2006年12月15日金曜日

24 サロベツ原野:時間以上になくしたもの 2006.12.15

 湿原は、人が利用しづらい環境です。利用するために、いろいろ手を入れなければなりません。まして、北海道の北方の湿原ではなおさら困難です。そんな条件が、厳しくも美しい自然を、今に残すこととなったのです。

 私は、サロベツ原野には2度行っています。一度目は30年近く前の大学生の頃です。6月初旬の花盛り頃にいきました。学生時代はお金がなったので、札幌から半日かけて鈍行列車で最寄の駅までいき、無人の駅舎で野宿をし、翌日徒歩でサロベツ原野に向かいました。徒歩のために、サロベツ原野の大きさや自然を身を持って感じました。2度目は、2004年の春に、海岸沿いを自家用車で走りぬけました。何箇所か止まりましたが、その止まったところだけが、サロベツ原野の点として、記憶に残ります。
 若い頃は、口では「忙しい」といいながら、暇を見ては旅行に出かけました。今思い起こすと、よく旅に出てたものだと思います。授業をだいぶサボったのでしょう。それに、夏休みの冬休みのたくさんの時間がありました。それに今と比べれば、時間と体力はずっとあったので、強行軍で肉体的な旅行もできたのでしょう。もちろんお金はなかったので、安上がりに旅することが最優先すべきことでした。お金を節約するために、野宿やヒッチハイクをしながら旅行したものです。その頃は、目的地にたどり着くために、まさに旅行をしていたような気がします。
 仕事に就き家族ができると、今度は時間に追われる生活となりました。金銭的に余裕があるのに、本当に「忙しく」て、自由に旅行ができなくなってしまったのです。最近の私の旅行は、目的地にいかに早くたどり着くか、そしていかに少ない時間で目的を遂げるか、というものになってきました。旅行とは、プロセスではなく、目的を満たすために時間と有効に使って行って帰ってくるのが最優先すべきこととなりました。それでも、今の私とっては、大切な旅行なのです。
 道北の一級河川である天塩川は、天塩町で日本海に注ぎます。天塩川の河口近くで合流するサロベツ川は、天塩川の北側に広い湿原となった氾濫原をもちます。これが、サロベツ原野です。サロベツ原野は、東西5~8km、南北27kmの大きさを持ちます。東と西に丘陵が境となっています。
 サロベツ原野の東側は、大曲断層の西に鮮新世の勇知(ゆうち)層と更新世の更別(さらべつ)層からなる丘陵があります。これらの地層は、海から内湾そして潟へと環境が変わりながらできたものです。現在のサロベツ原野は、かつて海が入り込んでいたことが地層からわかります。やがて、海から潟、そして淡水のサロベツ川の氾濫源となり、湿原へと変化していきます。
 サロベツ原野の西側は、直接海になるではなく、砂丘があり、そこが湿原の境界となります。天塩から稚咲内(わっかさかない)の海岸は、日本海に沿って、まっすぐな海岸線となっています。海岸線に沿って南北に伸びる砂丘(完新世)が、何列かあります。砂丘の延長は35km、最大幅は2kmに達します。その砂丘群が、サロベツ原野の西端にあたります。砂丘と砂丘の間には、湿地や沼地が点在しています。一番奥まった砂丘との間にも、湿原があり、小さな沼があります。その砂丘を東に越えると、サロベツ川の湿原となります。湿原には、南から、パンケ沼、ペンケ沼、そしてサロベツ原野の一番北側には兜沼などがあります。
 サロベツ原野が盆地状の地形になったのは、第三紀から第四紀にかけです。河川の堆積物の流入によって、堆積盆地は埋まっていきますが、盆地が沈降していたので、厚い堆積物が溜まることになります。ウルム氷期の海退の後、間氷期で暖かくなり、海水面が上昇し、海水の進入(海進)します。この頃(約1.2万年前)から今のような湿原となったことがわかります。7000~6000年前には海進が最大になり、大きな潟湖ができました。やがて、堆積物の堆積と海退によって、陸地化し、泥炭層の形成され、現在のサロベツ原野になったと考えられています。
 サロベツ原野の湿原には、泥炭層が分布します。そのため泥炭地固有の植生が形成されています。水鳥たちも多数見られ、繁殖地や渡りの中継地となっています。湿原は開発に手間と費用がかかるため、自然状態のままあまり開発されれことがありませんでした。そのために本来の自然がよく保存されています。1974年9月20日に、利尻礼文サロベツ国立公園に指定されました。また、2005年11月には、サロベツ原野がラムサール条約に登録されています。
 最初のサロベツ原野への旅行は、友人と2人でいきました。夕方駅にたどりつき、夕日を見に山の展望台まで歩いて登って時間をつぶしました。早い時間に最終電車が出た後、駅舎でラーメンつくり、焼酎を飲んで、ベンチで寝袋に包まって寝ました。翌日早朝、パンをほおばり、サロベツ湿原に向かって歩いていきました。初夏とはいえ、朝霧の中を歩く長い道のりは寒く、友人との会話も言葉少なくなってきました。そんな頃、ある牧場の前を通りかかると、一仕事終えたようで、その家の方から話しかけられました。立ち話をしていると、これから朝食だから、たいしたものはないが、食べて暖まっていきなさいといわれました。軽く朝食済ませていたのですが、暖かさに惹かれて言葉に甘えることにしました。かじかんでいた体には、ストーブの炊かれた暖かい部屋はありがたいものでした。出していたただいたのは、大き目に切ったバターをのせた白いご飯に、どんぶり一杯の味噌汁であった。当時の北海道では一般的に朝ご飯でした。大学の寮の朝食も似たようなものでした。そして絞りたての暖められた牛乳。どれもが、かじかんだ体を溶してしまいそうな暖かさでした。こんな過酷な自然の中で生き物を相手に生計を立ておられる方が、見知らない自分たちに親切にしてくさいました。その親切が、なによりも暖かく思えました。朝食頂いたあと別れを告げ、霧が薄らいだ湿原の中を、私たちはまた歩き出しました。
 私たちは、当時の若者としては当たり前の旅行の仕方でした。その時間をかけて歩くという旅行をしたおかげで、こんな人の暖かさに触れる出会いがあったのです。その記憶は、何十年たった今でも、暖かいものとして忘れることなく、思い出されます。もしかすると、旅行の本当の醍醐味とは、こんな人との触れ合いなのではないでしょうか。
 若いとき、お金がなく時間だけが自由に使えた時代は、じっくり時間かけて歩くことで、その地の人たちと同じ目線で、その地の自然に肌で触れることができました。そして時には、人とのふれあいが生まれます。これは、何事にも変えがたい経験、そして思い出となります。
 今は、お金があるのに、時間がありません。するとどうしても、目的地まで速くて便利な移動手段を利用します。北海道では車を使えば、目的地まで速く楽に行けるようになりました。その代わり、人の暖かさに触れる機会もなくしたように思えます。仕事や家庭を持つようになって、時間なくなり、旅行も目的を満たすため、お金をかけるるようになりました。どうも私は、時間以上に旅行するという本質を見失ってしまったのかましません。

・湿原の回復・
サロベツとは、アイヌ語の「サル・オ・ペツ」から由来しています。
葦原を流れる川という意味です。
葦とは、低層湿原に群生している植物で、
まさににサロベツ湿原を表しています。
北海道には、釧路湿原がありますが、
サロベツ湿原北海道の最北端に広がる2万3000haにもなる湿原です。
広大な泥炭地は、酪農には不向きですが、
各地で大規模な農地開発が行われ、
泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットなどで
湿原の水位が次第に低下しました。
しかし、これは、自然を変えることにつながりました。
国立公園内でも、泥炭地の乾燥化が起こり、西側にはササが侵入してきました。
公園の自然を復元するために1983年から
環境庁はサロベツ湿原保全事業をはじめれています。
さまざまな調査研究を通じて、湿原の回復を目指しています。

・記憶のサロベツ・
ここで述べた記憶は、だいぶ昔ことです。
しかし当時の写真をみると、当時の様子を、断片的ですが、
鮮明に思い出してしまいます。
石炭ストーブ匂い、夏だというの寒い駅舎。
暖かいタマネギとジャガイモの味噌汁、
駅舎で食べたインスタントラーメンの味。
バターの塩味、朝食の食パンにマヨネーズをかけて食べた味。
節くれだった牧夫の指、長髪でなまっちょろい自分。
貧しくても心豊かな人々、野望でぎろぎろした目の自分。
湿原の厳しさに耐えて咲く花々、寮の5人部屋の雑然さ。
すべてが過去のことです。
過去の記憶ですから、美化されているかもしれません。
しかし、そんな時代を生きてきた人、
そしてその人と関わった自分が記憶の中にはいます。
私の記憶のサロベツの湿原と数十年後車から眺めた湿原は、
同じようでもあり、違っているようにも見えました。
豊富、手塩中川、羽幌、近くには何度かいってますが、
サロベツ原野は、ここで紹介した2回だけしか訪れていません。
でも、今も30年前のサロベツ原野が私の記憶に生き続けています。

