2008年4月15日火曜日

40 東尋坊:節理の隙間から(2008.04.15)

 福井県の東尋坊は、日本でも有数の観光地のひとつです。海に面した断崖絶壁をつくる節理が、見事なことから、多くの観光客を集めています。そんな節理の隙間から、想いを巡らしました。

 春休みに、京都から福井の日本海沿いを訪れました。その目的地の一つとして東尋坊がありました。東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の一部です。また、東尋坊周辺は、国の天然記念物及び名勝にも指定され、2007年には日本の地質百選に選定されました。非常に有名な観光地なので、訪れたことがある方もおられるかもしれません。海岸に切り立った断崖絶壁として、テレビのサスペンスドラマのロケ地によく使われるので、画面で目にされている方も多いかもしれません。
 同じような海岸の景勝地は、東尋坊だけでなく、周辺にも点々と見かけられます。そのいくつかは、柱状の岩石が不思議な景観をつくっています。今回は、この不思議な岩石の割れ目である節理を見ていきましょう。
 日本は火山の多い国です。現在活動中の活火山は100座以上あり、どの都道府県にも、活火山がありそうですが、活火山の分布をよくみると、福井県には活火山はありません。それは、幸いなことなのか残念なことなのかはわかりませんが。
 福井県の近くには白山という活火山がありますが、石川県と岐阜県の県境にあり、福井県内ではありません。新時代(第四紀)の火山としては大日山(福井・石川県境)がありますが、日本でも珍しく、火山が活発な地域ではありません。
 しかし、福井県内には古い時代の火山があります。過去の火山は、火山岩があるかどうかで調べることができます。福井県では、あちこちで火山岩が見つかっています。時代を問わなければ、日本で火山と関係していない都道府県はないのではないでしょうか。
 東尋坊は、見事な柱状節理が海岸に面して林立しています。その節理の面が、断崖絶壁となっています。柱状節理は、マグマが固まる時にできる岩石のつくりの一種です。ですから、東尋坊の柱状節理は、マグマに由来していることになります。東尋坊も、過去の火山活動によるものです。
 柱状節理のできかたですが、マグマが固まる時に液体から固体に変わるとき体積が減ります。マグマが冷える方向に対して垂直に割れ目ができ、多くは六角柱状、時には五角柱状の割れ方(節理のこと)になります。なぜ、六角柱状になるのかは、まだはっきりしていませんが、冷える時の熱の流れが関係していると推定されています。節理のできる方向は、マグマの冷え方を反映していることは確かです。節理の方向を丹念にたどると、マグマが流れた方向を推定することができます。
 東尋坊のつくったマグマは、安山岩質のマグマで、東尋坊安山岩と呼ばれています。この安山岩をよく見ると、何種類かの大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼ばれています)と、顕微鏡でかろうじて確認でできるほど小さな結晶が集まった部分(石基(せっき))があります。石基は、肉眼では淡い緑色から暗い灰色に見えます。斑晶は斜長石と輝石(紫蘇輝石と普通輝石)がらできています。斑晶の斜長石は白っぽく、輝石は濃緑色にみえます。全体として灰色の岩石に、白黒のごま塩状のつぶつぶが見えます。学術的には、紫蘇輝石・普通輝石安山岩と呼ばれています。この安山岩は特別なものではなく、日本ではごく普通にみられる火山岩です。
 東尋坊のマグマは、新生代の中新世中期(放射性年代測定では1270万年前)に活動したもので、先に海底にたまっていた地層(米ヶ脇層(こめがわきそう)と呼ばれています)に貫入しました。貫入してきたマグマは、鏡餅のような形でたまり、そのまま冷え固まりました。現在は、その鏡餅の半分が波で侵食されて、柱状節理がむき出しになり、東尋坊の見事な景観を形成しています。
 さて、この中新世という時代ですが、日本海沿岸で、多くの地域にわたって火山活動が起こった時期になります。火山活動の多くは、海中で起こり、火山岩とともに堆積岩も見つかることがあります。この時代のこれら地域の火山岩やその砕屑物の多くが、緑っぽい色をしていることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれています。時代と地域を限定されているため、それらの岩石を生み出した活動を総称して、グリーンタフ変動と呼ばれることがあります。
 グリーンタフ変動とは、何を意味しているのでしょうか。実は、日本列島の形成において、重要な役割を果たしていることがわかってきました。
 日本列島は、昔からずっと列島として存在したのではなく、中新世以前は、大陸の端にくっついて存在していました。中新世になって、大陸の縁に巨大な裂け目(リフトと呼ばれます)ができました。その裂け目は現在アフリカ大陸に見られる大地溝帯のようなものだと考えられています。その割れ目に沿って、激しい火山活動が起こりました。
 割れ目の拡大と共に、海水が浸入してきました。それが今の日本海の始まりです。完全に大陸から切り離された陸地は、日本列島の始まりとなります。東北日本は、激しい火山活動をしていましたが、中新世にはまだ陸化しておらず、ほとんど海底での活動でした。鮮新世になると、陸化しはじめてきました。
 西南日本では東北日本ほど激しい活動ではありませんでしたが、日本海周辺での火山活動が多くの場所でみれます。東尋坊の火山活動も、グリーンタフ変動の日本海形成に伴う火山活動だと考えられています。比較的穏やかな火山活動とはいっても、人間にとっては、日本でも有数の雄大な景観を思わせるのです。
 私が、東尋坊を訪れたのは、時々小雨の降る、風の強い、肌寒い日でした。絶壁の端っこに立つと、足がすくむような思いがします。それでも怖いもの見たさでしょうか、多くの観光客が、断崖の端に立っていました。私は、もしそのとき風が吹いたら、もし足が滑ったら、もしバランスを崩したらなどと考えると、とても端に立つことなどできませんでした。
 私のそのような「恐れ」の気持ちは、小さな人間が持っている取るに足らないものかもしれません。地球の時間の流れからすれば、東尋坊の断崖絶壁もやがては、移ろい変化するものです。しかし、節理という何もない隙間から読み取れるマグマの物語があるように、小さな人間の「恐れ」の気持ちは、大地の偉大さを無意識に読み取ってものかもしれません。そんな見えない物語を、私は、節理の隙間から眺めていたのかもしれません。

