2006年5月15日月曜日

17 種子島:共通性と地域性 2006.05.15

 種子島はプレート境界で形成される付加体という地質体からできています。その付加体の一般的な性質は日本列島共通のものでありながら、地域ごとの個性を生むものでもありました。そんな共通性と地域性をみていきましょう。

 私は北海道に住んでいますので、冬になると雪が積もり、道が埋もれ、石が埋もれて、川や山に入れなくなり、野外の調査ができなくなります。でも、私は地質を調べたり地形を眺めたりするのが好きなので、冬でも野外調査にでたくなります。でも、やはり冬の北海道ではだめです。そこで冬休みには、本州の雪のないところを調査をすることにしています。
 2005年の冬休みは、種子島に出かけました。効率的に見るために、屋久島から種子島へと順番にみてきました。屋久島については以前(04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15))紹介しましたので参考にしてください。
 面積で見ると屋久島(500平方km)も種子島(453平方km)も同じほどですが、屋久島は周囲約130kmの丸い形をしているのに対して、種子島は細長く南北に伸びた(幅5~12km、長さ72km)形をしています。屋久島の宮之浦岳は標高1936mもあり最高峰で九州でも一番の高さを持ちますが、種子島は最高でも標高282mしかない、のっぺりとした平たい島です。屋久島を先に訪れたせいでしょうか、種子島が異様に平らで長い島だというのが第一印象でした。
 しかし、そんな種子島でもよく見ると起伏があることがわかります。特に海岸へは急な坂を降りるような地形になっています。このような両島の違いは、それぞれの島の地質と大地の営みの違いを反映しているのです。
 屋久島は中央の大部分を花崗岩が占めていて、周辺に堆積岩が少しあるという岩石の構成になっています。一方、種子島の大地は、ほとんど堆積岩からできています。この花崗岩の有無が、両島の地形を違いを生んでいます。
 屋久島の主体を成す花崗岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。その花崗岩が隆起をし、上にあった地層が侵食されて、地表に顔を出したものです。そのため屋久島では、花崗岩の周辺にもともとあった地層が少し残っているだけで、あとは花崗岩の高い山となりました。そして山が高く雨が多い地域に当たるため、侵食が続き、屋久島は険しい山岳の地形となっています。
 地層は土砂が固まったもので、花崗岩と比べれば軟らかく、浸食を受けやすい岩石です。ですから、堆積岩からできてる種子島は侵食を受け、高まりは削られ平らになっているのです。
 さらに、一般に、堆積岩でも新しい時代にできたものは、古い時代のものに比べて軟らかく、侵食に弱い岩石となります。関東から西に琉球列島まで続く日本列島(西南日本といいます)では、太平洋側の海に近い(外帯と呼びます)ほど、地層の形成された時代は新しくなります。したがって、屋久島より太平洋側に位置する種子島の地層のほうが新しく、軟らかくなるので、侵食も早く進んでいくことになります。
 実際に両島の堆積岩を比べてみますと、両島の地層は四万十層群に属する一連の地層で、似たような性質の岩石からできています。一番古い地層は屋久島も種子島も熊毛層群(古第三紀中期)と呼ばれている地層です。熊毛層群は、頁岩と砂岩からできていて、褶曲やたくさんの断層が形成されています。
 屋久島では熊毛層群だけでしたが、種子島では熊毛層群だけではなく、より新しい時代の地層も出ています。中央から南半部にかけて熊毛層群を不整合という関係でおおう茎永層群があります。茎永層群は、新第三紀中新世と呼ばれるより新しい時代に形成された礫岩、砂岩、シルト岩が繰り返す地層(互層といいます)からできています。
 茎永層群をおおって上中層と呼ばれる鮮新世の地層があり、さらに上には第四紀という一番新しい時代にたまった地層や、ローム層が分布しています。第四紀の地層は、それほど固まっておらず、主に石英砂からできています。そして、その中には砂鉄もたくさん含まれています。
 四万十層群は、西南日本の外帯に連続的に分布する地層で、陸と海溝の間で形成されたものです。海溝とは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所です。海溝の陸側では、陸から河川などよって運ばれて堆積物が大陸棚にたまっています。その堆積物が、海洋プレートに押されて列島の下に押し込まれます。さらに、海溝に沈みこめなっかた海の岩石の破片も、陸側に付け加わることがあります。このように海溝と大陸棚の間、つまり海洋プレートと大陸プレートも境界でできた堆積物全体を付加体と呼んでいます。四万十層群は、付加体からできています。
 付加体でできる地層には特徴があります。海洋プレートの沈み込みに引きづられて、刺身のようにちぎれた地層が、次から次へと陸側にもぐり込みながら付け加わります。そして、地層の刺身は沈み込みと同じよう角度で、新しいものが下側になって付け加わっていきます。
 紀伊半島、四国、九州には、列島の地殻があり、陸となっています。ところが大隈半島から南の薩摩諸島から琉球列島までは、点々と島はありますが陸地が連続しているわけではありません。この地域には列島の地殻が十分成長していないのです。たとえ四万十層群があっても、まだ完全な陸にはなっていのないのです。
 海底にたまっている地層が陸になるためには、持ち上げる作用が必要となります。屋久島では、花崗岩の上昇がその作用を担いました。では、種子島では、そのような作用が起こっているのでしょうか。
 日本列島の海沿いには、海岸段丘のような海岸特有の地形が形成されます。陸地に残された海岸段丘などを調べることから、その地の隆起の程度を読み取ることができます。日本列島ではこのような調査から、新しい時代の変動の特徴が調べられています。
 西南日本の太平洋岸には、海岸沿いに30~50kmも続く段丘地形よく見られます。そこでは地震に伴う地殻変動がよく起こっていることがわかっています。種子島では、平均すると1000年で1m以上も隆起するような、とっても激しい変動地域に区分されています。これら海洋プレート(フィリピン海プレーと呼ばれています)が大陸プレート(ユーラシアプレートと呼ばれています)を押しながらもぐりこんでいるためだと考えられます。ちなみに屋久島は、1000年で0.5~1mという、種子島より遅い隆起速度の地帯に区分されています。
 隆起が激しく起こっているとこでは、岩石が持ち上げられる時に、壊れるところができます。岩石が壊れるということは、断層ができるということです。最近隆起しているということは、活動的な断層つまり活断層があるということになります。
 種子島には、現在4つの活断層があることがわかっています。いずれも種子島を北西-南東に切るように断層が形成されています。北から順番に、花里崎-田之脇断層、平鍋-中山断層、下田-油久断層、阿高磯断層と名づけられています。これらの断層は、たびたび地震の原因となり、今後も地震が起こる可能性があります。最近では、1996年9月9日に、断層によるマグニチュード5.7の地震が発生しています。
 種子島では、第三紀層を削っている海食台地があることから、段丘の形成は第三紀の終わりからとなります。何段かの段丘の面があることから、現在まで、段丘地形が形成されるような大規模な隆起運動が何度かあったことがわかっています。
 西南日本の外帯では、もともと海底でできた地層が陸地に出ているのは、上昇するための仕組みとして、海洋プレートが沈み込んで大陸プレートを押し上げているのです。ただし、薩摩諸島や琉球列島では、海洋プレートの衝突の方向が斜めでずれているために、上昇させる力が十分でなく、部分的にしか働かないようです。
 種子島で活断層があり海岸段丘がつくる坂道があるのは、プレート境界にできる地質体であるという、西南日本外帯に共通する地質学的性格のためです。しかし、種子島がこのようなのっぺりとした地形としてここに存在するのは、九州の南部の海溝に近い位置にあり、断層の上昇運動のこの地に集中したという種子島がたどった地域固有の歴史のためです。
 海岸へ降りるときの坂道は、のっぺりとした種子島にも、大地の変動の歴史が深く刻まれていることを教えてくれているのです。

