2016年12月15日木曜日

144 熊野酸性岩類:ジオパークの地

 熊野は和歌山と三重にまたがっています。熊野には奥深い山々が広がっています。そこには酸性火成岩が分布しています。島弧のマグマによって形成されたものです。しかし、形成のメカニズムは、まだ十分に解明されていません。

 熊野は、紀伊半島の南部の地域で、かつては牟婁(むろ)郡と呼ばれていました。牟婁郡は、東西南北に4つに分けられ、和歌山県には西牟婁郡と東牟婁郡が、三重県には北牟婁郡と南牟婁郡があります。
 熊野は、地質学的には付加体から構成されていますが、ほかにも列島固有(島弧といいます)のマグマの活動の多様性を知る上でも重要な地域です。島弧の火成活動は、海洋プレートの沈み込みによって引き起こされます。その典型が、東北日本、伊豆-小笠原諸島などの火山列となります。
 西日本(地質学では西南日本と呼びます)では、山陰地方と九州に火山は存在しているのですが、四国や近畿には古い時代に活動した火山はあるのですが、典型的な島弧の活火山はありません。
 西南日本の本来なら火山列あっていいところに、マグマの活動は起こっていました。潮岬(南紀)、足摺岬(四国)の海沿いから、海から少し離れた内陸でも、火成岩が点々と分布しています。火山岩から深成岩が分布しています。噴出したものもありますが、多くは地下でそれほど深くないところに貫入したマグマが固まった岩石が大半です。そして、より内陸側には深成岩が分布しています。
 ただし、これらの火成岩類は少々時代が古い時代の活動になります。時間が立てば、険しい山では、地表あったかもしれないマグマによる火山活動が、侵食を受けてなくなってしまった可能性があります。地下で活動したマグマでも、時間が立てば侵食で地表に現れることがあります。深成岩は、マグマが深いところでゆっくりと冷え固まったものです。深成岩が出ている場とは、かつて地下だったところを見ていることになります。
 熊野では深成岩は、より内陸にあるので、侵食が進んで深部のものが露出しているようです。少し海側には、地下ですが深成岩より浅いところで固まった貫入岩類が多くなります。
 紀伊山地には火成岩体が分布しているのですが、深成岩を大峰花崗岩類、海側のものは熊野酸性岩類と呼ばれています。紀伊山地の奥には、大峰花崗岩類が分布しています。
 酸性岩というのは、マグマの種類を示すもので、珪酸の多いがものをいいます。深成岩でいうと花崗岩となり火山岩でいうとデイサイトや流紋岩になります。これらの酸性火山岩は、島弧でもよく見られるものです。
 熊野酸性岩類は1400万年前に活動した花崗岩マグマの活動によるものです。紀伊半島の東部、和歌山から三重にかけて広く分布しています。この地域は、沈み込みに伴う付加体が形成された後、列島と沈み込み帯の間(前弧海盆と呼ばれている)にある、陸からの堆積物がたまるところになっていました。そこに、沈み込みに伴って、マグマの活動が起こりました。それが熊野酸性岩類です。
 熊野酸性岩類は、現在の沈み込みの配置から考えると、マグマの活動の場が、少々海に近すぎるという不思議が点があります。熊野酸性岩類には、同時代に活動してた古座川弧状岩脈と呼ばれる、もっと海に近い貫入岩類が活動しています。熊野酸性岩類よりもう少し古い1500万年前には、潮岬火成複合岩類が、もっと海側で活動しています。これらの火成岩類は、現在の島弧の火成作用を理解する上でも、重要な役割を持っているはずです。しかし、その解明はまだこれからです。
 熊野は山が奥深いので、海岸沿い以外は、川沿いにある道路からのアプローチが主となります。ですから、熊野川沿いで、これらの熊野酸性岩類が分布していますので、見て回ることにしました。それらのいくつかみることが今回の目的のひとつでした。
 熊野は宗教的な聖地として、世界遺産に登録されています。ほかにも、2014年8月に日本ジオパークとしても認定されていますので、地質学でも有名なところであります。
 世界遺産は、いろいろな遺産を保護することが主目的で、保護された遺産を観光資源としていますが、保護が最優先されます。ジオパークは、地質学的な特徴をもった地域の自然を、地域の文化や習慣も含めて、保全しながらも「活用」していくものです。活用の方法として、教育への利用、地質を楽しむ旅(ジオツーリズム)なども重要な要素としています。ジオパークは、保全(conservation)、教育(education)、ジオツーリズム(geotourism)を重視しています。それら3つの行うために、地域の人々が重要な役割を担いうことになります。ですからジオパークは世界遺産とは少々目的も手段も違っていることになります。
 ジオパークでは地質のポイント(ジオサイトと呼ばれる)が設定され、解説パネルなどが設置されるようになりますので歓迎です。露頭や景観の地質の説明を読みながら、見学することができるので、利用させてもらっています。
 熊野本宮大社から熊野川沿いの国道168号にも、いくつか有名なジオサイトがあるのですが、新宮市相賀で高田川が合流するところで、川の対岸(三重県南牟婁郡紀宝町浅里)に大きな岩の崖が見えてきます。そこには、見事な柱状節理が発達した花崗岩類が見えます。こんなに立派な崖があるのですが、対岸は、三重県なのでジオサイトになっていません。残念ですが。

・縛られずに・
9月にいった南紀の調査では、
いくつもの地点を見てきたのですが、
全部を紹介する前に、2016年が終わってしまいました。
まあ、興味の向くままで書いていくので、
どのような地域を取り上げるかは、
その月の執筆にならなければわかりません。
今回のように大きな地域を漠然と取り上げたり、
小さな地質、地理的な素材を取り上げることもあります。
何者、何事にも縛られずに
エッセイも来年も継続していきたいと思っています。

・残る自然・
熊野は、紀伊山地にあります。
紀伊山地は山が深く、河川も多数ありますが、
開析が進んでいるので、深い谷が多く、平地が少なく、
海岸沿いに小さな平地が点々と存在します。
小さな町が、そこに形成されています。
ただ、中央構造線に沿って流れる
紀の川には平地が広がっていますが。
山が海にまで迫っているので、
熊野は、開発が遅れていました。
そのために、自然が今に残されているのでしょう。

2016年11月15日火曜日

143 豊富温泉:効能と好悪と

 温泉に入るのは楽しいものです。一時、日頃の憂さを忘れて、のびのびできるのが、温泉の一番の効用ではないでしょうか。人によっては、特徴のある温泉が好む人もいます。そのような温泉に豊富温泉があります。

