2005年11月15日火曜日

11 層雲峡:溶結凝灰岩の柱状節理 2005.11.15

 北海道にはたくさんの火山がありますが、その中でも大雪山は、北海道の中心に位置し、規模も大きいものです。大雪山の入り口の一つ、層雲峡を訪れました。

 大雪山は北海道の中心部に位置する巨大な山です。大雪山の旧地名は「ヌタプ・カ・ム・シュペ」といい、アイヌ語で「川の曲がりめの陸地の上にいつもいるもの」という意味でした。「山の上にいつもいるもの」とはヒグマのことで、曲がった川とたくさんのヒグマがいるところという意味でした。古くから「大雪山」とアイヌ名「ヌタプカムシュウペ山」が併用されていました。しかし、現在では大雪山が定着しました。
 大正時代の文人、大町桂月が、層雲峡から黒岳、旭岳を経て天人峡に下った時の様子を、紀行文として紹介しました。その紀行文は、「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」で始まる有名なものです。この文章も、大雪山という名称の定着に一役かっていることでしょう。
 大雪山は、アイヌ語で「カムイミンタラ」と呼ばれのを耳にしますが、これは固有名詞ではなく、場所の様子を示す言葉です。北海道には、いくつものカムイミンタラがあります。アイヌ語でカムイは「神」(ヒグマを指すことがよくあります)で、ミンタラは「庭」で、カムイミンタラで「神の庭」という意味になります。山の神聖な祭場やカムイ(ヒグマ)の多いところに使われた地名です。大雪山は今もカムイミンタラです。
 大雪山という名前は有名ですが、大雪山という山頂があるわけでありません。最高峰は、旭岳で標高2290mあります。旭岳の北東には、直径2kmの御鉢平と呼ばれるカルデラがあります。そのカルデラを中心として、カルデラ壁や周辺には2000mを越える山だけでも20座以上あります。多数の山が集まった巨大な山塊を大雪山と総称して呼んでいるわけです。
 大雪山は、国立公園に指定されており、その広さは約23万ヘクタールあり、神奈川県ほどの広さがあります。国立公園としては日本一大きな規模です。
 大雪山が、いかに大きな山かを、私は、大学の研究生の頃、アルバイトで思い知りました。そのときは、7、8名の人がその地質調査に参加しており、環境庁の許可をもらっていたので、腕章をつけて、国立公園の中を、自由に目的のルートや場所をあることができました。そのときは、大雪山を一月近く歩るきまわったのですが、層雲峡にも1週間以上滞在して、何度も黒岳に登っては周辺を調査をしていました。いくら歩いても歩きつくせることはなく、大雪山の広さをつくづく感じました。そのとき以来、層雲峡や天人峡、大雪高原温泉などは、馴染みあるところで、懐かしい場所となりました。
 2005年9月下旬に大雪山の調査に行きました。旭川を通り層雲峡に入りました。大雪山、それも層雲峡には過去に何度来ていたのですが、20年近く前のことです。その記憶では、層雲峡の街は、狭いところに旅館や土産物屋などが立て込んでいた記憶がありました。
 しかし、今回訪れて驚きました。町並みがきれいに整備されていて、建物の色や姿も統一されていました。街の周りを周回道路があり、街の中心を歩道が通り、歩道の両側に店や旅館があるというつくりでした。まるでヨーロッパのように、きれいになっていました。層雲峡も観光の街ですから、来た人がいい思い出ができ、また来たいと思えるようなところにすることが重要なのでしょうか。
 層雲峡に来ると、いつも、その切り立った崖に圧倒されます。崖は、まるで岩石の柱を、何本も直立させ、くっつけたような形をしています。これが層雲峡の道路沿いに、延々と連続してあります。この崖は、柱状節理というものからできています。
 一般に柱状節理というと、マグマが冷却したときにできる柱状の割れ目(節理)のことです。マグマが、液体から固体になるときに、体積が少し小さくなります。その時、冷却する方向と垂直に割れ目ができていきます。例えば、水平な地層の間に、マグマが平行に入り込む(貫入(かんにゅう)と呼びます)と、柱状節理は垂直にできます。その柱状節理の断面は、多角形で4角形から7角形になっています。本来なら6角形が一番効率のよい形状なのですが、自然は、それほど規則的ではないようです。でも、遠目では、きれいに柱が何本も立っているように見えます。
 このような冷却の条件を満たすものは、マグマでなくてもあります。その代表的なものが、層雲峡の柱状節理です。層雲峡の柱状節理は、溶岩ではなく、溶結凝灰岩というものです。
 溶結凝灰岩とは、火山灰などの火山からの噴出物がまだ熱いままたまり、それが熱のために一部溶けて固まったものです。冷めてくるとマグマのときと同じで、体積が減っていき、節理ができます。これが、層雲峡の柱状節理のできかたです。
 層雲峡の柱状節理をつくっている火山噴出物は、約3万年前に活動したものです。大雪山の中央に位置する御鉢平のカルデラを形成した火山活動にでよって、大量の火山噴出物を放出し、溶岩を流しました。それが、北東の層雲峡と南東の天人峡の谷間を埋め、平らな台地にしました。
 層雲峡の溶結凝灰岩は、一度の噴火ではなく、いくつかの噴火によってできたことが、溶結凝灰岩の冷え方からわかっています。火山噴出物の厚さは、最大で200mにもなります。
 層雲峡は、石狩川の源流近くにあたりますが、まだ上流にも石狩川の流れが続いています。ですから、雪解け時には、大量の水が流れます。そのような石狩川の侵食によって、溶結凝灰岩が削られて層雲峡ができたのです。石狩川が長い時間をかけて削ってきた証が、層雲峡の柱状節理です。柱状節理の巨大な岩石が倒れて事故が起きています。3万年たった今でも、この侵食は続いているのです。
 層雲峡に行ったのは9月だというのに、黒岳では、すでに初雪の便りがありました。黒岳を登り始めると、木の葉は色づき、秋の気配が漂います。黒岳の上に近づくと紅葉真っ盛りとなっていました。大雪山の秋は、日本一、早く来ます。

