2005年12月15日木曜日

12 金華山:戦国武将たちが見た山並み 2005.12.15

 長良川が山地から平野に出る位置に、金華山があります。金華山から見ると、濃尾平野が一望の下に見下ろすことができます。戦国武将が見た周辺の山並みには、日本の大地の生い立ちの秘密が隠されています。

 濃尾平野は、中京地方の産業が栄えているところです。濃尾平野は、南が伊勢湾に海に面し、北が岐阜県の岐阜市と各務原、愛知県の犬山市あたりで急な山並みで終わっています。
 鵜飼で有名な長良川を遡っていくと、金華山付近で急に険しい山並みに流れは入っていきます。その山並みは、川をさえぎるようにそびえています。平野を見下ろすような山地は、戦略的に重要な地点となっています。岐阜市には金華山の岐阜城、犬山市には犬山城があります。特に金華山の岐阜城は戦略的に重要で、鎌倉時代には砦が築かれています。金華山の城は、時代小説の題材としてよくでてきます。
 私は、2003年から2005年にかけて、ある研究の集まりで、たびたび岐阜に出かけることがありました。研究会のメンバーは大抵、金華山を長良川越しに見る旅館に泊まっていました。早朝に何度か岐阜城にも登りました。山としては、険しいのですが、それほど高くないので、朝ごはん前に登ることができました。こんな高い山の上に城をつくり、人が常駐していたことを思うと、昔の人の足腰の強さを感じます。
 斉藤道三がこの城を下克上で手に入れ、次には織田信長が道三の孫の龍興を倒して手に入れました。織田信長は、それまで稲葉山城と呼ばれていたこの城を岐阜城と改め、10年間拠点として使っていました。その後、関が原の合戦で、信長の孫の秀信が西軍に加わったため、東軍に攻められ、落城し、以降は廃城となり、城はなくなりました。
 岐阜城は地の利の良さから、難攻不落の名城として知られていますが、歴史上6回の落城にあっています。それに山頂は水も雨水を利用していたので、長期に及ぶ籠城には適さなかったようです。
 現在は、三層の城として1956年に再建され、1997年に改修されたものがあり、観光名所となっています。ロープウェイもつけられ、登りやすくなっています。頂上からの眺めはすばらしく、夜には城がライトアップされ幻想的な雰囲気をかもし出しています。私が登ったときは、早朝でまだロープウェイが営業していない時間帯でしたので、歩いて登り下りしました。
 私が、岐阜城に登っていて気になったのは、金華山をつくっている石です。登山道のいたるところで、非常に特徴的な石を見ることができます。この石は、10cm前後の厚さの板状で、何枚の板が重なって地層となっています。さらに、この地層全体が激しく曲がりくねっています。
 この石はチャートと呼ばれるものです。金華山全体が、チャートを主とする地層からできています。金華山のチャートは、白っぽい色をしています。
 チャートという石は、海に生きていた放散虫などのプランクトンなどが死んで、海底でたまったものが固まって地層となりました。放散虫は珪酸でできた殻を持っていたので、死んだ後、体の有機物は分解されてしまうのですが、殻が残って地層となっていきます。一つ一つは小さな殻なので、チャートのような地層が溜まるには、長い時間が必要になります。
 チャートは、ほとんどが珪酸からできているのですが、少し不純物が入っています。その不純物によってチャートには色が着きます。赤っぽい色は鉄やマンガンの酸化物の色で、黒っぽい色は硫化物や炭化物などの色です。緑のこともありますが、これは少量含まれている粘土鉱物の色です。
 白っぽい色はチャート本来の色で、不純物がもともと少なかったものと、もともと色はあったものが再結晶作用と呼ばれるもので色がなくなっているものがあります。海底から陸地へ持ち上げられる時に受ける変成作用で、鉱物が再度、結晶しなおして、不純物を含まなくなることがあります。
 チャートは、非常に硬い石で、他の石に比べて地上での風化には強く、あまり削剥や侵食を受けません。地層の中にチャートがたくさん混じっているところは、チャートの部分だけが侵食に耐えて残っていきます。つまり、周りが削られて低くなっていくのに、チャートのところだけが高く残っていきます。これが、金華山や周辺の切り立った山並みが、平野に唐突に高くそびえ立っているわけです。
 金華山だけなく、濃尾平野の北側にチャートの多い地層が広がっています。チャートを多く含む地層は、地形にもはっきりと現れており、北西から南東に直線的に延びる山並みが見えます。これは、チャートの多い地層が並んで延びていることを示しています。チャートが海から陸の持ち上げられたとき、その方向に並んで持ち上げられたものです。それが侵食によって残ったのです。
 チャートを含む地層全体は美濃帯と呼ばれています。美濃帯は、チャートのような深海底でできた石だけでなく、日本列島のような沈み込み帯で形成された地層の代表的な石が見られます。石灰岩と呼ばれる海の生物の化石からできた石や、海洋地殻の切れ端も、紛れ込んでいることもあります。石灰岩は、海洋でも島の周辺にできる礁とつくる生物の化石からできています。
 地層に含まれる小さな化石の研究から、美濃帯のチャートや石灰岩は、石炭紀から三畳紀、場所によってはジュラ紀にかけて、海底に堆積したことが分かっています。その後、ジュラ紀後期から白亜紀の最初にかけて、大陸にくっついて陸の一部になりました。
 海底にたまった地層が大陸にくっつくのは、海洋プレートが沈み込むところで起こります。海洋プレートのほとんどは、マントルに沈み込んでしまいますが、海洋地殻の上に溜まった軽いチャートや石灰岩などの堆積岩は、沈み込むことができず、プレートから削り取られて、陸地に持ち上げられます。このようにしてできた部分を付加体といいます。付加体の中には海洋地殻の一部も紛れ込むこともよく起こります。
 美濃帯だけでなく、日本列島はいろいろな時代の付加体があります。そして、時間と共に付加体は付け加わっていきますので、海側にある付加体の時代が新しくなっていきます。日本列島には、つぎつぎと南側から海洋プレートが沈み込んで、付加体が形成されてきたことになります。日本列島は付加体によって骨格が形成されているのです。
 濃尾平野よりさらに奥に、郡上八幡という町があります。その町の周辺にも、美濃帯のチャートや石灰岩が出ています。付加体の古い地層の境界が、郡上八幡の付近にあります。
 私は、郡上八幡の手前の新しい方の付加体と古い付加体の両方をみました。この付近のチャートは、赤っぽいものが多くなっています。また石灰岩が、陸で地下水によって溶けてできた鍾乳洞もありました。川原には、石灰岩や海洋底をつくっていた玄武岩など、多くの海でできた石が転がっていました。そんな石ころを見ながら、古き海洋の姿を思い浮かべました。

