2008年8月15日金曜日

44 然別湖:思い出と悠久の思い(2008.08.15)

 夏休みに北海道の十勝平野の北はずれの然別周辺を回りました。然別は、十勝平野を見下ろす火山でした。その山頂から、若かりし頃の思いに浸りました。

 今年の夏休みは、8月上旬に北海道の十勝に出かけました。今年の夏の北海道は快晴に恵まれ、抜けるような青空の中を旅行することができました。十勝平野の奥にあたる十勝川やその支流沿いを、うろうろと巡りました。
 家族は、避暑を兼ねて山間の温泉に浸り、名物を食事して、陶芸や熱気球、ベアマウンテンなど、夏を満喫するようなレジャーを楽しむのが目的でした。
 私には、二つの目的がありました。ひとつは、東ヌプカウシヌプリ(1252)か天望山(1174m)、白雲山(1186m)のいずれかに登りたいと思っていました。登山がダメでも、然別湖の湖畔の奥にある東雲湖まで歩きたいと考えていました。もし山に登ることができれば、南側に広がる十勝平野と北側に広がる然別湖、そして北側に広がる然別湖から石狩岳山系の山並みを見ることができるこしれません。
 もうひとつの目的は、大学生の時代に山小屋設立委員会という組織に参加して寄付を集めや山小屋建築に加わっていました。その山小屋が、東ヌプカウシヌプリの南東山麓にありました。大学1年生の時に、士幌町から提供を受けていた候補地から、最終的に山小屋を立てる位置を決定するために、その地を訪れました。その後、仲間とやぶこぎをして白雲山の頂上に立ったことを覚えています。2年生の夏には、山小屋建築の手伝いをしたあと、キャンプをして然別湖の東岸を歩いて回りました。
 然別は、私の学生時代の思い出の地ともいえます。2年生の秋に山小屋は完成したのですが、3年生の冬に友人と宿泊に行ったきり、その後は山小屋に行くこともなく、記憶から完全に抜けていました。今年は設立30周年にあたり、山小屋がどうなっているかを、チャンスがあれば見てみたいと思っていました。
 北海道の新しい時代(第四紀)の火山は、2つのグループに分けることができます。ひとつは、東北日本からつながる道南の西南北海道火山地帯です。道南の火山は、東北日本弧と呼ばれる地帯に属することになります。
 もうひとつは、千島列島からつらなる阿寒-知床火山地帯と、その延長で大雪山を中心とする大雪-十勝-然別火山地帯があります。火山のない地帯は、常呂帯が分布しています。こちらの火山は、千島弧と呼ばれる地帯に属します。
 西南北海道火山地帯と大雪-十勝-然別火山地帯の間の火山のない地帯には、礼文・樺戸帯と空知・エゾ帯があります。
 北海道の火山の分布の特徴は、日本列島の大きな地質構造を反映しています。日本列島の太平洋側の海底には、日本海溝と千島海溝があります。実はこれら2つの海溝は、襟裳岬の南東沖で折れ曲がっています。海溝とは、海洋プレートが沈み込む場所です。その沈み込む場所が折れ曲がっていれば、当然、陸地側にも影響があります。
 まず、北海道の火山の並びをよくみると、地帯ごとに火山の並びができています。その火山の並びは、海溝の伸びる方向と斜交しています。このような斜交している状態を、雁行(がんこう)状と呼びます。雁行とは、雁が飛んでいく時のできる編隊の形に似ていることです。このような雁行状の火山は、沈み込むプレートが、陸地に対して折れ曲がっているためにできた割れ目に、対応していると考えられています。
 また、火山地帯内の個々の火山は、海溝からの距離に応じて、化学組成(二酸化珪素SiO2に対する酸化カリウムK2Oや酸化鉄FeOなど)が変化していることもわかっています。
 これらのデータは、火山の位置やマグマの性質が、地下深部の地質構造を反映していることを意味します。
 さて、然別湖の周辺の山々ですが、その多くは、新しい時代の火山からできています。新しい時代の火山は、然別火山群と呼ばれ、大雪-十勝-然別火山地帯の最南端に当たります。東ヌプカウシヌプリ(標高1252m)、白雲山(1187m)、天望山(1174m)が然別火山群に属し、他にも、北ペトウトル山、南ペトウトル山、西ヌプカウシヌプリ(1256m)などもあります。
 然別火山群の火山をつくったマグマは、安山岩質で、溶岩ドームを形成してます。大小10個の溶岩ドームが見つかっています。東雲湖や東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリの間にある駒止湖、白雲山の南から西の切れ込んだ斜面は、爆裂火口の跡です。然別火山群の南のなだらかな麓は、古い溶岩ドームが崩れた火砕流堆積物や岩屑なだれ堆積物が広がっています。また岩砕なだれ特有の流れ山の地形もみられます。
 活動の時代は、南ペトウトル山(31万年前から)や北ペトウトル山(22万年前から)などの然別湖の西側にある火山が活動をはじめ、南側の火山に活動が移ります。南側の火山活動をはじめる前に活動した瓜幕軽石流堆積物の年代測定(14Cによる放射年代)は、3万1920年前より古いことがわかっています。その後、ドームを形成する火山活動が起こります。そして、白雲山がもっとも最近の火山活動となります。
 然別湖は、これらの火山活動によって、然別川の支流のヤンベツ川がせき止められてできた堰止湖になります。然別湖の西岸を巡る道路は、然別湖から下るときは、ヤンベツ川から離れ、西ヌプカウシヌプリの山腹をめぐるように進みます。その道路わきに、展望台があります。そこから眺める扇ヶ原のなだらかな斜面、そしてその先には十勝平野が広がっています。このなだらかな斜面が、激しい火山活動によってできたものです。
 東ヌプカウシヌプリの麓には、士幌高原ヌプカの里という施設ができていました。そこを見学するために、車で斜面を登っていきました。その途中にチセフレップという看板を見つけました。
 チセフレップとは、私が学生時代に設立に参加した山小屋の名前でした。今も大学の恵廸寮の後輩たちが守って、利用していました。ヌプカの里にいった帰りに、チセフレップの山小屋に立ち寄りました。改装中で足場が組まれていましたが、見覚えのある赤い三角屋根を見ることができました。もう帰る時間だったので、長居はできませんでしたが、懐かしい思いに浸ることできました。
 然別の山の頂上から、若かりし頃の思い出と、大地の悠久の思いを感じてしまいました。

