道北、浜頓別は、枝幸山地の北にある小さな平野に拓かれた街です。現在はクッチャロ湖の白鳥などで有名なりましたが、明治のころ、山奥に今の数倍の人が暮らしていたことがありました。そんな頃の話題です。
7月、道北の浜頓別へ校務で出かけました。大学で1校時の授業を終えてから向かいました。車で高速道路を使用しての移動でした。4時間半ほどで、3時半ころに着きましたが、それでも長距離の運転にぐったりしました。予定より早くついたので、以前に行ったことがあるのですが、砂金の採掘できる川にいくことにしました。
宇曽丹(ウソタン)と呼ばれるところで、そこに流れるウソタンナイ川が砂金の採れるところです。ウソタンナイは、アイヌ語に由来していて、「お互いに滝が掘っている川」という意味だそうです。北海道では、二級河川頓別川水系「ウソタンナイ川」と命名しています。川はアイヌ語で「ナイ」ですから、ウソタンナイで「ウソタンの川」という意味ですので、そこにさらに「川」をつけるのは少々ヘンですが、このようなことはよくあります。このエッセイでは「ウソタン川」と表記します。地元の文献にもこの表記が見られます。
さて、宇曽丹には別名があり、「東洋のクロンダイク」と呼ばれています。クロンダイクとは、カナダのユーコン準州にある地名です。1896年(明治29年)、ユーコン川の支流であるクロンダイク川で、砂金が発見されました。その直後から北米ではゴールドラッシュがはじまりました。1897年から1899年かけての3年ほどの短い熱狂は、「クロンダイク・ゴールドラッシュ」と呼ばれました。この話題は、世界中に知られるところとなりました。
北海道では、江戸時代に1617年(元和3年)に、砂金が発見されたとされています。それまで、手付かずの地であったところに砂金が見つかったのです。さざかし多数の砂金がたまっていたことでしょう。しかし、注目を浴びたのは寛永(1624-1645年)の頃でした。その時代には、北海道の南西部、渡島(おしま)の知内(ちない)が有名でした。
ところが、1669年6月、アイヌ民族の静内付近(シブチャリ)にいた首長シャクシャインを中心に、松前藩と漁猟権をめぐって対立が起こりました。「シャクシャインの戦い」と呼ばれるものです。その戦いによっって、砂金の採掘は衰退しました。
次に北海道の砂金のブームが起こるのは、明治になってからでした。枝幸(えさし)で砂金の発見は、ある説によると1899年(明治31年)6月に、堀川泰宗一行が、発見したのがはじまりだとされています。枝幸山地の南側の幌別川の上流のパンケナイでの発見でした。そして7月には、砂金採取者たちが数百人ほどもその付近に入り込んだということです。
ウソタン川での砂金の発見は、同年8月に密採者のグループによるものだとされています。ウソタン川は枝幸山地の北側に当たりました。彼らは、1週間ほどで100gほどの砂金を採取したというウワサが広がり、9月にはパンケナイにいた400から500人の密採者が流れこんできました。パンケナイよりウソタンの方が砂金が豊富だったのです。頓別川の上流のペーチャンでも砂金が発見されました。
クロンダイク・ゴールドラッシュの熱がまだ残っている時期に、枝幸山地の各地で砂金が発見され、ウソタンやペーチャンの地でも、ゴールドラッシュが起こりました。それまで、道北は、道南、道央などと比べると開拓が遅れており、このゴールドラッシュで一気に人の流入がありました。ゴールドラッシュ時には、5000人、一説には1万数千人の人が集まったとされています。多くの人や物質の移動により、枝幸が陸路と海路の交通や経済の中心となりました。
砂金は、もともとはどこかの金鉱脈にあったものが、侵食の結果、砂金となりました。本来なら鉱脈を探す方がいいのですが、古く侵食が進んでいる地域だと、鉱脈自体がなくなっていたり、鉱脈が細く、広範囲に散らばっていたりすると、採掘効率が悪くなります。
