2011年12月15日木曜日

84 行頭:似て非なるもの

室戸ジオパークには、室戸岬のダイナミックさとは少々違う、非日常的な「動」を感じさせる地層群があります。同じ付加体でも、少々味の違う醍醐味があります。行頭(ぎょうとう)岬の少し北、新村の海岸で見た付加体の話題です。穏やかな海岸に、非日常と日常の織り成す、似て非なるものがあります。

 私が昨年度、1年間、滞在した愛媛の城川は、山ひとつ越えると高知になるような山あいの町でした。高知は、愛媛とは違ったより山村の風情、いいかえるとより自然の残っているところでした。高知は山だけでなく海岸もなかなか魅力的です。私はもともと自然が好きですから、そんな自然の残ったところばかりに出かけていました。
 秋の高知の調査で室戸岬に向かうとき、太平洋沿いに国道55号線を走りました。四国の地図を思い浮かべてください。四国は長方形をしているのですが、その長方形はいびつな形です。特に太平洋に面した海岸線は、弧状の湾(土佐湾と呼ばれています)になっています。その弧状の部分は、なだらかな海岸線のように思えるのですが、そうではありません。海岸線を走るとわかるのですが、実は、思った以上に変化に富んだ海岸線になっています。桂浜のような砂浜の海岸は、それほど多くはなく、岩場だったり、山が海岸まで迫っているところもかなりあります。変化に富む海岸線です。
 そんな岩場の一つに行頭(ぎょうとう)岬の周辺があります。行頭岬の少し北、新村(しむら)港から北にかけての海岸では、いろいろな地層を見ることができます。非常に整然と並んだ地層から、激しく曲がりくねった地層など、付加体でみられる多様な地層の特徴を、ひとつの海岸線で見ることできます。この地域は、室戸ジオパークでは行頭-黒耳(新村より少し北にある集落)サイトと呼ばれ、ジオサイトとして環境(駐車場、歩道、解説板など)も整備されています。
 ここで見られる地層の構成は、砂岩と泥岩が一組(互層(ごそう)と呼びます)なっています。一層の厚さはさまざまで、砂岩泥岩の量比や内部の構造は、層ごとに不規則で多様です。また激しく褶曲しているところもあります。褶曲にも、整然と並んだ地層の間(層間褶曲やスランプと呼びます)にできているものもあります。
 地層の基本は、砂岩から泥岩のセットで、これが一層(単層といいます)となります。薄いところもありますが、特別厚いは層はほとんどなく、ある平均的な砂岩泥岩の繰り返しになっています。互層として繰り返しがあり、どことなく似通った特徴があることも確かです。
 このような砂岩泥岩互層の繰り返しは、タービダイト(turbidite、混濁流堆積物)と呼ばれている仕組みで形成されます。タービダイトは、混濁流(tubidity current)によって形成されたものです。同じような環境で、同じメカニズムでできたため、砂岩泥岩の繰り返しの様子が、似ているのでしょう。
 タービダイトは、このエッセイでも何度も出てきていますが、再度説明しましょう。
 陸地付近の海岸近くでたまっていた土砂が、なんらかのきっかけ(地震や洪水、台風など)で海底地すべりが発生して、大量の土砂が流体として、大陸斜面に流れ込みます。それが混濁流となります。時には、混濁流は海溝をも越えて深海底にまで達することがあります。
 互層のひとつの砂岩泥岩のセットは、一度の混濁流によって形成されます。混濁流が海底で止まる(堆積時)と、粒の大きな小石や砂が先に沈降し、粒の小さい泥が後につもります。これが、一層の砂岩泥岩のセットになります。
 次の混濁流が来るまでは、泥が溜まった面が海底面がとなります。混濁流の堆積時間に比べると、穏やかに流れる時間の方が、圧倒的に多くなります。一時の激変と大半の平穏が、大陸斜面における日常となります。穏やかな日常において、堆積作用はほとんどおこりません。
 生物がいれば、その海底面に痕跡(這い跡や巣穴など)を残します。あるいは、波による漣痕(れんこん)も、海底面にできることもあります。生物の死骸も降り積もることもあるかもしれません。もちろん、場所によっては、火山灰や黄砂なども運ばれることもあるでしょう。
 混濁流の来るところは、大陸斜面から海溝あたりです。日本列島では、大陸斜面は付加体の直上で、海溝付近は付加体に取り込まれる場となります。タービダイトは、付加体における陸源の堆積物の主要構成要素となります。そして、混濁流のもととなる土砂は、日本列島では昔の付加体が侵食されたものです。堆積物としての物質の輪廻が起こっています。タービダイトとは、繰り返し土砂が海底に流れ込んで溜まったものです。このような繰り返しは、堆積という作用の輪廻が起こっているのです。
 タービダイトの多様性は、いろいろな要因がありますが、露頭でみる地層は、ひとつの断面にすぎません。その断面が、混濁流のどの部分にあたるかは、さまざまです。ひとつの混濁流で、中心軸がどこになるのかによって、定点(断面)における堆積物の様相は変わってきます。混濁流の規模によって、断面における砂岩泥岩の厚さや、量比、構造などの違いが生まれます。混濁流は、先に溜まっていた堆積物を削ったり、流れによる堆積構造などをつくることもあります。さらに、堆積後、堆積物が再流動したり、液状化、小規模の褶曲なども形成します。自然は、多様性を生む複雑なメカニズムを用意しています。
 行頭の海岸のタービダイトは、3700万年前に4000mもの深海に堆積したものです。整然とした砂岩泥岩の互層の見られる地域もあります。整然とした互層の中のひとつの砂岩の中を見ると、欄間のような幾何学的模様が見えます。ひとつの地層の中の模様も、追いかけていくと変化します。その変化も、隣の地層のものとは、明らかに違います。似て非なる模様が砂岩ごとに見られます。見飽きない不思議な模様です。
 砂岩の岩脈がみられるところもあります。砂岩の岩脈とは液状化によって砂岩が泥岩層や上の互層を突き抜けていったものです。何層にも及ぶ岩脈となっています。また、見事な漣痕があります。深海でこのような漣痕ができる波があったのかという驚きもあります。激しい褶曲(スランプ)があるとこもあります。その激しさは、地層がどこに連続しているのかを考えあぐねるほどです。生物の這い跡がたくさん見れる地層面もあります。そこには暗い深海底にあった生態系の多様さを感じます。
 タービダイトに刻まれたさまざまな模様に、いろいろな作用、「非日常」の異変、過去の時空間、穏やかさの中の変化などが、読み取ることができます。似ているのに、どこか違う。違っているのに、どこか似ている。タービダイトには、そんな不思議な、類似性と差異があります。
 私は、このような砂岩泥岩の互層をみると、なぜか心が騒ぎます。タービダイトがもつ似て非なるものが、心の琴線を鳴らすためかもしれません。

・訂正とお詫び・
前回のエッセイ「83 日沖:大地の静と動」において
日沖の枕状溶岩を、海嶺で形成された玄武岩として
それらが付加体の中に入りこんだと書いたのですが、
これは間違いでした。
室戸岬にみられる斑レイ岩と同じマグマで、
付加体の中の海溝付近で活動したマグマでした。
現地で、そのように案内を受け、
なおかつ説明も読んでいたのに、
なぜか、勘違いしました。
文章自体は大きな修正とななりませんでしたが、
間違っている部分を修正して
ホームページは更新しました。
メールマガジンで皆様に送ったものは
もう修正できませんので
訂正とお詫びを、ここでお伝えします。
申し訳ありませんでした。