・候補地選び・
この月刊のエッセイは、今まで、北海道と
それ以外の地域(北海道の人は内地と呼びます)を
交互に繰り返しながら書いてきました。
私が、北海道に住んでいるから、それが適切なやり方だと思っていました。
しかし、今回から、その順番を守らないことにしました。
その理由は、北海道内は、出かけることも多いのですが、
ワンポイントである地域を見に出かけます。
ですから、一回のエッセイのネタにはなりますが、
6回分書くには、長期に旅行をするか、何度も旅行するかになります。
近くなら何度もいけますが、遠くとなるたとえ北海道内とはいえ、
多くの日数を費やします。
ところが内地なら、長期の旅で、何箇所も見学することになります。
主に海岸沿いですが、現在研究の一環として、
長期計画ですが、日本列島の多くの地域を訪れる計画をしています。
そのため、年に1度か2度は、長期の内地旅行にでかけています。
ですから、内地のネタであれば、それを何回かに分けて書けます。
今回の京都から北陸の旅も、あと2回書く予定をしています。
以上のようなわけで、今後このようなパターンで
エッセイを続けていきますので、ご了承ください。

・グリーンタフ・
グリーンタフというのは、地質学者が野外で岩石を呼ぶときに用いた
一種のニックネーム(フィールドネームといいます)から由来しています。
ですから、グリーンタフ変動に含まれる岩石が
すべて緑色っぽいかというと必ずしもそうではありません。
グリーンが少ないものだってあります。
東尋坊の安山岩も緑色ではなく、灰色です。
グリーンタフの岩石は、もともと緑色の岩石であったのではありません。
岩石を構成している輝石や角閃石などの鉱物が、
海底で熱水による変質のため粘土鉱物(緑泥石などの緑色の鉱物)に
変化したものです。
今では、グリーンタフが海底火山として誕生したこと、
さらにそれが日本列島の誕生に深く関わっていたことがわかってきて
その重要性は増してきました。

2008年3月15日土曜日

39 竜串:地層の串刺しを目指して(2008.03.15)

 黒潮に洗われる四国西南端の足摺岬の付け根に竜串ということろがあります。竜串では、隆起した海食台があり、地層をよくみることができます。そんな地層を串刺しにするつもりで調査にいきました。

 2007年9月に四国の南西にある竜串というところに行きました。竜串の近くの「見残し」というところとともに、奇岩からなる海岸として、観光地になっています。竜串の名称は、地層の並びが竜を串差しにしたように見えるためだという説があります。私は、航空写真も見ているのですが、そうは見えません。
 海岸の地層は、非常に整然ときれいに露出しています。北東-南西に伸びて(北から東へ約60度)、西に約60度の傾斜した地層となっています。それが、竜のうろこのように見えるのかもしれません。
 竜串や見残しは、このような整然とした地層がさまざまな形態を持っているので、名所となっているのす。竜串は、高知県の足摺岬の付け根付近にあたり、土佐清水市にあります。
 竜串は、駐車場から歩いていけますが、見残しは竜串から船を利用するか、半島の尾根からかなり歩いて降りるしかありません。年間80万人も観光客が訪れている足摺岬と比べると、竜串はその5分の1ほどの観光客しか訪れません。まして、アクセスの悪い見残しは、さらに少なくなります。しかし、観光客が訪れないから、面白くないかというとそうではなく、私にとっては足摺岬より竜串や見残しのほうがずっと興味深いものでした。
 そもそも私が竜串を訪れたのは、地層調査をするためでした。とはいっても、一般的な地質調査ではなく、調査法の開発を目的としていました。デジタル画像でもれなく詳細に地層を記録する方法を考案して、それを検証するためでした。そのために典型的な地層の出ている場所を探していました。愛媛県西予市城川町の地質館でおこなっている仕事もあったので、四国西部で探していたところ、竜串が候補に上がったのです。
 竜串や見残しは、足摺宇和海国立公園に1972年11月10日に指定されています。海中公園とは、海中に美しい景観や貴重な自然があるために指定されたものです。この付近の海は黒潮の影響を受けているため、サンゴや熱帯魚などがみられます。グラスボートや海中展望塔などもあるため、海中も見ることができます。
 調査の候補地として国立公園は最適でした。なぜなら、試料を採取することはありませんから、アクセスが良く、環境が整備され、宿泊施設が近くにあるためです。
 足摺岬から竜串にかけては、海岸が隆起した地形で、海岸段丘が発達しています。海岸線は海の波によって侵食(海食と呼ばれています)を受けて、断崖がつらなる険しい地形となっています。竜串や見残しは、海食台が海面上に顔を出し、不思議な景観を見ることができます。このような景観を見るべき価値があるのですが、弘法大師がこのような素晴らしいところを見残したということにちなんで、地名がつけられたそうです。ただ、史実がどうかはわかりませんが。
 このような隆起は、地球の営みであるプレートテクトニクスによっておこっています。四国の太平洋側の南海トラフでは、フィリピン海プレートが沈みこんでいます。このような場所は、海洋プレートの沈み込みによって南から北におされて圧力を受けます。そのため、陸側は大地が圧縮される所になり、場所によって上昇したり下降したりすることになりますが、全体としては上昇していきます。また、沈み込むプレートに引きずりこまれた岩石が、その引きずりの力を変形によって吸収しきれないとき、岩石は壊れながら跳ね返り(弾性跳ね返りと呼ばれます)が起こります。それが、海溝タイプの地震となります。
 これらの作用が四国の太平洋側では継続的に働いています。1946年に起こった南海地震では、足摺岬周辺は1mほど隆起しました。広域で平均すると1000年で2~5mほどの隆起していると推定されます。竜串や見残し海岸は、2000から3000年前に隆起したと考えらています。
 四国の南西部は、足摺岬や沖の島で花崗岩などの火成岩がところどころにみられますが、それ以外の地域は、中生代から新生代の地層が広く分布しています。このような堆積岩の分布する地帯を、川の名称から四万十帯と呼んでいます。
 四万十帯は、北から白亜紀前期(1億2000万~1億年前)、白亜紀後期(1億~6500万年年前)、新生代始新世から漸新世前期(5000万~4000万年前)、漸新世後期から中新世(3000万~2000万年前)の地層が東西に帯状に分布しています。北ほど古く、南ほど新しい地層がでています。これはフィリピン海プレートの沈み込みによって、大陸棚にたまった地層が長い時間をかけて持ち上げられた結果です。四万十帯の地層は、大地の営みの歴史が、残されているところなのです。
 竜串は、四万十帯の中で一番南方に位置していますから、最も新しい漸新世後期から中新世に形成された地層となります。岩石としては、砂岩と泥岩が交互に繰り返している地層(互層と呼びます)からできています。このような互層が繰り返しているものは、陸地から大陸棚に向かって、何度も土石流(乱泥流あるいはタービタイトと呼ばれています)が流れ込んだ場所になります。
 大局的見ると地層が整然と並んでいますが、ひとつひとつの地層をよく見ると、それぞれに個性があります。
 地層の中に細いすじが多数見られることがあります。すじが斜交するものを斜交葉理(クロスラミナ)、平行なものを平行葉理(パラレルラミナ)と呼んでいます。葉理は、地層がたまるときの流れの様子を現しています。斜交葉理は乱れた流れを反映したもので、平行葉理は静かにたまったり、一定した流れでできます。
 地層内で土砂がたまるときに、堆積状態が乱れる(乱堆積と呼ばれる)と、さまざまな変わった形態の地層ができていきます。まだ固っていない泥の中に、地震で液状化現象で砂が移動して、地層の中で縞模様が褶曲したりします。このような渦巻き構造は、コンボリューションとよばれ、竜串で「しぼり幕」や「らんま岩」とよばれているものがその典型的な例となります。
 また、下の地層から水が噴出したときに通過された地層には、竹の節目のような構造ができます。これも竜串では「大竹小竹」と呼ばれているものです。
 地層の中に石灰質や珪質などの球状の沈殿物が形成されることがあります。このようなものは団塊(ノジュール)と呼ばれ、ある地層に多数形成されることがあります。竜串では、「蛙の千匹づれ」があります。
 海底の表面に波に形成された、規則正しく繰り返された波模様(漣痕:リップルマック)ができます。それを乱すことなく地層が覆うことよって地層の中に化石のように漣痕が残されることがあります。流れの方向と直交するようにリップルマークはできますが、緩やかな傾斜で非対称な波形は河口付近で、左右対称なものは浅海の海底で形成されたと考えられています。もちろんこのようなリップルマークも竜串でみることができます。
 海底や海底の堆積物の中に住んでいた生物が残した、足跡・ハイ跡・巣穴・排泄物などが化石になることがあります。このような化石を生痕化石と呼んでいます。竜串・見残し海岸では、コブ状突起がある管状の生痕化石(アナジャコ類の住まいの跡)、管状のもの(カニやアナジャコ類などの巣穴や食べ歩き痕)などを多数みることができます。
 これらの堆積物の特徴から、竜串の地層は、浅い(水深50m以下)の海底砂州でたまったと推定されています。
 今回の調査は、このような地質を調べるのが目的ではなく、その記録をどうすれば効率的に、もれなくできるかを考えるものでした。そのために新しい調査用道具の試行も兼ねていました。
 丸一日を詳細な調査に当てることができました。しかし、半日かけて長さで30m弱ほどの地層を連続的に詳細に記録したのですが、このペースでは到底終わりそうもないので、本当は竜串海岸の地層全体を対象にしたかったのですが、他に40m弱ほどの地層を簡易的に記録しました。合わせて66mの長さの地層を記録したことになります。それでも、竜串全体からすれば3分の1程度の地層しか記録したにすぎません。残念ですが、限られた時間でおこなった調査なのであきらめるしかありません。竜串の海岸線を串刺しにするような調査はやり切れませんでしたが、検討用のデータは十分取れたと思っています。その成果は、現在まとめている最中です。

