2015年3月15日日曜日

123 青函トンネル:海峡をつなく念願

 先日は、全国的に大荒れの天気でした。北海道は、内陸も吹雪で海も大時化(しけ)でした。荒天時、空路や海路は交通が途絶します。北海道は青函トンネルで結ばれています。そのメリットを感じる出張をすることになりました。

 3月に校務出張で青森に出かけました。ここ数年は、年に2、3度も青森に来ているでしょうか。校務は予定通り終わったのですが、その日は全国的に大荒れの天気で、早々に千歳空港の発着便の多くが欠航になりました。その影響で、青森から千歳までの便も、欠航になりました。予報では、翌日も荒天が続くと見込まれていました。
 二名の同行者と、急遽対策を考えました。いくつかの案が考えられました。青森から札幌までの陸路のJRの列車で帰る方法、ただし、5時過ぎに出る列車に乗らないと間に合いませんで。翌日の飛行機便に乗る方法もありますが、これは翌日も大荒れの予報なのと、空席が残っている保証はありません。5時前に欠航がわかったので、列車の発車が間近に迫っていました。残された時間がないまま、決断が迫られました。
 私の考えは、陸路で札幌に向かうが、その日は函館までいって一泊して、翌日札幌に列車で向かう方法です。他の二人は翌日に用事があるため、当日、列車で帰る選択でした。大学の担当部署の人の相談した結果、私だけが函館で一泊して、他の二人は当日帰札するという2つに別れることで、OKがでました。3人で列車に乗り、青函トンネルを通って北海道に渡ることになりました。以前にも青函トンネルは通ったことはあるのですが、だいぶ以前で記憶が定かではありません。
 ということで、前置きがなくなりましたが、青函トンネルを紹介していきましょう。
 北海道と本州の間には津軽海峡があり、かつては青函連絡船がJRの青森駅と函館駅を結んでいました。しかし、海が荒れると欠航になったり、1954年には洞爺丸事故という大きな海難事故もありました。北海道と本州を鉄道で繋ぐということは、北海道の人々の念願でもありました。
 戦前(1939から1940年)から、桑原弥寿雄によって青函トンネルの構想が示されていました。そして、戦後すぐの1946年に、トンネルの調査委員会が設置され、陸地の地質調査がはじまりました。その後、海底部の調査が漁船や潜水艇などを使ってこなわれました。そして、1964年5月8日、北海道側で吉岡の調査坑の掘削がスタートしました。1966年3月21日本州側でも竜飛で坑掘削の開始しました。このあたりの事情は、高倉健主演の映画「海峡」で紹介されていました。
 青函トンネルは、青森東津軽郡三厩村(現在の外ヶ浜町)と北海道松前郡福島町との間を結ぶ、全長53.85kmのトンネルで、そのうち23.3kmが水深140mの海底100mのところを通っています。トンネルの海底部では、古いほうから訓縫(くんぬい)層、八雲(やくも)層、黒松内(くろまつない)層、瀬棚(せたな)層とよばれる地層と安山岩類などが分布しています。訓縫層から黒松内層は中新世の地層で、瀬棚層はより新しい鮮新世の地層になっています。青森の陸側には火山岩類が分布しています。
 訓縫層は主に火山岩類からなり、泥岩をともないます。八雲層は硬い頁岩とシルト岩の繰り返し(互層といいます)です。黒松内層はシルト岩と砂岩ですが、火山砕屑岩も含みます。瀬棚層はあまり固まっていない砂岩と礫岩です。特に八雲層と黒松内層下部は軟らかい岩質です。また硬いはずの訓縫層には断層が多数あります。このような地質をもつ海底下では、難工事が予想されました。
 本坑をつくる前に、「先進導坑」という手段がとられました。先進導坑は、地質調査や工法を探りなが掘り進めるというためでもあり、万一の場合の避難通路として、あるいは換気用にももちいられています。そして本坑完成後も、いろいろな目的で利用されています。
 青函トンネル独自の新たな工法として、セメント(セメントミルクと呼ばれています)を超高圧にして軟弱な岩盤に注入して人工的に硬い岩盤に変え、そこを掘っていくというものが考案されました。いろいろと工夫されて掘られたのですが、海底下の不安定な地質であるため、何度もの大量の出水事故もあり、現在も海水が湧き出ています。常時、先進導坑から湧水を汲み出されています。
 1983年1月27日に先進導坑が、そして1985年3月10日に本坑が貫通しました。1964年5月8日から21年かけて、北海道と本州が人工的に陸続きになりました。1987年10月21日には青函トンネルで電車の試運転がおこなわれ、1988年3月13日に海峡線として開業しました。海峡線の開業にともなって、青函連絡船が廃止となりました。こうして本州と交通で陸続きになるという北海道民の念願が一つ、かないました。
 もともと新幹線の導入も考慮されてトンネルの工事はされていたのですが、在来線が先に通りました。そして、2016年3月には北海道新幹線が新青森と新函館北斗間で開業する予定になっています。これが北海道民の二つ目の念願となります。しかし、道都である札幌まで新幹線がくるのは、2030年度末の開業予定なので、あと15年も先のことです。子どもたちの世代がその利便性を享受するのでしょう。2つ目の念願がかなうのは、だいぶ先のことです。
 以前、竜飛崎にある青函トンネル記念館を訪れたことがあります。青函トンネル記念館は、トンネル工事の作業員や物資の輸送につくられて、本州側の旧竜飛海底駅に通じているものです。記念館は、現在もトンネル内のメンテナンス作業に利用され、火災事故の退避ルートともなります。
 青函トンネル記念館を訪れたのは、子どもたちがまだ小さころで、調べたら2007年8月のことでした。竜飛崎から見る海岸は、霧がかかり風があったので、寒々しく感じた記憶があります。そして、海岸で見た火山砕屑岩が、海岸の荒々しさを際立てせていました。青函トンネルを掘った人たちは、この景色をどういう思いをもって眺めていたのでしょうか。
 四国と本州は橋で結ばれています。本州と九州はトンネルと橋で結ばれています。北海道もトンネルで結ばれました。トンネルは天候に左右されない交通路になります。ただしトンネル工事には、多くの時間と費用、労力がかかります。でもその利便性は、何事にも代えがたいありがたさがあります。
 今回の急な帰路の変更によって、私は青函トンネルのありがたさを思い知らされました。本州の人にはわからない、「島」に住む人にとって、陸続きなるという念願は身にしみて理解できました。青函トンネルの工事に携わた人たちは、そんな人々の念願と期待を感じて、海峡を眺めていたのかもしれませんね。