 どこかに一泊で出かけるときには、できれば温泉があるところに泊まりたいものです。本州だけでなく、北海道は温泉が多い地域であります。目的地の市町村内に温泉があったり、なくても探して近隣の温泉を見つけて宿泊したくなります。泊まったところの温泉が、変わった泉質であれば、好奇心もあり、すぐに入ってみたくなります。でも、個性のある泉質の場合は、自分に合う合わないがあるのです。通りすがりの旅人にすれば、温泉の好悪も、一興ではないでしょうか。
 さて、話しは変わります。先日の日曜日(2016年11月6日)、北海道は強烈な寒波に襲われ、各地で激しい吹雪を伴う積雪がありました。この時期に積雪することがあるのですが、吹雪くこと、そして積雪量もかなりで、除雪車がでるようなことはめったありません。そんな珍しい荒天でした。こんな日は自宅でじっとしているのが一番です。
 こんな日でも仕事の関係で、移動しなければならない人もいます。ご苦労なことだと思います。まさか自分が、そんな日に移動しなければならなくとは思いませんでした。高速道路を用いて、長距離、それも荒天の予想される海岸沿いを進む必要ありました。事故やトラブルがあると困るので、出張は中止にしようかと思いましたが、相手があることで、日曜日なので相手に連絡もできない状況でした。
 出かけるしかなく、覚悟を決めて、余裕をもって2時間ほど早目に自宅を出ることにしました。もしトラブルがあっても対応できるに備えました。目的地は、雪のない時に比べて1時間遅くなりましたが、幸いなことに予定より1時間早く3時過ぎにつくことができました。あとでニュースをみると、札幌近郊や峠越えの高速道路などは、あちこちが通行止があったようです。宿泊予定に着くことができ、翌日の用務は、無事、終えることができました。
 実は、秋のはじまる9月中頃にも、別の校用で、同じところに出張に来ていました。そして今回は、9月から2ヶ月後に再訪となりました。9月も11月も短い用務なのですが、遠いところなので、前泊することになります。9月に滞在した時には、町内にある温泉地に宿泊しました。
 その目的地は豊富町でした。道北の稚内市のすぐ南側にある街です。豊富は小さいですが、日本海側に広がるサロベツ原野が広かっていることで有名な町です。しかし、今回はサロベツ原野の話題ではありません。温泉の話しとなります。
 9月に豊富にいったときに宿泊したのが、豊富温泉でした。最北の温泉郷と謳っていますが、稚内温泉や利尻島にもいくつか温泉が見つかって最北ではありません。しかし、泉源や温泉施設がいくつか集まっているようなところとして温泉郷と呼べるのは豊富温泉が最北なのかもしれません。まあ、定義はさておき、豊富温泉が、有名なのはその泉質によります。
 私の到着してすぐに入りました。実は豊富温泉のことを詳しく知らずに、普通の温泉だと思って入浴しました。風呂場にはいるとすぐに、強烈な石油の匂いがすることに気づきました。豊富温泉は、温泉には石油の成分を含んでいることで有名です。
 豊富温泉は、1926(大正15)年、石油探査のためにボーリングしているとき、960mまで掘削したところ、高圧の天然ガスと共に43℃のお湯が噴き出しました。これが温泉の発見となりました。その温泉を、小屋をたてて地元の人が利用していました。1930(昭和5)年には、温泉旅館の営業がはじまりました。これが、豊富温泉のはじりだそうです。
 その後、温泉だけでなく、天然ガスも利用されてきました。天然ガスによる発電が行われ、広く供給され利用されていて、現在でも温泉地域で使われているそうです。ただ、設備の老朽化が進んでいるそうです。調べたところ、肝心の石油は、温泉以外には利用されていないようです。
 私が宿泊しているとき、温泉内であった人と話をしていたら、その人は旭川から毎月で湯治に来るとおしゃっていました。その人の奥さんがアトピーで、1、2年かよって、だいぶ良くなってきたそうです。
 豊富な油分が保湿や保温の効果に優れているそうで、皮膚病やヤケドに古くから効果があるとされているそうです。全国から湯治に来られる方がいるそうです。効果の実体験は、いろいろ報告されているのようですが、温泉の効能は医学的に実証されているものは、それほど多くありません。万人に効くとは限らないので、自分の責任で対応する必要があります。
 人によっては、症状が悪化することあるかもしれません。また、豊富温泉の一番の特徴である、石油の匂いや油分が苦手な人います。豊富温泉のように個性の強い温泉は、好悪がはっきりと分かれる温泉といえそうです。匂いが苦手な人とは、実は私なのですが、これは好みの問題ですので、致し方ありません。
 でも、温泉の一番の効能は、温泉に浸かったときにでる、ホッというため息に現れているのではないでしょうか。とくに露天風呂などで雪を見ながら、温泉に浸かっているときの、開放感と暖かさは、体も心も癒やされます。これが、一番の効能と思えます。それに加えて、美味しい食事と一杯のお酒は、薬ともなりそうですが、これは私だけでしょうかね。

・サロベツ原野・
豊富の一番の観光は、何といってもサロベツ原野です。
サロベツ原野の話題は、以前にも
このエッセイで取り上げたことがあります。
「GeoEssay 24 サロベツ原野:時間以上になくしたもの」
として紹介しました。
もし興味をお持ちでしたら、ご一読いただければと思います。
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2006/24.html
9月は、豊富に前泊でしたので、早目に到着して、
サロベツ原野や丘陵地帯の大農場を見て周りました。
平日でもあったので、観光地だというのに人気の少ない状態でした。
そんな湿原や酪農地帯は、少々侘しさを感じました。
多分、これは曇った天気のせいもあったのでしょうね。

・温泉の油分・
温泉から上がってから、旅館の女将さんと、
温泉についていろいろと話をしました。
石油の油分についても話を聞きました。
以前は油分を流さずにでると、
シャツが茶色く染まるほど油分が豊富だったそうです。
今でも、匂いや油分はあるのですが、
その量はだいぶ減ったそうです。
温泉上がりに、体についていた油分が
ずっと残っているようで、この匂いがダメでした。
ですから、次回の宿泊地は、別の町の温泉に泊まりました。
そこは油分はなかったのですが、石油臭がすることろでした。
やはりその匂いがダメでした。
どうも石油の匂いは、私には合わないようです。

2016年10月15日土曜日

142 宇久井半島:あれもこれも

 宇久井半島は小さいのですが、日本列島の縮図というべきほど、あれもこれもといろいろな地質が見ることができます。観光コースからは外れていますが、なかな見どころ満載で、地質に興味のある人にはいいところです。

 和歌山県の那智勝浦町と新宮(しんぐう)市の間に、太平洋に小さく突き出た宇久井(うぐい)半島があります。宇久井半島は那智勝浦町の東はずれにあたります。那智勝浦というと、那智大社や那智滝が有名で、多くの観光客が訪れるところです。
 宇久井半島も吉野熊野国立公園に含まれているので、きれいな景観があるはずです。今回、宇久井半島にある宿舎に泊まったのですが、この半島は、国立公園でもあり、ジオパークのジオサイトにもなっています。そこまでは知っていたのですが、あまり注目していませんでした。ところが訪れてはじめて、ここが地質学的になかなか興味深いところであることがわかりました。さすがにジオサイトになるだけの内容があります。訪れてから予定を変更して、宇久井半島をじっくりと見ることにしました。
 そもそもは、宿舎に行く道の途中に、「宇久井ビジターセンター」に立ち寄ったことがきっかけでした。その日は、熊野本宮から新宮、そして那智の滝周辺にかけて、点々と地質を見てきて、天気もよくかなり歩き回ったので、少々疲れていました。しかし、ビジターセンターでの宇久井半島のジオパークの説明を見ているとなかなか見どころがあります。
 宇久井半島が、もともとは島でした。ところが縄文の海進により、本島と島の間に砂州が発達したそうです。海進が終わると、砂州が陸化して、陸繋砂州(トンボロ)となり陸続きなったそうです。その地形が展望台からみえるそうです。また、ホテルのすぐ近く浜(半島の東)には、見事な柱状節理があり、そして半島の反対側(半島の西側)には少々変わった石があるということです。
 センターの人と話をしていると、そんな多数の見どころが、すぐに行けることがわかりました。これはじっくりと見なければならないところです。その日は疲れていたので、翌日に見て回ることにしました。
 翌朝、宿舎の脇の道を下って「外の取(そとのとり)」の海岸にでました。台風の影響で風の強い日でしたが、見事な柱状節理がありました。この節理は、熊野火成岩類からできています。通常、柱状節理は玄武岩などの塩基性マグマで見られることが多いのですが、ここでは酸性マグマからできています。風化面も淡い色で、岩石の表面を見ると大きな長石の斑晶を多数含んでいる酸性火成岩であることがわかります。
 半島の大地の大部分は、熊野酸性岩類からできているのですが、少しだけですが牟婁層群が、宇久井半島の西南の地玉(ちごく)の浜の海岸沿いにですが分布しています。牟婁層群は付加体として形成されたものです。その牟婁層群の中に、オルソクォーツァイト(orthoquartzite)とよばれる礫が含まれているのです。
 オルソクォーツァイトとは、正珪岩と呼ばれることがありますが、ほぼ石英だけからできている岩石です。顕微鏡で詳しく見るとわかるのですが、オルソクォーツァイトは、丸い石英の粒が集まってできています。粒子の間も石英です。これは石英の礫からできた堆積岩なのです。しかし石英だけからできている堆積岩は、日本ではみかけません。大量にあるのは、大陸地域です。
 大陸を形成している深成岩である花崗岩の仲間が風化を受けます。すると花崗岩を構成している長石や黒っぽい鉱物(雲母、角閃石など)は溶融、侵食でなくなったり、小さくなり、頑丈な石英だけが残ります。砂漠などそのいい例です。風化をうけた石英は丸くなっていきます。このような石英が集まると、オルソクォーツァイトができます。ただし他の礫や鉱物が混じらないということは、大きな大陸で風化で石英だけが残っているところが礫の供給源となっているということです。大陸内部の湖や、大きな大陸の縁で堆積したものだと考えられます。
 このオルソクォーツァイトは、大陸縁でできた堆積岩が、砕かれて牟婁層群がたまっている環境(海溝近く付加体)にまでたどり着いたのです。オルソクォーツァイトの地層は大陸にはよく見られる岩石ですが、現在の日本列島には地層としては全くありません。ですから、ここのオルソクォーツァイトは、ユーラシア大陸から流れてきたもので、日本列島が大陸の縁にあった証拠となると考えられています。
 地玉の浜では、地層の分布はそれほど広くはないのですが、多数のオルソクォーツァイトの礫をみることができます。なかなか興味をそそる履歴をもった礫岩です。
 半島の尾根には展望台がつくられており、そこからは宇久井半島の付け根をみることができます。木があって少々見づらいのですが、付け根が、平らな低地になっていることがわかり、砂州からトンボロになった地形であることがよくわかります。
 宇久半島は、日本列島に履歴の不思議、酸性マグマの柱状節理、新しい時代の地質現象まで、いろいろな時代、いろいろな履歴をもった岩石や景観が見ることができます。小さい半島なのですが、ビジターセンターもあり、人も常駐しています。見どころへのアプローチも整備されており、地質を見学するにいいところです。
 今回はもともとは、宿泊だけの予定でしたが、いろいろな地質の見どころも味わうことができて、儲かりました。