・想定外・
竜串での調査は、丸3日間を予定しました。
本当は詳細な調査を2日、あとは道具の検証として、
周辺の地層の調査を1日かけて調査をやる予定をしていました。
できるだけ長く調査測線をとるため、
初日は一番端の地層からはじめることにしました。
朝、海岸に行くと、潮が満ちているときは、
海面にはでていない地層がかなりでていました。
これ幸いと調査をはじめたのですが、
乾いていない地層は非常に滑りやすく、
注意をしていたのですが、すべってころびました。
その時、あちこちすりむき、メガネも壊してしまいました。
擦り傷の治療とメガネの修理のために、
1日を台無しにしてしまいました。
カメラなどの機材は大丈夫だったので、
調査を継続することができました。
翌日、まだ傷はいえていませんが、
調査をしないと帰れませんから、かんばって始めたのですが、
こんどは暑さにやられて効率が上がりませんでした。
今回の竜串の調査では、なかなか大変の思いをしました。

・恒例の台風・
愛媛県西予市に私は毎年のように通っています。
昨年9月にもその予定があったので、
日程を調整して、竜串の調査を加えました。
しかし、千歳から出発のときに、台風が北海道を通過して、
予約していた飛行機の便が欠航になりました。
やむなく1日遅れで出発することになりました。
毎年、9月前半に出かけることが多いので、台風の影響を受けます。
昨年も例外ではなかったのです。

2008年2月15日金曜日

38 支笏湖:穏やかさと激しさ(2008.02.15)

 支笏湖には、自然が残されています。しかし、その自然の中には、穏やかな人を癒してくれるものだけでなく、激しい異変や破壊を伴うものもあります。それも含めて、自然と見る必要があるのかもしれません。

 北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
 私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
 北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
 支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
 明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
 北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
 その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
 この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
 明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
 支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
 王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
 王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
 北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
 もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
 火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
 1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
 しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
 記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
 自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
 一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
 そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。

・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。

・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。

2008年1月15日火曜日

37 沖縄バン岬:科学が教える大地の悠久(2008.01.15)

 以前にもこのエッセイでは、沖縄を紹介をしたことがあるのですが、もう一度、登場です。今回は、ある小さな岬の地層にこだわって紹介します。その岬は、バン岬と呼ばれ、沖縄中部の太平洋側(南東側)に面した海岸にあります。

