2006年12月15日金曜日

24 サロベツ原野:時間以上になくしたもの 2006.12.15

 湿原は、人が利用しづらい環境です。利用するために、いろいろ手を入れなければなりません。まして、北海道の北方の湿原ではなおさら困難です。そんな条件が、厳しくも美しい自然を、今に残すこととなったのです。

 私は、サロベツ原野には2度行っています。一度目は30年近く前の大学生の頃です。6月初旬の花盛り頃にいきました。学生時代はお金がなったので、札幌から半日かけて鈍行列車で最寄の駅までいき、無人の駅舎で野宿をし、翌日徒歩でサロベツ原野に向かいました。徒歩のために、サロベツ原野の大きさや自然を身を持って感じました。2度目は、2004年の春に、海岸沿いを自家用車で走りぬけました。何箇所か止まりましたが、その止まったところだけが、サロベツ原野の点として、記憶に残ります。
 若い頃は、口では「忙しい」といいながら、暇を見ては旅行に出かけました。今思い起こすと、よく旅に出てたものだと思います。授業をだいぶサボったのでしょう。それに、夏休みの冬休みのたくさんの時間がありました。それに今と比べれば、時間と体力はずっとあったので、強行軍で肉体的な旅行もできたのでしょう。もちろんお金はなかったので、安上がりに旅することが最優先すべきことでした。お金を節約するために、野宿やヒッチハイクをしながら旅行したものです。その頃は、目的地にたどり着くために、まさに旅行をしていたような気がします。
 仕事に就き家族ができると、今度は時間に追われる生活となりました。金銭的に余裕があるのに、本当に「忙しく」て、自由に旅行ができなくなってしまったのです。最近の私の旅行は、目的地にいかに早くたどり着くか、そしていかに少ない時間で目的を遂げるか、というものになってきました。旅行とは、プロセスではなく、目的を満たすために時間と有効に使って行って帰ってくるのが最優先すべきこととなりました。それでも、今の私とっては、大切な旅行なのです。
 道北の一級河川である天塩川は、天塩町で日本海に注ぎます。天塩川の河口近くで合流するサロベツ川は、天塩川の北側に広い湿原となった氾濫原をもちます。これが、サロベツ原野です。サロベツ原野は、東西5~8km、南北27kmの大きさを持ちます。東と西に丘陵が境となっています。
 サロベツ原野の東側は、大曲断層の西に鮮新世の勇知(ゆうち)層と更新世の更別(さらべつ)層からなる丘陵があります。これらの地層は、海から内湾そして潟へと環境が変わりながらできたものです。現在のサロベツ原野は、かつて海が入り込んでいたことが地層からわかります。やがて、海から潟、そして淡水のサロベツ川の氾濫源となり、湿原へと変化していきます。
 サロベツ原野の西側は、直接海になるではなく、砂丘があり、そこが湿原の境界となります。天塩から稚咲内(わっかさかない)の海岸は、日本海に沿って、まっすぐな海岸線となっています。海岸線に沿って南北に伸びる砂丘(完新世)が、何列かあります。砂丘の延長は35km、最大幅は2kmに達します。その砂丘群が、サロベツ原野の西端にあたります。砂丘と砂丘の間には、湿地や沼地が点在しています。一番奥まった砂丘との間にも、湿原があり、小さな沼があります。その砂丘を東に越えると、サロベツ川の湿原となります。湿原には、南から、パンケ沼、ペンケ沼、そしてサロベツ原野の一番北側には兜沼などがあります。
 サロベツ原野が盆地状の地形になったのは、第三紀から第四紀にかけです。河川の堆積物の流入によって、堆積盆地は埋まっていきますが、盆地が沈降していたので、厚い堆積物が溜まることになります。ウルム氷期の海退の後、間氷期で暖かくなり、海水面が上昇し、海水の進入(海進)します。この頃(約1.2万年前)から今のような湿原となったことがわかります。7000~6000年前には海進が最大になり、大きな潟湖ができました。やがて、堆積物の堆積と海退によって、陸地化し、泥炭層の形成され、現在のサロベツ原野になったと考えられています。
 サロベツ原野の湿原には、泥炭層が分布します。そのため泥炭地固有の植生が形成されています。水鳥たちも多数見られ、繁殖地や渡りの中継地となっています。湿原は開発に手間と費用がかかるため、自然状態のままあまり開発されれことがありませんでした。そのために本来の自然がよく保存されています。1974年9月20日に、利尻礼文サロベツ国立公園に指定されました。また、2005年11月には、サロベツ原野がラムサール条約に登録されています。
 最初のサロベツ原野への旅行は、友人と2人でいきました。夕方駅にたどりつき、夕日を見に山の展望台まで歩いて登って時間をつぶしました。早い時間に最終電車が出た後、駅舎でラーメンつくり、焼酎を飲んで、ベンチで寝袋に包まって寝ました。翌日早朝、パンをほおばり、サロベツ湿原に向かって歩いていきました。初夏とはいえ、朝霧の中を歩く長い道のりは寒く、友人との会話も言葉少なくなってきました。そんな頃、ある牧場の前を通りかかると、一仕事終えたようで、その家の方から話しかけられました。立ち話をしていると、これから朝食だから、たいしたものはないが、食べて暖まっていきなさいといわれました。軽く朝食済ませていたのですが、暖かさに惹かれて言葉に甘えることにしました。かじかんでいた体には、ストーブの炊かれた暖かい部屋はありがたいものでした。出していたただいたのは、大き目に切ったバターをのせた白いご飯に、どんぶり一杯の味噌汁であった。当時の北海道では一般的に朝ご飯でした。大学の寮の朝食も似たようなものでした。そして絞りたての暖められた牛乳。どれもが、かじかんだ体を溶してしまいそうな暖かさでした。こんな過酷な自然の中で生き物を相手に生計を立ておられる方が、見知らない自分たちに親切にしてくさいました。その親切が、なによりも暖かく思えました。朝食頂いたあと別れを告げ、霧が薄らいだ湿原の中を、私たちはまた歩き出しました。
 私たちは、当時の若者としては当たり前の旅行の仕方でした。その時間をかけて歩くという旅行をしたおかげで、こんな人の暖かさに触れる出会いがあったのです。その記憶は、何十年たった今でも、暖かいものとして忘れることなく、思い出されます。もしかすると、旅行の本当の醍醐味とは、こんな人との触れ合いなのではないでしょうか。
 若いとき、お金がなく時間だけが自由に使えた時代は、じっくり時間かけて歩くことで、その地の人たちと同じ目線で、その地の自然に肌で触れることができました。そして時には、人とのふれあいが生まれます。これは、何事にも変えがたい経験、そして思い出となります。
 今は、お金があるのに、時間がありません。するとどうしても、目的地まで速くて便利な移動手段を利用します。北海道では車を使えば、目的地まで速く楽に行けるようになりました。その代わり、人の暖かさに触れる機会もなくしたように思えます。仕事や家庭を持つようになって、時間なくなり、旅行も目的を満たすため、お金をかけるるようになりました。どうも私は、時間以上に旅行するという本質を見失ってしまったのかましません。