・裾野・
十勝平野と火山の堆積物の交わる付近に
瓜幕の町があります。
自衛隊の駐屯地があり、
扇ヶ原は自衛隊の演習場となっています。
私が訪れた時は演習は行われていませんでしたが、
周辺の道を走っていると、
自衛隊の車両にたくさんあいました。
演習場があるため、
山の裾野を巡る道路は分断されています。
そのため、大きく迂回をしなければなりませんでした。
時間に余裕があったので、
然別の周辺をいろいろ巡ることができました。

・白雲山・
白雲山に最終的に登ったのですが、
当初は東雲湖まで湖畔沿いの平坦な散策道を
歩く予定でいました。
ところが、生い茂る木で展望もよくなく、
あまり面白くない散策で少々私は飽きていました。
途中で、白雲山に登る分かれ道があり、
そこで休息していました。
ちょうど、その時、白雲山から下山してきた夫婦がいました。
まだ、朝10時頃だったので、簡単に登れそうだと思い、
急遽登山をすることにしました。
ところが、この登山道は、踏み後ははっきりしているのですが、
手入れがあまりされておらず、
クマザサが覆いかぶさるように茂っていました。
家内はバテ、次男がクマザサに悩まされながらも、
いまさらこんな道を戻るのはいやだという思いで、
皆頂上に立つことができました。
苦労の末の登頂だったので、その感激は皆ひとしおだったようで、
疲れてはいましたが、眺望を楽しみました。
子どもたちは、山頂が岩山だったので、
疲れも忘れて岩登りをして遊んでいました。
元気なものです。
どれくらいかかるか分からなかったので、
昼食できるような軽食と十分な水や飴玉を
用意していたので、無事下山してきました。
帰りは、正規の整備された登山道を降りてきました。

2008年7月15日火曜日

43 三方五湖:年縞の記録(2008.07.15)

 三方五湖は、福井県の中央に位置しています。若狭湾国定公園の一部ともなっています。静かな湖底の堆積物には、長い環境の記録が残されていました。

 今年の春休みに、福井県に行きました。その時、三方五湖を訪れました。私は京都生まれなのですが、小さい頃に日本海側にいった記憶ありません。その後、日本海側をみる機会がいくつかありました。一つは、大学院と研究員のときに鳥取に5年間住んでいたことから、日本海側の山陰はいろいろ見て回っていました。また、博士課程での研究テーマに関係する野外調査で、京都府から福井の西側の一部は、歩き回っていました。しかし、福井県の中部から東部にかけては、いった記憶がありせん。もちろん、北陸へあるいは敦賀港(フェリーを良く利用したため)から移動するためために通過したことがありますが、じっくりと見て回ったことがありませんでした。そこで今回の旅で、福井県を見て回ることしました。
 見たいところとしては、大島半島と若狭蘇洞門(そとも)、三方五湖がありました。大島半島ではオフィオライト(地球のささやきというエッセイで紹介しました)を、蘇洞門では花崗岩とその柱状節理を見るつもりでした。しかし、大島半島は激しい雨でみることができず、蘇洞門も天候不良(フェリ欠航)と冬季間の通行止めで、いずれも見学することができませんでした。
 残されたものは、三方五湖です。天気は、風が強く肌寒かったのですが、周辺とレインボーラインを巡ることができ、5つの湖を見ることができました。
 三方五湖とは、三方地域にある5つの湖という意味です。三方とは、三潟とも書かれていて、三つの潟のあるという意味でつけられました。古くからこの地域は、三方郷として知られていました。万葉集の7巻にも、
 若狭なる 三方の海の 浜清み 
 い往き還らひ 見れど飽かぬかも(作者不明)
という歌が残されています。三方は、古くから知られた有名な所だったのです。
 三方郡三方町は、2005年3月31日に、三方郡三方町と遠敷郡上中町が合併して若狭町となりました。三方町はなくなりましたが、三方上中郡を新設され、三方の名称は残りました。
 5つの湖とは、三方湖、水月湖、菅(すが)湖、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖です。配置は、日本海に面して、東に久々子湖(周囲7.0km、最大水深3.0m、面積2.25km2)、西に小ぶりの日向湖(周囲3.6km、最大水深38m、面積0.92km2)があります。その南側に水月湖(周囲9.85km、最大水深38m、面積4.06km2)、それに小さく東に寄り添うように菅湖(周囲4.2km、最大水深14.5m、面積0.95km2)があります。水月湖のさらに南側に三方湖(周囲9.6km、最大水深2.5m、面積3.45km2)があります。三方湖、水月湖、菅湖の3つは、もともとつながっています。
 久々子湖と日向湖は、海と細い水路でつながっています。久々子湖の水路は満潮のときだけ、海水が逆流するため、汽水(海水と淡水が混じった状態)となっています。日向湖は完全な海水です。
 その以外の3つの湖は、海からは完全に切り離されていました。しかし古くからこの地域の人々は、治水や耕作のために、この湖に手を加えていました。1662年から開削された浦見川によって、水月湖と久々子湖はつながりました。1751年には、嵯峨隧道の開通によって水月湖と日向湖がつながりました。また、1860年に、菅湖と三方湖とは「堀切」で人工的につながれています。そのため水月湖と菅湖は、汽水になりました。いくつかの水路と湖を経ていますが、海とつながっているはずの三方湖ですが、現在でも淡水のままで、コイやフナ、ワカサギなどとが獲れるそうです。