 沖縄には、何度が訪れています。それぞれ私なりの目的があったのですが、昨年春に訪れた時の目的は、褶曲した地層を観察することでした。「私なり」といったのは、家族連れで出かけているので、家族サービスをしなければなりません。ですから、私が家族をつれて自由に石をみにいけるのは、せいぜい1日か2日です。
 子供か小さかったときには、私がでかけるところは、どこもで文句をいわずについてきたのですが、それなりに楽しんでいました。しかし、大きくなると、それぞれ行きたいところや、やりたいことがでてきて、そうそう私の自由に行動できるわけではなくなりました。そのような限られた時間で優先順位をつけたとき、一番の目的地が、バン岬の地層の褶曲をみることでした。
 写真では何度も見ていて、ぜひ見てみたと思っていた褶曲でした。日本列島には、同様に褶曲した地層が、あちこちにあります。でも、地質案内で扉の写真でみた褶曲が、なぜか心に残っているのです。
 目的の褶曲は、国頭(くにがみ)層群の中の嘉陽(かよう)層と呼ばれるものに見られます。嘉陽層は、中期始新世の中ごろ(4千数百万年前)にたまった地層です。目的の褶曲は、天仁屋(てにや)川という小さな川の河口から、海岸沿いを2kmほど南西に向かって歩いていったところにあります。少々不便なところにあるうえに、引き潮でないとバン岬までたどり着けません。
 本当は大潮の時にいくのが一番いいはずなのですが、1週間の滞在で一番潮の引く時、そして晴れて海が穏やかな状態にある時でないとたどり着けません。ですから、予備日を見越して余裕をもって、出かける日を狙っていました。
 実は、この海岸に来るのは2度目でした。一度目は、子供がまだ小さかったので、1時間も海岸線を歩くことはできないと思って、海岸に来て見ただけでした。
 人気のない海岸は、快適でした。南国の海の開放感と太陽のまぶしさを感じていました。古い海の家の跡があるのみで、今では草むらと化しています。自然の海岸が、そこには広がっていました。その海岸を見て、次回はぜひ、この海岸の向こうにあるはずの褶曲を見たいと思いながら引き返しました。
 2度目に訪れた時は、褶曲を見ためにバン岬に向かうことにしました。潮がちょうど引く時間帯をねらって出かけました。3月下旬でしたが、快晴の中、海岸を歩き始めました。1時間ほど海岸を歩くと、子供たちは暑さに参ってしまいました。それでも子供たちを、なだめすかしながら歩いて、やっと見覚えのある大褶曲の露頭にたどり着きました。
 大褶曲だけでなく、地層がのた打ち回っているような景観は、奇異で目を惹かれます。単に奇異ではなく、そこには、小さな人間が圧倒される迫力がありました。そんな地層を眺めながら、自分が持っている地層の形成や褶曲の形成の理屈をひねくりまして、どうしてできたかに考えをめぐらせていました。
 地質学者たちが、現段階で得ている知識によれば、以下のような褶曲の形成史が編めます。
 嘉陽層がたまったのは、暖かい海の大陸斜面の深度3500から5500mの海溝近くのだと考えられています。そのようなことがわかるのは、地質学者たちが、海岸を歩きながら詳細に調査した結果です。地層のある面に、生物の這い回った跡が残されています。これも一種の化石で、生痕化石と呼ばれています。このような這い跡のうち、特徴のあるものは、どのような生物が這い回ったからもわかっています。そしてそのような生物の中には、現在にも似たものが生きていて、それらの生息環境と這い跡を比べれば、どのような環境かがわかります。似た這い跡が海溝付近でも見つかっています。這い跡の類似性から、生物の住む海底の深度が推定されています。また、地層に含まれている化石から、暖かい海であることもわかります。
 大褶曲は、砂岩から泥岩への変化している一連の岩石が、一つの地層を構成しています。このような一枚の地層を単層と呼んでいます。単層が何層も繰り返し重なって厚い地層が形成されていきます。
 一見静かな深海底に、砂の成分の多い乱泥流が流れ込みます。乱泥流に襲われた生物は生き埋めになったことでしょう。乱泥流が収まると、再び生物が復活します。もちろん、生物の復活にはそれなりの時間が必要です。しかし、地質現象には充分すぎるほどの時間があります。
 たまたまきれいに均された海底を生物が這いまわり、その上に這い跡を消すことなく、上手く砂が覆いかぶさった時に生痕化石が形成されます。ですから、生痕化石がどの地層面からでも見つかるものではありません。条件がよければ残るということです。しかし、大量にある地層からは、生痕化石が、よく見つかります。ですから、嘉陽層をためた海底は、生痕化石を残すに適した場所だったのでしょう。
 ひとつの地層は、数時間から数日という短時間で形成されますが、次の地層がたまるまで、長い時間が経過します。数十年、数百年、時には数千年間、何も起こらない時期があります。そん不連続な地質現象の繰り返しが、地層には刻まれています。
 海溝とは、海洋プレートが別のプレートの下に沈み込む場所です。そのような海溝近くの大陸斜面の地下では、プレートに押されて、地層には曲がるような力が働きます。その時、地層の状態によって、さまざまな曲がり方をします。
 まだ固まっていないで水をたくさん含んだ地層が圧されると、地層は割れれるこなく、複雑に曲がっていきます。また、砂岩には不規則な洗濯板のようなでこぼこ(ムリオン構造と呼ばれます)ができることもあります。
 砂岩の水分がなくなり、泥岩の水分が残っている場合には、泥岩の部分だけが分厚くなったり、割れた砂岩の中に泥岩が流れて進入したりすることがあります。
 砂岩も泥岩も固まっている時、大量の土石流が新たに流れ込んでくると、もともとあった地層が削られることがあります。削った土石流の中には、化石が見つかることがあります。嘉陽層では、破片になっていますが、貨幣石が見つかりました。貨幣石とは、有孔虫とよばれるプランクトンの一種で、地質時代を区分するに古くから用いられていました。貨幣石から、時代を決めることできました。
 さらに長い時間が経過していくと、すべての地層は硬くなります。プレートの沈み込みが続くと、海溝付近の大陸斜面にはつぎつぎと地層がたまります。そのような地層に圧されて、古い地層が陸上に顔を出します。このようなでき方をした地層を、付加体と呼びます。日本列島のような海洋プレートが沈み込んだ陸側のプレートでは、付加体が海溝と並行にできます。嘉陽層は、沖縄本島ではもっと南東側にあるため、もっとも新しい時代の付加体となります。
 曲がりくねった地層を詳細にみていくと、長い時間に渡って、何段階もの大地の営みが作用していることがわかります。地質学者は、圧倒されそうな大褶曲を前にしても、詳細な調査や研究をぬかることなく続け、褶曲の中に隠されている大地の歴史やメカニズムを解き明かしていきます。褶曲という大地の圧倒的な力による自然の営みを、ささやかな力しか持たない人間が科学によって解明していきます。そんな自然と科学のせめぎあいが、そこにありました。
 私は、崖の前にたたずみ、なぜ無機質の地層がこのような迫力を持つのだろうか、と考えていました。人気のない海岸にただそびえる褶曲した地層の崖に、迫力を感じるのは、単に大きいだけでなく、大地の営みの悠久さを、科学が教えくれ、感じさせてくれるためなのかもしれないと思い至りました。
 私が見た大褶曲の露頭は、いくつかある写真の一部でした。しかし、一番見たかったのは、倒れてくしゃくしゃに曲がっている褶曲でした。大褶曲の露頭の向こう側に、その褶曲があるように思えました。しかし、そのためには、崖を少し登り、まわりこまなければなりません。その時は、子供たちが体力的にそれ以上進むのはムリでした。そのために、残念ながら、この大褶曲が今回の終点となりました。でも、もし次回、沖縄へいく機会があれば、今度はぜひとも、写真の褶曲を見てみたいと考えています。