・冬の足音・
北海道は、冷え込んだ日が何度もあり、
大学もとうとう暖房が入りました。
我が家では、もちろんとっくに暖房をたいています。
私の外出着も、手袋にマフラーと冬仕様になってきました。
里への雪はまだですが、山並みは何度か冠雪がありました。
今はまだ秋なのですが、
いよいよ冬の訪れを感じさせる季節になりました。

・代償として・
大学は、授業がはじまると、日々の流れや早くなります。
講義数が多くて、毎日、毎週、慌ただしく過ごしていて、
なかなか息抜きをする時間がありません。
その隙間時間をぬって、研究をしています。
時間がない中で仕事しているのですが、
集中しているせいでしょうか。
それとも詰めが甘いまま手放すためでしょうか。
とりあえず形だけは整えて、
結果として成果の数だけが増えます。
研究は数より質、内容だと思っているので
少々不安も不満もあります。
でも、ないよりある方がいいのは確かです。
忙しさの代償を持っているような気もします。
でも忙しさの影では、心がすり減っているような気がします。
私の世代では、しかたない状況なのでしょうかね。

2016年8月15日月曜日

140 平取:イザベラの見たオキクルミ

 今回は、平取への旅です。平取は、アイヌ文化が継承されいている地です。この旅では、平取を訪れるとともに、過去の旅人の足跡をたどり、旅をする人の気持ちや旅への思いを馳せる旅でもありました。

 6月下旬に校務で平取(びらとり)にいきました。平取は、苫小牧から日高に向かう途中にある町です。日高自動車道が通じているので、札幌からでも高速道路を使えば、比較的短時間にたどり着けます。1時間ほど早く着いたので、平取の町を少しぶらぶらしました。
 沙流(さる)郡平取町は、沙流川ぞいに東西に長くのびる町で、最東部には日高山脈の主峰、幌尻岳があります。平取にはだいぶ前に何度か訪れたことがありますが、今回久しぶり訪れると、中心部に町のいろいろな機能が集約された街づくりがなされており、きれいな景観の町並みとなっていました。少々驚きました。
 平成の大合併の折り、平取にもいくつかの町との合併案があったようなのですが、どことも合併しない方針を定めました。財政的には厳しい選択をしたことになるのですが、自分たち自身で、単独でまちづくりをすることを決断したのです。自立心の強い町の人たちが多いようです。
 平取は、二風谷(にぶたに)とよばれるアイヌの伝統や伝承が色濃く残る地でもあります。アイヌの伝承地がいくつもあり、口承文芸を知る上に重要な地となっています。1983年から1985年にかけて二風谷の遺跡が発掘されました。その結果、17世紀ころのアイヌの暮らしが解明されてきています。
 沙流川流域の平取はアイヌを研究するひとつの拠点となっています。古くは明治時代のバチェラーや金田一京助をはじめ、昭和初期にはマンローが二風谷へ移住して研究をおこないました。
 現在では、アイヌの家(チセ)と集落(コタン)復元され、定期的に儀礼が行われ、継承活動がなされています。そして、アイヌ文化として模様をあしらわれた工芸品も作り続けられています。
 さて、今から100年以上前、この地を旅をし、それを紀行文として残した外国人女性がいました。この女性は、イギリス生まれのイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831年10月15日-1904年10月7日)といいます。23歳のときに北米を旅してから、人生の多くを旅に過ごした人でした。日本を訪れたのは47歳の時で、1878(明治11)年6月に日本に着きました。その後、精力的に日本を歩きまわり、北海道(当時は蝦夷)にも足を伸ばしています。日本の旅の様子は、講談社学術文庫の「イザベラ・バードの日本紀行」(上・下)として、現在でも読むことができます。私も入手しました。
 イザベラは8月12日に函館に着き、函館から森に抜けて、往路は森から室蘭まで海路をすすみ、海岸沿いの陸路を白老から佐瑠太(現在の富川)、そして平取へと進んでいます。そして8月23日には平取に着き、アイヌ部落の小屋に数日間滞在しています。その際、アイヌの文化や風習、木造のお堂(現在の義経神社)での様子などを、事細かに妹や友人に向けての手紙としてしたためています。
 イザベラにとっては、平取がもっとも奥地の目的となったようで、あとはすねて陸路をたどり、9月12日に函館にもどっています。まる一ヶ月をかけて北海道を旅したことになります。函館以外は、人があまりいかないところをあえていっています。
 道中、ひど目にあったことも、あるいは原住民に対して無意識な偏見を示す文章もあります。当時の社会情勢を考えるとしかたがないことかと思われます。イザベラの紀行文は、当時のアイヌの生活や風習を知り、西洋人の目線、女性の目線で明治の日本を見聞した貴重な記述となっています。イザベラは、日光以外はどのような地でも、外国人が行かないところをあえて旅することにしていました。好奇心が旺盛な女性だったようです。未知の地へ旅をする心を持ち続けた人だったようです。
 私は、平取では義経神社にいきました。だれもいない静かな神社でした。長い階段を登った先に神社がありました。実は、イザベラもここを訪れています。イザベラに親切にしてもらったアイヌによって神社に案内されます。
「崖のまさに縁、ジクザグ道を上がったてっぺんに、木造のお堂が建っています。本州のどこの森や小高い場所でも見られるようなお堂で、明らかに日本式の建て方ですが、この件に関してはアイヌの伝承はなにも語っていません」
と記述しています。アイヌの信仰と神社の信仰は違ったもののはずですが、アイヌたちは神社で礼をしたと記述しています。少々不思議な気がしますが、実はいろいろな歴史が秘められています。
 義経神社は、名前からして義経伝説にまつわるもののように思えますが、実は違います。江戸時代後期(1798年)に、幕臣の近藤重蔵が北方調査をしてこの地を訪れた時、アイヌたちが祀っていたオキクルミを源義経と混同してしまいました。そして、1799年、仏師に源義経像を作らせ、アイヌに与えたのが始まりだそうです。神社は日本式ですが、祀っていたのは、アイヌに神、オキクルミだったのです。
 義経神社は、現在では整備されて、階段もしっかりあるので、簡単にたどり着くことができます。でも、人気のない境内は、荘厳さがありました。このような雰囲気は、100年前にも同じようものであった気がしました。でも、私は、苦労せずに平取まできた、整備された階段を登ってきたのですが。
 人には旅に出たい気持ち、その気持ちにつられて気軽に旅に出てしまうことがあるようです。私は、デスクワークが多くて疲れてくると、旅に出たくなります。もちろん調査や校務として出かけることもあるのですが、単純に無目的な旅をしたくなります。でも、なかなか旅に出たい気持ちがあり、その気持ちを満たすだけの旅はしなくなりました。いやできなくなりました。心も時間も余裕がなくなっているからでしょうか。目的ありきの旅しかしていません。目的をもった旅でも、旅から帰ると、体は疲れているのですが、次はどこどこに行きたいなと思ってしまいます。旅にはそんな人の心に強く働きかける何かがあるようです。
 イザベラのように西洋の旅行家ではなくでも、人は旅をしてきました。芭蕉や山頭火のように、地方をさすらいながら、俳句や紀行文を書きながら過ごす作家たちもいました。また、お伊勢参りのように、長い道のりを徒歩で進んだ人も多くいました。古くは、アフリカで誕生した人類は、何度かアフリカを旅立っています。そして極東にまでたどり着き、氷河期には凍ったベーリング海を渡り、北米大陸までたどりついています。豊かな北米大陸に満足することなく、南米大陸の南端にまで旅を続けます。また海路に乗り出した人たちもいました。風と海流を頼り、星を標にして、海をも旅しました。そんな衝動的な心が、人類には埋め込まれているようです。
 イザベラは、原注に次のように書いています。
「その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイル〔約一九二〇キロ〕を危険な目に逢うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。」
明治だけでなく、江戸末期に日本に来た外国人も多くも同じような感想を述べています。これは、今の日本でも変わらないところだと思います。日本は危険を感じずに旅ができる恵まれた地です。そんな地の利をもっと一杯活用したいのですが・・・。
 私はイザベラ以上に通りすがりのものです。ですから、町の景観からしか感じることができませんでしたが、平取町には、合併問題や町づくりについての姿勢をみると、強い自立心や、逆境にもめげない強い意志を感じました。それは、もしかすると、オキクルミを祀っていたアイヌの伝統にまで遡るのかもしれませんね。