 古くから人が、手を加えてきた三方五湖ですが、その自然は破壊されることなく、人々が暮らしの中で守ってきました。その結果、北西に伸びる常神半島と三方五湖周辺地域は、1937年6月15日に名勝「三方五湖」として国の指定を受け、1955年6月1日には若狭湾国定公園に指定され、2005年11月8日にラムサール条約指定湿地に登録されています。
 三方五湖は、地球の環境変化を記録していることがわかってきました。その記録は、湖底の堆積物の中にありました。三方湖と水月湖が、重要な役割を果たしています。
 1980年に三方湖の湖底にたまった堆積物をボーリングして調べることが行われました。三方湖には、はす川という比較的大きな川があります。その川が堆積物を運んでくるため、堆積物がたまって三方湖は比較的浅くなっています。水月湖の最大水深38mもあるのに対し、三方湖の最大水深は2.5mしかありません。これは、河川の囲んでくる堆積物の量を反映しています。他の湖には小さな川があるのですが、大きなものはなく、堆積物を運んでくる機構がないので、湖底にたまる堆積物が少ないのです。
 水月湖は、湖水の上部(水深0~6m)が淡水となり、下部(水深7~40m)汽水となっています。しかし、下部の汽水には生物がほとんど棲んでいません。それは、下部の水が無酸素状態になっているためです。
 水月湖には、大きな川のある三方湖からは淡水が入ってきます。一方、水路によって久々子湖からは汽水が流れ込みます。淡水に比べ海水を含む汽水は密度が大きく、底にたまるようになります。密度の違う水が2層に分かれた状態では、表層の淡水が風などで波立ったとしても、表層だけが混ざり、湖底の汽水の部分はたまったまま、混ざることがありません。そのような状態が長く続くと、空気に触れることなく、有機物が分解していき湖水中の酸素をすべて使ってしまいます。そのため、生物がほとんど棲めない無酸素の水となります。2006年時点で、下部の湖水は、硫化水素を含む無酸素状態となっているそうです。
 周りの影響を受けずに、湖の環境だけを調べるためには、三方湖より水月湖の方が、適しています。それは、土砂の流入が少ないので、ひとつひとつは薄い堆積物になりますが、短いボーリングでより多くの時代の堆積物を得ることができるからです。また、無酸素で生物が棲めないために、薄い堆積物が、乱されることなく保存されます。
 そのような穏やかで土砂の流入が少ないところでは、湖の四季の変化が、堆積物に記録されていきます。春から夏まで、湖の表層にすむプランクトン(珪藻)が繁殖して、その遺骸が湖底にたまり、白っぽい堆積物が形成されます。秋から冬には、プランクトンの活動は衰え、細かい黒っぽい堆積物(粘土鉱物)が堆積します。白と黒で1年分となります。長年同じ状態が続くと、白黒の縞模様が堆積物が形成されていきます。これは、木の年輪のように、縞模様から年を数えることができます。このような年毎の縞模様を、年縞(ねんこう)と呼んでいます。
 1991年と2006年に、水月湖の湖底でもボーリングがおこなわれました。その結果、三方湖のボーリングで5万年間の記録だったのですが、水月湖では世界で最も長い年縞の記録である15万年分の堆積物が得られました。これらの年縞を詳しく調べることによって、地球の環境変化が読み取ることが可能となります。現在研究が進められています。
 地道な調査研究から、三方五湖のでき方がわかってきました。
 古い時代から、そして現在も活動している三方断層が、三方五湖の東縁にあります。この断層がいつできたかは分かりませんが、30万年前には、今より海水面が20mほど高くなり、断層の沈降部に海水が張り込み湾となりました。そして少なくとも15万年前には、水月湖の湖底に堆積物がたまり始めました。
 約2万年前の氷河期に、日本海の海面が100m以上も低くなり、断層のくぼ地に淡水がたまり湖となりました。これが三方五湖と始まりです。当時の三方五湖は、海岸から遠く離れた内陸の湖でした。5000年前くらいの縄文時代前期には、海面が現在より3~5mほど高くなり、三方湖は、水月湖と菅湖がくっついて一つとなった大きな湖で、北の湖の部分は湾として海とつながっていました。
 その後海面が下がりましたが、久々子湖はまだ大きな入江でした。三方五湖の東で海に注ぐ耳川が運ぶ土砂が、海流で運ばれて入江にたまり、入口がほとんどふさがれました。1500年前には、今と同じように久々子湖は、細い水路で海とつながっている状態になりました。そのような長い時間の経過を経て、現在の三方五湖ができてきました。
 三方五湖には、少ないながらも堆積物が、今も、川から運ばれ続けています。ですからこれからも、湖には堆積物はたまり続けることでしょう。時間の差はあるでしょうが、三方五湖が浅くなり続けることを意味します。それが周辺にどのような環境変化をもたらすかは、まだ分かりません。今の環境も、ある時間での環境の一断面に過ぎないのです。

