山高きがゆえに貴とからずです。では、山低きがゆえに貴し、となるでしょうか。日本一の低山を登頂してきました。そこには、大阪のユーモア(諧謔)がありました。
「山高きがゆえに貴とからず」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。もともとこの言葉は、平安時代後期に成立した庶民向けの教科書の「実語教」に出てくる言葉で、正式には、
山高故不貴 以有樹爲貴山
山高きがゆえに貴とからず 樹有るをもって貴しと為す
という言葉です。その意味を考えてしまうところへ、今回は、案内しましょう。
春休みに、里帰りを兼ねて大阪と京都、奈良などへの旅行の予定を立てて行きました。ところが、全国的に嵐で、飛行機の飛ぶのも危ぶまれる天候でした。関西空港に到着した初日と翌日はかろうじて、晴れていましたが、それ以降3日間ずっと肌寒い雨で、帰る日にやっと回復しました。京都や奈良の神社や寺などを見る予定をしていたのですが、観光地は、外を歩くことが多いいため、寒い雨に日に出かける気になりませんでした。しかし、2日間はなんとか京都にでましたが、屋内ですむところを回りました。
さて、1日目は大阪に宿泊したのですが、その目的の一つは、家族は、海遊館と大阪城を見ることでした。私は、日本で一番低い山を見ることを楽しみにしていました。まあ、話のタネにというつもりでしたが。
それは、天保山(てんぽうざん)という山です。海遊館のすぐ脇に天保山があります。天保山公園があり、公園を入ってすぐに山が見えました。次男は、それが日本一低い山だと思って、一番乗りをするために駆け上りました。私は、どうもおかしい、こんなはずはないと思いました。あまりに中途半端な山だからです。山らしく見え、どこにでもありそうな山に思えたからです。
天保山公園の中で周りを見渡すと、「日本一低い山、天保山山頂はこらら」という矢印付の案内看板を見つけました。そして、そこには、「標高は4.5m びっくり」という吹き出しが書かれています。その矢印に従って、くねくねと道を進んでいくと、「二等三角点」と「天保山頂」という看板がなければ見過ごしてしまいそうなところに、天保山がありました。
石畳の中に、花崗岩に「+」マークのついた三角点の石が埋められていました。これは、二等三角点でですが、地面と同じ高しかありません。いや、少しくぼんでいるようにも見ます。この三角点マークが天保山山頂となります。標高4.53mとは、この当たり一帯の平地の高さでもあります。これを山と呼んでいいかどうか迷うほどの標高しかありません。
しかし、天保山には天保山山岳会があり、頼めば、登山証明書を発行してくれます。登山証明書の発行は有料で10円だそうです。今時、格安料金ですね。でも、私は、証明書は遠慮しました。天保山は、登頂したかどうかも怪しい限りですが、山岳会といい、登頂証明書といい、どことなく大阪人のユーモアが漂っているように感じました。
まあ、山高故不貴 以有樹爲貴山(山高きがゆえに貴とからず 樹有るをもって貴しと為す)ということなら、天保山はそれにあたりません。しからば、天保山の由来はいかなるものでしょうか。
天保山の前を流れる安治川は、淀川から枝別れした大川(おおかわ)につながる運河です。大阪は、海運で栄えた町ですから、街中を船で貨物を運ぶために、掘削された人工の川がたくさんあり、安治川のその一つでした。
淀川から流れ込む土砂で、運河の川底が浅くなるたびに、浚渫されていたようです。洪水防止と大坂への大型船の入港のために、1831(天保2)年から2年の年月をかけて大規模な「天保の大川浚」が行われました。そのときに浚渫した土砂を積み上げてできた築山が天保山の発祥だそうです。できた当時は、十間(20mほど)もある築山になっていたようです。その築山は、安治川への目印となっていたため「目印山」と呼ばれていたようですが、築山ができた時代から、天保山と呼ばれるようになったそうです。
幕末に、ロシアの艦隊が大阪沖に現れたため、砲台を天保山に作って守りとしました。そのとき、天保山の山頂が削り取られて少し低くなってしまいました。第二次大戦後、地下水のくみ上げで地盤沈下が起こり、1971(昭和46)年に7.1m、1977(昭和52)年には4.7mまで低くなり、現在に至っています。1993(平成5)年には、国土地理院の地形図から山名が抹消されたが、地元からの要望によって1996(平成8)年7に再掲載されています。
山で最高峰というのは、標高の高さを測定すれば一義的に決まります。なぜなら、高いところは、今のところは、人工的にもそんな高いものはつくることもできませんので、最高峰は自ずから自然の高まりとなり、山という定義に合致します。
ところが、低さを誇ることと、山の定義は矛盾することがあります。まず、山とは、周辺より高いところがのはずです。となれば、天保山は「山」はついても、山ではなくなります。
また、同じ大阪の堺市堺区に蘇鉄山(そてつやま)というものがあります。ここには一等三角点があり、その中では一番低いところとなります。しかし、蘇鉄山も築山で人工的で、周り高いわけではありません。周りには木が茂っていますが、山頂自体には木がありません。以有樹爲貴山にも当たりませんでした。ただし、蘇鉄山にも、山岳会もあり、登頂証明書の発行もしてくれます。天保山も蘇鉄山も、どうも貴さを求めているわけではなさそうです。
自然の山としては、徳島県徳島市にある弁天山が、一番低いとされています。三角点などの測量のための重要性は持っていませんが、国土地理院発行の地形図に掲載されている山としては、日本一低い山になります。その標高は6.1mです。弁天山は、山と呼ばれるべく容姿をもっています。古くより弁天様を祭った小さな社があり、小さいですが山らしく見えます。そしてなにより、木が茂っています。この山こそ、山高故不貴 以有樹爲貴山にあたるのでしょう。
さてさて、山低きゆえにも貴からず、でしょう。今は平なところを山と称して、天保山と蘇鉄山で日本一の座を競っているのですが、いずれも、もともとは運河の浚渫によって出てきた土砂を積み上げた築山同士です。それは、もしかすると、大阪特有のユーモアなのかもしれません。そのユーモア(諧謔)にこそ、貴さがあるのかもしれません。山低故不貴 以有諧爲貴山でしょうか。
子供たちも、「日本一」という名称に期待して訪れたようですが、拍子抜けしたようです。二等三角点の石と看板だけしかそこにはないのですから。子供たちには少々難しいユーモアだったかもしれません。まあ、彼らの本命は海遊館でしたから、いいとしましょう。
・ユーモア・
低山は、地図にこそ表示されていますが。
地形で見ても見えるのモノではありません。
まして、現在は平地ですから、
5mメッシュを使って見栄えがしません。
また、10mメッシュの地形解析でもまったく表現されません。
地形のエッセイとして取り上げるのが
いいことなのかどうか迷うところです。
まあ、このエッセイもユーモアとしてみてください。
・継続・
愛媛県に4月から1年間滞在します。
こちらにきてから2週間になります。
インターネットも繋がったのですが、
いろいろと不自由があります。
なんといっても、通信速度です。
大型の画像を転送するのは諦めました。
他の私が運営しているホームページも
1年間更新を停めました。
ただし、小型の画像で構成したものを
新たにはじめました。
このメールマガジンは、
ホームページの画像と連携しているので、
大型画像を送れないのは、非常に残念ですが、
何人かの読者方から、継続の希望をいただいているので、
継続することにしました。
幸い、大学の自前のサイトにも、
アクセスできるようになりました。
小型の画像であれば、そこに送ることができます。
ホームページ自体は小さな画像で作成しておき、
リンクはつけておきますが、
表示されないと思います。
大型の画像は、札幌に時々帰りますので、
そのとき、機会があったら、更新しておきます。
ですから、大型画像は、見られませんが、
このメールマガジンとサイトは継続していきます。
1年間、改めてによろしくお願いします。
大地の景観には、
さまざまな自然の驚異、素晴らしさ、不思議が隠されています。
そんな大地の景観を地形や地質のデータから地質学者が眺めたら、
どう見えるでしょうか。
皆さんどうか、大地の造形に隠された仕組みに
目を向けてください。そして楽しんでください。
2010年4月15日木曜日
2010年3月15日月曜日
63 日向岬:節理の摂理
日向灘に突き出た宮崎の日向岬には、柱状岩とよばれる絶壁があります。似たような産状を示す岩石は、近隣の海岸にもあります。柱状岩とはいったいいかなる起源なのでしょうか。そこに、不思議な摂理が働いていることを教えられました。
宮崎には、白砂青松というべき砂浜と険しい岩礁の海岸が混在して、あちこちにあります。中でも、日向岬は、海岸の絶壁とその産状が見事なことで、観光地になっています。日向岬は、日豊海岸国定公園の南端にあたるところに位置しています。日南市街からみると東側に突き出た岬です。
日向岬を昨年の秋に訪れました。目的は、「馬の背」や「クロスの海」で見られる「柱状岩」と呼ばれる岩石をみることでした。「柱状岩」は、日向岬の海岸の絶壁をつくっている岩石の形状が、字のごとく、岩石が柱を連ねたように見えるから呼ばれています。
岬の先端に向かう途中には、岬を切り刻むように4箇所ほど海が切れ込んで、いるところがあります。先端から2箇所目の切れ込みが、「馬の背」とよばれているものです。幅10mほどのなのですが、切れ込みの長さが200mもあり、絶壁の高さが70mもあります。その絶壁が、「柱状岩」からできています。岬の先端に行くためには、海の切れ込みを横目で見ながら、馬の背のように細くなったところを、歩いていくことになります。
岬の先端には、柵があり、海や絶壁を眺めることができます。9月の暑い日でしたが、岬の先端は風が通り、涼しく感じました。それより、風が強く飛ばされそうな恐怖感のためだったのかもしれません。それも含めて、日向岬は、なかなかの景勝地となっているのでしょう。
「クロスの海」とは、海の切れ込みが直交していて、十字架に見えることから名づけられています。また、十字の左に、口がついているようにみえ、「叶う」という字にも見えので、願いが叶う「クロスの海」と呼ばれています。なお、ここは恋人たちが愛を叶えるところとして売り出そうとしているらしく、鐘が設置されていました。私は、一人旅で妻帯者なので、鐘は不要なのですが。
日向岬の絶壁や海岸を景観を際立たせているのが、「柱状岩」と呼ばれている岩石の産状です。「柱状岩」は、地質学の用語でいえば、柱状節理に似た言葉です。では、柱状岩と柱状節理の違いとは何でしょうか。
言葉の意味でとすれば、柱状岩は、定義されていない一般的な言葉ですから、柱を連ねたように見える岩というだけの意味しかありません。ですから、岩石の種類や成因は特定されていません。
一方、柱状節理は、地質学用語として使われていて、ある成因のものに限定されて使用されることが多くなっています。マグマもしくは熱い火山砕屑岩が、ゆっくりと冷えたときにできる割れ目が、角柱状になったものを柱状節理といいます。地質学でも成因は特定されているわけではないのですが、火山砕屑岩も含めた広義の火成岩にみられる特徴的な構造の呼び名となっています。
柱状岩は、そのようなくくりがないため、どんな岩石にも適用可能です。では、日向岬の柱状岩とは、どのような成因によるものなのでしょうか。
それを説明する前に、宮崎の地質の概要をみてきましょう。宮崎は、北から秩父帯、仏像構造線をはさんで、四万十帯(北が四万十累層群下部、南が上部に区分)となります。それらの帯は、北東-南西の構造を持つ地質体で、砂岩と泥岩を主とする堆積岩からなります。
秩父帯と四万十帯は、海洋プレートの沈み込みに伴って形成される列島を特徴付ける付加体というものです。
宮崎の中央部の海側には、それらの地質体の上を覆って宮崎層群が分布しています。この宮崎層群は、砂岩から泥岩が900万年前から150万年前ころにかけて、海底にたまったものが、隆起してできたものです。
宮崎の西端には、現在も活動している霧島、阿蘇などの活火山があります。また、少し前に活動し姶良(あいら)
日向岬は、四万十帯の上部の分布域ですが、すぐ南側には宮崎層群が分布するような位置にあります。では、四万十帯だから堆積岩かというと、実はそうではないです。
先述べたように宮崎の基本的な地質は、付加体と宮崎層群で特徴付けられますが、マグマの活動が起こっています。ひとつは、現在も続く阿蘇山、霧島などの新しい火山活動です。もう一つは、四万十の堆積時代よりは新しいのですが、現在の火山活動よりはずっと古い時代の火山活動です。