一方、砂金は比重が大きいので、川底に溜まりやすく、たまっている場所を見つけると、一気に採取できます。ただし、たまっているものをとりつくせば、その場所の金はなくなります。そうなると、次の場所を探すことになります。あまり大規模化することは難しいので、個人での採取が中心になります。鉱区や採取権などをもうけると、違法にとる人も出てきます。するとそこで取られた金は闇で処理されることになります。
ウソタンでは、鉱山もあったようですが、ほとんどは砂金で採取だったようです。産出量は記録が不確かであること、密採などが横行したので、はっきりしないようですが、ウソタンの砂金は推定550貫(2062.kg)だという記録があります。大半は砂状の金ですが、ウソタン川の支流のナイ川で205匁(もんめ)の金塊がみつかっています。769gという重さは、国内最大級の金塊となっています。
ウソタン川の位置する枝幸山地は、どのような地質学的な背景があるのでしょうか。
道北の日高山脈の延長がどうなるのかは、あまりよくわかっていませんでした。その後の調べで、枝幸山地をつくっている地層は、日高山脈の北方延長にあたると考えれています。しかし、現在では日高山脈の本体ではなく、「イドンナップ帯」と呼ばれるものに相当すると考えられています。
イドンナップ帯は、もともとは日高地方の新冠川から静内川、日高幌別川かけて分布する地層群で行われた区分でした。変成岩やカンラン岩などからなる日高山脈の本体とは地質が違っていたため区分されました。イドンナップ帯とは、日高山脈本体の西側に連続的に分布している岩石群です。玄武岩類と堆積岩類から構成されています。一部には蛇紋岩が含まれています。
イドンナップ帯は、カムイコタン帯を沈み込み帯とした、中期白亜紀の付加体にあたり、沈み込み伴う火山列島やその前にたまった堆積物、付加した海山や海洋地殻の断片(オフィオライト)なども含む地質体であると考えられています。
日高山脈やカムイコタン帯の周辺は、砂金のでる河川がいくつものあります。ウソタンもその一つでした。深部でマグマの働きで濃集された金が、地表にでてくることで、さらに濃集されました。それを見つけて人がとっていきます。今での雪解けや、大水が出た後には、流れてきた砂金が採れるようです。
私が行った時も2組の人が川で採取していました。一組は一攫千金を目指して上流に探しにいったそうです。インストラクターのおじさんがついて採取していました。私は、とる気がないので彼らの様子を眺めながら、話しをしていました。数年前ここに来た時の話しになり、砂金がおみやげで売っていたのに、今はなくて残念だといういいました。インストラクターのおじさんが、自分でも採取をはじめて、2粒ほどですが、私にくださいました。お礼をいってありがたく頂きました。
チャンスがあれば、自分でも採掘したいのですが、いつのことになるでしょうかね。
・49ers・
ゴールドラッシュは1848年、
カリフォルニアで砂金が発見されたことにはじまります。
その直後にメキシコから戦争の勝利によって
割譲された土地での発見でした。
それまでだれも採取していなかった砂金は
大量にあったようです。
それをアメリカやヨーロッパの人たちが聞きつけ、
1949年に大量に開拓者たちが流入してきました。
彼らは「forty-niners(49ers)」と呼ばれました。
その名称はアメリカンフットボールの
サンフランシスコ・フォーティナイナーズ
として現在も残っています。
・忘れもの・
出発前に大学に置いてあった
デジタル・カメラをもって、出かける予定でした。
いつも持ち歩いているデジカメは、
接写を得意とするタイプなので、
一般的なデジカメを持っていくために、
接写用のデジカメをかばんから出しておきました。
持っていくことを忘れていたことに、
高速道路の途中で気づきました。
しかし、もっていたスマートフォン内蔵の
カメラで撮影しました。
あまり撮影方法をしらないので、
色調が変わっているのを知らずにしばらく撮影してました。
ですから、今回の写真には少々色の変なものも混じっています。
ご了承ください。