2007年12月15日土曜日

36 幌尻岳:石を愛でる楽しみ(2007.12.15)

 地質百選の中に、北海道の幌尻岳の七つ沼カールが選ばれています。今回は、幌尻岳を紹介します。幌尻岳は、私が地質学を目指したときに出会った山でもあります。

 地質百選というものを御存知でしょうか。2007年10月に「日本列島ジオサイト地質百選」(ISBN978-4-274-20460-9 C3051)という本が出版されたので、目にされた方もおられるかもしれません。
 もともとは、NPO地質情報整備・活用機構と(社)全国地質調査業協会連合会が、地質を中心とした自然で、保全、活用、災害防止、観光などの目的で、全国から「地質百選」を募集したものです。
 この本の中で、北海道からは7箇所が選ばれています。知床半島、白滝(黒曜石)、神居古潭渓谷(変成岩)、夕張岳(蛇紋岩メランジェ)、夕張(石炭の大露頭)、有珠山・昭和新山、そして今回紹介する幌尻(ぽろしり)岳(七つ沼カール)です。
 このエッセイは、行ったところを題材にしていますので、神居古潭渓谷と有珠山は、すでに紹介しました。しかし、知床半島、白滝、夕張岳、夕張はまだ行っていないので紹介できません。そのうち、行こうと思っています。
 幌尻岳は、一度は登り、もう一度は近くの山から眺めたことがあります。ずいぶん前のことなので、記憶もはっきりしないので、取り上げることに躊躇していたものです。しかし、これからしばらく行くことはなさそうなので、今回思い切って取り上げることにしました。
 私の幌尻岳への登山は、私自身の地質学や地質調査への目覚めの時期でもあります。私は大学2年生の夏に地質学を始めると決意して、N先生とA先生に連れられて、はじめて日高山脈に入りました。そのときが、私にとっては、はじめて本格的な沢登りによる地質調査でした。キャンプの道具や食料もすべての荷物を自分で背負って、わらじと地下足袋をはいて、新冠(にいかっぷ)川を遡上しながら調査をしていきました。私と同級生の友人が、二人の先生の野外調査に同行させてもらいました。2泊のキャンプをして、調査をしました。今思えば、同行というより、足手まといにすぎなかったでしょう。ただただ付いていくのがやっとでした。しかし、私にとっては、それまでに味わったことのない経験で、強烈に印象に残っています。
 谷の合間から幌尻岳の白い山容が見えました。新冠川がどこまで行っても川は細ることなく、嶮しくなっていくだけでした。新冠川の源流が、日高の主峰ともいうべき幌尻岳でした。
 3年生になって、夏に進級論文で数週間、学科の学生全員が定められた地域で、野外調査をしました。その野外実習の後の9月には、奥新冠ダムで先生の知り合いと先輩が調査に入っていたので、そのグループに、N先生とA先生、例の友人と私が、合流して調査に加わることになりました。一日を、幌尻岳の登山にあててもらいました。その時、はじめて幌尻岳の山頂に立ちました。しかし、もともと登山が目的でなかったため、あれよあれよというまに山頂に立ち、下山してきました。
 新冠川は、幌尻岳の北東に位置する七つ沼カール源流とします。新冠川の支流の幌尻沢沿いに、幌尻岳の南側の登山道があります。そこを利用して、私は山頂に立ったわけです。
 幌尻岳へは、他に北側の登山ルートが二つあります。ひとつは沙流川の支流の額平(ぬかびら)川から直接幌尻岳に登山するルート、もう一つは、同じく沙流川の支流の千呂露(ちろろ)川から戸蔦別(とったべつ)岳を経由する稜線のルートがあります。
 4年生の夏に千呂露川のルートから、北戸蔦別岳から戸蔦別岳にいきました。私はその時期には、卒業論文で、新冠川より南にある静内川に野外調査のために入っていた。調査も一休みして、N先生といつもの同級生、そして下級生2名のチームに合流しました。戸蔦別岳の麓の水場でキャンプをして調査をしました。そのときも、N先生の調査に同行するのが、主な目的でした。
 幌尻岳周辺のいずれの調査も、私自身は、先生や先輩の手伝いで、自分自身が、地質学的な目的をもった野外調査ではありません。ですから、石や石の出かた(産状といいます)を、いろいろ見るだけで、地質学的な研究をしていたわけではありませんでした。しかし、後で思い起こすと、実は重要なことを学んでいたのだと気づきました。
 標高2052mの幌尻岳は、日高山脈の中でも最高峰で、山も奥深く、アプローチが長く、日帰り登山が不可能な山です。登山ルートはあっても、沢登りもしなければなりませんので、なかなか頂上を極めるのが大変な山です。その山を、登山ではなく、道なきところへ分け入り、調査する地質学者もいるわけです。同行したいずれの調査でも、先生や先輩たちは、真剣に野外調査に取り組んでいました。私が、登るのもやっとのような沢でも、彼らは、黙々として、そして喜々として調査をしてました。それをみて、地質調査、地質学、科学というものは、それほど面白く魅力的なのだということを、見せつけられた思いでした。
 その頃からでしょうか。景色や自然をただ愛(め)でる楽しみより、石や地質を愛でる楽しみのほうが強くなったのは。私も、石と地質の魅力に引き込まれました。今では、若い頃のような体力はなく、多分これからは幌尻岳のようなところへは登れないでしょう。かといって、残念でもありません。頂上を目指すことが地質学ではなく、そこに調べたいものがあるから、調査をしにいく通過点にすぎないのです。たまたま頂上にも調べたいものがあるのなら、調査の一環として頂上に向かうでしょう。ただ、それだけのことです。
 もし地質学者が頂上だけを目指すのであれば、それは趣味というべきでしょう。4年生の卒業論文で野外調査をしている時、調査地の近くにあったペテガリ岳や、少々遠いですがアポイ岳に、趣味として登っていました。これは地質調査ではなく、頂上だけを目指すことだけが目的でした。早くたどり着き、すぐに降りてくる。登ったという実績、経験だけが重要でした。まあ、あのころは体力があったので、そんなこともできたのですが。
 最後になりましたが、幌尻岳周辺の地質を紹介しておきましょう。
 日高山脈は、かつては大きな山脈ではなく、海に列島があっただけでした。列島の東側にも海がありました。列島の東側の陸地は、オホーツク古陸と呼ばれ、多くの堆積物を海に流し込んでいました。西側の陸から供給された堆積物も見つかっています。
 海には沈み込み帯があり、今では日高山脈と平行に南北に伸びる白亜紀頃に形成された神居古潭帯と呼ばれる地域にあたります。その後(新生代中新世)、沈み込み帯が東にジャンプし、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がってきました。それが日高山脈を形成したと考えられます。
 日高山脈には、列島をつくっていた岩石(新生代中新世)と海洋底をつくっていた岩石(白亜紀)が見えています。日高山脈の伸びる方向に沿って、両岩石が並んで分布しています。海洋地殻をつくっていた岩石(オフィオライトと呼んでいます)が、現在の幌尻岳では、その様子が良く見えます。そのために、幌尻岳を中心として分布する海洋底の岩石は、ポロシリ・オフィオライトと呼ばれています。
 N先生は、地殻下部からマントルの岩石(斑れい岩やカンラン岩)を、A先生は地殻下部の変成岩を、それぞれ調べておられたのです。今では、その調査の意味もわかっているのですが、当時の私は、日高山脈の雄大さと、初めての経験の連続で、地質学の内容を充分味わうことができませんでした。
 日高山脈は、新しい時代にできた急峻な山並みです。北海道のような高緯度であったため、氷河期には、山岳氷河が山脈に形成されました。今では氷河は残っていませんが、氷河の痕跡が、日高山脈のあちこち残されています。
 幌尻岳が地質百選に選べれた理由は、カールやモレーンなどの氷河地形が幌尻岳の周辺にはいくつもあるためです。戸蔦別岳の南東斜面には、七つ沼カールがあり、幌尻岳の北側には北カールがあります。カールには、どんなに雨が少ない時期でも、水場があり水が枯れることなく確保できます。そのカールに溜まった水を飲んで、私たちはキャンプや調査をしていたのです。

・83箇所・
地質百選には、全国から約400箇所の応募がありました。
今回83箇所が選ばれました。
関係自治体に通知して了承を得た後、
認定書を送付して公表されました。
地質学的な選定基準として
日本の地史として重要なもの、代表的な岩質(堆積岩、火成岩、変成岩)、
特殊な鉱物(ヒスイ)の産地、地質とかかわりの大きい地形、
地殻変動(褶曲や断層)、鉱山や人文遺跡、火山、防災
などから代表的なところが選定されました。
なぜ100箇所でないのか、不思議ですが、
これは、2007年5月現在の第一次選定の結果です。
残りの17箇所は、新たな立候補も受け付け
選定を続けるため余地を残されています。
是非にと考えておられるところがあれば、
応募されたらどうでしょうか。

・師走・
いよいよ今年も押し詰まってきました。
残り半月となりました。
北海道のわが町では、11月に降った雪が消えることなく、
昨日は大雪が降りました。
これで根雪になるのでしょうか。
そろそろ来年のことも考えるようになっていきました。
それより前に、今年にすべきことを、
終わらせるべきことを、
あせる時期になりました。
でも、考えてみると、いつもばたばたしている気がします。
落ち着いて何かをすることが、
最近なかなかできなくなったような気がします。
何かに追われながら、つぎつぎと仕事を
ただただ、こなしているような気がします。
これで、いいのだろうかと、ついつい考えてしまいます。
そんな悩みも、師走は吹き飛ばしてくれます。

2007年11月15日木曜日

35 白神山地:静寂の湖面に映りこむ動乱(2007.11.15)

 秋田県の白神山地の麓に十二湖というところがあります。多数の湖の中に青池と呼ばれる不思議が色をした池があります。その静寂に包まれた湖面に映る景色には、動乱が映りこんでいました。