付加体の分布地域には、マグマの活動が何箇所かで起こっています。このような火成活動は、九州だけではなく、西南日本の付加体全域にわたって似たような活動がみられます。ただし、その活動時代は付加体によって違っています。その理由は、沈み込みに伴っておこる火山活動が、前の時代に形成された付加体の中で起こり、次の時代の付加体は、より新しい時代の沈み込みにとって起こるためです。古い時代の火山活動は浸食されなくなり、地下深部で起こった深成活動が顔を出すようになっていると考えられています。、
宮崎では、祖母山や大崩山(おおくえやま)、市房山、尾鈴山などがそのような火成活動によってできました。たとえば大崩山は、カルデラの上部が削剥浸食されて、火山の根っこの部分が見えているのだと考えられています。
日向岬の柱状岩は、尾鈴山(南東の海にあったと今は亡き火山という説もあります)によるものだと考えられています。その火山は、厚さが900mにも達すほどの火山砕屑岩を噴出しました。熱い火山砕屑岩が、熱と自重によって一部が溶融して、溶結凝灰岩となりました。それが冷めるときに、割れ目ができます。これは、上で述べた柱状節理の成因そのものです。
尾鈴山のマグマは、デイサイト~流紋岩質もので、火山活動の時期はまだ十分わかっていなのですが、2つの活動時期があり、いずれも溶結凝灰岩を形成したもので、溶結凝灰岩I、溶結凝灰岩IIに区分されています。溶結凝灰岩IIから1500万年前(1500±200年前)の年代がでています。
尾鈴山のマグマは、貫入岩となっている深成岩も伴っており、日向岬より南にある地域でも活動の痕跡が残されています。その活動年代は、溶結凝灰岩に貫入しているので、より新しい時代となります。年代測定では、岩脈から1300万年前(1300±200年前)の得られています。平岩や美々津などの海岸にみられる花崗斑岩がその名残となっています。岩脈も、柱状節理をもっていることがあります。
柱状節理は、同じ宮崎県で高千穂峡(GeoEssay 60)にもあって有名ですが、そちらは時代がだいぶ新しく12万から9万年前の阿蘇山の火山活動で形成されたものです。しかし、いずれも宮崎県の景観を特徴づけるものといえます。
高千穂の柱状節理は、山奥深く静寂の中にあるためでしょうか、神々の降臨を思わせる神秘性をかもし出しています。一方、日向岬は、海岸の波風とその険しさによって、荒々しさを感じさせるものです。それは、大地の営みのダイナミックさを感じさせるものです。
柱状岩は非常に広義の意味に使えるはずです。しかし、その実態は柱状節理でした。柱状節理のような並び立つ柱は、マグマの力を借りないとそうそうできないということを意味しているのでしょう。自然は多様で驚異に満ちています。しかし、自然には柱状節理に見られたように、それなりに摂理もあるようです。
・旅立ち・
先週は全国的に雪が降るような
荒れた天気となりました。
北海道も寒い日が続きました。
しかし、三寒四温のように暖かい日には
雪解けが一気に進み、
主だった道路ではアスファルトが
出るようになりました。
着実に春に向かっています。
今週は、長男の卒業式、
そして大学の卒業式があります。
別れと旅立ちの季節となりました。
旅立つ者が、それぞれの道で、それぞれの新天地で
新しい夢に向かって、実り多き日々を
過ごすことを祈っています。
・春を待つ・
いよいよ次回は四国からの配信となります。
何人かの方から、このメールマガジンの
継続のリクエストが来ています。
私も継続していく意思があります。
画像が転送できるかどうか少々不安ですが、
更新するつもりで作業は進めていきます。
また、配信できることを願って、
春を待ちます。
春浅き北国から、春深き四国に、
私の旅立ちの日も近づいてきました。
宮崎には、白砂青松というべき砂浜と険しい岩礁の海岸が混在して、あちこちにあります。中でも、日向岬は、海岸の絶壁とその産状が見事なことで、観光地になっています。日向岬は、日豊海岸国定公園の南端にあたるところに位置しています。日南市街からみると東側に突き出た岬です。
日向岬を昨年の秋に訪れました。目的は、「馬の背」や「クロスの海」で見られる「柱状岩」と呼ばれる岩石をみることでした。「柱状岩」は、日向岬の海岸の絶壁をつくっている岩石の形状が、字のごとく、岩石が柱を連ねたように見えるから呼ばれています。
岬の先端に向かう途中には、岬を切り刻むように4箇所ほど海が切れ込んで、いるところがあります。先端から2箇所目の切れ込みが、「馬の背」とよばれているものです。幅10mほどのなのですが、切れ込みの長さが200mもあり、絶壁の高さが70mもあります。その絶壁が、「柱状岩」からできています。岬の先端に行くためには、海の切れ込みを横目で見ながら、馬の背のように細くなったところを、歩いていくことになります。
岬の先端には、柵があり、海や絶壁を眺めることができます。9月の暑い日でしたが、岬の先端は風が通り、涼しく感じました。それより、風が強く飛ばされそうな恐怖感のためだったのかもしれません。それも含めて、日向岬は、なかなかの景勝地となっているのでしょう。
「クロスの海」とは、海の切れ込みが直交していて、十字架に見えることから名づけられています。また、十字の左に、口がついているようにみえ、「叶う」という字にも見えので、願いが叶う「クロスの海」と呼ばれています。なお、ここは恋人たちが愛を叶えるところとして売り出そうとしているらしく、鐘が設置されていました。私は、一人旅で妻帯者なので、鐘は不要なのですが。
日向岬の絶壁や海岸を景観を際立たせているのが、「柱状岩」と呼ばれている岩石の産状です。「柱状岩」は、地質学の用語でいえば、柱状節理に似た言葉です。では、柱状岩と柱状節理の違いとは何でしょうか。
言葉の意味でとすれば、柱状岩は、定義されていない一般的な言葉ですから、柱を連ねたように見える岩というだけの意味しかありません。ですから、岩石の種類や成因は特定されていません。
一方、柱状節理は、地質学用語として使われていて、ある成因のものに限定されて使用されることが多くなっています。マグマもしくは熱い火山砕屑岩が、ゆっくりと冷えたときにできる割れ目が、角柱状になったものを柱状節理といいます。地質学でも成因は特定されているわけではないのですが、火山砕屑岩も含めた広義の火成岩にみられる特徴的な構造の呼び名となっています。
柱状岩は、そのようなくくりがないため、どんな岩石にも適用可能です。では、日向岬の柱状岩とは、どのような成因によるものなのでしょうか。
それを説明する前に、宮崎の地質の概要をみてきましょう。宮崎は、北から秩父帯、仏像構造線をはさんで、四万十帯(北が四万十累層群下部、南が上部に区分)となります。それらの帯は、北東-南西の構造を持つ地質体で、砂岩と泥岩を主とする堆積岩からなります。
秩父帯と四万十帯は、海洋プレートの沈み込みに伴って形成される列島を特徴付ける付加体というものです。
宮崎の中央部の海側には、それらの地質体の上を覆って宮崎層群が分布しています。この宮崎層群は、砂岩から泥岩が900万年前から150万年前ころにかけて、海底にたまったものが、隆起してできたものです。
宮崎の西端には、現在も活動している霧島、阿蘇などの活火山があります。また、少し前に活動し姶良(あいら)
日向岬は、四万十帯の上部の分布域ですが、すぐ南側には宮崎層群が分布するような位置にあります。では、四万十帯だから堆積岩かというと、実はそうではないです。
先述べたように宮崎の基本的な地質は、付加体と宮崎層群で特徴付けられますが、マグマの活動が起こっています。ひとつは、現在も続く阿蘇山、霧島などの新しい火山活動です。もう一つは、四万十の堆積時代よりは新しいのですが、現在の火山活動よりはずっと古い時代の火山活動です。
付加体の分布地域には、マグマの活動が何箇所かで起こっています。このような火成活動は、九州だけではなく、西南日本の付加体全域にわたって似たような活動がみられます。ただし、その活動時代は付加体によって違っています。その理由は、沈み込みに伴っておこる火山活動が、前の時代に形成された付加体の中で起こり、次の時代の付加体は、より新しい時代の沈み込みにとって起こるためです。古い時代の火山活動は浸食されなくなり、地下深部で起こった深成活動が顔を出すようになっていると考えられています。、
宮崎では、祖母山や大崩山(おおくえやま)、市房山、尾鈴山などがそのような火成活動によってできました。たとえば大崩山は、カルデラの上部が削剥浸食されて、火山の根っこの部分が見えているのだと考えられています。
日向岬の柱状岩は、尾鈴山(南東の海にあったと今は亡き火山という説もあります)によるものだと考えられています。その火山は、厚さが900mにも達すほどの火山砕屑岩を噴出しました。熱い火山砕屑岩が、熱と自重によって一部が溶融して、溶結凝灰岩となりました。それが冷めるときに、割れ目ができます。これは、上で述べた柱状節理の成因そのものです。
尾鈴山のマグマは、デイサイト~流紋岩質もので、火山活動の時期はまだ十分わかっていなのですが、2つの活動時期があり、いずれも溶結凝灰岩を形成したもので、溶結凝灰岩I、溶結凝灰岩IIに区分されています。溶結凝灰岩IIから1500万年前(1500±200年前)の年代がでています。
尾鈴山のマグマは、貫入岩となっている深成岩も伴っており、日向岬より南にある地域でも活動の痕跡が残されています。その活動年代は、溶結凝灰岩に貫入しているので、より新しい時代となります。年代測定では、岩脈から1300万年前(1300±200年前)の得られています。平岩や美々津などの海岸にみられる花崗斑岩がその名残となっています。岩脈も、柱状節理をもっていることがあります。
柱状節理は、同じ宮崎県で高千穂峡(GeoEssay 60)にもあって有名ですが、そちらは時代がだいぶ新しく12万から9万年前の阿蘇山の火山活動で形成されたものです。しかし、いずれも宮崎県の景観を特徴づけるものといえます。
高千穂の柱状節理は、山奥深く静寂の中にあるためでしょうか、神々の降臨を思わせる神秘性をかもし出しています。一方、日向岬は、海岸の波風とその険しさによって、荒々しさを感じさせるものです。それは、大地の営みのダイナミックさを感じさせるものです。
柱状岩は非常に広義の意味に使えるはずです。しかし、その実態は柱状節理でした。柱状節理のような並び立つ柱は、マグマの力を借りないとそうそうできないということを意味しているのでしょう。自然は多様で驚異に満ちています。しかし、自然には柱状節理に見られたように、それなりに摂理もあるようです。
・旅立ち・
先週は全国的に雪が降るような
荒れた天気となりました。
北海道も寒い日が続きました。
しかし、三寒四温のように暖かい日には
雪解けが一気に進み、
主だった道路ではアスファルトが
出るようになりました。
着実に春に向かっています。
今週は、長男の卒業式、
そして大学の卒業式があります。
別れと旅立ちの季節となりました。
旅立つ者が、それぞれの道で、それぞれの新天地で
新しい夢に向かって、実り多き日々を
過ごすことを祈っています。
・春を待つ・
いよいよ次回は四国からの配信となります。
何人かの方から、このメールマガジンの
継続のリクエストが来ています。
私も継続していく意思があります。
画像が転送できるかどうか少々不安ですが、
更新するつもりで作業は進めていきます。
また、配信できることを願って、
春を待ちます。
春浅き北国から、春深き四国に、
私の旅立ちの日も近づいてきました。
2010年2月15日月曜日
62 宇治:幻の扇状地
宇治川は、地形や地質から見ると不思議なことろがいくつかあります。その不思議さを考えてみました。宇治は中学生時代からなじみのあるところです。自転車で通った道は、起伏の激しいもので、宇治橋で一息ついていました。その険しさは、今は亡き河川の扇状地だったのではないかと思い至りました。それが不思議さの一つの解決案となるか知れません。
京都で生まれ育った私は、木津川や琵琶湖で泳ぎました。両親が一度海に連れて行ってくれた記憶がありますが、その記憶は薄れています。小学生のころ、水泳教室に少しだけいきましたが、遠くて通うのが大変で、長続きしませんでした。また、小学校5年生のときに学校にプールができたのですが、結膜炎で2年間プールにはいれず、結局泳ぎを覚えずに中学生になりました。中学生の夏休みには結膜炎も完治し、プールにもいけるようになりましたが、中学校にはプールがありませんでした。
そこで、中学生になって、泳ぐ楽しさを知るために、町のプールに通いました。我が町にはプールはありませんが、隣町の宇治には市民プールがありました。料金は覚えていませんが、安くて時間制限なく泳ぐことができるプールでした。そこが一番近くて安いプールでした。近いといっても片道10kmほどの道のりを、夏休みの間中、友人と自転車で週に2、3度はでかけました。
