2008年11月15日土曜日

47 飛騨の変動:荘川桜(2008.11.15)

 夏過ぎに能登と飛騨の調査をしました。荘川を日本海側から源流まで遡るという旅でしたので、飛騨をめぐることもなく、地質を詳しく見ることもありませんでした。飛騨の地質は、日本でもここでしか産しないユニークなものがあります。それを紹介しましょう。

 富山県は、北側に富山湾があり、南側には両白山地、飛騨高地、飛騨山脈(一般には北アルプスと呼ばれている)という日本でも有数の山岳地帯が横たわっています。そのような山岳地帯を源流とする水量豊かな川がいくつもあり、富山湾に流れ込みます。富山湾に注ぐ一級河川だけでも、西から小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川という名だたる急流があります。中でも庄川と神通川は、富山県の県境を越えて、南側の岐阜県にその源流があります。
 今回の能登と飛騨の旅では、庄川の源流を車で一気に遡ることが、目的のひとつでした。幸い快晴に恵まれて、川沿いを走破することができました。
 私が訪れる数日前まで、大雨による土砂崩れで国道が通行止めになり、自動車専用道路しか通れない状況でした。しかし、幸いなことに、私が行く直前に、国道が復旧して通行できるようになっていました。
 富山県と岐阜県の山岳地帯を中心とする地域は、地質学的には、日本でも最も古い岩石類が分布しているところです。地下にはそのような古い岩石が広がっていると考えられますが、地上で実際に見ることができるのは、局所的で、限られた分布しかありません。それでも、古い岩石は、飛騨周辺地域に比較的広く分布しています。そのほかには、西に向かって点々と同様の古い岩石が、山陰や隠岐まで出いますが、いずれも小規模な岩体としてあるだけです。
 日本列島でも古い岩石類は、飛騨変成岩や飛騨帯などと呼ばれるもので、その構成や履歴は複雑なものになっています。ここでは、その概略を紹介しましょう。
 5億年前にできた大陸(ゴンドワナ大陸)が、3億3000万年前に分裂し、いくつかの大陸に分かれました。分裂したころにできた岩石が、飛騨片麻岩や古い花崗岩として見つかります。
 分かれた大陸が、2億3000万年前頃(三畳紀末)に衝突合体をして、東アジア大陸ができました。衝突する前の2つの大陸の間には海がありました。その海でたまった地層が、現在、宇奈月(うなづき)結晶片岩と呼ばれているものです。宇奈月結晶片岩は、もともと石灰岩、凝灰岩、泥岩、砂岩などの海で形成された堆積岩が、変成作用を受けてできたものです。
 衝突する大陸(衝突帯と呼ばれています)の地下深部では、高温高圧の条件で変成作用が起こりました、そのような変成作用によってできた岩石が、飛騨変成岩と呼ばれているものです。その後、1億8000万年前頃に活動した花崗岩が、当時の地殻上部を構成していた古い岩石類を貫いて(貫入(かんにゅう)といいます)います。
 ここまで紹介した飛騨の岩石類の歴史は、古生代から中生代までの古い時期のものだけです。飛騨の岩石は、その後も複雑な変動を受けています。たとえば、日本海の形成に伴う日本列島の大陸から分離、フォッサマグナの形成、丹どもの火成作用など、さまざまな時代にさまざまなタイプの地質学的変動を、飛騨地域は受け続けています。そしてそのような変動は、今も続いています。
 飛騨山地が急激に持ち上げられて山脈となったのは、約50万年前だと考えられています。飛騨で見つかる古い岩石の歴史からすれば、50万年前は、地質学的にはつい最近の出来事というべきものです。短時間に急に上昇した地帯は、激しい侵食にさらされることになります。そのため、侵食によって急峻な山岳地形が形成されることになります。
 富山県内の河川は、そのような急激に上昇した山岳地帯に水源を持つものです。侵食や削剥が激しい山岳地帯があると、大量の土砂が川によって運ばれます。山地から海までの距離が短いために、土砂は途中でたまることなく、海まで一気に流れ込みます。富山県の河川は流域が短く、中流域や下流域と呼べる部分は短く、上流域から一気に河口に流れ込むような急流となっています。
 黒部川では、急峻な山から中流に出てできる扇状地が、そのまま海に達しています。富山平野は、主に庄川と神通川が運んできた土砂によって、短い時間に形成されました。また、富山湾には深い海底谷がありますが、それを富山の河川堆積物が埋め立てています。
 日本海に面した山岳地帯には、冬になると季節風によって大量の雪が降ります。冬に積もった雪は、水資源として重要な役割を果たします。特に、急峻な山岳地帯は、急流で高低差があり、水力発電には適しています。
 日本が終戦後の復興が進みだしたころ、今まで石炭に頼っていたエネルギーが、供給不足になります。特に電力の不足は深刻な問題となりました。そのとき目をつけられたのが、水量豊かな水資源です。1952(昭和27)年、電源開発促進法が成立して、電源開発株式会社が国家的使命として設立されました。最初の電源開発計画として打ち出されたものが、北上川の胆沢や天竜川の佐久間とともに、庄川上流の御母衣(みぼろ)のダム建設がありました。
 御母衣ダムの建築予定地には、当時1200人以上の住民が暮らしていました。彼らの生活の場がダムの水底に水没するため、住民は立ち退きを余儀なくされました。住民との立ち退き交渉は困難を極めましたが、電源開発株式会社の高碕達之助総裁は、なんとか住民との信頼関係を築き、交渉を成立させました。
 彼が水没の決まった地区を訪れたとき、2つの寺の境内にそれぞれ桜の大きな老木があるのを見つけました。この見事な桜が水没するのは忍びないと、なんとか移植できなかと考え、対策を考え、実行に移しました。
 桜の老木の移植は不可能だとされたのですが、多くの人の協力と努力によって成功しました。今も2つの桜の巨木は、御母衣ダム湖のほとりに生き続けています。2本の老木は、春になると花を咲かせています。春には、桜の名称としてメディアにもよく登場します。この2本の桜は荘川桜と呼ばれ、岐阜県指定の天然記念物となっています。荘川桜は、今もダムを訪れる人を和ませ、かつての住民の心のふるさととなっています。
 私は、荘川桜をテレビで見ていましたが、いきさつの詳しい話をダムの電力館のビデオではじめて知りました。多くの人が、この桜にかかわり、そして思いを寄せていることがわかりました。
 私が訪れたのは、9月のはじめでした。ですから御母衣の冬の豪雪や花の時期は想像だにできません。しかし、そのような豪雪に耐えた抜いた桜の巨木は、その厳しさ、そして人の思い、この地の変化を、500年以上にわたって見てきたのでしょう。500年は、人間の寿命から言えば、何世代も経なければならない長さです。それを荘川桜は一世代で過ごしてきたわけです。
 青々とした葉を茂らせている桜の老木を眺めながら、彼らが見てきたであろう500年の御母衣の変化と、私が知識として知っている日本でもっとも古い地層の5億年の変化とを対比しながら、その隔たりと悠久さに思いを馳せていました。

