野付半島は道東でも有名な観光地です。野付には、大地と海が織りなす砂嘴の形成と浸食のサイクルがあります。もっと短い、森の形成と渇死のサイクルもあります。砂と森と海の生み出すサイクルの中に、人の生活が営まれています。
今年の9月下旬に、野付の近くまで来た時に、夕方に少し余裕があったので、足を延ばし、野付半島を訪れました。夕方まであまり時間がなかったので、駆け足でみることになりました。服もスーツで、足元も革靴だったのですが、整備された環境なので、楽に見学することにができました。9月下旬の平日にかかわらず、思った以上に観光客が訪れていました。風が少々あったのです、北国の快晴の青空のもとで、野付の砂と森、海の織りなす景観を見ることができました。
野付半島へは、国道244号線(ホッポーロードと呼ばれています)を、標津からすぐ南の道道950号線(フラワーロード)に入っていきます。この950号線は、野付半島を通っている唯一の道となります。950号線を進むと、やがて竜神崎の手前で通行止めになっており、そこから先は関係者しか入れなくなっています。
野付半島の付け根は標津町になっていますが、途中から別海町に変わります。道路を走っているとこの飛び地は、少々不思議な感じがします。ところが、船を中心に生活している漁業関係者からみると、野付半島の南に一番飛び出た岬は、別海町のすぐ前でまであり、その距離は非常に近いことがわかります。
野付半島は、北海道の東部にある小さな半島です。北に知床半島、南東に根室半島があります。知床半島と根室半島の間には、国後(くなしり)島が食い込むように入り込んでいます。間の海は根室海峡、一番狭いところが野付水道と呼ばれています。
野付水道に、ちょろりと小さなひげかエビのしっぽのように突き出ている野付半島があります。半島というにはあまりに小さなものです。野付半島から北の海を見ると、高い山並みが北へと続く知床半島がみえます。海を隔てすぐ目の前には、北方4島の一つ、国後島が間近に見えます。ちなみに根室半島の先端の納沙布岬からは、歯舞(はぼまい)諸島の一つ水晶島が間近に見えます。
野付半島の形は、地図で見ると非常に奇異なものです。この形は、砂嘴(さし)と呼ばれものです。砂嘴とは、海流によって運ばれた砂が浅い海岸にたまって、鳥の嘴(くちばし)のような丸みをもって曲がった地形です。
野付半島は、全長26kmもある、日本でもっとも長いものです。この砂嘴は、国後島と北海道の間の根室海峡を通る潮流によってできたものです。北の知床半島の火山岩(主に安山岩)が侵食によって海に流れ出たものが、供給源となっています。
野付半島は、通常の砂嘴よりも複雑な形をしています。砂嘴の内側に次々と丸みをもった枝分かれした砂嘴が形成されています。このような枝分かれているものを、分岐砂嘴と呼んでいます。それは、地球の環境の変化と大地の変動が組み合わさってできてきたと考えられます。
野付半島の先端に近い竜神崎で、140mのボーリングがおこなわれたのですが、その結果によると、120mより深いところは火山灰層あります。120mから27.5mまでは、砂まじりの粘土となります。ここまでは、火山に近い海底の堆積物です。その上は、砂になっています。
氷河期には氷が陸域に発達するので、海水の量が減り海退がおこります。一方、間氷期には陸の氷が溶けて海水が増え海進が起こります。これが、地球規模の気候変動に呼応した海水準の変動となります。しかし、ボーリング結果をみると砂嘴の形成はもっと後のことです。砂嘴の形成は、縄文海進が終わって、現在と同じような海水準になった後、3000年くらい前からはじまりました。
もともと非常に浅い海域であったこの地は、海水準の変動を非常に受けやすくなります。小刻みな変動であっても、敏感に反応していきます。
ある推定(岡崎, 1989)によると、野付半島では、3000年以降、1mから2m程度の海水準の上昇が2度あったとされています。その際、砂嘴の形成や浸食が起こりました。3000年以来、現在がもっとも低い海水準だと考えられています。
その推定によると、沖に向かってエビのしっぽのような丸みをもった砂嘴が、8個も形成されるような変動が起こったとされています。その結果、野付半島では、沖に向かって次々と新しい「しっぽ」が、分岐砂嘴として形成されていきました。
気候と大地の変動には、大きなものから、ささやかなものまであります。野付半島の地形を形成した変動は、ささやかなものを反映していると考えられます。野付のあたりは、海が浅く広がっていたため、非常に敏感にその変動を受け取りました。その敏感さが、枝分かれした不思議な砂嘴を形成したのでしょう。
砂の営みよりさらに敏感なものがあります。それは生きものです。安定した陸地があれば、そこには植物が生えます。トドマツやミズナラの大木が森林をつくっていました。
北海道のアイヌ文化以前の7世紀ごろから13世紀にかけての擦文(さつもん)時代(本州では飛鳥時代から鎌倉時代後半)とされる遺跡が、半島中央部のオンニクルの森で発見されています。江戸時代の中頃まで、トドマツやエゾマツ、ハンノキ、カシワなどの原生林があったとされています。
江戸時代以降も、この地は、ニシンのいい漁場になっていました。野付の砂嘴ごとに多数の集落が形成されていました。春になると、各地から多数の人が集まり、一番外の砂嘴には、50棟から60棟の小屋が立ち並んでいたといいます。その痕跡は、「荒浜岬遺跡」として敷石が残されています。
その後、地盤沈下がおこり、海水が侵入してきました。植物は逃げられないので、海水が来たところは、木が枯れてしまいました。この立ち枯れの木が、まだ多数の残っているところがあります。ミズナラが枯れたところをナラワナと呼んでいますが、そこには海岸線に沿って多数の立ち枯れの木が残っています。一方、トドマツが枯れたところをトドワラでは、立ち枯れの木が一部に残るだけで、塩湿地となっています。
近年は、砂の流出が起こっていようです。高潮や低気圧の接近があると、海水が道路まで押し寄せることがあるようです。もし海面上昇、あるいは少しの地盤沈下があれば、野付半島は敏感にその影響を反映するでしょう。
野付半島に訪れたのは、これで3度目でした。前回は2006年の5月、それ以前の訪問はだいぶ前で記憶も定かではありません。もし、8年前やもっと以前の記憶が定かであれば、比較できれば、森や人の暮らしの変化に気づけたかもしれません。
野付半島の分岐砂嘴の骨格あたるものは、大地の変動が数千年から数百年のサイクルで形成されているものです。しかし、植物はもっと短い百年から数十年のサイクルで変化しています。そのスケールは人の歴史のサイクルに呼応しています。野付の砂嘴は、砂と森と人のサイクルを反映しているようです。
・大地の敏感さ・
野付半島は、このエッセイで2006年6月号で紹介しています。
今回、再訪したので、また紹介することにしました。
以前来た時と比べれば、
観光施設が充実していたように見えました。
砂嘴自体が移ろいやすいものです。
そこを基盤に、森が消長していきます。
さらに人の活動の盛衰も繰り返し起こっています。
これからも、野付の砂嘴は
敏感にいろいろな変化を映しとっていくのでしょうか。
・根雪・
北海道は、一気に冷え込み、雪が繰り返し降りました。
その繰り返しで、大地は一面雪に覆われた光景となりました。
根雪に覆われたかのような真冬の光景となっています。
道路はガリガリに凍り、ツルツルになりました。
歩くのが恐ろしくなります。
このまま気温が上がることなく、
雪が降リ続けば、早い根雪となるでしょう。
もしそうなら、今年の冬は
長くつらいものになりそうです。
大地の景観には、
さまざまな自然の驚異、素晴らしさ、不思議が隠されています。
そんな大地の景観を地形や地質のデータから地質学者が眺めたら、
どう見えるでしょうか。
皆さんどうか、大地の造形に隠された仕組みに
目を向けてください。そして楽しんでください。
2014年12月15日月曜日
2014年11月15日土曜日
119 むつ湾を抱く下北半島
下北半島に取り囲まれ、津軽海峡とつながるむつ湾は、穏やかな海の佇まいからは想像できない複雑な大地の歴史を持っています。むつ湾は、下北半島に抱かれるような形をしています。
秋に校務で青森に出かけました。1泊2日の慌ただしい出張でした。青森空港から、陸奥湾を望むむつ市に、レンタカーで向かいました。そこが校務の目的地でした。長い道中でしたが、カーナビの示す時間より1時間ほど早く着くことができました。その時間を考えると、校務を終えてむつ市から出発すると、カーナビの必要時間では、空港に着く時間が飛行機の出発時間には間に合わない時間でした。少々心配でしたが、行きにかかった時間をみると、かなり余裕をもっていカーナビの時間は設定されていたことがわかりました。帰るときも、自動車道やローカル道路は空いていたので、順調に進むことができ、飛行機の時間にちょうど間に合いました。
むつ市までは、下北半島に沿って北上することになります。下北半島にある東通(ひがしどおり)村は、太平洋と津軽海峡に面しています。東通の地名は、ニュースでよく聞きました。それは、日本原燃と東北電力、リサイクル燃料貯蔵、東京電力などの原子力発電所の再処理工場、備蓄センターなどあるところとして、最近注目を浴びています。道路のよく整備されて、多くの資金が投入されていることが伺われます。
原発関連の施設などがあるため、あるいは大間原発建設の問題で、下北半島の周辺は地質を詳しく検討されるようになってきました。かつては施設近辺だった調査が、広く周辺の地質構造、特に活断層については、詳しく調べられるようになってきました。下北半島を斜めに横切る延長84kmにもなる海底断層である大陸棚外縁断層は話題になりました。
今回は断層の話ではなく、むつ湾を囲む下北半島の地形の不思議さについてです。
下北半島でむつ湾に面した最奥部にむつ市があります。むつ湾には、西側の夏泊半島が北につきだしているため、チョウが羽根を広げたような形をしています。夏泊半島の東を野辺地湾、西を青森湾と呼びます。むつ湾を抱くようにして下北半島があります。
地図をみて気づくことは、下北半島が不思議な形をしていることです。マサカリのような形になっています。マサカリの刃の部分には、標高600~800mの山が連なる下北山地があります。柄の部分のむつ湾側は比較的平らな低地(田名部(たなぶ)低地と呼ばれています)なのですが、東側には吹越山地があります。マサカリの付け根、半島の根本には、小川原低地、六ヶ所低地など、沼や湖をもった沖積平野があります。このようには下北半島は、むつ湾を囲んで非常に変化に富んだ地形をもっています。
下北半島がこのような地形をもっているのは、大地の生い立ち、つまり地質構造に由来しています。
太平洋側の吹越山地は、新第三紀の中新世の堆積岩からできてています。新第三紀の岩石は、日本海形成に関連したグルーンタフ活動の一貫であると考えられています。この山地の地層は背斜構造をもっています。背斜とは、地層が押し縮められたとき上に凸に盛り上がってできる大きく単調な褶曲のような地質構造です。その背斜の軸がマサカリの柄の方向に伸びています。これは、日本列島が太平洋プレートに押されているために、このような構造ができます。大陸棚外縁断層も同じようなプレートの運動によってできている可能性があります。そして、新第三紀の地層を第四紀の地層が覆っています。
また、刃と柄の交差するところである下北半島の北東端には、付加体の構成物(尻屋コンプレックスと呼ばれています)があります。この付加体のチャートからはジュラ紀、泥岩からはジュラ紀末から白亜紀初期の化石がみつかっています。チャートができ、泥岩ができた後、尻屋コンプレックスは日本列島に付加したことになります。
田名部低地は、下北半島の北側にみられる第四紀の地層より新しいもので、田名部層と呼ばれています。この第四紀の田名部層は、むつ湾の東海岸付近に広く分布し、その厚さは50m以上も堆積している地層です。
下北山地は、むつ湾で途切れていますが、夏泊半島を経て奥羽山脈へと続いている山脈になります。下北山地は、中生代の古い地層と新第三紀の地層があり、その上に恐山を中心とした火山活動や火山噴出物の分布しています。
下北半島の西端は切り立った断崖の連らなる海岸で、中生代の古い岩石(基盤と呼ばれる)を取り囲むように新第三紀の岩石が分布します。
基盤岩類は付加体の構成物や火成岩からできています。付加体の構成物であるチャートからは、三畳紀の化石が見つかっています。ですから、尻屋コンプレックスよりはやや古い付加体かもしれません。火成岩は福浦岩体と呼ばれ、花崗岩(正確には石英閃緑岩と呼ばれるもの)が地層に貫入しています。貫入の年代は、K-Ar年代測定によると1億800万年前(白亜紀の中頃)となっています。
新第三紀の堆積後に、恐山の火山活動が起こっています。恐山は現在も活動している活火山です。恐山火山は、大きな山体をもっています。80万年前頃から火山活動は始まっています。安山岩からデイサイトのマグマの活動によるものです。火山活動によってカルデラである宇曽利(うそり)湖が形成され、火砕流なども発生しています。
下北半島には、付加体や活火山、グルーンタフ活動、そして沖積の堆積物と、日本列島を特徴付ける地質が狭い範囲に凝縮しています。その象徴としてむつ湾のがあるのかもしれません。
むつ湾を眺めることができる釜伏山にいくために車を走らせました。途中で何箇所か展望台がありむつ湾や下北半島の柄の部分を眺めながら山頂に向かいました。山頂付近は自衛隊の基地になっているため、厳重な警戒がされていましたが、山頂までいくことができます。ところが残念ながら、霧のため十分な展望ができませんでした。こんなこともあるのです。
・冬到来・
北海道はいち早く積雪をみました。
冷え込んではいるものの、
日が昇れば溶けてしまうでしょうから、
根雪にはならないと思います。
しかし、この積雪で、ほとんどの車は
冬タイヤに変えることになりました。
我が家の車は、昼間しか使わない車です。
例年は多くの積雪がある12月になってからの交換でしたが、
今年は11月中旬に交換です。
今年の冬は少し早いのようです。
・恐山・
恐山については、
以前のエッセイで書いたので参照してください。
恐山:異界で生まれる金鉱石(2008.10.15)
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2008/42.html
現在の恐山は、信仰の対象してだけでなく、
温泉も含めた観光としても人を集めています。
その基地としてむつ市の役割もあのでしょう。
今回訪れたのは、
9月下旬で山頂では紅葉の始まりの頃でした。
ただし、天気があまりよくなかったので
校務の余録を楽しむことは
ほとんどできませんでした。
秋に校務で青森に出かけました。1泊2日の慌ただしい出張でした。青森空港から、陸奥湾を望むむつ市に、レンタカーで向かいました。そこが校務の目的地でした。長い道中でしたが、カーナビの示す時間より1時間ほど早く着くことができました。その時間を考えると、校務を終えてむつ市から出発すると、カーナビの必要時間では、空港に着く時間が飛行機の出発時間には間に合わない時間でした。少々心配でしたが、行きにかかった時間をみると、かなり余裕をもっていカーナビの時間は設定されていたことがわかりました。帰るときも、自動車道やローカル道路は空いていたので、順調に進むことができ、飛行機の時間にちょうど間に合いました。
むつ市までは、下北半島に沿って北上することになります。下北半島にある東通(ひがしどおり)村は、太平洋と津軽海峡に面しています。東通の地名は、ニュースでよく聞きました。それは、日本原燃と東北電力、リサイクル燃料貯蔵、東京電力などの原子力発電所の再処理工場、備蓄センターなどあるところとして、最近注目を浴びています。道路のよく整備されて、多くの資金が投入されていることが伺われます。
原発関連の施設などがあるため、あるいは大間原発建設の問題で、下北半島の周辺は地質を詳しく検討されるようになってきました。かつては施設近辺だった調査が、広く周辺の地質構造、特に活断層については、詳しく調べられるようになってきました。下北半島を斜めに横切る延長84kmにもなる海底断層である大陸棚外縁断層は話題になりました。
今回は断層の話ではなく、むつ湾を囲む下北半島の地形の不思議さについてです。
下北半島でむつ湾に面した最奥部にむつ市があります。むつ湾には、西側の夏泊半島が北につきだしているため、チョウが羽根を広げたような形をしています。夏泊半島の東を野辺地湾、西を青森湾と呼びます。むつ湾を抱くようにして下北半島があります。
地図をみて気づくことは、下北半島が不思議な形をしていることです。マサカリのような形になっています。マサカリの刃の部分には、標高600~800mの山が連なる下北山地があります。柄の部分のむつ湾側は比較的平らな低地(田名部(たなぶ)低地と呼ばれています)なのですが、東側には吹越山地があります。マサカリの付け根、半島の根本には、小川原低地、六ヶ所低地など、沼や湖をもった沖積平野があります。このようには下北半島は、むつ湾を囲んで非常に変化に富んだ地形をもっています。
下北半島がこのような地形をもっているのは、大地の生い立ち、つまり地質構造に由来しています。
太平洋側の吹越山地は、新第三紀の中新世の堆積岩からできてています。新第三紀の岩石は、日本海形成に関連したグルーンタフ活動の一貫であると考えられています。この山地の地層は背斜構造をもっています。背斜とは、地層が押し縮められたとき上に凸に盛り上がってできる大きく単調な褶曲のような地質構造です。その背斜の軸がマサカリの柄の方向に伸びています。これは、日本列島が太平洋プレートに押されているために、このような構造ができます。大陸棚外縁断層も同じようなプレートの運動によってできている可能性があります。そして、新第三紀の地層を第四紀の地層が覆っています。
また、刃と柄の交差するところである下北半島の北東端には、付加体の構成物(尻屋コンプレックスと呼ばれています)があります。この付加体のチャートからはジュラ紀、泥岩からはジュラ紀末から白亜紀初期の化石がみつかっています。チャートができ、泥岩ができた後、尻屋コンプレックスは日本列島に付加したことになります。
田名部低地は、下北半島の北側にみられる第四紀の地層より新しいもので、田名部層と呼ばれています。この第四紀の田名部層は、むつ湾の東海岸付近に広く分布し、その厚さは50m以上も堆積している地層です。
下北山地は、むつ湾で途切れていますが、夏泊半島を経て奥羽山脈へと続いている山脈になります。下北山地は、中生代の古い地層と新第三紀の地層があり、その上に恐山を中心とした火山活動や火山噴出物の分布しています。
下北半島の西端は切り立った断崖の連らなる海岸で、中生代の古い岩石(基盤と呼ばれる)を取り囲むように新第三紀の岩石が分布します。
基盤岩類は付加体の構成物や火成岩からできています。付加体の構成物であるチャートからは、三畳紀の化石が見つかっています。ですから、尻屋コンプレックスよりはやや古い付加体かもしれません。火成岩は福浦岩体と呼ばれ、花崗岩(正確には石英閃緑岩と呼ばれるもの)が地層に貫入しています。貫入の年代は、K-Ar年代測定によると1億800万年前(白亜紀の中頃)となっています。