 今年の夏に、白神山地の近く出かけました。白神山地へ山登りをしたり、山奥まで入ったわけではありません。白神山地から少し外れた山麓に十二湖というところがあります。そこに出かけました。青森県深浦町にある十二湖に私が訪れた目的は、地滑りでできた湖沼群と日本キャニオンをみることでした。青池と呼ばれる池は、名前の通り青く透き通った不思議な色をしているそうなので、その池もみたいと思っていました。
 地滑りは、1704年に起こったマグニチュード7の能代大地震によって、山が崩壊(山津波とも呼ばれるもの)したためだと起こったとされています。地滑りが、川をせき止め、多数の池を形成したと考えられています。池の数は、33(数え方によっては31)にのぼります。
 日本キャニオンは、1953(昭和28)年、当時の国立公園審議委員で探険家でもあった岸衛が、その景観を見て、アメリカ合衆国にあるコロラド山地のグランドキャニオンに見立てて名づけたものです。これは、少々名前負けしていてスケールははるかに小さいものです。白い酸性凝灰岩(流紋岩から真珠岩質)が侵食されつつある崖が印象的です。この崖は海からも眺めることができ、昔から、海上通行の目標にもされていたようです。
 白神山地には、秋田県と青森県にかけて広がるブナを中心とした原生林があります。1993年に、法隆寺や姫路城、屋久島とともに、白神山地は日本で最初に世界遺産に登録されました。世界遺産の指定地域にあたるのは、7割が青森県にあります。
 世界遺産には、文化遺産と自然遺産、複合遺産(日本にはありません)がありますが、白神山地は屋久島と共に自然遺産に区分されます。白神山地は、世界遺産登録基準の9項の「陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの」にあたります。
 人手のほとんど入っていないブナの原生林が白神山地の源流域にあます。その広さは、世界最大級といわれています。ブナ林の内には、多様な植物が共存し、それらの植生に依存した多様な動物がいます。ブナは木へんに無と書きます(漢字の第二水準にはありません)。ブナは落葉樹で、寒い地方では低地に、暖かい地方では高地に育ちます。北海道の黒松地方が北限といわれています。このような自然のままの生態系が今も手付かずのままで残っていたのです。
 1万年前の最終氷河期が終わり、8000年前ころには、白神山地にはブナ林が形成されていたことがわってきました。現在の日本で、それも本州でブナの原生林が残っているのは、不思議な気がします。でも調べていくと、原生林が残ったのには、それなりに理由があったようです。
 ブナは、大木になるのですが、シイタケ栽培や食器などの加工には利用されていたのですが、腐りやすく狂いが生じやすいので、建材として用いられることはあまりありませんでした。ですから昔から木なのですが木材として利用できないことから、「木へんに無」という漢字があてられたという説があります。建築用材に適さないことから、ブナは伐採を免れる条件があったのです。
 ブナは寿命が短く200年程度とされています。ですから、ブナの生育に適した山を放置しておけば、比較的短い期間で倒木更新などの世代交代をする原生林となります。ブナの森には、ブナ自身の落ち葉や倒木が栄養となり、他の動植物の養分や住みかなどとして利用し、多様な生態系を生み出します。
 白神山地は、焼く9800~6400万年前(白亜紀)の花崗岩類からできています。1600万年前~500万年前頃(中新世)の堆積岩(凝灰岩、泥岩、砂岩)とそれを貫く火成岩類(流紋岩、石英閃緑岩等)から構成されています。
 このような白神山地の岩石類は、不安定で、そのうえ隆起が続いているため、崖崩れが起こりやすくなっています。伐採用の林道をつくっても、崖崩れのためにすぐに使えなくなってしまいます。また、この地域は冬には半年間も雪に埋もれるため、大規模な林道建設も難しく、開発が進みにくいところでもありました。
 そのようないくつかの要因が組み合わさって、白神山地ではブナの原生林が残ったと考えられています。白神山地は、古来から行われてきた集団で狩猟をおこなうマタギだけが利用するの山となっていたのです。
 十二湖付近は、奥の山地(東側)が中新世の火山岩類(玄武岩から安山岩)ができており、断層に境されて、西側には1000万年前の赤石層と呼ばれる堆積岩があります。主に黒色の泥岩(硬質頁岩と呼ばれています)からできていますが、下部に300mほどの厚さを持つ凝灰岩(十二湖凝灰岩部層と呼ばれています)があります。これら弱い岩石が崩れて、地滑りとなったと考えられます。
 1970年代になると、ブナは楽器の材料として利用されるようになり、白神山地の原生林にも目がつけられました。1978年に白神山地の中央を通る林道が計画され、1982年に秋田県側から工事が開始されました。工事の直後から白神山地でひんぱんに崖崩れが起きはじめ、被害が出てきたため、林道建設反対運動が起こりました。その結果白神山地は、1990年には林野庁が森林生態系保護地域に指定、1993年12月11日には世界遺産に登録、2004年3月31日には国指定白神山地鳥獣保護区となりました。その結果、白神山地のブナの原生林と自然は守られるようになりましたが、この地のマタギの伝統がなくなってしまいました。
 名前の通り青池は、透明で青く澄んだ不思議な色をしていました。湖面に映る木々の反射と、高い透明感で池に沈んでいる木々が見えることが、さらに神秘さを増しています。しかし、その静寂な景観の中には、地滑りという激しい歴史がありました。それの激しさを、静寂の湖面や日本キャニオンから感じている人はいるのでしょうか。

・十二湖・
青森県の津軽半島の青森県五所川原市(旧市浦村)に
十三湖というところがあります。
十二湖とは、文字の上では湖の一つ違いですが
十三湖は十三湊(とさみなと)が語源となっており、
直接の関連はありません。

・サンタランド・
深浦町ではサンタランド白神という施設に泊まりました。
名前の通りサンラクロースにちなんだ施設でした。
なぜ、青森でサンタなのか不思議に思いました。
これは、深浦町(旧岩崎村)が
フィンランド国ラヌア郡と姉妹都市協定を結んだためです。
ラヌア郡はサンタクロースの故郷とされているところなので、
姉妹都市の締結を記念して、サンタランドが建設されました。
私がいったは8月の一番暑い時期でしたが、
施設は運営されていて、コテージに泊まることができました。

2007年10月15日月曜日

34 旭岳:山頂から謙虚さをみる(2007.10.15)

 9月下旬の3連休に、家族で旭岳に登ってきました。連休の間は、好天に恵まれて、絶好の登山日和となりました。そして北海道の最高峰に立つことができました。

 旭岳は、大雪山の中にある北海道の最高峰(2290m)を誇ります。北海道で一番早く秋が訪れるところでもあります。私たちが登ったときは、もう紅葉が始まっていました。
 旭岳の麓には、旭岳温泉として、ホテルや旅館などの宿泊施設がいくつもあります。旭岳温泉にはロープウエイの乗り場があり、ロープウエイを使えば4合目まで一気に登ることができます。ですから、北海道の最高峰でありながら、5合目あたりまで多くの観光客が訪れるところです。
 私が地質調査をはじめる前は、山登りや山歩きが好きで、近くの山を一人で登っていました。山登りとはいっても、ピークハンターのように頂上を目指すのが目的ではなく、自然の中を歩き回ることがもっぱらでした。もちろん、いくつかの山頂には立ちましたが、それは余禄のようなものでした。
 地質調査をするようになった頃は、山頂を目指すより、地質学の面白さを野外で満喫するようになっていました。調査のために沢に入ることが多く、今まで味わったことのない自然の趣を、沢登りを通じて味わっていました。そして自然の奥深さを感じていました。
 若い頃もそうだったのですが、地質調査を始めてからは特に、頂上を目指すことにあまり意味を見出せませんでした。目的もなしに頂上に行くことは無駄だとすら思っていました。本格的な登山する人の足元にも及びませんが、気がつくと結構あちこちの山頂を極めていました。
 家族で山に出かけるようになってもその考え方は変わらず、登頂は目的の一つにすぎません。子供や家内、自分自身の体力を考え、例え山頂を目指していても、無理はしなくなりました。今回の旭岳の登山も、長男が8合目でバテたので、家内と長男は下山させて、体力がまだ大丈夫であった次男と私が、登山を続けて、頂上に立ちました。
 旭岳を訪れる多くの観光客は、頂上を目指すのではなく、高原の景観を味わうことが目的でしょう。9月の下旬は、旭岳のロープウエイの姿見駅を降りると、まだ森林限界を越えていませんので、紅葉が楽しめます。池越しに見る紅葉は美しいものです。
 しかし、ロープウエイの駅付近でなんといっても目を引くのは、紅葉の向こう側に広がる景観とのコントラストです。山頂から急激に切れ込んだ谷(地獄谷と呼ばれています)は非常に荒々しいものです。
 西側に開いた谷には、噴煙を上げている噴火口が、何箇所も見えます。旭岳が活動して火山であることは、誰の目にも明らかです。風向きによっては、硫化水素の匂いも漂ってきます。
 旭岳を含む大雪山は、100万年間活動を続けている巨大な火山の集合体です。大雪山では、20個以上の火山体が確認されています。大雪山の中央部に直径2kmにもおよぶ大きなカルデラ(御鉢平カルデラと呼ばれています)があります。このカルデラは、約3万年前の大雪山ではもっとも大きな噴火でできたものです。
 旭岳は、御鉢平カルデラの南西のはずれにあたります。2万~1万年前から活動をはじめて、約6500年前まで活発な噴火をしていました。安山岩のマグマが噴火したもので、活動初期には溶岩を何度も流しましたが、その後爆発的な噴火に変化して、降下スコリアや火砕流を出しました。このような火山噴出物が、旭岳の火山体をつくりました。
 3000~2000年前ころに、水蒸気爆発によって山頂から西の山体が崩れて(岩屑なだれ)、現在の地獄谷ができました。この岩屑なだれや泥流の堆積物は、旭岳温泉にまで達しています。
 1000年前以降に、現在、姿見の池と夫婦池になっているところで噴火が起こりました。さらに250年前以降にも、地獄谷で水蒸気爆発が2度にわたり起こりました。その時に、現在も活動中の火口群が形成されました。旭岳は、現在も活発な噴気活動を続けています。
 旭岳の山頂から北東の方向を眺めると、御鉢平カルデラ周辺にある山々が見えます。残念ながら、御鉢平カルデラは、間宮岳が邪魔をしていて全貌を見ることができません。しかし、その巨大なカルデラさえ小さく見えるほど大雪山は大きいのです。
 大雪山からは多くのピークが見えます。それらの多くが火山であることがわかります。旭岳の登山道は火山由来の岩石からできます。山頂から眺めだけで、大雪山が巨大な火山である証拠が、いくつも見つかります。
 山頂から眺めると、大雪山は雄大なだけでなく、多様な自然や、神々しい景観を生み出していることが見えます。そんな雄大さと比べ、一つの山頂を極めただけで満足する人間の小ささを感じました。一つの山頂に達することが大切なのではなく、大雪山の偉大を感じることが大切なのでないでしょうか。自然の偉大さの前には、人は謙虚であるべきではないでしょうか。旭岳の山頂で、そんなことに思いを馳せました。
 登山から帰った翌日の新聞をみると、旭岳のカラー写真が第一面を飾っていました。今年はじめての冠雪が観測されたというニュースでした。その新聞記事を読んで、数日初冠雪が早ければと登頂はできなかったと思います。今回は本当に天候に恵まれたと思えました。
 北海道は、これから短い秋から、一気に冬に向かっていきます。

・ラッシュ・
昨年も同時期に旭岳温泉を登山のために予約をしようとしたら、
満員でどこにも泊まることできませんでした。
今年はなんとか予約をすることができました。
同じホテルに2泊して、丸一日を登山日にしました。
9月下旬は、北海道の高山では紅葉が始まる頃です。
今回の連休は、久しぶりの好天なので、
ロープウエイを使って多くの観光客が訪れていました。
私たちもロープウエイを使って登りました。
私たちが下山した午後2時ごろは、
ちょうどラッシュの真っ最中で、
1時間ほどロープウエイに乗るのに並ばねばなりませんでした。
疲れた体で行列をするのは大変でした。
北海道にいると都会を除いて混雑はほとんどないので、
こんな長蛇の列に並んだのは、珍しい経験でした。

・タフ・
今回の旭岳の登山で、我が家で一番体力のあるのは
小学校1年生の次男であることが判明しました。
次いで私で、小学校4年生の長男、家内と続きます。
本当は長男も体力があるはずなのですが、
すぐにあきらめてしまうところがあります。
長男が1、2年生の頃は、今の次男のように体力がありました。
なぜか、3年生になった頃から、急に体力がなくなりました。
あきらめ癖がついたのかもしれません。
一方、もともと次男は体力がある上に、
負けず嫌いな性格もあいまって、
少々のことでは弱音を吐きません。
登山途中はかなり苦しそうでしたが、
休めば体力はすぐに回復していました。
私は登山後、数日間、筋肉痛に悩まされました。
私の体力も衰えているのでしょうが、
今回の登山では、次男のタフさには驚かされました。

2007年9月15日土曜日

33 一ノ目潟:地球の覗き穴(2007.09.15)

