2007年1月15日月曜日

25 隠岐:新旧の歴史の連結 2007.01.15

 日本海に浮かぶ隠岐は、古くから人が住みつき、長い歴史をもち、今も人々は歴史を刻み続けています。地質学的にもみても、隠岐は古い記録と新しい記録が残されている島です。それらの新旧の歴史が隠岐では連結して見えます。

 隠岐は、日本海に浮かぶ大きな島です。さすがに佐渡や対馬と比べると、見劣りがしますが、隠岐の島後(どうご)の中にいると、そこが島であるということを忘れてしまうほどの大きさがあります。それは、海の見えない内陸で、田畑や山、森林などの日本の里山の景色があるためかもしれません。
 私は1980年に一度訪れたのですが、その後、機会がなくいっていません。チャンスがあれば、また行きたいものです。
 私が隠岐を訪れたのは、大学の修士課程の1年生の6月下旬でした。私の指導教官であるT先生が、隠岐で産出する捕獲岩(後述)の試料を採取するというので、そのお供として勉強のためについていきました。
 当時、私は学生のいない大学院(当時は2年間で修了する修士課程だけしありませんでした)と研究者(教員)だけしかいない大学の研究所にいました。その研究所には、3つの専攻があったのですが、大学院生も少なく、総勢6名(内1名は研究生)しかいませんでした。そして同じ専攻には3人の修士課程1年生だけがしかいませんでした。T先生を指導教官としていたのは、私だけで、他の2人は違う先生を指導教官としていました。
 そのころ私は、T先生と相談して修士論文のテーマを決めて、野外調査をする地域も選んで基礎的なデータを集めたり、論文を読んでいるところでした。7月になったら、長期の予定で野外調査に出かけるつもりでした。そんなころ、隠岐に出かけました。それは、T先生が一人で調査にいくのは大変だし、調査の準備や手伝をする必要があったからです。自分の修士論文のテーマとは違うのですが、別の地域で地質学的に有名な隠岐の地質を見聞することは勉強になります。そして、2泊3日の調査で、出会って間もないT先生と、親睦を深めることも重要な目的でした。
 隠岐の島後は、日本列島でも非常に古い岩石が出ていることで有名です。その石は、隠岐片麻岩と呼ばれるものです。隠岐に見られる岩石は、約20億年前に地下深部で形成された非常に古いものであることがわかっています。中には30億年前にできた鉱物(ジルコンと呼ばれているものです)も見つかっています。片麻岩は変成岩の一種で、元になっている岩石は堆積岩や火成岩などいろいろな種類があります。片麻岩以外にも、一部溶けてできたミグマタイトと呼ばれる岩石もあります。
 同じような一連の岩石は、中部地方の飛騨地域と韓半島で見つかっています。ですから、片麻岩のもととなった岩石ができた頃は、日本列島と韓半島、つまりユーラシア大陸とがつながっていたことになります。当時、日本海も日本列島もなく、そこはユーラシア大陸の東端にだったのです。
 4000万年前から2000万年前にかけて、マグマの激しい活動によって、隠岐島後には直径12、3kmほどの環状のカルデラが形成されます。激しい火山活動とともに、大陸の東端に大きな亀裂が形成され海が進入しました。西南日本の研究から、1500万年前に、亀裂で切り離された大陸の切れ端(日本列島の原型)は、回転をはじめ、1300万年前にはほぼ現在の位置へたどり着いたと考えれられています。もしこの研究の結果が正しければ、日本海の形成は、200万年ほどの間に起こったことになります。
 ところが、対馬海峡は第四紀まではユーラシア大陸とつながっていて、氷期と間氷期の繰り返しによって、浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返しながら現在のように開いていったと考えられています。
 それは、火山が活動していた中新世(2500万~1100万年前)にたまった地層からわかります。地層には、火山灰含むものもありますが、珪藻土(海のプランクトンが集まってできたもの)や、海の生物(サメや魚)や淡水の生物(海や陸上植物)などの化石を含んでいます。このことから隠岐は、海水が入り込んだ時代(海進)や海水が引いて淡水だけの湖の時代(海退)が繰り返していたことがわかります。
 これが隠岐の石が語る日本列島形成前後の歴史です。
 隠岐には、その後の新しい時代に起こった激しい火山活動も記録されています。火山活動は、600万年前から300万年間にわたって続きました。その火山岩の中に捕獲岩が見つかります。
 T先生のお供で捕獲岩をとりに行ったといいましたが、捕獲岩とはいったいどういうものでしょうか。捕獲岩とは、文字通り、捕獲されてきた岩石です。何に捕獲されてきたかというと、マグマです。マグマが上昇してきて地表に達したものが火山となります。火山の溶岩や噴出物の中には、マグマが上昇中に通り道にあった岩石を、取り込んで持ってくることがあります。そのため、マグマが固まった火山岩の中に捕獲岩が見つかることがあるのです。
 もし、マントルのような深いところで形成されたマグマであれば、マントルを構成している岩石が捕獲岩として手に入れることができます。地上にいながらにして、マントルの岩石を手にできるのです。マントルの岩石は非常に貴重で重要です。
 マントルまで岩石を掘りに抜くことは、まだできていません。ですから、マントルの岩石を直接調べることはまだ人類はできないのです。マントルの岩石がまくれ上がって出ている地域はありますが、それはもはや現在のマントルではなく、昔のマントルであったものです。現在あるマントルの岩石を手に入れることは、今のところ捕獲岩でしかできません。ですから、マントルの捕獲岩は非常に貴重な試料といえます。
 マントルを構成する岩石は、カンラン岩と呼ばれています。カンラン岩は、名前の通り、カンラン石をたくさん含んでいます。他にも輝石や長石、スピネルなどを含むことがあります。このような捕獲岩からマントルの様子を詳しく探ることができます。
 カンラン岩を調べた結果、そのカンラン岩のあった場所は深度30kmくらいいのことろだと考えられています。これは、地震波で調べた結果とも一致しています。ですから、その捕獲岩を取り込んできたマグマはもっと深いところで形成されたものであることになります。
 どこでできたマグマでも、すべて地下の岩石の中を通り抜けてくるのですから、すべてのマグマで捕獲岩があってもいいのですが、必ずしもそうではありません。なぜなら、マグマに取り込まれた岩石も、長い時間マグマの中にあると溶けてしまったり、重ければマグマの底に沈んでしまいます。マグマだまりなどをつくって長く液体のままマグマとしてとどまると、岩石が沈んでしまいます。取り込まれた岩石がマグマの中で岩石のまま残っているためには、ある程度速いスピードで、地下にほとんど止まることなくマグマが上がってこなければなりません。一気に地表に噴出する必要があります。
 マグマの上昇スピードが速くなるためには、マグマが大きな浮力を持っていなければなりません。その浮力は、ガスの多いマグマであれば得ることができます。マグマができたときにガスの成分が多いものあれば、ガスの浮力によって、マグマは速く地下を通り抜けていきます。そのまま地表に出てくれば、捕獲岩が溶けたり、沈むことなくマグマと一緒に上がってきます。
 隠岐の玄武岩は、アルカリ玄武岩と呼ばれるもので、ガスの成分をたくさん含んでいるものです。
 隠岐の島後は、島の半分ほどを火山岩に覆われています。新生代の中新世(600万年前)頃から、何度かの活動によって起こった多様な火山活動がありました。完全に隠岐が陸化して島となった後、最初に流紋岩や粗面岩と呼ばれるアルカリ岩質のマグマが活動します。その後、捕獲岩をともなう玄武岩のマグマの活動(西郷玄武岩と呼ばれます)に変化していきます。これらの玄武岩はアルカリ玄武岩と呼ばれるもので、日本海に面する山陰地方に多く見られるものです。
 隠岐で見つかる流紋岩のなかには、黒曜石をたくさん含んでいます。その黒曜石は石器に利用され、山陰地方の縄文時代の遺跡からたくさん見つかっています。隠岐の黒曜石による石器は、東は能登半島、西は韓半島にまで見つかっています。縄文の人がそのころ広く交流していたことをうかがわせます。そして、大地の恵みの黒曜石が、当時の重要の道具の材料となっていました。
 人間の歴史から見て、隠岐は古くから重要な役割を果たしていたことになります。しかし、隠岐の20億年以上におよぶ大地の歴史から見ると、黒曜石は新しい時代のできことです。地球の歴史の新旧と、人間の歴史の新旧が隠岐では連結しているように感じます。

