2010年12月15日水曜日

72 横浪:メランジュを跨いて

高知県土佐市宇佐(うさ、USAと書いて宣伝されています)の断崖が続く海岸にメランジュと呼ばれる岩石群が露出しています。少々険しい場所もありますが、そこを越えるとすばらしい露頭を見ることができます。横浪のメランジュを紹介しましょう。

メランジュという言葉を、ご存知でしょうか。地質学の用語でMelangeと書きます(本当はeにアキュート・アクセントが付きます)。フランス語で、「混合」を意味していますが、メレンゲ(meringue)を語源としています。メレンゲとは、料理をする人ならご存知でしょうが、卵の卵白を泡立てた食材で、ふわふわしたものです。地質学用語のメランジュは、そのようなふわふわしたものではなく、硬い岩石の産状を表しています。
地質学でメランジュは、メランジやメランジェ(私はメランジェと覚えていました)などと呼ばれています。私が大学院生のころ、メランジュやオリストストローム、蛇紋岩メランジュなどの解釈をめぐっていろいろな議論がなさていました。自分自身でも野外で観察していたので、懐かしい用語でもあります。
地質学でメランジュとは、ぐしゃぐしゃに破砕された基質(細粒の部分)の中に、いろいろな種類、起源の礫や岩塊(大きなサイズのブロック)を含む構造をもつ地質体で、地質図上で表現できる大きさのものをいいます。含まれている岩塊は、堆積岩や変成岩、火成岩などさまざまなものがあり、その起源は問いません。
メランジュの定義においては、その成因は問いません。もし、成因が明らかな場合は、その成因によって、テクトニックメランジュ(構造運動で形成)、蛇紋岩メランジュ(蛇紋岩形成にともなうもの、テクトニックメランジュと類似)、堆積性メランジュ(オリストストロームとも呼ばれる、堆積作用で形成)、ダイアピルメランジュ(泥ダイアピルで形成)などと区分して呼ばれることもあります。しかし、実際には、メランジュは何度かの変形作用を受けることも多く、いくつもの成因が複合していることもあり、判別が難しいこともよくあります。
堆積性メランジュとオリストストロームは、同義ですが、研究者によっては、使い分けたりして、混乱することがあります。それが私が大学院生の頃、議論されてことでした。
オリストストロームは、堆積性ですが、通常の堆積作用で形成されたのではなく、巨大な海底地滑りによって、大小さまざまな既存の岩石(オリストリスと呼ばれる)がブロック状に含まれています。基質は泥質の堆積岩ですが、そこには通常の堆積構造はまったく認められません。まさに、混沌とした産状となっています。従来、スランプ礫岩や海底地すべり礫岩と記載されていたものが、新たな解釈で記述されるようになりました。
本来なら、オリストストロームは成因がはっきりしている場合に使い、堆積性メランジュとは、堆積性だが成因の不明なメランジュのことでした。しかし、研究者によっては、厳密に区分したり、似たようなものを全部オリストストローム、あるいは堆積性メランジュ、あるいは単にメランジュと呼んだり、いろいろな使い方だされてきました。混乱が起こ、今もまだ混乱は残っているようです。
オリストストロームについては混乱する場合がありますが、メランジュについては、成因を問わず、野外での産状を表す言葉となってきました。ですから、正常な堆積構造ではなく、異質な岩塊がはいってるものがある程度広く見られるときはメランジュと呼ぶことになります。
実際に野外でメランジュをみると、なぜできたのかを考えだすと、頭が混乱してきます。非常に不思議な産状です。そのメランジュを見に、高知県土佐市宇佐町の五色ノ浜(ごしきのはま)に行きました。実は、四国に来てから、五色ノ浜には3回いっています。そして3度目にやっと、メランジュの全部を見ることができました。
一度目は時間がなくて場所を確認しただけで、ほとんど素通りでした。二度目はたっぷり時間をとったのですが、露頭の位置がよく分からなかったのと、途中で難所があり、そこを通ることができかったため、すべてを見ることできませんでした。三度目に、やっと難所をクリアしてたどり着くことができました。
三度目に出かけたのは、11月下旬でしたが、実はその直前に、あるニュースが飛び込んできました。五色ノ浜周辺を、国の天然記念物に指定することが、文化庁から文部科学大臣に答申されました。多分、これは承認されることになるでしょう。天然記念物に決定すれば、採取禁止なります。私はもともと岩石は採取しませんが、整備などで環境に変更が加わること考えられます。
五色ノ浜周辺のメランジュは、横浪(よこなみ)メランジュと呼ばれ、日本の地質の特徴である付加体を認識する上で、非常に重要な役割を果たしたところでもあります。
海洋プレートが海溝で沈む込むとき、メランジュが形成されると考えられています。海洋プレートの上部は、海洋地殻の玄武岩、その海洋地殻の上に溜まったチャート(層状になっている)や頁岩(赤色)、石灰岩などがあり、プレートが海溝に近づくと、陸からの砂や泥の地層が上に溜まります。このような海底できた地層の並び(海洋底層序と呼ばれています)は、海洋プレートが沈み込むとき、陸側に剥ぎ取られて付け加わります。これが付加体と呼ばれるものです。付加作用は、大きな構造運動なので、メランジュがよく形成されます。
付加体では、海洋底層序の岩石群と陸側の砂岩や泥岩の地層が混在したメランジュのすぐ脇に整然とした砂岩泥岩の互層(整然層と呼ばれます)があったりします。このようなメランジェと整然層の密接な露出が、付加体の証拠となっています。
付加体の産状は、プレートテクトニクスよってのみ説明される重要な概念でもあります。過去のプレートテクトニクスを、付加体の存在で証明することができます。言い換えると、古い地質体へもプレートテクトニクスの解釈が導入できるようになったのです。
1970年から80年代以降に、日本の地質学者が世界に先駆けて、大量の証拠(詳細な野外調査、構造解析、微化石層序など)によって、付加体の概念を確立しました。その主戦場が、四万十層群南帯にある五色ノ浜の横浪メランジュだったのです。そのような地質学の歴史における重要性をもつものとして、横浪メランジュが天然記念物に選定されたです。
私は、五色ノ浜や横浪周辺がなかなか気に入っています。二度目に訪れたときは、ほぼ一日この海岸をうろうろしていました。まあ、午後の半分くらいは暑くてボーっとしていましたが。観光客もまれに来ることがありますが、静かできれいな海岸です。打ち寄せる波、波に転がり磨かれていく小石、その背後の崖にはメランジュがあります。
東にひと尾根越えれて少し行けば、須崎層の整然層があります。その境界は小さな断層ですが、2000万から3000万年ほどの時代差があります。
また、西にいくつかの尾根と難所をこえれば、層状チャートのすばらしい露頭までいくことができます。チャートより西へは海岸沿いを進むことはできなくなります。こチャートは、なかなか見事な露頭です。チャートまでの海岸沿いで、海洋底層序が一通り見ることができます。
11月下旬の天気のいい日を狙って、今度こそはと意気込んで出かけました。2度かチャレンジで目的が達せなかったことにも悔いもありリベンジの意味もありました。そしてとうとう念願かなって、目的の横浪メランジュの海洋底層序を一通りみることができました。いまだに横浪は私には魅力あせません。チャンスがあったら、もう一度行ってみたいところです。

・横浪黒潮ライン・
かつては有料道路だった横浪黒潮ラインは
なかなか風光明媚な道です。
帷子崎という展望台があります。
そこに夏の間だけでしょうか、
プレハブの店があります。
電気も水道もきていないところですが、
おばあさんが店を出しています。
麺類なら食べることができます。
私は、寄ると顔をだして、
おばあさんと話をしながら
アイスクリームをいただきましたが
3度目(11月)にはもう閉まっていました。
平日の観光シーズンでないときしか
行ったことがありませんが、
静で穏やかな景色が広がっています。
そんなところも、この周辺が好きな理由かもしません。

・まだ行きたい・
寒かったり暖かったり、
健康管理の難しい日が続きます。
私はもう2度も風邪をひいてしまいました。
風邪で不調でしたが、寝込むことなく、
なんとか過ごしています。
今週締め切りの論文が終われば、
出かけたいところがいくつかあります。
暮れなので、日帰りでいけるところを考えています。
まあ、体調と天候を見ながらですが。

2010年11月15日月曜日

71 別子:エクロジャイトの縁

 エクロジャイトとは岩石名です。日本語もあるのですが、英語で使うことが多いようです。あまり聞かない言葉なのですが、四国山地の山奥の別子では、重要な役割をもった岩石として、知られています。そこを訪れて、大地の生い立ちの不思議な縁(えにし)を感じました。

