2012年4月15日日曜日

88 鴨川デルタ:盆地と断層


今回は、京都の鴨川の川原から眺めた盆地の生い立ちについてです。盆地は、なぜ、盆地であるのか。時間が経てば、盆地は埋め立てられ、くぼみが消えていくはずです。しかし、今ある盆地は、低まりを維持しています。盆地の謎について考えました。

春休みに京都の実家へ帰省しました。私は一昨年から昨年にかけて、四国にサバティカル中に何度か帰省しましたが、家族は2年ぶりの京都となります。帰省したときは、いいチャンスですから、近郊をみて回ることにしています。今回は、大阪、京都、奈良へ出かけました。手軽に見てまれるところをまわり、何度かの帰省で、結構あちこち行っています。また、長男が研修旅行で京都、奈良、大阪の主だったところを見ているので、あまり選択肢はなく、見たいところをじっくりまわりました。大阪では通天閣と天王寺動物園を、京都では京都大学周辺を、奈良では奈良公園周辺でした。奈良公園は3度目になります。
そんな家族サービスが増えてきたため、なかなか自然の多いところ、露頭のあるところをみるチャンスは減ってきました。今回は京都の観光地のはずれの川原、鴨川デルタからのエッセイです。
京都は長く都として、政治や文化の中心となっていました。多くの人や富が集まり、海外や国内からの大量の物流がありました。京都は内陸の盆地にできた街なので、輸送経路として河川は重要となります。その動脈ともいうべき河川は、淀川でした。京都盆地へは、淀川の支流が利用されました。
かつて河川は運輸の動脈として利用されてきましたが、今では輸送路としての役割は終わりました。近年では、上道の水源や下水の排水路としての役割があります。また、災害を出さないたいめの治水も重要とされています。しかし、なんといっても、河川沿いは自然が豊かなので、憩いの場となります。
京都盆地には、大きな河川として西縁を流れる桂川と、南縁を流れる木津川、盆地を東から西に横切る宇治川があります。それらの河川が盆地の南西で合流して、淀川になります。淀川は、大阪平野の横切り大阪湾に流れ込みます。京都盆地の東側は、桂川の支流になる鴨川があります。京都の中心街は、桂川と鴨川に挟まれたところになります。
鴨川は、北西から流れてくる賀茂川、北東から流れてくる高野川が出町柳で合流したものです。鞍馬は、比叡山電鉄鞍馬線で高野川沿いに登っていくので、高野川の上流にあるように思えますが、鞍馬川は賀茂川に流れ込む川で、水系が別になります。高野川は、八瀬(やせ)から大原、そして滋賀へと遡れます。山あいでは、高野川はまっすぐな流路をとります。
賀茂川と高野川の合流部は鴨川デルタと呼ばれています。鴨川デルタは、三角形をしていますが、地理学でいう三角洲(デルタのこと)ではありません。
賀茂川も高野川も、盆地から上流は、険しい山あいを流れます。川は、急傾斜で狭隘な谷から、広くなだらかな京都盆地に出てきます。浸食・運搬から堆積へと、川の作用が変わります。盆地では、河川からの堆積物がたまり、より平坦な堆積平野を形成します。これが、京都盆地が成立した基本的な自然条件となります。
盆地がくぼちであり続けるためには、低くなりつづけている必要があります。相対的に見て山が高くなり続けるか、盆地が下がり続けるか、あるいは別の何らかの要因が必要になります。盆地があり続けるためには、要因は今も作用していなければなりません。
盆地とは、周りと比べて低くなっているところです。そのためには、高低差を生む必要があります。高低差は、岩石の浸食に対する強さによって形成されることがあります。もしそうなら、日本の地質は東西方向に伸びることが基本(注1)となっていますので、盆地も東西方向に延びたものになるずです。
ところが、京都盆地や周辺のくぼ地(琵琶湖、奈良盆地、大阪平野)などは、おおまかに見ると南北に伸びています。地質の並びとは明らかに違う形態となっています。ですから、地質以外の何らかの別の作用が、日本列島の営みとして、働いていることになります。地質構造を切るように高低差を生む作用が、断層なのです。
断層には、一度動いただけでその後は動かないものや、何度も活動しているものもあります。断層は規模もさまざまで、長さ(セグメントと呼ぶことがあります)も、顕微鏡サイズから、数百kmに達するものまでいろいろあります。現在も活動中の断層は、活断層と呼ばれます。断層の中には、地震を起こすもの(起震断層)や、地震によって形成されたもの(地震断層)もあります。活断層は、最近活動して、今後も活動する可能性のある断層とされています。最近とは難しい問題をはらんでいます。活動の期間はさまざまなものがあるのですが、下の注で示した活断層のデータベースでは、約10万年前以降の断層を扱っています。
盆地の縁には、現在も活動中の断層があることがわかります(注2)。複数の一連の活断層が、盆地の縁にあります。大きな活断層は、両側の地質も違っています。
京都盆地の東側の断層は、花折(はなおれ)断層(起震断層とされています)の一部で、北白川活動セグメントと呼ばれています。花折断層は、京都盆地から滋賀県西部まで延びている断層です。この断層にそって高野川は流れているため、山あいの流路がまっすぐだったのです。
花折断層は、右横ずれ断層だということがわかっています。右横ずれ断層とは、断層のどちらか側に立って見た時、断層の向こうの大地が右か左のどちらに動くかで判別します。花折断層は、京都盆地側からみると、山側が右(南)に向かって動くことになります。
花折断層はの東(山側)には、比叡山から大文字山にかけて山側に花崗岩(後期白亜紀の領家帯に属します)があります。明らかに違った地質です。活断層の変位以上の変化が起こっていると考えられます。花折断層は、今でこそ右横ずれの変位が大きのですが、盆地の形態を考えると、かつては上下方向のずれを生じていたはずです。
京都大学の裏、吉田神社のある吉田山は、100万年前くらいに盆地で溜まった地層が、断層で切られて持ち上げられたものです。
盆地の地下を調べると、十条あたりでは地下200mに、盆地の南端では700mあたりに基盤となる硬い岩石があることがわかっています。その上に、先ほどの吉田山と同じ100万年前くらいの地層がたまっています。80万年前の火山灰が地下240mでみつかっています。100万年ほどは、このような高低差をつくる活動が継続的におこっていると考えられます。
30万年前以降に変動が激しくなったと考えられていますが、それにしても、平均すれば年間1mmに満たないほどの小さな変動になります。しかし、大地は平均的な運動をするのではなく、断層を形成するような地震によって、あるとき一気に数mの変動が起きたはずです。盆地は、地震によってできた断層で、くぼみが維持されていることになります。現在の活動に隠れた歴史があったです。二重三重の複雑さが、京都盆地にはありそうです。
今回は子供たちの希望で、鴨川デルタや吉田神社、京都大学などに行くのが目的でした。万城目学の「鴨川ホルモー」の本や映画をみて、興味をもったようです。でも京都盆地形成の背景に、そんなダイナミックな歴史があったことには、気づかなかったのでしょうね。