尾根のようなうねりをいくつか越えていく道でした。自宅から自転車で結構険しい道を通った記憶があります。その道の途中で宇治川を通りました。宇治川を宇治橋で渡りましたが、暑い夏でも、橋の上では涼風が通おり、ほっとできるところであることを覚えています。
その宇治橋に、昨年の夏過ぎに何年かぶりにいきました。子供たちをつれて、平等院とその周辺の観光でした。昼食は、宇治橋の少し上流側の堤防の木陰で食べました。その日も天気がよく暑かったのですが、木陰は涼風が吹いていました。また、橋の袂の茶店の日陰にソフトクリームを食べている子供たちと、川面を眺めながら涼しい川風が吹かれていました。
宇治橋は、宇治川が山間部から平野部にでるところにつくられたものです。宇治川の上流部は、瀬田川と名前を変え、琵琶湖が瀬田川の源流となります。瀬田川が宇治川と名前と変えるのは、喜撰山(416m)と大峰山(506m)、荒木山(472m)などの山並みの中です。このあたりは、非常に急峻な地形の中を、宇治川(ここでは瀬田川と宇治川を区別せずに宇治川と以下表現します)は、流れています。
宇治川の少し南東側には、北東から南西に向かって大石、龍門、小田原、禅定寺、岩山、郷之口という集落が続く一帯(以下、宇治田原盆地と呼びます)は、緩やかな低地の地形があります。通常このようななだらかな地形に変化しているところは、地質を反映していたり、大きな断層があったりします。しかし、ここには大きな断層は推定されていませんし、地質の連続性も途切れていません。なぜ、このなだらかな地形を宇治川が流れてないのかが、不思議です。
宇治川で不思議なことは、もう一つあります。宇治川の周辺の山並みは高いので、深く切れ込んだ河川です。本来であれば、急峻な河川には、上流により急峻な山並みがあったり、広い流域があり豊富な水量が必要になります。つまり、河川の浸食作用が強く働く必要があります。
これほど急峻な地形なのですが、宇治川の源流部は琵琶湖で、その湖面の標高は84mしかありません。それほど琵琶湖の水位は高くありませんが、充分な水量はあります。そして、宇治の平等院あたりで平野部で標高は15mまで下がります。標高差は70m近くありますが、もともと琵琶湖の水位が低いので、こんな急峻はところを浸食して、ここを流れる必然性がわかりません。
また、宇治川には扇状地などの河川が平野にでたところにできる地形が見られません。これも、不思議です。
宇治川の周辺の地質は、丹波帯に属しています。丹波帯とは、付加体で形成された地層で、主に中生代ジュラ紀中期から後期の堆積岩(泥岩や砂岩)からできています。その地層の中に、古生代ペルム紀から中生代三畳紀のチャートがブロック状に取り込まれています。この周辺の地質体が、沈み込み帯で形成された証拠となるものです。
丹波帯の地層が、宇治川の両側に継続して分布しています。特に、宇治川の流域には、砂岩やチャートなどの硬い岩石が分布しているところが、多くなっています。これらの石は硬く緻密で、浸食には強い岩石です。そのため、急峻な地形になっているのだと考えられます。
先ほどのなだらかな宇治田原盆地の地形は、どうも基盤の地質ではなく、周囲の置かれた地質環境によるものではないかと考えられます。
宇治の平野や京都の盆地などは、新生代の中新世から更新世まで、何度も水没しています。瀬戸内海から大阪平野、京都盆地、奈良盆地、伊勢湾まで低地帯が断続的に続いています。そのような地域に、海水が浸入したり、淡水がたまり、堆積物をためていたことが、堆積岩から再現されています。
さて、ここからは根拠のない、地形から見た私の推測です。
地質図をみると、なだらかな宇治田原盆地には、鮮新世と更新世の堆積物が分布しています。そこの地形とみると、河川が山間部から平野部に出たときできる、扇状地や氾濫原のような地形やそのくぼ地でできた池が多数できています。そしてその先端は、元は巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれた平野となります。更新世にはこの当たりまで海が進入し、そこに河川が流れ込んでいたのではないかと考えられます。
ですから、もともと宇治川は、この宇治田原盆地を流れていたのでないかと推測されます。ところが、何らかの原因によって、大石あたりが持ち上げられて、琵琶湖をあふれが水が、別の出口を求めたのでしょう。その弱線(地形的に弱く、切れ込んだところ)が、現在の急峻な地形の中にあったため、今の宇治川が形成されたと考えられます。その弱線の形成のメカニズムは、地形からは読み取れません。もしかすると、どこかの地理学者や地質学者がすでに解明しているかもしれませんが、資料を見つけることができませんでした。
私、中学生の夏休みに自転車で通った道は、宇治田原盆地の河川の出口にある扇状地の先端に当たるところだったのかもしれません。ですから、私は今はない旧河川の扇状地の先端から、現在の扇状地のない河川へと走っていたのかもしれません。その扇状地のひだが、自転車には険しい高低差のある道だったのかもしません。
私の息子たちは、そんな道を電車であっという間に通り過ぎました。私だけが、子供のころの感慨にふけっていました。
・いつもの冬・
暖冬だと思いながら、2月も半ばになると、
北海道も例年通りの冬となっているようです。
寒い日もあり、雪もそこそこ降り積もました。
今では、積雪に道が狭く、危険な状態でもあります。
でも、日は長くなりました。
いつもは早朝暗い中を歩いてくるのですが、
どんなには早く出ても、
空は明るくなってくるようになって来ました。
寒い日もありますが、
暖かい日は、春も予想させる暖かさに感じます。
・就職戦線・
大学の教員は成績の提出も終わり、
一般入試も終わり、ホット一息ついています。
しかし、3年生は会社説明会を受けています。
我が大学でもいくつもの説明会が開催され、
スーツ姿の学生を多数見かけます。
就職戦線はなかなか厳しいようですが、
なんとか社会人として、
希望の道を見つけてもらいたいものです。
4年生は、もう1月ほどで大学を巣立ちます。
私のゼミの学生は、教員志望が多く、
非常勤の教員をしながら、夏の教員試験に臨みます。
彼らの就職戦線は、一般のものと少し違いますが、
厳しさは同じでしょう。
京都で生まれ育った私は、木津川や琵琶湖で泳ぎました。両親が一度海に連れて行ってくれた記憶がありますが、その記憶は薄れています。小学生のころ、水泳教室に少しだけいきましたが、遠くて通うのが大変で、長続きしませんでした。また、小学校5年生のときに学校にプールができたのですが、結膜炎で2年間プールにはいれず、結局泳ぎを覚えずに中学生になりました。中学生の夏休みには結膜炎も完治し、プールにもいけるようになりましたが、中学校にはプールがありませんでした。
そこで、中学生になって、泳ぐ楽しさを知るために、町のプールに通いました。我が町にはプールはありませんが、隣町の宇治には市民プールがありました。料金は覚えていませんが、安くて時間制限なく泳ぐことができるプールでした。そこが一番近くて安いプールでした。近いといっても片道10kmほどの道のりを、夏休みの間中、友人と自転車で週に2、3度はでかけました。
尾根のようなうねりをいくつか越えていく道でした。自宅から自転車で結構険しい道を通った記憶があります。その道の途中で宇治川を通りました。宇治川を宇治橋で渡りましたが、暑い夏でも、橋の上では涼風が通おり、ほっとできるところであることを覚えています。
その宇治橋に、昨年の夏過ぎに何年かぶりにいきました。子供たちをつれて、平等院とその周辺の観光でした。昼食は、宇治橋の少し上流側の堤防の木陰で食べました。その日も天気がよく暑かったのですが、木陰は涼風が吹いていました。また、橋の袂の茶店の日陰にソフトクリームを食べている子供たちと、川面を眺めながら涼しい川風が吹かれていました。
宇治橋は、宇治川が山間部から平野部にでるところにつくられたものです。宇治川の上流部は、瀬田川と名前を変え、琵琶湖が瀬田川の源流となります。瀬田川が宇治川と名前と変えるのは、喜撰山(416m)と大峰山(506m)、荒木山(472m)などの山並みの中です。このあたりは、非常に急峻な地形の中を、宇治川(ここでは瀬田川と宇治川を区別せずに宇治川と以下表現します)は、流れています。
宇治川の少し南東側には、北東から南西に向かって大石、龍門、小田原、禅定寺、岩山、郷之口という集落が続く一帯(以下、宇治田原盆地と呼びます)は、緩やかな低地の地形があります。通常このようななだらかな地形に変化しているところは、地質を反映していたり、大きな断層があったりします。しかし、ここには大きな断層は推定されていませんし、地質の連続性も途切れていません。なぜ、このなだらかな地形を宇治川が流れてないのかが、不思議です。
宇治川で不思議なことは、もう一つあります。宇治川の周辺の山並みは高いので、深く切れ込んだ河川です。本来であれば、急峻な河川には、上流により急峻な山並みがあったり、広い流域があり豊富な水量が必要になります。つまり、河川の浸食作用が強く働く必要があります。
これほど急峻な地形なのですが、宇治川の源流部は琵琶湖で、その湖面の標高は84mしかありません。それほど琵琶湖の水位は高くありませんが、充分な水量はあります。そして、宇治の平等院あたりで平野部で標高は15mまで下がります。標高差は70m近くありますが、もともと琵琶湖の水位が低いので、こんな急峻はところを浸食して、ここを流れる必然性がわかりません。
また、宇治川には扇状地などの河川が平野にでたところにできる地形が見られません。これも、不思議です。
宇治川の周辺の地質は、丹波帯に属しています。丹波帯とは、付加体で形成された地層で、主に中生代ジュラ紀中期から後期の堆積岩(泥岩や砂岩)からできています。その地層の中に、古生代ペルム紀から中生代三畳紀のチャートがブロック状に取り込まれています。この周辺の地質体が、沈み込み帯で形成された証拠となるものです。
丹波帯の地層が、宇治川の両側に継続して分布しています。特に、宇治川の流域には、砂岩やチャートなどの硬い岩石が分布しているところが、多くなっています。これらの石は硬く緻密で、浸食には強い岩石です。そのため、急峻な地形になっているのだと考えられます。
先ほどのなだらかな宇治田原盆地の地形は、どうも基盤の地質ではなく、周囲の置かれた地質環境によるものではないかと考えられます。
宇治の平野や京都の盆地などは、新生代の中新世から更新世まで、何度も水没しています。瀬戸内海から大阪平野、京都盆地、奈良盆地、伊勢湾まで低地帯が断続的に続いています。そのような地域に、海水が浸入したり、淡水がたまり、堆積物をためていたことが、堆積岩から再現されています。
さて、ここからは根拠のない、地形から見た私の推測です。
地質図をみると、なだらかな宇治田原盆地には、鮮新世と更新世の堆積物が分布しています。そこの地形とみると、河川が山間部から平野部に出たときできる、扇状地や氾濫原のような地形やそのくぼ地でできた池が多数できています。そしてその先端は、元は巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれた平野となります。更新世にはこの当たりまで海が進入し、そこに河川が流れ込んでいたのではないかと考えられます。
ですから、もともと宇治川は、この宇治田原盆地を流れていたのでないかと推測されます。ところが、何らかの原因によって、大石あたりが持ち上げられて、琵琶湖をあふれが水が、別の出口を求めたのでしょう。その弱線(地形的に弱く、切れ込んだところ)が、現在の急峻な地形の中にあったため、今の宇治川が形成されたと考えられます。その弱線の形成のメカニズムは、地形からは読み取れません。もしかすると、どこかの地理学者や地質学者がすでに解明しているかもしれませんが、資料を見つけることができませんでした。
私、中学生の夏休みに自転車で通った道は、宇治田原盆地の河川の出口にある扇状地の先端に当たるところだったのかもしれません。ですから、私は今はない旧河川の扇状地の先端から、現在の扇状地のない河川へと走っていたのかもしれません。その扇状地のひだが、自転車には険しい高低差のある道だったのかもしません。
私の息子たちは、そんな道を電車であっという間に通り過ぎました。私だけが、子供のころの感慨にふけっていました。
・いつもの冬・
暖冬だと思いながら、2月も半ばになると、
北海道も例年通りの冬となっているようです。
寒い日もあり、雪もそこそこ降り積もました。
今では、積雪に道が狭く、危険な状態でもあります。
