2014年12月15日月曜日

120 野付の砂嘴:砂と森と人のサイクル

 野付半島は道東でも有名な観光地です。野付には、大地と海が織りなす砂嘴の形成と浸食のサイクルがあります。もっと短い、森の形成と渇死のサイクルもあります。砂と森と海の生み出すサイクルの中に、人の生活が営まれています。

 今年の9月下旬に、野付の近くまで来た時に、夕方に少し余裕があったので、足を延ばし、野付半島を訪れました。夕方まであまり時間がなかったので、駆け足でみることになりました。服もスーツで、足元も革靴だったのですが、整備された環境なので、楽に見学することにができました。9月下旬の平日にかかわらず、思った以上に観光客が訪れていました。風が少々あったのです、北国の快晴の青空のもとで、野付の砂と森、海の織りなす景観を見ることができました。
 野付半島へは、国道244号線(ホッポーロードと呼ばれています)を、標津からすぐ南の道道950号線(フラワーロード)に入っていきます。この950号線は、野付半島を通っている唯一の道となります。950号線を進むと、やがて竜神崎の手前で通行止めになっており、そこから先は関係者しか入れなくなっています。
 野付半島の付け根は標津町になっていますが、途中から別海町に変わります。道路を走っているとこの飛び地は、少々不思議な感じがします。ところが、船を中心に生活している漁業関係者からみると、野付半島の南に一番飛び出た岬は、別海町のすぐ前でまであり、その距離は非常に近いことがわかります。
 野付半島は、北海道の東部にある小さな半島です。北に知床半島、南東に根室半島があります。知床半島と根室半島の間には、国後(くなしり)島が食い込むように入り込んでいます。間の海は根室海峡、一番狭いところが野付水道と呼ばれています。
 野付水道に、ちょろりと小さなひげかエビのしっぽのように突き出ている野付半島があります。半島というにはあまりに小さなものです。野付半島から北の海を見ると、高い山並みが北へと続く知床半島がみえます。海を隔てすぐ目の前には、北方4島の一つ、国後島が間近に見えます。ちなみに根室半島の先端の納沙布岬からは、歯舞(はぼまい)諸島の一つ水晶島が間近に見えます。
 野付半島の形は、地図で見ると非常に奇異なものです。この形は、砂嘴(さし)と呼ばれものです。砂嘴とは、海流によって運ばれた砂が浅い海岸にたまって、鳥の嘴(くちばし)のような丸みをもって曲がった地形です。
 野付半島は、全長26kmもある、日本でもっとも長いものです。この砂嘴は、国後島と北海道の間の根室海峡を通る潮流によってできたものです。北の知床半島の火山岩(主に安山岩)が侵食によって海に流れ出たものが、供給源となっています。
 野付半島は、通常の砂嘴よりも複雑な形をしています。砂嘴の内側に次々と丸みをもった枝分かれした砂嘴が形成されています。このような枝分かれているものを、分岐砂嘴と呼んでいます。それは、地球の環境の変化と大地の変動が組み合わさってできてきたと考えられます。
 野付半島の先端に近い竜神崎で、140mのボーリングがおこなわれたのですが、その結果によると、120mより深いところは火山灰層あります。120mから27.5mまでは、砂まじりの粘土となります。ここまでは、火山に近い海底の堆積物です。その上は、砂になっています。
 氷河期には氷が陸域に発達するので、海水の量が減り海退がおこります。一方、間氷期には陸の氷が溶けて海水が増え海進が起こります。これが、地球規模の気候変動に呼応した海水準の変動となります。しかし、ボーリング結果をみると砂嘴の形成はもっと後のことです。砂嘴の形成は、縄文海進が終わって、現在と同じような海水準になった後、3000年くらい前からはじまりました。
 もともと非常に浅い海域であったこの地は、海水準の変動を非常に受けやすくなります。小刻みな変動であっても、敏感に反応していきます。