(注1) 地質図は、産業技術総合研究所 地質調査総合センターの「20万分の1日本シームレス地質図」
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/db084/index.html
から見ることができます。
(注2) 活断層は、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの「活断層データベース」
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/activefault/index.html
や、シームレス地質図ラボ(http://gsj-seamless.jp/labs/)の
http://gsj-seamless.jp/labs/activefault/fault1.html
で見ることができます。このデータベースは2005年に公開され、2011年の3.11の地震以降にも多くのデータが付け加えられ、2012年2月に更新されています。

・八咫烏・
鴨川デルタの上流には、下鴨神社があります。
下賀茂神社は、2つの国宝、53の重要文化財、
参道の糺(ただす)の森も国指定の史跡です。
1994年には世界文化遺産に登録されました。
下賀茂神社は八咫烏(やたがらす)を祭っています。
八咫烏は祭神のひとつの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が
化身したものとされています。
八咫烏はの日本サッカー協会のシンボルマークにされ、
現在は必勝の守護神とされています。
もともと和歌山県の熊野那智大社の祭神が
八咫烏であったためだそうです。
下賀茂神社の境内にある末社の河合神社には、
Jレーガーのサイン入りのサッカーボールが
いくつか奉納されていました。

・ヌートリア・
鴨川デルタを歩いていると
ネズミよりずっと大きな獣が水の中を泳いでいました。
私は、カピバラかと思いましたが、
次男はカワウソだといってました。
調べると、ヌートリアのようです。
第二次大戦頃、毛皮を取るために
大量に持ち込まれ、飼育されていたようです。
戦後、需要がなくなったときに、
飼育していたものを放たれたようです。
野生化して、今では環境省指定の特定外来生物になっています。
自治体で駆除していますが、
なかなか減らないようです。
見かけが似ていますが、
ヌートリアはネズミの仲間(齧歯目)ですが、
カワウソはイタチやネコの仲間(食肉目)です。
次男にカワウソでなかったと
説明しなければならないようです。