でも、日は長くなりました。
いつもは早朝暗い中を歩いてくるのですが、
どんなには早く出ても、
空は明るくなってくるようになって来ました。
寒い日もありますが、
暖かい日は、春も予想させる暖かさに感じます。
・就職戦線・
大学の教員は成績の提出も終わり、
一般入試も終わり、ホット一息ついています。
しかし、3年生は会社説明会を受けています。
我が大学でもいくつもの説明会が開催され、
スーツ姿の学生を多数見かけます。
就職戦線はなかなか厳しいようですが、
なんとか社会人として、
希望の道を見つけてもらいたいものです。
4年生は、もう1月ほどで大学を巣立ちます。
私のゼミの学生は、教員志望が多く、
非常勤の教員をしながら、夏の教員試験に臨みます。
彼らの就職戦線は、一般のものと少し違いますが、
厳しさは同じでしょう。
2010年1月15日金曜日
61 都井岬:残暑のオリストストローム
宮崎県南端の都井岬は、野生馬やソテツが有名です。都井岬を形成している岩石には、付加体と呼ばれる列島形成のメカニズム、オリストストロームという大規模な海底地すべりが記録されていたのです。残暑の残る南国にみた大地の営みを紹介しましょう。
宮崎県の南端に都井(とい)岬があります。都井岬は、付け根から先端まで1.7kmほどの幅で、約3.5kmほどの長さあります。付け根から岬は南向きに伸びますが、真ん中で折れ曲がって南東に向かいます。ひらがなの「し」のような形をしています。小さな岬ですが、内部は標高295mに達する丘が連なり、深く刻まれた河川の地形がありますが、なだらからな景観をしています。ところが、半島の海沿いは、急激に切れ込んで、険しい崖に囲まれています。そのため、周囲とは閉ざされた環境となっています。
都井半島は、幹線ルートからは外れていますが、日南海岸国定公園の一部にもなっており、小型の岬馬の繁殖地とソテツの自生地として有名で観光地になっています。
岬馬とは、「御崎馬」とも書かれ、日本の在来の野生馬が繁殖しています。岬馬は、1953(昭和28)年に「岬馬およびその繁殖地」として天然記念物に指定されています。そもそもは、江戸時代に高鍋藩が軍用馬を飼育するために、放牧を始めたものが、後に野生化して今日にいたっています。
ソテツ(漢字では蘇鉄と書きます)は、亜熱帯に生育する植物ですが、都井岬が北限の自生地となっています。1921(大正10)年に天然記念物に、1952(昭和27)年には「都井岬のソテツ自生地」として特別天然記念物に指定されています。
交通、地理的には観光客の訪れるような地の利はないのですが、このような名所があるため、日南海岸の観光には欠かすことのできない地となっています。私が訪れたのは、昨年9月でした。昼に都井岬につき、ゆっくりと半島内を見て回ることができました。
都井岬は、日南層群と呼ばれる堆積岩からできています。日南層群は、宮崎平野をつくっている宮崎層群(新生代の後期中新世から前期鮮新世に堆積)より古い時代の地層で、新生代の後期漸新世から前期中新世に堆積しています。日南層群は、四万十層群に対比される地層です。
四万十層群に相当する地層は、房総半島から関東、東海、紀伊半島、四国南部、九州南部、そして沖縄本島まで、長さ2000kmほどにわたって分布している地層です。四万十層群に類する地層が分布する地帯を、四万十帯と呼んでいます。
四万十帯は、主に中生代の白亜紀から新生代のパレオジン(かつての古第三紀)にかけて堆積した地層で、付加体と呼ばれている地質体です。
付加体とは、海洋地殻やその上に深海堆積物のチャートや深海粘土、あるいは大陸から由来した砂や泥が、海溝で大陸側に押し付けられ、付け加わり、盛り上がった地層群のことです。そのため付加体には、他の堆積岩にはみられないような、地層面に平行にはしる断層群があったり、時代層序の逆転が起こっていたり、異質な岩石群が混在するなどの特徴を持っています。
時代層序の逆転とは、上に重なっている地層群は先に沈み込んだときにはがれたもので、その下につぎつぎと新しい時代の地層群が付加していくことによってできていきます。同時期に付加した地層では、下が古く上が新しいという正常な層序が形成されます。しかし、断層(時にはぴったりとくっついて見えないようなものもあります)で境界されて、下には別に時代に付加した時代の新しい地層群がでてくることになります。このような時代の逆転現象が繰り返し起こっていきます。四万十帯の地層では、太平洋側に新しい時代の地層が分布します。これは、付加体固有の特徴で、通常の地層では見られない構造です。
九州では、四万十層群に対比される地層は、北から佐伯層群、蒲江層群、北川層群、日向層群などに分けられています。日南層群は、一番新しい時代に付加したものとなります。
都井岬周辺の日南層群では、オリストストロームという構造が特徴的にみられます。オリストストロームとは、堆積構造の一種です。硬い岩石の塊(ブロック)が柔らかい岩石(マトリックスと呼ばれます)の中に取り込まれるという産状をもっています。形成時にブロックはすでに固まっている岩石として振る舞い、マトリックスは軟らかい未固結の堆積物として流動的な振舞いをします。もちろんそれは、形成時、形成場での話で、現在ではすべてが固まって岩石となっています。
オリストストロームは、沈み込み帯付近で起こる大規模な海底地すべりでできると考えられています。オリストストロームが広域に繰り返しみられる地層があるということは、付加体という形成場を証拠付けることとなります。
このような沈み込み帯という堆積場を教えてくれる地層が、都井岬に周辺でみることができます。岬の突端には御崎神社があります。その周辺には、海岸ぞいの崖があります。そこでオリストストロームが観察できます。神社の周辺にはソテツが自生しています。
残暑の残る昼下がり、御崎神社を私は訪れました。この神社までくる観光客はまばらで、日差しの暑さだけが印象に残りました。都井岬は、観光地ですが、観光コースとしては、宿泊する場とはなりにくいようで、泊まった宿(公共の宿でした)には、宿泊者は私一人しかいませんでした。しかし、宿の部屋からは、雄大な日没が見ることができました。
私にとって都井岬は、暑さとともに日没が記憶に残っています。そして、付加体から想像できる大地の営みの悠久さも印象に残っています。
・継続したいのですが・
正月はすでに過ぎ、新年の挨拶はしませんが、
本年も本エッセイをよろしくお願いします。
前回、4月以降このエッセイの発行が
中止になるかもしれないと書いたのですが、
読者の方から、継続して欲しいというメールをいただきました。
継続したいの山々なのですが、
そうもできない事情が起こるかもしれません。
それは、4月以降1年間愛媛県の山奥に滞在します。
その地は、インターネットの通信環境が
現状より悪くなります。
メールマガジンの発行自体は多分問題ないのですが、
大きな画像を多数、ホームページに
アップロードしようとするとき、
どの程度のスピードになるかが問題となります。
このエッセイのホームページは、
景観写真や地形図、衛星画像、地形解析などの
画像を多用しています。
画像を用いて、市民の方々に
分かりやすく地質を紹介したいというのが、
本来の目的であるからです。
メールマガジンとホームページが連動して
はじめて、その目的が達成できるものです。
ですから、4月になって、現地にいって通信状況を確認して、
継続の可否を判断したいと思っています。
それまで、本エッセイは続けていきますので、
よろしくお願いします。
・地層累重の法則・
地層は、本来のでき方を考えればわかるのですが、
海底に土石流などで、土砂が押し流されてくると
一枚の地層が形成されます。
そして時間を置いて、次の土石流が起こり、
先ほどの地層の上に新しい地層ができます。
この繰り返しが地層の形成のメカニズムとなります。
その結果、地層では、下が古く上が新しい
という規則性ができます。
これを地層累重(るいじゅう)の法則と呼ばれ、
地質学では、非常の基本的な原理となっています。
付加体ではその原理が破られるのです。
この発見は地質学者に衝撃を与えました。
しかし、今では、その層状の逆転が付加体の特徴として
大地の歴史の復元に重要な役割を果たしています。
宮崎県の南端に都井(とい)岬があります。都井岬は、付け根から先端まで1.7kmほどの幅で、約3.5kmほどの長さあります。付け根から岬は南向きに伸びますが、真ん中で折れ曲がって南東に向かいます。ひらがなの「し」のような形をしています。小さな岬ですが、内部は標高295mに達する丘が連なり、深く刻まれた河川の地形がありますが、なだらからな景観をしています。ところが、半島の海沿いは、急激に切れ込んで、険しい崖に囲まれています。そのため、周囲とは閉ざされた環境となっています。
都井半島は、幹線ルートからは外れていますが、日南海岸国定公園の一部にもなっており、小型の岬馬の繁殖地とソテツの自生地として有名で観光地になっています。
岬馬とは、「御崎馬」とも書かれ、日本の在来の野生馬が繁殖しています。岬馬は、1953(昭和28)年に「岬馬およびその繁殖地」として天然記念物に指定されています。そもそもは、江戸時代に高鍋藩が軍用馬を飼育するために、放牧を始めたものが、後に野生化して今日にいたっています。
ソテツ(漢字では蘇鉄と書きます)は、亜熱帯に生育する植物ですが、都井岬が北限の自生地となっています。1921(大正10)年に天然記念物に、1952(昭和27)年には「都井岬のソテツ自生地」として特別天然記念物に指定されています。
交通、地理的には観光客の訪れるような地の利はないのですが、このような名所があるため、日南海岸の観光には欠かすことのできない地となっています。私が訪れたのは、昨年9月でした。昼に都井岬につき、ゆっくりと半島内を見て回ることができました。
都井岬は、日南層群と呼ばれる堆積岩からできています。日南層群は、宮崎平野をつくっている宮崎層群(新生代の後期中新世から前期鮮新世に堆積)より古い時代の地層で、新生代の後期漸新世から前期中新世に堆積しています。日南層群は、四万十層群に対比される地層です。
四万十層群に相当する地層は、房総半島から関東、東海、紀伊半島、四国南部、九州南部、そして沖縄本島まで、長さ2000kmほどにわたって分布している地層です。四万十層群に類する地層が分布する地帯を、四万十帯と呼んでいます。
四万十帯は、主に中生代の白亜紀から新生代のパレオジン(かつての古第三紀)にかけて堆積した地層で、付加体と呼ばれている地質体です。
付加体とは、海洋地殻やその上に深海堆積物のチャートや深海粘土、あるいは大陸から由来した砂や泥が、海溝で大陸側に押し付けられ、付け加わり、盛り上がった地層群のことです。そのため付加体には、他の堆積岩にはみられないような、地層面に平行にはしる断層群があったり、時代層序の逆転が起こっていたり、異質な岩石群が混在するなどの特徴を持っています。
時代層序の逆転とは、上に重なっている地層群は先に沈み込んだときにはがれたもので、その下につぎつぎと新しい時代の地層群が付加していくことによってできていきます。同時期に付加した地層では、下が古く上が新しいという正常な層序が形成されます。しかし、断層(時にはぴったりとくっついて見えないようなものもあります)で境界されて、下には別に時代に付加した時代の新しい地層群がでてくることになります。このような時代の逆転現象が繰り返し起こっていきます。四万十帯の地層では、太平洋側に新しい時代の地層が分布します。これは、付加体固有の特徴で、通常の地層では見られない構造です。
九州では、四万十層群に対比される地層は、北から佐伯層群、蒲江層群、北川層群、日向層群などに分けられています。日南層群は、一番新しい時代に付加したものとなります。
都井岬周辺の日南層群では、オリストストロームという構造が特徴的にみられます。オリストストロームとは、堆積構造の一種です。硬い岩石の塊(ブロック)が柔らかい岩石(マトリックスと呼ばれます)の中に取り込まれるという産状をもっています。形成時にブロックはすでに固まっている岩石として振る舞い、マトリックスは軟らかい未固結の堆積物として流動的な振舞いをします。もちろんそれは、形成時、形成場での話で、現在ではすべてが固まって岩石となっています。
オリストストロームは、沈み込み帯付近で起こる大規模な海底地すべりでできると考えられています。オリストストロームが広域に繰り返しみられる地層があるということは、付加体という形成場を証拠付けることとなります。
このような沈み込み帯という堆積場を教えてくれる地層が、都井岬に周辺でみることができます。岬の突端には御崎神社があります。その周辺には、海岸ぞいの崖があります。そこでオリストストロームが観察できます。神社の周辺にはソテツが自生しています。
