2013年4月15日月曜日

100 ひすい峡:自然と人の守り

 ヒスイといえば青梅(おうみ)や姫川が、産地として御存知の方も多いでしょう。糸魚川周辺の土産物屋さんでも、販売しています。今回は姫川の上流、ひすい峡のヒスイの話です。ヒスイの巨大な転石をいくつも見ることができます。その巨石が、そこに存在し続けているのは、自然の妙と人手によっていました。

 「翡翠」と書いて、「カワセミ」と読みます。もうひとつの読みとして「ヒスイ」があります。色の綺麗な鳥のカワセミです。「翡」はオスのカワセミ、「翠」はメスのカワセミを指しているそうです。古代中国では、翡翠といえばカワセミを指していたのですが、時代が下るについて、石のヒスイを意味するようになってきました。ヒスイの色合いが、カワセミに似ていることに由来しているのではないかとされています。
 ヒスイは、世界各地で古くから宝石として利用されていました。神秘的な半透明さと緑がかった色合いからでしょうか、東洋では「玉(ぎょく)」と呼ばれて、珍重されてきました。
 古代日本でも勾玉(まがたま)として、ヒスイは利用されてきました。しかし、勾玉が作られなくなってくると、ヒスイやその産地は忘れさられてしまいました。1938(昭和13)年に、新潟県糸魚川市、姫川(ひめかわ)の支流である小滝川のひすい峡からヒスイが再発見されました。
 発見にまつわる経緯は、フォッサマグナミュージアムの「よくわかるフォッサマグナとひすい」という冊子に、いろいろ紆余曲折があったと紹介されています。現在の結論からすると、糸魚川市生まれの歌人、詩人の相馬御風(ぎょふう)氏の助言によって、小滝村在住の伊藤栄蔵氏が小滝川の上流を調査して発見しました。最初、土倉沢との合流にある滝壺の中からヒスイが発見し、その後ひすい峡の巨大ヒスイが発見されています。
 ひすい峡は、1569(昭和31)年、国の天然記念物に指定されました。日本で最初に発見されたヒスイの産地として記念、保護されました。実際には古代人が見つけていたので再発見になります。しかし、科学的な記述がされていますので、これを発見としていもいいのでしょう。
 ひすい峡は、「学習護岸」となり、今でもヒスイの巨大が転石をみることができます。指定区域以外のヒスイは、採取かのうですが、採り尽くされているようで、ほとんど見つからなくなったようです。ところが、指定されているひすい峡では、巨大なヒスイの転石が多数集まっていて、今でもみることができます。
 昨年秋に、ひすい峡を訪れました。小雨の降るなか、案内板にしたがって巨大ヒスイをみました。先客もおられたのですが、私と入れかわりだったので、一人でじっくり見ることができました。巨大なヒスイの転石は、なかなか壮観でした。
 ひすい峡の北側には大岩壁があり、威圧感のある景色となっています。岩壁は石灰岩でできています。石灰岩は巨大な岩体で、北へ日本海まで続いています。小滝川は、この石灰岩の岩壁に挟まれた狭いところを流路としています。
 岩壁の少し上流にヒスイの巨大転石がいくつかあります。ヒスイの転石は、上流(西側)から流れてきたのものではなく、北にあるサカサ沢から崩れてきたものだそうです。もともとは蛇紋岩の中に取り込まれたブロックとしてあったと考えられています。
 蛇紋岩は、侵食に弱く、すぐに崩れてしまう性質があります。蛇紋岩が、何度も地すべりによって小滝川に崩れてきました。そのたびに、蛇紋岩自体は、水に洗われ流れさったのですが、堅固なヒスイはそのまま残ったようです。蛇紋岩の地すべりが繰り返されたので、巨大なヒスイの転石が集まったのだと考えられています。
 蛇紋岩の地すべりによってヒスイが集められ、下流の石灰岩の岩壁によって狭められた流路によって、大きなヒスイが流れる出ることなく、ひすい峡に留まったのでしょう。いい条件がそろっていたから今の景観があるのでしょう。
 一方、道路からのアプローチとしてある「学習護岸」が、あまりに大きな規模で、周りの景色にそぐわず、不思議だったのですが、そこにも経緯があったようです。
 小滝川の南側にあたる赤禿山周辺も地すべりの激しいところで、斜面が全体が地すべり堆積物でできていました。1990年代に、その地すべり堆積物が動く兆候がありました。天然記念物の産地やヒスイの転石を、地すべりの被害から守るために、大規模な護岸工事をおこなわれました。これおが、「学習護岸」の由来です。今では、いろいろな時代の岩石、いろいろな種類の岩石をならべて、学習できる護岸となっています。道もよくなり、だれでも気軽にここまで来ることができるので、巨大なヒスイを見ることができます。
 さて、ヒスイの地質学的な話もしておきましょう。
 ヒスイは、ヒスイ輝石という鉱物を指しています。見かけが似ているネフライトと呼ばれる鉱物も、古くからヒスイと呼ばれてきました。しかし、古くからその違いは知られていて、ヒスイ輝石を硬玉と呼び、ネフライトを軟玉として区別されてきました。