・タービダイト・
タービダイトには
堆積物に対して用いる場合と
流れやメカニズムに対して用いる場合があります。
流れを意味する時、
英語では「tubidity current」が用いられます。
本エッセイでは、タービダイトは地層に
流れには混濁流を用いました。
以前は乱泥流ということばが使われていたのですが、
今では、使わなくなったようです。
私は研究対象として、しばらくタービダイトを
みていくつ予定でいます。

2011年11月15日火曜日

83 日沖:大地の静と動

発行が一日遅れました。お詫びします(言い訳は後で)。
 今回は、高知県室戸市の日沖というちいさな町の小さの漁港でみた枕状溶岩からの話です。小さい岩場なのですが、きれいな産状を残す枕状溶岩から読み取れる、大地の静と動の物語です。付加体やメランジェの説明から解き明かしていきます。

 今回も夏にいった室戸の話です。前回は室戸岬を中心に室戸ジオパークの話題を紹介しました。室戸ジオパークは、いろいろな見所があり、何日でも見て回れます。興味があれば、何度も足を運ぶことができるほど、コンパクトにまとまっています。今回は、室戸岬から6kmほど北にある日沖の紹介をします。私も、日沖には3回みにいきました。
 日沖には、小さな港があり、防波堤が3つの岩場を結んつくられています。その防波堤からは、見事な枕状溶岩がみることができます。非常に生々しいい産状を残しているもので、なかなか見応えがあります。初日は天気が良かったのですが、台風のうねりがまだ残っていて、激しい波が打ち寄せて防波堤の上を歩くことができず海岸から見ました。台風の影響で、ひどく港も破損していました。あと2度は別の日で、波は結構高かったのですが、防波堤からじっくりと見ることができました。やはりその産状は、素晴らしいものでした。
 そんな枕状溶岩を見ながら、由来の不思議さに思いを馳せました。
 室戸岬の周辺の地層は、四万十帯の南帯にあたり、菜生(なばえ)層群が分布しています。菜生層群は、四万十帯ではもっとも新しい中新世の付加体になります。日沖でみた枕状溶岩も、菜生層群に含まれています。
 四万十帯は付加体でできています。付加体でできたものを、地層名をつけて、地層の分類体系で呼ぶことがいいのかどうかは、判断が難しいところです。なぜなら、地層の概念と付加体の概念は大きく異なるものだからです。そのあたりについて、今回は紹介していきましょう。
 付加体については、このエッセイでも何度も紹介しました。付加体では、少々変わった堆積物や地質構造が形成されます。そのため、通常の堆積岩の分類を適用していいものかという問題が生じます。これは、日本の地質構造発達史を考える上でも、地質学の体系化をする上でも重要な課題です。
 堆積物には、通常の堆積作用(河川による侵食、運搬、堆積の作用)でたまったものと、特殊なメカニズム(通常の堆積作用でない)でたまったものがあります。通常の作用でできたものは正常堆積物と呼ばれ、特殊なものは異常堆積物と呼ばれています。
 通常堆積物は、河川沿いや河口、平野、河口付近の海底、湖底などにたまったものです。現在でも、ベンガル湾にはガンジス川から大量の堆積物がたまっていますし、日本列島でも海岸付近の大陸棚には正常堆積物が形成されています。もちろん過去にも同様の堆積物がたくさん形成されました。正常堆積物では、下にある地層は古く、上に重なる地層は新しくなるという「地層累重の法則」が守られています。さらに、ひとつの地層は同時期にできたものですから、地層内から見つかった化石の年代は、その地層全体が形成された年代とみなしていいことになります。
 異常堆積物は、付加体の概念の確立とともに、区別されるようになってきました。付加体の研究においては、日本人研究者が重要な役割を果たしました。また研究の場として、日本の舞台が多く登場しました。それは、日本列島が古くから沈み込み帯に位置していたので、常に付加体が形成される場となっていたからです。日本列島は、時期の違う何列もの付加体の連なりによって形成されたといってもいいほどです。
 付加体とは、海洋プレートが海溝で沈み込む時、その構成岩石を陸側のプレートに付加していく作用によってできたものです。海嶺で形成された玄武岩(その砕屑岩も含む)は、プレートの移動と共に、上に生物の遺骸がたまっていき、やがてチャートができます。海溝が近づくにつれて陸からの泥が加わり、純粋なチャートではなく珪質泥岩ができます。海溝に達すると陸からの砂岩が時々もたらされて、砂岩と泥岩の繰り返しの地層(互層(ごそう)といいます)が形成されます。このような層序は海洋プレート層序とよばれています。それぞれの堆積物の厚さは、移動時間や環境によって大きく変動しますが、岩石構成はいつの時代のどの海洋プレートでも一致しています。
 海洋プレート層序は、海洋地殻の多くが沈み込んでいくなか、一部が剥ぎ取られて陸側プレートに付加していきます。そのとき、もともとの層序は乱され、付加体特有の構造をもつものに再構成されていきます。その一番の特徴は、衝上断層(スラストと呼ばれる)が多数形成されることです。衝上断層とは、低角度の逆断層のことで、圧縮場(プレート同士が衝突したり、沈み込んだりするところ)で地層が短縮されるところに形成される断層です。衝上断層によって、新しい地層群が古い地層の下に付け加わっていきます。これが付加体の一番の特徴といえます。
 沈み込みに伴って、数mから数十mの厚さの地層にほぼ平行な衝上断層が多数形成されます。このような断層帯をデコルマン・ゾーン(decollement zone)と呼びます。衝上断層で挟まれた個々のシートは、下側(海側)に若いものが「底付け」されていきます。底付けはさまざまなサイズで起こり、大規模な繰り返しの構造は、デュープレックス(duplex)と呼ばれます。
 複雑ではありますが、付加体はある一定のメカニズムに基づいた構造をもっているのです。付加体の認定は、構成要素と付加機構の両者によってなされます。実際には、詳細な地質調査による地質構造の解明と、化石による年代決定が必要になります。
 付加体の中では、断層の繰り返しによる地層が整然と並ぶわけではなく、中には激しく乱れた構造になることもあります。その範囲が大規模な場合、メランジェ(混在岩、メランジ、メランジュとも呼ばれる)といいます。メランジェには、泥岩の中(基質と呼ばれる)に、数cmから数kmに及ぶサイズの起源の違っている岩石(異質岩塊、外来岩塊、異地性岩塊などとも呼ばれる)が、含まれています。
 菜生層群は、いくつかのメランジュがあります。北に日沖メランジェ、南に坂本メランジェがあります。その前後には比較的整然とした部分(アセンブレッジと呼ばれることもあります)もあります。アセンブレッジの部分は、砂岩泥岩互層を中心とした堆積岩からできていて、整然とした地層に見えることころもあります。時に大規模な褶曲や、一枚から数枚の地層内での小規模な褶曲(スランプとよびます)などが含まれています。付加体の異常堆積なので、形成年代は地層累重の法則には従いません。下位ほど新しくなります。
 日沖の枕状溶岩は、日沖メランジェの中にあります。ただし異質岩塊ではありません。日沖の溶岩は、室戸岬でみられた斑レイ岩マグマが、海底で噴出したものです。玄武岩が水中で噴出するとき枕状溶岩となります。激しい火山活動であったのに、その産状はあまりに優雅です。人間の大きさと比べれば、枕状溶岩は、非常に大きな岩塊です。こんな大きな岩が、付加体の中で活動したのです。一見整然とした地層、一見見事な枕状溶岩なのですが、付加体の形成される場、沈み込み帯が、激しい変化の場であることを物語っています。メランジェが形成される時には、想像を絶する地震が起こったかもしれません。なのに、枕状溶岩や砂岩泥岩互層がきれいに残っているのです。日沖の枕状溶岩は、大地の静と動を示しているのでしょう。

