2017年8月15日火曜日

152 生野銀山:露天掘りの跡に

 かつての日本の貨幣経済は、銀を中心として成り立っていました。それは、日本では銀がたくさん産出したためです。銀の重要な供給地に生野銀山があります。春に生野を訪れました。

 兵庫県の中央、中国山地の東部に朝来(あさご)市があります。かつては但馬(たじま)と呼ばれたところは、現在の兵庫県に北半分に当たります。但馬の南に生野(いくの)があります。山間の小さな町です。5月の調査のときに、生野を訪れました。
 生野は、古くから銀山が見つかっており、採掘されてきました。807(大同2)年に発見されたと伝えられています。931(承平元)年には、和名類聚抄に「生野は銀山、(中略)あり」と記載されています。その後、但馬の守護の山名家の時代になると、生野の銀山についての記録が残されています。
 古くから島根県の石見(いわみ)でも銀鉱床がみつかり、採掘されていました。しかし、鉱石は、朝鮮に送られ、精錬された銀を輸入していました。1533年、石見銀山に朝鮮から銀の精錬法として灰吹(はいふき)法が導入され、金・銀の生産量は増加し、安土桃山時代が花開くことになりました。
 1542(天文11)年に、石見銀山から渡来人の慶寿(けいじゅ)が来て、生野にも採掘や精錬技術が導入され盛んに採掘されたとの記録あります。天正6(1578)年には織田信長が、生野に代官を置き、秀吉も代官を、家康は奉行を置きました。生野銀山は時の権力者にとっても、重要な鉱山、資金源となっていたようです。ただし、江戸中期になると、銀の産出が減ってきたのですが、代わりに銅や錫をとるようになってきました。
 明治になると政府の官営の鉱山となり、フランスから近代技術を導入され、経営も近代化されました。運搬のために、生野から姫路まで馬車通りができ(1870年)、その後運搬用専用道路(1885年)、そして鉄道の開通(1895年)となりました。その後、1896(明治29)年に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。銀の他に、金、銅、鉛なども産出していました。現在はもう採掘はしていなのですが、三菱マテリアルは現在も生野事業所として工場があります。
 戦後になると、坑道延長が長くなり、坑道が突然崩落する「山ハネ」が起こりました(1970年)。危険資源の枯渇と採算コストの増加などによって、1973年に閉山となりました。
 生野銀山は、1200年におよぶ長い鉱山としての歴史を閉じましたが、その間、坑道の総延長は350km以上になり、深さは880mの深部に達しました。記録に残っている430年間で、銀は1723トン採掘され、年平均にすると4トンとなります。
 しかし、1974年史跡として公開され、2007年には近代化産業遺産に認定、2014年には国の重要文化財に選定され、テーマパークとして坑道の一部や、野外の鉱脈跡が見学できるようになっています。
 私も、鉱山内と野外の鉱山跡を見て周りました。5月1日のゴールデンウィーク中の平日でしたが、かなりの観光客が訪れていました。坑内では、江戸時代から近代の採掘までの様子をしめすジオラマがあり、近代化され機会が残されています。
 野外では、露天掘りの跡が見ることができます。野外の観光坑道の入り口は、代官の金香瀬(きんこうせ)番所の門を越えていくと、地表に顔を出していた鉱脈を深く掘り下げていた跡、あるいは抗口がいくつもみることができます。なかでも、慶寿樋(けいじゅひ)は、生野で最大のもので、品位の高い銀を産出しました。江戸末までの300年間休むことなく採掘され、地下200mまで掘られていきました。地表の採掘の跡が深々と残されています。
 生野の周辺は、第三紀の凝灰岩や泥岩などが厚く堆積していた盆状構造のところに、流紋岩や安山岩類のマグマが活動しました。噴出したものの他に、地下で貫入したマグマもあります。盆状の地層に、大小60本ほどの熱水性鉱脈が形成されており、それが生野の銀山となりました。
 野外の散策路は観光客は少なく、1時間ほど歩きましたが、2、3組しか会いませんでした。鉱山跡を見ながら進みました。散策路の終点に、断層の見える露頭がありました。断層は、鉱脈を切ってい走っています。その食い違いは、120mになります。落差がなく、横にだけずれているものです。断層には粘土がはさまっています。そんな断層の周辺の鉱脈も、昔の人が丹念に人力で掘りました。そんな昔の光景を思い浮かべることができました。

・口銀谷・
生野銀山は少し山に入ったところにあります。
町は口銀谷(くちがなや)景観地区と呼ばれ
少し谷を下ったところにあります。
その町並みにも、かつての銀山が栄えたころの
面影を残した建造物が転々とあります。
これらの中には国の重要文化財が多数含まれています。
歴史好きの人には、鉱山跡だけでなく、
町の中も散策するのもいいかもしれませんね。

・マムシ・
野外の施設は、春の新緑から緑へ変わる頃の山間を
整備された道を、小川に沿って散策するコースでした。
心地よい、散策だったのですが、
看板で「まむしに注意」と出ていました。
人の心地よいところは、
マムシにも心地よいのでしょうか。
幸いにも、私はマムシに会うことはありませんでした。