2015年12月15日火曜日

132 耶馬溪:人力と自然の力

 九州大分の山奥に、不思議な景観を見せる地域があります。車の利用ができる現在でも、狭い道は難所となり、時間がかかります。山間の奇岩には、自然の営力と人の営みが作った景観がありました。

 耶馬溪は「やばけい」と読みます。大分県中津市にある景勝地です。中津市は国東半島の西、瀬戸内海側に面して発展している街ですが、内陸には山地を抱えています、その山は、阿蘇、九重の北にあたり、奥深い山間となります。耶馬溪は、そんな奥深い山間にあり、耶馬日田英彦山国定公園に指定されている景勝地でもあります。
 秋に大分に行った折、耶馬溪を見ておきたいと思い、半日かけて足を伸ばしました。あいにくの雨が降ったり止んだりの空模様だったのですが、車での移動だったので、訪れることにしました。由布院から玖珠(くす)川を下り、玖珠から県道28号線で尾根を越えて、山国川に入ります。山国川の上流に位置する奥深い山間に耶馬渓はあります。
 耶馬溪は、もともと現在「本耶馬渓」と呼ばれる地域を指すものだったのですが、その後、似た景観が周辺にあるので、裏耶馬渓、深耶馬渓、奥耶馬渓などと呼ばれる景勝地もできました。私は、深耶馬渓から本耶馬渓にぬけ、その後もどって、院内に抜けて別府に向かいしました。
 深耶馬渓は奥深い山で、「一目八景」と呼ばれるところが有名です。深い谷あいを通る道を抜けていくと、ここにたどり着きます。一目八景は、観光地としても有名なので、展望台、散策路や駐車場なども整備され、土産物屋も軒を並べています。公共の駐車場に車を置き、散策路を歩き、展望台から奇岩類を見学しました。
 一目八景は、いくつもの切り立った岩稜や奇岩が連なったところにあります。一目八景は、一目で、海望嶺、仙人岩、嘯猿山、夫婦岩、群猿山、烏帽子岩、雄鹿長尾嶺、鷲の巣山の8つの景観が見られるということから付けられた名称です。切り立った岩稜が連なるのですが、この岩稜を形成している岩石は、新生代の火山活動によるものです。
 主に火砕流による火山噴出物がたまったものです。火砕流がたまった時はまだ熱かったため、溶結凝灰岩になっているところがあります。溶結とは、一旦溜まった火山灰がその熱のため、火山灰の一部が溶けたり、固まったりしたものです。ぶ厚くたまった火砕流ではよく見られる現象です。溶結凝灰岩は、火山灰より固くなっています。また、溶結凝灰岩には、柱状節理が発達しています。節理は直行していることが多いため、切り立った崖や箱状の谷になっていることがあります。
 火砕流は、猪牟田(ししむた)カルデラという火山でした。約100万年前に活動した火山で、九重山の北にあり、今では埋もれてしまったカルデラとなっています。この火山の火山灰は特徴があり、ピンク色をしていることから「ピンク火山灰」と呼ばれています。ピンク火山灰は、噴出のとき偏西風にのって遠くまで飛んだことが確認されています。近畿から、房総半島や新潟まで見つかっています。
 耶馬渓にはもうひとつ見どころがあります。それは、「青の洞門」と呼ばれるところです。青という地にある洞門です。洞門とは、トンネルのことです。青の右岸には、切り立った断崖があります。下の方は溶結凝灰岩ですが、上部には火山角礫岩が見えていました。青の上流は跡田川とよばれる山国川の支流があります。この支流から下るための道が断崖となっています。少し下流には平らな河原(河岸段丘)がありますが、そこに出るまでが険しい道となっていました。現在では、両側に道ができていますが、かつては、鎖だけを頼りに通るような危険なところで、命を落とすようなこともあったそうです。
 諸国遍歴の旅の途中にこの地を訪れた禅海和尚は、この危険な道を見て、安全な道をつくる必要があると考え、托鉢で資金を集めて洞門の掘削をすることにしました。そして、1763年に30年かけた洞門は完成しました。今では改修、拡張がなされていますが、それでも車一台しか通れないほどの隘路です。信号で交互に通ることになっています。途中には明かり取りの切り抜き窓もあります。
 石工たちが掘った昔のままの洞門も残され、歩いて見ることができるようになっています。そこでは、多数のノミの跡が残されています。人の苦労を感じさせる洞門です。
 日本各地で耶馬溪と呼ばれる地域があるのですが、由来はこの地にあります。そして、耶馬渓という呼び名も、実は当て字だったそうです。頼山陽は、1818年(文政元年)にこの地を訪れたことがあるそうです。この地を漢詩に読みました。「山国谷」と呼ばれていた地なので、中国風に耶馬渓という漢字をあてて、「耶馬渓天下無」と詠みました。そこから耶馬渓という名称ができそうです。
 洞門は、溶結凝灰岩に掘ったものなので、溶岩や花崗岩と比べると柔らかく掘りやすかったと思います。また洞門にしても崩れないほどの硬さもありました。しかし、個人の托鉢による資金調達と、人力で掘り進めたため時間もかかったのでしょう。
 青の洞門の上には、鎖場の見える切り立った岩稜がみえます。これは登山道のようですが、昔の険しさを彷彿とさせるものです。青の洞門では、自然への人の適応力のたくましさとコツコツとした努力の成果を感じます。一方、奥の耶馬渓では、溶結凝灰岩だから柱状節理ができたため、切り立った岩稜ができました。時に、節理面にそった平らな河床もあります。
 溶結凝灰岩に対する人力と自然の営力の現れの違いを見出すことができます。

・根雪が消えた・
北海道は、11月末か12月にかけて
まとまって何度が雪が降りました。
これは根雪になるのかと思っていたら、
道路の雪はすべて解けてしまいました。
あちこちに小さな雪山が残っています。
まるで春先のような景色、路面状態になっています。
史上最大のエルニーニョが発生しているといいます。
セオリーどおりなら、暖冬になるはずなのですが。
そうなれば、雪かきで大変な思いをしている
北海道民は助かるのですが。
どうなることやら。

・繁忙期・
卒業研究の最後の締め切りを迎えています。
なかなか時間がとれずに、
とうとう締め切りを過ぎての発行となりました。
申し訳ありませんでした。
なんとか日にちだけはずれずに発行することができました。
一番忙しい時期があと少しで終わります。

2015年10月15日木曜日

130 網代島:静寂と激変の地にて

 チャートは静寂な環境で、少しずつたまったものです。まさに「チリも積もれば」層状チャートになるのです。しかし、層の境界は、激変によって形成されたものです。層状チャートは静寂と激変の記録なのです。

 ここ数年、層状チャートに興味を持っているので、各地で典型的なものをみて周っています。時代の違うもの、違う地域のもの、産状が違うもの、あるいは特徴のあるものなど、いろいろなバリエーションを見ています。露出がいい露頭で、きれいな層がみえると、観察していても楽しくなります。そんなところは、何度も足を運びたくなります。今年の秋は、大分県で層状チャートをみました。ここも通いたくなる地になりそうです。
 大分県津久井市の津久見湾に、網代島(あじろじま)があります。この島は、岸からすぐのところにあるのですが、潮が引いているときは歩いて渡れますが、満ちているときは濡れなければ渡れません。私は、潮の干満を事前に調べておいて、干潮に近い時間帯(朝一番)にでかけました。事前調査の甲斐があって、なんの苦労もなく島に渡ることができ、間にある岩石も見ることができました。網代島には、面白い履歴を持った層状チャートがあります。それに見ました。
 チャートとは、珪質の硬い岩石で、白や赤、あるいは青みを帯びたものなど、様々な色合いのものがあります。層をなしていることが特徴となります。
 チャートは、主に細粒の石英や石英の仲間のクリストバライトと呼ばれる鉱物や、結晶化していない(非晶質といいます)二酸化珪素などからできています。成分でみると、重量比で90%以上が二酸化珪素になるような岩石になります。石英もクリストバライトも無色の結晶なので、チャートは本来、無色や白色の岩石になるはずです。ところがチャートには多様な色があります。これは、チャートの構成鉱物によるものではなく、少量ですが含まれている成分に由来することになります。
 チャートが層をなしているのは、チャートの間に、境界をつくるような別の物質が挟まれているためです。その物質も、泥岩や粘土岩、あるいは頁岩に分類されるものです。今では岩石になっているので、ここでは頁岩と呼びます。
 そもそもチャートは、何からどのようにして出来たのでしょうか。海に生息しているプランクトンのうち、珪質の殻をもった生物からできたと考えられています。プランクトンが死んだり、エサとして食べられたりすると、遺骸や食べた生物の糞として、海の中を沈んでいきます。これがマシンスノーと呼ばれるものになります。死骸や糞が海中を落ちていく途中、あるいは海底に沈むと、有機物は分解してき、硬い殻の部分だけが残ることになります。そして、珪質軟泥(珪質で固まっていなドロ状のもの)とよばれるものが形成されます。
 同じ仕組みで、石灰質(炭酸塩)の殻をもつプラントンもいます。そのような遺骸が海底にたまったものを石灰質軟と呼びます。海底には、珪質軟泥と石灰質軟泥が、広く沈殿していることが知られています。
 どちらの軟泥が溜まるかは、海底の環境によって決まります。石灰質軟泥は、ある深さになると溶け始めます。場所や環境によってその深さはかわりますが、深海底では溶ける環境となっています。一方、珪質軟泥は、浅い海では溶けやすいのですが、深くなると溶けることがなくなります。ですから、深海底では珪質軟泥た堆積し、浅い海底では石灰質軟泥が堆積することになります。チャートは深海底でできた珪質軟泥が固まったものだと考えられています。
 では、境界の頁岩は、どのようにしてできるのでしょうか。頁岩の起源は陸の細粒のチリです。風や海流にのって運ばれてきたもので、陸源の微細粒子です。量は少ないのですが、定常的に降ってきているものです。ただし、風向き、海流、大陸の配置などに影響をうけるのですが、現在の深海底でも多いところと少ないところがあります。
 次にチャートの層の成り立ちについてです。珪質軟泥がたまっているところに、量は少ないのですが、頁岩の材料も常に届いているはずです。しかし、珪質軟泥が溜まっているときは、頁岩が少ないので目立たなくなっていると考えられます。そして、珪質軟泥がたまらない時期が長期間続くと、頁岩が溜まると考えられています。
 層の間隔は不規則で、チャートの幅(厚さ)も、境界の頁岩の厚さもいろいろです。チャートと頁岩の起源を組み合わせて考えると、海洋のプランクトンの大絶滅、それも長期間継続した時に境界の頁岩堆積するというシナリオが考えられます。やがて珪質の殻を持つようなプランクトンが復活すると、チャートが溜まり始めることになります。
 チャートが溜まるときは生物が繁殖している時で、境界の頁岩が溜まる時は生物の大絶滅が起こっている時となります。その大絶滅の繰り返えしが、層状チャートをつくるというのが、従来の定説です。
 これには異論もあります。その一つに宇宙からの隕石の衝突による説があります。平均すると2万年ごとくらいに大きな隕石の衝突が起こり、それによって大絶滅が起こるという説です。隕石衝突の繰り返しが、層状チャートの起源だとする説です。その根拠になっているのが、チャートの中から見つかる小さな隕石のカケラ(宇宙塵といいます)です。いくつかの地域のチャートから大量の宇宙塵が見つかっています。網代島の層状チャートからは、2億4000万年前のもので、多数(約300個)の宇宙塵が見つかっており、今まで見つかったものとしては、一番古いものだそうです。
 今回は、この衝突の現場を見にいきました。実際の宇宙塵は、20ミクロンほどのサイズなので、目で確かめることはできませんが、地質学の大きな発見があったところを見に来ました、生物の大絶滅を起こしたかもしれない衝突の現場、そんなことに思いを馳せながら露出のいい露頭を眺めました。網代島の対岸には泥岩があり、三畳紀前期(2億5000万年前)ものです。この時代は、P-T境界(古生代と中生代の境界)の地球史上最大の絶滅が起こった時代の直後にたまった地層もあります。少し時代がずれますが、いずれも地球の大激変の記録となっています。静寂の深海底でゆっくりとたまったチャートなのですが、激変の記録が残されているのです。