・夏風邪・
発行が少し遅れました。
それは、体調不良のためです。
先々週の末に、夏風邪をひいてしまいました。
だんだん病状は悪化し、ひどく咳き込むようになりました。
あまりひどい咳で夜も寝れないほどです。
咳止めも種類を換えたのですが、あまり効果がありませんでした。
今週になって風邪の方は治まったのですが、
ひどい咳のために、筋肉痛から腰痛に発展して、
身動きが不自由になりました。
今まだ不調なのですが、授業あるので、
なんとかがんばって出てしました。
授業が終わったら、昨日に続いてマッサージに出かけます。

2008年6月15日日曜日

42 仏ヶ浦:青と白と緑の絡み合い(2008.06.15)

 下北半島の西はずれの海岸に、奇岩が続く海岸があります。仏ヶ浦と呼ばれ、景勝地として名高いところです。しかし、思ったほど観光化されていませんでした。そんな仏ヶ浦で考えました。

 青森県、下北半島の西はずれに、断崖絶壁がつづく海岸があります。断崖の海岸にも、少しばかりの浜辺があります。しかし、人家はありません。そんな海岸線なら日本のいたるところにあるのですが、仏ヶ浦は少々変わっています。その景観が、この世のものとも思えないような、不思議な光景でした。仏が住むようなあの世を思わせるような景観です。狭い浜辺の断崖に紛れるように神社が造られています。この光景には昔の人も見せられたらしく、詣でる人がいるわけです。しかし、かつては、地形が急峻なこと、交通がないこと、地元の人しかしらないような秘境のようなところでした。
 1922(大正11)年9月に、この地を訪れた文人で紀行家の大町桂月は、
「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」
という歌を残しました。仏宇陀とは、仏ヶ浦のことです。大町桂月がこのように仏ヶ浦を紹介したことによって、全国に有名になりました。今では、大町桂月のこの歌が歌碑として仏ヶ浦に建てられています。
 仏ヶ浦は、1934年には青森県天然記念物に、1941年4月23日には国名勝および天然記念物に、1968年には下北半島国定公園に、1975年には周辺の海域が仏ヶ浦海中公園に指定されています。2007年に、仏ヶ浦は日本の地質百選に選定されました。ですから、この景観は人々の注目を集めていたのでしょう。
 これほど有名な観光地でありながら、仏ヶ浦へのアプローチが不便で、思ったほど観光客が多くありませんでした。陸路は、車で直接いける道がなく、断崖の上にある道路から急な階段を下りていくしか(もちろん返りは登りになります)ありません。しかし、1991年に、観光船が接岸するための小さな桟橋(仏ヶ浦港)が仏ヶ浦に建設されました。この仏ヶ浦港によって、北側の佐井港か、南側の牛滝漁港から観光船によるルートができました。観光バスが横付けできないので、仏ヶ浦を見学するには、時間がかかることになります。そのせいもあって、有名なわりには観光客が少ないのかもしれません。
 私は、昨年夏、家族でこの地に出かけました。むつ市内から車で来たので、一番近い牛滝から行くことにしました。地図を見ると、佐井港は仏ヶ浦から遠く、牛滝漁港はすぐ近くにあります。ですから、迷うことなく、牛滝漁港から船で仏ヶ浦へ向かうことにしました。行く時の船は、私たちの家族だけの貸しきり状態で、快適な船旅でした。海路は快適で、2kmほどに渡って続く白っぽい侵食された岩石の断崖が見ながら、15分ほどで仏ヶ浦に着くことができました。
 仏ヶ浦の不思議な光景は、海岸の切り立った崖が、波や流水によって浸食を受けた結果です。雲の形のように侵食されたタフォニとよばれるものや、流水によると思われる縦にすじがたくさん入った侵食地形、海の波の浸食による崖(海食崖ととよばれます)など、さまざまな侵食地形がみることができます。
 浸食され切り立った地層になるのは、地層を構成する岩石が脆いことを示しています。岩石は、白から緑白色で、場所によっては緑色を帯びることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれているもので、もろい岩石となっています。
 下北半島の西部は起伏の多い山地の地形となっています。この山地は、奥羽山地の北方延長に位置しています。新生代以前の古い地層や花崗岩類が基盤としてあり、その上を新生代のネオジン(新第三紀と呼ばれている時代)の地層があります。さらにその上に第四紀に活動した火山岩や火山砕屑岩が覆います。
 仏ヶ浦周辺の地層は、中新世古期から中期の檜川層と呼ばれるもので、その上に中新世中期から新期にかけて活動した中性から酸性マグマ(安山岩からデイサイトマグマ)に由来するの火山砕屑岩が分布しています。これらの火山砕屑岩がグリーンタフと呼ばれ、仏ヶ浦の海岸線をつくっているものです。
 下北半島の中新世の火山活動は、日本列島の日本海沿岸の広域に起こった一連のもので、グリーンタフ変動と呼ばれているものです。グリーンタフ変動は、本エッセイでも、一ノ目潟(33回)や東尋坊(40回)などで出てきたものです。新生代後期の日本海側の地質の特徴を語る時に、避けては通れない重要な地質の営みです。グリーンタフの火山活動の多くは、陸上だけでなく海中で起こり、火山岩やその水中の火山砕屑岩などとともに、堆積岩も出ることがあります。
 仏ヶ浦の奇岩類も、日本列島を特徴付ける活動の一つだったのです。
 むつ市内からの仏ガ浦までルートとして、国道338号から県道46号を経て川内湖をへて再度国道338号をいきました。しかし、この国道338号は、アップダウンが激しく、くねくね道で、一車線のところも多く、非常に時間がかかる道でした。多くの観光客は、アプローチのいい佐井港から高速観光船でいくようです。それを私は事前に知りませんでした。
 悪いことばかりでなく、時間がかかりましたが、人のあまり使わないルートでした。多分、交通が今ほどよくなかったときは、観光客もこのルートで来たのでしょう。その同じコースで見学することになったのです。いくら時間がかかるとはいえ、半日で見ることができるのです。また、小さな漁船が定期的に運航しているので、好きなだけ仏ヶ浦に滞在することができました。返りたい時に、もし船が来ていなければ、連絡すれば来てくれます。帰りは、もう一組の老夫婦と一緒になりましたが、それでもガラガラの状態でした。
 私が仏ヶ浦に行ったときは、曇っていましたが、仏ヶ浦の断崖とともに、海の色がすごいでした。そして、仏ヶ浦の景観をより際立たせているのは、海の青さではないかと思いました。さまざまに濃淡を変える海のブルーが、白ややや緑を帯びた崖をより一層映えさせていました。仏ヶ浦は、青と白と緑が絡み合っているところでした。

・強烈な思い出・
下北半島には、むつ市で2泊しました。
実質は一日半ほどて見学することになっていました。
初日に半日かけて恐山を見学したので、
2日目は、下北半島を一周する予定でした。
時計回りに可能な限り海岸沿いを見学しながら行くつもりでいました。
仏ヶ浦、大間(昼食でマグロを食べる)、尻矢崎など見て、
一周できればと思っていました。
ところが、大間に着いたのは、1時をかなり回っていました。
子どもたちは、大間でマグロ食べるのを楽しみにしていたので、
探し回って、大間のマグロを食べさてくれるところを見つけて
何とか昼食にありつけました。
今回は、地図と現実の交通とは一致しないので、予定が狂いました。
しかし、おかげで仏ヶ浦は強烈な思い出となりました。

・実習・
北海道も初夏になって来ました。
本州は梅雨にはいっているようですが、
蒸し暑い日が続いているのでしょうか。
北海道は梅雨がなく心地よい爽快な日々が続いています。
もちろん雨の日もありますが、蒸し暑いことはありません。
この時期、大学では淡々とした授業が続くのですが、
その授業の中に近所の子どもたちを集めて、
行事を企画するという実習があります。
その実習のリハーサルが今週土曜にあり、来週が本番となります。
40名ほどの子どもがきて、その子どもたちが楽しみながら、
学ぶことができるかどうかが、重要なところです。
さてさて上手くいくのでしょうか。

2008年5月15日木曜日

41 ニセコ:冬と夏の共存(2008.05.15)

 ニセコは、今や外国人観光客で賑わいをみせています。そのため、ペンションがあちこちにあり、ゴールデンウィークの直前でも、探せば空きが見つかりました。そこで家族でニセコにでかけました。