2006年11月15日水曜日

23 木津川:剛より柔を 2006.11.15

 自然に対して人間は、剛で接しているように思います。しかし、私の故郷にある流れ橋から、柔の接し方があること教えてくれます。そんな私の思い出の川と橋の話です。

 このメールマガジンの読者の方々は、故郷から離れて暮らしておられるのでしょうか。私は、19歳で故郷を出てから、日本各地を点々して、今では北海道に居を構えています。私の故郷は、京都府城陽市というところですが、そこには、今も母や弟そして親戚が住んでいます。北海道に住むようになってから、なかなか帰省することができなくなりました。
 自宅を出て大学生として、ひとりで暮らしているころは、帰省すると京都や奈良など、今では観光地となっている歴史を持つ神社仏閣などの名跡をいろいろめぐっていました。その理由は、学生で時間があったこともさることながら、故郷をめぐる私の心情の変化があったためです。
 私は京都で生まれ育ったのですが、その風土、風習が住んでいるときはあまり好きなれなかったのです。遠くの大学を選んだのも、故郷の呪縛から逃れたいということも、理由の一部となっていました。ところが故郷を離れて、自分の生まれ育った風土を冷静に見ることができ、嫌なことばかりではなく、いいところもたくさんあることが分かってきました。そのいいこと探しの最初として、故郷の歴史に注目したのでした。
 ところが、仕事を持ち、家族ができてからは、私も忙しくなってきたので、なかなか時間がとれず、帰省しても親戚や知り合いに会って、出歩くことはなく、急いで帰ることが常となりました。最近、故郷の山野を見たいという気持ちがでてきました。それは、北海道の自然と私の故郷の自然の違いによるためだという気がします。
 北海道の自然は、科学を志した後に接したもので、科学を通じて身近になってきたものです。そして現在は、その自然の中に暮らしています。北海道の自然を見るとき、ついつい自分の故郷の自然と比べている自分によく気づきます。故郷で子供時代を過ごし、故郷の自然が私にとって自然の原点となっています。
 ところが、その故郷の自然は、子供頃から高校までの30年以上も前の記憶だけなのです。記憶の中の自然は、現実離れしているような気もするし、まだどこかにそのような自然が残されている気もします。現在の故郷の自然を直接感じたいという気がしています。原点が故郷の自然あるのに、長らく接していないという焦燥感の現われかもしれません。
 私の故郷には、木津川という大きな川がありました。木津川の流域付近は農耕地が広がっていてました。現在は調整区域を除くと、宅地化が進んでいて、農耕地も私が育った頃と比べるとだいぶ減りました。
 私が小学校低学年くらいの頃には、木津川で夏にだけオープンする水泳場があり、近鉄も臨時の駅ができ停車しました。両親に連れられて、そこで泳いだこと、水が冷たかったこと、昼食のカレーライスなどを覚えています。小学校の頃になると、自転車で木津川に遊びいきました。親戚いとこが木津川の堤防の脇に住んでいましたので、流れ橋付近ではよく遊びました。思えばこの頃の木津川が、私の川の原風景として、今も残されているようです。
 流れ橋は、現在もあり、テレビと時々見かけるので、木津川はあまり変わりはないなと知ることができます。なぜテレビで見かけるかというと、時代劇の撮影場所として、流れ橋がよく利用されているからです。時代劇に大きな川と長い木橋は、大抵この流れ橋が使われています。京都の大覚寺と並んで時代劇のロケ地として有名です。
 さてこの流れ橋ですが、川と人との付き合い方の一つの象徴ともいうべきものだと、昔も今も感じています。
 木津川は、淀川の支流のひとつです。琵琶湖周辺の山々から集まった水が、琵琶湖になり、琵琶湖から瀬田川を経て宇治川になり、桂川と木津川が合流したとこから、淀川と呼ばれます。日本の河川と特徴として、急流であることがあげられますが、淀川はさらに特殊な状況があります。
 琵琶湖の湖面の標高は84mありますが、宇治の平等院あたりで平野部に入りますが、標高は15mまで下がります。宇治川には、琵琶湖があり、平野部になる直前に天瀬ダムという大きなダムがあり、洪水を防いでいます。ところが、木津川には山奥の標高150mあたりにダムがありますが、そのより下流にはダムがありません。大雨が降ると、山地からの雨水は一気に木津川に流れ込むことになります。
 淀川となって京都盆地を抜けるところに、天王山があります。天王山は枚方になり、南北から山地が狭まっていることろです。その天王山を抜けると、生駒山地の西側に広がる河内平野へとでます。河内平野は、縄文海進があった7000年前頃には、海が入り込み、河内湾となっていました。その後、海退と河川からの土砂の流入で埋まり、1600年前の弥生時代には河内湖となり、やがて湿地から平野へと変化してきました。
 宇治川と木津川の間には、巨椋池(おぐらいけ)がありました。巨椋池は、周囲16km、面積7.94平方kmほどありましたが、水深は浅く90~120cmくらいしかなく、湿原のようなものでした。そして、地形から分かるように、しょっちゅう氾濫する地域であり、長らく湿地のままにされていました。
 淀川の本流である宇治川の明治時代に治水が進み、巨椋池には宇治川からの水の流入が減ってきました。そのため、藻が多くなり、水質が悪化し、漁獲量が減少し、またマラリアも発生し、米不足による食料増産が求められていました。
 そのような社会情勢から、1931(昭和6)年に干拓事業が承認され、1933年着工、1941年に完成しました。その時、多くの韓国朝鮮人労働者が強制的に動員されました。今でも付近には在日コリアンがたくさん住んでいます。私が子供の頃にも在日コリアンの家族が近所におられ、一緒に遊んだ記憶があります。
 淀川流域には、京都や大阪の市街地が平野部にあります。ですから、治水には古くから取り組まれてきました。しかし、約30年の間に10回もの大出水を記録するなど、つねに洪水の危険にさらされてきました。1953年の台風13号では淀川水系に大洪水をもたらし、最近では1972(昭和47)年の台風20号で、私の町でも洪水がありました。現在では、木津川と宇治川の合流からの下流域では、スーパー堤防をつくり、洪水から町を守ろうときう事業が進められています。
 さて、流れ橋です。流れ橋は、八幡の石清水八幡宮に参拝する人たちや地域の住民のために渡し舟があったのですが、1953(昭和28)年に橋がかけられました。延長356.5m、幅3.3mの木造橋です。戦後のことなので予算がなく、安くするために、木で流れ橋がつくらました。木津川は洪水が頻繁にあり、木の橋では、洪水なるたびに、すぐに流されてしまいます。そこで考案されたのが、流れ橋でした。
 流れ橋とは、橋が流れるということですが、この橋はもともと、川が氾濫したときに流れてもいいように設計されています。どういうことかといいますと、橋が洪水で流されるのは、次のような状況があるためです。
 橋脚は、川の流れと平行になり、水流によってもそれほどの抵抗は受けません。ところが、橋板まで水位が上がると、流れに対して抵抗が強くなり、流木などが絡まると、さらに抵抗を増し、やがては壊れてしまいます。
 流れ橋は、橋脚も橋板も木で出ています。そして、橋板は、ワイヤで結ばれていますが、橋脚の上に載せられいるだけです。橋板は幅20cmほどの板が、全長を8分割されてワイヤで連結され、そのワイヤの端はそれぞれ橋脚につながれています。なぜこのような安易が構造なのかというと、流れうるのが前提として作られているためです。
 洪水が橋板までくると、木の橋板は水にい浮きます。そして流れていきます。しかし、ワイヤでつながれ、その端が橋脚につながれていますから、洪水の中を橋板が浮いているわけです。このような構造で、橋板も流出することなく、回収可能となっています。
 流れ橋は、平成になってからも6回以上流されていますが、そのたびごとに、復旧されています。流れ橋は、苦肉の策だったのかもしれませんが、智恵が絞られています。そして、柔よく剛を制すということわざがぴったりかもしれません。西洋風のコンクリートの「剛」で自然に抵抗する方法と、まったく違った方向性をもっています。それも、地域の川の性質をよく知った上での対処です。自然の力に対して、「剛」ではなく、「柔」という対処があることを教えて組くれます。
 私の少年時代の木津川は、高度成長期には、川砂利の採取が盛んになりました。採取跡には深い水溜りが各所にでき、そこで水難事故がありました。そのために、学校から、木津川では遊ばないようにいわれ、かわりに近所の小川や山が、私の遊び場となりました。
 それ以降、私の木津川の記憶の糸がそこで切れています。もちろん、電車や車から木津川を眺めることありましたが、自然を感じることができません。新たな記憶を取り戻すために、木津川にいってみたいものです。そして柔の橋、流れ橋を渡ってみたいものです。

・子供と川・
私の子供たちは、神奈川で生まれているのですが、
その地の記憶は、ほとんどのないようです。
彼らの自然の原点は、北海道の自然になるでしょう。
彼らの川の原点は、どんな川になるのでしょうか。
私は自然の川に接してあげたいと、思っているのですが、
大きな川への立ち入りが難しく、
自然の川原がなかなかみつかりません。
近くになる石狩川で、自然の川原のあるところへは
長年探してきたのですが、まったく近づけません。
せっかく近く石狩川があるのに、
コンクリートの川原しか子供たちは知りません。
そんな川しか知らない息子たちは、大きくなったとき、
川とはどのようなものだと思うでしょうか。
川遊びなど知らない子供にはしたくないと、
せっせと自然の川原を探しては出かけています。
多くの川では、剛の管理がされています。
しかし、子供と川とは、柔での接し方があっていいのではないでしょうか。

・母・
母は、今、畑に精を出しています。
もともと我が家は農家なのですが、
祖父が主に農業をしていました。
そして両親は自宅で下請けの仕事をしていました。
しかし、父が死んでから、母は隠居だといって、なぜか農業を始めました。
それが、今では、まさに生きがいとなっています。
年々その意気は上がり、冬場でないと、長い休みは取れないようです。
私たち家族が北海道に来たばかりのころは、
呼べばいつでもきていました。
そして1週間から10日ほど滞在してました。
ところが、最近では、畑が忙しい春から秋にかけては、
1週間も明けられないといって、来なくなりました。
ですから、最近では、一番暇になる、
年の暮れに来て、1月1日に帰ります。
今年もそのスケジュールです。
我が家で、簡素の正月して、飛行場へ送っていきます。
そして故郷で、弟夫婦となど親戚が来る正月をしています。
母が来たら、温泉を毎日のように、行くことにしています。
こんな関係が長く続くことを願っています。

2006年10月15日日曜日

22 根室半島:昔の火山列がつく半島 2006.10.15

 納沙布(ノッサプ)岬は、北方四島を望む北海道の東端にあります。その納沙布岬を有する根室半島の起源をみていきましょう。

 北海道はいくつかの半島があります。半島の先端には岬があります。岬にはそれぞれの個性があります。その個性は、気象や天候などの日々変わるものから、大地自身の起源に端を発するものもあります。
 北海道の最東端は、根室半島の納沙布(のさっぷ)岬です。納沙布岬は、北方四島返還の最前線として、「北方館」や「平和の塔」などがあり、強い個性を持っています。
 道東は霧がよく出るところです。私は、今年のゴールデンウィークに出かけましたが、天気が悪く小雨と霧の寒い日でした。これが道東の天気だというかのような日でした。私には納沙布岬は「霧の岬」という印象があります。
 知床半島は世界遺産に選ばれたことから、現在も多くの観光客を集めています。納沙布岬も有名な観光地ですから、ゴールデンウィークで多くの観光客がいるかと思いきや、予想外に少なく、驚きました。道東の知床以外の観光地も、さびしく感じたの気のせいでしょうか。
 納沙布岬に以前にも訪れていますが、そのときは晩秋の、風の強い寒い日でした。ですから、私の納沙布岬の印象は、残念ながら、冷たく暗いものです。しかし、土産屋の中ではストーブが炊かれ、そこですするラーメンの暖かさは、一層おいしく感じました。
 さて、納沙布岬あるいは根室半島は、なぜ出っ張っているのでしょうか。こんな素朴な疑問を探ることが、大地の生い立ちを教えてくれます。大地をつくっている石をみれば、その答えが分かります。
 先ほども述べましたが知床半島にはたくさんの活火山があります。ですから、知床半島は、現在活動中の火山列が半島をつくっているわけです。ところが、根室半島には活火山はありません。しかし、根室半島には、マグマの活動でできた火成岩がたくさんあります。そのマグマは海底で堆積していた地層の中や海底で活動しました。マグマの活動は現在は終わっています。つまり、根室半島は、昔の火山列だったのです。
 マグマの活動時代は、地層の中から見つかる化石や放射性元素の年代測定から知ることができます。マグマの活動時期は、白亜紀後期だと考えられています。溜まっていた地層は、白亜紀後期から古第三紀に形成された根室層群と呼ばれるものです。根室層群の堆積初期の地層の中に、マグマが上昇してきました。
 マグマが海底まで噴出すると、海水にふれて急激に冷却されます。しかし、後からもまだマグマが続いて上がってきます。すると固まった表面を破ってマグマが海水中に噴出します。ねり歯磨きを押し出したようにマグマが出てきます。マグマは、やはり海水に触れて急冷されすぐに固まります。繰り返し起きます。その結果、枕を並べたようなマグマの積み重なりができていきます。このような状態の岩石を、枕状溶岩と呼びます。
 枕状溶岩の断面がみえるところでは、自転車のスポークのように放射状の割れ目が形成されています。納沙布岬の少し東南東の花咲では、直径1mから3mほどの枕状溶岩がたくさん海岸に出ています。大きなものでは、7.5mにも達します。花咲では、枕状溶岩が特に目立つので、車石と呼ばれて、天然記念物になっています。このような枕状溶岩が根室半島のいたるところにあります。
 マグマが海底に噴出せずに、地層の間に分け入ることもあります。貫入と呼びます。地層中に貫入したマグマは、地層の触れた部分はすぐに冷えますが、中のマグマは急激に冷えることはなく、ゆっくりと冷えてきます。すると大きな結晶へと成長する岩石ができます。根室半島の貫入岩には、厚さ150mもあるものが見つかっています。
 マグマがゆっくり冷えると、結晶ができて成長していきます。結晶はマグマとの密度の差によって浮いたり沈んだりします。結晶の移動に伴ってマグマの組成が変化していきます。すると新たな組成のマグマになり、違った性質の結晶が出てきます。冷えながらマグマが成分を変化させ、溜まった結晶が岩石として、層状に重なっていきます。最終的には、層状の貫入岩となっていきます。このような火成岩を、層状分化岩体と呼んでいます。
 結晶の違いや、岩石の化学成分の違いによって、層状分化岩体にはいろいろな岩石が形成されます。急激に冷えた上下の部分は、貫入してきたマグマがそのまま急に冷えた玄武岩になり、内部には重力の影響で、下から上に向かって黒っぽい岩石から白っぽい岩石(アルカリドレライトからモンゾニ岩、閃長岩)へと変化していきます。
 本来であれば、このような層状貫入岩体は地下深部にしかありません。しかし、根室半島では、マグマが深部でどのようにして変化し、多様な岩石が形成されるかが、地表で見ることとができるのです。非常に面白い岩石です。層状分化岩体は、根室半島では8ヶ所知られています。また、層状分化岩体は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続していることが知られています。
 知床半島の火山活動と根室半島の火山活動は、時代の違いと、陸上か海中かの環境の違いだけではありません。他にも、マグマの性質が違っています。
 知床半島の火山は、日本列島でみられる典型的なマグマ(カルクアルカリ・マグマと呼ばれています)の活動でできています。しかし、根室半島のマグマは、アルカリ玄武岩と呼ばれているものです。少々変わったマグマです。海洋の真ん中にある海山や海洋島を形成するマグマに見られるタイプです。それが、陸の堆積物がたくさん流れ込んでくるような場で、活動しているのです。
 古い時代の地層とマグマからできた火成岩が、根室半島から千島四島まで延びる火山列をつくったのです。そんな過去の列島が、現在も残されているのです。
 根室半島を構成しているアルカリ玄武岩という不思議なマグマの成因は、まだ完全には解明されていません。このようなアルカリ玄武岩マグマの活動は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続しています。マグマの活動には、もちろん国境などないのです。

・納沙布岬・
私は7年ほど前の秋にも納沙布岬を訪れました。
そのときも寒く霧が出ていました。
いずれも冷たく、暗い天気だったので、
どうしても納沙布岬は暗い印象が残っています。
天気いい日に行けば、印象は違ったのでしょうが、
根室半島は冷たく、霧のかかったところの印象が強かったです。
層状分化岩体とじっくり見たかったのですが、
天気に恵まれず、海岸も一箇所しか降りれなくって、
十分な調査ができませんでした。
また別の機会としましょうか。

・紅葉・
北海道は、日本ハムファイターズのリーグ優勝に沸いています。
野球の話題で盛り上がっています。
我が家では、次男が野球のルールも分からないのに、
ファイターズの応援をしています。
でも、熱いのは北海道の野球周辺だけで、
北海道はここ数日で一気に寒くなってきました。
冬の訪れを感じさせる日ですが、
我が家も朝夕は暖房も炊くようになりました。
コートも着て、手袋もつけました。
ただ心残りは、北海道らしい紅葉をまだ見てないことです。
紅葉越しに見る突き抜けた青空は格別です。
できれば、雪が降る前に紅葉を見ておきたいものです。

