2007年1月15日月曜日

25 隠岐:新旧の歴史の連結 2007.01.15

 日本海に浮かぶ隠岐は、古くから人が住みつき、長い歴史をもち、今も人々は歴史を刻み続けています。地質学的にもみても、隠岐は古い記録と新しい記録が残されている島です。それらの新旧の歴史が隠岐では連結して見えます。

 隠岐は、日本海に浮かぶ大きな島です。さすがに佐渡や対馬と比べると、見劣りがしますが、隠岐の島後(どうご)の中にいると、そこが島であるということを忘れてしまうほどの大きさがあります。それは、海の見えない内陸で、田畑や山、森林などの日本の里山の景色があるためかもしれません。
 私は1980年に一度訪れたのですが、その後、機会がなくいっていません。チャンスがあれば、また行きたいものです。
 私が隠岐を訪れたのは、大学の修士課程の1年生の6月下旬でした。私の指導教官であるT先生が、隠岐で産出する捕獲岩(後述)の試料を採取するというので、そのお供として勉強のためについていきました。
 当時、私は学生のいない大学院(当時は2年間で修了する修士課程だけしありませんでした)と研究者(教員)だけしかいない大学の研究所にいました。その研究所には、3つの専攻があったのですが、大学院生も少なく、総勢6名(内1名は研究生)しかいませんでした。そして同じ専攻には3人の修士課程1年生だけがしかいませんでした。T先生を指導教官としていたのは、私だけで、他の2人は違う先生を指導教官としていました。
 そのころ私は、T先生と相談して修士論文のテーマを決めて、野外調査をする地域も選んで基礎的なデータを集めたり、論文を読んでいるところでした。7月になったら、長期の予定で野外調査に出かけるつもりでした。そんなころ、隠岐に出かけました。それは、T先生が一人で調査にいくのは大変だし、調査の準備や手伝をする必要があったからです。自分の修士論文のテーマとは違うのですが、別の地域で地質学的に有名な隠岐の地質を見聞することは勉強になります。そして、2泊3日の調査で、出会って間もないT先生と、親睦を深めることも重要な目的でした。
 隠岐の島後は、日本列島でも非常に古い岩石が出ていることで有名です。その石は、隠岐片麻岩と呼ばれるものです。隠岐に見られる岩石は、約20億年前に地下深部で形成された非常に古いものであることがわかっています。中には30億年前にできた鉱物(ジルコンと呼ばれているものです)も見つかっています。片麻岩は変成岩の一種で、元になっている岩石は堆積岩や火成岩などいろいろな種類があります。片麻岩以外にも、一部溶けてできたミグマタイトと呼ばれる岩石もあります。
 同じような一連の岩石は、中部地方の飛騨地域と韓半島で見つかっています。ですから、片麻岩のもととなった岩石ができた頃は、日本列島と韓半島、つまりユーラシア大陸とがつながっていたことになります。当時、日本海も日本列島もなく、そこはユーラシア大陸の東端にだったのです。
 4000万年前から2000万年前にかけて、マグマの激しい活動によって、隠岐島後には直径12、3kmほどの環状のカルデラが形成されます。激しい火山活動とともに、大陸の東端に大きな亀裂が形成され海が進入しました。西南日本の研究から、1500万年前に、亀裂で切り離された大陸の切れ端(日本列島の原型)は、回転をはじめ、1300万年前にはほぼ現在の位置へたどり着いたと考えれられています。もしこの研究の結果が正しければ、日本海の形成は、200万年ほどの間に起こったことになります。
 ところが、対馬海峡は第四紀まではユーラシア大陸とつながっていて、氷期と間氷期の繰り返しによって、浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返しながら現在のように開いていったと考えられています。
 それは、火山が活動していた中新世(2500万~1100万年前)にたまった地層からわかります。地層には、火山灰含むものもありますが、珪藻土(海のプランクトンが集まってできたもの)や、海の生物(サメや魚)や淡水の生物(海や陸上植物)などの化石を含んでいます。このことから隠岐は、海水が入り込んだ時代(海進)や海水が引いて淡水だけの湖の時代(海退)が繰り返していたことがわかります。
 これが隠岐の石が語る日本列島形成前後の歴史です。
 隠岐には、その後の新しい時代に起こった激しい火山活動も記録されています。火山活動は、600万年前から300万年間にわたって続きました。その火山岩の中に捕獲岩が見つかります。
 T先生のお供で捕獲岩をとりに行ったといいましたが、捕獲岩とはいったいどういうものでしょうか。捕獲岩とは、文字通り、捕獲されてきた岩石です。何に捕獲されてきたかというと、マグマです。マグマが上昇してきて地表に達したものが火山となります。火山の溶岩や噴出物の中には、マグマが上昇中に通り道にあった岩石を、取り込んで持ってくることがあります。そのため、マグマが固まった火山岩の中に捕獲岩が見つかることがあるのです。
 もし、マントルのような深いところで形成されたマグマであれば、マントルを構成している岩石が捕獲岩として手に入れることができます。地上にいながらにして、マントルの岩石を手にできるのです。マントルの岩石は非常に貴重で重要です。
 マントルまで岩石を掘りに抜くことは、まだできていません。ですから、マントルの岩石を直接調べることはまだ人類はできないのです。マントルの岩石がまくれ上がって出ている地域はありますが、それはもはや現在のマントルではなく、昔のマントルであったものです。現在あるマントルの岩石を手に入れることは、今のところ捕獲岩でしかできません。ですから、マントルの捕獲岩は非常に貴重な試料といえます。
 マントルを構成する岩石は、カンラン岩と呼ばれています。カンラン岩は、名前の通り、カンラン石をたくさん含んでいます。他にも輝石や長石、スピネルなどを含むことがあります。このような捕獲岩からマントルの様子を詳しく探ることができます。
 カンラン岩を調べた結果、そのカンラン岩のあった場所は深度30kmくらいいのことろだと考えられています。これは、地震波で調べた結果とも一致しています。ですから、その捕獲岩を取り込んできたマグマはもっと深いところで形成されたものであることになります。
 どこでできたマグマでも、すべて地下の岩石の中を通り抜けてくるのですから、すべてのマグマで捕獲岩があってもいいのですが、必ずしもそうではありません。なぜなら、マグマに取り込まれた岩石も、長い時間マグマの中にあると溶けてしまったり、重ければマグマの底に沈んでしまいます。マグマだまりなどをつくって長く液体のままマグマとしてとどまると、岩石が沈んでしまいます。取り込まれた岩石がマグマの中で岩石のまま残っているためには、ある程度速いスピードで、地下にほとんど止まることなくマグマが上がってこなければなりません。一気に地表に噴出する必要があります。
 マグマの上昇スピードが速くなるためには、マグマが大きな浮力を持っていなければなりません。その浮力は、ガスの多いマグマであれば得ることができます。マグマができたときにガスの成分が多いものあれば、ガスの浮力によって、マグマは速く地下を通り抜けていきます。そのまま地表に出てくれば、捕獲岩が溶けたり、沈むことなくマグマと一緒に上がってきます。
 隠岐の玄武岩は、アルカリ玄武岩と呼ばれるもので、ガスの成分をたくさん含んでいるものです。
 隠岐の島後は、島の半分ほどを火山岩に覆われています。新生代の中新世(600万年前)頃から、何度かの活動によって起こった多様な火山活動がありました。完全に隠岐が陸化して島となった後、最初に流紋岩や粗面岩と呼ばれるアルカリ岩質のマグマが活動します。その後、捕獲岩をともなう玄武岩のマグマの活動(西郷玄武岩と呼ばれます)に変化していきます。これらの玄武岩はアルカリ玄武岩と呼ばれるもので、日本海に面する山陰地方に多く見られるものです。
 隠岐で見つかる流紋岩のなかには、黒曜石をたくさん含んでいます。その黒曜石は石器に利用され、山陰地方の縄文時代の遺跡からたくさん見つかっています。隠岐の黒曜石による石器は、東は能登半島、西は韓半島にまで見つかっています。縄文の人がそのころ広く交流していたことをうかがわせます。そして、大地の恵みの黒曜石が、当時の重要の道具の材料となっていました。
 人間の歴史から見て、隠岐は古くから重要な役割を果たしていたことになります。しかし、隠岐の20億年以上におよぶ大地の歴史から見ると、黒曜石は新しい時代のできことです。地球の歴史の新旧と、人間の歴史の新旧が隠岐では連結しているように感じます。