 四国にきて、最初に長期調査に出たのは、5月末でした。梅雨になる前にと思って、野外調査に出ました。瀬戸内沿いに徳島まで行き、中央構造線沿いを戻りました。最後の調査地として、別子を訪れました。その目的は、珍しい石を見るためです。
 四国には、東西に走る中央構造線と仏像構造線という大規模な断層があります。中央構造線の南側に、仏像構造線があります。その間に、四国山地があります。中央構造線では横にずれながら南側の地帯が上昇しています。仏像構造線では北側が上昇しています。四国山地は、中央構造線と仏像構造線に挟まれて、上昇した部分となります。
 地層区分としては、中央構造線と仏像構造線の間の四国山地は、北に三波川変成帯、その南に秩父帯があります。三波川変成帯は、以前のエッセイ(66 大歩危:三波川に開いた窓:2010.06.15)で紹介したように、新しい地帯区分が提唱され、狭義の「三波川変成帯」と新たに区分された「四万十変成帯」に2分されようとしています。その詳細については、別の機会にしましょう。
 今回は狭義の「三波川変成帯」の中でも中心部に当たるところです。中心部とは、三波川変成帯の中で、もっと変成作用の程度が高いという意味です。そこを見に行きました。ただし時間があまりないで、アプローチのいいところへ行くことにました。
 別子は、四国山地の中央部、三波川変成帯の中を流れる銅山川沿いにあります。銅山川は、名前の示すとおり、銅山があったところを流れる川です。別子鉱山は、銅山として有名で、かつて栄えたところですが、銅山川に入る山が険しいのでアプローチの道路があまりよくなく、観光地としてはあまりにぎわってはいないようです。
 以前にも、銅山川には来たことがあります。そのとき、川の転石を拾いました。その岩石は、山深くに分布しているので、露頭を見るためには、山を登っていかなければならず、時間が必要です。今回も時間がないのですが、露頭をなんとか見たいと思っていました。地質の巡検案内書を頼りに、アプローチのよい露頭で、その岩石を見ることにしました。
 その岩石は、エクロジャイトと呼ばれるものです。エクロジャイトとは、英語のeclogiteを、そのまま読んだものです。エクロガイトと発音されることもあります。日本語で、榴輝岩(りゅうきがん)という呼び名がありますが、あまり使われていないようです。
 榴輝岩は、難しい漢字が使われていますが、ガーネット(柘榴石:ざくろ石)と輝石からできている岩石という意味です。実際に、エクロジャイトは、ガーネットと輝石を主は構成鉱物としている岩石です。
 ガーネットにもいろいろな種類があるのですが、エクロジャイトでは、鉄やマグネシウムの成分が多いもの(アルマンディン:almandineやパイロープ:pyrope)で、赤っぽく見えます。また、輝石も、カルシウムを含む単斜輝石でも、ナトリウムやアルミニウムを含むもの(オンファス輝石:omphacite)とよばれるもので、緑っぽい鉱物です。
 エクロジャイトを見ると、ガーネットがぶつぶつとして入っていて、岩石の地の部分に輝石を含んでいるので緑色に見えます。赤と緑が織り成す岩石となります。エクロジャイトには、ガーネットが多いところや少ないところもあり、見かけの色やつくりは多様になりますが、緑と赤の混じっているという組織は共通しています。
 エクロジャイトの岩石自体の化学組成は、玄武岩と似ています。しかし、いずれの鉱物も、通常の火成岩では見られない成分をもっています。玄武岩を用いた合成実験で、高圧の条件で変成を受けると、このような成分の鉱物ができることが知られています。高圧条件ではあるのですが、それほど高温ではないという限定された条件でしかできません。つまり、エクロジャイトは、玄武岩が高圧条件で変成を受けてできたと考えられています。
 エクロジャイトは、玄武岩の化学組成をもち、岩石の大部分がガーネットと輝石からできるものをいいますが、これは狭義のエクロジャイトで、広義で使われるエクロジャイトもあります。広義のエクロジャイトは、高圧の変成条件(エクロジャイト相と呼ばれます)の変成岩に広く用いられる場合があります。ガーネットと輝石が主成分でなくても、温度や圧力がエクロジャイト相の条件であれば、エクロジャイトと呼ばれることがあります。
 狭義でも広義でも、エクロジャイトは、地下深部の条件でできる変成岩なので、地表にはあまり出てこない岩石ですが、日本では、愛媛県別子の東赤石山付近などの限られた地域に分布しています。珍しい岩石ですが、東赤石山のエクロジャイトは、世界的にも低い温度で生成されたものとして有名です。
 エクロジャイトができるような条件を満たす環境は、沈み込み帯です。そこでは、海洋地殻(玄武岩)がもぐりこんでいます。海洋地殻は冷たいので、沈み込んでも、温度がすぐには上がりません。しかし、圧力は深度に敏感に反応するので、圧力だけが上昇していきます。沈み込み帯では、低温高圧の条件での変成作用が起こります。そして深く沈みこむとエクロジャイト相の条件が生し、玄武岩組成の部分は、狭義のエクロジャイトが形成されます。
 別子のエクロジャイトの分布は、五良津(いらつ)岩体、東平(とうなる)岩体が主なものとしてあり、小さいですが、瀬場(せば)岩体があります。瀬場岩体は、道路にも近いので、アプローチしやすいところです。ここでは、以前転石をとったので、今回は一番大きな五良津岩体のエクロジャイトを見たいと思っていました。
 五良津岩体は、もともとは全部がエクロジャイトでしたが、地下深部から上昇してくるとき、程度の低い変成作用を受けて別の変成岩(緑れん石角閃岩というもの)になっているところもあります。今回見たのは、五良津岩体の端に当たり、低度の変成作用を受けているところでした。しかし、狭義のエクロジャイトが残っているところもあります。
 私は、東の三島のほうから銅山川へ入って、西に抜けました。その間に、エクロジャイトの露頭を見ることにしていました。まさに、エクロジャイトのためだけに別子を訪れたことになります。夏の暑い日、人里はなれた山奥の林道で、やっとエクロジャイトの露頭にたどり着いた横には、涼しげな滝がありました。そこで遅めの昼食をとりました。静かな山の景色とエクロジャイトのコントラストが印象に残っています。
 別子は、1691年から、採鉱が開始され、1973年に閉山した銅山です。別子銅山は、住友が当初から開発し、一環して採掘に関わってきました。一時は世界でも最大級の採掘量を誇っていました。最盛期には、3800人もの人が住んでいて、学校、郵便局、映画館などもあったそうです。
 新居浜に降りる道の途中から分け入ると、鉱山跡が今もみることができます。巨大な石積みや施設の廃墟が残っています。「東洋のマチュピチュ」というキャッチフレーズをつけたら、観光客が急増したそうです。しかし、アプローチの道は狭く、対向車に出会ったら大変なところあるそうです。観光客が多いときは、時間規制で一方通行にしているようです。私は、時間がなかったので、そのまま新浜へと急ぎました。
 別子鉱山は、層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー(ドイツ語ではKieslager)とも呼ばれています)というタイプです。日本語とドイツ語の両方の呼び方が使われていますが、日本の地質学者はキースラガーと呼ぶことが多いようです。
 キースラガーは、海底での熱水変質によってできた鉱床だと考えられています。エクロジャイトができる前、変成を受ける前の玄武岩が、まだ海洋底で噴出した頃です。海洋底の火山としてマグマが噴出して玄武岩ができます。激しい火山活動の周辺には、熱水噴出も起こります。熱水によって特殊な成分の農集がおこった鉱床が、キースラガーの成因だと考えられています。
 キースラガーとエクロジャイトは、起源では熱水変質鉱床と高圧変成岩となり、直接関係がありません。しかし、海洋地殻というキーワードで結びついています。
 この山を構成している岩石は、もともとは海洋底にある海嶺の火山活動で形成されました。そこで熱水変質がおこり、大規模なキースラガーの鉱床が形成されます。やがて海洋プレートとして、それらの岩石は海溝から沈み込みます。深くへと沈み込んだ玄武岩は、低温高圧の変成作用を受けます。そして、それら一連の岩石は、断層の働きによって、持ち上げられ、四国山地となり、浸食で地表に顔を出します。キースラガーは鉱山として掘られ、エクロジャイトは地質学者の注目を集めます。夏の暑い日、涼しげな滝の横で昼食をとりながら、そのような激しくも複雑な大地の営みに思いを馳せました。
 こんな複雑な経歴をもった岩石が、今そこにあるのです。私がエクロジャイトを見ることができるのは、大地の営みが生み出した不思議な縁(えにし)なのでしょう。

・11月は・
寒暖を繰り返しながら、
秋が深まっていきます。
秋の行事もだいぶ終わりとなり、
いよいよ師走へと向かいます。
11月は、地域での頼まれ仕事が忙しく、
調査にあまり出ません。
下旬に少し出れればと思っています。
12月になると、論文の締め切りになるので、
それにかかりきりになりそうです。

・不思議な縁・
昔ながら地域の行事に参加している、
よく会う人ができます。
先日も隣町の小さな祭をみていたら、
地域外の人は、私だけかと思っていたら、
始まる前には、車でよく見かけれ夫婦がこられました。
彼らは写真が趣味のようで、
旦那さんはデジタルカメラ、
奥さんはビデオで撮影されています。
先日はじめて声をかけました。
こんなところで不思議な縁ができるのですね。

2010年10月15日金曜日

70 柏島:白い時間の破片

 高知県西部に小さな島があります。近年道路も整備され、トンネルと橋もでき、交通の便がよくなり、楽に行けるようになりました。しかし、行楽シーズンでない時期は、ひっそりとした島に戻ります。そんな島の海岸の小さな白い砂浜に、サンゴの白い破片がありました。そこに時間の切れ端をみつけました。

 柏島(かわしじま)という島をご存知でしょうか。同名の島はなさそうなので、間違うことはないでしょうが、小さな島なので知っている人も少ないと思います。まして、いったことのある人はあまりいないでしょう。もちろん、小さいとはいえ、人が住み生活をしてて、観光もそれなりに行われています。ですから、地元の人以外にも訪れる人はいます。しかし、近くにある竜串や足摺岬に比べれば、有名な観光地とはいえません。
 柏島は、高知県西端の幡多(はた)郡大月町のさらに先端(大月半島)に接するようにあります。現在は立派な橋が架かっていますので、陸続きで島らしくありませんが、半島側の崖の上から見ると、海が間にあり島であることが分かります。
 また、展望台から眺めると近くに沖の島の見えます。しかし、この沖の島やさらに西の鵜来島(うぐるしま)が、宿毛(すくも)市にの飛び地になっているために、高知県最西端は宿毛市になります。
 柏島にいったとき、白っぽいごろごろした石とサンゴのかけらが目立ちました。四国の太平洋側の海岸には、サンゴ礁のかけらがころがっていのは珍しくありません。黒潮のきているせいで、サンゴ礁が周辺の海底に自生しています。四国は、まだ南国の海なのです。
 四国の太平洋側の海岸の砂は、うす茶色でサンゴのかけらが転がっていると、サンゴの白色が目立ちます。ところが、柏島の砂浜は広くありませんでしたが、白砂でした。5月のまぶしい太陽のもと、サンゴの白と砂の白が目を引きました。
 四国の太平洋側の海岸の砂はうす茶色をしているのは、四国南部の地質を反映しています。
 四国の南部は、東西に延びる仏像構造線を境にして、北に秩父帯南帯(三宝山帯)が、南に四万十帯が分布しています。高知県の西部はすべて四万十帯に属しています。四万十帯はさらに北帯と南帯に二分されていて、北帯は主に白亜紀の地層が、南帯には古第三紀から新第三紀の地層が分布しています。
 四万十層群の堆積岩が黒っぽい濃い色の地層なので、海岸の砂もその影響をうけていきます。物質は細かくなると光を乱反射してしまうので、元の色より色が薄く見えることがあります。でも、もともと色が濃い物質なら、白よりは濃い目の色になります。濃い目の石が分布している四国の太平洋側の地域は、その色に似た砂となります。ですから、本当の白砂ではなくなります。
 ところが、花崗岩の分布している地域には、マサと呼ばれる白っぽい砂ができます。花崗岩はもともと白っぽい岩石である上に、風化すると、鉱物がばらばらになりやすい性質があります。そして、黒っぽい鉱物は少ないうえに風化や変質に弱く、くずれたり解けたりして、流されていきます。後には、変質しにくい石英や長石などの透明か白っぽい砂粒が、マサとして残ります。柏島にも少ないながらマサの砂があります。
 この四万十層群の中に、マグマが貫入してるところが、何箇所かあります。このような貫入岩は、新第三紀中新世に形成された西南日本外帯貫入岩と呼ばれています。四国では、足摺岬、室戸岬、滑床などに大きな岩体があります。室戸岬の貫入岩は、斑レイ岩を中心とした岩石です。足摺岬は、以前、このエッセイでも紹介した花崗岩ですが、少々変わったマグマからできています。
 柏島周辺にも貫入岩があります。今回、私がここ訪れたのは、断崖を形成している柏島付近に分布している花崗岩の貫入岩を見るためです。ですが、この付近には、沖ノ島などの島々も似たような貫入岩からできています。この地域の花崗岩は、谷尻(たにじり)型花崗岩(正確には細粒斑状花崗閃緑岩)と母島(もしま)型花崗岩(正確には中粒から粗粒優白質等粒状黒雲母電気石花崗岩)の2種類に大別され、さらに詳しく区分されています。谷尻型が古く、母島型が新しくて谷尻型に貫入しています。柏島は古いほうの谷尻型花崗岩です。
 2つの型は、別々のマグマによって形成され、その中の多様性は、マグマが固まっていくとき結晶を形成しながら組成を変えていった(結晶分化作用といいます)と考えられています。谷尻型のマグマには、変成岩が溶けたか、一部が溶けて混じりこんだかしたと考えられています。なかなか複雑な履歴をも持っているようです。
 現在では、柏島への道は、立派な道路やトンネルもできたので、アプローチも簡単になっています。かつて、はくねくねした道で、幅も狭く、険しい遠いところでした。わたしは、調査のためにうろうろと旧道を走り回ったので、狭いくねくね道には、苦戦しました。対向車が来たらどうしようかと思うような細い道の連続で、方向感覚もなくなりました。そのような道を生活道として使っていた時代には、柏島は遠いところだったのではないでしょうか。
 私が訪れたのは、5月中旬の平日でしたので、観光客らしき人は、ほとんどいませんでした。狭い道を知っているとき、途中の展望台であった老夫婦ぐらいしか見かけませんでした。彼らも道に不安を感じていたのでしょう。地図を見ながら、二人で相談していました。私もカーナビがなかったら、どこを走っているか分からなくなって、迷子になっていたことでしょう。
 現在では、交通の便もよくなり、釣りやダイビング、シュノーケリング、キャップなどの観光を盛んに進めているようです。ここには、猿の公園もあるようで、公園には行きませんでしたが、野生のサルをみることができました。
 こんな険しい断崖絶壁の先にある柏島ですが、かつては地下深くで時期を違えてできた幾種類かのマグマが、地下でゆっくり冷え固まってきました。花崗岩は、地上に顔を出し浸食を受けて、断崖の形成しているのです。断崖の道の先の小島で、太陽の光をうけて、白くまぶしい砂とサンゴのかけらに、そんな時間の流れと大地の営みが隠されているのです。柏島の白は、時間の破片なのかもしれません。

・ストリートビュー・
Googleのストリートビューというのがあります。
個人情報に関していろいろ問題があると
ニュースになったこともありますが、
しかし、知らないところの様子を知るには
なかな便利なものです。
そのストリートビューが
とうとう南極にまで進出しました。
まだ、少ししかない歩いてないようですが、
南極をコンピュータの画面から歩くことができるのです。
ペンギンマークが目印です。
試してみては、いかがでしょうか。