・賜物・
メランジェの不思議な形態、擾乱、岩石は
その概念を持っていない人、
もちろん地質学者でも、大いに悩んだと思います。
まして、詳しい調査に年代によって
地層累重の法則が破れることを知れば、
混乱はさらに増すことでしょう。
今では付加体やメランジェの概念を持って
露頭を見ることができ、
その解釈に悩むことはありません。
だから、落ち着いて、大地の営みの
激しさ、雄大さに思いを馳せることができるのでしょう。
それも先人達の努力の賜物です。
大地の営みの賜物を
先人の努力の賜物から眺められるので、
不思議から感動が生まれるのでしょう。

・遅れのお詫びと言い訳・
1日遅れての発行となりました。
発行が遅くなったことをお詫び申し上げます。
理由は、論文の〆切と卒業研究の面談による推敲を
やっていた為、時間がとれなかったためです。
論文の〆切が15日でした。
それをなんとか〆切までに手放すことができました。
なかなかまとまった時間がとれないのと
書いていた原稿が長くなりすぎたので、
何割かけったりしました。
いつになく手こずりました。
西予市の地質をまとめた論文で、
パンフレットの原稿の基礎データとなるものでもあります。
手を抜くことができませんでした。
また卒業研究は12月8日に提出です。
9名の卒論を夏から添削を続けています。
今が佳境です。
空き時間に添削が次々に入ってきます。
OKを出したのはまだ3名です。
これからも添削は続きます。
このような状況で、発行が遅れました。
以上、言い訳でした。

2011年10月15日土曜日

82 室戸岬:海溝での邂逅

 室戸で思わぬ邂逅を味わいました。それは私にとっては人との出会いでもあり、付加体にとっては海溝でのマグマと堆積物の出会いでもあります。そんな、邂逅を、室戸岬は演出してくれました。どんな邂逅があったのか紹介しましょう。

 今年9月18日、「室戸ジオパーク」が世界ジオパークへの加盟が認定されました。北海道ではあまり大きなニュースにならなかったのですが、四国や高知県では大きなニュースとなったと思います。長年、室戸市と高知県が努力を積み重ねての朗報なので、関係者の喜びもさぞかし大きかったでしょう。
 9月の中旬、発表の直前の1週間、私は室戸岬周辺の調査に出かけました。そのときの様子を紹介しょうましょう。なかなか面白い出会いがありました。
 このエッセイで何度か紹介してきましたが、昨年度1年間、私は、大学の研究休暇で愛媛県西予市に滞在していました。その間、主だった四国の地質を見学するために、海岸沿いや主だった地質ポイントをひと周りする予定でいました。室戸岬は見所も多いので、1週間ほどの日程が必要になると見越していました。ところが、時間切れで、室戸岬をめぐるコースがすっぽり残ってしまいました。そのリベンジも今回の調査で果たそうと考えていました。
 滞在していた西予市では、市長の決断によってジオパークを目指すことになりました。当時、室戸は日本ジオパークになり、世界ジオパークに向けて邁進していることも刺激になったようです。西予市の友人で私の受け入れ担当のTさんも、市役所でジオパーク担当となりました。Tさんは、四国で先陣を切っている室戸市のジオパークの活動を見ておきたいというので、一緒に行く約束していました。お互いの時間の調整がつかないまま、時間切れとなりました。四国滞在中に室戸岬へは行けずに、私にとっては未踏で、無念さが残る地となりました。
 そこで今回、調査地として室戸岬を選んででかけることにしました。この時期の調査は、いつもは一人で見てまわるのですが、今回はいろいろな人と出会うことになりました。Tさんと現地で落ち合うことにしました。Tさんは1泊2日の予定ですが、初日に合流して同じ宿で過ごすことにしました。半年ぶりの再会となります。また、室戸のジオパークの関係者で高知大学の地質学者のYo先生が、わざわざ現地を案内してくださることになりました。Yo先生は、以前から論文で名前は知っていたのですが、お目にかかるのは初めてでした。いい機会となりました。
 室戸岬は付加体から構成されています。このエッセイでも付加体は何度も取り上げていますが、付加体とは、海溝に沈み込みむプレートによって、海洋の岩石や陸の岩石が、混じり合いながら陸側に付け加わったものです。そのとき、特有の構造を持つようになります。同時期の付加体は、海溝沿い陸側に長く延びて形成されます。付加体は、沈み込み帯で次々と形成さますので、海から離れるほど古い昔できた地質体になってきます。
 日本列島は、形成のほとんどの期間、海溝に面していました。ですから、日本列島の大地の骨格は、いろいろな時代の付加体からできているともみなせます。付加体の形成史を解明することが、日本の大地の生い立ちを探ることになります。また、付加体の解明は、地質学においても重要なテーマとなもなります。日本の地質学者は、地の利を活かし付加体を非常の詳しく調べて、そのメカニズムを解明していました。室戸岬もその舞台となりました。
 室戸岬は、足摺岬とともに南海トラフ(沈み込み帯)に向かって突き出ています。緯度でみると足摺岬のほうが南に位置しますが、南海トラフが東北東-西南西に延びていますから、沈み込み帯からの距離は似たものになっています。室戸岬と足摺岬とともに、付加体の陸地における最前線というべきところです。
 足摺岬はまわりが切り立った断崖になっており、調査が困難です。また、岬の大部分は火成岩からできています。それに対して室戸岬は、付加体がそのまま海岸に出ています。何段かの海岸段丘がありますが、地震による隆起地形や海食台などによって、段差なく海岸線で露出のよい露頭にアプローチできます。
 このような地質学的特徴やアクセシビリティを考えれば、ジオパークにふさわしい条件を持っているともいえます。ただし、ジオパークは地質学的条件だけでなく、他にも満たすべき要件がいろいろあります。室戸岬は、ジオパークになっているため、見るべきポイント(サイト)や説明、パンフレットなど整備さているため、手軽に見て回るには非常にいいところです。コンパクトにまとまった地域で、いろいろな地質現象を海岸の素晴らしい露頭や景色の中でみることができます。
 室戸岬の付加体は、室戸岬は付加体四万十帯に属します。四万十帯は、安芸(あき)構造線とよばれるもので、南北に2分されます。北側の古い付加体を四万十帯北帯、南側の新しいものを四万十帯南帯と区分しています。北帯は、おもに白亜紀の付加体(新荘川層群と安芸層群とよばれる地層とメランジェ)、南帯はおもに第三紀の付加体からできています。
 室戸半島のある南帯は、室戸半島層群と菜生(ほうらい)層群とよばれる地層からできています。室戸半島層群は礫岩から凝灰岩、砂岩、泥岩など変化にとむ地層で、メランジュもあります。それに比べて、奈半利川層は砂岩に富む砂岩と泥岩繰り返し(互層(ごそう)といいます)の単調な地層です。単調な地層ではあるのですが、一枚か数枚の地層内での激しい褶曲(スランプ褶曲と呼ばれている)が、多数見られます。スランプ褶曲による地層の異形が、室戸岬の重要な特徴でもあり、見応えのある景観をかもしだしています。
 菜生層群の中の地層(日沖複合層)には、きれいな枕状構造を残した玄武岩や水中自破砕(ハイアロクラスタイトと総称されます)火山角礫岩があります。このような玄武岩類は、緑色をしていることから緑色岩とも呼ばれ、付加体ではよく見られるのです。海洋プレート側の岩石が陸側に付加するときに、付加体の堆積物に紛れ込んだものです。
 室戸岬周辺にはスランプ、タービダイト、オリストリス、メランジェなど特徴的な地質現象の見所が多数あります。調査ではいろいろ見学しましたが、今回は少々マイナーな斑レイ岩を紹介しましょう。
 室戸岬には、斑レイ岩があります。化学組成は海嶺で形成される玄武岩(中央海嶺玄武岩、MORBと呼ばれています)に似ていますが、地質関係がそれでは説明できないものだったのです。
 付加体には上で述べたように海洋プレートの破片が入り込むことは、ごく当たり前に起こっています。ところがこの斑レイ岩は、まわりの地層(前期中新世の津呂層)に貫入している貫入岩であることがわかりました。
 付加体の中に見られる火成岩類は、マグマからできているのですが、冷え固まった岩石として混入しますから、まわりの付加体とは貫入関係はできません。このような岩石の起源を「異地性」と呼び、その固まりを「オリストリス(異地性岩塊)」といいます。ところが、室戸岬の斑レイ岩は、熱いマグマとして地層に入り込んでいます。熱いマグマが入ってくると熱の影響(接触変成作用といいます)をまわりの堆積岩に与えています。まわりの堆積岩は、熱を受けて変成岩(フォルンフェルスと呼ばれる)になっています。一部では、溶けているところすらあります。つまり、熱いマグマが地層に入ってきたのです。これこそマグマの貫入の様子です。
 さらに、斑レイ岩から派生した火成岩(グラノファイヤーと呼ばれる岩石)の形成年代は、1440万年前(中期中新世)で、斑レイ岩もほぼ同じ年代にできたと考えられます。この年代は、まわりの地層の年代(前期中新世)とは明らかに違っています。マグマに残された磁気(古地磁気といいます)の研究から、地層に水平に貫入したこともわかってきました。
 以上のことから室戸岬の斑レイ岩は、付加体が形成された後、あるいは形成している場の中で火成活動があったことを示しています。その場所は海溝付近です。それは、特異な火成活動(near-trench magmatismと呼ばれています)を意味します。
 従来のプレートテクトニクスの考え方では、なかなか位置づけられない(説明できない)火成作用となります。なぜかというと、沈み込み帯での火成作用の起こる場所は、海溝から一定の距離をおいたところです。現在の列島(島弧と呼ばれています)では、火山のできる場所は、列をなしており、火山前線と呼ばれています。島弧の火山のメカニズムは、ほぼ解明されてきました。ところが、室戸岬の斑レイ岩は、火山前線よりずっと前に位置します。そこは温度も低く「火のないところ」でもあります。そんな冷たい場所で、マグマができているのです。不思議です。
 実は、足摺岬にも潮岬にも、そのような不思議な火成岩類があります。これらの火成岩は、今後プレートテクトニクスをより深く理解するためにも、重要な役割をはたすことでしょう。
 私は、8日間の滞在のうち、徳島や安芸の周辺も調査していたので、室戸岬周辺には4日間滞在しました。毎日室戸岬にいはいって調査しました。暑い日が続きましたが、最終日以外は天気に恵まれ、日程を無駄にすることなく、調査を終えることができました。じっくり見るにたえる見所が、室戸岬にはいっぱいあります。アプローチもよく、コンパクトにまとまっていて、ジオパークとして解説や施設も整っています。チャンスがあれば、不思議なマグマとの邂逅を楽しまれてはいかがでしょうか。

