2009年12月15日火曜日

60 高千穂:神話を生む節理

 いよいよ今年も終わろうとしています。今回は、天岩戸伝説で有名な高千穂を紹介します。高千穂は、阿蘇山の火山活動によってできた柱状節理が織り成す景観です。節理は長い年月の経過によって、地下から現れたものです。風化によって浸食され、流水によって削られながらも、節理の性質を残しています。高千穂の生い立ちを見ていきましょう。

 九州の中央部には、阿蘇山があります。阿蘇山は、日本でも非常に規模の大きいなカルデラを持つ火山で有名です。現在でも活動中の活火山で、中岳周辺には、激しく噴気を上げている火口があります。活動と風向きにっては、近づけないこともあります。
 広大な火山なので、阿蘇山の中岳を中心とする中央火口丘だけでなく、カルデラ内にもいくつもの観光名勝があります。カルデラの外にも、もちろん観光名勝があります。
 カルデラは火山の中に形成されたくぼ地です。そのくぼ地は、火山体の中央が陥没して形成されます。ですから、カルデラの周囲には、もとの火山体を構成していた山が残り、外輪山と呼ばれています。外輪山は、カルデラの方が急な崖になってカルデラ壁と呼ばれています。外輪山の外側は、火山の裾野ですので、比較的なだらかになっています。しかし、それはカルデラ壁と比べての話で、火山の裾野ですから、傾斜をもった斜面となっています。
 もちろん、阿蘇山の外輪山周辺にも観光名所はたくさんあります。
 宮崎県の高千穂は、阿蘇山の外輪山の南東の山裾にあります。険しい山の中に、峨峨とした山並み、柱状に切り立った渓谷が特徴で、高千穂峡と呼ばれています。私は、阿蘇山へは、何度かいったことがあります。カルデラ内のその周辺にもいきました。高千穂へは、3度ほど出かけました。今年の9月にも出かけ、周囲を見学しました。
 外輪山は昔の火山の裾野にあたり、分水嶺を形成し、周辺には外輪山を源流とする河川が多数あります。その一つに五ヶ瀬川があります。五ヶ瀬川の上流、外輪山の南東の山麓に位置するのが、高千穂です。
 高千穂は、その険しく不思議な景観を持っているためでしょうか、古くから物語や伝説が生まれてきたようです。高千穂は、天孫降臨の地、あるいは天岩戸(あまのいわと)の神話の舞台として有名です。
 天孫降臨とは、古事記と日本書紀に記された神話です。スサノオノミコト(瓊瓊杵尊)が姉であるアマテラスオオミカミ(天照大神)の命を受けて、高天原から天降ったというものです。その地が、高千穂だと考えられています。
 天岩戸伝説も、スサノオノミコトとアマテラスオオミカミに関する神話です。スサノオノミコトが高天原で目に余る狼藉を働いたので、アマテラスオオミカミが怒って、天岩戸に篭ってしまいました。このとき、一帯が真っ暗になったのいうのが、天岩戸伝説です。
 実際には、皆既日食が起こったのが、このような神話の起源だと考えられているようです。日食終わりにも神話が続きます。
 暗くなって皆は困り、アマテラスオオミカミを出すために策略を練ります。天岩戸の前で、踊りの上手なアメノウズメノミコト(天鈿女命)が奇抜な格好をして踊り、他の神々も大笑いをしたり、大騒ぎをしました。その騒ぎを聞きつけたアマテラスオオミカミは、皆を困らせるために岩戸に篭ったのに、喜んで大騒ぎをしているのを不思議に思い、岩戸を少し開けて、なぜ大騒ぎをしているのかを聞きました。そのとき、あなたより貴い神が現れたといって、そっと鏡を出しました。その鏡に映った自分の姿を、もっと見ようと岩戸をさらに開けたところを、力持ちのタジカラオノミコト(手力男命)が引きずり出し、もう岩戸に隠れられないように注連縄(しめなわ)をはりました。それで、やっと闇はなくなったという神話です。
 神話ですから真偽のほどは定かではありませんが、高千穂には、天岩戸神社があり、天岩戸があります。私は、天岩戸神社へはいったんのですが、天岩戸は見学しませんでした。ただ、神話の舞台となっている天安河原を訪れました。
 そこは、高千穂の静寂に囲まれた不思議な空間となっていました。
 高千穂峡の不思議な景観は、柱状節理が作り上げています。柱状節理とは、マグマや岩石が冷めるときにできる割れ目です。マグマが固まり、熱い岩石が冷めるとき、少し体積が減ります。そのときに、岩石に割れ目ができます。その割れ目は、冷める方向に対して垂直にできやすくなります。高千穂峡の柱状節理は、垂直に立っていますから、上下から冷えたことになります。
 柱状節理の上部では、柱状ではなく、放射状の節理もあります。ここでは、表面に近く、丸くなるような冷え方をしたようです。自然の造形ですから、同じようでも、2つとして同じものはありません。
 垂直の柱状節理は、川によって侵食されていくと、柱が一つ一つ倒れていきます。ですから、切り立った崖として侵食され、深い谷ができます。高千穂峡も、そのような作用でできました。
 高千穂の一番の名勝である真名井の滝は、柱状節理の上から流れてきた水が、17mの高さから静から川面にしぶきとなって落ちます。水量は多くないですが、たおやかな優雅さがあります。柱状節理に囲まれた静かな流れに落ちる滝へは、ボートで誰もが近づけます。東西横に7km、高さ80~100mに渡る柱状節理の列が、高千穂峡の非常に神秘的な景観をつくっています。
 この柱状節理は、阿蘇の火山によってできたものです。柱状節理をよく見るとそこには、黒っぽいガラス状の石が延びて含まれています。これは火山の火砕流によって放出された軽石などが、熱のために溶けてガラス状になったものです。火砕物が溜まった時の圧力で、平たく伸ばされたものです。このような岩石を溶結凝灰岩といいます。柱状節理は、阿蘇の火山噴火で火砕流が起き、火砕物が溜まり、再度熱くなり固まり、それが冷えたときできたものです。
 阿蘇山は、過去に4度の大噴火を起こしています。最初は26.6万年前で、2度目が14.1万年前、3度目が12.3万年前、4度目が8.9万年前です。3度目と4度目の大噴火の時、火砕流が高千穂を襲い、火砕堆積物を堆積しました。これが、今では柱状節理となっています。
 火砕流は、マグマが地表付近で大爆発して、膨張したものが、流体として熱いまま流れていきます。600度から1000度ほどの熱い流体で、高速で流れていき、山があっても乗り越えて、遠くまで達します。
 阿蘇山の4度目の火砕流は、非常に大規模で広範囲に及びました。この火砕流は、南は人吉盆地まで達し、南以外はすべて海にまで達しています。北は海を越え山口県宇部市、東は五ヶ瀬川の河口から海へ、西は海を越え、島原半島、天草下島にまで達しました。その規模は、火砕流だけで、九州を半分近くを覆うような大火砕流だったのです。また、火砕流だけでなく、火山灰も大量に放出し、北海道東部でも15cmもたまっています。
 そんな大噴火によって形成された高千穂峡ですが、今ではそんなことに気づく人はどれほどいるでしょうか。高千穂峡を橋の上から見下ろすと、そこには切り立った崖と、音も無く落ちる滝、そして静かな水面という、静逸と神秘に満ちた景観をみせてくれます。時折静かな水面をボートが行きかい、これが現代であるということを、思い出させてくれます。
 こんな節理が作り出す景観の中で、神話が生まれたのも納得できます。

・予定外の訪問・
今年最後のエッセイは高千穂となりました。
高千穂には今年9月、
宮崎調査に出かけたときに立ち寄りました。
本当は、高千穂からのずっと奥の調査予定でした、
その地を探したのですが、わかりづらく
見つけることができず、断念しました。
少々悔しい思いでしたが、
はからずも時間ができたので、
高千穂を見学することにしました。
20年ほど前には友人と、
数年前にも家族で高千穂には訪れたのですが、
季節が違っているので、趣も違っていました。
9月上旬の平日にもかかわらす、
バスで多くの観光客が訪れていました。
観光客でも、外国の方が目立ちました。
夏休みが過ぎていましたが、
暑い日で、高千穂峡の川面を流れる風の涼しさを堪能しました。

・来年の予定・
いよいよ今年も終わりとなります。
来年もこのエッセイを続ける予定ですが、
4月以降は、愛媛県に1年間単身で出かける予定になっています。
そこは自宅や大学よりインターネット環境が完備しておらず
継続できるかどうか不明です。
とりあえずは、3月までは継続していきますが、
状況によっては、このエッセイを休止するかもしれません。
ただ、現在発行しているまぐまぐでは、休刊はできますが、
1年以上に渡っての休刊は、メールアドレスの変更が多数あるため
あまり復刊しない方がいいとのことです。
ですから、せっかく長らく購読いただいている読者がおられますから
継続の方向で検討しますが、現段階では、まだ未定です。
状況が変わればそのつど連絡しますが、
そのような状況であることをご報告します。

2009年11月15日日曜日

59 三笠山:複雑さと誤謬

 9月下旬に、奈良を訪ねました。そのときに垣間見た若草山から、奈良盆地の火山に思いを馳せました。思いは、奈良時代から地質時代へと巡ります。そして、出回っている説には、いろいろ誤謬があることに気づきました。誤謬の原因は、一つには複雑な来歴に由来するものです。複雑の生む誤謬が生んだ、誤謬を見ていきます。