・掃除が怠りがちに・
単身赴任で気楽ではあります。
自分中心の生活で、無駄は極力省くことになります。
ついつい生活に必要な掃除、洗濯、炊事も省きたくなりますが、
そうもいきません。
炊事は生きていくために、省くことができません。
洗濯も着替えていくと溜まっていきますから、
省くことはできません。
それに全自動洗濯機なので
洗濯物を放り込んでスイッチを押せば
勝手に洗濯が終わります。
ほっておくと洗濯物がしわくちゃになるので、
干すしかありません。
ですから、洗濯も必然的に定期的にすることになります。
それに比べて、掃除がどうしても怠りがちになります。
家族でいるときは、妻がそれをやっていくれたのですが、
自分でやるとなかなか億劫です。
しなくても、急にどうこうはなりませんので、
たまにしにかしなくなります。
すればしたらで、気持ちはいいのですがね。

・心には余裕・
十月も半ばとなり秋も深まってきました。
のんびりと秋に色づく野山を散策でもしたいのですが
そんな時間がなかなかとれそうにありません。
10月は、出かけることが多いので、
その隙間を縫ってすべきことがいろいろあるので、
あわただしい思いをしています。
11月には頼まれた授業や講演があるので、
その準備もしなければなりませんが、
なかなかそちらに手が回りません。
忙しいのはいいのですが、
我を忘れるほど忙しいのはいけませんね。
どんなに忙しくても、心には余裕が必要です。
それを取り戻したいものです。

2010年9月15日水曜日

69 剣山:断層の谷

 四国山地は、地図で見る以上に険しい山並みです。しかし、ところどこに山地を横切る道路があり、交通の要所になっています。また、道は険しいのですが、山脈に並行する道もあります。道路を使えば、山懐深くに分けるいることができます。そんな道を利用して、四国第二の高さを誇る剣山に出かけました。


9月6日から11日まで、四国を東西に縦断するコースで調査に出ました。特に四国の中部と東部の地質を見ることが中心となりました。今回のルートは、祖谷(いや)から国道439号線を使って剣山(つるぎさん)の近くの見ノ越まで達しました。見ノ越からロープウェがあり、手軽に剣山の山頂に登ることができます。その後、見ノ越のトンネルを抜けると国道438号線を吉野川支流の穴吹川を下ります。国道は、途中からで川井峠を越えて鮎喰(あくい)川を下ります。行きは、四国山地を東に向かうコースを選びました。
国道とはいいながら狭い道も多く、対向車がきたらどうしようかと思うようなところも各所にありました。ただ、夏休みも終わり、紅葉にも早い時期の平日、それも台風の影響で、道はがらがらに空いていました。ですから、景色を堪能しながらのんびりと走ることができました。一人での調査を心いくまで楽しみました。旅館も一人かもう一組いるような状態でくつろげました。ただ、台風の雨で、なかなか思うように調査はできませんでしたが・・・。
四国の地質体は、東西に延びています。ですから、今回の調査は、四国の地質の分布と並行に進むことになります。
四国では、東西方向に大きな地形(大きな山地や大きな河川)ができています。大きな地形の形成には、中興構造線や仏像構造線などの大断層帯が重要な役割を持っています。中央構造線と仏像構造線にはさまれた地帯が上昇して、四国山地を形成しています。大きな河川の流れも、構造線に沿っていて、その流れの方向が強く規制されています。ただし、いくつか南北に走る構造的な弱線もあり、そこが河川の通り道となっています。吉野川、仁淀川、四万十川などの大きな河川の屈曲部は、南北に流れるところがあります。ただし、四国山地の南北の河川部は、大歩危や祖谷渓のように険しい谷となっています。
そんな険しい四国山地の中心部に、剣山は位置しています。幸いなことに、剣山の近くの峠の見ノ越を通る国道があります。それが、今回通り抜けたコースです。
西の祖谷側の道は川沿いにあり、峠の近くで一気に道は斜面を上りますが、川沿いをなかり高い標高までたどります。川沿いには、点々と人家がありますが、道路も整備されていないところが、まだたくさん残されていて、観光化されていない田舎の風景を保っています。こんな景観は私が好きなものです。
見ノ越をとおり東側の穴吹川の道に入って驚きました。峠を越えると、人里離れた標高の高い谷の斜面に道路があります。九十九折の斜面を下り、沢沿いに降りるまで、しばらくは人家がありません。峠を越えた山の奥深く、剣山の山深い斜面で、防災工事がいくつも谷でなされています。人里はなれたところで、大規模な工事がなされています。私が下ってきたときも、雨の中で工事が進められていました。
なぜ、このような山奥で防災工事がなされているのでしょうか。一つには、この地域の地質が関係しているようです。
四国山地を構成している地質は、中央構造線の南側、山地の北側に当たりますが、そこには三波川変成帯があり、南側(仏像構造線の北側に当たる)に秩父帯があります。両帯の間には、分布は連続していないのですが御荷鉾帯があります。剣山の周辺は、秩父帯に属しますが、そのすぐ北には御荷鉾帯の大きな岩体が接して、谷の北側にレンズ状に分布しています。
四国地方の御荷鉾帯の岩体は、レンズ状に断続的に分布していって、剣山周辺は大きな岩体の分布地域です。中央から西部にかけても大きな岩体があり、あとは小さいものが、各地に見られます。御荷鉾帯の岩石は、いろいろな岩石が混じっていますが、海洋地殻を構成していた岩石類(オフィオライトと呼ばれています)から構成されています。オフィオライトとは、玄武岩や斑レイ岩、カンラン岩、蛇紋岩とチャートや赤色頁岩などもあります。
剣山の北の御荷鉾帯の岩石は、変成作用を受けて片岩状になっているオフィオライトからなります。玄武岩が海底で噴出して壊れたもの(ハイアロクラスタイトと呼ばれます)を主としていますが、玄武岩や斑レイ岩、カンラン岩、蛇紋岩なども見られます。また、岩石の化学組成や鉱物の特徴から、海洋地殻の岩石だけでなく、海山を構成していた玄武岩(海洋地殻の玄武岩とは性質が違います)の部分も混じっています。
御荷鉾帯と秩父帯の境界、つまり国道の北側の急斜面は、鮎喰断層と呼ばれています。
祖谷側は道が沢沿いであるのと、断層が谷の少し上を走っているようです。そのため、断層による地すべりも少ないのかもしれません。なにより、人家や民有地があると、工事が大変になります。また、観光地もあるので、いろいろ配慮が必要になるのでしょう。
穴吹川側の谷は、断層の走る場所なのです。国道は、谷の上部を走っています。断層の谷は、崩れやすくなります。だから、砂防ダム、法面(のりめん)改修などの防災措置なのでしょう。そして、人家が付近にないため、工事も進めやすいのでしょうか。
人が暮らしているのに自然のままの谷筋と、人が住んでいないのに人手が加わった谷筋と、まるで人間と自然の関わり方の両面を見るような、コースになりました。そこには、どんな理由があったのか本当のところは分かりませんが、自然との共存はなかなか難しい問題を孕んでいることを感じさせる。そんな事例かもしれませんね。
帰りは、行きより南のコースで、秩父帯から高知で四万十帯にはいり、四万十帯のメランジェを見る予定でした。
今回の調査で、心残りがあります。剣山に登ろう(半日で登れる)と峠の近くに宿泊して、2日間の余裕を持って調査をしていました。ところが、台風のため2日間とも雨でだめでした。それほど激しい雨ではなかったのですが、景色を眺め、写真を撮りたかったので、登るのは断念しました。また、メランジェも、時間的に余裕がなく見ることができませんでした。次のチャンスがあれば思っています。

・行き残し・
今回の調査では、最終日の大きな公共の宿を除くと、
宿は一人か、もう一組いるようながらがらの状態でした。
観光シーズンからずれ、
観光地から外れたところが多かったので、
なかなか快適な旅行となりました。
私は、調査には充分な余裕を持って出かけるのですが
最後の日は、時間が足りずに、後半をはしょりました。
はしょったところは、比較的近いので
別の機会つくって出かけたいと思っています。
このようにして、積み残しの行きたいところが、次々とでてきます。
近隣の町で行きたいところも、まだいくつもあります。
まあ、優先順位を考えて出かけましょう。

・秋風のころ・
今週になって、急に秋めいてきました。
夜、寝るときも、部屋の窓も戸も閉めて寝ましたた。
タオルケットも寒そうなので肌かけに変えました。
それでちょうどよかったのです。
このまま涼しくなるのとありがたいのですが、
どうなることでしょうか。
このまま夏も終わりかと思うと、
月日の経過を惜しまれる気がします。
その季節にしか楽しめないことがあります。
地域の風物も月日とともに流れていきます。
流れの現場に立ち会って、
目撃して体感しておきたいことがあります。
そんな焦りの気持ちもあるのです。

・だいち・
陸域観測技術衛星「だいち」(ALOS)のデータを用いた
「高精度土地被覆図」が公開されました。
私の専門ではないのですが、
Google Earth APIも公開されています。
GeoTIFF形式のデータもあります。
HPに今回の地域を掲載しますが、
50mの解像度をもっていますが、
どのような利用がなされるのでしょうか。

2010年8月15日日曜日

68 鳴門:渦潮の複雑な因果

 鳴門の渦潮は、太陽と月の天が地球の海洋に及ぼす潮汐作用によるものです。深く考えると、それは鳴門海峡の地形によるものです。地形は、中央構造線などの地質学的作用に由来しています。渦潮には複雑な背景と因果関係があります。