残暑の残る昼下がり、御崎神社を私は訪れました。この神社までくる観光客はまばらで、日差しの暑さだけが印象に残りました。都井岬は、観光地ですが、観光コースとしては、宿泊する場とはなりにくいようで、泊まった宿(公共の宿でした)には、宿泊者は私一人しかいませんでした。しかし、宿の部屋からは、雄大な日没が見ることができました。
私にとって都井岬は、暑さとともに日没が記憶に残っています。そして、付加体から想像できる大地の営みの悠久さも印象に残っています。
・継続したいのですが・
正月はすでに過ぎ、新年の挨拶はしませんが、
本年も本エッセイをよろしくお願いします。
前回、4月以降このエッセイの発行が
中止になるかもしれないと書いたのですが、
読者の方から、継続して欲しいというメールをいただきました。
継続したいの山々なのですが、
そうもできない事情が起こるかもしれません。
それは、4月以降1年間愛媛県の山奥に滞在します。
その地は、インターネットの通信環境が
現状より悪くなります。
メールマガジンの発行自体は多分問題ないのですが、
大きな画像を多数、ホームページに
アップロードしようとするとき、
どの程度のスピードになるかが問題となります。
このエッセイのホームページは、
景観写真や地形図、衛星画像、地形解析などの
画像を多用しています。
画像を用いて、市民の方々に
分かりやすく地質を紹介したいというのが、
本来の目的であるからです。
メールマガジンとホームページが連動して
はじめて、その目的が達成できるものです。
ですから、4月になって、現地にいって通信状況を確認して、
継続の可否を判断したいと思っています。
それまで、本エッセイは続けていきますので、
よろしくお願いします。
・地層累重の法則・
地層は、本来のでき方を考えればわかるのですが、
海底に土石流などで、土砂が押し流されてくると
一枚の地層が形成されます。
そして時間を置いて、次の土石流が起こり、
先ほどの地層の上に新しい地層ができます。
この繰り返しが地層の形成のメカニズムとなります。
その結果、地層では、下が古く上が新しい
という規則性ができます。
これを地層累重(るいじゅう)の法則と呼ばれ、
地質学では、非常の基本的な原理となっています。
付加体ではその原理が破られるのです。
この発見は地質学者に衝撃を与えました。
しかし、今では、その層状の逆転が付加体の特徴として
大地の歴史の復元に重要な役割を果たしています。
2009年12月15日火曜日
60 高千穂:神話を生む節理
いよいよ今年も終わろうとしています。今回は、天岩戸伝説で有名な高千穂を紹介します。高千穂は、阿蘇山の火山活動によってできた柱状節理が織り成す景観です。節理は長い年月の経過によって、地下から現れたものです。風化によって浸食され、流水によって削られながらも、節理の性質を残しています。高千穂の生い立ちを見ていきましょう。
九州の中央部には、阿蘇山があります。阿蘇山は、日本でも非常に規模の大きいなカルデラを持つ火山で有名です。現在でも活動中の活火山で、中岳周辺には、激しく噴気を上げている火口があります。活動と風向きにっては、近づけないこともあります。
広大な火山なので、阿蘇山の中岳を中心とする中央火口丘だけでなく、カルデラ内にもいくつもの観光名勝があります。カルデラの外にも、もちろん観光名勝があります。
カルデラは火山の中に形成されたくぼ地です。そのくぼ地は、火山体の中央が陥没して形成されます。ですから、カルデラの周囲には、もとの火山体を構成していた山が残り、外輪山と呼ばれています。外輪山は、カルデラの方が急な崖になってカルデラ壁と呼ばれています。外輪山の外側は、火山の裾野ですので、比較的なだらかになっています。しかし、それはカルデラ壁と比べての話で、火山の裾野ですから、傾斜をもった斜面となっています。
もちろん、阿蘇山の外輪山周辺にも観光名所はたくさんあります。
宮崎県の高千穂は、阿蘇山の外輪山の南東の山裾にあります。険しい山の中に、峨峨とした山並み、柱状に切り立った渓谷が特徴で、高千穂峡と呼ばれています。私は、阿蘇山へは、何度かいったことがあります。カルデラ内のその周辺にもいきました。高千穂へは、3度ほど出かけました。今年の9月にも出かけ、周囲を見学しました。
外輪山は昔の火山の裾野にあたり、分水嶺を形成し、周辺には外輪山を源流とする河川が多数あります。その一つに五ヶ瀬川があります。五ヶ瀬川の上流、外輪山の南東の山麓に位置するのが、高千穂です。
高千穂は、その険しく不思議な景観を持っているためでしょうか、古くから物語や伝説が生まれてきたようです。高千穂は、天孫降臨の地、あるいは天岩戸(あまのいわと)の神話の舞台として有名です。
天孫降臨とは、古事記と日本書紀に記された神話です。スサノオノミコト(瓊瓊杵尊)が姉であるアマテラスオオミカミ(天照大神)の命を受けて、高天原から天降ったというものです。その地が、高千穂だと考えられています。
天岩戸伝説も、スサノオノミコトとアマテラスオオミカミに関する神話です。スサノオノミコトが高天原で目に余る狼藉を働いたので、アマテラスオオミカミが怒って、天岩戸に篭ってしまいました。このとき、一帯が真っ暗になったのいうのが、天岩戸伝説です。
実際には、皆既日食が起こったのが、このような神話の起源だと考えられているようです。日食終わりにも神話が続きます。
暗くなって皆は困り、アマテラスオオミカミを出すために策略を練ります。天岩戸の前で、踊りの上手なアメノウズメノミコト(天鈿女命)が奇抜な格好をして踊り、他の神々も大笑いをしたり、大騒ぎをしました。その騒ぎを聞きつけたアマテラスオオミカミは、皆を困らせるために岩戸に篭ったのに、喜んで大騒ぎをしているのを不思議に思い、岩戸を少し開けて、なぜ大騒ぎをしているのかを聞きました。そのとき、あなたより貴い神が現れたといって、そっと鏡を出しました。その鏡に映った自分の姿を、もっと見ようと岩戸をさらに開けたところを、力持ちのタジカラオノミコト(手力男命)が引きずり出し、もう岩戸に隠れられないように注連縄(しめなわ)をはりました。それで、やっと闇はなくなったという神話です。
神話ですから真偽のほどは定かではありませんが、高千穂には、天岩戸神社があり、天岩戸があります。私は、天岩戸神社へはいったんのですが、天岩戸は見学しませんでした。ただ、神話の舞台となっている天安河原を訪れました。
そこは、高千穂の静寂に囲まれた不思議な空間となっていました。
高千穂峡の不思議な景観は、柱状節理が作り上げています。柱状節理とは、マグマや岩石が冷めるときにできる割れ目です。マグマが固まり、熱い岩石が冷めるとき、少し体積が減ります。そのときに、岩石に割れ目ができます。その割れ目は、冷める方向に対して垂直にできやすくなります。高千穂峡の柱状節理は、垂直に立っていますから、上下から冷えたことになります。
柱状節理の上部では、柱状ではなく、放射状の節理もあります。ここでは、表面に近く、丸くなるような冷え方をしたようです。自然の造形ですから、同じようでも、2つとして同じものはありません。
垂直の柱状節理は、川によって侵食されていくと、柱が一つ一つ倒れていきます。ですから、切り立った崖として侵食され、深い谷ができます。高千穂峡も、そのような作用でできました。
高千穂の一番の名勝である真名井の滝は、柱状節理の上から流れてきた水が、17mの高さから静から川面にしぶきとなって落ちます。水量は多くないですが、たおやかな優雅さがあります。柱状節理に囲まれた静かな流れに落ちる滝へは、ボートで誰もが近づけます。東西横に7km、高さ80~100mに渡る柱状節理の列が、高千穂峡の非常に神秘的な景観をつくっています。
この柱状節理は、阿蘇の火山によってできたものです。柱状節理をよく見るとそこには、黒っぽいガラス状の石が延びて含まれています。これは火山の火砕流によって放出された軽石などが、熱のために溶けてガラス状になったものです。火砕物が溜まった時の圧力で、平たく伸ばされたものです。このような岩石を溶結凝灰岩といいます。柱状節理は、阿蘇の火山噴火で火砕流が起き、火砕物が溜まり、再度熱くなり固まり、それが冷えたときできたものです。
阿蘇山は、過去に4度の大噴火を起こしています。最初は26.6万年前で、2度目が14.1万年前、3度目が12.3万年前、4度目が8.9万年前です。3度目と4度目の大噴火の時、火砕流が高千穂を襲い、火砕堆積物を堆積しました。これが、今では柱状節理となっています。
火砕流は、マグマが地表付近で大爆発して、膨張したものが、流体として熱いまま流れていきます。600度から1000度ほどの熱い流体で、高速で流れていき、山があっても乗り越えて、遠くまで達します。
阿蘇山の4度目の火砕流は、非常に大規模で広範囲に及びました。この火砕流は、南は人吉盆地まで達し、南以外はすべて海にまで達しています。北は海を越え山口県宇部市、東は五ヶ瀬川の河口から海へ、西は海を越え、島原半島、天草下島にまで達しました。その規模は、火砕流だけで、九州を半分近くを覆うような大火砕流だったのです。また、火砕流だけでなく、火山灰も大量に放出し、北海道東部でも15cmもたまっています。
そんな大噴火によって形成された高千穂峡ですが、今ではそんなことに気づく人はどれほどいるでしょうか。高千穂峡を橋の上から見下ろすと、そこには切り立った崖と、音も無く落ちる滝、そして静かな水面という、静逸と神秘に満ちた景観をみせてくれます。時折静かな水面をボートが行きかい、これが現代であるということを、思い出させてくれます。
こんな節理が作り出す景観の中で、神話が生まれたのも納得できます。
・予定外の訪問・
今年最後のエッセイは高千穂となりました。
高千穂には今年9月、
宮崎調査に出かけたときに立ち寄りました。
本当は、高千穂からのずっと奥の調査予定でした、
その地を探したのですが、わかりづらく
見つけることができず、断念しました。
少々悔しい思いでしたが、
はからずも時間ができたので、
高千穂を見学することにしました。
20年ほど前には友人と、
数年前にも家族で高千穂には訪れたのですが、
季節が違っているので、趣も違っていました。
9月上旬の平日にもかかわらす、
バスで多くの観光客が訪れていました。
観光客でも、外国の方が目立ちました。
夏休みが過ぎていましたが、
暑い日で、高千穂峡の川面を流れる風の涼しさを堪能しました。
・来年の予定・
いよいよ今年も終わりとなります。
来年もこのエッセイを続ける予定ですが、
4月以降は、愛媛県に1年間単身で出かける予定になっています。
そこは自宅や大学よりインターネット環境が完備しておらず
継続できるかどうか不明です。
とりあえずは、3月までは継続していきますが、
状況によっては、このエッセイを休止するかもしれません。
ただ、現在発行しているまぐまぐでは、休刊はできますが、
1年以上に渡っての休刊は、メールアドレスの変更が多数あるため
あまり復刊しない方がいいとのことです。
ですから、せっかく長らく購読いただいている読者がおられますから
継続の方向で検討しますが、現段階では、まだ未定です。
状況が変わればそのつど連絡しますが、
そのような状況であることをご報告します。
九州の中央部には、阿蘇山があります。阿蘇山は、日本でも非常に規模の大きいなカルデラを持つ火山で有名です。現在でも活動中の活火山で、中岳周辺には、激しく噴気を上げている火口があります。活動と風向きにっては、近づけないこともあります。
広大な火山なので、阿蘇山の中岳を中心とする中央火口丘だけでなく、カルデラ内にもいくつもの観光名勝があります。カルデラの外にも、もちろん観光名勝があります。
カルデラは火山の中に形成されたくぼ地です。そのくぼ地は、火山体の中央が陥没して形成されます。ですから、カルデラの周囲には、もとの火山体を構成していた山が残り、外輪山と呼ばれています。外輪山は、カルデラの方が急な崖になってカルデラ壁と呼ばれています。外輪山の外側は、火山の裾野ですので、比較的なだらかになっています。しかし、それはカルデラ壁と比べての話で、火山の裾野ですから、傾斜をもった斜面となっています。
もちろん、阿蘇山の外輪山周辺にも観光名所はたくさんあります。
宮崎県の高千穂は、阿蘇山の外輪山の南東の山裾にあります。険しい山の中に、峨峨とした山並み、柱状に切り立った渓谷が特徴で、高千穂峡と呼ばれています。私は、阿蘇山へは、何度かいったことがあります。カルデラ内のその周辺にもいきました。高千穂へは、3度ほど出かけました。今年の9月にも出かけ、周囲を見学しました。