新第三紀の堆積後に、恐山の火山活動が起こっています。恐山は現在も活動している活火山です。恐山火山は、大きな山体をもっています。80万年前頃から火山活動は始まっています。安山岩からデイサイトのマグマの活動によるものです。火山活動によってカルデラである宇曽利(うそり)湖が形成され、火砕流なども発生しています。
下北半島には、付加体や活火山、グルーンタフ活動、そして沖積の堆積物と、日本列島を特徴付ける地質が狭い範囲に凝縮しています。その象徴としてむつ湾のがあるのかもしれません。
むつ湾を眺めることができる釜伏山にいくために車を走らせました。途中で何箇所か展望台がありむつ湾や下北半島の柄の部分を眺めながら山頂に向かいました。山頂付近は自衛隊の基地になっているため、厳重な警戒がされていましたが、山頂までいくことができます。ところが残念ながら、霧のため十分な展望ができませんでした。こんなこともあるのです。
・冬到来・
北海道はいち早く積雪をみました。
冷え込んではいるものの、
日が昇れば溶けてしまうでしょうから、
根雪にはならないと思います。
しかし、この積雪で、ほとんどの車は
冬タイヤに変えることになりました。
我が家の車は、昼間しか使わない車です。
例年は多くの積雪がある12月になってからの交換でしたが、
今年は11月中旬に交換です。
今年の冬は少し早いのようです。
・恐山・
恐山については、
以前のエッセイで書いたので参照してください。
恐山:異界で生まれる金鉱石(2008.10.15)
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2008/42.html
現在の恐山は、信仰の対象してだけでなく、
温泉も含めた観光としても人を集めています。
その基地としてむつ市の役割もあのでしょう。
今回訪れたのは、
9月下旬で山頂では紅葉の始まりの頃でした。
ただし、天気があまりよくなかったので
校務の余録を楽しむことは
ほとんどできませんでした。
2014年10月15日水曜日
118 市街を守る陣立て:桂浜
(2014.10.15)
桂浜は、観光地として有名です。そんな観光地でもあるのに、人目にふれるところに大規模な防波堤などの人工物があります。そこには、人が自然の地形を古くから利用してきた歴史を感じ取ることができました。
9月の調査では、日程と時間の都合で、桂浜の宿に到着時と出発時の2度同じ所に泊まりました。結果としてそれがよかったのですが、それは後の話しです。
さて、私の興味は、景勝の地の背景にある自然、そして露頭です。自然によって成り立っている景勝地は、たいてい岩石や地層が、その基礎となっています。桂浜もそうです。丘や岩礁に岩石ができています。
高知空港から桂浜に向かうときは海岸を県道14号線(黒潮ライン)で進むことになります。14号線を東に向かうと、平野からやがて海と丘陵に囲まれた海岸を進み、そして小高い丘に至る直前に橋を渡ります。一見河口にみえるような狭いところに掛かる橋ですが、それは湾のくびれとなっています。橋を渡り丘を回ったところが桂浜になります。小雨の中、まずは宿泊地のホテルに向かいました。丘の上に来るのは初めてです。ホテルの横には、高知県立坂本龍馬記念館があります。雨の日の夕方なので、この記念館を見ました。
桂浜は、以前に一度みにきていて、あまり岩石がよく見えない海岸なので、地質学的にはあまり興味が湧かないところです。地質の見学には、高知市から少し離れれば、自然の砂浜、岩場などがいっぱい広がっていて、似た地層がよく見れるところがあるのですから。
それでも桂浜は、有名な観光地でもあり、朝、時間があったので、見学しました。丸く湾曲した砂地浜の海岸、その先に突き出た岩礁、後ろに小高くそびえる丘などが、狭い地域に多様な要素が組み込まれています。丘には松の緑が覆います。砂の白、海の碧、空の青とのコントラストもきれいです。岩礁や丘の上から桂浜を眺めると、海岸線の優雅な幾何学的カーブ、水平線のあるかないかの緩やかな湾曲とが見てとれます。自然の織りなす変化に富んだ景勝の地でもあります。
高知の市街地のすぐ近くにこのような景勝の海岸があるのは、なかなかいい環境です。ところが高台のホテルからは、丘にある緑の松越しにみる白い砂浜の桂浜はきれいなのですが、その向こうに見える防波堤はやはり違和感があります。
桂浜に立っても、北(市街地ある方)を見ると、防波堤や堤防などコンクリートや岩石による人工物が海岸を覆っています。景勝地に、なぜこのような人工物かあるのだろうかと思うのですが、地形図をみるとその理由がわかります。
人工物は、湾の入り口を守っているのです。堤防の奥は、狭い海峡をもつ浦戸湾となっています。桂浜に至る県道14号線で渡った橋も、この海峡にかけられたものです。湾の一番奥に、鏡川などの河川が形成している平野があります。この平野部は東西に広がっています。そこが高知の市街地となっています。
海岸側には、海岸線と平行に小高い丘陵が点々と並んでいます。丘陵地の奥(北側)に、平野部が広がっています。高知市がある周辺は、海岸に平行に、丘陵、平野、そして山地が東西に並ぶような地形になっています。
東西にならぶ地形は、地質構造の影響を受けていてできています。このエッセイで何度もでてきましたが、四国の南部は東西に並んで形成された付加体である四万十層群が分布しているところで四万十帯と呼ばれています。桂浜から高知市街の平野の南端の丘陵までは四万十帯になっているのですが、その北側の平野は全く違った地質が分布しています。つまり、丘陵が四万十帯の北の境界部にあたることになります。
四国の地図をみると、高知県の海岸は、土佐湾を囲むように北に湾曲しており、東の室戸岬、西の足摺岬が海側に出っぱっています。出っぱりの部分は四万十層群が広く分布しています。一方、四万十層群の一番狭い部分が土佐湾の奥まったところにあたります。そこが高知市のある桂浜に当たります。ですから広く分布している四万十層群も、高知市では幅が狭く薄くしか出ていなのです。
四万十層群の北には秩父層群と呼ばれる古い付加体があり、秩父帯と呼ばれています。そして秩父帯の中には、黒瀬川構造帯が点在します。黒瀬川構造帯は、古い時代に形成された、起源も少々変わった異質な岩石類からできています。市街の奥まった丘に高知城がありますが、黒瀬川構造帯の上に築かれています。まあ、これはまた別の機会の話としましょう。
高知平野の手前にある丘陵までが四万十帯で、丘陵の端から平野にかけて秩父帯となり、平野の北側には黒瀬川構造帯が分布しています。秩父帯も黒瀬川構造帯も東西に並んで分布しています。
桂浜の丘は、そんな四万十帯の丘陵の最前部となっています。16世紀はじめには、この丘の上に本山氏が海側の守りとして浦戸城が築かれて、16世紀終わりには長宗我部氏が用いていたそうです。そんな解説板を読んでいると、幾筋かの丘陵群自体が、守りの要所であることがわかりました。
そうなると最前線部に立つ、天然の海岸と平行して並ぶ丘陵は擁壁、高知の市街地の後ろの黒瀬川構造帯も後衛の陣で、そして黒瀬川構造帯の最前部が高知城で本陣となっています。東西に伸びた秩父帯が本陣を守る陣、そして四万十帯が最も前の陣で、桂浜がある丘は、常に海に向かって警戒している最前線の陣です。地形や地質が、高知の市街地を取り囲むように幾重にも並んだ守りの陣立てにも思えました。
現在では、桂浜の地は、防災の要所でもあるのです。防波堤に囲まれた浦戸湾には高知港があり、湾の最奥部に高知の市街地があります。昔の人もその地形を利用していました。今では坂本龍馬が青雲の志を抱きながら南の海に向かって立つ、明治維新の象徴の場となっています。
桂浜は、自然の織りなす美しさと、自然の脅威への人知と天然による守りの陣の両方をみることができるところもであるようです。
・中秋の名月・
私が調査の最終日にとまったときは、9月の中秋の名月は終わっていました。
中秋の日には桂浜に灯りがともされ名月をめでる催しがありました。
ところが、あいにくの曇り空で月がよく見えなかったようです。
私がとまったのは中秋の翌日でイベントは終わっていたのですが、
よく晴れた月の綺麗に見えるよるでした。
そんな十六夜(いざよい)の月をホテルの窓から見ることができました。
・不幸中の幸い・
名月を見るなら、ホテルの窓越しより桂浜に出て見たほうがいいはずです。
それができない事情がありました。
実はぎっくり腰で動きがままならないまま行動していました。
帰る飛行機の便まで腰をいたわりながら日程を過ごしていたのです。
8日間の調査の6日目にぎっくり腰なったのです。
調査の目的を順調にこなし、最後の目的地の調査をするために
急な崖を降りている時、ぎっくり腰なりました。
痛みを感じながら、ゆっくりと崖をのぼって車にたどり着きました。
幸い車に座っている分には、痛みがあまりなく移動できました。
ですから最後のホテルも本来は一番安い部屋を頼んでいたのですが、
和室での寝起きは辛いので、ベットのある部屋を頼みました。
そこは高い部屋で一番眺めのいいところでした。
桂浜の名月も浜に降りることなく、部屋から見ることができたのです。
これは、不幸中の幸いなのでしょうね。
桂浜は、観光地として有名です。そんな観光地でもあるのに、人目にふれるところに大規模な防波堤などの人工物があります。そこには、人が自然の地形を古くから利用してきた歴史を感じ取ることができました。
9月の調査では、日程と時間の都合で、桂浜の宿に到着時と出発時の2度同じ所に泊まりました。結果としてそれがよかったのですが、それは後の話しです。
さて、私の興味は、景勝の地の背景にある自然、そして露頭です。自然によって成り立っている景勝地は、たいてい岩石や地層が、その基礎となっています。桂浜もそうです。丘や岩礁に岩石ができています。
高知空港から桂浜に向かうときは海岸を県道14号線(黒潮ライン)で進むことになります。14号線を東に向かうと、平野からやがて海と丘陵に囲まれた海岸を進み、そして小高い丘に至る直前に橋を渡ります。一見河口にみえるような狭いところに掛かる橋ですが、それは湾のくびれとなっています。橋を渡り丘を回ったところが桂浜になります。小雨の中、まずは宿泊地のホテルに向かいました。丘の上に来るのは初めてです。ホテルの横には、高知県立坂本龍馬記念館があります。雨の日の夕方なので、この記念館を見ました。
桂浜は、以前に一度みにきていて、あまり岩石がよく見えない海岸なので、地質学的にはあまり興味が湧かないところです。地質の見学には、高知市から少し離れれば、自然の砂浜、岩場などがいっぱい広がっていて、似た地層がよく見れるところがあるのですから。
それでも桂浜は、有名な観光地でもあり、朝、時間があったので、見学しました。丸く湾曲した砂地浜の海岸、その先に突き出た岩礁、後ろに小高くそびえる丘などが、狭い地域に多様な要素が組み込まれています。丘には松の緑が覆います。砂の白、海の碧、空の青とのコントラストもきれいです。岩礁や丘の上から桂浜を眺めると、海岸線の優雅な幾何学的カーブ、水平線のあるかないかの緩やかな湾曲とが見てとれます。自然の織りなす変化に富んだ景勝の地でもあります。
高知の市街地のすぐ近くにこのような景勝の海岸があるのは、なかなかいい環境です。ところが高台のホテルからは、丘にある緑の松越しにみる白い砂浜の桂浜はきれいなのですが、その向こうに見える防波堤はやはり違和感があります。
桂浜に立っても、北(市街地ある方)を見ると、防波堤や堤防などコンクリートや岩石による人工物が海岸を覆っています。景勝地に、なぜこのような人工物かあるのだろうかと思うのですが、地形図をみるとその理由がわかります。
人工物は、湾の入り口を守っているのです。堤防の奥は、狭い海峡をもつ浦戸湾となっています。桂浜に至る県道14号線で渡った橋も、この海峡にかけられたものです。湾の一番奥に、鏡川などの河川が形成している平野があります。この平野部は東西に広がっています。そこが高知の市街地となっています。
海岸側には、海岸線と平行に小高い丘陵が点々と並んでいます。丘陵地の奥(北側)に、平野部が広がっています。高知市がある周辺は、海岸に平行に、丘陵、平野、そして山地が東西に並ぶような地形になっています。
東西にならぶ地形は、地質構造の影響を受けていてできています。このエッセイで何度もでてきましたが、四国の南部は東西に並んで形成された付加体である四万十層群が分布しているところで四万十帯と呼ばれています。桂浜から高知市街の平野の南端の丘陵までは四万十帯になっているのですが、その北側の平野は全く違った地質が分布しています。つまり、丘陵が四万十帯の北の境界部にあたることになります。
四国の地図をみると、高知県の海岸は、土佐湾を囲むように北に湾曲しており、東の室戸岬、西の足摺岬が海側に出っぱっています。出っぱりの部分は四万十層群が広く分布しています。一方、四万十層群の一番狭い部分が土佐湾の奥まったところにあたります。そこが高知市のある桂浜に当たります。ですから広く分布している四万十層群も、高知市では幅が狭く薄くしか出ていなのです。
四万十層群の北には秩父層群と呼ばれる古い付加体があり、秩父帯と呼ばれています。そして秩父帯の中には、黒瀬川構造帯が点在します。黒瀬川構造帯は、古い時代に形成された、起源も少々変わった異質な岩石類からできています。市街の奥まった丘に高知城がありますが、黒瀬川構造帯の上に築かれています。まあ、これはまた別の機会の話としましょう。
高知平野の手前にある丘陵までが四万十帯で、丘陵の端から平野にかけて秩父帯となり、平野の北側には黒瀬川構造帯が分布しています。秩父帯も黒瀬川構造帯も東西に並んで分布しています。
桂浜の丘は、そんな四万十帯の丘陵の最前部となっています。16世紀はじめには、この丘の上に本山氏が海側の守りとして浦戸城が築かれて、16世紀終わりには長宗我部氏が用いていたそうです。そんな解説板を読んでいると、幾筋かの丘陵群自体が、守りの要所であることがわかりました。
そうなると最前線部に立つ、天然の海岸と平行して並ぶ丘陵は擁壁、高知の市街地の後ろの黒瀬川構造帯も後衛の陣で、そして黒瀬川構造帯の最前部が高知城で本陣となっています。東西に伸びた秩父帯が本陣を守る陣、そして四万十帯が最も前の陣で、桂浜がある丘は、常に海に向かって警戒している最前線の陣です。地形や地質が、高知の市街地を取り囲むように幾重にも並んだ守りの陣立てにも思えました。
現在では、桂浜の地は、防災の要所でもあるのです。防波堤に囲まれた浦戸湾には高知港があり、湾の最奥部に高知の市街地があります。昔の人もその地形を利用していました。今では坂本龍馬が青雲の志を抱きながら南の海に向かって立つ、明治維新の象徴の場となっています。
桂浜は、自然の織りなす美しさと、自然の脅威への人知と天然による守りの陣の両方をみることができるところもであるようです。
・中秋の名月・
私が調査の最終日にとまったときは、9月の中秋の名月は終わっていました。
中秋の日には桂浜に灯りがともされ名月をめでる催しがありました。
ところが、あいにくの曇り空で月がよく見えなかったようです。
私がとまったのは中秋の翌日でイベントは終わっていたのですが、
よく晴れた月の綺麗に見えるよるでした。
そんな十六夜(いざよい)の月をホテルの窓から見ることができました。
・不幸中の幸い・
名月を見るなら、ホテルの窓越しより桂浜に出て見たほうがいいはずです。
それができない事情がありました。
実はぎっくり腰で動きがままならないまま行動していました。
帰る飛行機の便まで腰をいたわりながら日程を過ごしていたのです。
8日間の調査の6日目にぎっくり腰なったのです。
調査の目的を順調にこなし、最後の目的地の調査をするために
急な崖を降りている時、ぎっくり腰なりました。
痛みを感じながら、ゆっくりと崖をのぼって車にたどり着きました。
幸い車に座っている分には、痛みがあまりなく移動できました。
ですから最後のホテルも本来は一番安い部屋を頼んでいたのですが、
和室での寝起きは辛いので、ベットのある部屋を頼みました。
そこは高い部屋で一番眺めのいいところでした。
桂浜の名月も浜に降りることなく、部屋から見ることができたのです。
これは、不幸中の幸いなのでしょうね。
2014年8月15日金曜日
116 羽根岬:正常と異常
高知県室戸市の羽根岬では、付加体堆積物が見ることができます。すぐ近くでは海成正常堆積物もみることができます。しかし、私には、付加体堆積物に興味があります。
高知の室戸岬に向かう国道55号線の通り道で、安芸(あき)郡奈半利(なはり)町の加領郷(かりょうごう)の漁港から、室戸市にはいってすぐのところにある羽根(はね)岬の漁港までのあいだの海岸には、岩礁地帯があります。ここが、今日紹介するところです。
羽根岬は、室戸ジオパークのサイトの一つに選ばれているところでもあります。国道沿いにあるパークエリアが整備されていて、岩礁地帯へのアプローチはしやすくなっています。
羽根岬で、私が見たかったのは、この海岸沿いの岩礁となっている地層です。このエッセイではよくでてくるタービダイト層とよばれるもので形成されています。
タービダイト層とは、河口や海岸などの沿岸にたまった堆積物が、なんらかのきっかけで大陸斜面を流れ下り、より深い海底に持たられたたものです。この海底での流れ(重力密度流とよばれています)がタービダイトになります。タービダイトは、かなり緩い傾斜でも流れ、平坦になったところでやっととまります。ですから、タービダイト層がたまるのは、大陸斜面の平になった盆地や時には海溝の一番低いとろこまで達します。
タービダイト層は、深い海底にたまった堆積物となります。土砂の供給源やタービダイトの流れの様子、溜まる場所、そして現在見ている地層の部分によって、タービダイト層の見え方が変わってきます。
羽根岬の地層では、砂岩と泥岩の繰り返しがの間隔が、比較的大きくなっています。つまり、タービダイト層の一つのサイクルで、多くの堆積物がある場を見ていることになります。以前紹介したもう少し南の行頭(ぎょうとう)では、地層の厚さはもっと薄いものでした。このような地層の産状の違いが、過去を復元するとき、有用な情報になります。
もうひとつ重要なことは、地層全般にいえることですが、過去の環境を示す情報を保存していることです。一番新しいタービダイトが、その時の海底となります。そこに、その当時の生物の暮らしを物語る化石が見つかることがあります。タービダイトとともに流れてきた化石は、この海底に住んでいたものではなく、他の場所がからもたらされたものです。このような移動してきた化石を、異地性化石といいます。その場に住んでいた生物は、現地性化石といいます。
羽根岬では、現地性化石をみることができます。実は化石とはいっても、生物の体の一部が残っているあるわけでありません。這った跡や巣穴の跡などです。このような生活の跡も、化石として扱われています。生物が住み、その海底の状態が破壊されることなく地層になれば、生痕化石として保存されることになりますが、その条件をみたすことはあまり多くありません。ただし、行頭などのタービダイト層でも、生痕化石は見ることができます。