・初冠雪・
北海道の里山にも、とうとう雪が降りました。
前日が山で降りだした雪は、
翌日には山並みを真っ白に変えました。
手稲の山並みでは、初冠雪となりました。
いよいよ冬の到来が近づいてきました。
しかし、まだ紅葉は終わっていません。
雪虫もまだ少ししか飛んでいません。
秋が終わっていません。
もう少しの間、秋を楽しみたいものです。

・再訪へ・
はじめての地は、露頭の様子がわかりません。
論文だけ見ていると、状況がわからいことも多くあります。
データしか表記されないこともしばしばです。
そんなとき、現地を訪れて、
予想以上の露頭に出くわすと、思わずワクワクします。
今回の網代島もそんな露頭になりました。
アプローチも簡単で、干満にさえ注意すれば
落ち着いて観察することができます。
次回は、論文を読み込んで、訪れたいものです。

2015年9月15日火曜日

129 手結:付加体のメランジュ

 今回も何度も紹介している高知です。何度、訪れても、その壮大さに圧倒されるところや、自然の謎を解き明かしていった研究者の努力を感じるところもあります。成果とその保存がなされている手結を紹介しましょう。

 高知の手結(てい)の海岸にいきました。手結は、香南市夜須町にあります。主な露頭がみられるとことは、西分(にしぶん)漁港とその東に自然の海岸が広がっています。
 漁港は、現在は護岸され整備され、車で気軽に入っていけます。古い時代の航空写真を見ると、かつては海に突き出た防波堤が一つあるだけの小さな漁港でした。その時期には、海岸には点々と岩礁が見ていて、海岸線ぞいには広く露頭が点在していたようです。1994(平成6)年ころに、大規模に工事がはじまりました。この漁港が、現在では大規模に護岸工事されています。その一角にかつての海岸の露頭が残されています。手結の海岸へは、この漁港が一番アプローチのしやすいところとなっています。
 手結の海岸は、このエッセイにも一度取り上げました。そして、今年のゴールデンウィーク開けにも、再度訪れました。今回は層状チャートをじっくりと見るために来ました。
 手結には、「手結のメランジュ」とよばれる岩石群がでているので、地質学では有名な場所です。
 かつて、高知の海岸沿いの露頭を舞台に、付加体の研究が進められました。主な研究方法は、詳細な野外調査と細かい試料採取、その試料から見出される微化石を用いた年代決定、地層の古地磁気測定による古緯度の測定などが重要なデータとなりました。特に年代決定は非常の細かくなされ、その結果、付加体の構造、メランジュの認定など、付加体への理解が深まったのです。その結果、陸上ではじめてプレートテクトニクスを証明したことになり、地質学においても重要な貢献があったところです。陸上の付加体の研究は、上で述べたようは手法によって、日本の研究者たちが主として行ってきました。その重要な研究の場の一つが、手結の海岸露頭でした。
 メランジュとは、起源の違う岩石がごちゃごちゃに混じり合ったもので、地質図に現れる規模のものをいうことが多いようです。「ごちゃごちゃ」というのは、堆積岩や火成岩などのような通常の岩石ができるメカニズムとは、全く違ったものを意味しています。大きな大地の力(構造運動)によって、機械的に岩石がごちゃごちゃに混ぜられたものです。そこでは、通常の岩石のように一つの成因で考えることができない、多様が成因の岩石が混在しています。もちろん場所によっては、メランジュでも同じ起源(たとえは同じ種類の堆積岩など)のものでできている場合もありますが、一般に成因をとなわないメカニズとなります。
 断層などで激しく破壊されたり、変位したりしたもので、そのうちの大規模なものをメランジュと呼んでいます。巨大な断層で形成されるのですが、付加体は、沈み込む海洋プレートによって、定常的にそのような断層活動が起こっているところです。
 付加体では、海洋プレートを構成していた岩石類がメランジュに取り込まれているものが多く見られます。海洋プレートを構成したいものとは、海洋地殻の最上部の玄武岩、その上に堆積した層状チャート、さらには大陸に近づくと陸源の頁岩などがチャートの間に形成されていきます。やがていろいろな色のもった頁岩(ここでは多色岩と呼ばれています)。もっと大陸に近づくと大陸から流れてきた土砂(タービダイトと呼ばれます)も混じってくることがあります。付加体のどこにできたメランジュかによって、その構成物はさまざまなものになります。
 手結の海岸には、海洋地殻の玄武岩があります。この玄武岩は枕状溶岩と呼ばれる海底で噴出した溶岩固有の形状をもっています。また、この海岸の玄武岩や層状チャートからは、古地磁気による緯度の測定から、北緯3度から13度ということがわかっています。つまり赤道付近できた海洋地殻が、海洋プレートの運動に伴って移動してきたことがわかってきました。
 手結のメランジュから推定される付加体形成のシナリオは、次のようなものだと考えられています。
 1億3000万年前、赤道近くの海嶺で玄武岩の噴火がありました。深海底でしたので、玄武岩は枕状溶岩となりました。海洋プレートは海嶺から離れながら北上します。その上に海洋に暮らしていた放散虫の死骸が降り積もりチャートを形成します。層状チャートの年代は、1億3000万年前から1億2000万年前にかけてです。やはり赤道付近から北上中にできました。
 その後、9000万年前から8000万年前にかけて、大陸(日本列島になる前の場所で火山活動をしている)と赤道の間の海では、放散虫が死んでは海底にたまっています。そこに、陸の火山活動による火山灰や大陸から風で飛ばされてきた粘土などが、ゆっくりとたまって多色岩ができます。
 2001年に手結のメランジュは、高知県の天然記念物に指定されています。そのおかげで、護岸工事が行われても、重要な露頭は残されています。東側の海岸は自然のまま残されています。保存されている露頭には、看板が二箇所あります。大きめの露頭には、枕状溶岩を主としたタービダイトが混じるメランジュで、もう一箇所の看板のところには小さいな層状チャートの露頭があります。
 手結の露頭には、壮大な時間の流れが刻まれています。それを読み取る努力は大変なものだったと考えられます。しかし、その努力によってこのような壮大な大地のドラマが読み取られるということは、研究者にとっては非常にワクワクする体験だったと思います。そんな研究者のロマンが、手結には残されています。手結メランジュは、そんな研究者のロマンを追体験できるところで、アプローチのしやすいところです。

・いよいよ秋・
北海道は先日の台風の影響の蒸し暑さが終わると
一気に、秋めいてきました。
朝夕は涼しくなってきました。
長袖、上着が必要になります。
秋の涼しさを感じると、
ついつい冬の寒さに思いを馳せてしまいます。
しかし、今は、北海道の雄大な秋を感じる時なのでしょう。
今日から帯広と美瑛への2泊3日の出張です。
このエッセイは、いつものように予約配信です。

・九州の報告は次回以降に・
先日、九州に調査に行ったのですが、
まだその話題でエッセイを書く余裕はありません。
次回以降に紹介したいと考えています。
今回の調査も、再訪の場所も多かったのですが、
このエッセイでは、
地域や二度目なかどうかなどにこだわらずに
紹介していきたと思います。

2015年8月15日土曜日

128 宇曽丹:日本のゴールドラッシュ

 道北、浜頓別は、枝幸山地の北にある小さな平野に拓かれた街です。現在はクッチャロ湖の白鳥などで有名なりましたが、明治のころ、山奥に今の数倍の人が暮らしていたことがありました。そんな頃の話題です。