・オキクルミ・
オキクルミというアイヌの神があります。
アイヌ伝承における神はアイヌラックルと呼ばれ
オキクルミとも呼ばれています。
荒々しく混沌とした大地に
初めて誕生した神がオキクルミです。
地上と人間の平和を守るための神として誕生ました。
オキクルミは、大鹿や魔神を退治して、
地上の脅威を取り除き、平和をもたらした神です。
北大の昭和2年度の寮歌「蒼空高く翔らむと」に
「若き勇者のオキクルミ 熊をはふりて饗宴せし」
という歌詞があり、
それでオキクルミの名前を覚えていました。

・義経神社・
義経神社という義経伝説を思い浮かべますが、
上述のようにアイヌの神と混同した結果のようです。
北海道には義経伝説の地がいくつかりますが、
もしかすると近藤重蔵の間違ったように
オキクルミの勇者の伝説が、
義経伝説と誤解されたのかもしれませんね。

2016年7月15日金曜日

139 大沼:穏やかさの中の激しさ

 北海道の道南の大沼公園は、もともとは荒々しい火山地形だったものが、今では素晴らしい湖沼の景観になっていました。激しい噴火で一気にできたものですが、穏やかな佇まいから、激しさは想像できません。

 先日、校務で大沼にいってきました。時間があったんで、周辺を見て回りました。下り坂の天気でしたが、最初は晴れていたので、駒ヶ岳を望むことができました。駒ケ岳は、尖ったぎざぎざの山頂が特徴となっています。そして、青空のもと、大沼ごしにみる駒ケ岳はなかなか見応えのある景観です。また、函館本線の車窓からみる駒ケ岳もなかなかいいものです。車窓の駒ケ岳でも、冬の雪景色も特別いいものです。
 大沼公園の周辺には、札幌から延びている道央自動車が、大沼公園インターまで来ているので、高速道路で一気に来れるようになっていました。ただし、4時間もかかるので、一人で運転していくには少々疲れますが。
 それに加えて、今年の春には北海道新幹線も開通したので、本州からも便利になりました。新幹線の北海道の玄関口である新函館北斗駅は、大沼の近くにできため、今後、ますます観光地化されていくことでしょう。私が訪れた時も、7月最初の金曜日だったのですが、多くの観光バスで外国人観光客が来ていました。それに混じって、日本人の年輩の観光客も見られました。
 大沼は、道南の亀田(かめだ)郡七飯(ななえ)町にあり、国定公園にも指定されています。大沼国定公園には、大沼と小さい小沼、そして蓴菜(じゅんさい)沼があり、その他にも小さな沼もあります。大沼と小沼はつながっており、大沼と小沼はセバット(狭戸)と呼ばれる狭い部分でつながっています。大沼の水位が高いので、セバットを通って小沼側に水が流れ込んでいます。セバットは狭いので、橋がかけられ、そこをJR函館本線や道々43号線が通っています。
 それぞれの沼には、小さな島が多数あります。ある資料によると126個の島があるといいます。さらに沼の中だけでなく、小高く小さな丘が、周辺に多数、点在してます。いくつかの大きな沼と多数の小島、多数の小さな丘が、大沼公園を特徴づけています。
 この小さい島や丘は、「流れ山(ながれやま)」地形と呼ばれているものです。
 大沼周辺の流れ山地形は、5万分の1地形図ではあまりよく表現されていないのですが、2万5000分の1地形図では、ごつごつした小山が表現されています。また、5mメッシュの数値標高は、大沼周辺がすべてデータが揃っているわけではないのですが、一部あって、それをみると小さな小山がかろうじて見えています。現地ではよく分かるのですが、地形図でみると、小さすぎてよく見えないようです。しかし、10mメッシュの数値標高を使った地形解析の傾斜量図でみると、小さな丘がよく見えてきます。
 流れ山地形とは、火山の裾野にできる特徴的な地形です。大沼の近くの火山として、北にそびえる駒ケ岳(剣ケ峰山頂の標高は1131m)があります。駒ケ岳は活火山で、何度も激しい噴火をしています。その中でも、1640(寛永17)年の噴火は、非常に激しいものでした。この噴火の様子は、「松前年々記」などの古文書にも残されており、その激しさが詳しく記録されています。
 7月31日正午ころ、山頂が崩壊(山体崩壊といいます)して、広範囲に崩れ落ち、飛び散りました。噴火湾になだれこんだ大きな崩壊物が、巨大な津波を起こしました。この津波によって、沿岸で700名あまりが溺死したと記録されています。
 南側にも山体崩壊が起こりました。この山体崩壊によって、南魔の流れ山地形ができました。そのときの堆積物は、「クルミ坂岩屑なだれ堆積物」と名付けられています。
 山体崩壊が起こると、山体を構成していた堆積物が、噴火によって破壊されて、裾野を流れ下ります。岩塊は、数mから100mを超すものまでいろいろなサイズものが混在して流れていきます。斜面の傾きがゆるくなると、崩壊物の流れが止まり、細粒のものは流れ去ったり、空気が抜けて体積が縮まり、大きな岩塊だけが残って、地表に出っ張ていきます。この出っ張りが流れ山地形となります。
 崩壊物が流れこんだところに河川があると、河川がせき止められることになります。川がせき止められると、上流には池や沼ができます。大沼は、このようにしてできた堰止湖と考えられています。ただし、小沼と蓴菜沼は、地盤の陥没が起こってできたとされています。
 1640年の噴火まで、駒ケ岳はきれいな成層火山(標高1700m)の形をしていました。ところが、激しい噴火によって、成層火山の上部600m分が吹き飛ばされて、ぎざぎざの山頂になってしまいました。この年夏に始まった激しい噴火も、約70日後の秋には治まってしまいました。非常に短い噴火だったようです。
 この短い噴火の中でも、岩砕なだれは最初の噴火で発生しました。つまり、1640年7月31日の噴火によって、津波だけでなく、大沼周辺の流れ山地形や堰止湖も一気にできたことになります。この噴火のあとには、荒々しい山頂をもつ駒ケ岳ときれいな景観となった大沼公園が残されました。
 農道から駒ケ岳の写真をとっていたら、近くの農家の方が、「○○へいったら、もっときれいに写真が撮れるよ」と教えてくれました。多分、大沼とともに駒ケ岳が撮れる絶好のポイントがあるのでしょう。また湖畔の道路脇でまたもや撮影をしていたら、カヌーから降りてきた人が、「○○から撮れば、駒ケ岳も入るよ」と親切に教えてくれました。大沼は、北海道の美しい景観と、人よさも合わせ持っていいました。しかし、その背景には、荒々しい火山噴火が隠されていました。

・陥没湖・
大沼は堰止湖で、小沼と蓴菜沼は陥没湖である
という記述があるのですが、
その出典がわからず、深くは述べませんでした。
どのようなメカニズムに陥没したのかが
よくわかりませんでした。
もう少し探せば、見つかるのかもしれませんが、
時間切れで断念しました。
そんな悩みは、湖面に映える夏の緑で吹き飛びます。
短い時間でしたが、非常に心地よい思いをしました。
帰りの長距離運転は疲れましたが、リフレッシュできました。

・計画変更・
今年の研究のための調査計画を変更しています。
ゴールデンウィークにでかける予定の
熊本での野外調査が地震で中止になったので、
その代替の調査を現在検討中です。
秋の南紀の調査はもともと計画にあったのですが、
中止になった分の計画の変更届をだしています。
持ち認められたら、短い調査を
2、3回行く予定です。
その一部な道内になりそうです。
道央と道南を考えていますが、
どうなるかは、変更届が受付られるかどうかにもよりますので。