・国境の島・
隠岐は、人の歴史によれば、
縄文や弥生時代から人が暮らしていた証拠があります。
大化の改新以前には億伎国造が、
すでに設置されと考えられています。
また、隠岐は、対馬と並んで、
韓半島の渤海や新羅との交渉の記録があります。
ですから、日本と韓半島との関係が緊張すると
隠岐にも影響があり、日本の前線基地がおかれたこともありました。
その緊張は今もたえることなく、
隠岐の北西にある竹島もその象徴となっています。
このような緊張感は、国境近くにある島の宿命なのかもしれません。
しかし、そのような激動の地にあることが、
隠岐の歴史の多様さを生み出しているのでしょう。
それはこれからも国家が存続し、
国境のある限り続くことなのかもしれません。

・知恵・
北海道は正月明けから冬らしくなってきました。
冷え込みも強くなり、雪も降るようになりました。
雪が少なく思っていましたが、
これのまま春といくとは誰も思っていないでのでしょうが、
やはり雪は北国の生活に不便と苦労を強いります。
でも、この雪こそが北海道や北国の個性であります。
そこに住み暮らす以上
それを風土、自然として受け入れなければなりません。
できればハンディをプラスにする工夫が必要ですが、
雪の夏の冷房への利用なども考えられています。
しかし、昔の知恵はなかったのでしょうか。
古くから北国で暮らしている人たちの知恵、
アイヌの人たち、縄文人達の生活から学ぶことがないでしょうか。
あるいは、遠くイヌイットやラップランドの人の暮らしからでも
他の生き物からでもいいかもしれません。
もしそのような知恵が見つかれば、
今の技術力をもってすれば、よりいいものにできると思います。
私は、いの一番に雪道で滑らない靴を早く開発していほしいものです。
でも、これだけ多くの人が苦労をしているのに、
いまだに万能のものはないです。
私たちの知恵は、まだまだなのですかね。

2006年12月15日金曜日

24 サロベツ原野:時間以上になくしたもの 2006.12.15

 湿原は、人が利用しづらい環境です。利用するために、いろいろ手を入れなければなりません。まして、北海道の北方の湿原ではなおさら困難です。そんな条件が、厳しくも美しい自然を、今に残すこととなったのです。

 私は、サロベツ原野には2度行っています。一度目は30年近く前の大学生の頃です。6月初旬の花盛り頃にいきました。学生時代はお金がなったので、札幌から半日かけて鈍行列車で最寄の駅までいき、無人の駅舎で野宿をし、翌日徒歩でサロベツ原野に向かいました。徒歩のために、サロベツ原野の大きさや自然を身を持って感じました。2度目は、2004年の春に、海岸沿いを自家用車で走りぬけました。何箇所か止まりましたが、その止まったところだけが、サロベツ原野の点として、記憶に残ります。
 若い頃は、口では「忙しい」といいながら、暇を見ては旅行に出かけました。今思い起こすと、よく旅に出てたものだと思います。授業をだいぶサボったのでしょう。それに、夏休みの冬休みのたくさんの時間がありました。それに今と比べれば、時間と体力はずっとあったので、強行軍で肉体的な旅行もできたのでしょう。もちろんお金はなかったので、安上がりに旅することが最優先すべきことでした。お金を節約するために、野宿やヒッチハイクをしながら旅行したものです。その頃は、目的地にたどり着くために、まさに旅行をしていたような気がします。
 仕事に就き家族ができると、今度は時間に追われる生活となりました。金銭的に余裕があるのに、本当に「忙しく」て、自由に旅行ができなくなってしまったのです。最近の私の旅行は、目的地にいかに早くたどり着くか、そしていかに少ない時間で目的を遂げるか、というものになってきました。旅行とは、プロセスではなく、目的を満たすために時間と有効に使って行って帰ってくるのが最優先すべきこととなりました。それでも、今の私とっては、大切な旅行なのです。
 道北の一級河川である天塩川は、天塩町で日本海に注ぎます。天塩川の河口近くで合流するサロベツ川は、天塩川の北側に広い湿原となった氾濫原をもちます。これが、サロベツ原野です。サロベツ原野は、東西5~8km、南北27kmの大きさを持ちます。東と西に丘陵が境となっています。
 サロベツ原野の東側は、大曲断層の西に鮮新世の勇知(ゆうち)層と更新世の更別(さらべつ)層からなる丘陵があります。これらの地層は、海から内湾そして潟へと環境が変わりながらできたものです。現在のサロベツ原野は、かつて海が入り込んでいたことが地層からわかります。やがて、海から潟、そして淡水のサロベツ川の氾濫源となり、湿原へと変化していきます。
 サロベツ原野の西側は、直接海になるではなく、砂丘があり、そこが湿原の境界となります。天塩から稚咲内(わっかさかない)の海岸は、日本海に沿って、まっすぐな海岸線となっています。海岸線に沿って南北に伸びる砂丘(完新世)が、何列かあります。砂丘の延長は35km、最大幅は2kmに達します。その砂丘群が、サロベツ原野の西端にあたります。砂丘と砂丘の間には、湿地や沼地が点在しています。一番奥まった砂丘との間にも、湿原があり、小さな沼があります。その砂丘を東に越えると、サロベツ川の湿原となります。湿原には、南から、パンケ沼、ペンケ沼、そしてサロベツ原野の一番北側には兜沼などがあります。
 サロベツ原野が盆地状の地形になったのは、第三紀から第四紀にかけです。河川の堆積物の流入によって、堆積盆地は埋まっていきますが、盆地が沈降していたので、厚い堆積物が溜まることになります。ウルム氷期の海退の後、間氷期で暖かくなり、海水面が上昇し、海水の進入(海進)します。この頃(約1.2万年前)から今のような湿原となったことがわかります。7000~6000年前には海進が最大になり、大きな潟湖ができました。やがて、堆積物の堆積と海退によって、陸地化し、泥炭層の形成され、現在のサロベツ原野になったと考えられています。
 サロベツ原野の湿原には、泥炭層が分布します。そのため泥炭地固有の植生が形成されています。水鳥たちも多数見られ、繁殖地や渡りの中継地となっています。湿原は開発に手間と費用がかかるため、自然状態のままあまり開発されれことがありませんでした。そのために本来の自然がよく保存されています。1974年9月20日に、利尻礼文サロベツ国立公園に指定されました。また、2005年11月には、サロベツ原野がラムサール条約に登録されています。
 最初のサロベツ原野への旅行は、友人と2人でいきました。夕方駅にたどりつき、夕日を見に山の展望台まで歩いて登って時間をつぶしました。早い時間に最終電車が出た後、駅舎でラーメンつくり、焼酎を飲んで、ベンチで寝袋に包まって寝ました。翌日早朝、パンをほおばり、サロベツ湿原に向かって歩いていきました。初夏とはいえ、朝霧の中を歩く長い道のりは寒く、友人との会話も言葉少なくなってきました。そんな頃、ある牧場の前を通りかかると、一仕事終えたようで、その家の方から話しかけられました。立ち話をしていると、これから朝食だから、たいしたものはないが、食べて暖まっていきなさいといわれました。軽く朝食済ませていたのですが、暖かさに惹かれて言葉に甘えることにしました。かじかんでいた体には、ストーブの炊かれた暖かい部屋はありがたいものでした。出していたただいたのは、大き目に切ったバターをのせた白いご飯に、どんぶり一杯の味噌汁であった。当時の北海道では一般的に朝ご飯でした。大学の寮の朝食も似たようなものでした。そして絞りたての暖められた牛乳。どれもが、かじかんだ体を溶してしまいそうな暖かさでした。こんな過酷な自然の中で生き物を相手に生計を立ておられる方が、見知らない自分たちに親切にしてくさいました。その親切が、なによりも暖かく思えました。朝食頂いたあと別れを告げ、霧が薄らいだ湿原の中を、私たちはまた歩き出しました。
 私たちは、当時の若者としては当たり前の旅行の仕方でした。その時間をかけて歩くという旅行をしたおかげで、こんな人の暖かさに触れる出会いがあったのです。その記憶は、何十年たった今でも、暖かいものとして忘れることなく、思い出されます。もしかすると、旅行の本当の醍醐味とは、こんな人との触れ合いなのではないでしょうか。
 若いとき、お金がなく時間だけが自由に使えた時代は、じっくり時間かけて歩くことで、その地の人たちと同じ目線で、その地の自然に肌で触れることができました。そして時には、人とのふれあいが生まれます。これは、何事にも変えがたい経験、そして思い出となります。
 今は、お金があるのに、時間がありません。するとどうしても、目的地まで速くて便利な移動手段を利用します。北海道では車を使えば、目的地まで速く楽に行けるようになりました。その代わり、人の暖かさに触れる機会もなくしたように思えます。仕事や家庭を持つようになって、時間なくなり、旅行も目的を満たすため、お金をかけるるようになりました。どうも私は、時間以上に旅行するという本質を見失ってしまったのかましません。

