フォッサマグナという言葉は、中央構造線とともに、地学だけでなく、中学校の社会や高校の地理でもでてきました。中央構造線は日本語になっているのに、フォッサマグナだけカタカナ書きなのは、なぜでしょう。フォッサマグナという言葉も、英語の単語として聞いたことのないものです。フォッサマグナの秘密を見ていきます。
今年の秋、長野県を中央から北部へ国道147号線を走って縦断しました。147号線は東西に高い山なみと並行に、姫川に沿って通っています。激しい雨に戸惑いながら、ただひたすら進むしかありませんでした。
長野の147号線を走ると、気づくことがあります。それは、山なみの伸びる方向が、他の地域と違っているということです。中国、四国、近畿の山脈の多くは、東西にのびています。ところが、中部地方になると突然、山なみが南北にのびるようになります。日本アルプスとよばれる飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈は、ほぼ南北にのびています。そして関東に近づくと乱れていきます。そして東北地方では、南北にのびて安定します。
地形ができる背景には、必ず地質学的原因があります。地質学的に、山脈をそのような向きに形成した必然性があるはずです。地形が大きければ大きいほど、地質学的原因も大きなものとなります。日本アルプスの形成は、第一級の地質原因といえます。だれもが学校で習ったことがあるフォッサマグナが地質学的原因となっています。
フォッサマグナとは、ラテン語のFossa Magnaが語源となっています。Fossaは「みぞ」や「掘る」という意味で、Magnaは「大きい」という意味です。Fossa Magnaは「大きな溝」という意味で、日本語では「大地溝帯」や「中央地溝帯」と呼ばれることもありますが、ほとんど使われることなく、フォッサマグナとカタカナ書きされています。
フォッサマグナと最初に名付けたのは、「お雇い外国人」でドイツの地質学者のナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854年~1927年)でした。ナウマンは、1886年にこの「くぼち」をフォッサマグナと呼びました。それ以降、境界や起源についての論議はまだ決着をみていませんが、フォッサマグナのまま使われています。その地質学的な重要性は、現在でも健在です。なぜなら、日本列島にとって、地質学的に、地形的にもっとも大きな構造の一つだからです。
「くぼち」ですから、両側に高まり(山脈)があり、低地があることになります。フォッサマグナは、日本海側の長野と新潟から太平洋側の静岡から神奈川まで広い範囲を意味しています。西側の境界は比較的明瞭で、糸魚川‐静岡構造線(糸静線と略されることもあります)と呼ばれていますが、東縁は新発田小出構造線から柏崎千葉構造線とされていますが、諸説があります。それは、あまりその境界が明瞭ではないからです。
フォッサマグナの南部にあたる関東山地には、西南日本や東北日本と同じ年代の地層を含む大きな地質体があるため、いろいろな解釈ができて、混乱が生じています。この異質な地質体は、フォッサマグナが活動を初めて開いたとき、西南日本か東北日本から切り離されました。その時、異質な地質体がフォッサマグナ内で残されたと考えられています。その後、フォッサマグナが閉じる活動に転じたときに、フォッサマグナ内にできた新しい地層とともに圧縮され混在したと考えられています。
フォッサマグナは、ちょうど本州が東西に分けられるところで、地質学的には大きな境界になります。フォッサマグナの東西では、列島の孤の形態が変わります。そして地質の構成や連続性も断たれます。
東側(東北日本と呼ばれます)では、地質構造は南北に伸び、太平洋プレートの沈み込みである日本海溝の並びに対応しています。北海道中央部で再び東西に曲がります。一方、西側(西南日本と呼ばれます)は、東西に伸び、フィリピン海プレートの沈み込み対応しています。九州から再び南北に地質構造は伸びます。
フォッサマグナは、日本列島の大きなつなぎ目、あるいは変換域になります。フォッサマグナの溝の深さは、8000~9000mに達するとされています。このような地質の大きな境界の「くぼち」には、新しい時代(ネオジンから第四紀にかけて)の堆積岩がたまり、マグマ活動による深成岩や火山岩が形成されました。
近年では、フォッサマグナは北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界になるという解釈がでてきました。かつては、両プレート境界は、北海道中軸部の日高山脈とされていました。しかし、1983年の日本海中部地震があってからは、日本海東縁部からフォッサマグナをプレート境界とする考えが支持されるようになりました。
フォッサマグナは、西は糸魚川‐静岡構造線、東は新発田-小出構造線や柏崎-千葉構造線など、日本でも第一級の構造線が集まって形成されたものです。構造線とは、巨大な断層が多数集まって形成されます。構造線の両側の地層や岩石は、まったく違ったものになっていることがほとんどです。それは、断層によって大きな変位を生じたということです。断層の変位とは、水平方向や垂直方向に大きくずれて移動することです。
構造線は、多数の断層が繰り返し活動することでその変位を蓄積していきます。そのような場は、地質学的に大きな力が働いているところです。日本列島は常に海洋プレートが沈み込んでいる場になっていました。ですから、沈み込むプレートによる圧縮の力が日本列島にかかってるので、山脈が一定の方向に並びます。そのプレートの沈み込みを乱す地質学的に大きな力が、フォッサマグナのあたりにはかかったことになります。それこそが、フォッサマグナの成因となります。
約2000万年前ころ、ユーラシア大陸の縁にあった後に日本列島になる部分が分離します。分離後、日本列島とユーラシア大陸の間には日本海ができます。分離したとき、日本列島はフォッサマグナをはさんで2つの列島(東北日本と西南日本)に分かれていました。列島の間は海になっていて、そこに堆積物がたまりました。その後、フィリピン海プレートの沈み込み帯に、伊豆半島を乗せた小さい大陸地殻が、フォッサマグナ地域に、200万年前~100万年前に衝突しました。これによってフォッサマグナ地域が隆起し、陸化しました。
非常に複雑な地質学的背景、そして歴史があります。今も、フィリピン海プレートの衝突は続いています。その影響で、伊豆大陸の前線の丹沢山地や日本アルプスなども上昇を継続しています。山なみの大きな変化には、大地の大きな営みがあるのです。
・派生断層・
広域の地形図では構造線が見えたとしても、
現地で主断層が確認できることはほとんどありません。
主断層は変位が大きすぎて見えなくなっています。
その断層から派生した断層が見えることがあります。
糸魚川ジオパークでも、その派生断層がみることができます。
この断層は、糸魚川‐静岡構造線の派生断層です。
少々手をかけすぎですが、
安全にアプローチでき、解説パネルもあります。
私がいったときは雨でしたが、
天気のいい日ならじっくり観察できるでしょう。
・フォッサマグナミュージアム・
糸魚川市にはフォッサマグナミュージアムがあります。
そこではフォッサマグナ地域に関する
展示と解説がなされています。
そしてヒスイに関する情報をいろいろ示されています。
糸魚川は青海(おうみ)ヒスイが有名ですが
それは別の機会に紹介します。
大地の景観には、
さまざまな自然の驚異、素晴らしさ、不思議が隠されています。
そんな大地の景観を地形や地質のデータから地質学者が眺めたら、
どう見えるでしょうか。
皆さんどうか、大地の造形に隠された仕組みに
目を向けてください。そして楽しんでください。
2012年12月15日土曜日
2012年11月15日木曜日
95 上高地:大地のレリーフ
秋になる前に、上高地にいきました。半日の滞在でしたが、上高地の素晴らしい景観を味わうことができました。しかし、今回のエッセイは、その景観にではなく、小さいなレリーフから大地のレリーフに思いを巡らせましょう。
長野県の松本盆地の標高は、500メートルから800メートルもあります。秋でも、その分涼しさがあるようです。松本盆地の中心、松本市から西に向かって梓川を遡って行く国道158号線をすすむと、島々(しましま)あたりで急に梓川の谷は険しくなります。そしてつぎつぎとダムが現れます。
沢渡(さわんど)まではマイカーで行けますが、そこから先、上高地へ向かう一般車の通行は規制されています。マイカーの人は沢渡で車を降りて、バスかタクシーでいくことになります。沢渡からも険しさや急傾斜が続き、中の湯で、国道158号線は安房(あぼう)トンネルに向かいますが、上高地へは釜トンネルの県道の方面へ向かいます。釜トンネルは、道幅も狭く、傾斜もきつく、交通量が多ければ、トラブルが多発したであろうことが想定されます。
トンネルと抜けても、山は深まりますが、傾斜がおだやかになり、梓川の流れはゆるやかになります。焼岳の荒々しい山腹を右に見ながら進むと、濃い緑から濃い青の大正池が出現します。焼岳の火砕流が、周辺の険しいに地形のわかり、穏やかな梓川の流れを生んでいるのです(前回のエッセイで紹介)。
更に進むと、日本でも有数の観光地、上高地にたどり着きます。上高地の標高は1500メートルになり、松本から一気に1000メートルも上がってきたことになります。たとえ観光客が多くても、上高地の空気感は、松本のものとは明らかに違うものです。標高の変化だけでない、異国の地に来たような非日常空間がそこには広がります。そんな異空間が上高地へと人を誘うのかもしれません。
日本には30地域の国立公園がありますが、1934(昭和9)年3月16日から国立公園の指定がはじまり、1934年12月4日に中部山岳国立公園の一部として上高地も指定されました。穂高岳や立山などの3000メートル級の日本アルプスの山々があり、新潟、富山、長野、岐阜の四県にまたがる広大な公園となっています。特に上高地は、アプローチがいいことと景観の素晴らしさ、そして施設の充実もあって、登山客だけでなく観光客も多数集めています。
上高地の観光名勝については、いろいろな人が多数書かれているでしょうから、少し違った視点で述べましょう。上高地の風光明媚とはかけ離れたある小さい場所からです。ウエストン碑からです。
ウエストン碑は、上高地の中心である河童橋を渡り、右岸側を下流に少し歩くとあります。森の木々の影に隠れた岩場に、ひっそりとあります。ウエストンは、日本滞在中に、補高や槍ヶ岳などアルプスを歩き、近代的な登山を日本の持ち込ました。そして「日本アルプスの登山と探検」という紀行文で、日本アルプスを世界に紹介しました。ウエストンの喜寿(77歳)を祝って、レリーフがつくられました。現在のレリーフは二代目だそうです。
ウエストン碑は短時間でめぐる観光コースでもあり、観光客も多数訪れるところです。今回、取り上げるのは、ウエストンには申し訳ありませんが、レリーフ本体ではなく、レリーフを埋め込んだ岩石です。レリーフが埋められているのは、滝谷花崗閃緑岩という岩石です。
花崗閃緑岩とは、花崗岩と閃緑岩の中間の化学組成をもつ岩石です。花崗岩とくらべて有色の鉱物である黒雲母や角閃石などが多くなり、やや黒っぽくなります。
信州大学の原山さんは、この滝谷花崗閃緑岩が、地表に顔を出している花崗岩類では、世界でもっとも若いことを、1992年に報告しています。形成年代は、140万年前です。日本でも、花崗岩類がいろいろなところから見つかっていますが、これほど若いものはありません。花崗岩類は大陸や列島の地殻を作っている岩石で、列島の形成史で重要な意味を持ちます。
そもそも花崗岩は地下深部でマグマがゆっくりと冷え固まったものです。ですから、形成時には地下深部にあったものが、地表に顔をだすようになるには、それなりの地質学的作用が必要となります。
日本の多くの花崗岩は、上にあった岩石類が浸食を受けて削剥される作用で露出します。削剥が激しい場は、大地が上昇し山が形成されているところです。現在険しい山脈があることろは、削剥が激しいところとなります。日本アルプスは、まさにそんなところです。
原山さんたちは、日本アルプスは、230万~150万年前と130万年前以降の2度にわたって激しい隆起があったことも明らかにしてきました。
上昇の要因のひとつは火山です。北アルプスの後立山連峰には200~160万年前に活動した火山があります。穂高岳は、火山岩(穂高安山岩と呼ばれる溶結凝灰岩)でできていますが、176万年前には超大型の火山噴火があり、東西に流れた火砕流(丹生川火砕流)が高山盆地や松本盆地を埋めてしまいました。
上昇のもうひとつの要因は、断層などの地殻の運動です。もともと直立していたカルデラ(火山噴出にともなっておこる陥没)が、今では60°から70°も東に倒れていることがわかってきました。その傾斜を起こした運動は、東から西に低角度でずれていく衝上断層(スラスト)によるものだと考えられ、約130万年前には動き始めていたようです。
その断層が活動したころ、激しい火山活動をこしていたマグマは、深部にまだ溶けたままありました。マグマの浅部や周辺の一部は冷え固まってたでしょうが、深部にはまだ固まっていないマグマがありました。
衝上断層で切られ、持ち上げられた滝沢花崗閃緑岩ですが、その深部にはマグマがあり、地下3~4kmには熱いまま、まだ固まらなかったようです。衝上断層でマグマが上昇させら、上の花崗閃緑岩も持ち上げられてきたと考えられます。このマグマが固まったものが滝沢花崗閃緑岩だというのです。
激しい火山活動とスラストによる運動、それに伴うマグマ自身の再上昇が、世界で最も若い滝沢花崗閃緑岩を露出させたようです。
上高地は、あまりに観光地であり、そして景観が異質に見えるのですが、そこには大地の激しい活動、予想を裏切るような連鎖がありました。ウエストン碑のレリーフの土台になっている岩石には、そんな大地の歴史が刻まれていました。レリーフの土台の滝谷花崗閃緑岩は、大地の激しいレリーフを生み出す作用が働いていました。レリーフの土台は、大地のレリーフが顔を出したのです。
・当たり前・
今年の秋に上高地へいったのですが、2度目です。
一度目は上高地に宿をとってじっくりと見たのですが、
今回は、焼岳と、岳沢や梓川をみることが目的でした。
実は岳沢のカールの話を書く予定でした。
上高地でもっとも有名で目立つ景色は、
河童橋から梓川越しにながめた
前穂高の山並みでしょう。
その岩壁の前には、岳沢のカールが大きく広がっています。
この景観には誰もが息を呑みます。
でも、考えたた当たり前の題材すぎるような気がしました。
原山智・山本明著の『超火山「槍・穂高」
―地質探偵ハラヤマ 北アルプス誕生の謎を解く―』
(2003、山と渓谷社)
を思い出したので、
その話をもとに上高地の滝谷花崗閃緑岩を書くことにしました。
・雪虫・
思ったがほど気温が下がらない北海道です。
先日の日曜日は快晴で放射冷却で冷えそうでしたが、
それほどもでなく、昼間の日差しが暖かさをもたらします。
でも週末には、虫がいっぱい飛んでいるので
やっと雪虫が飛び始めたかと思いました。
よくみると綿毛がついていません。
雪虫は綿毛があるのに
先日の大量発生した虫にはありませんでした。
なんという種類なのでしょうか。
2012年10月15日月曜日
94 焼岳:主稜線上の火山
北アルプスの主稜線をなす焼岳を見にいきました。予定通り、飛騨側から間近に眺めることができました。稜線上の安房峠からも眺めるつもりでしたが、予定を変更しました。信州側のから焼岳を眺めることにしました。
9月9日から野外調査にでました。最近、大学の校務が非常に忙しくなり、1週間の調査期間をとるのがやっとでした。校務が厳しいほど、気分転換も必要だと思って、忙しさの隙間を縫って出かけました。準備もほどほどに、9月9日、千歳空港から富山空港に飛びました。富山空港からは、レンタカーでの移動です。
私が調査に出るときは、その地域で主にみたい地質の地点を決めて、それらをめぐるコースを決めて、日程にあわせて宿泊する宿を決めます。しかし、事前準備も、コースの様子も詳しく調べません。天候に左右されることもあるし、あまりコースを決めすぎると、無理してめぐってしまったり、予定外の見所や、思わぬ発見があっても、融通がきかなくなるからです。なんといっても先入観を持たないで、実物をみたいということがあります。ですから、最低限の情報しか収集しません。