2016年6月15日水曜日

138 倶多楽湖:カルデラに佇む

 倶多楽湖は、太平洋側を札幌から室蘭方面に向かう途中にある火山です。支笏と洞爺の大きなカルデラの間にある小さなカルデラ湖とですが、そのひっそりとした佇まいは、小さいのですが、深い味わいのある湖です。

 先日、大学の用事で登別に出張しました。遅刻がいやなので、いつも早め早めに、目的地に着くようにしています。私は、待ったり、時間を潰すのはあまり気になりません。今回も約束の時間より、1時間ほど早めに登別に着きました。目的地へは、高速道路を降りてから10分もかからずに到着できます。ですから、1時間ほど余裕ができました。早速、倶多楽(くったら)湖へ行くことにしました。
 倶多楽湖の湖畔へいくには、2つのルールがあり、周回道路となっています。どのコースをとっても湖畔へはたどり着けます。時計回りと反時計周りのコースがあります。反時計回りのコースの入り口は、温泉街に行く途中に右折して行きます。途中から狭い道の上り道をしばらく進むと、倶多楽湖へと出ます。狭いため大型の観光バスは、このルートを使わないようで、時々マイカーが通る程度です。私が行った時も、1台しかすれ違う車がありませんでした。そのコースの行き着いたところが、倶多楽湖になります。私がいったときは、湖畔にはだれもいず、ひっそりとした湖畔でした。
 もう一方の時計回りのルートは一般的な観光ルートで、広い道路を進むと、登別の温泉街に着きます。そこから地獄谷を右に見送りながら、道なりに登り始めると、大湯沼(おおゆぬま)への分かれ道をへて、日和山(ひよりやま)の東脇を通ります。途中に、眺めがあまり良くないのですが、倶多楽湖をみることができる展望台があり、そこを経て湖畔にでます。温泉街から地獄谷へ観光バスで移動する人たちは、大きな駐車場のある大湯沼を観光して戻ることになるのでしょうか。マイカーの人も、観光道路として完備されている倶多楽湖の展望台までいくようですが、湖畔への道は、急に細くなるので、多くの人は展望台から引き返すことになりそうです。
 登別の魅力は、温泉はもちろんなのですが、街から歩いてすぐのところで、地獄谷や大湯沼、日和山にかけて、活発な火山活動を見ることができ点ではないでしょうか。地獄谷では、熱水が湧いて流れ、噴気活動も活発で、まさに地獄を思わせる火山の景観となっています。大湯沼では、底からは130℃になる硫黄泉が噴出していて、表面でも40~50℃の温泉になっています。ひょうたん形の沼なのです、すべて温泉水であるのが驚きです。少し下流には、足湯もあるようです。かつては沼の底からイオウを採掘していたそうです。沼越しに見える日和山は、今も激しく噴気を出しています。日和山が噴火した時の火口が、大湯沼になっています。
 登別は、火山の多様な景観と、多様な泉質の温泉という恩恵をも感じることができる地であります。ですから、観光として登別を堪能するには、コンパクトで、なかなかいいところだと思います。登別の温泉街や、地獄谷から大湯沼、日和山の火山活動の活発な場と比べると、倶多楽湖畔は、ひっそりとしています。
 でもそんな静かに佇む倶多楽湖が、私は気に入りました。
 倶多楽湖は、直径2.5kmほどの綺麗な丸い形をしています。湖の周囲の岸は、ほとんど平らなところがなく山が、湖面まで迫っています。山並みも3kmほどの直径になっています。水深は、平均で104.9m、最大で148mもあります。湖水の標高は258あり、周辺の山々500mを超えています。湖面から急に山になっています。小さな湖ですが、そ深いすり鉢状の丸い湖だということになります。このような火山地帯の丸いくぼみは、カルデラと呼ばれるものです。
 カルデラは、噴火によってできた火口です。雨水や周囲の山に由来する地下水がたまったものです。湖畔は岸が少ないので、人家もほとんどなく、河川の流入もないので、水もすごくきれいになっています。
 そんなさまざまな条件が、静かな倶多楽湖の静かに澄んだ姿を生み出しているようです。観光の喧騒から少し外れて佇んでいる湖です。
 倶多楽は、8万年前ころから活動をはじめて、4万年前くらいまで複数の火口から火砕流などの激しい活動をおこなった成層火山です。4万年前の噴火で、成層火山の形が崩れて、カルデラが形成されました。その後倶多楽湖の西に火山活動が移りました。1万5000年前から、デイサイトの溶岩ドームが日和山になりました。8000年前からは、水蒸気爆発が繰り返され、火口群ができました。これらの火口群が、現在の大湯沼や地獄谷になっています。大湯沼や地獄谷、日和山では、今も噴気活動、熱水活動が続いています。また200年前ころ(推定)には、大湯沼や地獄谷、日和山の火口列で噴火をして、火山灰を放出ています。最近では、2016年2月に登別温泉の周辺で、地震の増加が観測されました。現在も、そして今後も活動が継続ていくはずの倶多楽火山は、活火山なのです。
 今の時期の北海道は、新緑の季節で非常に森の緑の綺麗な季節となります。私が倶多楽湖にいったのは、平日の午前中でした。小雨の降り出すあいにくの天気でしたが、鮮やかな新緑を堪能することができました。特に反時計回りの湖畔までの道は、緑のトンネルをくぐり抜けながら走るのコースは、気持ちのいいものでした。この心地より道を、のんびりと進んだ先に、だれもいない静かな湖畔にたどり着きました。湖畔でしらばく、のんびりと佇みました。新緑の梢越しに湖畔を眺めるのは、疲れた心身を癒やしてくれるものでした。ひとり静かに佇むには、最高の条件でした。また次の機会があればと思いました。

・カルデラへも・
登別には何度か行っています。
宿泊も何度かしています。
このエッセイでも、一度取り上げています。
北海道には、洞爺湖と支笏湖の大きなカルデラがあり、
倶多楽湖はその間に位置しています。
登別温泉は有名なのですが、
倶多楽湖のカルデラは、それほど目立つ存在ではありません。
しかし、幹線道路から少し足の伸ばせば、
静かなカルデラ湖畔へとたどり着けます。
そして道中には多様な火山活動の様子も見学もできます。
観光だけでなく、火山の見学でもいいところです。

・夏へ・
北海道は、新緑の初夏から、
夏へと移り変わってきました。
YOSAKOIソーランもこの週末に終わりました。
次男は午後に見入ったのですが
夜に帰ってきてファイナルは自宅のテレビでみていました。
YOSAKOIが終わると北海道神宮祭(14日から16日)があります。
そして、北海道には本格的な夏がきます。
今年は少々肌寒い日々が多かったのですが
やっと北海道も夏めいてきました。
しかし、じっとしていても
汗がでてくるような暑さはまだ先のようです。

2016年4月15日金曜日

136 ガラパゴス:進化とトリプル・ジャンクション

 今回は、かねてからの念願の海外の地質スポットの紹介です。行きたいとねがっているところですが、なかなか行けそうにありません。でも、「夢は海原を駆け巡る」ということで、ガラパゴスの紹介です。

