています。火口縁の登山道までは、許可されていますが、残念ながらドームに近づくことはできません。私もラバードームを眺めたのは、火口縁からでした。
 しかし、100年も続く活動をしているラバードームの形成は、樽前山の噴火の歴史では、小規模なものと位置づけられているのです。それは、火山の歴史を探ることからわかってきたものです。
 1909年のラバードームをつくった火山活動は、多くの人が見て、記録をしていたので、私たちはその活動を知ることができのです。もっと古い時代の火山の噴火の歴史は、近くに人が住んでいれば、古文書などが残っていることがあります。それを手がかりにして、火山噴火の記録を探ることができます。
 そのような記録によると、樽前山の噴火は、1874年(明治7年)、1867年(慶応3年)、1804-1817年(文化1-14年間)、1739年(元文年)、そして最古の記録が1667年(寛文年)のものです。北海道にはアイヌの人が住んでいたのですが、記録は残していませんでした。ですから樽前山に関する最古の1667年(寛文年)の文書は、津軽での記録となてっています。
 古文書の記録から、樽前山噴火の概略を紹介しましょう。
 1667年(寛文年)の噴火は、記録のあるものの中では最大のもので、大量の火山噴出物(火砕物と呼びます)が放出されました。この噴火はプリニー式噴火と呼ばれるもので、大噴火とともに噴煙が成層圏まで上がり、噴煙はきのこ雲となり、大量の火砕物を風下に降らします。爆発で吹き上がった火砕物は東向きの風に乗り、苫小牧ではなんと2mの厚さの火砕物が降ってきました(降下火砕物といいます)。また、火山の近くでは、火砕物が流れ下りました(火砕流や火砕サージと呼ばれます)。このときの噴火の音が津軽まで聞こえたというのが、上の古文書の記録に残ったいたのでした。
 火砕流とは、プリニー式の噴火で立ち上がった噴煙柱が崩れて、火砕物が落ちて流れ下るときにおこるものです。火砕サージとは、火砕物を含む希薄な流れで、爆発的な噴火の時に横に方向に流れていくものです。サージはそれほど遠くまで流れず(約3km以内)、堆積物も薄いもので、断面で見るとレンズ状に消えていくように見えます。サージは、一度の噴火活動で、爆発のたびに起こり、堆積物が何層も積み重なっていきます。それは砂丘で見られるような波状の地形となります。
 1739年(元文年)には、再びプリニー式の大噴火が起こりました。東側の山麓は、この噴火で、3日間ほど昼でも暗かったと記録に残されています。20km東方の千歳では、今での1mの厚さの降下火砕堆積物が溜まっています。
 1804-1817年(文化1-14年間)、1867年(慶応3年)、1874年(明治7年)は、前の2回の噴火と比べると、小規模でした。1804年-1817年にかけての噴火では、火口の中に小さな火砕物でできた丘(火砕丘と呼びます)ができました。1867年の噴火では、その火砕丘の上にラバードームが形成されました。1874年の噴火はプリニー式で、このラバードームが破壊されてしまいました。
 これが、記録に残っている記述の実際の噴出物から探った火山の歴史です。これが樽前山の火山活動のすべてでしょうか。もちろん、人が記録をしてないもっと前から活動をしていました。では、人がつけた記録のない場合は、どうすれば、火山活動の歴史を読み取ることができるでしょうか。
 私は、2004年秋、初雪の降った樽前山に登りました。ラバードームの不思議さに目をうばれてしまいますが、山麓に眼を向けると。西と南の山麓に、不思議に地形が見えてます。その地形は、波を打ったような、魚のうろこ状の模様が規則的にあるように見えます。この地形は、実は火砕サージがつくったものでなのです。さまざまな景観の中にも、火山の記録が残されています。そのような火山活動によってできた地形、あるいはその地形をつくっている火山噴出物や溶岩などの調査から、火山活動の様子を探っていけばよいのです。
 時期の違う火山活動が読み取れたとしたら、それぞれの活動でできた溶岩や火砕物に埋もれた植物片などから年代測定をして、時代を決めていきます。溶岩や火山灰などの火山噴出物から正確な年代を決めるのはなかなか大変ですが、火山の周辺には火山噴出物が堆積して残っていることがよくあります。そのような火山噴出物を詳細に調べれば、年代は少々不確かでも、火山の噴火の順序による歴史は、かなり詳細に編むことができます。樽前山でも地質学者たちは、地道な野外調査から、その歴史を割り出してきました。
 そのような調査の結果、樽前山は、9000年前から火山活動をはじめたことがわかりました。9000年前の最初の噴火は、爆発的なプリニー式で大量の降下火砕物を降らし、火砕流や火砕サージなどの流れました。
 その後、6000年ほどの活動の記録がなく、3000年前にやはりプリニー式の噴火が起こりました。そして、また1500年の休止期を経て、上で述べた記録に残っている噴火として、活動を再開したのです。
 以上のように樽前山の噴火の歴史の全貌は、解明されています。このような長い休止期の後、大規模な噴火が起こった例は、他には知られていません。樽前山は、少々変わった活動の歴史を持っている火山のようです。江戸時代以降は、70年から30年ほどの間隔で、頻繁に噴火を繰り返しています。しかし、1909年の噴火以降、96年が過ぎようとしているのに、まだ噴火はありません。噴火の間隔に何らかの科学的根拠が見つかっているわけではないですが、不気味です。もし、マグマがある時間間隔で供給されるメカニズムがあれば、ある時間間隔で噴火をしてもおかしくはありません。
 樽前山は、今後も活動の可能性の高い活火山で、さまざまな観測方法で監視をされています。これは、火山の今の状態を観測することで、未来の噴火に備えるものです。一方、噴火の歴史を探ることによって、その火山がどのような噴火の歴史を持っていることが知ることができます。そして、有珠山のように規則正しい噴火をすることが多い火山だと、その噴火の記録は噴火予知に役立てることができます。また、他の似た火山の歴史を参考にして、目的の火山の噴火を考えることができます。樽前山の次の噴火について、小規模、中規模、大規模の噴火の3つの可能性が、勝井義雄北海道大学名誉教授によって考えられています。
 現在のラバードームを破壊する小規模な噴火(1874年に似た噴火)、噴煙柱と降下火砕流、火砕流、サージなどを伴う小規模なプリニー式噴火(1874年と1739年の中間的なもの)、大規模なプリニー式噴火(1667年や1739年の大規模な噴火)の3つです。どのような噴火がいつ起こるかは、まだわかりません。しかし、周辺の自治体ではプリニー式噴火を想定したハザードマップを作成して防災に努めています。

・節理と地形・
前回の屋久島のエッセイに対して
Hirさんから、花崗岩の方状節理について質問がありました。
私がエッセイの中で
「花崗岩による方状節理による地形の特徴をよく表している」
と書いたのですが、
「その特徴がよくつかめません」という質問でした。
その質問に対して、私は次のような返事を書きました。
「数値地図を使って地形解析をすると、
その地の地形の特徴を明瞭にすることができるのが大きなメリットです。
屋久島の特徴として、直交する2方向の直線的地形がみられます。
そのような地形的特長とは、
谷や尾根(谷の反映とみなせます)、河川などの形状として
あわられています。
地形的特長を岩石の性質から探ったものが、
今回のエッセイのひとつの目的でした。
方状節理とは、3次元的に直行する3つの割れ目ができることです。
それが、屋久島では、水平方向は明瞭ではないのですが、
垂直の2方向は、明瞭に見えます。
もちろん、等間隔に正方形として見えるものではありません。
自然の造詣ですから、さまざまな条件のため、
一筋縄ではいかない、複雑なものとなっています。
しかし、地形解析としてみると、
大づかみに見ることができるということです。」

