2012年6月15日金曜日

90 野幌丘陵:災害への心構え

今回は、3.11を忘れないために、私の忘備録にしようと思って書きました。同様の内容は、どこでも、だれでも、少し頑張れば手に入る情報です。そこでそれぞれの人が、自分にあった対処法を考えることが大切だと思います。このエッセイが、災害について考えてもらう一助になればと思っています。

 私の自宅は丘陵の裾野にあります。その丘陵は、野幌丘陵といいます。北海道の石狩地方の石狩平野を南北に分断するかのようにあります。ただし、北部は石狩川が横切っていますが。
 野幌丘陵は、札幌市を見下ろすようにあります。丘陵の北部は江別市、南部は北広島市、そして札幌市にも一部かかっています。丘陵の多くは、北海道立の自然公園である野幌森林公園となっています。丘陵周辺には、宅地もありますが、小中学校や大学(5つもあります)、民間や公立の研究施設、運動公園、図書館、博物館などが点在する文教地区となっています。
 私の自宅は野幌丘陵の北の裾野にあり、勤務地の大学は中央部の西側の裾野にあります。私は、毎日、丘陵の西側をトラバースするように、3.5kmほどの道のりを、歩いて通っています。
 丘陵の西の裾野ですから、西向きの浸食跡や河川がいくつもでき、緩やかなうねりを形成しています。トラバースをしていても、登り下りがみえます。歩いていると緩やかな傾斜は気になりませんが、自転車だと体感できます。かつては自転車で通勤をしていたので、登りで疲れ、下りで楽したことを思い出します。
 丘陵とは、谷との高低差100m以下、標高も300m以下で、山地よりも小さく台地より大きな地形で、遠くから眺めると平坦な高まりにみえます。野幌丘陵は標高100mに満たない低いものですが、高まりを感じることできます。例えば、丘陵の開けた高まり(高い建物など)から低地を眺めると、見下ろした景観が広がります。また、低地側から眺めると、盛り上がった丘陵のシルエットがよくみえます。これは、周辺に平らな低地帯(石狩低地、標高数mほど)が、ひろがっているためでしょう。
 野幌丘陵を詳しく見ると、裾野は東側が急傾斜で険しくなっており、西側は緩傾斜でうねりのある地形になっています。このような地形の特徴は、丘陵の北部でよくみられ、南部では支笏の山なみに連続するため、不明瞭になります。
 丘陵を構成している地質は、土砂がたまった地層です。ただし、そのほとんどは、まだ固まっていない堆積物からできています。赤松ほか(1981)の論文によれば、下から第四紀更新世中期の竹山礫層(約20万年前)、更新世後期のもみじ台層(約12万年前)、小野幌層(約10万年前)、元野幌層(約4万年前)、更新世中期の厚別砂礫層・広島砂礫層(約3万年前)と呼ばれる地層が重なっているとされています。最初は海でたまった地層(海成層)で、後には湿地帯でたまった地層へと変化します。いずれの地層も新しい時代にたまった堆積物です。
 その下には、古い時代(白亜紀からネオオジン(新第三紀とよばれていたもの))の岩石類(基盤岩類とよばれます)があります。新しい地層の下にある基盤岩類の存在は、物理的探査(重力探査、地震探査、ボーリング)によって確認されています。
 基盤岩類の上に、新しい時代の堆積物が溜まっています。低地帯も似た堆積物からできていて、野幌丘陵はそれらの地層が盛り上がってできたと考えれます。盛り上がった原因は、地層の曲がりと断層によるものです。
 地層の曲がりとは、褶曲(しゅうきょく)とよばれます。幾重にも平らに溜まった地層が、両側から押されると、波打つように曲がっていきます。そして時には割れることもあります。北海道は、太平洋プレートの沈み込みによって、常に圧縮されている場でもあります。ですから、褶曲ができやすくなっています。
 盛り上がってできた褶曲(背斜)が野幌丘陵にあたります。褶曲の軸は、南北にのびています。ただし、背斜構造がみられるのは丘陵の北部で、南部はよくわかっていません。
 また、丘陵の東側には、断層があることがわかっています。野幌丘陵の東の端にそって、ほぼ南北に走る4kmほどの断層が東に傾いて存在しています。野幌丘陵断層と呼ばれています。こんな新しい地層を切るような断層は活断層になります。一部、断層が見えているところがあるので、その存在は確認されています。丘陵の東側の斜面が急なのは、断層によって切れているためだったのです。
 野幌丘陵の地層や背斜構造や断層は、当別の山地(樺戸山地南端)にまで連続しています。ただし、上でも述べましたが、丘陵の南の方は支笏の山地に連続し、火山灰が覆っているので、よくわからなくなっています。
 活断層があれば、地震が心配になります。2010年に10月20日と12月2日には、札幌で地震が起こっています。この地震は、札幌の直下型で、震度はあまり大きくありません(震度3)でした。この地震は、札幌市内の地下にある(伏在(ふくざい)といいます)する活断層の一つ(月寒断層と呼ばれています)が活動したと考えられています。
 野幌丘陵断層の活動記録は、今のところわかっていません。ですから、いつどの程度の規模で動くかは、断層の評価になってきます。北海道の防災会議によって2008年と2011年(3月)に被害想定がなされています。2011年3月になされたも推定ですが、これは東日本大震災が起こる前のものです。その想定によると、計算に用いられたのは、上端が深さ6km、長さ32km幅22kmで東に45度傾斜した断層が活動して、マグニチュード7.5、震度7の地震を起こしたというものです。その結果、木造住家全壊は最大17,549棟で、最小が17,068棟、死傷者は、最大で23,264名、最小で22,898名という非常に甚大な被害が予想されています。
 少々不安になる数字です。我が家は、背斜軸の上、断層の西側にあたります。私は、そのような地に住み、暮らしていることになります。幸い、海からは遠いので津波への心配は少ないのですが、直下型の地震は、つねに考慮しておく必要があります。
 自宅での対処は、耐震性や家具などの倒壊を最小限にすること、ライフラインの断絶に備えておくしかありません。
 火災や盗難などにには、以前に備えをしました。昨年冬に、我が家の書棚をすべて作り付けにする工事をしてもらい、倒壊の危険を減らしました。少々お金がかかりましたが、目先の出費より生命を守ることが優先です。もちろん快適さも同時に満たしてもらっています。
 今は、ライフライン、特に電気はどうしようかと悩んでいます。ソーラーパネルをつけたいのですが、なかなかまだ効率がよくなりません。パネルとその施工工事は、大きな出費となるので、おいおい進めていこうかと考えています。少しずつ備えていくしかありません。
 私のことばかりを紹介しましたが、一度このようなことを考えてみてはどうでしょうか。防災、減災は、起こってしまってからでは手遅れです。3.11の教訓を忘れないためにも、自然災害への個人での備えをすすめましょう。ここで消化した、活断層、その被害予想などは、国や都道府県、市町村がハザードマップや被害想定、防災案を策定して、公開しています。読者の方も簡単に手に入りますから、それを見ながら、自分が住んでいるところを、もう少しよく知っておくことは必要ではないでしょうか。今回のエッセイがそのためになればと思っています。

