以前住んでいたところに関する質問がありました。それに関連して、今まであまり書いていなかった地域として関東地方を題材にしました。今回は、私が住んでいた足柄平野を流れる、酒匂川がテーマです。
先日、ある方からメールをいただきました。博物館に在籍していた時に作成したホームページについて、質問がありました。内容は、「栢山」の読み方がわからないので、読み仮名をつけてほしいというものでした。旅先だったので、ホームページの修正は帰ってからにすることにして、「かやま」と読みますと答え、修正は後日にすると答えました。
戻ってきた後、ホームページを調べました。以前お世話になっていたプロバイダーのサーバーに作ったホームページでした。プロバイダーの好意で、私のサイトがまだ残されていました。このサイトは、はじめて個人のホームページをつくりはじめた頃のものでした。
それ以前でも、研究でインターネットを用いたデータベースの制作などをしていましたが、個人では経費、通信料、自分のスキルではまだまだ出来る状態ではありませんでした。かし、Tプロバイダーさんの好意で、1999年の夏頃から、博物館に在籍している2002年3月までの間の2年半ほど、個人としても情報発信と、いろいろなテストをしていました。そこには、転職にあたっての意気込みなど、今思い出すと恥ずかしいけれど、それなりの動機と必然性をもって行動していたのだなあと感慨をもってみました。そこで基本的なスキルを身に付けることができました。
前回紹介したように、新たに気持ちでこのエッセイをスタートするために、サイトの構成を刷新すべく、地域別地図を変更し、海外や他惑星なども考えて、準備をしていました。今まではたくさんのエッセイがあるところだけ(北海道、近畿、四国、九州)を地域別に表示していました。しかし、すべてのエッセイを地域に分割して表示することにしました。
するとよく分かるのですが、関東は2ヶ所しかエッセイにしておらず、非常に手薄でした。それは、私が神奈川県立博物館に在籍していたため、神奈川やその周辺に関するその情報はかなり持っていて、しばらく調査にいく予定がないことや、博物館時代にいっぱいアウトプットしていたので、今さらエッセイを書くことも気が引けていました。
神奈川を離れてもう10年以上たったし、今回のメールをきっかけにして、かつて住んでいたところも、もう少しアウトプットしていこうかと思いました。ただし、しばらくは出かける機会がないので、画像があまありません。すべて博物館に置いてきました。ですから、ホームページは少々もの足りなくなるかもしれません。
前置きはこれくらいにして、本題です。今回紹介する場所は、神奈川の足柄(あしがら)平野とそこを流れる酒匂(さかわ)川です。
以前住んでいたのは、問い合わせのあった栢山というところで、足柄平野の真ん中あたりにありました。栢という字は、「かや」とか「かしわ」と読みます。柏(かしわ)の異字体だそうです。どのような経緯でこの地名になったのかは、私は調べていなのでわかりません。
栢山の周辺には、富水(とみず)や蛍田(ほたるだ)、沼田などの地名があります。いずれもこの土地の特徴を表している地名です。きれいな水が豊富にあり、夏にはホタルが飛び交い、湿地帯もあるようなところを想像させます。地名の成立の頃と、現在とは状況は違っているでしょう。しかし、地理的な位置関係は今もそのまま残っていて、水が豊かなで、いたるところに湧き水がでて、地下水も豊富なところです。豊かな水は、飲料、農業用水などして利用されています。
足柄平野の主要河川として酒匂川があります。博物館にいたとき、酒匂川はアプローチもよく、きれいな川なので、川遊びをしながら科学教育の場として活用できるので、何度も出かけました。その成果として、ガイドブック「酒匂川地学散歩」として5冊のシリーズの本を発行することができました。
酒匂川は、富士山と丹沢山地に源流をもちます。
足柄平野から富士山のある御殿場のほうにいくには、丹沢山地と箱根の山の間の狭い地域を通ることになります。谷峨(やが)のあたりでは、東名高速(2本)、国道246号線、JR御殿場線、県道76号線などが、ひしめき合って通っている隘路となっています。なぜ隘路になっているかというと、伊豆(現在の伊豆半島)が衝突したためです。