鳴門海峡は、四国と淡路島の間にある海峡で、幅は約1.3kmしかありません。鳴門海峡は、渦潮(うずしお)で有名です。海峡には、大鳴門橋(おおなるときょう)がかかっています。1985年6月8日に開通した鳴門海峡をまたぐ吊り橋で、全長が1629mあり、橋をつっている主塔の高さは144.3mもあります。現在は道路だけですが、将来に備えて鉄道も通れる構造の橋になっています。
6月に四国東部へ調査に行ったとき、渦潮が見たくて鳴門海峡まで足を伸ばしました。渦潮が見える時間帯に到着できるよう調整しての到着となりました。鳴門スカイラインを通って海峡に向かっている途中、四方見展望台があったので、立ち寄りました。その展望台にきていた地元の人と話をしていました。私が渦潮を見るために船に乗るつもりだといったら、「橋の上の方がよく見えるよ」と教えてくれました。
渦潮は船からの写真や映像を見ていたので、船から見るものだと思っていました、潮の時間と船の時間は調べていたのですが、大鳴門橋から渦潮を見るような施設があることを知りませんでした。「渦の道」という大鳴門橋の車道の下に造られた海上遊歩道でした。海上から45mの高さにあり、まさに渦潮を真上から見ることができます。そこから見ることにしました。
鳴門の渦潮は、世界三大潮流のひとつとなっています。他の二つは、シチリア島とイタリア本土の間のメッシーナ海峡、北アメリカ西岸とバンクーバー島東岸の間のセイモア海峡です。
鳴門の渦潮は、満潮と干潮の時に、大きな渦が発生します。潮汐とは、太陽と月の引力によって海洋が、引っ張られるために起こる現象です。満潮と干潮は、一日に2回ずつ起こります。
月と太陽の位置によって、潮汐の程度はいろいろ変化します。太陽、地球と月が一直線に並ぶとき(満月と新月)が、一番大きな潮汐作用が働きます。それが大潮と呼ばれるものです。
潮汐が重要な原因ではありますが、それだけでは渦潮はできません。瀬戸内海と紀伊水道の間に干満の差が大きいことと、海峡部が狭いために起こる現象です。干満の水位差は最高で1.5mにもなります。その差ために大量の海水が、狭い海峡を一日2回の流入と流出があるためです。6時間ごとに海水の出入りがあり、それが渦潮となります。潮流は時速13~15km、大潮の時には時速20kmにもなり日本で一番速い流れとなります。
四国がわには、沖200mのところに裸島があります。裸島と四国間の岩礁は、和泉層群の地層が見えています。淡路島の先端の門崎から300mあたりに中瀬(なかせ)と呼ばれる浅瀬があります。四国と裸島間も淡路島と中瀬の間も、それほど深くはなく、裸島と中瀬の間が、深度が深く(約90m)なっています。そこのが渦潮のできる場となります。
海峡の中央部に深い海底があり、そこが潮汐の本流となっています。その両側は浅くなっています。流体のベルヌーイの定理から、断面積の狭いところ(陸付近)では流れが速くなります。この速度差が、渦(乱流)を生む原因の一つでしょう。
さらに海峡の瀬戸内海側(深度200m)と太平洋側(140m)に深い海底(海釜(かいふ)と呼ばれています)があります。このような地形の特徴も、渦潮の要因となっています。
鳴門海峡の複雑な地形は、その形成に中央構造線が大きく関わっています。中央構造線は、吉野川の左岸側(北側)沿いを通っています。下流の河口付近の平野が広がっているところでは、北側の山地の麓を通っています(鳴門断層)。鳴門市の山地は中央構造線によって、持ちあげられたものです。淡路島の南の直線的な海岸線は、中央構造線によるものです。鳴門市の山地と淡路島の山地はいずれも中央構造線の活動でできたものです。
中央構造線は、一つの断層ではなく、いくつもの断層の集合体です。鳴門断層もその一つで、すぐ南には、旧吉野川との狭い平野部に鳴門南断層があり、この断層も中央構造線に一部です。
中央構造線の北側の山地を横切るように鳴門海峡があるわけですから、なんらの地質学的弱線が形成され、切断されたと予想されます。その弱線が海峡となっているはずです。1995年の兵庫県南部地震で大きく活動した淡路島の野島断層も、海峡の弱線と関連するのかもしれません。残念ながら、海底地形図がないので、今はその予想を確かめることができませんが。
中央構造線は、現在も活動中の活断層です。徳島における活断層の調査で、過去の断層を発掘して調べた結果、最新の活動時期は16世紀後半以降から17世紀初頭(1596年頃)で、その前は紀元前後とされています。断層の活動は、約1,400~1,700年程度と考えられています。もしそれの推定が正しければ、まだしばらくは、この断層による地震は大丈夫なようです。まあ、自然現象は人智の及ばないところもあるので、安心してはいけません。中央構造線が活断層であることを忘れていけません。
私が「渦の道」を訪れたときは、6月初旬の平日でした。時期的は観光シーズンではないのですが、中国や韓国からの観光客の団体が多数来られていました。でも、団体客は一気に来て一気に去っていきます。渦潮は1時間以上にわたって起こる現象なので、しばらく待っていれば、見たい場所が好きなだけ見ることができます。この「渦の道」は、見学に時間制限がないので、心ゆくまで、じっくりと見ることができました。
船なら行きたいところにいけるわけではなりませんし、時間にも制限があります。ですから、この「渦の道」からみることができて幸いでした。展望台で会った地元の人の情報に感謝です。でも、時間があれば、今度は船から見てみたいものですが、いつになることでしょう。
一日4回の渦潮は、潮汐によるものです。潮汐は、鳴門海峡の特殊な地形によるものです。その地形は、1500年ほどの間隔を持っておこる中央構造線の断層運動によって形成されたものです。この断層が、鳴門と淡路島の地形を生み出しています。複雑な因果関係が、渦潮には織り込まれているようです。

・お盆・
お盆は、地元の祭に参加しました。
盆踊りや花火大会もありました。
こじんまりとしたものでしたが、
なかなかいい祭でした。
こんなにたくさんの人を
地元でみるのは初めてでした。
若い人や子供たちもたくさん参加していました。
やはり人が生活を営んでいる地には、
それなりの人がいるのですね。
日ごろ出会う人が少ないと、
過疎地や限界集落などという言葉が聞くため
ついつい寂しい地のように思ってしまいますが、
実はそれなりの人がいることを
思い出させてくれました。

・いい生き方・
私は、夏休みはすでにとったので、
次は9月初旬に調査をするまで、
出かける予定はありません。
9月には、四国中央山地を縦断するコースを
行こうと思っています。
そんな話を掃除のおばさんとしていたら、
「先生はいい生き方をされているね」
といわれました。
どういう意味だったのでしょうか。
なかなか意味深な言葉で、
考えてしまいました。

2010年7月15日木曜日

67 五色台:カンカン石の音の由来

 讃岐(さぬき)は香川の昔の呼び名です。その讃岐を名前にもつ岩石があります。その岩石は、非常に特異で複雑な履歴を持っています。しかしその岩石の奏でる音は、あまりに澄んでいて、特異な履歴を感じる人は少ないでしょう。


 四国と本州の間に、3つの橋があります。本州四国連絡橋と呼ばれ、東から神戸-鳴門ルート、児島-坂出ルート(通称、瀬戸大橋)、尾道-今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)となっています。1988年4月10日に児島-坂出ルートが開通し、1998年4月5日には神戸-鳴門ルートが、1999年5月1日には尾道-今治ルート(実際には道路が全部つながったのは2006年4月29日)が開通しました。瀬戸内海に面した徳島、香川、愛媛の各県が、本州と陸続きになりました。私は、いずれのルートも、遠目で眺めることはあったのですが、渡ったことはありませんでした。
 今回は香川県坂出の五色台(ごしきだい)を取り上げます。香川県は徳島県の北側に位置して、瀬戸内海に突き出た形をしています。香川県坂出には、瀬戸大橋がありますが、何箇所かで見てはいたのですが、なかなか全容がつかめないままでした。
 先日JRに乗って、坂出から岡山に渡る瀬戸大橋をはじめて渡りました。10本ほどの橋が、島をまたいでつくられています。瀬戸大橋は、自動車道の下にJR線が通る2階建ての構造になっています。JRで通過して、その長さと巨大さに驚きました。
 さて、五色台です。五色台は、瀬戸内に臨み、讃岐平野の中にそびえています。標高は300m以上もあり、瀬戸内海や讃岐平野を眺めることができる景勝地でもあります。瀬戸内海国立公園に含まれています。五色台に宿泊したので、朝と夕方の田畑の広がる讃岐平野と瀬戸内を眺めることができました。
 香川県の地形と地質の概略を紹介しておきましょう。香川県の南側には、中央構造線で持ち上げられた讃岐山脈があります。讃岐山脈は、主として中生代白亜紀後期の和泉層からできています。讃岐山脈の北側では、領家帯の花崗岩があります。領家帯は瀬戸内海をはさんで中国地方にまで分布しています。
 讃岐山脈の北麓から一気に標高を落とし、讃岐平野になります。讃岐平野の中には、台地状や円錐状の山がいくつもある珍しい景観を示します。
 台地状の山は、花崗岩でできたところと火山岩でできたところがあります。石の産地として有名な庵治(あじ)は、屋島の東に湾を挟んである山の裾野にあります。その裏山から産出する石は花崗岩です。庵治にはストーンミュージアムがあります。残念ながら庵治の石は売っていませんでした。
 火山の方は、五色台(国府台と呼ばれています)、城山(きやま)、壇ノ浦の戦いで有名な屋島(やしま)などで、もちろん火山岩からできています。この火山岩が、讃岐岩(サヌカイト、sanukite)とよばれる少々変わった安山岩からできています。昔に活動した火山なので、浸食を受けた溶岩台地(開析溶岩台地)となっています。讃岐富士と呼ばれている飯野山のような小さな円錐状の山も火山で、マグマの通り道(岩頚(がんけい)といいます)が残っているものです。やはり安山岩からできています。
 これらの火山は、1400~1100万年前(中期中新世)に活動した瀬戸内火山帯に区分されています。瀬戸内火山帯の特徴は、サヌカイトの仲間(サヌキトイド、sanukitoid)のほか、ざくろ石デイサイト、松脂岩(Pitichstone)などの特徴的な岩石を含んでいます。特にサヌキトイド特徴的では珍しい石でもあります。
 サヌキトイドは、安山岩の特徴をもっている(SiO2の含有量など)のですが、古銅輝石(bronzite)という斜方輝石を含むこと、マグネシウム(Mg)が多いなどという特徴があります。Mgの量はMg/(FeO+MgO)比で示されますが、この比が0.5以上です。Mgが多いのは、マントルから直接由来した玄武岩がもっている特徴で、一般の安山岩では見られない特徴です。このような安山岩は高Mg安山岩(High-Mg andesite、HMAと略されることがあります)と呼ばれ、島弧でも、ある特別な条件を満たしたところに産すると考えられています。
 瀬戸内火山帯の高Mg安山岩を詳しく調べられた海洋研究開発機構の巽好幸さんによれば、次のようなシナリオになるようです。
 まず、合成実験から高Mg安山岩は水を含んだマントルと共存できます。このような形成場は特異な条件によってのみ達成できると考えられています。
 その特異な形成史を見ていきましょう。
 大陸に縁にあった日本(列島とはなっていなかった)は、太平洋プレートが沈み込むところでした。3000万年前から1500万年前にかけて、日本は、割れ目(リフトと呼ばれています)ができ、やがて日本海が開いて、日本列島が成立します。その過程で特殊な火山活動が起こったと考えられています。
 2000万年前ころ、日本の南の海底で、南北に伸びた四国海盆が開きはじめ、新しい海洋底が形成されます。四国海盆の東側には、太平洋プレートの新たな沈み込みの場ができ、伊豆-ボニン列島が形成されます。1400万年前ころになると、日本海がフォッサマグナで割れるように開き始めます。このとき押し出された日本列島の西南部分(西南日本と呼ばれています)と四国海盆の間に南海トラフができます。南海トラフでは、本来なら沈み込むはずのない若くて熱い四国海盆の海洋プレートが、高温のマントルの中に強制的に沈み込みます。
 その沈み込んだ海洋プレートに混じっていた堆積物がマントルに持ち込まれます。マントルの中でそれらの堆積物の一部は溶けはじめます。そのとき珪長質のマグマが形成されます。珪長質マグマは、上昇中にマントルの岩石(カンラン岩)と反応しながら、最終的に1000~1100℃の条件で水を含んだ高Mg安山岩となります。それが瀬戸内のサヌキトイドの起源だと考えられています。
 火山ごと、地域ごとに、マグマ活動には個性がありますが、上述のような条件が瀬戸内地域にはある時期できたようです。非常に複雑で特異な起源です。
 サヌカイトは、ドイツ人地質学者ナウマンが本国に持ち帰り、知人のバインシェンクがその特異性から讃岐(香川のこと)にちなんで、sanukiteと命名したのが由来です。その後、サヌカイトに類似した岩石が世界各地で見つかるようになってきたので、サヌキトイドと呼ばれるようになりました。
 サヌカイトのなかでも、たたくとカンカンといい音がするものがあります。そのようなサヌカイトを、カンカン石と呼び、土産物として珍重されています。いい音がするのは、非晶質で緻密なものです。土産をいろいろ見ていると、いい音がするのは、大きなもので高価です。もともと土産物を買うつもりはありませんでしたので、音を聞くだけならタダなので、音だけ楽しませてもらいました。
 五色台の展望台から、西を見れば、讃岐平野から瀬戸内海を眺めることができます。かなり離れていますが、瀬戸大橋も見ることができ、長大さが実感できます。カンカン石の乾いて澄んだ音からは、複雑で特異な地球の歴史に思いを馳せました。

・梅雨・
今年の梅雨は長く、いつ終わるかわからない
様相になりました。
洪水の被害だけでなく、
農作への影響も心配です。
田舎に住むようになり、
歩いてくるとき、毎日田んぼの脇を通ります。
ついつい稲の生育をよく見るようになりました。
春は、寒くて、稲の生育の悪いようでしたが、
暑くなってからは順調に成長をしてきました。
しかし、梅雨にはいって成長はしているようですが、
実際のところは、どうでしょうか。
農家の人はいろいろ心配なことだと思います。
土砂降りの日でも、田んぼが大丈夫かどうか
見て回っている人もいます。
増水には気をつけないと、
以前友人の友人が、同じ状況で
川で流されて死んだ事故がありました。
早く梅雨が明けることを願っています。

・カンカン石・
私は土産物屋で購入する気はなかったのですが、
五色台を歩き回って、カンカン石を探しました。
残念ながら露頭は見つけることができませんでしが、
転石でカンカン石を採取できました。
また、サヌカイトも別のところで採取しました。
もちろんいずれも国立公園の範囲から
はずれている道沿いで採取しました。

2010年6月9日水曜日

66 大歩危:三波川に開いた窓

 大歩危は「おおぼけ」と読みます。大股で歩くと危険という意味だと書かれていることもありますが、「ほけ」は古語で「断崖」を意味しているため、「大きな断崖」という意味だそうです。そんな大歩危の断崖を下り、川面近くたたずみ、地質の新しいモデルに悩んでしまいました。