・湿原の回復・
サロベツとは、アイヌ語の「サル・オ・ペツ」から由来しています。
葦原を流れる川という意味です。
葦とは、低層湿原に群生している植物で、
まさににサロベツ湿原を表しています。
北海道には、釧路湿原がありますが、
サロベツ湿原北海道の最北端に広がる2万3000haにもなる湿原です。
広大な泥炭地は、酪農には不向きですが、
各地で大規模な農地開発が行われ、
泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットなどで
湿原の水位が次第に低下しました。
しかし、これは、自然を変えることにつながりました。
国立公園内でも、泥炭地の乾燥化が起こり、西側にはササが侵入してきました。
公園の自然を復元するために1983年から
環境庁はサロベツ湿原保全事業をはじめれています。
さまざまな調査研究を通じて、湿原の回復を目指しています。

・記憶のサロベツ・
ここで述べた記憶は、だいぶ昔ことです。
しかし当時の写真をみると、当時の様子を、断片的ですが、
鮮明に思い出してしまいます。
石炭ストーブ匂い、夏だというの寒い駅舎。
暖かいタマネギとジャガイモの味噌汁、
駅舎で食べたインスタントラーメンの味。
バターの塩味、朝食の食パンにマヨネーズをかけて食べた味。
節くれだった牧夫の指、長髪でなまっちょろい自分。
貧しくても心豊かな人々、野望でぎろぎろした目の自分。
湿原の厳しさに耐えて咲く花々、寮の5人部屋の雑然さ。
すべてが過去のことです。
過去の記憶ですから、美化されているかもしれません。
しかし、そんな時代を生きてきた人、
そしてその人と関わった自分が記憶の中にはいます。
私の記憶のサロベツの湿原と数十年後車から眺めた湿原は、
同じようでもあり、違っているようにも見えました。
豊富、手塩中川、羽幌、近くには何度かいってますが、
サロベツ原野は、ここで紹介した2回だけしか訪れていません。
でも、今も30年前のサロベツ原野が私の記憶に生き続けています。