 一ノ目潟は、地質学的非常に珍しい火山の噴火口です。一ノ目潟の火口は、地球を覗くための穴として重要な役割をもっています。

 2007年8月1日と2日にかけて、男鹿半島にいきました。私は30年ほど前に友人と一緒に来たことがありますが、それ以来です。今回は、家族旅行をかねていましたが、調査も少ししました。
 秋田空港からレンタカーで男鹿半島に向かいました。男鹿半島に向かう途中、付け根にある八郎潟(はちろうがた)を眺めました。八郎潟は、御存知のように干拓地として有名です。干拓は、戦後の食糧増産を目的としておこなわれた事業でした。1957年から干拓工事がはじまり、1977年に終わりました。
 八郎潟は、もともとは琵琶湖について2番目に大きな湖(220km2)だったのですが、干拓後は約50km2の大きさになりました。湖とはいっても、海とつながった汽水でしたが、現在は干拓によって淡水化され、汽水湖時代の主力のシジミなどは採れなくなってきたようです。
 男鹿半島は、もともと半島で陸続きであったのではなく、火山によってできた島でした。米代川と雄物川から運搬される土砂により、北と南で2つの砂洲で本州につながっていました。その砂洲の間にあったのが八郎潟でした。
 もっと過去に遡れば、パレオジン(古第三紀とも呼ばれています)の初期(6200万年前ころ)には、大陸を構成するような花崗岩(正確にはアダメロ岩といいます)があります。この花崗岩は、男鹿半島の北西端の赤島付近の海岸に少しだけ顔を出しています。その後、火山活動が始まります。現在の日本海側では、ネオジン(新第三紀)の中新世を中心とする火山活動が活発に起こります。その多くは海底での火山活動でした。火山岩類やその火山砕屑岩類が、海底の熱水で変質をして、緑色になっていることから、グリーンタフ(緑色凝灰岩という意味です)と呼ばれています。そこから、グリーンタフとは、日本海側のネオジンに起こった一連の火山活動をさして使われています。同じようなグリーンタフの活動は、北海道の東部にも見つかっています。
 火山活動とともに、火山の周囲には、海が繰り返し進入してきて、堆積岩が堆積していきます。それらの地層は、化石によって詳しく調べられ、詳細な時代区分がなされています。そのために、男鹿半島の地層は、日本海側の新生代の模式的な地層とされています。
 一番最近の火山活動は、寒風山(かんぷうざん)と目潟火山です。
 標高354mの寒風山は2万年以前に活動を開始し、大半の溶岩は2万年以降に噴出しました。初期の溶岩流は淡水の湖水に流れこみ、湖成層と複雑に互層しています。火山岩としては、安山岩が主で、少量の玄武岩を伴っています。一番新しい活動は2700年前の火砕流でしたが、これを最後にして、その後の地震や噴気の活動は起こっていません。
 目潟火山は、更新世の最末期に活動しました。その活動は、男鹿半島の西にある丸い形の一ノ目潟(6万~8万年前)、二ノ目潟、三ノ目潟(2万~2万4000年前)という噴火口として残されています。目潟には、水が溜まり、池になっています。
 目潟火山は、マールと呼ばれる火口が特徴です。マールは、マグマが水に接触して、マグマ水蒸気爆発を起こして形成されます。火砕サージが発生して、火口の周囲に低い環状の丘を形成します。
 マールは、大抵は一回の噴火でできることが多いのですが、一ノ目潟は、2つの時期の活動があったとされています。最初の水蒸気爆発によってマールを形成したときに、火山泥流(ラハール)を発生させています。その後、ニノ目潟の形成と同時期に、水蒸気爆発を起こして、軽石を放出しています。
 実は男鹿半島での私の調査の目的は、一ノ目潟に行くことでした。この一ノ目潟は、3つの目潟火山の中でも一番大きなマールとなっています。三ノ目潟は、玄武岩(正確には高アルミナ玄武岩と呼ばれています)のマグマです。一方、一ノ目潟とニノ目潟は、安山岩(正確にはカルクアルカリ安山岩と呼ばれています)のマグマで、三ノ目潟のものとは種類が違っています。
 一ノ目潟では、マグマが通ってきた地下深部の岩石を捕獲して、マグマと一緒に地表に噴出しています。このような岩石を、捕獲岩といいます。一ノ目潟の捕獲岩は、地質学者には非常に有名で、男鹿半島に出かける地質学者の多くは、捕獲岩を採取をしようと考えています。一ノ目潟の捕獲岩には、マントルから上がってきたカンラン岩や、地殻深部にあったと考えられる斑れい岩や花崗岩などもあります。
 捕獲岩をもたらす一ノ目潟のマールは、地球の覗き穴というべきものです。人間の、地下を探る技術は、まだまだ稚拙で、深く掘ろうとすると経費や手間が必要となります。ところが、火山は、地球深部の物質を、自然の力で地表まで持ってきてくれるのです。それが捕獲岩なのです。捕獲岩は、「地球の覗き穴」なのです。
 私も、捕獲岩の採取が目的でした。しかし、それはかないませんでした。男鹿市の水源池というので柵がありましたが、ちょうど取水口の作業中なので、入れてもらって、写真だけをとりました。作業中でしたので、湖岸には下りませんでした。
 もし、湖岸に降りられたとしても、採取をしていはいけなかったのです。なぜなら、2007年7月26日に「男鹿目潟火山群一ノ目潟」として、国の天然記念物に指定されたからです。その指定理由は、「マールの典型として、また単性火山群の典型として」貴重であるためです。これからは、一ノ目潟は、天然記念物として保護されることになりました。
 私が訪れた時は、そのようなこと状況を知らず、掲示もありませんでした。試料を採らなくてよかったです。罪を犯すことになるのです。今後、一ノ目潟に入るには、文化庁もしくは県の許可が必要になるでしょう、地質学者も気軽に調査に入ることも、標本を採取することもできなくなるはずです。現在、地質学者で一ノ目潟の標本をお持ちの方は、大切にされるといいでしょう。もしかすると、これらかは、ほとんど手に入らない貴重な標本かもしれません。
 一ノ目潟の捕獲岩は非常に有名で、男鹿半島を訪れた多くの地質学者が、採取にいったことがあるはずです。人気のあるのは、なんといってもマントルから上がってきたカンラン岩類です。二番人気は斑れい岩類で、次いで花崗岩類なります。その順に捕獲岩は採取されていきます。結果として、一ノ目潟の周囲の捕獲岩は、花崗岩が比較的多くなり、斑れい岩が少なくなり、カンラン岩にいたっては稀なものとなってきます。私が30年前にいったときも、カンラン岩は少なかったのですが、それでもがんばれば、いくつも見つけることはできました。今では、もっと少なくなっていたことでしょう。
 これは、明らかに地質学者(あるいはそのタマゴの学生)による乱獲のためです。持ち帰られた標本の多くは、研究材料とすることなく、どこかに紛失してしまいます。ですから、いくら学生の勉強のためとはいえ、乱獲によって、貴重な試料がなくなるのは、人類にとっての大きな損失です。保護しなければなりません。それを憂えたため、今回の天然記念物への指定となったのでしょう。
 貴重な自然物ですから、保護は必要だと思います。しかし、保護のせいで、研究がしづらくなるのも確かです。これからの地質学者を目指している学生や大学院生は、もう一ノ目潟の捕獲岩を研究テーマにすることは、なかなか難しくなりそうです。
 せっかくの地球の覗き穴が、乱獲のために、閉じられてしまいました。科学発展と保護は、なかなか難しい問題です。

・処罰・
一ノ目潟は、国の史跡名勝 天然記念物になっていますので、
文化庁の管轄になります。
また、「文化財保護法」によって、
さまざまなことが法律で定められています。
もし、誰かが、無断で岩石を持ち帰ったら、
罰則規定が適用されるはずです。
もし私が資料を持ち帰って処分されるとすると、
「第196条 史跡名勝天然記念物の現状を変更し、
又はその保有に影響を及ぼす行為をして、
これを滅失し、き損し、又は衰亡するに至らしめた者」
とみなされたら、5年以下の懲役若しくは禁錮
又は30万円以下の罰金となります。
あるいは、犯罪の程度によって、
さまざまな罰金刑に処されることになります。
私が知らずに、日付入りで標本を採取したことを
このメールマガジンなどで公開したら、
処罰対象となっていことでしょう。
今思えば、少々、冷や汗ものでした。

・湖底堆積物・
目潟の湖底には、堆積物が溜まっています。
その堆積物をコアとして採取すると、
縞状の堆積物を採取することができます。
その堆積物は、花粉や生物の遺骸、化学成分などから、
気候の変動を読み取るための
タイムレコーダーとして利用されています。

・戸賀湾・
男鹿半島の西側に戸賀湾があります。
この戸賀湾の西が切れて海とつながっています。
しかし、もともとは非常に丸い形をしていたことがわかります。
目潟火山と同じようなマールではないかと思えるほどです。
しかし、どうもマールではないようです。
もちろん、火山の火口には違いがありません。
しかし、火山の活動年代が42万年前で、かなり古いものです。
さらに、活動したマグマも流紋岩です。
明らかに目潟の一連の火山とは別の活動によるものです。

2007年8月15日水曜日

32 京都と札幌:盆地の暑さと異常気象(2007.08.15)

 北海道は猛暑に襲われています。本州並みの暑さといわれていますが、私は故郷の京都を思い出しました。そんな暑さの中でこのエッセイを書いてます。

 暑中お見舞い申し上げます。私は暑さのために少々夏バテ気味です。
 私が住む江別市は、8月上旬は、7月の雨不足を補うかのように、雲りがちで雨の多い天気でした。日照不足が危惧されるほどの曇天でした。ところが8月中旬になると、一転して、30℃を越える、例年にない猛暑と高湿度に襲われました。このエッセイを書いているのも、その暑さの中でです。
 この猛暑は、涼しい北海道の気候になれた人間には、たまらない日々となっています。私はもともと本州の京都の出身で、暑さには馴れているはずですが、北海道にしばらく住むと暑さには弱い体となってしまったようです。
 さらに、北海道の家は、冬の雪対策や寒さへの暖房は完備されているのですが、暑さへの対策はなされていません。エアコンのある家も少なく、もちろん我が家にもありませんので、暑さにはまいっています。寒さ対策だけのはずが、我が家には、なぜか扇風機が2台あります。これは暖房の熱をかき混ぜるために買った冬用ですが、今年は、夏に活用しています。
 特にここ数日は、夜も涼しくなることはなく、寝苦しい天気です。私の寝ている部屋は、風の通りがよくなく、窓を全開にしても蒸し暑さが消えることなく、扇風機で外の空気をいれなければ、寝ることもできないほどの暑さです。私は北海道に来て6年目ですが、こんなに暑い日が続くのは、初めての経験です。
 大学の研究室は、もっとすごい状態です。朝の6時過ぎに来ても、部屋に入るとムットした熱気がよどんでいます。窓を開けても空気が流れません。同じフロアーの廊下の窓をいたるところを開けているのですが、それでも風が流れません。私の研究室は5階建ての5階にあります。南北に伸びる建物で、真ん中の廊下を挟んで両側に研究室があります。私の研究室は西側にあり、窓は西向きにあります。ですから、夏は午前中だけは日も差し込まず、涼しく仕事ができるのはずなのですが、この夏の暑さでは、朝からダメです。前日の西日によって暖められた部屋の熱が、暑い夜に冷やされることなく、そのまま留まっているます。
 さらに、朝から天気がいいと、屋上を照らす太陽の熱が、最上階の研究室を直接暖めています。そして部屋の空気が流れませんので、ぐんぐん研究室の温度が上がっていきます。先ほど8時過ぎに、あまりの暑さにたまらなくなって、1階の自動販売機に冷たい飲み物を買いにいったのですが、1階の涼しさにほっとしました。5階との温度差は歴然としています。
 まして研究室には熱源となる、サーバのパソコンが常時動いています。そのサーバには無停電装置が付いています。研究室に私がいるときは、メインのデスクトップのパソコン1台、それには4台のハードディスクがついています。さらにノートパソコン、プリンターが動いています。これらは、熱を発生し、室温を高めています。
 風の通らない私の研究室は、まさに盆地の夏の暑さと同じです。そして研究室に多数の熱源があるということは、その盆地に都市があるというヒートアイランドと同じ効果が起こっています。
 私が生まれ育った京都も、盆地でした。私の故郷は、京都の南部の城陽市というところです。京都盆地は、南の最奥部で山一つ隔てて奈良盆地へとつながります。その京都盆地の南の底に当たるところに城陽があります。
 京都盆地の南端の城陽市は、空気の流れが悪く、夏は非常に暑いところになります。また交通の要所ともなっており、排気ガスもかなり多く、学生時代は光化学スモッグ注意報がでて、屋外の活動がストッなったこともたびたびありました。そんなところにわが故郷の町は位置していました。城陽市は、南西部の上野盆地からくる木津川の流れの出口でもあります。川の流れは、盆地をあまり涼しくはしてくれません。
 京都盆地は、木津川だけでなく、北東にある琵琶湖から高瀬川として流れでて宇治川へと続く流れ、京都の北山から流れる加茂川、亀岡盆地に集まった流れが保津峡を通り桂川へなったもの、大きな河川がすべて集まるところでもあります。そんな流れの堆積物が埋めて平らになったのが京都盆地です。集まった川は、合流して天王山のある狭いところを出口として淀川となり海に流れていきます。
 木津川の右岸に広がる城陽市は、東の山からの伏流水で地下水も豊富で水不足になることはありませんでした。しかし、山の開発が進み、地下水位も下がり、実家でも地下水の利用はだいぶ以前からできなくなりました。
 木津川周辺は、水利がよく農耕には適した地でした。しかし、木津川は暴れ側で治水のために堤防を長年にわたって築いてきました。天井川とよばれる高い河床を持つところもあります。しかし、川は恵みももたらしてくれました。木津川周辺は肥沃な農耕地ともなっています。農耕地には、砂の多いところもあり、氾濫原であったことをうかがわせます。そのような砂地を利用して、サツマイモなのどの畑作に利用されてきました。
 私は京都を離れて、30年ほどになります。母も兄弟、親族も京都にまだ大勢住んでいます。その間、何度も京都に帰省しています。しかし、法事などの特別な時以外は、夏にはほとんど帰省したことがありません。それは盆地の暑さが身にしみているので避けているからです。ここ数日の暑さは、京都の暑さを思い出させます。
 例年にない気象、たとえば今回の暑さのような日々が続くと、こんな暑さは異常気象だといって騒ぐ人もいます。12日、13日の「日最高気温」は、両日とも札幌で34.0℃となっています。これは、大変異常なことのように思えます。
 しかし、札幌の「日最高気温」の記録を調べてみると、1位が1994(平成6)年8月7日の36.2℃、2位1943(昭和18)年7月21日35.8℃、3位1924(大正13)年7月11日35.5℃、4位1978(昭和53)年8月3日35.2℃、5位1972(昭和47)年8月7日35.1℃となっています。ですから、暑いことに違いはありませんが、記録的ではないようです。3位1924年の例外とすれば、そのほかの記録はすべて昭和以降のものです。ですから、昭和以降、暖かい時期になっているといえます。
 では、札幌の「日最低気温」もついでにみていきましょう。1位が1900(明治33)年7月8日5.2℃、2位1900(明治33)年7月14日5.3℃、3位1902(明治35)年8月27日5.3℃、4位1889年(明治32)8月7日5.6℃、5位1904(明治37)年7月3日5.8℃となっています。記録を見てわかるように、冷夏の時期は、明治後半に集中しています。そのころが寒い時期であったといえます。
 このような地域の暑い寒いなどの変動は、周期性のある変動があることは確かです。ですから異常気象ではなく、自然の変動の幅の一つに過ぎません。
 もしこの暑さが、地球温暖化であれば、周期性はなく一方的な変動となります。さて本当のところはどうでしょうか。江別の暑さの中で、これは最高記録ではないのだといって気休めを言っていますが、一向に涼しくはなりません。