付加体の構成物であるタービダイト層は、通常の地層とは、違ったできたかをします。タービダイト層は深い海底にたまり、そのままであれば通常の地層となるのですが、地質学的な位置が問題です。沈み込み帯の陸側にたまったものの多くは、付加作用を受けます。これが、通常の地層との違いを生み出します。
付加体では、新しい地層が古い地層の下に、押し込まれていきます。もともとは古い地層が下、新しい地層が上という順でたまったものが、逆転しています。つまり、北(陸側)ほど見かけ上、上位の地層になるのですが、時代としてより古い地層がでます。このような特異な特徴やでき方をした堆積物を「付加体堆積物」として、通常の地層とは区別していしています。付加体堆積物の認定にともなって、通常の堆積物は正常堆積物と呼ばれるようになりました。
羽根岬は、室戸岬などと比べて海溝から遠い位置にあります。ですから、より古い地層が出ていることになります。室戸岬の付加体が、4000万~2200万年前(後期始新世から前期中新世)なのですが、羽根岬の地層は5200万~3200万年前(中期始新世から前期漸新世)と、1000万年くらい古い時代にできていることがわかっています。
日本列島は、付加体堆積物が多くを占めていることが知られています。日本列島の西半分のうち太平洋に面した地域では、正常堆積物が少なく、特に海でたまった(海成)正常堆積物は非常に少くなっています。
地質学者たちは、羽根岬周辺では、新しい時代の海成正常堆積物からなる地層がみられることで注目しています。「唐の浜層群」とよばれるもので、四国では唯一の海成正常堆積物となっています。同様の地層は、静岡の掛川層群や九州の宮崎層群、沖縄の島尻層群などしかありません。珍しい地層となっています。
室戸地域が、特異な地質条件に置かれているためです。海成堆積層は海岸沿いにたまります。海退が激しい地域、つまり大地が上昇しているようなところでは、海の地層がタービダイトとして海底に運ばれる前に、持ち上げられるような条件を満たす地域となります。室戸周辺は、上昇している地帯となります。この話は、別の機会としましょう。
さて、正常の反語は異常です。ですから、正常堆積物に対して、異常堆積物といいたいことろですが、それでは日本列島の重要な構成岩石が、不当な扱いを受けてしまいます。ですから、付加体堆積物という名称が用いられています。日本では、堆積物として付加体堆積物が当たり前の分布しているのですが、大陸地域では、正常堆積物が通常で、付加体堆積物は異常な堆積物にみえる地域もあります。日本列島は、付加体と共に成長してきた大地の歴史があります。これは地域の個性ですので、仕方がありません。
残念ながら、私は、唐の浜層群は見ていないので、また機会があれば見に行ければと思っています。今の興味は付加体堆積物の方なので、いつになることでしょうか。
・故郷として・
高知は私の好きな地域となっています。
以前愛媛に住んでいたせいでしょうか、
高知には馴染みがあります。
愛媛はだいぶ堪能したので、
次は高知という思いもあります。
海があり、山もあり、そして自然が豊富に残されている
そんな地域に私は魅力を感じます。
この条件を高知も満たしています。
住みたい地域でもあります。
しかし、今は北海道に住み、終の住まいと思っています。
ですから、第二の故郷、第三の故郷として
愛媛や高知を思っています。
ですから、調査をするときは
ついつい高知を選んでしまいます。
・暑い時期は終わった?・
北海道は台風が去ったあとは、
暑さのピークも過ぎて、
過ごしやすい夏の終わりに向かう
気候となてきたようです。
北海道以南の地域の人は、
まだ残暑が厳しいことでしょう。
私は、まだ夏休みがとれません。
もしかすると、夏休みはとれないかもしれません。
9月には、調査に1週間ほど出る予定ですが、
それまで次々と仕事があります。
頭を切り替える時間、論文を書く時間がありません。
なんとか、次なる目標に向かって行きたいのですが。
高知の室戸岬に向かう国道55号線の通り道で、安芸(あき)郡奈半利(なはり)町の加領郷(かりょうごう)の漁港から、室戸市にはいってすぐのところにある羽根(はね)岬の漁港までのあいだの海岸には、岩礁地帯があります。ここが、今日紹介するところです。
羽根岬は、室戸ジオパークのサイトの一つに選ばれているところでもあります。国道沿いにあるパークエリアが整備されていて、岩礁地帯へのアプローチはしやすくなっています。
羽根岬で、私が見たかったのは、この海岸沿いの岩礁となっている地層です。このエッセイではよくでてくるタービダイト層とよばれるもので形成されています。
タービダイト層とは、河口や海岸などの沿岸にたまった堆積物が、なんらかのきっかけで大陸斜面を流れ下り、より深い海底に持たられたたものです。この海底での流れ(重力密度流とよばれています)がタービダイトになります。タービダイトは、かなり緩い傾斜でも流れ、平坦になったところでやっととまります。ですから、タービダイト層がたまるのは、大陸斜面の平になった盆地や時には海溝の一番低いとろこまで達します。
タービダイト層は、深い海底にたまった堆積物となります。土砂の供給源やタービダイトの流れの様子、溜まる場所、そして現在見ている地層の部分によって、タービダイト層の見え方が変わってきます。
羽根岬の地層では、砂岩と泥岩の繰り返しがの間隔が、比較的大きくなっています。つまり、タービダイト層の一つのサイクルで、多くの堆積物がある場を見ていることになります。以前紹介したもう少し南の行頭(ぎょうとう)では、地層の厚さはもっと薄いものでした。このような地層の産状の違いが、過去を復元するとき、有用な情報になります。
もうひとつ重要なことは、地層全般にいえることですが、過去の環境を示す情報を保存していることです。一番新しいタービダイトが、その時の海底となります。そこに、その当時の生物の暮らしを物語る化石が見つかることがあります。タービダイトとともに流れてきた化石は、この海底に住んでいたものではなく、他の場所がからもたらされたものです。このような移動してきた化石を、異地性化石といいます。その場に住んでいた生物は、現地性化石といいます。
羽根岬では、現地性化石をみることができます。実は化石とはいっても、生物の体の一部が残っているあるわけでありません。這った跡や巣穴の跡などです。このような生活の跡も、化石として扱われています。生物が住み、その海底の状態が破壊されることなく地層になれば、生痕化石として保存されることになりますが、その条件をみたすことはあまり多くありません。ただし、行頭などのタービダイト層でも、生痕化石は見ることができます。
付加体の構成物であるタービダイト層は、通常の地層とは、違ったできたかをします。タービダイト層は深い海底にたまり、そのままであれば通常の地層となるのですが、地質学的な位置が問題です。沈み込み帯の陸側にたまったものの多くは、付加作用を受けます。これが、通常の地層との違いを生み出します。
付加体では、新しい地層が古い地層の下に、押し込まれていきます。もともとは古い地層が下、新しい地層が上という順でたまったものが、逆転しています。つまり、北(陸側)ほど見かけ上、上位の地層になるのですが、時代としてより古い地層がでます。このような特異な特徴やでき方をした堆積物を「付加体堆積物」として、通常の地層とは区別していしています。付加体堆積物の認定にともなって、通常の堆積物は正常堆積物と呼ばれるようになりました。
羽根岬は、室戸岬などと比べて海溝から遠い位置にあります。ですから、より古い地層が出ていることになります。室戸岬の付加体が、4000万~2200万年前(後期始新世から前期中新世)なのですが、羽根岬の地層は5200万~3200万年前(中期始新世から前期漸新世)と、1000万年くらい古い時代にできていることがわかっています。
日本列島は、付加体堆積物が多くを占めていることが知られています。日本列島の西半分のうち太平洋に面した地域では、正常堆積物が少なく、特に海でたまった(海成)正常堆積物は非常に少くなっています。
地質学者たちは、羽根岬周辺では、新しい時代の海成正常堆積物からなる地層がみられることで注目しています。「唐の浜層群」とよばれるもので、四国では唯一の海成正常堆積物となっています。同様の地層は、静岡の掛川層群や九州の宮崎層群、沖縄の島尻層群などしかありません。珍しい地層となっています。
室戸地域が、特異な地質条件に置かれているためです。海成堆積層は海岸沿いにたまります。海退が激しい地域、つまり大地が上昇しているようなところでは、海の地層がタービダイトとして海底に運ばれる前に、持ち上げられるような条件を満たす地域となります。室戸周辺は、上昇している地帯となります。この話は、別の機会としましょう。
さて、正常の反語は異常です。ですから、正常堆積物に対して、異常堆積物といいたいことろですが、それでは日本列島の重要な構成岩石が、不当な扱いを受けてしまいます。ですから、付加体堆積物という名称が用いられています。日本では、堆積物として付加体堆積物が当たり前の分布しているのですが、大陸地域では、正常堆積物が通常で、付加体堆積物は異常な堆積物にみえる地域もあります。日本列島は、付加体と共に成長してきた大地の歴史があります。これは地域の個性ですので、仕方がありません。
残念ながら、私は、唐の浜層群は見ていないので、また機会があれば見に行ければと思っています。今の興味は付加体堆積物の方なので、いつになることでしょうか。
・故郷として・
高知は私の好きな地域となっています。
以前愛媛に住んでいたせいでしょうか、
高知には馴染みがあります。
愛媛はだいぶ堪能したので、
次は高知という思いもあります。
海があり、山もあり、そして自然が豊富に残されている
そんな地域に私は魅力を感じます。
この条件を高知も満たしています。
住みたい地域でもあります。
しかし、今は北海道に住み、終の住まいと思っています。
ですから、第二の故郷、第三の故郷として
愛媛や高知を思っています。
ですから、調査をするときは
ついつい高知を選んでしまいます。
・暑い時期は終わった?・
北海道は台風が去ったあとは、
暑さのピークも過ぎて、
過ごしやすい夏の終わりに向かう
気候となてきたようです。
北海道以南の地域の人は、
まだ残暑が厳しいことでしょう。
私は、まだ夏休みがとれません。
もしかすると、夏休みはとれないかもしれません。
9月には、調査に1週間ほど出る予定ですが、
それまで次々と仕事があります。
頭を切り替える時間、論文を書く時間がありません。
なんとか、次なる目標に向かって行きたいのですが。
2014年7月15日火曜日
115 牟岐:人知れないトンボロ
牟岐の海岸には、子どもたちが海遊びするのに適した海岸や磯、島、そして山もあります。それを利用して子どもに野外体験をする施設もあります。そんな牟岐の海岸に人知れずトンボロ現象が潜んでいました。さて、この現象は、一時的なものなのでしょうか。それとも、あまりに小規模すぎるものなのでしょか。
徳島県の国道55号より太平洋岸沿いを通る県道147号は、南阿波サンラインと呼ばれ、なかなか心地よい道路です。徳島県から高知県にかけての海岸は、室戸阿南海岸国定公園に指定されていて、徳島県海部郡牟岐(むぎ)町は海と山での野外活動の拠点として重要な位置にあります。
牟岐町灘の東で、南阿波サンラインからはずれて海に向かうと、「徳島県立牟岐少年自然の家」という施設があります。その施設のすぐ前の海側には「モラスコむぎ」があります。
「モラスコむぎ」林業木材を進行するための事業で建てられた施設で、巻貝と二枚貝を形どったデザインです。二枚貝の方が水族館になっており、巻き貝の方が事務室やダイビング施設になっています。建物からすぐ前の海にでることができます。ダイビングもできるようなっています。「モラスコむぎ」の水族館は、以前来た時見学したので、今回は寄らずに、海岸にでました。
「モラスコむぎ」から海にでると、海岸を挟んで、少し先に島があります。松ヶ磯と呼ばれています。この磯を見に来ました。
本エッセイでも何度も取り上げていますが、徳島県の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる地層が分布しています。四万十層群は付加体という仕組みでできたものです。海洋プレートが南海トラフに沈み込むとき、陸側のプレートは押されて、さまざまな地質現象を起こします。陸側の地層の圧縮と変形、海側のプレートの上部の剥ぎ取りなどが起こり、それらが混在して陸側に付加していきます。それが付加体というものになり、日本列島の地質の重要なメカニズムになっています。
陸側の地層は、タービダイトでできています。タービダイトは、陸から河川によって河口付近の海底に運ばれた堆積物が、地震や洪水などを契機に、海底地すべりで、海溝に向かって大陸斜面を流れ下ります。タービダイトにより、砂岩から泥岩までの一枚の地層ができます。長い時間でみると、大陸斜面の平らなところや海底の盆地には、次々とタービダイトがきて、砂岩泥岩の地層が重なっていきます。それが砂岩泥岩の繰り返しの地層となり「互層(ごうそう)」とよばれます。
付加体には陸側のものと海側のものが混在することになりますが、海側の岩石は、層状のチャートや石灰岩、玄武岩などで、陸の互層とは容易に区分できます。
付加体の中には、陸側の地層だけをとってみて、整然と残っているところから、乱れてて激しく褶曲しているところ、断層などでズタズタに切られているところ、海洋プレートからの岩石と混在してコチャゴチャになっているところなど、見かけは大きく変化していきます。いずれも付加という作用でできます。
牟岐の松ヶ磯は、海食台になっていて、平らな海岸で地層を見ることができます。海岸で地層を観察することにしましょう。ここには、海洋プレート側の岩石はなく、陸側のタービダイトの地層だけがでています。
もともとは砂岩と泥岩の互層のはずのですが、今では、岩石の種類は見分けられますが、構造は激しく破砕されています。弱い泥岩には小さな断層(剪断(せんだん)といいます)が一杯できています。比較的強い砂岩も、地層が曲がりくねったり、壊されて切れ切れになっています。これは、付加体の中で互層がかなり壊されている部分です。
この松ヶ磯は、潮が満ちているときは海の中の島になり、潮が引くと陸続きになります。私が訪れた時は、潮が満ちつつある時間帯で、砂洲の上を波がかぶっていました。砂洲の両側から波が満ちてきて、不思議な波模様になっていました。
私は、そんな波を見ながら、渡るのを躊躇しました。松ヶ磯の海食台の一番遠くのとこには、釣り人がいたのですが、彼ら釣り人は、地元のことをよく知っていて、潮が満ちてきても、次に引き潮の時間までじっくり釣りをしているかもしれません。あてにはできません。もし渡ってから満潮になってしまい、濡れないと戻れなくなると嫌なので、渡るのを躊躇していました。
小さな孫を連れたおじいさんが、海岸に遊びに来ていました。孫とおじいさんは、最初は海岸沿いで遊んでいたのですが、波の合間をぬって私の目の前で、松ヶ磯に渡りました。そして松ヶ磯の海食台で遊んでいました。
これを見て、私も安心して渡ることにしました。海食台にはタイドプールがいくつもあり、磯遊びするにはうってつけのところのようです。もちろん私は地層をみたのですが。
島が、潮の満引きよって、陸につながったり島になったりするのは、トンボロ(tombolo)現象といい、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれています。いくつかの地理的条件を満たした時、トンボロ現象が起こります。ただし、時間とともに砂が多くなれば、トンボロは陸繋島となり、砂が減れば普通の島になります。ですから、一時的な地形の特徴でもあります。
いろいろ調べたのですが、松ヶ磯のトンボロ現象について説明しているものがどこにも見つかりませんでした。もっと探せば見つかるのかもしれませんが、時間切れとなりました。国土地理院の技術資料の「日本の典型地形」にも、徳島では、宍喰(ししくい)のトンボロは記載されているのですが、牟岐には特徴的な地形はありませんでした。もしかすると最近、トンボロになったのかもしれませんが、それはあまり考えられません。
松ヶ磯は、多分、磯と呼ばれているように、丘のようになってい森が茂っていますが、島という大きさもないほど小さいため、島ではなく、岩礁とみなされているでしょうか。しかし、地形区分の定義の上では、トンボロと呼んでいいと思うですが・・・。
小規模で距離が近いので、松ヶ磯にはすぐに渡れて危険がありません。このトンボロも楽しい磯遊びの場になるような気がします。磯遊びのついでに、地層もみれればいいのですが、ここは典型的な互層の地層ではなく、乱れた地層の観察になります。でも、剪断された砂岩泥岩の互層をみて、付加体からプレート運動に思いを馳せるのは、マニアックすぎるでしょうかね。
・論文・
北海道も夏らいしい暑い日が続きます。
私は、7月になてってから、論文作成のために四苦八苦していました。
今回の論文にも手こずりました。
でも、以前から漠然と考えていた考察を
まとめることができました。
現段階で考えられる内容をまとめました。
少々課題が残りましたが、
それは次の論文のネタになるはずです。
私のテーマは、3、4つの互いに関連はしているのですが、
毛色の違う研究を平行してい進めています。
このエッセイを書いているときは、
まだ最後の詰めの段階ですが
エッセイが届く頃には出来上がって
手放していることと思っています。
・忙しい夏に・
いよいよ世間は夏休みが近いようで
浮かれている人もいるのではないでしょうか。
大学は、8月上旬まで定期試験があり、
私は、ある学会の副実行委員長を仰せつかっているので、
その後、数日はバタバタします。
そしてお盆明けには大学の成績提出です。
8月下旬には入試と保護者のために
地方を毎週週末に出張します。
その隙間をぬって、1週間ほどの調査にでます。
それを楽しみに夏を過ごすことになりそうです。
9月から10月にかけては、
教育実習の指導のいくつか入ります。
今年も忙しい夏になりそうです。
徳島県の国道55号より太平洋岸沿いを通る県道147号は、南阿波サンラインと呼ばれ、なかなか心地よい道路です。徳島県から高知県にかけての海岸は、室戸阿南海岸国定公園に指定されていて、徳島県海部郡牟岐(むぎ)町は海と山での野外活動の拠点として重要な位置にあります。
牟岐町灘の東で、南阿波サンラインからはずれて海に向かうと、「徳島県立牟岐少年自然の家」という施設があります。その施設のすぐ前の海側には「モラスコむぎ」があります。
「モラスコむぎ」林業木材を進行するための事業で建てられた施設で、巻貝と二枚貝を形どったデザインです。二枚貝の方が水族館になっており、巻き貝の方が事務室やダイビング施設になっています。建物からすぐ前の海にでることができます。ダイビングもできるようなっています。「モラスコむぎ」の水族館は、以前来た時見学したので、今回は寄らずに、海岸にでました。