・ライフワーク・
月刊メールマガジン「大地を眺める」も、
今年で4年前に突入します。
この連載は、北海道地図株式会社さんとの共同で始めた企画です。
私は、自分の興味や研究上のために日本各地をめぐっています。
その研究成果は科学普及のためにも利用しています。
北海道地図さんから数値標高のデータを提供いただいて、
エッセイの内容をよりわかりやすくするために、
データ処理を行い地形や地質を示すようにして公開しています。
できれば、日本全国をもれなく、
地質や地形を紹介していくつもりでいます。
しかし、ホームページを見ていただくとわかるのですが、
全国を網羅することは未だにできていません。
まだまだ、道半ばです。
いつ完成するかわかりませんが、
気長にライフワークとして取り組んでいこうと思っています。

・沖縄行・
昨年春に、沖縄のバン岬に行きました。
沖縄は、私が住んでいる北海道からは遠いところです。
その時は、JALの直行便があったのですが、
いまでは、直行便がなくなり、乗り継がなければなりません。
少々、遠く感じるようになりました。
我が家の長男が乗り物に弱いため、
乗り継ぎでは、時間が余計にかかり
行くのを躊躇してしまいます。
今年の春休みもできれば行きたいのですが、
どうなるかは、まだ未定です。

2007年12月15日土曜日

36 幌尻岳:石を愛でる楽しみ(2007.12.15)