 皆様は、ゴールデンウィークをどう過ごされたでしょうか。自宅で過ごされた方、街に出られた方、旅行に出られた方もおられることでしょう。私は、ニセコに家族で旅行にでかけました。
 ニセコは、海外の方、特にオーストラリアからの観光客が多数来られるようになりました。ニセコは「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されているため、観光が主要な産業です。特に冬は、良質のパウダースノーを売り物にしたスキー場がニセコの山に裾にいくつもあります。日本人のスキー離れが進む中、外国からのスキー客を誘致に成功しました。
 平成20年4月末現在、ニセコの人口4671人(世帯数2100)のうち、外国人の方は54名(世帯数39)で、1%ほどの比率になります。北海道の小さな町で、外国人の占める比率が、かなり多いように感じます。外国人観光客の増加によって、観光産業自体の国際化で、ネイティブスピーカーの現地ガイドの重要が増してきているためではないでしょうか。
 ニセコに外国人が定住するということは、ニセコでは夏もレジャーに関わる仕事があるということです。豊富な水量ときれいな水をもつ尻別川を利用したラフティングやカヌーのような川遊びや、登山、トレッキングなども人気があるようです。特に雪解け水で増水した川でのラフティングは人気があるようです。
 海外からの観光ブームのためでしょうか、日本人観光客もかなり増えているように思えます。観光スポットは非常に多くの観光客があふれています。有名なところは、広い駐車場が満杯になるほどの混雑でした。ペンションも多数あります。ペンションの過度競争なのでしょうか、ゴールデンウィークでも空き室ができるほど空いてました。
 さて、私がニセコに行った理由ですが、家族サービスという目的はあったのですが、火山としてのニセコを見ることでした。今回のエッセイで取り上げるつもりでいたのです。ニセコには、何度も来ていますが、春のニセコには来たことがありませんでした。そこで、今回、ゴールデンウィークに出かけることにしました。
 スキー場としてニセコは有名で、山自体の姿は、それほど取りざたされることはありません。すぐ隣にある羊蹄山が、富士山のようにきれいな姿を見せているかたらかもしれません。しかし、私は、秋に来た時の紅葉のすばらしさと、温泉のイオウの匂いと共にニセコが記憶に残っています。
 ニセコはいくつもの火山からできています。成層火山の羊蹄山より、規模が大きく、東西に延びています。東西25km、南北15kmに広がります。東には、ニセコ火山群で主峰であるニセコアンヌプリ(1308m)があり、西は日本海に突き出すようになっています。
 非常に古くから活動してた火山で、雷電山、ワイスホルン、目国内岳(めくんないだけ)、岩内岳(いわないだけ)は、侵食によって火山の地形が不明瞭になっています。最初に雷電山、続いてワイスホルンが、200万~150万年前に活動を始めました。これ以降、西から東へ、火山活動が移動していきます。目国内と岩内岳が、150万~100万年前に活動していきます。白樺山、シャクナゲ岳が100万~50万年前に、そしてニセコアンヌプリが活動します。
 はじまった順に、火山活動も停止していきます。雷電山は100万年前に、岩内岳は50万年前、白樺山とシャクナゲ岳は30万~20万年前に、ニセコアンヌプリは20万年前に活動を停止します。
 その後、10万年ほど火山活動の記録は見当たらず、約10万年前に、再びチセヌプリが活動を始めます。そして、イワオヌプリがいちばん新しい火山で、2万~1万年前に活動を始めます。イワオヌプリでは、溶岩ドームを形成して、一部が崩壊して火砕流を発生したこともあります。
 最後の溶岩ドームの活動によって形成された火山噴出物(降下スコリア)直下の土壌で約6000年前の噴火年代が得られ、羊蹄火山灰層に覆われています。そのことから、約6000年前にイワオヌプリでマグマが噴火したのが最後の活動とされています。しかし、北海道大学の中川光弘教授によれば、マグマ噴火の6000年前より新しい時代の溶岩ドームがあるかもしれないという指摘がなされています。
 その理由は、新しい複数の爆裂火口があること、そして現在も噴気活動が続いていることから、まだ火山の活動は終了していないと考えられています。現在ニセコは、活火山に指定されています。活火山の定義は、1万年以内に噴火の記録のあるものですが、イワオヌプリはそれに相当します。
 ニセコの火山は、どうも休み休み、ゆっくりとした活動を繰り返してきたようです。そして複数の火山が同時進行で噴火をしてきたようでもあります。しかし、今のところ噴火の兆候はみられませんが、活火山として注意はしておく必要があります。
 5月初旬のニセコは、麓では春の花が咲き始めていました。ニセコアンヌプリのような高い山の頂部には、まだ雪がいっぱい残っています。ですから、高い山のスキー場はまだオープンしていたようで、春スキーを楽しんでいるスキーヤーがいました。スキー場のリフト乗り場の駐車場は車で、一杯でした。
 ニセコは、活火山ですので、温泉もあちこちにあります。私たちはペンションに2泊しましたが、1泊目はニセコ駅前にある温泉に出かけました。ニセコの温泉は、火山の恵みです。旅行に出かけて、いろいろな温泉に入るのは、大いなる楽しみになります。
 天気は良く、暖かい日でしたが、かげると肌寒いし、とても川に入る気のしない気候です。ニセコを廻っている途中に尻別川を何度か渡ったのですが、ラフティングのボートを何艘もみました。かなりの水量の中を翻弄されたボートが進んでいきました。皆ウエットスーツを着ていましたが、大勢の人たちが、川くだりを楽しんでいました。私は、尻別川に入るよりは、温泉に入りたいものです。
 山頂は雪が残っていますが、麓は花の季節を迎え、川遊びがはじまっていました。ニセコの春は、冬と夏が共存していました。

・開通・
最初、ニセコに出かけると決めた時、
家内の友人は、スキーですかとたずねたそうです。
この時期にスキーができるのは、
雪の量の多い、高い山で、ニセコがそれに当たっていました。
私は、五色温泉を通り抜ける道を行きたいと考えていました。
スキーがまだできるようなら、そのコースは無理かなと思っていました。
そのコースは、道路マップによると、冬季閉鎖となっていました。
しかし、ペンションの主人に聞いたら、
もう開通しているというので、ほっとしました。
その結果、ニセコアンヌプリを一周することができました。