・鵜飼の長良川・
夏の夜の金華山付近は、なかなか情緒のあるところです。
夜になると鵜飼が行われ、
それを見るために屋形船が長良川を往来します。
鵜匠の船べりを叩く音、鵜の鳴き声、松明の燃える音、
日本の古くからある夏の光景には、
心和ませるものがあります。
背景に見える金華山の岐阜城はライトアップされ、
夕闇から夜の帳へと変わる空に、
くっきりと浮かび上がります。
なかなか幻想的な光景です。
ただし屋形船の大音響の音楽には興ざめしますが。

・長良川・
郡上八幡を訪れたのは、残念ながら、12月の寒い雨の日でした。
日程がないので、雨の中なかを、
川原に降りて、調査をしました。
長良川は、ダムがなく、雨が降れば、増水します。
ですから、川の増水に気をつけながらの調査でした。
岐阜の方にいたときも、前日に雨が降ったあとは、
長良川の水かさは、堤防近くまで増えていました。
私が泊まった旅館は、増水で水が堤防を越えると、
一階の駐車場は水につかりますが、
2階以上は、柵をして水がこない対策をしています。
そんな柵を本当に使うことがあるのかと思っていたら、
昨年の台風の時には、使ったようです。
自然の川の流れには、川原を更新する作用があり、
川原の石がきれいになります。
しかし、ダムのない川は、災害と隣り合わせでもあります。
濃尾平野の人たちは、川と戦ってきました。
長良川の流域の人は、災害に苦しみながらも
自然のままの長良川を守っているのです。