「モラスコむぎ」から海にでると、海岸を挟んで、少し先に島があります。松ヶ磯と呼ばれています。この磯を見に来ました。
本エッセイでも何度も取り上げていますが、徳島県の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる地層が分布しています。四万十層群は付加体という仕組みでできたものです。海洋プレートが南海トラフに沈み込むとき、陸側のプレートは押されて、さまざまな地質現象を起こします。陸側の地層の圧縮と変形、海側のプレートの上部の剥ぎ取りなどが起こり、それらが混在して陸側に付加していきます。それが付加体というものになり、日本列島の地質の重要なメカニズムになっています。
陸側の地層は、タービダイトでできています。タービダイトは、陸から河川によって河口付近の海底に運ばれた堆積物が、地震や洪水などを契機に、海底地すべりで、海溝に向かって大陸斜面を流れ下ります。タービダイトにより、砂岩から泥岩までの一枚の地層ができます。長い時間でみると、大陸斜面の平らなところや海底の盆地には、次々とタービダイトがきて、砂岩泥岩の地層が重なっていきます。それが砂岩泥岩の繰り返しの地層となり「互層(ごうそう)」とよばれます。
付加体には陸側のものと海側のものが混在することになりますが、海側の岩石は、層状のチャートや石灰岩、玄武岩などで、陸の互層とは容易に区分できます。
付加体の中には、陸側の地層だけをとってみて、整然と残っているところから、乱れてて激しく褶曲しているところ、断層などでズタズタに切られているところ、海洋プレートからの岩石と混在してコチャゴチャになっているところなど、見かけは大きく変化していきます。いずれも付加という作用でできます。
牟岐の松ヶ磯は、海食台になっていて、平らな海岸で地層を見ることができます。海岸で地層を観察することにしましょう。ここには、海洋プレート側の岩石はなく、陸側のタービダイトの地層だけがでています。
もともとは砂岩と泥岩の互層のはずのですが、今では、岩石の種類は見分けられますが、構造は激しく破砕されています。弱い泥岩には小さな断層(剪断(せんだん)といいます)が一杯できています。比較的強い砂岩も、地層が曲がりくねったり、壊されて切れ切れになっています。これは、付加体の中で互層がかなり壊されている部分です。
この松ヶ磯は、潮が満ちているときは海の中の島になり、潮が引くと陸続きになります。私が訪れた時は、潮が満ちつつある時間帯で、砂洲の上を波がかぶっていました。砂洲の両側から波が満ちてきて、不思議な波模様になっていました。
私は、そんな波を見ながら、渡るのを躊躇しました。松ヶ磯の海食台の一番遠くのとこには、釣り人がいたのですが、彼ら釣り人は、地元のことをよく知っていて、潮が満ちてきても、次に引き潮の時間までじっくり釣りをしているかもしれません。あてにはできません。もし渡ってから満潮になってしまい、濡れないと戻れなくなると嫌なので、渡るのを躊躇していました。
小さな孫を連れたおじいさんが、海岸に遊びに来ていました。孫とおじいさんは、最初は海岸沿いで遊んでいたのですが、波の合間をぬって私の目の前で、松ヶ磯に渡りました。そして松ヶ磯の海食台で遊んでいました。
これを見て、私も安心して渡ることにしました。海食台にはタイドプールがいくつもあり、磯遊びするにはうってつけのところのようです。もちろん私は地層をみたのですが。
島が、潮の満引きよって、陸につながったり島になったりするのは、トンボロ(tombolo)現象といい、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれています。いくつかの地理的条件を満たした時、トンボロ現象が起こります。ただし、時間とともに砂が多くなれば、トンボロは陸繋島となり、砂が減れば普通の島になります。ですから、一時的な地形の特徴でもあります。
いろいろ調べたのですが、松ヶ磯のトンボロ現象について説明しているものがどこにも見つかりませんでした。もっと探せば見つかるのかもしれませんが、時間切れとなりました。国土地理院の技術資料の「日本の典型地形」にも、徳島では、宍喰(ししくい)のトンボロは記載されているのですが、牟岐には特徴的な地形はありませんでした。もしかすると最近、トンボロになったのかもしれませんが、それはあまり考えられません。
松ヶ磯は、多分、磯と呼ばれているように、丘のようになってい森が茂っていますが、島という大きさもないほど小さいため、島ではなく、岩礁とみなされているでしょうか。しかし、地形区分の定義の上では、トンボロと呼んでいいと思うですが・・・。
小規模で距離が近いので、松ヶ磯にはすぐに渡れて危険がありません。このトンボロも楽しい磯遊びの場になるような気がします。磯遊びのついでに、地層もみれればいいのですが、ここは典型的な互層の地層ではなく、乱れた地層の観察になります。でも、剪断された砂岩泥岩の互層をみて、付加体からプレート運動に思いを馳せるのは、マニアックすぎるでしょうかね。
・論文・
北海道も夏らいしい暑い日が続きます。
私は、7月になてってから、論文作成のために四苦八苦していました。
今回の論文にも手こずりました。
でも、以前から漠然と考えていた考察を
まとめることができました。
現段階で考えられる内容をまとめました。
少々課題が残りましたが、
それは次の論文のネタになるはずです。
私のテーマは、3、4つの互いに関連はしているのですが、
毛色の違う研究を平行してい進めています。
このエッセイを書いているときは、
まだ最後の詰めの段階ですが
エッセイが届く頃には出来上がって
手放していることと思っています。
・忙しい夏に・
いよいよ世間は夏休みが近いようで
浮かれている人もいるのではないでしょうか。
大学は、8月上旬まで定期試験があり、
私は、ある学会の副実行委員長を仰せつかっているので、
その後、数日はバタバタします。
そしてお盆明けには大学の成績提出です。
8月下旬には入試と保護者のために
地方を毎週週末に出張します。
その隙間をぬって、1週間ほどの調査にでます。
それを楽しみに夏を過ごすことになりそうです。
9月から10月にかけては、
教育実習の指導のいくつか入ります。
今年も忙しい夏になりそうです。
2014年6月15日日曜日
114 南阿波サンライン:メランジュ
徳島の太平洋側には、南阿波サンラインという道路があります。道は整備されているのですが、交通量も少なく、天気が良い日は、快適なドライブコースとなります。この道は景観だけでなく、地質の見どころもあります。
徳島県海部郡の美波町から牟岐町にかけての海岸は、山が迫っており、切り立った険しい崖が続くところが多くなります。そのような険しい海岸に、内陸を走る国道55号から分かれた南阿波サンラインがあります。南阿波サンラインは、整備されているのですが、交通量が少ないので、景色を眺めながらのドライブにはいいところです。
切り立った海岸線の形成には、地質学的な理由があります。このあたりの地層は、四万十層群と呼ばれるものからできています。四万十層群は、砂岩と泥岩が繰り返す地層(砂岩泥岩互層といいます)で、タービダイトという海底の土砂の流れによってできたものです。
砂岩泥岩の互層では、砂岩は固く侵食にも強く、泥岩は柔らかく侵食に弱いという性質を持っています。ですから互層が侵食を受けると、泥岩が窪んでいき、砂岩が残り出っぱていきます。互層で砂岩の比率が多い(優勢といいます)ところは侵食されにくく、泥岩の多いところは侵食を受けやすくなります。砂岩泥岩の互層の分布地域では、砂岩優勢のところは切り立った崖や険しい山に、泥岩優勢ところは開けた海岸や平野や河川の流路になるという、一般的な傾向があります。
そのようなことを考えると、南阿波サンラインの切り立った海岸線は、四万十層群でも砂岩優勢にあたるところになります。
外ノ牟岐井ノ浜では、砂岩優勢の地層を見ることができます。泥岩は10cmから3cmほどと厚さしかないの対して、砂岩は2mから20cmほどと一桁大きな厚さがあります。厚い砂岩では、5mを越えるものもあります。泥岩が少なく砂岩が非常に多いところは、砂岩ばかりで時々泥岩の切れ目ができるため、層状砂岩とも呼ばれます。千羽海岸からみえる切り立った崖は、層状砂岩が200mの断崖となって聳えています。
南阿波サンラインから離れて明丸海岸に降りて行くと、狭い海岸にでます。ここには砂泥互層だけでなく、少々変わった岩石群があります。岩石群といったのは、一種類の岩石ではなく、複数の岩石が混在しているためです。明丸海岸では、メランジュ(Mélange)と呼ばれる岩石群が見られます。
メランジュとは、日本語訳はなく、カタカナ表記のまま使われています。メランジュは、細粒に破砕された基質のなかに、もともとはまったく成因関係のない、さまざまなサイズの、さまざまな種類の岩石塊を含んでいます。メランジュ自体の成因も判明していない、このような産状を示す地質体をいいます。かつては、同様の産状のものを、サイズを問わず、すべてメランジュと呼んでいましたが、最近では地質図に表現できるサイズのものをいい、あまり小規模ものには使わなくなりました。明丸の地質体は地質図で表現できる規模なので、メランジュと呼んでいいことになります。
明丸海岸のメランジュは、赤色頁岩、層状チャート、石灰岩、玄武岩、砂岩泥岩の互層などの多様な岩石が見られます。赤、黒、緑、白など、岩石としては多様な彩りをもった地質体で、珍しく見た目もきれいな岩石となっています。
メランジュの中身を見ていきましょう。
砂岩泥岩の互層は、陸の岩石が削剥、運搬され、タービダイトで大陸斜面に運ばれて堆積したものです。タービダイトでは、粒の粗い砂岩から細かい泥岩へと並んで(級化層理といいます)一枚の地層ができます。この作用が繰り返すことで砂岩泥岩の互層ができます。周辺にたくさんある四万十層群の堆積岩と同じもの考えられます。ただし、メランジュの中の地層は、周辺の互層よりはそれぞれの層は薄く、砂岩優勢でもありません。すべて陸源の構成物からできた岩石です。泥岩は黒っぽく、砂岩は淡い灰色から暗灰色で、地味な色合いの岩石となります。
玄武岩は、枕状溶岩の形態を持っているものもあることから、海底で噴出した火山岩と考えられます。一部、海底の火山砕屑岩(ハイアロクラスタイト)や断層などで剪断、破砕された玄武岩もあります。いずれも淡い緑色で目立った色合いの岩石となっています。枕状の玄武岩や火山砕屑岩は、海山や海嶺などで起こった水中火山活動で形成されたものです。つまり、海洋プレートの最上部を構成していた岩石と考えられます。
赤色頁岩は、鮮やかな茶色で目立っています。赤色頁岩は、陸の堆積物が届かない深海底で堆積した深海粘土が固まったものです。海洋プレートの直上に時間経過にともなって堆積していったものです。このメランジュでは、玄武岩に次いで赤色頁岩が多く、目立った分布となっています。
層状チャートは、ここではほんの少ししかありませんが、透明感のある灰色の緻密な岩石です。層状チャートは、赤色頁岩と同様、深海底にたまったものです。海洋のプランクトンの遺骸が深海底にまり、珪質部だけが溶け残って形成されものです。時々プランクトンのたまらない時期があるとその間に深海粘土などを薄く挟み切れ目となり層を形成します。このようなものを層状チャートといいます。層状チャートも赤色頁岩も、起源は違いますが、共に海洋プレートに直上に溜まった深海性の堆積物です。
石灰岩は、白っぽい色で、ここには少しかありません。石灰岩は、熱帯地域の島の浅い海で、サンゴなどの生物がつくった礁が固まってできたものです。これも陸から遠く離れたところで形成された海洋の域の岩石になります。玄武岩には海洋島を構成するものもあり、そこには石灰岩が伴うこともあります。時には石灰岩が、巨大な岩体として存在することもあり、セメントの原料として、各地で採掘されています。
メランジュの構成物の起源はさまざまですが、海洋地殻やその上の深海底堆積物(海洋プレート層序と呼ばれます)、あるいは海山の一部となっていたものです。つまり海洋域の一連の構成物だったという共通性を持っています。ただし、タービダイトとは起源が違いますが。
それは次のように考えられば、理解できます。海洋プレート(海山を伴った海洋地殻)が海洋プレート層状を形成し、海溝で沈み込むみます。その時、剥ぎ取られた海洋プレート層序は、周辺のタービダイトからなる砂岩泥岩互層の中に、断層よってばらばらに砕かれながら、取り込まれていきます。これが明丸のメランジュの形成メカニズムだと考えられそうです。
明丸海岸のメランジュは、岩石の混在として付加体のダイナミズムを記録していることになります。そのダイナミズムは、鮮やかな色合いを帯びたものとなっていました。
徳島から高知にかけて、明丸のメランジュから南の海岸線は、少しなだらかになります。これは四万十層群の砂岩優勢部が終わり、砂岩泥岩の量が同等の互層となっていくためです。メランジュは、四万十層群の岩相の境界にあたっています。そこにも地質学的秘密がありそうですが、別の機会にしましょう。
南阿波サンラインから離れた明丸海岸の道は、行き止まりになっているのですが、その先には「サンラインモビレージ」というロッジがあります。行楽シーズンには多くの旅行客が訪れるようです。ここは自炊できる施設ですが、食事がでないので、私は泊まったことはありません。なかなか雰囲気のいいところです。行き止まりにある海岸なので、まるでプライベートビーチのような快適なところになりそうです。
この海岸に来るのは2度目だったのですが、泊まることはできませんでした。いずれはのんびりとロッジに泊まって、メランジュの色合いを楽しみたいものです。次なるチャンスを待ちましょう。
・大雨・
梅雨前線が少し南に下がったと思ったら、
荒れた天気になっているようですね。
北海道は梅雨ではないですが、
雨が降り続いています。
少々冷たい雨です。
場所によっては大雨となった地域あり
被害が出しています。
農家にとってはこの時期の雨は恵みの雨でしょうが、
多すぎる雨は大変です。
・後半戦・
大学の講義も後半戦になってきました。
本来であれば大学の教員は
講義と研究に精力を使うべきなのです
それ以外にも校務に多くの時間と労力ををつかっています。
私の学科では教育実習が次々とあり、
出張が毎週のようにあります。
講義を休講をできるだけ少なくしなければなりません。
教育実習の研究授業の出張指導は、
6月で前期は一段落なのですが、
9月には第二陣があります。
校務とはいえ、あまり多いと落ち着かなくなり、
体力的にも少々厳しいものがあります。
まあ、今季はなんとか乗り越えることができましたが。
徳島県海部郡の美波町から牟岐町にかけての海岸は、山が迫っており、切り立った険しい崖が続くところが多くなります。そのような険しい海岸に、内陸を走る国道55号から分かれた南阿波サンラインがあります。南阿波サンラインは、整備されているのですが、交通量が少ないので、景色を眺めながらのドライブにはいいところです。
切り立った海岸線の形成には、地質学的な理由があります。このあたりの地層は、四万十層群と呼ばれるものからできています。四万十層群は、砂岩と泥岩が繰り返す地層(砂岩泥岩互層といいます)で、タービダイトという海底の土砂の流れによってできたものです。
砂岩泥岩の互層では、砂岩は固く侵食にも強く、泥岩は柔らかく侵食に弱いという性質を持っています。ですから互層が侵食を受けると、泥岩が窪んでいき、砂岩が残り出っぱていきます。互層で砂岩の比率が多い(優勢といいます)ところは侵食されにくく、泥岩の多いところは侵食を受けやすくなります。砂岩泥岩の互層の分布地域では、砂岩優勢のところは切り立った崖や険しい山に、泥岩優勢ところは開けた海岸や平野や河川の流路になるという、一般的な傾向があります。
そのようなことを考えると、南阿波サンラインの切り立った海岸線は、四万十層群でも砂岩優勢にあたるところになります。
外ノ牟岐井ノ浜では、砂岩優勢の地層を見ることができます。泥岩は10cmから3cmほどと厚さしかないの対して、砂岩は2mから20cmほどと一桁大きな厚さがあります。厚い砂岩では、5mを越えるものもあります。泥岩が少なく砂岩が非常に多いところは、砂岩ばかりで時々泥岩の切れ目ができるため、層状砂岩とも呼ばれます。千羽海岸からみえる切り立った崖は、層状砂岩が200mの断崖となって聳えています。
南阿波サンラインから離れて明丸海岸に降りて行くと、狭い海岸にでます。ここには砂泥互層だけでなく、少々変わった岩石群があります。岩石群といったのは、一種類の岩石ではなく、複数の岩石が混在しているためです。明丸海岸では、メランジュ(Mélange)と呼ばれる岩石群が見られます。
メランジュとは、日本語訳はなく、カタカナ表記のまま使われています。メランジュは、細粒に破砕された基質のなかに、もともとはまったく成因関係のない、さまざまなサイズの、さまざまな種類の岩石塊を含んでいます。メランジュ自体の成因も判明していない、このような産状を示す地質体をいいます。かつては、同様の産状のものを、サイズを問わず、すべてメランジュと呼んでいましたが、最近では地質図に表現できるサイズのものをいい、あまり小規模ものには使わなくなりました。明丸の地質体は地質図で表現できる規模なので、メランジュと呼んでいいことになります。
明丸海岸のメランジュは、赤色頁岩、層状チャート、石灰岩、玄武岩、砂岩泥岩の互層などの多様な岩石が見られます。赤、黒、緑、白など、岩石としては多様な彩りをもった地質体で、珍しく見た目もきれいな岩石となっています。
メランジュの中身を見ていきましょう。
砂岩泥岩の互層は、陸の岩石が削剥、運搬され、タービダイトで大陸斜面に運ばれて堆積したものです。タービダイトでは、粒の粗い砂岩から細かい泥岩へと並んで(級化層理といいます)一枚の地層ができます。この作用が繰り返すことで砂岩泥岩の互層ができます。周辺にたくさんある四万十層群の堆積岩と同じもの考えられます。ただし、メランジュの中の地層は、周辺の互層よりはそれぞれの層は薄く、砂岩優勢でもありません。すべて陸源の構成物からできた岩石です。泥岩は黒っぽく、砂岩は淡い灰色から暗灰色で、地味な色合いの岩石となります。
玄武岩は、枕状溶岩の形態を持っているものもあることから、海底で噴出した火山岩と考えられます。一部、海底の火山砕屑岩(ハイアロクラスタイト)や断層などで剪断、破砕された玄武岩もあります。いずれも淡い緑色で目立った色合いの岩石となっています。枕状の玄武岩や火山砕屑岩は、海山や海嶺などで起こった水中火山活動で形成されたものです。つまり、海洋プレートの最上部を構成していた岩石と考えられます。
赤色頁岩は、鮮やかな茶色で目立っています。赤色頁岩は、陸の堆積物が届かない深海底で堆積した深海粘土が固まったものです。海洋プレートの直上に時間経過にともなって堆積していったものです。このメランジュでは、玄武岩に次いで赤色頁岩が多く、目立った分布となっています。