2006年11月15日水曜日

23 木津川:剛より柔を 2006.11.15

 自然に対して人間は、剛で接しているように思います。しかし、私の故郷にある流れ橋から、柔の接し方があること教えてくれます。そんな私の思い出の川と橋の話です。

 このメールマガジンの読者の方々は、故郷から離れて暮らしておられるのでしょうか。私は、19歳で故郷を出てから、日本各地を点々して、今では北海道に居を構えています。私の故郷は、京都府城陽市というところですが、そこには、今も母や弟そして親戚が住んでいます。北海道に住むようになってから、なかなか帰省することができなくなりました。
 自宅を出て大学生として、ひとりで暮らしているころは、帰省すると京都や奈良など、今では観光地となっている歴史を持つ神社仏閣などの名跡をいろいろめぐっていました。その理由は、学生で時間があったこともさることながら、故郷をめぐる私の心情の変化があったためです。
 私は京都で生まれ育ったのですが、その風土、風習が住んでいるときはあまり好きなれなかったのです。遠くの大学を選んだのも、故郷の呪縛から逃れたいということも、理由の一部となっていました。ところが故郷を離れて、自分の生まれ育った風土を冷静に見ることができ、嫌なことばかりではなく、いいところもたくさんあることが分かってきました。そのいいこと探しの最初として、故郷の歴史に注目したのでした。
 ところが、仕事を持ち、家族ができてからは、私も忙しくなってきたので、なかなか時間がとれず、帰省しても親戚や知り合いに会って、出歩くことはなく、急いで帰ることが常となりました。最近、故郷の山野を見たいという気持ちがでてきました。それは、北海道の自然と私の故郷の自然の違いによるためだという気がします。
 北海道の自然は、科学を志した後に接したもので、科学を通じて身近になってきたものです。そして現在は、その自然の中に暮らしています。北海道の自然を見るとき、ついつい自分の故郷の自然と比べている自分によく気づきます。故郷で子供時代を過ごし、故郷の自然が私にとって自然の原点となっています。
 ところが、その故郷の自然は、子供頃から高校までの30年以上も前の記憶だけなのです。記憶の中の自然は、現実離れしているような気もするし、まだどこかにそのような自然が残されている気もします。現在の故郷の自然を直接感じたいという気がしています。原点が故郷の自然あるのに、長らく接していないという焦燥感の現われかもしれません。
 私の故郷には、木津川という大きな川がありました。木津川の流域付近は農耕地が広がっていてました。現在は調整区域を除くと、宅地化が進んでいて、農耕地も私が育った頃と比べるとだいぶ減りました。
 私が小学校低学年くらいの頃には、木津川で夏にだけオープンする水泳場があり、近鉄も臨時の駅ができ停車しました。両親に連れられて、そこで泳いだこと、水が冷たかったこと、昼食のカレーライスなどを覚えています。小学校の頃になると、自転車で木津川に遊びいきました。親戚いとこが木津川の堤防の脇に住んでいましたので、流れ橋付近ではよく遊びました。思えばこの頃の木津川が、私の川の原風景として、今も残されているようです。
 流れ橋は、現在もあり、テレビと時々見かけるので、木津川はあまり変わりはないなと知ることができます。なぜテレビで見かけるかというと、時代劇の撮影場所として、流れ橋がよく利用されているからです。時代劇に大きな川と長い木橋は、大抵この流れ橋が使われています。京都の大覚寺と並んで時代劇のロケ地として有名です。
 さてこの流れ橋ですが、川と人との付き合い方の一つの象徴ともいうべきものだと、昔も今も感じています。
 木津川は、淀川の支流のひとつです。琵琶湖周辺の山々から集まった水が、琵琶湖になり、琵琶湖から瀬田川を経て宇治川になり、桂川と木津川が合流したとこから、淀川と呼ばれます。日本の河川と特徴として、急流であることがあげられますが、淀川はさらに特殊な状況があります。
 琵琶湖の湖面の標高は84mありますが、宇治の平等院あたりで平野部に入りますが、標高は15mまで下がります。宇治川には、琵琶湖があり、平野部になる直前に天瀬ダムという大きなダムがあり、洪水を防いでいます。ところが、木津川には山奥の標高150mあたりにダムがありますが、そのより下流にはダムがありません。大雨が降ると、山地からの雨水は一気に木津川に流れ込むことになります。
 淀川となって京都盆地を抜けるところに、天王山があります。天王山は枚方になり、南北から山地が狭まっていることろです。その天王山を抜けると、生駒山地の西側に広がる河内平野へとでます。河内平野は、縄文海進があった7000年前頃には、海が入り込み、河内湾となっていました。その後、海退と河川からの土砂の流入で埋まり、1600年前の弥生時代には河内湖となり、やがて湿地から平野へと変化してきました。
 宇治川と木津川の間には、巨椋池(おぐらいけ)がありました。巨椋池は、周囲16km、面積7.94平方kmほどありましたが、水深は浅く90~120cmくらいしかなく、湿原のようなものでした。そして、地形から分かるように、しょっちゅう氾濫する地域であり、長らく湿地のままにされていました。
 淀川の本流である宇治川の明治時代に治水が進み、巨椋池には宇治川からの水の流入が減ってきました。そのため、藻が多くなり、水質が悪化し、漁獲量が減少し、またマラリアも発生し、米不足による食料増産が求められていました。
 そのような社会情勢から、1931(昭和6)年に干拓事業が承認され、1933年着工、1941年に完成しました。その時、多くの韓国朝鮮人労働者が強制的に動員されました。今でも付近には在日コリアンがたくさん住んでいます。私が子供の頃にも在日コリアンの家族が近所におられ、一緒に遊んだ記憶があります。
 淀川流域には、京都や大阪の市街地が平野部にあります。ですから、治水には古くから取り組まれてきました。しかし、約30年の間に10回もの大出水を記録するなど、つねに洪水の危険にさらされてきました。1953年の台風13号では淀川水系に大洪水をもたらし、最近では1972(昭和47)年の台風20号で、私の町でも洪水がありました。現在では、木津川と宇治川の合流からの下流域では、スーパー堤防をつくり、洪水から町を守ろうときう事業が進められています。
 さて、流れ橋です。流れ橋は、八幡の石清水八幡宮に参拝する人たちや地域の住民のために渡し舟があったのですが、1953(昭和28)年に橋がかけられました。延長356.5m、幅3.3mの木造橋です。戦後のことなので予算がなく、安くするために、木で流れ橋がつくらました。木津川は洪水が頻繁にあり、木の橋では、洪水なるたびに、すぐに流されてしまいます。そこで考案されたのが、流れ橋でした。
 流れ橋とは、橋が流れるということですが、この橋はもともと、川が氾濫したときに流れてもいいように設計されています。どういうことかといいますと、橋が洪水で流されるのは、次のような状況があるためです。
 橋脚は、川の流れと平行になり、水流によってもそれほどの抵抗は受けません。ところが、橋板まで水位が上がると、流れに対して抵抗が強くなり、流木などが絡まると、さらに抵抗を増し、やがては壊れてしまいます。
 流れ橋は、橋脚も橋板も木で出ています。そして、橋板は、ワイヤで結ばれていますが、橋脚の上に載せられいるだけです。橋板は幅20cmほどの板が、全長を8分割されてワイヤで連結され、そのワイヤの端はそれぞれ橋脚につながれています。なぜこのような安易が構造なのかというと、流れうるのが前提として作られているためです。
 洪水が橋板までくると、木の橋板は水にい浮きます。そして流れていきます。しかし、ワイヤでつながれ、その端が橋脚につながれていますから、洪水の中を橋板が浮いているわけです。このような構造で、橋板も流出することなく、回収可能となっています。
 流れ橋は、平成になってからも6回以上流されていますが、そのたびごとに、復旧されています。流れ橋は、苦肉の策だったのかもしれませんが、智恵が絞られています。そして、柔よく剛を制すということわざがぴったりかもしれません。西洋風のコンクリートの「剛」で自然に抵抗する方法と、まったく違った方向性をもっています。それも、地域の川の性質をよく知った上での対処です。自然の力に対して、「剛」ではなく、「柔」という対処があることを教えて組くれます。
 私の少年時代の木津川は、高度成長期には、川砂利の採取が盛んになりました。採取跡には深い水溜りが各所にでき、そこで水難事故がありました。そのために、学校から、木津川では遊ばないようにいわれ、かわりに近所の小川や山が、私の遊び場となりました。
 それ以降、私の木津川の記憶の糸がそこで切れています。もちろん、電車や車から木津川を眺めることありましたが、自然を感じることができません。新たな記憶を取り戻すために、木津川にいってみたいものです。そして柔の橋、流れ橋を渡ってみたいものです。

・子供と川・
私の子供たちは、神奈川で生まれているのですが、
その地の記憶は、ほとんどのないようです。
彼らの自然の原点は、北海道の自然になるでしょう。
彼らの川の原点は、どんな川になるのでしょうか。
私は自然の川に接してあげたいと、思っているのですが、
大きな川への立ち入りが難しく、
自然の川原がなかなかみつかりません。
近くになる石狩川で、自然の川原のあるところへは
長年探してきたのですが、まったく近づけません。
せっかく近く石狩川があるのに、
コンクリートの川原しか子供たちは知りません。
そんな川しか知らない息子たちは、大きくなったとき、
川とはどのようなものだと思うでしょうか。
川遊びなど知らない子供にはしたくないと、
せっせと自然の川原を探しては出かけています。
多くの川では、剛の管理がされています。
しかし、子供と川とは、柔での接し方があっていいのではないでしょうか。

・母・
母は、今、畑に精を出しています。
もともと我が家は農家なのですが、
祖父が主に農業をしていました。
そして両親は自宅で下請けの仕事をしていました。
しかし、父が死んでから、母は隠居だといって、なぜか農業を始めました。
それが、今では、まさに生きがいとなっています。
年々その意気は上がり、冬場でないと、長い休みは取れないようです。
私たち家族が北海道に来たばかりのころは、
呼べばいつでもきていました。
そして1週間から10日ほど滞在してました。
ところが、最近では、畑が忙しい春から秋にかけては、
1週間も明けられないといって、来なくなりました。
ですから、最近では、一番暇になる、
年の暮れに来て、1月1日に帰ります。
今年もそのスケジュールです。
我が家で、簡素の正月して、飛行場へ送っていきます。
そして故郷で、弟夫婦となど親戚が来る正月をしています。
母が来たら、温泉を毎日のように、行くことにしています。
こんな関係が長く続くことを願っています。