2006年9月15日金曜日

21 足摺岬:岬の先端に不思議な石がある 2006.09.15

 昨年秋に足摺岬に調査に行きました。変わった石が出るのですが、その起源はまだ謎のままなのです。

 四国は、長方形のそれぞれの角が、南北にでっぱったような形をしています。南西側のでっぱりが、足摺岬になり、南東側が室戸岬です。私は、足摺岬には2度行ったことがあります。しかし、残念ながら室戸岬にはいったことがありません。一度目の足摺岬は30年近く前の春であまり記憶にありません。2度目は1年前の9月でした。いずれも急ぎ足での見学となりました。
 足摺岬を訪れたのは、観光ではありません。地質学的に面白い石が見られるからです。
 足摺岬と室戸岬にある石は、花崗岩や斑れい岩と呼ばれるものです。花崗岩や斑れい岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。花崗岩と斑れい岩の違いは、マグマの性質の違いにより、花崗岩は白っぽい岩石で斑れい岩は黒っぽい岩石です。室戸岬は斑れい岩を主としています。足摺岬は花崗岩と斑れい岩が混在してあります。
 花崗岩や斑れい岩は、特別な岩石ではなく、どこにでもある、ありふれた岩石です。しかし、ある場所が問題なのです。足摺岬や室戸岬では、南過ぎるのです。その理由を説明しましょう。
 現在の日本列島でマグマが活動しているのは、火山フロント(前線)と呼ばれるところです。東日本では、北海道千島列島から知床半島、大雪から、道南の渡島半島、下北半島、奥羽山地、関東山地、富士山、伊豆半島、伊豆諸島から小笠原諸島へと続く東日本火山列があります。一方西日本では、大山などの中国地方の日本海側の火山から、九州の九重、阿蘇、霧島、桜島からトカラ列島に続く西日本火山帯があります。
 この火山帯では、マグマの活動が盛んです。火山だけでなく、地下にはマグマがゆっくりと冷え固まった深成岩も形成されているはずです。このような深成岩が見えるようになるためには、長い時間かかって風化侵食を受けてた地下深部の岩石が見えるようにならなければなりません。
 これらの火山列は、東日本では、太平洋プレートの沈み込みによって形成されています。西日本では、フィリピン海プレートの沈み込みによるものです。
 沈み込みによるマグマの形成とは、沈み込んだ海洋プレートからしぼりだされた水分が、列島の下のマントルに供給されてできます。水分がしぼりだされる深さが、プレートの沈み込む状態で決まっています。それに対応して火山のできる位置も海溝(西日本ではトラフと呼ばれます)からある一定の距離が離れたところに決まってきます。ですから、火山フロントより海側では、マグマの活動が起こることはありません。
 ところが、足摺岬にはマグマの活動でできた花崗岩があります。不思議です。
 もちろん、この花崗岩は最近活動したマグマによるものではなく、1400万年前ころ(新生代中新世中期)に活動したものです。そのころ、足摺岬のあたりに火山フロントがあったのでしょうか。どうもそうではなさそうです。
 日本は、もともと大陸のふちにあり、常に海洋プレートの沈み込みに伴う堆積物(付加体と呼ばれています)が集積をしているところでした。ところが、中新世には、大陸の縁から日本海が開き始めて、列島となっていく時期にあたっています。付加体の位置ではあるのですが、日本海の拡大に伴って、日本列島が海側に押し出される時期になります。
 さらに、この中新世には、フィリピン海プレートの一部である四国海盆が沈みこんでいく時期に当たっています。四国海盆は海嶺をもっているできたての小さい海洋地殻(縁海と呼ばれています)であったと考えられています。この四国海盆は中新世(前期から中期にかけて)に海底が拡大してすぐに、西日本に沈み込んでいきました。
 西日本を広く見ると、1400万年前頃に起こったマグマ活動の痕跡が、フロントより海側のいたるところにみられます。紀伊半島の潮岬、熊野地域、四国の室戸岬に足摺岬、沖ノ島、少し海から離れますが高月山、九州でも大崩山、屋久島などに、火山岩や深成岩がまとまって分布しています。
 中新世の頃の西日本が普通の列島と違う点は、沈み込む海洋プレートができたての若くて暖かいものだったことです。このような地質学的特異な状況では、どのようなマグマのでき方をし、どのようなマグマの性質になるでしょうか。
 マグマの性質には、いろいろなものがあることがわかっています。そのようないろいろなマグマを作るには、いろいろ材料物質やいろいろな融けるメカニズムが必要になります。それにはいろいろな起源がり、その起源に関する説もいろいろあり、また研究中のテーマとなっています。
 一つは、海嶺の活動していたマグマが、そのまま付加体の中に噴出したものがあります。室戸岬や潮岬の玄武岩類がこれに相当します。
 海嶺から離れた活動ですが、海洋でのマグマの活動(オフ・リッジ火山活動と呼ばれています)によってできたものがあります。それは、紀伊半島の高草山など見つかっている玄武岩です。
 沈み込む海洋地殻が融けて(スラブ・メルティングと呼ばれています)できたマグマがあります。このような仕組みでできた岩石は、紀伊半島から四国東部の瀬戸内地方にある火山岩(瀬戸内火山岩と呼ばれています)です。ただしこれには異説があり、沈み込む海洋プレートの上に溜まっている堆積物が融けてできる可能性も指摘されています。
 また、四国海盆の海嶺できたいマグマが、付加体を融かしてできた大量の花崗岩マグマもあります。熊野地域に広がる大量の花崗岩質マグマによる火成岩類が、その典型だと考えられています。
 では、足摺岬の火成岩は、どのようにしてできたのでしょうか。本当のところは、まだ定説がありません。とにかく足摺岬の岩石は変わっています。
 足摺岬には、アルカリ花崗岩、閃長岩などカリ長石に富む花崗岩類があります。この花崗岩の中に、日本では非常に珍しいものがあるのです。
 アルカリ長石(淡いピン色に見える鉱物)が斜長石(白い鉱物)によって取り囲まれているものです。長石が丸み(ピタライトと呼ばれます)を持っています。このような花崗岩は、珍しいもので、ラパキビ花崗岩と呼ばれています。石材として日本ではよく見かけますが、13~17億年前に形成された大陸地域の岩石にラパキビ花崗岩があります。ラパキビ花崗岩は、日本では足摺岬にしかありません。本家のラパキビ花崗岩の起源も、よくわかっていません。
 足摺岬の道は、風化した花崗岩がつくるのっぺりとした地形の道でした。岬へ向かう道は尾根にあるのに、どことなく山奥の尾根道のように感じました。これは、花崗岩は、日本では列島の古い岩石のある脊梁山脈地帯によくみられる岩石だからでしょうか。花崗岩が風化すると、のっぺりとして、ところどこの丸みのある花崗岩が残されたような地形となります。足摺岬では、唐人駄馬巨石群と呼ばれるところがあります。そこは、風化で残された花崗岩がつくる景観です。そんな地形が岬に向かう尾根で見れるのです。
 そんなことをつらつらと考えながら、観光はせずに急いで帰途に着きました。

・ラパキビ花崗岩・
ラパキビ花崗岩は、スカンジナビア半島、ロシア、北アメリカなどの
大陸地域に広く分布する岩石です。
赤っぽい石材として日本各地で見ることができます。
ラパキビ花崗岩は、13~17億年前という非常に古い時代に形成されたものです。
足摺岬花崗岩類のように1400万年前ほどの若いものは非常に珍しいものです。
足摺岬の岩石だけでなく、
西日本の火山フロントより海側の火成岩類は
まとめてその成因が解明されつつあります。
ですから、本家のラパキビ花崗岩の起源も
日本で明らかにされるかもしれません。
ちなみにラパキビとは、フィンランド語です。
ラパは「もろくて崩れやすい」、キビは「石」という意味です。
地質学のラパキビ花崗岩の特徴より、
花崗岩そのものの性質をあわしている言葉です。

・ジレンマ・
足摺岬は、室戸岬と共に、台風情報を聞くときによく耳にする地名です。
観光地でもあるのですが、観光目的でない人間にとっては、
なかなか足を伸ばしにくいところです。
遠方からの訪問者にとっては、ついつい急ぎ足にみてしまうものです。
私は急ぎ足の旅行は苦手です。
年のせいか、疲れやすくなったもの理由の一つです。
興味あるところとだと、もう一度行きたくなります。
ですから、2度手間となることがよくあるからです。
できるだけじっくりとと思っているのですが、
なかなかそうもできなくなりました。
金銭的問題より、時間的問題です。
若いときは、体力も時間もあったのですが、お金がなくて、困っていました。
今では体力と時間がありません。
ですから、体力のいるところは、できるだけ早めに見ておきたいものです。
でも、それをする時間がままならないのです。
ジレンマですね。

2006年8月15日火曜日

20 アポイ岳:マントル散策 2006.08.15

 日高山脈の南西のはずれに、アポイ岳はあります。1000mに満たない山なのですが、植生や眺望からは高山です。そんなアポイ岳から眺めた景観を紹介しましょう。

 アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところあります。2006年8月3日にアポイ岳に登りました。でも、頂上へは行きませんでした。一番眺めのいい馬の背という7合目まで登りました。
 アポイ岳へは、30年前に登ったきりで、今回が2回目となります。周辺の沢筋にも、何度も来ているのですが、アポイ岳へは登っていませんでした。今回は、このアポイ岳への道で少々変わった地質と、その地質を象徴する自然を見ることが目的でした。
 山頂は眺めが良くなく、馬の背から頂上へと続く尾根が景色がよく見えます。ですから馬の背付近で、じっくりと景色を見ることができればと思っていました。アポイ岳周辺は、国の特別天然記念物の指定を受けているので、登山道からはずれることはできません。登山道からの観察でした。
 当日、頂上には常にガスがかかった状態で、最後まで頂上をくっきりと見ることができませんでした。しかし、頂上以外は、ガスもかかることなく、景色も少々かすみはありましたが、遠くまで眺めることができました。午前中はうす曇の状態で、暑くなく登ることできました。昼過ぎの下山途中に太陽が出てきましたが、そのとたんに暑くなり、これも低山の証拠です。私は、涼しい状態で登れたのは幸運でした。
 さて、前置きはこれくらいにして、アポイ岳の地質を紹介しましょう。
 日高山脈は、南は太平洋に突き出した襟裳岬からはじまり、北の狩勝峠まで、幅50kmで、南北に150kmほどの長さで伸びています。アポイ岳周辺は日高山脈襟裳国定公園に入っています。北部には2052mの幌尻岳やピパイロ岳(1917m)、戸蔦別岳(1959m)など2000m級の山があり、その周囲にはカールなどの氷河地形があります。
 日高山脈の地形は、全体として概観すると、東側で急傾斜で、西に緩い傾斜となっています。
 日高山脈の東側は断層による急な崖になっています。十勝側からみると、日高山脈は、平野に立ち上がって連なる急峻な山並みとして見えます。カールなどの氷河地形は主稜線の東側にはあります。日高山脈の東では、急峻な地形の山地を削りながら流れた川は、平野にでると大きな扇状地を形成します。それが十勝平野で、集まった川が十勝川です。
 一方西側では、河川は広い平野を持つことなく、海に流れ込んでいます。そして、山並みを眺めると、何段かの階段状の断層による山並みを形成しながら海に達します。東側と比べると西側は比較的傾斜が緩やかになっています。
 さて日高山脈の稜線を北から南に追いかけていくと、南端部分で稜線が乱れます。様似の幌満川あたりで西に広がったような地形になります。これは、幌満川周辺の地質が変わっているためです。アポイ岳の南側には幌満川があり、アポイ岳も幌満川流域の地質と同じです。
 アポイ岳周辺はカンラン岩という岩石からできています。カンラン岩とは、地球ではありふれた岩石ですが、地表では稀な岩石です。地球深部のマントルという非常に広大な部分を、このカンラン岩が占めています。ですから地球規模でみると、カンラン岩はありふれた岩石となります。ところが、地表付近の地殻は、マントルとは違う岩石からできています。地殻をつくる岩石は、花崗岩や玄武岩、堆積岩、そしてそれらの変成岩など多様な岩石からできています。その中にはカンラン岩はほとんど含まれていません。ですから、稀な岩石となります。
 稀であってもカンラン岩が地表に出ているところは、アポイ岳周辺でなくてもあります。もちろん日本にもあります。しかし、地表に出ているカンラン岩のほとんどは、蛇紋岩という岩石に変わってしまっています。マントルにあったときのままのカンラン岩が、地表付近で見ることができるのは、非常に珍しいものとなります。アポイ岳周辺では、カンラン岩が蛇紋岩にほとんどなることなく、マントルのあったときのまま、広く分布しています。ですから、世界的にも非常に有名なカンラン岩の産地となっています。アポイ岳周辺のカンラン岩は、「幌満カンラン岩体」と呼ばれて、世界的に有名なものとなっています。
 カンラン岩は、カンラン石という鉱物が主要構成鉱物となっています。カンラン岩には、ほとんどカンラン石からできている岩石もあります。カンラン石はオリーブ色の淡い透明感のあるきれいな鉱物です。カンラン岩には、その他にも、単斜輝石や斜方輝石、スピネルなどの鉱物が、さまざまな割合で含まれています。マントルを構成する鉱物はいずれも密度が大きく、カンラン岩は重みを感じる岩石となります。
 カンラン石は、風化すると黄色から茶色っぽい色になります。カンラン石以外の鉱物は比較的風化に強く、山の崖でカンラン岩が風化を受けると、岩石の中で鉱物のつくる模様が、そのまま風化の模様として現れます。幌満のカンラン岩では、鉱物が縞状なった層構造をもっています。このような縞状構造は、マントルの岩石の構造が、そのまま残されていることになります。
 アポイ岳の登山道沿いでもカンラン岩の層構造をみることができます。マントルの構造が風化面としてよく観察することができます。これは、マントルの中の構造を見ていることになります。アポイ岳は、地表にいながらにして、マントルの中を散策しながら観察できる貴重な場所なのです。
 ではなぜ、このような地下深部の岩石が地表に上がってきたのでしょうか。
 現在の日高山脈の西側には、もともと広い海があったと考えれています。海の両側には陸地があり、東側には大量の堆積物を供給した陸地があり、オホーツク古陸と呼ばれています。一方、西側の古陸から供給された堆積物があることもわかっています。両古陸の間にあった海は、海洋地殻を持ったれっきとした海でした。
 ところがその海は、沈み込みによってすべて消えてしまいました。その沈み込み帯が、日高山脈と平行に南北に伸びる神居古潭帯とよばれる地域です。神居古潭帯は、白亜紀頃に形成されました。一方日高山脈は、神居古潭帯の沈み込みより新しい時代(新生代)にできたもので、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がって形成されたと考えられます。
 中でも幌満カンラン岩体は、列島の地下にあったマントルがめくれ上がったものであると考えられています。この幌満周辺では、列島の地下の岩石が広く分布していることになります。アポイ岳周辺は、列島の地下深部の岩石がめくれ上がっているところを、地表にいながらにして見ることができるわけです。
 アポイ岳に登る前日、幌満川で川原の岩石を少し見ました。きれいな構造を持った岩石がたくさんありました。上流にいけば、水もきれいです。そしてなによりも、日高山脈をつくっている列島の深部の岩石を、眺めることができるのです。川原の石ころも、風化を受けますが、川で常に風化面を削り取られていますから、風化を受けていない新鮮な状態で岩石を見ることができます。
 アポイ岳ではマントルの中を歩き、幌満川では列島の地殻やマントルの標本を眺めることができました。これはもしかしたら、どんな博物館よりすごいものを見ているのではないでしょうか。そんな気がしました。