 春のゴールデンウィークに対して、今年の秋の長い連休をシルバーウィークというようになりました。しかし、連続するのは今年だけで、ゴールデンウィークのように毎年連休になるわけではありませんが。大連休だったので、家族で久しぶりに里帰りをすることにしました。多分どこでも人で一杯だろうし、交通料金もかかるので、一番安上がりな里帰りを選びました。これなら交通費だけですみます。滞在費、宿泊費は、実家にお世話になります。
 5日間いたのですが、そのうち1日を、奈良に出かけることにしました。子どもを2人と私の3人旅となりました。家内はぎっくり腰で、実家で寝ていました。
 私たちは、奈良の大仏を見ることをメインにしていました。そして次男は、野生の鹿を見ることも楽しみにしていました。
 北海道にいると、よく野生動物を見かけることがります。それは、完全な野生で、人間には馴れてないのが普通です。ところが、奈良の野生の鹿は、人に馴れています。子どもたちは、間近にみることのできる野生動物のものめずらしさ、力強さ、生物としての知恵など、いろいろ感じることができたようです。帰っても興奮して鹿の話をしていました。
 私は、奈良の東大寺周辺には何度かいったことがありました。最後に来たのは、学生時代だと思います。学生時代、帰省するとたびに、京都や奈良の名所旧跡をめぐるようになりました。故郷をはなれて、北海道に住むと、自然の豊かさを味わうことができますが、人間が作り上げてきた文化の歴史が浅く感じるようになります。そのような欲求を満たすためだったのでしょう。
 道筋までは覚えていることはありませんが、名所にくると、「ああ、ここには来たことがある」という思い出がよみがえりました。そんなところを回ることになりました。
 奈良の若草山というと思い出すのが、
  天の原 ふりさけ見れば 春日なる
  三笠の山に 出でし月かも
という阿倍仲麻呂の歌です。子どもたちは学校で百人一首をしているので、この歌を知っています。ここで歌われている三笠山が、東大寺の裏にある若草山のことだと、子どもたちに教えていました。若草山が、3つ重なっているように山頂が見えるため三笠山と呼ばれていたのは知っていました。ちょっと知識のあることを見せていました。ところが、調べてみると、間違っていたことがわかりました。
 若草山が、以前三笠山と呼ばれていたのは、正しかったのです。しかし、歌で詠まれている「三笠の山」は、若草山のことではなかったのです。南側にある春日大社の裏にある「御蓋山(みかさやま)」のことでした。案内書によっては、「御蓋山」の後ろにある春日山が、阿倍仲麻呂に歌われた山だといっているものがあるようですが、それは間違いです。春日山の前にある「御蓋山」が「三笠の山」だったのです。複雑です。
 この若草山ですが、本によっては昔の火山と書いてあるものがあります。でも、本当は火山本体ではありません。そもそも火山とは、火山噴火で形成された山のことですから、そのいう定義でいうと、若草山は火山になりません。
 ただ、若草山も御蓋山も、安山岩と呼ばれる溶岩からできています。その溶岩は、10数メートルほどの厚さしかなく、マグマを噴出した火山本体は、もはやは不明となっています。若草山も御蓋山も、山自体が火山ではなく、火山岩からできているにすぎません。ですから、若草山は火山ではないのです。複雑です。
 では、なぜ山になっているのでしょうか。それは、奈良盆地と東の笠置(かさぎ)山地を区切る断層(市ノ井断層と呼ばれています)があり、東側が持ち上げられたためです。
 断層によって、両側は全く違った地質となっています。断層の東側は、春日山も含めて花崗片麻岩からできています。花崗片麻岩は硬い岩石で、浸食されにくくなっています。ですから、山として残りました。一方、断層の西側は、西に傾いた地層が連なっています。もともと水平にたまった地層ですが、断層で東側が持ち上げられたたために、西に傾いてしまいました。
 地層の多くは、堆積岩や凝灰岩からできていて、その中に安山岩の溶岩があります。若草山の溶岩ももともとは水平にたまったものでした。この溶岩は、緻密で固い安山岩でした。そのために、周囲の堆積岩が長年浸食を受け、硬い溶岩の部分が若草山、御蓋山として残り、山となったのです。複雑です。
 若草山も御蓋山も、1300万年前に噴出した三笠安山岩と呼ばれる真っ黒な火山岩からできます。火山体はなくなっていますが、溶岩があるので、近くで火山活動があったことは確かです。
 奈良盆地には、昔の火山が点在しています。室生(むろう)、二上山、耳成山、畝傍(うねび)山、宝山寺、信貴(しぎ)山などは、火山です。考えてみると、点在する火山が、奈良盆地の真ん中にあるのは不思議な感じがします。なぜなら、周囲には活火山がまったくないからです。つまり火山帯ではないのです。なのに火山が点在するのです。不思議です。
 九州から、瀬戸内海を通って、奈良盆地、愛知県まで、点々とですが、断続的に同じような古い火山があります。これらを「瀬戸内火山帯」と呼んでいます。活動時代には幅がありますが、年代の分かっている火山の多くは、1600万から1100万年前にかけて活動したものです。
 瀬戸内火山帯の火山岩の多くは、安山岩マグマの活動できました。ところが、この安山岩は、少々不思議な特徴があります。一般の安山岩は、珪酸(SiO2)が多く、酸化マグネシウム(MgO)が少なくなっています。一方、瀬戸内火山帯の安山岩は、珪酸も多いのですが、その珪酸量に比べて、酸化マグネシウムがかなり多すぎるのです。まるで玄武岩のような量から、もっと多くの酸化マグネシウムを含むという特徴をもっています。
 このような安山岩を、「高マグネシアン安山岩」、あるいは「サヌカイト(sanukite)」と呼んでいます。この不思議な岩石が、讃岐(さぬき)地方でみつかったので、讃岐岩(いまではあまり使われていません)、英名をサヌカイトと呼ぶようになりました。
 瀬戸内火山帯は、かつての火山帯であったと考えられています。この火山地帯は、もともと複雑で特異なところでした。つまり、単純な成因では説明できず、複雑な成因を考えなければならないのです。
 沈み込む海洋地殻とそれに引きずり込まれた堆積物が溶けて、マグマが形成されます。そのマグマがマントルのカンラン岩と反応して、酸化マグネシウムの多いマグマができたと考えられています。しかし、この説も、まだ完全な成因解明にはいたってないようです。複雑なのです。
 若草山は、その起源も複雑、来歴も複雑、歴史も複雑です。そんな複雑さが重なり合うことによって、さまざまな誤謬が生じました。誤謬を生むほどの複雑さは、不思議さや神秘性をも生むのでしょうか。
 神秘性をも生んだ例として、奈良盆地の南に大和三山があります。畝傍山、耳成山、香久山の三山です。大和三山は、古くから歌にも詠まれてきました。
  春すぎて 夏来にけらし 白妙の
  衣ほすてふ 天の香具山
大和三山のそれぞれが、正三角形の頂点をなしています。畝傍山と耳成山は上でも述べましたが、古い火山です。しかし、香具山は、花崗岩からできています。この関係は、若草山、御蓋山、春日山の関係に似ています。偶然ですが、少々不思議な気がしました。
 昔の人がいろいろな思いを巡らした地は、人に神秘な心持を沸かせます。たんなる偶然にも、神秘性を感じてしまいます。

・カンカン石・
サヌカイトは、黒く緻密なので、
たたくとカンカンといい音がします。
香川県では、土産物として売られています。
このような石を、通称、カンカン石と呼んでいます。
香川県だけのものとされている表記もあるのですが、
上で述べたように同じような性質の岩石は
結構広く分布しています。
いずれも岩石としては、同じような性質をもっているはずです。
ですから、たたけばいい音がすると思います。
ただし、私は試したことがありませんが。

・改名・
三笠山に因んで天皇家である三笠宮ができました。
そのとき、同じ名前では恐れ多いとして
三笠山を若草山に改称したそうです。
山名に因んでいるわけですから
本当はありがたいことと喜びべきことで、
山名を残すべきだと思います。
今思うと少々奇異な感じがします。
1935年に山名が改名されたのですが、
時代は戦前の天皇制のころですから、
仕方のないことなのでしょうかね。

・巡る季節・
今回の里帰りでは
いくつかの親戚のお墓参りをすることにもしていました。
子どもたちは、従兄弟たちと久しぶりに会うので、
顔も知らない同士のような、緊張をしていました。
しかし、しばらく遊んでいると、
わいわいと騒がしく遊んでいました。
そんな賑わいとともに、
残暑の暑さの奈良を思い出しながら、
このエッセイを書きました。
ところが、今は11月。
北海道は初冬です。
つい最近のつもりだったのですが、
もう季節が2つも過ぎたのですね。

2009年10月15日木曜日

58 青島:めまいのする時の流れ

 青島は、古くから名勝として宮崎でも有数の観光地です。今でもそれは変わらず、多くの観光客が訪れています。私も宮崎に行ったとき、青島にいきました。もちろん観光ではなく、地質を見るためです。そこでは流れる時間のスピードの違いをみることができました。

 9月に宮崎県を調査で1週間ほどかけて回りました。そして最終目的地は、青島でした。青島では、島の周囲の海岸に分布する地層をじっくりと観察することでした。1週間の調査期間中、天気に恵まれ、ほぼ予定通りに調査をすることができました。青島の海岸の調査では、最後に1日あてていたのですが、午前中は満潮なので、朝と干潮時にあたる午後に島を2週して観察をしました。一日、天気がよったために、午前中別のところで海岸線を結構歩いたためでしょうか、午後には暑さでへとへとになりました。
 青島より南の海岸線沿いには、青島でみられるのと似たような洗濯板状になった地層がでています。その中でも特に青島は、洗濯板状の地層が広がっていることで有名です。そのような、洗濯板を各地で見ながら青島にたどり着きました。
 青島は、亜熱帯性植物群落が国指定の特別天然記念物に、さらに周囲の地層は「隆起海床と奇型波蝕痕」として国指定の天然記念物となっています。地層の「隆起海床と奇型波蝕痕」という文言は少々古めかしい感じがします。それもそのはずです。昭和9年に天然記念物に指定されていますので、その時代の地質の用法だったのでしょうか。
 現代風のいい方をすると、「差別浸食海蝕台の隆起海岸」とでもなるでしょうか。その意味は、砂岩泥岩の繰り返し(互層といいます)が、海岸線沿いにでていたものが、波の浸食を受けて、平らな海蝕台になっていきます。海蝕台は全体としては平らなのですが、硬い砂岩部は浸食されにくくて残り、軟らかい泥岩部が選択的に浸食されていきます。このような浸食の程度の違いを差別浸食といいます。それが洗濯板のような景観をつくっていきました。その後、海岸一帯が隆起したため現在のような、満潮時でも岩がのぞき、干潮時には島の周囲を取り囲むように洗濯板がでるようになりました。
 このような景観を表す言葉を説明するだけで、青島の起源を示すことができます。ただし、他にはいろいろな地質学的背景があります。
 青島の洗濯板を構成している地層は、宮崎層群と呼ばれるものです。形成された時代は、900万年前から150万年前ころです。宮崎県の海岸沿いに広く分布する地層で、宮崎平野を構成している地層です。この地層のさらに下は、有名な四万十層群があります。
 四万十層群より新しい地層で、宮崎層群と似たようなでき方をしたものは、静岡の掛川層群、高知の唐浜層群、沖縄本島の島尻層群など、日本列島の太平洋側に広く見られます。
 宮崎層群は、全体として似たような構造をもっていて、西から東に向かって、古い時代から新しい時代になっています。下から上に向かって地層を構成する堆積岩の粒子が、粗いものから細かいもの、細粒から粗粒、そして細粒、粗粒へと変化します。このような岩石の粒子の変化や構造の変化から、海進が2度渡って起こっていることが読み取られています。
 宮崎層群の分布地域を見ると、北部と中部、南部で堆積環境が変化していることが分かっています。北部の堆積環境を妻相、中部を宮崎相、南部を青島相とよび、それぞれいくつかの地層群(層や部層に細分されています)からなっています。
 青島相全体としては、2000メートル以上に達する地層からできています。青島相の中で青島は、最上部の地層(戸崎鼻部層と呼ばれています)からできています。つまり、一番最後にたまった地層からできています。戸崎鼻部層の上部は海の中になるので、調査できず詳細は不明です。また、時代もまだ正確に決まっていませんが、下にある内海の環境でたまった内海部層の最上部は600万年前という年代がわかっています。それより新しい時代となります。
 青島の出ている戸崎鼻部層は、比較的規則正しい、砂岩と泥岩の繰り返しの互層からできています。そして、断層によってその互層が乱されています。砂岩には、亀甲状や、幾何学的な割れ目がいろいろあったり、団塊(ノジュールと呼ばれる)がたくさんあるところもあります。同じような互層の繰り返しにみえますが、よく見るとそれぞれ個性があります。
 青島の洗濯板は、干潮になると広く地層が見え、満潮時には、浸食に強い砂岩の一部が見えているだけです。訪れる時間が違うと、広さや景観に大きな違いがあり、なかなか見ごたえがあります。
 また、青島の緑も、小さな島にもかかわらずうっそうして深いものです。私は、暑い日の息抜きの日影として重宝しました。そのようなうっそうとした植物を掻き分けるように、青島神社が立てられています。確かに、こんもりとした緑の丘とその周囲を囲む洗濯板のような地層群は、不思議な景観をもっていますので名勝とあるのもうなづけます。
 そして、もう一つおもしろものがありました。それは、青島と洗濯板の地層の間には小さいながら砂浜が取り巻いています。その砂が貝殻だけからできているところがいくつもありました。貝殻砂(shell sand)と呼ばれているものです。周りは地層ですので、本来であれば、堆積岩が砕かれた砂からできているはずなのですが、貝殻ばかりからできているところがあちこちにあるのです。青島は、貝殻だけが集まる仕組みがどうも働いているようです。自然の妙です。
 調査の折に、貝殻砂を見つけたとき、そのだけの量がたまるのに、どれほどの時間が流れたのかと思ってしまいました。暑い日差しの中を歩いているせいでしょうか、めまいを感じてしまうような時間の流れを感じました。しかし、貝殻よりももっとないが時間の流れが、周りにはあります。地層の堆積という地質現象は、繰り返しながらも、時間とともに変化があります。固結、浸食、隆起などの地質過程を経て、最終的に、大きな変化として現在に至りました。、そして貝殻の砂も植生も、まして神社も、地質に流れてい時間と比べれ、あっという間の出来事かもしれません。