・賢くなれ・
3.11以降、地震や津波に対する
今までの知識や想定は
大きな見直しが迫られています。
早急な見直しも、必要なのですが、
根本的な見直しも、必要かもしれません。
根本的な見直しとは、防災や災害に対する考え方自体です。
例えば、想定とは前提があり、
その前提でのみ適用可能なので、
想定外を想定して対処を考えるべきでしょう。
また、科学は、まだまだ無力であるので
想定外が当たり前と心得るべきでしょう。
そのような立場で、防災案を考えておく必要があります。
人は賢いのですから、それぞれが独自の判断を養うべきでしょう。
そんことを、最近、考えています。

・青森出張・
14日と15日は青森に出張です。
これは校務なのですが、
最近、大学の授業や校務が忙しく、
外に出る機会が減って来ました。
出るとしても気が抜けない落ち着かない外出ばかりです。
毎年9月にいってる地質調査も
今回はどうなるかわからない状態です。
なんとなく世知辛い世になって大変で
心が落ち着きません。
短時間の出張が癒してくれれば幸いなのですが。

2012年5月15日火曜日

89 黄金道路:地質学的必然性


北海道の中部の南端。襟裳と広尾を結ぶ海岸は、黄金道路と呼ばれ、ドライブコースとして近年知られるようになってきました。整備されたきれいな道で、トンネルが続くのですが、ときどきみえる海岸は、天気がよければきれいな景色でドライブを楽しめます。また、少々海が荒れてもトンネルや防波堤がしっかりと道路を守っているので、安心して走れる道です。でも、黄金道路には、観光ルートとは違った別の一面があります。

