2008年2月15日金曜日

38 支笏湖:穏やかさと激しさ(2008.02.15)

 支笏湖には、自然が残されています。しかし、その自然の中には、穏やかな人を癒してくれるものだけでなく、激しい異変や破壊を伴うものもあります。それも含めて、自然と見る必要があるのかもしれません。

 北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
 私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
 北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
 支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
 明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
 北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
 その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
 この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
 明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
 支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
 王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
 王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
 北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
 もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
 火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
 1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
 しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
 記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
 自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
 一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
 そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。

・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。

・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。