・熱暴走・
今回のエッセイは、予定しているところのデータを
集めることができませんでした。
時間はあったのですが、暑さのためにハードディスクを
認識しないトラブルが何度かありました。
あまりムリをすると熱暴走して、
破損をすると大変なことになるので、
無理をしないことにしています。
ですから、手持ちのデータでささっと今回は書き上げました。
申し訳ありません。

・故郷の自然・
暑くなったら故郷を思い出すというのは、
少々まずい気がします。
もちろん、いろいろなきっかけで故郷を思い出すことがあります。
実家の周辺は帰るたびに変化に気づきます。
私の心の中の故郷の自然は、いずれも30年以上も前のものです。
その後の変化を私はほとんど知りません。
帰省している時に断片的に眺めていはいますが、
きっちりと心に焼き付けていることはありません。
ですから、古いままの自然が
いまだに私の心の故郷となっています。

2007年7月15日日曜日

31 角島:人と大地の架け橋(2007.07.15)

 山口県で有名な観光地として、カルスト地形の秋吉台があります。しかし、山口には他にもいくつか地質学的に面白い見所があります。山口県の北西の日本海側にある角島もその一つです。

 響灘(島根県から山口県の日本海を指します)にある角島(つのしま)へは、学会の見学旅行で訪れました。それまで私は、この島の存在を知りませんでした。2005年公開された映画「四日間の奇蹟」という映画の舞台になって有名になったそうですが、私はその映画を知りません。私が訪れたのは、2002年の夏のことでしたたから。
 角島は、4km2ほどの小さな島ですが、北長門海岸国定公園内に入っています。1965年に国定公園の指定を受けましたが、1997年に角島一帯が北長門海岸国定公園に編入されました。この国定公園は、響灘に面した複雑な海岸線がウリとなっています。海岸線の複雑さは、大地の生い立ちと、形成後の隆起や沈降、そして波による侵食によって形成されてきました。そのような複雑な生い立ちの縮図ともいうべきものが角島でも見られます。
 鼓のような形をした島で、北西の夢ヶ崎と北東の牧崎の岬が、牛の角に似ていることから、角島と名付けられたそうです。角島は古くから知られており、万葉集にも詠まれています。
 かつては、角島へは下関市豊北町から1.5kmほど離れているため、船で渡らなければなりませんでした。現在では、角島大橋ができ、車で渡れるようになっています。角島大橋は2000年に完成したもので、1780mもあり、離島への一般道にかけられた橋としては、日本でも2番目の長さを誇っています。橋は、きれいな曲線を描いており、長さだけでなくその優雅さもなかなか見事です。
 橋を渡っていく途中に、鳩島という小さな島の脇を通ります。ここもなかなかの地質学的に見どことがあります。鳩島にはきれいな柱状節理を見ることができます。しかし、橋から鳩島は少し離れているので、見るだけで島に上がることはできません。
 柱状節理をつくっているの岩石は火山岩です。残念ながら鳩島では、岩石に近づくことはできませんが、角島の橋の袂や、西部の海岸で手にすることができます。
 角島は、北東側と南西側にふたつの高まりがあり、両地区を結ぶ中央部が低い地帯(本文では地峡部と呼びます)となっています。北東側を元山地区、南西側を尾山地区と呼んでいます。
 角島は、今ではひとつの島ですが、地峡部をはさんで島の両地区の生い立ちが違っています。
 島の大地の歴史は、3500万年前ころの火山の活動からはじまります。この火山活動によって、尾山地区を構成する主要な岩石である火山岩(下部が輝石安山岩で、上部が角閃石流紋岩)ができました。この火山岩は、田万川火山岩類と呼ばれています。
 その後、地峡部に、3000万年前の砂岩や礫岩からなる地層(日置層群峠山累層)がたまります。
 1600万~1500万年前には、元山地区の主な岩石である砂岩や泥岩の地層(油谷湾層群川尻累層)が堆積します。そして、地峡部に大きな断層ができます。断層は今も海岸で見ることができますが、元山地区が下がり尾山地区が上がるような活動をしました。この断層によってめくれ上がった岩石が今も少し顔を覗かせています。少し見える岩石から、尾山地区の、田万川火山岩類の下には、さらに古い(白亜紀)火山岩があることがわかっています。
 1000万~800万年前になると、鳩島や元山地区の角島大橋の袂、尾山地区の西部にみられる玄武岩の火山活動が起こります。この火山でできた火山岩(アルカリカンラン石玄武岩と呼ばれます)は、山陰の周辺地域で広く活動した火山岩類(山陰火山岩類とも呼ばれています)の仲間です。
 40万~10万年前には、尾山地区の中央部だけに、礫岩(チャートと呼ばれる礫を含む)や砂岩からなる地層(尾山礫層と呼ばれています)が堆積します。
 断層によって形成された地峡部は低くなりました。両地区の結合部である地峡部の沿岸には、今では、砂浜があり海水浴場となっています。海岸の砂をよくみると、貝殻の破片をたくさん含んでいることに気づきます。これは、シェルサンドと呼ばれるもので、貝殻の破片を60~70%ほど含んでいます。海岸の一部の地域で貝殻が集まったような海岸は、局所的ならいくらでもあるのですが、これほど広域にシェルサンドがあるとろは、珍しいのではないでしょうか。日本のどこからにあるのかもしれませんが、私は知りません。もちろん、海外では、とんでもなくすごいシェルサンドはありますが。
 このような砂地は、6000年前ころから、氷河期の海水面の変動と季節風によって砂丘として形成されたものです。尾山地区の中央の北岸にも同じような砂丘堆積物が少しみられます。
 島の中央にできた断層は、2つのまったく違った生い立ちの違う大地を生みました。しかし、その断層によってめくれ上がった大地が、島の生い立ちのまったく違うことを教えてくれています。一つの島で、これほど違った地質を持つものは、珍しいのではないでしょうか。
 地峡部の砂が、断層で境された島の両地区の架け橋となっています。さらに、鳩山と同じ火山岩が、尾山地区と元山地区の架け橋となっています。
 火山岩や砂丘などの架け橋は、1000万年前から6000年前にかけて、地球の営みによってできたものです。そして砂の架け橋ができてから約8000年後に、人は、響灘に角島大橋という人のために架け橋を渡したのです。
 角島は、人との大地との2つの架け橋が、みられるところなのです。

・にぎ女・
万葉集の巻16の3871番に、
角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻
という歌ががあります。
現代文で書き下すと、
 角島の
 瀬戸(せと)の稚海藻(わかめ)は
 人の共(むた)
 荒かりしかど
 我れとは和海藻(にきめ)
(詠人知らず)
となります。
この歌の最初にでてくるのが角島です。
万葉時代から
ここで「にきめ」とは、
新鮮なワカメの茎とツワブキのつくだ煮のことです。
地元では、にぎ女(にぎめ)と呼ばれていて、
今でも名産品となっています。

・響灘・
響灘(ひびきなだ)は、なかなか情緒のある言葉です。
響灘は、日本海の西の端にあたり、
島根県西部から、関門海峡付近を通り、
福岡県北部の沿岸付近までの海域のことをいいます。
しかし、その字をよく見ると、情緒があるなどと
いってはいれないような言葉です。
響とは、音や振動が、余韻をもって伝わることです。
灘とは、洋とも書かれることがありますが、
波が荒く、潮の流れも速いところのことです。
灘は、サンズイに難という字ですから、
古くから船で行くことが困難なところとされています。
響灘とは、どうも荒れ狂う海という意味合いで
使われていたのではないでしょうか。

2007年6月15日金曜日

30 恵山:せめぎあいの恵み(2007.06.15)

 自然の中にはいろいろなせめぎあいがあります。火山と植物もせめぎあっています。火山が噴火すれば、植物は死滅します。しかし噴火がおさまれば、また植物が回復します。火山とはそんなせめぎあいの繰り返しがおきています。