「黄金」という地名をもつところが、日本各地にあります。黄金は、「おうごん」や「こがね」と読みます。北海道でも、JRの室蘭本線で、室蘭より少し函館よりに黄金駅があり、もともとの地名に由来しています。また、正式地名ではなく、通称、俗称として、黄金○○というものも、多数あります。
地名の由来には、いろいろなものがあるでしょうが、黄金は名前の通り「金」に関係するものが多いのではないでしょうか。
今回の話題も「黄金」がつきます。地域ではなく道路の名称で、正式名称ではなく俗称ですが、この名の方が有名となっています。通称の由来は、「金(きん)」ではなく「金(かね)」によります。
国道336号は、浦河から襟裳岬をへて太平洋岸を釧路まで達する道路です。えりも町庶野(しょや)から広尾町音調津(おしらべつ)の33.5kmの間を、特に「黄金道路」と呼んでいます。そん間は、トンネルが次々と続く、きれいに舗装された道路になっています。
私は黄金道路を何度か通っていますが、路側帯が少なく、なかなか止まれないので、ついつい素通りしてしまっていました。年々整備されているようで、今ではトンネルも多くなり、走りやすくなりました、ますます止まりにくくなっています。
昨年通ったとき、黄金道路の襟裳側の入り口にあたる道路わきに、小さな公園がありました。気がついて、その公園に立ち寄りました。公園は少し高台になったところにあり、碑がつくられていました。公園の高台に登ると、北向きの海岸を眺めることができます。
黄金道路の走る海岸は、海にまでせり出したガケが延々と続いていることがわかります。新しくできたトンネルの脇に、壊れて破棄されたトンネルが見えます。そんな景観は、この海岸沿いの道路が、人と自然が戦っていることを示しているようです。
広尾から襟裳までは、切り立ったガケの連続の海岸で、山も深く厳しい地形のため、道路の建築が難しいところでした。海岸ぞいに道路があったのですが、断崖にはばまれているところは、山道を迂回するので、大変な行程だったようです。1982(明治2)年にはトンネルが開通したので、人馬の通行が一応可能となりました。ただ、海岸沿いの道も海が荒れるとすぐに通行が不能になり、改修、補修が必要になりました。交通の難所でもありました。
かろうじて陸路の交通があっただけで、物資運送の交通路にはなっていませんでした。かつて十勝と日高は距離が近いのに、日高山脈が立ちはだかっていたので、交流はほとんどできず、不自由をしていたようです。地域住民の要請を受けて、北海道が本格的な道路をつくることになりました。
道路の工事は、襟裳側からはじまります。調査がおこなわれ、1921(大正10)年には、道路工事が可能であることが示されましたが、地質や地形の状態から、非常に困難な工事が予想されました。そして、1923(大正12)年から工事が着工されました。
一方、広尾側は、少し遅れて1926(大正15)年に、工事をおこなうことは決定されたのですが、地元漁師(コンブ漁への影響など)の反対運動があり、1927(昭和2)年からの着工となりました。
断崖を削ったり、護壁やトンネルなどの工事がいたるところに必要でした。橋が22ヶ所、トンネルが17ヶ所、防波堤は25ヶ所、のべ6346mに達しました。多大な犠牲(18名宇の死者)を出しながらも、とうとう1934(昭和9)年10月末に、全線が完成します。膨大な経費(総工費945,503円、1mあたり28円20銭)を費やしての完成でした。当時の公務員の給料と比べると、月給分で1.3mほどしかつくれないほどの高額の工事費となっていました。まるで黄金を敷くような費用をかけてつくられた道路でした。これが「黄金道路」の由来です。
日高山脈を横ぎる内陸道はなかったため、完成当時は、日高地域と十勝地域を結ぶ唯一の道路となりました。各地で崩落、侵食などの災害が発生しましたが、軍事的にも重要だったので、復旧、改修工事が絶え間なくおこなれていました。
戦後になっても、1960(昭和35)年から1986(昭和61)年まで、大規模な改修工事がおこなわれ、多くの費用(約300億円)が費やされて、多数のトンネルや覆道がつくられています。その後も繰り替えし改修が続けられ費用が投入されています。
道路は整備がされ、景色も綺麗なのですが、今でも大雨が降ると、崩落危険箇所が多々あるため、もたびたび通行止めになります。通行止め回数が、道内の国道で最も多い区間でもあります。断崖となっている急斜面が多いため、崩落や斜面崩壊の危険性があり、実際に崩落も繰り返されています。特に大きな地震にときは、崩落が何度も起こっています。
黄金道路が、このように厳しいルートとなっているのは、地質の背景があるためにです。
日高山脈の東に広がる地層は、「中の川層群」と呼ばれていて、黄金道路のある海岸まで分布します。中の川層群は、古第三紀(暁新世、約6000万年前)の地層で、メランジュと整然層(通常の堆積層のこと)からなります。メランジュは、沈み込み帯の陸側で形成されたいろいろな岩石(チャート、砂岩、礫岩など)が混在したものです。また、黄金道路の北の方には、中の川層群に貫入している花崗岩類(約3500万年前)があります。堆積岩の一部は、この花崗岩の貫入によって熱変成作用(ホルンフェルスと呼ばれます)を受けています。
変成作用は、熱と圧力が加わることによって別の鉱物ができて、岩石の種類が変わったものです。圧力が加わる変成作用では、その圧力のかかり方で割れやすい方向が形成され、割れ目の方向で崩落が起こりやすくなります。熱による変成作用は、焼入れをするような作用で、堅固な岩石に変わっていきます。ホルンフェルスは、熱による変成作用によってできた変成岩の一般的な名称で、黒っぽく緻密で硬い岩石に変わります。ですから、ホルンフェルスになっている部分は硬いため、割れ目ができにくい岩石に変わります。
花崗岩もマグマが固まった深成岩のなので丈夫です。ただし風化をうけるとマサ化してくずれることはありますが、大きな固まりとしての崩落を起こすことはあまりないはずです。
ところが、日外(あぐい)さんたちによる2008年の調査報告によると、岩石を選ぶことなく、崩落は起きていることがわかります。近年20年ほどの間に発生した大きな崩落(100m2以上)28件の内訳は、花崗岩3件、堆積岩14件、ホルンフェルス11件となっています。花崗岩は少なめですが、いずれの岩石の分布地域でも崩落が起きていることになります。本来であれば、硬いホルンフェルスのところは崩落が起きないはずなのですが、なぜか起きています。
崩落は、岩石の割れ目にそって水や空気が入り、岩盤が緩んで、すべることで起きます。割れ目は、もともとの岩石にあった弱い部分が風化によって広がっていきます。実際に崩落の起きた場所周辺の岩石には、規則的な割れ目が多数できているようです。さらに、黄金道路沿いは、崖になっている急傾斜なので、海側に傾いた割れ目ができると、非常に壊れやすくなります。
まだ斜面崩壊の実態は、充分に解明されていませんが、これは地質的背景が大きく関与していると考えられます。
太平洋プレートの沈み込み部が、津軽海峡の東側で、大きく屈曲しています。その屈曲の北西延長にそって大きな断層地形があり、日高山脈の南延長が、襟裳岬沖で切れられているような地形があります。日高山脈の海への埋没にともなって、山脈の東裾野が、黄金道路のあたりで海に没しています。
海岸地形として十勝沖に急傾斜の大陸斜面があり、深い海底の渓谷も刻まれています。つまり、十勝沖は急激に深くなろうとしてる場に、高まりである日高山脈が接している形になっています。このような地質学的背景があれば、山は急激に崩れ落ちるはずです。崩壊のきっかけとなるのは、沈み込むプレートによって起こる地震です。海溝付近は、地質学的にも頻繁に地震が起こる場であります。
山と海の境界が、海岸線となり、黄金道路の位置するところもであります。崩落は大局にみれば、地質学的必然性によるものともいえます。人為的対処は短期間においては可能でしょうが、長期的に安定は望めないはずです。黄金道路は将来にわたっても、黄金道路となるのでしょうね。