2006年10月15日日曜日

22 根室半島:昔の火山列がつく半島 2006.10.15

 納沙布(ノッサプ)岬は、北方四島を望む北海道の東端にあります。その納沙布岬を有する根室半島の起源をみていきましょう。

 北海道はいくつかの半島があります。半島の先端には岬があります。岬にはそれぞれの個性があります。その個性は、気象や天候などの日々変わるものから、大地自身の起源に端を発するものもあります。
 北海道の最東端は、根室半島の納沙布(のさっぷ)岬です。納沙布岬は、北方四島返還の最前線として、「北方館」や「平和の塔」などがあり、強い個性を持っています。
 道東は霧がよく出るところです。私は、今年のゴールデンウィークに出かけましたが、天気が悪く小雨と霧の寒い日でした。これが道東の天気だというかのような日でした。私には納沙布岬は「霧の岬」という印象があります。
 知床半島は世界遺産に選ばれたことから、現在も多くの観光客を集めています。納沙布岬も有名な観光地ですから、ゴールデンウィークで多くの観光客がいるかと思いきや、予想外に少なく、驚きました。道東の知床以外の観光地も、さびしく感じたの気のせいでしょうか。
 納沙布岬に以前にも訪れていますが、そのときは晩秋の、風の強い寒い日でした。ですから、私の納沙布岬の印象は、残念ながら、冷たく暗いものです。しかし、土産屋の中ではストーブが炊かれ、そこですするラーメンの暖かさは、一層おいしく感じました。
 さて、納沙布岬あるいは根室半島は、なぜ出っ張っているのでしょうか。こんな素朴な疑問を探ることが、大地の生い立ちを教えてくれます。大地をつくっている石をみれば、その答えが分かります。
 先ほども述べましたが知床半島にはたくさんの活火山があります。ですから、知床半島は、現在活動中の火山列が半島をつくっているわけです。ところが、根室半島には活火山はありません。しかし、根室半島には、マグマの活動でできた火成岩がたくさんあります。そのマグマは海底で堆積していた地層の中や海底で活動しました。マグマの活動は現在は終わっています。つまり、根室半島は、昔の火山列だったのです。
 マグマの活動時代は、地層の中から見つかる化石や放射性元素の年代測定から知ることができます。マグマの活動時期は、白亜紀後期だと考えられています。溜まっていた地層は、白亜紀後期から古第三紀に形成された根室層群と呼ばれるものです。根室層群の堆積初期の地層の中に、マグマが上昇してきました。
 マグマが海底まで噴出すると、海水にふれて急激に冷却されます。しかし、後からもまだマグマが続いて上がってきます。すると固まった表面を破ってマグマが海水中に噴出します。ねり歯磨きを押し出したようにマグマが出てきます。マグマは、やはり海水に触れて急冷されすぐに固まります。繰り返し起きます。その結果、枕を並べたようなマグマの積み重なりができていきます。このような状態の岩石を、枕状溶岩と呼びます。
 枕状溶岩の断面がみえるところでは、自転車のスポークのように放射状の割れ目が形成されています。納沙布岬の少し東南東の花咲では、直径1mから3mほどの枕状溶岩がたくさん海岸に出ています。大きなものでは、7.5mにも達します。花咲では、枕状溶岩が特に目立つので、車石と呼ばれて、天然記念物になっています。このような枕状溶岩が根室半島のいたるところにあります。
 マグマが海底に噴出せずに、地層の間に分け入ることもあります。貫入と呼びます。地層中に貫入したマグマは、地層の触れた部分はすぐに冷えますが、中のマグマは急激に冷えることはなく、ゆっくりと冷えてきます。すると大きな結晶へと成長する岩石ができます。根室半島の貫入岩には、厚さ150mもあるものが見つかっています。
 マグマがゆっくり冷えると、結晶ができて成長していきます。結晶はマグマとの密度の差によって浮いたり沈んだりします。結晶の移動に伴ってマグマの組成が変化していきます。すると新たな組成のマグマになり、違った性質の結晶が出てきます。冷えながらマグマが成分を変化させ、溜まった結晶が岩石として、層状に重なっていきます。最終的には、層状の貫入岩となっていきます。このような火成岩を、層状分化岩体と呼んでいます。
 結晶の違いや、岩石の化学成分の違いによって、層状分化岩体にはいろいろな岩石が形成されます。急激に冷えた上下の部分は、貫入してきたマグマがそのまま急に冷えた玄武岩になり、内部には重力の影響で、下から上に向かって黒っぽい岩石から白っぽい岩石(アルカリドレライトからモンゾニ岩、閃長岩)へと変化していきます。
 本来であれば、このような層状貫入岩体は地下深部にしかありません。しかし、根室半島では、マグマが深部でどのようにして変化し、多様な岩石が形成されるかが、地表で見ることとができるのです。非常に面白い岩石です。層状分化岩体は、根室半島では8ヶ所知られています。また、層状分化岩体は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続していることが知られています。
 知床半島の火山活動と根室半島の火山活動は、時代の違いと、陸上か海中かの環境の違いだけではありません。他にも、マグマの性質が違っています。
 知床半島の火山は、日本列島でみられる典型的なマグマ(カルクアルカリ・マグマと呼ばれています)の活動でできています。しかし、根室半島のマグマは、アルカリ玄武岩と呼ばれているものです。少々変わったマグマです。海洋の真ん中にある海山や海洋島を形成するマグマに見られるタイプです。それが、陸の堆積物がたくさん流れ込んでくるような場で、活動しているのです。
 古い時代の地層とマグマからできた火成岩が、根室半島から千島四島まで延びる火山列をつくったのです。そんな過去の列島が、現在も残されているのです。
 根室半島を構成しているアルカリ玄武岩という不思議なマグマの成因は、まだ完全には解明されていません。このようなアルカリ玄武岩マグマの活動は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続しています。マグマの活動には、もちろん国境などないのです。

・納沙布岬・
私は7年ほど前の秋にも納沙布岬を訪れました。
そのときも寒く霧が出ていました。
いずれも冷たく、暗い天気だったので、
どうしても納沙布岬は暗い印象が残っています。
天気いい日に行けば、印象は違ったのでしょうが、
根室半島は冷たく、霧のかかったところの印象が強かったです。
層状分化岩体とじっくり見たかったのですが、
天気に恵まれず、海岸も一箇所しか降りれなくって、
十分な調査ができませんでした。
また別の機会としましょうか。

・紅葉・
北海道は、日本ハムファイターズのリーグ優勝に沸いています。
野球の話題で盛り上がっています。
我が家では、次男が野球のルールも分からないのに、
ファイターズの応援をしています。
でも、熱いのは北海道の野球周辺だけで、
北海道はここ数日で一気に寒くなってきました。
冬の訪れを感じさせる日ですが、
我が家も朝夕は暖房も炊くようになりました。
コートも着て、手袋もつけました。
ただ心残りは、北海道らしい紅葉をまだ見てないことです。
紅葉越しに見る突き抜けた青空は格別です。
できれば、雪が降る前に紅葉を見ておきたいものです。

