2007年8月15日水曜日

32 京都と札幌:盆地の暑さと異常気象(2007.08.15)

 北海道は猛暑に襲われています。本州並みの暑さといわれていますが、私は故郷の京都を思い出しました。そんな暑さの中でこのエッセイを書いてます。

 暑中お見舞い申し上げます。私は暑さのために少々夏バテ気味です。
 私が住む江別市は、8月上旬は、7月の雨不足を補うかのように、雲りがちで雨の多い天気でした。日照不足が危惧されるほどの曇天でした。ところが8月中旬になると、一転して、30℃を越える、例年にない猛暑と高湿度に襲われました。このエッセイを書いているのも、その暑さの中でです。
 この猛暑は、涼しい北海道の気候になれた人間には、たまらない日々となっています。私はもともと本州の京都の出身で、暑さには馴れているはずですが、北海道にしばらく住むと暑さには弱い体となってしまったようです。
 さらに、北海道の家は、冬の雪対策や寒さへの暖房は完備されているのですが、暑さへの対策はなされていません。エアコンのある家も少なく、もちろん我が家にもありませんので、暑さにはまいっています。寒さ対策だけのはずが、我が家には、なぜか扇風機が2台あります。これは暖房の熱をかき混ぜるために買った冬用ですが、今年は、夏に活用しています。
 特にここ数日は、夜も涼しくなることはなく、寝苦しい天気です。私の寝ている部屋は、風の通りがよくなく、窓を全開にしても蒸し暑さが消えることなく、扇風機で外の空気をいれなければ、寝ることもできないほどの暑さです。私は北海道に来て6年目ですが、こんなに暑い日が続くのは、初めての経験です。
 大学の研究室は、もっとすごい状態です。朝の6時過ぎに来ても、部屋に入るとムットした熱気がよどんでいます。窓を開けても空気が流れません。同じフロアーの廊下の窓をいたるところを開けているのですが、それでも風が流れません。私の研究室は5階建ての5階にあります。南北に伸びる建物で、真ん中の廊下を挟んで両側に研究室があります。私の研究室は西側にあり、窓は西向きにあります。ですから、夏は午前中だけは日も差し込まず、涼しく仕事ができるのはずなのですが、この夏の暑さでは、朝からダメです。前日の西日によって暖められた部屋の熱が、暑い夜に冷やされることなく、そのまま留まっているます。
 さらに、朝から天気がいいと、屋上を照らす太陽の熱が、最上階の研究室を直接暖めています。そして部屋の空気が流れませんので、ぐんぐん研究室の温度が上がっていきます。先ほど8時過ぎに、あまりの暑さにたまらなくなって、1階の自動販売機に冷たい飲み物を買いにいったのですが、1階の涼しさにほっとしました。5階との温度差は歴然としています。
 まして研究室には熱源となる、サーバのパソコンが常時動いています。そのサーバには無停電装置が付いています。研究室に私がいるときは、メインのデスクトップのパソコン1台、それには4台のハードディスクがついています。さらにノートパソコン、プリンターが動いています。これらは、熱を発生し、室温を高めています。
 風の通らない私の研究室は、まさに盆地の夏の暑さと同じです。そして研究室に多数の熱源があるということは、その盆地に都市があるというヒートアイランドと同じ効果が起こっています。
 私が生まれ育った京都も、盆地でした。私の故郷は、京都の南部の城陽市というところです。京都盆地は、南の最奥部で山一つ隔てて奈良盆地へとつながります。その京都盆地の南の底に当たるところに城陽があります。
 京都盆地の南端の城陽市は、空気の流れが悪く、夏は非常に暑いところになります。また交通の要所ともなっており、排気ガスもかなり多く、学生時代は光化学スモッグ注意報がでて、屋外の活動がストッなったこともたびたびありました。そんなところにわが故郷の町は位置していました。城陽市は、南西部の上野盆地からくる木津川の流れの出口でもあります。川の流れは、盆地をあまり涼しくはしてくれません。
 京都盆地は、木津川だけでなく、北東にある琵琶湖から高瀬川として流れでて宇治川へと続く流れ、京都の北山から流れる加茂川、亀岡盆地に集まった流れが保津峡を通り桂川へなったもの、大きな河川がすべて集まるところでもあります。そんな流れの堆積物が埋めて平らになったのが京都盆地です。集まった川は、合流して天王山のある狭いところを出口として淀川となり海に流れていきます。
 木津川の右岸に広がる城陽市は、東の山からの伏流水で地下水も豊富で水不足になることはありませんでした。しかし、山の開発が進み、地下水位も下がり、実家でも地下水の利用はだいぶ以前からできなくなりました。
 木津川周辺は、水利がよく農耕には適した地でした。しかし、木津川は暴れ側で治水のために堤防を長年にわたって築いてきました。天井川とよばれる高い河床を持つところもあります。しかし、川は恵みももたらしてくれました。木津川周辺は肥沃な農耕地ともなっています。農耕地には、砂の多いところもあり、氾濫原であったことをうかがわせます。そのような砂地を利用して、サツマイモなのどの畑作に利用されてきました。
 私は京都を離れて、30年ほどになります。母も兄弟、親族も京都にまだ大勢住んでいます。その間、何度も京都に帰省しています。しかし、法事などの特別な時以外は、夏にはほとんど帰省したことがありません。それは盆地の暑さが身にしみているので避けているからです。ここ数日の暑さは、京都の暑さを思い出させます。
 例年にない気象、たとえば今回の暑さのような日々が続くと、こんな暑さは異常気象だといって騒ぐ人もいます。12日、13日の「日最高気温」は、両日とも札幌で34.0℃となっています。これは、大変異常なことのように思えます。
 しかし、札幌の「日最高気温」の記録を調べてみると、1位が1994(平成6)年8月7日の36.2℃、2位1943(昭和18)年7月21日35.8℃、3位1924(大正13)年7月11日35.5℃、4位1978(昭和53)年8月3日35.2℃、5位1972(昭和47)年8月7日35.1℃となっています。ですから、暑いことに違いはありませんが、記録的ではないようです。3位1924年の例外とすれば、そのほかの記録はすべて昭和以降のものです。ですから、昭和以降、暖かい時期になっているといえます。
 では、札幌の「日最低気温」もついでにみていきましょう。1位が1900(明治33)年7月8日5.2℃、2位1900(明治33)年7月14日5.3℃、3位1902(明治35)年8月27日5.3℃、4位1889年(明治32)8月7日5.6℃、5位1904(明治37)年7月3日5.8℃となっています。記録を見てわかるように、冷夏の時期は、明治後半に集中しています。そのころが寒い時期であったといえます。
 このような地域の暑い寒いなどの変動は、周期性のある変動があることは確かです。ですから異常気象ではなく、自然の変動の幅の一つに過ぎません。
 もしこの暑さが、地球温暖化であれば、周期性はなく一方的な変動となります。さて本当のところはどうでしょうか。江別の暑さの中で、これは最高記録ではないのだといって気休めを言っていますが、一向に涼しくはなりません。