外輪山は昔の火山の裾野にあたり、分水嶺を形成し、周辺には外輪山を源流とする河川が多数あります。その一つに五ヶ瀬川があります。五ヶ瀬川の上流、外輪山の南東の山麓に位置するのが、高千穂です。
高千穂は、その険しく不思議な景観を持っているためでしょうか、古くから物語や伝説が生まれてきたようです。高千穂は、天孫降臨の地、あるいは天岩戸(あまのいわと)の神話の舞台として有名です。
天孫降臨とは、古事記と日本書紀に記された神話です。スサノオノミコト(瓊瓊杵尊)が姉であるアマテラスオオミカミ(天照大神)の命を受けて、高天原から天降ったというものです。その地が、高千穂だと考えられています。
天岩戸伝説も、スサノオノミコトとアマテラスオオミカミに関する神話です。スサノオノミコトが高天原で目に余る狼藉を働いたので、アマテラスオオミカミが怒って、天岩戸に篭ってしまいました。このとき、一帯が真っ暗になったのいうのが、天岩戸伝説です。
実際には、皆既日食が起こったのが、このような神話の起源だと考えられているようです。日食終わりにも神話が続きます。
暗くなって皆は困り、アマテラスオオミカミを出すために策略を練ります。天岩戸の前で、踊りの上手なアメノウズメノミコト(天鈿女命)が奇抜な格好をして踊り、他の神々も大笑いをしたり、大騒ぎをしました。その騒ぎを聞きつけたアマテラスオオミカミは、皆を困らせるために岩戸に篭ったのに、喜んで大騒ぎをしているのを不思議に思い、岩戸を少し開けて、なぜ大騒ぎをしているのかを聞きました。そのとき、あなたより貴い神が現れたといって、そっと鏡を出しました。その鏡に映った自分の姿を、もっと見ようと岩戸をさらに開けたところを、力持ちのタジカラオノミコト(手力男命)が引きずり出し、もう岩戸に隠れられないように注連縄(しめなわ)をはりました。それで、やっと闇はなくなったという神話です。
神話ですから真偽のほどは定かではありませんが、高千穂には、天岩戸神社があり、天岩戸があります。私は、天岩戸神社へはいったんのですが、天岩戸は見学しませんでした。ただ、神話の舞台となっている天安河原を訪れました。
そこは、高千穂の静寂に囲まれた不思議な空間となっていました。
高千穂峡の不思議な景観は、柱状節理が作り上げています。柱状節理とは、マグマや岩石が冷めるときにできる割れ目です。マグマが固まり、熱い岩石が冷めるとき、少し体積が減ります。そのときに、岩石に割れ目ができます。その割れ目は、冷める方向に対して垂直にできやすくなります。高千穂峡の柱状節理は、垂直に立っていますから、上下から冷えたことになります。
柱状節理の上部では、柱状ではなく、放射状の節理もあります。ここでは、表面に近く、丸くなるような冷え方をしたようです。自然の造形ですから、同じようでも、2つとして同じものはありません。
垂直の柱状節理は、川によって侵食されていくと、柱が一つ一つ倒れていきます。ですから、切り立った崖として侵食され、深い谷ができます。高千穂峡も、そのような作用でできました。
高千穂の一番の名勝である真名井の滝は、柱状節理の上から流れてきた水が、17mの高さから静から川面にしぶきとなって落ちます。水量は多くないですが、たおやかな優雅さがあります。柱状節理に囲まれた静かな流れに落ちる滝へは、ボートで誰もが近づけます。東西横に7km、高さ80~100mに渡る柱状節理の列が、高千穂峡の非常に神秘的な景観をつくっています。
この柱状節理は、阿蘇の火山によってできたものです。柱状節理をよく見るとそこには、黒っぽいガラス状の石が延びて含まれています。これは火山の火砕流によって放出された軽石などが、熱のために溶けてガラス状になったものです。火砕物が溜まった時の圧力で、平たく伸ばされたものです。このような岩石を溶結凝灰岩といいます。柱状節理は、阿蘇の火山噴火で火砕流が起き、火砕物が溜まり、再度熱くなり固まり、それが冷えたときできたものです。
阿蘇山は、過去に4度の大噴火を起こしています。最初は26.6万年前で、2度目が14.1万年前、3度目が12.3万年前、4度目が8.9万年前です。3度目と4度目の大噴火の時、火砕流が高千穂を襲い、火砕堆積物を堆積しました。これが、今では柱状節理となっています。
火砕流は、マグマが地表付近で大爆発して、膨張したものが、流体として熱いまま流れていきます。600度から1000度ほどの熱い流体で、高速で流れていき、山があっても乗り越えて、遠くまで達します。
阿蘇山の4度目の火砕流は、非常に大規模で広範囲に及びました。この火砕流は、南は人吉盆地まで達し、南以外はすべて海にまで達しています。北は海を越え山口県宇部市、東は五ヶ瀬川の河口から海へ、西は海を越え、島原半島、天草下島にまで達しました。その規模は、火砕流だけで、九州を半分近くを覆うような大火砕流だったのです。また、火砕流だけでなく、火山灰も大量に放出し、北海道東部でも15cmもたまっています。
そんな大噴火によって形成された高千穂峡ですが、今ではそんなことに気づく人はどれほどいるでしょうか。高千穂峡を橋の上から見下ろすと、そこには切り立った崖と、音も無く落ちる滝、そして静かな水面という、静逸と神秘に満ちた景観をみせてくれます。時折静かな水面をボートが行きかい、これが現代であるということを、思い出させてくれます。
こんな節理が作り出す景観の中で、神話が生まれたのも納得できます。
・予定外の訪問・
今年最後のエッセイは高千穂となりました。
高千穂には今年9月、
宮崎調査に出かけたときに立ち寄りました。
本当は、高千穂からのずっと奥の調査予定でした、
その地を探したのですが、わかりづらく
見つけることができず、断念しました。
少々悔しい思いでしたが、
はからずも時間ができたので、
高千穂を見学することにしました。
20年ほど前には友人と、
数年前にも家族で高千穂には訪れたのですが、
季節が違っているので、趣も違っていました。
9月上旬の平日にもかかわらす、
バスで多くの観光客が訪れていました。
観光客でも、外国の方が目立ちました。
夏休みが過ぎていましたが、
暑い日で、高千穂峡の川面を流れる風の涼しさを堪能しました。
・来年の予定・
いよいよ今年も終わりとなります。
来年もこのエッセイを続ける予定ですが、
4月以降は、愛媛県に1年間単身で出かける予定になっています。
そこは自宅や大学よりインターネット環境が完備しておらず
継続できるかどうか不明です。
とりあえずは、3月までは継続していきますが、
状況によっては、このエッセイを休止するかもしれません。
ただ、現在発行しているまぐまぐでは、休刊はできますが、
1年以上に渡っての休刊は、メールアドレスの変更が多数あるため
あまり復刊しない方がいいとのことです。
ですから、せっかく長らく購読いただいている読者がおられますから
継続の方向で検討しますが、現段階では、まだ未定です。
状況が変わればそのつど連絡しますが、
そのような状況であることをご報告します。
2009年11月15日日曜日
59 三笠山:複雑さと誤謬
9月下旬に、奈良を訪ねました。そのときに垣間見た若草山から、奈良盆地の火山に思いを馳せました。思いは、奈良時代から地質時代へと巡ります。そして、出回っている説には、いろいろ誤謬があることに気づきました。誤謬の原因は、一つには複雑な来歴に由来するものです。複雑の生む誤謬が生んだ、誤謬を見ていきます。
春のゴールデンウィークに対して、今年の秋の長い連休をシルバーウィークというようになりました。しかし、連続するのは今年だけで、ゴールデンウィークのように毎年連休になるわけではありませんが。大連休だったので、家族で久しぶりに里帰りをすることにしました。多分どこでも人で一杯だろうし、交通料金もかかるので、一番安上がりな里帰りを選びました。これなら交通費だけですみます。滞在費、宿泊費は、実家にお世話になります。
5日間いたのですが、そのうち1日を、奈良に出かけることにしました。子どもを2人と私の3人旅となりました。家内はぎっくり腰で、実家で寝ていました。
私たちは、奈良の大仏を見ることをメインにしていました。そして次男は、野生の鹿を見ることも楽しみにしていました。
北海道にいると、よく野生動物を見かけることがります。それは、完全な野生で、人間には馴れてないのが普通です。ところが、奈良の野生の鹿は、人に馴れています。子どもたちは、間近にみることのできる野生動物のものめずらしさ、力強さ、生物としての知恵など、いろいろ感じることができたようです。帰っても興奮して鹿の話をしていました。
私は、奈良の東大寺周辺には何度かいったことがありました。最後に来たのは、学生時代だと思います。学生時代、帰省するとたびに、京都や奈良の名所旧跡をめぐるようになりました。故郷をはなれて、北海道に住むと、自然の豊かさを味わうことができますが、人間が作り上げてきた文化の歴史が浅く感じるようになります。そのような欲求を満たすためだったのでしょう。
道筋までは覚えていることはありませんが、名所にくると、「ああ、ここには来たことがある」という思い出がよみがえりました。そんなところを回ることになりました。
奈良の若草山というと思い出すのが、
天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
という阿倍仲麻呂の歌です。子どもたちは学校で百人一首をしているので、この歌を知っています。ここで歌われている三笠山が、東大寺の裏にある若草山のことだと、子どもたちに教えていました。若草山が、3つ重なっているように山頂が見えるため三笠山と呼ばれていたのは知っていました。ちょっと知識のあることを見せていました。ところが、調べてみると、間違っていたことがわかりました。
若草山が、以前三笠山と呼ばれていたのは、正しかったのです。しかし、歌で詠まれている「三笠の山」は、若草山のことではなかったのです。南側にある春日大社の裏にある「御蓋山(みかさやま)」のことでした。案内書によっては、「御蓋山」の後ろにある春日山が、阿倍仲麻呂に歌われた山だといっているものがあるようですが、それは間違いです。春日山の前にある「御蓋山」が「三笠の山」だったのです。複雑です。
この若草山ですが、本によっては昔の火山と書いてあるものがあります。でも、本当は火山本体ではありません。そもそも火山とは、火山噴火で形成された山のことですから、そのいう定義でいうと、若草山は火山になりません。
ただ、若草山も御蓋山も、安山岩と呼ばれる溶岩からできています。その溶岩は、10数メートルほどの厚さしかなく、マグマを噴出した火山本体は、もはやは不明となっています。若草山も御蓋山も、山自体が火山ではなく、火山岩からできているにすぎません。ですから、若草山は火山ではないのです。複雑です。
では、なぜ山になっているのでしょうか。それは、奈良盆地と東の笠置(かさぎ)山地を区切る断層(市ノ井断層と呼ばれています)があり、東側が持ち上げられたためです。
断層によって、両側は全く違った地質となっています。断層の東側は、春日山も含めて花崗片麻岩からできています。花崗片麻岩は硬い岩石で、浸食されにくくなっています。ですから、山として残りました。一方、断層の西側は、西に傾いた地層が連なっています。もともと水平にたまった地層ですが、断層で東側が持ち上げられたたために、西に傾いてしまいました。
地層の多くは、堆積岩や凝灰岩からできていて、その中に安山岩の溶岩があります。若草山の溶岩ももともとは水平にたまったものでした。この溶岩は、緻密で固い安山岩でした。そのために、周囲の堆積岩が長年浸食を受け、硬い溶岩の部分が若草山、御蓋山として残り、山となったのです。複雑です。
若草山も御蓋山も、1300万年前に噴出した三笠安山岩と呼ばれる真っ黒な火山岩からできます。火山体はなくなっていますが、溶岩があるので、近くで火山活動があったことは確かです。
奈良盆地には、昔の火山が点在しています。室生(むろう)、二上山、耳成山、畝傍(うねび)山、宝山寺、信貴(しぎ)山などは、火山です。考えてみると、点在する火山が、奈良盆地の真ん中にあるのは不思議な感じがします。なぜなら、周囲には活火山がまったくないからです。つまり火山帯ではないのです。なのに火山が点在するのです。不思議です。
九州から、瀬戸内海を通って、奈良盆地、愛知県まで、点々とですが、断続的に同じような古い火山があります。これらを「瀬戸内火山帯」と呼んでいます。活動時代には幅がありますが、年代の分かっている火山の多くは、1600万から1100万年前にかけて活動したものです。
瀬戸内火山帯の火山岩の多くは、安山岩マグマの活動できました。ところが、この安山岩は、少々不思議な特徴があります。一般の安山岩は、珪酸(SiO2)が多く、酸化マグネシウム(MgO)が少なくなっています。一方、瀬戸内火山帯の安山岩は、珪酸も多いのですが、その珪酸量に比べて、酸化マグネシウムがかなり多すぎるのです。まるで玄武岩のような量から、もっと多くの酸化マグネシウムを含むという特徴をもっています。
