2006年4月15日土曜日

16 石狩川:ゆく河の流れは絶えずして 2006.04.15

 私にとって身近な大河を紹介しましょう。その大河にも、変化の歴史と、人との歴史もあります。

 私が住む街には、街の中を流れる大河があります。石狩川です。我が町で見る石狩川は、多くの水をたたえながら、とうとうとして流れています。雨が降ると、水かさが増え、茶色くにごりますが、どこかに雄大さが感じられます。まさに大河と呼ぶにふさわしいものだと思います。
 石狩川の源流は、北海道の中央に位置する大雪山系の石狩岳(標高1967m)にあります。大雪山の南東にある石狩岳から、大雪山を反時計回りに、旭川をへて深川まで巡っていきます。川の流れの方向は、大雪山という火山の高まりを迂回するためです。石狩川は、深川から石狩平野を南下します。石狩平野は平坦なため蛇行しながら流れています。そして、江別市で西に流れを変えて、石狩市で日本海の石狩湾に注ぎます。
 しかし、現在見られるこのような石狩川の流れは、昔からこのような流れであったわけではなく、さまざまな変遷をしてきました。洪水で蛇行がまっすぐになるような変化もありました。洪水が起きると、そこには土砂が溜まり、新たな大地として更新されます。また、石狩平野は硬い大地ではなく、湿地帯としての履歴も持ちます。
 現在の石狩平野にあたるところは、もともと低い地域で、石狩低地帯と呼ばれています。日本海側の石狩市から、太平洋側の苫小牧市まで70km以上に渡って20から30kmほどの幅で低地帯は続いています。石狩低地帯の地下をボーリングして調べて見ると、そこには海に住む貝化石を含むような地層が見つかります。そのような海で溜まった地層の厚さは、200m以上になることがあります。この海は、東が夕張山地、西には火山地帯であったので、狭い海で石狩海峡と呼ばれています。
 石狩海峡は、リス氷河期の終わり(約10万年前)ころから急激に浅くなり、リス-ウルム間氷期(約7万年前)にはなくなり、陸化しました。そのため、石狩川は、海峡の跡を通って、今の苫小牧あたりから太平洋に注いでいました。平坦な平野を流れていた石狩川は、蛇行や氾濫を繰り返していました。そのため石狩低地帯は湿地帯となり、泥炭がたまるような場所や河川の氾濫によって土砂が溜まるような環境となりました。最後の氷河期であるウルム氷期が訪れると海が後退して、広い湿地帯が広がりました。
 海の後退と同じ頃、3.2万から2.9万年前に、支笏カルデラをつくった火山は、非常に激しい活動をして、周辺にも大量の火山噴出物を放出しました。千歳から苫小牧かけて、大量の火山堆積物が溜まりました。石狩川はせき止められて、太平洋に流れ込むことができなくなりました。その結果、石狩川は、現在のように日本海へと流れ込むようになりました。
 やがて氷河期が終わると、海水が増加して、海が低い陸地に進出して広がってきました。1万年前から6000年前までの縄文時代の最初のころには、石狩湾が大きく陸地に入り込んできました。そのため、札幌市内からクジラの骨や、海の貝の化石が見つかることがあります。石狩川は、流路を太平洋から日本海へ変えても、氾濫や蛇行を繰り返していました。
 石狩川と人間のかかわりは、本州と同じ縄文時代からでした。本州では縄文時代の後は、農耕文化の弥生時代が始まるのですが、北海道では、続縄文時代と呼ばれる時代(察文時代とも呼ばれます)が続きました。ついでアイヌの先祖の時代となります。
 続縄文時代を継承しつつ、オホーツク文化や本州の文化を吸収して、13世紀には、アイヌ文化が成立しました。アイヌの人たちは、石狩川流域で、狩猟採取の生活をしていた。
 1869(明治2)年7月に蝦夷開拓使が設置され、石狩川と十勝川の沿岸に入殖が進められ、開拓の歴史がはじまります。本州から多くの人が農耕のために入植しました。そして本州では見られないような、大規模な西洋式の農業形態が導入されてきました。石狩平野の農耕は、石狩川の治水が重要な課題として取り組まれてきました。
 そんな人間の営みを無にするような洪水を、自然は時として起こします。1898(明治31)年、1904(明治37)年7月、1932(昭和7)年8月、戦後になっても1961(昭和36)年7月、1962(昭和37)年8月、1975(昭和50)年8月、1981(昭和56)年8月、さらに近年の2001(平成13)年9月にも台風15号による大雨で洪水を起こしています。
 蛇行する河川に大水が流れると、蛇行の外側を削っていきます。つまり堤防があっても削っていきます。そこに増水が加われば、堤防の決壊という事態がおきます。蛇行をなくし流れをまっすぐにすると、水はスムースに流れていきます。
 開拓がはじまって以来、石狩川の治水工事とは、蛇行をなくし、まっすぐにショートカットさせていくものでした。そして川の両側には、大きな堤防が設けられました。増水があっても堤防を越えたり壊したりすることなく、すぐに海に水を流してしまうという方法です。
 このような治水の結果、もともと356kmあった石狩川の長さは、100km近く短くなり、268kmになりました。それでも現在、日本で第2位の長さを誇っています。
 石狩川は平坦な石狩平野を蛇行しながら、何度も流路を変えてきました。その記録は、川の周辺にある三日月湖からもうかがい知ることができます。そもそも、石狩川の語源としては、イ・シカラ・ペツから由来しているという説が有力です。イ・シカラ・ペツとは、曲がりくねった川という意味のアイヌ語です。先住民のアイヌの人も、石狩川が特別に曲がりくねっているということを、よく知っていたのです。
 私は、自然のままの川が好きです。しかし、災害はもちろん起こらないほうがいいに決まっています。現在ももともとあった三日月湖や蛇行をまっすぐにして人工的に作られた三日月湖が、石狩川周辺には点在しています。しかし今後、人間が石狩川を治水している限り、三日月湖は自然にはできないのだろうなと、ふと寂しさを覚えてしまうのは私だけなのでしょうか。