 今年2007年のゴールデンウィークは、4月下旬と5月上旬の2つの連休に分かれていました。私は、家族同伴で、後半の連休の3日間を利用して、恵山に出かけました。
 恵山は、北海道の南部(道南)、渡島半島の東部にあたる亀田半島の東端にあります。私の住む江別市から恵山までは、350kmほどあり、高速道路を利用しても、5、6時間かかるところです。目的地に行くまでに1日仕事となります。連休の初日は天気もよく、高速道路の出口の料金所が渋滞していました。私は、今までゴールデンウィークによく出かけていましたが、北海道の郊外で、渋滞にあったのは、これがはじめての経験でした。
 恵山は、活火山で、618mの標高を持ちます。中腹まで道路があり、登山自体は、半日ですんでしまいます。今回出かけたのは、私は恵山の調査だけが目的でした。かなり遠いので、自宅から恵山まで1日かけて行き、1泊して、翌日の午前中に登山をします。午後は周辺を観光します。そしてもう1泊して、またまた1日かけて帰宅するというものです。
 恵山では、ツツジが名物となっています。エゾヤマツツジとサラサドウダンツツジ、エゾイソツツジなど、60万本ものツツジがあるとされています。それらが満開となる5月下旬から6月いにかけては、多くの観光客が集まります。しかし、ゴールデンウィークでは、まだツツジには早い時期なので、比較的すいていました。ですから、4月に突然思い立った調査なのですが、温泉旅館がとれました。
 私が、恵山に行こうと思ったのは、道南の活火山をみるためです。本当は駒ヶ岳に行きたかったのですが、駒ケ岳は噴火の危険性があるので、現在は登山禁止となっています。ですから、恵山に登ることにしたのでした。
 恵山は、現在も噴気を出している活発な火山で、こんもりとした山容(溶岩ドーム)をしています。このドームの西側は、大きくえぐられた形になっています。これは、もともとドーム状であったものが、2500年前の噴火で壊されたもので、その裾野は広く平坦に(火口原とよばれています)なっています。この火口原から火山の裾野にかけて、ツツジなどの植物が多数自生しています。
 恵山の噴火の歴史をみていくと、安山岩マグマによる活動で、同じ活動を繰り返してきました。最初に火砕流をもとなう爆発的な噴火を起こし、その後溶岩ドームを形成するような激しい噴火を起こします。そして、ドームの崩壊を起こすような小噴火に変わっていき、穏やかな静穏期へと移っていきます。これがひとつの噴火サイクルとなっています。
 溶岩ドームを形成するような激しい火山活動は、3~4万年前、2万年前、8000年前の3回が確認されています。その間、数千年から1、2万年ほどの静穏期の後、再度活動にはいるということを繰り返しているようです。現在は、8000年前に起こった活動の静穏期にあたると考えられます。しかし、完全に休止したわけではなく、大規模な噴火は減っていますが、5000年前、3000年前、2500年前、600年前、そして1846年と1874年に小規模な噴火が記録に残っています。
 1846年の噴火では、溶岩ドームで水蒸気爆発を起こして、小さな火口が形成されました。この噴火で、火山による泥流が発生して、数十名の犠牲者がでたという記録が残されています。
 恵山の海側は、ドームが海上に切り立ったようになっているため、急峻な地形となっています。海を巡る道路もありません。ドームの周辺には、集落が近接しています。もし噴火があれば、大きな被害を出す可能性があります。
 しかし、そんな恵山周辺には、火山のおかげでいくつかの温泉があります。それぞれ泉質も趣きも違っているため、観光資源として利用されています。危険と観光のせめぎあいのなかで、人々は暮らしています。
 恵山の火口原の標高300mあたりまで舗装された道路があり、火口原が行き止まりですが、駐車場が完備されています。そこから火口原の散策コースや登山コースが始まります。私の家族は、登山コースがたどり頂上を目指しました。険しいのぼりが続きますが、眺望が開けた景色、小さな噴気口、ドームの断面を眺める展望台、ドームをつくっている火山岩などを見ることができ、いろいろ楽しみながら、登ることができます。
 子供たちは、頂上に行ったら、津軽海峡越しに、本州の青森が見たいといっていました。登山をした日は天気はよかったのですが、霞がかかっていて、空気が澄んでいませんでした。そのため、残念ながら、青森の下北半島は見ることができませんでした。
 登山道の各所に、安山岩の溶岩がみることができました。その溶岩には、ガスが抜けた跡の穴が、マグマが流れた方向に長く伸びた流理模様を見ることができます。マグマの動きを物語る生々しさがありました。
 登っている途中には、小さな噴気孔がいたるところにありました。現在も噴気を出しているところ、昔出していたが今は出していないところ、そこには黄色いイオウの結晶やその他の沈殿物の結晶などが形成されていました。また風向きが変わると、噴気のガスが流れてきて、イオウのにおいもしてきました。蒸気につつまれ熱さを感じることもありました。やはり、ここは活火山なのです。
 恵山は低い山なので、頂上付近にも植生がありました。私が登った時は、まだ時期が早く、花は咲いていませんでしたが、花の季節なれば、さぞかしきれいだろうなと思いました。
 しかし、山の全面が植生に覆われているわけではありません。静穏期に入っているとはいえ、火山の影響がいたるところに、色濃く残っています。噴煙がまだ出ているところや、崩落が続いているところ、土砂が流れているところでは、まだ火山の勢力が残っています。
 恵山の最後の噴火は、1874年です。ですから、もう130年以上たちます。その間に、植生は回復しました。恵山は、北海道でも、道南に位置し、比較的穏やかな地域です。標高も高くないため、植生の回復には適していたのでしょう。130年前と同じかどうかはわかりませんが、今では植物がせめぎあいに勝っています。そして今では、ツツジの名所として、観光客を集めています。火山にはつきものの温泉も、麓にはいくつもあり、観光に一役買っています。
 私たちが登った日は、晴れの暖かい日でした。しかし、風が強く、頂上でも岩陰に入らないと、体感温度が結構低くなっていました。ですから、あまり長居はできませんでした。風に背を圧されるように山頂を後しました。
 登山をしている間、植生と火山のせめぎあいを、恵山では見ることができます。今は火山の活動も静穏期になっているので、火山と植物のせめぎあいも「恵み」となっている山なのでしょう。

・幻の温泉・
椴法華と書いて「とどほっけ」と読みます。
市町村合併以前は亀田郡椴法華村でしたが
現在では函館市椴法華となります。
恵山の北側の椴法華に水無海浜温泉があります。
海岸に湧いている温泉で、
コンクリートで枠が作られて、浴槽らしくなっています。
しかも、無料の温泉で自由に入れます。
私が行った時は、潮が引きはじめている時でした。
温泉に入ることできました。
私は、ただ見学していただけでしたが、
子供たちがは、足だけを温泉に浸かっていました。
私が訪れたときは、ただの海沿いの温泉でしたが、
この水無海浜温泉は、別名「幻の温泉」と呼ばれています。
それは、この温泉は少々変わっているためです。
満潮の時は、海水が温泉の中まで進入して、冷たくて入ることができません。
干潮で、潮が完全に引くと、今度は、
温泉の温度が50度ほどあるので、
熱くて入ることができません。
ですから、満潮と時は、温泉が消え、
干潮には熱くて入れないという温泉です。
入る時間が限られている「幻の温泉」なのです。

・はしか・
隣の大学ではしかの学生3名がでて、
14日から24日まで、キャンパスへの立ち入りは全面禁止となりました。
その間の大学祭は延期、
オープンキャンパスは中止となりました。
大学の教職員は免疫があるので通常通りの勤務するそうです。
もし、10日間の休みともなると、
いろいろなスケジュールも都合がつかないものも出てきます。
もしかすると、もう潜伏期間にはいっている学生がいるかもしれないと
想像すると、我が大学でもいつ感染するか戦々恐々としています。
無事、流行が収まることを祈っています。

2007年5月15日火曜日

29 伊豆半島:時間スケール 2007.05.15

 伊豆は、関東の人からすると、手ごろな観光地です。がんばれば日帰りだってできます。観光地だけでなく、海の幸、山の幸、そして温泉もあります。そんな観光地の伊豆をみていきましょう。

 私は、伊豆半島の付け根とも言うべき、湯河原(ゆがわら)に、1999年12月から2002年3月までの2年3ヶ月間、住んでいました。それ以前は、伊豆半島より少し北になりますが、小田原市の足柄(あしがら)平野の中に、4年間住んでいました。ですから。私は、6年間も、伊豆半島の近くに暮らしていたことになります。
 伊豆半島の大部分は、静岡県に属しています。湯河原は神奈川県ですが、街の中を千歳川という川が流れています。その川向こうは静岡県熱海市になっています。ですから、静岡県の伊豆半島は非常に身近な存在でした。
 湯河原は箱根の裏側にあたりますので、私にとって箱根はもちろん身近な存在ですが、箱根だけでなく、伊豆半島にも、身近なものでした。伊豆半島は、いろいろ見所があり、よく出かけたものです。
 私は、伊豆半島でも地質学的に興味のあるところを見に行きました。伊豆半島は、地質学的な見所だけでなく、温泉や観光でもいろいろ見所があるのをご存知の方も多いと思います。ところが、地質の見所と観光名所は、別々のところではなく、共通していることが多いのです。言い換えると、地質学的に面白い現象がみられるところは、観光地としても人気があるところだということです。
 伊豆半島には、いくつもの観光地がありますが、自然の景観が見所となっているところが多数あります。例えば、下田の爪木崎(つめきざき)では亀の甲羅のような不思議な岩場が、奥石廊崎や波勝岬、城ヶ岬海岸では嶮しい断崖絶壁、堂ヶ島では不思議なガケの模様や洞窟、天城の浄蓮の滝や河津の七滝(ななだる)では柱が並んだような岩からできた滝、達磨山や大室山ではなだらかで丸い山、天城山や矢筈山(やはずやま)は険しい山、一碧湖では丸い形の湖などなど、さまざまな景観があり、それぞれが観光地となっています。
 伊豆半島の観光地は、山あり、川あり、海ありで、非常に多彩で、いろいろなタイプの自然の景観を見ることができます。伊豆半島を単に観光地として巡るとあまり気づかないのですが、地質学を学んだことがある人や石に詳しい人には、ある共通点があることに気づきます。
 観光地の多く景観は、溶岩や火山噴出物、水中火山砕屑物がつくるものであったり、火山体自体や噴火口などのマグマの火山活動によってできたものなのです。もちろん、伊豆半島は、火山活動だけでなく、堆積岩からできている地層もあり、その中には化石が見つかることもあります。しかし、伊豆半島では多くの火山活動の痕跡を見ることができます。そして、伊豆半島は、今も活動中の火山地帯なのです。
 伊豆半島周辺をみていくと、活火山は、伊豆半島より北側の富士山と箱根にあり、伊豆半島を飛ばして、伊豆大島にあります。伊豆半島に活火山というのは、ぴんと来ないかも知れません。しかし、かつてニュースにもなって記憶にも残っているかもしれませんが、手石海丘という海底での噴火がありました。
 1989年7月13日、伊東市の沖3kmの海底で起こったこの噴火は、伊豆半島での2700年ぶりの火山噴火なのです。つまり、有史以来、初めての噴火となったのです。ですから、伊豆半島が火山地帯であるのを気づかなかったのも無理はないことなのです。
 伊東周辺には大室山や小室山の丸い山があり、それは小さな火山であることがわかっています。地形図をみると、伊東周辺には、このような小さな火山がたくさんあることがわかります。気象庁は、手石海丘の噴火後、伊東周辺の小さな火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。
 地質学者は、伊豆東部には、60個ほどの火山があることを知っていましたので、東伊豆火山群と呼んでいました。また、火山は半島の陸上部だけでなく、手石海丘のように、伊豆半島と伊豆大島の間の海底にも40個ほどの火山があることがわかっていました。これらの海底火山は、東伊豆沖海底火山群と呼ばれています。
 気象庁は、陸地と海底の火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。つまり、伊豆東部火山群は、伊豆半島の東半分と伊豆大島まで続くほどの直径30kmにも達する広い範囲に及ぶ火山地帯だったのです。その規模は伊豆大島や箱根より広く、富士山に匹敵するほどだったのです。
 伊豆東部火山群は、活動地域が富士山や箱根、伊豆大島と肩を並べるほどですが、火山の形や活動様式には大きな違いがあることがわかります。
 富士山や箱根、伊豆大島は同じような場所で何度も火山活動を起こしています。ですから、火山自体が非常に大きく高い山となります。このような火山は、一度の活動で終わるのではなく、何度も繰り返し活動しています。ですから複成火山と呼ばれています。
 一方、伊豆東部火山群は、大室山や小室山のように比較的小さい火山がほとんどです。古い時代の火山の形は、風化侵食で変わっていたり、マグマの種類によって形の様々ですが、小規模で一度の火山活動でできた火山であることがわかっています。このような火山を単成火山と呼んでいます。ですから、伊豆東部火山群を、地質学者は東伊豆単成火山群と呼んでいました。
 手石海丘の噴火は有史以来はじめての記録でしたが、東伊豆単成火山群は、15万年前ころから活動をはじめました。
 知られている最初の火山活動は、天城高原近くの遠笠山でした。13万年前には高塚山、長者原、巣雲山の3つの火山が活動しました。10万年前には伊東市南部でいくつもの火山が噴火し、一碧湖が噴火口として残っています。4万年前に鉢ノ山が、2万5000年前に登り尾南が噴火し河津七滝をつくる溶岩が出ました。1万7000年前に鉢窪山と丸山が噴火し、浄蓮の滝をつくっている溶岩が流れました。1万4000年前には小室山が噴火、4000年前には大室山が噴火し、城ヶ崎の溶岩をつくりました。3200年前に、天城山が噴火し、何度も軽石の噴出や火砕流が発生しました。2700年前に、天城山の北東斜面でいくつもの火山噴火が起こり、それ以降しばらく火山活動がおさまっていました。
 そして、1989年の手石海丘の噴火になったのです。ほんの2700年ほど休止期間があっただけでの活動です。それ以前の火山活動には、もっと長い休止期がありました。
 東伊豆単成火山群は、このような噴火の歴史をもっているのですが、人間の歴史には火山活動の記録は残されていませんでした。仕方がありません。地質学などない時代ですから、過去の火山活動を知ることはできませんでした。しかし現在では、火山活動が活発に起こっている地域であることがわかっています。ですから、伊豆東部火山群は、活火山に分類されています。
 人間にとっては、手石海丘の噴火は、有史以来はじめての経験だったのですが、地質学的はたまたまここしばらく活動がなかっただけの時期にすぎなかったのです。人間の残した記録は、大地や自然の記録とは、時間スケールが違っています。ですから、大地や自然の見方も、大地や自然の時間スケールで見ていく必要があります。そんなことが、伊豆の観光地から垣間見ることができます。