 5月31日から6月4日まで、香川から徳島にかけて調査をしました。徳島では、吉野川の河口から、上流に向かって祖谷(いや)まで行き、いったん戻って支流の銅山川を遡上して、新居浜(にいはま)に抜けました。4泊5日の調査となりました。祖谷では午後から雷雨に見舞われましたが、それ以外は天気に恵まれ、予定通りに調査が進みました。
 吉野川は、徳島市の紀伊水道を河口として、西が上流となります。蛇行はしますが、ほぼ真西に向かっています。三次(みよし)市で90度南に折れ曲がります。それからは、急峻な地形の中を流れます。小歩危(こぼけ)、大歩危(おおぼけ)などの険しい渓谷があり、観光地ともなっています。しかし、道路は断崖を縫うように走る険しいところです。
 四国の地質は、東西に延びているのが特徴的です。地質体の境界は、中央構造線や仏像構造線など有名な構造線となっていますが、それも東西に走っています。このような構造線は、両側に異なった地質が接しているので、基本的には断層です。それも非常の大きな境界なので、一つの断層ではなく、断層群ともいうべきものです。東西にまっすぐ流れている吉野川も、中流までは中央構造線に沿って流れています。
 大歩危の渓流沿いに立って、四万十(しまんと)帯と三波川(さんばがわ)帯が接するとされている境界の露頭を観察しました。これは、最新の研究で、非常に詳細な検討結果です。どうもまだ、私には腑に落ちないところがあります。その地を見ながら、西南日本外帯の構造について考えました。
 四国では断層に境されて、南北にいろいろな時代の地質体が並んでいます。まずは、四国の北側からみていきましょう。瀬戸内海に面して領家(りょうけ)帯が分布します。領家帯には、変成岩や花崗岩があります。領家帯の変成岩は、堆積岩が原岩で、堆積した時期は化石(泥質岩からの放散虫)から、三畳紀からジュラ紀だと考えられています。そして高温の変成作用を受けています。花崗岩は白亜紀後期に活動しています。
 香川では瀬戸内海に面した五色台や屋島などには、サヌカイト(sanukite)と呼ばれている安山岩の火山活動が起こっています。瀬戸内火山帯とも呼ばれているものです。1891年ドイツの岩石学者ワインシェンク(E. Weinschenk)がこの岩石を調べ、特異な性質をもつことから、香川の古い呼び名の讃岐(さぬき)からとってサヌカイトと命名しました。非晶質のサヌカイトは、たたくとカンカンといい音がすることから、カンカン石とも呼ばれ、土産物にされています。
 領家帯の南側で、和泉(いずみ)層群が不整合に覆っています。和泉層群は、泥岩や砂岩泥岩の繰り返し(互層といいます)の地層で、形成時代は放散虫化石や年代測定から白亜紀最後期であるとこがわかっています。
 和泉層群は中央構造線によって南の三波川帯に接しています。中央構造線より北側を日本列島の内帯と呼び、南側を外帯と呼んでいます。
 ここで話はそれますが、日本の地質の大区分を紹介しましょう。
 ナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854-1927)は、1885年に糸魚川から長野県を通り静岡県の駿河湾に抜ける大断層帯を、フォッサマグナ(Fossa Magna、大きな窪みという意味)と名づけました。それ以来、フォッサマグナより東を東北日本、西を南西日本と呼ばれています。同じくナウマンは、西南日本には、中央構造線を境に内帯と外帯に区分しました。北側の内帯には古い地層が、南側の外帯には新しい地層があるような、大きな地質境界となっています。
 西南日本や東北日本、内帯や外帯という区分名称は、当時としては、非常に賢明な区分であり、現在も使われています。しかし、定義が必ずしも昔のままでなかったり、重要性も変化してきます。詳細な地質調査や年代区分がなされ、日本列島の構造は、必ずしもそんなに単純でないことが分かってきたからです。
 さて、中央構造線の南側には、三波川帯があります。三波川帯は高圧変成岩で、領家帯の高温変成岩と対(ペア)をなしていると考えられています。三波川帯は、いくつかの異なった地質体(ナップと呼ばれています)から構成されています。そのナップの位置づけについて、あとで紹介しますが最近新たな考え方が提示されています。
 三波川帯の南側には御荷鉾(みかぶ)帯があります。御荷鉾帯は、玄武岩類などの火成岩を主とする岩体で、もともとは海洋地殻や海山、海洋島の一部だったと考えられています。連続した帯はなしていないのですが、三波川帯の中で南側に点在しています。御荷鉾帯の南に秩父帯があり、御荷鉾帯が一種の構造線となっています。
 秩父帯は、東西の断層によって北帯・中帯(黒瀬川帯と呼ばれることもあります)・南帯(三宝山帯と呼ばれることもあります)に区分されています。北帯は、三畳紀~ジュラ紀の地層からできていて、変成作用を受けています。中帯は、蛇紋岩に取り込まれたさまざまな時代の地層や岩石やシルル紀の石灰岩、三畳紀の浅海の地層なども含まれています。南帯は、ジュラ紀から白亜紀の地層からなり、変形作用を受けていません。秩父帯は、仏像構造線で四万十帯に接しています。
 四万十帯は、古い北帯と新しい南帯(境界は安芸構造線と呼ばれることがあります)に区分されます。白亜紀から新生代パレオジンにかけて形成された付加体で、海洋地殻の断片なども含まれています。
 四国あるいは日本列島はこのような地質区分が整然とあるように見えますが、実は、地質学の進歩によって解釈はいろいろと変化しています。
 たとえば、フォッサマグナです。フォッサマグナの東側にも西南日本に属する地層があることが分かってきました。ですから今では、棚倉(たなくら)構造線が東北日本と西南日本の境界になると考えられています。ただし、現在でも、東北日本と西南日本の境界は使われており、その境界をフォッサマグナとしていることもあります。
 内帯と外帯の区分も新しい考えが導入されています。プレートテクトニクスでは付加体という考え方が導入されて、西南日本の東西の地質帯の並びが説明されています。内帯が古く外帯が新しいというのは正しいのですが、それぞれの付加体が、北ほど古く、南ほど新しいという規則性があります。中央構造線だけが地質学的には大きな境界でないということです。ただし、地形的には一番大きなものですが。
 さらに最新の研究で、三波川帯と四万十帯が、秩父帯を通り越して接している見解が示されてました。上で述べた三波川帯の中のあるナップが四万十帯の地層だということがいわれだしました。その境界が露頭が大歩危にあります。私は、そこでたたずんだのです。
 それらの成果によると、三波川帯の地層は1億3000万年前以前にたまり、沈み込み帯に入り込み、少なくとも60kmの深さまで潜り込みました。潜り込んで、高圧タイプの変成作用を受け、そのピークは、放射性年代から1億2000万から1億1000万年前に起こったことがわかってきました。その後三波川帯の変成岩は、8800万から6500万年前には上昇していき、変成作用が終わりました。
 一方、四万十帯は、原岩が1億年より若く(三波川帯より新しい)、変成年代は6600万から6100万年前(三波川帯の変成作用より新しい)となっています。このような原岩の年代、変成年代の違いから、今まで三波川帯に含まれていた変成度の低いナップ(変成度の低い堆積岩が中心)が、四万十帯の北帯に相当するということが新たに提案されています。
 この提案が正しければ、三波川帯の中に、かなりの広い四万十帯の分布が窓のように開いていることになります。大歩危周辺では、断崖の下の渓流の三波川帯に穴がいて、下にある四万十帯が覗けることになります。もちろん四万十帯と三波川帯の境界は、断層(衝上断層と呼ばれます)となっています。
 その境界の露頭を見ながら、その提案が本当かどうか考えていました。もしそれが本当なら、上で述べたような現在の構造をどう説明しなおすのか。ペアの変成作用の説明は変更しなくて大丈夫なのか。西側にある東赤石山の有名なエクロジャイトやカンラン岩の岩体の地質学的位置づけはどうなるのか。最新の地質図や断面図を見ながら、そんなことを悩んでいました。そして、今も、もやもやは続いています。

・アプローチ・
大歩危の周辺の道路は整備されていますが、
断崖を巡るので車を案して停められるところは限られています。
幸い目的の地は、駐車場もあり、川原まで降りる道もあり、
アプローチも楽でした。
ただし、そこは前日の午後に見る予定でしたが、
雨のため諦め、翌日にしました。
幸いにも翌日は快晴で
心地よい朝の空気の中で露頭を眺めることができました。
じっくりと落ち着いて悩むことができました。

・アウトドア専門店・
私は、今はほとんど山登りをしなくなりましたが、
調査に出るときに使う道具や衣類などは、
アウトドアのスポーツ専門店で購入することがあります。
今ではインターネットでなんでも購入することができるのですが、
実物を見たり、サイズを確認するためには
やはり店頭で選ぶのが一番納得して買えます。
でも田舎にいるとなかなかそうもいきません。
さて大歩危を走っているとき、
立ち寄ったところに、
なんとMont-Bell(モンベル)の大きな店がありました。
アウトドアスポーツされる方ならMont-Bellは
有名なメーカーなのでご存知の方も多いと思います。
私も、思わず入っていろいろ見まてしまいました。
聞くと直営店だそうです。
実は吉野川の大歩危周辺はラフティングのメッカで
そのためにラフティングのために多くの人が来ます。
その人たちのための店のようです。
久しぶりにアウトドア専門店に入った
わくわくしました。

2010年5月15日土曜日

65 黒瀬川:新天地から

 2010年4月1日付けで、サバティカ(研究休暇)に入りました。愛媛県西予市に1年間滞在することにしました。山奥なのですが、私には、落ち着いて研究ができる環境です。仕事をしている場所の前には、黒瀬川が流れています。その黒瀬川の流れを眺めながら、新天地からのご挨拶です。

