2013年9月15日日曜日

105 三内丸山:縄文への旅

 このエッセイでは、各地の地質や地形を紹介していますが、過去への旅を紹介しましょう。そんな気持ちを味わわせてくれる遺跡を見学しました。三内丸山遺跡です。今回は縄文時代に視点を移してみましょう。

 9月の上旬、校務で青森に出張しました。昼で校務が終わり、飛行機が夜の便だったので、午後から時間があきました。校務のあったホテル前から巡回バスがあったので、三内丸山遺跡にいくことにしました。少々蒸し暑い日だったのですが、幸い雨は降らずに、野外の遺跡を見ることができました。
 市街地は青森湾に面した平野に広がっています。三内丸山遺跡は、市街地から南西側へ少し登った丘に広がっています。遺跡は、青森平野を見下ろすところにあります。三内丸山遺跡では、縄文人の暮らしに関する興味深い知見が多数わかってきました。いろいろ語るべきことはあるのですが、縄文人の暮らしに焦点をしぼって見ていきましょう。
 三内丸山遺跡は、縄文前期から中期(5900~4000 B.C.)にかけての集落の跡です。1900年間にわたって定住生活が営まれた集落の遺跡です。時期としては、4大文明がはじまる直前のころでもあります。
 三内丸山遺跡は、6本の巨大な柱がシンボルといえるでしょう。この柱は、16mほどの高さがあり、ここを訪れた人はその大きさに圧倒されはずです。この柱が象徴しているのは、縄文人の暮らしが豊かであり、文化も高度であることではないでしょうか。
 この柱は復元されたものです。復元は、科学的根拠に基いてなされています。
 柱の一部、根っこの部分が残っていて、その大きが直径1mもあったことがわかります。木は腐らないように、焦がしてありました。柱の下面は石斧で削って整えられていました。巨大な柱ですが、繊細な加工がされていることが、高い技術と蓄積された知識、職人の技があったことを示しています。
 柱が埋まっている穴の深さは2mほどで、穴の直径は2.2mも広く掘られています。そこに柱を立てて、土砂で叩いて固定しています。土の固まりぐあいから、上にかかっていた加重がわかり、柱の高さも推定されています。各柱の間隔は4.2mで、柱は互いに向き合うように内側に少し傾いています。
 このような科学的データに基いて、6本の柱の復元がなされています。しかし、遺跡は柱の穴と根っこの部分だけで、上部構造は残っていません。どのような目的のものであったかは、推測の域をでません。建物であったのか、それとの象徴的に柱を立てていただけなのか。いろいろな説があるようですが、現在は、建物説に基いて、3層の高床式構造で復元されています。まだ屋根はできていないのですが、現在も復元途中であるためだそうです。
 6本の柱は、ロシアからクリの巨木を輸入して、現在の技術や重機を用いて再現されています。縄文時代は知恵と、動力は人手による人海戦術しかありません。ある建築会社の推定によると、大人200人ほどの協力がないと作ることができないとのことです。それだけ力をあわせ、労力をかける必然性があったのでしょう。
 立っている巨大な6本柱は、現代人が見ても圧倒されます。巨大な建築物を見慣れている現代人がみても驚くのですから、縄文人も同様かそれ以上に心を動かされたことでしょう。そこには、どんな意匠や意図が、込められていたのでしょうか。
 こんな巨大な建築物は、生活に必要なものではなさそうです。多分、巨大な建築物をつくる必然性を、縄文人は持っていたのでしょう。シンボル、宗教、あるいは現代人が知りえないなんらかの目的のために、多大な労力とはらったことになります。強力な指導力や団結力、あるいは強い信仰などが、背景にあったことになります。
 遺跡内には、遺跡を現場保存したものだけでなく、6本柱のように復元物もいくつもあります。6本柱についで、巨大な竪穴住居が圧巻です。長さ32m、幅10mのもの空間をもつ、太い柱が何本も並んだ長く広い建物が復元されています。少し掘りこまれているので竪穴式になっています。この建物は、共同作業をするため、あるいは共同生活をするためだと考えられています。しかし、本当のところはなんのためのかわかっていません。でも、この縄文の集落では、重要な役割を果たしていたはずです。
 縄文人が何を食べていたのかは、遺跡のゴミ捨て場から発掘からわかります。ムササビやノウサギなどを狩猟していたことがわかります。まさに縄文時代の暮らしにふさわしいものです。日本のもっと南方の縄文遺跡では、シカやイノシシが狩猟対象ですが、ここでムササビがたくさん食べられていたのは、地域性を反映したためでしょう。ブナの深い森が周りには広がり、多数のムササビが生息していたのでしょう。非常に豊かな森があったことがわかります。