層状チャートは、ここではほんの少ししかありませんが、透明感のある灰色の緻密な岩石です。層状チャートは、赤色頁岩と同様、深海底にたまったものです。海洋のプランクトンの遺骸が深海底にまり、珪質部だけが溶け残って形成されものです。時々プランクトンのたまらない時期があるとその間に深海粘土などを薄く挟み切れ目となり層を形成します。このようなものを層状チャートといいます。層状チャートも赤色頁岩も、起源は違いますが、共に海洋プレートに直上に溜まった深海性の堆積物です。
石灰岩は、白っぽい色で、ここには少しかありません。石灰岩は、熱帯地域の島の浅い海で、サンゴなどの生物がつくった礁が固まってできたものです。これも陸から遠く離れたところで形成された海洋の域の岩石になります。玄武岩には海洋島を構成するものもあり、そこには石灰岩が伴うこともあります。時には石灰岩が、巨大な岩体として存在することもあり、セメントの原料として、各地で採掘されています。
メランジュの構成物の起源はさまざまですが、海洋地殻やその上の深海底堆積物(海洋プレート層序と呼ばれます)、あるいは海山の一部となっていたものです。つまり海洋域の一連の構成物だったという共通性を持っています。ただし、タービダイトとは起源が違いますが。
それは次のように考えられば、理解できます。海洋プレート(海山を伴った海洋地殻)が海洋プレート層状を形成し、海溝で沈み込むみます。その時、剥ぎ取られた海洋プレート層序は、周辺のタービダイトからなる砂岩泥岩互層の中に、断層よってばらばらに砕かれながら、取り込まれていきます。これが明丸のメランジュの形成メカニズムだと考えられそうです。
明丸海岸のメランジュは、岩石の混在として付加体のダイナミズムを記録していることになります。そのダイナミズムは、鮮やかな色合いを帯びたものとなっていました。
徳島から高知にかけて、明丸のメランジュから南の海岸線は、少しなだらかになります。これは四万十層群の砂岩優勢部が終わり、砂岩泥岩の量が同等の互層となっていくためです。メランジュは、四万十層群の岩相の境界にあたっています。そこにも地質学的秘密がありそうですが、別の機会にしましょう。
南阿波サンラインから離れた明丸海岸の道は、行き止まりになっているのですが、その先には「サンラインモビレージ」というロッジがあります。行楽シーズンには多くの旅行客が訪れるようです。ここは自炊できる施設ですが、食事がでないので、私は泊まったことはありません。なかなか雰囲気のいいところです。行き止まりにある海岸なので、まるでプライベートビーチのような快適なところになりそうです。
この海岸に来るのは2度目だったのですが、泊まることはできませんでした。いずれはのんびりとロッジに泊まって、メランジュの色合いを楽しみたいものです。次なるチャンスを待ちましょう。
・大雨・
梅雨前線が少し南に下がったと思ったら、
荒れた天気になっているようですね。
北海道は梅雨ではないですが、
雨が降り続いています。
少々冷たい雨です。
場所によっては大雨となった地域あり
被害が出しています。
農家にとってはこの時期の雨は恵みの雨でしょうが、
多すぎる雨は大変です。
・後半戦・
大学の講義も後半戦になってきました。
本来であれば大学の教員は
講義と研究に精力を使うべきなのです
それ以外にも校務に多くの時間と労力ををつかっています。
私の学科では教育実習が次々とあり、
出張が毎週のようにあります。
講義を休講をできるだけ少なくしなければなりません。
教育実習の研究授業の出張指導は、
6月で前期は一段落なのですが、
9月には第二陣があります。
校務とはいえ、あまり多いと落ち着かなくなり、
体力的にも少々厳しいものがあります。
まあ、今季はなんとか乗り越えることができましたが。
2014年5月15日木曜日
113 日和佐:スランプとタービダイト
日和佐の海岸は、西の砂浜の海岸のほかに、北側には切り立った崖のある海岸線があります。その崖にタービダイトとスランプがありました。いずれも付加体を特徴づける堆積構造です。
徳島県海部郡美波町の海岸には、いくつかの小さな支流が流れ込みながら日和佐川が海に注いでいます。南の海岸沿い小高い山があるので、入り組んだ入江になっているため、いい漁港となっています。また、河口の北側には砂浜があり、ウミガメが産卵に来るところして知られています。さらに北側は、切り立った崖の海岸になっていきます。
日和佐(ひわさ)には、2度来ています。一度目は、室戸から徳島まで足をのばすために、ここまでたどり着いて一泊し、その後は引き返しました。ただし、幸いなことに、子ガメが卵から孵り海に向かう時期にあたり、その様子を夜に見ることができました。でも地質に関して、宿泊だけで何も見ることなく、立ち去りました。
2度目は今年の初春で、日和佐の北側の海岸にでている地層を見るのが目的でした。日和佐の海岸の地層は、四万十層群と呼ばれ、整然とした堆積岩がみられるところです。
いろいろなところで、私は、地層をみています。できるだけ、いろいろなタイプの地層を見たいと思っています。このエッセイでも何度も取り上げていますが、四国の南側は四万十層群と呼ばれる地層が、広く東西に分布しているので、地層観察には適した地でもあります。四万十層群に相当する付加体の範囲は、東西の四国の範囲だけでなく、南海トラフに臨む陸全域に及びます。
四万十層群は、付加体という特徴的なメカニズムでできています。付加体は、沈み込み帯の海底下で形成されます。その素材は、陸側の斜面に堆積した堆積物と海側の海洋プレートやその上の深海底堆積物です。
付加体の中の地層とその特徴的な構造などを、最近はよく観察しています。できれば、地層や構造で、典型的なところがないかを探しています。もし典型的で、重要な露頭があれば、必要ならば何度も出向くことにしてます。そして、露頭をじっくりと眺めます。
陸から大陸斜面にたどり着く堆積物は、タービダイトと呼ばれるものによってもたらされます。タービダイトは、何らかのきっかけ(地震や大洪水など)によって、海底にたまっていた堆積物が、より深い方に地滑りのように移動する流れのことです。斜面の終わりで、まるで陸上の河川が扇状地をつくるような海底地形を形成していきます。
タービダイトは、海水中の堆積物なので陸上とは少々違っています。海水の中を、性質の違う物質が、流体として移動していくたいめです。水中の流体の密度や粘性、構成物の性質、斜面の形状などにより、タービダイトの堆積様式や広がりは違ってきます。
さらに、ひとつのタービダイトでも、たまる場所によって、構成物や堆積構造も違ってきます。例えば、タービダイトの本流にあたるところでは、深い流路が形成され、大きな礫や土砂がたまります。流れの流路からはずれたところや末端では、細粒の堆積物だけが溜まります。そして中間的な場所もできます。ひとつのタービダイトという現象でも、さまざまな堆積物が形成されることになります。
日和佐の海岸では、砂岩と泥岩がきれいなコントラスをもって繰り返している「互層(ごそう)」を見ることができます。このような互層は、砂岩から泥岩までが、ひとつのタービダイトによって形成されたものです。何度も繰り返しタービダイトが、流れこむ環境にあったことを物語ります。
付加体は堆積物は、多くはタービダイトによるものになります。これは付加体の堆積物の特徴となります。付加体は活動的な場所なので、タービダイトが流れてくるだけ、単純な堆積環境ではありません。沈み込み帯として、いろいろな変動が起こります。
大陸斜面では、地層が上に次々と重なってたまっていきます。そして互層ができます。下位にいくほど、地層は圧密や脱水、地温勾配などにより、徐々に固まってきます。上位では、常に未固結の地層があることになります。
大陸斜面は、沈み込み帯でもあるため、頻繁に地震が起こります。斜面にたまった堆積層には、たびたび振動が与えられることになります。たまったばかりの未固結の地層で、流動しやすい条件のものは、地震によってさらに流動をします。いったん溜まった地層は、移動距離が短い場合は、地層の形状を維持しながら、流動することがあります。その結果、ある地層(複数の場合もある)だけが、くねくねと「褶曲」した構造をもつようなことが起こります。
ここで「褶曲」といいましたが、地質学でいう本来の「褶曲」と、ここでいう未固結の地層の流動によるものは違っています。未固結の地層の流動によるものは、スランプ(slump)構造、あるいはスランピング(slumping)と呼ばれています。褶曲とスランプ構造とは、規模もできかたも違っています。
本来の「褶曲」とは、何層にもたまった地層が、大地の変動により、大規模に曲がっているものです。地層が割れることなく曲ってはいますが、褶曲の及んでいる範囲は、上下の地層に広くなっています。中心分から周辺部に向かって褶曲の影響は薄れていきます。
一方、スランプ構造は、ある地層だけに起こる現象で、上下の地層は、何事もなかったように、乱れることなく整然とした地層のままです。ある地層だけが乱れているものを、スランプ構造といいます。スランプ構造のメカニズムの解明されたため、褶曲とは区別されています。
スランプ構造は、非常に不思議な産状となります。そのため、かつては「乱堆積」や「層間褶曲」などと呼ばれていました。今では、あまり聞かなくなりましたが・・・。
日和佐の海岸に降りる道にホテルがあるのですが、その駐車場の崖でも互層とスランプ構造、そして断層なども見ることができます。しかし、風化しているので、岩石がきれいに見ることができません。海岸でみるのが一番です。海岸には、整然とした互層とともに、スランプ構造が見ることができます。
砂岩は白っぽく、泥岩が暗褐色で、粒子サイズによる岩石の縞模様がよくわかります。泥岩の中にも薄い砂岩層が頻繁に繰り返されれていることもわかります。これは、細かい地層ではなく、ラミナ(葉理)と呼ばれる地層内の堆積構造です。そして、同様の構成岩石でスランプ構造があるので、コントラストの明瞭な、わかりやすい構造となっています。でも、肝心のスランプ構造が海岸では、あまりないので少々期待はずれでした。
付加体は、タービダイトによる堆積の場であり、地層がスランプ構造をつくるような、定常的に擾乱を起こす場でもあります。スランプ構造はそのでき方を考えても分かりますが、スランプの規模はタービダイトより小規模になります。乱れているのが小規模なのです。タービダイトは大きな大地の変動です。動と静、乱と整、大域と局所、入り乱れた大地の営みです。いずれも、沈み込み帯という常に変動を起こす場の出来事です。
初春の人気のない海岸に、枯れ草に隠れるようにしてあったスランプ構造が、ひっそりと、過去の大地の営みを物語っていました。
・実感できるには・
学生のころスランプ構造を見た時、
乱堆積や層間褶曲という名称を聞きました。
そのときすでにスランプのメカニズムがある程度わかっていました。
でも、スランプ自体のダイナミックと上下の整然さは
非常に違和感を感じました。
褶曲であれば、その影響は中心部から周辺部に薄れてきます。
褶曲は理解しやすものでした。
しかし、スランプはあまりに局所的で
実感するのには、時間が必要かもしれません。
今では、素直に認めることができますが。
・ウエルかめ・
日和佐は、2009年9月から2010年3月まで放送された
NHKの連続テレビ小説「ウエルかめ」の舞台の一つになりました。
主人公の浜本波美の出身地が、日和佐でした。
波美が、子供のころ、海岸で、
ウミガメの子どもが、海に向かう姿を見た舞台になりました。
私は見ていないので、内容は知りませんが、
宿では、そのテレビドラマを今でも観光に利用していました。
以前いった時には、ウミガメの産卵を見ることができました。
しかし、今回の地層は砂の海岸より北側で
切り立った崖のあるところです。
日和佐は、一つの湾で、
静と乱、砂と岩、現在と過去の対比を
感じることができます。
徳島県海部郡美波町の海岸には、いくつかの小さな支流が流れ込みながら日和佐川が海に注いでいます。南の海岸沿い小高い山があるので、入り組んだ入江になっているため、いい漁港となっています。また、河口の北側には砂浜があり、ウミガメが産卵に来るところして知られています。さらに北側は、切り立った崖の海岸になっていきます。
日和佐(ひわさ)には、2度来ています。一度目は、室戸から徳島まで足をのばすために、ここまでたどり着いて一泊し、その後は引き返しました。ただし、幸いなことに、子ガメが卵から孵り海に向かう時期にあたり、その様子を夜に見ることができました。でも地質に関して、宿泊だけで何も見ることなく、立ち去りました。
2度目は今年の初春で、日和佐の北側の海岸にでている地層を見るのが目的でした。日和佐の海岸の地層は、四万十層群と呼ばれ、整然とした堆積岩がみられるところです。
いろいろなところで、私は、地層をみています。できるだけ、いろいろなタイプの地層を見たいと思っています。このエッセイでも何度も取り上げていますが、四国の南側は四万十層群と呼ばれる地層が、広く東西に分布しているので、地層観察には適した地でもあります。四万十層群に相当する付加体の範囲は、東西の四国の範囲だけでなく、南海トラフに臨む陸全域に及びます。
四万十層群は、付加体という特徴的なメカニズムでできています。付加体は、沈み込み帯の海底下で形成されます。その素材は、陸側の斜面に堆積した堆積物と海側の海洋プレートやその上の深海底堆積物です。
付加体の中の地層とその特徴的な構造などを、最近はよく観察しています。できれば、地層や構造で、典型的なところがないかを探しています。もし典型的で、重要な露頭があれば、必要ならば何度も出向くことにしてます。そして、露頭をじっくりと眺めます。
陸から大陸斜面にたどり着く堆積物は、タービダイトと呼ばれるものによってもたらされます。タービダイトは、何らかのきっかけ(地震や大洪水など)によって、海底にたまっていた堆積物が、より深い方に地滑りのように移動する流れのことです。斜面の終わりで、まるで陸上の河川が扇状地をつくるような海底地形を形成していきます。
タービダイトは、海水中の堆積物なので陸上とは少々違っています。海水の中を、性質の違う物質が、流体として移動していくたいめです。水中の流体の密度や粘性、構成物の性質、斜面の形状などにより、タービダイトの堆積様式や広がりは違ってきます。
さらに、ひとつのタービダイトでも、たまる場所によって、構成物や堆積構造も違ってきます。例えば、タービダイトの本流にあたるところでは、深い流路が形成され、大きな礫や土砂がたまります。流れの流路からはずれたところや末端では、細粒の堆積物だけが溜まります。そして中間的な場所もできます。ひとつのタービダイトという現象でも、さまざまな堆積物が形成されることになります。
日和佐の海岸では、砂岩と泥岩がきれいなコントラスをもって繰り返している「互層(ごそう)」を見ることができます。このような互層は、砂岩から泥岩までが、ひとつのタービダイトによって形成されたものです。何度も繰り返しタービダイトが、流れこむ環境にあったことを物語ります。
付加体は堆積物は、多くはタービダイトによるものになります。これは付加体の堆積物の特徴となります。付加体は活動的な場所なので、タービダイトが流れてくるだけ、単純な堆積環境ではありません。沈み込み帯として、いろいろな変動が起こります。
大陸斜面では、地層が上に次々と重なってたまっていきます。そして互層ができます。下位にいくほど、地層は圧密や脱水、地温勾配などにより、徐々に固まってきます。上位では、常に未固結の地層があることになります。
大陸斜面は、沈み込み帯でもあるため、頻繁に地震が起こります。斜面にたまった堆積層には、たびたび振動が与えられることになります。たまったばかりの未固結の地層で、流動しやすい条件のものは、地震によってさらに流動をします。いったん溜まった地層は、移動距離が短い場合は、地層の形状を維持しながら、流動することがあります。その結果、ある地層(複数の場合もある)だけが、くねくねと「褶曲」した構造をもつようなことが起こります。
ここで「褶曲」といいましたが、地質学でいう本来の「褶曲」と、ここでいう未固結の地層の流動によるものは違っています。未固結の地層の流動によるものは、スランプ(slump)構造、あるいはスランピング(slumping)と呼ばれています。褶曲とスランプ構造とは、規模もできかたも違っています。
本来の「褶曲」とは、何層にもたまった地層が、大地の変動により、大規模に曲がっているものです。地層が割れることなく曲ってはいますが、褶曲の及んでいる範囲は、上下の地層に広くなっています。中心分から周辺部に向かって褶曲の影響は薄れていきます。
一方、スランプ構造は、ある地層だけに起こる現象で、上下の地層は、何事もなかったように、乱れることなく整然とした地層のままです。ある地層だけが乱れているものを、スランプ構造といいます。スランプ構造のメカニズムの解明されたため、褶曲とは区別されています。
スランプ構造は、非常に不思議な産状となります。そのため、かつては「乱堆積」や「層間褶曲」などと呼ばれていました。今では、あまり聞かなくなりましたが・・・。
日和佐の海岸に降りる道にホテルがあるのですが、その駐車場の崖でも互層とスランプ構造、そして断層なども見ることができます。しかし、風化しているので、岩石がきれいに見ることができません。海岸でみるのが一番です。海岸には、整然とした互層とともに、スランプ構造が見ることができます。
砂岩は白っぽく、泥岩が暗褐色で、粒子サイズによる岩石の縞模様がよくわかります。泥岩の中にも薄い砂岩層が頻繁に繰り返されれていることもわかります。これは、細かい地層ではなく、ラミナ(葉理)と呼ばれる地層内の堆積構造です。そして、同様の構成岩石でスランプ構造があるので、コントラストの明瞭な、わかりやすい構造となっています。でも、肝心のスランプ構造が海岸では、あまりないので少々期待はずれでした。
付加体は、タービダイトによる堆積の場であり、地層がスランプ構造をつくるような、定常的に擾乱を起こす場でもあります。スランプ構造はそのでき方を考えても分かりますが、スランプの規模はタービダイトより小規模になります。乱れているのが小規模なのです。タービダイトは大きな大地の変動です。動と静、乱と整、大域と局所、入り乱れた大地の営みです。いずれも、沈み込み帯という常に変動を起こす場の出来事です。
初春の人気のない海岸に、枯れ草に隠れるようにしてあったスランプ構造が、ひっそりと、過去の大地の営みを物語っていました。
・実感できるには・
学生のころスランプ構造を見た時、
乱堆積や層間褶曲という名称を聞きました。
そのときすでにスランプのメカニズムがある程度わかっていました。
でも、スランプ自体のダイナミックと上下の整然さは
非常に違和感を感じました。
褶曲であれば、その影響は中心部から周辺部に薄れてきます。
褶曲は理解しやすものでした。
しかし、スランプはあまりに局所的で
実感するのには、時間が必要かもしれません。
今では、素直に認めることができますが。
・ウエルかめ・
日和佐は、2009年9月から2010年3月まで放送された
NHKの連続テレビ小説「ウエルかめ」の舞台の一つになりました。
