2008年7月15日火曜日

43 三方五湖:年縞の記録(2008.07.15)

 三方五湖は、福井県の中央に位置しています。若狭湾国定公園の一部ともなっています。静かな湖底の堆積物には、長い環境の記録が残されていました。

 今年の春休みに、福井県に行きました。その時、三方五湖を訪れました。私は京都生まれなのですが、小さい頃に日本海側にいった記憶ありません。その後、日本海側をみる機会がいくつかありました。一つは、大学院と研究員のときに鳥取に5年間住んでいたことから、日本海側の山陰はいろいろ見て回っていました。また、博士課程での研究テーマに関係する野外調査で、京都府から福井の西側の一部は、歩き回っていました。しかし、福井県の中部から東部にかけては、いった記憶がありせん。もちろん、北陸へあるいは敦賀港(フェリーを良く利用したため)から移動するためために通過したことがありますが、じっくりと見て回ったことがありませんでした。そこで今回の旅で、福井県を見て回ることしました。
 見たいところとしては、大島半島と若狭蘇洞門(そとも)、三方五湖がありました。大島半島ではオフィオライト(地球のささやきというエッセイで紹介しました)を、蘇洞門では花崗岩とその柱状節理を見るつもりでした。しかし、大島半島は激しい雨でみることができず、蘇洞門も天候不良(フェリ欠航)と冬季間の通行止めで、いずれも見学することができませんでした。
 残されたものは、三方五湖です。天気は、風が強く肌寒かったのですが、周辺とレインボーラインを巡ることができ、5つの湖を見ることができました。
 三方五湖とは、三方地域にある5つの湖という意味です。三方とは、三潟とも書かれていて、三つの潟のあるという意味でつけられました。古くからこの地域は、三方郷として知られていました。万葉集の7巻にも、
 若狭なる 三方の海の 浜清み 
 い往き還らひ 見れど飽かぬかも(作者不明)
という歌が残されています。三方は、古くから知られた有名な所だったのです。
 三方郡三方町は、2005年3月31日に、三方郡三方町と遠敷郡上中町が合併して若狭町となりました。三方町はなくなりましたが、三方上中郡を新設され、三方の名称は残りました。
 5つの湖とは、三方湖、水月湖、菅(すが)湖、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖です。配置は、日本海に面して、東に久々子湖(周囲7.0km、最大水深3.0m、面積2.25km2)、西に小ぶりの日向湖(周囲3.6km、最大水深38m、面積0.92km2)があります。その南側に水月湖(周囲9.85km、最大水深38m、面積4.06km2)、それに小さく東に寄り添うように菅湖(周囲4.2km、最大水深14.5m、面積0.95km2)があります。水月湖のさらに南側に三方湖(周囲9.6km、最大水深2.5m、面積3.45km2)があります。三方湖、水月湖、菅湖の3つは、もともとつながっています。
 久々子湖と日向湖は、海と細い水路でつながっています。久々子湖の水路は満潮のときだけ、海水が逆流するため、汽水(海水と淡水が混じった状態)となっています。日向湖は完全な海水です。
 その以外の3つの湖は、海からは完全に切り離されていました。しかし古くからこの地域の人々は、治水や耕作のために、この湖に手を加えていました。1662年から開削された浦見川によって、水月湖と久々子湖はつながりました。1751年には、嵯峨隧道の開通によって水月湖と日向湖がつながりました。また、1860年に、菅湖と三方湖とは「堀切」で人工的につながれています。そのため水月湖と菅湖は、汽水になりました。いくつかの水路と湖を経ていますが、海とつながっているはずの三方湖ですが、現在でも淡水のままで、コイやフナ、ワカサギなどとが獲れるそうです。
 古くから人が、手を加えてきた三方五湖ですが、その自然は破壊されることなく、人々が暮らしの中で守ってきました。その結果、北西に伸びる常神半島と三方五湖周辺地域は、1937年6月15日に名勝「三方五湖」として国の指定を受け、1955年6月1日には若狭湾国定公園に指定され、2005年11月8日にラムサール条約指定湿地に登録されています。
 三方五湖は、地球の環境変化を記録していることがわかってきました。その記録は、湖底の堆積物の中にありました。三方湖と水月湖が、重要な役割を果たしています。