・家族サービス・
ニセコへは、札幌から小樽経由で行きました。
渋滞はしていませんでしたが、
連休の初日でしたので、多くの車があり、
北海道の郊外ではめずらしく車が数珠つなぎで走っていました。
まして、ニセコは観光地ですから、
観光の名所には、多くの観光客が詰め掛けています。
特にアイスクリームとケーキで有名なところは、
駐車場が満杯の盛況でした。
私たちも、そこに半日いました。
子供たちと妻が、ガラスのトンボ玉を作ることと
アイスクリームを食べることにしていたので、
昼食をはさんで半日いました。
本当はアイスクリーム作りもしようかと思ったのですが、
屋外でおこなうので、風が肌寒かったので、あきらめました。
帰りは渋滞避けるために、美笛峠から支笏湖に抜ける道にしました。
その日は雨でしたが、移動日だったので、事なきを得ました。
滞在中は、天気はよかったので、家族サービスとしては
いい旅行となりました。

2008年4月15日火曜日

40 東尋坊:節理の隙間から(2008.04.15)

 福井県の東尋坊は、日本でも有数の観光地のひとつです。海に面した断崖絶壁をつくる節理が、見事なことから、多くの観光客を集めています。そんな節理の隙間から、想いを巡らしました。

 春休みに、京都から福井の日本海沿いを訪れました。その目的地の一つとして東尋坊がありました。東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の一部です。また、東尋坊周辺は、国の天然記念物及び名勝にも指定され、2007年には日本の地質百選に選定されました。非常に有名な観光地なので、訪れたことがある方もおられるかもしれません。海岸に切り立った断崖絶壁として、テレビのサスペンスドラマのロケ地によく使われるので、画面で目にされている方も多いかもしれません。
 同じような海岸の景勝地は、東尋坊だけでなく、周辺にも点々と見かけられます。そのいくつかは、柱状の岩石が不思議な景観をつくっています。今回は、この不思議な岩石の割れ目である節理を見ていきましょう。
 日本は火山の多い国です。現在活動中の活火山は100座以上あり、どの都道府県にも、活火山がありそうですが、活火山の分布をよくみると、福井県には活火山はありません。それは、幸いなことなのか残念なことなのかはわかりませんが。
 福井県の近くには白山という活火山がありますが、石川県と岐阜県の県境にあり、福井県内ではありません。新時代(第四紀)の火山としては大日山(福井・石川県境)がありますが、日本でも珍しく、火山が活発な地域ではありません。
 しかし、福井県内には古い時代の火山があります。過去の火山は、火山岩があるかどうかで調べることができます。福井県では、あちこちで火山岩が見つかっています。時代を問わなければ、日本で火山と関係していない都道府県はないのではないでしょうか。
 東尋坊は、見事な柱状節理が海岸に面して林立しています。その節理の面が、断崖絶壁となっています。柱状節理は、マグマが固まる時にできる岩石のつくりの一種です。ですから、東尋坊の柱状節理は、マグマに由来していることになります。東尋坊も、過去の火山活動によるものです。
 柱状節理のできかたですが、マグマが固まる時に液体から固体に変わるとき体積が減ります。マグマが冷える方向に対して垂直に割れ目ができ、多くは六角柱状、時には五角柱状の割れ方(節理のこと)になります。なぜ、六角柱状になるのかは、まだはっきりしていませんが、冷える時の熱の流れが関係していると推定されています。節理のできる方向は、マグマの冷え方を反映していることは確かです。節理の方向を丹念にたどると、マグマが流れた方向を推定することができます。
 東尋坊のつくったマグマは、安山岩質のマグマで、東尋坊安山岩と呼ばれています。この安山岩をよく見ると、何種類かの大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼ばれています)と、顕微鏡でかろうじて確認でできるほど小さな結晶が集まった部分(石基(せっき))があります。石基は、肉眼では淡い緑色から暗い灰色に見えます。斑晶は斜長石と輝石(紫蘇輝石と普通輝石)がらできています。斑晶の斜長石は白っぽく、輝石は濃緑色にみえます。全体として灰色の岩石に、白黒のごま塩状のつぶつぶが見えます。学術的には、紫蘇輝石・普通輝石安山岩と呼ばれています。この安山岩は特別なものではなく、日本ではごく普通にみられる火山岩です。
 東尋坊のマグマは、新生代の中新世中期(放射性年代測定では1270万年前)に活動したもので、先に海底にたまっていた地層(米ヶ脇層(こめがわきそう)と呼ばれています)に貫入しました。貫入してきたマグマは、鏡餅のような形でたまり、そのまま冷え固まりました。現在は、その鏡餅の半分が波で侵食されて、柱状節理がむき出しになり、東尋坊の見事な景観を形成しています。
 さて、この中新世という時代ですが、日本海沿岸で、多くの地域にわたって火山活動が起こった時期になります。火山活動の多くは、海中で起こり、火山岩とともに堆積岩も見つかることがあります。この時代のこれら地域の火山岩やその砕屑物の多くが、緑っぽい色をしていることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれています。時代と地域を限定されているため、それらの岩石を生み出した活動を総称して、グリーンタフ変動と呼ばれることがあります。
 グリーンタフ変動とは、何を意味しているのでしょうか。実は、日本列島の形成において、重要な役割を果たしていることがわかってきました。
 日本列島は、昔からずっと列島として存在したのではなく、中新世以前は、大陸の端にくっついて存在していました。中新世になって、大陸の縁に巨大な裂け目(リフトと呼ばれます)ができました。その裂け目は現在アフリカ大陸に見られる大地溝帯のようなものだと考えられています。その割れ目に沿って、激しい火山活動が起こりました。
 割れ目の拡大と共に、海水が浸入してきました。それが今の日本海の始まりです。完全に大陸から切り離された陸地は、日本列島の始まりとなります。東北日本は、激しい火山活動をしていましたが、中新世にはまだ陸化しておらず、ほとんど海底での活動でした。鮮新世になると、陸化しはじめてきました。
 西南日本では東北日本ほど激しい活動ではありませんでしたが、日本海周辺での火山活動が多くの場所でみれます。東尋坊の火山活動も、グリーンタフ変動の日本海形成に伴う火山活動だと考えられています。比較的穏やかな火山活動とはいっても、人間にとっては、日本でも有数の雄大な景観を思わせるのです。
 私が、東尋坊を訪れたのは、時々小雨の降る、風の強い、肌寒い日でした。絶壁の端っこに立つと、足がすくむような思いがします。それでも怖いもの見たさでしょうか、多くの観光客が、断崖の端に立っていました。私は、もしそのとき風が吹いたら、もし足が滑ったら、もしバランスを崩したらなどと考えると、とても端に立つことなどできませんでした。
 私のそのような「恐れ」の気持ちは、小さな人間が持っている取るに足らないものかもしれません。地球の時間の流れからすれば、東尋坊の断崖絶壁もやがては、移ろい変化するものです。しかし、節理という何もない隙間から読み取れるマグマの物語があるように、小さな人間の「恐れ」の気持ちは、大地の偉大さを無意識に読み取ってものかもしれません。そんな見えない物語を、私は、節理の隙間から眺めていたのかもしれません。