最初の目的地は、北アルプスの焼岳(やけだけ)を見ることでした。もともと登ることは予定していません。見るだけです。ですから、西側(新穂高温泉側)の眺めのいいところからと、できれば安房峠の稜線から見れればと思っていました。時間や天候、交通手段に都合で、安房峠を行くか安房トンネルをいくか悩ましいところでした。まあ、現地で決めるつもりでした。上高地は当初、予定していませんでした。以前にもいったことがあるからです。
飛騨側から焼岳を見るために、岐阜県飛騨市神岡の宿をたって、新穂高温泉のロープウェイの駅に向かいました。平日でもあり、朝一番であったこと、紅葉には早く行楽シーズンとはずれていたので、道路は空いていました。しかし、海外からの団体客がバスで来ていたので、ロープウェイはかなり混んでいました。
ロープウェイの終点は西穂高への登山口にもなっていて、展望台もあります。展望台からの眺めはいいのですが、周囲を散策したのですが、木々があり展望が開けていません。展望台からの眺めがベストです。いった日は、あまり天気がよくなく、山には雲がかかって北側がよく見えませんでした。ですから穂高や槍ヶ岳を眺めることはできませんでした。しかし、展望台から東から南方向はよく見えました。目的である焼岳は間近に見ることできました。噴気も明瞭に見ることができました。
北アルプスは、飛騨山脈のことで、南の乗鞍岳から北に焼岳をとおり、穂高連峰から槍ヶ岳、烏帽子岳までが主稜線となります。そほこかに、立山連峰、後立山連峰、常念山脈などの山並みになります。焼岳は、主稜線の一部となっています。そして、アプローチのいい地となっています。
焼岳は、周辺に分布する火山群の一つであり、焼岳火山群と呼ばれています。安房(あぼう)峠(標高1790m)の北に位置するアカンダナ山(標高2019m)から、白谷(しらたに)山(標高2188m)、大棚(おおだな)山、焼岳(標高2455m)山、岩坪(いわつぼ)山(標高1899.5m)、割谷(わるだに)山(標高2224m)の火山からなります。
もちろんは主峰は、最高峰である焼岳です。焼岳は、信州(長野)側での呼び名であって、飛騨(岐阜)側では硫黄岳と呼ばれていました。しかし、近年では焼岳が定着しています。
焼岳火山群の中で、焼岳とアカンダナ火山では、噴火の記録も残っており、活火山になります。
アカンダナ火山は、1万年前よりあとに活動を始めました。この噴火によってたくさんの噴出物がでたため、山体が崩れて地すべりが起こりました。山頂の溶岩ドーム(アカンダナ円頂丘溶岩)と溶岩流(安房谷溶岩や安房峠溶岩)が見つかっています。さらに、6500年前までの活動によって、川がせき止められて、平湯の東にある安房平に湖ができました。
アカンダナ山は、2003年に活火山の見直し作業で、1万年前以降の火山活動があったことがわかったので、焼岳とは区別して活火山に指定された。
焼岳は、約2万年前から活動を開始し、現在も活動中の活火山です。溶岩ドームと溶岩流、それらの崩落に伴う火砕流堆積物が見つかっています。岩屑なだれ(黒谷岩屑なだれ堆積物)が起こったこともわかっています。
焼岳は、マグマが噴出したのは約2300年前です。この時の噴火は、上高地側から見える焼岳の部分や山頂の溶岩ドーム(焼岳円頂丘溶岩)ができました。周囲には、火山噴出物(中尾火砕流堆積物)がゆるやかな傾斜ができました。岐阜側の中尾温泉は、この火砕流の上にできています。
焼岳は、20世紀初頭(1907年から1939年にかけて)になって、激しい噴火をとなう活動を何度もしました。その後、1962年から翌年にかけて噴火では、焼岳の小屋が噴火で壊れて、小屋番をしていた数名が大けがを負いました。この噴火では、松本市でも火山灰が降りました。また、安房トンネルの工事に関連した道路工事で、中の湯で1995年に水蒸気爆発が起こり、その直後に泥流が発生して、作業員4名が亡くなっています。
焼岳の東側は、一大観光地である上高地が広がります。上高地の景観に、焼岳は少なからず影響を与えています。
焼岳の東のすぐ下には、上高地から流れる梓川(あずさかわ)があります。上高地から大正池までのゆったりとした流れが、そこより下流では急峻な地形となります。そのような大きな変化は、焼岳の噴火によってできました。
焼岳が噴火して、東に噴出物が流れると、梓川をせき止めることになります。有名なのは、1915(大正4)年の噴火で、現在の梓川がせき止められて、現在の大正池ができました。また、1962年や1995年の噴火でも、梓川を一時的ですがせき止めました。大正池のたおやかさは、焼岳の荒々しさによってできたのです。
焼岳は、規模は小さいですが、噴火を続けている活発な火山です。現在も山頂からは、噴気が出ています。
午前中は焼岳を西側からみました。午後は、悩んだ末、レンタカーを平湯の駐車所にとめて、バスで安房トンネルを通り、上高地にいきました。その途上に焼岳を東側から眺めました。そして、車窓から焼岳の姿を眺めました。
観光地として有名な大正池ですが、その名称は、大正4年の焼岳の噴火によってできたからです。今も噴気を上げている荒々しい焼岳が、大正池の西側に峻立しています。上高地に向かう険しい道も、焼岳の火山噴出物によるものです。北アルプスの奥深く上高地にも、火山があるのです。上高地の観光客や登山者のうち何人が、火山の存在に気づいているでしょうか。
上高地を見学した後、バスで平湯にもどりました。レンタカーで再度安房トンネルを通り、焼岳のふもとの中の湯温泉に泊まりました。残念ながら、翌日は雨で、焼岳をもう眺めることはできませんでした。
・巡検・
ある地域の地質を見て回ることを巡検と呼んでいます。
学会などでは、その地域を研究している地質学者が
案内者となって、めぐることが多いのですが、
私は、主に一人で巡検しています。
このエッセイでも何度か紹介したかと思いますが、
私は、代表的な地質の現場で、
事前に資料を集めることなくでかけます。
それは、先入観なしにじっくり眺めてたいと
考えてのことです。
帰ってきてから、資料を収集します。
まずは、個人で心ゆくまで
眺めていることにしています。
効率は悪いのですが、
新鮮な味わいができます。
見逃した場所やもっと優先度が高いところもあったりもします。
でも、そんな場がいくつもあるのなら、
再度そこに行けばいいだけです。
富山には何度がいっていますが、
今回のコースを富山からはじめたのは、
そんな見残しがあったからです。
もちろん、今回もいくつか見残していますが。
・上高地再訪・
実は今回の調査には、上高地の訪問は
予定に入っていませんした。
もともと、安房峠を通って、焼岳を眺めたいと考えていました。
しかし、山並みを見るには天気も悪そうだし、
トンネルも通りたいしというので、
午後は思い切って予定を変更して、
上高地に出かけることにしました。
翌日チャンスがあれば、
安房峠に戻ることも考えていましたが、
残念ながら雨でした。
まあ、次の機会ということで。
9月9日から野外調査にでました。最近、大学の校務が非常に忙しくなり、1週間の調査期間をとるのがやっとでした。校務が厳しいほど、気分転換も必要だと思って、忙しさの隙間を縫って出かけました。準備もほどほどに、9月9日、千歳空港から富山空港に飛びました。富山空港からは、レンタカーでの移動です。
私が調査に出るときは、その地域で主にみたい地質の地点を決めて、それらをめぐるコースを決めて、日程にあわせて宿泊する宿を決めます。しかし、事前準備も、コースの様子も詳しく調べません。天候に左右されることもあるし、あまりコースを決めすぎると、無理してめぐってしまったり、予定外の見所や、思わぬ発見があっても、融通がきかなくなるからです。なんといっても先入観を持たないで、実物をみたいということがあります。ですから、最低限の情報しか収集しません。
最初の目的地は、北アルプスの焼岳(やけだけ)を見ることでした。もともと登ることは予定していません。見るだけです。ですから、西側(新穂高温泉側)の眺めのいいところからと、できれば安房峠の稜線から見れればと思っていました。時間や天候、交通手段に都合で、安房峠を行くか安房トンネルをいくか悩ましいところでした。まあ、現地で決めるつもりでした。上高地は当初、予定していませんでした。以前にもいったことがあるからです。
飛騨側から焼岳を見るために、岐阜県飛騨市神岡の宿をたって、新穂高温泉のロープウェイの駅に向かいました。平日でもあり、朝一番であったこと、紅葉には早く行楽シーズンとはずれていたので、道路は空いていました。しかし、海外からの団体客がバスで来ていたので、ロープウェイはかなり混んでいました。
ロープウェイの終点は西穂高への登山口にもなっていて、展望台もあります。展望台からの眺めはいいのですが、周囲を散策したのですが、木々があり展望が開けていません。展望台からの眺めがベストです。いった日は、あまり天気がよくなく、山には雲がかかって北側がよく見えませんでした。ですから穂高や槍ヶ岳を眺めることはできませんでした。しかし、展望台から東から南方向はよく見えました。目的である焼岳は間近に見ることできました。噴気も明瞭に見ることができました。
北アルプスは、飛騨山脈のことで、南の乗鞍岳から北に焼岳をとおり、穂高連峰から槍ヶ岳、烏帽子岳までが主稜線となります。そほこかに、立山連峰、後立山連峰、常念山脈などの山並みになります。焼岳は、主稜線の一部となっています。そして、アプローチのいい地となっています。
焼岳は、周辺に分布する火山群の一つであり、焼岳火山群と呼ばれています。安房(あぼう)峠(標高1790m)の北に位置するアカンダナ山(標高2019m)から、白谷(しらたに)山(標高2188m)、大棚(おおだな)山、焼岳(標高2455m)山、岩坪(いわつぼ)山(標高1899.5m)、割谷(わるだに)山(標高2224m)の火山からなります。
もちろんは主峰は、最高峰である焼岳です。焼岳は、信州(長野)側での呼び名であって、飛騨(岐阜)側では硫黄岳と呼ばれていました。しかし、近年では焼岳が定着しています。
焼岳火山群の中で、焼岳とアカンダナ火山では、噴火の記録も残っており、活火山になります。
アカンダナ火山は、1万年前よりあとに活動を始めました。この噴火によってたくさんの噴出物がでたため、山体が崩れて地すべりが起こりました。山頂の溶岩ドーム(アカンダナ円頂丘溶岩)と溶岩流(安房谷溶岩や安房峠溶岩)が見つかっています。さらに、6500年前までの活動によって、川がせき止められて、平湯の東にある安房平に湖ができました。
アカンダナ山は、2003年に活火山の見直し作業で、1万年前以降の火山活動があったことがわかったので、焼岳とは区別して活火山に指定された。
焼岳は、約2万年前から活動を開始し、現在も活動中の活火山です。溶岩ドームと溶岩流、それらの崩落に伴う火砕流堆積物が見つかっています。岩屑なだれ(黒谷岩屑なだれ堆積物)が起こったこともわかっています。
焼岳は、マグマが噴出したのは約2300年前です。この時の噴火は、上高地側から見える焼岳の部分や山頂の溶岩ドーム(焼岳円頂丘溶岩)ができました。周囲には、火山噴出物(中尾火砕流堆積物)がゆるやかな傾斜ができました。岐阜側の中尾温泉は、この火砕流の上にできています。
焼岳は、20世紀初頭(1907年から1939年にかけて)になって、激しい噴火をとなう活動を何度もしました。その後、1962年から翌年にかけて噴火では、焼岳の小屋が噴火で壊れて、小屋番をしていた数名が大けがを負いました。この噴火では、松本市でも火山灰が降りました。また、安房トンネルの工事に関連した道路工事で、中の湯で1995年に水蒸気爆発が起こり、その直後に泥流が発生して、作業員4名が亡くなっています。
焼岳の東側は、一大観光地である上高地が広がります。上高地の景観に、焼岳は少なからず影響を与えています。
焼岳の東のすぐ下には、上高地から流れる梓川(あずさかわ)があります。上高地から大正池までのゆったりとした流れが、そこより下流では急峻な地形となります。そのような大きな変化は、焼岳の噴火によってできました。
焼岳が噴火して、東に噴出物が流れると、梓川をせき止めることになります。有名なのは、1915(大正4)年の噴火で、現在の梓川がせき止められて、現在の大正池ができました。また、1962年や1995年の噴火でも、梓川を一時的ですがせき止めました。大正池のたおやかさは、焼岳の荒々しさによってできたのです。
焼岳は、規模は小さいですが、噴火を続けている活発な火山です。現在も山頂からは、噴気が出ています。
午前中は焼岳を西側からみました。午後は、悩んだ末、レンタカーを平湯の駐車所にとめて、バスで安房トンネルを通り、上高地にいきました。その途上に焼岳を東側から眺めました。そして、車窓から焼岳の姿を眺めました。
観光地として有名な大正池ですが、その名称は、大正4年の焼岳の噴火によってできたからです。今も噴気を上げている荒々しい焼岳が、大正池の西側に峻立しています。上高地に向かう険しい道も、焼岳の火山噴出物によるものです。北アルプスの奥深く上高地にも、火山があるのです。上高地の観光客や登山者のうち何人が、火山の存在に気づいているでしょうか。
上高地を見学した後、バスで平湯にもどりました。レンタカーで再度安房トンネルを通り、焼岳のふもとの中の湯温泉に泊まりました。残念ながら、翌日は雨で、焼岳をもう眺めることはできませんでした。
・巡検・
ある地域の地質を見て回ることを巡検と呼んでいます。
学会などでは、その地域を研究している地質学者が
案内者となって、めぐることが多いのですが、
私は、主に一人で巡検しています。
このエッセイでも何度か紹介したかと思いますが、
私は、代表的な地質の現場で、
事前に資料を集めることなくでかけます。
それは、先入観なしにじっくり眺めてたいと
考えてのことです。
帰ってきてから、資料を収集します。
まずは、個人で心ゆくまで
眺めていることにしています。
効率は悪いのですが、
新鮮な味わいができます。
見逃した場所やもっと優先度が高いところもあったりもします。
でも、そんな場がいくつもあるのなら、
再度そこに行けばいいだけです。
富山には何度がいっていますが、
今回のコースを富山からはじめたのは、
そんな見残しがあったからです。
もちろん、今回もいくつか見残していますが。
・上高地再訪・
実は今回の調査には、上高地の訪問は
予定に入っていませんした。
もともと、安房峠を通って、焼岳を眺めたいと考えていました。
しかし、山並みを見るには天気も悪そうだし、
トンネルも通りたいしというので、
午後は思い切って予定を変更して、
上高地に出かけることにしました。
翌日チャンスがあれば、
安房峠に戻ることも考えていましたが、
残念ながら雨でした。
まあ、次の機会ということで。
2012年9月15日土曜日
93 恵庭:保護と破壊
軽石を求めて、ある夏の日に、清流を遡りました。河原では火山噴出物が多く、望んているような軽石が見つかりませんでした。清流沿いの崖から、軽石を大量に含んでいる地層がありました。軽石から、人による自然保護と自然による自然破壊について考えました。
以前、恵庭の漁川(いざりがわ)の上流に出かけました。ある小学校の出前授業を依頼されたためです。授業の教材に使うために、軽石を採ってくる必要があったからです。
軽石(pumice)は、火山噴出物の一種で、穴が多数あいている石です。岩石の部分の比重は、水より大きいのですが、穴が多数あいていると、浮力が大きくなり浮きます。名前の通り、見かけよりずっと軽く、水に浮くものもあります。海岸を歩いていると、場所によっては、多数の軽石が打ち上げられていることがあります。そんな軽石を漁川で探そうとしました。源流は恵庭(えにわ)岳です。
軽石は、マグマにガスの成分が多く含まれていて、マグマが地表に飛び出した時、地下の圧力から開放されたのと、マグマが岩石として固まる時、気体の成分が分離し石の中にガスの部分として残ります。火山岩に、ガスの穴が空くことを発砲といいます。ガスの成分は、主に水蒸気や二酸化炭素などです。しかし、時間がたてば、ガスは抜けていき、穴だけが残ります。
ガスが多すぎると、噴火時に岩石がばらばらに壊れてしまうことがあります。このようなものが細かい火山灰となります。
軽石は、白っぽいものにたいして用います。黒っぽいものには、スコリア(scoria)という名称があります。火山岩の色は、マグマの性質によっています。マグマの主成分である二酸化珪素(SiO2)が、多ければ白っぽくなり、少ないと黒っぽくなります。中間だと灰色になります。岩石の名称としては、白っぽいものは流紋岩やデイサイトと呼び、灰色を安山岩、黒っぽいものを玄武岩といいます。
軽石も詳しくみると、いろいろな模様が織りなす世界(岩石組織と呼びます)があることがわかります。岩石の部分にも、いろいろなサイズ、種類の結晶がみえます。