・地震崩落・
黄金道路の崩落は地震によって頻発することが
上で述べた論文でも報告されています。
そこで3.11の地震による崩落を調べてみたのですが、
起こっていなかったようです。
地震後は、黄金道路間を通行止めにして
安全確認された後、通行可能になったようです。
今までの崩落対策が功を奏したようです。
黄金道路のある海岸線は、
山と陸の押し合い(プレート境界)の場であります。
今は安全は確保されているかもしれません。
長い目で見ると、日高山脈が海に引きずられているので
常に崩れているところでもあるのですが。

・空白地帯・
この月間のエッセイを書くに当たり、
今までどの地域を書てきたかを見て、
まだ取り上げていない地域を書くように心がけています。
そのため、ホームページの地図を眺めて考えます。
私の研究テーマや、居住地などの地域性から
書いている地域が偏っています。
集中して書いているのは、
北海道(居住地)、近畿(故郷)、四国(研究テーマ)
などです。
空いている地域を書くようにしているのですが、
行っていないところは書けません。
また、いったことがあるのですが、
書けない地域もあります。
そんな所へは、再度テーマをもって
出かけたいと考えています。
ところが、最近は出歩ける時間の確保が
大変になって来ました。
研究として調査に出るときは、
最近は四国が中心になります。
ですから、新しい地域を埋めるのはなかなか難しくなります。
しかし、今年は、さまざまな理由で
別の地域に行こうかと考えています。

2012年4月15日日曜日

88 鴨川デルタ:盆地と断層


今回は、京都の鴨川の川原から眺めた盆地の生い立ちについてです。盆地は、なぜ、盆地であるのか。時間が経てば、盆地は埋め立てられ、くぼみが消えていくはずです。しかし、今ある盆地は、低まりを維持しています。盆地の謎について考えました。