・候補地選び・
この月刊のエッセイは、今まで、北海道と
それ以外の地域(北海道の人は内地と呼びます)を
交互に繰り返しながら書いてきました。
私が、北海道に住んでいるから、それが適切なやり方だと思っていました。
しかし、今回から、その順番を守らないことにしました。
その理由は、北海道内は、出かけることも多いのですが、
ワンポイントである地域を見に出かけます。
ですから、一回のエッセイのネタにはなりますが、
6回分書くには、長期に旅行をするか、何度も旅行するかになります。
近くなら何度もいけますが、遠くとなるたとえ北海道内とはいえ、
多くの日数を費やします。
ところが内地なら、長期の旅で、何箇所も見学することになります。
主に海岸沿いですが、現在研究の一環として、
長期計画ですが、日本列島の多くの地域を訪れる計画をしています。
そのため、年に1度か2度は、長期の内地旅行にでかけています。
ですから、内地のネタであれば、それを何回かに分けて書けます。
今回の京都から北陸の旅も、あと2回書く予定をしています。
以上のようなわけで、今後このようなパターンで
エッセイを続けていきますので、ご了承ください。

・グリーンタフ・
グリーンタフというのは、地質学者が野外で岩石を呼ぶときに用いた
一種のニックネーム(フィールドネームといいます)から由来しています。
ですから、グリーンタフ変動に含まれる岩石が
すべて緑色っぽいかというと必ずしもそうではありません。
グリーンが少ないものだってあります。
東尋坊の安山岩も緑色ではなく、灰色です。
グリーンタフの岩石は、もともと緑色の岩石であったのではありません。
岩石を構成している輝石や角閃石などの鉱物が、
海底で熱水による変質のため粘土鉱物(緑泥石などの緑色の鉱物)に
変化したものです。
今では、グリーンタフが海底火山として誕生したこと、
さらにそれが日本列島の誕生に深く関わっていたことがわかってきて
その重要性は増してきました。

2008年3月15日土曜日

39 竜串:地層の串刺しを目指して(2008.03.15)

 黒潮に洗われる四国西南端の足摺岬の付け根に竜串ということろがあります。竜串では、隆起した海食台があり、地層をよくみることができます。そんな地層を串刺しにするつもりで調査にいきました。