 2015年1月に、11年目を迎えるにあたり、今後このエッセイでは、自分が出かけたところ、日本や地球にもこだわることなく、広く大地を眺めるようなエッセイにすると宣言しました。とことが、気づくとこの1年半、自分が出かけたところばかりでエッセイを書いていました。そこで今回は、私が行きたいところを、紹介していこうと思います。それは、ガラパゴス諸島(Galapagos)です。
 ガラパゴス諸島は、多くの人が名前を知っている有名なところだと思います。しかし訪れた方は、それほど多くはないはずです。ガラパゴス諸島は、太平洋にあるのですが、日本からは遠く、南米の赤道付近、エクアドル領にあります。行くとしても、飛行機を何度か乗り継いでエクアドルまでいき、そこからさらにガラパゴスまで向かわなければなりません。私は、しばらく行けそうにありません。
 ガラパゴス諸島は、イサベラ島(Isabela)、サンタ・クルス島(Santa Cruz)、サン・サルバドル島(San Salvador)、フェルナンディナ島( Fernandina)、サン・クリストバル島(San Cristóbal)など18の大きな島、3つの小さな島、107の岩礁などからできています。前者4島には住民がいます。
 1978年に世界遺産の自然遺産として登録され、2001年には海洋保護区も含めて地域が拡大されて登録されました。自然遺産としては、ダーウィンのフィンチ、ガラパゴスゾウガメ、ウミイグアナ、リクイグアナなど有名なものだけでなく、アオアシカツオドリやアカアシカツオドリ、ガラパゴスアシカなど、多様な固有種がいて、生物学的に非常に興味深いところです。さらに、地質学的にも重要性が指摘され、自然遺産になっています。それは、ガラパゴス諸島が火山の島であるためです。
 ガラパゴスには多数の火山があり、20世紀中にも多数の噴火が確認されています。諸島の西側に3番目に大きいフェルナンディナ島のラ・クンブレ(La Cumbre、標高1494m)火山、ガラパゴス諸島で最大の島であるイサベラ島のウルフ火山(Wolf 、標高1707m)は、近年になっても噴火しています。
 ラ・クンブレ火山は、もともと大きなカルデラがあったのですが、1968年の噴火によって、カルデラの底が300mほど陥没しました。また、2009年4月11日にも火山の南斜面で割れ目噴火がおこっています。しかしこの噴火はすぐに治まりましたが。ウルフ火山は、1982年に噴火をしてからしばらくは休止していたのですが、2015年5月にかなり激しい噴火がありました。
 ガラパゴス諸島の火山は、南東から西に向かって新しい時代に活動をしており、固定された噴火中心の上を海洋プレートが南東向かって移動しているように見えます。これはハワイのようなホットスポットと海洋プレートの動きが連動しているように見えます。ホットスポット上を海洋プレートが、南東へ移動して形成されたと考えると、約250kmを300~500万年かけて移動したことになります。
 ガラパゴス諸島の火山は、太平洋プレートの東側にあり、少々複雑な地質環境になります。太平洋プレートの東端は、ガラパゴス諸島の少し西にあります。そしてガラパゴス諸島の北側で、南北に分かれている2つの海洋プレートが接しています。南側はナスカプレート、北側はココスプレートという2つの海洋プレートが接しています。ナスカプレート側にガラパゴス諸島があるのですが、それがカーネギー海嶺となっています。その東延長はエクアドルに向かっています。一方北には、ココス諸島があるココス海嶺が伸びていて、その東延長はコスタリカに向かっています。太平洋とナスカ、ココスの海洋プレートの境界部は、3つのプレートが重なるところとなり、三重点(triple junction)と呼ばれています。三重点は、特殊な地質学的位置になります。
 もう少し詳しく見ると、ナスカとココスの境界部では、断層(トランスフォーム断層)によって拡大軸がずれて存在しています。三重点(トリプル・ジャンクション)にあたる境界には、ヘス・ディープ・リフトとよばれるがくさび状になった複雑な構造ができてます。そのため、太平洋プレートとナスカプレート、ココスプレートの間には、ガラパゴス・マイクロプレートと呼ばれる小さい海洋プレートが存在するとされています。
 ガラパゴス諸島は、カーネギー海嶺上の火山になるのですが、玄武岩質の粘性の小さい(さらさらした)溶岩が噴火します。そのため、火山の平面形は円に近く、楯状の山体となります。ハワイの火山も同じ太平洋で、太平洋プレート上にあるのですが、ガラパゴスの火山の規模は、ハワイと比べると小規模になります。そして山腹の割れ目から噴火して、その割れ目の方向が特定の向き集中することがありません。また、山頂の噴火口周辺では、環状割れ目が多数できて噴火します。ガラパゴスの火山は、ハワイの火山と比べると、プレートの移動速度が小さくなっているようです。そして三重点という複雑な地質環境であるためだと考えられます。そんなガラパゴスの火山を見たいと思っていますが、なかなか見に行けそうにありません。
 ガラパゴス諸島は観光化とそれによる人口増加や環境汚染など、さまざまな問題が発生していました。このような事態にたいして、対応が不足しているとして、2007年6月、世界遺産の危機遺産リストに登録されました。その後政府の取り組みより、改善されたとして、危機遺産リストからははずされました。
 実は、我が家の長男が、2年ほど前に、ガラパゴスに行っています。そして、非常に楽しい思いをしてきたようです。事前に私が持っていた資料や映像などを見て気持ちを高めていきました。帰ってきても、テレビでガラパゴスの放送があると、「そこは行った」、「その生き物は見た」などといっています。羨ましいかぎりです。私は、彼の写真と報告だけで、ますます行きたくなりました。長男は生物に興味があったようですが、私は生物だけでなく、地質にも興味がありますので。

・コロン諸島・
ガラパゴス諸島が発見されたのは、1535年とされています。
ダーウィンが、ビーグル号の航海でこの島を訪れたのは、
1835年9月16日、サン・クリストバル島のセロ・ティヘレタスというところで
ダーウィンの銅像があるそうです。
ガラパゴスとは、「ゾウガメの島」という意味だそうです。
エクアドルの公用語はスペイン語なので
スペイン語でゾウガメを意味するgalpagoに由来しているとのことです。
実は正式な名称は、コロン諸島(Archipilago de Coln)となり、
「コロンブスの群島」という意味です。

・架空の地質旅行・
ガラパゴスは、私にとっては、遠く、時間がかかり、
そして費用もかかるとことです。
そのため、現在の野外調査は、
日本国内でアクセスのいいところを選んでおこなっています。
しかし、一度はいってみたいとことです。
他にもいいくつも行きたいところがあるのですが、
このエッセイで、架空の地質旅行をしていこうと考えています。

2016年3月15日火曜日

135 湯河原:侵食の隙間にて

 湯河原は、我が家族にとっては懐かしい街です。あまり長い期間住んでいなかったのですが、その後訪れていないので、ますます懐かしさがつのる街です。そんな湯河原の地質学的な生い立ちを見てきましょう。

 神奈川県の南西部にある湯河原は、箱根と熱海に挟まれ目立ちにくく、交通も隘路を経由するので行きづらい場所です。関東の奥座敷や別荘地、保養所として、関東の首都圏にお住まいの方には、知る人ぞ知る地ではないでしょう。ただ実際に、訪れた人はどれくらいるでしょうか。熱海や箱根と比べれは少ないのではないでしょうか。
 私にとって、湯河原は思い出深いところです。11年間務めていた神奈川県にある博物館が県の西部に移転しため、私も湯河原に自宅も移したので馴染み深い地となりました。馴染み深い地なので、このエッセイでも取り上げていただろうと思っていたのですが、一度も取り上げていませんでした。私が博物館の仕事として湯河原の紹介や解説を何度も書いていたため、すでに扱っていた気がしていたのですが、勘違いでした。今回は、湯河原を紹介します。
 湯河原は、私にとっては懐かしい地ですが、転職後、訪れたことがないので、古い記憶に基づくものです。しかし、地質学の扱っているの情報は、人間歴史と比べたら、ずっと過去のことなので、問題はないでしょう。まあ学問も進歩すのですが、それはいかなくても把握できますので。
 さて、関東と東海を結ぶ交通路には、主に3つのルートがあります。北側は東名高速や国道256号、JR御殿場線などが通る山北のルートです。ここは箱根と丹沢の境界にあたり、酒匂川が流れているので、狭いですが、交通路としては納得のできるルートですが、少々遠回りになります。真ん中のルートになるのが、箱根超えです。小田原から箱根を越えていく国道1号線が通るルートで、くねくねとした山を登攀する道となります。南側は、小田原から海岸沿いに熱海までいき、熱海から山越えで函南から三島に抜けるルートです。東海道線と東海道新幹線がこのルートを通っています。険しくいルートで、JR線はトンネルが続きます。神奈川(関東)と静岡(東海)の境界は、伊豆から箱根、そして丹沢へと続く山並みの連続で境される地形的区分がもとになっています。
 箱根の南山麓に位置するのが湯河原で、熱海ルートの途中になり、険しい道です。海岸にまで山が迫っている隘路がいくヶ所もあり、交通の難所でもありす。しかし、熱海という一大温泉観光地が控えているので、交通路は重要になります。湯河原にも温泉はあるのですが、熱海が有名な温泉地なので、日常生活するには静かで落ち着いた街になっています。
 箱根から湯河原までの地形は、箱根の中央火口丘に位置する駒ケ岳周辺の火山から、カルデラ湖の芦ノ湖、外輪山の大観山、そして麓から相模湾へと続きます。多くは、山がそのまま海に落ち込むように、急な山並みからすぐに海へと続きます。ただし、湯河原と熱海だけには、平地が少しあります。
 湯河原は外輪山が深く高く、海との間に少々距離があります。河川が侵食を受け、その堆積物がつくる狭い平地があります。新崎川と千歳川の2つの川にはさまれた河口にできた狭いの平地が、湯河原の町並みになっています。山が海に迫っている地形からわかるように、後ろには箱根火山を構成している山並みがそびえています。その前にも、2つの川の真ん中にある城山、新崎川の北に位置する幕山や南郷山があり、真鶴半島へとつづく高まりがあります。
 湯河原を取り囲むすべての山並みは、箱根火山に関連したものです。
 箱根火山が巨大な成層火山として、40万から23万年前まで活動していました。その後、23万年前に大規模な軽石を出すような噴火によって、成層火山をふき飛ばし、大きなカルデラを形成し、今の芦ノ湖になっています。そのカルデラの壁となったのが外輪山です。湯河原から見える一番高い山並みは、この外輪山です。
 23万年前以降、13万年前にかけて、外輪山の南東側からも単独の火山(単成火山)がいくつか活動しました。大猿山溶岩、岩溶岩、白磯溶岩、本小松溶、真鶴溶岩の5つのグループがあるとされています。これらは数カ所の火口が北西から南西に連なる火山の活動でした。安山岩からデイサイトの溶岩ドームがいくつも連なっていたようです。幕山も南郷山も、同じ時期の15万年前の火山活動でできた溶岩ドームです。真鶴半島も一連の火山活動でできました。
 幕山は湯河原梅林で有名で、梅林の奥には柱状節理がみえます。この火山岩は、デイサイトと流紋岩が縞模様をつくっており、2種類のマグマが混在していた状態を示しています。柱状節理が幕のようにみえるので、幕山と呼ばれているそうです。
 13万年前以降、箱根の火山活動は、カルデラ内だけになりました。湯河原では火山活動はおさまり落ち着いてきました。火山は、大地を盛り上げる活動です。火山活動がおさまると、奥深く大きな外輪山からもたらされる豊富な水によって、河川が形成され、侵食が進みます。河川沿いは、解析が進み生活の場にできるほどの平地もできます。河川によって運ばれた堆積物によって、河口に小さいながら平地を形成しました。それが湯河原の大地の生い立ちです。
 それまでの借家や公舎住まいから、中古物件でしたが、はじめて一軒家を購入して住んだのが湯河原でした。家族で移り住み、次男が生まれたのもこの地です。そのため、私にとって湯河原が思い出深いのです。
 国道は観光用の道路でもあるので、休日には渋滞するのですが、国道から離れれば、生活するには問題はありませんでした。国道もコツがわかれば、渋滞でたうまく通れました。町の中は交通で混むこともなく、それなりの観光地でもあるので、暮らしを楽しむには、なかなかいい町でした。そんな落ち着いた町ができたのは、地質や地形の恩恵があったからなのでしょう。