・めまい・
調査最後の日程で疲れがたまっているためしょうか。
それとも、単に暑さにばてていただけでしょう。
午後の調査で青島の周囲を歩いているとき、
めまいを感じるような思い抱いていました。
それと地層や砂に思い馳せているせいでしょうか。
時間の流れにめまいがしたように感じました。
単に年齢による老化、
あるいは、運動不足による疲労なのかもしれませんが。

・秋・
北海道は短い秋の真っ最中です。
朝夕の時間帯にはストーブをつけるようになりました。
通勤途中に見えている手稲の山並みでは、
何度か冠雪をしているのをみました。
初雪前に飛ぶ雪虫(アブラムシの仲間)も
天気のいい日には見られます。
そんな秋真っ盛りの北海道ですが、
行く秋を惜しみながら、
秋を満喫しています。

2009年8月15日土曜日

56 賀老の滝:カムイの森の静寂

 道南にある島牧村は、人口2000名弱の小さいの村です。面積はそれなりにあるのですが、人は海岸沿いに点々とある集落で暮らしています。そんな島牧村の山に、古い火山をみに行きました。人気のない、ひっそりとしたブナ林に見え隠れする、太古の火山活動の名残を垣間見しました。

 今年の夏は、8月1日から4日まで、道南に家族旅行にで出かけました。今回の旅行は、大学の前期の授業の終わりと、定期試験の隙間を縫って出かけました。そのために、3泊4日の短い旅行となりました。そのため、あちこちを巡るのではなく、目的の地域をじっくりと見て回ることにしました。
 今回は、黒松内町と島牧村を巡ることにしました。メインは島牧村でした。私は狩場山に登って火山を見ること、子どもたちは海で遊ぶことを目的にしていました。
 エルニーニョの影響でしょうか、北海道の夏は湿度が高く、曇りが続く空模様でした。まるで梅雨のように蒸し暑く、過ごしにくい天候の中での旅行となりました。旅行中も、厚い雲がかかり、雨が降ったり、合間に晴れ間がでるような、変わりやすい天気でした。そのため、予定通りにスケジュールを進めることができませんでした。私は、狩場山に登るというのが目的だったのですが、それが中止となりました。少々、不満の残る旅となりました。無理をして登山しても、天気が悪い時に登るのは、眺望も得られないであろうし、事故の元ともなるので、この判断は間違っていないと思いますが、未練は残っています。
 狩場山は、標高が1520mもあり、道南では最高峰となります。今回は、狩場山を登ることも、遠くから遠望することも、雲がかかっていたためにできませんでした。それでも、狩場山の奥懐にあたる賀老の滝周辺の公園は、半日かけて巡ることができました。
 狩場山周辺は、あまり開発がされていないので、自然が残されています。狩場山の裾野には、北限のブナの原生林が広がっています。ブナの原生林は、100平方kmほどあります。原始の自然が残っているために、食物連鎖の頂点に達しているヒグマも、このあたりにはまだたくさんいます。このあたり一帯は、狩場・茂津多(もったつ)道立自然公園に指定されています。
 日本列島の火山は、「火山フロント」と呼ばれる、線状に並ぶ火山列として活動しています。この火山列は海溝と並行に分布しています。北海道の道南では、恵山、駒ケ岳、有珠山、クッタラ、樽前山、恵庭岳などが、火山フロントにあたります。
 火山フロントに火山がたくさんありますが、それより大陸側(現在は日本海がありますが、古くにはなく大陸にくっついていました)にも、数は減りますが分布しています。狩場山は、火山フロントの列からはずれ、大陸側(背弧側と呼びます)の西に離れた位置で活動しています。
 列島の火山は、フロントから離れるにしたがって、マグマの性質が変わってくることが知られています。
 日本列島は、島弧に特徴的なマグマ(カルクアルカリ岩と呼ばれる)が主として活動しています。しかし、火山フロント側では、安山岩(輝石を含む)からデイサイトの火山岩で、アルカリの少ないマグマ(低アルカリ・ソレアイト)を伴います。火山フロントから離れると、安山岩から流紋岩(角閃石と黒雲母を含む)の火山岩が増えていき、アルミニウムに富むマグマ(高アルミナ・マグマ)を伴います。また、フロントから背弧に向かって、アルカリ(特にカリウム)が増えたり、ストロンチウムの成分変化(同位体組成)したりするのが、帯状に配列しているのわかっています。
 狩場山の火山も、背弧側に位置していますから、フロントとは違った性質のマグマからできています。火山岩も、玄武岩からデイサイトまで多様なものがみられますが、角閃石や黒雲母を含んでいるのが特徴となります。
 狩場山で、今まで測定された5つの火山岩の年代は、79万から25万年前ものでした。測定された岩石は、すべて更新世に活動したものです。ですから、第四紀に属する新しい火山になります。でも、歴史時代に活動した記録がなく、現在、火山活動をしていないので、活火山には分類されていません。
 狩場山の火山岩の下部(基盤といいます)や周辺には、狩場山の火山活動より古い安山岩類と堆積岩類が分布しています。安山岩類は、鮮新世の活動した、長磯安山岩類やガロ川火山岩類(440万年前の年代が出ています)に区分されています。堆積岩類は、中新世に形成された馬場川層、メップ沢層や小川峠層、、突符火山岩類、マス川層(1500万と1700万年前の年代)などに区分されています。
 賀老の滝付近では、狩場山の溶岩が、マス川層に区分される流紋岩類を覆っているのが確認されています。そして、滝は、柱状節理がよく発達した溶岩の上から、落差70mを幅35mで一気に落ちます。たまたま、賀老の滝を見ているときに、日差しがあったので、明るい状態で撮影することができました。その勇壮な滝は、轟音を発しているのですが、なぜか静けさを感じます。それは、人の痕跡がないためでしょうか。それとも、原始の森に囲まれているためでしょうか。
 滝の水音、滝によっ生まれる風の流れ、冷たい水の流れ、真夏の晴れ間にもかかわらず、涼しさをもたらしてくれました。しかし、梅雨のような蒸し暑さの中、30分近くかけて登たなければならない帰り道では、汗をいっぱいかいてしまいました。
 狩場山は活火山ではありませんが、火山岩の分布地帯でもありますので、温泉がいくつもあります。賀老の滝の少し上流にあるドラゴンウォーターとよばれるものもその一つです。
 賀老の滝には、龍神伝説があり、別名「飛竜」とも呼ばれています。ドラゴンウォーターは、龍神の御神水とされ、流紋岩の割れ目からちょろちょろと湧き出しています。ドラゴンウォーターは、町の案内のパンフレットにもでているので行ってみたのですが、小さな場所で、これがそうかというほどの大きさでした。賀老の滝の雄大さと比べると、あまりに小規模なものです。
 しかし、その湧き水は、非常に珍しい炭酸水の温泉で、飲んでみる価値はあります。鉄分も多いためサビぽくて、あまりおいしくありませんが、飲むと炭酸のためにやや酸味があり、発泡感はありました。残念ながら、入浴できるほどの湯量はなく、一口味わうだけしかできないような規模です。でも、よくも、これの炭酸泉を見つけたものだと思えるほど、規模が小さいのですが、口にしてはじめて、そのありがたさを感じるものです。
 賀老の滝周辺は、夏休みの真っ最中のキャンプ地として環境も整備されている観光地なので、多くの人が来ているかなと思っていました。しかし、月曜日で、雨も降ったりしていたためでしょうか、ほとんど人はいませんでした。海岸沿いでは多数のテントを見かけたのですが、この森でキャンプをしている人はいませんでした。それでも散策をしている数組のグループには会いました。広い駐車場にもかかわらず、2、3台の車が止まっているだけでした。
 ひっそりとした森の静けさを味わいながら、狩場火山のふもとを巡ることができました。しかし、そこはヒグマの出没するところでもあります。ヒグマはアイヌ語でカムイと呼ばれます。カムイとは神と同じ意味です。ここ狩場の森は、龍やヒグマなどの神の領域でもあることを忘れてはいけません。

・海の幸・
蒸し暑い中を歩くのは疲れます。
しかし、子どもたちは海岸に連れて行くと、
今までの疲れも忘れて嬉々として遊んでいます。
我が家は海から遠いところなので、
海や水辺の遊びがあまりできません。
たまに子どもたちを連れて行くと、
時間を忘れて遊びます。
それに今回は、潮の引いた岩場に連れて行けたので、
いろいろ珍しい生き物を見ることができたので、
大喜びでした。
今回はアメフラシをはじめてみたので大喜びでした。
私は、民宿ででてきたイカ飯がうまかったのが喜びでした。
イカ飯は、太平洋側の長万部が有名ですが、
イカは日本海が本場です。
新鮮なイカそうめんにイカ飯など、イカ尽くしが
非常においしく、食べ残した子どもの分まで食べてしまいました。

・私の夏休み・
北海道の小学校は、来週から2学期が始まります。
私は、まだ前期の校務の真っ最中です。
先週は定期試験、今週は卒業研究指導があり、
来週には、前期の採点作業が待っています。
私の夏休みは、その後からとなります。
9月になると、調査で各地に出歩きます。
ですから、家族でそろってすごせる夏休みが
なかなかとれなくなりました。
今回の道南の旅も、その数少ないチャンスでした。
8月下旬になって、やっとのんびりとした日々が過ごせそうです。
まあでも、やりたくでできない研究をしたり、
調査中にしておくべき業務をするために、
研究室に出かけるのですが。