 7月、道北の浜頓別へ校務で出かけました。大学で1校時の授業を終えてから向かいました。車で高速道路を使用しての移動でした。4時間半ほどで、3時半ころに着きましたが、それでも長距離の運転にぐったりしました。予定より早くついたので、以前に行ったことがあるのですが、砂金の採掘できる川にいくことにしました。
 宇曽丹(ウソタン)と呼ばれるところで、そこに流れるウソタンナイ川が砂金の採れるところです。ウソタンナイは、アイヌ語に由来していて、「お互いに滝が掘っている川」という意味だそうです。北海道では、二級河川頓別川水系「ウソタンナイ川」と命名しています。川はアイヌ語で「ナイ」ですから、ウソタンナイで「ウソタンの川」という意味ですので、そこにさらに「川」をつけるのは少々ヘンですが、このようなことはよくあります。このエッセイでは「ウソタン川」と表記します。地元の文献にもこの表記が見られます。
 さて、宇曽丹には別名があり、「東洋のクロンダイク」と呼ばれています。クロンダイクとは、カナダのユーコン準州にある地名です。1896年(明治29年)、ユーコン川の支流であるクロンダイク川で、砂金が発見されました。その直後から北米ではゴールドラッシュがはじまりました。1897年から1899年かけての3年ほどの短い熱狂は、「クロンダイク・ゴールドラッシュ」と呼ばれました。この話題は、世界中に知られるところとなりました。
 北海道では、江戸時代に1617年(元和3年)に、砂金が発見されたとされています。それまで、手付かずの地であったところに砂金が見つかったのです。さざかし多数の砂金がたまっていたことでしょう。しかし、注目を浴びたのは寛永(1624-1645年)の頃でした。その時代には、北海道の南西部、渡島(おしま)の知内(ちない)が有名でした。
 ところが、1669年6月、アイヌ民族の静内付近(シブチャリ)にいた首長シャクシャインを中心に、松前藩と漁猟権をめぐって対立が起こりました。「シャクシャインの戦い」と呼ばれるものです。その戦いによっって、砂金の採掘は衰退しました。
 次に北海道の砂金のブームが起こるのは、明治になってからでした。枝幸(えさし)で砂金の発見は、ある説によると1899年(明治31年)6月に、堀川泰宗一行が、発見したのがはじまりだとされています。枝幸山地の南側の幌別川の上流のパンケナイでの発見でした。そして7月には、砂金採取者たちが数百人ほどもその付近に入り込んだということです。
 ウソタン川での砂金の発見は、同年8月に密採者のグループによるものだとされています。ウソタン川は枝幸山地の北側に当たりました。彼らは、1週間ほどで100gほどの砂金を採取したというウワサが広がり、9月にはパンケナイにいた400から500人の密採者が流れこんできました。パンケナイよりウソタンの方が砂金が豊富だったのです。頓別川の上流のペーチャンでも砂金が発見されました。
 クロンダイク・ゴールドラッシュの熱がまだ残っている時期に、枝幸山地の各地で砂金が発見され、ウソタンやペーチャンの地でも、ゴールドラッシュが起こりました。それまで、道北は、道南、道央などと比べると開拓が遅れており、このゴールドラッシュで一気に人の流入がありました。ゴールドラッシュ時には、5000人、一説には1万数千人の人が集まったとされています。多くの人や物質の移動により、枝幸が陸路と海路の交通や経済の中心となりました。
 砂金は、もともとはどこかの金鉱脈にあったものが、侵食の結果、砂金となりました。本来なら鉱脈を探す方がいいのですが、古く侵食が進んでいる地域だと、鉱脈自体がなくなっていたり、鉱脈が細く、広範囲に散らばっていたりすると、採掘効率が悪くなります。
 一方、砂金は比重が大きいので、川底に溜まりやすく、たまっている場所を見つけると、一気に採取できます。ただし、たまっているものをとりつくせば、その場所の金はなくなります。そうなると、次の場所を探すことになります。あまり大規模化することは難しいので、個人での採取が中心になります。鉱区や採取権などをもうけると、違法にとる人も出てきます。するとそこで取られた金は闇で処理されることになります。
 ウソタンでは、鉱山もあったようですが、ほとんどは砂金で採取だったようです。産出量は記録が不確かであること、密採などが横行したので、はっきりしないようですが、ウソタンの砂金は推定550貫(2062.kg)だという記録があります。大半は砂状の金ですが、ウソタン川の支流のナイ川で205匁(もんめ)の金塊がみつかっています。769gという重さは、国内最大級の金塊となっています。
 ウソタン川の位置する枝幸山地は、どのような地質学的な背景があるのでしょうか。
 道北の日高山脈の延長がどうなるのかは、あまりよくわかっていませんでした。その後の調べで、枝幸山地をつくっている地層は、日高山脈の北方延長にあたると考えれています。しかし、現在では日高山脈の本体ではなく、「イドンナップ帯」と呼ばれるものに相当すると考えられています。
 イドンナップ帯は、もともとは日高地方の新冠川から静内川、日高幌別川かけて分布する地層群で行われた区分でした。変成岩やカンラン岩などからなる日高山脈の本体とは地質が違っていたため区分されました。イドンナップ帯とは、日高山脈本体の西側に連続的に分布している岩石群です。玄武岩類と堆積岩類から構成されています。一部には蛇紋岩が含まれています。
 イドンナップ帯は、カムイコタン帯を沈み込み帯とした、中期白亜紀の付加体にあたり、沈み込み伴う火山列島やその前にたまった堆積物、付加した海山や海洋地殻の断片(オフィオライト)なども含む地質体であると考えられています。
 日高山脈やカムイコタン帯の周辺は、砂金のでる河川がいくつものあります。ウソタンもその一つでした。深部でマグマの働きで濃集された金が、地表にでてくることで、さらに濃集されました。それを見つけて人がとっていきます。今での雪解けや、大水が出た後には、流れてきた砂金が採れるようです。
 私が行った時も2組の人が川で採取していました。一組は一攫千金を目指して上流に探しにいったそうです。インストラクターのおじさんがついて採取していました。私は、とる気がないので彼らの様子を眺めながら、話しをしていました。数年前ここに来た時の話しになり、砂金がおみやげで売っていたのに、今はなくて残念だといういいました。インストラクターのおじさんが、自分でも採取をはじめて、2粒ほどですが、私にくださいました。お礼をいってありがたく頂きました。
 チャンスがあれば、自分でも採掘したいのですが、いつのことになるでしょうかね。

・49ers・
ゴールドラッシュは1848年、
カリフォルニアで砂金が発見されたことにはじまります。
その直後にメキシコから戦争の勝利によって
割譲された土地での発見でした。
それまでだれも採取していなかった砂金は
大量にあったようです。
それをアメリカやヨーロッパの人たちが聞きつけ、
1949年に大量に開拓者たちが流入してきました。
彼らは「forty-niners(49ers)」と呼ばれました。
その名称はアメリカンフットボールの
サンフランシスコ・フォーティナイナーズ
として現在も残っています。

・忘れもの・
出発前に大学に置いてあった
デジタル・カメラをもって、出かける予定でした。
いつも持ち歩いているデジカメは、
接写を得意とするタイプなので、
一般的なデジカメを持っていくために、
接写用のデジカメをかばんから出しておきました。
持っていくことを忘れていたことに、
高速道路の途中で気づきました。
しかし、もっていたスマートフォン内蔵の
カメラで撮影しました。
あまり撮影方法をしらないので、
色調が変わっているのを知らずにしばらく撮影してました。
ですから、今回の写真には少々色の変なものも混じっています。
ご了承ください。

2015年7月15日水曜日

127 箱根:理屈、心情、損得

 箱根の大涌谷は、噴火の兆候があり、観光客が半減した、というニュースも流れました。その後、噴火レベル3に上げら、観光には大きな打撃となっています。噴火レベル変化には、理屈通りにはいかない心情と損得がありそうです。

 昨年、多くの犠牲者を出した御嶽山の噴火、今年になって口永良部(くちのえらぶ)の噴火、都圏に近い箱根の大涌谷の噴火のニュースが続いています。特に箱根の噴火によって、それまであまり気にしなかった「噴火レベル」が、多くの人の耳に届き、その意味と重要性が認知されるようになってきました。本来であれば、このような注意を促す警報は、危険を避けるための情報のはずなのですが、多くの人の心に届くのは、事件や事故があってからになることが多いようです。
 箱根は、2015年6月30日に噴火レベルが2から3に上げられました。レベル2は「火口周辺規制」とよばれるもので、火口付近への立ち力の禁止をするものです。レベル3になると、想定される火口域(今回は大涌谷)から、700mほどが立ち入り禁止となります。6月26日から30日にかけて、多数の火山性地震が観測されました。その後、地震はおさまっているようですが、まだまだ警戒が必要でしょう。この警報を発するのは、気象庁です。研究者ではなく、公官庁が発する警報です。そこには、研究のような理屈だけではすまない事情が生じます。
 まず、箱根火山です。箱根の火山の発達史を概観しましょう。
 箱根は、大きな成層火山ができ、それが陥没してカルデラを形成し、そのあと再度活動が活発化して新しい火山ができ、そこもまたカルデラを形成し、最後に中央部で火山がおこったというものでした。複雑な火山の歴史と構造を守ることがわかってきました。箱根の火山発達史モデルは、久野久(くの ひさし)という有名な火山学者が提唱したものです。
 科学は進歩しますので、箱根の火山の研究も進んでいます。久野氏のモデルも修正されてきています。最初の大きな成層火山というものは存在せず、いくつかの成層火山が存在していたことが明らかになっています。また、カルデラ形成も、大規模な陥没を伴うような噴火が起こったとされていましたが、そんな地下構造はないことから、カルデラをつくような大規模な噴火はなかったことがわかってきました。
 箱根の火山活動は、規模も場所も、活動期間も、非常に複雑であることが明らかにされてきました。その複雑さは、タイプの違う火山活動が、同じ場所で繰り返されてきらからです。
 激しい火山活動の多くは、65万年前から4万5000年前までで、その後は小さな噴火活動になりました。一番最近の噴火は、鎌倉時代(12世紀後半から13世紀)だとされています。火山灰の年代測定がその根拠となっています。鎌倉時代の箱根のことですが、きっと人が見ていたはずです。でも残念ながら、噴火の記録はまだ見つかっていません。
 通常火山噴火の予知は、火山学の一般的知識をもとに、それぞれの火山固有の記録(過去の火山活動データ)からなされます。もっとも重要なのは、それぞれの火山における過去の噴火の歴史です。いつも同じパターンで噴火する火山なら、次回の噴火もそうであろうと予知され、その信頼度は高いでしょう。箱根は、タイプの違ういくつもの火山が、複雑な噴火をしているところです。複雑な噴火をする火山では、予知は難しそうです。
 複雑な火山活動では、いろいろな可能性を考えて警戒をするしかありません。では、注意を促すために出された噴火レベルを守れば安全かというと、そうでもありません。それは火山噴火史の複雑さを考えればわかります。パターン化されていない噴火では、次の噴火がどのようなものかは、予測不能だからです。一般論の理屈でできる限りの警戒をすすめるしかありません。
 警報が出されると、観光産業は大きなダメージを受けます。たとえ観光施設が立ち入り禁止地域に入っていなくでも、噴火レベルが上がったりすると、危ないものには近づきたくない、という人の心情が働きます。私は、これは不評被害ではなく、正しい行動だと思います。噴火レブルが上がるということは、危険性が増えたことになります。火山予知の難しさを考えればわかることです。理屈に合った心情的な行動ですから、やむなきことでしょう。
 日本は火山国で、噴火の被害とともに、温泉や景観などの観光資源という益も得ています。箱根はまさに火山観光で成り立っている地域です。そこには、火山の恩恵によって暮らしを立てている人が多数いるわけです。噴火レベルが上がると、観光施設には大きなダメージがでます。
 単純に安全だけを考えるのなら、早めに、広めに警戒をしておいたほうがいいはずです。そうもいかないのは、箱根が大観光地で、そこには大きな利害関係が発生するからです。
 火山だけでなく、自然災害への対策、警戒など全般に対して、同じような課題があります。人のいないところであれば、安全対策など必要でありません。危険を承知で調べに行く研究者やメディアの人に、ただ注意を促せばいいのです。彼らは危険は承知しいるはずですから、自己責任で対処するはずです。しかし、人の居住地域になると、急に問題が複雑になります。まして多くの人が住む所であれば、なおさらです。
 一方、立ち入り禁止区域の外だから安全だと思ってしまう人がいますが、それは大きな間違いです。なぜなら、火山学や自然科学は、火山や自然の仕組みを、まだ解き明かしているわけではないからです。火山がいつ噴火するのかは、まだまだ完全な予知はできません。それに火山ごと、地域の自然ごとに個性があり、その個性をひとつひとつ解き明かすまでにはいたっていません。
 噴火レベルにの見える迷いは、理屈ではいかない科学者の迷いでもあります。観光する人の心情での迷いでもあります。観光に携わる人たちは、自分たちの身の危険を考えながらも、観光客の回復を願っています。さてさてこのような理屈、心情、損得がからむ問題の落とし所は、どこにあるのでしょうか。