この返事に対して、再びHirさんから、
「安房川の中流あたりに見られる地形が典型ですか」、
という質問がありました。
それに対して、私は再度次のような返事を書きました。
「節理が地形としてどう見えるかという質問だと思います。
エッセイでは、さらりと書いて、詳しく説明しなかったので、
わかりにくかったと反省しております。
花崗岩に見られる方状節理と、地形をつくる要素とは規模の違うものです。
地形とは、一般には数百mあるいは数kmの規模のものいうと思います。
一方、節理とは、もっと小規模なもので、
数十cmからせいぜい数mの規模のものです。
ホームページで示した地形解析のスケールはkmのものですから、
節理が今回示した地形から直接見られることはないと思います。
もし方状節理を見るなら、
崖で直接目で見てるようなスケールになると思います。
私は、実際に屋久島で、そのような規模の節理をたくさん見ました。
ですから、Hirさんがご指摘された地形は、
方状節理を直接見ているのではなく、
節理によってできた「地形」を見ていることになると思います。
いってみれば、方状節理を地形から間接的に見ていることになります。
Hirさんがご指摘されたは、本当の方状節理ではありません。
ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、
節理が発達している地域で、
もし節理に、広域的に似たような方向性があれば、
その節理は侵食されやすいでしょうから、
侵食地形として際立ってくると思います。
最終的には広域的に地形に反映されていくはずです。
実際に屋久島の地形を大づかみにみていくと、
北西-南東方向の直線的地形、北東-南西方向の直線的地形が
地形解析の画像ではみえます。
このような直線的地形がどうしてでき方を考えるとき、
花崗岩の方状節理に規制されているのではないかというのが、私の考えです。
実際の節理が地形に与えている影響を統計的に示す手法もありますが、
私は実際に節理と地形の関係を調査したわけではありません。
しかし、人間の目は結構正確で、そのような傾向があるように見えるものは、
統計的にもそのような結果が出てくることがよくあります。
多分、そうなるであろうなという予測で、このエッセイを書きました。
書き方が、はっきりしなかったのでわかりにくかったかもしれませんが、
いかがでしょうか。」
このような説明で、節理と地形の関係について、
Hirさんも、ご理解いただけたようです。
画像や形状など視覚的状況を表現するときは、なかなか難しいものです。
自分には「こう見える」ということで、説明をしても、
他の人には「そう見えない」ことがあるのです。
そんな当たり前のことに気づかされた、質問でした。

・恩師・
上のエッセイ中で出てきた勝井先生は、
大学の学部と博士課程での恩師にあたります。
勝井先生は、高齢にもかかわらず、現在も元気に活動されておられます。
不思議な縁で、私は、勝井先生が北海道大学の定年後
しばらく教鞭をとられた大学の教員としての同じポストにいます。
直接の後任ではないのですが、不思議な縁を感じています。
時々お目にかかることがあるのですが、
そのたびに、元気で活動されているのをみて励みとしています。
先生の下を独立して長い時間がたちます。
本当は恩師に成長した自分をお見せしたのですが、
なかなか意に沿わず不肖の弟子と映っていることでしょう。
先生とは専門は違っているのですが、
なんとかがんばっているところをお見せしたいものです。
日々反省をしております。

2005年4月15日金曜日

04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15)

 今年の1月に屋久島を訪れました。屋久島には不思議な時間が流れています。ヒト、屋久杉、地形、地質とカテゴリーの違うものですが、どこかでシンクロしている不思議な自然の時間です。屋久島を巡りながら、時間の流れ方の違いと連携について考えさせられました。

 ご存知だと思いますが、屋久島は鹿児島県に属します。その屋久島に2005年1月5日から8日まで出かけました。1月とはいえ、九州本土からさらに60kmほど南に、屋久島はあります。ですから、てっきり温かいところだと思っていました。ところが滞在中は寒い日が続いてて、暖房なしではやっていけないような天候でした。私が着く2日前には、雪が降ったそうで、山に入ると積雪が残っていました。屋久島の冬がいつもこのような気候だというわけではありません。たまたま、日本列島が寒波に襲われた時期だったのです。
 屋久島の海岸沿いの平地では、平均気温が摂氏19.6度となり、年間を通して暖かい気候です。亜熱帯に属する地域ですから、私たちが行った時は、たまたま寒波の影響を受けたのでしょう。
 しかし、屋久島には、1500mを越える山並みがあり、最高峰である宮之浦岳は、2000m近い(標高1936m)高さで、九州全体でも最高峰となっています。
 一般に気温は100mにつき、湿った空気では0.65度、乾いた空気では1度、気温が低下します。ですから、2000mも標高が上がると、平均気温は13度から20度近く下がることになります。宮之浦岳の平均気温は摂氏約7度で、札幌の平均気温が摂氏8.5度ですから、札幌より寒いところといえます。
 また、屋久島は、雨の多い島です。屋久島空港に屋久島測候所観測があるのですが、そこの年間平均降水量のデータは4597.5mmになります。この降水量は、気象庁の観測点の中で最も多いものだそうです。屋久島は雨の島であります。
 屋久島は、亜熱帯に位置しながら海抜ゼロmから2000mまでの多様な環境があり、雨も多いのです。ですから、冬に山間部では雪が降ることは、ざらにありうることなのでしょう。
 天候は、高度や地形で変わり、一日でも変わり、季節でも変わります。私が滞在した冬の屋久島も、そんな変動のひとつに過ぎません。天候は、時間や日という私たちヒトが体感できる時間単位で移り変わるものです。
 もう少しゆっくり流れる時間があります。ご存知のように屋久島は屋久杉で有名です。樹齢1000を優に越える杉が、山の奥深くにたたずんでいます。動物に比べて植物には長寿のものが多くあります。中でも屋久島は特別長寿の生物です。人間は100年に満たない寿命しかありませんので、屋久杉はその十倍以上の時間を生きてきたわけです。屋久杉には数100年、数1000年の単位の時間が流れています。
 ヒトはこの屋久杉の伐採を500年ほど前からはじめ、江戸時代には薩摩藩が屋久杉を年貢として集めました。そして幕末までに5割から7割の屋久杉が伐採されたと推定されています。屋久杉に流れていた時間は、数100年間というヒトの営みによって、多くの長寿の木がなくなりました。
 大正3年(1914年)、アメリカ合衆国の植物学者のウィルソンが巨大切り株(ウィルソン株)を世界に紹介したことから、屋久杉は世界に知られることになり、保護の動きも出てきました。一方、伐採のための森林軌道の敷設やチェーンソーの導入と伐採のための近代化も進みました。その後も、保護と伐採の葛藤が続き、最終的には平成5年(1993年)世界遺産に屋久島は登録され、保護することが決まりました。屋久島の自然の特異さとそれを利用するヒトとの間には、保護と伐採、植林などの営為がおこりました。その営為は、数10年の単位の時間が流れています。
 さて、目を大地に移しましょう。大地には、ゆっくりとした時間が流れます。でも、この屋久島では、その大地の時間は少し早く動いているようです。
 屋久島を上空から見ると、直径30kmほどの丸い形ですが、多角形のようにいくつか角張っているところがあります。見ようによっては恐竜の足跡のようにも見えます。東部から北部の海岸線沿いには平らなところが少し見られますが、海から少し離れて島の中に入っていくと険しい山がはじまります。屋久島を、離れて海上から見ると、中央に盛り上がり、ぎざぎざにとがった山並みが見えます。
 海抜0mから一気に2000m近くまで上ります。半径15000mほどの丸い島ですから、その平均的な傾斜は、37度という非常に急なものになります。実際に山の中に入っていきますと、くねくねとした九十九折の坂道を上っていくことになります。
 海上で中央部が盛り上がった島をみると、火山の島のように見えますが、屋久島は火山の島ではありません。なぜなら、山をつくっている岩石が火山岩でないからです。島をつくっている岩石は、花崗岩という岩石からできています。花崗岩は、火成岩でマグマからできたものですが、火山岩ではなく深成岩と呼ばれるものです。
 火山なら短時間でマグマから岩石に変わりますが、深成岩では非常にゆっくりと温度が下がります。中央アルプスの花崗岩では、100万年で約360度下がっていることがわかっています。花崗岩のマグマは摂氏700度から600度くらいですから、完全に冷えるのに200万年ほどかかることになります。
 深成岩とはマグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものですから、もともと花崗岩の島があったのではなく、固まった花崗岩がゆっくりと上昇してきて島となったのです。
 屋久島の花崗岩は、新第三紀のはじめ頃(中期中新世と呼ばれる時代)にできたものです。しかし、この花崗岩は少し変わっています。日本列島では、花崗岩の多くは、日本海側(内帯)に近い列島の内部にあります。しかし、例外的に花崗岩が太平洋側(地質学では外帯と呼びます)に出ているところがあります。外帯の紀伊半島から四国南部、九州南部にかけて、点々とですが、約1000kmにわたって見つかります。屋久島もそのような花崗岩の仲間です。
 屋久島の花崗岩がどのように変わっているかというと、このマグマは、熱い海洋プレートが低角度で海溝に沈みこんで、上にあった堆積物が溶けてできたものです。このような特別な条件でないとできない花崗岩(Sタイプと呼ばれています)なのです。
 点々と太平洋側に並んでいたのは、熱いプレートが海溝に沿って列をなしてもぐりこみ、マグマができたためです。ですから、紀伊半島から四国、九州、屋久島へと点々と連続して花崗岩が見つかるのです。
 これら外帯各地の花崗岩は1200万年前から1700万年前ものので、ほぼ同じ時期にできています。ですから、温かいプレートがもぐりこんだ時期は、花崗岩の年代から、新第三紀のはじめ頃、500万年の間で起こったことだとわかります。
 さて、地下深部で固まったはずの花崗岩が、なぜ現在地表で見つかるのでしょうか。それは、花崗岩が周りの岩石と比べ、軽いからです。軽いものは、時間をかければ、大地の岩石の中でも浮き上がってくるのです。
 その上昇スピードは、だいたい見積もることができます。この花崗岩のマグマは、地下12kmくらいのところで固まったのではないかと考えられています。一方、屋久島の花崗岩の年代測定(カリウム-アルゴン年代測定法)のデータから、1300万~1400万年ほど前に固まったことがわかっています。
 屋久島の花崗岩は、地下12kmで固まったものが、現在約2kmの標高まで持ち上げられていますので、1400万年間で約14km浮上したことになります。以上のことから、年間約1mmのスピードで上昇したものだと考えられます。もちろん、上にあった岩石は、侵食を受けてなくなってしまいました。これは、かなり速いスピードでの上昇しているといえます。多分現在も上昇しているのではないでしょうか。
 もうひとつ目立つ地形的な特徴が、屋久島にはあります。それは、上空から見るとよくわかります。川や谷、尾根などの地形が、2方向に伸びていることが特徴的です。航空写真や衛星写真でも、日光の当たり方によっては目立って見えることがあります。屋久島では、一方は北西-南東方向に伸び、もう一方は北東-南西方向に直行するように伸びています。このような直線的な大地の模様は、なぜできたのでしょうか。
 それは、やはり花崗岩の性質によるものです。マグマが冷え固まるときに、液体のマグマと固まった岩石では、岩石の方が少しの体積が小さくなります。つまり縮みます。すると縮んだ分、隙間ができます。このような隙間を節理(せつり)といいます。
 節理は、マグマの性質によってその形が違ってきます。玄武岩や安山岩のマグマでは6角柱状になります。柱状の間には、水平の節理が入ります。水平の節理の入り方が細かいと、板状になり板状節理と呼ばれます。花崗岩では、この節理が、立方体つまりサイコロ状になるような方状節理とよばれるものができやすくなります。
 屋久島では、花崗岩は地下深部から地表に出てきますから、大地の圧力も減っていきます。節理はますます隙間を大きくしながら上昇していきます。隙間は、雨や水の浸食を受けやすい場所となります。屋久島は雨が多いところです。雨や川による侵食が激しく起こるところでもあります。やがて、雨や水の流れは、川となり、渓谷となります。そして、上昇の激しい屋久島では、谷はますます深くなり、尾根も険しくなります。山の中の渓谷は、深く険しく、滝や滑床、V字谷が各地に見られます。
 屋久島の2方向の直線状の地形は、花崗岩の方状節理によってできたもののだったです。そして、その節理は、侵食を進める場所となりました。そのような侵食の結果、屋久島には、2方向の直線的な地形ができてきたのです。地形のできるスピードは、年間数mm、1000年で1mほどとなります。その間に花崗岩の上にあったはずの地層は、削られて海に運ばれていきました。地質学的な100万年単位の変化と、日々の雨や川の浸食の積み重ねによって、屋久島の大地は形成されていたのです。
 さまざまな時間が屋久島には流れています。その時間は過去に終わった時間ではなく、現在進行中の時間が流れています。屋久杉を守るということを、ヒトは最近決めました。しかし、ヒトがどんなに屋久杉や自然を守ろうとしても、自然には自然の時間が流れています。それはヒトが止めることのできない時間です。大地が削れ、崩れれば、その上にあった植物は一緒の崩れます。自然の時間は流れるスピードは違うのですが、どこかで連携しているようです。

