2013年12月15日日曜日

108 日の岬:夕日の枕状溶岩

 和歌山県の日の岬に枕状溶岩を見に行きました。何度も探した末に露頭を発見しました。もともと赤茶けた色の枕状溶岩は、夕日を浴びて、ますます地味な色合いになっていました。きれいなものではありませんが、発見の感動は大きいものでした。

 私は、野外で石を見るときは、資料を参考にしながら、一人で見てまわります。それには訳があります。
 地質関係の学会は、毎年、いろいろな場所で持ち回りで開催されます。学会の前後に、案内者つきで地質を見て回る巡検という行事があります。巡検を利用すると、代表的な岩石や露頭を効率的に見ることができます。その地を研究している専門家が案内してくれますので、さまざまな議論や最新情報を得ることができます。いいことずくめのようですが、私は、最近利用していません。
 自分が見たい時と学会がある時期とは一致しません。大学の校務の関係で、私は不規則な予定でしか調査の日程がとれませんので、学会の巡検ではなく、一人で見ることをし続けています。個人で行くことにも、それなりのメリットもあります。自分の予定で、好きなだけ、納得するまで見ることができます。必要なら、翌日も同じ所を見ることだってできます。
 ただし、位置が大雑把にしかわからない場合、その場所を見つけることができないことや、楽なルートがあったのにヤブの中を歩いていったりとロスも多くなります。目的の場所にたどりつけないこともあります。探して見つからなかったときは、再訪して露頭を探すこともありました。
 和歌山県日高郡美浜町には、日高川の河口付近から329mの西山、そして紀伊水道に突き出た日の岬などがあります。今回の目的地は、日の岬の付け根にあたる煙樹ヶ浜の近くです。
 まずは、日の岬に向かいます。国道42号線あるいは阪和自動車から外れて西に向かいます。そこにある国民宿舎をベースに、9月に調査をしました。2009年にもこの地に来て、この宿舎に泊まったことがあるので、土地勘がありました。以前来たとき、露頭が見つからずに断念したことがあるところなので、その露頭を探すことも目的でした。
 今回も、日の岬に到着早々、その露頭がありそうな場所をいくつか探しました。でも、見つかりませんでした。資料では位置が大雑把にしか示されていないため、正確な場所がわかりません。翌朝も探したのですが、見つからず諦めていました。次の日は別の場所に移動するので、夕方最後のチャンスで、新たな場所を探しました。道路脇から、狭い道を入りましたが、奥には人家もあり、広い原っぱに駐車もできるようなところありました。原っぱから、海岸に出る道もありました。その海岸を歩いていると、夕日を浴びている赤っ茶けた露頭がみつかりました。それが探していた露頭でした。何度かチャレンジしてやっと見つけたときの嬉しさは、格別でした。
 もったいぶっていいましたが、その露頭は枕状溶岩です。枕状溶岩は、このエッセイでも何度も取り上げていますし、今回見つけた露頭は、特別きれいなものでもありません。そのため案内書でもあまり重要視されていなかったようです。私自身、きれいな枕状溶岩は、これまでいくつも見ています。しかし、何度からチャレンジでやっとたどり着いたという達成感は、今までの枕状溶岩の中でも、随一かもしれません。
 さて、この枕状溶岩ですが、玄武岩が海底で噴出したものです。海洋プレートの一部として形成されたものが、海溝に沈み込む時に、陸側(日本列島)にはぎ取られたものです。付加体とよばれるものです。付加体がつぎつぎと形成されると、古い付加体は陸側に押しやられ、押し上げられて地表に顔をだします。
 日本列島は、いろいろな時代に形成された付加体からできています。太平洋側に向かって付加体のできた時代は新しくなります。付加体の中では、四万十帯とよばれるものが一番新しいものです。
 四万十帯は、いくつかの付加体、地層に区分されています。北(陸側)から、日高川層群(日高川帯と呼ばれることもあります)、音無川(おとなし)層群、牟婁(むろ)層群となります。それぞれの地層境界には、大きな断層があるため、区分されています。日高川層群と音無川層群に間には御坊-萩(あるいは十津川)断層、音無川層群と牟婁層群の間には本宮-皆地断層があります。
 枕状溶岩を含む付加体は、日高川層群になります。枕状溶岩を含む地層は、一番海側にあたり、すぐ南の海には坊-萩断層が通っています。岬になっているのは、断層の影響があるのでしょう。日高川層群の中ではもっとも新しくできた付加体になります。日高川層群の中には、海洋地殻(枕状溶岩)だけでなく、深海底に堆積した生物の遺骸からできたチャート(層状になっています)や、暖かい海の海山や海洋島にできるサンゴ礁に由来する石灰岩なども含まれています。一方、陸から川によって運ばれた土砂による堆積物もあります。これらの陸源の堆積物は、海溝付近にたまったものなので、付加した時代にもっとも近い年代となります。通常、付加体の形成年代とされています。
 日高川層群の付加した時代、つまり付加体の形成年代は、白亜紀後期です。付加体の中には、ジュラ紀から白亜紀前期にできた、より古いチャートや石灰岩が含まれています。
 これらの付加体の堆積物や、その中にある海洋でできた岩石類の時代を調べていくと、付加体の形成史、あるいは日本の形成史が解明できます。時代を決めるためには、化石を見つけなければなりません。チャートには大型の化石はなく、陸起源の堆積物にも非常に少なく、付加体の詳細な年代を調べることはできません。海洋起源の石灰岩には化石がありました。その年代は、サンゴ礁ができた年代であって、付加体が形成された年代ではありません。かつては石灰岩の年代が、地層の年代とされ、非常に古いものだとされていました。
 付加体の年代を決めるのに用いられたのは、大型の化石ではなく、プランクトンのような微生物の化石(微化石と呼ばれます)です。珪質の殻をもっている生物の遺骸が化石になれば、珪質の殻をうまく抽出すれば、殻から化石の種類を決め、種類から時代を決定できます。
 特殊な薬品を使って岩石の成分だけを溶かし、化石だけを残すという方法があります。日本の地質学者たちが、野外で大量の試料を採取し、岩石を処理して、抽出した微化石を電子顕微鏡で調べていきました。そして、地層や岩石の年代を決定してきました。
 その結果、上で述べたような付加体の構造や形成の歴史を明らかにしてきました。その重要な舞台となったのが、四国と紀伊半島に分布する四万十帯の付加体でした。日本の大地、日本の地質学者は、付加体の解明において、中心的な役割を果たしてきました。
 紀伊半島は海岸線沿いに付加体が分布しているので、露頭の見学には適しています。白浜温泉もあるので、観光地としての施設も充実しています。そんな便利なところが、日本の地質学者の付加体認定のための革命が起きた場なのです。もちろん、今もこの地を調査されている研究者はいますが。