 「大地の眺める」のホームページを、最近、ごらんになられた方はお気づきだと思いますが、いつもの定期的更新だけでなく、トップページの内容を少し変更しました。
 ひとつは、リンクされていない画像があることです。毎月のエッセイのページにたくさんの画像を用いています。以前は、その画像のサムネールから大きな画像へのリンクが貼られていたのですが、前回のページから大型画像はアップロードしていませんので、リンク先に行こうとしてもエラーがでます。これは、今後もこのサイトは継続するつもりなので、今までと同じ形式でそれぞれのページを作成しておき、大きな画像は別の機会にアップロードしよう考えているからです。自宅に帰ったときに、アップロードしたいと思っています。
 もうひとつは、本州の地図から四国を分離して独立させたことです。なぜ、このようなことにしたかというと、来年の3月まで一年間、四国に滞在しているので、四国に関する内容がこれから増える予定なので、それに耐えられるように準備しました。
 さて、今回は、現在滞在しているところを紹介しましょう。
 私は、愛媛県西予市城川町というところに滞在しています。私が主に作業をしているのは、西予市城川総合支所というところです。その向かいには、一級河川肱川(ひじかわ)の支流である黒瀬川が流れています。地質学を学んだ人であれば、「黒瀬川」という名称は聞いたことがあると思います。私も城川と深く関わるまでは、黒瀬川の名前は聞いたことがあったのですが、この地にある川の名称だとは知りませんでした。
 地質学のどのような内容で黒瀬川という名称がでてくるかというと、日本列島の地質の生い立ちを習ったときでした。私が学んだのはプレートテクトニクスがまた完全に定着していない時期で、私がいた大学はアンチ・プレートテクトニクスの人たちがたくさんいました。ですから、地向斜造山運動という考えで大地の生い立ちは考えられていました。
 古生代のカレドニア造山運動を習ったときに、日本でもカレドニア造山運動の時期にできた岩石があったという説明を受けました。その証拠が、この黒瀬川から見つかっているという紹介でした。それは、「黒瀬川構造帯」とよばれ、三滝火成岩類や寺野変成岩類などシルル紀に形成された古い大陸の岩石が見つかっています。
 カレドニア造山運動とは、古生代前半(カンブリア紀からデボン紀)にかけて起こった、全地球的な造山運動です。造山運動とは山をつくると書いてありますが、大地が激しく変動して、新たな大構造がつくられる地質学的運動のことです。地向斜造構論の基づいていた考えですが、今ではプレートテクトニクスによって解釈しなおされています。造山帯とは、プレート境界の沈み込み帯や衝突帯で形成される地質体を指すものとなっています。
 そもそもはノルウェーから、北海、イギリスへと続くシルル紀後期からデボン紀前期の造山帯をカレドニア造山帯(狭義というべきでしょか)と呼びました。地質学発祥の地のイギリスで提唱されたことなので、その造山運動は世界的に知られることとなりました。そして古生代前半(カンブリア紀からデボン紀)の造山運動を、カレドニア造山運動(広義)と位置づけました。
 プレートテクトニクスのモデルでいえば、大きなゴンドワナ大陸への小大陸の衝突していったことよって説明されます。ゴンドワナ大陸とイアペイタスと呼ばれていた海を挟んで、いくつかの小さな大陸(ローレンシア、シベリア、バルティカ)がありました。それがゴンドワナ大陸に衝突していったときできたのがカレドニア造山運動です。黒瀬川構造帯の岩石も大陸や衝突帯の一部を構成していたことになります。
 ただし、黒瀬川構造帯自体は、カレドニア造山運動でできたのではなく、ジュラ紀に、ゴンドワナ大陸の破片がユーラシア大陸に付加したではないかと考えられています。三滝火成岩類の花崗閃緑岩の年代は、4億3970万年前(シルル紀最初期)から3億7700万年前(デボン紀後期)の年代、寺野変成岩類からは4億3900万年前の年代を持つことから、ゴンドワナ大陸を構成していた岩石であったと考えられます。それらが大陸起源の岩石があることから、黒瀬川古陸と呼ばれていました。黒瀬川古陸とはいっても、単独の大陸ではなく、ゴンドワナ大陸の北端(とはいっても赤道付近)にあったと考えられています。
 また、三滝火成岩類や寺野変成岩類を覆っている岡成(おかなる)層群は石灰岩や酸性火山砕屑岩類からできていますが、その石灰岩からシルル紀やデボン紀のサンゴ(クサリサンゴやハチノスサンゴ)や層孔虫、三葉虫、コノドントなどの化石が見つかっています。また、古生代後期から中生代に黒瀬川古陸に付加したと考えられる地層の中の石灰岩からは、石炭紀のフズリナ(紡錘虫ともよばれるプランクトンの一種)の化石を含むものも見つかっています。
 オーストラリアからも同時期の近縁の化石や火成活動があったことから、黒瀬川古陸は、もともとオーストラリアの近くか、もしくはくっついていたのかもしれません。そんな黒瀬川古陸の破片が、黒瀬川沿いに分布しています。
 今は、西予市城川総合支所で仕事をしているのですが、当初は城川町内にある城川地質館で仕事をする予定でした。地質館は黒瀬川のさらに支流の三滝川の上流にあたります。城川町でも山奥に当たる地質館には、電話回線がきていません。それに携帯電話(docomoもauはダメ、Sofbank、WILLCOM、EMOBILE、ディズニー・モバイルは持っている人がいなので試してない)も、つながりません。まあ、山奥だから仕方がありませんが、docomoが誇るFOMAの日本全国におけるの人口カバー率100%からもれている地域なのです。電話回線がきていませんから、インターネットもつながりません。
 仕方がないので、常駐するところを、城川町の旧役場、現在の城川総合支所に間借りすることになりました。3階立ての立派な建物なのですが、市町村合併で、現在は支所(出先機関)となり、1階しか使っていません。2階や3階は会議室や物置になっています。私は、2階にある元町長室を使わせてもらっています。贅沢な執務室となっています。
 総合支所であれば、携帯電話網(docomoもauもOK)に入ってますので、FOMAのデータ通信専用機のL-05Aというのを、今年1月末に2年契約で購入しました。キャンペーン中でしたので専用機の料金は、非常に安かったのです。
 現在、それをルータに差し込んでパソコン2台をつないLAN環境を構築しています。今まで大学は専用高速回線を利用できましたし、自宅も光通信で高速通信をしていましので、ついつい画像の大きさを気にしないようなホームページを構築したり、blogでも容量や画像サイズを気にしなくてもサイト運営ができました。こちらに来るにあたり、通信速度が気になっていたのですが、実際に今までどおりできるかどうかデジカメでとった画像を送ってみたら、やはり遅くてメーラーがつながらなくなってエラーが出るようになりました。
 ですから、大型の画像にリンクするような今までのホームページの作成は1年間休止することにしました。私のportalサイトは大きな画像を使っていないのでアップロードに負担はかかりませんでしたので、そのまま運営することにしました。その他に、西予市の滞在時専用のサイトとして「西予の自然史と風物誌」というのを作成して、公開するようにしました。
 今回は、地質の話より、身の周りの話が大半になりました。ご了承ください。

・新しいホームページ・
前回のメールマガジンも、新天地からの配信でした。
しかし、なかなか落ち着かない状態でしたので、
今回は落ち着いて原稿を書いています。
ただ、現在、野外調査で外に出ていますので、
事前に書いて配信を予約していますが。
ちなみに、上で紹介した私のPortalサイトは
http://www.ykoide.com/index.html
で、西予の自然史と風物誌は、
http://geo.sgu.ac.jp/seiyo/index.html
です。
興味があれば覗いてみてください。
城川ですが、来年であれば、
ケーブルテレビが城川町内に引かれ、
それでインターネットができるよていでした。
私の滞在が1年遅ければ、
それが使えたのですが、仕方がありません。

・人的ネットワーク・
城川で地質調査を新たにするわけではありません。
それで論文を書くつもりはありません。
しかし、城川や西予につて再度勉強しなおして、
地質学的な見所を一通り見ておこうと考えています。
幸い、地質好きのおばさんと
理科好きの小学生に知り合いになりました。
おばさんはよく山に行っては化石やノジュールを採ってきます。
化石の産地を聞いては私の採りに行ったりしています。
先日は小学生の家族と隣町まで化石採りに行きました。
近くにお住まいの教頭先生が化石の採れる場所を
わざわざ教えてくださいました。
草の多いところで見逃しそうなところですが
おかげで化石を採ることができました。
近くの小学校の先生から出前授業の依頼も受けました。
少しずつですが、人的ネットワークもできています。

2010年4月15日木曜日

64 天保山:以有諧爲貴山

 山高きがゆえに貴とからずです。では、山低きがゆえに貴し、となるでしょうか。日本一の低山を登頂してきました。そこには、大阪のユーモア(諧謔)がありました。

 「山高きがゆえに貴とからず」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。もともとこの言葉は、平安時代後期に成立した庶民向けの教科書の「実語教」に出てくる言葉で、正式には、
  山高故不貴 以有樹爲貴山
  山高きがゆえに貴とからず 樹有るをもって貴しと為す
という言葉です。その意味を考えてしまうところへ、今回は、案内しましょう。
 春休みに、里帰りを兼ねて大阪と京都、奈良などへの旅行の予定を立てて行きました。ところが、全国的に嵐で、飛行機の飛ぶのも危ぶまれる天候でした。関西空港に到着した初日と翌日はかろうじて、晴れていましたが、それ以降3日間ずっと肌寒い雨で、帰る日にやっと回復しました。京都や奈良の神社や寺などを見る予定をしていたのですが、観光地は、外を歩くことが多いいため、寒い雨に日に出かける気になりませんでした。しかし、2日間はなんとか京都にでましたが、屋内ですむところを回りました。
 さて、1日目は大阪に宿泊したのですが、その目的の一つは、家族は、海遊館と大阪城を見ることでした。私は、日本で一番低い山を見ることを楽しみにしていました。まあ、話のタネにというつもりでしたが。
 それは、天保山(てんぽうざん)という山です。海遊館のすぐ脇に天保山があります。天保山公園があり、公園を入ってすぐに山が見えました。次男は、それが日本一低い山だと思って、一番乗りをするために駆け上りました。私は、どうもおかしい、こんなはずはないと思いました。あまりに中途半端な山だからです。山らしく見え、どこにでもありそうな山に思えたからです。
 天保山公園の中で周りを見渡すと、「日本一低い山、天保山山頂はこらら」という矢印付の案内看板を見つけました。そして、そこには、「標高は4.5m びっくり」という吹き出しが書かれています。その矢印に従って、くねくねと道を進んでいくと、「二等三角点」と「天保山頂」という看板がなければ見過ごしてしまいそうなところに、天保山がありました。
 石畳の中に、花崗岩に「+」マークのついた三角点の石が埋められていました。これは、二等三角点でですが、地面と同じ高しかありません。いや、少しくぼんでいるようにも見ます。この三角点マークが天保山山頂となります。標高4.53mとは、この当たり一帯の平地の高さでもあります。これを山と呼んでいいかどうか迷うほどの標高しかありません。
 しかし、天保山には天保山山岳会があり、頼めば、登山証明書を発行してくれます。登山証明書の発行は有料で10円だそうです。今時、格安料金ですね。でも、私は、証明書は遠慮しました。天保山は、登頂したかどうかも怪しい限りですが、山岳会といい、登頂証明書といい、どことなく大阪人のユーモアが漂っているように感じました。
 まあ、山高故不貴 以有樹爲貴山(山高きがゆえに貴とからず 樹有るをもって貴しと為す)ということなら、天保山はそれにあたりません。しからば、天保山の由来はいかなるものでしょうか。
 天保山の前を流れる安治川は、淀川から枝別れした大川(おおかわ)につながる運河です。大阪は、海運で栄えた町ですから、街中を船で貨物を運ぶために、掘削された人工の川がたくさんあり、安治川のその一つでした。
 淀川から流れ込む土砂で、運河の川底が浅くなるたびに、浚渫されていたようです。洪水防止と大坂への大型船の入港のために、1831(天保2)年から2年の年月をかけて大規模な「天保の大川浚」が行われました。そのときに浚渫した土砂を積み上げてできた築山が天保山の発祥だそうです。できた当時は、十間(20mほど)もある築山になっていたようです。その築山は、安治川への目印となっていたため「目印山」と呼ばれていたようですが、築山ができた時代から、天保山と呼ばれるようになったそうです。
 幕末に、ロシアの艦隊が大阪沖に現れたため、砲台を天保山に作って守りとしました。そのとき、天保山の山頂が削り取られて少し低くなってしまいました。第二次大戦後、地下水のくみ上げで地盤沈下が起こり、1971(昭和46)年に7.1m、1977(昭和52)年には4.7mまで低くなり、現在に至っています。1993(平成5)年には、国土地理院の地形図から山名が抹消されたが、地元からの要望によって1996(平成8)年7に再掲載されています。
 山で最高峰というのは、標高の高さを測定すれば一義的に決まります。なぜなら、高いところは、今のところは、人工的にもそんな高いものはつくることもできませんので、最高峰は自ずから自然の高まりとなり、山という定義に合致します。
 ところが、低さを誇ることと、山の定義は矛盾することがあります。まず、山とは、周辺より高いところがのはずです。となれば、天保山は「山」はついても、山ではなくなります。
 また、同じ大阪の堺市堺区に蘇鉄山(そてつやま)というものがあります。ここには一等三角点があり、その中では一番低いところとなります。しかし、蘇鉄山も築山で人工的で、周り高いわけではありません。周りには木が茂っていますが、山頂自体には木がありません。以有樹爲貴山にも当たりませんでした。ただし、蘇鉄山にも、山岳会もあり、登頂証明書の発行もしてくれます。天保山も蘇鉄山も、どうも貴さを求めているわけではなさそうです。
 自然の山としては、徳島県徳島市にある弁天山が、一番低いとされています。三角点などの測量のための重要性は持っていませんが、国土地理院発行の地形図に掲載されている山としては、日本一低い山になります。その標高は6.1mです。弁天山は、山と呼ばれるべく容姿をもっています。古くより弁天様を祭った小さな社があり、小さいですが山らしく見えます。そしてなにより、木が茂っています。この山こそ、山高故不貴 以有樹爲貴山にあたるのでしょう。
 さてさて、山低きゆえにも貴からず、でしょう。今は平なところを山と称して、天保山と蘇鉄山で日本一の座を競っているのですが、いずれも、もともとは運河の浚渫によって出てきた土砂を積み上げた築山同士です。それは、もしかすると、大阪特有のユーモアなのかもしれません。そのユーモア(諧謔)にこそ、貴さがあるのかもしれません。山低故不貴 以有諧爲貴山でしょうか。
 子供たちも、「日本一」という名称に期待して訪れたようですが、拍子抜けしたようです。二等三角点の石と看板だけしかそこにはないのですから。子供たちには少々難しいユーモアだったかもしれません。まあ、彼らの本命は海遊館でしたから、いいとしましょう。