マグマが地下のマグマだまりにあったとき、ゆっくりと冷えていくと、マグマの中の結晶が生まれ、成長していきます。結晶は、マグマだりの冷却過程を記録しています。また、マグマのまま飛び出した部分は、急激にできた結晶や、結晶化する暇もなく非晶質(ガラスと呼びます)のまま固まることがあります。そして、ガラスが繊維上に引き伸ばされていることもあります。まるでマグマが液体から固体へ変化するときの状態を反映しているような模様となっています。
火山噴火の様子をかいま見るために、軽石はおもしろい素材です。風化を受けていない軽石を手に入れるためには、「最近」噴火した火山の麓にいく必要があります。「最近」とは、火山地質学では、1万年前くらいから現在までの間を意味します。これは、活火山の定義にもなっていますが、1万年以内に活動したか、現在活動中の火山を「活火山」と定義しています。日本には、現在の110個の「活火山」が指定され監視されています。
北海道には、いくつも活火山がありますが、我が家から近いところで、風化を受けていない軽石を採るために、漁川で軽石を探すことにしました。
恵庭岳は、支笏カルデラをつくった巨大の火山の一部になっています。もちろん恵庭岳の火山活動も、支笏カルデラ火山の一連の活動といえます。
支笏カルデラ火山は、大量の火砕流を放出し、周辺に火砕流台地を形成しました。安山岩からデイサイト、流紋岩までの性質で、軽石をつくるマグマです。4~5万年前に、現在支笏湖になっているカルデラができました。その後も、火山活動が継続して、樽前、風不死、恵庭岳の火山が形成されました。
恵庭岳は、約1万5000年前には山体は形成されていたと考えられていますが、あまり詳しく調べられていません。1994年に中川光弘たちの研究によって、「ほんの最近」まで活動していたことがわかってきました。
中川さんたちの論文によれば、2200~2000年前に火山灰の放出しています。これだけでも、活火山の条件を満たしています。さらに、17世紀には山頂の東側からの水蒸気爆発と山体を崩壊するような噴火をおこしています。その後も150年間に、少なくとも2回の水蒸気爆発と土石流が起こっていることがわかってきました。
そして、恵庭岳は1991年に活火山に指定されました。
ちなみに17世紀には、支笏カルデラ火山の樽前山、洞爺湖この有珠山、道南の駒ケ岳もそれぞれ長い休止期をへて、噴火活動を開始しています。北海道の火山全体が非常に活発になった時期でもありました。
恵庭岳は、今も山頂から噴気を出しています。火口は、17世紀の火山噴火によってできたものです。噴火の後、300年ほどの間に、ほとんどの場所は、植生が回復しています。ただし、新しい火山噴出物でできた急斜面は侵食が激しく地肌を剥きだしています。もちろん火口は、今も植生は殆どありません。
1972年に札幌でおこわれた冬季オリンピックのとき、恵庭岳の山頂から南西に向きの斜面が、アルペンスキーの滑降のコースとなりました。コース設営のために、樹木が伐採されました。その後は植林をすることで造成が許可された経緯があります。オリンピックで環境問題が表沙汰になった最初の例となりました。
滑降コースも30年たった今では、植林によって深い緑に覆われて、その痕跡はほとんどみえません。ただし、Googleの航空写真で見ると、植林のあとが色の違いとして少し見え隠れしますが。
地質学の時間スケールから見ると、30年前の人為的な破壊より、300年前の破壊のほうが大きく思えます。人為的営為など、ひとつの噴火で、もろくも崩れ去ります。
恵庭岳は、大都市札幌からも近く、外輪山の北西側は札幌市域になっています。噴火口から札幌の中心街まで、30kmほどしか離れていません。もし、噴火があれば、周辺都市で大きな被害が出ると考えられます。恵庭岳の麓や支笏湖畔には温泉旅館もあります。恵庭市、千歳市もすぐ近くです。
これは、札幌だけの状況ではありません。日本では、大きな都市が活火山の影響を受ける位置にあることは、地図をみればすぐに分かります。
その現状に目をそむけてはいけません。火山噴火を止めることはできません。しかし、噴火予知が進めば、災害から避難することができるはずです。一番大事な人命を守ることは、可能になるはずです。火山などの自然災害とも共存するしかないところに私たちは住んでいるのです。
漁川沿いの崖で、軽石の堆積物の地層があったので、その地層から「これぞ軽石」とよべるものを、いくつか採取しました。それらは軽石らしく水に浮きます。他にも、軽石にもいろいろあることを示すための試料も採取しました。穴がすべてつながるほど開いたものは、軽く最初は浮きますが、しばらくすると水が内部に入り込んで沈んでしまいます。また、発砲が少ないものも、岩石の大きな比重のために沈みます。そんな軽石の多様性を見えるように選びました。
軽石をとった崖も人為でつくられらものです。取り尽くせばその崖の軽石はなくなりますが、火山噴火で飛び散った火山噴出物は大量です。掘り尽くすことはできません。場所を変えればもっと大量の軽石はあります。
人の営為など、一つの噴火であったというまに消してしまいます。植林のあとさえあっという間に消えることでしょう。これは自然による「自然破壊」と呼ぶべきものでしょうか。自然現象というべきでしょうか。人による自然保護、自然による「自然破壊」、悩ましい問題です。
・悩ましい問題・
大地(地質学的)の歴史。
自然の歴史。
今も読み取られ続ける噴火の歴史。
過去の人為の歴史。
過去に犯した失敗の歴史。
失敗の補修の歴史。
あったというまの破壊の歴史。
「歴史」という言葉にも
いろいろな時間、空間のスケールがあります。
それをごっちゃにして考えると混乱してきます。
別々に考えると連携できません。
悩ましい問題です。
・予約システム・
14日まで信州、新潟、山形まで調査に出ていました。
富山空港から入り秋田空港から帰ってきます。
その間はレンタカーを使用します。
このエッセイは、実際には調査に出る前に、書いておいて、
発送手続きを発行しています。
まぐまぐのシステムで2週間先の予約が
できるので助かります。
以前、恵庭の漁川(いざりがわ)の上流に出かけました。ある小学校の出前授業を依頼されたためです。授業の教材に使うために、軽石を採ってくる必要があったからです。
軽石(pumice)は、火山噴出物の一種で、穴が多数あいている石です。岩石の部分の比重は、水より大きいのですが、穴が多数あいていると、浮力が大きくなり浮きます。名前の通り、見かけよりずっと軽く、水に浮くものもあります。海岸を歩いていると、場所によっては、多数の軽石が打ち上げられていることがあります。そんな軽石を漁川で探そうとしました。源流は恵庭(えにわ)岳です。
軽石は、マグマにガスの成分が多く含まれていて、マグマが地表に飛び出した時、地下の圧力から開放されたのと、マグマが岩石として固まる時、気体の成分が分離し石の中にガスの部分として残ります。火山岩に、ガスの穴が空くことを発砲といいます。ガスの成分は、主に水蒸気や二酸化炭素などです。しかし、時間がたてば、ガスは抜けていき、穴だけが残ります。
ガスが多すぎると、噴火時に岩石がばらばらに壊れてしまうことがあります。このようなものが細かい火山灰となります。
軽石は、白っぽいものにたいして用います。黒っぽいものには、スコリア(scoria)という名称があります。火山岩の色は、マグマの性質によっています。マグマの主成分である二酸化珪素(SiO2)が、多ければ白っぽくなり、少ないと黒っぽくなります。中間だと灰色になります。岩石の名称としては、白っぽいものは流紋岩やデイサイトと呼び、灰色を安山岩、黒っぽいものを玄武岩といいます。
軽石も詳しくみると、いろいろな模様が織りなす世界(岩石組織と呼びます)があることがわかります。岩石の部分にも、いろいろなサイズ、種類の結晶がみえます。
マグマが地下のマグマだまりにあったとき、ゆっくりと冷えていくと、マグマの中の結晶が生まれ、成長していきます。結晶は、マグマだりの冷却過程を記録しています。また、マグマのまま飛び出した部分は、急激にできた結晶や、結晶化する暇もなく非晶質(ガラスと呼びます)のまま固まることがあります。そして、ガラスが繊維上に引き伸ばされていることもあります。まるでマグマが液体から固体へ変化するときの状態を反映しているような模様となっています。
火山噴火の様子をかいま見るために、軽石はおもしろい素材です。風化を受けていない軽石を手に入れるためには、「最近」噴火した火山の麓にいく必要があります。「最近」とは、火山地質学では、1万年前くらいから現在までの間を意味します。これは、活火山の定義にもなっていますが、1万年以内に活動したか、現在活動中の火山を「活火山」と定義しています。日本には、現在の110個の「活火山」が指定され監視されています。
北海道には、いくつも活火山がありますが、我が家から近いところで、風化を受けていない軽石を採るために、漁川で軽石を探すことにしました。
恵庭岳は、支笏カルデラをつくった巨大の火山の一部になっています。もちろん恵庭岳の火山活動も、支笏カルデラ火山の一連の活動といえます。
支笏カルデラ火山は、大量の火砕流を放出し、周辺に火砕流台地を形成しました。安山岩からデイサイト、流紋岩までの性質で、軽石をつくるマグマです。4~5万年前に、現在支笏湖になっているカルデラができました。その後も、火山活動が継続して、樽前、風不死、恵庭岳の火山が形成されました。
恵庭岳は、約1万5000年前には山体は形成されていたと考えられていますが、あまり詳しく調べられていません。1994年に中川光弘たちの研究によって、「ほんの最近」まで活動していたことがわかってきました。
中川さんたちの論文によれば、2200~2000年前に火山灰の放出しています。これだけでも、活火山の条件を満たしています。さらに、17世紀には山頂の東側からの水蒸気爆発と山体を崩壊するような噴火をおこしています。その後も150年間に、少なくとも2回の水蒸気爆発と土石流が起こっていることがわかってきました。
そして、恵庭岳は1991年に活火山に指定されました。
ちなみに17世紀には、支笏カルデラ火山の樽前山、洞爺湖この有珠山、道南の駒ケ岳もそれぞれ長い休止期をへて、噴火活動を開始しています。北海道の火山全体が非常に活発になった時期でもありました。
恵庭岳は、今も山頂から噴気を出しています。火口は、17世紀の火山噴火によってできたものです。噴火の後、300年ほどの間に、ほとんどの場所は、植生が回復しています。ただし、新しい火山噴出物でできた急斜面は侵食が激しく地肌を剥きだしています。もちろん火口は、今も植生は殆どありません。
1972年に札幌でおこわれた冬季オリンピックのとき、恵庭岳の山頂から南西に向きの斜面が、アルペンスキーの滑降のコースとなりました。コース設営のために、樹木が伐採されました。その後は植林をすることで造成が許可された経緯があります。オリンピックで環境問題が表沙汰になった最初の例となりました。
滑降コースも30年たった今では、植林によって深い緑に覆われて、その痕跡はほとんどみえません。ただし、Googleの航空写真で見ると、植林のあとが色の違いとして少し見え隠れしますが。
地質学の時間スケールから見ると、30年前の人為的な破壊より、300年前の破壊のほうが大きく思えます。人為的営為など、ひとつの噴火で、もろくも崩れ去ります。
恵庭岳は、大都市札幌からも近く、外輪山の北西側は札幌市域になっています。噴火口から札幌の中心街まで、30kmほどしか離れていません。もし、噴火があれば、周辺都市で大きな被害が出ると考えられます。恵庭岳の麓や支笏湖畔には温泉旅館もあります。恵庭市、千歳市もすぐ近くです。
これは、札幌だけの状況ではありません。日本では、大きな都市が活火山の影響を受ける位置にあることは、地図をみればすぐに分かります。
その現状に目をそむけてはいけません。火山噴火を止めることはできません。しかし、噴火予知が進めば、災害から避難することができるはずです。一番大事な人命を守ることは、可能になるはずです。火山などの自然災害とも共存するしかないところに私たちは住んでいるのです。
漁川沿いの崖で、軽石の堆積物の地層があったので、その地層から「これぞ軽石」とよべるものを、いくつか採取しました。それらは軽石らしく水に浮きます。他にも、軽石にもいろいろあることを示すための試料も採取しました。穴がすべてつながるほど開いたものは、軽く最初は浮きますが、しばらくすると水が内部に入り込んで沈んでしまいます。また、発砲が少ないものも、岩石の大きな比重のために沈みます。そんな軽石の多様性を見えるように選びました。
軽石をとった崖も人為でつくられらものです。取り尽くせばその崖の軽石はなくなりますが、火山噴火で飛び散った火山噴出物は大量です。掘り尽くすことはできません。場所を変えればもっと大量の軽石はあります。
人の営為など、一つの噴火であったというまに消してしまいます。植林のあとさえあっという間に消えることでしょう。これは自然による「自然破壊」と呼ぶべきものでしょうか。自然現象というべきでしょうか。人による自然保護、自然による「自然破壊」、悩ましい問題です。
・悩ましい問題・
大地(地質学的)の歴史。
自然の歴史。
今も読み取られ続ける噴火の歴史。
過去の人為の歴史。
過去に犯した失敗の歴史。
失敗の補修の歴史。
あったというまの破壊の歴史。
「歴史」という言葉にも
いろいろな時間、空間のスケールがあります。
それをごっちゃにして考えると混乱してきます。
別々に考えると連携できません。
悩ましい問題です。
・予約システム・
14日まで信州、新潟、山形まで調査に出ていました。
富山空港から入り秋田空港から帰ってきます。
その間はレンタカーを使用します。
このエッセイは、実際には調査に出る前に、書いておいて、
発送手続きを発行しています。
まぐまぐのシステムで2週間先の予約が
できるので助かります。
2012年8月15日水曜日
92 登別:地獄の湯
夏休みの中頃、家族で登別温泉に出かけました。夏の期間、登別温泉では、イベントがおこなわれています。そのイベントは、噴火を模したものでしょうか、地獄の鬼が花火をおこなうというものです。登別は倶多楽火山群の一部となっています。つい最近(200年前)に噴火したことが分かってきました。
8月の夏休みに、登別に家族で出かけました。暑さもそれほどではなく、天気もなんとかもってくれ、登別の観光と温泉、そして食事を楽しむことができました。登別は、北海道の室蘭の近くで少し苫小牧寄りにいったところです。登別は、温泉として有名ですが、千歳空港からも1時間ほどでいけるので、本州の人にも馴染みのある温泉地ではないでしょうか。温泉以外の観光施設もいろいろあるので、2日くらい滞在しても十分見応えがあります。
大学の校務が忙しくなったのと、子供たちの予定がいろいろはいってくるので、なかなか家族ででかける予定が取れなくなってきました。なんとか、8月上旬、1泊2日ででかけました。登別は何度も出かけているところで、泊まっている宿も馴染みのあるところです。泊まった宿の温泉も、夏は温度がぬるめにしてあるのでしょうか、熱い湯が苦手の私も、何度も浸かることができました。
登別の温泉街を歩いて登ると、一番山側に地獄谷と呼ばれるところがあります。噴気を出しているところ、自噴する温泉が、いくつもあります。噴火活動が活発なので、植生はあまりありません。それを地獄のような景色と見たのでしょう、地獄谷と呼ばれています。地獄谷の中を通る木道があります。その木道に、夏の期間は、フットライトが点けられ、夜でも歩くことができます。木道の一番奥には、間欠泉があります。
間欠泉とは、一定時間ごとに水(温泉)が吹き出す現象です。地獄谷では、直径1mほどの池から温泉が吹き出しています。激しく立ち上がる噴出ではないので、間近で見ることでき、なかなか見ごたえがあります。温泉の池の中には、沈殿物の結晶がきれいに並んでいます。
間欠泉が地獄谷の源流になり、川に温泉水が流れ込んでいます。温泉ごとに溶けている化学成分が違うため、流れる温泉の沈積物が変わっていき、色の違う川底となっています。不思議な色の流れが地獄に彩りを与えています。
車で地獄谷の脇をとり抜けて、さらに奥に登って行くと、大湯沼(おおゆぬま)と奥の湯と呼ばれている温泉が湧きだす池があります。地獄谷のひと尾根越えたところになります。大湯沼の背後には、標高377mの日和山(ひよりやま)がそびえています。日和山の山頂からは、水蒸気の噴気が上がっています。
道をさらに奥まで進むと、倶多楽(クッタラ)湖があります。倶多楽湖から、日和山から地獄谷にかけては景観は、火山でよってできたものです。登別の噴気地帯も、倶多楽(クッタラ)火山群の一部となります。