・奇遇・
室戸をめぐっているとき、
道の駅があり、その横にジオパークを紹介する施設がありました。
朝早くから動いていたので、
一休みをかねて、開館時間をまって見学しました。
関係者のYuさんがおられ、
展示を丁寧に解説して頂きました。
Yuさんといろいろと話しながら
世間話なると、出身地や経歴の話になりました。
すると、Yuさんは、私が現在いる大学で、
前の所属学部で非常勤講師をされていたことがわかりました。
お互いに面識はなかったのですが、奇遇に驚きました。
また、Yo先生に室戸岬を案内いただいたあと、
室戸岬のジオパークの事務所に
先生と一緒に顔を出したとき、
再びYuさんがおられお目にかかりました。
再度の邂逅でした。
室戸が世界ジオパークになって本当によかったです。
そんな知りあった人の喜ぶ顔が浮かびます。

・思い残した地・
愛媛県八幡浜市に大島ということろがあります。
そこも地質的に面白いところなので、
Tさんと一緒に行こうという約束をしていました。
これもやはり叶いませんでした。
また、3、4日の日程で香川県小豆島(しょうどしま)にも
行こうと思っていたのですが、行けませんでした。
1年も滞在していたのに、
行けずに思い残した地がいくつもあります。
私の気持ちには終わりがありません。
そのうち、行こうと思っています。

2011年9月15日木曜日

81 歴舟川:一攫千金

 十勝平野の主たる河川は十勝川です。平野の南に歴舟川という目立たない川があります。しかし、歴舟川は、昔、多くの人が夢を追いかけた川です。そしてその夢は今も継続しています。そんな夢を私も見に出かけました。