春休みに京都の実家へ帰省しました。私は一昨年から昨年にかけて、四国にサバティカル中に何度か帰省しましたが、家族は2年ぶりの京都となります。帰省したときは、いいチャンスですから、近郊をみて回ることにしています。今回は、大阪、京都、奈良へ出かけました。手軽に見てまれるところをまわり、何度かの帰省で、結構あちこち行っています。また、長男が研修旅行で京都、奈良、大阪の主だったところを見ているので、あまり選択肢はなく、見たいところをじっくりまわりました。大阪では通天閣と天王寺動物園を、京都では京都大学周辺を、奈良では奈良公園周辺でした。奈良公園は3度目になります。
そんな家族サービスが増えてきたため、なかなか自然の多いところ、露頭のあるところをみるチャンスは減ってきました。今回は京都の観光地のはずれの川原、鴨川デルタからのエッセイです。
京都は長く都として、政治や文化の中心となっていました。多くの人や富が集まり、海外や国内からの大量の物流がありました。京都は内陸の盆地にできた街なので、輸送経路として河川は重要となります。その動脈ともいうべき河川は、淀川でした。京都盆地へは、淀川の支流が利用されました。
かつて河川は運輸の動脈として利用されてきましたが、今では輸送路としての役割は終わりました。近年では、上道の水源や下水の排水路としての役割があります。また、災害を出さないたいめの治水も重要とされています。しかし、なんといっても、河川沿いは自然が豊かなので、憩いの場となります。
京都盆地には、大きな河川として西縁を流れる桂川と、南縁を流れる木津川、盆地を東から西に横切る宇治川があります。それらの河川が盆地の南西で合流して、淀川になります。淀川は、大阪平野の横切り大阪湾に流れ込みます。京都盆地の東側は、桂川の支流になる鴨川があります。京都の中心街は、桂川と鴨川に挟まれたところになります。
鴨川は、北西から流れてくる賀茂川、北東から流れてくる高野川が出町柳で合流したものです。鞍馬は、比叡山電鉄鞍馬線で高野川沿いに登っていくので、高野川の上流にあるように思えますが、鞍馬川は賀茂川に流れ込む川で、水系が別になります。高野川は、八瀬(やせ)から大原、そして滋賀へと遡れます。山あいでは、高野川はまっすぐな流路をとります。
賀茂川と高野川の合流部は鴨川デルタと呼ばれています。鴨川デルタは、三角形をしていますが、地理学でいう三角洲(デルタのこと)ではありません。
賀茂川も高野川も、盆地から上流は、険しい山あいを流れます。川は、急傾斜で狭隘な谷から、広くなだらかな京都盆地に出てきます。浸食・運搬から堆積へと、川の作用が変わります。盆地では、河川からの堆積物がたまり、より平坦な堆積平野を形成します。これが、京都盆地が成立した基本的な自然条件となります。
盆地がくぼちであり続けるためには、低くなりつづけている必要があります。相対的に見て山が高くなり続けるか、盆地が下がり続けるか、あるいは別の何らかの要因が必要になります。盆地があり続けるためには、要因は今も作用していなければなりません。
盆地とは、周りと比べて低くなっているところです。そのためには、高低差を生む必要があります。高低差は、岩石の浸食に対する強さによって形成されることがあります。もしそうなら、日本の地質は東西方向に伸びることが基本(注1)となっていますので、盆地も東西方向に延びたものになるずです。
ところが、京都盆地や周辺のくぼ地(琵琶湖、奈良盆地、大阪平野)などは、おおまかに見ると南北に伸びています。地質の並びとは明らかに違う形態となっています。ですから、地質以外の何らかの別の作用が、日本列島の営みとして、働いていることになります。地質構造を切るように高低差を生む作用が、断層なのです。
断層には、一度動いただけでその後は動かないものや、何度も活動しているものもあります。断層は規模もさまざまで、長さ(セグメントと呼ぶことがあります)も、顕微鏡サイズから、数百kmに達するものまでいろいろあります。現在も活動中の断層は、活断層と呼ばれます。断層の中には、地震を起こすもの(起震断層)や、地震によって形成されたもの(地震断層)もあります。活断層は、最近活動して、今後も活動する可能性のある断層とされています。最近とは難しい問題をはらんでいます。活動の期間はさまざまなものがあるのですが、下の注で示した活断層のデータベースでは、約10万年前以降の断層を扱っています。
盆地の縁には、現在も活動中の断層があることがわかります(注2)。複数の一連の活断層が、盆地の縁にあります。大きな活断層は、両側の地質も違っています。
京都盆地の東側の断層は、花折(はなおれ)断層(起震断層とされています)の一部で、北白川活動セグメントと呼ばれています。花折断層は、京都盆地から滋賀県西部まで延びている断層です。この断層にそって高野川は流れているため、山あいの流路がまっすぐだったのです。
花折断層は、右横ずれ断層だということがわかっています。右横ずれ断層とは、断層のどちらか側に立って見た時、断層の向こうの大地が右か左のどちらに動くかで判別します。花折断層は、京都盆地側からみると、山側が右(南)に向かって動くことになります。
花折断層はの東(山側)には、比叡山から大文字山にかけて山側に花崗岩(後期白亜紀の領家帯に属します)があります。明らかに違った地質です。活断層の変位以上の変化が起こっていると考えられます。花折断層は、今でこそ右横ずれの変位が大きのですが、盆地の形態を考えると、かつては上下方向のずれを生じていたはずです。
京都大学の裏、吉田神社のある吉田山は、100万年前くらいに盆地で溜まった地層が、断層で切られて持ち上げられたものです。
盆地の地下を調べると、十条あたりでは地下200mに、盆地の南端では700mあたりに基盤となる硬い岩石があることがわかっています。その上に、先ほどの吉田山と同じ100万年前くらいの地層がたまっています。80万年前の火山灰が地下240mでみつかっています。100万年ほどは、このような高低差をつくる活動が継続的におこっていると考えられます。
30万年前以降に変動が激しくなったと考えられていますが、それにしても、平均すれば年間1mmに満たないほどの小さな変動になります。しかし、大地は平均的な運動をするのではなく、断層を形成するような地震によって、あるとき一気に数mの変動が起きたはずです。盆地は、地震によってできた断層で、くぼみが維持されていることになります。現在の活動に隠れた歴史があったです。二重三重の複雑さが、京都盆地にはありそうです。
今回は子供たちの希望で、鴨川デルタや吉田神社、京都大学などに行くのが目的でした。万城目学の「鴨川ホルモー」の本や映画をみて、興味をもったようです。でも京都盆地形成の背景に、そんなダイナミックな歴史があったことには、気づかなかったのでしょうね。