・新知見・
久野久先生は東大の教員で、
世界的にも有名な地質学者でした。
本来なら箱根は地の利もいいので、
もっと多くの研究者が新しい調査研究をして
つぎつぎと成果が出ていてもよいはずなのですが、
なかなか進みませんでした。
一つには久野先生が偉大すぎて、
それを越える研究がなかなかしづらい
という先入観があったのでしょう。
しかし、最近、神奈川県立生命の星・地球博物館や
隣接する温泉地学研究所などの研究者が
調査を進め成果を挙げてきました。
その結果、上での述べたような
新しい知見がでてきました。
調べればもっといろいろ分かるはずです。
今後の進展に期待したいものです。

・蒸し暑さ・
北海道は、不順な天気が続いています。
先日まで、北海道らしい快晴が数日あったのですが、
急に蒸し暑くなり、どんよりとした天気になったりします。
先日も蒸し暑い夜があり、熟睡できないことがありました。
まあ、今のところ一日だけですが、
それでもぐったりとなります。
もちろん大学も冷房やエアコンはナシです。
北海道はカラッとした青空がウリなのですが、
北海道の人は、暑さ、それも蒸し暑には弱いです。
特に我が家のように暖房だけで、
エアコンのない家は、窓を開けるしかありません。

2015年6月15日月曜日

126 横浪:層状チャートと赤色頁岩

 人の目は、選別能力が非常に高いものです。今回の層状チャートの調査で、それを感じることができました。ある範囲で一番典型的なものを、短時間で探すとき、識別能力が最大限に発揮されるものだと思いました。

 最近の研究テーマとして、時間が地層物質に記録されている様式を定型化できないかと考えています。典型的な地層を選び、時間が堆積物質にどのような様式で記録されているのか、その時間記録はどの程度の質と量を保存しているのか、現在にいたるまでの変容の過程はどの程度なのか、復元はどの程度可能か、などに思いをめぐらしています。
 最初の調査対象の地層として、日本列島によくみられるタービダイト層を選びました。タービダイト層とは、大陸斜面の堆積物として形成され、海洋プレートの沈み込みにともなって形成され、付加体の中に取り込まれます。付加体が主要な構成物である日本列島では、タービダイト層は重要な堆積岩となっています。タービダイト層の形成メカニズムがかなり解明されており、比較的簡単にまとめることができました。
 次に、層状チャートについて同様の整理を進めています。第一弾では、チャート層の概要を報告しました。つづいて今年は、層状チャートの成因にかんする現状をまとめながら、現地での調査をしていくことにしてます。新しい時代の層状チャート(四万十帯)と古い時代のもの(秩父帯)の典型的な地層を対象に絞って、詳しく調べていく予定です。
 典型的な層状チャートとして、四万十帯の横浪(よこなみ)メランジュの中のものを対象にしました。ここには、非常に見事な層状チャートの露頭があります。条件さえよければ、間近にその産状を観察することができます。その条件とは、干潮で天気がよいことです。
 横浪の層状チャートの露頭は、今年のゴールデンウィークに訪れました。ここは、今年の3月にも訪れています。横波の層状チャートは、やみつきになるのでしょうか、何度、訪れてもまた見たくなります。
 横波の層状チャートへの訪問は、2010年の夏、最初にチャレンジしました。そして挫折しています。満潮直後の時間帯で、なおかつ台風の余波で波が高く、難所を通ることができずに、一度は断念してしまいました。2度目は同年の秋の天気のいい日に訪れ、行きは満潮からはだいぶ過ぎていたのですが、干潮にはまだ時間がある時だったので、靴を濡らしながら難所を通り抜けて、やっと目的の露頭に到着できました。
 念願の層状チャートの露頭は、やはり見事でした。層状チャートの露頭の真ん中には、入江があります。入江の向こうの崖には、層状チャートと赤色頁岩が互層をなす見事な崖がありました。その露頭は日陰で波をかぶっていたのですが、入江の手前から、眺めることができました。帰りは干潮に近い時間なっていたので、行きで難所であったところもあっさりと通ることできた。当たり前のことですが、これ以降、干潮時間を調べて訪れるようになりました。
 その後、干潮時間に訪れたところ、入江は完全に潮が引いていました。入江に降りて、崖にたどり着くことができました。層状チャートと赤色頁岩の互層にしっかりと観察して、データもとりました。入江の崖は、位置的に日陰と日向のコントラストが強く撮影にあまりいい条件ではありませんでした。
 あまりの見事な露頭を間近に観察できたことに興奮していたのでしょうか、自作のカラースケールがなくなっているのを後で気づきました。写真撮影で使ったあと、ポケットに戻したつもりが、しっかり入っていなかったようで、崖の前に落としたようです。さらに、帰りには、首からぶら下げていたカメラを岩にぶつけて、カバーレンズを割ってしまいました。あまり興奮すると、ろくなことがないようです。
 今年は、2回もいってるので落ち着いて調査をすることができました。3月には、とりあえず代表的なチャート層を一層決めて、それを詳しく観察し、接写から遠景まで、さまざまな画角で撮影しました。それを論文で利用したのですが、とりあえずパッと目についた一層なので、もっと典型的なものがあるはずです。また、チャート層のバリエーションも見つけて詳しく観察し、撮影もしようと考えて、5月に再度訪れました。
 3月は目についたチャート層を簡単に選んだので、5月の調査では、じっくりと落ち着いて選択していけば、もっといいもの、違ったタイプも見つかるはずだ、と思って調査にいきました。ところが、なかなかいい層が見つからないのです。なんとがもう一つ典型となりそうなものを見つけたのですが、最初のものが一番いい層なのです。もっと時間をかければ、あったかもしれませんが、許された時間内で探したところ、パッと見つけた層が一番でした。この時、人の無意識におこなっていても、その選別の能力は、優れたものだと思いしらされました。
 横浪メランジュは、国の天然記念物に指定されました。五色浜の入り口に看板ができ、いつのころからか、難所をつくっていた大岩もなくなっており、通りやすくなっていました。干潮でなくとも、濡れる覚悟さえすれば、危険を覚えるようなルートでなく、無難に通れるようになりました。干潮の時を選べば、難所ではなく、足もとを濡らすこともなく、簡単に通れるようになっていました。
 ただし、層状チャートまでのルートは、尾根をなす岩場をいくつか越えるので、それほど楽ではなのですが、注意していけな、誰でも行けるようになりました。また、岩場の海岸を歩くことになるので、少々の体力も必要ですが。
 横浪の層状チャートは学会や雑誌、専門書の表紙になるほど見事な露頭なのですが、肝心のチャートの成因は、まだ確定していないようです。
 層状チャートを詳しく見ると、相異なる成因の産状を示してみえるようです。一見単調にチャートが層をなして繰り返してるだけにみえるのですが、なかなか複雑な背景があるのです。
 層状チャートのそもそもの素材は、海洋の珪質の殻をもったプランクトンの死骸です。プランクトンの死骸が海洋底に沈み、有機物が溶けて珪質の殻だけが残ったものです。さらに炭酸塩と珪酸塩の海洋での溶解度の違いによって、深海底では珪質の殻だけが残り、チャート層ができると考えらます。
 チャートの堆積速度が調べると、なんと1000年で数mm程度の厚さしか堆積しないのです。層状チャートでは、チャートの厚さは数cmから十数cm、時には数10cmにもなりますので、一層が堆積するのに、少なくとも数千年、時には数万年かかっていることになります。薄い頁岩も、数千年かかるとされています。
 この堆積速度が意味することは、通常はプランクトンが活動しているときはチャート層が堆積しており、数千年か数万年に一度くらいの頻度で、珪質の殻をもつプランクトン全種類がいなくなったことを意味します。珪質のプランクトンは、放散虫で植物性プランクトンを餌としており、大型の動物の餌となります。つまり海洋の生態系の基礎を担っています。チャートの堆積がストップしているということは、海洋生態系の長期にわたる停止、つまり大絶滅の記録とみなせるのです。多数の層状チャートが形成されているので、繰り返し大絶滅があったことになります。これは、私たちの生物進化における絶滅観を変えるくらいの意味を持っています。
 ただし、層形成には他の説もあります。それは、別の機会にしましょう。
 多数のチャートが繰り返す層状チャート、そして入江の奥には赤色頁岩の成分がまじっている層状チャートに変わります。そんな層状チャートをみると、どうしてこの地層ができたのかの疑問は、さらに不思議さを増します。そんな不思議さも、層状チャートの美しさも増すこそすれ減らすことはありません。

・人の記憶・
私の野外調査の日程は、
1週間前後しかとれません。
あちこち回る余裕はありません。
限られた場所を、じっくりとみることにしています。
その期間に絶対見たいところは、
調査の最初と予備として最後にも
調査予定が入れられるように
調整するようにしています。
今回の横浪も、天候不良があったときに備えて
最後にも日程も取れるように考えていたのですが、
干潮が夕方になるので、
最初の日程がベストでした。
今回は、予定通りこなすことができました。
おかげで別の地域にいくことができました。
そこも3度目のところでしたが、
新たな発見がありました。
今まで違う目的で見ていたので
目にしてはいたのですが、
記憶に残っていなかったようです。
人の記憶はいい加減なものです。

・季節の移ろい・
6月の北海道はいい季節です。
今年のYOSAKOIソーランは
6月10日から14日の日程でおこなわれました。
札幌の大通り公園を中心としたイベントが
最大の規模ももので、全国、世界各地からチームが参加します。
この期間終了後も、
チームは各地の祭りやイベントに呼ばれて
なんども踊ることになります。
気の早いチームは来年に向けての準備にも入るのでしょう。
春から初夏の風物詩がひとつずつ進み、
季節が巡っていきます。