・自然の掟・
ヒトは、自分とスケールの違うものに感動します。
たとえば大きな木、雄大な景観、桁違いの長寿など
あるいは、見ること、感じることできないほど
微小なものや瞬間の中に織り込まれている繊細なものなどを見たとき、
感動します。
あまりにも自分のスケールとかけ離れているためでしょうか。
しかし、感動の次には、きっと「なぜ」という疑問が
つぎつぎとわいてくるはずです。
そのいくつは、科学が答えを出しています。
でも、多くは、まだ謎のままです。
まして、その感動したものが、
これからも継続して存在するかどうかなど
未来についてには、予想もできません。
自然は、きれいだから、貴重だからなどの区別をしません。
昨年の台風では、屋久島の木々も、大きな被害を受けました。
そんな被害も、ある生物には
自分の成育できる環境ができた、広がったと
喜ぶものいることでしょう。
自然は、ある条件、環境を提示するだけです。
その条件や環境は、ゆっくりと、時には急激に変わります。
それに対処できたものだけで、生き延びるのです。
これが自然に流れている掟なのです。

・観光地ズレ・
屋久島は、印象深い島でした。
世界遺産に登録されたことで
観光客も多く来ます。
観光も重要な産業となりつつあるようです。
しかし、新しい観光地のせいでしょうか、
それとも世界遺産を守る気持ちが強いのでしょうか。
どこか観光地ズレしていない、純朴さがあります。
だから、普通の観光地のサービスを期待していると
拍子抜けするかもしれません。
でも、それが屋久島のよさなのでしょう。
私がそれを感じるようになったのは、
帰ってきてからでした。
滞在中は、巨木の森、面白い地形、特徴的な地質に
魅了されていましたから。

・地形解析・
今回、屋久島の特異な地形をみるために、
今までの、地上開度、地下開度、傾斜量のほかに、
傾斜形と傾斜方位というものを用いました。
斜面形とは尾根・谷などの地形の凹凸を判別するのに適しています。
近くの標高データから斜面の凸凹を判定して、
尾根や谷が明瞭に見えるようになります。
そしてそこを色分けして際立たせます。
土砂災害などの予測に利用できます。
もひとつの傾斜方位とは、
地表面が向く方向、あるいは傾き下がる方向を表します。
標高データからある地点の斜面方位を求めます。
斜面方位は斜面の植生や雪の量の推定するのに利用されます。
この傾斜形と傾斜方位は、屋久島の地形的特長を
よく表していました。
興味のある方は、ホームページをご覧になってください。

2005年3月15日火曜日

03 新冠:地震から学ぶこと(2005.03.15)

 地震は、瞬間的に大きな変動を大地に残します。その変動は、断層、崖崩れ、津波などさまざまな形で現れますが、いずれも地震の振動がきっかけになっています。北海道の新冠でも、地震によって変動が起きたことがあります。その中には地震に伴うあまり見かけない不思議な現象がありました。私はこの現象から、学ぶへきことがまだまだあることを知りました。