・心の目・
北海道の私が住む町では、暖かくなり、今が桜の盛りです。
このような気候や花の変化が、季節の巡り教えてくれます。
季節の巡りは、もちろん自然の時間の流れです。
しかし、今回のエッセイでも示したように
非常にゆっくりとした万年、億年の時間の流れも自然にはあります。
自然はあまりに壮大です。
時間という見方をしても、
風の動きや天気の移り変わりのような秒や分、時の時間スケール
太陽や月の動きのような日や月の時間スケール
季節の星座の変化のよな月や年の時間スケール
火山活動のような100年や万年の時間スケール
大地の変動のような億年の時間スケール
など、あまりに多様です。
このような自然の多様なスケールを見るには
人ももっと多様なスケールをみる心の目が必要なのでしょうね。

2007年4月15日日曜日

28 神居古潭:人が行き交う渓谷 2007.04.15

 渓谷は、急流があり、交通にとっては障害となります。しかし、交通の要所となる渓谷には、古くから人が行き交ってきた歴史があります。岩に穿たれた穴から、そんな歴史を、垣間見ることができます。

 北海道の石狩川は、日本海に注ぐ、日本でも有数の大河です。石狩川は、河口から石狩平野を東に向かい、次に北に向きを変えます。本流からは、豊平川、千歳川、夕張川、空知川、雨竜川などの支流が分かれていきます。河口の石狩から江別、岩見沢、滝川、深川の町をへて、平野から渓谷に入ります。渓谷の先は、旭川がある広い上川盆地に抜けます。
 旭川は大きな町ですし、北見やオホーツクに向かう山越えの交通路にもあたり、渓谷沿いは重要な役割を果たしています。この深川と旭川の間にある渓谷は、神居古潭(かむいこたん)渓谷と呼ばれています。
 漢字で書かれていますが、アイヌ語に漢字をあてて地名としています。神居古潭のカムイとは「神」を意味し、コタンは「いるところ」という意味です。非常にうまく漢字をあてていると感心します。
 アイヌ語の地名があるということは、古くから神居古潭周辺にはアイヌの人が住んでいたこということになります。神居古潭の近辺には、竪穴式住居跡やストーンサークルなどの遺跡があり、縄文時代から人が住んでいたことがわかります。
 神居古潭は3kmほどの渓谷で、狭く急峻な地形です。そのため、重要な交通路でありながら、難所となっています。水上交通を利用していたアイヌの人だけでなく、鉄道や自動車を利用する現代人にとっても、神居古潭渓谷は、難所となっています。
 現在でも渓谷の嶮しさは変わりませんが、トンネルを使って、この難所を通り抜けています。私は、自動車で高速道路や国道、JRでも神居古潭を通りぬけていますが、トンネルを通ることになります。ですから、難所と感じることなく通過しています。多分、多くの人もそうだろうと思います。
 トンネルを通っている時は、岩石をみることはできませんが、旧道に入れば、渓谷を味わうことができます。旧道のドライブインのあるところから、石狩川にかかったつり橋を渡ることができます。このつり橋から、渓谷を眺めることができます。
 つり橋を渡った対岸には、函館本線の旧線にあった神居古潭駅があります。現在は駅としては使われてませんが、公園として整備されていて、駅舎も休息所として利用でき、SLも展示されています。
 神居古潭が渓谷となっているのは、固い岩石が出ているためです。どのような岩石がでているかというと、これがまた、なかなか面白い岩石なのです。
 北海道の地形を見ると、南北に伸びる山脈が走っています。日高山脈から大雪山にいたる山脈が主稜線をつくっています。しかし、よく見ると、その西側に、見え隠れしながらもうひとつの山脈が平行してあることがわかります。日高山脈の西側では、わかりにくいのですが、山並みがあります。そして北には、夕張山地から手塩山地へと続く明瞭な山並みがあります。夕張山地と天塩山地のつなぎ目が、神居古潭渓谷にあたります。
 日高山脈は変成岩や火成岩と堆積岩からできています。その西側は、神居古潭帯と呼ばれ、蛇紋岩と変成岩を主体とする岩石からできます。北海道の地殻変動は、プレートが東西方向にぶつかることでおこったため、大地の割れ目は、南北に伸びる方向に形成され、現在のような南北に伸びる山脈となったのです。これが日高山脈や神居古潭帯のでき方の概略です。
 日高山脈や神居古潭帯の山並みをつくる岩石でありながら、その性質は両者では大きく異なっています。
 神居古潭帯を構成する代表的な岩石は、蛇紋岩です。この蛇紋岩は、変わった岩石なのです。蛇紋岩は、濃い緑でテカテカとして、まだら模様となることがあり、文字通りヘビの紋のような見かけを示すことがある岩石です。
 蛇紋岩は、もともとマントルを構成していた岩石(カンラン岩と呼ばれています)が、地殻変動により、水を含み蛇紋岩となり密度が小さくなり、上昇してきたものです。蛇紋岩は、水の含む程度によって岩石の性質や見かけが変わり、含まれる水が少なければ比較的しっかりとした岩石になります。しかし、水をたくさん含むと、すべすべとして滑りやすく、侵食されやすい岩石となります。
 地下深部で蛇紋岩となった岩石が上昇する時、周囲にあった変成岩を取り込んで上がってくることがよくあります。これが神居古潭帯をつっている岩石の生い立ちです。
 神居古潭帯の南部で明瞭な山脈をなさなかったのは、水をたくさん含む蛇紋岩となっているためです。手塩山地にかけて明瞭な山地があるのは、水が少なく比較的しっかりした蛇紋岩(塊状蛇紋岩とよばれています)であるためです。また、夕張山地は、柔らかい蛇紋岩からできているのですが、蛇紋岩に取り込まれた固い変成岩を多く含み、それが高まりになっているです。
 水を含む蛇紋岩が出ているところは、崩れやすくトンネルも作りにくく、道路造成において、困難な工事となります。特に神居古潭帯南部や日高山脈では、北海道の東西の交通路をつくるとき、神居古潭帯の弱い蛇紋岩と日高山脈の高い山並みが、工事を困難にしています。
 神居古潭は今も昔も交通の要所ですが、固い岩石がでているためにトンネルができ、スムースに通行することができるようになりました。しかし、旧道にでて、渓谷を眺めてみると、昔のままの石狩川がそこにあります。
 つり橋や河岸から、川岸の石をよく見ると甌穴(おうけつ)と呼ばれるものが、たくさん見えます。甌穴とは、岩にあいた穴のことです。もともとは岩のくぼみであったのが、小さな石が水流のなかで回り、穴を深く掘りこんでいきます。このような現象が、長い時間かけて繰り返し起こると、固い岩でも深い穴が形成されていきます。
 甌穴の起源について、アイヌの伝承(ユーカラ)として、つぎのようなものが残されています。
 神居古潭には、ニッネカムイ(悪い神様という意味)が住んでいました。ニッネカムイは、ここを通るアイヌをおぼれさせようしてと、大きな岩を投げ込みました。いい神様であるヌプリカムイ(山の神様という意味)が、岩をよけようとして、ニッネカムイと争いになりました。その時、英雄サマイクルが、ヌプリカムイに加勢しました。形勢が悪くなったニッネカムイは逃げようとしたのですが、川岸の泥に埋まり、身動きができなくなりました。その時を逃さず、サマイクルがニッネカムイを切り殺しました。ニッネカムイが足を取られた跡が甌穴になったと伝えられています。周辺にはニッネカムイの首やサマイクルの砦とされる奇岩もあります。
 このようなユーカラができるもの、神居古潭渓谷が、古くから交通の要所でもあり、難所でもあったため、よく観察さていたためでしょう。現在でも、トンネル工事では、岩石が詳しく調べられます。そして安全性を確認されます。しかし、そのを通行する人々は、多くの人が苦労して確保した安全な交通によって、その嶮しさを気づかずに通り過ぎていきます。

・昔ながらの景観・
このメールマガジンためのホームページを作成するために、
共同研究をしている北海道地図株式会社は、
旭川に本社があります。
神居古潭渓谷を抜けたすぐのところに、本社があります。
私は、何度か出かけているのですが、
そのたびに、国道のトンネルを通り抜けています。
交通の要所なのですが、トンネルのため、
トンネルの切れ目からちらりと渓谷が眺められるだけです。
トンネルができたおかげで、
渓谷自体には開発が入らず、昔のままの自然を残しています。
アイヌの人たちが見たのと同じような季節の移ろいを
今でも見ることができます。
そして、カムイのユーカラに思いはせてみるのもいいのではないでしょうか。
北海道は、これから春を迎えて、いい季節となります。

・新学期・
新学期です。春です。
私の職場(大学)も家庭(次男)でも、入学の季節となりました。
北海道は、桜にはまだ早いのですが、
フキノトウや春に咲く木の新芽などが見えてきました。
道路の雪やすべてとけ、雪捨て場や軒下などで、
ところどろこに雪が残るだけとなりました。
今年は大学で、新入生のゼミを担当することになりました。
2年間の担任も含んでいます。
創設2年目の新学科ですので、
初めてのことばかりも多く、
戸惑いもあります。
希望に燃えた若者と接するのは楽しいです。
それなりに気も使いますが。