主人公の浜本波美の出身地が、日和佐でした。
波美が、子供のころ、海岸で、
ウミガメの子どもが、海に向かう姿を見た舞台になりました。
私は見ていないので、内容は知りませんが、
宿では、そのテレビドラマを今でも観光に利用していました。
以前いった時には、ウミガメの産卵を見ることができました。
しかし、今回の地層は砂の海岸より北側で
切り立った崖のあるところです。
日和佐は、一つの湾で、
静と乱、砂と岩、現在と過去の対比を
感じることができます。
2014年4月15日火曜日
112 蒲生田岬:付加の響き
四国最東端の地は、蒲生田岬です。この岬は、付加体からできていました。また、岬の麓の大池には、津波による地層が溜まってきました。一見、時代も規模も違ったものですが、付加体の形成に関与するものとして響き合っていました。
3月の下旬に、四国に調査で出かけました。そのとき、四国最東端にある蒲生田岬にいきました。蒲生田は、地元の人は「がもうだ」といっていましたが、阿南市のホームページや石碑には「かもだ」という読みが表記されています。どれが正しいのかはわまりませんが、漢字での表記なら問題はありません。
さて、蒲生田岬です。蒲生田岬は、徳島県阿南市の南東部に位置します。紀伊水道を挟んで、東に紀伊半島があります。
蒲生大岬の東には伊島がみえますので、四国の東端はそちらになるのでしょうが、本土としては、蒲生田岬になるということです。以前にも紹介したことがある和歌山県美浜町の日の岬は、紀伊半島では最西端になります。その距離は30kmもありません。この狭い海峡が紀伊水道となるわけです。ラジオを聞いていても関西の電波がよく入ってきました。関西と四国東部は非常に近いと感じます。
これだけ近いと、地質学的にも連続しています。紀伊半島南部も四国南部も四万十層群が分布しています。四国の地質では、四万十層群は何度か出てきましたが、蒲生田岬も四万十層群にあたります。
四万十層群は、付加体と呼ばれるメカニズムで形成されました。付加体は、沈み込み帯付近で形成される列島特有の地質体となります。海洋プレートが列島の下に沈み込むと、海溝ができます。海溝は海底では一番低いところですので、海溝に向かって大陸からは陸からの堆積物が流れ込み、海洋プレートは沈み込みます。
沈み込む海洋プレートに引きずられて、海溝付近の堆積物も沈み込もうとします。ところが多くの堆積物は沈み込むことできず、海洋プレートの一部とともに、列島の地下に剥ぎ取られて付加されています。これが付加作用と呼ばれるものです。
列島の地下では、剥ぎ取られた岩石類が、つぎつぎと前の岩石の下に付加していきます。しかし、この付加作用は、静かに起こるものではなく、断層によって起こります。断層が形成されるときは、地震が発生します。大きな断層は激しい地震の証拠です。付加体とは、激しい大地の変動の積み重ねでもあります。
付加作用によって、大地の下側に新しい岩石がくっついていきます。通常の岩石のできかたや並びとは全く違ったものとなります。通常の地層は、新しいものが上に積み重なっているのですが、付加体では新しいものが下になります。このような付加体が、日本列島の多くのところにあるということは、日本列島の地質を考えるときは、通常の地層の常識とは違った考え方をしなければならないということになります。
日本列島の多くは、時代の違う付加体から構成されています。付加体の時代が、大きく違っている場合、そこには地質学的は大きな境界(大断層で、構造線と呼ばれます)ができています。
四国の大部分は付加体からできていますが、四万十帯はもっとも南に位置する付加体となります。四万十帯の北側には秩父帯があります。秩父帯のほうが四万十帯より古い付加体です。秩父帯と四万十帯の境界は大きな断層で、仏像(ぶつぞう)構造線と呼ばれています。
四万十帯は、北帯と南帯に区分できます。北帯は南帯より古い付加体となります。北帯と南帯の境界は安芸(あき)-中筋(なかすじ)構造線と呼ばれています。
蒲生田岬は、四万十帯の北帯に位置します。白亜紀後期に付加したものです。岩石は砂岩を主とする砂岩泥岩の互層する地層が多くなっています。時々海洋地殻やその上にたまった深海堆積物などが混じっています。蒲生田岬では、砂岩と泥岩の互層やそれが乱れた地層が、岬を構成しています。海岸には大きな砂岩が転がっています。海岸の露頭をよくみると、複雑に違った種類の岩石が入り交じっているところがみえます。はやり付加体の構成物に見えます。
蒲生田岬の先端には灯台があります。灯台までは歩道しかないので、駐車場に車を止めるのですが、その脇に「大池」があります。
この大池から、2011年に高知大学の岡村眞さんたちが、大きな発見しました。池の堆積物をボーリングして得た堆積物の層を調べたところ、池で堆積する泥の地層に混じって海の砂の層が挟まっていました。この砂の層は、津波の証拠となります。
高知では過去の津波の証拠として、2つの湖底の堆積物から地層が見つかっています。美波町田井の「小川溜(おごのため)」と土佐市「蟹(かに)ヶ池」からです。いずれも、約300年前の東海地震、東南海地震、南海地震が同じ時期に連動しておこった宝永地震(1707年)の地震によるものでした。
岡村さんたちは、大池で4.8mのボーリングをしました。宝永地震の津波がどこまで届いているか確かめるためでした。
その結果、砂の層を発見しました。池の底から3.5mのところに、10cmの厚さの砂の層がありました。ところが、堆積物の中に含まれる植物片の年代測定をすると、約2000年前のものであることが判明しました。まったく時代の違う津波による層でした。そして不思議なことに、300年前の宝永地震の津波の層はみつかりませんでした。
つまり、今回の新たな津波の証拠から、同じ四国の海岸でも、地震の種類やタイプが違うと、津波が来るところと来ないところがあることが明らかにされたことになります。
300年前の宝永地震も、2000年前の津波を起こした地震の記録も、付加体形成に起こる断層が原因です。断層は地層中に記録されているはずです。その断層が地上に表れるのは、何百、何千万年もまたなければなりません。
現在の付加体には、過去の名も無き地震が、多数記録されています。一つ一つの断層は、大地の激しい変動の証拠なのです。今地表でている付加体の断層から、地震の振動や津波の海鳴りが聞こえてきそうです。
・シリカ碆・
この灯台は、ぐるぐるまわるだけではなく、
沖にある1.2kmにある岩礁を照らしているそうです。
岩礁をずっと照らし続けているのです。
不思議な灯台です。
岩礁は、シリカ碆(ば)と呼ばれているそうです。
シリカとはどういう由来でしょうが。
地質学ではケイ酸という意味があります。
地質学者がみると、この灯台は、
シリカの岩礁を照らす灯台となります。
・夏タイヤへ・
北海道は、まだ雪が残っているのですが、
もう少しで大半が溶けそうです。
春めいた日々が続いています。
ただし、先週末には雪が降りました。
さすがにこの時期ですから、すぐに溶けましたが。
こうなると車のタイヤを、
いつ夏タイヤに変えるかが
悩ましいところです。
そろそろ変えなければならないのですが、
今週あたりがかえどきかもしれませんね。
3月の下旬に、四国に調査で出かけました。そのとき、四国最東端にある蒲生田岬にいきました。蒲生田は、地元の人は「がもうだ」といっていましたが、阿南市のホームページや石碑には「かもだ」という読みが表記されています。どれが正しいのかはわまりませんが、漢字での表記なら問題はありません。
さて、蒲生田岬です。蒲生田岬は、徳島県阿南市の南東部に位置します。紀伊水道を挟んで、東に紀伊半島があります。
蒲生大岬の東には伊島がみえますので、四国の東端はそちらになるのでしょうが、本土としては、蒲生田岬になるということです。以前にも紹介したことがある和歌山県美浜町の日の岬は、紀伊半島では最西端になります。その距離は30kmもありません。この狭い海峡が紀伊水道となるわけです。ラジオを聞いていても関西の電波がよく入ってきました。関西と四国東部は非常に近いと感じます。
これだけ近いと、地質学的にも連続しています。紀伊半島南部も四国南部も四万十層群が分布しています。四国の地質では、四万十層群は何度か出てきましたが、蒲生田岬も四万十層群にあたります。
四万十層群は、付加体と呼ばれるメカニズムで形成されました。付加体は、沈み込み帯付近で形成される列島特有の地質体となります。海洋プレートが列島の下に沈み込むと、海溝ができます。海溝は海底では一番低いところですので、海溝に向かって大陸からは陸からの堆積物が流れ込み、海洋プレートは沈み込みます。
沈み込む海洋プレートに引きずられて、海溝付近の堆積物も沈み込もうとします。ところが多くの堆積物は沈み込むことできず、海洋プレートの一部とともに、列島の地下に剥ぎ取られて付加されています。これが付加作用と呼ばれるものです。
列島の地下では、剥ぎ取られた岩石類が、つぎつぎと前の岩石の下に付加していきます。しかし、この付加作用は、静かに起こるものではなく、断層によって起こります。断層が形成されるときは、地震が発生します。大きな断層は激しい地震の証拠です。付加体とは、激しい大地の変動の積み重ねでもあります。
付加作用によって、大地の下側に新しい岩石がくっついていきます。通常の岩石のできかたや並びとは全く違ったものとなります。通常の地層は、新しいものが上に積み重なっているのですが、付加体では新しいものが下になります。このような付加体が、日本列島の多くのところにあるということは、日本列島の地質を考えるときは、通常の地層の常識とは違った考え方をしなければならないということになります。
日本列島の多くは、時代の違う付加体から構成されています。付加体の時代が、大きく違っている場合、そこには地質学的は大きな境界(大断層で、構造線と呼ばれます)ができています。
四国の大部分は付加体からできていますが、四万十帯はもっとも南に位置する付加体となります。四万十帯の北側には秩父帯があります。秩父帯のほうが四万十帯より古い付加体です。秩父帯と四万十帯の境界は大きな断層で、仏像(ぶつぞう)構造線と呼ばれています。
四万十帯は、北帯と南帯に区分できます。北帯は南帯より古い付加体となります。北帯と南帯の境界は安芸(あき)-中筋(なかすじ)構造線と呼ばれています。
蒲生田岬は、四万十帯の北帯に位置します。白亜紀後期に付加したものです。岩石は砂岩を主とする砂岩泥岩の互層する地層が多くなっています。時々海洋地殻やその上にたまった深海堆積物などが混じっています。蒲生田岬では、砂岩と泥岩の互層やそれが乱れた地層が、岬を構成しています。海岸には大きな砂岩が転がっています。海岸の露頭をよくみると、複雑に違った種類の岩石が入り交じっているところがみえます。はやり付加体の構成物に見えます。
蒲生田岬の先端には灯台があります。灯台までは歩道しかないので、駐車場に車を止めるのですが、その脇に「大池」があります。
この大池から、2011年に高知大学の岡村眞さんたちが、大きな発見しました。池の堆積物をボーリングして得た堆積物の層を調べたところ、池で堆積する泥の地層に混じって海の砂の層が挟まっていました。この砂の層は、津波の証拠となります。
高知では過去の津波の証拠として、2つの湖底の堆積物から地層が見つかっています。美波町田井の「小川溜(おごのため)」と土佐市「蟹(かに)ヶ池」からです。いずれも、約300年前の東海地震、東南海地震、南海地震が同じ時期に連動しておこった宝永地震(1707年)の地震によるものでした。
岡村さんたちは、大池で4.8mのボーリングをしました。宝永地震の津波がどこまで届いているか確かめるためでした。
その結果、砂の層を発見しました。池の底から3.5mのところに、10cmの厚さの砂の層がありました。ところが、堆積物の中に含まれる植物片の年代測定をすると、約2000年前のものであることが判明しました。まったく時代の違う津波による層でした。そして不思議なことに、300年前の宝永地震の津波の層はみつかりませんでした。
つまり、今回の新たな津波の証拠から、同じ四国の海岸でも、地震の種類やタイプが違うと、津波が来るところと来ないところがあることが明らかにされたことになります。
300年前の宝永地震も、2000年前の津波を起こした地震の記録も、付加体形成に起こる断層が原因です。断層は地層中に記録されているはずです。その断層が地上に表れるのは、何百、何千万年もまたなければなりません。
現在の付加体には、過去の名も無き地震が、多数記録されています。一つ一つの断層は、大地の激しい変動の証拠なのです。今地表でている付加体の断層から、地震の振動や津波の海鳴りが聞こえてきそうです。
・シリカ碆・
この灯台は、ぐるぐるまわるだけではなく、
沖にある1.2kmにある岩礁を照らしているそうです。
岩礁をずっと照らし続けているのです。
不思議な灯台です。
岩礁は、シリカ碆(ば)と呼ばれているそうです。
シリカとはどういう由来でしょうが。
地質学ではケイ酸という意味があります。
地質学者がみると、この灯台は、
シリカの岩礁を照らす灯台となります。
・夏タイヤへ・
北海道は、まだ雪が残っているのですが、
もう少しで大半が溶けそうです。
春めいた日々が続いています。
ただし、先週末には雪が降りました。
さすがにこの時期ですから、すぐに溶けましたが。
こうなると車のタイヤを、
いつ夏タイヤに変えるかが
悩ましいところです。
そろそろ変えなければならないのですが、
今週あたりがかえどきかもしれませんね。
2014年3月15日土曜日
111 弘前盆地:単純さと背後の複雑さ
青森市とともに弘前市は、青森県では中核的な街です。弘前城を中心とした城下町は、趣きのある町並みとなっています。弘前の位置する弘前盆地は、人の歴史以上に複雑な背景をどることができます。
3月のはじめに、校務で青森にでかけました。到着初日は青森空港から弘前にいき、用事が終わり次第、青森へ向かいました。弘前は、青森駅からも列車で1時間足らずで行けるところですので、近い街となるのでしょうか。
2日目、用事は午後からで時間があったので、出かけることにしました。雪もまだ一杯残っており、寒い日でもあったので、どこに出かけるのか迷ったのですが、弘前に興味が湧き、観光することにしました。
弘前は、青森県の南西部に位置します。津軽平野のもっとも南にあり、奥まったところにあるので、弘前周辺を弘前盆地と呼ぶこともあります。弘前盆地は、西から流れ込む岩木川と南から流れ込む平川、東から流れ込む浅瀬石川などがあり、扇状地や平野の堆積場とみなせます。盆地は新しい時代に形成されもので、履歴もわかりやすいものです。しかし、弘前盆地を囲んでいる周辺の山並みは、複雑な地質学的な履歴をもっています。
盆地の周囲は、西には「津軽富士」とも呼ばれる岩木山が、奥羽山地を形成している八甲田山などの山並みとなります。南側は秋田県との県境に広がる白神山地からつながる丘陵地帯になっています。
西の岩木山は、標高1625mの成層火山で、弘前城から雄姿を眺めることができます。岩木山は、約30万年前に安山岩のマグマが活動をはじめ、現在と同じような規模な成層火山に成長したと考えらています。しかし、約20万年前には山体が崩壊しましたが、その後山体を修復するように新しい火山活動が起こり、約1万年前からは安山岩からデイサイト質マグマが活動して、山頂の溶岩ドームが形成されました。そして、現在の姿となりった活火山です。
東の奥羽山地は、複雑な構造をもっています。八甲田山から十和田湖の並びより西には、いくつも活火山とカルデラが複雑に入り組んでいます。
八甲田山は、大規模な火山活動が複合して起こりました。約100万年前に活動をはじめ、やがて大量の火山砕屑物をともなう噴火によってカルデラが形成されました。カルデラ形成中も形成後も火山活動は継続していました。約1000年前以降にも小規模な水蒸気爆発やおこっています。南八甲田山火山群と北八甲田山火山群などが活火山として現在も活動中です。2011年の東日本大震災以降、地震が頻発し、山体が膨張するような変動が観察されています。
十和田湖は、火山によってできたカルデラです。カルデラ形成前は、約20万年前に火山活動をはじめ、小さいな山体を何度か形成しました。約4万年前には、直径約10kmの大きなカルデラができました。その後、カルデラ内にある中湖としてあるカルデラが形成され、二重カルデラになりました。カルデラ形成後も火山活動は継続している活火山です。
さらに西の弘前盆地よりには、いくつかのカルデラ地形がみつかっています。沖浦カルデラ、碇ヶ関(いかりがせき)カルデラなどがあります。その西には津軽盆地の東縁をつくるように落ち込んだ黒石逆断層があります。その断層から弘前盆地がはじまります。
白神山地の北東側、弘前盆地から南には、「毛無山基盤堆積岩類」とよばれる古い時代の地層が分布します。その地域でもっとも古い岩石を、基盤岩と呼びます。基盤岩は、花崗岩や変成岩が多いのですが、堆積岩のこともあります。「毛無山基盤堆積岩類」は、チャートや砂岩を含む泥岩から構成されています。そのチャートから三畳紀の化石が見つかっています。この基盤岩は、付加体と呼ばれる特異な地質体(メランジュと呼ばれます)と考えられています。古い岩石(三畳紀)が沈み込み帯で新しい堆積物(ジュラ紀)に取り込まれたと考えられています。
白神山地の中には、白亜紀の花崗岩類が少しですが分布します。花崗岩はマグマが地下深部でゆっくりと固まったものです。花崗岩は付加体よりあとに活動したもので、過去の日本列島を特徴付けるものです。かつて日本列島は大陸の縁として存在していました。その大陸の縁に海洋プレートが沈み込み、沈み込むプレートに連動して起こったマグマの活動が花崗岩になりました。
花崗岩を覆って、中新世の多様な堆積岩と、それを貫く火成岩類(流紋岩、石英閃緑岩等)があります。多様な堆積岩といいましたが、岩石の種類では凝灰岩、泥岩、砂岩などです。地層区分としては、古い方から尻高沢層、藤倉川層、砂子瀬層、大和沢(おおわさわ)層、相馬安山岩類、大秋(たいあき)層、東目屋層に区分されています。
これらの地層は、「グリーンタフ」と呼ばれる日本海沿いに各地の海底で起こった火山活動に関連する地質現象です。火山活動は、主に中新世に起こり、海底でたまった堆積物の中に火山砕屑物や火山岩類が混じっています。
白神山地の堆積岩や火成岩類は不安定なうえに、地域全体が隆起し続けているため、崖崩れが起こりやすくなっています。丘陵地帯になると新しい時代の堆積物が覆っています。その丘陵の北側に、岩木山と津軽盆地があります。
青森県の地質図をみると、複雑さと単調がからみあっていることがよくわかります。太平洋側では下北半島の付け根から八戸あたりまで、三本木原の丘陵から平野が広がり、第四紀の新しい地層に覆われているところが、単調に続きます。
一方、津軽側では、日本海側の十三湖や砂丘からはじまり、弘前盆地まで続く津軽平野も、第四紀の地層が広がっています。その中でも弘前盆地は、その背景にある山並みは複雑で多様な履歴を持っています。弘前盆地を囲む山々は、基盤の付加体、深成岩の活動、グリーンタフの火山活動や堆積物、そして最近の火山活動など、非常に複雑な地質的な背景をもっています。