 歴舟(れきふね)川は、十勝平野の南側を沿うように流れています。大樹町は、町域のほとんどが、歴舟川の流域にある街です。流域面積は、558.5平方㎞です。歴舟川は、短い川(全長64.7km)で、二級河川です。歴舟川の名前は、アイヌ語のペ・ルプネイに由来しているという説があります。「ペ・ルプネイ」とは、「水が大きくなる川」ということで、「嵐や西南の風が吹く時は、急に出水する」という意味だそうです。
 源流は、北はヤオロマップ岳からペテガリ岳を経て、神威岳、豊似岳へと続く、日高山脈の南部の主峰に端を発します。上流部は日高山脈・襟裳国定公園になっています。短いながらも水量豊かな清流です。
 清流とは、清い水のことですが、水質で清らかさを示すことがあります。環境省は毎年、全国の河川や湖沼の水質測定結果を公表しています。全国の3335の水域(内訳は河川2561、湖沼184、海域590)を対象として、検査しています。河川は生物化学的酸素要求量(BOD)を、湖沼では化学的酸素要求量(COD)を基準に調査しています。環境省の調査で、歴舟川は水質の良さで、全国で一番に7回輝いています。歴舟川は、河川全体で、1リットル当たりBODが0.5mg以下という清流です。
 そんな清流、歴舟川に今年の夏、家族でいきました。目的は砂金探しでした。歴舟川は、実は今でも砂金の堀りが体験できるところとして有名です。以前も、歴舟川き来たことがあるのですが、下流で砂を採取しただけで、通り過ぎてしまいました。今回は、家族で砂金堀りしてみたいと、砂金堀り用の皿(パンニング・パン)も用意してでかけました。小学校5年生の次男は、「一攫千金」という言葉を何度も口にして、楽しみにしてました。
 午後を砂金掘りにあてていたのですが、午後から小雨が降り出しました。まあ、行くだけは行こうということになり、情報集めも兼ねて、道の駅「コスモール大樹」にいきました。「雨だから砂金が堀りができるでしょうかね」といわれました。採取できる場所を聞いて、とりあえず出かけました。その場所は、道の駅からは10kmほど上流にさかのぼります。
 歴舟川中流にあるカムイコタンキャンプ場にたどり着きました。途中前も見えないような激しい雨になりました。たどり着いたときは少し小降りになりましたが、まだ雨は降っています。河原にはキャンプしている家族、カヌーなどで川遊びしている家族などがいましたが、雨やどりをしたり、カヌーは雨の中を出かける準備をしていました。
 広い河原でした。「こんなとこでは、砂金は取れないだろうな」と思ってたのですが、キャンプ場の上流をみると怪しい一群がいました。彼らは、かなり大規模に川底を掘っています。たぶんそれが、砂金堀の現場だと思って、小雨の中、家族と共に行きました。
 年配のいかにも砂金を掘っているぞという感じの年配の方が3名、その人達に指導しているもらっている家族が2グループいました。参加するために、道の駅の人に聞いてここにきたこと、私たちも砂金堀がしたいこと、道具は持ってきたこと、などを説明しました。
 そのグループは、専門家を頼んで砂金掘りの体験を申し込んだ人たちと、それを指導する人たちでした。その体験は、有料でおこなわれているものです。ですから、私たちのような飛び込みのものは、参加できそうもありません。
 まあ、せっかく来たのですから、年配の方に挨拶をしたら、「自由にとっていいですよ」といってくださいました。「初めての人は、見てやり方を真似しなさい」ということなので、真似をしていました。でも、「カッチャ(砂れきをすくうスコップ)がないと難しいよ」と、いわれましたが、体験ですから、やってみました。家族で見よう見まねでしばらくやっていると、長男がそれらしきものを見つけました。おじいさんたちに聞くと、「砂金だ。そんなところでよく見つけたね」と褒めてもらっていました。最初の砂金を、持参したビニール袋にいれました。
 長男が本当に砂金を見つけたので、次男はライバル心をむき出し、家内もヤル気なりました。私は、時々、おじいさんたちに、話をしに行きました。やがて、自慢気に以前とった砂金を見せてくれました。かなり大きなものもあるようです。すべて、歴舟川でとったそうです。
 何度か話をしていると、おじいさんが今掘っているところをカッチャを貸してやるから泥をすくっていいと言ってくれました。砂金掘りの体験の人たちも、すでに砂金を結構とっているためでしょう、黙認してれくるようです。
 何度か泥をもらい、洗っていくと、家族でそれぞれが数粒の砂金を見つけることができました。その後も、砂金を入れる入れ物や、そこへの入れ方など、いろいろ教わりました。すべて、体験に裏打ちされたノウハウでした。雨にぐっしょりになりながらも、家族全員満足しました。
 さて、大樹町の砂金ですが、じつは古くからその存在は知られ採取されていました。1635(寛永12)年から海岸付近で採取されていたといわれています。寛永といえば、江戸時代の初期です。その頃から、北海道、蝦夷(えぞ)の地で、砂金が見つかっていました。
 明治時代になると、採掘が本格化してきます。次男ではありませんが、一攫千金を目指して、全国から砂金を掘りに人が集まりました。ゴールドラッシュが起こりました。周辺の海岸や川で砂金堀りが盛んにおこなわれ、多い時には1日で100gもとれる日が何日も続いたということです。
 金の相場は、変動が激しいものです。グラム当たりの価格は安い時では1000円、現在急騰中の高い時には5000円ほどになります。当時としても、かなりの現金収入になったのでしょう。まさに一攫千金の夢だったのでしょう。
 最盛期は明治30年から大正にかけてまで、歴舟川には、100人近くの掘り師がいたようです。専門の掘り師は、1971(昭和46)年を最後にいなくなったそうです。愛好家によって、歴舟川では、今も砂金掘りがおこなわています。砂金の指導者のおじいさんたちは、そんな愛好だったのでしょう。しかし、素人が2、3時間パンニングをするだけで、それなりに採れるということは、やはり砂金が豊富にあるのでしょう。
 江戸時代に見つかった海岸の砂金は、もともとは歴舟川から流された砂金が海岸で洗われてたまったものです。それほど歴舟川には、砂金が多かったのでしょう。歴舟川の源流の山並みは、日高変成岩類や深成岩類などです。その構成物には花崗岩類があり、金が含まれることがあります。
 毎年、雪解け水や洪水など、少しは流れてくるでしょうが、その量は微々たるものでしょう。しかし、長い期間をかけて、河川の侵食、運搬、堆積作用によって、砂金として蓄積したものです。砂金も掘りつくしてしまえば、やがては限りある資源と同じようになくなるのでしょう。しかし、専門の掘り師がなきあとなら、市民が楽しむ程度には流され、蓄積されていくのでしょう。
 砂金探しは、かつては一攫千金の夢を見させてくれるものでした。この夢は、昔、この地で砂金を掘った人達の夢でもあったのですが、今では、子供も楽しめる夢となっています。機会があれば、また砂金堀りにいきたいものです。一攫千金を夢見て。

・弥永金博物館・
札幌の北海道大学の近くに弥永(やなが)博物館があります。
館長の弥永芳子さんは、古銭の収集から、
道内の砂金採取の歴史なども研究され、
著書「北海道の砂金と砂白金」もあります。
そして砂金も実際に集められています。
以前見学に行ったのですが、
なかなか見ごたえのある資料がいろいろありました。
私設の博物館ですが、砂金や金に興味がある方は
一見の価値はあります。

・パンニング・パン・
以前カナダに行った時、
山師たちが使う砂金用の皿(パンニング・パン)を
購入したことがありました。
重鉱物を採取するつもりで購入したものですが、
ほとんど使うことなく、
以前所属していた博物館に寄付してきました。
3年ほど前、博物館の友人と北海道を調査した時、
博物館では今、砂金を集めているとのことで、
夕張川でパンニングをしたら、あっさりと見つかりました。
私もやってみたのですが、ダメでしたが。
私も、砂金に興味が出てきたのでパンだけは、
家族分購入していました。
この夏まで行く機会がなく、
使ったこともありませんでした。
パンは四国にも持っていったのですが、
一度も使うことはありませんでした。
ですから、今年の夏、やっと使りました。
なかなか良い成果をあげることができました。
専門家がいる近くで、専門家の力を借りながら
やったおかげでしょう。
いい経験をしました。

2011年8月15日月曜日

80 蓬莱山:切り離された記憶

 新ひだか町三石(みついし)には、蓬莱山(ほうらいさん)と呼ばれる小さな切り立った山があります。その姿は威容ではあるのですが、周りを圧倒するようなことはなく、ただ佇(たたず)んでいるようにみえます。そんな佇む姿は、周囲から切り離され孤立しているためなのかもしれません。