(注1) 地質図は、産業技術総合研究所 地質調査総合センターの「20万分の1日本シームレス地質図」
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/db084/index.html
から見ることができます。
(注2) 活断層は、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの「活断層データベース」
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/activefault/index.html
や、シームレス地質図ラボ(http://gsj-seamless.jp/labs/)の
http://gsj-seamless.jp/labs/activefault/fault1.html
で見ることができます。このデータベースは2005年に公開され、2011年の3.11の地震以降にも多くのデータが付け加えられ、2012年2月に更新されています。

・八咫烏・
鴨川デルタの上流には、下鴨神社があります。
下賀茂神社は、2つの国宝、53の重要文化財、
参道の糺(ただす)の森も国指定の史跡です。
1994年には世界文化遺産に登録されました。
下賀茂神社は八咫烏(やたがらす)を祭っています。
八咫烏は祭神のひとつの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が
化身したものとされています。
八咫烏はの日本サッカー協会のシンボルマークにされ、
現在は必勝の守護神とされています。
もともと和歌山県の熊野那智大社の祭神が
八咫烏であったためだそうです。
下賀茂神社の境内にある末社の河合神社には、
Jレーガーのサイン入りのサッカーボールが
いくつか奉納されていました。

・ヌートリア・
鴨川デルタを歩いていると
ネズミよりずっと大きな獣が水の中を泳いでいました。
私は、カピバラかと思いましたが、
次男はカワウソだといってました。
調べると、ヌートリアのようです。
第二次大戦頃、毛皮を取るために
大量に持ち込まれ、飼育されていたようです。
戦後、需要がなくなったときに、
飼育していたものを放たれたようです。
野生化して、今では環境省指定の特定外来生物になっています。
自治体で駆除していますが、
なかなか減らないようです。
見かけが似ていますが、
ヌートリアはネズミの仲間(齧歯目)ですが、
カワウソはイタチやネコの仲間(食肉目)です。
次男にカワウソでなかったと
説明しなければならないようです。

2012年3月15日木曜日

87 手結:秩序の困惑


土佐湾に面した高知の海岸線はいびつなところがいくつかあります。手結のメランジュはそんないびつな場になります。メランジュにはそれなりの秩序があるのですが、困惑を感じます。秩序に安心を感じる整然層とはいいコントラストになります。付加体は、相反する気持ちが湧き起こる場でもあります。