・熱海・
熱海も湯河原と同じように、2つの河川によって
侵食、堆積作用を受けて平地ができています。
湯河原の方がやや広いようです。
熱海は、湯量や歴史もさることながら、
湯河原よりも交通の要所だったようです。
これは、伊豆の方に伸びる線もあるので、
熱海には新幹線の駅もできています。
でも、私は奥まった落ち着いた湯河原が好きでした。

・温泉・
家があった住宅地は
別荘や保養地を中心とした団地ですが、
そこに定住している人もそれなりにいました。
私が購入した中古住宅は、
もとは小さい企業の保養所でした。
小さいのですが庭があり、
その庭の大半が石造りの露天風呂がありました。
団地には居住者がつくっている温泉組合があり、
加入すれば、垂れ流し温泉に引ける
という特典がありました。
加入金と月々の支払がなかなかのものだったので、
温泉を引くことは諦めました。
しかし、町民のカードを見せれば
格安で入浴できる町立の日帰り温泉施設があり、
そこに時々入れば、満足できました。
それも住みよさのひとつでした。

2016年2月15日月曜日

134 美瑛:火山灰の丘陵

 美瑛は、北海道らしい丘陵地帯に、畑がつくられているのどかな田園風景が広がっています。のどかな田園風景の背景には、激しい大地の営みと、人々の苦労がありました。

 私は京都の農家の生まれなので、子どものころは農園風景の中で育ちました。主には稲作でしたが、畑作もなされている地域でした。我が家の商品作物は、コメとサツマイモでした。いずれも平坦な耕作地で、平らな田園風景が広がっています。これは、私の故郷だけでなく、日本のどこにでもある、ありふれた景色ではなかったでしょうか。
 ところが北海道に来て驚かされることの一つに、平坦でないところの畑があることです。牧草地ならまだ理解できるのですが、畑は見慣れない景色です。もともとあった地形の傾きを修正することなく、そのままにして開墾しています。稲作をしなければ、水をはることがないので、平らにする必要がないのです。もともとあった地形のまま使うのは、効率的ではあります。しかし、本州から来たものにとっては、うねった畑が広がる景色は、非常の奇異に見えました。地形のうねりをそのままにした畑が永遠と続く広大な風景は、異国情調のあふれる北国の景色に見えます。
 その典型ともいえる地域として、美瑛(びえい)が挙げられるのではないでしょうか。美瑛は、富良野の北、旭川の南に位置します。富良野は富良野盆地にあり、旭川は上川盆地にあり、その間に丘陵地帯があり、そこが美瑛になっています。美瑛は丘の町として知られています。美瑛の丘や木立が、よくCMで使われているのは、日本でありながら日本的でない景観をもっているからでしょう。
 この丘の成り立ちが、今回のテーマです。
 さて、丘ができるということは、その地に高まりがあるということです。また、うねった丘があるということは、一様な高まりだけではなく、高まりにいろいろな変化をつける作用もあったことになります。
 美瑛の町は、西部に河川沿いに耕作地が広がり、東部に山林が残され、その山林の先には、山並みが延びています。美瑛は7割以上が山林で、残りの2割ほどが畑などの耕作地として利用されています。美瑛は、丘陵の町でもあるのですが、山林が覆う丘陵というのが本来の姿なのです。
 山並みの一番南西には富良野岳(1,912m)があり、そこから北東に向けて、十勝岳(2,077m)、美瑛岳(2,052m)、オプタテシケ山(2,013m)、ツリガネ山(1,708m))、トムラウシ山(2,141m)へと連なっています。トムラウシ山からは、大雪山系になっていきます。
 美瑛の丘陵地帯は、これらの高い山並みから、ゆるやかに下りながら続いています。つまり、山並みと丘陵はなんらかの関係があるように思えます。これらの山並みの起源は、いくつもの火山が連なっています。ただし、現在、活火山とされているのは、十勝岳でけです。すぐ北には大雪山、東には丸山が活火山としてありますが、十勝岳以外は古い時代に活動した火山です。
 十勝岳はひとつの火山ではなく、いくつも集まって群となっています。これらの火山群は火砕流を何度も流していることがわかっています。古いものでは鮮新世の火山岩類からはじりまり、後期鮮新世の火砕流(美瑛火砕流と呼ばれています)、前期更新世の火砕流堆積物(十勝火砕流堆積物)があり、これら2つの火砕流は大規模なものでした。美瑛火砕流は約190万年前、十勝火砕流は120万~120万年前のもので、いずれも流紋岩質マグマによるものです。これらの火砕流は、上川から美瑛、富良野にも流れています。火山の噴火口は残っていませんが、十勝岳の北東付近だと推定されています。
 美瑛の丘陵の基盤は、十勝岳の火山群の古い時代の噴火活動によって形成されました。その後も現在まで、火山活動は継続しています。現在の山並みを形成している火口から、つぎつぎと噴火していきます。日本列島に特徴的なマグマ(カルクカルカリ質と呼ばれています)による活動で、玄武岩~安山岩質のマグマの活動です。火山体自体は、多数の溶岩流からできていますが、繰り返し周辺にも溶岩を流したり、火山砕屑岩を噴出していました。
 火山活動は、時には大規模な火砕流の噴出をして、美瑛周辺にも流れ出しました。もともとあった地形の凹凸を覆い、その後河川による侵食を受けてきました。このような歴史が美瑛の基本的な地形を形成してきました。
 その後、現在の十勝岳火山群にいたる火山活動がはじまります。噴火は、安政、明治、大正、昭和、昭和~平成の5回の噴火がおこったという記録があります。噴火の様子は、まず水蒸気爆発やマグマ水蒸気爆発からはじまることが多く、それにより山体崩壊が起こり、岩層なだれや泥流が発生していきまました。特に、1926(大正15)年と1962(昭和37)年の噴火では大きな災害がおこっています。
 このような火山にともなう噴出物、堆積物が、美瑛の丘陵地帯を覆っていきました。どのかなにみえる丘陵の地形は、実は激しい火山活動によって形成されたものなのです。
 現在、十勝岳は活火山として警戒レベルは低く設定されていますが、今も活動中で、美瑛の丘陵地帯も、いつまた火山灰が覆う大地になるかもしれません。警戒を続けていかなければなりません。まあ、これは美瑛だけでなく、火山国日本の宿命でもあります。
 美瑛の丘陵地帯は、ここまで紹介してきたように、深くまで火山灰が堆積してできています。火山灰地は、柔らかくて耕しやすいという利点があるのですが、一方、栄養分が少ないという欠点もありました。そのため、土地改良が必要になります。昭和になって農地改良がおこなわれ、丘陵地帯は耕作地へと生まれ変わりました。しかし、美瑛の町に近い丘陵地が主な耕作地で、火山に近い東部は今も山林のまま残されています。
 美瑛は、火砕流によって丘陵地形が形成され、人の営みによって畑の風景と変えられてきたところなのです。穏やかにみる丘陵地には、激しい自然の営みと、人々の苦労を続けた営みがあったのです。