・マントル・
幌満川の下流沿いにはカンラン岩を
砕石として切り出しているところがあります。
数年前にいったときの砕石場所は、もう閉鎖され、緑化がされていました。
今では、さらに上流側が砕石がされていました。
その砕石所はカンラン岩を採掘しています。
実は、我が家の近くにある石垣がカンラン岩でできます。
50cmから1mほどもある大きな石がたくさん使われています。
これほどの風化をうけていないカンラン岩は幌満のものです。
ですから重い多数のカンラン岩を
幌満からわざわざ運んできたものでしょう。
流通等はすごいものです。
すぐ近くにマントルのかけらがあったのです。
その砕石所では、カンラン岩の加工もしており、
文鎮や花瓶などにして商品化しています。
私も文鎮をひとつ購入しました。
実は、マントルのかけらは今では、私の机にのっているのです。

・マムシ・
登山前日、ビジターセンターにいって登山道の様子を聞きました。
すると熊が出没しているという情報と、マムシの情報を聞きました。
ヒグマは北海道のどこにでもいるのですが、マムシには驚きました。
北海道では道南にしかいないと思っていたからです。
調べてみると北海道に広くいるようです。
アポイ岳周辺にもマムシがいたのです。
ビジターセンターの人が脱皮の皮を確認しているので確実です。
その場所を詳しく聞いて、注意していました。

2006年7月15日土曜日

19 桜島:益と害 2006.07.15

 火山は、日本人にとっては欠くことのできない存在で、長く付き合ってきました。火山は日本の風土として重要な要素ともなっています。そんな火山との付き合いを、桜島から考えてみました。

 鹿児島県の錦江湾(鹿児島湾ともいいます)にある桜島は、典型的な日本の活火山のひとつです。現在も噴気を上げていて、何度も噴火を繰り返しています。時には、激しい噴火も起こっています。私は、桜島の噴気を4回ほど見ました。桜島からは2度、鹿児島市内から錦江湾ごしに2度、眺めています。そんな都会から間近に眺める桜島は、火山と人の生活の関係を考えさせられます。
 桜島という名前をもっているのに、島でなく大隈半島側の垂水市で陸続きとなっています。ですから、「島」という名称がついていることに、奇異な感じを持ちます。もともと桜島は名前の通り、錦江湾に浮かぶ島だったのです。ところが1914(大正3)年の噴火によって、流れ出た溶岩によって間にあった海峡が埋められたため、陸続きとなりました。
 桜島は、単独の火山のように見えますが、姶良(あいら)カルデラ(南北17km、東西23km)の南端にできた成層火山です。カルデラは錦江湾の北半分の丸みをもった部分です。そのカルデラは巨大な火山の活動によってできたものです。その一連の火山活動の一部として、桜島の火山があります。カルデラの北側に鹿児島の市街地があるのです。
 桜島は、直径10kmほどで東西に延びた楕円形(南北12.2km、東西9.5km)をしています。最高峰は北岳(1117m)、次いで中岳(1060m)があります。いずれも火山活動によってできた山です。その他にも権現山、鍋山、引ノ平などの側火山があり、山腹や海底での火山活動も起こっています。
 現在、噴煙を出しているのは南岳(1040m)で、北岳の山腹にあります。桜島の火山活動は、3つの時期があります。北岳が2万2000年前から2000年ほど活動して最初の成層火山(古期北岳)となりました。その後しばらく活動はなく、1万1000年前から4500年前までの長い期間にわたって、北岳で活動(新期北岳)が起こりました。そして4000年前ころから南岳の活動がおこり、現在に至っています。桜島の活動によって多くの火山灰が東側の大隈半島につもっています。
 南岳の活動時期となってから、噴火の記録が人の手によって残されていくようになります。最古の記録は708(和銅元)年ですが、764(天平宝字8)年、1471(文明3)年、1779(安永8)年、1914(大正3)年、1946(昭和21)年に大規模な噴火が起こっています。現在の火山活動は、1955(昭和30)年10月からはじまった噴火が現在も継続しています。1999年や2000年などに噴火を起こし、噴出物や爆発時の空振、土石流などにより被害を出しています。現在でも、南岳山頂火口から2km以内は立ち入り禁止となっています。
 桜島は、60万人を越す人口が密集する鹿児島市の南、ほんの10kmほどのところにある非常に活発な活火山です。風向きによっては、火山灰が市内に降ることもあります。2004年には、11回の噴火により、市役所での1平方メートル当たり124gの降灰がありました。
 そんな市街地に近接しているため、桜島は、常時厳重な監視体制がとられています。多数の地震計(5地点)や震度計(1地点)、空振系(4地点)、GPS(3地点)傾斜計(1地点)、望遠カメラ(2地点)による観測がなされています。
 私が見たときも桜島は噴気を出していました。噴気の規模は時々によって様々ですが、火山活動を目の当たりにすることができます。その噴気を眺めていると、時々刻々変化していることがわかります。そんな火山噴火をみていると、日本人と火山との共存についつい思い至ります。
 南九州、とくに鹿児島はシラスと呼ばれる白っぽい火山灰や細粒の軽石などで覆われています。その火山灰は、姶良カルデラの大噴火によるとされています。火山灰の起源は、桜島より前の2万5000年前に発生した姶良カルデラの入戸火砕流によるものだと考えられています。その量は約200立方kmに達し、日本全国にも飛んでいます。このような火山灰は広域テフラと呼ばれ(姶良Tn)、約150立方kmと見積もられています。鹿児島周辺ではシラスの厚さは数十mにも達しています。
 シラスは軽くてもろく、水に流れやいため、侵食をうけ、シラス台地という特有の地形をつくっています。シラス台地では、水が浸透しやすく、栄養分も乏しく、稲作にはてきしていません。しかし、シラスのようなところでもよく育つサツマイモや桜島大根などが主要な農産物となっり、全国にその名を知られる名産品となりました。
 人間は、智恵を使って、火山と共存してきたことが、鹿児島をみていると感じます。害と思われるようなことでも、智恵で益となしたのです。
 日本列島とは、古い大地の上に、火山活動が起こるような地質学的位置に常におかれていました。日本列島は火山活動によって常に変化を受けているところといえます。人類が登場してからも、火山活動は続いています。日本人は古くから火山とは付き合ってきたのです。そして日本に住む限り、未来も火山と付き合っていかねばなりません。
 今も昔も、火山は自然災害として、恐怖の存在です。でも、火山は人にとって悪いことばかりではなく、風光明媚な景観や温泉など、現在では重要な観光資源も与えてくれます。また特有の土壌を生かした農業製品をも生み出し、名産品としています。ですから火山は、人にとって益と害の両面を持っているのです。
 活火山とはいえ、被害を与えるような噴火はめったにあることではなく、静穏な状態が長く続きます。激しい火山活動の時間と平穏な時期とを比べると、明らかに平穏が時間の方が長くなります。ですから、観光資源として考えると、一時的な訪問をする人にとっては、火山とは危険性はほとんどなく、恵みだけを与えてくる存在といえます。
 ところが住んでいる人には、数10年に一度の噴火でも、脅威の存在となります。もし、噴火による火山放出物や降灰によって、家財や田畑を奪われるかもしれません。時には命の危険すらあるわけです。
 ですから、噴火に備えて防災というものを常に意識することになります。かつて科学が発達していないときは、いつ起こるとも知れない火山噴火に対処しようがありませんでした。あきらめるしかない自然災害となったのです。火山災害とは、自然災害の中でもっとも諦観がともなうものかもしれもしれません。
 現在では、噴火予知の水準はよくなりました。また予知が不完全でも、防災対策は以前と比べものにならないほどよくなりました。近年では、予知と防災によって、命や財産のすべてを失うようなことは、あまりなくなりました。最悪の事態は免れるようになったのです。
 観光資源として火山を考えると、同じ火山列島に住む日本人は、火山の恐ろしさを熟知しています。ですから、いったん噴火が起こったり、噴火の危険性があるときは、観光客が寄り付かなくなります。しかし、日本人は温泉好きです。火山活動が治まると、火山の恵みである温泉を味わいに戻ってきます。火山の恐ろしさを知っているからこそ、平穏な時期の恵みを味わおうとしているのかもしれません。

・監視カメラ・
気象庁では、活火山を観測網の一つとして、監視カメラを設置しています。
その画像は、インターネットで公開されています。
桜島の画像も公開されています。
URLは次のところです。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/vo/32.php?kansokuten=SKRTARvvi&mode=0&cmd=write(改行で切れているところをつないで入力してください)
この画像は、気象庁ではなく、
国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務所による監視カメラ画像です。
このような情報公開によって、
火山活動を自宅から、眺めることができるわけです。
もちろん、インターネットですから、
日本だけでなく世界上からこの画像を見ることは可能です。
世界の火山のライブ映像も見ることができます。
なにも火山だけでなく、
日本も含め、名所や都会にはインターネットで公開されている
ライブ映像が多数あります。
ですから、ライブ映像だけで世界の名所旧跡を巡ることも可能なのです。
そんな時代になったのですね。
でも、温泉は行かなくては味わいません。
これだけは、今も昔も変わらないことでしょう。

・シラス・
シラスとは、南九州の方言で白い砂を意味しています。
姶良カルデラの火山活動は、二酸化ケイ素分が多く(酸性マグマとよばれる)、白っぽく見えるます。
これが、シラスの白い理由です。
シラスのような火山灰は、日本中に似たようなものがありますが、
鹿児島のような大規模なものは少ないです。
それほど鹿児島は、火山と密着していることになります。
シラスでつくられたサツマイモを食べさせて豚は
特有の風味を持つ黒豚として全国的に有名になりました。
実は鹿児島は、肉牛の生産も日本一だそうです。

2006年6月15日木曜日

18 野付半島:景観に流れる時間 2006.06.15

 北海道の道東にある野付半島と野付湾は、2005年11月8日第9回ラムサール条約締約国会議において、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地として登録されました。そんな野付半島を見てきました。