2015年5月15日金曜日

125 御嶽山:教訓とすべきこと

 御嶽山は2014年に噴火を起こし、痛ましい事態を招きました。今後、このような事態を繰り返さないために、そこから得られる教訓を私たちは学び取らなければなりません。御嶽山は、私たちに火山噴火にどう向き合うかを、過去にも教えてくれていました。

 御嶽山は、2014年9月27日11時52分に噴火をしました。噴火によって死者57人、行方不明者7名の犠牲者を出しました。これは、戦後最大の火山噴火による犠牲者となりました。御嶽山の噴火を通じて、私たちは、火山についてどのようなことを教訓として学んできたかを見ていきます。そして、2014年の噴火から何を学ぶべきかも考えなければなりません。
 御嶽山は、活火山に指定されていました。ですから火山活動の観測もされていましたが、今回の噴火では痛ましい犠牲者を出してしまいました。その原因を探ることも重要ですが、ここでは、もっと大元のこと、活火山とは何かということについて考えていきます。
 現在活動中の火山であれば、活火山だと誰でもわかります。しかし、活火山でもあっても、活発でない火山や、静かで活動していないようにみえる火山もあります。静かな火山をなぜ活火山と呼ぶのでしょうか。そもそも活火山とはどのような定義なのでしょうか。このエッセイでも活火山については、何度か紹介しているかと思いますが、活火山の定義を紹介してきましょう。
 現在の火山には、広く「火山」という一般的用語と、火山噴火予知連絡会や気象庁が定義している「活火山」があります。
 まず、「火山」です。古い時代の火山も、現在活動中の活火山もすべて、「火山」に含まれます。どんな時代にも火山活動は起こっていましたので、いろいろな時代、いろいろな地域に「火山」はあるはずです。活動を完全に終わっている火山(かつては死火山と呼ばれた)も、現在は全く活動していない火山(かつては休火山と呼ばれた)も、現在活動中の火山(活火山)も、すべて「火山」なります。「火山」は非常に広い意味をもっています。
 かつて使われていた『死火山』は一度も火山活動が記録されていない火山で、『休火山』はかつて活動していた記録がある火山という意味でした。『死火山』、『休火山』という区分は、現在はなくなりました。なぜなら、『死火山』や『休火山』という呼び名は、誤解を招き、時には危険でもある区分だからです。
 御嶽山も、かつて『死火山』と考えられていました。御嶽山は、注意すべき火山とは考えられていなかったのです。ところが、1979年10月28日5時ころ、突然、大きな噴火が起こりました。水蒸気爆発という激しい噴火で、噴煙は高度1000mまで達し、14時には活動が最大になりました。その後、活動は衰えていきました。火山灰は、軽井沢や群馬県の前橋まで観測されています。
 御嶽山は、1979年まで、活火山とは考えられていなかったので、観測体制がとられていない火山でした。前兆現象を調べられることなかったので、前触れもなく、突然の噴火が起こったのです。当時、50名ほどの登山者がいたのですが、負傷者1名だけでの被害ですみました。不幸中の幸いでした。
 現在噴火している西ノ島や桜島、阿蘇山などは、判断に迷うことはありません。噴火の兆候のない火山でも、かつて噴火をしたことが記録に残っているのであれば、活火山にすべきです。御嶽山の噴火の少し前の1975年、火山噴火予知連絡会では「噴火の記録のある火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と定義して、77火山を選定しました。そこには、御嶽山は含まれていませんでした。
 そこに1979年の御嶽山の噴火が起こりました。この噴火により、火山に対する考え方が、大きく考え直されました。記録の有無に頼るのは、危険であることが、実証されたことになりました。
 歴史時代の記録があるものだけを活火山にするのは危険です。なぜなら、歴史時代の記録も、地域により多い少ないがあるはずです。海域のような人が少ない地域、北海道のように人が住んでいても記録を残す文化を持たない地域などでは、激しい噴火が起こっていても、後世に残されていません。また、古文書があるのは、せいぜい千年程度にすぎません。ですから、歴史記録に頼った火山の分類は危険なのです。
 火山噴火予知連絡会は、1991年年に、「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と再定義し、83火山を選定しました。1996年には、その数は86火山となりました。
 人為的な記録だけに頼ることなく、火山の噴火史を科学的に調べることも重要になってきました。地質学者は、すべての火山を調べているわけでありません。また、研究が進むと、「過去およそ2000年以内」という定義も、火山学の進歩により、もっと長い期間の休止後活動することもわかってきました。噴出物の年代測定の精度の向上や火山学の進歩によって、火山の噴火史を、詳細にたどることができるようになってきました。
 2003年、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と再定義し、108個を指定しました。2011年には110個となっています。まだ研究が十分なされていない火山も、多数あります。そのような火山で、今後研究が進むと活火山に指定されていくべきものもあるはずです。
 活火山の指定の背景は、火山学の進歩がありました。そして指定されると観測網が構築され、噴火の兆候があれば、いち早く警報を出す体制ができてきました。
 今回、その警告システムの不備をついて、御嶽山の噴火が起こりました。紅葉のきれいな時期の9月27日、土曜日、晴れの日に、登山者が一番多い時間帯、11時52分に噴火がおこりました。不幸な偶然も重なったのでしょう。
 現状の警報システムに甘んじることなく、よりよいものを考えていくべきでしょう。予知システムの点検も必要でしょう。現状のシステムを点検し、不備があれば修正すべきでしょう。また、登山中の人への警告の発し方、避難所の作り方なども再考すべき点もあるでしょう。
 しかし、私たちの科学は、まだまだ自然を十分理解していないことを銘記すべきです。そこの認識不足が、一番の原因ではないでしょうか。自然に対してもっと謙虚になるべきです。
 私たちは、今回の噴火から、何を教訓とすべきでしょうか。それ皆でを考えていくことが、一番重要なことではないでしょうか。そして、よりよく火山を知るための科学を進めていくことも重要でしょう。そんなことを、2014年の噴火から、私は学びました。

・学ぶこと・
御嶽山の噴火は、まだ1年も経過していません。
重要なことは、今回の噴火から学ぶことです。
いろいろ考えるべきことがあるはずです。
どうすれば、噴火の予兆現象をよりよく捉えられるのか。
噴火はいつ、どこで、どの程度の規模が起こるのか。
多分このような予知は自然現象なので、
特別な火山でないとできなと思います。
しかし、少しでも予兆があれば、
その危険性をいち早く知らせ、対処できれば、
犠牲を減らすことはできるはずです。
たとえ「オオカミ少年」になっても
警告は、繰り返す必要があります。
現状で危険と判断されるのなら、
強制的に立入禁止の措置も必要でしょう。
私たちはもっと学ばなければなりません。

・箱根・
この原稿は5月上旬に野外調査に出るために、
早めから準備をしていました。
箱根か御嶽山で書こうと、準備をしてました。
そして御嶽山で書き始めていました。
そんな矢先、箱根で火山活動が激しくなった
というニュースが流れました。
かつて住んでいた近くでの火山活動です。
観光を生業としている方が多いので
今回の活発化は大きなダメージでしょう。
箱根は火山の恩恵を受けている地域でもあるのです。
その背景には危険性があることを当然考慮すべきでしょう。
いろいろ考えることもありましたが
それは別の機会にしましょう。

2015年4月15日水曜日

124 津軽と奥羽の交差

 まだ春浅き3月に青森にいきました。その時、弘前に行きました。途中に通るなだらかな山地だったのですが、そこは津軽山地と奥羽山脈の境界にありました。青森も弘前も平野なのですが、その趣はだいぶ違っています。

 3月から4月になり、大学は新学期を迎え、校務分掌の変更、歓迎会など慌ただしい日々が続いています。そうこうしているうちに、気づいたら春でした。季節はめぐり、冷え込みもありながらも、春めいた陽気になっていました。西日本や関東では、桜の季節は過ぎたでしょうか。北海道では、桜はまだ少し先です。
 季節は春ですが、今回の話題は、3月に訪れた春まだ浅き青森と弘前の話題です。3月上旬に校務で青森に出かけました。青森空港から、校務のため、弘前に向かいました。弘前駅からはタクシーに乗りました。その時、タクシーの運転手の方と話しのですが、訛りが強くで、何度か聞き直しました。少々わかりにくくても、お国訛りはいいですね。
 今回の校務出張では予備日があり、時間の余裕があったので、どこかを見て回ることにしました。公共の乗り物を利用していくので、辺鄙なところへは行けません。またトラブルがないように、戻ってこなければならないので、遠出はできません。ということで、翌日も再度弘前を訪ねることにしました。目的地は、弘前城とその周辺です。
 青森からはJRの奥羽本線で弘前にいったのですが、途中でトンネルを通ります。奥羽本線が通っているところは、穏やかな地形になっています。国道も高速もこの近くを通っています。少しルートは違っていますが、穏やかな山地の中には青森空港もあります。しかし、少し東には八甲田山の険し山並み、西には成層火山の岩木山や奥深い白神山地などがあります。ここの穏やかな山地が少々気になりました。
 青森市も弘前市も青森県を代表する都市です。いずれも平野にできた街です。青森は港町として、弘前は津軽の中心の城下町として栄えました。青森県は、歴史的には東側の津軽と、西側の南部と大きく分けられ、その区分は今でも残っています。青森と弘前は、津軽を代表する都市です。
 地形図を見ると、青森市は青森湾を抱えて海に面し、穏やかな港となっています。北海道との通行や日本海と太平洋とをつなぐ津軽海峡の通行の寄港地として、古くから交通の要所となっています。海を中心とした交通では、青森は重要な要所になります。青森平野には、堤川や駒込川などの川がありますが、大きな河川はなく、流域面積が狭く、山地が海岸近くまで迫っています。平野としては比較的狭いものです。
 有名な山内丸山遺跡は、青森平野の中ではなく、南西部の丘陵地帯にあります。なぜでしょう。山内丸山遺跡は以前に紹介したこともありますが、海進のためこのような丘陵地に村がつくられていました。温暖な時期に海面が上昇することは、地球温暖化問題でよく話題になっていますので、ご存知の方も多いと思います。平均気温が上がると、陸地にある氷床や氷河が溶けて海に流入することと、海水の膨張も起こって、海面が上昇していきます。海進が起こると、海岸に近い平野は水没していきます。縄文時代は、気温が今より2度ほど高かったので、海面が数メートル上昇していました。ですから、縄文遺跡である山内丸山遺跡は、青森平野の奥の丘陵につくられたのです。
 一方、弘前は津軽平野にあります。津軽平野は、日本海に面しているのですが、非常に奥深い平野になっています。弘前市は、そのもっとも奥、岩木山の東の裾野に位置します。津軽平野は、青森平野と比べて何倍も広くなっています。津軽平野の主河川は岩木川ですが、山間部の流域面積は、それほど広くはありません。ただ平野が細長く広いので、その中を流れている岩木川は、長い河川となっています。
 地理的にも、歴史的にも、青森と弘前はかなり違っています。いずれも重要な都市となっています。弘前から青森まではJRで1時間ほどで、40kmほどしか離れていません。ですから両者の間には、古くから通行が盛んでした。その通路は、津軽山地と奥羽山脈がちょうとずれていて、低い山地になっているとを通っています。JR奥羽本線、国道7号線、東北自動車道が通っています。この交通の要路は、周辺の険しい山並みと比べると、穏やかな地形となっています。この交通の要路は、大局的な地形からすると少々複雑なものになっています。
 東北地方を南北に貫く奥羽山脈が、十和田湖から八甲田山、そして夏泊半島で陸奥湾に終わります。その西に海岸沿いに青森平野があります。奥羽山脈から少し西にずれて津軽山地が北東に伸びていきます。津軽山地は津軽海峡にまで連なります。津軽山地の西側に広い津軽平野が、東南に海に面した青森平野があります。
 奥羽山地の上には八甲田(70万から15万年前ころ)のいくつかの火山、その後に活動した十和田湖の火山(1万8000年から現在)が形成されました。八甲田山から噴出した火山砕屑物が広くたまっています。火山砕屑物は青森平野に向かっても流れています。火山灰や軽石などからできている火山砕屑岩なので、軟らかい岩質で降雨や河川の侵食を受けやすく、現在ではかなり開析が進んでいます。この火山砕屑岩までが奥羽山脈の裾野と見なせません。
 一方、津軽山地は主に堆積岩でできています。時代は1500万から700万年前くらいにたまった地層で、八甲田の火山砕屑岩と比べると硬い岩石です。しかし、堆積岩ですから、火成岩や変成岩、もっと古い岩石と比べると軟らかいので、侵食はそれなり受けています。そのような岩石の性質によって、津軽はそれほどの険しさのない山地となっています。
 青森平野と津軽平野をつなく要路は、奥羽山脈の火山砕屑物がたまっている山地と津軽山地の地層が斜めに交差する位置、地層の境界にあたります。火山砕屑岩の一番先で、一番侵食を受けているところであります。また、青森空港は火山砂接岸の穏やかな丘陵の上につくられています。
 この地質、地形の交差路は、地形的に穏やかなのですが、それでもJR線にはトンネルがあるような地形になっています。残雪も多くなっていました。やはり平野と比べると山地になっています。JRで通ったトンネルは、津軽平野と青森平野とをつなぐ山地にあるものです。地形図を見ているとおがやかな山地に見えるのですが、それなりの険しがありました。
 でも、長い時間が経過すれば、火山砕屑岩はやがて侵食され、平野をつくる材料になっていくのでしょうか。開析が進めば、津軽平野と青森平野はやがてはつながるのでしょうか。でもそれはずっと先、地質学的時間の経過の後の話しです。