2007年3月15日木曜日

27 大山:火山と人間の休止期の差 2007.03.15

 火山、長い休止期を経た後、活動することがあります。それは、人間には、なかなかマネのできないことです。今回は、長い休止期をもっている火山を紹介しましょう。

 鳥取県中央部の山合いに三朝(みささ)温泉があります。三朝温泉は、倉吉市で海にそそぐ天神(てんじん)川の支流の三徳(みとく)川の上流域の三朝町にあります。そんな三朝町に、私は5年間住んでいました。
 当時、大学の研究所が三朝温泉の少し下流側にあったのです。その研究所に、修士課程の学生として2年、しばらく間を置いて、博士課程終了後の研究生として1年、続けて学術振興会特別研究員の2年、あわせて5年いたことになります。後半の3年間は、特に集中して研究しました。
 その後私は、転々と移転を繰り返していたのですが、移転と共に、研究テーマも変わっていきました。公務員でもあったので、研究所に行くことがなく、興味も移ってきました。その後、研究所は、改組や建物の増改築などもあり、大きく変わりしてしまいました。当時のスタッフたちは、まだ何人もおられますが、大きく変わったようです。
 三朝に住んでいた時、大きな町は倉吉市でしたので、よく出かけていました。そんな時、町や日本海沿いでは、西の方に雄大で大きな山が見えました。大山でした。
 大山と書いて、「だいせん」と読みます。大山周辺の山には、「山」を「せん」と読む地名があります。扇ノ山(おおぎのせん)、氷ノ山(ひょうのせん)、蒜山(ひるぜん、上・中・下の3つの頂上があります)、須賀ノ山(すがのせん)、那岐山(なぎせん)などがあります。
 「せん」という読み方は、めずらしく感じますが、音読みとして、「さん」は漢音ですが、「せん」いう読み方が呉音としてあります。山岳宗教の影響もあると考えられていますが、中国地方に「せん」という山の名前が残っているのは不思議です。
 大山は、出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代以降、山岳信仰の対象の山となっています。大山は、明治の廃仏毀釈までは、大山寺の寺領なっており、一般人の登山が禁止されていました。
 大山は、富士山のような形をしている非常に雄大な山です。富士山のように見えることから、古くから、伯耆富士(ほうきふじ)、あるいは出雲富士(いずもふじ)と呼ばれています。
 大山は、火山です。大山は、北側に広い裾野を持っている風格のある成層火山です。大山の北の裾野は日本海に達しています。国道も鉄道も、大山の裾野を通っています。ですから、これらの場所から、雄大な大山を眺めることができます。
 成層火山は、溶岩や火山灰などの多様な火山噴出物からできます。裾野がなだらかなのは、火山噴出物が繰り返し堆積したためです。また、火山灰は、風化されば、肥沃な土壌になり、大山の裾野は、農耕地帯として田園風景が広がっています。
 車窓から眺める大山の裾野には、田畑の中に、深く削られた谷筋を多数見ることができます。その谷は、大山の山頂に向かっているように見えます。
 谷となっている深い溝は、侵食によるものです。溶岩は固いですが、火山灰などは、柔らかく侵食を受けやすいものです。新しい火山で現在も活動をしていれば、侵食されても火山噴出で堆積を繰り返すので、穏やかな裾野のままでいます。しかし、成層火山でも、活動を長くして休止しているものは、侵食だけが進みます。大山も、そのような火山です。
 大山は、約180万年前から活動をはじめています。その間に数1000年から数万年の休止期をはさみながら、50万年前ころまでに、巨大なカルデラができたと考えられています。このようなカルデラをつくった活動を古期とされています。
 そこに5万年から1万年前にかけて、新期の活動が起こります。新期の火山活動は、現在の山頂を構成している溶岩ドームと呼ばれるものを形成しました。大山をつくったマグマは、安山岩からデイサイトの性質を持つものがほとんどで、時には激しい噴火をしました。
 5万年前のプリニー式とよばれる激しい噴火は、大量の火山噴出物を放出しました。このときの火山灰は、大山倉吉軽石(大山火山灰層とも呼ばれることがあります)とよばれており、大山周辺では数mほどの厚さがあり、鳥取県東部では1mから数10cmほどの厚さとなります。大山倉吉軽石は、遠くまで風にとって運ばれました。北陸、信州、北関東、遠くは福島まで確認されています。このような広域に広がっているの火山灰で時代のはっきりしているものは、広域テフラと呼ばれ、地層の時代区分に利用されています。大山倉吉軽石も広域テフラです。
 2万年前に、激しい火山活動があり、大量の火砕流が流れ、溶岩ドームなどが形成されました。このときにできたのが、弥山(みせん、1709m)、三鈷峰(さんこほう、1516m)、烏ヶ山(からすがせん、1448m)の3つの溶岩ドームです。
 弥山と三鈷峰は隣接していて、これら2つのドームが現在の大山の主稜線をつくっています。烏ヶ山は弥山からみると南東側にあたります。弥山の北東側に三鈷峰はあります。弥山から東に続く稜線は、一等三角点(1710.5m)を通り、最高点の剣ヶ峰(けんがみね、1729m)にいたり、そこから北に曲がって、三鈷峰に至ります。
 大山の火山活動は、約1万年前で終わりました。それ以降、噴火記録の記録はありません。1万年前以降、火山活動をしていないため、大山は侵食を受け続けています。裾野では、柔らかな火山灰を、流水が侵食していったのです。裾野の深い谷は、そのような侵食の証拠なのです。
 大山の主稜線を形づくっている弥山と三鈷峰の溶岩ドームでも侵食は進んでいます。その北側の裾野から、弥山の山頂までは、登山可能す。しかし、弥山から三鈷峰にいたる稜線は、急峻で侵食が激しく崩れやすく、現在、縦走が禁止されています。
 稜線は特に南と北向き斜面での浸食が激しく、ふもとからみるとまるで切り立った壁のように見え、それぞれ南壁と北壁と呼ばれています。北壁の下は、元谷と呼ばれ、元谷の下流側には大神山神社の奥宮や大山寺があります。
 地表のでっぱりが、侵食を受けるのは、自然の節理でもあります。特に、日本海側に面する山陰地方は、季節風や風雪により、浸食を受けやすい環境です。まして、1万年前から活動をしていない火山ですから、大山は激しく浸食を受けています。
 大山は、遠目で見ると穏やかな山容にみえますが、山頂周辺の稜線が嶮しいのは、激しい侵食という理由があったのです。
 ただ、1980年代から、大山への登山者の急増によって、登山ルート周辺が踏み荒らされ、緑がなくなり、雨水による浸食が激しくなりました。これらは、人為による自然破壊が起こっていると考えられています。そのため、「一木一石運動」が、官民協同して取り組まれました。その運動によって、登山者は、一つの石を持って登って浸食溝をうめたり、植物の苗を植えたり、木道を整備したりして、徐々にでありますが、自然が回復つつあるようです。
 大山全体の侵食は、1万年間、活動をしていないためです。しかし、上でも述べましたように、大山は、数万年以上の長い休止期間の後に、再度火山活動を行ったことが知られています。ですから、大山がもう活動をやめた火山と見なすのは、危険なことです。
 私が三朝の研究所にいた時は、ある元素の分析(鉛の同位体)を中心に研究をおこなっていました。その元素を、非常の微量でも化学的に抽出する手法や装置で分析する方法などを、いろいろ試行錯誤しながら、3年間で完成させていきました。今もその手法は、研究所で改善されて利用されています。
 私は、三朝で行っていた研究は、転職後も続けるつもりでいました。しばらくは、環境が整わないので、その研究テーマは休止のつもりでいました。私は、別のことに興味を持ち出すと、そちらにのめり込んでしまうタイプです。ですから、現在ではその研究テーマは、休止から中止になってきました。
 研究所を離れて早16年もたちました。しかし、研究所時代のことは、今も思い出します。当時は、若さにまかせて、強い目的意識に突き動かされながら、夜昼なく研究に没頭していました。その結果、非常に苦労して目的を達成したことは、その後の人生を送っていく時に、大きな自信を与えてくれました。
 現在の私には、そのような分析から離れて、長い時間が過ぎ去りました。昨年秋、近くの大学にいる先輩から、当時私がやっていた元素の分析について話をしたいという連絡を受けました。私は、関連する資料を携えて先輩のいる大学に出かけました。彼も、ある故人の先輩から、その分析をすることが頼まれていたので、なんとか叶えたいということでした。大学院生が、その元素の分析ができるように、手助けをしてくれと頼まれました。私は引き受けたのですが、彼らも私も、どうも気力が湧かないようなので、分析はうやむやになってしまいました。
 人間は、一度中止という気持ちを持つと、以前のような気持ちに再度高めるのはなかなか困難なようです。まして、今別のことに興味をもっているとなおさらです。私は、今の興味に活動中なのです。

・露天風呂・
三朝温泉街の三徳川に三朝大橋があります。
その橋の袂の川原には、「河原風呂」と呼ばれている
無料の露天風呂があります。
脱衣所は男女別にありますが、湯船は混浴です。
メインストリートのある橋から丸見えの露天風呂なので、
入るのにはなかなか勇気が要ります。
三朝に住んでいた時は、何度か入ったことがありますが、
数えるほどしかありません。
それは研究所内に職員用の温泉があったからです。

・甲子園の土・
甲子園球場のあるとことは、もともと砂地で、土も白っぽいところでした。
そのため、ボールが見にくいという問題がありました。
ボールを見やすくするために、
黒っぽい色の土を混ぜるということが考えられました。
当初は淡路島の土を混ぜていたのですが、
現在では、白砂は中国福建省のものを
黒土は、大山の火山灰を混ぜて使われています。
大山の火山灰の最上位層にあたる「黒ぼく」と呼ばれる土です。
季節の雨量と日差しの違いで、
春には砂を多く、夏には黒土を多くしているそうです。

2007年2月15日木曜日

26 羊蹄山:富士は数あれど 2007.02.15

 富士山が日本を象徴する山であるように、羊蹄山は北海道を象徴する山です。そんな羊蹄山を詳しく見ていくと、そこには代替ではない固有のモノがありました。

 羊蹄山(ようていざん)は、北海道の南部にあります。成層火山です。周りの山から独立しているためた、より雄雄しく、そして気高く見えます。羊蹄山は、富士山と同じように、円錐形の非常にきれいな形をしています。そのため、蝦夷富士とも呼ばれています。北西にあるニセコの山並みがごつごつした山並みであるのと、羊蹄山は比べると非常に「たおやか」な山容に見えます。
 私は羊蹄山に登ったことはないのですが、何度も見たことがあります。北海道の人が羊蹄山に対して抱く気持ちは、関東や東海、中部地方の人が富士山を見たときのものと同じです。私は、以前神奈川県の富士山が見えるところに住んでいたので、両方を見て感じたことです。
 北海道で羊蹄山をみても、同じように感動します。富士山と同様に、羊蹄山も眺める対象として非常に優雅であります。それは、独立して存在する成層火山に共通するものかもしれません。
 大きな成層火山の麓には、湧き水がいたるところにあります。羊蹄山の麓にも、名水として有名な京極の「ふきだし」公園をはじめてとして多数の湧水があります。湧水は年中枯れることなく湧き出しています。
 また、羊蹄山の山麓には、畑が広がっています。それは、羊蹄山の火山噴出物が風化をして肥沃な土壌になっているからです。これも成層火山では役見られるものです。
 同じ成層火山である羊蹄山と富士山は、一見すると似ていますが、よく見ると違いもあります。羊蹄山より富士山の方が、より「たおやか」に見えます。それは、気のせいでしょうか。多分それは、羊蹄山の方が傾斜が急で、険しいからです。富士山の高さに比べて裾野の広がりが広く、羊蹄山は裾野が狭くなっています。そのため、富士山の方が、たおやかにみえるのでしょう。
 このような形は、火山をつくったマグマの性質を反映しています。富士山は玄武岩質のマグマでできているのですが、羊蹄山は安山岩質のマグマでできています。その違いが、このような山容の違いを生んでいます。
 マグマの岩質の違いは、温度や化学成分の違いを表しています。そして、溶岩などのマグマに由来する噴出物の物理的な性質の違いを生みます。
 マグマの温度が高いと流れやすくなります。物質の流れやすさを粘性と呼びます。粘性は、物質に力を加えてときに生じる物質内部の摩擦力の大きさで、新しいSI単位系ではパスカル秒(Pa・s)ですが、昔はポアズという単位が使われていました。1パスカル秒は10ポアズとなります。水でも0℃の時(0.018ポアズ)と100℃の時(0.003ポアズ)を比べますと、100℃の時の方が6分の1くらいの粘性しかありません。
 また粘性は、化学組成によっても変化します。マグマの主要成分である珪酸(SiO2)は、普通のマグマでは重量で半分以上を占めます。この珪酸が少ないと粘性は小さく、多くなると粘性が大きくなります。これは珪素(Si)の酸素(O)の結びつきが多いほど粘性が大きくなるということです。珪酸が少ないと、他の元素(主に金属元素)が増え、珪素と酸素の結合を拒んでいるということになります。
 さてこのような一般論をもとに、富士山と羊蹄山のマグマを考えていきましょう。富士山は玄武岩質マグマからできていました。一方羊蹄山は安山岩質マグマでした。温度で見ると、玄武岩質マグマは約1200℃、安山岩質マグマは1100℃ほどです。ですから、温度からすると玄武岩質マグマの方が粘性が低くなります。また、玄武岩の珪酸の含有量は、重量で50%程度で、安山岩では60%程度です。化学成分から見ても玄武岩の粘性は小さくなります。
 以上のことから、富士山のマグマは粘性が小さく流れやすく、羊蹄山のマグマは粘性が大きく流れにくくなります。流れやすいマグマからできた富士山はなだらかな山容となり、富士山のマグマと比べれば流れにくいマグマからできた羊蹄山は、険しく見えます。このようなマグマの性質の違いが、山の姿の違いとして現われています。
 考えてみると、非常に基本的な違いですが、マグマの化学成分や温度の違いが、火山の姿に個性を与えていることがわかります。さらに火山に個性を与えているのは、活動の履歴の違いです。羊蹄山には羊蹄山の個性があります。
 その個性の一つとして、山麓の景観があります。その景観には、今まで知られていなかった火山の存在を解き明かす証拠がありました。
 羊蹄山の山麓の地形図をみていると、ニセコ側、つまり西側にごつごつした地形が特徴的に見られます。数10mから数100m程度の小高い高まりが、不規則に散らばっています。これは、流山(ながれやま)地形と呼ばれているものです。
 かつて羊蹄山が大噴火したときに、火山体を壊れたものが雪崩のように流れ下った(岩屑なだれと呼ばれています)と考えられています。この流山の高まりをつくっている岩石は、現在の羊蹄山をつくっている火山岩(ソレアイト質)とは、だいぶ違った性質のもの(カルクアルカリ質)であることが分かってきました。そのため、現在の羊蹄山より前に、タイプの違う火山活動によってできた火山があったと考えられています。
 この古い火山は、「古羊蹄山」と呼ばれています。10万年前~5万年前に活動をして、今の羊蹄山よりやや小ぶりの火山をつくっていたと考えられています。そして、約4万5000年前に、古羊蹄山の西部が、噴火によって大規模に崩壊しました。それが、現在、西の山麓に広く分布している流山となっていると考えられています。
 しかし、4万5000年前から1万年前にかけて、現在の羊蹄山(新羊蹄火山と呼ばれています)が活動を開始して、古羊蹄火山を完全に覆い隠してしまいました。ですから、現在では流山以外に、古羊蹄山の露頭はどこにも見ることができません。
 1万年前以降は、山頂だけでなく、北側山麓でも噴火(側火山と呼ばれます)が起こりました。半月湖から巽(たつみ)にかけていくつかの火砕丘が見られます。一番最近の活動は、巽火砕丘で約6000年前のものです。それ以降、羊蹄山の活動は知られていません。
 でも、火山学者たちは、一般的な火山の一生からみて、羊蹄山はまだ完全に成長しきっていない火山だと考えています。ですから、現在は活動は休止していますが、将来、新たに活動時期が訪れると考えています。
 日本各地には、成層火山があり、○○富士と呼ばれています。それぞれの富士には、その富士固有の性質があります。その個性は、火山の姿や周囲の地形、岩石などから探ることができます。そして個性から、火山の生い立ちや履歴が解明されていきます。蝦夷富士には、蝦夷富士の生い立ちがあることがわかってきました。