・熱暴走・
今回のエッセイは、予定しているところのデータを
集めることができませんでした。
時間はあったのですが、暑さのためにハードディスクを
認識しないトラブルが何度かありました。
あまりムリをすると熱暴走して、
破損をすると大変なことになるので、
無理をしないことにしています。
ですから、手持ちのデータでささっと今回は書き上げました。
申し訳ありません。

・故郷の自然・
暑くなったら故郷を思い出すというのは、
少々まずい気がします。
もちろん、いろいろなきっかけで故郷を思い出すことがあります。
実家の周辺は帰るたびに変化に気づきます。
私の心の中の故郷の自然は、いずれも30年以上も前のものです。
その後の変化を私はほとんど知りません。
帰省している時に断片的に眺めていはいますが、
きっちりと心に焼き付けていることはありません。
ですから、古いままの自然が
いまだに私の心の故郷となっています。

2007年7月15日日曜日

31 角島:人と大地の架け橋(2007.07.15)

 山口県で有名な観光地として、カルスト地形の秋吉台があります。しかし、山口には他にもいくつか地質学的に面白い見所があります。山口県の北西の日本海側にある角島もその一つです。

 響灘(島根県から山口県の日本海を指します)にある角島(つのしま)へは、学会の見学旅行で訪れました。それまで私は、この島の存在を知りませんでした。2005年公開された映画「四日間の奇蹟」という映画の舞台になって有名になったそうですが、私はその映画を知りません。私が訪れたのは、2002年の夏のことでしたたから。
 角島は、4km2ほどの小さな島ですが、北長門海岸国定公園内に入っています。1965年に国定公園の指定を受けましたが、1997年に角島一帯が北長門海岸国定公園に編入されました。この国定公園は、響灘に面した複雑な海岸線がウリとなっています。海岸線の複雑さは、大地の生い立ちと、形成後の隆起や沈降、そして波による侵食によって形成されてきました。そのような複雑な生い立ちの縮図ともいうべきものが角島でも見られます。
 鼓のような形をした島で、北西の夢ヶ崎と北東の牧崎の岬が、牛の角に似ていることから、角島と名付けられたそうです。角島は古くから知られており、万葉集にも詠まれています。
 かつては、角島へは下関市豊北町から1.5kmほど離れているため、船で渡らなければなりませんでした。現在では、角島大橋ができ、車で渡れるようになっています。角島大橋は2000年に完成したもので、1780mもあり、離島への一般道にかけられた橋としては、日本でも2番目の長さを誇っています。橋は、きれいな曲線を描いており、長さだけでなくその優雅さもなかなか見事です。
 橋を渡っていく途中に、鳩島という小さな島の脇を通ります。ここもなかなかの地質学的に見どことがあります。鳩島にはきれいな柱状節理を見ることができます。しかし、橋から鳩島は少し離れているので、見るだけで島に上がることはできません。
 柱状節理をつくっているの岩石は火山岩です。残念ながら鳩島では、岩石に近づくことはできませんが、角島の橋の袂や、西部の海岸で手にすることができます。
 角島は、北東側と南西側にふたつの高まりがあり、両地区を結ぶ中央部が低い地帯(本文では地峡部と呼びます)となっています。北東側を元山地区、南西側を尾山地区と呼んでいます。
 角島は、今ではひとつの島ですが、地峡部をはさんで島の両地区の生い立ちが違っています。
 島の大地の歴史は、3500万年前ころの火山の活動からはじまります。この火山活動によって、尾山地区を構成する主要な岩石である火山岩(下部が輝石安山岩で、上部が角閃石流紋岩)ができました。この火山岩は、田万川火山岩類と呼ばれています。
 その後、地峡部に、3000万年前の砂岩や礫岩からなる地層(日置層群峠山累層)がたまります。
 1600万~1500万年前には、元山地区の主な岩石である砂岩や泥岩の地層(油谷湾層群川尻累層)が堆積します。そして、地峡部に大きな断層ができます。断層は今も海岸で見ることができますが、元山地区が下がり尾山地区が上がるような活動をしました。この断層によってめくれ上がった岩石が今も少し顔を覗かせています。少し見える岩石から、尾山地区の、田万川火山岩類の下には、さらに古い(白亜紀)火山岩があることがわかっています。
 1000万~800万年前になると、鳩島や元山地区の角島大橋の袂、尾山地区の西部にみられる玄武岩の火山活動が起こります。この火山でできた火山岩(アルカリカンラン石玄武岩と呼ばれます)は、山陰の周辺地域で広く活動した火山岩類(山陰火山岩類とも呼ばれています)の仲間です。
 40万~10万年前には、尾山地区の中央部だけに、礫岩(チャートと呼ばれる礫を含む)や砂岩からなる地層(尾山礫層と呼ばれています)が堆積します。
 断層によって形成された地峡部は低くなりました。両地区の結合部である地峡部の沿岸には、今では、砂浜があり海水浴場となっています。海岸の砂をよくみると、貝殻の破片をたくさん含んでいることに気づきます。これは、シェルサンドと呼ばれるもので、貝殻の破片を60~70%ほど含んでいます。海岸の一部の地域で貝殻が集まったような海岸は、局所的ならいくらでもあるのですが、これほど広域にシェルサンドがあるとろは、珍しいのではないでしょうか。日本のどこからにあるのかもしれませんが、私は知りません。もちろん、海外では、とんでもなくすごいシェルサンドはありますが。
 このような砂地は、6000年前ころから、氷河期の海水面の変動と季節風によって砂丘として形成されたものです。尾山地区の中央の北岸にも同じような砂丘堆積物が少しみられます。
 島の中央にできた断層は、2つのまったく違った生い立ちの違う大地を生みました。しかし、その断層によってめくれ上がった大地が、島の生い立ちのまったく違うことを教えてくれています。一つの島で、これほど違った地質を持つものは、珍しいのではないでしょうか。
 地峡部の砂が、断層で境された島の両地区の架け橋となっています。さらに、鳩山と同じ火山岩が、尾山地区と元山地区の架け橋となっています。
 火山岩や砂丘などの架け橋は、1000万年前から6000年前にかけて、地球の営みによってできたものです。そして砂の架け橋ができてから約8000年後に、人は、響灘に角島大橋という人のために架け橋を渡したのです。
 角島は、人との大地との2つの架け橋が、みられるところなのです。

・にぎ女・
万葉集の巻16の3871番に、
角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻
という歌ががあります。
現代文で書き下すと、
 角島の
 瀬戸(せと)の稚海藻(わかめ)は
 人の共(むた)
 荒かりしかど
 我れとは和海藻(にきめ)
(詠人知らず)
となります。
この歌の最初にでてくるのが角島です。
万葉時代から
ここで「にきめ」とは、
新鮮なワカメの茎とツワブキのつくだ煮のことです。
地元では、にぎ女(にぎめ)と呼ばれていて、
今でも名産品となっています。

・響灘・
響灘(ひびきなだ)は、なかなか情緒のある言葉です。
響灘は、日本海の西の端にあたり、
島根県西部から、関門海峡付近を通り、
福岡県北部の沿岸付近までの海域のことをいいます。
しかし、その字をよく見ると、情緒があるなどと
いってはいれないような言葉です。
響とは、音や振動が、余韻をもって伝わることです。
灘とは、洋とも書かれることがありますが、
波が荒く、潮の流れも速いところのことです。
灘は、サンズイに難という字ですから、
古くから船で行くことが困難なところとされています。
響灘とは、どうも荒れ狂う海という意味合いで
使われていたのではないでしょうか。