 北海道には競走馬を飼育している牧場がたくさんあり、多くの有名競走馬を輩出してきました。JR北海道の日高本線が走る太平洋側には、門別、新冠、静内、三石、浦河かけて、多数の牧場があります。このコースは日高サラブレットロード(千歳空港~襟裳岬)とも呼ばれているほどです。中でも静内川と新冠川沿いには牧場が多数あります。
 千歳方面から小高い丘を越えて、開けた新冠川を見下ろすところに出ると、左手にサラブレッド銀座公園というパーキングエリアが目に入ります。観光バスも止まれるほど大きな駐車場です。駐車場から眼下に広がる牧草地に放牧されている馬は、いかにも北海道らしい景観に見えます。この景色を見終わると、観光をする人は、次の目的地に向かうのでしょうか。
 ところが、川とは反対側に目を向けると、そこにも牧場があり、牧場の柵の前に「北海道指定天然記念物新冠泥火山」という看板があります。その看板に気づいた人がいたとしても、何のことかわからず、ただ眺めるだけに終わっていることでしょう。
 この泥火山には、私も学生時代に、先生に連れられて見たことがあるのですが、やはりぱっとしないものだと思っていました。その後、2002年に人を案内するため、この泥火山を2度訪れました。やはり特別見栄えのするものではありませんでした。しかし、不思議な大地の営みが、この一見ぱっとしない丘で起こっているということを知ると、大地の不思議さに思いを巡らすことができます。
 泥火山と呼ばれているものの多くは、マグマや温泉の活動によってできるものです。地熱地帯で、泥沼の底に水蒸気が噴出しているものを泥火山と呼んでいます。みかけは火山に似ていますが、本当の火山ではありません。
 もうひとつ、非常に珍しいのですが、地震による液状化現象によってできる泥火山があります。珍しいがために、この新冠の泥火山は、1968年(昭和43年)1月18日に北海道の天然記念物に指定されたのです。
 2003年(平成15年)9月26日に十勝沖で地震があり、255cmの津波が起こりました。私の住む札幌の隣の江別市でも大きく揺れました。そして1時間後には大きな余震もありました。この十勝沖地震では、行方不明2名、負傷者849名、住宅全壊116棟、住宅半壊368棟などの被害を出しました。
 新冠でも震度6弱の揺れが起きました。パーキングエリアの路石や敷きレンガなどに隆起がおこり、道路にも亀裂が走りました。このときに新冠の泥火山が、規模は小さかったのですが、再び活動したのです。
 当時のニュースでは、震源の十勝沖から遠く離れた苫小牧でのナフサ貯蔵タンクの火災を伝え、思わぬ地域で大きな被害を出したことに、非常に不思議に思われた方いたはずです。
 その原因は、長い周期の地震波(長周期地震)に共鳴した現象(スロッシングと呼ばれていました)だと考えられています。長周期地震は、新潟県中越地震や阪神淡路大震災などの直下型地震ではなく、プレート境界の海溝の深部で起こる地震で発生するとされています。私たちは、その不思議な出来事を目の当たりにしたのです。
 十勝沖地震は、これ以外もいろいろなことを教えてくれました。十勝沖地震での被害は新潟県中越地震や兵庫県南部地震より少なかったのですが、マグネチュードが日本の自身の中でも有数の大きさを記録したのです。
 2003年の十勝沖地震のマグネチュードは8.0に達しました。日本付近で起きた地震では、ここ10年、このようなマグネチュード(M6、M7などと書かれることがあります)の大きさのものはなかったのです。2004年10月23日に起きた新潟県中越地震は、最大震度7で甚大なる被害を出しましたが、地震のマグネチュードは6.8で、十勝沖地震よりは小さかったのです。まだ記憶に新しい1995年(平成7年)1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)もマグネチュードは7.3でした。いずれも直下型の地震でした。
 日本付近で被害を出した明治以降の地震を理科年表から拾っていくと、マグネチュード8以上のものは、1994年(平成6年)10月4日の北海道東方沖地震(M8.2)、1952年(昭和27年)3月4日の十勝沖地震(M8.2)、1946年(昭和21年)12月21日の南海地震(M8.0)、1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震(M8.1)、1911年(明治44年)6月15日の喜界島近海地震(M8.0)、1896年(明治29年)6月15日の明治三陸地震(M8.5)、1891年(明治24年)10月28日の濃尾地震(M8.0)、の7つです。2004年の十勝沖地震を加えても、明治以降、マグネチュード8以上のものは8回しか起こっていません。マグネチュード8クラスの地震は非常に稀なものであることがわかります。
 1891年から2004年の113年間に8回ですから、14年に1回、つまり日本周辺では10数年に1回起こるほどの稀な地震ということになります。
 マグネチュードと震度の違いがよくわからないかもしれませんので、説明しておきましょう。
 マグネチュードとは地震が起こったときの地震自体の大きさをあらわすのに対して、震度はある地点での揺れの強さを表します。ですから、どんなにマグネチュードの大きな地震でも、遠くで起これば、自分がいるところの震度は小さくなります。もし、表層の直下型の地震が人口密集地でおこれば、マグネチュードが小さくても被害は大きくなります。それが、新潟県中越地震や兵庫県南部地震だったのです。
 マグネチュードの数値が1大きくなると、エネルギーは約32倍になります。つまり、マグネチュード6の地震は、M5の地震32個分に相当することになります。
 震度(地震情報などにより発表されるのは震度階級と呼ばれています)は、ちょっと前までは、体感や周囲の揺れの状況から推定されていましたが、1996年(平成8年)4月からは、震度計(正確には計測震度計と呼ばれます)で測定されたデータから計算されています。その結果、自動的に即座に震度が決定されるようになりました。震度計は、全国に約600地点に置かれて、自動的に観測されています。
 2003年の十勝沖地震では、マグネチュードと震度の違いをよく示してくれました。
 さて、新冠の泥火山に話を戻しましょう。新冠の泥火山は、地震の液状化によって起こるといいました。この液状化現象とは、水分を多く含んでいる固まっていない地層に地震の振動が加わることによって起こります。地震の振動によって、地層内の水圧が上がり、粒子間の圧力がなくなり、液体のような振る舞いをします。もし、地表に向かって割れ目ができると、液体として地層の成分が水ともに噴出します。
 新冠の地下には、新第三紀中新世(1000万年前ころ)の地層があります。この地層からは、少しですがガスが噴出したり、石油が出ていることが知られていました。つまり、水分やガスの成分を多く含むまだ固まっていない堆積物が地下にあったことを意味します。そして、海岸線と平行して「節婦(せっぷ)断層」とよばれる断層がありました。
 新冠の地下には、このような条件があったので、大きな地震が来たとき液状化現象が起こったのです。最初の活動は、上で述べたマグネチュード8以上地震である1952年の十勝沖地震に起こりました。
 断層沿いに幅350m、長さ1.1kmにわたって液状化が起こりました。8個の噴出孔から、泥やガスが噴出して、泥の丘が形成されました。一番大きなものは、230m×160mの楕円形で25mの高さの台地状の丘でした。頂上の中心には50×60m、深さ1.5mのカルデラのような形状のクレータができていました。
 周辺の住民たちは1日でできたこの丘を「日高新山」と呼び、火山ではないかと驚いたそうです。
 地震後、水分が抜け出ることによって、よりしまった状態になり、安定します。しかし、地層中に水がまだ残っていたり、地下水として地層に供給される仕組みがあると、同じような液状化現象を起こすような条件ができます。
 新冠では同じような地層の条件がまだ残っていたようで、泥火山の活動は1952年の十勝沖地震だけでなく、1982年3月の浦河沖地震や2003年の十勝沖地震でも起きました。
 2003年の活動では、すでにあった泥火山の頂部に、放射状の割れ目ができ、そこからブロック状の泥の塊が噴出しました。勢いよく噴出したらしく、泥は周りに撒き散らかされていました。
 液状化現象は、砂の地層でよく見られます。水分を多く含み、地震の振動でバラバラになった砂まじりの水が噴き出すことがあります。これは噴砂と呼ばれています。
 液状化現象が起こる場所は、主に台地や湿地、埋め立て地、砂州、三角州などです。現在では事前の地質調査によってそのような地盤であることがわかっていれば対処できます。地盤を固めたり、水の逃げ道をつくったり、建物を守るために堅い地盤まで、杭などを打ち込んだりして、被害を少なくすることが可能となっています。
 このような液状化現象によって大きな被害を与えるということを、1964年4月20日の新潟地震(M6.1)で知ることができました。4階建ての県営住宅のアパートが横倒しになりました。液状化によって緩んだ砂の層が、液体のようになって建物を支えきれなくなったのが原因でした。また、1995年の阪神・淡路大震災では、砂より大きな石や礫が噴出することがあることもわかりました。このような現象は噴礫と呼ばれます。そして新冠の泥火山では、砂だけでなく泥も噴出すこと、そして地震が起これば何度も液状化は起こりうることを教えてくれたのです。
 恐ろしいものを順番に並べた「地震、雷、火事、親父」という言葉があります。筆頭が地震です。科学と技術の進んだ時代に生きる私たちは、恐れてばかりではなく、地震から受けた災害を教訓として学ばなければなりません。学んだことから、次の地震ではそれに対処できるようにしていなければなりません。私たちは、大きな地震のたびに学んできました。これからも学んでいかなければなりません。そんな積み重ねが、自然との共存への道といえるのかもしれません。そして、人類の進歩となるのでしょうね。