2009年6月15日月曜日

54 牟婁層群:陸と海の輪廻と混沌

 牟婁(むろ)層群は、紀伊半島の南部の代表的な地層です。陸から運ばれた土砂や礫が地層となりました。堆積したときは整然と重なっていたものが、陸地に上がり、互層となり、時に褶曲したりしています。牟婁層群は、整然とした輪廻と、複雑な混沌が入り乱れています。それは、過去の海と陸の輪廻と混沌でもありました。

 今年の春、南紀を巡ったとき、「牟婁層群」を見ました。
 牟婁は「むろ」と読みます。もともとは同じ発音である「室」から由来したようです。室は、「いちばん奥のいきづまりの部屋」という意味があります。昔の都のあった奈良や京都から見ると、吉野のさらに奥の地になります。明治までは、紀伊半島の南部を占める広大な地域は、牟婁と呼ばれていました。明治になって、東西南北の4つの牟婁郡に分けられ、三重県と和歌山県に再編されました。
 春の調査は、かつての牟婁の海岸を巡ったことになります。今では、地層名にも牟婁は残されています。
 大学3年生の春に、紀伊半島の西半分の地層を見るための巡検(地質の見学旅行のこと)にでかけました。その当時、私は、地質学でもどのよう分野を対象にするかはっきりとは決めていませんでした。ただ、いろいろな地域の地質を見てみたいと思って、漠然と巡検に参加してました。
 その紀伊半島巡検では、各種の堆積岩を見学しましたが、そのときに、牟婁層群も見ていたはずです。牟婁層群という固有名詞自体は記憶に残っているのですが、どのような地層かははっきりとは覚えていません。ただ、堆積岩にもいろいろなものがあることは印象に残っています。
 その時、案内者の好意で漁船をチャーターしていただいて、横島という小さな島に渡りました。そこでは、オルソクォーツァイト(後述)という不思議な礫を観察し、地質学にロマンを感じた記憶があります。
 ところが、卒業論文では、オフィオライトというマグマが固まった石、火成岩を対象にしてから、地層には見向きもしないで、15年ほど火成岩ばかりを見てきました。
 オフィオライトとは、昔の海洋地殻を構成していたものでした。海洋底を成していたものが、海洋プレートが沈み込むとき、陸の堆積物の中に紛れ込んでしまうことがあります。そのような海洋プレートを構成してた一連の岩石群を、オフィオライトと呼んでいます。オフィオライトは、マントルを構成していた岩石から、沈積岩、深成岩、貫入岩、溶岩など多様が冷え固まり方をした火成岩、海洋底に降り積もった生物の遺骸が固まったチャート、そして陸に近づくにつれ流れてくる陸源の土砂が固まった堆積岩などが上に重なっています。
 オフィオライトの野外調査をすると、このような多様が岩石がでてきました。私にとって、上部にある堆積岩は、分布や分類などを調べることはしましたが、それを研究対象にはしていなかったので、興味をもっていませんでした。火成岩だけを研究対象にしていて、オフィオライトが、どのようなマントルから由来したマグマで、どのようなマグマだまりで固まり、そしていつ噴出したのかを、化学分析から調べていました。
 化学分析では、放射性元素を用いた年代測定、鉱物の微小部分の化学分析、極微量な元素組成などを最先端の分析装置を使って、時には他の研究施設を借りてデータを出したりもしてました。まあ、火成岩を調べるために、非常の特殊な先端技術を利用したり、その分析法の開発の手がけていたことになります。
 私が研究対象にしたオフィオライトは、海のものが陸に上がったわけですから、大きく変形しているものばかりでした。ですから、変形の少ないオフィオライトをみると、それが美しいものだと思えるようになっていました。野外での岩石の見方も、化学分析を前提にした特化したものでした。その目的に合いそうなものが、美しく見えてきたのでしょう。また、堆積岩もみていたのですが、研究対象でもなかったので、美しいとかいう視点で眺めていませんでした。
 ところが、そのような地質学プロパーの研究の方法から、自然の一部として岩石を眺めたり、教育素材として地層や岩石を見るようになると、見方が変わってきました。大きく褶曲した地層や累々と連なる地層などは、大地の営みを直接感じさせるもので、魅力あるものに見えてくるようになりました。露頭の写真で、大きく褶曲した地層があると、実物を見たいと思うようになりました。
 今の私の野外調査対象は、堆積岩を中心とする地層が多くなっています。それは、現在の職場には、分析装置や実験設備がないからでもあり、野外の観察を中心にならぜるえません。試料も、だれでも採取できるような石ころや砂で、室内ではその写真撮影と分類、計測、整理をすることになっています。いわゆる、地質学的研究とは全く違ったアプローチであり、目的となっています。
 大地のダイナミクスの証拠として、さまざまな岩石を眺めるようになってから、日本各地の地層を興味を持ってみるようになってきました。今では、火成岩より堆積岩のほうを見ることが多くなってきました。今回の牟婁層群も、そのひとつの現れでした。
 牟婁層群は、四万十帯という地質帯に属しています。四万十帯は、北から日高川(ひだかがわ)層群、音無川(おとなしがわ)層群、牟婁層群に分けられています。古いものが北にあり、南の方が新しいものとなります。
 四万十帯の北半分を日高川層群が占めています。約1億年前(白亜紀後期)に堆積した砂岩や泥岩からなります。そこに、オフィオライトのチャート、赤色頁岩(深海粘土)、火山岩類などが紛れ込んでいます。
 音無川層群は、5700万年前ころ(暁新世)の地層です。地層の下部は泥岩で、上部は砂岩と泥岩の互層に変わっていきます。これは、当初は砂岩あまり届かない環境から、タービダイトと呼ばれる、海底の地すべりなどによって形成される混濁流によって砂と泥が運ばれる環境に変わってきました。多分、陸に近い環境になってきたのでしょう。
 牟婁層群は、約4000万年前(始新世)に形成されました。砂岩と泥岩の互層から地層で、礫岩を含んでいることがあります。砂岩と泥岩の互層は、それぞれの地層は遠目で見ていると、どれも似通っています。地層の成因が、タービダイトの繰り返しだと知ると、地質現象、あるいは自然現象には、輪廻があり、その履歴がはっきり記録として残ることがわかります。
 乱れなく整然とした地層になっているところもある一方、牟婁層群には、激しく褶曲している場所や地層が内部で乱れているところ(スランプ構造と呼ばれます)もあります。天鳥の褶曲(別名、フィニックスの大褶曲)を見たかったのですが、残念ながらいけませんでした。しかし、小規模な褶曲や、砂岩と泥岩の繰り返しの地層(互層と呼んでいます)、巨礫が転がっている海岸などを見ることができました。
 さて、大学3年生のとき見た横島は、牟婁層群の属していました。そこで見たオルソクォーツァイトも、牟婁層群の礫岩中の礫でした。
 オルソクォーツァイトとは、正珪岩とも呼ばれ、ほとんど石英だけからできている岩石です。石英の化学組成は珪酸(SiO2)なので、岩石の化学組成も95%以上が珪酸になります。顕微鏡でオルソクォーツァイトをみると、丸い石英が集まっていることがわります。その石英の周囲は、赤い幕のように酸化鉄が覆っていることがあります。つまりオルソクォーツァイトは、丸い石英が集まった砂岩なのです。
 丸い石英だけが集まる砂岩ができるのは、大陸の内陸の砂漠や湖、あるいは大陸付近の海岸という大陸内部や、大陸の縁の環境です。オルソクォーツァイトの地層は、先カンブリア紀の大陸地域から見つかります。
 オルソクォーツァイトの地層は日本列島からは見つかりません。ところが、オルソクォーツァイトの礫を含む地層が、稀ではなく、日本列島のあちこちから報告されています。これは、日本列島はかつてユーラシア大陸の端にくっついていたからです。つまり、昔は日本海がなく、あるときに形成されたのです。そのため、大陸の川が、オルソクォーツァイトの地層を侵食し、礫として運ばれ、大陸斜面に運ばれて地層となりました。これが、日本各地のオルソクォーツァイト礫の由来となります。
 ただし、牟婁層群のオルソクォーツァイトには、少々不思議なことがあります。
 ひとつは、礫サイズです。オルソクォーツァイトの礫の径が、2から5cmもあります。大きな礫は相対的には近いところから運ばれたことになります。ですから、比較的近くにオルソクォーツァイトの地層があったはずです。つまり、大陸が近くにあったのです。
 もうひとつは、地層が来た方向です。地層に、堆積するときに生じた流れを記録していることがあります。そのような流れを古流向と呼びます。オルソクォーツァイトの礫を含む地層の古流向を復元すると、なんと現在の太平洋ある海側という結果が出てきました。本来なら陸側であるべきです。これは今は亡き大陸(黒潮古陸と名づけられています)があったという推測ができます。ところが、そんな大陸は海底を調べても見つかりません。
 この謎は、まだ解明されていません。
 礫岩とは、多様な起源の礫が集まったものです。牟婁の海岸に広がる海蝕台の礫岩には、混沌ともいうべき様相を呈しています。互層の織り成す整然とした輪廻と比べると、礫岩とのコントラストは明瞭です。しかし、輪廻の互層も、大地の営みによって褶曲という混沌が起こります。こんな輪廻と混沌が牟婁の海岸では繰り広げられています。

・さらし首・
牟婁地域には、さらし首層という
これまた変わった名前の地層があります。
さらし首層は、四万十帯には属しますが、
より新しい中新世の統熊野層群の中にあります。
さらし首層は、海蝕台で礫が
ごろごろと残った様からとったのでしょう。
ただの普通の礫ではなく、
メランジェ(混在岩)という
複雑な経歴の岩石です。
メランジェについては、別の機会にしますが、
牟婁には、日本列島の歴史にかかわる
重要な地質現象がいろいろ見られます。
都から離れた牟婁とよばれる地には、
さらし首というおどろおどろしい名称があります

・母と運動会・
子供の運動会を見学するために、
母を京都から呼びました。
長男が今年小学校を卒業するので、
最後の運動会になるからです。
今まで運動会は見学していなかったので、
一度は見た方がいいと思って呼びました。
短い滞在で、落ち着かなかったかもしれませんが、
長男の成長を見る数少ない機会となりました。

2009年5月15日金曜日

53 那智の滝:鳥居越しのマグマの末端

 三大瀑布のひとつ和歌山県の熊野にある那智の滝を訪れました。春まだ浅き熊野路で、眺めた那智の滝は、大地の営みによって、そして大空の営みを背景に、長年の人の信仰という営みを宿していました。信仰の象徴の鳥居から、大地の営みを示すマグマの末端を、那智の滝に見ました。