・国境の島・
隠岐は、人の歴史によれば、
縄文や弥生時代から人が暮らしていた証拠があります。
大化の改新以前には億伎国造が、
すでに設置されと考えられています。
また、隠岐は、対馬と並んで、
韓半島の渤海や新羅との交渉の記録があります。
ですから、日本と韓半島との関係が緊張すると
隠岐にも影響があり、日本の前線基地がおかれたこともありました。
その緊張は今もたえることなく、
隠岐の北西にある竹島もその象徴となっています。
このような緊張感は、国境近くにある島の宿命なのかもしれません。
しかし、そのような激動の地にあることが、
隠岐の歴史の多様さを生み出しているのでしょう。
それはこれからも国家が存続し、
国境のある限り続くことなのかもしれません。

・知恵・
北海道は正月明けから冬らしくなってきました。
冷え込みも強くなり、雪も降るようになりました。
雪が少なく思っていましたが、
これのまま春といくとは誰も思っていないでのでしょうが、
やはり雪は北国の生活に不便と苦労を強いります。
でも、この雪こそが北海道や北国の個性であります。
そこに住み暮らす以上
それを風土、自然として受け入れなければなりません。
できればハンディをプラスにする工夫が必要ですが、
雪の夏の冷房への利用なども考えられています。
しかし、昔の知恵はなかったのでしょうか。
古くから北国で暮らしている人たちの知恵、
アイヌの人たち、縄文人達の生活から学ぶことがないでしょうか。
あるいは、遠くイヌイットやラップランドの人の暮らしからでも
他の生き物からでもいいかもしれません。
もしそのような知恵が見つかれば、
今の技術力をもってすれば、よりいいものにできると思います。
私は、いの一番に雪道で滑らない靴を早く開発していほしいものです。
でも、これだけ多くの人が苦労をしているのに、
いまだに万能のものはないです。
私たちの知恵は、まだまだなのですかね。