 ヒスイ輝石もネフライトも小さな結晶の集合体になっているため、割れにくく、衝撃にも強いという特性、「靭性(じんせい)」を持っています。ダイヤモンドは硬度はあるのですが、ある方向からの衝撃には弱いという性質もあります。ヒスイには靭性があることから、玉として珍重されたのでしょう。
 ヒスイ輝石は、ナトリウムやアルミニウムを含む輝石(化学組成:NaAlSi2O6)であるのに対して、ネフライトは、カルシウムと鉄、マグネシウムを含む角閃石(化学組成:Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2)の一種です。ヒスイ輝石とネフライトは、鉱物学的にはかなり違う結晶です。そのため、物性も違っています。ヒスイ輝石が硬く(モース硬度:6.5から7)、重く(比重:3.25から3.35)、ネフライトはやや柔らかく(モース硬度:6から6.5)、やや軽く(比重:2.9から3.1)なっています。もちろん、少しの差ですので、両者はよく似ています。
 ヒスイ輝石は低温高圧の条件でできる鉱物です。そのような条件は、海洋プレートの沈み込みむ、日本列島のような地質環境の深部で形成されます。それが蛇紋岩に取り込まれて上昇してきたと考えられています。蛇紋岩の上昇地帯も、よく日本列島にはよくみられます。日本列島は、ヒスイがあってもいい場所といえます。
 姫川だけでなく西の青梅(おうみ)川や、その周辺から富山県にかけての海岸でも見つかっています。日本では、兵庫県、鳥取県、静岡県、群馬県、岡山県、熊本県などからもヒスイが発見されています。いずれも、かつての沈み込み帯であったと考えられます。
 蛇紋岩に含まれている変成岩類の年代が3億から4億年前だったので、ひすい峡のヒスイも同じ頃にできたとされていました。最近、2つヒスイの中に含まれている小さな鉱物(ジルコン)の年代測定がされました。これは、厳密にヒスイの形成年代を示していることなります。約5億年前(5億1900万年前と5億1200万年前)という年代が求められました。別々のヒスイから似た年代が得られたということは、ヒスイの年代が、他の変成岩の年代より明らかに古くなります。ヒスイの由来は、他の変成岩とは違って、より複雑な履歴があったことになります。
 そうなると、いくつかの疑問が出てきます。変成岩にも、もっといろいろな年代に形成されたものがあるのではないか、ヒスイにも、もしかしたらもっといろいろな年代があるのではないか、時代の違う岩石がどうして地表で混在しているのか・・・・。それは、今後の研究によって明らかになってくるでしょう。
 ひすい峡の巨大なヒスイは、自然の采配ともいうべき地質や地形によって集まり、流れることなく守られています。さらに、巨大なヒスイが土砂に埋もれることなく、人手によって保存されています。これからもずっと守られてほしいものです。
 保護区域以外のところは、ヒスイはかなり採り尽くされていますが、海岸ではまだ見つけることができるようです。海が荒れたあとには、海岸にヒスイが打ち上げられといいます。昔、川から海に運ばれたヒスイを含む礫が、海岸付近に堆積します。ヒスイ以外の岩石は、長い間、波に洗われると、けずられて小さくなって、やがては海流でどこかに運ばれます。ヒスイは硬いので、摩耗をあまりしないため、海岸付近の海底に残っているのでしょう。海底に長年にわたって溜まったヒスイが、嵐があるたびに、打ち上げられるのでしょう。ただし、今では海岸のヒスイは人が拾って帰ります。「人手による侵食」が海岸では進んでいます。こうして、限りあるヒスイが消えてきます。これもヒスイが神秘的できれいだからでしょう。
 土産物屋さんで、姫川の大型の標本と、ヒスイの小粒をいくつか買ってきました。海岸では、いくつかのヒスイらしきものを拾ってきましたが、本当にヒスイでしょうか。手にした小さいなヒスイのかけらから、自然の妙を感じることができます。

・海底ヒスイ・
糸魚川の沿岸では、船で海底のヒスイを採取しているのでしょうか。
それとも何かの工事だったのでしょうか。
海岸のすぐ脇に、小舟があり、
どうも潜水士が潜って作業をしているようでした。
ヒスイ採取では採算が合うとは思えない陣容なので、
なんらかの工事だったのでしょう。
自分も含めて海岸でヒスイを探す人がいるので、
ついそんな想像をしてしまいました。

・春まだ浅く・
大学の春は、入学式と新学期の授業の開始からです。
ところが、暖かくなりかけてきたと思ったら、
氷がはったり、雪の降る寒い日が訪れます。
まるで、3月中旬の天候のようです。
今年の春は遅いのですが、でも着実に訪れています。
早く、春の森を散策したいものです。