 日本人は、なぜか「3○○」や「3大○○」として数え上げることが好きな民族のようです。日本三景のように古くから挙げられているものや、御三家や新御三家などのようにあるときから呼ばれるようになったものなど、いろいろあります。最近では、官庁や公共団体、学会、関連組織などなどが「○○百選」などとして、いろいろな対象を選定をすることが増えてきました。
 今回は、三大瀑布、あるいは三名瀑としてして、古くから知られている滝の話です。
 三大瀑布とは、茨城県の袋田の滝、栃木県の華厳の滝、和歌山県の那智の滝です。袋田の滝は、久慈川支流の滝川上流にあり、長さ120m、幅73mです。その広さともに、緩やかにカーブする斜面を流れ下る水は優雅さが魅力です。華厳の滝は、観光名勝の日光にあり、中禅寺湖からあふれ出た水が、幅は7mほどなのですが、落差97mを誇ります。また、滝の落ち口の横からだけでなく、エレベーターが設置されているので滝つぼの脇からも滝を見ることができます。
 那智の滝は、和歌山県の熊野の自然信仰の聖地のひとつにもされ、古くから信仰対象となっていました。滝は、道路から参道を通り、神社の鳥居越しにみることになります。宗教的な神秘さや荘厳さもさることながら、その魅力はやはり落差133mを一気に流れ落ちる水の勇壮さではないでしょうか。
 私は、今まで華厳の滝しか見たことがなく、今回、春の南紀旅行で三大瀑布の2つ目となる那智の滝を見ることができました。朝一番に訪れたので、観光客が少なく落ちついて見ることができました。3月下旬の春に、桜も咲き始めていた時期でしたが、地元の人も驚くほどの寒の戻りで、晴れていたのに肌寒い天候の中、見学しなければなりませんでした。
 参道の奥にあわられた那智の滝は、鳥居越しに眺めることになります。その鳥居越しの那智の滝の眺めは、不思議な感慨がありました。その不思議な感慨は、マグマと自然と、人々の信仰から由来するなにものかに、心が呼応したのかもしれません。
 那智の滝は、ほぼ垂直に切り立った岩石の壁を、水が流れ落ちています。岩石の壁は、白っぽい火成岩からできています。熊野周辺では、1400万年前くらいに大規模なマグマの活動が起こり、白っぽいマグマ由来の深成岩や火山岩が広範囲に形成されました。この一連の白っぽいマグマによってできた火成岩類を、熊野酸性岩類と呼んでいます。
 酸性岩とは、珪酸(SiO2)の成分の多いマグマが固まったもので、白っぽくなります。酸性のマグマが、地下深部でゆっくりと固まると花崗岩になり、火山として噴出するとデイサイトや流紋岩などになります。一方、珪酸の成分の少ないマグマは、マグネシウムや鉄が多くなり、黒っぽい色になります。そのようなマグマを塩基性と呼びます。深成岩は斑レイ岩になり、火山岩は玄武岩になります。
 熊野酸性岩類は非常に大規模に活動しました。分布は、和歌山県の那智勝浦町から、北北東に太平洋沿いに伸び、三重県の尾鷲市まで続く、20×60kmにもなる大きなものです。
 那智の滝も、熊野酸性岩類に属し、花崗岩の仲間からできています。花崗岩といわなかったのは、正確には花崗斑岩(かこうはんがん)とよばれる岩石だからです。斑岩とは、岩石の中に大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼びます)があり、それ以外の部分(石基(せっき)と呼びます)には、小さな結晶や結晶化していないもの(ガラスと呼びます)からできている岩石です。火山岩と深成岩の中間的なもので、以前は半深成岩とも呼ばれていましたが、今ではあまり使われていません。
 実は、熊野酸性岩類では、花崗斑岩が大半(85%程度)を占めています。熊野深成岩類は、非常に浅いところまで上昇してきた花崗岩マグマが、一部は噴出して火山灰や溶岩となり、多くは浅いところで固まったと考えられています。ですから、斑岩のつくりになったのです。
 このような大量の酸性岩マグマは、どのようにしてできたのでしょうか。
 一般に花崗岩は、大きく分けて2つの成因があると考えられています。チャペルとホワイトは、オーストラリアの東部にある花崗岩を研究していて、SタイプとIタイプに分けました。これが最初の花崗岩の成因に基づいたタイプ分けでした。彼らは、泥質変成岩に似た性質のものをSタイプ花崗岩と呼び、カルシウムに富む鉱物を持った普通の花崗岩をIタイプと呼びました。SタイプのSとは、堆積岩(Sedimentary Rock)から、Iは火成岩(Igneous rock)からとったものです。Iタイプ花崗岩は、マントルや地殻下部が溶けてマグマができたもので、Sタイプ花崗岩は、地殻上部の堆積岩が溶けてマグマができたものだと考えられています。
 熊野酸性岩類に似た岩石は、紀伊山地の中核部をなす大峯山周辺にも出ています。大峯花崗岩類と呼ばれています。大峯花崗岩類は熊野酸性岩より北の方に位置します。大峯花崗岩類は、幅は狭いのですが、50km以上にわたって、山の上部に断続的に分布しています。大峯花崗岩類は、熊野酸性岩類より北で、連続するわけではないのですが、近いところにあります。
 熊野酸性岩類は、化学組成や同位体組成、鉱物の性質から堆積岩類の部分溶融により生じたSタイプ花崗岩質マグマからできたと考えられています。大峯花崗岩類には、IタイプとSタイプの両者があります。大峯のSタイプと熊野の花崗岩は、形成時代も性質も似ていることから同じ成因でできたと考えられています。
 大峯花崗岩類の研究から、大峯のSタイプと熊野酸性岩類は、地下20kmから15kmぐらいのところにあった堆積岩(あるいはその変成岩)が、700℃ほどの温度条件で溶けてできたマグマだと推定されています。
 熊野酸性岩類は、大部分は花崗斑岩なのですが、岩体の中央部に流紋岩と流紋岩質凝灰岩があり、分布が途切れています。花崗斑岩は、流紋岩より北側を北ユニット、南を南ユニットと区分しています。那智の滝は、南ユニットの花崗斑岩の南端に位置しています。その花崗斑岩の末端が滝を形成しています。
 もともとのマグマの先端部分は、崩れ落ちてなくなったと思いますが、現在のマグマの分布が、ここで終わりであることを、周りの地形からも予想できます。
 熊野地域は、黒潮の影響を受け、年平均気温は約17℃という温暖で、年降水量は約3,300mmという多雨地域となっています。このような豊富な降水量によって、熊野には、多くの滝があり、那智四十八滝と呼ばれています。その中でも、那智の滝は、代表的なものでした。
 那智川にできた那智の滝は、北東に広がる花崗斑岩の上に形成された那智山および烏帽子山(標高909.2m)に源流をもちます。那智川の流域は、けっして広くなく、流路も短いものです。しかし、豊富な降水量を背景にした那智の滝は、7mという滝幅ですが、大きな落差で勇壮な滝が形成されています。那智の滝は、2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されましたが、そのコアゾーンともなっています。そして御神体として、信仰の対象でもある那智の滝は、マグマの末端にできた滝でした。鳥居越しに眺めたときの那智の滝への感慨は、マグマと自然環境、そして人の信仰が融合したものであることがわかりました。

・柱状節理・
那智の滝は、上部の3割ほどのあたりまで
不規則ですが水平の割れ目(節理(せつり))が走り、
残りの下の部分は、明瞭な垂直の節理があります。
節理とは、マグマがらできた岩石が冷えると、
少し体積が縮むので、そのときに形成される割れ目のことです。
節理のできる方向は、マグマが冷えた向きと
垂直なるように、形成されていきます。
上部は不明瞭ですが、滝の下の部分は
明瞭な柱状節理を示します。
滝では、このような節理がでていることがあります。
私が行ったことがあり、すぐに思いつくものでも、
伊豆の浄蓮の滝や河津七滝(かわずななたる)、
北海道の層雲峡の銀河の滝や流星の滝など
をすぐにあげることができます。
そのひとつに、那智の滝が付け加わりました。

・シームレス地質図・
2009年1月30日に、シームレス地質図データベース(WebGIS版)が
独立行政法人産業総合研究所
地質調査総合センターから一般公開されました。
シームレス地質図とは、
写真のようなドットの画像ではなく、
ベクトルデータで地層境界や構造線を作成しています。
そのため、拡大しても画質が劣化することがありません。
私も、WebGIS版を今回初めて利用しました。
もとの地質が20万分の1であるのと
広範囲の地質図だったので、
画像データのものと、あまり違いを感じませんでしたが、
今後、5万分の1の精度でスームレス地質図を作成する予定があるそうなので、
かなり精度のよい地質図が見ることができそうです。
この地質図は、プラグインを入れて、ユーザー登録さえすれば、
選択範囲を最大1000×1000pixcelの精度でダウンロードできます。
なかなかすばらしいものです。

・許可申請・
地図や地理情報に興味ある人は、もうご存知かもしれませんが、
国土地理院が、全国の10mメッシュ数値標高データを公開しました。
これは、画期的なことだと思います。
北海道地図株式会社さんが10mメッシュを有料で販売されています。
私もそれを購入して、このエッセイのホームページで利用しました。
さらに、共同研究として各地の10mメッシュデータを
利用されていただきました。
しかし、その共同研究も終わり、購入したもの以外は、
10mメッシュの標高データを利用できなくなりました。
ところが、今年の4月から、国土地理院が
だれでも無料で利用できるようにしてくれました。
私も、早速データをダウンロードして使える状態しました。
インターネットによる利用手続きをとっていますが、
なかなか煩雑で面倒で、許可の取り方がわかりません。
国土交通省は簡便化してたといいますが、
IT上においても、煩雑で困っています。
インターネットによる確定申告でも同じ思いをしました。
いわゆるお役所になっているような気がします。
もう少し簡単にできないのでしょうかね。
書類を郵送したほうがずっと簡単だったので、
先日書類を送りました。
私が遅れているのか、政府が進みすぎているのかわかりませんが、
市民がもっと使いやすくできないものでしょうかね。

2009年4月15日水曜日

52 潮岬:不思議なマグマの並び

 南紀の最南端は潮岬です。潮岬の付け根の近くに、橋杭岩と呼ばれるマグマが織り成す、不思議な石の並びがあります。その石の並びは、点々と、しかし明瞭に帯状に続いていました。この石の並びこそが、日本列島の形成の歴史を象徴しているかのようでした。