 稲作こそしていませんでしたが、クリやクルミ、一年草のエゴマやヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった植物を栽培していたことがわかります。クリのDNAの解析から、多様性が少なく収斂していることから、長年栽培されていたと考えられています。村の周りには栗林が畑があったようです。
 実際に大きなクリの木を利用して6本柱などをつくていますので、林業や畑作もおこなっていたことになります。人手の入った林や畑が集落の周辺にはあり、その周囲には豊かな森があったのでしょう。
 また、サメやブリなどの海の魚も多数食べていたことがわかります。当時は今より暖かく海進があったので、海岸線がもっと近くまできていたはずです。サメやブリなどの海での漁ももっと近くでできたいたことが想像でします。ブリは大量にとれ、サメも大きいので、保存食としての役割を担っていたのかもしれません。
 果実酒を大量に作った痕跡も見つかっています。行事や儀式の日には、酒が飲まれて陽気に騒いでいたのでしょう。
 このような縄文人の食生活を見ていると、現代のようにコメやパンはないですが、かなり豊かな暮らしをしていたことが想像できます。現代人の口にも合ったのではないでしょうか。
 装飾品や道具も、多数発掘されています。平板の土偶も多数ありました。それらの素材として、ヒスイは富山県糸魚川から、コハクは岩手県久慈から、ヤジリを固定するのに用いられたアスファルトは秋田県から、黒曜石は北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰などからもってこられたことがわかっています。
 これらの素材は、縄文人が海を越え、あるいは海岸を伝って、広域で交易をしていたことがわかります。交易を生業とする専門家もいたかもしれません。東日本の各地の必需品や名産品を、交易していたことがわかります。ヒスイは産地が限られれているので、貴重であったはずです。ヒスイは装飾のためものですが、物々交換として相応の対価をはらったのでしょう。ここに住む人は、それほど余裕があり豊かであったことがわかります。そして装飾品をどうしても手に入れたいという、現代人に相通じる気持ちがあったようです。
 村には墓があり、大人の墓はメインストリートを挟むように両側に並んで整然とつくられています。500ほどの墓が発掘されています。道には側溝もあり、堆積物が重なることがないことから、常に維持され、清掃や手入れがされたいたことがわかります。子供の墓は、村の住居近くにあります。盛り土や環状列石などの装飾もされいたことから、死者を葬り、祭り、愛しむ気持ちもあったはずです。
 この集落は、長い期間、統一がとれ、きれいに整備され、人々も穏やかに、そして豊かに暮らしていたことが想像できます。小さい集落ですが、長く維持されたということは、縄文人がこのような集落を維持できる知性や文化レベルをもって、周辺の集落と協力して平和を維持していたことを意味します。多分、現代人と勝るとも劣らない能力をもっていたと考えられます。
 縄文時代の暮らしは、今より自然を身近に感じて生きていたので、雪や寒さなどの厳しさは住居や火、衣類と体力で耐えいたはずです。豊かで好奇心を満たせる暮らしであったことが想像できます。現代人がそこに入っていっても、それなりの満足感をもって暮らせたかもしれません。いや、現代の慌ただしい、金銭にしばられた暮らしを厭う人にとっては、ここの暮らしの方が過ごしやすいかもしれません。
 縄文人は、2000年近くもここに暮らしていたのですから、オアシス、楽園のようところだったのかもしれませんね。

・古くから知られる・
三内丸山遺跡は、江戸時代から知られている
有名な遺跡だったようです。
青森県が1992年に野球場を建設するときに
事前調査をしました。
その時、大規模な遺跡があることがわかり、
野球場建設を中止しました。
遺跡の発掘し、保存をすることにしました。
それが現在、三内丸山遺跡として
国の特別史跡に指定されています。
発掘は現在も続いているので
新たな発見も今後も続いていくでしょう。

・共同作業・
三内丸山遺跡は、保存するためだけでなく
大きな施設での展示も充実しています。
遺跡の中では、縄文時代の建物を復元しています。
復元作業は、市民たちがボランティアとして
共同してつくっているところも特徴です。
これは、この遺跡がかつて持っていた
精神に相通じるものでもあるかもしれません。
つぎつぎと新しい建物が復元され
増えていく野外展示となっています。
なかなか工夫が凝らされています。
そして、見応えのある施設でもありました。