四国は大雑把に見ると、少々いびつですが、長方形になっています。高知県は四角形の下(南)側にあたります。太平洋むかって、右下(南東)と左下(南西)の角にあたるところが、飛び出して岬になっています。西が足摺岬、東が室戸岬になっています。岬の先端には、マグマが活動してできた深成岩があります。これらの不思議なマグマの活動については、以前にも紹介しました。四角形の底辺の真ん中が高知市にあたり、海岸線は内側にくぼみ、弧を描くように湾曲しています。土佐湾です。
土佐湾の奥、高知市付近では、なだらかな弧を描いた海岸が続くところに、ところどろこにギザギザした出っ張った海岸線があります。高知市より東側には、香南(こうなん)市の佛岬(ほとけみさき)から住吉漁港にかけてが出っ張って、ギザギザした海岸線となっています。西側は横浪(よこなみ)半島もギザギザしています。このような出っ張りは、地質の違いに由来しています。
今回はその香南市のギザギザの地形の地域の紹介です。
佛岬と住吉漁港の間に手結(てい)岬があり、その地名からとった手結メランジュが有名です。横浪もメランジュが分布するところとして地質学では有名です。両者は、もともとは連続していたものと考えられていますが、高知市の沖で、メランジュは海岸に消えます。
手結メランジュは、四万十帯の北帯に属します。四万十帯には、整然とした地層(コヒレント層ともよばれる)とメランジュの部分が混じっています。このような地質体は、付加体とよばれ、列島固有のものです。
四万十帯は、これまでエッセイに何度もでてきたのですが、概略を見ておきましょう。
四万十帯の北側(内陸側)には古い地層(白亜紀から)があり、南側(海側)には新しい地層(古第三紀から)があり、海に向かって年代が若くなってきます。北を北帯、南を南帯に区分し、両者の境界は断層帯となっています。断層帯は、高知西部(幡多半島付近)では中筋(なかすじ)構造線、高知東部(室戸半島付近)では安芸(あき)構造線と呼ばれています。両者の間には土佐湾があるので、定かではないですが、連続している構造線だと考えられています。あわせて安芸・中筋構造線と呼ばれることがあります。
北帯には主に白亜紀の地層とメランジュが多数あり、南帯には主には新生代の整然層が多くなっています。高知の東の四万十帯北帯は、古い新荘川層群と新しい安芸層群とに区分されています。安芸層群は、砂岩泥岩の繰り返し(互層)の整然とした地層と、何列かのメランジュが見られます。手結メランジュは、それらのメランジュ列のひとつにあたります。
付加体は、海洋プレートの沈む込みにともなって陸側にできる地質体です。沈み込み帯はプレートがぶつかるところですから、圧縮する力が常に働いている場です。地層に圧縮が起こると、陸側プレートの先端には、スラストと呼ばれる低角度の逆断層が形成されます。付加体の先端には、規則正しく瓦が並らぶようにスラストができることから、覆瓦(ふくが)スラスト(implicate thrust)のゾーンができます。
覆瓦スラストの下には水平方向の断層(decollement;デコルマあるいはデコルマンと呼ばれます)ができます。デコルマンの上には、内部に多数の覆瓦スラストをもった付加体の「スライス」ができます。もっと圧縮が起こると、デコルマンがより深部に移動して、2段目の付加体の「スライス」ができます。この2段目の「スライス」の先端でも新たなスラストができ、堆積層の短縮と付加が起こります。このような付加体の「スライス」の重なりをデュープレックス(duplex)と呼んでいます。デュープレックスにより、地層の重なりが起こります。
さらに重なりが生じます。圧縮の力によって、それまであったデュープレックスした付加体の「スライス」を大規模に切る大きなスラストができます。このスラストは、今までの覆瓦スラストやデコルマン、デュープレックスなど比較的秩序だった繰り返しの断層を、大規模に切ることになります。それまでのスラストの序列を乱すことから、序列外スラスト(out of sequence thrust)と呼ばれています。
以上のように付加体の地質は、秩序がありますが、非常に複雑なものであります。それに、まだ完全に解明されていないところもあります。ただ、付加体の厚く見える地層は、圧縮場でできたスラストによって同じ地層が何度も繰り返しているということです。スラストには、その境界部が見えないようなものもあり、非常に解析しづらいところもあります。
地層の繰り返しがることを証明するためには、化石によって、時代が繰り返していることを示す必要があります。非常に根気のいる作業です。高知県はその研究が、非常によくおこなわれた地域でもあります。
さて、付加体のもう一つの特徴であるメランジュです。混在岩などと呼ばれることもあります。決まった起源のある岩石ではなく、その起源は問いません。通常の岩石とは明らかに違います。小規模なものはメランジュとは呼ばず、大規模で地質図に記載されるものに対してメランジュを用います。メランジュは、付加体だけにあるのではなく、大地の運動が激しい所でみられます。地すべりや土石流、断層運動などによるものがあります。
メランジュは、付加体に特徴的にみられ、地質学的にいくつかの共通する特徴をもっています。上で述べたように地質図に表現できる大きさのもので、細粒の物質(今では固まって岩石になっていることが多く基質と呼ばれています)のなかに、ブロック状の大きな岩石(地層状の堆積岩、火成岩や変成岩のこともあります)が取り込まれているつくりをもっています。基質の岩石は変形していて片状に割れやすくなっています。基質は、泥岩のことが多のですが、蛇紋岩や砂岩のこともあります。ブロックの大きさもさざまざです。
基質が片状になるためには、圧力と温度が必要です。付加体ですから圧縮の力は常にかかっています。温度も、150から300℃程度まで上がり、時には一部の岩石が融けることもあります。その熱源は、断層活動にともなる摩擦熱だと考えられています。手結メランジュは150℃ほどになったとされています。横浪メランジュは、250℃ほどと温度がより高くかったと考えられています。横浪メランジュからは、断層で溶けた石がみつかっています。世界初の発見です。
整然と混在、コヒレントとメランジュが付加体の特徴です。メランジュを見ると秩序の中に困惑を感じ、整然層をみると安心を感じる秩序があります。付加体は、相反する気持ちが湧き起こる場でもあります。
手結の海岸を訪れたのは昨年秋でした。空港からも近く、国道沿いでもあるので、アプローチがすごくいいので、すぐにいくことができます。と、思って油断していると、時間切れで充分見ることができなかったりするのですが。台風の高波の影響であちこち被害を受けていたのと、天気が少々崩れてきたので、私はざっとしか見ることができませんでした。まさに油断していました。次回は、ぜひきちんと見たいと思っています。

・構造侵食・
現在、付加体についての論文の構想をねっています。
そのため、付加体について文献を読み、
概略図を作成しながら、毎日考えています。
今回のエッセイもその影響でしょう。
ついつい付加体の説明がメインになってしまいました。
複雑な構造は、言葉で説明しても、なかなかわかりにくいです。
私も理解するのに時間がかかりました。
まだ完全には解明されていない部分もあります。
沈み込み帯には付加体が形成されない
「構造侵食」が起こっているところもあります。
沈み込み帯は圧縮と書きましたが、
マリアナ海溝ように列島の後ろに
引っ張り(伸張)の力が働く場もあります。
まだまだ自然は全貌を示してくれません。

・移動の季節・
人が移動する季節です。
大学は入試も最終盤です。
そして卒業式シーズンです。
我が大学も金曜日に卒業式があります。
小・中・高校も卒業式でしょう。
中でも、大学の卒業は、
若者たちの人生における大きな区切りとなるはずです。
いよいよ春から社会人となります。
それぞれの社会生活がまっているのでしょう。
健闘を期待します。