 ある推定(岡崎, 1989)によると、野付半島では、3000年以降、1mから2m程度の海水準の上昇が2度あったとされています。その際、砂嘴の形成や浸食が起こりました。3000年以来、現在がもっとも低い海水準だと考えられています。
 その推定によると、沖に向かってエビのしっぽのような丸みをもった砂嘴が、8個も形成されるような変動が起こったとされています。その結果、野付半島では、沖に向かって次々と新しい「しっぽ」が、分岐砂嘴として形成されていきました。
 気候と大地の変動には、大きなものから、ささやかなものまであります。野付半島の地形を形成した変動は、ささやかなものを反映していると考えられます。野付のあたりは、海が浅く広がっていたため、非常に敏感にその変動を受け取りました。その敏感さが、枝分かれした不思議な砂嘴を形成したのでしょう。
 砂の営みよりさらに敏感なものがあります。それは生きものです。安定した陸地があれば、そこには植物が生えます。トドマツやミズナラの大木が森林をつくっていました。
 北海道のアイヌ文化以前の7世紀ごろから13世紀にかけての擦文(さつもん)時代(本州では飛鳥時代から鎌倉時代後半)とされる遺跡が、半島中央部のオンニクルの森で発見されています。江戸時代の中頃まで、トドマツやエゾマツ、ハンノキ、カシワなどの原生林があったとされています。
 江戸時代以降も、この地は、ニシンのいい漁場になっていました。野付の砂嘴ごとに多数の集落が形成されていました。春になると、各地から多数の人が集まり、一番外の砂嘴には、50棟から60棟の小屋が立ち並んでいたといいます。その痕跡は、「荒浜岬遺跡」として敷石が残されています。
 その後、地盤沈下がおこり、海水が侵入してきました。植物は逃げられないので、海水が来たところは、木が枯れてしまいました。この立ち枯れの木が、まだ多数の残っているところがあります。ミズナラが枯れたところをナラワナと呼んでいますが、そこには海岸線に沿って多数の立ち枯れの木が残っています。一方、トドマツが枯れたところをトドワラでは、立ち枯れの木が一部に残るだけで、塩湿地となっています。
 近年は、砂の流出が起こっていようです。高潮や低気圧の接近があると、海水が道路まで押し寄せることがあるようです。もし海面上昇、あるいは少しの地盤沈下があれば、野付半島は敏感にその影響を反映するでしょう。
 野付半島に訪れたのは、これで3度目でした。前回は2006年の5月、それ以前の訪問はだいぶ前で記憶も定かではありません。もし、8年前やもっと以前の記憶が定かであれば、比較できれば、森や人の暮らしの変化に気づけたかもしれません。
 野付半島の分岐砂嘴の骨格あたるものは、大地の変動が数千年から数百年のサイクルで形成されているものです。しかし、植物はもっと短い百年から数十年のサイクルで変化しています。そのスケールは人の歴史のサイクルに呼応しています。野付の砂嘴は、砂と森と人のサイクルを反映しているようです。

・大地の敏感さ・
野付半島は、このエッセイで2006年6月号で紹介しています。
今回、再訪したので、また紹介することにしました。
以前来た時と比べれば、
観光施設が充実していたように見えました。
砂嘴自体が移ろいやすいものです。
そこを基盤に、森が消長していきます。
さらに人の活動の盛衰も繰り返し起こっています。
これからも、野付の砂嘴は
敏感にいろいろな変化を映しとっていくのでしょうか。

・根雪・
北海道は、一気に冷え込み、雪が繰り返し降りました。
その繰り返しで、大地は一面雪に覆われた光景となりました。
根雪に覆われたかのような真冬の光景となっています。
道路はガリガリに凍り、ツルツルになりました。
歩くのが恐ろしくなります。
このまま気温が上がることなく、
雪が降リ続けば、早い根雪となるでしょう。
もしそうなら、今年の冬は
長くつらいものになりそうです。