・放散虫革命・
微化石は主には、放散虫と呼ばれるものが用いられました。
放散虫はチャートを形成しているもので、
チャートの年代を決めることができました。
ただし、チャートが付加する過程で再結晶をすることが多く
化石の保存はあまりよくありません。
しかし、注意深く探せば、化石が残っているところもあります。
放散虫を使って付加体の海洋地殻の年代を決め
陸源の堆積岩の年代のギャップを明らかにすることが、
付加体の実態解明に重要な証拠となりました。
付加体の形成の仕組みを示すことは、
プレートテクトニクスが働いているということを
証明でることになります。
日本の付加体で放散虫化石をみつけ
年代を決め、付加体やプレートテクトニクスの
メカニズムを解明していったことは、
「放散虫革命」と呼ばれています。
その革命を起こしたのが、
日本の古生物学者たちでした。
紀伊半島は、そんな革命の現場だったのです。

・振り返る・
本号が、今年最後のエッセイとなりました。
今年は私自身非常に忙しい思いをしました。
北海道は、12月の半ばなのに
雨が降ったと思ったら、また雪になったり、
11月にドカ雪がふったりと、
天候不順の1年でした。
体調はなんとか維持していますが、
本当に慌ただしい1年でした。
まだ、1年は終わってはいないのです。
4年生の卒業研究の提出まであと少し付き合う必要があります。
それが終われば、一年をふりかえる
気分にもなってくるはずなのですが。