このような安山岩を、「高マグネシアン安山岩」、あるいは「サヌカイト(sanukite)」と呼んでいます。この不思議な岩石が、讃岐(さぬき)地方でみつかったので、讃岐岩(いまではあまり使われていません)、英名をサヌカイトと呼ぶようになりました。
瀬戸内火山帯は、かつての火山帯であったと考えられています。この火山地帯は、もともと複雑で特異なところでした。つまり、単純な成因では説明できず、複雑な成因を考えなければならないのです。
沈み込む海洋地殻とそれに引きずり込まれた堆積物が溶けて、マグマが形成されます。そのマグマがマントルのカンラン岩と反応して、酸化マグネシウムの多いマグマができたと考えられています。しかし、この説も、まだ完全な成因解明にはいたってないようです。複雑なのです。
若草山は、その起源も複雑、来歴も複雑、歴史も複雑です。そんな複雑さが重なり合うことによって、さまざまな誤謬が生じました。誤謬を生むほどの複雑さは、不思議さや神秘性をも生むのでしょうか。
神秘性をも生んだ例として、奈良盆地の南に大和三山があります。畝傍山、耳成山、香久山の三山です。大和三山は、古くから歌にも詠まれてきました。
春すぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山
大和三山のそれぞれが、正三角形の頂点をなしています。畝傍山と耳成山は上でも述べましたが、古い火山です。しかし、香具山は、花崗岩からできています。この関係は、若草山、御蓋山、春日山の関係に似ています。偶然ですが、少々不思議な気がしました。
昔の人がいろいろな思いを巡らした地は、人に神秘な心持を沸かせます。たんなる偶然にも、神秘性を感じてしまいます。
・カンカン石・
サヌカイトは、黒く緻密なので、
たたくとカンカンといい音がします。
香川県では、土産物として売られています。
このような石を、通称、カンカン石と呼んでいます。
香川県だけのものとされている表記もあるのですが、
上で述べたように同じような性質の岩石は
結構広く分布しています。
いずれも岩石としては、同じような性質をもっているはずです。
ですから、たたけばいい音がすると思います。
ただし、私は試したことがありませんが。
・改名・
三笠山に因んで天皇家である三笠宮ができました。
そのとき、同じ名前では恐れ多いとして
三笠山を若草山に改称したそうです。
山名に因んでいるわけですから
本当はありがたいことと喜びべきことで、
山名を残すべきだと思います。
今思うと少々奇異な感じがします。
1935年に山名が改名されたのですが、
時代は戦前の天皇制のころですから、
仕方のないことなのでしょうかね。
・巡る季節・
今回の里帰りでは
いくつかの親戚のお墓参りをすることにもしていました。
子どもたちは、従兄弟たちと久しぶりに会うので、
顔も知らない同士のような、緊張をしていました。
しかし、しばらく遊んでいると、
わいわいと騒がしく遊んでいました。
そんな賑わいとともに、
残暑の暑さの奈良を思い出しながら、
このエッセイを書きました。
ところが、今は11月。
北海道は初冬です。
つい最近のつもりだったのですが、
もう季節が2つも過ぎたのですね。
春のゴールデンウィークに対して、今年の秋の長い連休をシルバーウィークというようになりました。しかし、連続するのは今年だけで、ゴールデンウィークのように毎年連休になるわけではありませんが。大連休だったので、家族で久しぶりに里帰りをすることにしました。多分どこでも人で一杯だろうし、交通料金もかかるので、一番安上がりな里帰りを選びました。これなら交通費だけですみます。滞在費、宿泊費は、実家にお世話になります。
5日間いたのですが、そのうち1日を、奈良に出かけることにしました。子どもを2人と私の3人旅となりました。家内はぎっくり腰で、実家で寝ていました。
私たちは、奈良の大仏を見ることをメインにしていました。そして次男は、野生の鹿を見ることも楽しみにしていました。
北海道にいると、よく野生動物を見かけることがります。それは、完全な野生で、人間には馴れてないのが普通です。ところが、奈良の野生の鹿は、人に馴れています。子どもたちは、間近にみることのできる野生動物のものめずらしさ、力強さ、生物としての知恵など、いろいろ感じることができたようです。帰っても興奮して鹿の話をしていました。
私は、奈良の東大寺周辺には何度かいったことがありました。最後に来たのは、学生時代だと思います。学生時代、帰省するとたびに、京都や奈良の名所旧跡をめぐるようになりました。故郷をはなれて、北海道に住むと、自然の豊かさを味わうことができますが、人間が作り上げてきた文化の歴史が浅く感じるようになります。そのような欲求を満たすためだったのでしょう。
道筋までは覚えていることはありませんが、名所にくると、「ああ、ここには来たことがある」という思い出がよみがえりました。そんなところを回ることになりました。
奈良の若草山というと思い出すのが、
天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
という阿倍仲麻呂の歌です。子どもたちは学校で百人一首をしているので、この歌を知っています。ここで歌われている三笠山が、東大寺の裏にある若草山のことだと、子どもたちに教えていました。若草山が、3つ重なっているように山頂が見えるため三笠山と呼ばれていたのは知っていました。ちょっと知識のあることを見せていました。ところが、調べてみると、間違っていたことがわかりました。
若草山が、以前三笠山と呼ばれていたのは、正しかったのです。しかし、歌で詠まれている「三笠の山」は、若草山のことではなかったのです。南側にある春日大社の裏にある「御蓋山(みかさやま)」のことでした。案内書によっては、「御蓋山」の後ろにある春日山が、阿倍仲麻呂に歌われた山だといっているものがあるようですが、それは間違いです。春日山の前にある「御蓋山」が「三笠の山」だったのです。複雑です。
この若草山ですが、本によっては昔の火山と書いてあるものがあります。でも、本当は火山本体ではありません。そもそも火山とは、火山噴火で形成された山のことですから、そのいう定義でいうと、若草山は火山になりません。
ただ、若草山も御蓋山も、安山岩と呼ばれる溶岩からできています。その溶岩は、10数メートルほどの厚さしかなく、マグマを噴出した火山本体は、もはやは不明となっています。若草山も御蓋山も、山自体が火山ではなく、火山岩からできているにすぎません。ですから、若草山は火山ではないのです。複雑です。
では、なぜ山になっているのでしょうか。それは、奈良盆地と東の笠置(かさぎ)山地を区切る断層(市ノ井断層と呼ばれています)があり、東側が持ち上げられたためです。
断層によって、両側は全く違った地質となっています。断層の東側は、春日山も含めて花崗片麻岩からできています。花崗片麻岩は硬い岩石で、浸食されにくくなっています。ですから、山として残りました。一方、断層の西側は、西に傾いた地層が連なっています。もともと水平にたまった地層ですが、断層で東側が持ち上げられたたために、西に傾いてしまいました。
地層の多くは、堆積岩や凝灰岩からできていて、その中に安山岩の溶岩があります。若草山の溶岩ももともとは水平にたまったものでした。この溶岩は、緻密で固い安山岩でした。そのために、周囲の堆積岩が長年浸食を受け、硬い溶岩の部分が若草山、御蓋山として残り、山となったのです。複雑です。
若草山も御蓋山も、1300万年前に噴出した三笠安山岩と呼ばれる真っ黒な火山岩からできます。火山体はなくなっていますが、溶岩があるので、近くで火山活動があったことは確かです。
奈良盆地には、昔の火山が点在しています。室生(むろう)、二上山、耳成山、畝傍(うねび)山、宝山寺、信貴(しぎ)山などは、火山です。考えてみると、点在する火山が、奈良盆地の真ん中にあるのは不思議な感じがします。なぜなら、周囲には活火山がまったくないからです。つまり火山帯ではないのです。なのに火山が点在するのです。不思議です。
九州から、瀬戸内海を通って、奈良盆地、愛知県まで、点々とですが、断続的に同じような古い火山があります。これらを「瀬戸内火山帯」と呼んでいます。活動時代には幅がありますが、年代の分かっている火山の多くは、1600万から1100万年前にかけて活動したものです。
瀬戸内火山帯の火山岩の多くは、安山岩マグマの活動できました。ところが、この安山岩は、少々不思議な特徴があります。一般の安山岩は、珪酸(SiO2)が多く、酸化マグネシウム(MgO)が少なくなっています。一方、瀬戸内火山帯の安山岩は、珪酸も多いのですが、その珪酸量に比べて、酸化マグネシウムがかなり多すぎるのです。まるで玄武岩のような量から、もっと多くの酸化マグネシウムを含むという特徴をもっています。
このような安山岩を、「高マグネシアン安山岩」、あるいは「サヌカイト(sanukite)」と呼んでいます。この不思議な岩石が、讃岐(さぬき)地方でみつかったので、讃岐岩(いまではあまり使われていません)、英名をサヌカイトと呼ぶようになりました。
瀬戸内火山帯は、かつての火山帯であったと考えられています。この火山地帯は、もともと複雑で特異なところでした。つまり、単純な成因では説明できず、複雑な成因を考えなければならないのです。
沈み込む海洋地殻とそれに引きずり込まれた堆積物が溶けて、マグマが形成されます。そのマグマがマントルのカンラン岩と反応して、酸化マグネシウムの多いマグマができたと考えられています。しかし、この説も、まだ完全な成因解明にはいたってないようです。複雑なのです。
若草山は、その起源も複雑、来歴も複雑、歴史も複雑です。そんな複雑さが重なり合うことによって、さまざまな誤謬が生じました。誤謬を生むほどの複雑さは、不思議さや神秘性をも生むのでしょうか。
神秘性をも生んだ例として、奈良盆地の南に大和三山があります。畝傍山、耳成山、香久山の三山です。大和三山は、古くから歌にも詠まれてきました。
春すぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山
大和三山のそれぞれが、正三角形の頂点をなしています。畝傍山と耳成山は上でも述べましたが、古い火山です。しかし、香具山は、花崗岩からできています。この関係は、若草山、御蓋山、春日山の関係に似ています。偶然ですが、少々不思議な気がしました。
昔の人がいろいろな思いを巡らした地は、人に神秘な心持を沸かせます。たんなる偶然にも、神秘性を感じてしまいます。
・カンカン石・
サヌカイトは、黒く緻密なので、
たたくとカンカンといい音がします。
香川県では、土産物として売られています。
このような石を、通称、カンカン石と呼んでいます。
香川県だけのものとされている表記もあるのですが、
上で述べたように同じような性質の岩石は
結構広く分布しています。
いずれも岩石としては、同じような性質をもっているはずです。
ですから、たたけばいい音がすると思います。
ただし、私は試したことがありませんが。
・改名・
三笠山に因んで天皇家である三笠宮ができました。
そのとき、同じ名前では恐れ多いとして
三笠山を若草山に改称したそうです。
山名に因んでいるわけですから
本当はありがたいことと喜びべきことで、
山名を残すべきだと思います。
今思うと少々奇異な感じがします。
1935年に山名が改名されたのですが、
時代は戦前の天皇制のころですから、
仕方のないことなのでしょうかね。
・巡る季節・
今回の里帰りでは
いくつかの親戚のお墓参りをすることにもしていました。
子どもたちは、従兄弟たちと久しぶりに会うので、
顔も知らない同士のような、緊張をしていました。
しかし、しばらく遊んでいると、
わいわいと騒がしく遊んでいました。
そんな賑わいとともに、
残暑の暑さの奈良を思い出しながら、
このエッセイを書きました。
ところが、今は11月。
北海道は初冬です。
つい最近のつもりだったのですが、
もう季節が2つも過ぎたのですね。
2009年10月15日木曜日
58 青島:めまいのする時の流れ
青島は、古くから名勝として宮崎でも有数の観光地です。今でもそれは変わらず、多くの観光客が訪れています。私も宮崎に行ったとき、青島にいきました。もちろん観光ではなく、地質を見るためです。そこでは流れる時間のスピードの違いをみることができました。