・湿原の回復・
サロベツとは、アイヌ語の「サル・オ・ペツ」から由来しています。
葦原を流れる川という意味です。
葦とは、低層湿原に群生している植物で、
まさににサロベツ湿原を表しています。
北海道には、釧路湿原がありますが、
サロベツ湿原北海道の最北端に広がる2万3000haにもなる湿原です。
広大な泥炭地は、酪農には不向きですが、
各地で大規模な農地開発が行われ、
泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットなどで
湿原の水位が次第に低下しました。
しかし、これは、自然を変えることにつながりました。
国立公園内でも、泥炭地の乾燥化が起こり、西側にはササが侵入してきました。
公園の自然を復元するために1983年から
環境庁はサロベツ湿原保全事業をはじめれています。
さまざまな調査研究を通じて、湿原の回復を目指しています。

・記憶のサロベツ・
ここで述べた記憶は、だいぶ昔ことです。
しかし当時の写真をみると、当時の様子を、断片的ですが、
鮮明に思い出してしまいます。
石炭ストーブ匂い、夏だというの寒い駅舎。
暖かいタマネギとジャガイモの味噌汁、
駅舎で食べたインスタントラーメンの味。
バターの塩味、朝食の食パンにマヨネーズをかけて食べた味。
節くれだった牧夫の指、長髪でなまっちょろい自分。
貧しくても心豊かな人々、野望でぎろぎろした目の自分。
湿原の厳しさに耐えて咲く花々、寮の5人部屋の雑然さ。
すべてが過去のことです。
過去の記憶ですから、美化されているかもしれません。
しかし、そんな時代を生きてきた人、
そしてその人と関わった自分が記憶の中にはいます。
私の記憶のサロベツの湿原と数十年後車から眺めた湿原は、
同じようでもあり、違っているようにも見えました。
豊富、手塩中川、羽幌、近くには何度かいってますが、
サロベツ原野は、ここで紹介した2回だけしか訪れていません。
でも、今も30年前のサロベツ原野が私の記憶に生き続けています。