2006年6月15日木曜日

18 野付半島:景観に流れる時間 2006.06.15

 北海道の道東にある野付半島と野付湾は、2005年11月8日第9回ラムサール条約締約国会議において、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地として登録されました。そんな野付半島を見てきました。

 今年のゴールデンウィークに北海道の東部(道東)を訪れました。観光では以前1度いったことがあるのですが、調査では初めてとなります。北海道でも札幌近郊に住んでいると、道東へは移動距離が長く、なかなか訪れにくいところです。しかし、北海道の海岸線の調査を完成するためには、道東は避けることができません。今回、満を持して出かけることにしました。
 今年のゴールデンウィークは5日間の連休でしたので、行くまでに1日、帰るのに1日かかるので、正味3日間が調査の予定でした。野付半島は、2日目の午後に訪れました。
 以前野付半島を訪れたのは、北海道に住む前のことです。風が強い秋の平日で、外を少し見たら寒くて土産物屋に逃げ込んだ記憶があります。観光客もまったくみかけられず、土産物屋では私たち家族だけがストーブにあたっていたという記憶があります。
 今回は、ラムサール条約の締結後、最初のゴールデンウィークということもあって、多くの観光客が訪れていました。また、ネイチャーセンターも2002年5月にできていて、周辺の案内もされていました。
 私が今回訪れた目的は、砂嘴(さし)というものを、もう一度、見て、歩いて、感じるためでした。砂嘴とは自然が砂で作り上げたものです。砂の楼閣のように、砂嘴も時の流れでたやすく変化してきます。そんな変化を考えてみたかったのです。
 砂嘴の「嘴」とは難しい字ですが、「くちばし」という意味の漢字です。鳥のくちばしのような形をしていることから、砂嘴という名称がつけられています。
 砂嘴は、大きなものとしては、アメリカのフロリダ半島の先端にあるキーウェストが有名ですが、日本では天橋立が有名です。いずれも行ったことがあるのですが、地域ごとにその風情は違ってきます。その風情の違いは、そこに流れている大地の営みのスピードによるもののような気がします。そして、その営みがスピードからかもし出される時間の流れが違うように感じます。その違いは、地形や植生として垣間見ることができると思っています。
 日本最大の砂嘴は、今回訪れた北海道東部にある野付半島です。標津町と別海町にある野付半島は、全長約26kmもある砂の堆積によってできた地形です。
 江戸時代の中頃までは、トドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの原生林がありました。現在の半島部は、砂浜の草原と湿地帯となっています。それは、半島の地盤沈下によって、砂嘴の中に海水が浸入し、原生林が枯れてしまったからです。
 トドワラというところがあるのですが、もとはトドマツの原生林があったところで、ナラワラはミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの林があったところです。トドマツやミズナラの枯れ木林が、原生林の面影を残しています。
 砂嘴は、海岸で内湾となったところに、沿岸を流れる海流が堆積物を運んできてできます。湾の先端に当たる海岸や岬に、海流の方向に沿って堆積物がたまることがあります。すると岬が砂浜として延びていきます。波の作用には浸食する作用もあります。ですから、堆積する速度が波の侵食の速度より大きければ、堆積物がたまり、砂嘴が成長してきます。これが砂嘴のでき方です。もちろん、周辺の川から海へ十分な堆積物を運んで来る必要があります。
 野付半島では、内湾に当たるところが野付湾で、別名尾岱沼(おだいとう)とも呼ばれています。摩周湖から斜里岳をへて知床半島にまで連なる火山列に端を発する川が、根室海峡に多数流れ込みんでいます。これらの川が、砂嘴の砂の供給源となります。特に標津川が野付半島の北側付け根にあり、重要な供給源と考えられます。その砂は大部分が安山岩の起源ものです。
 海流のオホーツク海から知床半島と国後島の間の根室海峡を通り抜けてきた海流によって、砂が運ばれて、砂嘴が発達しています。
 海流のいたずらで、野付湾に向かって砂嘴が枝を出したようになっています。まるで、エビの尻尾のような形にいくつかの岬(尖岬と呼びます)ができています。9個の分岐があります。これは、内側のものが古い砂嘴で、外側に向かって新しい砂嘴ができることによって、このようま地形ができたと考えられています。
 そして外海沿っている高い堤上の砂の列(砂堤列と呼びます)があります。現在の外海に面するものと、尖岬のものの2方向あります。このような砂嘴を複合鉤状砂嘴と呼びます。
 野付半島付近では、北から北西の風がよく吹きます。この風が国後島に当たり、南西へ向かう海流を発生させます。この海流が、野付半島より北側の海岸を浸食していきます。しかし、野付半島付近では海流が曲がり流れがゆるくなります。そのため海岸線を削ってきた堆積物を堆積しはじめます。
 砂嘴の堆積物を調べると、内側の尖岬は、3000年前の摩周起源の火山灰が見つかっています。ですから、この砂嘴の一部は、3000年前には形成されていたことがわかります。その後2500年前次の2つの尖岬が、1000年前にさらに3つの尖岬、最後に500年前に一番外側の尖岬が形成され、その成長は現在も続いていると考えられています。1970年代まで砂嘴の東部の海に面してる部分(竜神岬)が50mほど削られ、内側に巻き込まれた部分(ナカシベツ)が50mほど成長しています。現在も野付半島の砂嘴は、変化しているのです。
 海流や砂の供給源に変化があれば、野付半島の砂嘴の姿は、これからも変わっていくでしょう。野付半島の砂嘴は、見れば見るほど、その形が不思議で、自然の妙を感じます。
 砂嘴がエビの尻尾の形をしているといいましたが、野付湾では、6月から7月上旬、そして10月中旬から11月上旬にかけて、ホッカイシマエビ漁がおこなわれています。そのとき、白い三角帆の打瀬舟(うたせぶね)で漁をしますが、これがなかなか風情がある光景となっています。残念ながら、私が行ったときは、漁期ではなく、白い帆の打瀬舟を見ることはできませんでした。
 この野付半島と人間とのかかわりは、かなり古く、擦文時代の堅穴式住居があることから、1000年ほど前から野付半島には、人が生活をしていたことがわかっています。江戸時代後期までは、北方領土や千島列島での交易や漁業の拠点として、集落がありました。現在もそれらの遺跡が残っています。
 標津川の河口流域では、かつては幅5kmほどもある湿原ありました。標津湿原として知られていたのですが、現在では、灌漑による耕作地化によって、湿地が排水されました。野付半島の変化は、砂の重要な供給源である標津川の変化も反映することでしょう。
 砂嘴が発達すると海流が当たる北側の海岸の砂は侵食を受けます。そしてその砂は砂嘴の先端の成長に使われることになります。野付半島の成長によって海流が影響を受けたのでしょうか、標津川の灌漑のためでしょうか、それとも経年変化のたためでしょうか、砂州からの砂の流出が起こり、砂嘴がなくなっていくのではないかと危惧する声もあります。
 自然は変化をします。大地の変化は、一般には、ゆっくりと長い時間をかけて起こります。しかし、時には短い時間で起こることもあります。上で述べたように、砂嘴の変化も短時間で起こります。砂嘴の形成、消失には、海流が重要な働きをします。ですから、海流の変化が起これば、砂嘴の変化はかなり早く起こります。野付半島の砂嘴のように、古くから人間が住んでいるところでも、見慣れていると思っている風景も、実は時と共に変化しているのです。人間の営為なのか、自然の営為なのか分かりませんが、自然は時々刻々変化しています。そんな自然の変化を、野付半島では感じることができました。