・ユーモア・
低山は、地図にこそ表示されていますが。
地形で見ても見えるのモノではありません。
まして、現在は平地ですから、
5mメッシュを使って見栄えがしません。
また、10mメッシュの地形解析でもまったく表現されません。
地形のエッセイとして取り上げるのが
いいことなのかどうか迷うところです。
まあ、このエッセイもユーモアとしてみてください。

・継続・
愛媛県に4月から1年間滞在します。
こちらにきてから2週間になります。
インターネットも繋がったのですが、
いろいろと不自由があります。
なんといっても、通信速度です。
大型の画像を転送するのは諦めました。
他の私が運営しているホームページも
1年間更新を停めました。
ただし、小型の画像で構成したものを
新たにはじめました。
このメールマガジンは、
ホームページの画像と連携しているので、
大型画像を送れないのは、非常に残念ですが、
何人かの読者方から、継続の希望をいただいているので、
継続することにしました。
幸い、大学の自前のサイトにも、
アクセスできるようになりました。
小型の画像であれば、そこに送ることができます。
ホームページ自体は小さな画像で作成しておき、
リンクはつけておきますが、
表示されないと思います。
大型の画像は、札幌に時々帰りますので、
そのとき、機会があったら、更新しておきます。
ですから、大型画像は、見られませんが、
このメールマガジンとサイトは継続していきます。
1年間、改めてによろしくお願いします。

2010年3月15日月曜日

63 日向岬:節理の摂理

 日向灘に突き出た宮崎の日向岬には、柱状岩とよばれる絶壁があります。似たような産状を示す岩石は、近隣の海岸にもあります。柱状岩とはいったいいかなる起源なのでしょうか。そこに、不思議な摂理が働いていることを教えられました。

 宮崎には、白砂青松というべき砂浜と険しい岩礁の海岸が混在して、あちこちにあります。中でも、日向岬は、海岸の絶壁とその産状が見事なことで、観光地になっています。日向岬は、日豊海岸国定公園の南端にあたるところに位置しています。日南市街からみると東側に突き出た岬です。
 日向岬を昨年の秋に訪れました。目的は、「馬の背」や「クロスの海」で見られる「柱状岩」と呼ばれる岩石をみることでした。「柱状岩」は、日向岬の海岸の絶壁をつくっている岩石の形状が、字のごとく、岩石が柱を連ねたように見えるから呼ばれています。
 岬の先端に向かう途中には、岬を切り刻むように4箇所ほど海が切れ込んで、いるところがあります。先端から2箇所目の切れ込みが、「馬の背」とよばれているものです。幅10mほどのなのですが、切れ込みの長さが200mもあり、絶壁の高さが70mもあります。その絶壁が、「柱状岩」からできています。岬の先端に行くためには、海の切れ込みを横目で見ながら、馬の背のように細くなったところを、歩いていくことになります。
 岬の先端には、柵があり、海や絶壁を眺めることができます。9月の暑い日でしたが、岬の先端は風が通り、涼しく感じました。それより、風が強く飛ばされそうな恐怖感のためだったのかもしれません。それも含めて、日向岬は、なかなかの景勝地となっているのでしょう。
 「クロスの海」とは、海の切れ込みが直交していて、十字架に見えることから名づけられています。また、十字の左に、口がついているようにみえ、「叶う」という字にも見えので、願いが叶う「クロスの海」と呼ばれています。なお、ここは恋人たちが愛を叶えるところとして売り出そうとしているらしく、鐘が設置されていました。私は、一人旅で妻帯者なので、鐘は不要なのですが。
 日向岬の絶壁や海岸を景観を際立たせているのが、「柱状岩」と呼ばれている岩石の産状です。「柱状岩」は、地質学の用語でいえば、柱状節理に似た言葉です。では、柱状岩と柱状節理の違いとは何でしょうか。
 言葉の意味でとすれば、柱状岩は、定義されていない一般的な言葉ですから、柱を連ねたように見える岩というだけの意味しかありません。ですから、岩石の種類や成因は特定されていません。
 一方、柱状節理は、地質学用語として使われていて、ある成因のものに限定されて使用されることが多くなっています。マグマもしくは熱い火山砕屑岩が、ゆっくりと冷えたときにできる割れ目が、角柱状になったものを柱状節理といいます。地質学でも成因は特定されているわけではないのですが、火山砕屑岩も含めた広義の火成岩にみられる特徴的な構造の呼び名となっています。
 柱状岩は、そのようなくくりがないため、どんな岩石にも適用可能です。では、日向岬の柱状岩とは、どのような成因によるものなのでしょうか。
 それを説明する前に、宮崎の地質の概要をみてきましょう。宮崎は、北から秩父帯、仏像構造線をはさんで、四万十帯(北が四万十累層群下部、南が上部に区分)となります。それらの帯は、北東-南西の構造を持つ地質体で、砂岩と泥岩を主とする堆積岩からなります。
 秩父帯と四万十帯は、海洋プレートの沈み込みに伴って形成される列島を特徴付ける付加体というものです。
 宮崎の中央部の海側には、それらの地質体の上を覆って宮崎層群が分布しています。この宮崎層群は、砂岩から泥岩が900万年前から150万年前ころにかけて、海底にたまったものが、隆起してできたものです。
 宮崎の西端には、現在も活動している霧島、阿蘇などの活火山があります。また、少し前に活動し姶良(あいら)
 日向岬は、四万十帯の上部の分布域ですが、すぐ南側には宮崎層群が分布するような位置にあります。では、四万十帯だから堆積岩かというと、実はそうではないです。
 先述べたように宮崎の基本的な地質は、付加体と宮崎層群で特徴付けられますが、マグマの活動が起こっています。ひとつは、現在も続く阿蘇山、霧島などの新しい火山活動です。もう一つは、四万十の堆積時代よりは新しいのですが、現在の火山活動よりはずっと古い時代の火山活動です。
 付加体の分布地域には、マグマの活動が何箇所かで起こっています。このような火成活動は、九州だけではなく、西南日本の付加体全域にわたって似たような活動がみられます。ただし、その活動時代は付加体によって違っています。その理由は、沈み込みに伴っておこる火山活動が、前の時代に形成された付加体の中で起こり、次の時代の付加体は、より新しい時代の沈み込みにとって起こるためです。古い時代の火山活動は浸食されなくなり、地下深部で起こった深成活動が顔を出すようになっていると考えられています。、
 宮崎では、祖母山や大崩山(おおくえやま)、市房山、尾鈴山などがそのような火成活動によってできました。たとえば大崩山は、カルデラの上部が削剥浸食されて、火山の根っこの部分が見えているのだと考えられています。
 日向岬の柱状岩は、尾鈴山(南東の海にあったと今は亡き火山という説もあります)によるものだと考えられています。その火山は、厚さが900mにも達すほどの火山砕屑岩を噴出しました。熱い火山砕屑岩が、熱と自重によって一部が溶融して、溶結凝灰岩となりました。それが冷めるときに、割れ目ができます。これは、上で述べた柱状節理の成因そのものです。
 尾鈴山のマグマは、デイサイト~流紋岩質もので、火山活動の時期はまだ十分わかっていなのですが、2つの活動時期があり、いずれも溶結凝灰岩を形成したもので、溶結凝灰岩I、溶結凝灰岩IIに区分されています。溶結凝灰岩IIから1500万年前(1500±200年前)の年代がでています。
 尾鈴山のマグマは、貫入岩となっている深成岩も伴っており、日向岬より南にある地域でも活動の痕跡が残されています。その活動年代は、溶結凝灰岩に貫入しているので、より新しい時代となります。年代測定では、岩脈から1300万年前(1300±200年前)の得られています。平岩や美々津などの海岸にみられる花崗斑岩がその名残となっています。岩脈も、柱状節理をもっていることがあります。
 柱状節理は、同じ宮崎県で高千穂峡(GeoEssay 60)にもあって有名ですが、そちらは時代がだいぶ新しく12万から9万年前の阿蘇山の火山活動で形成されたものです。しかし、いずれも宮崎県の景観を特徴づけるものといえます。
 高千穂の柱状節理は、山奥深く静寂の中にあるためでしょうか、神々の降臨を思わせる神秘性をかもし出しています。一方、日向岬は、海岸の波風とその険しさによって、荒々しさを感じさせるものです。それは、大地の営みのダイナミックさを感じさせるものです。
 柱状岩は非常に広義の意味に使えるはずです。しかし、その実態は柱状節理でした。柱状節理のような並び立つ柱は、マグマの力を借りないとそうそうできないということを意味しているのでしょう。自然は多様で驚異に満ちています。しかし、自然には柱状節理に見られたように、それなりに摂理もあるようです。

・旅立ち・
先週は全国的に雪が降るような
荒れた天気となりました。
北海道も寒い日が続きました。
しかし、三寒四温のように暖かい日には
雪解けが一気に進み、
主だった道路ではアスファルトが
出るようになりました。
着実に春に向かっています。
今週は、長男の卒業式、
そして大学の卒業式があります。
別れと旅立ちの季節となりました。
旅立つ者が、それぞれの道で、それぞれの新天地で
新しい夢に向かって、実り多き日々を
過ごすことを祈っています。

・春を待つ・
いよいよ次回は四国からの配信となります。
何人かの方から、このメールマガジンの
継続のリクエストが来ています。
私も継続していく意思があります。
画像が転送できるかどうか少々不安ですが、
更新するつもりで作業は進めていきます。
また、配信できることを願って、
春を待ちます。
春浅き北国から、春深き四国に、
私の旅立ちの日も近づいてきました。

2010年2月15日月曜日

62 宇治:幻の扇状地

 宇治川は、地形や地質から見ると不思議なことろがいくつかあります。その不思議さを考えてみました。宇治は中学生時代からなじみのあるところです。自転車で通った道は、起伏の激しいもので、宇治橋で一息ついていました。その険しさは、今は亡き河川の扇状地だったのではないかと思い至りました。それが不思議さの一つの解決案となるか知れません。