弘前は、弘前藩の城があり、城下町として栄えてきたところです。現在も、津軽地方の中心都市として機能しています。弘前城は、春の桜で有名なのですが、冬も公園内は入れるので、見学することにしました。弘前城から西に開けたところでは、岩木山の雄大な姿が見ることができました。そして城の北には、「伝統的建築物保存地区」があり、今も生活を営みながら昔ながら町並みが残されています。
弘前は、町の営みに新しさと古さが混在しています。それは、弘前盆地が単純さの中に複雑さが混在している地質との呼応しているように思えました。
・卒業式・
3月も半ばになりました。
大学は卒業式を来週に控えています。
今年は、大学内で卒業式をおこなうことになりました。
今までは大きなホールを借りて
全卒業生と保護者を招いての卒業式でしたが、
今年は大学のホールなので
3回に分けての卒業式になります。
全体のセレモニーは短めにして
学科ごとに学位記の手渡しをします。
保護者の方もその様子を見ることができます。
その後、記念撮影や、教員と卒業生、保護者での
個々の語らいの時間があります。
今まではこのような時間はなかったので
・雪解けの春・
北海道は例年であれば、雪解けがはじまり、
残雪を溶かす作業がはじまるのですが、
今年は、雪が多いのでその作業がはじまりません。
除雪の行き届いている道路はだいぶ雪解けがすすみ、
路面が見えるようになりました。
田畑や野原はまだまだ残雪は多く、
雪解けの春はもう少し先のようです。
3月のはじめに、校務で青森にでかけました。到着初日は青森空港から弘前にいき、用事が終わり次第、青森へ向かいました。弘前は、青森駅からも列車で1時間足らずで行けるところですので、近い街となるのでしょうか。
2日目、用事は午後からで時間があったので、出かけることにしました。雪もまだ一杯残っており、寒い日でもあったので、どこに出かけるのか迷ったのですが、弘前に興味が湧き、観光することにしました。
弘前は、青森県の南西部に位置します。津軽平野のもっとも南にあり、奥まったところにあるので、弘前周辺を弘前盆地と呼ぶこともあります。弘前盆地は、西から流れ込む岩木川と南から流れ込む平川、東から流れ込む浅瀬石川などがあり、扇状地や平野の堆積場とみなせます。盆地は新しい時代に形成されもので、履歴もわかりやすいものです。しかし、弘前盆地を囲んでいる周辺の山並みは、複雑な地質学的な履歴をもっています。
盆地の周囲は、西には「津軽富士」とも呼ばれる岩木山が、奥羽山地を形成している八甲田山などの山並みとなります。南側は秋田県との県境に広がる白神山地からつながる丘陵地帯になっています。
西の岩木山は、標高1625mの成層火山で、弘前城から雄姿を眺めることができます。岩木山は、約30万年前に安山岩のマグマが活動をはじめ、現在と同じような規模な成層火山に成長したと考えらています。しかし、約20万年前には山体が崩壊しましたが、その後山体を修復するように新しい火山活動が起こり、約1万年前からは安山岩からデイサイト質マグマが活動して、山頂の溶岩ドームが形成されました。そして、現在の姿となりった活火山です。
東の奥羽山地は、複雑な構造をもっています。八甲田山から十和田湖の並びより西には、いくつも活火山とカルデラが複雑に入り組んでいます。
八甲田山は、大規模な火山活動が複合して起こりました。約100万年前に活動をはじめ、やがて大量の火山砕屑物をともなう噴火によってカルデラが形成されました。カルデラ形成中も形成後も火山活動は継続していました。約1000年前以降にも小規模な水蒸気爆発やおこっています。南八甲田山火山群と北八甲田山火山群などが活火山として現在も活動中です。2011年の東日本大震災以降、地震が頻発し、山体が膨張するような変動が観察されています。
十和田湖は、火山によってできたカルデラです。カルデラ形成前は、約20万年前に火山活動をはじめ、小さいな山体を何度か形成しました。約4万年前には、直径約10kmの大きなカルデラができました。その後、カルデラ内にある中湖としてあるカルデラが形成され、二重カルデラになりました。カルデラ形成後も火山活動は継続している活火山です。
さらに西の弘前盆地よりには、いくつかのカルデラ地形がみつかっています。沖浦カルデラ、碇ヶ関(いかりがせき)カルデラなどがあります。その西には津軽盆地の東縁をつくるように落ち込んだ黒石逆断層があります。その断層から弘前盆地がはじまります。
白神山地の北東側、弘前盆地から南には、「毛無山基盤堆積岩類」とよばれる古い時代の地層が分布します。その地域でもっとも古い岩石を、基盤岩と呼びます。基盤岩は、花崗岩や変成岩が多いのですが、堆積岩のこともあります。「毛無山基盤堆積岩類」は、チャートや砂岩を含む泥岩から構成されています。そのチャートから三畳紀の化石が見つかっています。この基盤岩は、付加体と呼ばれる特異な地質体(メランジュと呼ばれます)と考えられています。古い岩石(三畳紀)が沈み込み帯で新しい堆積物(ジュラ紀)に取り込まれたと考えられています。
白神山地の中には、白亜紀の花崗岩類が少しですが分布します。花崗岩はマグマが地下深部でゆっくりと固まったものです。花崗岩は付加体よりあとに活動したもので、過去の日本列島を特徴付けるものです。かつて日本列島は大陸の縁として存在していました。その大陸の縁に海洋プレートが沈み込み、沈み込むプレートに連動して起こったマグマの活動が花崗岩になりました。
花崗岩を覆って、中新世の多様な堆積岩と、それを貫く火成岩類(流紋岩、石英閃緑岩等)があります。多様な堆積岩といいましたが、岩石の種類では凝灰岩、泥岩、砂岩などです。地層区分としては、古い方から尻高沢層、藤倉川層、砂子瀬層、大和沢(おおわさわ)層、相馬安山岩類、大秋(たいあき)層、東目屋層に区分されています。
これらの地層は、「グリーンタフ」と呼ばれる日本海沿いに各地の海底で起こった火山活動に関連する地質現象です。火山活動は、主に中新世に起こり、海底でたまった堆積物の中に火山砕屑物や火山岩類が混じっています。
白神山地の堆積岩や火成岩類は不安定なうえに、地域全体が隆起し続けているため、崖崩れが起こりやすくなっています。丘陵地帯になると新しい時代の堆積物が覆っています。その丘陵の北側に、岩木山と津軽盆地があります。
青森県の地質図をみると、複雑さと単調がからみあっていることがよくわかります。太平洋側では下北半島の付け根から八戸あたりまで、三本木原の丘陵から平野が広がり、第四紀の新しい地層に覆われているところが、単調に続きます。
一方、津軽側では、日本海側の十三湖や砂丘からはじまり、弘前盆地まで続く津軽平野も、第四紀の地層が広がっています。その中でも弘前盆地は、その背景にある山並みは複雑で多様な履歴を持っています。弘前盆地を囲む山々は、基盤の付加体、深成岩の活動、グリーンタフの火山活動や堆積物、そして最近の火山活動など、非常に複雑な地質的な背景をもっています。
弘前は、弘前藩の城があり、城下町として栄えてきたところです。現在も、津軽地方の中心都市として機能しています。弘前城は、春の桜で有名なのですが、冬も公園内は入れるので、見学することにしました。弘前城から西に開けたところでは、岩木山の雄大な姿が見ることができました。そして城の北には、「伝統的建築物保存地区」があり、今も生活を営みながら昔ながら町並みが残されています。
弘前は、町の営みに新しさと古さが混在しています。それは、弘前盆地が単純さの中に複雑さが混在している地質との呼応しているように思えました。
・卒業式・
3月も半ばになりました。
大学は卒業式を来週に控えています。
今年は、大学内で卒業式をおこなうことになりました。
今までは大きなホールを借りて
全卒業生と保護者を招いての卒業式でしたが、
今年は大学のホールなので
3回に分けての卒業式になります。
全体のセレモニーは短めにして
学科ごとに学位記の手渡しをします。
保護者の方もその様子を見ることができます。
その後、記念撮影や、教員と卒業生、保護者での
個々の語らいの時間があります。
今まではこのような時間はなかったので
・雪解けの春・
北海道は例年であれば、雪解けがはじまり、
残雪を溶かす作業がはじまるのですが、
今年は、雪が多いのでその作業がはじまりません。
除雪の行き届いている道路はだいぶ雪解けがすすみ、
路面が見えるようになりました。
田畑や野原はまだまだ残雪は多く、
雪解けの春はもう少し先のようです。
2014年2月15日土曜日
110 函館山:トンボロの街
函館山からみる夜景は、きれいで有名です。函館の市街地は、海に囲まれた狭い帯状に密集してあります。函館山から見下ろすと、すぐ近くにコンパクトに集まった夜景が見えます。そんな函館の町並みを形成した、地質学的背景を見ていきましょう。
先日、校務で函館にでかけました。冬の北海道では、雪による交通機関の遅れや運休などの乱れがあるため、重要な用件があるときは、スタッフは先発隊と後発隊に別れ、先発隊は2日前に出かけることになります。もちろん、先発しても校務はあるのですが、空き時間もできます。その午後の空き時間を使って、函館の街の散策にでかけました。
函館は、何度もきた記憶があるのですが、だいぶ以前のことで、いった場所の記憶も定かでありません。学生時代は青函連絡船で津軽海峡を何度も渡りました。着いたばかりの函館で、朝市で朝食をとったことを覚えています。
今回は、函館の近場の名所を周ることにしました。まずは、駅周辺の朝市(午後にいきました)と、青函連絡船の摩周丸をみました。その後、市電に乗って、函館山周辺に出かけました。
函館に着いたのは、ちょうど本州の各地に雪を降らした低気圧が近づいている前でした。気温は氷が少し溶け始めるほどの暖かさでしたが、風が強く、体感温度がすごく低く、寒く感じました。しかも前日の暖かい天気で、雪が溶けて、歩道がツルツルのアイスバーンになっていました。平らな道を歩くのさえ怖いほどの状態でした。
市電を降りて、ロープウェイ乗り場に向かう前に、坂道の上にある教会を見るために向かいました。ところが、坂道がツルツルでとてもじゃありませんが、歩いて登ることできません。一部、スベリ止めの砂利が撒かれているところがあったので、砂利あるところを頼りに登りました。非常の怖い思いをしました。教会は見学したのですが、アイスバーンと強風のため、ロープウェイは諦めました。まあ、次のチャンスを待ちましょう。
アイスバーンと強風で冷えた体を温めるのには、温泉が一番です。函館では、街の西はずれにある「川の湯」温泉が有名ですが、実は市街地にもいくつも温泉があります。函館市内には60ほどの源泉があるそうですが、そのうち40ほどが湯の川にあります。ほかの泉源は市内にあり、銭湯や市街地のホテルでも、天然温泉を謳っているところがいくつもあります。幸いなことに泊まった駅前のホテルも、天然温泉付きでした。寒い時期の温泉は格別で、ホテルの最上階にあった温泉から市街地の眺めも最高でした。
さて、函館の市街地です。函館山から眺める夜景がきれいで有名です。函館山から見ると、両側が海に囲まれ平らな平野に町並みがあります。町並みの西の函館湾側は埋め立てられ埠頭ができ、ライトアップされています。北の内陸は函館平野につながり、さらに奥は丘陵地帯の灯りの少ないことろへと続きます。そんな自然の地形と人工の灯りも加わり、函館は夜景がきれいになっているのでしょう。
この函館の市街地は、少々不思議な地形をしています。函館湾の奥にみえる函館平野は、北の丘陵から流れこむ久根別川、北西の丘陵から流れ込む大野川と戸切地川による扇状地からできています。平野の扇状地とは少し離れて、市街地の平野が海の中に細長く形成されています。函館の市街地は、両側が海に面した1kmほどの幅しかない非常に狭いところにあります。その先に突き出た函館山があります。
このような地形の特徴は、函館山によるトンボロ(tombolo)現象によってできたものです。陸の近くに島があると、沖からの波が島の両側を回って、裏側で打ち消し合って穏やかになることがあます。そこには沿岸流や河川によって堆積物がたまりやすくなり、砂洲が形成されることがあります。このような島と陸をつなぐ砂洲のことを、トンボロ、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれています。沖に島があることによって、陸との間に砂洲ができることをトンボロ現象といいます。
函館の場合、まず函館島(現函館山)ができました。津軽海流による流れが島を回りこみ、島の裏側(陸側)に流れの穏やかなところができました。そこに、北東の丘陵から流れ込む亀田川による堆積物の供給によって、砂洲が形成され、砂洲がのびて島と繋がったのでしょう。
では、そもそも函館島は、どうしてできたのでしょうか。函館島は、火山活動によってできたものです。函館山の火山活動は、100万年前ころに活動したことが知られています。年代測定として120万~93万年前(更新世前期)のデータがありますが、地質調査や年代測定は十分になされておらず、詳しい活動史や年代はわかっていません。
函館火山は、いくつかの活動時期があったとされています。古いものから、立待岬溶岩、千畳敷集塊岩、高竜寺山溶岩、千畳敷溶岩、そして御般山溶岩をつくった活動になります。函館山の火山岩は、安山岩質からデイサイト質のマグマからできていますが、溶岩ごとに特徴があり、このような区分されています。
立待岬溶岩は、流れたつくりをもつ(流理構造といいます)溶岩です。千畳敷集塊岩は、角礫状の溶岩とその間を埋める凝灰岩からなります。高龍寺山溶岩は、分布は少ないのですが、大きな斜長石の結晶(斑晶と呼びます)をもっています。千畳敷溶岩は、平らな台地をつくっている溶岩で、白と黒の縞状の流理構造をもっています。御殿山溶岩は、函館山山頂を中心に分布する溶岩で、やはり流理構造をもっています。
広く日本列島でみると、函館火山は、東北地方の下北半島の恐山まで続く火山列と、ニセコ、洞爺、支笏へと広がる火山列の間にあたります。日本列島の火山は、海溝にそったところに列をなして分布しています。海溝に近い火山を結んたものを、火山前線と呼んでいます。函館は、東北から北海道西部の火山につながる火山前線に、位置します。近くの活火山として、駒ケ岳や恵山があり、火山前線となっています。函館は、火山前線にあたるところですから、多数の温泉があってもおかしくないのです。
日本列島の火山前線で、100万年前ころ、度重なる火山活動によって、函館山はできました。その火山は、たまたま陸の近くの海で活動したため島となりました。その後、海流や河川の作用によるトンボロ現象によって砂洲ができて、函館島と亀田半島が陸続きになりました。そこに人が住み着き、港や町並みができ、温泉も利用されるようになりました。
このようなストーリが、函館山から見える夜景を生み出している、地質学的背景としてあります。
・トンボロ・
トンボロとは不思議な響きをもった言葉です。
トンボロ(tombolo)はイタリア語で、
陸繋砂州の意味で、英語やドイツ語、
フランス語でも使用されています。
語源としては、ラテン語のtumulusに由来し
古墳のような盛り土による小丘、
moundを意味するそうです。
トンボロ現象は珍しくはありますが、
稀でなことではないようです。
日本で函館山のほかに、
江の島や潮岬、青島なども
トンボロ現象によってできたものです。
・春よ来い・
1月から2月上旬は、大雪が何度が降ったのですが、
2月中旬は、雪もそれほど降ることもなく、
北海道は、暖かい日と、寒い日が
繰り返しておとずれています。
もう、大雪が降らないことを願います。
今年は大雪で、道が狭くなり
通行が非常に困難になっています。
こんな雪が多い年は、
特別に春が待ち遠しいです。
先日、校務で函館にでかけました。冬の北海道では、雪による交通機関の遅れや運休などの乱れがあるため、重要な用件があるときは、スタッフは先発隊と後発隊に別れ、先発隊は2日前に出かけることになります。もちろん、先発しても校務はあるのですが、空き時間もできます。その午後の空き時間を使って、函館の街の散策にでかけました。
函館は、何度もきた記憶があるのですが、だいぶ以前のことで、いった場所の記憶も定かでありません。学生時代は青函連絡船で津軽海峡を何度も渡りました。着いたばかりの函館で、朝市で朝食をとったことを覚えています。
今回は、函館の近場の名所を周ることにしました。まずは、駅周辺の朝市(午後にいきました)と、青函連絡船の摩周丸をみました。その後、市電に乗って、函館山周辺に出かけました。
函館に着いたのは、ちょうど本州の各地に雪を降らした低気圧が近づいている前でした。気温は氷が少し溶け始めるほどの暖かさでしたが、風が強く、体感温度がすごく低く、寒く感じました。しかも前日の暖かい天気で、雪が溶けて、歩道がツルツルのアイスバーンになっていました。平らな道を歩くのさえ怖いほどの状態でした。
市電を降りて、ロープウェイ乗り場に向かう前に、坂道の上にある教会を見るために向かいました。ところが、坂道がツルツルでとてもじゃありませんが、歩いて登ることできません。一部、スベリ止めの砂利が撒かれているところがあったので、砂利あるところを頼りに登りました。非常の怖い思いをしました。教会は見学したのですが、アイスバーンと強風のため、ロープウェイは諦めました。まあ、次のチャンスを待ちましょう。
アイスバーンと強風で冷えた体を温めるのには、温泉が一番です。函館では、街の西はずれにある「川の湯」温泉が有名ですが、実は市街地にもいくつも温泉があります。函館市内には60ほどの源泉があるそうですが、そのうち40ほどが湯の川にあります。ほかの泉源は市内にあり、銭湯や市街地のホテルでも、天然温泉を謳っているところがいくつもあります。幸いなことに泊まった駅前のホテルも、天然温泉付きでした。寒い時期の温泉は格別で、ホテルの最上階にあった温泉から市街地の眺めも最高でした。
さて、函館の市街地です。函館山から眺める夜景がきれいで有名です。函館山から見ると、両側が海に囲まれ平らな平野に町並みがあります。町並みの西の函館湾側は埋め立てられ埠頭ができ、ライトアップされています。北の内陸は函館平野につながり、さらに奥は丘陵地帯の灯りの少ないことろへと続きます。そんな自然の地形と人工の灯りも加わり、函館は夜景がきれいになっているのでしょう。
この函館の市街地は、少々不思議な地形をしています。函館湾の奥にみえる函館平野は、北の丘陵から流れこむ久根別川、北西の丘陵から流れ込む大野川と戸切地川による扇状地からできています。平野の扇状地とは少し離れて、市街地の平野が海の中に細長く形成されています。函館の市街地は、両側が海に面した1kmほどの幅しかない非常に狭いところにあります。その先に突き出た函館山があります。
このような地形の特徴は、函館山によるトンボロ(tombolo)現象によってできたものです。陸の近くに島があると、沖からの波が島の両側を回って、裏側で打ち消し合って穏やかになることがあます。そこには沿岸流や河川によって堆積物がたまりやすくなり、砂洲が形成されることがあります。このような島と陸をつなぐ砂洲のことを、トンボロ、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれています。沖に島があることによって、陸との間に砂洲ができることをトンボロ現象といいます。