2006年9月15日金曜日

21 足摺岬:岬の先端に不思議な石がある 2006.09.15

 昨年秋に足摺岬に調査に行きました。変わった石が出るのですが、その起源はまだ謎のままなのです。

 四国は、長方形のそれぞれの角が、南北にでっぱったような形をしています。南西側のでっぱりが、足摺岬になり、南東側が室戸岬です。私は、足摺岬には2度行ったことがあります。しかし、残念ながら室戸岬にはいったことがありません。一度目の足摺岬は30年近く前の春であまり記憶にありません。2度目は1年前の9月でした。いずれも急ぎ足での見学となりました。
 足摺岬を訪れたのは、観光ではありません。地質学的に面白い石が見られるからです。
 足摺岬と室戸岬にある石は、花崗岩や斑れい岩と呼ばれるものです。花崗岩や斑れい岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。花崗岩と斑れい岩の違いは、マグマの性質の違いにより、花崗岩は白っぽい岩石で斑れい岩は黒っぽい岩石です。室戸岬は斑れい岩を主としています。足摺岬は花崗岩と斑れい岩が混在してあります。
 花崗岩や斑れい岩は、特別な岩石ではなく、どこにでもある、ありふれた岩石です。しかし、ある場所が問題なのです。足摺岬や室戸岬では、南過ぎるのです。その理由を説明しましょう。
 現在の日本列島でマグマが活動しているのは、火山フロント(前線)と呼ばれるところです。東日本では、北海道千島列島から知床半島、大雪から、道南の渡島半島、下北半島、奥羽山地、関東山地、富士山、伊豆半島、伊豆諸島から小笠原諸島へと続く東日本火山列があります。一方西日本では、大山などの中国地方の日本海側の火山から、九州の九重、阿蘇、霧島、桜島からトカラ列島に続く西日本火山帯があります。
 この火山帯では、マグマの活動が盛んです。火山だけでなく、地下にはマグマがゆっくりと冷え固まった深成岩も形成されているはずです。このような深成岩が見えるようになるためには、長い時間かかって風化侵食を受けてた地下深部の岩石が見えるようにならなければなりません。
 これらの火山列は、東日本では、太平洋プレートの沈み込みによって形成されています。西日本では、フィリピン海プレートの沈み込みによるものです。
 沈み込みによるマグマの形成とは、沈み込んだ海洋プレートからしぼりだされた水分が、列島の下のマントルに供給されてできます。水分がしぼりだされる深さが、プレートの沈み込む状態で決まっています。それに対応して火山のできる位置も海溝(西日本ではトラフと呼ばれます)からある一定の距離が離れたところに決まってきます。ですから、火山フロントより海側では、マグマの活動が起こることはありません。
 ところが、足摺岬にはマグマの活動でできた花崗岩があります。不思議です。
 もちろん、この花崗岩は最近活動したマグマによるものではなく、1400万年前ころ(新生代中新世中期)に活動したものです。そのころ、足摺岬のあたりに火山フロントがあったのでしょうか。どうもそうではなさそうです。
 日本は、もともと大陸のふちにあり、常に海洋プレートの沈み込みに伴う堆積物(付加体と呼ばれています)が集積をしているところでした。ところが、中新世には、大陸の縁から日本海が開き始めて、列島となっていく時期にあたっています。付加体の位置ではあるのですが、日本海の拡大に伴って、日本列島が海側に押し出される時期になります。
 さらに、この中新世には、フィリピン海プレートの一部である四国海盆が沈みこんでいく時期に当たっています。四国海盆は海嶺をもっているできたての小さい海洋地殻(縁海と呼ばれています)であったと考えられています。この四国海盆は中新世(前期から中期にかけて)に海底が拡大してすぐに、西日本に沈み込んでいきました。
 西日本を広く見ると、1400万年前頃に起こったマグマ活動の痕跡が、フロントより海側のいたるところにみられます。紀伊半島の潮岬、熊野地域、四国の室戸岬に足摺岬、沖ノ島、少し海から離れますが高月山、九州でも大崩山、屋久島などに、火山岩や深成岩がまとまって分布しています。
 中新世の頃の西日本が普通の列島と違う点は、沈み込む海洋プレートができたての若くて暖かいものだったことです。このような地質学的特異な状況では、どのようなマグマのでき方をし、どのようなマグマの性質になるでしょうか。
 マグマの性質には、いろいろなものがあることがわかっています。そのようないろいろなマグマを作るには、いろいろ材料物質やいろいろな融けるメカニズムが必要になります。それにはいろいろな起源がり、その起源に関する説もいろいろあり、また研究中のテーマとなっています。
 一つは、海嶺の活動していたマグマが、そのまま付加体の中に噴出したものがあります。室戸岬や潮岬の玄武岩類がこれに相当します。
 海嶺から離れた活動ですが、海洋でのマグマの活動(オフ・リッジ火山活動と呼ばれています)によってできたものがあります。それは、紀伊半島の高草山など見つかっている玄武岩です。
 沈み込む海洋地殻が融けて(スラブ・メルティングと呼ばれています)できたマグマがあります。このような仕組みでできた岩石は、紀伊半島から四国東部の瀬戸内地方にある火山岩(瀬戸内火山岩と呼ばれています)です。ただしこれには異説があり、沈み込む海洋プレートの上に溜まっている堆積物が融けてできる可能性も指摘されています。
 また、四国海盆の海嶺できたいマグマが、付加体を融かしてできた大量の花崗岩マグマもあります。熊野地域に広がる大量の花崗岩質マグマによる火成岩類が、その典型だと考えられています。
 では、足摺岬の火成岩は、どのようにしてできたのでしょうか。本当のところは、まだ定説がありません。とにかく足摺岬の岩石は変わっています。
 足摺岬には、アルカリ花崗岩、閃長岩などカリ長石に富む花崗岩類があります。この花崗岩の中に、日本では非常に珍しいものがあるのです。
 アルカリ長石(淡いピン色に見える鉱物)が斜長石(白い鉱物)によって取り囲まれているものです。長石が丸み(ピタライトと呼ばれます)を持っています。このような花崗岩は、珍しいもので、ラパキビ花崗岩と呼ばれています。石材として日本ではよく見かけますが、13~17億年前に形成された大陸地域の岩石にラパキビ花崗岩があります。ラパキビ花崗岩は、日本では足摺岬にしかありません。本家のラパキビ花崗岩の起源も、よくわかっていません。
 足摺岬の道は、風化した花崗岩がつくるのっぺりとした地形の道でした。岬へ向かう道は尾根にあるのに、どことなく山奥の尾根道のように感じました。これは、花崗岩は、日本では列島の古い岩石のある脊梁山脈地帯によくみられる岩石だからでしょうか。花崗岩が風化すると、のっぺりとして、ところどこの丸みのある花崗岩が残されたような地形となります。足摺岬では、唐人駄馬巨石群と呼ばれるところがあります。そこは、風化で残された花崗岩がつくる景観です。そんな地形が岬に向かう尾根で見れるのです。
 そんなことをつらつらと考えながら、観光はせずに急いで帰途に着きました。

・ラパキビ花崗岩・
ラパキビ花崗岩は、スカンジナビア半島、ロシア、北アメリカなどの
大陸地域に広く分布する岩石です。
赤っぽい石材として日本各地で見ることができます。
ラパキビ花崗岩は、13~17億年前という非常に古い時代に形成されたものです。
足摺岬花崗岩類のように1400万年前ほどの若いものは非常に珍しいものです。
足摺岬の岩石だけでなく、
西日本の火山フロントより海側の火成岩類は
まとめてその成因が解明されつつあります。
ですから、本家のラパキビ花崗岩の起源も
日本で明らかにされるかもしれません。
ちなみにラパキビとは、フィンランド語です。
ラパは「もろくて崩れやすい」、キビは「石」という意味です。
地質学のラパキビ花崗岩の特徴より、
花崗岩そのものの性質をあわしている言葉です。

・ジレンマ・
足摺岬は、室戸岬と共に、台風情報を聞くときによく耳にする地名です。
観光地でもあるのですが、観光目的でない人間にとっては、
なかなか足を伸ばしにくいところです。
遠方からの訪問者にとっては、ついつい急ぎ足にみてしまうものです。
私は急ぎ足の旅行は苦手です。
年のせいか、疲れやすくなったもの理由の一つです。
興味あるところとだと、もう一度行きたくなります。
ですから、2度手間となることがよくあるからです。
できるだけじっくりとと思っているのですが、
なかなかそうもできなくなりました。
金銭的問題より、時間的問題です。
若いときは、体力も時間もあったのですが、お金がなくて、困っていました。
今では体力と時間がありません。
ですから、体力のいるところは、できるだけ早めに見ておきたいものです。
でも、それをする時間がままならないのです。
ジレンマですね。