・これも種子島・
種子島は、鉄砲伝来の地として有名ですが、
私にはロケットの打ち上げ基地としての印象が強くあります。
種子島を訪れたのは、もちろん地層を見るのが主とした目的ではありますが、
やはり種子島宇宙センターを訪れることも、忘れていませんでした。
残念ながら、打ち上げが近かったので、
センター全体を見学することはできませんでしたが、
巨大なロケットの部品が公道を通るのに出くわしました。
着々と打ち上げ準備が進んでいることを
肌で感じることができました。
このとき準備されたいたのは
H-IIAロケット7号機で、2005年2月26日に、無事打ち上げられました。
このロケットには運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)という
長ったらしい名前の衛星が搭載されていました。
この衛星は、「ひまわり6号」と名付けられ、現在活躍中です。
1999年11月15日の後継機の打ち上げが失敗のために、
「ひまわり5号」が無理やり寿命を延ばして使っていたのですが、
それも限界すぎました。
アメリカからレンタルで「ゴーズ9号」が使われていました。
しかし、打ち上げ成功で2005年6月28日から
後継衛星である「ひまわり6号」が気象観測を開始し、
日本が晴れて自前の衛星を持つことができたのです。

・砂鉄・
種子島は堆積岩でできているせいでしょうか、
浜辺ごとに砂の様子が違っています。
砂鉄が波の作用で濃集しているようなところがいくつもありました。
鉄浜(かねはま)海岸という地名があり、
そこでは砂鉄をとっていたため、このような名前がついているようです。
種子島では、砂鉄が多いことは昔知られていたのですが
昭和32年の調査で砂鉄資源が多く、200万トン以上あると推定されました。
そのため、九州でも有数の砂鉄を産地となっており、
昭和40年代では、種子島は鹿児島県内でも一番の産出量を誇っていました。
種子島の砂鉄では、鉄だけでなく、
チタンの含有量も多かったため採取していました。
ただ、現在では採鉱はされていません。
採鉱されなくなって時間がたちますから、たくさんの砂鉄が濃集しています。
もちろん、私は、鉄浜海岸で砂鉄を採取しました。