倶多楽火山は、約8万年前から活動を始めました。8万年前から6万年前まで、比較的大きな噴火を何度も起こし、軽石を放出しました。地獄谷のもととなった山(地獄谷火砕丘と呼ばれています)が、この噴火できました。
6万年前から4万年前にかけて、3度の大噴火と、小規模の噴火、そして溶岩を流出する噴火もおこっています。この大規模な噴火で、カルデラができ、それが今のクッタラ湖となりました。
その後、小規模な火山活動が継続しています。約1万5000年前には、日和見山(潜在溶岩ドームと呼ばれます)ができました。倶多楽火山は、ここ8000年間に12回以上噴火していることがわかっています。現在30ヶ所以上の温泉の湧き出し口(源泉)がありますが、それらは火山活動の名残といえます。
倶多楽火山は、倶多楽湖のカルデラを中心として、その周囲の外輪山、外輪山のさらに外側に、橘(たちばな)池火口、日和山(溶岩ドームと呼ばれています)などがあります。倶多楽カルデラの西に、地獄谷が位置して、その下流に登別温泉があります。
倶多楽火山は最近噴火が解明されてきました。倶多楽火山の一部として、大湯沼や地獄谷も、新しい噴火でできた火口です。日和山、大湯沼、地獄谷を登別火山としています。一番最近の噴火は、約200年前ころに起こった登別火山です。正確な年代はわかっていませんが、有珠山を起源とする1663年の噴出物の上位にある噴出物が、この噴火のものだとされています。さらに、有珠山の噴出物の上にある腐植層の厚さから、約200年前ではないかと見積もられています。
最新の火山噴火は、かつては火口が1つだと考えられていたのですが、7ヶ所以上の火口からなるかなりの規模の噴火であったことがわかてきました。その痕跡は、日和山の山頂から大湯沼、裏地獄まで、北西から南東方向に火口の列として残されています。
登別火山も含め、倶多楽火山は、今後も噴火の危険性があります。もちろん活火山で、Cランク(活動度が低い活火山)になっています。
夜に祭りがあったので見に行くことができました。地獄谷では、夜に「地獄の谷の鬼花火」がおこなわれていました。6月1日に始まり、毎週、木曜と金曜日にだけ開催され、計19回の祭りです。私たちが宿泊したのは、最終日の前日の木曜日で天気にも恵まれて、見ることができました。3000人ほどの観光客が見物にきていました。狭いステージですが、なかなか見応えがありました。翌日のフィナーレの日は、雨でしたが「雨天決行」となり、2000名ほどの見学があったようです。地面が濡れているので立ち見だったようです。
本当なら大湯沼から日和山、そしてクッタラ湖をめぐってきたかったのですが、今回はいけませんでした。初日は、マリンパークの見学で時間をつかっていたため、2日目は伊達時代村を見に行く予定の時間が迫っていました。まあ、以前に何度かきていますので、よしとしましょうか。
・鬼花火・
地獄谷での鬼花火は、
いろいろ演出がされた見ごたえのあるものです。
湯鬼神(ゆきじん)とよばれる10体の鬼が
太鼓や鐘とたたき、
6体が手筒花火をするものです。
勇壮で華麗でした。
30分ほどのイベントですが、
最後に良い条件で見ることができてよかったです。
温泉街の夜店も冷やかしながら歩いて、
買い物もしてきました。
・暑さ寒さもお盆まで・
お盆になり、北海道の暑さも一段落です。
一雨ごとに涼しさを増してくるようです。
朝夕は爽快な気候となっています。
出歩くのにいい時期になりましたが、
お盆が開けると、小・中・高校がはじまります。
次男の小学校は20日から
長男の中学校は21日からはじまります。
いずれも2学期制となっていますので、
学期の始業式はないようです。
まあいきなり初日から
授業開始ということはないと思いますが。
8月の夏休みに、登別に家族で出かけました。暑さもそれほどではなく、天気もなんとかもってくれ、登別の観光と温泉、そして食事を楽しむことができました。登別は、北海道の室蘭の近くで少し苫小牧寄りにいったところです。登別は、温泉として有名ですが、千歳空港からも1時間ほどでいけるので、本州の人にも馴染みのある温泉地ではないでしょうか。温泉以外の観光施設もいろいろあるので、2日くらい滞在しても十分見応えがあります。
大学の校務が忙しくなったのと、子供たちの予定がいろいろはいってくるので、なかなか家族ででかける予定が取れなくなってきました。なんとか、8月上旬、1泊2日ででかけました。登別は何度も出かけているところで、泊まっている宿も馴染みのあるところです。泊まった宿の温泉も、夏は温度がぬるめにしてあるのでしょうか、熱い湯が苦手の私も、何度も浸かることができました。
登別の温泉街を歩いて登ると、一番山側に地獄谷と呼ばれるところがあります。噴気を出しているところ、自噴する温泉が、いくつもあります。噴火活動が活発なので、植生はあまりありません。それを地獄のような景色と見たのでしょう、地獄谷と呼ばれています。地獄谷の中を通る木道があります。その木道に、夏の期間は、フットライトが点けられ、夜でも歩くことができます。木道の一番奥には、間欠泉があります。
間欠泉とは、一定時間ごとに水(温泉)が吹き出す現象です。地獄谷では、直径1mほどの池から温泉が吹き出しています。激しく立ち上がる噴出ではないので、間近で見ることでき、なかなか見ごたえがあります。温泉の池の中には、沈殿物の結晶がきれいに並んでいます。
間欠泉が地獄谷の源流になり、川に温泉水が流れ込んでいます。温泉ごとに溶けている化学成分が違うため、流れる温泉の沈積物が変わっていき、色の違う川底となっています。不思議な色の流れが地獄に彩りを与えています。
車で地獄谷の脇をとり抜けて、さらに奥に登って行くと、大湯沼(おおゆぬま)と奥の湯と呼ばれている温泉が湧きだす池があります。地獄谷のひと尾根越えたところになります。大湯沼の背後には、標高377mの日和山(ひよりやま)がそびえています。日和山の山頂からは、水蒸気の噴気が上がっています。
道をさらに奥まで進むと、倶多楽(クッタラ)湖があります。倶多楽湖から、日和山から地獄谷にかけては景観は、火山でよってできたものです。登別の噴気地帯も、倶多楽(クッタラ)火山群の一部となります。
倶多楽火山は、約8万年前から活動を始めました。8万年前から6万年前まで、比較的大きな噴火を何度も起こし、軽石を放出しました。地獄谷のもととなった山(地獄谷火砕丘と呼ばれています)が、この噴火できました。
6万年前から4万年前にかけて、3度の大噴火と、小規模の噴火、そして溶岩を流出する噴火もおこっています。この大規模な噴火で、カルデラができ、それが今のクッタラ湖となりました。
その後、小規模な火山活動が継続しています。約1万5000年前には、日和見山(潜在溶岩ドームと呼ばれます)ができました。倶多楽火山は、ここ8000年間に12回以上噴火していることがわかっています。現在30ヶ所以上の温泉の湧き出し口(源泉)がありますが、それらは火山活動の名残といえます。
倶多楽火山は、倶多楽湖のカルデラを中心として、その周囲の外輪山、外輪山のさらに外側に、橘(たちばな)池火口、日和山(溶岩ドームと呼ばれています)などがあります。倶多楽カルデラの西に、地獄谷が位置して、その下流に登別温泉があります。
倶多楽火山は最近噴火が解明されてきました。倶多楽火山の一部として、大湯沼や地獄谷も、新しい噴火でできた火口です。日和山、大湯沼、地獄谷を登別火山としています。一番最近の噴火は、約200年前ころに起こった登別火山です。正確な年代はわかっていませんが、有珠山を起源とする1663年の噴出物の上位にある噴出物が、この噴火のものだとされています。さらに、有珠山の噴出物の上にある腐植層の厚さから、約200年前ではないかと見積もられています。
最新の火山噴火は、かつては火口が1つだと考えられていたのですが、7ヶ所以上の火口からなるかなりの規模の噴火であったことがわかてきました。その痕跡は、日和山の山頂から大湯沼、裏地獄まで、北西から南東方向に火口の列として残されています。
登別火山も含め、倶多楽火山は、今後も噴火の危険性があります。もちろん活火山で、Cランク(活動度が低い活火山)になっています。
夜に祭りがあったので見に行くことができました。地獄谷では、夜に「地獄の谷の鬼花火」がおこなわれていました。6月1日に始まり、毎週、木曜と金曜日にだけ開催され、計19回の祭りです。私たちが宿泊したのは、最終日の前日の木曜日で天気にも恵まれて、見ることができました。3000人ほどの観光客が見物にきていました。狭いステージですが、なかなか見応えがありました。翌日のフィナーレの日は、雨でしたが「雨天決行」となり、2000名ほどの見学があったようです。地面が濡れているので立ち見だったようです。
本当なら大湯沼から日和山、そしてクッタラ湖をめぐってきたかったのですが、今回はいけませんでした。初日は、マリンパークの見学で時間をつかっていたため、2日目は伊達時代村を見に行く予定の時間が迫っていました。まあ、以前に何度かきていますので、よしとしましょうか。
・鬼花火・
地獄谷での鬼花火は、
いろいろ演出がされた見ごたえのあるものです。
湯鬼神(ゆきじん)とよばれる10体の鬼が
太鼓や鐘とたたき、
6体が手筒花火をするものです。
勇壮で華麗でした。
30分ほどのイベントですが、
最後に良い条件で見ることができてよかったです。
温泉街の夜店も冷やかしながら歩いて、
買い物もしてきました。
・暑さ寒さもお盆まで・
お盆になり、北海道の暑さも一段落です。
一雨ごとに涼しさを増してくるようです。
朝夕は爽快な気候となっています。
出歩くのにいい時期になりましたが、
お盆が開けると、小・中・高校がはじまります。
次男の小学校は20日から
長男の中学校は21日からはじまります。
いずれも2学期制となっていますので、
学期の始業式はないようです。
まあいきなり初日から
授業開始ということはないと思いますが。
2012年7月15日日曜日
91 津軽平野:お岩木の麓から
6月の津軽平野は、水を張られた田んぼに植えられた稲がきれいでした。田んぼごしにみえる岩木山は、雄姿ながら雲の上に霞んでい見えました。ゆったりと流れる津軽平野の時間を、出張の合間に堪能しました。
今年の6月中旬に、青森県五所川原に出張しました。もともと1泊の予定でしたが、帰りの飛行機の便がとれずに、2泊するか、秋田空港から帰るかの選択を余儀なくされました。所用は半日ですむのに、3日もかけるのは辛いので、秋田まで4時間ほどかけて移動することにして、1泊2日の出張のつもりでした。
青森からの最終便でキャンセル待ちをしていたのですが、幸いなことキャンセルがありチケットがとれました。
都会に住んでいると、交通の便がいいため、あまり時刻表を気にせずに公共の乗物が利用できます。来た便に乗ればいいのです。しかし、地方では、ある便に乗れないと数時間待つこと、あるいは待ち合わせに2、3時間できることがザラにあります。
今回の出張でもそうでした。長い待ち時間がありました。こんな時は心を切り替えて、のんびりとした時間の流れを楽しむことにしています。歩くのも苦ではないので、時間があれば、のんびりと歩いていきます。
五所川原からの目的地までは、津軽鉄道を利用しました。太宰治の出身地でもある金木(かなぎ)は観光地ですが素通りして、もっと先の小さな駅で降りました。そこま目的地のとなり町です。駅から目的地まで3km弱ほどしかありません。田んぼの中をのんびりと歩きました。時間はタップリとありました。
田んぼの中の舗装された、人通りはもちろん車の通りも少ない道を、30分ほど歩いて、目的地付近までたどり着きました。
私が五所川原にいったのは、初夏の暑い日でした。なかなか心地よい運動でしたが、汗をかきました。時間もたっぷりあったので、近くの神社で、一休みしました。田園風景と岩木山を眺めながら、汗の引くのを待ちました。
今回、五所川原にいったら、岩木山(いわきさん)がきれいに見ることを願っていました。とても見て回る時間ないので、眺めることでもできればと思っていました。天気は良かったのですが、雲がかかっていたり、霞んでいたりで、きれいには見えませでした。でも、2日間、所々で眺めることができました。
岩木山は、津軽富士や「お岩木やま」とも呼ばれ、歌にもでてきます。地元の人には親しまれているようです。五所川原は平野ですので、そこからみる岩木山は、平野の先にデンと居座った風格のある山容となっています。
岩木山のどっしりとした姿は、火山によってできたものです。裾野が広がっているため、津軽富士として「富士」の名前がつくのでしょう。このような形の火山は、成層火山(コニーデ型)と呼ばれています。何度も繰り返し噴火した結果できたものです。
岩木山は、古くから活動している火山で、年代測定で一番古いものは33±4万年前から10±5万年前(1±24万年前がありますが少々誤差が大きい)の測定値があります。
何度も、安山岩のマグマを噴出して、成層しながら火山として成長していきました。20万年前ころには、現在のような大きさの火山なっていたと考えられています。しかし、20万年前の大きな噴火によって、山体が大きく破壊されました。
その時に山体が壊れて流れた方向が、北東でした。崩れた大小の岩塊が裾野に流れ下りました。現在、その地域には、こんもりとした小さな山が多数あり、十腰内(とこしない)小丘群と呼ばれています。小さいな小山が多数ある地形を、流山(ながれやま)と呼んでいます。まさに山が壊れて流れたのものなのです。
その後も、火山噴火が続き、壊れた山体を覆って現在のようなきれない形になりました。そして、1万年前ほどからは、マグマの化学組成が少しかわり、安山岩からより白っぽい安山岩質からデイサイト質のマグマになりました。その結果、マグマの粘性が少し高くなりました。粘性の高いマグマが、溶岩ドームとして成長しました。これが現在山頂にあるドームです。
その後も現在まで、火山の活動記録が残されています。古くは1600(慶長5)年2月22日の噴火が記録されています。山頂の鳥の海火口で爆発が起こり、火山灰を飛ばしたとの記録があります。最近では、1978(昭和53)年5月6日に、活発な噴気活動が起こっています。岩木山は活火山なのです。
津軽平野は、岩木川沿いにできた沖積平野です。南部は白神山地から岩木山が境となり、北東には津軽山地があります。津軽平野の東側には、砂丘堆積物があり、岩木川が津軽平野の北側で日本海に流れ込み、そのあたりは三角州の地帯となっています。
津軽平野は、岩木川による沖積平野ですので、稲作には適しているようで、広々とした田んぼ広がっていました。そんな田んぼの中の道を歩きます。道の脇には、防風用の柵の支柱が延々と付けられています。私がいったのは6月でしたので、風よけの鉄板は外されていましたが、冬に日本海からふく風が強いようです。海岸沿いに小高い砂丘があるのですが、あまり風を防がないようです。
地元の人にきくと、冬の風の強い日には、地吹雪になり、前を向いて歩けないし、車でも前が見えず走れないといいます。夏の田園風景からは想像できませんが、季節風の強さ、冬の厳しさに思いを巡らせました。北海道に似た冬の寒さに思いを巡らせても、体の暑さはしばらく抜けませんでしたが。
・教育実習・
五所川原ヘは教育実習の指導にいきました。
学生が地元の小学校で
実習のお世話をしてもらっているので、
お願いする側として、
遠くても誰か行くようになっています。
今回は私のゼミの学生ではなかったのですが、
私が行く事になりました。
大学で1校目の講義を終えて、青森に向かいました。
前日に五所川原に着き、
翌日の朝からの研究授業に参加しました。
実習生の実家が近くにあるので、
地縁の深いところのようです。
小さい小学校で、あまり実習生もこないので、
手厚い指導を受けていました。
・立佞武多・
今回の五所川原出張の2日目は、
昼過ぎには仕事が終わり、
再び津軽鉄道に乗って、
五所川原にもどりました。
秋田空港からの帰札なら
五所川原で、のんびりとはできなかったのですが、
青森空港の最終便がとれたので、
たっぷり時間ができました。
空港までのバスにも2時間ほど時間がありました。
そこで、五所川原駅の近くに
「立佞武多(たちねぷた)の館」があったので、
見学することにしました。
青森はねぷたが盛んですが、
上に高くそびえるようなねぷたは五所川原固有で
近年では街に電線が貼りめぐされたのでやめていたものが、
設計図が見つかったので、
復元され、毎年練り歩くようになったようです。
その保管庫と展示場を兼ねた
「立佞武多の館」を見学したのです。
たちねぷたは、なかなか見事で、感動しました。
夏の祭りのころに見たいのですが、
なかなか行けそうもありません。