・知恵と堤防・
石狩平野の石狩川の堤防は、他の川の堤防と高さは同じなのですが、
勾配が緩やかで広い裾野を持つ巨大なものになっています。
堤防の断面を見ると、まるで丘陵のように見えます。
このような堤防を、丘陵堤と呼んでいます。
石狩平野の堤防が、このような丘陵堤になっているのは、
石狩平野は泥炭が厚く堆積している湿地帯で、
地盤が非常に軟弱であるためです。
経済的効率を考えて、この工法がとられています。
石狩川の丘陵堤は、今もまだ工事がなされています。
入植から100年以上たっても、まだ川と人の戦いは続いているのです。
もちろん、洪水の被害から人や田畑、財産を守らなければなりません。
ですから治水工事は、必要なことです。
しかし、知恵を使っても、
もう少し自然の川の姿を残した方法は取れないのでしょうか。
今の技術をもってすれば、多分、お金さえかければ、
思うがままのものが作ることができるのでしょう。
自然を守ることと安全をお金に換算して、
安い方を選択するのはいかがなものでしょうか。
いろいろ難しい問題があるのでしょうが、
もう少し、知恵は絞って、いいものを作る方法はないのでしょうかね。

・春の到来・
皆さんの町では、桜や入学式も終わり、春たけなわでしょうか。
札幌では雪解けが宣言されたようですが、
北海道は、まだ花の季節に少し早いようです。
4月に入っても、何度も雪が降りました。
わが町では、まだ雪もあちこちに残っています。
桜はまだまだで5月になりそうですが、
遅いながらも、北国の春は少しずつはじまっています。
平地部の雪解けはほとんど終わり、
田畑の作業も各地ではじまっています。
これからが、一番良い季節となります。
つらい雪の季節を耐えたからこそ味わえる春の到来です。