2007年6月15日金曜日

30 恵山:せめぎあいの恵み(2007.06.15)

 自然の中にはいろいろなせめぎあいがあります。火山と植物もせめぎあっています。火山が噴火すれば、植物は死滅します。しかし噴火がおさまれば、また植物が回復します。火山とはそんなせめぎあいの繰り返しがおきています。

 今年2007年のゴールデンウィークは、4月下旬と5月上旬の2つの連休に分かれていました。私は、家族同伴で、後半の連休の3日間を利用して、恵山に出かけました。
 恵山は、北海道の南部(道南)、渡島半島の東部にあたる亀田半島の東端にあります。私の住む江別市から恵山までは、350kmほどあり、高速道路を利用しても、5、6時間かかるところです。目的地に行くまでに1日仕事となります。連休の初日は天気もよく、高速道路の出口の料金所が渋滞していました。私は、今までゴールデンウィークによく出かけていましたが、北海道の郊外で、渋滞にあったのは、これがはじめての経験でした。
 恵山は、活火山で、618mの標高を持ちます。中腹まで道路があり、登山自体は、半日ですんでしまいます。今回出かけたのは、私は恵山の調査だけが目的でした。かなり遠いので、自宅から恵山まで1日かけて行き、1泊して、翌日の午前中に登山をします。午後は周辺を観光します。そしてもう1泊して、またまた1日かけて帰宅するというものです。
 恵山では、ツツジが名物となっています。エゾヤマツツジとサラサドウダンツツジ、エゾイソツツジなど、60万本ものツツジがあるとされています。それらが満開となる5月下旬から6月いにかけては、多くの観光客が集まります。しかし、ゴールデンウィークでは、まだツツジには早い時期なので、比較的すいていました。ですから、4月に突然思い立った調査なのですが、温泉旅館がとれました。
 私が、恵山に行こうと思ったのは、道南の活火山をみるためです。本当は駒ヶ岳に行きたかったのですが、駒ケ岳は噴火の危険性があるので、現在は登山禁止となっています。ですから、恵山に登ることにしたのでした。
 恵山は、現在も噴気を出している活発な火山で、こんもりとした山容(溶岩ドーム)をしています。このドームの西側は、大きくえぐられた形になっています。これは、もともとドーム状であったものが、2500年前の噴火で壊されたもので、その裾野は広く平坦に(火口原とよばれています)なっています。この火口原から火山の裾野にかけて、ツツジなどの植物が多数自生しています。
 恵山の噴火の歴史をみていくと、安山岩マグマによる活動で、同じ活動を繰り返してきました。最初に火砕流をもとなう爆発的な噴火を起こし、その後溶岩ドームを形成するような激しい噴火を起こします。そして、ドームの崩壊を起こすような小噴火に変わっていき、穏やかな静穏期へと移っていきます。これがひとつの噴火サイクルとなっています。
 溶岩ドームを形成するような激しい火山活動は、3~4万年前、2万年前、8000年前の3回が確認されています。その間、数千年から1、2万年ほどの静穏期の後、再度活動にはいるということを繰り返しているようです。現在は、8000年前に起こった活動の静穏期にあたると考えられます。しかし、完全に休止したわけではなく、大規模な噴火は減っていますが、5000年前、3000年前、2500年前、600年前、そして1846年と1874年に小規模な噴火が記録に残っています。
 1846年の噴火では、溶岩ドームで水蒸気爆発を起こして、小さな火口が形成されました。この噴火で、火山による泥流が発生して、数十名の犠牲者がでたという記録が残されています。
 恵山の海側は、ドームが海上に切り立ったようになっているため、急峻な地形となっています。海を巡る道路もありません。ドームの周辺には、集落が近接しています。もし噴火があれば、大きな被害を出す可能性があります。
 しかし、そんな恵山周辺には、火山のおかげでいくつかの温泉があります。それぞれ泉質も趣きも違っているため、観光資源として利用されています。危険と観光のせめぎあいのなかで、人々は暮らしています。
 恵山の火口原の標高300mあたりまで舗装された道路があり、火口原が行き止まりですが、駐車場が完備されています。そこから火口原の散策コースや登山コースが始まります。私の家族は、登山コースがたどり頂上を目指しました。険しいのぼりが続きますが、眺望が開けた景色、小さな噴気口、ドームの断面を眺める展望台、ドームをつくっている火山岩などを見ることができ、いろいろ楽しみながら、登ることができます。
 子供たちは、頂上に行ったら、津軽海峡越しに、本州の青森が見たいといっていました。登山をした日は天気はよかったのですが、霞がかかっていて、空気が澄んでいませんでした。そのため、残念ながら、青森の下北半島は見ることができませんでした。
 登山道の各所に、安山岩の溶岩がみることができました。その溶岩には、ガスが抜けた跡の穴が、マグマが流れた方向に長く伸びた流理模様を見ることができます。マグマの動きを物語る生々しさがありました。
 登っている途中には、小さな噴気孔がいたるところにありました。現在も噴気を出しているところ、昔出していたが今は出していないところ、そこには黄色いイオウの結晶やその他の沈殿物の結晶などが形成されていました。また風向きが変わると、噴気のガスが流れてきて、イオウのにおいもしてきました。蒸気につつまれ熱さを感じることもありました。やはり、ここは活火山なのです。
 恵山は低い山なので、頂上付近にも植生がありました。私が登った時は、まだ時期が早く、花は咲いていませんでしたが、花の季節なれば、さぞかしきれいだろうなと思いました。
 しかし、山の全面が植生に覆われているわけではありません。静穏期に入っているとはいえ、火山の影響がいたるところに、色濃く残っています。噴煙がまだ出ているところや、崩落が続いているところ、土砂が流れているところでは、まだ火山の勢力が残っています。
 恵山の最後の噴火は、1874年です。ですから、もう130年以上たちます。その間に、植生は回復しました。恵山は、北海道でも、道南に位置し、比較的穏やかな地域です。標高も高くないため、植生の回復には適していたのでしょう。130年前と同じかどうかはわかりませんが、今では植物がせめぎあいに勝っています。そして今では、ツツジの名所として、観光客を集めています。火山にはつきものの温泉も、麓にはいくつもあり、観光に一役買っています。
 私たちが登った日は、晴れの暖かい日でした。しかし、風が強く、頂上でも岩陰に入らないと、体感温度が結構低くなっていました。ですから、あまり長居はできませんでした。風に背を圧されるように山頂を後しました。
 登山をしている間、植生と火山のせめぎあいを、恵山では見ることができます。今は火山の活動も静穏期になっているので、火山と植物のせめぎあいも「恵み」となっている山なのでしょう。