今年の6月中旬に、青森県五所川原に出張しました。もともと1泊の予定でしたが、帰りの飛行機の便がとれずに、2泊するか、秋田空港から帰るかの選択を余儀なくされました。所用は半日ですむのに、3日もかけるのは辛いので、秋田まで4時間ほどかけて移動することにして、1泊2日の出張のつもりでした。
青森からの最終便でキャンセル待ちをしていたのですが、幸いなことキャンセルがありチケットがとれました。
都会に住んでいると、交通の便がいいため、あまり時刻表を気にせずに公共の乗物が利用できます。来た便に乗ればいいのです。しかし、地方では、ある便に乗れないと数時間待つこと、あるいは待ち合わせに2、3時間できることがザラにあります。
今回の出張でもそうでした。長い待ち時間がありました。こんな時は心を切り替えて、のんびりとした時間の流れを楽しむことにしています。歩くのも苦ではないので、時間があれば、のんびりと歩いていきます。
五所川原からの目的地までは、津軽鉄道を利用しました。太宰治の出身地でもある金木(かなぎ)は観光地ですが素通りして、もっと先の小さな駅で降りました。そこま目的地のとなり町です。駅から目的地まで3km弱ほどしかありません。田んぼの中をのんびりと歩きました。時間はタップリとありました。
田んぼの中の舗装された、人通りはもちろん車の通りも少ない道を、30分ほど歩いて、目的地付近までたどり着きました。
私が五所川原にいったのは、初夏の暑い日でした。なかなか心地よい運動でしたが、汗をかきました。時間もたっぷりあったので、近くの神社で、一休みしました。田園風景と岩木山を眺めながら、汗の引くのを待ちました。
今回、五所川原にいったら、岩木山(いわきさん)がきれいに見ることを願っていました。とても見て回る時間ないので、眺めることでもできればと思っていました。天気は良かったのですが、雲がかかっていたり、霞んでいたりで、きれいには見えませでした。でも、2日間、所々で眺めることができました。
岩木山は、津軽富士や「お岩木やま」とも呼ばれ、歌にもでてきます。地元の人には親しまれているようです。五所川原は平野ですので、そこからみる岩木山は、平野の先にデンと居座った風格のある山容となっています。
岩木山のどっしりとした姿は、火山によってできたものです。裾野が広がっているため、津軽富士として「富士」の名前がつくのでしょう。このような形の火山は、成層火山(コニーデ型)と呼ばれています。何度も繰り返し噴火した結果できたものです。
岩木山は、古くから活動している火山で、年代測定で一番古いものは33±4万年前から10±5万年前(1±24万年前がありますが少々誤差が大きい)の測定値があります。
何度も、安山岩のマグマを噴出して、成層しながら火山として成長していきました。20万年前ころには、現在のような大きさの火山なっていたと考えられています。しかし、20万年前の大きな噴火によって、山体が大きく破壊されました。
その時に山体が壊れて流れた方向が、北東でした。崩れた大小の岩塊が裾野に流れ下りました。現在、その地域には、こんもりとした小さな山が多数あり、十腰内(とこしない)小丘群と呼ばれています。小さいな小山が多数ある地形を、流山(ながれやま)と呼んでいます。まさに山が壊れて流れたのものなのです。
その後も、火山噴火が続き、壊れた山体を覆って現在のようなきれない形になりました。そして、1万年前ほどからは、マグマの化学組成が少しかわり、安山岩からより白っぽい安山岩質からデイサイト質のマグマになりました。その結果、マグマの粘性が少し高くなりました。粘性の高いマグマが、溶岩ドームとして成長しました。これが現在山頂にあるドームです。
その後も現在まで、火山の活動記録が残されています。古くは1600(慶長5)年2月22日の噴火が記録されています。山頂の鳥の海火口で爆発が起こり、火山灰を飛ばしたとの記録があります。最近では、1978(昭和53)年5月6日に、活発な噴気活動が起こっています。岩木山は活火山なのです。
津軽平野は、岩木川沿いにできた沖積平野です。南部は白神山地から岩木山が境となり、北東には津軽山地があります。津軽平野の東側には、砂丘堆積物があり、岩木川が津軽平野の北側で日本海に流れ込み、そのあたりは三角州の地帯となっています。
津軽平野は、岩木川による沖積平野ですので、稲作には適しているようで、広々とした田んぼ広がっていました。そんな田んぼの中の道を歩きます。道の脇には、防風用の柵の支柱が延々と付けられています。私がいったのは6月でしたので、風よけの鉄板は外されていましたが、冬に日本海からふく風が強いようです。海岸沿いに小高い砂丘があるのですが、あまり風を防がないようです。
地元の人にきくと、冬の風の強い日には、地吹雪になり、前を向いて歩けないし、車でも前が見えず走れないといいます。夏の田園風景からは想像できませんが、季節風の強さ、冬の厳しさに思いを巡らせました。北海道に似た冬の寒さに思いを巡らせても、体の暑さはしばらく抜けませんでしたが。
・教育実習・
五所川原ヘは教育実習の指導にいきました。
学生が地元の小学校で
実習のお世話をしてもらっているので、
お願いする側として、
遠くても誰か行くようになっています。
今回は私のゼミの学生ではなかったのですが、
私が行く事になりました。
大学で1校目の講義を終えて、青森に向かいました。
前日に五所川原に着き、
翌日の朝からの研究授業に参加しました。
実習生の実家が近くにあるので、
地縁の深いところのようです。
小さい小学校で、あまり実習生もこないので、
手厚い指導を受けていました。
・立佞武多・
今回の五所川原出張の2日目は、
昼過ぎには仕事が終わり、
再び津軽鉄道に乗って、
五所川原にもどりました。
秋田空港からの帰札なら
五所川原で、のんびりとはできなかったのですが、
青森空港の最終便がとれたので、
たっぷり時間ができました。
空港までのバスにも2時間ほど時間がありました。
そこで、五所川原駅の近くに
「立佞武多(たちねぷた)の館」があったので、
見学することにしました。
青森はねぷたが盛んですが、
上に高くそびえるようなねぷたは五所川原固有で
近年では街に電線が貼りめぐされたのでやめていたものが、
設計図が見つかったので、
復元され、毎年練り歩くようになったようです。
その保管庫と展示場を兼ねた
「立佞武多の館」を見学したのです。
たちねぷたは、なかなか見事で、感動しました。
夏の祭りのころに見たいのですが、
なかなか行けそうもありません。
2012年6月15日金曜日
90 野幌丘陵:災害への心構え
今回は、3.11を忘れないために、私の忘備録にしようと思って書きました。同様の内容は、どこでも、だれでも、少し頑張れば手に入る情報です。そこでそれぞれの人が、自分にあった対処法を考えることが大切だと思います。このエッセイが、災害について考えてもらう一助になればと思っています。
私の自宅は丘陵の裾野にあります。その丘陵は、野幌丘陵といいます。北海道の石狩地方の石狩平野を南北に分断するかのようにあります。ただし、北部は石狩川が横切っていますが。
野幌丘陵は、札幌市を見下ろすようにあります。丘陵の北部は江別市、南部は北広島市、そして札幌市にも一部かかっています。丘陵の多くは、北海道立の自然公園である野幌森林公園となっています。丘陵周辺には、宅地もありますが、小中学校や大学(5つもあります)、民間や公立の研究施設、運動公園、図書館、博物館などが点在する文教地区となっています。
私の自宅は野幌丘陵の北の裾野にあり、勤務地の大学は中央部の西側の裾野にあります。私は、毎日、丘陵の西側をトラバースするように、3.5kmほどの道のりを、歩いて通っています。
丘陵の西の裾野ですから、西向きの浸食跡や河川がいくつもでき、緩やかなうねりを形成しています。トラバースをしていても、登り下りがみえます。歩いていると緩やかな傾斜は気になりませんが、自転車だと体感できます。かつては自転車で通勤をしていたので、登りで疲れ、下りで楽したことを思い出します。
丘陵とは、谷との高低差100m以下、標高も300m以下で、山地よりも小さく台地より大きな地形で、遠くから眺めると平坦な高まりにみえます。野幌丘陵は標高100mに満たない低いものですが、高まりを感じることできます。例えば、丘陵の開けた高まり(高い建物など)から低地を眺めると、見下ろした景観が広がります。また、低地側から眺めると、盛り上がった丘陵のシルエットがよくみえます。これは、周辺に平らな低地帯(石狩低地、標高数mほど)が、ひろがっているためでしょう。
野幌丘陵を詳しく見ると、裾野は東側が急傾斜で険しくなっており、西側は緩傾斜でうねりのある地形になっています。このような地形の特徴は、丘陵の北部でよくみられ、南部では支笏の山なみに連続するため、不明瞭になります。
丘陵を構成している地質は、土砂がたまった地層です。ただし、そのほとんどは、まだ固まっていない堆積物からできています。赤松ほか(1981)の論文によれば、下から第四紀更新世中期の竹山礫層(約20万年前)、更新世後期のもみじ台層(約12万年前)、小野幌層(約10万年前)、元野幌層(約4万年前)、更新世中期の厚別砂礫層・広島砂礫層(約3万年前)と呼ばれる地層が重なっているとされています。最初は海でたまった地層(海成層)で、後には湿地帯でたまった地層へと変化します。いずれの地層も新しい時代にたまった堆積物です。
その下には、古い時代(白亜紀からネオオジン(新第三紀とよばれていたもの))の岩石類(基盤岩類とよばれます)があります。新しい地層の下にある基盤岩類の存在は、物理的探査(重力探査、地震探査、ボーリング)によって確認されています。
基盤岩類の上に、新しい時代の堆積物が溜まっています。低地帯も似た堆積物からできていて、野幌丘陵はそれらの地層が盛り上がってできたと考えれます。盛り上がった原因は、地層の曲がりと断層によるものです。
地層の曲がりとは、褶曲(しゅうきょく)とよばれます。幾重にも平らに溜まった地層が、両側から押されると、波打つように曲がっていきます。そして時には割れることもあります。北海道は、太平洋プレートの沈み込みによって、常に圧縮されている場でもあります。ですから、褶曲ができやすくなっています。
盛り上がってできた褶曲(背斜)が野幌丘陵にあたります。褶曲の軸は、南北にのびています。ただし、背斜構造がみられるのは丘陵の北部で、南部はよくわかっていません。
また、丘陵の東側には、断層があることがわかっています。野幌丘陵の東の端にそって、ほぼ南北に走る4kmほどの断層が東に傾いて存在しています。野幌丘陵断層と呼ばれています。こんな新しい地層を切るような断層は活断層になります。一部、断層が見えているところがあるので、その存在は確認されています。丘陵の東側の斜面が急なのは、断層によって切れているためだったのです。
野幌丘陵の地層や背斜構造や断層は、当別の山地(樺戸山地南端)にまで連続しています。ただし、上でも述べましたが、丘陵の南の方は支笏の山地に連続し、火山灰が覆っているので、よくわからなくなっています。
活断層があれば、地震が心配になります。2010年に10月20日と12月2日には、札幌で地震が起こっています。この地震は、札幌の直下型で、震度はあまり大きくありません(震度3)でした。この地震は、札幌市内の地下にある(伏在(ふくざい)といいます)する活断層の一つ(月寒断層と呼ばれています)が活動したと考えられています。
野幌丘陵断層の活動記録は、今のところわかっていません。ですから、いつどの程度の規模で動くかは、断層の評価になってきます。北海道の防災会議によって2008年と2011年(3月)に被害想定がなされています。2011年3月になされたも推定ですが、これは東日本大震災が起こる前のものです。その想定によると、計算に用いられたのは、上端が深さ6km、長さ32km幅22kmで東に45度傾斜した断層が活動して、マグニチュード7.5、震度7の地震を起こしたというものです。その結果、木造住家全壊は最大17,549棟で、最小が17,068棟、死傷者は、最大で23,264名、最小で22,898名という非常に甚大な被害が予想されています。
少々不安になる数字です。我が家は、背斜軸の上、断層の西側にあたります。私は、そのような地に住み、暮らしていることになります。幸い、海からは遠いので津波への心配は少ないのですが、直下型の地震は、つねに考慮しておく必要があります。
自宅での対処は、耐震性や家具などの倒壊を最小限にすること、ライフラインの断絶に備えておくしかありません。
火災や盗難などにには、以前に備えをしました。昨年冬に、我が家の書棚をすべて作り付けにする工事をしてもらい、倒壊の危険を減らしました。少々お金がかかりましたが、目先の出費より生命を守ることが優先です。もちろん快適さも同時に満たしてもらっています。
今は、ライフライン、特に電気はどうしようかと悩んでいます。ソーラーパネルをつけたいのですが、なかなかまだ効率がよくなりません。パネルとその施工工事は、大きな出費となるので、おいおい進めていこうかと考えています。少しずつ備えていくしかありません。
私のことばかりを紹介しましたが、一度このようなことを考えてみてはどうでしょうか。防災、減災は、起こってしまってからでは手遅れです。3.11の教訓を忘れないためにも、自然災害への個人での備えをすすめましょう。ここで消化した、活断層、その被害予想などは、国や都道府県、市町村がハザードマップや被害想定、防災案を策定して、公開しています。読者の方も簡単に手に入りますから、それを見ながら、自分が住んでいるところを、もう少しよく知っておくことは必要ではないでしょうか。今回のエッセイがそのためになればと思っています。
・賢くなれ・
3.11以降、地震や津波に対する
今までの知識や想定は
大きな見直しが迫られています。
早急な見直しも、必要なのですが、
根本的な見直しも、必要かもしれません。
根本的な見直しとは、防災や災害に対する考え方自体です。
例えば、想定とは前提があり、
その前提でのみ適用可能なので、
想定外を想定して対処を考えるべきでしょう。
また、科学は、まだまだ無力であるので
想定外が当たり前と心得るべきでしょう。
そのような立場で、防災案を考えておく必要があります。
人は賢いのですから、それぞれが独自の判断を養うべきでしょう。
そんことを、最近、考えています。
・青森出張・
14日と15日は青森に出張です。
これは校務なのですが、
最近、大学の授業や校務が忙しく、
外に出る機会が減って来ました。
出るとしても気が抜けない落ち着かない外出ばかりです。
毎年9月にいってる地質調査も
今回はどうなるかわからない状態です。
なんとなく世知辛い世になって大変で
心が落ち着きません。
短時間の出張が癒してくれれば幸いなのですが。
私の自宅は丘陵の裾野にあります。その丘陵は、野幌丘陵といいます。北海道の石狩地方の石狩平野を南北に分断するかのようにあります。ただし、北部は石狩川が横切っていますが。
野幌丘陵は、札幌市を見下ろすようにあります。丘陵の北部は江別市、南部は北広島市、そして札幌市にも一部かかっています。丘陵の多くは、北海道立の自然公園である野幌森林公園となっています。丘陵周辺には、宅地もありますが、小中学校や大学(5つもあります)、民間や公立の研究施設、運動公園、図書館、博物館などが点在する文教地区となっています。
私の自宅は野幌丘陵の北の裾野にあり、勤務地の大学は中央部の西側の裾野にあります。私は、毎日、丘陵の西側をトラバースするように、3.5kmほどの道のりを、歩いて通っています。
丘陵の西の裾野ですから、西向きの浸食跡や河川がいくつもでき、緩やかなうねりを形成しています。トラバースをしていても、登り下りがみえます。歩いていると緩やかな傾斜は気になりませんが、自転車だと体感できます。かつては自転車で通勤をしていたので、登りで疲れ、下りで楽したことを思い出します。
丘陵とは、谷との高低差100m以下、標高も300m以下で、山地よりも小さく台地より大きな地形で、遠くから眺めると平坦な高まりにみえます。野幌丘陵は標高100mに満たない低いものですが、高まりを感じることできます。例えば、丘陵の開けた高まり(高い建物など)から低地を眺めると、見下ろした景観が広がります。また、低地側から眺めると、盛り上がった丘陵のシルエットがよくみえます。これは、周辺に平らな低地帯(石狩低地、標高数mほど)が、ひろがっているためでしょう。
野幌丘陵を詳しく見ると、裾野は東側が急傾斜で険しくなっており、西側は緩傾斜でうねりのある地形になっています。このような地形の特徴は、丘陵の北部でよくみられ、南部では支笏の山なみに連続するため、不明瞭になります。