・新冠川の思い出・
新冠は、私にとって思い出深い地です。
大学生時代、最初に日高という山を経験したのでは、
新冠川の上流でした。
2人の先生に連れられて、私ともう一人の友人が
5泊6日で新冠川上流に入りました。
テントとダムの事務所で泊りました。
私は京都の田舎で育ったのですが、
故郷では、地元の小さな山しか知りませんでした。
大学に入って、札幌近郊の山には
一人や友人とともに登ったりしてました。
しかし、日高山脈のように奥深い山は
この時が初めての経験でした。
上流に行くほど深い谷になっていくこと。
上流には夏でも溶けない雪渓があること。
その水がしみだ出してくると冷たくおいしいこと。
カールと呼ばれる氷河時代の地形があること。
カールから流れる枯れることない沢があること。
などなど、いろいろ経験しました。
そして、奇しくも私は新冠川の一本南西側にある静内川で
3ヶ月に及ぶ卒業研究をすることになったのです。

・微地形・
前回のエッセイで、10mメッシュの威力を遺憾なく
発揮できる素材として秋吉台の石灰岩地形を紹介しました。
しかし、今回の素材は、10mメッシュの限界に近いものとなりました。
ホームページの画像を見ていただけるとわかるのですが、
丘陵のような地形をみるには、
地上開度と傾斜量という地形解析の手法が有効です。
10mメッシュでみると、泥火山がいくつもあることが見て取れます。
もちろん50mメッシュでは何も見えません。
しかし、10mメッシュでもこのような微地形は
判別できる限界に近いようです。

・立体写真・
横にずれた位置の航空写真を並べて、
立体写真としてみる方法があります。
今回、立体写真で見えないか挑戦してみました。
なかなか難しいのですが、
一枚の写真から画像を加工して立体写真をつくるものです。
まだ、うまくいきませんが、いろいろ挑戦しています。
その挑戦の過程ですが、泥火山でやってみました。
なまだ成功とはいえないのですが、
興味のある方はホームページを覗いてみてください。

2005年2月15日火曜日

02 秋吉台:想像力がつくる世界(2005.02.15)

 石灰岩が形づくる不思議な造詣は、地下や地上にさまざまな景観を広げてくれます。地上に刻まれた景観は、上空から見るとより一層際立ちます。石灰岩の大地をさまざまな位置から眺めていくと、大地のつくりの不思議さと人の想像力の豊かさが見えてきます。

 私が山口県の秋芳洞を訪れたのは、お盆直後の暑い8月でした。しかし、洞窟内は、ほっとする涼しさがありました。洞内はいつも16℃前後の温度で一定しているために、夏に外から入ってくると涼しく感じ、冬に入ると暖かく感じます。これは、外気温が変化するのに、井戸水が夏冷たく、冬暖かく感じるのと同じ理由です。まあ最近では、都会で井戸水を味わうことはなかなか難しいでしょうが。もちろん我が家も水道水です。
 地下は地表の天気や気候に左右されることなく、一定の温度条件に保たれています。秋芳洞だけでなく、地下であれば、どこでもそのような条件になります。北海道でも1.5mくらいの深さになると、地表がどんなに寒くても、氷点下にならないところがあります。不凍深度と呼ばれています。ですから、北海道の水道管は、本州より深い1.5m以下のところに埋設されています。
 さて鍾乳洞です。元来、暗闇の中に入ることを、人は本能的に嫌います。かたや暗闇の奥に何があるのか見たいという好奇心もあります。恐怖心を抑えて覗いた地下世界に、えもいわれぬ不思議な光景が広がっていたら、その驚きは何倍にもなることでしょう。
 私は、日本だけでなく世界各地の鍾乳洞を見ていますが、どこに入っても好奇心が沸き起こります。もちろん恐怖心も起きますが。外気とは違った条件の環境を体感した上で味わう暗闇に浮かぶ奇妙は景観は、想像力を嫌が上にも沸きたてるのでしょう。
 鍾乳洞の奇妙な景観は、どこか似通ったところがありますが、よく見ると二つと同じものがありません。大きなお皿を何枚も並べたような池、鍾乳石の石柱や石筍につけられた奇妙な模様、狭い通路、巨大な地下空間、地下の巨大な池、地下をとうとうと流れる川、などなど地下にこの世のものとは思えない世界が広っているのです。
 鍾乳洞は、石灰岩が分布している地域が、長年、雨や地下水などによって溶かされてできたものです。時には、鍾乳石のように石灰分をたくさん含んだ水から石灰岩が新たに沈殿して形成されることもあります。このような溶解、沈殿の化学的作用によって不思議な地下世界である鍾乳洞が形成されていきます。もともと岩石があったところに空洞ができるのですから、沈殿より溶解のほうが強く働きます。
 この雨水に溶けるという石灰岩の性質があるために、石灰岩地帯は、特有の地形が形成されます。石灰岩が溶けてできた地形をカルスト地形と呼びます。日本では各地に石灰岩が分布します。そして石灰岩が広く分布しているところには、大なり小なりカルスト地形ができます。中でも、山口県の秋吉台は大規模なもので有名です。
 石灰岩の性質、規模、溶ける環境、地表に露出した時期などによって、さまざなカルスト地形ができます。多様なカルスト地形ですが、どこか似通った地形ができます。それは、カルスト地形が、ある限られた地形を形成する作用が組み合わさってできているかだと考えられいます。地表が溶かされてくぼ地が形成されること、地下が侵食されて洞窟(鍾乳洞)ができること、そして地表で溶け残った石灰岩の柱がたくさん林立することの3つの地形を形成する作用です。
 くぼ地は、その規模やでき方によって、ドリーネ、ウバーレ、ポリエなどと呼ばれています。秋吉台でもドリーネ、ウバーレ、ポリエなどが見ることができます。石柱は、ピナクルやラピエと呼ばれています。溶け残った石灰岩の表面にはさまざまな溝やくぼみなどができます。このような溶けた跡をカレンと呼んでいます。
 人間の目から見ると、石柱や鍾乳洞は、その数の多さ、大きさなどは視野に入ってくるので、不思議さが見ることによって理解できます。しかし、くぼ地は、そうはいきません。くぼ地は、大きければ大きいほど、その巨大さがわかりにくくなります。あるいは、たくさんのくぼ地があっても、地表ではその規模も数も、なかなか全貌が視界には入りません。
 そこで必要なのが、鳥のように上空から広く見るという視点です。人が空を飛んで地表を見ることは難しいですから、地図を使います。地図は印刷物ですから、2次元的な表現がなされています。そこに、等高線という同じ標高の地点を線で結んだ情報、つまり3次元的な情報を書き加えることによって、地表の凹凸があることを伝えることができます。少々訓練をすれば、地図から地表の凹凸を見ることができます。どんなに空を飛ぶ訓練をしても人は飛べませんが、地図を見る訓練は努力さえすれば大抵の人は3次元的な視点を持つことができます。後者のほうが断然、現実的でしょう。
 いくら地図を見る訓練をしても、地図は印刷物ですから3次元になることはありません。頭の中で3次元化をしているわけです。地図には、実際には3次元化を助けるために、さまざなま努力が払われています。標高に応じて色を変えたり、陰影をつけて立体感を出したりしています。これは、目の錯覚を利用して、頭の中で3次元化を助けているのです。つまり想像しやすくしているのです。
 標高データをデジタル化すれば、コンピュータの使用できるので、その標高データをコンピュータ内で3次元にして、人に3次元的にに見やすい形に表示することができます。このような仕組みを使えば、地形の特徴をよりよく表すことができます。まるで鳥になったように、地形を眺めることも可能です。あたかも空を飛んでいるように、見ることもできるのです。このようにして情報を加工することによって、人はいろいろな視点を持つことができるようになりました。
 ところが、地下の様子はなかなか立体的に知ることは難しいものです。なぜなら、岩石は透けて見えないからです。地表の地形は鳥になればよかったのですが、たとえモグラになっても、地下の鍾乳洞の様子を立体的に見ることはできません。
 そんなときは、やはり想像力を働かすしかありません。
 もちろん、地図の等高線に対応する地下用の等深線というものを使って地層などの分布を表現することはされています。そして、正確な数値データがあれば、コンピュータを使って、岩石がないものとして、3次元的に表すこともできます。
 しかし、鍾乳洞の数値化されたデータは、あまりないようです。鉱山では鉱脈を探るために、詳しい3次元データがありましたが、観光目的の鍾乳洞のようなところでは、一般の人が入手できるようなデータはあまりないようです。データがないとなかなか想像力の発揮のしようがありません。
 地表を歩いているときは、太陽の位置や遠くの景色、特徴的な山などを手がかりに、自分がどちらの方向に歩いているかが見当がつきます。しかし、鍾乳洞に入ったとたん、私は方向感覚が狂ってしまいます。鍾乳洞の中を、導線に沿って上り下しているうちに、入り口の方向や、進んでいる方向もわからなくなります。
 そんな位置感覚の混乱が、ますます不思議の世界へと導きます。不思議な世界を思い浮かばせるもの想像力なのですが。そんな鍾乳洞の中で、私はもしかしたら、想像力の世界をモグラのようにさまよい歩いているのか知れません。