 2007年9月に四国の南西にある竜串というところに行きました。竜串の近くの「見残し」というところとともに、奇岩からなる海岸として、観光地になっています。竜串の名称は、地層の並びが竜を串差しにしたように見えるためだという説があります。私は、航空写真も見ているのですが、そうは見えません。
 海岸の地層は、非常に整然ときれいに露出しています。北東-南西に伸びて(北から東へ約60度)、西に約60度の傾斜した地層となっています。それが、竜のうろこのように見えるのかもしれません。
 竜串や見残しは、このような整然とした地層がさまざまな形態を持っているので、名所となっているのす。竜串は、高知県の足摺岬の付け根付近にあたり、土佐清水市にあります。
 竜串は、駐車場から歩いていけますが、見残しは竜串から船を利用するか、半島の尾根からかなり歩いて降りるしかありません。年間80万人も観光客が訪れている足摺岬と比べると、竜串はその5分の1ほどの観光客しか訪れません。まして、アクセスの悪い見残しは、さらに少なくなります。しかし、観光客が訪れないから、面白くないかというとそうではなく、私にとっては足摺岬より竜串や見残しのほうがずっと興味深いものでした。
 そもそも私が竜串を訪れたのは、地層調査をするためでした。とはいっても、一般的な地質調査ではなく、調査法の開発を目的としていました。デジタル画像でもれなく詳細に地層を記録する方法を考案して、それを検証するためでした。そのために典型的な地層の出ている場所を探していました。愛媛県西予市城川町の地質館でおこなっている仕事もあったので、四国西部で探していたところ、竜串が候補に上がったのです。
 竜串や見残しは、足摺宇和海国立公園に1972年11月10日に指定されています。海中公園とは、海中に美しい景観や貴重な自然があるために指定されたものです。この付近の海は黒潮の影響を受けているため、サンゴや熱帯魚などがみられます。グラスボートや海中展望塔などもあるため、海中も見ることができます。
 調査の候補地として国立公園は最適でした。なぜなら、試料を採取することはありませんから、アクセスが良く、環境が整備され、宿泊施設が近くにあるためです。
 足摺岬から竜串にかけては、海岸が隆起した地形で、海岸段丘が発達しています。海岸線は海の波によって侵食(海食と呼ばれています)を受けて、断崖がつらなる険しい地形となっています。竜串や見残しは、海食台が海面上に顔を出し、不思議な景観を見ることができます。このような景観を見るべき価値があるのですが、弘法大師がこのような素晴らしいところを見残したということにちなんで、地名がつけられたそうです。ただ、史実がどうかはわかりませんが。
 このような隆起は、地球の営みであるプレートテクトニクスによっておこっています。四国の太平洋側の南海トラフでは、フィリピン海プレートが沈みこんでいます。このような場所は、海洋プレートの沈み込みによって南から北におされて圧力を受けます。そのため、陸側は大地が圧縮される所になり、場所によって上昇したり下降したりすることになりますが、全体としては上昇していきます。また、沈み込むプレートに引きずりこまれた岩石が、その引きずりの力を変形によって吸収しきれないとき、岩石は壊れながら跳ね返り(弾性跳ね返りと呼ばれます)が起こります。それが、海溝タイプの地震となります。
 これらの作用が四国の太平洋側では継続的に働いています。1946年に起こった南海地震では、足摺岬周辺は1mほど隆起しました。広域で平均すると1000年で2~5mほどの隆起していると推定されます。竜串や見残し海岸は、2000から3000年前に隆起したと考えらています。
 四国の南西部は、足摺岬や沖の島で花崗岩などの火成岩がところどころにみられますが、それ以外の地域は、中生代から新生代の地層が広く分布しています。このような堆積岩の分布する地帯を、川の名称から四万十帯と呼んでいます。
 四万十帯は、北から白亜紀前期(1億2000万~1億年前)、白亜紀後期(1億~6500万年年前)、新生代始新世から漸新世前期(5000万~4000万年前)、漸新世後期から中新世(3000万~2000万年前)の地層が東西に帯状に分布しています。北ほど古く、南ほど新しい地層がでています。これはフィリピン海プレートの沈み込みによって、大陸棚にたまった地層が長い時間をかけて持ち上げられた結果です。四万十帯の地層は、大地の営みの歴史が、残されているところなのです。
 竜串は、四万十帯の中で一番南方に位置していますから、最も新しい漸新世後期から中新世に形成された地層となります。岩石としては、砂岩と泥岩が交互に繰り返している地層(互層と呼びます)からできています。このような互層が繰り返しているものは、陸地から大陸棚に向かって、何度も土石流(乱泥流あるいはタービタイトと呼ばれています)が流れ込んだ場所になります。
 大局的見ると地層が整然と並んでいますが、ひとつひとつの地層をよく見ると、それぞれに個性があります。
 地層の中に細いすじが多数見られることがあります。すじが斜交するものを斜交葉理(クロスラミナ)、平行なものを平行葉理(パラレルラミナ)と呼んでいます。葉理は、地層がたまるときの流れの様子を現しています。斜交葉理は乱れた流れを反映したもので、平行葉理は静かにたまったり、一定した流れでできます。
 地層内で土砂がたまるときに、堆積状態が乱れる(乱堆積と呼ばれる)と、さまざまな変わった形態の地層ができていきます。まだ固っていない泥の中に、地震で液状化現象で砂が移動して、地層の中で縞模様が褶曲したりします。このような渦巻き構造は、コンボリューションとよばれ、竜串で「しぼり幕」や「らんま岩」とよばれているものがその典型的な例となります。
 また、下の地層から水が噴出したときに通過された地層には、竹の節目のような構造ができます。これも竜串では「大竹小竹」と呼ばれているものです。
 地層の中に石灰質や珪質などの球状の沈殿物が形成されることがあります。このようなものは団塊(ノジュール)と呼ばれ、ある地層に多数形成されることがあります。竜串では、「蛙の千匹づれ」があります。
 海底の表面に波に形成された、規則正しく繰り返された波模様(漣痕:リップルマック)ができます。それを乱すことなく地層が覆うことよって地層の中に化石のように漣痕が残されることがあります。流れの方向と直交するようにリップルマークはできますが、緩やかな傾斜で非対称な波形は河口付近で、左右対称なものは浅海の海底で形成されたと考えられています。もちろんこのようなリップルマークも竜串でみることができます。
 海底や海底の堆積物の中に住んでいた生物が残した、足跡・ハイ跡・巣穴・排泄物などが化石になることがあります。このような化石を生痕化石と呼んでいます。竜串・見残し海岸では、コブ状突起がある管状の生痕化石(アナジャコ類の住まいの跡)、管状のもの(カニやアナジャコ類などの巣穴や食べ歩き痕)などを多数みることができます。
 これらの堆積物の特徴から、竜串の地層は、浅い(水深50m以下)の海底砂州でたまったと推定されています。
 今回の調査は、このような地質を調べるのが目的ではなく、その記録をどうすれば効率的に、もれなくできるかを考えるものでした。そのために新しい調査用道具の試行も兼ねていました。
 丸一日を詳細な調査に当てることができました。しかし、半日かけて長さで30m弱ほどの地層を連続的に詳細に記録したのですが、このペースでは到底終わりそうもないので、本当は竜串海岸の地層全体を対象にしたかったのですが、他に40m弱ほどの地層を簡易的に記録しました。合わせて66mの長さの地層を記録したことになります。それでも、竜串全体からすれば3分の1程度の地層しか記録したにすぎません。残念ですが、限られた時間でおこなった調査なのであきらめるしかありません。竜串の海岸線を串刺しにするような調査はやり切れませんでしたが、検討用のデータは十分取れたと思っています。その成果は、現在まとめている最中です。

・想定外・
竜串での調査は、丸3日間を予定しました。
本当は詳細な調査を2日、あとは道具の検証として、
周辺の地層の調査を1日かけて調査をやる予定をしていました。
できるだけ長く調査測線をとるため、
初日は一番端の地層からはじめることにしました。
朝、海岸に行くと、潮が満ちているときは、
海面にはでていない地層がかなりでていました。
これ幸いと調査をはじめたのですが、
乾いていない地層は非常に滑りやすく、
注意をしていたのですが、すべってころびました。
その時、あちこちすりむき、メガネも壊してしまいました。
擦り傷の治療とメガネの修理のために、
1日を台無しにしてしまいました。
カメラなどの機材は大丈夫だったので、
調査を継続することができました。
翌日、まだ傷はいえていませんが、
調査をしないと帰れませんから、かんばって始めたのですが、
こんどは暑さにやられて効率が上がりませんでした。
今回の竜串の調査では、なかなか大変の思いをしました。

・恒例の台風・
愛媛県西予市に私は毎年のように通っています。
昨年9月にもその予定があったので、
日程を調整して、竜串の調査を加えました。
しかし、千歳から出発のときに、台風が北海道を通過して、
予約していた飛行機の便が欠航になりました。
やむなく1日遅れで出発することになりました。
毎年、9月前半に出かけることが多いので、台風の影響を受けます。
昨年も例外ではなかったのです。

2008年2月15日金曜日

38 支笏湖:穏やかさと激しさ(2008.02.15)

 支笏湖には、自然が残されています。しかし、その自然の中には、穏やかな人を癒してくれるものだけでなく、激しい異変や破壊を伴うものもあります。それも含めて、自然と見る必要があるのかもしれません。

 北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
 私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
 北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
 支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
 明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
 北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
 その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
 この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
 明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
 支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
 王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
 王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
 北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
 もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
 火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
 1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
 しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
 記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
 自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
 一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
 そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。

・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。

・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。