丘陵を構成している地質は、土砂がたまった地層です。ただし、そのほとんどは、まだ固まっていない堆積物からできています。赤松ほか(1981)の論文によれば、下から第四紀更新世中期の竹山礫層(約20万年前)、更新世後期のもみじ台層(約12万年前)、小野幌層(約10万年前)、元野幌層(約4万年前)、更新世中期の厚別砂礫層・広島砂礫層(約3万年前)と呼ばれる地層が重なっているとされています。最初は海でたまった地層(海成層)で、後には湿地帯でたまった地層へと変化します。いずれの地層も新しい時代にたまった堆積物です。
その下には、古い時代(白亜紀からネオオジン(新第三紀とよばれていたもの))の岩石類(基盤岩類とよばれます)があります。新しい地層の下にある基盤岩類の存在は、物理的探査(重力探査、地震探査、ボーリング)によって確認されています。
基盤岩類の上に、新しい時代の堆積物が溜まっています。低地帯も似た堆積物からできていて、野幌丘陵はそれらの地層が盛り上がってできたと考えれます。盛り上がった原因は、地層の曲がりと断層によるものです。
地層の曲がりとは、褶曲(しゅうきょく)とよばれます。幾重にも平らに溜まった地層が、両側から押されると、波打つように曲がっていきます。そして時には割れることもあります。北海道は、太平洋プレートの沈み込みによって、常に圧縮されている場でもあります。ですから、褶曲ができやすくなっています。
盛り上がってできた褶曲(背斜)が野幌丘陵にあたります。褶曲の軸は、南北にのびています。ただし、背斜構造がみられるのは丘陵の北部で、南部はよくわかっていません。
また、丘陵の東側には、断層があることがわかっています。野幌丘陵の東の端にそって、ほぼ南北に走る4kmほどの断層が東に傾いて存在しています。野幌丘陵断層と呼ばれています。こんな新しい地層を切るような断層は活断層になります。一部、断層が見えているところがあるので、その存在は確認されています。丘陵の東側の斜面が急なのは、断層によって切れているためだったのです。
野幌丘陵の地層や背斜構造や断層は、当別の山地(樺戸山地南端)にまで連続しています。ただし、上でも述べましたが、丘陵の南の方は支笏の山地に連続し、火山灰が覆っているので、よくわからなくなっています。
活断層があれば、地震が心配になります。2010年に10月20日と12月2日には、札幌で地震が起こっています。この地震は、札幌の直下型で、震度はあまり大きくありません(震度3)でした。この地震は、札幌市内の地下にある(伏在(ふくざい)といいます)する活断層の一つ(月寒断層と呼ばれています)が活動したと考えられています。
野幌丘陵断層の活動記録は、今のところわかっていません。ですから、いつどの程度の規模で動くかは、断層の評価になってきます。北海道の防災会議によって2008年と2011年(3月)に被害想定がなされています。2011年3月になされたも推定ですが、これは東日本大震災が起こる前のものです。その想定によると、計算に用いられたのは、上端が深さ6km、長さ32km幅22kmで東に45度傾斜した断層が活動して、マグニチュード7.5、震度7の地震を起こしたというものです。その結果、木造住家全壊は最大17,549棟で、最小が17,068棟、死傷者は、最大で23,264名、最小で22,898名という非常に甚大な被害が予想されています。
少々不安になる数字です。我が家は、背斜軸の上、断層の西側にあたります。私は、そのような地に住み、暮らしていることになります。幸い、海からは遠いので津波への心配は少ないのですが、直下型の地震は、つねに考慮しておく必要があります。
自宅での対処は、耐震性や家具などの倒壊を最小限にすること、ライフラインの断絶に備えておくしかありません。
火災や盗難などにには、以前に備えをしました。昨年冬に、我が家の書棚をすべて作り付けにする工事をしてもらい、倒壊の危険を減らしました。少々お金がかかりましたが、目先の出費より生命を守ることが優先です。もちろん快適さも同時に満たしてもらっています。
今は、ライフライン、特に電気はどうしようかと悩んでいます。ソーラーパネルをつけたいのですが、なかなかまだ効率がよくなりません。パネルとその施工工事は、大きな出費となるので、おいおい進めていこうかと考えています。少しずつ備えていくしかありません。
私のことばかりを紹介しましたが、一度このようなことを考えてみてはどうでしょうか。防災、減災は、起こってしまってからでは手遅れです。3.11の教訓を忘れないためにも、自然災害への個人での備えをすすめましょう。ここで消化した、活断層、その被害予想などは、国や都道府県、市町村がハザードマップや被害想定、防災案を策定して、公開しています。読者の方も簡単に手に入りますから、それを見ながら、自分が住んでいるところを、もう少しよく知っておくことは必要ではないでしょうか。今回のエッセイがそのためになればと思っています。
・賢くなれ・
3.11以降、地震や津波に対する
今までの知識や想定は
大きな見直しが迫られています。
早急な見直しも、必要なのですが、
根本的な見直しも、必要かもしれません。
根本的な見直しとは、防災や災害に対する考え方自体です。
例えば、想定とは前提があり、
その前提でのみ適用可能なので、
想定外を想定して対処を考えるべきでしょう。
また、科学は、まだまだ無力であるので
想定外が当たり前と心得るべきでしょう。
そのような立場で、防災案を考えておく必要があります。
人は賢いのですから、それぞれが独自の判断を養うべきでしょう。
そんことを、最近、考えています。
・青森出張・
14日と15日は青森に出張です。
これは校務なのですが、
最近、大学の授業や校務が忙しく、
外に出る機会が減って来ました。
出るとしても気が抜けない落ち着かない外出ばかりです。
毎年9月にいってる地質調査も
今回はどうなるかわからない状態です。
なんとなく世知辛い世になって大変で
心が落ち着きません。
短時間の出張が癒してくれれば幸いなのですが。
2012年5月15日火曜日
89 黄金道路:地質学的必然性
北海道の中部の南端。襟裳と広尾を結ぶ海岸は、黄金道路と呼ばれ、ドライブコースとして近年知られるようになってきました。整備されたきれいな道で、トンネルが続くのですが、ときどきみえる海岸は、天気がよければきれいな景色でドライブを楽しめます。また、少々海が荒れてもトンネルや防波堤がしっかりと道路を守っているので、安心して走れる道です。でも、黄金道路には、観光ルートとは違った別の一面があります。
「黄金」という地名をもつところが、日本各地にあります。黄金は、「おうごん」や「こがね」と読みます。北海道でも、JRの室蘭本線で、室蘭より少し函館よりに黄金駅があり、もともとの地名に由来しています。また、正式地名ではなく、通称、俗称として、黄金○○というものも、多数あります。
地名の由来には、いろいろなものがあるでしょうが、黄金は名前の通り「金」に関係するものが多いのではないでしょうか。
今回の話題も「黄金」がつきます。地域ではなく道路の名称で、正式名称ではなく俗称ですが、この名の方が有名となっています。通称の由来は、「金(きん)」ではなく「金(かね)」によります。
国道336号は、浦河から襟裳岬をへて太平洋岸を釧路まで達する道路です。えりも町庶野(しょや)から広尾町音調津(おしらべつ)の33.5kmの間を、特に「黄金道路」と呼んでいます。そん間は、トンネルが次々と続く、きれいに舗装された道路になっています。
私は黄金道路を何度か通っていますが、路側帯が少なく、なかなか止まれないので、ついつい素通りしてしまっていました。年々整備されているようで、今ではトンネルも多くなり、走りやすくなりました、ますます止まりにくくなっています。
昨年通ったとき、黄金道路の襟裳側の入り口にあたる道路わきに、小さな公園がありました。気がついて、その公園に立ち寄りました。公園は少し高台になったところにあり、碑がつくられていました。公園の高台に登ると、北向きの海岸を眺めることができます。
黄金道路の走る海岸は、海にまでせり出したガケが延々と続いていることがわかります。新しくできたトンネルの脇に、壊れて破棄されたトンネルが見えます。そんな景観は、この海岸沿いの道路が、人と自然が戦っていることを示しているようです。
広尾から襟裳までは、切り立ったガケの連続の海岸で、山も深く厳しい地形のため、道路の建築が難しいところでした。海岸ぞいに道路があったのですが、断崖にはばまれているところは、山道を迂回するので、大変な行程だったようです。1982(明治2)年にはトンネルが開通したので、人馬の通行が一応可能となりました。ただ、海岸沿いの道も海が荒れるとすぐに通行が不能になり、改修、補修が必要になりました。交通の難所でもありました。
かろうじて陸路の交通があっただけで、物資運送の交通路にはなっていませんでした。かつて十勝と日高は距離が近いのに、日高山脈が立ちはだかっていたので、交流はほとんどできず、不自由をしていたようです。地域住民の要請を受けて、北海道が本格的な道路をつくることになりました。
道路の工事は、襟裳側からはじまります。調査がおこなわれ、1921(大正10)年には、道路工事が可能であることが示されましたが、地質や地形の状態から、非常に困難な工事が予想されました。そして、1923(大正12)年から工事が着工されました。
一方、広尾側は、少し遅れて1926(大正15)年に、工事をおこなうことは決定されたのですが、地元漁師(コンブ漁への影響など)の反対運動があり、1927(昭和2)年からの着工となりました。
断崖を削ったり、護壁やトンネルなどの工事がいたるところに必要でした。橋が22ヶ所、トンネルが17ヶ所、防波堤は25ヶ所、のべ6346mに達しました。多大な犠牲(18名宇の死者)を出しながらも、とうとう1934(昭和9)年10月末に、全線が完成します。膨大な経費(総工費945,503円、1mあたり28円20銭)を費やしての完成でした。当時の公務員の給料と比べると、月給分で1.3mほどしかつくれないほどの高額の工事費となっていました。まるで黄金を敷くような費用をかけてつくられた道路でした。これが「黄金道路」の由来です。
日高山脈を横ぎる内陸道はなかったため、完成当時は、日高地域と十勝地域を結ぶ唯一の道路となりました。各地で崩落、侵食などの災害が発生しましたが、軍事的にも重要だったので、復旧、改修工事が絶え間なくおこなれていました。
戦後になっても、1960(昭和35)年から1986(昭和61)年まで、大規模な改修工事がおこなわれ、多くの費用(約300億円)が費やされて、多数のトンネルや覆道がつくられています。その後も繰り替えし改修が続けられ費用が投入されています。
道路は整備がされ、景色も綺麗なのですが、今でも大雨が降ると、崩落危険箇所が多々あるため、もたびたび通行止めになります。通行止め回数が、道内の国道で最も多い区間でもあります。断崖となっている急斜面が多いため、崩落や斜面崩壊の危険性があり、実際に崩落も繰り返されています。特に大きな地震にときは、崩落が何度も起こっています。
黄金道路が、このように厳しいルートとなっているのは、地質の背景があるためにです。
日高山脈の東に広がる地層は、「中の川層群」と呼ばれていて、黄金道路のある海岸まで分布します。中の川層群は、古第三紀(暁新世、約6000万年前)の地層で、メランジュと整然層(通常の堆積層のこと)からなります。メランジュは、沈み込み帯の陸側で形成されたいろいろな岩石(チャート、砂岩、礫岩など)が混在したものです。また、黄金道路の北の方には、中の川層群に貫入している花崗岩類(約3500万年前)があります。堆積岩の一部は、この花崗岩の貫入によって熱変成作用(ホルンフェルスと呼ばれます)を受けています。
変成作用は、熱と圧力が加わることによって別の鉱物ができて、岩石の種類が変わったものです。圧力が加わる変成作用では、その圧力のかかり方で割れやすい方向が形成され、割れ目の方向で崩落が起こりやすくなります。熱による変成作用は、焼入れをするような作用で、堅固な岩石に変わっていきます。ホルンフェルスは、熱による変成作用によってできた変成岩の一般的な名称で、黒っぽく緻密で硬い岩石に変わります。ですから、ホルンフェルスになっている部分は硬いため、割れ目ができにくい岩石に変わります。
花崗岩もマグマが固まった深成岩のなので丈夫です。ただし風化をうけるとマサ化してくずれることはありますが、大きな固まりとしての崩落を起こすことはあまりないはずです。
ところが、日外(あぐい)さんたちによる2008年の調査報告によると、岩石を選ぶことなく、崩落は起きていることがわかります。近年20年ほどの間に発生した大きな崩落(100m2以上)28件の内訳は、花崗岩3件、堆積岩14件、ホルンフェルス11件となっています。花崗岩は少なめですが、いずれの岩石の分布地域でも崩落が起きていることになります。本来であれば、硬いホルンフェルスのところは崩落が起きないはずなのですが、なぜか起きています。
崩落は、岩石の割れ目にそって水や空気が入り、岩盤が緩んで、すべることで起きます。割れ目は、もともとの岩石にあった弱い部分が風化によって広がっていきます。実際に崩落の起きた場所周辺の岩石には、規則的な割れ目が多数できているようです。さらに、黄金道路沿いは、崖になっている急傾斜なので、海側に傾いた割れ目ができると、非常に壊れやすくなります。
まだ斜面崩壊の実態は、充分に解明されていませんが、これは地質的背景が大きく関与していると考えられます。
太平洋プレートの沈み込み部が、津軽海峡の東側で、大きく屈曲しています。その屈曲の北西延長にそって大きな断層地形があり、日高山脈の南延長が、襟裳岬沖で切れられているような地形があります。日高山脈の海への埋没にともなって、山脈の東裾野が、黄金道路のあたりで海に没しています。
海岸地形として十勝沖に急傾斜の大陸斜面があり、深い海底の渓谷も刻まれています。つまり、十勝沖は急激に深くなろうとしてる場に、高まりである日高山脈が接している形になっています。このような地質学的背景があれば、山は急激に崩れ落ちるはずです。崩壊のきっかけとなるのは、沈み込むプレートによって起こる地震です。海溝付近は、地質学的にも頻繁に地震が起こる場であります。
山と海の境界が、海岸線となり、黄金道路の位置するところもであります。崩落は大局にみれば、地質学的必然性によるものともいえます。人為的対処は短期間においては可能でしょうが、長期的に安定は望めないはずです。黄金道路は将来にわたっても、黄金道路となるのでしょうね。
・地震崩落・
黄金道路の崩落は地震によって頻発することが
上で述べた論文でも報告されています。
そこで3.11の地震による崩落を調べてみたのですが、
起こっていなかったようです。
地震後は、黄金道路間を通行止めにして
安全確認された後、通行可能になったようです。
今までの崩落対策が功を奏したようです。
黄金道路のある海岸線は、
山と陸の押し合い(プレート境界)の場であります。
今は安全は確保されているかもしれません。
長い目で見ると、日高山脈が海に引きずられているので
常に崩れているところでもあるのですが。
・空白地帯・
この月間のエッセイを書くに当たり、
今までどの地域を書てきたかを見て、
まだ取り上げていない地域を書くように心がけています。
そのため、ホームページの地図を眺めて考えます。
私の研究テーマや、居住地などの地域性から
書いている地域が偏っています。
集中して書いているのは、
北海道(居住地)、近畿(故郷)、四国(研究テーマ)
などです。
空いている地域を書くようにしているのですが、
行っていないところは書けません。
また、いったことがあるのですが、
書けない地域もあります。
そんな所へは、再度テーマをもって
出かけたいと考えています。
ところが、最近は出歩ける時間の確保が
大変になって来ました。
研究として調査に出るときは、
最近は四国が中心になります。
ですから、新しい地域を埋めるのはなかなか難しくなります。
しかし、今年は、さまざまな理由で
別の地域に行こうかと考えています。
2012年4月15日日曜日
88 鴨川デルタ:盆地と断層
今回は、京都の鴨川の川原から眺めた盆地の生い立ちについてです。盆地は、なぜ、盆地であるのか。時間が経てば、盆地は埋め立てられ、くぼみが消えていくはずです。しかし、今ある盆地は、低まりを維持しています。盆地の謎について考えました。