 地質百選の中に、北海道の幌尻岳の七つ沼カールが選ばれています。今回は、幌尻岳を紹介します。幌尻岳は、私が地質学を目指したときに出会った山でもあります。

 地質百選というものを御存知でしょうか。2007年10月に「日本列島ジオサイト地質百選」(ISBN978-4-274-20460-9 C3051)という本が出版されたので、目にされた方もおられるかもしれません。
 もともとは、NPO地質情報整備・活用機構と(社)全国地質調査業協会連合会が、地質を中心とした自然で、保全、活用、災害防止、観光などの目的で、全国から「地質百選」を募集したものです。
 この本の中で、北海道からは7箇所が選ばれています。知床半島、白滝(黒曜石)、神居古潭渓谷(変成岩)、夕張岳(蛇紋岩メランジェ)、夕張(石炭の大露頭)、有珠山・昭和新山、そして今回紹介する幌尻(ぽろしり)岳(七つ沼カール)です。
 このエッセイは、行ったところを題材にしていますので、神居古潭渓谷と有珠山は、すでに紹介しました。しかし、知床半島、白滝、夕張岳、夕張はまだ行っていないので紹介できません。そのうち、行こうと思っています。
 幌尻岳は、一度は登り、もう一度は近くの山から眺めたことがあります。ずいぶん前のことなので、記憶もはっきりしないので、取り上げることに躊躇していたものです。しかし、これからしばらく行くことはなさそうなので、今回思い切って取り上げることにしました。
 私の幌尻岳への登山は、私自身の地質学や地質調査への目覚めの時期でもあります。私は大学2年生の夏に地質学を始めると決意して、N先生とA先生に連れられて、はじめて日高山脈に入りました。そのときが、私にとっては、はじめて本格的な沢登りによる地質調査でした。キャンプの道具や食料もすべての荷物を自分で背負って、わらじと地下足袋をはいて、新冠(にいかっぷ)川を遡上しながら調査をしていきました。私と同級生の友人が、二人の先生の野外調査に同行させてもらいました。2泊のキャンプをして、調査をしました。今思えば、同行というより、足手まといにすぎなかったでしょう。ただただ付いていくのがやっとでした。しかし、私にとっては、それまでに味わったことのない経験で、強烈に印象に残っています。
 谷の合間から幌尻岳の白い山容が見えました。新冠川がどこまで行っても川は細ることなく、嶮しくなっていくだけでした。新冠川の源流が、日高の主峰ともいうべき幌尻岳でした。
 3年生になって、夏に進級論文で数週間、学科の学生全員が定められた地域で、野外調査をしました。その野外実習の後の9月には、奥新冠ダムで先生の知り合いと先輩が調査に入っていたので、そのグループに、N先生とA先生、例の友人と私が、合流して調査に加わることになりました。一日を、幌尻岳の登山にあててもらいました。その時、はじめて幌尻岳の山頂に立ちました。しかし、もともと登山が目的でなかったため、あれよあれよというまに山頂に立ち、下山してきました。
 新冠川は、幌尻岳の北東に位置する七つ沼カール源流とします。新冠川の支流の幌尻沢沿いに、幌尻岳の南側の登山道があります。そこを利用して、私は山頂に立ったわけです。
 幌尻岳へは、他に北側の登山ルートが二つあります。ひとつは沙流川の支流の額平(ぬかびら)川から直接幌尻岳に登山するルート、もう一つは、同じく沙流川の支流の千呂露(ちろろ)川から戸蔦別(とったべつ)岳を経由する稜線のルートがあります。
 4年生の夏に千呂露川のルートから、北戸蔦別岳から戸蔦別岳にいきました。私はその時期には、卒業論文で、新冠川より南にある静内川に野外調査のために入っていた。調査も一休みして、N先生といつもの同級生、そして下級生2名のチームに合流しました。戸蔦別岳の麓の水場でキャンプをして調査をしました。そのときも、N先生の調査に同行するのが、主な目的でした。
 幌尻岳周辺のいずれの調査も、私自身は、先生や先輩の手伝いで、自分自身が、地質学的な目的をもった野外調査ではありません。ですから、石や石の出かた(産状といいます)を、いろいろ見るだけで、地質学的な研究をしていたわけではありませんでした。しかし、後で思い起こすと、実は重要なことを学んでいたのだと気づきました。
 標高2052mの幌尻岳は、日高山脈の中でも最高峰で、山も奥深く、アプローチが長く、日帰り登山が不可能な山です。登山ルートはあっても、沢登りもしなければなりませんので、なかなか頂上を極めるのが大変な山です。その山を、登山ではなく、道なきところへ分け入り、調査する地質学者もいるわけです。同行したいずれの調査でも、先生や先輩たちは、真剣に野外調査に取り組んでいました。私が、登るのもやっとのような沢でも、彼らは、黙々として、そして喜々として調査をしてました。それをみて、地質調査、地質学、科学というものは、それほど面白く魅力的なのだということを、見せつけられた思いでした。
 その頃からでしょうか。景色や自然をただ愛(め)でる楽しみより、石や地質を愛でる楽しみのほうが強くなったのは。私も、石と地質の魅力に引き込まれました。今では、若い頃のような体力はなく、多分これからは幌尻岳のようなところへは登れないでしょう。かといって、残念でもありません。頂上を目指すことが地質学ではなく、そこに調べたいものがあるから、調査をしにいく通過点にすぎないのです。たまたま頂上にも調べたいものがあるのなら、調査の一環として頂上に向かうでしょう。ただ、それだけのことです。
 もし地質学者が頂上だけを目指すのであれば、それは趣味というべきでしょう。4年生の卒業論文で野外調査をしている時、調査地の近くにあったペテガリ岳や、少々遠いですがアポイ岳に、趣味として登っていました。これは地質調査ではなく、頂上だけを目指すことだけが目的でした。早くたどり着き、すぐに降りてくる。登ったという実績、経験だけが重要でした。まあ、あのころは体力があったので、そんなこともできたのですが。
 最後になりましたが、幌尻岳周辺の地質を紹介しておきましょう。
 日高山脈は、かつては大きな山脈ではなく、海に列島があっただけでした。列島の東側にも海がありました。列島の東側の陸地は、オホーツク古陸と呼ばれ、多くの堆積物を海に流し込んでいました。西側の陸から供給された堆積物も見つかっています。
 海には沈み込み帯があり、今では日高山脈と平行に南北に伸びる白亜紀頃に形成された神居古潭帯と呼ばれる地域にあたります。その後(新生代中新世)、沈み込み帯が東にジャンプし、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がってきました。それが日高山脈を形成したと考えられます。
 日高山脈には、列島をつくっていた岩石(新生代中新世)と海洋底をつくっていた岩石(白亜紀)が見えています。日高山脈の伸びる方向に沿って、両岩石が並んで分布しています。海洋地殻をつくっていた岩石(オフィオライトと呼んでいます)が、現在の幌尻岳では、その様子が良く見えます。そのために、幌尻岳を中心として分布する海洋底の岩石は、ポロシリ・オフィオライトと呼ばれています。
 N先生は、地殻下部からマントルの岩石(斑れい岩やカンラン岩)を、A先生は地殻下部の変成岩を、それぞれ調べておられたのです。今では、その調査の意味もわかっているのですが、当時の私は、日高山脈の雄大さと、初めての経験の連続で、地質学の内容を充分味わうことができませんでした。
 日高山脈は、新しい時代にできた急峻な山並みです。北海道のような高緯度であったため、氷河期には、山岳氷河が山脈に形成されました。今では氷河は残っていませんが、氷河の痕跡が、日高山脈のあちこち残されています。
 幌尻岳が地質百選に選べれた理由は、カールやモレーンなどの氷河地形が幌尻岳の周辺にはいくつもあるためです。戸蔦別岳の南東斜面には、七つ沼カールがあり、幌尻岳の北側には北カールがあります。カールには、どんなに雨が少ない時期でも、水場があり水が枯れることなく確保できます。そのカールに溜まった水を飲んで、私たちはキャンプや調査をしていたのです。

・83箇所・
地質百選には、全国から約400箇所の応募がありました。
今回83箇所が選ばれました。
関係自治体に通知して了承を得た後、
認定書を送付して公表されました。
地質学的な選定基準として
日本の地史として重要なもの、代表的な岩質(堆積岩、火成岩、変成岩)、
特殊な鉱物(ヒスイ)の産地、地質とかかわりの大きい地形、
地殻変動(褶曲や断層)、鉱山や人文遺跡、火山、防災
などから代表的なところが選定されました。
なぜ100箇所でないのか、不思議ですが、
これは、2007年5月現在の第一次選定の結果です。
残りの17箇所は、新たな立候補も受け付け
選定を続けるため余地を残されています。
是非にと考えておられるところがあれば、
応募されたらどうでしょうか。

・師走・
いよいよ今年も押し詰まってきました。
残り半月となりました。
北海道のわが町では、11月に降った雪が消えることなく、
昨日は大雪が降りました。
これで根雪になるのでしょうか。
そろそろ来年のことも考えるようになっていきました。
それより前に、今年にすべきことを、
終わらせるべきことを、
あせる時期になりました。
でも、考えてみると、いつもばたばたしている気がします。
落ち着いて何かをすることが、
最近なかなかできなくなったような気がします。
何かに追われながら、つぎつぎと仕事を
ただただ、こなしているような気がします。
これで、いいのだろうかと、ついつい考えてしまいます。
そんな悩みも、師走は吹き飛ばしてくれます。

2007年11月15日木曜日

35 白神山地:静寂の湖面に映りこむ動乱(2007.11.15)

 秋田県の白神山地の麓に十二湖というところがあります。多数の湖の中に青池と呼ばれる不思議が色をした池があります。その静寂に包まれた湖面に映る景色には、動乱が映りこんでいました。