・代替ではない・
実は羊蹄山は、今年の正月の話題にしようと考えていました。
ですが、連載の順番が北海道ではなく、本州の番だったので、
しかたなく、2月にまわしました。
私が本州から離れてもう5年近くたちます。
ですから、富士山を見る機会が少なくなりました。
かわりに蝦夷富士を見る機会が多くなりました。
でも考えれば、羊蹄山は富士山の代替品ではありません。
固有の生い立ちを持ち、固有の特徴をもっています。
だから、羊蹄山そのものを愛でるべきでしょう。
富士山には富士山のよさ、羊蹄山には羊蹄山のよさがあるはずです。
その個性を重んじて、個性を愛でるべきでしょう。
これは、人を見る時、人が生み出したものを評価する時に
持っているべき視点でしょうか。

・模様替え・
大学は一般入試も終わり、卒論発表会も終わり一段落です。
私は、来週には研究室の模様替えをしようと考えています。
今まで、不便だと考えていたことを解消しようというのが
今回の模様替えの目的です。
しかし、荷物が増えているために、すぐにはできません。
また、ロッカーなどは中身をすべて抜いても、
一人では動かせないものもあります。
ですから家内に応援を頼んで、半日がかりでやろうと考えています。
来週の早い時でないとだめです。
今週は予定がつまっているため、来週でないとだめです。
また、下旬や翌週になると3月早々締め切りの申請書があります。
ですから、来週早々でないとだめです。
その時はサーバーなどもすべての電源を切って
配線もしなおすつもりです。
早めに予定を入れて、大々的にやろうと考えています。

2007年1月15日月曜日

25 隠岐:新旧の歴史の連結 2007.01.15

 日本海に浮かぶ隠岐は、古くから人が住みつき、長い歴史をもち、今も人々は歴史を刻み続けています。地質学的にもみても、隠岐は古い記録と新しい記録が残されている島です。それらの新旧の歴史が隠岐では連結して見えます。

 隠岐は、日本海に浮かぶ大きな島です。さすがに佐渡や対馬と比べると、見劣りがしますが、隠岐の島後(どうご)の中にいると、そこが島であるということを忘れてしまうほどの大きさがあります。それは、海の見えない内陸で、田畑や山、森林などの日本の里山の景色があるためかもしれません。
 私は1980年に一度訪れたのですが、その後、機会がなくいっていません。チャンスがあれば、また行きたいものです。
 私が隠岐を訪れたのは、大学の修士課程の1年生の6月下旬でした。私の指導教官であるT先生が、隠岐で産出する捕獲岩(後述)の試料を採取するというので、そのお供として勉強のためについていきました。
 当時、私は学生のいない大学院(当時は2年間で修了する修士課程だけしありませんでした)と研究者(教員)だけしかいない大学の研究所にいました。その研究所には、3つの専攻があったのですが、大学院生も少なく、総勢6名(内1名は研究生)しかいませんでした。そして同じ専攻には3人の修士課程1年生だけがしかいませんでした。T先生を指導教官としていたのは、私だけで、他の2人は違う先生を指導教官としていました。
 そのころ私は、T先生と相談して修士論文のテーマを決めて、野外調査をする地域も選んで基礎的なデータを集めたり、論文を読んでいるところでした。7月になったら、長期の予定で野外調査に出かけるつもりでした。そんなころ、隠岐に出かけました。それは、T先生が一人で調査にいくのは大変だし、調査の準備や手伝をする必要があったからです。自分の修士論文のテーマとは違うのですが、別の地域で地質学的に有名な隠岐の地質を見聞することは勉強になります。そして、2泊3日の調査で、出会って間もないT先生と、親睦を深めることも重要な目的でした。
 隠岐の島後は、日本列島でも非常に古い岩石が出ていることで有名です。その石は、隠岐片麻岩と呼ばれるものです。隠岐に見られる岩石は、約20億年前に地下深部で形成された非常に古いものであることがわかっています。中には30億年前にできた鉱物(ジルコンと呼ばれているものです)も見つかっています。片麻岩は変成岩の一種で、元になっている岩石は堆積岩や火成岩などいろいろな種類があります。片麻岩以外にも、一部溶けてできたミグマタイトと呼ばれる岩石もあります。
 同じような一連の岩石は、中部地方の飛騨地域と韓半島で見つかっています。ですから、片麻岩のもととなった岩石ができた頃は、日本列島と韓半島、つまりユーラシア大陸とがつながっていたことになります。当時、日本海も日本列島もなく、そこはユーラシア大陸の東端にだったのです。
 4000万年前から2000万年前にかけて、マグマの激しい活動によって、隠岐島後には直径12、3kmほどの環状のカルデラが形成されます。激しい火山活動とともに、大陸の東端に大きな亀裂が形成され海が進入しました。西南日本の研究から、1500万年前に、亀裂で切り離された大陸の切れ端(日本列島の原型)は、回転をはじめ、1300万年前にはほぼ現在の位置へたどり着いたと考えれられています。もしこの研究の結果が正しければ、日本海の形成は、200万年ほどの間に起こったことになります。
 ところが、対馬海峡は第四紀まではユーラシア大陸とつながっていて、氷期と間氷期の繰り返しによって、浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返しながら現在のように開いていったと考えられています。
 それは、火山が活動していた中新世(2500万~1100万年前)にたまった地層からわかります。地層には、火山灰含むものもありますが、珪藻土(海のプランクトンが集まってできたもの)や、海の生物(サメや魚)や淡水の生物(海や陸上植物)などの化石を含んでいます。このことから隠岐は、海水が入り込んだ時代(海進)や海水が引いて淡水だけの湖の時代(海退)が繰り返していたことがわかります。
 これが隠岐の石が語る日本列島形成前後の歴史です。
 隠岐には、その後の新しい時代に起こった激しい火山活動も記録されています。火山活動は、600万年前から300万年間にわたって続きました。その火山岩の中に捕獲岩が見つかります。
 T先生のお供で捕獲岩をとりに行ったといいましたが、捕獲岩とはいったいどういうものでしょうか。捕獲岩とは、文字通り、捕獲されてきた岩石です。何に捕獲されてきたかというと、マグマです。マグマが上昇してきて地表に達したものが火山となります。火山の溶岩や噴出物の中には、マグマが上昇中に通り道にあった岩石を、取り込んで持ってくることがあります。そのため、マグマが固まった火山岩の中に捕獲岩が見つかることがあるのです。
 もし、マントルのような深いところで形成されたマグマであれば、マントルを構成している岩石が捕獲岩として手に入れることができます。地上にいながらにして、マントルの岩石を手にできるのです。マントルの岩石は非常に貴重で重要です。
 マントルまで岩石を掘りに抜くことは、まだできていません。ですから、マントルの岩石を直接調べることはまだ人類はできないのです。マントルの岩石がまくれ上がって出ている地域はありますが、それはもはや現在のマントルではなく、昔のマントルであったものです。現在あるマントルの岩石を手に入れることは、今のところ捕獲岩でしかできません。ですから、マントルの捕獲岩は非常に貴重な試料といえます。
 マントルを構成する岩石は、カンラン岩と呼ばれています。カンラン岩は、名前の通り、カンラン石をたくさん含んでいます。他にも輝石や長石、スピネルなどを含むことがあります。このような捕獲岩からマントルの様子を詳しく探ることができます。
 カンラン岩を調べた結果、そのカンラン岩のあった場所は深度30kmくらいいのことろだと考えられています。これは、地震波で調べた結果とも一致しています。ですから、その捕獲岩を取り込んできたマグマはもっと深いところで形成されたものであることになります。
 どこでできたマグマでも、すべて地下の岩石の中を通り抜けてくるのですから、すべてのマグマで捕獲岩があってもいいのですが、必ずしもそうではありません。なぜなら、マグマに取り込まれた岩石も、長い時間マグマの中にあると溶けてしまったり、重ければマグマの底に沈んでしまいます。マグマだまりなどをつくって長く液体のままマグマとしてとどまると、岩石が沈んでしまいます。取り込まれた岩石がマグマの中で岩石のまま残っているためには、ある程度速いスピードで、地下にほとんど止まることなくマグマが上がってこなければなりません。一気に地表に噴出する必要があります。
 マグマの上昇スピードが速くなるためには、マグマが大きな浮力を持っていなければなりません。その浮力は、ガスの多いマグマであれば得ることができます。マグマができたときにガスの成分が多いものあれば、ガスの浮力によって、マグマは速く地下を通り抜けていきます。そのまま地表に出てくれば、捕獲岩が溶けたり、沈むことなくマグマと一緒に上がってきます。
 隠岐の玄武岩は、アルカリ玄武岩と呼ばれるもので、ガスの成分をたくさん含んでいるものです。
 隠岐の島後は、島の半分ほどを火山岩に覆われています。新生代の中新世(600万年前)頃から、何度かの活動によって起こった多様な火山活動がありました。完全に隠岐が陸化して島となった後、最初に流紋岩や粗面岩と呼ばれるアルカリ岩質のマグマが活動します。その後、捕獲岩をともなう玄武岩のマグマの活動(西郷玄武岩と呼ばれます)に変化していきます。これらの玄武岩はアルカリ玄武岩と呼ばれるもので、日本海に面する山陰地方に多く見られるものです。
 隠岐で見つかる流紋岩のなかには、黒曜石をたくさん含んでいます。その黒曜石は石器に利用され、山陰地方の縄文時代の遺跡からたくさん見つかっています。隠岐の黒曜石による石器は、東は能登半島、西は韓半島にまで見つかっています。縄文の人がそのころ広く交流していたことをうかがわせます。そして、大地の恵みの黒曜石が、当時の重要の道具の材料となっていました。
 人間の歴史から見て、隠岐は古くから重要な役割を果たしていたことになります。しかし、隠岐の20億年以上におよぶ大地の歴史から見ると、黒曜石は新しい時代のできことです。地球の歴史の新旧と、人間の歴史の新旧が隠岐では連結しているように感じます。

・国境の島・
隠岐は、人の歴史によれば、
縄文や弥生時代から人が暮らしていた証拠があります。
大化の改新以前には億伎国造が、
すでに設置されと考えられています。
また、隠岐は、対馬と並んで、
韓半島の渤海や新羅との交渉の記録があります。
ですから、日本と韓半島との関係が緊張すると
隠岐にも影響があり、日本の前線基地がおかれたこともありました。
その緊張は今もたえることなく、
隠岐の北西にある竹島もその象徴となっています。
このような緊張感は、国境近くにある島の宿命なのかもしれません。
しかし、そのような激動の地にあることが、
隠岐の歴史の多様さを生み出しているのでしょう。
それはこれからも国家が存続し、
国境のある限り続くことなのかもしれません。

・知恵・
北海道は正月明けから冬らしくなってきました。
冷え込みも強くなり、雪も降るようになりました。
雪が少なく思っていましたが、
これのまま春といくとは誰も思っていないでのでしょうが、
やはり雪は北国の生活に不便と苦労を強いります。
でも、この雪こそが北海道や北国の個性であります。
そこに住み暮らす以上
それを風土、自然として受け入れなければなりません。
できればハンディをプラスにする工夫が必要ですが、
雪の夏の冷房への利用なども考えられています。
しかし、昔の知恵はなかったのでしょうか。
古くから北国で暮らしている人たちの知恵、
アイヌの人たち、縄文人達の生活から学ぶことがないでしょうか。
あるいは、遠くイヌイットやラップランドの人の暮らしからでも
他の生き物からでもいいかもしれません。
もしそのような知恵が見つかれば、
今の技術力をもってすれば、よりいいものにできると思います。
私は、いの一番に雪道で滑らない靴を早く開発していほしいものです。
でも、これだけ多くの人が苦労をしているのに、
いまだに万能のものはないです。
私たちの知恵は、まだまだなのですかね。