9月に宮崎県を調査で1週間ほどかけて回りました。そして最終目的地は、青島でした。青島では、島の周囲の海岸に分布する地層をじっくりと観察することでした。1週間の調査期間中、天気に恵まれ、ほぼ予定通りに調査をすることができました。青島の海岸の調査では、最後に1日あてていたのですが、午前中は満潮なので、朝と干潮時にあたる午後に島を2週して観察をしました。一日、天気がよったために、午前中別のところで海岸線を結構歩いたためでしょうか、午後には暑さでへとへとになりました。
青島より南の海岸線沿いには、青島でみられるのと似たような洗濯板状になった地層がでています。その中でも特に青島は、洗濯板状の地層が広がっていることで有名です。そのような、洗濯板を各地で見ながら青島にたどり着きました。
青島は、亜熱帯性植物群落が国指定の特別天然記念物に、さらに周囲の地層は「隆起海床と奇型波蝕痕」として国指定の天然記念物となっています。地層の「隆起海床と奇型波蝕痕」という文言は少々古めかしい感じがします。それもそのはずです。昭和9年に天然記念物に指定されていますので、その時代の地質の用法だったのでしょうか。
現代風のいい方をすると、「差別浸食海蝕台の隆起海岸」とでもなるでしょうか。その意味は、砂岩泥岩の繰り返し(互層といいます)が、海岸線沿いにでていたものが、波の浸食を受けて、平らな海蝕台になっていきます。海蝕台は全体としては平らなのですが、硬い砂岩部は浸食されにくくて残り、軟らかい泥岩部が選択的に浸食されていきます。このような浸食の程度の違いを差別浸食といいます。それが洗濯板のような景観をつくっていきました。その後、海岸一帯が隆起したため現在のような、満潮時でも岩がのぞき、干潮時には島の周囲を取り囲むように洗濯板がでるようになりました。
このような景観を表す言葉を説明するだけで、青島の起源を示すことができます。ただし、他にはいろいろな地質学的背景があります。
青島の洗濯板を構成している地層は、宮崎層群と呼ばれるものです。形成された時代は、900万年前から150万年前ころです。宮崎県の海岸沿いに広く分布する地層で、宮崎平野を構成している地層です。この地層のさらに下は、有名な四万十層群があります。
四万十層群より新しい地層で、宮崎層群と似たようなでき方をしたものは、静岡の掛川層群、高知の唐浜層群、沖縄本島の島尻層群など、日本列島の太平洋側に広く見られます。
宮崎層群は、全体として似たような構造をもっていて、西から東に向かって、古い時代から新しい時代になっています。下から上に向かって地層を構成する堆積岩の粒子が、粗いものから細かいもの、細粒から粗粒、そして細粒、粗粒へと変化します。このような岩石の粒子の変化や構造の変化から、海進が2度渡って起こっていることが読み取られています。
宮崎層群の分布地域を見ると、北部と中部、南部で堆積環境が変化していることが分かっています。北部の堆積環境を妻相、中部を宮崎相、南部を青島相とよび、それぞれいくつかの地層群(層や部層に細分されています)からなっています。
青島相全体としては、2000メートル以上に達する地層からできています。青島相の中で青島は、最上部の地層(戸崎鼻部層と呼ばれています)からできています。つまり、一番最後にたまった地層からできています。戸崎鼻部層の上部は海の中になるので、調査できず詳細は不明です。また、時代もまだ正確に決まっていませんが、下にある内海の環境でたまった内海部層の最上部は600万年前という年代がわかっています。それより新しい時代となります。
青島の出ている戸崎鼻部層は、比較的規則正しい、砂岩と泥岩の繰り返しの互層からできています。そして、断層によってその互層が乱されています。砂岩には、亀甲状や、幾何学的な割れ目がいろいろあったり、団塊(ノジュールと呼ばれる)がたくさんあるところもあります。同じような互層の繰り返しにみえますが、よく見るとそれぞれ個性があります。
青島の洗濯板は、干潮になると広く地層が見え、満潮時には、浸食に強い砂岩の一部が見えているだけです。訪れる時間が違うと、広さや景観に大きな違いがあり、なかなか見ごたえがあります。
また、青島の緑も、小さな島にもかかわらずうっそうして深いものです。私は、暑い日の息抜きの日影として重宝しました。そのようなうっそうとした植物を掻き分けるように、青島神社が立てられています。確かに、こんもりとした緑の丘とその周囲を囲む洗濯板のような地層群は、不思議な景観をもっていますので名勝とあるのもうなづけます。
そして、もう一つおもしろものがありました。それは、青島と洗濯板の地層の間には小さいながら砂浜が取り巻いています。その砂が貝殻だけからできているところがいくつもありました。貝殻砂(shell sand)と呼ばれているものです。周りは地層ですので、本来であれば、堆積岩が砕かれた砂からできているはずなのですが、貝殻ばかりからできているところがあちこちにあるのです。青島は、貝殻だけが集まる仕組みがどうも働いているようです。自然の妙です。
調査の折に、貝殻砂を見つけたとき、そのだけの量がたまるのに、どれほどの時間が流れたのかと思ってしまいました。暑い日差しの中を歩いているせいでしょうか、めまいを感じてしまうような時間の流れを感じました。しかし、貝殻よりももっとないが時間の流れが、周りにはあります。地層の堆積という地質現象は、繰り返しながらも、時間とともに変化があります。固結、浸食、隆起などの地質過程を経て、最終的に、大きな変化として現在に至りました。、そして貝殻の砂も植生も、まして神社も、地質に流れてい時間と比べれ、あっという間の出来事かもしれません。
・めまい・
調査最後の日程で疲れがたまっているためしょうか。
それとも、単に暑さにばてていただけでしょう。
午後の調査で青島の周囲を歩いているとき、
めまいを感じるような思い抱いていました。
それと地層や砂に思い馳せているせいでしょうか。
時間の流れにめまいがしたように感じました。
単に年齢による老化、
あるいは、運動不足による疲労なのかもしれませんが。
・秋・
北海道は短い秋の真っ最中です。
朝夕の時間帯にはストーブをつけるようになりました。
通勤途中に見えている手稲の山並みでは、
何度か冠雪をしているのをみました。
初雪前に飛ぶ雪虫(アブラムシの仲間)も
天気のいい日には見られます。
そんな秋真っ盛りの北海道ですが、
行く秋を惜しみながら、
秋を満喫しています。
9月に宮崎県を調査で1週間ほどかけて回りました。そして最終目的地は、青島でした。青島では、島の周囲の海岸に分布する地層をじっくりと観察することでした。1週間の調査期間中、天気に恵まれ、ほぼ予定通りに調査をすることができました。青島の海岸の調査では、最後に1日あてていたのですが、午前中は満潮なので、朝と干潮時にあたる午後に島を2週して観察をしました。一日、天気がよったために、午前中別のところで海岸線を結構歩いたためでしょうか、午後には暑さでへとへとになりました。
青島より南の海岸線沿いには、青島でみられるのと似たような洗濯板状になった地層がでています。その中でも特に青島は、洗濯板状の地層が広がっていることで有名です。そのような、洗濯板を各地で見ながら青島にたどり着きました。
青島は、亜熱帯性植物群落が国指定の特別天然記念物に、さらに周囲の地層は「隆起海床と奇型波蝕痕」として国指定の天然記念物となっています。地層の「隆起海床と奇型波蝕痕」という文言は少々古めかしい感じがします。それもそのはずです。昭和9年に天然記念物に指定されていますので、その時代の地質の用法だったのでしょうか。
現代風のいい方をすると、「差別浸食海蝕台の隆起海岸」とでもなるでしょうか。その意味は、砂岩泥岩の繰り返し(互層といいます)が、海岸線沿いにでていたものが、波の浸食を受けて、平らな海蝕台になっていきます。海蝕台は全体としては平らなのですが、硬い砂岩部は浸食されにくくて残り、軟らかい泥岩部が選択的に浸食されていきます。このような浸食の程度の違いを差別浸食といいます。それが洗濯板のような景観をつくっていきました。その後、海岸一帯が隆起したため現在のような、満潮時でも岩がのぞき、干潮時には島の周囲を取り囲むように洗濯板がでるようになりました。
このような景観を表す言葉を説明するだけで、青島の起源を示すことができます。ただし、他にはいろいろな地質学的背景があります。
青島の洗濯板を構成している地層は、宮崎層群と呼ばれるものです。形成された時代は、900万年前から150万年前ころです。宮崎県の海岸沿いに広く分布する地層で、宮崎平野を構成している地層です。この地層のさらに下は、有名な四万十層群があります。
四万十層群より新しい地層で、宮崎層群と似たようなでき方をしたものは、静岡の掛川層群、高知の唐浜層群、沖縄本島の島尻層群など、日本列島の太平洋側に広く見られます。
宮崎層群は、全体として似たような構造をもっていて、西から東に向かって、古い時代から新しい時代になっています。下から上に向かって地層を構成する堆積岩の粒子が、粗いものから細かいもの、細粒から粗粒、そして細粒、粗粒へと変化します。このような岩石の粒子の変化や構造の変化から、海進が2度渡って起こっていることが読み取られています。
宮崎層群の分布地域を見ると、北部と中部、南部で堆積環境が変化していることが分かっています。北部の堆積環境を妻相、中部を宮崎相、南部を青島相とよび、それぞれいくつかの地層群(層や部層に細分されています)からなっています。
青島相全体としては、2000メートル以上に達する地層からできています。青島相の中で青島は、最上部の地層(戸崎鼻部層と呼ばれています)からできています。つまり、一番最後にたまった地層からできています。戸崎鼻部層の上部は海の中になるので、調査できず詳細は不明です。また、時代もまだ正確に決まっていませんが、下にある内海の環境でたまった内海部層の最上部は600万年前という年代がわかっています。それより新しい時代となります。
青島の出ている戸崎鼻部層は、比較的規則正しい、砂岩と泥岩の繰り返しの互層からできています。そして、断層によってその互層が乱されています。砂岩には、亀甲状や、幾何学的な割れ目がいろいろあったり、団塊(ノジュールと呼ばれる)がたくさんあるところもあります。同じような互層の繰り返しにみえますが、よく見るとそれぞれ個性があります。
青島の洗濯板は、干潮になると広く地層が見え、満潮時には、浸食に強い砂岩の一部が見えているだけです。訪れる時間が違うと、広さや景観に大きな違いがあり、なかなか見ごたえがあります。
また、青島の緑も、小さな島にもかかわらずうっそうして深いものです。私は、暑い日の息抜きの日影として重宝しました。そのようなうっそうとした植物を掻き分けるように、青島神社が立てられています。確かに、こんもりとした緑の丘とその周囲を囲む洗濯板のような地層群は、不思議な景観をもっていますので名勝とあるのもうなづけます。
そして、もう一つおもしろものがありました。それは、青島と洗濯板の地層の間には小さいながら砂浜が取り巻いています。その砂が貝殻だけからできているところがいくつもありました。貝殻砂(shell sand)と呼ばれているものです。周りは地層ですので、本来であれば、堆積岩が砕かれた砂からできているはずなのですが、貝殻ばかりからできているところがあちこちにあるのです。青島は、貝殻だけが集まる仕組みがどうも働いているようです。自然の妙です。
調査の折に、貝殻砂を見つけたとき、そのだけの量がたまるのに、どれほどの時間が流れたのかと思ってしまいました。暑い日差しの中を歩いているせいでしょうか、めまいを感じてしまうような時間の流れを感じました。しかし、貝殻よりももっとないが時間の流れが、周りにはあります。地層の堆積という地質現象は、繰り返しながらも、時間とともに変化があります。固結、浸食、隆起などの地質過程を経て、最終的に、大きな変化として現在に至りました。、そして貝殻の砂も植生も、まして神社も、地質に流れてい時間と比べれ、あっという間の出来事かもしれません。
・めまい・
調査最後の日程で疲れがたまっているためしょうか。
それとも、単に暑さにばてていただけでしょう。
午後の調査で青島の周囲を歩いているとき、
めまいを感じるような思い抱いていました。
それと地層や砂に思い馳せているせいでしょうか。
時間の流れにめまいがしたように感じました。
単に年齢による老化、
あるいは、運動不足による疲労なのかもしれませんが。
・秋・
北海道は短い秋の真っ最中です。
朝夕の時間帯にはストーブをつけるようになりました。
通勤途中に見えている手稲の山並みでは、
何度か冠雪をしているのをみました。
初雪前に飛ぶ雪虫(アブラムシの仲間)も
天気のいい日には見られます。
そんな秋真っ盛りの北海道ですが、
行く秋を惜しみながら、
秋を満喫しています。
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