 京都で生まれ育った私は、木津川や琵琶湖で泳ぎました。両親が一度海に連れて行ってくれた記憶がありますが、その記憶は薄れています。小学生のころ、水泳教室に少しだけいきましたが、遠くて通うのが大変で、長続きしませんでした。また、小学校5年生のときに学校にプールができたのですが、結膜炎で2年間プールにはいれず、結局泳ぎを覚えずに中学生になりました。中学生の夏休みには結膜炎も完治し、プールにもいけるようになりましたが、中学校にはプールがありませんでした。
 そこで、中学生になって、泳ぐ楽しさを知るために、町のプールに通いました。我が町にはプールはありませんが、隣町の宇治には市民プールがありました。料金は覚えていませんが、安くて時間制限なく泳ぐことができるプールでした。そこが一番近くて安いプールでした。近いといっても片道10kmほどの道のりを、夏休みの間中、友人と自転車で週に2、3度はでかけました。
 尾根のようなうねりをいくつか越えていく道でした。自宅から自転車で結構険しい道を通った記憶があります。その道の途中で宇治川を通りました。宇治川を宇治橋で渡りましたが、暑い夏でも、橋の上では涼風が通おり、ほっとできるところであることを覚えています。
 その宇治橋に、昨年の夏過ぎに何年かぶりにいきました。子供たちをつれて、平等院とその周辺の観光でした。昼食は、宇治橋の少し上流側の堤防の木陰で食べました。その日も天気がよく暑かったのですが、木陰は涼風が吹いていました。また、橋の袂の茶店の日陰にソフトクリームを食べている子供たちと、川面を眺めながら涼しい川風が吹かれていました。
 宇治橋は、宇治川が山間部から平野部にでるところにつくられたものです。宇治川の上流部は、瀬田川と名前を変え、琵琶湖が瀬田川の源流となります。瀬田川が宇治川と名前と変えるのは、喜撰山(416m)と大峰山(506m)、荒木山(472m)などの山並みの中です。このあたりは、非常に急峻な地形の中を、宇治川(ここでは瀬田川と宇治川を区別せずに宇治川と以下表現します)は、流れています。
 宇治川の少し南東側には、北東から南西に向かって大石、龍門、小田原、禅定寺、岩山、郷之口という集落が続く一帯(以下、宇治田原盆地と呼びます)は、緩やかな低地の地形があります。通常このようななだらかな地形に変化しているところは、地質を反映していたり、大きな断層があったりします。しかし、ここには大きな断層は推定されていませんし、地質の連続性も途切れていません。なぜ、このなだらかな地形を宇治川が流れてないのかが、不思議です。
 宇治川で不思議なことは、もう一つあります。宇治川の周辺の山並みは高いので、深く切れ込んだ河川です。本来であれば、急峻な河川には、上流により急峻な山並みがあったり、広い流域があり豊富な水量が必要になります。つまり、河川の浸食作用が強く働く必要があります。
 これほど急峻な地形なのですが、宇治川の源流部は琵琶湖で、その湖面の標高は84mしかありません。それほど琵琶湖の水位は高くありませんが、充分な水量はあります。そして、宇治の平等院あたりで平野部で標高は15mまで下がります。標高差は70m近くありますが、もともと琵琶湖の水位が低いので、こんな急峻はところを浸食して、ここを流れる必然性がわかりません。
 また、宇治川には扇状地などの河川が平野にでたところにできる地形が見られません。これも、不思議です。
 宇治川の周辺の地質は、丹波帯に属しています。丹波帯とは、付加体で形成された地層で、主に中生代ジュラ紀中期から後期の堆積岩(泥岩や砂岩)からできています。その地層の中に、古生代ペルム紀から中生代三畳紀のチャートがブロック状に取り込まれています。この周辺の地質体が、沈み込み帯で形成された証拠となるものです。
 丹波帯の地層が、宇治川の両側に継続して分布しています。特に、宇治川の流域には、砂岩やチャートなどの硬い岩石が分布しているところが、多くなっています。これらの石は硬く緻密で、浸食には強い岩石です。そのため、急峻な地形になっているのだと考えられます。
 先ほどのなだらかな宇治田原盆地の地形は、どうも基盤の地質ではなく、周囲の置かれた地質環境によるものではないかと考えられます。
 宇治の平野や京都の盆地などは、新生代の中新世から更新世まで、何度も水没しています。瀬戸内海から大阪平野、京都盆地、奈良盆地、伊勢湾まで低地帯が断続的に続いています。そのような地域に、海水が浸入したり、淡水がたまり、堆積物をためていたことが、堆積岩から再現されています。
 さて、ここからは根拠のない、地形から見た私の推測です。
 地質図をみると、なだらかな宇治田原盆地には、鮮新世と更新世の堆積物が分布しています。そこの地形とみると、河川が山間部から平野部に出たときできる、扇状地や氾濫原のような地形やそのくぼ地でできた池が多数できています。そしてその先端は、元は巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれた平野となります。更新世にはこの当たりまで海が進入し、そこに河川が流れ込んでいたのではないかと考えられます。
 ですから、もともと宇治川は、この宇治田原盆地を流れていたのでないかと推測されます。ところが、何らかの原因によって、大石あたりが持ち上げられて、琵琶湖をあふれが水が、別の出口を求めたのでしょう。その弱線(地形的に弱く、切れ込んだところ)が、現在の急峻な地形の中にあったため、今の宇治川が形成されたと考えられます。その弱線の形成のメカニズムは、地形からは読み取れません。もしかすると、どこかの地理学者や地質学者がすでに解明しているかもしれませんが、資料を見つけることができませんでした。
 私、中学生の夏休みに自転車で通った道は、宇治田原盆地の河川の出口にある扇状地の先端に当たるところだったのかもしれません。ですから、私は今はない旧河川の扇状地の先端から、現在の扇状地のない河川へと走っていたのかもしれません。その扇状地のひだが、自転車には険しい高低差のある道だったのかもしません。
 私の息子たちは、そんな道を電車であっという間に通り過ぎました。私だけが、子供のころの感慨にふけっていました。

・いつもの冬・
暖冬だと思いながら、2月も半ばになると、
北海道も例年通りの冬となっているようです。
寒い日もあり、雪もそこそこ降り積もました。
今では、積雪に道が狭く、危険な状態でもあります。
でも、日は長くなりました。
いつもは早朝暗い中を歩いてくるのですが、
どんなには早く出ても、
空は明るくなってくるようになって来ました。
寒い日もありますが、
暖かい日は、春も予想させる暖かさに感じます。

・就職戦線・
大学の教員は成績の提出も終わり、
一般入試も終わり、ホット一息ついています。
しかし、3年生は会社説明会を受けています。
我が大学でもいくつもの説明会が開催され、
スーツ姿の学生を多数見かけます。
就職戦線はなかなか厳しいようですが、
なんとか社会人として、
希望の道を見つけてもらいたいものです。
4年生は、もう1月ほどで大学を巣立ちます。
私のゼミの学生は、教員志望が多く、
非常勤の教員をしながら、夏の教員試験に臨みます。
彼らの就職戦線は、一般のものと少し違いますが、
厳しさは同じでしょう。

2010年1月15日金曜日

61 都井岬:残暑のオリストストローム

 宮崎県南端の都井岬は、野生馬やソテツが有名です。都井岬を形成している岩石には、付加体と呼ばれる列島形成のメカニズム、オリストストロームという大規模な海底地すべりが記録されていたのです。残暑の残る南国にみた大地の営みを紹介しましょう。


 宮崎県の南端に都井(とい)岬があります。都井岬は、付け根から先端まで1.7kmほどの幅で、約3.5kmほどの長さあります。付け根から岬は南向きに伸びますが、真ん中で折れ曲がって南東に向かいます。ひらがなの「し」のような形をしています。小さな岬ですが、内部は標高295mに達する丘が連なり、深く刻まれた河川の地形がありますが、なだらからな景観をしています。ところが、半島の海沿いは、急激に切れ込んで、険しい崖に囲まれています。そのため、周囲とは閉ざされた環境となっています。
 都井半島は、幹線ルートからは外れていますが、日南海岸国定公園の一部にもなっており、小型の岬馬の繁殖地とソテツの自生地として有名で観光地になっています。
 岬馬とは、「御崎馬」とも書かれ、日本の在来の野生馬が繁殖しています。岬馬は、1953(昭和28)年に「岬馬およびその繁殖地」として天然記念物に指定されています。そもそもは、江戸時代に高鍋藩が軍用馬を飼育するために、放牧を始めたものが、後に野生化して今日にいたっています。
 ソテツ(漢字では蘇鉄と書きます)は、亜熱帯に生育する植物ですが、都井岬が北限の自生地となっています。1921(大正10)年に天然記念物に、1952(昭和27)年には「都井岬のソテツ自生地」として特別天然記念物に指定されています。
 交通、地理的には観光客の訪れるような地の利はないのですが、このような名所があるため、日南海岸の観光には欠かすことのできない地となっています。私が訪れたのは、昨年9月でした。昼に都井岬につき、ゆっくりと半島内を見て回ることができました。
 都井岬は、日南層群と呼ばれる堆積岩からできています。日南層群は、宮崎平野をつくっている宮崎層群(新生代の後期中新世から前期鮮新世に堆積)より古い時代の地層で、新生代の後期漸新世から前期中新世に堆積しています。日南層群は、四万十層群に対比される地層です。
 四万十層群に相当する地層は、房総半島から関東、東海、紀伊半島、四国南部、九州南部、そして沖縄本島まで、長さ2000kmほどにわたって分布している地層です。四万十層群に類する地層が分布する地帯を、四万十帯と呼んでいます。
 四万十帯は、主に中生代の白亜紀から新生代のパレオジン(かつての古第三紀)にかけて堆積した地層で、付加体と呼ばれている地質体です。
 付加体とは、海洋地殻やその上に深海堆積物のチャートや深海粘土、あるいは大陸から由来した砂や泥が、海溝で大陸側に押し付けられ、付け加わり、盛り上がった地層群のことです。そのため付加体には、他の堆積岩にはみられないような、地層面に平行にはしる断層群があったり、時代層序の逆転が起こっていたり、異質な岩石群が混在するなどの特徴を持っています。
 時代層序の逆転とは、上に重なっている地層群は先に沈み込んだときにはがれたもので、その下につぎつぎと新しい時代の地層群が付加していくことによってできていきます。同時期に付加した地層では、下が古く上が新しいという正常な層序が形成されます。しかし、断層(時にはぴったりとくっついて見えないようなものもあります)で境界されて、下には別に時代に付加した時代の新しい地層群がでてくることになります。このような時代の逆転現象が繰り返し起こっていきます。四万十帯の地層では、太平洋側に新しい時代の地層が分布します。これは、付加体固有の特徴で、通常の地層では見られない構造です。
 九州では、四万十層群に対比される地層は、北から佐伯層群、蒲江層群、北川層群、日向層群などに分けられています。日南層群は、一番新しい時代に付加したものとなります。
 都井岬周辺の日南層群では、オリストストロームという構造が特徴的にみられます。オリストストロームとは、堆積構造の一種です。硬い岩石の塊(ブロック)が柔らかい岩石(マトリックスと呼ばれます)の中に取り込まれるという産状をもっています。形成時にブロックはすでに固まっている岩石として振る舞い、マトリックスは軟らかい未固結の堆積物として流動的な振舞いをします。もちろんそれは、形成時、形成場での話で、現在ではすべてが固まって岩石となっています。
 オリストストロームは、沈み込み帯付近で起こる大規模な海底地すべりでできると考えられています。オリストストロームが広域に繰り返しみられる地層があるということは、付加体という形成場を証拠付けることとなります。
 このような沈み込み帯という堆積場を教えてくれる地層が、都井岬に周辺でみることができます。岬の突端には御崎神社があります。その周辺には、海岸ぞいの崖があります。そこでオリストストロームが観察できます。神社の周辺にはソテツが自生しています。
 残暑の残る昼下がり、御崎神社を私は訪れました。この神社までくる観光客はまばらで、日差しの暑さだけが印象に残りました。都井岬は、観光地ですが、観光コースとしては、宿泊する場とはなりにくいようで、泊まった宿(公共の宿でした)には、宿泊者は私一人しかいませんでした。しかし、宿の部屋からは、雄大な日没が見ることができました。
 私にとって都井岬は、暑さとともに日没が記憶に残っています。そして、付加体から想像できる大地の営みの悠久さも印象に残っています。

・継続したいのですが・
正月はすでに過ぎ、新年の挨拶はしませんが、
本年も本エッセイをよろしくお願いします。
前回、4月以降このエッセイの発行が
中止になるかもしれないと書いたのですが、
読者の方から、継続して欲しいというメールをいただきました。
継続したいの山々なのですが、
そうもできない事情が起こるかもしれません。
それは、4月以降1年間愛媛県の山奥に滞在します。
その地は、インターネットの通信環境が
現状より悪くなります。
メールマガジンの発行自体は多分問題ないのですが、
大きな画像を多数、ホームページに
アップロードしようとするとき、
どの程度のスピードになるかが問題となります。
このエッセイのホームページは、
景観写真や地形図、衛星画像、地形解析などの
画像を多用しています。
画像を用いて、市民の方々に
分かりやすく地質を紹介したいというのが、
本来の目的であるからです。
メールマガジンとホームページが連動して
はじめて、その目的が達成できるものです。
ですから、4月になって、現地にいって通信状況を確認して、
継続の可否を判断したいと思っています。
それまで、本エッセイは続けていきますので、
よろしくお願いします。

・地層累重の法則・
地層は、本来のでき方を考えればわかるのですが、
海底に土石流などで、土砂が押し流されてくると
一枚の地層が形成されます。
そして時間を置いて、次の土石流が起こり、
先ほどの地層の上に新しい地層ができます。
この繰り返しが地層の形成のメカニズムとなります。
その結果、地層では、下が古く上が新しい
という規則性ができます。
これを地層累重(るいじゅう)の法則と呼ばれ、
地質学では、非常の基本的な原理となっています。
付加体ではその原理が破られるのです。
この発見は地質学者に衝撃を与えました。
しかし、今では、その層状の逆転が付加体の特徴として
大地の歴史の復元に重要な役割を果たしています。