・幻の温泉・
椴法華と書いて「とどほっけ」と読みます。
市町村合併以前は亀田郡椴法華村でしたが
現在では函館市椴法華となります。
恵山の北側の椴法華に水無海浜温泉があります。
海岸に湧いている温泉で、
コンクリートで枠が作られて、浴槽らしくなっています。
しかも、無料の温泉で自由に入れます。
私が行った時は、潮が引きはじめている時でした。
温泉に入ることできました。
私は、ただ見学していただけでしたが、
子供たちがは、足だけを温泉に浸かっていました。
私が訪れたときは、ただの海沿いの温泉でしたが、
この水無海浜温泉は、別名「幻の温泉」と呼ばれています。
それは、この温泉は少々変わっているためです。
満潮の時は、海水が温泉の中まで進入して、冷たくて入ることができません。
干潮で、潮が完全に引くと、今度は、
温泉の温度が50度ほどあるので、
熱くて入ることができません。
ですから、満潮と時は、温泉が消え、
干潮には熱くて入れないという温泉です。
入る時間が限られている「幻の温泉」なのです。

・はしか・
隣の大学ではしかの学生3名がでて、
14日から24日まで、キャンパスへの立ち入りは全面禁止となりました。
その間の大学祭は延期、
オープンキャンパスは中止となりました。
大学の教職員は免疫があるので通常通りの勤務するそうです。
もし、10日間の休みともなると、
いろいろなスケジュールも都合がつかないものも出てきます。
もしかすると、もう潜伏期間にはいっている学生がいるかもしれないと
想像すると、我が大学でもいつ感染するか戦々恐々としています。
無事、流行が収まることを祈っています。

2007年5月15日火曜日

29 伊豆半島:時間スケール 2007.05.15

 伊豆は、関東の人からすると、手ごろな観光地です。がんばれば日帰りだってできます。観光地だけでなく、海の幸、山の幸、そして温泉もあります。そんな観光地の伊豆をみていきましょう。

 私は、伊豆半島の付け根とも言うべき、湯河原(ゆがわら)に、1999年12月から2002年3月までの2年3ヶ月間、住んでいました。それ以前は、伊豆半島より少し北になりますが、小田原市の足柄(あしがら)平野の中に、4年間住んでいました。ですから。私は、6年間も、伊豆半島の近くに暮らしていたことになります。
 伊豆半島の大部分は、静岡県に属しています。湯河原は神奈川県ですが、街の中を千歳川という川が流れています。その川向こうは静岡県熱海市になっています。ですから、静岡県の伊豆半島は非常に身近な存在でした。
 湯河原は箱根の裏側にあたりますので、私にとって箱根はもちろん身近な存在ですが、箱根だけでなく、伊豆半島にも、身近なものでした。伊豆半島は、いろいろ見所があり、よく出かけたものです。
 私は、伊豆半島でも地質学的に興味のあるところを見に行きました。伊豆半島は、地質学的な見所だけでなく、温泉や観光でもいろいろ見所があるのをご存知の方も多いと思います。ところが、地質の見所と観光名所は、別々のところではなく、共通していることが多いのです。言い換えると、地質学的に面白い現象がみられるところは、観光地としても人気があるところだということです。
 伊豆半島には、いくつもの観光地がありますが、自然の景観が見所となっているところが多数あります。例えば、下田の爪木崎(つめきざき)では亀の甲羅のような不思議な岩場が、奥石廊崎や波勝岬、城ヶ岬海岸では嶮しい断崖絶壁、堂ヶ島では不思議なガケの模様や洞窟、天城の浄蓮の滝や河津の七滝(ななだる)では柱が並んだような岩からできた滝、達磨山や大室山ではなだらかで丸い山、天城山や矢筈山(やはずやま)は険しい山、一碧湖では丸い形の湖などなど、さまざまな景観があり、それぞれが観光地となっています。
 伊豆半島の観光地は、山あり、川あり、海ありで、非常に多彩で、いろいろなタイプの自然の景観を見ることができます。伊豆半島を単に観光地として巡るとあまり気づかないのですが、地質学を学んだことがある人や石に詳しい人には、ある共通点があることに気づきます。
 観光地の多く景観は、溶岩や火山噴出物、水中火山砕屑物がつくるものであったり、火山体自体や噴火口などのマグマの火山活動によってできたものなのです。もちろん、伊豆半島は、火山活動だけでなく、堆積岩からできている地層もあり、その中には化石が見つかることもあります。しかし、伊豆半島では多くの火山活動の痕跡を見ることができます。そして、伊豆半島は、今も活動中の火山地帯なのです。
 伊豆半島周辺をみていくと、活火山は、伊豆半島より北側の富士山と箱根にあり、伊豆半島を飛ばして、伊豆大島にあります。伊豆半島に活火山というのは、ぴんと来ないかも知れません。しかし、かつてニュースにもなって記憶にも残っているかもしれませんが、手石海丘という海底での噴火がありました。
 1989年7月13日、伊東市の沖3kmの海底で起こったこの噴火は、伊豆半島での2700年ぶりの火山噴火なのです。つまり、有史以来、初めての噴火となったのです。ですから、伊豆半島が火山地帯であるのを気づかなかったのも無理はないことなのです。
 伊東周辺には大室山や小室山の丸い山があり、それは小さな火山であることがわかっています。地形図をみると、伊東周辺には、このような小さな火山がたくさんあることがわかります。気象庁は、手石海丘の噴火後、伊東周辺の小さな火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。
 地質学者は、伊豆東部には、60個ほどの火山があることを知っていましたので、東伊豆火山群と呼んでいました。また、火山は半島の陸上部だけでなく、手石海丘のように、伊豆半島と伊豆大島の間の海底にも40個ほどの火山があることがわかっていました。これらの海底火山は、東伊豆沖海底火山群と呼ばれています。
 気象庁は、陸地と海底の火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。つまり、伊豆東部火山群は、伊豆半島の東半分と伊豆大島まで続くほどの直径30kmにも達する広い範囲に及ぶ火山地帯だったのです。その規模は伊豆大島や箱根より広く、富士山に匹敵するほどだったのです。
 伊豆東部火山群は、活動地域が富士山や箱根、伊豆大島と肩を並べるほどですが、火山の形や活動様式には大きな違いがあることがわかります。
 富士山や箱根、伊豆大島は同じような場所で何度も火山活動を起こしています。ですから、火山自体が非常に大きく高い山となります。このような火山は、一度の活動で終わるのではなく、何度も繰り返し活動しています。ですから複成火山と呼ばれています。
 一方、伊豆東部火山群は、大室山や小室山のように比較的小さい火山がほとんどです。古い時代の火山の形は、風化侵食で変わっていたり、マグマの種類によって形の様々ですが、小規模で一度の火山活動でできた火山であることがわかっています。このような火山を単成火山と呼んでいます。ですから、伊豆東部火山群を、地質学者は東伊豆単成火山群と呼んでいました。
 手石海丘の噴火は有史以来はじめての記録でしたが、東伊豆単成火山群は、15万年前ころから活動をはじめました。
 知られている最初の火山活動は、天城高原近くの遠笠山でした。13万年前には高塚山、長者原、巣雲山の3つの火山が活動しました。10万年前には伊東市南部でいくつもの火山が噴火し、一碧湖が噴火口として残っています。4万年前に鉢ノ山が、2万5000年前に登り尾南が噴火し河津七滝をつくる溶岩が出ました。1万7000年前に鉢窪山と丸山が噴火し、浄蓮の滝をつくっている溶岩が流れました。1万4000年前には小室山が噴火、4000年前には大室山が噴火し、城ヶ崎の溶岩をつくりました。3200年前に、天城山が噴火し、何度も軽石の噴出や火砕流が発生しました。2700年前に、天城山の北東斜面でいくつもの火山噴火が起こり、それ以降しばらく火山活動がおさまっていました。
 そして、1989年の手石海丘の噴火になったのです。ほんの2700年ほど休止期間があっただけでの活動です。それ以前の火山活動には、もっと長い休止期がありました。
 東伊豆単成火山群は、このような噴火の歴史をもっているのですが、人間の歴史には火山活動の記録は残されていませんでした。仕方がありません。地質学などない時代ですから、過去の火山活動を知ることはできませんでした。しかし現在では、火山活動が活発に起こっている地域であることがわかっています。ですから、伊豆東部火山群は、活火山に分類されています。
 人間にとっては、手石海丘の噴火は、有史以来はじめての経験だったのですが、地質学的はたまたまここしばらく活動がなかっただけの時期にすぎなかったのです。人間の残した記録は、大地や自然の記録とは、時間スケールが違っています。ですから、大地や自然の見方も、大地や自然の時間スケールで見ていく必要があります。そんなことが、伊豆の観光地から垣間見ることができます。