 春休みを利用して3月下旬に、南紀をめぐりました。南紀は桜の咲き始めのころでしたが、今年は、寒さが戻ってきていた時期でもありました。そんな日は、上着がないと寒くてたまらないほどでした。ただ、春の陽気が戻ってくると、暑いほどでした。
 潮岬を訪れたときは、春の日差しがあったのですが、風が強く、やや肌寒さを感じました。潮岬に来たのは、潮岬周辺の不思議な岩石を見るためでした。不思議な岩は、観光名所ともなっている橋杭岩(はしくいいわ)と呼ばれているところです。
 橋杭岩は、潮岬の付け根のやや東の海岸にあります。杭というには、大きすぎる岩の柱が、点々を直線的に800mほどの長さで並んでいるところです。柱は、二つとして同じものはなく、周囲には柱が崩れた岩も転がっています。一つ一つの柱には、名前がつけられています。
 訪れたときが幸い干潮の時間だったので、杭の周辺を歩くことができました。
 橋杭岩は、地層の割れ目の中に、マグマが入ってきて(貫入(かんにゅう)といいます)固まったものです。石英斑岩と呼ばれる流紋岩の仲間のマグマでできていて、大きな石英の結晶(班晶(はんしょう)と呼ばれます)がみえるのが特徴的です。
 周辺の地層は、長い時間とともに、海の波による侵食で削られ、貫入岩の部分だけが残ったものです。貫入岩は、もともと板状のものでしたが、侵食とともに、あちこち割れてくずれたところもあり、杭状になって残りました。
 このように橋杭岩のでき方はわかったとしても、点々林立しているマグマの列は、不思議な光景に映ります。
 潮岬は、近畿地方の最南端に当たります。そして本州最南端にも当たります。紀伊半島の地質の位置づけを、近畿地方の概略から見ていきます。すると不思議なものが見えてきます。
 近畿地方の地質を、北から南に見ていくと、中国帯、舞鶴帯(超丹波帯と呼ばれるものも含みます)、丹波帯、領家帯、和泉帯、(中央構造線)、三波川帯、秩父帯、四万十帯という名称がつけられ、区分されています。それぞれの帯の堆積岩の形成年代をみると、北(大陸側、内帯呼ばれる)ほど古く、南(海側、外帯と呼ばれる)に向かって新しい岩石からでてきていることがわかります。それぞれの帯の岩石の多くは、海洋プレートの沈み込みと関連した堆積岩類(付加体と呼ばれる)からでてきます。
 もともと日本列島は、ユーラシア大陸の縁にあり、大陸の一部で、列島とはなっていませんでした。新生代の中新世(1500万年前頃)になって、何らかの原因(よくわかっていません)によって、日本海が開きました。その結果、日本列島が大陸から分離しました。その後も、日本列島には、付加体が形成され続け、列島として独自の道を歩みつづけ、現在に至っています。その独自性は、付加体だけではありません。マグマにも重要な役割があります。
 日本列島は、つぎつぎと付加体がくっついて形成されてきました。そのような付加体を骨格とした堆積岩の中に、花崗岩類を中心とするマグマの活動が起こります。その活動の形式も、時代ごとにある決まった帯で、列をなして起こっています。
 新しい時代(現在も活動している)の火山活動も、日本海沿の山陰から丹後にかけての地域で起こっています。このような火山列は、現在のフィリピン海プレートの沈み込みに伴うもので、火山フロントと呼んでいます。日本海付近では、現在の火山フロントより古い、中新世の日本海の拡大に伴う火山活動(グリーンタフ変動と呼ばれています)が起こっています。このような日本海周辺域の一連の火山活動域は、山陰北陸区と呼ばれる火山区分がなされています。
 現在の火山フロント(山陰北陸区)より海側にあたる、瀬戸内海からその東延長の奈良盆地にかけても、火山活動も起こっています。瀬戸内区という区分がされています。
 瀬戸内区では、中新世の中ごろに、安山岩から流紋岩のマグマが主に活動しています。そのマグマの中には、マグネシウムの多い安山岩質ものもあります。一般の安山岩は、マグネシウムは多くはありません。また、他のマグマ(玄武岩マグマ)から変化したもの(結晶分化作用と呼ばれる)や、2種類のマグマが混じってできたもの(マグマ・ミキシングと呼ばれる)が、主な起源だと考えられています。しかし、マグネシウムの多い安山岩は、マントルを構成する岩石が解けてマグマができ、そのまま噴出してきたと考えられています。このような変わった安山岩が、瀬戸内区の特徴となっています。
 紀伊半島は、日本列島でもっとも海側(地質学では外帯と呼んでいます)に位置します。南紀の堆積岩は、紀伊半島の南端にありますから、一番新しい付加体からできていることになります。四万十帯にあたり、海では現在も付加作用が続いています。
 その付加体の中に、中新世の花崗岩のマグマが貫入しています。このような花崗岩類は、大峯酸性岩類や熊野酸性岩類などとよばれています。同様の花崗岩は、太平洋側の四国や九州にも点々とですが、帯をなして分布しています。
 さらに南の海の面した潮岬に、マグマの活動がやはり中新世に起こっています。この火山活動は、流紋岩のマグマの仲間だけでなく、玄武岩のマグマも活動しています。海側の酸性岩類と火山岩類のマグマ活動をまとめて、南海区と区分しています。
 潮岬の火山岩類の時代は、酸性岩類よりやや古い時代です。潮岬と同じような玄武岩を伴うようなマグマの活動は、四国の室戸岬、足摺岬、種子島へと、点々と、まさに橋杭岩のように続きます。
 このように日本列島では、帯状の地質が特徴となっています。それは、付加体だけでなく、火山活動にもみられる特徴です。ただし、時期は、付加体のように古いものから新しいものと並ぶことはなく、多少前後しますが主に中新世とに起こった活動と、現在の火山活動の二つに分けられます。中新世のマグマの活動は、日本海の拡大に伴う活動だと考えられますが、その実態は、まだ解明されていません。
 太平洋岸の岬に不思議な岩の連なりを見ました。潮の引いた橋杭岩を見たのですが、平らに床に建てられた、まさに柱のような異様な形状の岩石群でした。その柱の連なりは、もし現在の日本列島から堆積岩を取り去ったとしたら、こんな姿になるのではと思わせる大地の歴史を象徴するかのようでした。

・貫入岩・
潮岬を車で一周しました。
潮岬は、切り立った断崖に囲まれています。
太平洋に突き出した展望台からみた海は、
地球の丸さを感じさせるほどの広がりがありました。
時間がなく、海岸に下りることはしなかったので、
展望台から石を眺めるだけになりました。
そんな眺めからでも、玄武岩の中に、
淡い色の貫入岩をはっきりと見ることができました。
しかし、貫入岩をみるならやはり橋杭岩でしょう。
ただ、貫入しれている周りの岩石が侵食でなくなっているので、
貫入岩らしくないのですが。

・完成年度・
大学は、新入生を向かえ、新学期がスタートしました。
私の所属する学科は、4年前に発足したばかりのなので、
今年やっと全学年の学生がそろいました。
完成年度となります。
就職活動をする学生、
教育実習や教員採用試験に臨む学生の対応する一方、
新入生の初々しさにも出会えます。
いろいろな学生がいるので、
気の抜く余裕がなく大変なのですが、
それなりに楽しさもあります。

2009年3月15日日曜日

51 増毛:ライマンの見た断崖

 札幌からほんの1、2時間ほどのところに、増毛という町があります。今では、海岸沿いに国道ができ、短時間で行けてしまいますが、かつては陸の孤島として近寄りがたい断崖が連なる地域でした。そんな険しい海岸も、昔、アメリカの地質学者が調査をしていました。そんな地質学者の足跡をたどりながら、断崖を眺めましょう。

 増毛と書いて、「ましけ」と読みます。北海道の地名です。語源は、アイヌ語の「マシュキニ」や「マシュケ」、「マシケナイ」から由来しているといわれています。「マシュキニ」の意味は、「カモメの多い所」ということで、海に面した増毛の昔の様子を表しています。
 増毛に列車で行くためには、札幌から函館本線に乗ります。函館本線は、函館から小樽を回るコースで札幌に出て、さらに旭川に向かう、全長420kmの路線になります。札幌から、北に向かいます。深川で、函館本線から、留萌本線に乗り換えます。留萌本線は、深川から留萌を通り、増毛まで通じる70km弱の路線です。ここより先は線路もなく、増毛が終着駅となります。
 そのコースとは逆を通って、大学生時代、増毛から札幌まで帰ったことがあります。暑寒別岳(1491m)に雨龍沼側から登り、縦走して降りたところが増毛だったのです。友人と二人で、暑寒別岳を縦走しましたのは、6月上旬でした。麓には春が来ていたのですが、雨竜沼から上は残雪の中を歩くことになりました。この登山は、マイカーなどない学生時代ですから、行きも列車、帰りも列車でした。
 その後、北海道に移住して、車で増毛に行きました。増毛は、今では漁港がある小さな町ですが、かつては多くの人口を抱えた栄えた町でした。留萌が留萌支庁の中心になっていますが、かつては、増毛支庁として増毛がこの地域の中心地となっていました。
 増毛では、江戸時代からニシン漁が盛んで、栄えていました。いまでも、その名残の建物が増毛には見られます。ニシンの群れ(群来「くき」と呼ばれていました)が来ると、カモメが餌として捕るために海面に群れていたのです。その様子から、「カモメの多い所」(マシュキニ)という名称がついたのでしょう。「石狩挽歌」という歌にも「ゴメ(ウミネコのこと)が鳴くから、ニシンが来る」という歌詞があります。これは、海鳥がニシンの産卵が始まるの察知して群れている光景を歌ったものです。
 明治には、ニシン漁によって栄えた増毛までの交通路として、鉄道が早い時期から整備されました。ニシン漁による賑わいは、昭和初期まで続き、現在もその名残として建築物が残されているのです。だから、留萌の先の増毛まで鉄道が通じているのです。
 ところが、増毛より先は、険しい海岸線が続き、通行の難所として古くから恐れられていました。1981年に国道231号が開通して、冬でも往来ができますが、それ以前は、海岸にへばりつくようにしてあった雄冬などの村々は、海の荒れてないときに、船で行くしかない陸の孤島となっていました。
 日本の地質学を興した、お雇い外国人として来日したライマンも、調査のために、このルートを通っています。
 ライマン(Benjamin Smith Lyman、1835年12月11日-1920年8月30日)は、明治6(1873年)年1月18日に来日し、4月下旬には函館にきています。その後7ヶ月をかけて第一回北海道調査で道南部をおこなっています。その翌年の明治7(1874年)5月20日からは、第二回北海道調査を行っています。その後明治8(1875)年にも、茅沼・空知の炭田を精査しています。
 第二回北海道調査は、長距離、そして長期にわるものでした。ライマンが、増毛を訪れたのは、この第二回目の調査のときでした。
 函館を5月26日に発ち、室蘭、苫小牧、札幌を経て、石狩川を遡上、そして十勝川の支流の音更川を下り、十勝川河口の大津に8月5日に着きます。その後、休むまもなく、海岸線を、広尾(8月6日)から反時計回りに石狩までたどります。その途中、増毛から厚田にいたる険路を通っています。
 北海道の地図を見るとわかりますが、ライマンの通った海岸ルートで、知床とこの増毛が一番険しいルートになります。当時知床の海岸今と同様、道はほとんどなく、訪れる人も少なく、海岸をたどることができず内陸を進みました。ただ知床硫黄山には、海路から苦労をしながらたどりついています。
 ライマンが長い調査の途中、増毛に着いたたとき、札幌をたって以来の最高の宿と感心しています。また、学校をみて、教育と文化の高さに驚いています。このようなライマンの驚きからも、増毛の繁栄ぶりがうかがわれます。
 増毛から先は、今回の調査では、海岸ルートとして最大の難所を行くことになります。迂回路の山道が雪で通れなくなるのを恐れて、先を急いでいます。増毛から海岸を避けて、山越えの山道から浜益(ライマンは浜増毛と呼んだ)に、必死の思いで一日かけて到着しています。さらに次の難所の濃昼(こきびる)の海岸も苦労して夜半にやっと厚田に通り抜けています。この難所を、天候悪化のため、浜益で一日足止めをさせられていますが、実質2日間でたどっています。しかしフィールドノートの記述からは、その苦労のほどが伺われます。
 増毛から厚田までの間は、道もはっきりせず、海岸沿いは危険なところも多かったようです。現地の案内人を雇っていっても、苦労する難所でした。そのような人を寄せ付けないような険しい海岸が、増毛と厚田の間には、昭和の終わり頃まで立ちはだかっていたのです。今では国道ができ、車であっという間に通過できます。しかし、その国道もトンネルが多く、険しいが道が続いています。今でも、海岸線沿いの道路は、崩落危険箇所で、雪や雨、風が強いと通行止めになってしまうところです。
 険しい切り立った海岸線があるのは、暑寒別岳を主峰とする山塊が、海岸までせり出しているからです。その暑寒別岳一帯の山塊は、火山でできています。海岸線の露頭では、マグマがつくった構造や、マグマが海に入ったときできる構造などが見ることができます。
 マグマの構造としては、節理(せつり)がいろいろみられます。マグマが固まるとき体積が少し減ります。すると溶岩は縮むときに割れ目ができます。このような割れ目を節理と呼んでいます。節理は、溶岩のかたちや冷え方によって、さまざまなものができます。溶岩が固まるときにできる割れ目が柱のようになっている柱状節理、放射状になっている放射状節理などがみられます。
 切り立った断崖絶壁は、地質学者には、岩石や地層が良く見える、なかなか見ごたえがある景色となります。
 北海道の海岸線を眺めていると、海岸に断崖として切り立っている場所は大抵、新しい火山体が海にまで達しているところです。そんな火山の荒々しさが、長く人や交通を拒絶してきました。
 荒々しい絶壁の露頭は、地質学者には、ぜひ見てみたい場所となります。ライマンも、北海道の海岸を巡ったのは、海岸の露頭を見たいという思いだったのかもしれません。増毛では、そんな荒々しい自然に昔から戦ってきた人々の営みを、海岸の限られた平地に造られた小さな集落に感じることができます。