春休みに京都の実家へ帰省しました。私は一昨年から昨年にかけて、四国にサバティカル中に何度か帰省しましたが、家族は2年ぶりの京都となります。帰省したときは、いいチャンスですから、近郊をみて回ることにしています。今回は、大阪、京都、奈良へ出かけました。手軽に見てまれるところをまわり、何度かの帰省で、結構あちこち行っています。また、長男が研修旅行で京都、奈良、大阪の主だったところを見ているので、あまり選択肢はなく、見たいところをじっくりまわりました。大阪では通天閣と天王寺動物園を、京都では京都大学周辺を、奈良では奈良公園周辺でした。奈良公園は3度目になります。
そんな家族サービスが増えてきたため、なかなか自然の多いところ、露頭のあるところをみるチャンスは減ってきました。今回は京都の観光地のはずれの川原、鴨川デルタからのエッセイです。
京都は長く都として、政治や文化の中心となっていました。多くの人や富が集まり、海外や国内からの大量の物流がありました。京都は内陸の盆地にできた街なので、輸送経路として河川は重要となります。その動脈ともいうべき河川は、淀川でした。京都盆地へは、淀川の支流が利用されました。
かつて河川は運輸の動脈として利用されてきましたが、今では輸送路としての役割は終わりました。近年では、上道の水源や下水の排水路としての役割があります。また、災害を出さないたいめの治水も重要とされています。しかし、なんといっても、河川沿いは自然が豊かなので、憩いの場となります。
京都盆地には、大きな河川として西縁を流れる桂川と、南縁を流れる木津川、盆地を東から西に横切る宇治川があります。それらの河川が盆地の南西で合流して、淀川になります。淀川は、大阪平野の横切り大阪湾に流れ込みます。京都盆地の東側は、桂川の支流になる鴨川があります。京都の中心街は、桂川と鴨川に挟まれたところになります。
鴨川は、北西から流れてくる賀茂川、北東から流れてくる高野川が出町柳で合流したものです。鞍馬は、比叡山電鉄鞍馬線で高野川沿いに登っていくので、高野川の上流にあるように思えますが、鞍馬川は賀茂川に流れ込む川で、水系が別になります。高野川は、八瀬(やせ)から大原、そして滋賀へと遡れます。山あいでは、高野川はまっすぐな流路をとります。
賀茂川と高野川の合流部は鴨川デルタと呼ばれています。鴨川デルタは、三角形をしていますが、地理学でいう三角洲(デルタのこと)ではありません。
賀茂川も高野川も、盆地から上流は、険しい山あいを流れます。川は、急傾斜で狭隘な谷から、広くなだらかな京都盆地に出てきます。浸食・運搬から堆積へと、川の作用が変わります。盆地では、河川からの堆積物がたまり、より平坦な堆積平野を形成します。これが、京都盆地が成立した基本的な自然条件となります。
盆地がくぼちであり続けるためには、低くなりつづけている必要があります。相対的に見て山が高くなり続けるか、盆地が下がり続けるか、あるいは別の何らかの要因が必要になります。盆地があり続けるためには、要因は今も作用していなければなりません。
盆地とは、周りと比べて低くなっているところです。そのためには、高低差を生む必要があります。高低差は、岩石の浸食に対する強さによって形成されることがあります。もしそうなら、日本の地質は東西方向に伸びることが基本(注1)となっていますので、盆地も東西方向に延びたものになるずです。
ところが、京都盆地や周辺のくぼ地(琵琶湖、奈良盆地、大阪平野)などは、おおまかに見ると南北に伸びています。地質の並びとは明らかに違う形態となっています。ですから、地質以外の何らかの別の作用が、日本列島の営みとして、働いていることになります。地質構造を切るように高低差を生む作用が、断層なのです。
断層には、一度動いただけでその後は動かないものや、何度も活動しているものもあります。断層は規模もさまざまで、長さ(セグメントと呼ぶことがあります)も、顕微鏡サイズから、数百kmに達するものまでいろいろあります。現在も活動中の断層は、活断層と呼ばれます。断層の中には、地震を起こすもの(起震断層)や、地震によって形成されたもの(地震断層)もあります。活断層は、最近活動して、今後も活動する可能性のある断層とされています。最近とは難しい問題をはらんでいます。活動の期間はさまざまなものがあるのですが、下の注で示した活断層のデータベースでは、約10万年前以降の断層を扱っています。
盆地の縁には、現在も活動中の断層があることがわかります(注2)。複数の一連の活断層が、盆地の縁にあります。大きな活断層は、両側の地質も違っています。
京都盆地の東側の断層は、花折(はなおれ)断層(起震断層とされています)の一部で、北白川活動セグメントと呼ばれています。花折断層は、京都盆地から滋賀県西部まで延びている断層です。この断層にそって高野川は流れているため、山あいの流路がまっすぐだったのです。
花折断層は、右横ずれ断層だということがわかっています。右横ずれ断層とは、断層のどちらか側に立って見た時、断層の向こうの大地が右か左のどちらに動くかで判別します。花折断層は、京都盆地側からみると、山側が右(南)に向かって動くことになります。
花折断層はの東(山側)には、比叡山から大文字山にかけて山側に花崗岩(後期白亜紀の領家帯に属します)があります。明らかに違った地質です。活断層の変位以上の変化が起こっていると考えられます。花折断層は、今でこそ右横ずれの変位が大きのですが、盆地の形態を考えると、かつては上下方向のずれを生じていたはずです。
京都大学の裏、吉田神社のある吉田山は、100万年前くらいに盆地で溜まった地層が、断層で切られて持ち上げられたものです。
盆地の地下を調べると、十条あたりでは地下200mに、盆地の南端では700mあたりに基盤となる硬い岩石があることがわかっています。その上に、先ほどの吉田山と同じ100万年前くらいの地層がたまっています。80万年前の火山灰が地下240mでみつかっています。100万年ほどは、このような高低差をつくる活動が継続的におこっていると考えられます。
30万年前以降に変動が激しくなったと考えられていますが、それにしても、平均すれば年間1mmに満たないほどの小さな変動になります。しかし、大地は平均的な運動をするのではなく、断層を形成するような地震によって、あるとき一気に数mの変動が起きたはずです。盆地は、地震によってできた断層で、くぼみが維持されていることになります。現在の活動に隠れた歴史があったです。二重三重の複雑さが、京都盆地にはありそうです。
今回は子供たちの希望で、鴨川デルタや吉田神社、京都大学などに行くのが目的でした。万城目学の「鴨川ホルモー」の本や映画をみて、興味をもったようです。でも京都盆地形成の背景に、そんなダイナミックな歴史があったことには、気づかなかったのでしょうね。
(注1) 地質図は、産業技術総合研究所 地質調査総合センターの「20万分の1日本シームレス地質図」
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/db084/index.html
から見ることができます。
(注2) 活断層は、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの「活断層データベース」
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/activefault/index.html
や、シームレス地質図ラボ(http://gsj-seamless.jp/labs/)の
http://gsj-seamless.jp/labs/activefault/fault1.html
で見ることができます。このデータベースは2005年に公開され、2011年の3.11の地震以降にも多くのデータが付け加えられ、2012年2月に更新されています。
・八咫烏・
鴨川デルタの上流には、下鴨神社があります。
下賀茂神社は、2つの国宝、53の重要文化財、
参道の糺(ただす)の森も国指定の史跡です。
1994年には世界文化遺産に登録されました。
下賀茂神社は八咫烏(やたがらす)を祭っています。
八咫烏は祭神のひとつの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が
化身したものとされています。
八咫烏はの日本サッカー協会のシンボルマークにされ、
現在は必勝の守護神とされています。
もともと和歌山県の熊野那智大社の祭神が
八咫烏であったためだそうです。
下賀茂神社の境内にある末社の河合神社には、
Jレーガーのサイン入りのサッカーボールが
いくつか奉納されていました。
・ヌートリア・
鴨川デルタを歩いていると
ネズミよりずっと大きな獣が水の中を泳いでいました。
私は、カピバラかと思いましたが、
次男はカワウソだといってました。
調べると、ヌートリアのようです。
第二次大戦頃、毛皮を取るために
大量に持ち込まれ、飼育されていたようです。
戦後、需要がなくなったときに、
飼育していたものを放たれたようです。
野生化して、今では環境省指定の特定外来生物になっています。
自治体で駆除していますが、
なかなか減らないようです。
見かけが似ていますが、
ヌートリアはネズミの仲間(齧歯目)ですが、
カワウソはイタチやネコの仲間(食肉目)です。
次男にカワウソでなかったと
説明しなければならないようです。
2012年3月15日木曜日
87 手結:秩序の困惑
土佐湾に面した高知の海岸線はいびつなところがいくつかあります。手結のメランジュはそんないびつな場になります。メランジュにはそれなりの秩序があるのですが、困惑を感じます。秩序に安心を感じる整然層とはいいコントラストになります。付加体は、相反する気持ちが湧き起こる場でもあります。
四国は大雑把に見ると、少々いびつですが、長方形になっています。高知県は四角形の下(南)側にあたります。太平洋むかって、右下(南東)と左下(南西)の角にあたるところが、飛び出して岬になっています。西が足摺岬、東が室戸岬になっています。岬の先端には、マグマが活動してできた深成岩があります。これらの不思議なマグマの活動については、以前にも紹介しました。四角形の底辺の真ん中が高知市にあたり、海岸線は内側にくぼみ、弧を描くように湾曲しています。土佐湾です。
土佐湾の奥、高知市付近では、なだらかな弧を描いた海岸が続くところに、ところどろこにギザギザした出っ張った海岸線があります。高知市より東側には、香南(こうなん)市の佛岬(ほとけみさき)から住吉漁港にかけてが出っ張って、ギザギザした海岸線となっています。西側は横浪(よこなみ)半島もギザギザしています。このような出っ張りは、地質の違いに由来しています。
今回はその香南市のギザギザの地形の地域の紹介です。
佛岬と住吉漁港の間に手結(てい)岬があり、その地名からとった手結メランジュが有名です。横浪もメランジュが分布するところとして地質学では有名です。両者は、もともとは連続していたものと考えられていますが、高知市の沖で、メランジュは海岸に消えます。
手結メランジュは、四万十帯の北帯に属します。四万十帯には、整然とした地層(コヒレント層ともよばれる)とメランジュの部分が混じっています。このような地質体は、付加体とよばれ、列島固有のものです。
四万十帯は、これまでエッセイに何度もでてきたのですが、概略を見ておきましょう。
四万十帯の北側(内陸側)には古い地層(白亜紀から)があり、南側(海側)には新しい地層(古第三紀から)があり、海に向かって年代が若くなってきます。北を北帯、南を南帯に区分し、両者の境界は断層帯となっています。断層帯は、高知西部(幡多半島付近)では中筋(なかすじ)構造線、高知東部(室戸半島付近)では安芸(あき)構造線と呼ばれています。両者の間には土佐湾があるので、定かではないですが、連続している構造線だと考えられています。あわせて安芸・中筋構造線と呼ばれることがあります。
北帯には主に白亜紀の地層とメランジュが多数あり、南帯には主には新生代の整然層が多くなっています。高知の東の四万十帯北帯は、古い新荘川層群と新しい安芸層群とに区分されています。安芸層群は、砂岩泥岩の繰り返し(互層)の整然とした地層と、何列かのメランジュが見られます。手結メランジュは、それらのメランジュ列のひとつにあたります。
付加体は、海洋プレートの沈む込みにともなって陸側にできる地質体です。沈み込み帯はプレートがぶつかるところですから、圧縮する力が常に働いている場です。地層に圧縮が起こると、陸側プレートの先端には、スラストと呼ばれる低角度の逆断層が形成されます。付加体の先端には、規則正しく瓦が並らぶようにスラストができることから、覆瓦(ふくが)スラスト(implicate thrust)のゾーンができます。
覆瓦スラストの下には水平方向の断層(decollement;デコルマあるいはデコルマンと呼ばれます)ができます。デコルマンの上には、内部に多数の覆瓦スラストをもった付加体の「スライス」ができます。もっと圧縮が起こると、デコルマンがより深部に移動して、2段目の付加体の「スライス」ができます。この2段目の「スライス」の先端でも新たなスラストができ、堆積層の短縮と付加が起こります。このような付加体の「スライス」の重なりをデュープレックス(duplex)と呼んでいます。デュープレックスにより、地層の重なりが起こります。
さらに重なりが生じます。圧縮の力によって、それまであったデュープレックスした付加体の「スライス」を大規模に切る大きなスラストができます。このスラストは、今までの覆瓦スラストやデコルマン、デュープレックスなど比較的秩序だった繰り返しの断層を、大規模に切ることになります。それまでのスラストの序列を乱すことから、序列外スラスト(out of sequence thrust)と呼ばれています。
以上のように付加体の地質は、秩序がありますが、非常に複雑なものであります。それに、まだ完全に解明されていないところもあります。ただ、付加体の厚く見える地層は、圧縮場でできたスラストによって同じ地層が何度も繰り返しているということです。スラストには、その境界部が見えないようなものもあり、非常に解析しづらいところもあります。
地層の繰り返しがることを証明するためには、化石によって、時代が繰り返していることを示す必要があります。非常に根気のいる作業です。高知県はその研究が、非常によくおこなわれた地域でもあります。
さて、付加体のもう一つの特徴であるメランジュです。混在岩などと呼ばれることもあります。決まった起源のある岩石ではなく、その起源は問いません。通常の岩石とは明らかに違います。小規模なものはメランジュとは呼ばず、大規模で地質図に記載されるものに対してメランジュを用います。メランジュは、付加体だけにあるのではなく、大地の運動が激しい所でみられます。地すべりや土石流、断層運動などによるものがあります。
メランジュは、付加体に特徴的にみられ、地質学的にいくつかの共通する特徴をもっています。上で述べたように地質図に表現できる大きさのもので、細粒の物質(今では固まって岩石になっていることが多く基質と呼ばれています)のなかに、ブロック状の大きな岩石(地層状の堆積岩、火成岩や変成岩のこともあります)が取り込まれているつくりをもっています。基質の岩石は変形していて片状に割れやすくなっています。基質は、泥岩のことが多のですが、蛇紋岩や砂岩のこともあります。ブロックの大きさもさざまざです。
基質が片状になるためには、圧力と温度が必要です。付加体ですから圧縮の力は常にかかっています。温度も、150から300℃程度まで上がり、時には一部の岩石が融けることもあります。その熱源は、断層活動にともなる摩擦熱だと考えられています。手結メランジュは150℃ほどになったとされています。横浪メランジュは、250℃ほどと温度がより高くかったと考えられています。横浪メランジュからは、断層で溶けた石がみつかっています。世界初の発見です。
整然と混在、コヒレントとメランジュが付加体の特徴です。メランジュを見ると秩序の中に困惑を感じ、整然層をみると安心を感じる秩序があります。付加体は、相反する気持ちが湧き起こる場でもあります。
手結の海岸を訪れたのは昨年秋でした。空港からも近く、国道沿いでもあるので、アプローチがすごくいいので、すぐにいくことができます。と、思って油断していると、時間切れで充分見ることができなかったりするのですが。台風の高波の影響であちこち被害を受けていたのと、天気が少々崩れてきたので、私はざっとしか見ることができませんでした。まさに油断していました。次回は、ぜひきちんと見たいと思っています。
・構造侵食・
現在、付加体についての論文の構想をねっています。
そのため、付加体について文献を読み、
概略図を作成しながら、毎日考えています。
今回のエッセイもその影響でしょう。
ついつい付加体の説明がメインになってしまいました。