・同じ所でも・
弘前の中心部に弘前城があり、
桜の名所となっています。
弘前城も、4月の中旬では、
桜にはまだ少し早いかもしれません。
観光のハイシーズンには
多くの人が興味をもてるものがあり、
オフシーズンにもそれなりの楽しみがあると思います。
私は、地質学に興味があるので、
地形とか石があれば楽しめます。
今回のコースは、実は昨年も同じところを歩きました。
2度いくと1度目には
気づかなかったところも
いろいろ見えてきます。
今回は観光でしたが、
調査でも同じ所へ何度もいきます。
ゴールデンウィーク空けには、
四国で何度かいった所を、
数カ所を回る予定です。

・津軽じょんがら節・
弘前では津軽じょんがら節を
聞かせるところがあり見学しました。
冬の平日だったので、
私ひとりしか見学者がいませんでした。
少々気まずくなって、
演奏者に「ひとりなのにすみません」と声をかけたら
「気にしないで」よくあることです
といってくださいました。
しかし、途中から二名の人が見学に加わったので
気持ちが楽になりました。
青森で夕方校務をすました後、
3名で居酒屋にいきました。
そこは、じょんがら節の生演奏をきかせるところで
一日2つのつがるじょんがら節の演奏を聞くことができました。
いくつかの曲があるのですが、
基本的にすべてアドリブを交えて即興で弾くそうです。
女性と男性の名のある奏者で、
青森の夜を堪能できました。

2015年3月15日日曜日

123 青函トンネル:海峡をつなく念願

 先日は、全国的に大荒れの天気でした。北海道は、内陸も吹雪で海も大時化(しけ)でした。荒天時、空路や海路は交通が途絶します。北海道は青函トンネルで結ばれています。そのメリットを感じる出張をすることになりました。

 3月に校務出張で青森に出かけました。ここ数年は、年に2、3度も青森に来ているでしょうか。校務は予定通り終わったのですが、その日は全国的に大荒れの天気で、早々に千歳空港の発着便の多くが欠航になりました。その影響で、青森から千歳までの便も、欠航になりました。予報では、翌日も荒天が続くと見込まれていました。
 二名の同行者と、急遽対策を考えました。いくつかの案が考えられました。青森から札幌までの陸路のJRの列車で帰る方法、ただし、5時過ぎに出る列車に乗らないと間に合いませんで。翌日の飛行機便に乗る方法もありますが、これは翌日も大荒れの予報なのと、空席が残っている保証はありません。5時前に欠航がわかったので、列車の発車が間近に迫っていました。残された時間がないまま、決断が迫られました。
 私の考えは、陸路で札幌に向かうが、その日は函館までいって一泊して、翌日札幌に列車で向かう方法です。他の二人は翌日に用事があるため、当日、列車で帰る選択でした。大学の担当部署の人の相談した結果、私だけが函館で一泊して、他の二人は当日帰札するという2つに別れることで、OKがでました。3人で列車に乗り、青函トンネルを通って北海道に渡ることになりました。以前にも青函トンネルは通ったことはあるのですが、だいぶ以前で記憶が定かではありません。
 ということで、前置きがなくなりましたが、青函トンネルを紹介していきましょう。
 北海道と本州の間には津軽海峡があり、かつては青函連絡船がJRの青森駅と函館駅を結んでいました。しかし、海が荒れると欠航になったり、1954年には洞爺丸事故という大きな海難事故もありました。北海道と本州を鉄道で繋ぐということは、北海道の人々の念願でもありました。
 戦前(1939から1940年)から、桑原弥寿雄によって青函トンネルの構想が示されていました。そして、戦後すぐの1946年に、トンネルの調査委員会が設置され、陸地の地質調査がはじまりました。その後、海底部の調査が漁船や潜水艇などを使ってこなわれました。そして、1964年5月8日、北海道側で吉岡の調査坑の掘削がスタートしました。1966年3月21日本州側でも竜飛で坑掘削の開始しました。このあたりの事情は、高倉健主演の映画「海峡」で紹介されていました。
 青函トンネルは、青森東津軽郡三厩村(現在の外ヶ浜町)と北海道松前郡福島町との間を結ぶ、全長53.85kmのトンネルで、そのうち23.3kmが水深140mの海底100mのところを通っています。トンネルの海底部では、古いほうから訓縫(くんぬい)層、八雲(やくも)層、黒松内(くろまつない)層、瀬棚(せたな)層とよばれる地層と安山岩類などが分布しています。訓縫層から黒松内層は中新世の地層で、瀬棚層はより新しい鮮新世の地層になっています。青森の陸側には火山岩類が分布しています。
 訓縫層は主に火山岩類からなり、泥岩をともないます。八雲層は硬い頁岩とシルト岩の繰り返し(互層といいます)です。黒松内層はシルト岩と砂岩ですが、火山砕屑岩も含みます。瀬棚層はあまり固まっていない砂岩と礫岩です。特に八雲層と黒松内層下部は軟らかい岩質です。また硬いはずの訓縫層には断層が多数あります。このような地質をもつ海底下では、難工事が予想されました。
 本坑をつくる前に、「先進導坑」という手段がとられました。先進導坑は、地質調査や工法を探りなが掘り進めるというためでもあり、万一の場合の避難通路として、あるいは換気用にももちいられています。そして本坑完成後も、いろいろな目的で利用されています。
 青函トンネル独自の新たな工法として、セメント(セメントミルクと呼ばれています)を超高圧にして軟弱な岩盤に注入して人工的に硬い岩盤に変え、そこを掘っていくというものが考案されました。いろいろと工夫されて掘られたのですが、海底下の不安定な地質であるため、何度もの大量の出水事故もあり、現在も海水が湧き出ています。常時、先進導坑から湧水を汲み出されています。
 1983年1月27日に先進導坑が、そして1985年3月10日に本坑が貫通しました。1964年5月8日から21年かけて、北海道と本州が人工的に陸続きになりました。1987年10月21日には青函トンネルで電車の試運転がおこなわれ、1988年3月13日に海峡線として開業しました。海峡線の開業にともなって、青函連絡船が廃止となりました。こうして本州と交通で陸続きになるという北海道民の念願が一つ、かないました。
 もともと新幹線の導入も考慮されてトンネルの工事はされていたのですが、在来線が先に通りました。そして、2016年3月には北海道新幹線が新青森と新函館北斗間で開業する予定になっています。これが北海道民の二つ目の念願となります。しかし、道都である札幌まで新幹線がくるのは、2030年度末の開業予定なので、あと15年も先のことです。子どもたちの世代がその利便性を享受するのでしょう。2つ目の念願がかなうのは、だいぶ先のことです。
 以前、竜飛崎にある青函トンネル記念館を訪れたことがあります。青函トンネル記念館は、トンネル工事の作業員や物資の輸送につくられて、本州側の旧竜飛海底駅に通じているものです。記念館は、現在もトンネル内のメンテナンス作業に利用され、火災事故の退避ルートともなります。
 青函トンネル記念館を訪れたのは、子どもたちがまだ小さころで、調べたら2007年8月のことでした。竜飛崎から見る海岸は、霧がかかり風があったので、寒々しく感じた記憶があります。そして、海岸で見た火山砕屑岩が、海岸の荒々しさを際立てせていました。青函トンネルを掘った人たちは、この景色をどういう思いをもって眺めていたのでしょうか。
 四国と本州は橋で結ばれています。本州と九州はトンネルと橋で結ばれています。北海道もトンネルで結ばれました。トンネルは天候に左右されない交通路になります。ただしトンネル工事には、多くの時間と費用、労力がかかります。でもその利便性は、何事にも代えがたいありがたさがあります。
 今回の急な帰路の変更によって、私は青函トンネルのありがたさを思い知らされました。本州の人にはわからない、「島」に住む人にとって、陸続きなるという念願は身にしみて理解できました。青函トンネルの工事に携わた人たちは、そんな人々の念願と期待を感じて、海峡を眺めていたのかもしれませんね。