・海峡・
だいぶ以前ですが「海峡」という映画をみました。
この映画では、主演の高倉健が演じた阿久津剛は地質学者でした。
調べたら、1982年の公開でした。
地質学者が主人公の日本映画は稀なのですが
もう一つ、私が知っている「南極物語」があります。
やはり高倉健が主人公で地質学を演じていました。
地質学者と高倉健のイメージが合うのでしょうかね。

・後日譚・
エッセイの導入に書いたのですが、嵐のその後の話です。
私たちは、青函トンネルを通って7時過ぎに函館につきました。
私は、列車のなかで、スマホでホテルを探し予約しました。
ホテルはなんとか空いていたので助かりました。
翌日の切符をとろうとみどりの窓口にいったら、
長蛇の列だったので、翌朝にすることにしました。
ホテルの受付でみどりの窓口の開く時間をきいたら6時だといいます。
私は、朝の早いのは問題がないので、
朝食をとるまえに、6時より早くいきました。
するともう数人の人が並んでいました。
窓口があいて予約をしようとすると、指定席はすべて満席でした。
しかたがないので乗車券と特急券だけを購入して
早めに駅にいって自由席に乗ることにしました。
私は空席があると思って並びもしませんでした。
予想通り実際に空席はあり、座って帰ってきましたが、
途中から混みだし、多く人が通路に立っていました。
当日は大荒れでしたが、列車は少し遅れながらも無事札幌に付きました。
めでたし、めでたし?でしょうか。
でも考えると、欠航から不幸が続き、
一日のロスと費用がかかったことになります。
まあ無事がなりよりということですかね。