・たいせつざん・
大雪山は、地元の人は、昔から「たいせつざん」と呼んでいます。
今もそう呼んでいます。
1924(大正13)年に国土地理院が5万分の1地形図で
ヌタプシュぺ山(大雪山)として
「だいせつざん」と表記するようになりました。
そのため、「だいせつざん」と読む人が多く、
マスコミなどでも「だいせつざん」を用いていることが多いようです。
私は、北海道生まれでもないのですが、
にごらないで「たいせつざん」と発音しています。
アイヌ語の地名で漢字が当てられたものは残っていますが、
カタカナ書きされたものは、たくさん消えていったようです。
1902年(明治35年)に、師範学校教師から
大雪山のアイヌ語表記の「ヌタプカムシュウペ山」は、
「民間私名」であるので、
北海道の最高峰にふさわしい立派な名前に改めよう
という意見書が道長官あてに出されたそうです。
しかし、大雪山という名称は残りました。

・大雪山の大きさを語る・
大町桂月が大雪山を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
当時、桂月は、全国をめぐっており、
北海タイムス(現在は北海道新聞)の記者が誘って、山行がかなったようです。
同じ年に、「中央公論」に本文で紹介した有名な紀行文が掲載されました。
「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」
というものです。
私は、大雪山の大きさはアルバイトの時に思い知らされました。
1988年の夏ことです。
そのアルバイトでは、大学の山岳部の後輩がいたので、
厳しいルートの調査となりました。
ある沢の最上流部を上り詰めて調査を終えました。
帰る登山道に出るために、道のないハイマツの中を歩かなければなりません。
1時間ほどのハイマツのヤブコギをして、へとへとになりました。
ヤブコギの最中は、ここで力尽きたら、どうなるだろうかと、
不安にかられながら、歩いていました。
その翌年の夏のことです。
ある遭難救助活動をしていた北海道警察のヘリコプターから
風倒木を組んで「SOS」の文字をつくっているのが発見されました。
捜索したところ、近くで人骨と見られる白骨と
カセットテープレコーダなどが入った
リュックサックなどの遺留品が見つかりました。
私たちが通ったところではないですが、同じ大雪山の中でした。
多分道に迷って身動きが取れなくなり、そのまま力尽きたのでしょう。
カセットテープなど遺留品から、
その人骨は、1984年に行方不明になっていた愛知県の会社員だと
1991年になってようやく断定されました。
私は、道なきところを歩いていたのですが、
道に迷ってはいませんでした。
ただただ歩けば登山道に出れるので、
道に迷っているという心配はありませんでした。
しかし、その白骨の発見のニュースを聞いて、
あたらめて大雪山の奥深さ、大きさを思い知らされたのを覚えています。