・心の目・
北海道の私が住む町では、暖かくなり、今が桜の盛りです。
このような気候や花の変化が、季節の巡り教えてくれます。
季節の巡りは、もちろん自然の時間の流れです。
しかし、今回のエッセイでも示したように
非常にゆっくりとした万年、億年の時間の流れも自然にはあります。
自然はあまりに壮大です。
時間という見方をしても、
風の動きや天気の移り変わりのような秒や分、時の時間スケール
太陽や月の動きのような日や月の時間スケール
季節の星座の変化のよな月や年の時間スケール
火山活動のような100年や万年の時間スケール
大地の変動のような億年の時間スケール
など、あまりに多様です。
このような自然の多様なスケールを見るには
人ももっと多様なスケールをみる心の目が必要なのでしょうね。

2007年4月15日日曜日

28 神居古潭:人が行き交う渓谷 2007.04.15

 渓谷は、急流があり、交通にとっては障害となります。しかし、交通の要所となる渓谷には、古くから人が行き交ってきた歴史があります。岩に穿たれた穴から、そんな歴史を、垣間見ることができます。

 北海道の石狩川は、日本海に注ぐ、日本でも有数の大河です。石狩川は、河口から石狩平野を東に向かい、次に北に向きを変えます。本流からは、豊平川、千歳川、夕張川、空知川、雨竜川などの支流が分かれていきます。河口の石狩から江別、岩見沢、滝川、深川の町をへて、平野から渓谷に入ります。渓谷の先は、旭川がある広い上川盆地に抜けます。
 旭川は大きな町ですし、北見やオホーツクに向かう山越えの交通路にもあたり、渓谷沿いは重要な役割を果たしています。この深川と旭川の間にある渓谷は、神居古潭(かむいこたん)渓谷と呼ばれています。
 漢字で書かれていますが、アイヌ語に漢字をあてて地名としています。神居古潭のカムイとは「神」を意味し、コタンは「いるところ」という意味です。非常にうまく漢字をあてていると感心します。
 アイヌ語の地名があるということは、古くから神居古潭周辺にはアイヌの人が住んでいたこということになります。神居古潭の近辺には、竪穴式住居跡やストーンサークルなどの遺跡があり、縄文時代から人が住んでいたことがわかります。
 神居古潭は3kmほどの渓谷で、狭く急峻な地形です。そのため、重要な交通路でありながら、難所となっています。水上交通を利用していたアイヌの人だけでなく、鉄道や自動車を利用する現代人にとっても、神居古潭渓谷は、難所となっています。
 現在でも渓谷の嶮しさは変わりませんが、トンネルを使って、この難所を通り抜けています。私は、自動車で高速道路や国道、JRでも神居古潭を通りぬけていますが、トンネルを通ることになります。ですから、難所と感じることなく通過しています。多分、多くの人もそうだろうと思います。
 トンネルを通っている時は、岩石をみることはできませんが、旧道に入れば、渓谷を味わうことができます。旧道のドライブインのあるところから、石狩川にかかったつり橋を渡ることができます。このつり橋から、渓谷を眺めることができます。
 つり橋を渡った対岸には、函館本線の旧線にあった神居古潭駅があります。現在は駅としては使われてませんが、公園として整備されていて、駅舎も休息所として利用でき、SLも展示されています。
 神居古潭が渓谷となっているのは、固い岩石が出ているためです。どのような岩石がでているかというと、これがまた、なかなか面白い岩石なのです。
 北海道の地形を見ると、南北に伸びる山脈が走っています。日高山脈から大雪山にいたる山脈が主稜線をつくっています。しかし、よく見ると、その西側に、見え隠れしながらもうひとつの山脈が平行してあることがわかります。日高山脈の西側では、わかりにくいのですが、山並みがあります。そして北には、夕張山地から手塩山地へと続く明瞭な山並みがあります。夕張山地と天塩山地のつなぎ目が、神居古潭渓谷にあたります。
 日高山脈は変成岩や火成岩と堆積岩からできています。その西側は、神居古潭帯と呼ばれ、蛇紋岩と変成岩を主体とする岩石からできます。北海道の地殻変動は、プレートが東西方向にぶつかることでおこったため、大地の割れ目は、南北に伸びる方向に形成され、現在のような南北に伸びる山脈となったのです。これが日高山脈や神居古潭帯のでき方の概略です。
 日高山脈や神居古潭帯の山並みをつくる岩石でありながら、その性質は両者では大きく異なっています。
 神居古潭帯を構成する代表的な岩石は、蛇紋岩です。この蛇紋岩は、変わった岩石なのです。蛇紋岩は、濃い緑でテカテカとして、まだら模様となることがあり、文字通りヘビの紋のような見かけを示すことがある岩石です。
 蛇紋岩は、もともとマントルを構成していた岩石(カンラン岩と呼ばれています)が、地殻変動により、水を含み蛇紋岩となり密度が小さくなり、上昇してきたものです。蛇紋岩は、水の含む程度によって岩石の性質や見かけが変わり、含まれる水が少なければ比較的しっかりとした岩石になります。しかし、水をたくさん含むと、すべすべとして滑りやすく、侵食されやすい岩石となります。
 地下深部で蛇紋岩となった岩石が上昇する時、周囲にあった変成岩を取り込んで上がってくることがよくあります。これが神居古潭帯をつっている岩石の生い立ちです。
 神居古潭帯の南部で明瞭な山脈をなさなかったのは、水をたくさん含む蛇紋岩となっているためです。手塩山地にかけて明瞭な山地があるのは、水が少なく比較的しっかりした蛇紋岩(塊状蛇紋岩とよばれています)であるためです。また、夕張山地は、柔らかい蛇紋岩からできているのですが、蛇紋岩に取り込まれた固い変成岩を多く含み、それが高まりになっているです。
 水を含む蛇紋岩が出ているところは、崩れやすくトンネルも作りにくく、道路造成において、困難な工事となります。特に神居古潭帯南部や日高山脈では、北海道の東西の交通路をつくるとき、神居古潭帯の弱い蛇紋岩と日高山脈の高い山並みが、工事を困難にしています。
 神居古潭は今も昔も交通の要所ですが、固い岩石がでているためにトンネルができ、スムースに通行することができるようになりました。しかし、旧道にでて、渓谷を眺めてみると、昔のままの石狩川がそこにあります。
 つり橋や河岸から、川岸の石をよく見ると甌穴(おうけつ)と呼ばれるものが、たくさん見えます。甌穴とは、岩にあいた穴のことです。もともとは岩のくぼみであったのが、小さな石が水流のなかで回り、穴を深く掘りこんでいきます。このような現象が、長い時間かけて繰り返し起こると、固い岩でも深い穴が形成されていきます。
 甌穴の起源について、アイヌの伝承(ユーカラ)として、つぎのようなものが残されています。
 神居古潭には、ニッネカムイ(悪い神様という意味)が住んでいました。ニッネカムイは、ここを通るアイヌをおぼれさせようしてと、大きな岩を投げ込みました。いい神様であるヌプリカムイ(山の神様という意味)が、岩をよけようとして、ニッネカムイと争いになりました。その時、英雄サマイクルが、ヌプリカムイに加勢しました。形勢が悪くなったニッネカムイは逃げようとしたのですが、川岸の泥に埋まり、身動きができなくなりました。その時を逃さず、サマイクルがニッネカムイを切り殺しました。ニッネカムイが足を取られた跡が甌穴になったと伝えられています。周辺にはニッネカムイの首やサマイクルの砦とされる奇岩もあります。
 このようなユーカラができるもの、神居古潭渓谷が、古くから交通の要所でもあり、難所でもあったため、よく観察さていたためでしょう。現在でも、トンネル工事では、岩石が詳しく調べられます。そして安全性を確認されます。しかし、そのを通行する人々は、多くの人が苦労して確保した安全な交通によって、その嶮しさを気づかずに通り過ぎていきます。