2006年8月15日火曜日

20 アポイ岳:マントル散策 2006.08.15

 日高山脈の南西のはずれに、アポイ岳はあります。1000mに満たない山なのですが、植生や眺望からは高山です。そんなアポイ岳から眺めた景観を紹介しましょう。

 アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところあります。2006年8月3日にアポイ岳に登りました。でも、頂上へは行きませんでした。一番眺めのいい馬の背という7合目まで登りました。
 アポイ岳へは、30年前に登ったきりで、今回が2回目となります。周辺の沢筋にも、何度も来ているのですが、アポイ岳へは登っていませんでした。今回は、このアポイ岳への道で少々変わった地質と、その地質を象徴する自然を見ることが目的でした。
 山頂は眺めが良くなく、馬の背から頂上へと続く尾根が景色がよく見えます。ですから馬の背付近で、じっくりと景色を見ることができればと思っていました。アポイ岳周辺は、国の特別天然記念物の指定を受けているので、登山道からはずれることはできません。登山道からの観察でした。
 当日、頂上には常にガスがかかった状態で、最後まで頂上をくっきりと見ることができませんでした。しかし、頂上以外は、ガスもかかることなく、景色も少々かすみはありましたが、遠くまで眺めることができました。午前中はうす曇の状態で、暑くなく登ることできました。昼過ぎの下山途中に太陽が出てきましたが、そのとたんに暑くなり、これも低山の証拠です。私は、涼しい状態で登れたのは幸運でした。
 さて、前置きはこれくらいにして、アポイ岳の地質を紹介しましょう。
 日高山脈は、南は太平洋に突き出した襟裳岬からはじまり、北の狩勝峠まで、幅50kmで、南北に150kmほどの長さで伸びています。アポイ岳周辺は日高山脈襟裳国定公園に入っています。北部には2052mの幌尻岳やピパイロ岳(1917m)、戸蔦別岳(1959m)など2000m級の山があり、その周囲にはカールなどの氷河地形があります。
 日高山脈の地形は、全体として概観すると、東側で急傾斜で、西に緩い傾斜となっています。
 日高山脈の東側は断層による急な崖になっています。十勝側からみると、日高山脈は、平野に立ち上がって連なる急峻な山並みとして見えます。カールなどの氷河地形は主稜線の東側にはあります。日高山脈の東では、急峻な地形の山地を削りながら流れた川は、平野にでると大きな扇状地を形成します。それが十勝平野で、集まった川が十勝川です。
 一方西側では、河川は広い平野を持つことなく、海に流れ込んでいます。そして、山並みを眺めると、何段かの階段状の断層による山並みを形成しながら海に達します。東側と比べると西側は比較的傾斜が緩やかになっています。
 さて日高山脈の稜線を北から南に追いかけていくと、南端部分で稜線が乱れます。様似の幌満川あたりで西に広がったような地形になります。これは、幌満川周辺の地質が変わっているためです。アポイ岳の南側には幌満川があり、アポイ岳も幌満川流域の地質と同じです。
 アポイ岳周辺はカンラン岩という岩石からできています。カンラン岩とは、地球ではありふれた岩石ですが、地表では稀な岩石です。地球深部のマントルという非常に広大な部分を、このカンラン岩が占めています。ですから地球規模でみると、カンラン岩はありふれた岩石となります。ところが、地表付近の地殻は、マントルとは違う岩石からできています。地殻をつくる岩石は、花崗岩や玄武岩、堆積岩、そしてそれらの変成岩など多様な岩石からできています。その中にはカンラン岩はほとんど含まれていません。ですから、稀な岩石となります。
 稀であってもカンラン岩が地表に出ているところは、アポイ岳周辺でなくてもあります。もちろん日本にもあります。しかし、地表に出ているカンラン岩のほとんどは、蛇紋岩という岩石に変わってしまっています。マントルにあったときのままのカンラン岩が、地表付近で見ることができるのは、非常に珍しいものとなります。アポイ岳周辺では、カンラン岩が蛇紋岩にほとんどなることなく、マントルのあったときのまま、広く分布しています。ですから、世界的にも非常に有名なカンラン岩の産地となっています。アポイ岳周辺のカンラン岩は、「幌満カンラン岩体」と呼ばれて、世界的に有名なものとなっています。
 カンラン岩は、カンラン石という鉱物が主要構成鉱物となっています。カンラン岩には、ほとんどカンラン石からできている岩石もあります。カンラン石はオリーブ色の淡い透明感のあるきれいな鉱物です。カンラン岩には、その他にも、単斜輝石や斜方輝石、スピネルなどの鉱物が、さまざまな割合で含まれています。マントルを構成する鉱物はいずれも密度が大きく、カンラン岩は重みを感じる岩石となります。
 カンラン石は、風化すると黄色から茶色っぽい色になります。カンラン石以外の鉱物は比較的風化に強く、山の崖でカンラン岩が風化を受けると、岩石の中で鉱物のつくる模様が、そのまま風化の模様として現れます。幌満のカンラン岩では、鉱物が縞状なった層構造をもっています。このような縞状構造は、マントルの岩石の構造が、そのまま残されていることになります。
 アポイ岳の登山道沿いでもカンラン岩の層構造をみることができます。マントルの構造が風化面としてよく観察することができます。これは、マントルの中の構造を見ていることになります。アポイ岳は、地表にいながらにして、マントルの中を散策しながら観察できる貴重な場所なのです。
 ではなぜ、このような地下深部の岩石が地表に上がってきたのでしょうか。
 現在の日高山脈の西側には、もともと広い海があったと考えれています。海の両側には陸地があり、東側には大量の堆積物を供給した陸地があり、オホーツク古陸と呼ばれています。一方、西側の古陸から供給された堆積物があることもわかっています。両古陸の間にあった海は、海洋地殻を持ったれっきとした海でした。
 ところがその海は、沈み込みによってすべて消えてしまいました。その沈み込み帯が、日高山脈と平行に南北に伸びる神居古潭帯とよばれる地域です。神居古潭帯は、白亜紀頃に形成されました。一方日高山脈は、神居古潭帯の沈み込みより新しい時代(新生代)にできたもので、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がって形成されたと考えられます。
 中でも幌満カンラン岩体は、列島の地下にあったマントルがめくれ上がったものであると考えられています。この幌満周辺では、列島の地下の岩石が広く分布していることになります。アポイ岳周辺は、列島の地下深部の岩石がめくれ上がっているところを、地表にいながらにして見ることができるわけです。
 アポイ岳に登る前日、幌満川で川原の岩石を少し見ました。きれいな構造を持った岩石がたくさんありました。上流にいけば、水もきれいです。そしてなによりも、日高山脈をつくっている列島の深部の岩石を、眺めることができるのです。川原の石ころも、風化を受けますが、川で常に風化面を削り取られていますから、風化を受けていない新鮮な状態で岩石を見ることができます。
 アポイ岳ではマントルの中を歩き、幌満川では列島の地殻やマントルの標本を眺めることができました。これはもしかしたら、どんな博物館よりすごいものを見ているのではないでしょうか。そんな気がしました。

・マントル・
幌満川の下流沿いにはカンラン岩を
砕石として切り出しているところがあります。
数年前にいったときの砕石場所は、もう閉鎖され、緑化がされていました。
今では、さらに上流側が砕石がされていました。
その砕石所はカンラン岩を採掘しています。
実は、我が家の近くにある石垣がカンラン岩でできます。
50cmから1mほどもある大きな石がたくさん使われています。
これほどの風化をうけていないカンラン岩は幌満のものです。
ですから重い多数のカンラン岩を
幌満からわざわざ運んできたものでしょう。
流通等はすごいものです。
すぐ近くにマントルのかけらがあったのです。
その砕石所では、カンラン岩の加工もしており、
文鎮や花瓶などにして商品化しています。
私も文鎮をひとつ購入しました。
実は、マントルのかけらは今では、私の机にのっているのです。

・マムシ・
登山前日、ビジターセンターにいって登山道の様子を聞きました。
すると熊が出没しているという情報と、マムシの情報を聞きました。
ヒグマは北海道のどこにでもいるのですが、マムシには驚きました。
北海道では道南にしかいないと思っていたからです。
調べてみると北海道に広くいるようです。
アポイ岳周辺にもマムシがいたのです。
ビジターセンターの人が脱皮の皮を確認しているので確実です。
その場所を詳しく聞いて、注意していました。

2006年7月15日土曜日

19 桜島:益と害 2006.07.15

 火山は、日本人にとっては欠くことのできない存在で、長く付き合ってきました。火山は日本の風土として重要な要素ともなっています。そんな火山との付き合いを、桜島から考えてみました。