・3次元化・
コンピュータを使って3次元化するためには、標高データが必要です。
標高データは、ある大きさのマス目をつくり、
マス目の中心ごとに、標高を読み取り作成していきます。
このマス目の大きさをメッシュと呼んでいます。
メッシュ標高データで、地表を覆い、地形を3次元化して、
その地域の凹凸をわかりやすく表現できます。
2次元の位置情報を持った点に
標高の情報を加えて3次元上の点にしているのです。
テレビやコンピュータのディスプレイが点の集合が面として見えるように、
立体的に配置された点の集合も遠めにみれば、3次元的な面として見えます。
マス目のサイズが小さいほうがより精細になります。
データの数はマス目の長さが半分になるごとに、2乗で増えていきます。
また、計測するのも大変になります。
日本全国を網羅している標高データの詳しいものとしては、
国土地理院の50mメッシュと北海道地図株式会社の10mメッシュの
標高データがあります。
いずれも既存の2万5000分の1の地形図から読み取ったものです。
都市部では5mメッシュが作成されつつあります。
これは、2万5000分の1の地形図から読み取るには精度が足りませんので、
新たに航空レーザスキャナ測量という方法で測定されているものです。
家屋や橋、樹木など地表を覆うものを取り除いて、
地表面データとして作成されています。
都市計画や河川災害や都市災害の防止対策などを目的とされています。
5mメッシュは全国的行われることはなく、都市部だけのようです。
ですから現在一番精度のいいのは、10mメッシュ標高データとなります。

・10mメッシュの威力・
10mメッシュでは、50mメッシュ1個分に25個の標高データがあります。
この差は、すばらしい解像度として現われます。
かつて私は、衛星画像と衛星が読み取った標高データを用いて
秋吉台の不思議な地形が見えないか試みましたが、
うまくいきませんでした。
表層の植生に邪魔をされて、数10mの地形の変化が見えないのです。
しかし、以前、北海道地図株式会社で、
地形解析のデータを見せていただいたとき、
見事にドリーネが表現されていることに驚きました。
ここまで鮮明に見えてくると、地形の10mメッシュの威力がよくわかりました。
ホームページにその違いを示しています。
違いを存分に味わってください。
もちろん、データは25倍大きくなりますが。

・Aihさんからのメール・
前回のエッセイに対して、Aihさんから、
「2000年の夏に有珠山で「研究者の責任と教育に対する配慮」について
北大の宇井先生から教えていただいたことをおぼえています。」
というメールをいただきました。
研究と教育に対して、私は次のような返事を書きました。
「研究と教育など相対する物事は、難しい問題をはらみます。
いくら専門家でも、越えてはいけない一線があります。
また、専門家だからこそ、命の危険も顧みず、嫌なこと、
危険なところへも、進まなければならないこともあります。
もはやそれは好奇心を越え、責務として行わなければなりません。
当事者でない専門家は、研究という名の好奇心で、
ある一線を越えることがあります。
それは大いに注意すべきことでありますが、
どこに線を引くかが難しいところであります。
何かがあったとき、誰がどう責任をとればいいのか。
本人は覚悟の上でも、周りは無視できない、黙ってられない時があります。
誰かが窮地に立てば、それを助けようとする専門家もいるわけです。
この問題には、なかなか答えが出ません。
私には、どこで、その一線を引いていいかわかりません。
でも、エッセイで書いたように、
私は専門家としてある一線を越えない範囲で、
自分の専門とする手法で記録すべきだと思っています。
もし、当事者としての専門家でなければ、
可能な限り当事者である彼らには配慮すべきでしょう。
しかし、当事者以外の専門家で、興味ある人は、
一線を越えずに、記録できることはすべきではないかと考えています。
その一線とは、まずは一般の人と同じ程度と考えていいでしょう。
科学的記録には、ある時期にしかとれないこともあります。
新しいアイディアは、より多くの人が加わることで生まれるかもしれません。
でも、これも、もしかすると、よくない考え方かもしれません。
難しい問題です。
研究と教育。
好奇心と自制心。
当事者と傍観者。
関係者と部外者。
研究者と被災者。
被災者とボランティア。
などなど、相対するとき、その一線は難しいものとなるでしょう。
特に緊急事態時は配慮すべきでしょう。」
このような返事を書きました。
私には、そんな一線に対して、いまだに答えが出せません。

2005年1月15日土曜日

01 有珠山:好奇心と倫理(2005.01.15)

 火山は、人々に温泉やきれいな景観などの恵を与えてくれる一方、いったん噴火が起こると、自然の激しさ、厳しさを見せ付けます。そんな火山を地質学だけでなく、人とのかかわりでみてきましょう。人といっても私のことですが。