・凛とした朝・
北国は里にも何度か雪が降りました。
冷え込む朝には、大地は霜で白くなります。
手稲の山並みは、雪が消えることにがないほど
雪が何度も降っています。
朝夕や曇りの日には、ストーブをつけています。
天候不順が続いていたのですが、
先日やっと快晴の日を迎えました。
早朝は放射冷却で凛とした身の引き締まる寒さでした。
足元の大地が霜で真っ白になり、
遠くに見える山並みも白くなっていました。
北国はいよいよ冬到来です。

・新しいOS・
夏に5年ぶりに新しいデスクトップパソコンを買い替え
今ではそれをメインのパソコンとして使っています。
WindowsVISTAをOSとしています。
このVISTAが曲者で、パワーポイントが不安定で
動画のオブジェクトを設定して再生すると、
不正終了になることがよくあります。
講義ではノートパソコンを使っていますので、
そちらではちゃんと再生できるので、
一応実用上問題がありません。
また、地形データを処理するKashmirも
ある操作をすると停止します。
ですから、それは、以前使っていたデスクトップで
地形画像を処理するようにしています。
新しいからいいと限りません。
長い目で見たとき、新しいOSは、
新しいバージョンのソフトではやがて必要になると思います。
ですから、飛びつくことはありませんが、
検証を兼ねて、以降していくつもりです。
もちろんただし、ノートパソコンはWindowsXPです。