 鹿児島県の錦江湾(鹿児島湾ともいいます)にある桜島は、典型的な日本の活火山のひとつです。現在も噴気を上げていて、何度も噴火を繰り返しています。時には、激しい噴火も起こっています。私は、桜島の噴気を4回ほど見ました。桜島からは2度、鹿児島市内から錦江湾ごしに2度、眺めています。そんな都会から間近に眺める桜島は、火山と人の生活の関係を考えさせられます。
 桜島という名前をもっているのに、島でなく大隈半島側の垂水市で陸続きとなっています。ですから、「島」という名称がついていることに、奇異な感じを持ちます。もともと桜島は名前の通り、錦江湾に浮かぶ島だったのです。ところが1914(大正3)年の噴火によって、流れ出た溶岩によって間にあった海峡が埋められたため、陸続きとなりました。
 桜島は、単独の火山のように見えますが、姶良(あいら)カルデラ(南北17km、東西23km)の南端にできた成層火山です。カルデラは錦江湾の北半分の丸みをもった部分です。そのカルデラは巨大な火山の活動によってできたものです。その一連の火山活動の一部として、桜島の火山があります。カルデラの北側に鹿児島の市街地があるのです。
 桜島は、直径10kmほどで東西に延びた楕円形(南北12.2km、東西9.5km)をしています。最高峰は北岳(1117m)、次いで中岳(1060m)があります。いずれも火山活動によってできた山です。その他にも権現山、鍋山、引ノ平などの側火山があり、山腹や海底での火山活動も起こっています。
 現在、噴煙を出しているのは南岳(1040m)で、北岳の山腹にあります。桜島の火山活動は、3つの時期があります。北岳が2万2000年前から2000年ほど活動して最初の成層火山(古期北岳)となりました。その後しばらく活動はなく、1万1000年前から4500年前までの長い期間にわたって、北岳で活動(新期北岳)が起こりました。そして4000年前ころから南岳の活動がおこり、現在に至っています。桜島の活動によって多くの火山灰が東側の大隈半島につもっています。
 南岳の活動時期となってから、噴火の記録が人の手によって残されていくようになります。最古の記録は708(和銅元)年ですが、764(天平宝字8)年、1471(文明3)年、1779(安永8)年、1914(大正3)年、1946(昭和21)年に大規模な噴火が起こっています。現在の火山活動は、1955(昭和30)年10月からはじまった噴火が現在も継続しています。1999年や2000年などに噴火を起こし、噴出物や爆発時の空振、土石流などにより被害を出しています。現在でも、南岳山頂火口から2km以内は立ち入り禁止となっています。
 桜島は、60万人を越す人口が密集する鹿児島市の南、ほんの10kmほどのところにある非常に活発な活火山です。風向きによっては、火山灰が市内に降ることもあります。2004年には、11回の噴火により、市役所での1平方メートル当たり124gの降灰がありました。
 そんな市街地に近接しているため、桜島は、常時厳重な監視体制がとられています。多数の地震計(5地点)や震度計(1地点)、空振系(4地点)、GPS(3地点)傾斜計(1地点)、望遠カメラ(2地点)による観測がなされています。
 私が見たときも桜島は噴気を出していました。噴気の規模は時々によって様々ですが、火山活動を目の当たりにすることができます。その噴気を眺めていると、時々刻々変化していることがわかります。そんな火山噴火をみていると、日本人と火山との共存についつい思い至ります。
 南九州、とくに鹿児島はシラスと呼ばれる白っぽい火山灰や細粒の軽石などで覆われています。その火山灰は、姶良カルデラの大噴火によるとされています。火山灰の起源は、桜島より前の2万5000年前に発生した姶良カルデラの入戸火砕流によるものだと考えられています。その量は約200立方kmに達し、日本全国にも飛んでいます。このような火山灰は広域テフラと呼ばれ(姶良Tn)、約150立方kmと見積もられています。鹿児島周辺ではシラスの厚さは数十mにも達しています。
 シラスは軽くてもろく、水に流れやいため、侵食をうけ、シラス台地という特有の地形をつくっています。シラス台地では、水が浸透しやすく、栄養分も乏しく、稲作にはてきしていません。しかし、シラスのようなところでもよく育つサツマイモや桜島大根などが主要な農産物となっり、全国にその名を知られる名産品となりました。
 人間は、智恵を使って、火山と共存してきたことが、鹿児島をみていると感じます。害と思われるようなことでも、智恵で益となしたのです。
 日本列島とは、古い大地の上に、火山活動が起こるような地質学的位置に常におかれていました。日本列島は火山活動によって常に変化を受けているところといえます。人類が登場してからも、火山活動は続いています。日本人は古くから火山とは付き合ってきたのです。そして日本に住む限り、未来も火山と付き合っていかねばなりません。
 今も昔も、火山は自然災害として、恐怖の存在です。でも、火山は人にとって悪いことばかりではなく、風光明媚な景観や温泉など、現在では重要な観光資源も与えてくれます。また特有の土壌を生かした農業製品をも生み出し、名産品としています。ですから火山は、人にとって益と害の両面を持っているのです。
 活火山とはいえ、被害を与えるような噴火はめったにあることではなく、静穏な状態が長く続きます。激しい火山活動の時間と平穏な時期とを比べると、明らかに平穏が時間の方が長くなります。ですから、観光資源として考えると、一時的な訪問をする人にとっては、火山とは危険性はほとんどなく、恵みだけを与えてくる存在といえます。
 ところが住んでいる人には、数10年に一度の噴火でも、脅威の存在となります。もし、噴火による火山放出物や降灰によって、家財や田畑を奪われるかもしれません。時には命の危険すらあるわけです。
 ですから、噴火に備えて防災というものを常に意識することになります。かつて科学が発達していないときは、いつ起こるとも知れない火山噴火に対処しようがありませんでした。あきらめるしかない自然災害となったのです。火山災害とは、自然災害の中でもっとも諦観がともなうものかもしれもしれません。
 現在では、噴火予知の水準はよくなりました。また予知が不完全でも、防災対策は以前と比べものにならないほどよくなりました。近年では、予知と防災によって、命や財産のすべてを失うようなことは、あまりなくなりました。最悪の事態は免れるようになったのです。
 観光資源として火山を考えると、同じ火山列島に住む日本人は、火山の恐ろしさを熟知しています。ですから、いったん噴火が起こったり、噴火の危険性があるときは、観光客が寄り付かなくなります。しかし、日本人は温泉好きです。火山活動が治まると、火山の恵みである温泉を味わいに戻ってきます。火山の恐ろしさを知っているからこそ、平穏な時期の恵みを味わおうとしているのかもしれません。

・監視カメラ・
気象庁では、活火山を観測網の一つとして、監視カメラを設置しています。
その画像は、インターネットで公開されています。
桜島の画像も公開されています。
URLは次のところです。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/vo/32.php?kansokuten=SKRTARvvi&mode=0&cmd=write(改行で切れているところをつないで入力してください)
この画像は、気象庁ではなく、
国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務所による監視カメラ画像です。
このような情報公開によって、
火山活動を自宅から、眺めることができるわけです。
もちろん、インターネットですから、
日本だけでなく世界上からこの画像を見ることは可能です。
世界の火山のライブ映像も見ることができます。
なにも火山だけでなく、
日本も含め、名所や都会にはインターネットで公開されている
ライブ映像が多数あります。
ですから、ライブ映像だけで世界の名所旧跡を巡ることも可能なのです。
そんな時代になったのですね。
でも、温泉は行かなくては味わいません。
これだけは、今も昔も変わらないことでしょう。

・シラス・
シラスとは、南九州の方言で白い砂を意味しています。
姶良カルデラの火山活動は、二酸化ケイ素分が多く(酸性マグマとよばれる)、白っぽく見えるます。
これが、シラスの白い理由です。
シラスのような火山灰は、日本中に似たようなものがありますが、
鹿児島のような大規模なものは少ないです。
それほど鹿児島は、火山と密着していることになります。
シラスでつくられたサツマイモを食べさせて豚は
特有の風味を持つ黒豚として全国的に有名になりました。
実は鹿児島は、肉牛の生産も日本一だそうです。