 私は、地質学を専門としていますが、活火山を専門としているわけではありません。しかし、過去の海底の火山活動でできた岩石を研究テーマにしていました。ですから現在の海底での火山噴火には興味があり、火山とは無縁ではありません。その対比のために、陸上での火山を、地質学者たちの見学(巡検(じゅんけん)といいます)で、いくつも見てきました。
 激しい噴火をしている火山は、火山を専門としている研究者でない限り、間近には、なかなか見ることができません。しかし、私は、有珠山とだけは、1977年と2000年の2度の噴火で、少々縁がありました。そんな話からはじめましょう。
 1977年の夏は、私は大学で地質学を専攻することを決めたばかりでした。1977年8月7日9時12分、火口原の中で有珠山は噴火しました。私の属していた学科や学部をあげての総員体制で噴火調査、観測に臨んでいました。そんなあわただしさの中、私たちはまだ専門家でもない、専門教育もこれから受けるような学生は、非戦闘員よろしく、大学でおとなしくしているしかありませんでした。
 私は、岩石学の講座で専門をおこなうことは決めていました。その講座の教授として、火山学の大家、勝井義男先生がおられました。しかし、私は、火山をテーマとして卒論をしませんでした。でも、勝井先生とは深い付き合いで、今もその不思議な縁は続いています。
 調査から帰ってこられた先生達の車が、火山灰まみれで、火山弾、降下軽石などで凹んでいるのをみると、噴火の恐ろしさを、間接的ですが感じていました。その夏のある夕方、札幌にも雨とともに火山灰が降って、傘に重く積もったのが、今でも心に残っています。
 噴火の翌年、残雪の残る1978年の春、私は有珠山を見るために、仲間と出かけました。噴火の最中の有珠山は、その傷跡も生々しく、木々が火山灰の重みで折れたり、未だに激しく噴煙を上げている火口などに圧倒されました。しかし、火山灰をかき分けながらのぼった斜面に、生命の象徴のようにシロバナノエンレイソウのつぼみが出ていることが、強く心に残っていました。そして、生命のタフさを味わいました。
 これが、地質学もよく知らない学生時代の私と火山噴火との接触でした。1977年から1978年のかけての噴火で、3名の犠牲者がでました。勝井先生の落胆は、傍で見ていても大きなものであることがわかりました。そのとき、私の好奇心と若さによる行動に、なんの疑問もありませんでした。
 その後、私は、研究者としての道を歩むようになって、専門家ではないのですが、論文や専門書、映像などから火山についての知識は身につけていました。そして、研究者としての職を得て、地質学者として研究をするようになって、科学あるいは科学者としての立場から、火山を含めて、自然や地球を見る目を持ちました。もちろんそれは専門家としては必要な姿勢で重要なことであるのですが、いつの頃から、私は専門家という立場に立ってしか、自然や地球を見ていなかったのです。それを気づかせてくれたのが、実は有珠山だったのです。
 2000年3月31日、有珠山の噴火は、西山とよばれる有珠山の西側の山ろくから始まりました。有珠山は、歴史時代の噴火では、明瞭な前兆現象があり、最終的には必ず噴火するという繰り返しをしてきました。そこから「有珠山はうそをつかない山」と呼ばれています。2000年8月頃には噴火は終焉したので、その年の11月に、当時神奈川県に住んでいた私は、北海道に行く用事がったので、有珠山を見たいと思って出かけました。
 もちろん有珠山の噴火の様子をみるのは、地質学者としての知的好奇心だったのですが、まだ地元ではあわただしく、噴火の処理がされていました。家をなくし、避難されている方もおられました。その処理の模様をみていると、私は自分本位の興味で火山を見に来たことに嫌悪感を覚え、何もできなくなり、すごすごと引き返したのです。
 それ以降、科学と人とのかかわりについて、人と自然とのかかわりについて、科学と自然とのかかわりについて、考えるようになりました。
 日本の中でも、有珠山は、一番よく調べられている火山の一つです。そして、防災は難しいとしても、さまざまな減災へと取り組み、災害対策へと取り組みも一番進んでいる火山です。これは、火山に対して、地元住民や自治体、各種メディア、そして科学者が取り組んできた成果だと思います。
 このような体制をとるには、火山に関する観測や研究は不可欠です。そして、有珠山の火山研究者だけでなく、日本あるいは世界中の火山研究者が、実際の火山現象をみて、経験をつむこと、研究上の議論することは必要です。各地での防災対策に活かせる経験となるはずです。専門家が有珠山を見学することには、それなりの意義があります。また、メディアが有珠山に関する情報を適切に報道することも重要なはずです。
 しかし、研究や報道が、どこまでが必要なことで、どこからがやりすぎかを、よく考えておく必要があると思います。1977年の噴火の時、私は好奇心にかられて、噴火の近くまで見に出かけたのです。もちろんいろいろと得ることはありましたが、もしかするとあれは、越えてはいけない一線を越えていたものなのか知れないと今は思うようになりました。予想外の噴火や事故があれば、関係者に大きな迷惑をかけます。一緒に言った友人は今は、新聞記者となっています。どう思っているか聴いてみたい気がしますが、まだ機会がありません。
 私だけでなく、どんな人や分野でも、越えてはいけない一線があると思います。研究者、ジャーナリスト、行政関係者などで、被災者にぶしつけな質問をしたり、被害調査として他人の家や畑に、了解なく、遠慮なく入り込んだりしてはいないでしょうか。ボランティアとして、相手に親切を押し売りしていないでしょうか。義捐金を出したからといって、自分は被災者に充分はこと、できることはしたと思ってないでしょうか。善意と自己満足、責務と好奇心、やらなければいけないこととやってはいけないこと、その辺の境目が、未だに私にはよくわかりません。
 今のところ、私は、少なくとも研究者は、被災者に迷惑にならない範囲で、できるだけ多様な人が、自分の専門とする手法で記録を残すべきだと思っています。一人でも、グループでもいいです。将来どんなデータが必要になるかわかりません。そのときにしか取れないデータがあるはずです。また、誰がどんな有用なアイディアを生み出すかはわかりませんが、知識や知恵を記録して、知的資産として蓄えていく必要があるはずです。それが後の防災、減災へと導くはずです。
 さて、長々と私と有珠山のかかわりを述べましたが、最後に、有珠山の地質史を短くまとめておきましょう。
 有珠山は、洞爺火山の一部です。洞爺火山は洞爺カルデラをつくった大規模は噴火活動と、その後のカルデラ周辺の後カルデラ火山に分けられます。
 洞爺火山は約11万年前に破局的噴火が起こりました。その結果、直径11kmにおよぶ洞爺カルデラが誕生しました。周辺には火砕流による台地ができました。そのときの火山灰は、周辺はもちろん、風向きの関係で、北海道南部から東北中部の宮城県まで到達したことが確認されています。
 その後、約5万年前にカルデラ中央(中島)、約2万から1万年前にカルデラ南の有珠山で活動が起こりました。一時は1000mに達する成層火山になったのですが、8000から7000年前の噴火で崩壊しました。その名残は、南東側のでこぼこした流山地形と呼ばれるものとして残っています。歴史時代になって、有珠山は、1663年から30年ほどの周期で噴火を繰り返しています。1977年と2000年の噴火もその活動の一環です。

・Ikeさんからのメール・
このメールマガジンをはじめるあたって、1月3日に創刊特別号を出しました。
すると何人かの方から、メールをいただきました。
いくつかを紹介します。
Ikeさんから、
「中学での地学は、生涯最後の学習の場となる生徒がほとんど」
というメールをいただきました。
それ対して、私は、
「残念ながら、そうなるかもしれませんね。
現実社会では、地学的素養や視座というもの、
あるいは地球や自然に対する理解は大切です。
その欠如が現在の地球環境問題の一因ではないでしょうか。
地球や自然に対する理解から生まれる、
地球や自然に対する不思議さや面白さだけでなく、
畏敬の念や危険、そして危険を回避する必要性など
を考え、学ぶことになっていくはずです。
それは地球規模から、自分自身の身を守ることまで、
規模はさまざまでしょう。
そして人間も、地球や自然の一部であるという認識に
到達できるのではないかと思います。
なにも学校で学ぶことがすべてではないと思いますが、
学校教育は、最初のステップとして非常に重要だと思います。
自然認識や地球的視座の不足が、
将来、大きな禍根を残さなければいいのですが、不安です。
このメールマガジンがそんな認識の一助となればいいのですが。
努力はするつもりですが、
さてさてまだ始まっていませんから
どうなりますやら。」
と答えました。

・Minさんからのメール・
Minさんからメールをいただきました。
私は、
「地質学は、自然や地球の出来事、現象、歴史などを解明する学問です。
つまり、自然や地球という対象が、はっきりとあるものです。
そんな対象は、誰だって興味を持てるもののはずです。
素晴らしい景観、美しい鉱物、大きな化石、不思議な地層、
そんなものに多くの人は心惹かれているはずです。
ところが、学問となると、とたんにつまらなくなるのは、残念です。
ですから、私は、できるだけ対象を示しながら、
エッセイを綴りたいと思います。
そして少しでも多くの人に自然や地球の素晴らしさや
面白さを理解いただければと願っています。」
と返事を書きました。
また、Minさんから、
「なるべく分かち書きをすると 読みやすくなります」
というご指摘をいただきました。
それに対して私は、
「アドバイスありがとうございます。
私は、いくつかのメールマガジンを発行しているのですが、
それらのメールマガジンでは、読者の方々とのやり取りの結果、
このような形式にたどり着きました。
なんのことはない、普通のべた書きという形式です。
今回も、その形式を、何も考えずに踏襲しました。
私自身いくつかのメールマガジンを読ませていただいているのですが、
きっちりとした長文の文章や、印刷をして読むことを考えると、
多数の改行や分かち書きは、かえって読みづらい気がします。
なにも考えずにこの形式をとりましたので、
再度検討してみます。
その結果は、1号で示したいと思います。」
と答え、結局、当初通りの形式となりました。

・Obaさんからのメール・
Obaさんから
「私のような見えない者には
少なくとも1人では内容を理解しようもありません。」
というメールをいただきました。
それに対して私は、
「メールマガジン自体は基本的にテキストだけで読めるものにします。
そこでは、写真や画像について、言及しないつもりです。
するとしたら、エッセイとは別の欄でするつもりです。
もちろん、ホームページで画像をみれば、
よりわかりやすくなることもあるでしょう。
でも、基本的にメールマガジンは
テキストとして独立したものにしようと考えています。
ですから、新しいメールマガジンもよろしければ、
目を通してみてください。」
ご覧のように、文章は、まったく画像とは関係のないものとなりました。
しかし、ホームページでは、地形の画像や、
有珠山の現地の様子を記録した画像は紹介しています。
よろしければ、晴眼者の方はそちらもご覧ください。

2005年1月3日月曜日

00 創刊特別号(2005.01.03)

 大地の景観には、さまざまな自然の驚異、素晴らしさ、不思議が隠されています。そんな大地の景観を、地形や地質のデータから、地質学者が眺めたら、どう見えるでしょうか。皆さんどうか、大地の造形に隠された仕組みに目を向けてください。そして楽しんでください。