複雑な構造は、言葉で説明しても、なかなかわかりにくいです。
私も理解するのに時間がかかりました。
まだ完全には解明されていない部分もあります。
沈み込み帯には付加体が形成されない
「構造侵食」が起こっているところもあります。
沈み込み帯は圧縮と書きましたが、
マリアナ海溝ように列島の後ろに
引っ張り(伸張)の力が働く場もあります。
まだまだ自然は全貌を示してくれません。
・移動の季節・
人が移動する季節です。
大学は入試も最終盤です。
そして卒業式シーズンです。
我が大学も金曜日に卒業式があります。
小・中・高校も卒業式でしょう。
中でも、大学の卒業は、
若者たちの人生における大きな区切りとなるはずです。
いよいよ春から社会人となります。
それぞれの社会生活がまっているのでしょう。
健闘を期待します。
2012年2月15日水曜日
86 宍喰:時間の錯綜
宍喰(ししくい)の道路沿いにあるガケでは、舌状の見事な化石漣痕をみることができます。漣痕とは、海底の堆積物に水の流によってできた模様が、偶然、地層ができるときに閉じ込められたものです。徳島で見た化石漣痕を紹介しましょう。
宍喰と書いて「ししくい」と読みます。宍喰は徳島県海部郡海陽町にある地名です。今回紹介するのは、地形ではなく、宍喰にあるガケの表面の模様です。
海陽町宍喰には、幹線道として国道56号が南北に走っています。この国道は土佐東街道と呼ばれているもので、古くから幹線道路になっています。国道を東西に横ぎるように宍喰川が太平洋に流れ込んでいます。宍喰川沿いの南に漁港があります。その南岸に沿って、かつての国道、今は県道309号となっている道が通っています。
県道は川と港の湾を渡る国道の宍喰橋の下を通って海岸に向かいます。海岸は、複雑に入り組んでいます。県道が最初に大きく右にカーブするところに、その露頭はあります。右手がガケで左手は半島にから続く林になっています。カーブは広い道幅があり、車を停めることもできます。ガケと道路の間には柵はありますが、ガケ全体がよくみえるようなっています。
このガケが今回のエッセイのテーマです。この崖は、1979(昭和54)年に国の天然記念物に指定されています。「宍喰浦の化石漣痕」と呼ばれているものです。
「漣痕(れんこん)」とは、リップルマーク(ripple mark)ともよばれるものです。堆積物の表面が、流れる水や風にさられた時にできる波形の模様です。海岸の砂地などで時々みかけることがあります。もちろん人が歩いていない砂地ですが。その模様が、地層間に保存され、化石のようになったものを「化石漣痕」とよんでいます。
漣痕は、山と谷が繰り返して模様になっていますが、山や谷が伸びている方向は、水の流れに対して直交しています。そのような構造は少々不思議な気がしますが、水流を用いての実験によって、形成メカニズムは解明されています。
漣痕は、流れの種類や速さ、運ばれる粒子の径や形状によって、形の多様化や形の変化が起こります。漣痕は、山と谷の断面を見ると、対称ではありません。山を見ると、流れの上流に対してなだらかになり、下流側は急傾斜になります。
このような非対称性は、流れによる砂の運搬と堆積を考えると理解できます。流速がある一定以上になると、砂が動き出し運搬がはじまります。その動き出しは、砂の粒径は形状によって違います。粒子の移動の仕方も形状によって違ってきます。粒子が丸く、海底面が平らであれば、そのまま運搬されていきますが、流れと海底に角度があると、砂が堆積するところができます。そこが山が形成されます。山を越えるところに砂は次々と堆積し、山の後ろに堆積が進み山が移動します。そして山のすぐ横では流れによって新たな砂の運搬が起こり深み(谷)ができます。山と谷は流れととも移動し変化していきます。
同じ条件下であっても、時間が経過するにつれて、できた漣痕自体が波を生み、その波が漣痕の形状を変化させていくこともあります。もし流れに波動の成分があると、その波によってより複雑な模様ができることになります。漣痕は、流れのある海岸付近や浅い海にだけできると思われていましたが、5000m以深の深海でも見つかっています。流れがあれば、いろいろなところで漣痕ができることがわかってきました。
漣痕ができても、そのままでは消えてしまいます。流水によって砂の上に刻まれた模様ですから、新しい流水がくると、すぐに消えてしまいます。砂の上に書いた絵のようなものですから、儚いものです。
化石漣痕ができるには、漣痕が化石のように地層間に残ってなければなりません。漣痕が、なぜ化石のように地層の間に保存されるのか、不思議です。地層は海底で形成されます。現在の海底で漣痕ができたとしても、新たな流れがあると消えたり、別の漣痕ができます。それが化石のように保存されるには、できている漣痕の上に、次の地層となる土砂が漣痕を壊すことなく覆って保存する必要があります。つぎに来る土砂の流れが激しければ、表面をけずって漣痕を消してしまいます。
漣痕のある地層の表面が、泥や粘土のような細粒のものなら、簡単に消えたり、削られてしまう可能性が高くなります。少々の波や土砂の流れでも、漣痕が消えない、ある程度粒の大きな砂が海底面にでている条件がないとだめなはずです。
非常に特殊な条件がそろわないと、化石漣痕はできないと考えられます。でも、現実に化石漣痕があります。あちこち調査で歩いていると、地層境界に漣痕を見つけることも、よくあります。地球の営みは、非常に長い時間をかけておこなわれます。そして、地層も環境に応じた形態、構造を持ちながら、次々とできていきます。そのような試行錯誤の時間が、地球には大量にあったのです。漣痕もそのような長い地球の営みとして形成され、そして地質学者の目に触れます。漣痕は、特徴のある形態ですから、地質学者の目にもつきやすくなります。そして宍喰のようにきれいな漣痕は、保存されることになります。
ひとつの地層で化石漣痕がみつかると、別の位置(層準とよびます)の地層面からも、漣痕が見つかることがよくあります。それは同じような条件が継続されいる堆積場が、長期にわたって存在したことを意味します。
見応えのある化石漣痕となると、そうそうはありません。現在、国の天然記念物になっているのは、宍喰浦の他に、和歌山県西牟婁郡の「白浜の化石漣痕」(1931年指定)と高知県土佐清水市の「千尋岬の化石漣痕」(1953年指定)の2ヶ所があります。他にも都道府県の指定の天然記念物もあります。ですから、綺麗な化石漣痕は、地質学的意義だけでなく、自然資産として保存すべき価値のあるものだといえます。
さて、宍喰の化石漣痕です。
宍喰浦のものが、最も後に国の天然記念物に指定されています。前の2つの化石漣痕に勝る綺麗さ、貴重さ、重要性があるということです。先ほど紹介したガケは、高さ約30m、幅20mにおよぶ、大きな一枚の地層面が露出しています。その面全体に化石漣痕がみられます。
地層は、四万十帯の室戸半島層群の奈半利川(なはりがわ)層になります。時代は始新世中期(4860万~4040万年前)頃に形成されたものだと考えられています。
化石漣痕の模様は、舌状の形状があります。舌を地層面の左下から右上に向かって出した形に積み重なったようになっています。これは、この地層面の漣痕をつくった流れが、左下から右上に流れたことがわかります。また、舌状の漣痕は、大陸斜面で、海底地すべりの堆積物がくるような比較的深い海底でできるものだと考えれられています。
また、別の地層面にも化石漣痕が見えています。天然記念物の指定にあたっても、いくつかの種類のものが、層をなしていることも特徴として挙げています。この地層がたまった海域は、漣痕ができ、保存される環境が長く維持されていたことになります。
宍喰の「宍」は動物の肉全般を意味し、「喰」は食べるという意味です。ですから宍喰とは肉を食うということになります。なぜこのような地名がついたのかはよく知りませんが、創拓社の「日本地名ルーツ辞典」によりますと、全国的に蛇喰、猿喰、宍喰などの地名は、侵食による崩壊地に使われていることが多いとされています。もしかすると、昔この地に大規模な地すべりが起こり、それが地名の起こりにとなったのかもしれません。化石漣痕がでているガケができたのも、その事件と関係があるのでしょうか。いやいや、地名はもっと古く、地層面ができたのはもっと新しことに見えます。出来事の時間が錯綜してきます。
ただいえることは、この道が国道から県道になったこと(1992年)も、天然記念物に指定されたこと(1979年)、ガケができた事件も、地名ができたことも、漣痕ができた時代からすると、つい最近のできごとです。漣痕の舌状の不思議な模様は、人類すらまだいない、4000万年も前のことなのです。
・錯綜する人生・
大学は入試も終わり、その合否判定が現在進行中です。
また、先週から今週にかけて、
学科によっては卒業研究の発表会がおこなれています。
4年生は最後の緊張の時間が流れています。
4年生にはもう就職が決まっている人、
まだ決まっていない人、
就職に意欲がない人などさまざまです。
現在卒業研究の発表会の隣では、
3年生のための企業説明会がおこなわれています。
リーマン・ショック以来、就職は低調ですが、
意欲の高い人は就職は決めています。
大学では並行して人生の山場が起こっています。
これも時間の錯綜、あるいは錯綜する人生でしょうか。
・雪国の悩み・
北海道は、もっとも厳しい寒さも一段落でしょうか。
暖かい日も時々来るようになりました。
暖かい日には路面の雪も溶け始めます。
我が家の屋根のひさしから落ちそうになっていた雪庇が
先日やっと落ちました。
家内が外で除雪をしていたようですが、
遠くにいたので被害はありませんでした。
雪庇ができにくいような工事をしているのですが、
今年のように雪が多いと
風下の方にどうしても雪庇ができてしまいます。
でも、我が家は雪下ろしをしなくても
なんとか耐えられます。
まわりの家では、一度か二度は雪庇を落とす作業がなされます。
今年は、雪下ろし中の事故が多くなっています。
雪下ろしをする人も注意をされているのですが、
それでも事故は起こります。
これが、雪国の悩みでもあります。
2012年1月15日日曜日
85 襟裳岬:山脈が海に没するところ
冬の襟裳岬は、雪と風の中にあるのでしょう。少ないながらも観光客が訪れているのでしょうか。昨年の秋、襟裳岬を訪れました。そこは、日高山脈が太平洋に没するところでもあります。襟裳岬の地層から、そのダイナミズムが感じられます。
札幌から襟裳岬にたどり着くには、苫小牧あたりから太平洋岸に出て、海岸沿いを進むことになります。JRでいくならば苫小牧から日高本線に乗ります。日高本線は、様似(さまに)まで、4時ほどかかります。日高本線は様似駅が終着で、そこからは一日数本の路線バスに乗り、1時間ほどで襟裳岬です。札幌からは5時間以上かけてたどりつける地となります。
私は、卒業論文で静内川上流域の地質調査をしていました。原付バイクで調査していたので、調査地まで札幌から一日かけてたどり着きました。卒論の調査中に、様似にあるアポイ岳に登るためにバイクで出かけたのですが、それより先は、なかなか原付バイクではいけませんでした。
車社会になり、道路さえあれば、行き着くことができます。大学院ころには、車をもっていた友人がいたので、何度か襟裳岬にいったことはあります。それでも私にとって、襟裳岬は、遠いところでした。
襟裳岬は、歌でもうたわれたので、北海道でも有名な地となりました。観光化はしていますが、今でも最果ての地の感じがします。駐車場に車を停めると、土産物屋が何軒かあります。さき進むと灯台のある断崖の岬の先端にたどり着きます。いつも風が強く、霧もよくかかります。霧のために灯台が設置されています。昨年秋、家族でいった時も、強い風が吹き、海面には霧がかかっていました。
観光客は襟裳岬の断崖に立ち、そこから眺望を楽しみます。そして「風の館(やかた)」を訪れる方もいるでしょう。ガラス越しに風景を見ることができます。冬には窓越しですが、迫力のある眺めとなるでしょう。
私は、襟裳岬に行くときは、いつも先端にある海岸に降ります。時には、観光地である灯台や土産物屋にはいかず、海岸だけに降りることもありました。東側の細い道を降りていきます。以前は漁師の民家があっただけでした、今では小さな駐車場ができていました。
海岸に降りるのは、日高山脈が海の没する大地のダイナミックさを体感するためです。海岸では、面白い地層がみれます。
岬の先端が切り立った崖になっているので、その崖の下は露頭として地層を見学できます。小さな入り江で漁港になっています。以前、昆布とりをしている光景を見たこともあります。海岸を北に向かって進むと日高山脈を構成している地層(日高累層群)を見ることができます。頁岩や砂岩頁岩互層となっています。南にいくと、日高累層群の上(新し時代)に重なる地層の襟裳層が出ています。
襟裳層でまず目につくのは、大きな礫をたくさん含んでいる礫岩です。礫岩は、礫が基質(周りを埋めている物質のことす)より多いところもあります。泥岩や砂岩の部分も混じっています。
礫岩には、大きな礫が多数入っています。時には人の背丈より大きなものもあります。礫の中でも白っぽい花崗岩の礫が目立ちます。他にも砂岩、火山岩、泥岩、頁岩、ホルンフェルス(接触変成岩の一種)などの礫もあります。非常に多様な礫の種類があります。
礫岩のつくりを詳しく見ると、礫の粒子のサイズが下が大きく上に小さくなっていくところ(級化層理)、逆のつくりをもっているところも見られます。礫の大きさが急激に変化するところもあります。非常に複雑な構造の礫岩であることがわかります。
襟裳層の泥岩から見つかった化石(渦鞭毛藻や貝)からは、後期漸新世(2500万年前ころ)に海底でたまったことがわかります。礫岩の構造からは、激しい浸食があったこと、不連続な堆積作用もあったことも推察されます。このような礫岩は、海底へ粗粒な礫を含む土石流などによってもたらされたと考えられます。このような礫岩は、点在して分布していることから、その成因はまだよくわかっていません。
礫として含まれていた花崗岩の年代測定がされていて、約3000万年前であることがわかります。この付近で3000万年前ころの年代を持つ花崗岩の産地は、日高山脈南部にあります。そこから由来したと考えるの一番妥当です。もし、礫岩の中の花崗岩が、日高山脈の構成岩石であれば、日高山脈の歴史に重要な情報をもたらすことになります。
深成岩は地下深部でマグマが固まったものです。その深成岩が2500万年前の堆積岩の礫として、含まれているということは、深成岩が500万年後(2500万年前の襟裳層の年代)には地上に顔を出して、侵食されていたことになります。その地は、日高山脈が太平洋に没する襟裳岬に当たります。
襟裳岬の礫岩は、日高山脈の成立を考える上で、非常に重要な素材です。なによりも、そんな大地のダイナミズムを感じさせてくれるものです。
10年ほどの前に、神奈川から北海道に転居してきて、車を使うようになってから、襟裳岬には何度かでかけました。家族で襟裳岬にいくので、最初の何度かは一般道でいっていたので、一日かけてたどり着き、遠いところという印象は変わりませんでした。あるとき、校務で浦川にいったとき、高速道路が富川まで延びていたので、とても早くつき、近く感じました。今までの印象と違ってきました。行程の半分が高速でいけるので、車での移動時間も大いに短縮できるようになったわけです。
昨年秋は、様似で泊まって翌日襟裳岬にいったのですが、様似にあまりに早く着いたので時間をもてあますくらいでした。襟裳岬では、観光地と海岸の両方にいきました。土産物屋で昼食もとりました。海岸から上がってくるとき、ゼニガタアザラシを何匹かみることができました。霧も見ることができました。襟裳岬を満喫できました。
・ストーブの暖かさ・
襟裳岬の2月ころに行ったことがあるのですが、
思ったより雪が少なく驚きました。
しかし風は強く、寒さは一層強く感じました。
雪が少ないのは風で飛ばされているのでしょう。
襟裳岬は、最果ての地の印象を強くもたらします。
土産物屋のストーブの暖かさが救いとなります。
そんな暖房の暖かさは今日もあるのでしょうか。
「悲しみを暖炉で燃やし」ているのでしょうか。
・センター入試・
大学のセンター入試の最中です。
私の大学も会場になっているので、
教職員総出で対応しています。
前日には全学休校にして、
職員は、準備をしていました。
教員は当時の運営に当たります。
最大限の努力をはらいなが、
受験生への対処をします。
無事試験が終わることを祈るのみです。
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