・海峡・
だいぶ以前ですが「海峡」という映画をみました。
この映画では、主演の高倉健が演じた阿久津剛は地質学者でした。
調べたら、1982年の公開でした。
地質学者が主人公の日本映画は稀なのですが
もう一つ、私が知っている「南極物語」があります。
やはり高倉健が主人公で地質学を演じていました。
地質学者と高倉健のイメージが合うのでしょうかね。

・後日譚・
エッセイの導入に書いたのですが、嵐のその後の話です。
私たちは、青函トンネルを通って7時過ぎに函館につきました。
私は、列車のなかで、スマホでホテルを探し予約しました。
ホテルはなんとか空いていたので助かりました。
翌日の切符をとろうとみどりの窓口にいったら、
長蛇の列だったので、翌朝にすることにしました。
ホテルの受付でみどりの窓口の開く時間をきいたら6時だといいます。
私は、朝の早いのは問題がないので、
朝食をとるまえに、6時より早くいきました。
するともう数人の人が並んでいました。
窓口があいて予約をしようとすると、指定席はすべて満席でした。
しかたがないので乗車券と特急券だけを購入して
早めに駅にいって自由席に乗ることにしました。
私は空席があると思って並びもしませんでした。
予想通り実際に空席はあり、座って帰ってきましたが、
途中から混みだし、多く人が通路に立っていました。
当日は大荒れでしたが、列車は少し遅れながらも無事札幌に付きました。
めでたし、めでたし?でしょうか。
でも考えると、欠航から不幸が続き、
一日のロスと費用がかかったことになります。
まあ無事がなりよりということですかね。

2015年2月15日日曜日

122 酒匂川:洪水と金次郎

 以前住んでいたところに関する質問がありました。それに関連して、今まであまり書いていなかった地域として関東地方を題材にしました。今回は、私が住んでいた足柄平野を流れる、酒匂川がテーマです。

 先日、ある方からメールをいただきました。博物館に在籍していた時に作成したホームページについて、質問がありました。内容は、「栢山」の読み方がわからないので、読み仮名をつけてほしいというものでした。旅先だったので、ホームページの修正は帰ってからにすることにして、「かやま」と読みますと答え、修正は後日にすると答えました。
 戻ってきた後、ホームページを調べました。以前お世話になっていたプロバイダーのサーバーに作ったホームページでした。プロバイダーの好意で、私のサイトがまだ残されていました。このサイトは、はじめて個人のホームページをつくりはじめた頃のものでした。
 それ以前でも、研究でインターネットを用いたデータベースの制作などをしていましたが、個人では経費、通信料、自分のスキルではまだまだ出来る状態ではありませんでした。かし、Tプロバイダーさんの好意で、1999年の夏頃から、博物館に在籍している2002年3月までの間の2年半ほど、個人としても情報発信と、いろいろなテストをしていました。そこには、転職にあたっての意気込みなど、今思い出すと恥ずかしいけれど、それなりの動機と必然性をもって行動していたのだなあと感慨をもってみました。そこで基本的なスキルを身に付けることができました。
 前回紹介したように、新たに気持ちでこのエッセイをスタートするために、サイトの構成を刷新すべく、地域別地図を変更し、海外や他惑星なども考えて、準備をしていました。今まではたくさんのエッセイがあるところだけ(北海道、近畿、四国、九州)を地域別に表示していました。しかし、すべてのエッセイを地域に分割して表示することにしました。
 するとよく分かるのですが、関東は2ヶ所しかエッセイにしておらず、非常に手薄でした。それは、私が神奈川県立博物館に在籍していたため、神奈川やその周辺に関するその情報はかなり持っていて、しばらく調査にいく予定がないことや、博物館時代にいっぱいアウトプットしていたので、今さらエッセイを書くことも気が引けていました。
 神奈川を離れてもう10年以上たったし、今回のメールをきっかけにして、かつて住んでいたところも、もう少しアウトプットしていこうかと思いました。ただし、しばらくは出かける機会がないので、画像があまありません。すべて博物館に置いてきました。ですから、ホームページは少々もの足りなくなるかもしれません。
 前置きはこれくらいにして、本題です。今回紹介する場所は、神奈川の足柄(あしがら)平野とそこを流れる酒匂(さかわ)川です。
 以前住んでいたのは、問い合わせのあった栢山というところで、足柄平野の真ん中あたりにありました。栢という字は、「かや」とか「かしわ」と読みます。柏(かしわ)の異字体だそうです。どのような経緯でこの地名になったのかは、私は調べていなのでわかりません。
 栢山の周辺には、富水(とみず)や蛍田(ほたるだ)、沼田などの地名があります。いずれもこの土地の特徴を表している地名です。きれいな水が豊富にあり、夏にはホタルが飛び交い、湿地帯もあるようなところを想像させます。地名の成立の頃と、現在とは状況は違っているでしょう。しかし、地理的な位置関係は今もそのまま残っていて、水が豊かなで、いたるところに湧き水がでて、地下水も豊富なところです。豊かな水は、飲料、農業用水などして利用されています。
 足柄平野の主要河川として酒匂川があります。博物館にいたとき、酒匂川はアプローチもよく、きれいな川なので、川遊びをしながら科学教育の場として活用できるので、何度も出かけました。その成果として、ガイドブック「酒匂川地学散歩」として5冊のシリーズの本を発行することができました。
 酒匂川は、富士山と丹沢山地に源流をもちます。
 足柄平野から富士山のある御殿場のほうにいくには、丹沢山地と箱根の山の間の狭い地域を通ることになります。谷峨(やが)のあたりでは、東名高速(2本)、国道246号線、JR御殿場線、県道76号線などが、ひしめき合って通っている隘路となっています。なぜ隘路になっているかというと、伊豆(現在の伊豆半島)が衝突したためです。
 300万から200万年前ころ、伊豆は現在の小笠原諸島のように、海の火山列島として存在していました。170万から100万年前ころに、伊豆の火山列島が本州に衝突しました。そして60万年から20万年前くらいには現在の半島の姿となりました。谷峨は、まさに、その衝突の現場に当たります。谷峨は、もともと海があったところが、伊豆の陸地が衝突してつながったところ、2つの陸地の境界にあたるところなのです。伊豆の陸地が衝突より以前にも、もうひとつ、丹沢の衝突もあったことがわかっているのですが、別の機会にしましょう。
 酒匂川は、御殿場に抜けると富士山の裾野が広がります。御殿場では、酒匂川は鮎沢(あゆさわ)川という名前の川になります。富士の裾野が北東部分が鮎沢川の流水域になります。谷峨の隘路から想像できないほどの広い流水域となります。また谷峨から丹沢へは、河内(こうち)川という支流があります。河内川も丹沢山塊の南半分を占める広い流水域をもっています。
 酒匂川は、穏やかな下流域と比べると、上流には想像以上に高い山々と広い流域面積をもっています。ですから、御殿場や丹沢で大量の雨が降ると、大量の水が酒匂川に流れ込み、一気の増水します。そのため、近年でも増水による水難事故が起こっています。
 酒匂川は地形的に急な増水が起こりやすいため、「暴れ川」として地域住民を困らせていました。小学校の銅像で有名な二宮尊徳(金次郎)の生家は、酒匂川の栢山にありました。1791年8月5日の台風で酒匂川が増水し、堤が決壊し、生家も父の田畑もすべて流されてしましたました。その後、父と母も亡くし、尊徳は親戚の家にやっかいになり、苦労することになります。元のような農地や家を取り戻すために、努力と工夫して稼ぐことにより、自分の土地を復興させました。その後もいろいろな事業で業績を延ばしていきました。その手腕が広く認められ、農村復興政策の指導者となって各地で活躍することになりました。
 酒匂川は暴れ川であったため、古くから治水に取り組まれてきました。現在の堤防の脇に、「文命堤」と呼ばれるところがあります。これは、8代将軍吉宗の時代におこなわれた大規模な治水工事のあとで、現在も残っています。信玄堤あるいは霞堤といわれる工法を用いた治水です。
 今では、丹沢にダムもでき、しっかりとした堤防もできて、治水がなされています。しかし、油断は禁物で、防災意識は常に持っているべきでしょうね。。
 酒匂川は災いだけをもたらすだけではなく、多くの恵みも与えてくれています。それは、上でも述べたきれいで豊かな水です。箱根の北東側も流域としていおり、そこに降った雨は、南足柄から小田原に豊富な地下水をもたらします。きれない水を使用する工場もあります。
 足柄平野と酒匂川は、二級河川で長さも流域もそれほどではないのですが、水量豊かな川となっています。なにより我が家族のスタート地点でもあります。酒匂川の話を書いていたら、神奈川がへの郷愁が湧いてきました。子どもたちはほとんど記憶していないでしょうが。

・閉鎖・
今回のエッセイのきっかけとなったホームページは
少々古いサイトで、最初のものでした。
当時はデジカメも走りのことで
使用していたのですが、処理するコンピュータも容量も能力も低く、
いかにコンパクトにホームページを作成するかが
コツのようなものがありました。
そして通信料も従量制だったので、
繋ぎっぱなしにすることなどはできませんでした。
ホームページをみると、そんな時代を思い出します。
しかし、管理していいないサイトなので、
そろそろ閉鎖しようと思っています。

・たゆまぬ努力を・
大学は、入試シーズンまっただ中です。
今後も、18歳人口の減少が続き、
どこの私立大学も、入学者の確保に苦戦しています。
我が大学も、いろいろ受験生を増やす努力を続けています。
何が有効かはやってみないとわからないところがあります。
努力を怠ることは、停滞、後退を意味します。
デフレの時代では、このような状況は、
私立大学だけではないでしょうが、
なかなか大変なのです。

2015年1月15日木曜日

121 11年目への旅立ち:今までのお礼

 今回は、地域の地質の紹介はしません。ご了承下さい。このエッセイをはじめて、丸10年が過ぎました。今回は、区切りのエッセイとします。今までを振り返り、今後を考えていきます。少々長くなりますが、お付き合いください。

【はじめに、お礼を】
 月刊GeoEssay「大地を眺める Land View」のスタートは、2005年の創刊号(No.00号、1月3日発行)、そして1月号として毎月15日に定期発行をはじめました。発刊してから、丸10年が過ぎ、今年から11年目になりました。今回のエッセイで121回目の発行になります。そこで、10年間購読いただいた読者に対して、お礼を申し上げたいと思います。これまでこのメールマガジンおよびサイトを続けてこられたのは、読者の方がおられたからです。読者がおられないのであれば、ホームページで勝手に公開するだけでいいわけです。気楽かもしれませんが、多分定期発行はできていなかったと思います。繰り返しになりますが、購読、本当にありがとうございます。
 10年の節目を迎えたので、今までの経緯を振り返り、発行方針や状況で変わったこと、変わらないことを整理して、今後の考えについて紹介していこうと思っています。