 今年の夏に、白神山地の近く出かけました。白神山地へ山登りをしたり、山奥まで入ったわけではありません。白神山地から少し外れた山麓に十二湖というところがあります。そこに出かけました。青森県深浦町にある十二湖に私が訪れた目的は、地滑りでできた湖沼群と日本キャニオンをみることでした。青池と呼ばれる池は、名前の通り青く透き通った不思議な色をしているそうなので、その池もみたいと思っていました。
 地滑りは、1704年に起こったマグニチュード7の能代大地震によって、山が崩壊(山津波とも呼ばれるもの)したためだと起こったとされています。地滑りが、川をせき止め、多数の池を形成したと考えられています。池の数は、33(数え方によっては31)にのぼります。
 日本キャニオンは、1953(昭和28)年、当時の国立公園審議委員で探険家でもあった岸衛が、その景観を見て、アメリカ合衆国にあるコロラド山地のグランドキャニオンに見立てて名づけたものです。これは、少々名前負けしていてスケールははるかに小さいものです。白い酸性凝灰岩(流紋岩から真珠岩質)が侵食されつつある崖が印象的です。この崖は海からも眺めることができ、昔から、海上通行の目標にもされていたようです。
 白神山地には、秋田県と青森県にかけて広がるブナを中心とした原生林があります。1993年に、法隆寺や姫路城、屋久島とともに、白神山地は日本で最初に世界遺産に登録されました。世界遺産の指定地域にあたるのは、7割が青森県にあります。
 世界遺産には、文化遺産と自然遺産、複合遺産(日本にはありません)がありますが、白神山地は屋久島と共に自然遺産に区分されます。白神山地は、世界遺産登録基準の9項の「陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの」にあたります。
 人手のほとんど入っていないブナの原生林が白神山地の源流域にあます。その広さは、世界最大級といわれています。ブナ林の内には、多様な植物が共存し、それらの植生に依存した多様な動物がいます。ブナは木へんに無と書きます(漢字の第二水準にはありません)。ブナは落葉樹で、寒い地方では低地に、暖かい地方では高地に育ちます。北海道の黒松地方が北限といわれています。このような自然のままの生態系が今も手付かずのままで残っていたのです。
 1万年前の最終氷河期が終わり、8000年前ころには、白神山地にはブナ林が形成されていたことがわってきました。現在の日本で、それも本州でブナの原生林が残っているのは、不思議な気がします。でも調べていくと、原生林が残ったのには、それなりに理由があったようです。
 ブナは、大木になるのですが、シイタケ栽培や食器などの加工には利用されていたのですが、腐りやすく狂いが生じやすいので、建材として用いられることはあまりありませんでした。ですから昔から木なのですが木材として利用できないことから、「木へんに無」という漢字があてられたという説があります。建築用材に適さないことから、ブナは伐採を免れる条件があったのです。
 ブナは寿命が短く200年程度とされています。ですから、ブナの生育に適した山を放置しておけば、比較的短い期間で倒木更新などの世代交代をする原生林となります。ブナの森には、ブナ自身の落ち葉や倒木が栄養となり、他の動植物の養分や住みかなどとして利用し、多様な生態系を生み出します。
 白神山地は、焼く9800~6400万年前(白亜紀)の花崗岩類からできています。1600万年前~500万年前頃(中新世)の堆積岩(凝灰岩、泥岩、砂岩)とそれを貫く火成岩類(流紋岩、石英閃緑岩等)から構成されています。
 このような白神山地の岩石類は、不安定で、そのうえ隆起が続いているため、崖崩れが起こりやすくなっています。伐採用の林道をつくっても、崖崩れのためにすぐに使えなくなってしまいます。また、この地域は冬には半年間も雪に埋もれるため、大規模な林道建設も難しく、開発が進みにくいところでもありました。
 そのようないくつかの要因が組み合わさって、白神山地ではブナの原生林が残ったと考えられています。白神山地は、古来から行われてきた集団で狩猟をおこなうマタギだけが利用するの山となっていたのです。
 十二湖付近は、奥の山地(東側)が中新世の火山岩類(玄武岩から安山岩)ができており、断層に境されて、西側には1000万年前の赤石層と呼ばれる堆積岩があります。主に黒色の泥岩(硬質頁岩と呼ばれています)からできていますが、下部に300mほどの厚さを持つ凝灰岩(十二湖凝灰岩部層と呼ばれています)があります。これら弱い岩石が崩れて、地滑りとなったと考えられます。
 1970年代になると、ブナは楽器の材料として利用されるようになり、白神山地の原生林にも目がつけられました。1978年に白神山地の中央を通る林道が計画され、1982年に秋田県側から工事が開始されました。工事の直後から白神山地でひんぱんに崖崩れが起きはじめ、被害が出てきたため、林道建設反対運動が起こりました。その結果白神山地は、1990年には林野庁が森林生態系保護地域に指定、1993年12月11日には世界遺産に登録、2004年3月31日には国指定白神山地鳥獣保護区となりました。その結果、白神山地のブナの原生林と自然は守られるようになりましたが、この地のマタギの伝統がなくなってしまいました。
 名前の通り青池は、透明で青く澄んだ不思議な色をしていました。湖面に映る木々の反射と、高い透明感で池に沈んでいる木々が見えることが、さらに神秘さを増しています。しかし、その静寂な景観の中には、地滑りという激しい歴史がありました。それの激しさを、静寂の湖面や日本キャニオンから感じている人はいるのでしょうか。

・十二湖・
青森県の津軽半島の青森県五所川原市(旧市浦村)に
十三湖というところがあります。
十二湖とは、文字の上では湖の一つ違いですが
十三湖は十三湊(とさみなと)が語源となっており、
直接の関連はありません。

・サンタランド・
深浦町ではサンタランド白神という施設に泊まりました。
名前の通りサンラクロースにちなんだ施設でした。
なぜ、青森でサンタなのか不思議に思いました。
これは、深浦町(旧岩崎村)が
フィンランド国ラヌア郡と姉妹都市協定を結んだためです。
ラヌア郡はサンタクロースの故郷とされているところなので、
姉妹都市の締結を記念して、サンタランドが建設されました。
私がいったは8月の一番暑い時期でしたが、
施設は運営されていて、コテージに泊まることができました。

2007年10月15日月曜日

34 旭岳:山頂から謙虚さをみる(2007.10.15)

