2016年8月15日月曜日

140 平取:イザベラの見たオキクルミ

 今回は、平取への旅です。平取は、アイヌ文化が継承されいている地です。この旅では、平取を訪れるとともに、過去の旅人の足跡をたどり、旅をする人の気持ちや旅への思いを馳せる旅でもありました。

 6月下旬に校務で平取(びらとり)にいきました。平取は、苫小牧から日高に向かう途中にある町です。日高自動車道が通じているので、札幌からでも高速道路を使えば、比較的短時間にたどり着けます。1時間ほど早く着いたので、平取の町を少しぶらぶらしました。
 沙流(さる)郡平取町は、沙流川ぞいに東西に長くのびる町で、最東部には日高山脈の主峰、幌尻岳があります。平取にはだいぶ前に何度か訪れたことがありますが、今回久しぶり訪れると、中心部に町のいろいろな機能が集約された街づくりがなされており、きれいな景観の町並みとなっていました。少々驚きました。
 平成の大合併の折り、平取にもいくつかの町との合併案があったようなのですが、どことも合併しない方針を定めました。財政的には厳しい選択をしたことになるのですが、自分たち自身で、単独でまちづくりをすることを決断したのです。自立心の強い町の人たちが多いようです。
 平取は、二風谷(にぶたに)とよばれるアイヌの伝統や伝承が色濃く残る地でもあります。アイヌの伝承地がいくつもあり、口承文芸を知る上に重要な地となっています。1983年から1985年にかけて二風谷の遺跡が発掘されました。その結果、17世紀ころのアイヌの暮らしが解明されてきています。
 沙流川流域の平取はアイヌを研究するひとつの拠点となっています。古くは明治時代のバチェラーや金田一京助をはじめ、昭和初期にはマンローが二風谷へ移住して研究をおこないました。
 現在では、アイヌの家(チセ)と集落(コタン)復元され、定期的に儀礼が行われ、継承活動がなされています。そして、アイヌ文化として模様をあしらわれた工芸品も作り続けられています。
 さて、今から100年以上前、この地を旅をし、それを紀行文として残した外国人女性がいました。この女性は、イギリス生まれのイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831年10月15日-1904年10月7日)といいます。23歳のときに北米を旅してから、人生の多くを旅に過ごした人でした。日本を訪れたのは47歳の時で、1878(明治11)年6月に日本に着きました。その後、精力的に日本を歩きまわり、北海道(当時は蝦夷)にも足を伸ばしています。日本の旅の様子は、講談社学術文庫の「イザベラ・バードの日本紀行」(上・下)として、現在でも読むことができます。私も入手しました。
 イザベラは8月12日に函館に着き、函館から森に抜けて、往路は森から室蘭まで海路をすすみ、海岸沿いの陸路を白老から佐瑠太(現在の富川)、そして平取へと進んでいます。そして8月23日には平取に着き、アイヌ部落の小屋に数日間滞在しています。その際、アイヌの文化や風習、木造のお堂(現在の義経神社)での様子などを、事細かに妹や友人に向けての手紙としてしたためています。
 イザベラにとっては、平取がもっとも奥地の目的となったようで、あとはすねて陸路をたどり、9月12日に函館にもどっています。まる一ヶ月をかけて北海道を旅したことになります。函館以外は、人があまりいかないところをあえていっています。
 道中、ひど目にあったことも、あるいは原住民に対して無意識な偏見を示す文章もあります。当時の社会情勢を考えるとしかたがないことかと思われます。イザベラの紀行文は、当時のアイヌの生活や風習を知り、西洋人の目線、女性の目線で明治の日本を見聞した貴重な記述となっています。イザベラは、日光以外はどのような地でも、外国人が行かないところをあえて旅することにしていました。好奇心が旺盛な女性だったようです。未知の地へ旅をする心を持ち続けた人だったようです。
 私は、平取では義経神社にいきました。だれもいない静かな神社でした。長い階段を登った先に神社がありました。実は、イザベラもここを訪れています。イザベラに親切にしてもらったアイヌによって神社に案内されます。
「崖のまさに縁、ジクザグ道を上がったてっぺんに、木造のお堂が建っています。本州のどこの森や小高い場所でも見られるようなお堂で、明らかに日本式の建て方ですが、この件に関してはアイヌの伝承はなにも語っていません」