・ニシン・
3月上旬、小樽の海岸で、
ニシンの大群が産卵しているという
ニュースが放送されました。
このような産卵は今年で5回目だそうです。
その映像をみると、
確かに海岸付近が白っぽくなっていました。
ニシンは、今では鰊と書きますが、
かつては「春告魚」と書かれ、
春の到来を告げる風物詩でもありました。
北海道の人には春が待ち通しのですが、
昔のニシン漁を知る人には、
昔の栄華が頭をよぎったのではないでしょうか。
ニシンの産卵が今年になって小樽周辺で
何度か目撃されているそうです。
こんなことは、55年ぶりだそうです。
今では「春告魚」が、死語となっているようですが、
「春告魚」という言葉も復活するかもという
淡い期待を持たせてくれます。

・ライマン雑記・
今回、ライマンの調査を書くに当たって、
副見恭子さんが地質ニュースに連載されている
「ライマン雑記」を参照させていただきました。
副見さんはマサチューセッツ大学図書館の
ライマンコレクション委員をなされている方です。
「ライマン雑記」は1990年から今(?)も
連載されています。
ホームページで閲覧できるのは、
2006年1月に掲載された「雑記」の21回までです。
その中の10回と11回が1874年の調査の様子を
フィールドノートの記述から紹介されています。
この「雑記」がどこまで続くのかは知りませんが、
日本の地質学としては重要な史料となります。
これからも継続することを願っています。
そして、完成の暁には出版していただきたいものです。

2009年2月15日日曜日

50 浅間山:噴火の予知と対処

 浅間山は、現在、活発な火山活動をしています。先日は東京や横浜でも火山灰が降りました。浅間山は、古くから何度も噴火してきました。そこには、悲劇が繰り返し起こっていました。そんな悲劇を二度と繰り返すことのないように、私たちは過去や今回の噴火から学ばなければなりません。

 2月2日夕方、自宅に帰ったとたん、テレビのニュースを見ていた家内が「浅間山が噴火したのを知ってる?」と聞きました。「知らない」といって、ニュースの映像を見ました。噴煙を上げている浅間山が見えた直後に画面が変わり、横浜での降灰の様子が示されました。車のボディーにうっすらと積もった火山灰が放映されていました。
 私は、浅間山が、以前から要注意の活発な火山であることを知っていました。また、昨年の夏の小噴火は知っていたのですが、今回は噴火の兆候があったことは知りませんでした。ですから、浅間山が噴火と聞いたとき、少々驚きました。
 浅間山の噴火は、2月2日の深夜1時51分頃に起こりました。噴火としては小規模でしたが、大きな火山弾が、山頂の火口から、1~1.2kmまで飛び散りました。噴煙は、上空2000mまでも達しました。そのときの風向きが南東方向だったので、浅間山から、埼玉県、東京都、神奈川県の一部に火山灰を降らしました。降灰は、房総半島の鴨川市内でも確認されました。この降灰の様子を2日の夕方のニュースは伝えていたのです。
 浅間山は、2月9日7時46分ころにも小さな噴火が起こり、その後しばらく断続的に噴火をしています。9日の噴火はあまり大きくはなく、周辺地域で降灰が少しあった程度でした。噴気や小規模な噴火は、現在も継続中です。
 浅間山の噴火の兆候は、火山観測網が捉えていました。傾斜計や地震計、GPS、空震計、望遠カメラによる観測によって捕らえた兆候に基づいて、気象庁地震火山部は、2月1日午後1時、「火口から4キロメートルの範囲に影響を及ぼす噴火が切迫していると予想」して、「噴火予報・警報 第1号」を発表しました。
 火口周辺警報として、噴火警戒レベルがそれまでレベル2であったのが、レベル3に変更されました。レベル2とは火口周辺規制、つまり火口周辺への立入の禁止ですが、レベル3になると、入山規制、つまり山への立ち入り禁止と、状況に応じては災害時要援護者(重度の障害者やひとり暮らし高齢者など日常においても支援を必要とする人)の避難準備がおこなわれます。
 また、2月3日には、「噴火予報・警報 第2号」が出されました。噴火したのですが、今後も噴火の危険性があるので、噴火警戒レベル3を継続することが、周辺地域の自治体に通知されました。
 浅間山は、群馬県と長野県の境にある標高2568mの山頂の火口を持つ活火山です。火山のある場所は、地質学的に複雑な位置になります。
 本州を2分するフォッサマグナとよばれる大断層の中ほどで、断層の東側にあたります。フォッサマグナは、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界になります。また、北から続いている東北の火山フロントと、南の伊豆マリアの火山フロントがぶつかり、そして屈曲しているところになります。浅間山がある地帯は、南南西から北北東にのびる40kmx30kmにおよぶ低地帯があり、この低地はプレートの運動による構造的な窪地となっています。浅間山は、プレート境界で屈曲する火山帯という複雑な地質になっている場所なのです。
 浅間山は、数10万年前から火山活動が活発に起こっています。浅間山は日本でも火山活動は、現在の残されている3つの火山に代表される3つの時期に分けられています。古いほうから黒斑(くろふ)火山による黒斑期、仏岩(ほとけいわ)火山の仏岩期、そして前掛(まえかけ)山の前掛期です。
 東に開いた馬蹄形カルデラを持つ黒斑火山は、9万年前には活動を開始したと考えられています。標高2800mにも達した成層火山でしたが、2万3000年前ころに大規模な山体崩壊が起こります。この崩壊によって岩屑なだれが起こりました。その痕跡は泥流としてとして、周辺の流山地形や前橋台地などに残されています。黒斑期の活動は、2万1000年前ころには終了します。
 仏岩火山は、現在の火山である前掛山の東側に隠れてはっきりとしません。しかし、その活動は周辺の地質調査から解明されています。仏岩火山は、黒斑火山の活動後の2万1000年から1万1000年前まで活動をしました。何度も噴火を繰り返しながら、1万3000年前に大噴火が起こります。この噴火は大規模なもので、長野県と群馬県の火山周辺500平方kmを、火山灰が平均10~30m、最大で50mの厚さで覆ったと考えられます。また南東の軽井沢にある離山は、仏岩期の初期活動で、デイサイトから流紋岩のマグマが火山ドームを形成したものです。仏岩火山の活動も、1万1000年前ころには終わります。
 仏山火山と同じ場所で1万年前ころから前掛火山が活動をはじめ、現在も継続しています。大規模な噴火活動をしたは、8000年前、5000年前、685年(天武天皇14年:飛鳥時代)、1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代)、1783年(天明3年8月5日)が知られています。685年以降の活動は、人が記録を残している時代のものです。小規模な活動も活発で、何度も噴火を繰り返して、今回の噴火に至っています。日本でももっとも活動的な火山の一つです。
 浅間山には、だいぶ以前になりますが、2001年9月にいったことがあります。そのときは、浅間山周辺をめぐり、鬼押し出し公園や浅間火山博物館、嬬恋郷土資料館など浅間の噴火に関わる場所をめぐりました。
 天明の大噴火は、溶岩が流れ(現在の鬼押し出しの溶岩)と火砕流(浅間焼泥押)があり、1500人もの死者が出ました。そのときの様子は、嬬恋(つまごい)郷土資料館や鬼押出し園にある浅間火山博物館で紹介されています。
 嬬恋郷土資料館のすぐ隣に鎌原(かんばら)観音堂があります。観音堂までは、15段の石段を登っていきます。しかし、この石段はもともとはもっと長いものだとされていました。下にあったはずの石段は、天明の大噴火による火砕流と岩屑なだれが埋もれてしまいました。
 天明の大噴火は5月8日に始まりました。しばらく休止した後、6月25日に噴火し、また小康状態になりました。そして、7月17日に大きな噴火があり、8月4日から5日の未明にかけて最大の噴火が起こります。この噴火によって飛びだした火山灰によって、関東中部でも、昼なのに夜のように暗くなったと記録にあります。5日の午前10時ころ、鎌原火砕流が発生します。火砕流は地面削りながら、岩屑なだれとなり15kmも離れた鎌原村を直撃しました。岩屑なだれは、鎌原村の住民597名のうち、一瞬にして477名の命を飲み込みました。
 昭和54年に埋もれている石段の発掘が行われました。岩屑なだれの厚さは、6mにも達し、35段の石段が埋もれていました。そこから、生き埋めになっていた2名の女性の遺骨も一緒に発掘されました。2名の女性は、老婆を背負った若い女性の遺体でした。そこにどのような物語があったかは、想像するしかありません。老いた母を背負って逃げるつもりの嫁だったのでしょうか。でも、彼女らは、あと数分、いやあと数十秒早く非難していたら、生き延びられたでしょう。
 日本のある地域に限定してみると、火山噴火はそうそう起こるものではないといえます。ですから、多くの日本人にとって、火山は温泉や景観などの恵みを与えてくれるものです。特に、平野にある、一見火山とは無縁にみえる東京や横浜のような大都会の人にとっては、火山は恵みをもたらすものに映るかもしれません。しかし、今回の浅間の噴火のように、平野の真ん中の大都会でも火山灰が降ることもあるのです。
 日本は火山列島なのです。その証拠に、日本の大地をどこを掘っても、必ずといっていいほど火山灰層がでてきます。それは、日本列島が火山列島であることを物語っています。
 自然は、荒々しさを時に人に向けることがあります。ですから、自然現象には謙虚に臨まなければなりません。ただし、自然に恐れおののくだけではいけません。自然にどう立ち向かうべきかを、今回の噴火は教えてくれます。
 現在の科学でも、火山の噴火を止めることはできません。しかし、今回の浅間の噴火のように十分な観測体制を整えれば、ある程度噴火を予知することは可能になってきました。そして、その予知に基づいて、防災のための行動をすれば、多くの命は救われるはずです。そのような知恵を私たちは持てるようになってきました。二度と親孝行の嫁をみすみす亡くすことがないように、心しなければなりません。