 先日、夏休みをとって2泊3日の家族旅行をしました。家族はどこといっていきたいところはなく、子供たちは水辺で遊ぶことを希望しています。日数もあまりないので、このエッセイの題材になりそうな地域へ行くことにしました。
 日高の海岸沿いに襟裳岬までいき、黄金道路を北上して、十勝平野に行き、もどるというコースです。宿泊施設も、以前から何度か泊まっているお気に入りところです。
 さて、今回紹介するのは、三石(新ひだか町三石)の蓬莱山(ほうらいさん)です。私は、ここにくるのは3度目で、家族で来るのも2度目となります。でも、子供たちはほとんど覚えていないようです。
 蓬莱山は、山と川の間の河原にポツリと突き出た地形をしています。三石川を河口から遡ると、目立った地形なので、その存在はすぐにわかります。目立ちはするのですが、周りを威圧するような姿ではなく、ただひっそりと佇むようにあります。
 蓬莱山の対岸(右岸)にも少し切り立った崖があります。蓬莱山とその対岸の切り立った崖自体は目立ちますが、周囲の山はなだらかなので、余計に蓬莱山などの険しさが目立つようです。その険しさは、神秘的にも感じられます。昔の人もそれを感じていたのでしょうか、蓬莱山の麓には小さな祠が祀られています。北海道の文化財にも指定されています。
 私が蓬莱山で石を見ている間、家族は川で水遊びをしていました。本当なら磯で遊びたかったのですが、台風の影響で波が高く、満潮の時間でもあったのでかなり危なそうに見えたので、川で遊ぶことにしました。天気が続いていたので、三石川の水は澄んでいて、川遊びをするのに絶好でした。幸い天気にも恵まれ、子供たちは2時間ほど心置きなく水遊びをしました。
 7月には、蓬莱山から対岸まで大きな注連縄(しめなわ)が渡され、祭りを催されます。残念ながら祭りの時期に行ったことはありませんが、以前、注連縄が飾られているのは、見たことがあります。
 蓬莱山と山並の間には、切れ込みがあり、JR日高本線と道道が通っています。JRが海岸から離れて、内陸に大きく迂回しているところです。蓬莱山と山との間の狭いところを道路も線路も通っていることになります。
 線路脇には崩れた露頭が見えます。線路越しに見ると、露頭には蛇紋岩が崩れているのが見えます。
 この蛇紋岩は、神居古潭帯と呼ばれる地質帯に属しています。神居古潭帯は、蛇紋岩と共に高圧の変成作用を受けた変成岩からできています。蛇紋岩は、もともとはマントルを構成していたカンラン岩ですが、変質作用で水をたくさん含んで蛇紋岩になっています。
 蛇紋岩は、カンラン岩が変わったものですが、性質はかなり違っています。蛇紋岩は、割れ目が多く、割れ目ですべりやすく、すぐに崩れてしまいます。水が加わると、さらに滑りやすくなっていきます。ですから、蛇紋岩の露頭は、侵食されて崩れ、削られていきます。蛇紋岩があって侵食され窪地になったところを、道路と線路が通っているようです。
 蓬莱山や線路より奥に続く山並み(軍艦山)、対岸の山(写万部山)は、神居古潭帯の高圧変成岩が分布しているところです。蛇紋岩に比べて高圧変成岩のあるところは、険しい山となっています。蓬莱山や対岸の崖は、角閃岩と呼ばれている縞状構造をもった高圧変成岩からできています。
 角閃岩とは、角閃岩相(主に角閃石が形成されます)の変成作用を受けた変成岩で、原岩は幾種類かの岩石からなり、変成作用で縞状構造あるいは片麻状構造をもつようになっています。高圧変成岩とは、温度はそれほど高くなく、圧力が高い条件をいいます。それは、海洋プレートの沈み込み帯(海溝のあるところ)の深部で起こる変成作用です。神居古潭帯は、昔の海洋プレートの沈み込み帯の存在を示しています。日本列島、あるいは北海道の大地の生い立ちを知る上で、重要な情報をもたらします。
 神居古潭帯は、三石から北へ、沙流川流域、夕張岳、神威古潭峡谷、幌加内、猿払などに断続的に分布しています。さらに北への延長は、サハリンまで続いています。三石の軍艦山より南方で、蛇紋岩の分布は途切れてしまいます。神居古潭帯は、海に入り込んでいます。
 この付近には断層帯があり、断層に沿って蓬莱山が押し出され、蓬莱山地塁帯ができたとされていますが、なんといっても蛇紋岩と高圧変成岩の硬さの違いが重要です。蛇紋岩は簡単に侵食されますが、高圧変成岩はなかなか侵食されません。三石川に浸食されずに残ったもの(残丘と呼ばれます)が蓬莱山となったのでしょう。
 蛇紋岩は、地表に露出すると比較的短い期間で侵食されてしまうため、露頭が地表にはなくても地下に蛇紋岩があることもよくあります。土木工事をすると、地下にあった蛇紋岩が露出するようになります。蛇紋岩は、滑りやすい岩石で、水が加わると膨張し崩れていくという性質があるので、土木工事では非常に嫌われものになっています。
 蓬莱山以外にも、いくつか高圧変成帯の岩石がこの地域にはでており、露頭がなくても周辺に蛇紋岩が潜在していること感じさせます。神居古潭帯の蛇紋岩は、土木工事では厄介ものです。しかし、深部で形成された高圧変成岩を、持ち上げてくる作用をしていることにもなります。この作用は地質学者にとっては、深部の岩石、大地の生い立ち知る上で重要な情報をもたらします。
 我が家の子供達が水遊びをしていると、川に来られた家族連れがおられました。声をかけると、北海道は旧暦で七夕をするので、七夕(たなばた)飾りを川に流しに来られたとのことです。この河原なら遠くまで笹飾りが流れていくからと、わざわざここまで来られてようです。都会の川ならゴミになるかとか言われそうですが、ここでは、昔からおこなっている風習のほうが優先します。そして三石川にはそんな風習をきれいにしてしまう浄化力がまだ残っています。遊んでいた河原の淵には、大きなニジマスがいたということです。何度もここに親子で釣りをしにきていると話されていました。
 霊を安置して、幡(笹飾り)をするのが7日の夕方なので、「七夕」というようなったそうです。七夕は、もともとお盆行事の一環だったようなので、お盆は旧暦で行われるのですから、七夕も旧暦でするべきでしょう。それが、いつの間にかお盆と七夕、旧暦と新暦が切り離され、祭りや儀式のみが残っています。まるで蛇紋岩が侵食され、高圧変成岩だけが残っているように。佇む蓬莱山のように。

・七夕・
北海道では旧暦で七夕をします。
七夕の夜に、子供たちが
「出せ、出せ、ローソク出せ、出さねば、かっちゃくぞ」
と掛け声を出し、家々をまわります。
「かっちゃく」とは北海道弁で「ひっかく」という意味です。
声をかけ、お菓子などをもらうという風習があります。
我が地区でも数年前からこの行事が復活して、
子供たちが、夜、家々を巡りっています。
地区が大きいので、あらかじめルートを決め、
家を決めて回ることになります。
現代的な対処でしょう。
でも、このような伝統行事があることは
重要なことだと思います。
その重要性を四国に滞在して強く感じました。
子供たちがその風習に参加して、
地域のコミュニティに属していることを
肌で感じることが必要です。

・砂金探し・
三石川で砂金探しをしてみましたが、
予想どうり、砂金は見つかりませんでした。
場所が悪すぎました。
砂金は場所さえよければ、見つかるはずです。
砂金探しにもコツがあるので、
見つけるのはなかなか大変です。
歴舟川で砂金堀体験をしましたが、
それは別の機会にしましょう。

2011年7月15日金曜日

79 静内:秘境にかえる

 今回は私にとっての古戦場である静内川です。上流の高見ダムが卒業論文の調査地でありました。しかし、かつて高見あたりは、秘境と呼ぶべき奥地でした。そして、ダムができて30年ほどたった現在、再び秘境の地になりました。そんな秘境に河口から思いを馳せました。