 このたびは、月刊メールマガジン「大地を眺める」を購読いただき、ありがとうございました。このメールマガジンは、毎月15日頃の発行を予定しています。今回は第一号を発行する前の創刊号として、発行のご挨拶をしたいと思います。ただ挨拶をするのではつまらないので、どのようなメールマガジンにするつもりか、あるいはどのような内容にするつもりなのかを紹介していきます。なお、私(小出良幸)のプロフィールや、このメールマガジンの発行の目的、著作権などについては、ホームページをご覧いただければと思います。
 このメールマガジンでは、大地の景観に関する読みやすいエッセイとして、テキストで配信していきます。しかし、内容としては、テキストだけではなく、画像を多用して展開しようと考えていますので、ホームーページと連携していきます。画像はホームページを参照いただくことにします。その画像も可能な限り高精細のものを公開するつもりです。もしろん、メールマガジンとして、テキスト単独でも面白いもの、わかりやすいものを目指します。
 このメールマガジンのはじめるきっかけとなったのは、「広い視点で大地を見ていくこと」と「それを市民に伝えること」が大切だと考えるようになってきたからです。私は地質学を専門としている大学教員ですが、その重要性を強く感じるようになりました。このような広い視点とそれを市民に伝えるということは、何も地質学の研究者だけでなく、多くの人に共通のことではないでしょうか。ですから、私は、ごく当たり前のことをしようとしているのかもしれません。「広い視点で大地を見ていくこと」と「それを市民に伝えること」について、どのようなことなのか説明していきましょう。
 まずは、「広い視点で大地を見ていくこと」についてです。地質学者は、その研究分野の性質上、市民から見ると、一見、広い視点で研究しているように見えるかもしれません。46億年もあるような地球の歴史を考えたり、「動かざること大地の如し」というわれる大陸を移動させたり、移動前の大陸は配置を復元したり、地下深部のマグマのでき方に思い巡らしたり、ななおど、とてつもない時間や空間のスケールでものごとを考えているように思えるでしょう。
 しかし、同じ世界でずっと専門の研究を続けていると、どうしても視点が固定的になります。マグマのことを専門とすると、マグマの中だけでずっと考えを固定しています。そしてそのような専門家集団、つまり学界の中で活動をしていると、それで研究者として充分だと考えてしまいます。かつての私も、そうでした。
 でも、今では、私は、もっと柔軟にいろいろな観点で自分の研究している素材を眺めてみることも大切ではないかと考えるようになりました。すべての科学者にそうしなさいというのではありません。ある分野で何人かは、そのような考えを持つ研究者がいてもいいのではないかということです。そのような研究者が、学界の中に何人かいると、学界全体が刺激を受けるはずです。そして、彼らが、どこからか便利な道具、使いやすい技術、新しい考え方、面白い見方などをはじめ、それを学界でアピールすることができれば、他の研究者にも、そのメリットは活かされるはずです。私は、いってみれば新しいもの好きなのでしょう。
 次は、もうひとつの「市民に伝えること」の重要性についてです。学界で自分の挙げた成果を論文として発表することが重要な任務です。普通、研究者は、自分成果に対しての学界の評価を気にします。それを最も重視にしている研究者も多数います。確かに人類に知的に貢献することを考えれば、人類に役に立つ研究をしていることが、研究者の値打ちとなるはずです。
 一方、大学教員をしている研究者なら、学生や大学院生などに対する教育も重要な仕事となっています。しかし、教育をなおざりにしている一流の研究者、あるいは普通の研究者も多いのが現状です。また、大学を一歩出ると、教育には無関心の研究者が多くいます。
 それが私は問題だと思っています。研究者としての社会的任務として科学を遂行するだけでなく、その成果を広く周知することも重要なことではないでしょうか。私は、科学の成果をわかりやすい形で広く市民に伝えることも、あるいは伝える方法を考えることも、科学者の重要な任務ではないかと思います。そして、科学的成果からすぐに直接考えられる予測、危険、希望や、あるいは市民に直接すぐに影響がない長期的なもの、間接的なものでも、さまざまな考えを、市民に開示することが需要ではないでしょうか。そして多様な情報が公開されている状態で、市民や識者などに、判断を委ねることが重要ではないでしょうか。
 人類の未来は、多くの人が知恵を出し合ってから判断するべきではないでしょうか。多くの分野の研究者がそれぞれの立場で意見を述べることが大切ではないでしょうか。市民に多くのことを知ってもらうためのたゆまぬ努力が必要だと考えています。まあ、それほど意気込むことはないのですが、少しでも市民に方々にも、科学を、楽しく理解していただければと考えているのです。
 以上のような動機から、私は自分の専門としている地質学を、多くの市民に紹介していこうと考えているわけです。ただし、できれば、地質学をより「広い視点」にするために、このメールマガジンでは、地形学、GIS、リモートセンシングなどの分野の技術や情報を導入していこうと考えています。地質学でも、このような他分野の観点や技術、手法などを導入することによって、多様な展開ができるはずです。地質学に近い分野ですから取り入れやすいものでしょう。まずは、そのような素材から、このメールマガジンは進めていきます。
 このような試みは、私にとっては、実ははじめてのことではありません。2003年には1年間にわたって、地球探査衛星TERRAに搭載された高性能光学センサASTER(Advanced Spaceborne Thermal Emission and Reflection Radiometerの略)の画像を財団法人資源・環境観測解析センター(ERSDACと略される)とともに衛星画像を利用して、市民にその面白さを伝えるという試みをしたことがあります。これは、人工衛星から見える地球の画像を見ながら、地上を調査する地質学者がどのようなことを考えたのかを、毎月1年間にわたって連載したものです。興味がおありでしたら、
http://www.ersdac.or.jp/Others/geoessay_htm/index_geoessay_j.htm
をご覧ください。
 私は、地質調査で北海道各地を巡っています。そして年に1度か2度は本州にも出かけます。今回のメールマガジン「大地を眺める」では、毎月、私が調査してきた地域を選んで、その地で考えたことや、新しい素材から新しい見方ができないかを紹介していきます。
 このメールマガジンでは、北海道地図株式会社との連携によって、2万5000分の1の数値地図とともに、10mのごと(メッシュといいます)の標高データを利用できるようになりました。また、私が調査したことのある地域では、私の地表の景観や資料のデータなどがあります。都市部に限られますが、航空写真も公開されています。ランドサットもデータも自由に使えるようになってきました。
 これらのデータや画像はスケールが違い、そして見え方も違ってきます。それは、私にとって、見飽きることのない、面白いものです。地表調査をしているときには決して味わうことのない飛行機や人工衛星からみたような視点を得られます。
 また、標高データを加工することによって、地形の特徴をより顕著にみることができます。地形の特徴を表すのに、傾斜量、地上開度、地下開度、斜面方位、斜面形、起伏量など様々な方法があります。
 中でも、標高データから計算する傾斜量や地上開度、地下開度は、その地域の特徴を表すのに有効でです。傾斜量とは、ある地点の傾斜の度合いで、地質の違いや断層の判読、浸食の程度、崩壊地形などが区別しやすくなります。地上開度とは、ある地点での空の見通しの度合いをあらわすもので、尾根の地形の分布や密度がよくわかります。地下開度とは、地上開度とは逆である地点での大地の広がりの度合いをあらわすもので、谷地形の発達状況や河川の分布・密度、溶岩ドームなどの凸地形やカルデラのような凹地形がよくわまります。
 私が住む町の様子をそれぞれのスケールでみたものや、3D表現したり、地形解析した図を、ホームページで紹介しておきますから、ぜひご覧になってください。

・メールをお待ちしています・
読者の皆様からメールをお待ちしています。
感想、意見、希望などがあれば、
ぜひ、メールでお送りください。
できる限り、対処可能なものは対処するつもりです。
お持ちしています。
また、メールマガジンの場で、多くの人に関係があることであれば、
メールでのお互いのやり取りを承諾があれば、公開できるか知れません。
アドレスは、メールマガジンの上に書いてありますが、
y@ykoide.com
です。

・役に立つサイト・
役に立つサイトとして、次のようなものがあります。
北海道地図
http://www.hcc.co.jp/:10mメッシュ、GISデータ、地形解析データ
国土地理院
http://sdf.gsi.go.jp/index.html:GISデータ、試験公開、無料
http://watchizu.gsi.go.jp/:2.5万分の1地形図、試験公開、無料
国土交通省
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/:航空写真、無料
デジタル・アース・テクノロジー
http://www.det.co.jp/top.html:航空写真、ランドサット画像、有料
ERSDAC
http://www.ersdac.or.jp/:ASTER衛星画像、有料
http://www.ersdac.or.jp/Others/geoessay_htm/index_geoessay_j.htm
:小出の衛星画像公開サイト
メリーランド大学
http://glcfapp.umiacs.umd.edu:8080/esdi/index.jsp
:ランドサット画像、無料
数値地図表示ソフトKashmir(杉本智彦作成、無料)
http://www.kashmir3d.com/
参考になれば。