函館の場合、まず函館島(現函館山)ができました。津軽海流による流れが島を回りこみ、島の裏側(陸側)に流れの穏やかなところができました。そこに、北東の丘陵から流れ込む亀田川による堆積物の供給によって、砂洲が形成され、砂洲がのびて島と繋がったのでしょう。
では、そもそも函館島は、どうしてできたのでしょうか。函館島は、火山活動によってできたものです。函館山の火山活動は、100万年前ころに活動したことが知られています。年代測定として120万~93万年前(更新世前期)のデータがありますが、地質調査や年代測定は十分になされておらず、詳しい活動史や年代はわかっていません。
函館火山は、いくつかの活動時期があったとされています。古いものから、立待岬溶岩、千畳敷集塊岩、高竜寺山溶岩、千畳敷溶岩、そして御般山溶岩をつくった活動になります。函館山の火山岩は、安山岩質からデイサイト質のマグマからできていますが、溶岩ごとに特徴があり、このような区分されています。
立待岬溶岩は、流れたつくりをもつ(流理構造といいます)溶岩です。千畳敷集塊岩は、角礫状の溶岩とその間を埋める凝灰岩からなります。高龍寺山溶岩は、分布は少ないのですが、大きな斜長石の結晶(斑晶と呼びます)をもっています。千畳敷溶岩は、平らな台地をつくっている溶岩で、白と黒の縞状の流理構造をもっています。御殿山溶岩は、函館山山頂を中心に分布する溶岩で、やはり流理構造をもっています。
広く日本列島でみると、函館火山は、東北地方の下北半島の恐山まで続く火山列と、ニセコ、洞爺、支笏へと広がる火山列の間にあたります。日本列島の火山は、海溝にそったところに列をなして分布しています。海溝に近い火山を結んたものを、火山前線と呼んでいます。函館は、東北から北海道西部の火山につながる火山前線に、位置します。近くの活火山として、駒ケ岳や恵山があり、火山前線となっています。函館は、火山前線にあたるところですから、多数の温泉があってもおかしくないのです。
日本列島の火山前線で、100万年前ころ、度重なる火山活動によって、函館山はできました。その火山は、たまたま陸の近くの海で活動したため島となりました。その後、海流や河川の作用によるトンボロ現象によって砂洲ができて、函館島と亀田半島が陸続きになりました。そこに人が住み着き、港や町並みができ、温泉も利用されるようになりました。
このようなストーリが、函館山から見える夜景を生み出している、地質学的背景としてあります。
・トンボロ・
トンボロとは不思議な響きをもった言葉です。
トンボロ(tombolo)はイタリア語で、
陸繋砂州の意味で、英語やドイツ語、
フランス語でも使用されています。
語源としては、ラテン語のtumulusに由来し
古墳のような盛り土による小丘、
moundを意味するそうです。
トンボロ現象は珍しくはありますが、
稀でなことではないようです。
日本で函館山のほかに、
江の島や潮岬、青島なども
トンボロ現象によってできたものです。
・春よ来い・
1月から2月上旬は、大雪が何度が降ったのですが、
2月中旬は、雪もそれほど降ることもなく、
北海道は、暖かい日と、寒い日が
繰り返しておとずれています。
もう、大雪が降らないことを願います。
今年は大雪で、道が狭くなり
通行が非常に困難になっています。
こんな雪が多い年は、
特別に春が待ち遠しいです。
2014年1月15日水曜日
109 天鳥の褶曲:嫋やかな褶曲
和歌山県すさみ町の海岸に、地質学や地元では有名な褶曲があります。海岸沿いを進んで、なんとかたどり着いた嫋やかな褶曲には、感動の覚えるとともに、大地の穏やかな変動を感じることができます。
和歌山県西牟婁(にしむろ)郡すさみ町の口和深(くちわぶか)の海岸沿いに、みごとな褶曲があります。かつては、一部の地質学者や釣り人しか知らなかった地質の見どころだったのですが、教科書にも写真が紹介されたことで、有名になりました。私の地質学の論文で写真はみていたのですが、実物を一度は見ておきたと思っていた、有名な褶曲でした。
ほぼこのあたりという場所はわかっていたのですが、厳密な位置は不明で、アプローチのルートもよく知りませんでした。国道42号線から海岸に降りればいいはずなので、海岸の崖に道路から褶曲が見えたので、この辺りかと思ったので海岸まで降りて行って、岩場を濡れながら進んでいったのですが、写真で見た褶曲はなく、行き止まりになっていました。場所が違っていたのです。
気を取り直して、再度チャレンジするために、昼食を買いに近くの店に入りました。そこのご主人に話しを聞いたら、幸いなのことに、釣りでよく行くそうで、場所も知っておられました。海岸に下りるポイントをしっかりと聞きました。その位置さえわかれば、歩きやすい踏跡が海岸までついていました。
海岸に降りて、大きな岩を回りこめば、褶曲があります。私が行った時は、台風の余波で、海岸の波が高く、風も強い日でした。波の合間をはかって渡るところがありましたが、なんとか目的の海岸にでることができました。案内には、波が高い時は行けませんと書いてありますので、注意が必要ですが、目的の褶曲の地点にたどり着きました。
そこは、小さな岬状に海に突き出たところで、平らな海食台のような地形になっています。そこから陸側をふり返ると、みごとな褶曲がみえます。これは「天鳥(あまどり)の褶曲」とよばれています。天鳥地区にある褶曲なので、そのように呼ばれています。なかなかいい名称です。
5mほどの高さに垂直に切り立った崖に、きれいな褶曲がでています。わやらかな褶曲ですが、よく見ると不思議な光景です。褶曲を形作っている岩石は、砂岩です。今は固い岩石ですが、みごとなカーブを描いて曲がっています。非常に嫋(たお)やかな曲がり方に見えます。
天鳥の褶曲は、南東側に倒れています。砂岩を主とする地層ですが、詳細にみると、複雑な構成になっています。褶曲の中心部分には泥岩の少し多いところがあり、外側に砂岩の中に、薄い泥岩が地層境界に少し見られます。褶曲の先端でも砂岩は割れることなく、丸くきれいに曲がっています。
天鳥の褶曲は一つではなく、すぐ上(地層の上盤といいます)には反対方向に倒れたもの、さらに上方(地層としては天鳥の褶曲の南東延長になるようです)には反対に倒れた褶曲があります。
これらの褶曲の下(地層の下盤)は、海水面に近いところは、波の侵食を受けて窪んでいます。そこには泥岩の多い地層があったのですが、侵食されてなくなっています。露頭の上の方に、その延長部分が残されています。赤茶けた砂岩ととにも泥岩の多い地層が見えます。
泥岩の多い地層のさらに下盤側には、いったん整然とした砂岩の多い地層が続くのですが、すぐにまた褶曲した地層が出現します。この褶曲は、複雑に曲がりくねり、一部S字に見えることから「S字褶曲」と呼ばれているものです。
「天鳥の褶曲」から海食台を挟んで反対の海岸に突き出たところには、砂岩が一層だけが残った褶曲の一部があります。この奇異な形状をしていて、ひらかなの「つ」の逆さにした形になっています。「つ」の内がは、まるでベンチのように腰をかけるのにちょうどいい平らな面がでています。右手に持ち上がったところは、地層の内側がみえていて、そこにはリップルマークがみえます。
リップルマークとは、海底に地層が堆積した時、波の作用で表面に波模様ができたものです。漣痕(れんこん)と呼ばれています。海底面にできた漣痕が、次にたまった堆積物よって覆われたものです。海食台の平らなところにも、侵食は受けていますが、リップルマークの名残りがみえます。
さて、この付近には、褶曲した地層が上下方向、水平方向にいくつも繰り返しているようです。褶曲している地層の岩石が割れていないことから、地層が完全には固まっていない状態で曲ったことになります。上下の地層は整然としているのに、ある地層部分だけ褶曲しているようなものを、スランプ(slump)褶曲、あるいは単にスランプといいます。
スランプ褶曲は、完全には固まっていない一連の地層が、何らかの原因(地震など)で、ある地層の上をすべって移動したとき、移動した地層だけが曲がりくねった状態になることがあります。その上に、地層がたまると、整然と地層の間にある部分だけが激しく褶曲した地層が挟まれている状態ができます。そのため、スランプを層間褶曲とよぶこともあります。
この岬から東にいくと、もっとスランプ褶曲がみえるはずなのですが、潮が引いておらず、波をかぶっているので、それより先に進むことができませんでした。次の機会に、ここより先を見てみたいものです。
天鳥の褶曲の周辺は、多数のスランプがあり、スランプ帯というべきところです。この地層ができた場は、次々と各地でスランプを形成するほど非常に変動の激しかったところだと考えられます。ところが、スランプ帯は、必ずしも大地の激しい変動の場ではないのです。
天鳥の褶曲を作っている地層は、牟婁(むろ)層群に属しています。四万十帯の一部になります。四万十帯は、付加体として形成されたもので、沈み込む海洋プレートの陸側にできた、列島に固有の地質体です。
日本列島には、四万十帯だけでなく、もっと古い陸側の地質体も付加体が多数あることがわかっています。日本列島の骨組みは、付加体によってできているといってもいいくらいです。付加体の代表的なものとして、四万十帯が挙げられます。
四万十帯は、古いもの(北側)から日高川層群、音無川層群、牟婁層群となり、牟婁層群はもっと新しい付加体からできています。牟婁層群は、パレオジンから中新世初期(約5000万年~1500万年前ころ)の地層が付加体したものだと考えられています。
音無層群は深い海溝にたまった堆積物(海溝充填堆積物と呼ばれています)が付加したものであるのに対し、牟婁層群は浅いところでできたものが、激しく変動をうけることなく付加したものだと考えられています。付加体にも、激しく変動を受けたものもがあるのです。
牟婁層群は、スランプが多数形成される程度には変動を受けていたのですが、海溝から陸よりで浅かったため、断層で地層がバラバラにされる(メランジュと呼ばれています)ことがほとんどなく、大陸斜面(正確には前弧海盆堆積物と呼ばれています)にたまった堆積物が、スランプを形成しながらもそのまま付加しました。牟婁層群は、昔の大陸斜面の「穏やかな」堆積と変動の付加体の記録といえます。
天鳥の褶曲に感じられた嫋(たお)やかさの裏には、大地の「穏やかな」変動の記録があったのです。海の荒さに負けることなくたどり着いた先に、今も変動の記録を残している大地の営みを見ました。
・フェニックス・
本年最初のエッセイの地は、天鳥の褶曲です。
天鳥という名称から、
一部の地質学者は、
フェニックスの褶曲(Cliff Phoenix)と
呼んだこともあるようです。
海外の研究者向けの英名として使われたようですが、
定着していないようです。
私は、もともとの地名をいかした
「あまとり」がいいと思いますが、
いかがでしょうか。
・入試・
いよいよセンター試験の時期となりました。
高校はもとより、
大学も慌ただしくなります。
大学の一般入試の受付はもうはじまっています。
センター試験が終わり2月になれば、
大学の一般入試が始まります。
1月で後期の講義は終わるのですが、
落ち着かない日々が続きます。
和歌山県西牟婁(にしむろ)郡すさみ町の口和深(くちわぶか)の海岸沿いに、みごとな褶曲があります。かつては、一部の地質学者や釣り人しか知らなかった地質の見どころだったのですが、教科書にも写真が紹介されたことで、有名になりました。私の地質学の論文で写真はみていたのですが、実物を一度は見ておきたと思っていた、有名な褶曲でした。
ほぼこのあたりという場所はわかっていたのですが、厳密な位置は不明で、アプローチのルートもよく知りませんでした。国道42号線から海岸に降りればいいはずなので、海岸の崖に道路から褶曲が見えたので、この辺りかと思ったので海岸まで降りて行って、岩場を濡れながら進んでいったのですが、写真で見た褶曲はなく、行き止まりになっていました。場所が違っていたのです。
気を取り直して、再度チャレンジするために、昼食を買いに近くの店に入りました。そこのご主人に話しを聞いたら、幸いなのことに、釣りでよく行くそうで、場所も知っておられました。海岸に下りるポイントをしっかりと聞きました。その位置さえわかれば、歩きやすい踏跡が海岸までついていました。
海岸に降りて、大きな岩を回りこめば、褶曲があります。私が行った時は、台風の余波で、海岸の波が高く、風も強い日でした。波の合間をはかって渡るところがありましたが、なんとか目的の海岸にでることができました。案内には、波が高い時は行けませんと書いてありますので、注意が必要ですが、目的の褶曲の地点にたどり着きました。
そこは、小さな岬状に海に突き出たところで、平らな海食台のような地形になっています。そこから陸側をふり返ると、みごとな褶曲がみえます。これは「天鳥(あまどり)の褶曲」とよばれています。天鳥地区にある褶曲なので、そのように呼ばれています。なかなかいい名称です。
5mほどの高さに垂直に切り立った崖に、きれいな褶曲がでています。わやらかな褶曲ですが、よく見ると不思議な光景です。褶曲を形作っている岩石は、砂岩です。今は固い岩石ですが、みごとなカーブを描いて曲がっています。非常に嫋(たお)やかな曲がり方に見えます。
天鳥の褶曲は、南東側に倒れています。砂岩を主とする地層ですが、詳細にみると、複雑な構成になっています。褶曲の中心部分には泥岩の少し多いところがあり、外側に砂岩の中に、薄い泥岩が地層境界に少し見られます。褶曲の先端でも砂岩は割れることなく、丸くきれいに曲がっています。
天鳥の褶曲は一つではなく、すぐ上(地層の上盤といいます)には反対方向に倒れたもの、さらに上方(地層としては天鳥の褶曲の南東延長になるようです)には反対に倒れた褶曲があります。
これらの褶曲の下(地層の下盤)は、海水面に近いところは、波の侵食を受けて窪んでいます。そこには泥岩の多い地層があったのですが、侵食されてなくなっています。露頭の上の方に、その延長部分が残されています。赤茶けた砂岩ととにも泥岩の多い地層が見えます。
泥岩の多い地層のさらに下盤側には、いったん整然とした砂岩の多い地層が続くのですが、すぐにまた褶曲した地層が出現します。この褶曲は、複雑に曲がりくねり、一部S字に見えることから「S字褶曲」と呼ばれているものです。
「天鳥の褶曲」から海食台を挟んで反対の海岸に突き出たところには、砂岩が一層だけが残った褶曲の一部があります。この奇異な形状をしていて、ひらかなの「つ」の逆さにした形になっています。「つ」の内がは、まるでベンチのように腰をかけるのにちょうどいい平らな面がでています。右手に持ち上がったところは、地層の内側がみえていて、そこにはリップルマークがみえます。
リップルマークとは、海底に地層が堆積した時、波の作用で表面に波模様ができたものです。漣痕(れんこん)と呼ばれています。海底面にできた漣痕が、次にたまった堆積物よって覆われたものです。海食台の平らなところにも、侵食は受けていますが、リップルマークの名残りがみえます。
さて、この付近には、褶曲した地層が上下方向、水平方向にいくつも繰り返しているようです。褶曲している地層の岩石が割れていないことから、地層が完全には固まっていない状態で曲ったことになります。上下の地層は整然としているのに、ある地層部分だけ褶曲しているようなものを、スランプ(slump)褶曲、あるいは単にスランプといいます。
スランプ褶曲は、完全には固まっていない一連の地層が、何らかの原因(地震など)で、ある地層の上をすべって移動したとき、移動した地層だけが曲がりくねった状態になることがあります。その上に、地層がたまると、整然と地層の間にある部分だけが激しく褶曲した地層が挟まれている状態ができます。そのため、スランプを層間褶曲とよぶこともあります。
この岬から東にいくと、もっとスランプ褶曲がみえるはずなのですが、潮が引いておらず、波をかぶっているので、それより先に進むことができませんでした。次の機会に、ここより先を見てみたいものです。
天鳥の褶曲の周辺は、多数のスランプがあり、スランプ帯というべきところです。この地層ができた場は、次々と各地でスランプを形成するほど非常に変動の激しかったところだと考えられます。ところが、スランプ帯は、必ずしも大地の激しい変動の場ではないのです。
天鳥の褶曲を作っている地層は、牟婁(むろ)層群に属しています。四万十帯の一部になります。四万十帯は、付加体として形成されたもので、沈み込む海洋プレートの陸側にできた、列島に固有の地質体です。
日本列島には、四万十帯だけでなく、もっと古い陸側の地質体も付加体が多数あることがわかっています。日本列島の骨組みは、付加体によってできているといってもいいくらいです。付加体の代表的なものとして、四万十帯が挙げられます。
四万十帯は、古いもの(北側)から日高川層群、音無川層群、牟婁層群となり、牟婁層群はもっと新しい付加体からできています。牟婁層群は、パレオジンから中新世初期(約5000万年~1500万年前ころ)の地層が付加体したものだと考えられています。
音無層群は深い海溝にたまった堆積物(海溝充填堆積物と呼ばれています)が付加したものであるのに対し、牟婁層群は浅いところでできたものが、激しく変動をうけることなく付加したものだと考えられています。付加体にも、激しく変動を受けたものもがあるのです。
牟婁層群は、スランプが多数形成される程度には変動を受けていたのですが、海溝から陸よりで浅かったため、断層で地層がバラバラにされる(メランジュと呼ばれています)ことがほとんどなく、大陸斜面(正確には前弧海盆堆積物と呼ばれています)にたまった堆積物が、スランプを形成しながらもそのまま付加しました。牟婁層群は、昔の大陸斜面の「穏やかな」堆積と変動の付加体の記録といえます。
天鳥の褶曲に感じられた嫋(たお)やかさの裏には、大地の「穏やかな」変動の記録があったのです。海の荒さに負けることなくたどり着いた先に、今も変動の記録を残している大地の営みを見ました。
・フェニックス・
本年最初のエッセイの地は、天鳥の褶曲です。
天鳥という名称から、
一部の地質学者は、
フェニックスの褶曲(Cliff Phoenix)と
呼んだこともあるようです。
海外の研究者向けの英名として使われたようですが、
定着していないようです。
私は、もともとの地名をいかした
「あまとり」がいいと思いますが、
いかがでしょうか。
・入試・
いよいよセンター試験の時期となりました。
高校はもとより、
大学も慌ただしくなります。
大学の一般入試の受付はもうはじまっています。
センター試験が終わり2月になれば、
大学の一般入試が始まります。
1月で後期の講義は終わるのですが、
落ち着かない日々が続きます。
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