 今年のゴールデンウィークに北海道の東部(道東)を訪れました。観光では以前1度いったことがあるのですが、調査では初めてとなります。北海道でも札幌近郊に住んでいると、道東へは移動距離が長く、なかなか訪れにくいところです。しかし、北海道の海岸線の調査を完成するためには、道東は避けることができません。今回、満を持して出かけることにしました。
 今年のゴールデンウィークは5日間の連休でしたので、行くまでに1日、帰るのに1日かかるので、正味3日間が調査の予定でした。野付半島は、2日目の午後に訪れました。
 以前野付半島を訪れたのは、北海道に住む前のことです。風が強い秋の平日で、外を少し見たら寒くて土産物屋に逃げ込んだ記憶があります。観光客もまったくみかけられず、土産物屋では私たち家族だけがストーブにあたっていたという記憶があります。
 今回は、ラムサール条約の締結後、最初のゴールデンウィークということもあって、多くの観光客が訪れていました。また、ネイチャーセンターも2002年5月にできていて、周辺の案内もされていました。
 私が今回訪れた目的は、砂嘴(さし)というものを、もう一度、見て、歩いて、感じるためでした。砂嘴とは自然が砂で作り上げたものです。砂の楼閣のように、砂嘴も時の流れでたやすく変化してきます。そんな変化を考えてみたかったのです。
 砂嘴の「嘴」とは難しい字ですが、「くちばし」という意味の漢字です。鳥のくちばしのような形をしていることから、砂嘴という名称がつけられています。
 砂嘴は、大きなものとしては、アメリカのフロリダ半島の先端にあるキーウェストが有名ですが、日本では天橋立が有名です。いずれも行ったことがあるのですが、地域ごとにその風情は違ってきます。その風情の違いは、そこに流れている大地の営みのスピードによるもののような気がします。そして、その営みがスピードからかもし出される時間の流れが違うように感じます。その違いは、地形や植生として垣間見ることができると思っています。
 日本最大の砂嘴は、今回訪れた北海道東部にある野付半島です。標津町と別海町にある野付半島は、全長約26kmもある砂の堆積によってできた地形です。
 江戸時代の中頃までは、トドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの原生林がありました。現在の半島部は、砂浜の草原と湿地帯となっています。それは、半島の地盤沈下によって、砂嘴の中に海水が浸入し、原生林が枯れてしまったからです。
 トドワラというところがあるのですが、もとはトドマツの原生林があったところで、ナラワラはミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの林があったところです。トドマツやミズナラの枯れ木林が、原生林の面影を残しています。
 砂嘴は、海岸で内湾となったところに、沿岸を流れる海流が堆積物を運んできてできます。湾の先端に当たる海岸や岬に、海流の方向に沿って堆積物がたまることがあります。すると岬が砂浜として延びていきます。波の作用には浸食する作用もあります。ですから、堆積する速度が波の侵食の速度より大きければ、堆積物がたまり、砂嘴が成長してきます。これが砂嘴のでき方です。もちろん、周辺の川から海へ十分な堆積物を運んで来る必要があります。
 野付半島では、内湾に当たるところが野付湾で、別名尾岱沼(おだいとう)とも呼ばれています。摩周湖から斜里岳をへて知床半島にまで連なる火山列に端を発する川が、根室海峡に多数流れ込みんでいます。これらの川が、砂嘴の砂の供給源となります。特に標津川が野付半島の北側付け根にあり、重要な供給源と考えられます。その砂は大部分が安山岩の起源ものです。
 海流のオホーツク海から知床半島と国後島の間の根室海峡を通り抜けてきた海流によって、砂が運ばれて、砂嘴が発達しています。
 海流のいたずらで、野付湾に向かって砂嘴が枝を出したようになっています。まるで、エビの尻尾のような形にいくつかの岬(尖岬と呼びます)ができています。9個の分岐があります。これは、内側のものが古い砂嘴で、外側に向かって新しい砂嘴ができることによって、このようま地形ができたと考えられています。
 そして外海沿っている高い堤上の砂の列(砂堤列と呼びます)があります。現在の外海に面するものと、尖岬のものの2方向あります。このような砂嘴を複合鉤状砂嘴と呼びます。
 野付半島付近では、北から北西の風がよく吹きます。この風が国後島に当たり、南西へ向かう海流を発生させます。この海流が、野付半島より北側の海岸を浸食していきます。しかし、野付半島付近では海流が曲がり流れがゆるくなります。そのため海岸線を削ってきた堆積物を堆積しはじめます。
 砂嘴の堆積物を調べると、内側の尖岬は、3000年前の摩周起源の火山灰が見つかっています。ですから、この砂嘴の一部は、3000年前には形成されていたことがわかります。その後2500年前次の2つの尖岬が、1000年前にさらに3つの尖岬、最後に500年前に一番外側の尖岬が形成され、その成長は現在も続いていると考えられています。1970年代まで砂嘴の東部の海に面してる部分(竜神岬)が50mほど削られ、内側に巻き込まれた部分(ナカシベツ)が50mほど成長しています。現在も野付半島の砂嘴は、変化しているのです。
 海流や砂の供給源に変化があれば、野付半島の砂嘴の姿は、これからも変わっていくでしょう。野付半島の砂嘴は、見れば見るほど、その形が不思議で、自然の妙を感じます。
 砂嘴がエビの尻尾の形をしているといいましたが、野付湾では、6月から7月上旬、そして10月中旬から11月上旬にかけて、ホッカイシマエビ漁がおこなわれています。そのとき、白い三角帆の打瀬舟(うたせぶね)で漁をしますが、これがなかなか風情がある光景となっています。残念ながら、私が行ったときは、漁期ではなく、白い帆の打瀬舟を見ることはできませんでした。
 この野付半島と人間とのかかわりは、かなり古く、擦文時代の堅穴式住居があることから、1000年ほど前から野付半島には、人が生活をしていたことがわかっています。江戸時代後期までは、北方領土や千島列島での交易や漁業の拠点として、集落がありました。現在もそれらの遺跡が残っています。
 標津川の河口流域では、かつては幅5kmほどもある湿原ありました。標津湿原として知られていたのですが、現在では、灌漑による耕作地化によって、湿地が排水されました。野付半島の変化は、砂の重要な供給源である標津川の変化も反映することでしょう。
 砂嘴が発達すると海流が当たる北側の海岸の砂は侵食を受けます。そしてその砂は砂嘴の先端の成長に使われることになります。野付半島の成長によって海流が影響を受けたのでしょうか、標津川の灌漑のためでしょうか、それとも経年変化のたためでしょうか、砂州からの砂の流出が起こり、砂嘴がなくなっていくのではないかと危惧する声もあります。
 自然は変化をします。大地の変化は、一般には、ゆっくりと長い時間をかけて起こります。しかし、時には短い時間で起こることもあります。上で述べたように、砂嘴の変化も短時間で起こります。砂嘴の形成、消失には、海流が重要な働きをします。ですから、海流の変化が起これば、砂嘴の変化はかなり早く起こります。野付半島の砂嘴のように、古くから人間が住んでいるところでも、見慣れていると思っている風景も、実は時と共に変化しているのです。人間の営為なのか、自然の営為なのか分かりませんが、自然は時々刻々変化しています。そんな自然の変化を、野付半島では感じることができました。

・あごかエビか・
野付「のつけ」とは、アイヌ語で「あご」を意味するそうです。
半島の先端が陸地側に向って大きく湾曲しているのが
人のあごに似ているところから名付けられているようです。
しかし、私には、あまりあごには見えませんね。
アイヌの人が見ると、野付半島はアゴに見えたかもしれませんが、
私にはエビの尻尾にみえますが、これは、時間による変化によって、
今私が見ていると野付半島の形と、
アイヌの人たちが見てい名前を付けた時とは
実は違った形をしていたためかもしれませんね。
もしそうなら面白いことになりますね。

・四角い太陽・
野付湾は、冬特に2月頃に「四角い太陽」が見えることで有名です。
四角い太陽は、空気の温度差によってできる蜃気楼の一種です。
地表付近の大気の温度がマイナス20度以下になり、
上空に暖かい空気があることが条件となります。
2月の寒い頃の特別な気象状態になったときだけに見られるものです。
四角い太陽だけでなく、時には六角形や
ワイグラスのよう見えることもあるようです。
私がいったのは春ですから、そのような太陽は見えるはずもないのですが、
泊まった温泉旅館のご主人が写真を撮られているらしく、
館内に置かれたいるアルバムには、
不思議な太陽の写真がたくさん収められていました。
宿を立つときに好きな写真をどうぞと、
不思議な太陽の写真を頂きました。
写真で見ても、不思議なのですから、
現実に見るともっと心打たれるものなのでしょうね。
でも、寒いのが難ですね。

2006年5月15日月曜日

17 種子島:共通性と地域性 2006.05.15

 種子島はプレート境界で形成される付加体という地質体からできています。その付加体の一般的な性質は日本列島共通のものでありながら、地域ごとの個性を生むものでもありました。そんな共通性と地域性をみていきましょう。

 私は北海道に住んでいますので、冬になると雪が積もり、道が埋もれ、石が埋もれて、川や山に入れなくなり、野外の調査ができなくなります。でも、私は地質を調べたり地形を眺めたりするのが好きなので、冬でも野外調査にでたくなります。でも、やはり冬の北海道ではだめです。そこで冬休みには、本州の雪のないところを調査をすることにしています。
 2005年の冬休みは、種子島に出かけました。効率的に見るために、屋久島から種子島へと順番にみてきました。屋久島については以前(04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15))紹介しましたので参考にしてください。
 面積で見ると屋久島(500平方km)も種子島(453平方km)も同じほどですが、屋久島は周囲約130kmの丸い形をしているのに対して、種子島は細長く南北に伸びた(幅5~12km、長さ72km)形をしています。屋久島の宮之浦岳は標高1936mもあり最高峰で九州でも一番の高さを持ちますが、種子島は最高でも標高282mしかない、のっぺりとした平たい島です。屋久島を先に訪れたせいでしょうか、種子島が異様に平らで長い島だというのが第一印象でした。
 しかし、そんな種子島でもよく見ると起伏があることがわかります。特に海岸へは急な坂を降りるような地形になっています。このような両島の違いは、それぞれの島の地質と大地の営みの違いを反映しているのです。
 屋久島は中央の大部分を花崗岩が占めていて、周辺に堆積岩が少しあるという岩石の構成になっています。一方、種子島の大地は、ほとんど堆積岩からできています。この花崗岩の有無が、両島の地形を違いを生んでいます。
 屋久島の主体を成す花崗岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。その花崗岩が隆起をし、上にあった地層が侵食されて、地表に顔を出したものです。そのため屋久島では、花崗岩の周辺にもともとあった地層が少し残っているだけで、あとは花崗岩の高い山となりました。そして山が高く雨が多い地域に当たるため、侵食が続き、屋久島は険しい山岳の地形となっています。
 地層は土砂が固まったもので、花崗岩と比べれば軟らかく、浸食を受けやすい岩石です。ですから、堆積岩からできてる種子島は侵食を受け、高まりは削られ平らになっているのです。
 さらに、一般に、堆積岩でも新しい時代にできたものは、古い時代のものに比べて軟らかく、侵食に弱い岩石となります。関東から西に琉球列島まで続く日本列島(西南日本といいます)では、太平洋側の海に近い(外帯と呼びます)ほど、地層の形成された時代は新しくなります。したがって、屋久島より太平洋側に位置する種子島の地層のほうが新しく、軟らかくなるので、侵食も早く進んでいくことになります。
 実際に両島の堆積岩を比べてみますと、両島の地層は四万十層群に属する一連の地層で、似たような性質の岩石からできています。一番古い地層は屋久島も種子島も熊毛層群(古第三紀中期)と呼ばれている地層です。熊毛層群は、頁岩と砂岩からできていて、褶曲やたくさんの断層が形成されています。
 屋久島では熊毛層群だけでしたが、種子島では熊毛層群だけではなく、より新しい時代の地層も出ています。中央から南半部にかけて熊毛層群を不整合という関係でおおう茎永層群があります。茎永層群は、新第三紀中新世と呼ばれるより新しい時代に形成された礫岩、砂岩、シルト岩が繰り返す地層(互層といいます)からできています。
 茎永層群をおおって上中層と呼ばれる鮮新世の地層があり、さらに上には第四紀という一番新しい時代にたまった地層や、ローム層が分布しています。第四紀の地層は、それほど固まっておらず、主に石英砂からできています。そして、その中には砂鉄もたくさん含まれています。
 四万十層群は、西南日本の外帯に連続的に分布する地層で、陸と海溝の間で形成されたものです。海溝とは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所です。海溝の陸側では、陸から河川などよって運ばれて堆積物が大陸棚にたまっています。その堆積物が、海洋プレートに押されて列島の下に押し込まれます。さらに、海溝に沈みこめなっかた海の岩石の破片も、陸側に付け加わることがあります。このように海溝と大陸棚の間、つまり海洋プレートと大陸プレートも境界でできた堆積物全体を付加体と呼んでいます。四万十層群は、付加体からできています。
 付加体でできる地層には特徴があります。海洋プレートの沈み込みに引きづられて、刺身のようにちぎれた地層が、次から次へと陸側にもぐり込みながら付け加わります。そして、地層の刺身は沈み込みと同じよう角度で、新しいものが下側になって付け加わっていきます。
 紀伊半島、四国、九州には、列島の地殻があり、陸となっています。ところが大隈半島から南の薩摩諸島から琉球列島までは、点々と島はありますが陸地が連続しているわけではありません。この地域には列島の地殻が十分成長していないのです。たとえ四万十層群があっても、まだ完全な陸にはなっていのないのです。
 海底にたまっている地層が陸になるためには、持ち上げる作用が必要となります。屋久島では、花崗岩の上昇がその作用を担いました。では、種子島では、そのような作用が起こっているのでしょうか。
 日本列島の海沿いには、海岸段丘のような海岸特有の地形が形成されます。陸地に残された海岸段丘などを調べることから、その地の隆起の程度を読み取ることができます。日本列島ではこのような調査から、新しい時代の変動の特徴が調べられています。
 西南日本の太平洋岸には、海岸沿いに30~50kmも続く段丘地形よく見られます。そこでは地震に伴う地殻変動がよく起こっていることがわかっています。種子島では、平均すると1000年で1m以上も隆起するような、とっても激しい変動地域に区分されています。これら海洋プレート(フィリピン海プレーと呼ばれています)が大陸プレート(ユーラシアプレートと呼ばれています)を押しながらもぐりこんでいるためだと考えられます。ちなみに屋久島は、1000年で0.5~1mという、種子島より遅い隆起速度の地帯に区分されています。
 隆起が激しく起こっているとこでは、岩石が持ち上げられる時に、壊れるところができます。岩石が壊れるということは、断層ができるということです。最近隆起しているということは、活動的な断層つまり活断層があるということになります。
 種子島には、現在4つの活断層があることがわかっています。いずれも種子島を北西-南東に切るように断層が形成されています。北から順番に、花里崎-田之脇断層、平鍋-中山断層、下田-油久断層、阿高磯断層と名づけられています。これらの断層は、たびたび地震の原因となり、今後も地震が起こる可能性があります。最近では、1996年9月9日に、断層によるマグニチュード5.7の地震が発生しています。
 種子島では、第三紀層を削っている海食台地があることから、段丘の形成は第三紀の終わりからとなります。何段かの段丘の面があることから、現在まで、段丘地形が形成されるような大規模な隆起運動が何度かあったことがわかっています。
 西南日本の外帯では、もともと海底でできた地層が陸地に出ているのは、上昇するための仕組みとして、海洋プレートが沈み込んで大陸プレートを押し上げているのです。ただし、薩摩諸島や琉球列島では、海洋プレートの衝突の方向が斜めでずれているために、上昇させる力が十分でなく、部分的にしか働かないようです。
 種子島で活断層があり海岸段丘がつくる坂道があるのは、プレート境界にできる地質体であるという、西南日本外帯に共通する地質学的性格のためです。しかし、種子島がこのようなのっぺりとした地形としてここに存在するのは、九州の南部の海溝に近い位置にあり、断層の上昇運動のこの地に集中したという種子島がたどった地域固有の歴史のためです。
 海岸へ降りるときの坂道は、のっぺりとした種子島にも、大地の変動の歴史が深く刻まれていることを教えてくれているのです。