・あごかエビか・
野付「のつけ」とは、アイヌ語で「あご」を意味するそうです。
半島の先端が陸地側に向って大きく湾曲しているのが
人のあごに似ているところから名付けられているようです。
しかし、私には、あまりあごには見えませんね。
アイヌの人が見ると、野付半島はアゴに見えたかもしれませんが、
私にはエビの尻尾にみえますが、これは、時間による変化によって、
今私が見ていると野付半島の形と、
アイヌの人たちが見てい名前を付けた時とは
実は違った形をしていたためかもしれませんね。
もしそうなら面白いことになりますね。

・四角い太陽・
野付湾は、冬特に2月頃に「四角い太陽」が見えることで有名です。
四角い太陽は、空気の温度差によってできる蜃気楼の一種です。
地表付近の大気の温度がマイナス20度以下になり、
上空に暖かい空気があることが条件となります。
2月の寒い頃の特別な気象状態になったときだけに見られるものです。
四角い太陽だけでなく、時には六角形や
ワイグラスのよう見えることもあるようです。
私がいったのは春ですから、そのような太陽は見えるはずもないのですが、
泊まった温泉旅館のご主人が写真を撮られているらしく、
館内に置かれたいるアルバムには、
不思議な太陽の写真がたくさん収められていました。
宿を立つときに好きな写真をどうぞと、
不思議な太陽の写真を頂きました。
写真で見ても、不思議なのですから、
現実に見るともっと心打たれるものなのでしょうね。
でも、寒いのが難ですね。