300万から200万年前ころ、伊豆は現在の小笠原諸島のように、海の火山列島として存在していました。170万から100万年前ころに、伊豆の火山列島が本州に衝突しました。そして60万年から20万年前くらいには現在の半島の姿となりました。谷峨は、まさに、その衝突の現場に当たります。谷峨は、もともと海があったところが、伊豆の陸地が衝突してつながったところ、2つの陸地の境界にあたるところなのです。伊豆の陸地が衝突より以前にも、もうひとつ、丹沢の衝突もあったことがわかっているのですが、別の機会にしましょう。
酒匂川は、御殿場に抜けると富士山の裾野が広がります。御殿場では、酒匂川は鮎沢(あゆさわ)川という名前の川になります。富士の裾野が北東部分が鮎沢川の流水域になります。谷峨の隘路から想像できないほどの広い流水域となります。また谷峨から丹沢へは、河内(こうち)川という支流があります。河内川も丹沢山塊の南半分を占める広い流水域をもっています。
酒匂川は、穏やかな下流域と比べると、上流には想像以上に高い山々と広い流域面積をもっています。ですから、御殿場や丹沢で大量の雨が降ると、大量の水が酒匂川に流れ込み、一気の増水します。そのため、近年でも増水による水難事故が起こっています。
酒匂川は地形的に急な増水が起こりやすいため、「暴れ川」として地域住民を困らせていました。小学校の銅像で有名な二宮尊徳(金次郎)の生家は、酒匂川の栢山にありました。1791年8月5日の台風で酒匂川が増水し、堤が決壊し、生家も父の田畑もすべて流されてしましたました。その後、父と母も亡くし、尊徳は親戚の家にやっかいになり、苦労することになります。元のような農地や家を取り戻すために、努力と工夫して稼ぐことにより、自分の土地を復興させました。その後もいろいろな事業で業績を延ばしていきました。その手腕が広く認められ、農村復興政策の指導者となって各地で活躍することになりました。
酒匂川は暴れ川であったため、古くから治水に取り組まれてきました。現在の堤防の脇に、「文命堤」と呼ばれるところがあります。これは、8代将軍吉宗の時代におこなわれた大規模な治水工事のあとで、現在も残っています。信玄堤あるいは霞堤といわれる工法を用いた治水です。
今では、丹沢にダムもでき、しっかりとした堤防もできて、治水がなされています。しかし、油断は禁物で、防災意識は常に持っているべきでしょうね。。
酒匂川は災いだけをもたらすだけではなく、多くの恵みも与えてくれています。それは、上でも述べたきれいで豊かな水です。箱根の北東側も流域としていおり、そこに降った雨は、南足柄から小田原に豊富な地下水をもたらします。きれない水を使用する工場もあります。
足柄平野と酒匂川は、二級河川で長さも流域もそれほどではないのですが、水量豊かな川となっています。なにより我が家族のスタート地点でもあります。酒匂川の話を書いていたら、神奈川がへの郷愁が湧いてきました。子どもたちはほとんど記憶していないでしょうが。
・閉鎖・
今回のエッセイのきっかけとなったホームページは
少々古いサイトで、最初のものでした。
当時はデジカメも走りのことで
使用していたのですが、処理するコンピュータも容量も能力も低く、
いかにコンパクトにホームページを作成するかが
コツのようなものがありました。
そして通信料も従量制だったので、
繋ぎっぱなしにすることなどはできませんでした。
ホームページをみると、そんな時代を思い出します。
しかし、管理していいないサイトなので、
そろそろ閉鎖しようと思っています。
・たゆまぬ努力を・
大学は、入試シーズンまっただ中です。
今後も、18歳人口の減少が続き、
どこの私立大学も、入学者の確保に苦戦しています。
我が大学も、いろいろ受験生を増やす努力を続けています。
何が有効かはやってみないとわからないところがあります。
努力を怠ることは、停滞、後退を意味します。
デフレの時代では、このような状況は、
私立大学だけではないでしょうが、
なかなか大変なのです。