・これも種子島・
種子島は、鉄砲伝来の地として有名ですが、
私にはロケットの打ち上げ基地としての印象が強くあります。
種子島を訪れたのは、もちろん地層を見るのが主とした目的ではありますが、
やはり種子島宇宙センターを訪れることも、忘れていませんでした。
残念ながら、打ち上げが近かったので、
センター全体を見学することはできませんでしたが、
巨大なロケットの部品が公道を通るのに出くわしました。
着々と打ち上げ準備が進んでいることを
肌で感じることができました。
このとき準備されたいたのは
H-IIAロケット7号機で、2005年2月26日に、無事打ち上げられました。
このロケットには運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)という
長ったらしい名前の衛星が搭載されていました。
この衛星は、「ひまわり6号」と名付けられ、現在活躍中です。
1999年11月15日の後継機の打ち上げが失敗のために、
「ひまわり5号」が無理やり寿命を延ばして使っていたのですが、
それも限界すぎました。
アメリカからレンタルで「ゴーズ9号」が使われていました。
しかし、打ち上げ成功で2005年6月28日から
後継衛星である「ひまわり6号」が気象観測を開始し、
日本が晴れて自前の衛星を持つことができたのです。

・砂鉄・
種子島は堆積岩でできているせいでしょうか、
浜辺ごとに砂の様子が違っています。
砂鉄が波の作用で濃集しているようなところがいくつもありました。
鉄浜(かねはま)海岸という地名があり、
そこでは砂鉄をとっていたため、このような名前がついているようです。
種子島では、砂鉄が多いことは昔知られていたのですが
昭和32年の調査で砂鉄資源が多く、200万トン以上あると推定されました。
そのため、九州でも有数の砂鉄を産地となっており、
昭和40年代では、種子島は鹿児島県内でも一番の産出量を誇っていました。
種子島の砂鉄では、鉄だけでなく、
チタンの含有量も多かったため採取していました。
ただ、現在では採鉱はされていません。
採鉱されなくなって時間がたちますから、たくさんの砂鉄が濃集しています。
もちろん、私は、鉄浜海岸で砂鉄を採取しました。

2006年4月15日土曜日

16 石狩川:ゆく河の流れは絶えずして 2006.04.15

 私にとって身近な大河を紹介しましょう。その大河にも、変化の歴史と、人との歴史もあります。

 私が住む街には、街の中を流れる大河があります。石狩川です。我が町で見る石狩川は、多くの水をたたえながら、とうとうとして流れています。雨が降ると、水かさが増え、茶色くにごりますが、どこかに雄大さが感じられます。まさに大河と呼ぶにふさわしいものだと思います。
 石狩川の源流は、北海道の中央に位置する大雪山系の石狩岳(標高1967m)にあります。大雪山の南東にある石狩岳から、大雪山を反時計回りに、旭川をへて深川まで巡っていきます。川の流れの方向は、大雪山という火山の高まりを迂回するためです。石狩川は、深川から石狩平野を南下します。石狩平野は平坦なため蛇行しながら流れています。そして、江別市で西に流れを変えて、石狩市で日本海の石狩湾に注ぎます。
 しかし、現在見られるこのような石狩川の流れは、昔からこのような流れであったわけではなく、さまざまな変遷をしてきました。洪水で蛇行がまっすぐになるような変化もありました。洪水が起きると、そこには土砂が溜まり、新たな大地として更新されます。また、石狩平野は硬い大地ではなく、湿地帯としての履歴も持ちます。
 現在の石狩平野にあたるところは、もともと低い地域で、石狩低地帯と呼ばれています。日本海側の石狩市から、太平洋側の苫小牧市まで70km以上に渡って20から30kmほどの幅で低地帯は続いています。石狩低地帯の地下をボーリングして調べて見ると、そこには海に住む貝化石を含むような地層が見つかります。そのような海で溜まった地層の厚さは、200m以上になることがあります。この海は、東が夕張山地、西には火山地帯であったので、狭い海で石狩海峡と呼ばれています。
 石狩海峡は、リス氷河期の終わり(約10万年前)ころから急激に浅くなり、リス-ウルム間氷期(約7万年前)にはなくなり、陸化しました。そのため、石狩川は、海峡の跡を通って、今の苫小牧あたりから太平洋に注いでいました。平坦な平野を流れていた石狩川は、蛇行や氾濫を繰り返していました。そのため石狩低地帯は湿地帯となり、泥炭がたまるような場所や河川の氾濫によって土砂が溜まるような環境となりました。最後の氷河期であるウルム氷期が訪れると海が後退して、広い湿地帯が広がりました。
 海の後退と同じ頃、3.2万から2.9万年前に、支笏カルデラをつくった火山は、非常に激しい活動をして、周辺にも大量の火山噴出物を放出しました。千歳から苫小牧かけて、大量の火山堆積物が溜まりました。石狩川はせき止められて、太平洋に流れ込むことができなくなりました。その結果、石狩川は、現在のように日本海へと流れ込むようになりました。
 やがて氷河期が終わると、海水が増加して、海が低い陸地に進出して広がってきました。1万年前から6000年前までの縄文時代の最初のころには、石狩湾が大きく陸地に入り込んできました。そのため、札幌市内からクジラの骨や、海の貝の化石が見つかることがあります。石狩川は、流路を太平洋から日本海へ変えても、氾濫や蛇行を繰り返していました。
 石狩川と人間のかかわりは、本州と同じ縄文時代からでした。本州では縄文時代の後は、農耕文化の弥生時代が始まるのですが、北海道では、続縄文時代と呼ばれる時代(察文時代とも呼ばれます)が続きました。ついでアイヌの先祖の時代となります。
 続縄文時代を継承しつつ、オホーツク文化や本州の文化を吸収して、13世紀には、アイヌ文化が成立しました。アイヌの人たちは、石狩川流域で、狩猟採取の生活をしていた。
 1869(明治2)年7月に蝦夷開拓使が設置され、石狩川と十勝川の沿岸に入殖が進められ、開拓の歴史がはじまります。本州から多くの人が農耕のために入植しました。そして本州では見られないような、大規模な西洋式の農業形態が導入されてきました。石狩平野の農耕は、石狩川の治水が重要な課題として取り組まれてきました。
 そんな人間の営みを無にするような洪水を、自然は時として起こします。1898(明治31)年、1904(明治37)年7月、1932(昭和7)年8月、戦後になっても1961(昭和36)年7月、1962(昭和37)年8月、1975(昭和50)年8月、1981(昭和56)年8月、さらに近年の2001(平成13)年9月にも台風15号による大雨で洪水を起こしています。
 蛇行する河川に大水が流れると、蛇行の外側を削っていきます。つまり堤防があっても削っていきます。そこに増水が加われば、堤防の決壊という事態がおきます。蛇行をなくし流れをまっすぐにすると、水はスムースに流れていきます。
 開拓がはじまって以来、石狩川の治水工事とは、蛇行をなくし、まっすぐにショートカットさせていくものでした。そして川の両側には、大きな堤防が設けられました。増水があっても堤防を越えたり壊したりすることなく、すぐに海に水を流してしまうという方法です。
 このような治水の結果、もともと356kmあった石狩川の長さは、100km近く短くなり、268kmになりました。それでも現在、日本で第2位の長さを誇っています。
 石狩川は平坦な石狩平野を蛇行しながら、何度も流路を変えてきました。その記録は、川の周辺にある三日月湖からもうかがい知ることができます。そもそも、石狩川の語源としては、イ・シカラ・ペツから由来しているという説が有力です。イ・シカラ・ペツとは、曲がりくねった川という意味のアイヌ語です。先住民のアイヌの人も、石狩川が特別に曲がりくねっているということを、よく知っていたのです。
 私は、自然のままの川が好きです。しかし、災害はもちろん起こらないほうがいいに決まっています。現在ももともとあった三日月湖や蛇行をまっすぐにして人工的に作られた三日月湖が、石狩川周辺には点在しています。しかし今後、人間が石狩川を治水している限り、三日月湖は自然にはできないのだろうなと、ふと寂しさを覚えてしまうのは私だけなのでしょうか。

・知恵と堤防・
石狩平野の石狩川の堤防は、他の川の堤防と高さは同じなのですが、
勾配が緩やかで広い裾野を持つ巨大なものになっています。
堤防の断面を見ると、まるで丘陵のように見えます。
このような堤防を、丘陵堤と呼んでいます。
石狩平野の堤防が、このような丘陵堤になっているのは、
石狩平野は泥炭が厚く堆積している湿地帯で、
地盤が非常に軟弱であるためです。
経済的効率を考えて、この工法がとられています。
石狩川の丘陵堤は、今もまだ工事がなされています。
入植から100年以上たっても、まだ川と人の戦いは続いているのです。
もちろん、洪水の被害から人や田畑、財産を守らなければなりません。
ですから治水工事は、必要なことです。
しかし、知恵を使っても、
もう少し自然の川の姿を残した方法は取れないのでしょうか。
今の技術をもってすれば、多分、お金さえかければ、
思うがままのものが作ることができるのでしょう。
自然を守ることと安全をお金に換算して、
安い方を選択するのはいかがなものでしょうか。
いろいろ難しい問題があるのでしょうが、
もう少し、知恵は絞って、いいものを作る方法はないのでしょうかね。

・春の到来・
皆さんの町では、桜や入学式も終わり、春たけなわでしょうか。
札幌では雪解けが宣言されたようですが、
北海道は、まだ花の季節に少し早いようです。
4月に入っても、何度も雪が降りました。
わが町では、まだ雪もあちこちに残っています。
桜はまだまだで5月になりそうですが、
遅いながらも、北国の春は少しずつはじまっています。
平地部の雪解けはほとんど終わり、
田畑の作業も各地ではじまっています。
これからが、一番良い季節となります。
つらい雪の季節を耐えたからこそ味わえる春の到来です。

2006年3月15日水曜日

15 阿蘇の米塚:激しさの中のたおやかさ 2006.03.15

 阿蘇山は、九州でも有数の観光地です。その阿蘇山の中でも、あまり目立たないのですが、見た人には、きっとその形から強い印象を与える米塚と呼ばれる山があります。今回は、そんな米塚を中心に阿蘇火山をみていきましょう。

