2011年7月15日金曜日

79 静内:秘境にかえる

 今回は私にとっての古戦場である静内川です。上流の高見ダムが卒業論文の調査地でありました。しかし、かつて高見あたりは、秘境と呼ぶべき奥地でした。そして、ダムができて30年ほどたった現在、再び秘境の地になりました。そんな秘境に河口から思いを馳せました。

 先日、教育実習の指導のため、静内へでかけました。実習指導は、受け入れ小学校があるので、失礼のないように、目的地には早めつくようにしています。約束の時までは、近所で時間を潰すことにしています。今回は、9時前後に訪問すればよかったのですが、8時頃に静内に到着しました。時間を潰すのは苦ではなく儲けものと思うことにしています。静かな自然のあるようなところを探して、ボケーっとすることにしています。
 静内は噴火湾に面した静内川の氾濫原に街があります。街の南側に、静内川があり、西側の海へ注いでいます。静内川河口の左岸には公園があり、のんびりと時間を過ごしました。朝の散歩をされているおじさんと、静内川について話しをしました。上流のことについても話しが及び、私にとっては懐かしく思い出されました。
 静内川の上流は、私が卒業論文のための野外調査をした思い出の地でもあります。思い出の地への再訪については、別のエッセイ(EarthEssay 4_65 古戦場の静内川へ 2005.10.20)で、書いたことがあります。6年前のことでした。思い出の卒論の調査地に行こうとしたのですが、下流側の静内ダムで通行止で入れませんでした。
 私の調査地は、上流側の高見ダム周辺とさらに上流でした。今回は、上流にいく時間がなかったので、思いを馳せるだけです。
 静内川の上流域は人跡も少ないところで、かつては川を遡上していく道はありませんでした。高見地区という集落があったのですが、南の三石の元浦川から、林道を通ってしか入ることができない秘境というべきところでした。
 私が卒業研究で調査に入ったのは、1979年の夏でした。高見ダムの工事の真っ最中でした。1978年から工事がはじまり、1983年7月30日にダムは完成しました。当時は「奥高見ダム」という名称でしたが、現在は高見ダムとなっています。「奥高見ダム」という名称は、高見という地区よりさら上流にあたるために、つけられた名称です。しかし、後に只見川にある「奥只見ダム」と混乱を避けるために、「高見ダム」に変更されたようです。
 私が入った頃には、ダム工事が本格化していましたので、静内川沿いに立派な道ができていました。道路は舗装こそされていませんでしたが、立派な道路がありました。ダムサイトは、2車線もある立派な道でした。ダンプや大型作業車がいっぱい走ってホコリを舞い上げていました。ホコリがたたないように、一日に何度も散水車が往復していましたが。
 ダムサイトにいる限り、多くの人がいて、作業車も動き回っているので、人里はなれたところにいる気配はしませんでした。売店もあり、簡易郵便局もガソリンスタンドもあり、ちょっとした村並でした。ただ、一歩奥まったところにいくと、そこには手付かずの自然が残されていました。私は、原付バイクで沢沿いを調査をしていました。そんな沢では、野生も身近にありました。エゾシカはもちろん、エゾクロテンやヒグマなどとの遭遇もありました。
 ダム現場から静内の街まで用事で往復するためには、原付バイクでは半日仕事になり、奥地にいることを実感させられました。そんな奥高見のダムの作業飯場に3ヶ月泊めていただき、調査をしました。
 このエッセイを書くために、当時の私の卒業論文「静内川中流域、高見周辺の緑色岩類について」を読み返しました。手書きで書かれた卒論は、本論が102ページ、付録として「オフィオライト問題について」が31ページありました。読み返すまで、細かい内容は殆ど覚えていませんでした。しかし読み返していくと、作成当時の苦労や、それなりの達成感など、いろいろ思い出しました。そして、この卒論の野外調査は、私が地質学の道を目指すきっかけとなったものでもあります。
 静内川の高見ダム周辺には、オフィオライトと呼ばれる岩石がでます。当時は海洋地殻を構成していた玄武岩は、変成作用を受けて、緑色になっていることが多く、緑色岩類というフィールドネームが、そのまま論文でも使用されていました。
 卒業研究の少し前までは、変成作用のせいではなく、緑色岩(スピライト、spirite)や輝緑岩(diabase)、ケラトファイア(keratophyre)と呼ばれる岩石を形成したマグマが存在していたと信じられていました。今では、スピライトは変成作用を受けた玄武岩で、輝緑岩はゆっくりと冷えて粗粒になった玄武岩(ドレライトとも呼ばれます)、ケラトファイアは変成作用を受けた酸性火山岩類であるとされています。私が卒論を書く頃には、そのモデルがやっと浸透する時期でもありました。
 そのころ、もう一つ重要な話題がありました。卒論の付録にあったオフィオライトに関する成因についてでした。スピライト問題は過去の間違いを正す議論でしたが、オフィオライト問題とは、未来に向かった議論でした。
 オフィオライトとは、海洋底を構成する岩石(海洋プレート側の岩石)で、プレートテクトニクスの作用で陸地の中(大陸プレート)に取り込まれたものです。ただし、この考えは当時広まってきた見解で、スピライト問題の反省から、すべてのオフィオライトは海洋地殻の断片であるという考えに先進的な研究者が囚われていました。ですから、オフィオライトをみれば、充分な検討もなされず、すべて海洋地殻起源と短絡的に考えられていました。
 オフィオライトの典型的な分布地としてキプロス島のトルードス・オフィオライトがありました、その起源について論争が繰り広げられました。すべてのオフィオライトは海洋底でできるという考えに異論が唱えられたのです。
 異を唱えた研究者、それは故都城秋穂さんでした。都城さんは、化学組成に基づいて、マグマの起源(形成場)を考えていこうとしました。化学分析値、現在の列島のマグマや海洋底のマグマなどのデータを集めて、形成場の違いによってマグマの組成が同変化するかをグラフとして示しました。非常に客観性のある分かりやすい姿勢でした。都城さんの論文は数々の議論を呼び、都城さん自身も何度も反論を受けて立たれました。その一連の議論をまとめたものが、卒論の付録でした。議論の結末は、現在では、都城さんに軍配が上がったと考えられています。
 この議論以降、化学組成に基づいてグラフにプロットして形成場を考えるという手法が、通常の手法として、広く使われるようになりました。さまざまな化学組成によって、いろいろなグラフが提案されています。
 当時の私がいた大学では、緑色岩が玄武岩マグマに由来するものとか、海洋地殻の構成岩石であるということも認めていない先生もおられました。私は、それらの説を覆すために、深海底でできた証拠、玄武岩マグマに由来すること、海洋の玄武岩に似ている証拠などをいろいろ探しました。卒論当時、化学分析をすることはできかなったので、決定的証拠を出すことはできませんでした。今では、当たり前に化学分析をして、簡単に決着を見ることができるのでしょうが、当時はそれもできませんでした。隔世の感があります。
 ダム工事も終わり、立派な道路があったのですが、高見ダムは、現在、再び秘境の地になりました。というもの、静内ダムより上流への道は通行止めとなっているためです。2003年に発生した十勝沖地震で、道路ががけ崩れで破損したそうですが、復旧されていないためといわれています。しかし、ダムの保守の人はどうしているのでしょうか。人事ながら心配です。河口から上流の秘境に思いを至らせる旅でした。