と記述しています。アイヌの信仰と神社の信仰は違ったもののはずですが、アイヌたちは神社で礼をしたと記述しています。少々不思議な気がしますが、実はいろいろな歴史が秘められています。
 義経神社は、名前からして義経伝説にまつわるもののように思えますが、実は違います。江戸時代後期(1798年)に、幕臣の近藤重蔵が北方調査をしてこの地を訪れた時、アイヌたちが祀っていたオキクルミを源義経と混同してしまいました。そして、1799年、仏師に源義経像を作らせ、アイヌに与えたのが始まりだそうです。神社は日本式ですが、祀っていたのは、アイヌに神、オキクルミだったのです。
 義経神社は、現在では整備されて、階段もしっかりあるので、簡単にたどり着くことができます。でも、人気のない境内は、荘厳さがありました。このような雰囲気は、100年前にも同じようものであった気がしました。でも、私は、苦労せずに平取まできた、整備された階段を登ってきたのですが。
 人には旅に出たい気持ち、その気持ちにつられて気軽に旅に出てしまうことがあるようです。私は、デスクワークが多くて疲れてくると、旅に出たくなります。もちろん調査や校務として出かけることもあるのですが、単純に無目的な旅をしたくなります。でも、なかなか旅に出たい気持ちがあり、その気持ちを満たすだけの旅はしなくなりました。いやできなくなりました。心も時間も余裕がなくなっているからでしょうか。目的ありきの旅しかしていません。目的をもった旅でも、旅から帰ると、体は疲れているのですが、次はどこどこに行きたいなと思ってしまいます。旅にはそんな人の心に強く働きかける何かがあるようです。
 イザベラのように西洋の旅行家ではなくでも、人は旅をしてきました。芭蕉や山頭火のように、地方をさすらいながら、俳句や紀行文を書きながら過ごす作家たちもいました。また、お伊勢参りのように、長い道のりを徒歩で進んだ人も多くいました。古くは、アフリカで誕生した人類は、何度かアフリカを旅立っています。そして極東にまでたどり着き、氷河期には凍ったベーリング海を渡り、北米大陸までたどりついています。豊かな北米大陸に満足することなく、南米大陸の南端にまで旅を続けます。また海路に乗り出した人たちもいました。風と海流を頼り、星を標にして、海をも旅しました。そんな衝動的な心が、人類には埋め込まれているようです。
 イザベラは、原注に次のように書いています。
「その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイル〔約一九二〇キロ〕を危険な目に逢うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。」
明治だけでなく、江戸末期に日本に来た外国人も多くも同じような感想を述べています。これは、今の日本でも変わらないところだと思います。日本は危険を感じずに旅ができる恵まれた地です。そんな地の利をもっと一杯活用したいのですが・・・。
 私はイザベラ以上に通りすがりのものです。ですから、町の景観からしか感じることができませんでしたが、平取町には、合併問題や町づくりについての姿勢をみると、強い自立心や、逆境にもめげない強い意志を感じました。それは、もしかすると、オキクルミを祀っていたアイヌの伝統にまで遡るのかもしれませんね。

・オキクルミ・
オキクルミというアイヌの神があります。
アイヌ伝承における神はアイヌラックルと呼ばれ
オキクルミとも呼ばれています。
荒々しく混沌とした大地に
初めて誕生した神がオキクルミです。
地上と人間の平和を守るための神として誕生ました。
オキクルミは、大鹿や魔神を退治して、
地上の脅威を取り除き、平和をもたらした神です。
北大の昭和2年度の寮歌「蒼空高く翔らむと」に
「若き勇者のオキクルミ 熊をはふりて饗宴せし」
という歌詞があり、
それでオキクルミの名前を覚えていました。

・義経神社・
義経神社という義経伝説を思い浮かべますが、
上述のようにアイヌの神と混同した結果のようです。
北海道には義経伝説の地がいくつかりますが、
もしかすると近藤重蔵の間違ったように
オキクルミの勇者の伝説が、
義経伝説と誤解されたのかもしれませんね。