 2006年の1月の正月明けに、九州に出かけました。その時、阿蘇山に立ち寄りました。今年は、全国的に雪が多く、九州の調査直前や調査中にも、雪にあいました。そのため、予定の調査のコースを、変更しなければならいないことが何度かありました。
 今回の調査では、九州の火山として、普賢岳と阿蘇山、そして桜島を訪れることが目標でした。普賢岳については、車で雪の中を古湯まで登ったのですが、ノーマルタイヤではスリップして危険でした。また古湯周辺では、濃霧でとても火山や周囲を見る状態でなかったので、すぐに下りてきました。阿蘇山にも雪が積もっていましたが、一日目はダメでしたが、翌日は除雪もされ、道路は雪が融けていましたので、登ることができました。
 阿蘇山には、何度か来たことがありますが、雪の阿蘇山は初めてでした。数年前に訪れたときは、噴気から有毒ガスがでていたので、火口付近には近づけませんでした。今回は、上まで車で上がることができました。前日の雪は残っていましたが、幸いにも快晴の中で中岳の噴気を見学することができました。
 阿蘇山は活火山ですが、カルデラの規模は世界でも有数の大きさを誇っています。東西18km、南北25kmの大きさを持ち、カルデラの壁は、300mから600mの高さの崖を持っています。カルデラは、急な崖となっていますが、広いカルデラの内部は、平地となっています。平野は田畑に、山間部は牧畜に利用されていて、のどかな田園、牧畜の風景を見せていました。また南部の白水村は、湧水で有名なところです。私が行ったときは、阿蘇山はどこも、雪で寒々としていましたが。
 急峻なカルデラ壁があるのですが、唯一、熊本方向(西側)に立野火口瀬が開いていて、そこからカルデラ内の水が、白川として流れ出して、島原湾に注いでいます。
 阿蘇山は、約27万年前から火山活動をはじめて、9万年までに大規模な火砕流を4回(26.6、14.1、12.3、8.9万年前)発生して、現在のカルデラを形成したと考えられています。
 カルデラ内部には、湖ができ、堆積物がたまりました。カルデラの壁は、7万年前から5万年前に立野で開きますが、その後溶岩が流れこんで、カルデラ内に、また湖ができます。その湖に溶岩が流れ込んで水中での火山活動や堆積物が記録として残されています。湖の形成は、その後さらにもう一度起こり、ごく最近までカルデラ内の北側に湖として残っていました。このような歴史は、カルデラ内のボーリングの調査から分かってきました。
 カルデラ形成後、約7万年前(7.3万年より前)から、カルデラの中央部周辺で、火山活動がはじまりました。中央火口丘を形成したマグマの性質は、玄武岩質から安山岩質マグマを主としていますが、デイサイト質から流紋岩質のマグマまでもあり、多様です。
 中央火口丘で現在、活動しているのが中岳です。中岳は、現在も活動していますが、その以前に長く活動しており、古期、新期、最新期の3つに活動時期がありました。古期は6300年前より古いことはわかっているのですが、それ以外の時代はよくわかっていません。である現在の中岳の火山活動の開始時期はよく分かっていませんが、一番新しい火山であります。
 気象庁によりますと、553年(欽明天皇14年)に噴火した可能性があります。それ以降、中岳は古文書にも、そして現在のような観測体制ができた後も、死者を出すような活動を含めて、多数の噴火が記録されています。幸いなことに現在は、平穏な状態になっています。現在の火口は、南北900m、東西400mの大きさがあり、その中に小さな火口が7つあります。でも、現在も噴気を上げていて、私が行ったときも寒さのせいもあるのでしょうが、噴気で火口の中の池が見えなくなることもしばしばでした。
 中岳に次いで新しいのは、米塚とよばれる火山です。米塚の活動時期はよく分かっていませんが、その前に活動した往生岳が1740年前に活動しており、その火山噴出物を、米塚の噴出物が覆っているので、往生岳の火山活動より新しいことがわかっています。
 この米塚は、中岳とはあまりに違っています。
 中岳は大きな成層火山ですが、現在残されているのは東半分で、西半分は新期の火山活動で破壊されています。かつての成層火山の断面が、現在の噴火口の周辺に見えます。破壊されて断面を見せている中岳は、荒々しさを感じます。
 一方、米塚は、たおやかな形をしています。きれいな円錐形で、頂上がくぼんでいます。まるでおわんを伏せたようなような形をしてます。マグマの成分こそ中岳の同じ玄武岩質ですが、規模は小さく、直径380m、高さ80mの大きさで、頂上の火口は10数m程度しかありません。しかし、米塚の活動は、この山体をつくるだけではなく、周辺に溶岩を流出しています。米塚の溶岩は、玄武岩で流れやすく、3km以上も流れて、裾野に広がっています。
 この米塚は、何度見てもかわいく見えます。それは、きれいな円錐形をしているためでしょう。溶岩を流しながらこのようなきれいな円錐形になるのには、どのようなメカニズムがあったのでしょうか。
 米塚の円錐形は、スコリアというものからできています。スコリアとは聞きなれない名前かもしれません。スコリアとは、穴が一杯あいた黒っぽい石です。
 同じように穴が一杯あいて白っぽいものは軽石と呼ばれます。石の色はマグマの性質を反映していて、白っぽいのはデイサイト質から流紋岩質のマグマでガスの成分をたくさん含んでいるものからできます。軽石が固まるときガスの部分が穴があき、固まった後にガスは抜けてしまったものです。一方、スコリアは黒っぽい玄武岩質のマグマからできているのですが、固まるときにガスがたくさんあったものです。
 このようなスコリアがたくさん噴出した火山は、スコリア丘とよばれるきれいな円錐形になります。火口から噴出したスコリアは、大きく重いために、遠くに飛び散ることなく、周辺に落ちていきます。最初は火口を中心にドーナツ状にスコリアの山が形成されていきます。スコリアの量が増えていくと、だんだんこの山は成長していきます。やがて、火口を覆いつくすほどに成長します。その成長は、噴出するマグマの量や火口の規模によって、数週間から数年の間で形成されると考えられています。そして、中心部の火口はスコリアを噴出したところですから、くぼんだまま残されます。
 砂山などと同じようにスコリアの礫が集まってるつくる山も、最大傾斜角が30度で安定します。これが、きれいな円錐形をつくるしくみです。この30度という角度は、スコリア丘の規模と関係なく物理的に決定されるものです。ですから、スコリア丘はどこでも似たようなきれいな円錐形となります。
 米塚では、スコリアだけでなく、玄武岩の溶岩も流しています。この玄武岩の溶岩は、どうもスコリア丘より後から流れ出した可能性があります。それは、スコリア丘の北側には、流れ出した溶岩が盛り上がった地形が見つかっています。
 マグマがスコリアとしてたくさんのガスを放出してしまうと、マグマの中のガスが減少して、溶岩が流れ出ることが知られています。溶岩はスコリアの密度の2倍から3倍ほどありますので、スコリア丘の上まで上がることなく、スコリアの下を潜り抜けることがあります。このような現象は伊豆の大室山でも観察されています。
 ときには、上のスコリアを崩して、破片を浮かべながら流れ出すことも知られています。それのような現象は、山口県むつみ村の伏馬山で観察されています。
 阿蘇山とは、想像絶する巨大で激しく荒々しい火山活動の結果できたものなのですが、その荒々しさの中にも、米塚のようなたおやかさ、カルデラ内の平地ののどかさがあります。そんなコントラストを雪の阿蘇山で見ました。

・米塚・
米塚とは変わった名称です。
阿蘇神社の祭神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、
収穫した米を積み上げてできたという伝説があります。
これは、神話ですが、スコリアを積み上げてできたという形成史と
妙に一致して面白い伝説です。
また、米塚の頂上のくぼみは、
健磐龍命が貧しい人達にお米を分け与えた名残だとされています。
いい話なのですが、本当のところは、
スコリアが噴出した火口の名残なのです。
どうせなら、米塚から流れ出た溶岩のつくっている
なだらか地形にも伝説が欲しいところでしたね。

・温室イチゴ・
私が訪れたときは、雪で、砂千里ヶ浜も草千里ヶ浜も、
「雪千里ヶ浜」となり、見分けがつきませんでした。
しかし、近くの人たちでしょうか、
ソリやスキーをもってきて、
雪遊びをしている人がたくさんいました。
阿蘇山の初日が、雪で予定していたところがいけなかったので、
その日は、白水村周辺をうろついていました。
すると温室がたくさんあり、寒い中に無人販売がありました。
そこではイチゴが売られていました。
北海道から来た人間には信じられない光景ですが、イチゴを味わいました。
たまたまその農家の方がこられたので聞いたところ、
暖房をしながら温室でイチゴを作っているとのことでした。
少々高いイチゴでしたが、農家の湧き水で洗わせてもらって、
一足早い春を味わうことができました。

2006年2月15日水曜日

14 十勝岳:田園風景の背景にあるもの 2006.02.15

 北の大地の象徴ともいうべき美瑛の田園風景は、激しい火山活動の結果なのです。田園風景の背景に隠された激しい大地の営みを見ていきましょう。

 もう30年近く前の秋のころでしょうか。はじめて美瑛の田園風景を見て、心を打たれたことを覚えています。その田園風景の背景には雪化粧した十勝岳に噴煙が上がっていたことも一緒に覚えています。
 北海道の美瑛と富良野は、きれいな田園風景が広がっていて、観光が盛んになってきました。30年以上前の学生時代に、空知川流域の調査で富良野より少し下流あたりに何度か調査でいったことがありました。その折に美瑛や富良野によったことがあります。調査の時だけではなく、観光やスキーで行ったこともありました。行くたびに、美瑛の田園風景には見とれてしまいました。
 美瑛と富良野を訪れる多くの人が感じるのは、同じ日本でありながら、日本的でない異国のような景色、あるいは現在では北海道的とされている景観に、心を動かされているのではないでしょうか。
 私は京都の農家の出ですが、私の見慣れている田畑は、平地にあるものでした。山や傾斜の田畑も、平らにされていて、棚田や段々畑になっていました。ですから、耕作地とは平らなものという先入観がありました。それに区画整理がまだ整っていない畦が入り組んだ田畑が、私の原風景でもありました。
 ところがこの美瑛の田園風景は、広大でうねった傾斜地でもどこまでもまっすぐにのびる作物の列がありました。私がそれまで見てきた日本の田畑とは明らかに異なった光景でした。それが、北海道の気候とあいまって、さわやかで心打たれる景色となっています。
 2005年の夏、約20年ぶりに美瑛の丘と十勝岳を見るために訪れました。町はだいぶ様変わりしていましたが、田園風景は昔のまま残っていました。昔と一番違っていたのは、観光に力を入れた結果でしょうか、幹線道路の渋滞とたくさんの観光施設でした。
 十勝岳は、美瑛の東側に位置する活火山です。現在も噴気を上げています。美瑛と富良野の間の上富良野あたりから十勝岳に向かう道路があります。その道は、なだらかな登りで両側には田園風景が延々と続きます。その道の突き当りが十勝岳温泉です。しかし十勝岳に向かうには十勝岳温泉の手前で北に向かう道に入ります。途中、吹上温泉を右に見てさらに進むと、望岳台があります。そこが十勝岳の展望台と登山道のはじまりとなっています。
 十勝岳は、繰り返し噴火してきた成層火山です。北海道でも有数の活火山で、何度も噴火が起こしてきました。十勝岳だけでなく、十勝岳から南東方向、北西方向に延びる山並みは、すべて十勝岳と同じ成層火山からできています。これらの火山を、十勝岳火山群と呼んでいます。
 十勝岳火山群は、長い期間にわたって何度も噴火してきた火山です。十勝岳火山群の火山活動は、古期、中期、新期の3つに区分されています。古期の火山活動の正確な開始時期は分かっていません。地層の地質学的関係から50万年より新しい時代の活動であることは判明しています。古期と中期の間には活動の休止なく活動しています。
 中期と新期の間には、火山活動の休止期がありました。新期の活動が開始した時代も正確にはわかっていませんが、1万年より新しいと考えられています。新期の活動は、美瑛富士と、十勝岳の1kmほど北にある鋸岳からの噴火からはじまりました。3000年前ころには、十勝岳本体での活動が起こりました。
 歴史時代になっても十勝岳の火山活動は続いていて、1857年、1887年、1836年、1962年、1988-89年の火山活動の記録があり、現在も噴気が上がっています。
 中でも1926年(昭和元年)の噴火は大きな被害を出しました。1926年2月から小規模な噴火を繰り返していていたのですが、5月24日正午過ぎ、中央火口丘の北西部から水蒸気爆発が起こり、小規模な泥流が発生しました。泥流は6kmほど下の白金温泉まで流れ下りました。午後2時にも小規模な噴火がありました。
 そして、午後4時18分に、大規模な水蒸気爆発が起こりました。この噴火により熱い岩屑なだれが形成されて、積雪が融けて、大規模な泥流が発生しました。噴火の1分後には2.4km離れた硫黄鉱山事務所を襲い、24分後には25km離れた上富良野や美瑛町を襲いました。死者・行方不明者144名、負傷者約200名におよぶ大災害となりました。この噴火によって北西方向に開いたU字型の火口(450×300m)が形成されました。
 その後も噴火が繰り返され、9月にはさらに行方不明者2名を出す噴火があり、大正火口ができました。1928年(昭和3年)12月に、ようやく一連の噴火がおさまりました。
 十勝岳は、現在も小規模な火山活動が続いています。1998年と2000年には、やや活動が活発化しました。その後も毎年のように小規模な火山活動が繰り返されています。
 十勝岳の山頂周辺を見ると、上で述べた活動の噴火口以外にも、たくさんの丸いくぼ地となった噴火口が見つかります。地形図に名前が出ているだけでも、グランド火口、大正火口、中央火口、62-II火口、昭和火口、スリバチ火口、北向火口などがあります。U字型をした噴火口もたくさんみることができます。
 火山活動でできた地形は、時間が立つと侵食を受け、その形は不明瞭になっていきます。噴火口の地形がきれいに残されているのは、最近まで活発な火山活動があったこと示しています。
 噴火口だけでなく、溶岩が流れれば溶岩固有の地形ができます。泥流が流れれば泥流の堆積物が特有の地形を作ります。火砕流が流れれば火砕流に固有の地形ができます。
 活発な火山であれば、周辺だけでなく広く火山灰などの火山噴出物を飛ばします。火山活動時期にたまった地層の中に、十勝岳からの火山灰を見つけることで、どこまで火山灰が到達し、積もったかを調べることができます。その結果、北海道の中央部には、十勝岳火山群の火山噴出物が広く積もっていることがわかっています。
 十勝岳は、古期から火山活動をはじめ、中期にも続き、中期の最後には溶岩ドームを形成しています。新期にも激しい活動をして、そのたびに、十勝岳は山の形状を変えてきました。そして、火山の裾野も噴火のたびに地形を変えてきました。十勝岳の火山活動は現在も続いています。現在の十勝岳の形状、地形は、何度の改変を受けた結果なのです。しかし、これは、次の大規模な噴火がおこれば、また変わっていくものです。火山の歴史からすれば、現在の火山の形態や地形は、一時的なものにしか過ぎません。
 そんな火山噴火の地に人が住み着き、そして大地の表層を耕し、今の美瑛の田園風景をつくりました。ひとたび噴火があると風景は一変して、火山噴出物や泥流の原野へと変わります。しかし、人は、めげずに再び田園風景へと戻してきたのです。火山活動という自然の営みと、人と営みが、この美瑛の田園風景を作り上げているのです。