 先日、教育実習の指導のため、静内へでかけました。実習指導は、受け入れ小学校があるので、失礼のないように、目的地には早めつくようにしています。約束の時までは、近所で時間を潰すことにしています。今回は、9時前後に訪問すればよかったのですが、8時頃に静内に到着しました。時間を潰すのは苦ではなく儲けものと思うことにしています。静かな自然のあるようなところを探して、ボケーっとすることにしています。
 静内は噴火湾に面した静内川の氾濫原に街があります。街の南側に、静内川があり、西側の海へ注いでいます。静内川河口の左岸には公園があり、のんびりと時間を過ごしました。朝の散歩をされているおじさんと、静内川について話しをしました。上流のことについても話しが及び、私にとっては懐かしく思い出されました。
 静内川の上流は、私が卒業論文のための野外調査をした思い出の地でもあります。思い出の地への再訪については、別のエッセイ(EarthEssay 4_65 古戦場の静内川へ 2005.10.20)で、書いたことがあります。6年前のことでした。思い出の卒論の調査地に行こうとしたのですが、下流側の静内ダムで通行止で入れませんでした。
 私の調査地は、上流側の高見ダム周辺とさらに上流でした。今回は、上流にいく時間がなかったので、思いを馳せるだけです。
 静内川の上流域は人跡も少ないところで、かつては川を遡上していく道はありませんでした。高見地区という集落があったのですが、南の三石の元浦川から、林道を通ってしか入ることができない秘境というべきところでした。
 私が卒業研究で調査に入ったのは、1979年の夏でした。高見ダムの工事の真っ最中でした。1978年から工事がはじまり、1983年7月30日にダムは完成しました。当時は「奥高見ダム」という名称でしたが、現在は高見ダムとなっています。「奥高見ダム」という名称は、高見という地区よりさら上流にあたるために、つけられた名称です。しかし、後に只見川にある「奥只見ダム」と混乱を避けるために、「高見ダム」に変更されたようです。
 私が入った頃には、ダム工事が本格化していましたので、静内川沿いに立派な道ができていました。道路は舗装こそされていませんでしたが、立派な道路がありました。ダムサイトは、2車線もある立派な道でした。ダンプや大型作業車がいっぱい走ってホコリを舞い上げていました。ホコリがたたないように、一日に何度も散水車が往復していましたが。
 ダムサイトにいる限り、多くの人がいて、作業車も動き回っているので、人里はなれたところにいる気配はしませんでした。売店もあり、簡易郵便局もガソリンスタンドもあり、ちょっとした村並でした。ただ、一歩奥まったところにいくと、そこには手付かずの自然が残されていました。私は、原付バイクで沢沿いを調査をしていました。そんな沢では、野生も身近にありました。エゾシカはもちろん、エゾクロテンやヒグマなどとの遭遇もありました。
 ダム現場から静内の街まで用事で往復するためには、原付バイクでは半日仕事になり、奥地にいることを実感させられました。そんな奥高見のダムの作業飯場に3ヶ月泊めていただき、調査をしました。
 このエッセイを書くために、当時の私の卒業論文「静内川中流域、高見周辺の緑色岩類について」を読み返しました。手書きで書かれた卒論は、本論が102ページ、付録として「オフィオライト問題について」が31ページありました。読み返すまで、細かい内容は殆ど覚えていませんでした。しかし読み返していくと、作成当時の苦労や、それなりの達成感など、いろいろ思い出しました。そして、この卒論の野外調査は、私が地質学の道を目指すきっかけとなったものでもあります。
 静内川の高見ダム周辺には、オフィオライトと呼ばれる岩石がでます。当時は海洋地殻を構成していた玄武岩は、変成作用を受けて、緑色になっていることが多く、緑色岩類というフィールドネームが、そのまま論文でも使用されていました。
 卒業研究の少し前までは、変成作用のせいではなく、緑色岩(スピライト、spirite)や輝緑岩(diabase)、ケラトファイア(keratophyre)と呼ばれる岩石を形成したマグマが存在していたと信じられていました。今では、スピライトは変成作用を受けた玄武岩で、輝緑岩はゆっくりと冷えて粗粒になった玄武岩(ドレライトとも呼ばれます)、ケラトファイアは変成作用を受けた酸性火山岩類であるとされています。私が卒論を書く頃には、そのモデルがやっと浸透する時期でもありました。
 そのころ、もう一つ重要な話題がありました。卒論の付録にあったオフィオライトに関する成因についてでした。スピライト問題は過去の間違いを正す議論でしたが、オフィオライト問題とは、未来に向かった議論でした。
 オフィオライトとは、海洋底を構成する岩石(海洋プレート側の岩石)で、プレートテクトニクスの作用で陸地の中(大陸プレート)に取り込まれたものです。ただし、この考えは当時広まってきた見解で、スピライト問題の反省から、すべてのオフィオライトは海洋地殻の断片であるという考えに先進的な研究者が囚われていました。ですから、オフィオライトをみれば、充分な検討もなされず、すべて海洋地殻起源と短絡的に考えられていました。
 オフィオライトの典型的な分布地としてキプロス島のトルードス・オフィオライトがありました、その起源について論争が繰り広げられました。すべてのオフィオライトは海洋底でできるという考えに異論が唱えられたのです。
 異を唱えた研究者、それは故都城秋穂さんでした。都城さんは、化学組成に基づいて、マグマの起源(形成場)を考えていこうとしました。化学分析値、現在の列島のマグマや海洋底のマグマなどのデータを集めて、形成場の違いによってマグマの組成が同変化するかをグラフとして示しました。非常に客観性のある分かりやすい姿勢でした。都城さんの論文は数々の議論を呼び、都城さん自身も何度も反論を受けて立たれました。その一連の議論をまとめたものが、卒論の付録でした。議論の結末は、現在では、都城さんに軍配が上がったと考えられています。
 この議論以降、化学組成に基づいてグラフにプロットして形成場を考えるという手法が、通常の手法として、広く使われるようになりました。さまざまな化学組成によって、いろいろなグラフが提案されています。
 当時の私がいた大学では、緑色岩が玄武岩マグマに由来するものとか、海洋地殻の構成岩石であるということも認めていない先生もおられました。私は、それらの説を覆すために、深海底でできた証拠、玄武岩マグマに由来すること、海洋の玄武岩に似ている証拠などをいろいろ探しました。卒論当時、化学分析をすることはできかなったので、決定的証拠を出すことはできませんでした。今では、当たり前に化学分析をして、簡単に決着を見ることができるのでしょうが、当時はそれもできませんでした。隔世の感があります。
 ダム工事も終わり、立派な道路があったのですが、高見ダムは、現在、再び秘境の地になりました。というもの、静内ダムより上流への道は通行止めとなっているためです。2003年に発生した十勝沖地震で、道路ががけ崩れで破損したそうですが、復旧されていないためといわれています。しかし、ダムの保守の人はどうしているのでしょうか。人事ながら心配です。河口から上流の秘境に思いを至らせる旅でした。

・ペテガリ岳・
静内川の上流には、
ペテガリ岳という山があります。
その山自体も上り下りが激しく
途中の眺望もあまりよくなく、
過酷な登山になります。
私も卒業研究のとき、
一日ペテガリ岳への登山をしました。
大変疲れましたが、
無事登頂をして帰ってきました。
ところが、今では、非常のアプローチの長い
川の渡渉が必要な難しいルートになっているようです。
私が調査していたことには、
ペテガリ山荘という無人の山小屋があり、
そこまで車で入ることができました。
山荘からペテガリ岳へは日帰りできるルートでした。
地質の巡検でも、ペテガリ山荘をベースにして、
地質学者を何度か案内したこともありました。
でも、今ではそれもできなくなりました。
非常に素晴らしい景観の秘境を手軽に楽しむことができました。
それも遠い過去の事になりました。

・夏休みの計画・
7月も半ば、夏休みの計画は立てられたでしょうか。
我が家の夏休みの旅行はできそうもありません。
私の大学の仕事が8月第1週まで定期試験があります。
その後、採点と評価があります。
でも提出はお盆明けですので時間は取れそうです。
ところが、長男がクラブあり、
さらに10日には日韓試合の観戦をするので、
お盆前には出かけられそうにありません。
お盆明けは、学校にが始まります。
お盆に動く気がしません。
さあ、どうしたものでしょう。
近くの川か海の穴場にでも、
ゲリラ的に日帰りで出かけましょうか。