 1980年に三方湖の湖底にたまった堆積物をボーリングして調べることが行われました。三方湖には、はす川という比較的大きな川があります。その川が堆積物を運んでくるため、堆積物がたまって三方湖は比較的浅くなっています。水月湖の最大水深38mもあるのに対し、三方湖の最大水深は2.5mしかありません。これは、河川の囲んでくる堆積物の量を反映しています。他の湖には小さな川があるのですが、大きなものはなく、堆積物を運んでくる機構がないので、湖底にたまる堆積物が少ないのです。
 水月湖は、湖水の上部(水深0~6m)が淡水となり、下部(水深7~40m)汽水となっています。しかし、下部の汽水には生物がほとんど棲んでいません。それは、下部の水が無酸素状態になっているためです。
 水月湖には、大きな川のある三方湖からは淡水が入ってきます。一方、水路によって久々子湖からは汽水が流れ込みます。淡水に比べ海水を含む汽水は密度が大きく、底にたまるようになります。密度の違う水が2層に分かれた状態では、表層の淡水が風などで波立ったとしても、表層だけが混ざり、湖底の汽水の部分はたまったまま、混ざることがありません。そのような状態が長く続くと、空気に触れることなく、有機物が分解していき湖水中の酸素をすべて使ってしまいます。そのため、生物がほとんど棲めない無酸素の水となります。2006年時点で、下部の湖水は、硫化水素を含む無酸素状態となっているそうです。
 周りの影響を受けずに、湖の環境だけを調べるためには、三方湖より水月湖の方が、適しています。それは、土砂の流入が少ないので、ひとつひとつは薄い堆積物になりますが、短いボーリングでより多くの時代の堆積物を得ることができるからです。また、無酸素で生物が棲めないために、薄い堆積物が、乱されることなく保存されます。
 そのような穏やかで土砂の流入が少ないところでは、湖の四季の変化が、堆積物に記録されていきます。春から夏まで、湖の表層にすむプランクトン(珪藻)が繁殖して、その遺骸が湖底にたまり、白っぽい堆積物が形成されます。秋から冬には、プランクトンの活動は衰え、細かい黒っぽい堆積物(粘土鉱物)が堆積します。白と黒で1年分となります。長年同じ状態が続くと、白黒の縞模様が堆積物が形成されていきます。これは、木の年輪のように、縞模様から年を数えることができます。このような年毎の縞模様を、年縞(ねんこう)と呼んでいます。
 1991年と2006年に、水月湖の湖底でもボーリングがおこなわれました。その結果、三方湖のボーリングで5万年間の記録だったのですが、水月湖では世界で最も長い年縞の記録である15万年分の堆積物が得られました。これらの年縞を詳しく調べることによって、地球の環境変化が読み取ることが可能となります。現在研究が進められています。
 地道な調査研究から、三方五湖のでき方がわかってきました。
 古い時代から、そして現在も活動している三方断層が、三方五湖の東縁にあります。この断層がいつできたかは分かりませんが、30万年前には、今より海水面が20mほど高くなり、断層の沈降部に海水が張り込み湾となりました。そして少なくとも15万年前には、水月湖の湖底に堆積物がたまり始めました。
 約2万年前の氷河期に、日本海の海面が100m以上も低くなり、断層のくぼ地に淡水がたまり湖となりました。これが三方五湖と始まりです。当時の三方五湖は、海岸から遠く離れた内陸の湖でした。5000年前くらいの縄文時代前期には、海面が現在より3~5mほど高くなり、三方湖は、水月湖と菅湖がくっついて一つとなった大きな湖で、北の湖の部分は湾として海とつながっていました。
 その後海面が下がりましたが、久々子湖はまだ大きな入江でした。三方五湖の東で海に注ぐ耳川が運ぶ土砂が、海流で運ばれて入江にたまり、入口がほとんどふさがれました。1500年前には、今と同じように久々子湖は、細い水路で海とつながっている状態になりました。そのような長い時間の経過を経て、現在の三方五湖ができてきました。
 三方五湖には、少ないながらも堆積物が、今も、川から運ばれ続けています。ですからこれからも、湖には堆積物はたまり続けることでしょう。時間の差はあるでしょうが、三方五湖が浅くなり続けることを意味します。それが周辺にどのような環境変化をもたらすかは、まだ分かりません。今の環境も、ある時間での環境の一断面に過ぎないのです。

・夏風邪・
発行が少し遅れました。
それは、体調不良のためです。
先々週の末に、夏風邪をひいてしまいました。
だんだん病状は悪化し、ひどく咳き込むようになりました。
あまりひどい咳で夜も寝れないほどです。
咳止めも種類を換えたのですが、あまり効果がありませんでした。
今週になって風邪の方は治まったのですが、
ひどい咳のために、筋肉痛から腰痛に発展して、
身動きが不自由になりました。
今まだ不調なのですが、授業あるので、
なんとかがんばって出てしました。
授業が終わったら、昨日に続いてマッサージに出かけます。