・春の兆し・
北海道も三寒四温の季節となりました。
2月上旬までは、寒いだけで暖かい日などほとんどなかったのですが、
雪祭りが終わるころから、暖かく雪の解ける日がはじまりました。
季節の巡りを感じます。
本州から来た人は、冬にしか見えないでしょうが、
住んでいる人間には、雪景色の中に春の訪れを感じます。
今年は冬が厳しかったため、
春の訪れをより強く感じるのかもしれません。
春が待ち遠しいです。
そんな季節になってきました。

・風邪・
春の兆しが見えたというのに、
2月になっても、私と長男は風邪をひいています。
どうもしつこい風邪で、1月にひいた風邪がなかなか治りません。
風邪を押して、だまし、だまし仕事をしているのですが、
なかなか本調子になりません。
今年の冬は、雪の中を歩こうと、家族分のカンジキを用意したのですが、
まだ試し履きだけで、森の中を歩くのに使っていません。
いつ使えることになるのでしょうか。
それとも、来年までしまっておくのでしょうか。
それだけは、なんとか避けたいのですが。

2006年1月15日日曜日

13 富士山:防災のための分類 2006.01.15

 現在の活火山という分類は、人間が火山災害をできるだけ少なくするために考え出された方法です。まだまだ活火山の研究は途中ですが、現状を紹介しましょう。

 日本の山の象徴として、富士山が挙げられます。葛飾北斎の富岳三十六景の浮世絵はあまりに有名です。太宰治は、「富嶽百景」の中で、あの有名な「富士には月見草がよく似合う」という言葉を残しました。カレンダーにもよく使われています。「一ふじ、二たか、三なすび」というように、初夢のめでたいものの象徴としても、富士山が使われます。富士山は日本人にとっては、非常に馴染み深い山であるといえます。
 その理由の一つは、富士山は、独立した山で、円錐形のきれいな形をしてるからでしょう。そのきれいな形が、多くの人を魅了してきたのでしょう。時には宗教的崇拝の対象となり、ある時には写真や映像の被写体としての魅力もあったでしょう。また、富士山は、日本最高峰という高さをもっています。高い山の登頂は、厳しい条件を乗り越えた後、達成されます。登頂の目的としても、修行の場としても、富士山は美しさの反面でもある厳しさを持っているのです。
 富士山は、ご存知通り、火山活動によってできた山です。日本列島で見ることのできる火山には、いろいろな形がありますが、富士山は、成層火山というタイプの形をしています。成層火山とは、層を成すという字が使われていることでもわかるように、火山噴火が何度もあり、そのたびに噴出物が出て、積み重なって高い山になってきたものです。成層火山は、富士山と似たような形となります。ですから、各地で○○富士という名称の山がありますが、その多くは成層火山です。
 火山とは、富士山のように風光明媚な景観をもたらしてくれます。そして、日本人は大好きな温泉も提供してくれます。しかし、いったん噴火が起こると、火山は近づきがたい危険なものとなります。火山の歴史を見ていくと、激しい噴火を起こすのは一時期で、それ以外は穏やかで、あまり活動的ではありません。火山には人にとって明と闇の両面を持っています。火山とは、ある一時的な活動が災害という闇の部分で、他の大部分の期間は人に益を与える明の部分となります。
 火山の災害は、火山噴火が予知できれば、防災可能となります。かつて、火山の区分として、活火山の他に、休火山、死火山がありましたが、現在では使われていません。それは、防災という観点からみて、休火山、死火山が無用であり、誤解を与えかねないからであります。
 かつての活火山の定義は、「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」となっていました。それ以前の火山で、火山活動を休止しているものを休火山、過去に噴火の記録のないものを死火山としてました。かつての分類では、富士山は休火山になっていました。
 しかし、このような定義は、言葉の上ではできても、実際の火山にあてはめると難しくなります。2000年以内に記録がなくても、本当は噴火した火山があります。たまたま昔の人が記録していなかったり、研究がまだ進んでなくて実態が不明なだけなのかもしれません。記録のないのは活動していないと道東ではないのです。
 また、休火山と死火山の境目をどこに引くか、活火山と休火山の境目をどこに引くかは、言葉ではできたとしても、実際の火山の防災を考えると意味をなしません。
 例えば、1979年に死火山に分類されていた木曽御嶽山が、水蒸気爆発を起こしたことから、死火山の分類区分が意味が無く、防災上は弊害となることがわかりました。また、火山の研究が進んで、火山活動の期間は、従来の2000年ほどの単位では収まらず、1万年の単位で火山活動が起こるという見方が必要であることがわかってきました。
 このような背景から、休火山と死火山という用語は使わなくなりました。
 現在では、まず火山という分類があります。火山とは、ある山が火山活動によってできたかどうか、です。火山のなかで、現在噴火中のもの、あるいは過去約1万年間で噴火したものを活火山と定義することになっています。
 このような定義の変遷にともなって、活火山の数は増加してきました。1968年に気象庁がつくったリストでは、日本の活火山として66個挙げられていました。1975年に火山噴火予知連絡会が作成した「日本活火山要覧」では、北方領土の活火山も含めて77個の活火山が掲載されています。1996年には、「日本活火山要覧(第2版)」が出版され83個に、その後1996年には3つの火山が追加され86個の活火山となりました。そして、現在の定義となり、2005年の気象庁編「日本活火山要覧(第3版)」では、108個が活火山として登録されています。
 もちろん富士山は、活火山として分類されています。
 活火山も、過去の活動度によって、3つのランクに分けられています。ランクは、過去100年間の観測データに基づく「100年活動指数」と、過去1万年間の地層に残るような大規模な噴火の記録に基づく「1万年活動度指数」それぞれ数値化して示しされています。その両者を参考にして、活動的な火山から順にA、B、Cの3つのランクをつけました。
 その結果、Aランクは13火山(十勝岳、樽前山、有珠山、北海道駒ヶ岳、浅間山、伊豆大島、三宅島、伊豆鳥島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、薩摩硫黄島、諏訪之瀬島)で、Bランクは36火山、Cランクは36火山、ランク外23火山(海底火山、北方領土のため)となっています。富士山はBランクとなっています。
 また、気象庁では、2003年11月4日より火山活動度レベルというものを示しています。火山活動度レベルとは、現在の火山活動の程度と防災対応の必要性の有無を、0~5の6段階の数値で表しています。実際の火山災害に運用にできる情報提供をしています。
 レベル0は長期間火山の活動の兆候がない。レベル1は静穏な火山活動で噴火の兆候はない。レベル2はやや活発な火山活動で、火山活動の状態を見守っていく必要がある。レベル3は小~中規模噴火活動等で、火山活動に十分注意する必要がある。レベル4は中~大規模噴火活動等で、火口から離れた地域にも影響の可能性があり、警戒が必要。レベル5は極めて大規模な噴火活動等で、噴火活動等広域で警戒が必要、となっています。
 まだ、これは、全火山には対応していおらず、12個の火山(浅間山、伊豆大島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、吾妻山、草津白根山、九重山、霧島山、薩摩硫黄島、口永良部島、諏訪之瀬島)だけで実施されています。今後、さらに増えていく予定です。このうち、活動レベル3は諏訪之瀬島で、レベル2は、浅間山、霧島山、桜島、薩摩硫黄島、口永良部島の5個で、あとはレベル1です。富士山はまだこのレベルは示されていませんが、レベル1になると考えられます。
 富士山は成層火山ですから、過去から何度も噴火を繰り返してきたことがわかります。火山の形成は、大きく三つの活動に分けられます。古いものが順番に、小御岳(こみたけ)、古富士、新富士と活動しています。
 小御岳の活動は、数十万年前に活動したできた火山です。古富士の活動は、8万年前頃から1万5千年前頃まで火山噴火を起こしました。古富士は、成層火山で、標高3000m近くの高さまで達したと考えられています。古富士の山頂は、現在の宝永火口の北側、1~2kmのところにあったと考えられています。
 新富士の活動は、1万1000年前から8000年前にかけて、古富士の山頂と西側の火口から噴火を起こし、大量の溶岩を出しました。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成されました。この時には、古富士の山頂と新富士の山頂が東西に並んでいたと考えられます。その後、8000年前から4500年前にかけて、山頂の火口から小規模の噴火を繰り返し、火山灰を出しました。4500年前から3000年前には、再び山頂や火山の脇から大規模な溶岩を流しました。大規模な溶岩の流出は、これ以降起こっていません。
 3000年前から2000年前までは、大規模な噴火が山頂火口からありました。これ以降は山頂からの噴火は無くなり、火山の山体の脇(側火山)からの噴火になります。
 最後の火山噴火は、1707年(宝永4年)の噴火です。この時の噴火で、宝永山ができ、宝永山の西側には巨大な噴火口は残っています。
 最近では、1897年から山頂で噴気活動があり1960年代まで活動は続きましたが、1982年には噴気はなくなっていました。1987年8月20~27日に山頂で最大震度3の有感地震4回が起こっています。2000年10~12月および2001年4~5月にはやや深部低周波地震の多発し、現在は収まっています。
 なお、東京大学地震研究所の2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳よりさらに古い山体があることがわかり、先小御岳と名付けられています。
 私は、以前、神奈川県の西の端の小田原市と湯河原町に住んでいました。小田原に住んでいたときには、毎日富士山を眺められる環境でした。近かったこともあったので、富士山を眺めることだけでなく、旅行でも、調査でも、富士山には何度も出かけました。しかし、残念ながら山頂へは行きませんでした。いつでもいけるという気持ちでいたからでしょうかね。

・風邪・
今回のメールマガジンの発行が1週間遅れました。
申し訳けありませんでした。
1月5日から12日まで、九州の調査に出かけていました。
帰宅後風邪を引き、数日寝ていました。
風邪を押して授業をして、溜まっていた仕事、
センター試験の監督などをしていたので、
メールマガジンをまとめる時間ができませんでした。
テーマは富士山に決めていたのですが、
きょうやっと時間ができ、急いで発行することできました。
ホームページの図の作成には、少し後になるかもしれません。

・富士・
私が神奈川の西部に住んでいたときは、
箱根と共に富士山は馴染みある火山でした。
特に小田原に住んできるときは、
アパートの窓から毎日見ることができましたし、
駅から自宅までの道からも見ることができました。
また、車でいけるいろいろなルートで富士山に出かけました。
富士山周辺にも出かけています。
大きな山ですので、周辺からもいろいろ眺めるための見所があります。
でも、それは富士山は火山本体がすばらしい成層火山だからでしょう。
私もいろいろなところから富士山を眺めました。
その大きくどっしりとした山体は、
いろいろな方向、いろいろな時刻、いろいろな季節で
さまざまな素顔をみることができます。
それが富士山を被写体にする
プロ、アマの写真家が多い所以でしょう。
北海道に住むようになって、富士山は遠くなりました。
でも北海道には蝦夷富士(羊蹄山)、利尻富士(利尻山)があります。
でも、毎日眺めることはできませんが、
少し足を伸ばせば見ることができます。
日本人は富士山か好きなのですね。