【はじまりは】
 月刊GeoEssayの準備をはじめたのは、2004年の秋からでした。
 当時、私は、北海道地図株式会社(以下、北海道地図と略す)から10mメッシュの数値地図を購入するため、コンタクトをとっていました。北海道、神奈川、愛媛県を共同購入することにしていました。本来は、私たちが用意した予算では購入できない範囲を、こちらの予算で購入することができるように配慮頂きました。その関係で、担当や本社の関係者といろいろと話をする機会もあり、会社の訪問もさせていただきました。
 その時、北海道地図が地形解析図を製作販売していることを知りました。地形解析図をみて感動しました。地形解析とは、数値標高のデータを処理をして、地形の特徴をよりよく見せる手法でした。解析による加工により、画像として示すと、地質を反映した地形が明瞭に見えました。
 地質学者は、野外で地形から地質の特徴を読み取っていましたが、時には経験的に読み取っていたものもありました。一般の人にはわかりにくい特徴をとらえていることもありました。ただし、地質学者も人ですから、人間の目で見える範囲やスケールは限られていました。ところが、コンピュータで数値処理をすると、さまざまなスケールで、地形や地質の特徴を浮彫りにすることができました。
 しかも、地形解析の図をみれば、経験でかろうじてとらえていた特徴を、だれでも簡単に理解できることができるのです。これは大きなメリットでした。この表現手法を利用すれば、地質や地形を、多くの人へ視覚的に説明できるのではないかという思い浮かびました。
 地形解析画像に魅力感じたので、それを利用して共同研究をすることを、北海道地図に提案しました。北海道地図は、私の提案を、快く受けてくださいました。そこで話し合た上で、北海道地図がデータの提供をすること、私が文章の作成、公開までをすることにし、そこでは一切、金銭の授受はしないという前提で行なうことにしました。お互いに、ボランティアでの活動ということにしました。
 やり方は、私が調査で出かけた地域を題材に、科学教育の一環として、科学エッセイを毎月一回、書くことにしました。その科学エッセイを、メールマガジンとして発行して、市民に無料配布、公開して、科学の成果を還元することにしました。メールマガジンは文章のみなので、画像をホームページで示すことにました。私が購入した10mメッシュ数値地図、北海道地図からは地形解析図(商品でした)、購入していない地域は無料提供を受け、それを使用することにしました。
 他にも、購入していた北海道の2,500万分の1地図画像、国土地理院が無料公開していた50mメッシュ、250mメッシュなどの数値地図を用いて、無料ソフトの「Kashmir」を用いて地形図や数値地図を合成して、画像を作成して公開していました。
 私が調査した時に撮影した露頭写真や景観写真なども用いて、エッセイを書くことにました。画像は、すべてホームページで公開して、メールマガジンではテキストだけの発刊としました。そして、私自身、IT技術、GIS技術も学んでいこうという気持ちもがありました。

【これまでのこと】
 2005年1月号からスタートし、今回のエッセイで121回になります。エッセイに関しては、毎月いつもの通り発行していましたが、この10年間でいろいろと状況の変化があり、表には出ないのですが、いくつか変わったこともあります。
 まず、北海道地図との付き合いが、2009年3月で終わったことです。当初、どれくらい継続するかを決めずにスタートしましたが、4年3ヶ月も間、データを無料提供をしていただいたことになります。北海道地図にはこのエッセイ担当の方がおられ、私がメールマガジンの題材にする地域を指定したら、数値標高と地形解析やデータを作成するという手間をかけてくださっていました。あるとき、会社の組織再編があり、そこを区切り、データ提供は中止とすることになりました。しかし、北海道地図は、商品である地形解析図を、日本全国分を無料提供くださいました。非常に大量のデータなので、ハードディスクを2台送り、そこに入れてもたった記憶があります。また、そのデータ処理のためにプログラムを作成し、何日もコンピュータを動かしっぱなしにして計算した記憶があります。その結果、私がこのサイトで地形解析データを利用することができています。
 無料で利用できるデータを、いろいろと加えていきました。まず、Landsatの衛星画像が無料で公開されていることを知り、それを利用しています。国土地理院からは10mメッシュの数値地図が無料公開されるようになりました。それまで10mメッシュは北海道地図の重要な商品でしたが、それが終わったことになります。また、5mメッシュの数値地図も段階的に無料公開されています。
 エッセイでも紹介しましたが、アメリカNASAのSRTM3(90mメッシュの数値標高)や日米のASTERによるG-DEM(30mメッシュ)も、無料公開されてきました。G-DEMは精度がよく世界を網羅しているので、非常に有用なデータとなります。ただし、G-DEMはダウンロードの量が膨大になり大変ですので、日本周辺しかダウンロードしていません。
 時代の進歩とともに、公共機関からでデータの公開され、ありがたく利用しました。それを商品としていた北海道地図さんが苦境に立たされたのは、複雑な思いもあります。

【変わらないこと】
 長年発行をしてきたのですが、変わらないこともありました。基本方針として、私が調査した地域を題材にすることでした。日本にこだわっていました。日本の海岸線や代表的河川で試料を採取するという当初の研究目的があったためです。
 次に、IT技術には注目をしていて、常に新しい導入を心がけることでした。連載開始の頃からいろいろと新しい技術に取り組んでいきた、数値地図の利用だけでなく、GPSの利用、パノラマ画像の合成などに取り組んできましたが、これらの一部は、今では当たり前になり、装置もソフトも何度も更新されてきました。今後もこのような更新は続くでしょう。スマートフォーンにはすべて入るようになってきました。しかし、専用機にはまだおよびませんが。

【これからのこと】
 さて、これからのことです。
■GeoEssayはこれからも発行します
 何人かの読者には、エッセイが取り上げた地を、見学に出かけられる人もおられます。そして楽しんで読まれている方もおられます。ですから、毎月、紹介することも、重要なことだと思い、励みにもなっています。ですから、今後も、この月刊エッセイは継続していきたいと考えています。ただし、いくつか方針を変更していこうと考えています。
■万遍なくにこだわらない
 もともとこのエッセイは、私の研究テーマの一つとして、日本の海岸線や河川の調査がありあした。そのため日本全国の海岸を巡るという野外調査をしていて、その時に感想や画像を素材に作成していました。今までのエッセイを見ていただくとわかるのですが、関東、中国などは手薄です。現在でも、日本の海岸線や河川の調査は続けたいと思っているのですが、なかなか出かけられなくなりました。ですから、これからは日本全国の海岸線、河口を万遍なく調査するということはできなくなりました。日本全国万遍なくという希望は継続しながらも、こだわることを止めることにしました。
■地域の重複を気にしない
 子どもが小さいうちは家族旅行であちこちっていたものをネタにしていたのですが、最近では野外調査で出かけられる時間が限られてきました。目的と日程を絞って野外調査をする必要性がでてきました。現在の研究テーマが、九州、四国、南紀を中心にしたものになっています。あと数年は、この地域で調査が継続しそうです。ですから、他地域にでかける機会が、ほとんどなくなりました。ですから、現状に合わせて、同じ地域でも重複を気にすることなく、紹介することにします。
■日本、地球にこだわらない
 発刊当初は、北海道地図との関係(データの提供を受けていた)があったので日本に限定されていました。その関係が現在ではなくなり、日本にこだわる必要もなくなりました。上述したように、全地球の各種の数値標高データが無料公開されています。ただし、私は海外に出かけることは、しばらくできそうにありませんが。以前訪れたところもあります。新情報ではないですが、海外の地質や地形の紹介もしていこうと考えています。行きたいところも色々ありますので、それらを素材にして書くことも考えています。
 さらに、日本だけでなく、海外にテーマを広げ、さらに地球だけでなく、火星や金星など他天体の地形、地質の情報も可能であれば紹介していこうと考えています。ただし、現在扱えるのは、火星と金星のデータだけで、それも古いものです。

 これからのことををまとめると、次のようになります。
・エッセイはこれからも継続発行
・「万遍なく」という制限は考えない
・地域の重複も気にしない
・興味のある地域を、日本、地球にこだわることなく選定

【さいごに】
 このエッセイを続けてきて、思い返すと、いろいろなことがありました。忙しくて書く時間とれず、遅れたこともありました。調査のあとは、書くことがあれこれあり、どこから書こうか迷っていることもありました。
 時間があり、地域さえ決まれば、書くことは私は苦はなりません。ただし、今までの「しかたり」めいたものがあり、それに続縛されてネタを探すのに苦労したことが、たびたびありました。
 今回の方針変更で、地域選定の負担は減りました。また、行きたい地域、行ったこともない地域、同じ地域も素材にできるようになりました。これは、私にとっては、非常に気が楽になり、地域選定も楽しくなり、書きやすくなりました。これからも、問題が起きない限り、継続して発行していこうと思っています。
 最後に繰り返しになりますが、購読者の方々、今まで本当にありがとうございました。これからも、よろしければお付き合いください。ただし、興味がなくなれば、いつでも購読の解除をしてくださって結構です。お互い、気軽に楽しんでいきましょう。

・No. 00・
スタートした時の番号をNo. 00号としたのは、
なぜ二桁にしたのか記憶は定かではありません。
年限を決めていなかったのですが、
数年で終わるつもりで
100号までいくとは予想していなかったのでしょう。
いろいろ事情は変わってきたのですが、
その都度、それなりの理由で継続することにしました。
その結果、10年の長きに渡り、継続することになりました。
今後は、少々発行方針を変えることにしましたが、
淡々と継続していきたいと思いっています。

・しきたりを捨てる・
今回、10年目を迎えるに当たり、
地域によっては、ホームページの地図が混在してきたので、
すべてを地域別に表現することにしました。
すると、関東や中国地域など、
エッセイに取り上げている地域が少ないことに気づきました。
それをどう埋めようか考えたのですが、
行く時間がなかなかとれそうにもありません。
それで、このエッセイの「そもそも」を考えていたら、
どうも、根拠の消えた「しきたり」に縛られている気がしました。
しかし、メールマガジンですから、
ある目的をもって読まれている方もおられるので、
無断で「しきたり」を変えるのは良くないと思い、
今回の10年目の区切りのエッセイを書いて、
方針を少々変更することにしました。
次回をどこにするか、今から楽しみなってきました。
もちろん、まだ未定ですが。