2011年6月15日水曜日

78 黄金岬:暑寒別を眺めながら

 留萌の黄金岬には、玄武岩の柱状節理がみられる磯があります。6月に留萌にいったとき、少し時間があったので、黄金岬に立ち寄りました。晴れた朝の海岸からは、暑寒別の山並みきれいに見え、短いながらも、大地の歴史に思いを馳せることができました。

 残念なことですが、3月末に四国から北海道に戻ってきてから、野外調査には一度も出ていません。仕事の関係で、仕方がないことなのかもしれませんが、地質学に興味をもっている者にとっては、非常に欲求不満が溜まっていきます。少しの時間を見ては、石をみるように心がけています。
 6月上旬に、日帰りの出張で留萌へ出かけたとき、現地に早く着きすぎたので、留萌を少し見て回ることにしました。そこで出かけたのは、留萌の町外れにある黄金岬でした。黄金岬には以前にも来たことがあるのですが、今回は、短時間の寄り道となりました。
 訪れたときは、風の強い日でしたが、晴れの空気の澄んだ朝でした。海岸から沖を見ると、暑寒別の山並みが良く見えました。暑寒別は、暑寒別岳(1491m)を主峰とする山塊が、海岸までせり出していて、峰々にはまだ雪が残っていました。くっきりと見えたので、2時間ほどのドライブの疲れを癒してくれました。暑寒別一帯の山塊は、火山からできています。裾野の海岸線にある露頭では、マグマがつくった構造や、マグマが海に入ったときできる構造などが見ることができます。
 黄金岬の岩石も、実はマグマがつくったものです。柱状節理(せつり)の発達した溶岩が露出しています。マグマが固まるときに、体積が少し減ります。すると溶岩は縮むことになり、割れ目がいくつも形成されます。このような割れ目を節理と呼んでいます。節理は、溶岩のかたちや冷え方によって、さまざまな形状のものができます。溶岩が固まるときにできる割れ目が柱のようになっているものを柱状節理、放射状になっている放射状節理などと呼ばれるものができます。黄金岬では、柱状節理の発達している溶岩が見られます。
 黄金岬の岩石は、だいぶ風化が進んでいるので、かなり長く風雪や海食にさらされてきたものと思われます。留萌港の建材としても利用されてきたようで、かなり人手が入っていますので、浸食の激しい場所なのでしょう。それでも、このような節理が残っているのは、深くそして陸地の奥まで分布しているのでしょう。切り立った尖った岩場ではないので、磯遊びをするのには、なかなかよさそうなところです。
 ただ、黄金岬の玄武岩は、少々気になるところがあります。それは、今手にしているデータからは、どうもしっくりこないことがあるからです。
 暑寒別の火山は、安山岩マグマの活動を主としています。新第三紀鮮新世から中期更新世(第四紀)にかけての活動だと考えられています。年代測定では、207万~317万年前の年代が得られています。暑寒別の火山と留萌の玄武岩の間は別の地層が分布していて不明です。地層としては、深川層群留萌層(鮮新世)が分布しています。珪藻土を含んでいます。珪藻土とは、珪藻が集まってできたもので、日本海沿いによく見られる堆積物です。火山岩の関係を、私はよく知らないのですが、もしかすると一連の活動なのかもしれません。ただ、マグマの性質が少し違うのが気になりますが。
 鮮新世の時代には、暑寒別から東に向かって、イルケップ山(250万年前)、米飯(べいぱん)山(350万年前)、丸山、旧期然別(しかりべつ)火山(然別湖の西に分布するもの)が点々と連続して分布しています。いずれの火山も、マグマは安山岩質のものです。なぜ、このような東西の火山の並びになっているのでしょうか。現在のプレート配置からしても少々奇異な気がします。その理由は、まだよくわかっていないようです。
 留萌の黄金岬の溶岩は、活動した時期は400万年前(鮮新世)と看板にありました。どれくらい正確な表記なのかわかりませんが、400万年前も鮮新世ですから、暑寒別の火山活動に時期になるのでしょうか。
 また、黄金岬は、鮮新世の火山列より少し北にずれています。分布が暑寒別の火山から途切れているのも、少々気になります。まあ、これくらは、地質現象だから誤差範囲と考えてもいいのでしょうか。
 さらに、マグマの組成が少々違います。留萌の黄金岬の溶岩は、カンラン石玄武岩(結晶が粗粒なのでドレライトとも呼ばれます)で、暑寒別から然別までの火山は安山岩を主としています。大きな火山の活動では、マグマに多様性があるので、これくらいの組成差は起こりうることであったのかもしれません。
 時代、分布、組成といずれも気になるのところですが、私の疑問は、まだ解決できていません。この黄金岬の玄武岩について資料をいくつかあたったのですが、詳しいものが見つかっていません。なにせ我が大学では、地質学の文献はほとんどありませんので、文献を探すのに手間がかかります。もう少し探せば詳しい文献が見つかるかもしれません。その時は、改めて紹介することができるでしょう。
 留萌周辺では、海岸段丘の面がいくつか見られますが、段丘面から海岸へは段差があります。海岸の柱状節理は、海食台のように平らになっています。黄金岬は、日本海に向かって西に突き出ています。黄金岬から見る夕陽は、「日本の夕陽百選」にも認定されていて、夕日がきれいに見えるようです。かつては、岬は、ニシンの群れが夕陽を反射しながら、黄金色に輝いて岸に来たそうです。それにちなんで「黄金岬」と呼ばれるようになったそうです。
 今ではニシンはほとんど獲れなくなりましたが、そんな日がいつか再び来るでのしょうか。黄金岬の玄武岩の節理には、そんな人の歴史も刻まれているのかもしれません。

・大学祭・
北海道も暖かくなってきました。
もう朝でも、ヤッケも要らなくなりました。
日中では、天気さえよければ、
半袖でも過ごせるようになってきました。
朝夕は、まだ涼しい日がありますが、
いい季節となりました、
小学校の運動会シーズンも終わり、
これからは、大学祭のシーズンが始まります。
もう早々と大学祭が終わったところもありますが、
これからのところもあります。
子供が小さいうちは、他大学の大学祭にも参加しています。
今年もまだ参加できそうです。

・暗い将来・
最近、野外調査に出ていません。
夏休みには少し出かける予定ですが、
しばらくは、ストックを漁って
このエッセイを書き綴ることになります。
行きたいところは山ほどありますが、
時間と費用がありません。
それが苦しいところです。
本務の仕事が優先ですので、
なかなか出歩けなくなりました。
大学評価への対応や規則通りの授業の執行義務、
オフィスアワーなどの学生へのサービスの設定など
かつてと比べて、なにかと時間的余裕が少なくなってきました。
こんなことで、創造的な仕事ができるのでしょうか。
文部科学省は大学教員に何を求めているのでしょうか。
研究成果でしょうか、教育効果でしょうか。
それともサラリーマン的な業務でしょうか。
研究、教育の両立も可能でしょうが、
心の余裕のない人に良い成果を望めるのでしょうか。
大学教員で余裕のある人は、どれほどいるのでしょうか。
その中で研究、教育ともに成果を挙げている人は
ほんの一握りではないでしょうか。
日本の大学の総体として、このような締め付けによって、
明らかに以前の能力、あるいは潜在力を
なくしてきているような気がします。
これが、国力を下げる方に向かっていかければいいのですが。
日本の行政は至るとこで間違い犯しつつあるのは
万人の認めるとこです。
いつ、だれが、その間違いを修正するのでしょうか。
これからも将来は暗いのでしょうか。