・昔ながらの景観・
このメールマガジンためのホームページを作成するために、
共同研究をしている北海道地図株式会社は、
旭川に本社があります。
神居古潭渓谷を抜けたすぐのところに、本社があります。
私は、何度か出かけているのですが、
そのたびに、国道のトンネルを通り抜けています。
交通の要所なのですが、トンネルのため、
トンネルの切れ目からちらりと渓谷が眺められるだけです。
トンネルができたおかげで、
渓谷自体には開発が入らず、昔のままの自然を残しています。
アイヌの人たちが見たのと同じような季節の移ろいを
今でも見ることができます。
そして、カムイのユーカラに思いはせてみるのもいいのではないでしょうか。
北海道は、これから春を迎えて、いい季節となります。

・新学期・
新学期です。春です。
私の職場(大学)も家庭(次男)でも、入学の季節となりました。
北海道は、桜にはまだ早いのですが、
フキノトウや春に咲く木の新芽などが見えてきました。
道路の雪やすべてとけ、雪捨て場や軒下などで、
ところどろこに雪が残るだけとなりました。
今年は大学で、新入生のゼミを担当することになりました。
2年間の担任も含んでいます。
創設2年目の新学科ですので、
初めてのことばかりも多く、
戸惑いもあります。
希望に燃えた若者と接するのは楽しいです。
それなりに気も使いますが。