・ススキ・
ススキの生えている景観はよく見かけられます。
農耕民族である日本人にとって
平らな土地は、決して見過ごすことができません。
なのにススキの原っぱが、よく見かけらるということのは、
利用できない土地だということです。
ススキが生えている土地は
耕作に利用できなということになります。
その理由は解明されています。
ススキは、必須栄養素であるリン酸が少なくても
生えることができる植物だからなのです。
日本は、火山灰の覆うことが多いので、
ススキの生えた景色いたるところで見かけられました。
それは、人から見捨てられた土地でもあったのです。
ただし、火山灰が腐植土を大量に含むようになると
黒ボク土として栄養豊富な土壌になります。

・夏の美瑛・
美瑛には、昨年の夏にいきました。
学生の教育実習の出張指導のためでした。
朝、時間があったので、
美瑛の景観を見ることができました。
夏の美瑛丘陵は爽やかでした。
それ以前にも訪れたことはあるのですが、
山を見るためだったので、
丘陵地帯は通りすぎただけでした。
今回、見学の時間はほんのわずかでしたが、
少しだけ見ることができました。

2016年1月15日金曜日

133 阿蘇山:今も活動中

 阿蘇山は、火山とその雄大なカルデラの中で、古くから、そして多くの人が暮らしてきたところです。火山は、恵みだけでなく、災ももたらします。しかし、昔も今も、火山と共存を果たしてきたところです。

 今年のエッセイは、阿蘇山からスタートです。
 昨年の9月に阿蘇山を訪れました。阿蘇山へは、何度か訪れているのですが、興味があれば、同じところへも何度もいきます。今回は、外輪剤の南からは入り、カルデラ内と中央火口丘周辺を巡りました。その後、北の外輪山に登り、外輪山の北側の縁を巡りました。北の外輪山に来るのは、今回が初めてのことでした。
 阿蘇山は、九州中央部にある巨大な火山です。全国的にも、世界的にも有名な火山です。その規模は、カルデラが南北25km、東西18kmになり、カルデラの外側には外輪山があり、そのさらに外側に裾野が広がります。また、カルデラの中には、大きな集落がいくつもあり、5万人の人が暮らし、湧水地や温泉、耕作地や牧草地など広がり、JR豊肥線や南阿蘇鉄道高森線、国道も走っています。多くの人の生活の場であるとともに、観光地ともなっています。
 さて、ここまで何気なくつかってきた「カルデラ」や「外輪山」という用語は、多くの人が聞き慣れているはずです。その意味するところは、ご存知だとと思います。蛇足になるかもしれませんが、少し説明しておきましょう。
 カルデラ(caldera)は、大きな火山の中央部にみられる窪地で、円形にくぼんでいることが多いのですが、いびつになっていることもあります。くぼみの縁は切り立った崖になっていることが多く、それが外輪山となります。カルデラができれば、その周囲には外輪山ができるというメカニズになります。カルデラは火山の火口とは違っていますが、なからずしも厳密ではありません。それはカルデラの成因には、いろいろなものがあることが、わかってきたためです。
 では、カルデラはなぜできるでしょう。かつては、大きな成層火山が激しい噴火をして、マグマが抜けた空洞部分が陥没してカルデラができたと考えられていました。地下でマグマが抜けたところが陥没したものがカルデラでした。必然的に大規模なものになります。箱根カルデラがその典型で、巨大な成層火山があり、それが噴火で吹き飛び、陥没してカルデラができたとされています。
 しかし、成層火山ができることなくカルデラができるものあることがわかってきました。その典型が阿蘇山となります。阿蘇山の外輪山は、阿蘇カルデラを形成した噴火の噴出物からなります。このことから、カルデラができる前に大きな成層火山があったのではないことになります。この成因のカルデラは、巨大火口ということもできます。いずれにしても巨大なカルデラができるには、大量のマグマとそれに由来する噴出物を放出することになります。
 阿蘇山は、非常に噴火の歴史の長い火山です。古い活動では、600万年前から噴火があったと考えられています。しかし、本格的な活動は、85万年前ころからはじまります。この活動は、後の火山噴出物によって覆われており、一部でしかみることができません。このあとに起こる激しい活動でカルデラができるため、カルデラをつくる前の先カルデラ期の活動を、先阿蘇火山群と呼んでいます。
 その後、カルデラ形成期の激しい噴火がはじまりました。その噴火は火砕流をともなう巨大な噴火で、27万年前、14万年前、13万年前、そして9万年前と断続的に4回の活動をしました。なかでも、4回目の活動は、非常に大規模なもので、一桁多いマグマの噴出量があったと見積もられています。また、火砕流は九州中央部を覆うだけでなく、海を越えて愛媛県や山口県の秋吉台にまで達しました。また火山灰は、日本海を越えて朝鮮半島からウラジオストク、北海道も大半を覆うほどでした。北海道の南でも15cm以上の火山灰の堆積があったことがわかっています。この4回の噴火活動で、現在の巨大なカルデラが形成されました。
 カルデラを形成するような活動は終わり、8万年前以降は、中央火口丘のいくつかの火山を形成する活動になりました。主には、8万年前、5万年前、3~1万5000年前、それ以降の活動、に区分されています。
 中央火口丘は、6世紀から現在まで、活発に活動しています。中央火口丘の中でも、中岳が有史以来活発で、玄武岩質安山岩のマグマが活動しています。中岳は南北に連なるいくつかの火口が複合した火口があります。以前訪れた時は、阿蘇山ロープウェイや自動車道で、中岳の第一火口の付近まで登ることができました。火山活動が穏やかなときは、火口には水がたまり、緑色の「湯だまり」(火口湖)ができていました。
 第一火口は2014年11月以降活発になり、しばらく活動が継続すると考えられていました。私が訪れた時も、立ち入り禁止でロープウェイも止まっていて、自動車道も侵入禁止になっていました。
 2015年9月14日9時43分の噴火は、記憶に新しいのではないでしょうか。中岳(第一火口)で噴火が始まりました。私が阿蘇山から帰って直後の噴火でした。訪れている時も、噴気が結構激しく出ていたのですが、特別話題になることはなかったので、通常の噴気活動だったのでしょう。
 9月14日の噴火は、2000m上空まで立ち上る噴煙と噴石が放出するようなものでした。10月23日から14日にかけても小規模な噴火がありましたが、それ以降は穏やかになってきました。噴気の量も10月下旬には減少してきました。
 昨年秋の調査では、北の外輪山から中央火口丘群を眺めたのですが、非常に雄大な景色でした。阿蘇山は、人の暮らしが火山に非常に近いところで営まれているところです。それは、火山の恵みと災と密接に暮らしてきた人たちがいることを示しています。そんな阿蘇の大地と人の生活がテーマとなり、2009年10月に「阿蘇ジオパーク」として日本ジオパークに、2014年9月には世界ジオパークにも登録さました。

・人の営み・
北海道は、雪が少ないと思っていたら、
ここ数日冷え込みが続き、そのあと大雪となりました。
今年は、暖冬とされていますが、
やはり北海道は北国です。
冬型になり季節風が強まれば、
それなりの大雪は降ります。
これは、自然の節理です。
私たち、北国の人間は、そんなところに暮らしているのです。
暮らしと気候は不可分の関係となり
そこに暮らす人の営みを左右します。

・入試・
大学は、後期の授業もあと一週ほどで終わりです。
その後は定期試験があり、2月には入試がスタートします。
今週末はセンター試験が行われます。
我が大学も会場になっています。
教員は、講義が終わってほっとする間もなく
入試でバタバタします。
年中行事でもあるのですが、
何度経験しても、入試は神経を使いますね。