・火山見学・
浅間山にいったのは、2001年の9月でした。
そのころ私は、神奈川の博物館に勤務していました。
次男が生まれて1年半ほどたったころに、浅間山にでかけました。
浅間は、2001年の1月から4月にかけて
噴煙をだしていたのですが、
その後は活動が収まっていた時期でした。
新幹線を使えば、かなり気軽にいける距離でした。
そのときは、浅間山だけでなく、
近くにある白根山、榛名山も一緒に見てきました。
もちろん温泉に泊まりながらです。
そのときは、火山の恵みを味わっていました。

・暖冬・
今年の北海道は、雪も少なく、暖かい冬となっています。
ここ数年の雪の多い時期と比べると
除雪もあまりすることもなく、楽な冬を過ごしています。
雪が降ってもあまり多く降ることはなく、
休日には子供たちが除雪をしてくれます。
私が除雪をしたのは、数えるほどしかありません。
排雪場所に困るほどの量もありません。
昨年の夏に、大雪に備えて、屋根に雪庇対策を施しました。
今年は、その効果を確かめることができないようです。

2009年1月15日木曜日

49 天橋立:水面下にもある橋

 2009年の最初のエッセイとして、日本三景の一つの天橋立を紹介しましょう。天橋立は、砂州のなす形だけでなく、白砂と松の緑、海の青が織り成すコントラストが、景勝地と見ごたえのあるものにしています。

 息子たちが通っている小学校では、冬には百人一首をやることになっています。私は北海道に来てはじめてその存在を知ったのですが、取り札が木でできているものを使って行われています。木の札には、読めそうもない崩した草書のような字体で下の句が書かれています。昔ながらの札を使っているのではなく、現在も店で売っていっています。我が家でも一セット購入しました。
 ゲームは3人ずつの団体戦で行われます。下の句だけを読んで取り合うもので、源平合戦と呼ばれる北海道固有の競技のようです。我が家でも、冬になるとやっています。
 百人一首には、よく日本各地の景勝地も詠まれています。残念ながら北海道の景勝地は入っていませんが。私も高校時代に百人一首を覚えたものですが、いまだにいくつも記憶に残っています。
 その一つに、和泉式部(いずみしきぶ)の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の詠んだ
  大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立
という歌があります。
 その歌が心に残っているのは、大江山(カンラン岩でできていることで有名)も生野(生野銀山として古くから有名)も、いずれも地質学では有名なところです。地質学でその地名を聞くたびに、ついついこの歌を思い出してしまいます。いずれの地も、私が大学院時代に、地質調査に出かけた記憶に残るところです。
 天橋立も大学院時代にいったのですが、調査をしたことはありませんでした。昨年の春、再度訪れました。今回は、家族連れでの観光なので、天橋立を徒歩で歩くということもやってみました。のんびりと歩いても、1時間ほども歩けば渡れる距離でもあります。帰りは、船で天橋立を眺めながら帰ってきました。
 天橋立は景勝地として有名ですが、地質学的に興味深いところでもあります。
 天橋立は、北の江尻から、南の文殊にかけて、延長は約3.6kmあり、幅は20~150mもある砂洲です。この砂州は、野田川が運んだ土砂や日本海沿岸から海流によって運ばれた砂礫によって形成されてたものです。
 砂州は、南北に伸びた宮津湾の南側に形成されています。宮津湾の西南に膨らんだ入り江の部分を、南北に区切るようにあります。砂州の内側の海は、阿蘇海(あそかい)と呼ばれています。
 阿蘇海は、砂州の内側になった海跡湖とよばれるもので、日本海では、海跡湖としては、面積に比べて深い深度を持つことが特徴となります。阿蘇海は、2箇所で宮津湾で海につながっています。つまり、天橋立は、海を完全に閉ざしている砂州ではなく、南側で海につながる水路があります。阿蘇海は、砂州が切れて宮津湾へとつながっていますが、狭い水路なので海水の循環が悪く、富栄養化が起こり問題となっています。
 天橋立には、他の砂州にあまり見られない固有の特徴があります。
 まず、天橋立の両側の海底へ向かう斜面は、宮津湾側で20m、阿蘇海でも12mの水深があり、急斜面となっています。天橋立は、深い海に20m以上の厚さで堆積した、そして急傾斜の砂州という特徴を持っています。つまり、深い海底に唐突つけられた一筋の陸路のようになっています。
 天橋立では、松の緑が白砂に映えています。このクロマツの松林は、その数、5000本とも8000本ともいわれるほどあります。海の中に形成された砂州に松林があるのは、少々不思議です。なぜなら、海の中の砂州で掘れば海水が出てくるはずなのですが、地下に淡水があるということです。
 淡水は海から運べませんから、陸から地下水が流れていることになります。砂州の南側には、「磯清水」とよばれる淡水の井戸があります。実は、天橋立は、砂州全体にわたって、60cmから1.2mほどの深さで地下水脈があります。このような地下水脈は北側の江尻側から流れ込んできているものと思われます。天橋立は、淡水の地下水が流れる砂州という特徴があります。
 砂州の中なのに真水の出る「磯清水」があるのをみた和泉式部(いづみしきぶ)は、その不思議さに、
  橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし
と詠みました。
 さて、天橋立と呼ばれる砂州は、いつどのようにしてできたのでしょうか。
 阿蘇海に流れ込む野田川があります。この野田川は、断層に沿って流れている川です。その断層は、山田断層とよばれ、非常に大きなものです。山田断層は、北東から南西に33kmほどの長さ延びていることが確認されています。この断層は、北西側が隆起し、北東に移動する(右にずれ断層)という動きをしています。山田断層は、1927年の北丹後地震で活動しています。
 約2万年前の最終氷河期には、海水準は100mほど今より低かったと考えられています。氷河期が終わり、海水準が高くなり、6000年前の縄文海進のころには、現在より2mほど海水準が上がったと考えられています。野田川沿いに堆積した地層との対比から、縄文海進のころから、砂州の形成がはじまったと考えれています。
 砂州は、海流や沿岸流、河川の状態、土砂の流量など、さまざまな要因で変動を受けて変化します。ですから、砂州は、安定したものではなく、要因が変化すれば、その形状も変形するものです。現在、天橋立は、阿蘇海を閉ざすほどの長さがありますが、第二次世界大戦以降、砂州の侵食が起こっています。それは、治水のために作られた河川のダムによって、海に流れ込む堆積物が減ったためだと考えられます。1987年からは砂州を守るために、サンドバイパスを設け人工的に砂州の地形の維持しようと努力されています。
 室町時代に活躍した水墨画家で禅僧でもある雪舟も、天橋立にきて描いています。その絵は現存しており、国宝「天橋立図」として、京都国立博物館に所蔵されています。
 この「天橋立図」は、雪舟が晩年の1501~1506頃に書いたことがわかっています。雪舟観(せっしゅうかん)と呼ばるところとから見たもので、東側から天橋立を見下ろす構図になっています。その絵を見ますと、天橋立は南の文殊側が、広く開いた形状となっています。ですから、砂州は今よりずっと短かったことがわかります。
 日本三景は、古くから日本でも有数の名勝地となっています。Wikipediaによれば、江戸時代前期(17世紀)、儒学者・林春斎という儒学者が書いた「日本国事跡考」の中で「丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す」と書き、それ以降日本三景がはじまったとあります。
 陸奥松島とは、現在の宮城県宮城郡松島町の沿岸の多島海の景観です。安芸厳島とは、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島のことです。今では、「安芸の宮島」のほうがよく聞かれます。海上の赤の大鳥居と海の上に建てられた社殿が有名で、国宝にも指定されています。
 日本三景のうち、「安芸の宮島」の厳島神社は1996年に世界遺産に登録されました。天橋立も世界遺産への登録の努力はされていますが、いまだに実現されていません。その理由は、夏の海水浴客がたくさん来て、観光地化して自然が保護されづらいこと、また砂防のために人工物が多数設置されていることもハンディになるかもしれません。
 景勝を守るために、自然を大きく改変するのは主客転倒かもしれません。やむにやまれぬ、それなり理由があるのでしょうが、自然に人間が関与するのもほどほどにしておくほうがいいでしょう。まして、砂州とは地質学的は短時間で変動するものです。そこに砂防をしても、自然の変化を押し込めることはできないでしょう。それにそのような対策を施された自然景観は本当の自然景観といえるのでしょうか。今回の旅で、その不自然さを強く感じました。
 天橋立は、自然が時間をかけて、深い海底にできた分厚い堆積物の架け橋です。その橋の中には、地下水が流れています。地下水によって、多数の松が育ちました。この架け橋は、まるで生きているかのように、変移し続けています。自然の変化を止めることは、自然を守る正しいやり方でしょうか。自然の変化をも受け入れられる精神が必要ではないでしょうか。あるがままの自然を受け入れた上で、愛(め)で慈(いつく)しむ気持ちこそ、大切ではないでしょうか。

・砂州から砂嘴へ・
天橋立は、地形の上では砂州と呼ぶべきです。
砂州とは、離れた二つの陸地がつながるほど延びたもので、
つながらず離れていたり、海に突き出ているものを
砂嘴(さし)と呼んでいます。
砂州と砂嘴は、その形成のプロセスは似ていますが、
その状態が陸続きのようになっているかどうかが違いといえます。
ですから、砂州が侵食され離れていけば、
砂嘴と呼ぶべきものになります。
雪舟のみた天橋立は、砂嘴というべきものかもしれません。
もし、侵食で天橋立が砂州から砂嘴になったら、
そこは景勝地ではなくなるでしょうか。
少なくとも、500年前には景勝地でした。
変わることを拒んではいけません。
変わることを受け入れるべきでしょう。

・ネタ不足・
今回のメールマガジンは、発行が少し遅れました。
私の怠慢のせいです。
申し訳ありませんでした。
その背景には、少々ネタ不足になってきました。
最近、でかける余裕がなくなってきたためです。
もっといろいろなところに出かけたいのですが、
なかなかそうもいかなくなってきました。
少なくなったとはいえ、
昨年も春休みと夏休みに1週間ずつ出かけています。
それでも、はやり少ないようです。
本当はもっと出かけたいのですが、
現実的には段々難しくなってきます。
来年度は、講義日程ももっときつくなります。
次回以降、このエッセイも
やりかたを少々考えなければならないかもしれませんね。