2007年3月15日木曜日

27 大山:火山と人間の休止期の差 2007.03.15

 火山、長い休止期を経た後、活動することがあります。それは、人間には、なかなかマネのできないことです。今回は、長い休止期をもっている火山を紹介しましょう。

 鳥取県中央部の山合いに三朝(みささ)温泉があります。三朝温泉は、倉吉市で海にそそぐ天神(てんじん)川の支流の三徳(みとく)川の上流域の三朝町にあります。そんな三朝町に、私は5年間住んでいました。
 当時、大学の研究所が三朝温泉の少し下流側にあったのです。その研究所に、修士課程の学生として2年、しばらく間を置いて、博士課程終了後の研究生として1年、続けて学術振興会特別研究員の2年、あわせて5年いたことになります。後半の3年間は、特に集中して研究しました。
 その後私は、転々と移転を繰り返していたのですが、移転と共に、研究テーマも変わっていきました。公務員でもあったので、研究所に行くことがなく、興味も移ってきました。その後、研究所は、改組や建物の増改築などもあり、大きく変わりしてしまいました。当時のスタッフたちは、まだ何人もおられますが、大きく変わったようです。
 三朝に住んでいた時、大きな町は倉吉市でしたので、よく出かけていました。そんな時、町や日本海沿いでは、西の方に雄大で大きな山が見えました。大山でした。
 大山と書いて、「だいせん」と読みます。大山周辺の山には、「山」を「せん」と読む地名があります。扇ノ山(おおぎのせん)、氷ノ山(ひょうのせん)、蒜山(ひるぜん、上・中・下の3つの頂上があります)、須賀ノ山(すがのせん)、那岐山(なぎせん)などがあります。
 「せん」という読み方は、めずらしく感じますが、音読みとして、「さん」は漢音ですが、「せん」いう読み方が呉音としてあります。山岳宗教の影響もあると考えられていますが、中国地方に「せん」という山の名前が残っているのは不思議です。
 大山は、出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代以降、山岳信仰の対象の山となっています。大山は、明治の廃仏毀釈までは、大山寺の寺領なっており、一般人の登山が禁止されていました。
 大山は、富士山のような形をしている非常に雄大な山です。富士山のように見えることから、古くから、伯耆富士(ほうきふじ)、あるいは出雲富士(いずもふじ)と呼ばれています。
 大山は、火山です。大山は、北側に広い裾野を持っている風格のある成層火山です。大山の北の裾野は日本海に達しています。国道も鉄道も、大山の裾野を通っています。ですから、これらの場所から、雄大な大山を眺めることができます。
 成層火山は、溶岩や火山灰などの多様な火山噴出物からできます。裾野がなだらかなのは、火山噴出物が繰り返し堆積したためです。また、火山灰は、風化されば、肥沃な土壌になり、大山の裾野は、農耕地帯として田園風景が広がっています。
 車窓から眺める大山の裾野には、田畑の中に、深く削られた谷筋を多数見ることができます。その谷は、大山の山頂に向かっているように見えます。
 谷となっている深い溝は、侵食によるものです。溶岩は固いですが、火山灰などは、柔らかく侵食を受けやすいものです。新しい火山で現在も活動をしていれば、侵食されても火山噴出で堆積を繰り返すので、穏やかな裾野のままでいます。しかし、成層火山でも、活動を長くして休止しているものは、侵食だけが進みます。大山も、そのような火山です。
 大山は、約180万年前から活動をはじめています。その間に数1000年から数万年の休止期をはさみながら、50万年前ころまでに、巨大なカルデラができたと考えられています。このようなカルデラをつくった活動を古期とされています。
 そこに5万年から1万年前にかけて、新期の活動が起こります。新期の火山活動は、現在の山頂を構成している溶岩ドームと呼ばれるものを形成しました。大山をつくったマグマは、安山岩からデイサイトの性質を持つものがほとんどで、時には激しい噴火をしました。
 5万年前のプリニー式とよばれる激しい噴火は、大量の火山噴出物を放出しました。このときの火山灰は、大山倉吉軽石(大山火山灰層とも呼ばれることがあります)とよばれており、大山周辺では数mほどの厚さがあり、鳥取県東部では1mから数10cmほどの厚さとなります。大山倉吉軽石は、遠くまで風にとって運ばれました。北陸、信州、北関東、遠くは福島まで確認されています。このような広域に広がっているの火山灰で時代のはっきりしているものは、広域テフラと呼ばれ、地層の時代区分に利用されています。大山倉吉軽石も広域テフラです。
 2万年前に、激しい火山活動があり、大量の火砕流が流れ、溶岩ドームなどが形成されました。このときにできたのが、弥山(みせん、1709m)、三鈷峰(さんこほう、1516m)、烏ヶ山(からすがせん、1448m)の3つの溶岩ドームです。
 弥山と三鈷峰は隣接していて、これら2つのドームが現在の大山の主稜線をつくっています。烏ヶ山は弥山からみると南東側にあたります。弥山の北東側に三鈷峰はあります。弥山から東に続く稜線は、一等三角点(1710.5m)を通り、最高点の剣ヶ峰(けんがみね、1729m)にいたり、そこから北に曲がって、三鈷峰に至ります。
 大山の火山活動は、約1万年前で終わりました。それ以降、噴火記録の記録はありません。1万年前以降、火山活動をしていないため、大山は侵食を受け続けています。裾野では、柔らかな火山灰を、流水が侵食していったのです。裾野の深い谷は、そのような侵食の証拠なのです。
 大山の主稜線を形づくっている弥山と三鈷峰の溶岩ドームでも侵食は進んでいます。その北側の裾野から、弥山の山頂までは、登山可能す。しかし、弥山から三鈷峰にいたる稜線は、急峻で侵食が激しく崩れやすく、現在、縦走が禁止されています。
 稜線は特に南と北向き斜面での浸食が激しく、ふもとからみるとまるで切り立った壁のように見え、それぞれ南壁と北壁と呼ばれています。北壁の下は、元谷と呼ばれ、元谷の下流側には大神山神社の奥宮や大山寺があります。
 地表のでっぱりが、侵食を受けるのは、自然の節理でもあります。特に、日本海側に面する山陰地方は、季節風や風雪により、浸食を受けやすい環境です。まして、1万年前から活動をしていない火山ですから、大山は激しく浸食を受けています。
 大山は、遠目で見ると穏やかな山容にみえますが、山頂周辺の稜線が嶮しいのは、激しい侵食という理由があったのです。
 ただ、1980年代から、大山への登山者の急増によって、登山ルート周辺が踏み荒らされ、緑がなくなり、雨水による浸食が激しくなりました。これらは、人為による自然破壊が起こっていると考えられています。そのため、「一木一石運動」が、官民協同して取り組まれました。その運動によって、登山者は、一つの石を持って登って浸食溝をうめたり、植物の苗を植えたり、木道を整備したりして、徐々にでありますが、自然が回復つつあるようです。
 大山全体の侵食は、1万年間、活動をしていないためです。しかし、上でも述べましたように、大山は、数万年以上の長い休止期間の後に、再度火山活動を行ったことが知られています。ですから、大山がもう活動をやめた火山と見なすのは、危険なことです。
 私が三朝の研究所にいた時は、ある元素の分析(鉛の同位体)を中心に研究をおこなっていました。その元素を、非常の微量でも化学的に抽出する手法や装置で分析する方法などを、いろいろ試行錯誤しながら、3年間で完成させていきました。今もその手法は、研究所で改善されて利用されています。
 私は、三朝で行っていた研究は、転職後も続けるつもりでいました。しばらくは、環境が整わないので、その研究テーマは休止のつもりでいました。私は、別のことに興味を持ち出すと、そちらにのめり込んでしまうタイプです。ですから、現在ではその研究テーマは、休止から中止になってきました。
 研究所を離れて早16年もたちました。しかし、研究所時代のことは、今も思い出します。当時は、若さにまかせて、強い目的意識に突き動かされながら、夜昼なく研究に没頭していました。その結果、非常に苦労して目的を達成したことは、その後の人生を送っていく時に、大きな自信を与えてくれました。
 現在の私には、そのような分析から離れて、長い時間が過ぎ去りました。昨年秋、近くの大学にいる先輩から、当時私がやっていた元素の分析について話をしたいという連絡を受けました。私は、関連する資料を携えて先輩のいる大学に出かけました。彼も、ある故人の先輩から、その分析をすることが頼まれていたので、なんとか叶えたいということでした。大学院生が、その元素の分析ができるように、手助けをしてくれと頼まれました。私は引き受けたのですが、彼らも私も、どうも気力が湧かないようなので、分析はうやむやになってしまいました。
 人間は、一度中止という気持ちを持つと、以前のような気持ちに再度高めるのはなかなか困難なようです。まして、今別のことに興味をもっているとなおさらです。私は、今の興味に活動中なのです。

・露天風呂・
三朝温泉街の三徳川に三朝大橋があります。
その橋の袂の川原には、「河原風呂」と呼ばれている
無料の露天風呂があります。
脱衣所は男女別にありますが、湯船は混浴です。
メインストリートのある橋から丸見えの露天風呂なので、
入るのにはなかなか勇気が要ります。
三朝に住んでいた時は、何度か入ったことがありますが、
数えるほどしかありません。
それは研究所内に職員用の温泉があったからです。

・甲子園の土・
甲子園球場のあるとことは、もともと砂地で、土も白っぽいところでした。
そのため、ボールが見にくいという問題がありました。
ボールを見やすくするために、
黒っぽい色の土を混ぜるということが考えられました。
当初は淡路島の土を混ぜていたのですが、
現在では、白砂は中国福建省のものを
黒土は、大山の火山灰を混ぜて使われています。
大山の火山灰の最上位層にあたる「黒ぼく」と呼ばれる土です。
季節の雨量と日差しの違いで、
春には砂を多く、夏には黒土を多くしているそうです。