・ペテガリ岳・
静内川の上流には、
ペテガリ岳という山があります。
その山自体も上り下りが激しく
途中の眺望もあまりよくなく、
過酷な登山になります。
私も卒業研究のとき、
一日ペテガリ岳への登山をしました。
大変疲れましたが、
無事登頂をして帰ってきました。
ところが、今では、非常のアプローチの長い
川の渡渉が必要な難しいルートになっているようです。
私が調査していたことには、
ペテガリ山荘という無人の山小屋があり、
そこまで車で入ることができました。
山荘からペテガリ岳へは日帰りできるルートでした。
地質の巡検でも、ペテガリ山荘をベースにして、
地質学者を何度か案内したこともありました。
でも、今ではそれもできなくなりました。
非常に素晴らしい景観の秘境を手軽に楽しむことができました。
それも遠い過去の事になりました。

・夏休みの計画・
7月も半ば、夏休みの計画は立てられたでしょうか。
我が家の夏休みの旅行はできそうもありません。
私の大学の仕事が8月第1週まで定期試験があります。
その後、採点と評価があります。
でも提出はお盆明けですので時間は取れそうです。
ところが、長男がクラブあり、
さらに10日には日韓試合の観戦をするので、
お盆前には出かけられそうにありません。
お盆明けは、学校にが始まります。
お盆に動く気がしません。
さあ、どうしたものでしょう。
近くの川か海の穴場にでも、
ゲリラ的に日帰りで出かけましょうか。