 9月下旬の3連休に、家族で旭岳に登ってきました。連休の間は、好天に恵まれて、絶好の登山日和となりました。そして北海道の最高峰に立つことができました。

 旭岳は、大雪山の中にある北海道の最高峰(2290m)を誇ります。北海道で一番早く秋が訪れるところでもあります。私たちが登ったときは、もう紅葉が始まっていました。
 旭岳の麓には、旭岳温泉として、ホテルや旅館などの宿泊施設がいくつもあります。旭岳温泉にはロープウエイの乗り場があり、ロープウエイを使えば4合目まで一気に登ることができます。ですから、北海道の最高峰でありながら、5合目あたりまで多くの観光客が訪れるところです。
 私が地質調査をはじめる前は、山登りや山歩きが好きで、近くの山を一人で登っていました。山登りとはいっても、ピークハンターのように頂上を目指すのが目的ではなく、自然の中を歩き回ることがもっぱらでした。もちろん、いくつかの山頂には立ちましたが、それは余禄のようなものでした。
 地質調査をするようになった頃は、山頂を目指すより、地質学の面白さを野外で満喫するようになっていました。調査のために沢に入ることが多く、今まで味わったことのない自然の趣を、沢登りを通じて味わっていました。そして自然の奥深さを感じていました。
 若い頃もそうだったのですが、地質調査を始めてからは特に、頂上を目指すことにあまり意味を見出せませんでした。目的もなしに頂上に行くことは無駄だとすら思っていました。本格的な登山する人の足元にも及びませんが、気がつくと結構あちこちの山頂を極めていました。
 家族で山に出かけるようになってもその考え方は変わらず、登頂は目的の一つにすぎません。子供や家内、自分自身の体力を考え、例え山頂を目指していても、無理はしなくなりました。今回の旭岳の登山も、長男が8合目でバテたので、家内と長男は下山させて、体力がまだ大丈夫であった次男と私が、登山を続けて、頂上に立ちました。
 旭岳を訪れる多くの観光客は、頂上を目指すのではなく、高原の景観を味わうことが目的でしょう。9月の下旬は、旭岳のロープウエイの姿見駅を降りると、まだ森林限界を越えていませんので、紅葉が楽しめます。池越しに見る紅葉は美しいものです。
 しかし、ロープウエイの駅付近でなんといっても目を引くのは、紅葉の向こう側に広がる景観とのコントラストです。山頂から急激に切れ込んだ谷(地獄谷と呼ばれています)は非常に荒々しいものです。
 西側に開いた谷には、噴煙を上げている噴火口が、何箇所も見えます。旭岳が活動して火山であることは、誰の目にも明らかです。風向きによっては、硫化水素の匂いも漂ってきます。
 旭岳を含む大雪山は、100万年間活動を続けている巨大な火山の集合体です。大雪山では、20個以上の火山体が確認されています。大雪山の中央部に直径2kmにもおよぶ大きなカルデラ(御鉢平カルデラと呼ばれています)があります。このカルデラは、約3万年前の大雪山ではもっとも大きな噴火でできたものです。
 旭岳は、御鉢平カルデラの南西のはずれにあたります。2万~1万年前から活動をはじめて、約6500年前まで活発な噴火をしていました。安山岩のマグマが噴火したもので、活動初期には溶岩を何度も流しましたが、その後爆発的な噴火に変化して、降下スコリアや火砕流を出しました。このような火山噴出物が、旭岳の火山体をつくりました。
 3000~2000年前ころに、水蒸気爆発によって山頂から西の山体が崩れて(岩屑なだれ)、現在の地獄谷ができました。この岩屑なだれや泥流の堆積物は、旭岳温泉にまで達しています。
 1000年前以降に、現在、姿見の池と夫婦池になっているところで噴火が起こりました。さらに250年前以降にも、地獄谷で水蒸気爆発が2度にわたり起こりました。その時に、現在も活動中の火口群が形成されました。旭岳は、現在も活発な噴気活動を続けています。
 旭岳の山頂から北東の方向を眺めると、御鉢平カルデラ周辺にある山々が見えます。残念ながら、御鉢平カルデラは、間宮岳が邪魔をしていて全貌を見ることができません。しかし、その巨大なカルデラさえ小さく見えるほど大雪山は大きいのです。
 大雪山からは多くのピークが見えます。それらの多くが火山であることがわかります。旭岳の登山道は火山由来の岩石からできます。山頂から眺めだけで、大雪山が巨大な火山である証拠が、いくつも見つかります。
 山頂から眺めると、大雪山は雄大なだけでなく、多様な自然や、神々しい景観を生み出していることが見えます。そんな雄大さと比べ、一つの山頂を極めただけで満足する人間の小ささを感じました。一つの山頂に達することが大切なのではなく、大雪山の偉大を感じることが大切なのでないでしょうか。自然の偉大さの前には、人は謙虚であるべきではないでしょうか。旭岳の山頂で、そんなことに思いを馳せました。
 登山から帰った翌日の新聞をみると、旭岳のカラー写真が第一面を飾っていました。今年はじめての冠雪が観測されたというニュースでした。その新聞記事を読んで、数日初冠雪が早ければと登頂はできなかったと思います。今回は本当に天候に恵まれたと思えました。
 北海道は、これから短い秋から、一気に冬に向かっていきます。

・ラッシュ・
昨年も同時期に旭岳温泉を登山のために予約をしようとしたら、
満員でどこにも泊まることできませんでした。
今年はなんとか予約をすることができました。
同じホテルに2泊して、丸一日を登山日にしました。
9月下旬は、北海道の高山では紅葉が始まる頃です。
今回の連休は、久しぶりの好天なので、
ロープウエイを使って多くの観光客が訪れていました。
私たちもロープウエイを使って登りました。
私たちが下山した午後2時ごろは、
ちょうどラッシュの真っ最中で、
1時間ほどロープウエイに乗るのに並ばねばなりませんでした。
疲れた体で行列をするのは大変でした。
北海道にいると都会を除いて混雑はほとんどないので、
こんな長蛇の列に並んだのは、珍しい経験でした。

・タフ・
今回の旭岳の登山で、我が家で一番体力のあるのは
小学校1年生の次男であることが判明しました。
次いで私で、小学校4年生の長男、家内と続きます。
本当は長男も体力があるはずなのですが、
すぐにあきらめてしまうところがあります。
長男が1、2年生の頃は、今の次男のように体力がありました。
なぜか、3年生になった頃から、急に体力がなくなりました。
あきらめ癖がついたのかもしれません。
一方、もともと次男は体力がある上に、
負けず嫌いな性格もあいまって、
少々のことでは弱音を吐きません。
登山途中はかなり苦しそうでしたが、
休めば体力はすぐに回復していました。
私は登山後、数日間、筋肉痛に悩まされました。
私の体力も衰えているのでしょうが、
今回の登山では、次男のタフさには驚かされました。