2007年2月15日木曜日

26 羊蹄山:富士は数あれど 2007.02.15

 富士山が日本を象徴する山であるように、羊蹄山は北海道を象徴する山です。そんな羊蹄山を詳しく見ていくと、そこには代替ではない固有のモノがありました。

 羊蹄山(ようていざん)は、北海道の南部にあります。成層火山です。周りの山から独立しているためた、より雄雄しく、そして気高く見えます。羊蹄山は、富士山と同じように、円錐形の非常にきれいな形をしています。そのため、蝦夷富士とも呼ばれています。北西にあるニセコの山並みがごつごつした山並みであるのと、羊蹄山は比べると非常に「たおやか」な山容に見えます。
 私は羊蹄山に登ったことはないのですが、何度も見たことがあります。北海道の人が羊蹄山に対して抱く気持ちは、関東や東海、中部地方の人が富士山を見たときのものと同じです。私は、以前神奈川県の富士山が見えるところに住んでいたので、両方を見て感じたことです。
 北海道で羊蹄山をみても、同じように感動します。富士山と同様に、羊蹄山も眺める対象として非常に優雅であります。それは、独立して存在する成層火山に共通するものかもしれません。
 大きな成層火山の麓には、湧き水がいたるところにあります。羊蹄山の麓にも、名水として有名な京極の「ふきだし」公園をはじめてとして多数の湧水があります。湧水は年中枯れることなく湧き出しています。
 また、羊蹄山の山麓には、畑が広がっています。それは、羊蹄山の火山噴出物が風化をして肥沃な土壌になっているからです。これも成層火山では役見られるものです。
 同じ成層火山である羊蹄山と富士山は、一見すると似ていますが、よく見ると違いもあります。羊蹄山より富士山の方が、より「たおやか」に見えます。それは、気のせいでしょうか。多分それは、羊蹄山の方が傾斜が急で、険しいからです。富士山の高さに比べて裾野の広がりが広く、羊蹄山は裾野が狭くなっています。そのため、富士山の方が、たおやかにみえるのでしょう。
 このような形は、火山をつくったマグマの性質を反映しています。富士山は玄武岩質のマグマでできているのですが、羊蹄山は安山岩質のマグマでできています。その違いが、このような山容の違いを生んでいます。
 マグマの岩質の違いは、温度や化学成分の違いを表しています。そして、溶岩などのマグマに由来する噴出物の物理的な性質の違いを生みます。
 マグマの温度が高いと流れやすくなります。物質の流れやすさを粘性と呼びます。粘性は、物質に力を加えてときに生じる物質内部の摩擦力の大きさで、新しいSI単位系ではパスカル秒(Pa・s)ですが、昔はポアズという単位が使われていました。1パスカル秒は10ポアズとなります。水でも0℃の時(0.018ポアズ)と100℃の時(0.003ポアズ)を比べますと、100℃の時の方が6分の1くらいの粘性しかありません。
 また粘性は、化学組成によっても変化します。マグマの主要成分である珪酸(SiO2)は、普通のマグマでは重量で半分以上を占めます。この珪酸が少ないと粘性は小さく、多くなると粘性が大きくなります。これは珪素(Si)の酸素(O)の結びつきが多いほど粘性が大きくなるということです。珪酸が少ないと、他の元素(主に金属元素)が増え、珪素と酸素の結合を拒んでいるということになります。
 さてこのような一般論をもとに、富士山と羊蹄山のマグマを考えていきましょう。富士山は玄武岩質マグマからできていました。一方羊蹄山は安山岩質マグマでした。温度で見ると、玄武岩質マグマは約1200℃、安山岩質マグマは1100℃ほどです。ですから、温度からすると玄武岩質マグマの方が粘性が低くなります。また、玄武岩の珪酸の含有量は、重量で50%程度で、安山岩では60%程度です。化学成分から見ても玄武岩の粘性は小さくなります。
 以上のことから、富士山のマグマは粘性が小さく流れやすく、羊蹄山のマグマは粘性が大きく流れにくくなります。流れやすいマグマからできた富士山はなだらかな山容となり、富士山のマグマと比べれば流れにくいマグマからできた羊蹄山は、険しく見えます。このようなマグマの性質の違いが、山の姿の違いとして現われています。
 考えてみると、非常に基本的な違いですが、マグマの化学成分や温度の違いが、火山の姿に個性を与えていることがわかります。さらに火山に個性を与えているのは、活動の履歴の違いです。羊蹄山には羊蹄山の個性があります。
 その個性の一つとして、山麓の景観があります。その景観には、今まで知られていなかった火山の存在を解き明かす証拠がありました。
 羊蹄山の山麓の地形図をみていると、ニセコ側、つまり西側にごつごつした地形が特徴的に見られます。数10mから数100m程度の小高い高まりが、不規則に散らばっています。これは、流山(ながれやま)地形と呼ばれているものです。
 かつて羊蹄山が大噴火したときに、火山体を壊れたものが雪崩のように流れ下った(岩屑なだれと呼ばれています)と考えられています。この流山の高まりをつくっている岩石は、現在の羊蹄山をつくっている火山岩(ソレアイト質)とは、だいぶ違った性質のもの(カルクアルカリ質)であることが分かってきました。そのため、現在の羊蹄山より前に、タイプの違う火山活動によってできた火山があったと考えられています。
 この古い火山は、「古羊蹄山」と呼ばれています。10万年前~5万年前に活動をして、今の羊蹄山よりやや小ぶりの火山をつくっていたと考えられています。そして、約4万5000年前に、古羊蹄山の西部が、噴火によって大規模に崩壊しました。それが、現在、西の山麓に広く分布している流山となっていると考えられています。
 しかし、4万5000年前から1万年前にかけて、現在の羊蹄山(新羊蹄火山と呼ばれています)が活動を開始して、古羊蹄火山を完全に覆い隠してしまいました。ですから、現在では流山以外に、古羊蹄山の露頭はどこにも見ることができません。
 1万年前以降は、山頂だけでなく、北側山麓でも噴火(側火山と呼ばれます)が起こりました。半月湖から巽(たつみ)にかけていくつかの火砕丘が見られます。一番最近の活動は、巽火砕丘で約6000年前のものです。それ以降、羊蹄山の活動は知られていません。
 でも、火山学者たちは、一般的な火山の一生からみて、羊蹄山はまだ完全に成長しきっていない火山だと考えています。ですから、現在は活動は休止していますが、将来、新たに活動時期が訪れると考えています。
 日本各地には、成層火山があり、○○富士と呼ばれています。それぞれの富士には、その富士固有の性質があります。その個性は、火山の姿や周囲の地形、岩石などから探ることができます。そして個性から、火山の生い立ちや履歴が解明されていきます。蝦夷富士には、蝦夷富士の生い立ちがあることがわかってきました。

・代替ではない・
実は羊蹄山は、今年の正月の話題にしようと考えていました。
ですが、連載の順番が北海道ではなく、本州の番だったので、
しかたなく、2月にまわしました。
私が本州から離れてもう5年近くたちます。
ですから、富士山を見る機会が少なくなりました。
かわりに蝦夷富士を見る機会が多くなりました。
でも考えれば、羊蹄山は富士山の代替品ではありません。
固有の生い立ちを持ち、固有の特徴をもっています。
だから、羊蹄山そのものを愛でるべきでしょう。
富士山には富士山のよさ、羊蹄山には羊蹄山のよさがあるはずです。
その個性を重んじて、個性を愛でるべきでしょう。
これは、人を見る時、人が生み出したものを評価する時に
持っているべき視点でしょうか。

・模様替え・
大学は一般入試も終わり、卒論発表会も終わり一段落です。
私は、来週には研究室の模様替えをしようと考えています。
今まで、不便だと考えていたことを解消しようというのが
今回の模様替えの目的です。
しかし、荷物が増えているために、すぐにはできません。
また、ロッカーなどは中身をすべて抜いても、
一人では動かせないものもあります。
ですから家内に応援を頼んで、半日がかりでやろうと考えています。
来週の早い時でないとだめです。
今週は予定がつまっているため、来週でないとだめです。
また、下旬や翌週になると3月早々締め切りの申請書があります。
ですから、来週早々でないとだめです。
その時はサーバーなどもすべての電源を切って
配線もしなおすつもりです。
早めに予定を入れて、大々的にやろうと考えています。