2012年2月15日水曜日

86 宍喰:時間の錯綜


宍喰(ししくい)の道路沿いにあるガケでは、舌状の見事な化石漣痕をみることができます。漣痕とは、海底の堆積物に水の流によってできた模様が、偶然、地層ができるときに閉じ込められたものです。徳島で見た化石漣痕を紹介しましょう。

宍喰と書いて「ししくい」と読みます。宍喰は徳島県海部郡海陽町にある地名です。今回紹介するのは、地形ではなく、宍喰にあるガケの表面の模様です。
海陽町宍喰には、幹線道として国道56号が南北に走っています。この国道は土佐東街道と呼ばれているもので、古くから幹線道路になっています。国道を東西に横ぎるように宍喰川が太平洋に流れ込んでいます。宍喰川沿いの南に漁港があります。その南岸に沿って、かつての国道、今は県道309号となっている道が通っています。
県道は川と港の湾を渡る国道の宍喰橋の下を通って海岸に向かいます。海岸は、複雑に入り組んでいます。県道が最初に大きく右にカーブするところに、その露頭はあります。右手がガケで左手は半島にから続く林になっています。カーブは広い道幅があり、車を停めることもできます。ガケと道路の間には柵はありますが、ガケ全体がよくみえるようなっています。
このガケが今回のエッセイのテーマです。この崖は、1979(昭和54)年に国の天然記念物に指定されています。「宍喰浦の化石漣痕」と呼ばれているものです。
「漣痕(れんこん)」とは、リップルマーク(ripple mark)ともよばれるものです。堆積物の表面が、流れる水や風にさられた時にできる波形の模様です。海岸の砂地などで時々みかけることがあります。もちろん人が歩いていない砂地ですが。その模様が、地層間に保存され、化石のようになったものを「化石漣痕」とよんでいます。
漣痕は、山と谷が繰り返して模様になっていますが、山や谷が伸びている方向は、水の流れに対して直交しています。そのような構造は少々不思議な気がしますが、水流を用いての実験によって、形成メカニズムは解明されています。
漣痕は、流れの種類や速さ、運ばれる粒子の径や形状によって、形の多様化や形の変化が起こります。漣痕は、山と谷の断面を見ると、対称ではありません。山を見ると、流れの上流に対してなだらかになり、下流側は急傾斜になります。
このような非対称性は、流れによる砂の運搬と堆積を考えると理解できます。流速がある一定以上になると、砂が動き出し運搬がはじまります。その動き出しは、砂の粒径は形状によって違います。粒子の移動の仕方も形状によって違ってきます。粒子が丸く、海底面が平らであれば、そのまま運搬されていきますが、流れと海底に角度があると、砂が堆積するところができます。そこが山が形成されます。山を越えるところに砂は次々と堆積し、山の後ろに堆積が進み山が移動します。そして山のすぐ横では流れによって新たな砂の運搬が起こり深み(谷)ができます。山と谷は流れととも移動し変化していきます。
同じ条件下であっても、時間が経過するにつれて、できた漣痕自体が波を生み、その波が漣痕の形状を変化させていくこともあります。もし流れに波動の成分があると、その波によってより複雑な模様ができることになります。漣痕は、流れのある海岸付近や浅い海にだけできると思われていましたが、5000m以深の深海でも見つかっています。流れがあれば、いろいろなところで漣痕ができることがわかってきました。
漣痕ができても、そのままでは消えてしまいます。流水によって砂の上に刻まれた模様ですから、新しい流水がくると、すぐに消えてしまいます。砂の上に書いた絵のようなものですから、儚いものです。
化石漣痕ができるには、漣痕が化石のように地層間に残ってなければなりません。漣痕が、なぜ化石のように地層の間に保存されるのか、不思議です。地層は海底で形成されます。現在の海底で漣痕ができたとしても、新たな流れがあると消えたり、別の漣痕ができます。それが化石のように保存されるには、できている漣痕の上に、次の地層となる土砂が漣痕を壊すことなく覆って保存する必要があります。つぎに来る土砂の流れが激しければ、表面をけずって漣痕を消してしまいます。
漣痕のある地層の表面が、泥や粘土のような細粒のものなら、簡単に消えたり、削られてしまう可能性が高くなります。少々の波や土砂の流れでも、漣痕が消えない、ある程度粒の大きな砂が海底面にでている条件がないとだめなはずです。
非常に特殊な条件がそろわないと、化石漣痕はできないと考えられます。でも、現実に化石漣痕があります。あちこち調査で歩いていると、地層境界に漣痕を見つけることも、よくあります。地球の営みは、非常に長い時間をかけておこなわれます。そして、地層も環境に応じた形態、構造を持ちながら、次々とできていきます。そのような試行錯誤の時間が、地球には大量にあったのです。漣痕もそのような長い地球の営みとして形成され、そして地質学者の目に触れます。漣痕は、特徴のある形態ですから、地質学者の目にもつきやすくなります。そして宍喰のようにきれいな漣痕は、保存されることになります。
ひとつの地層で化石漣痕がみつかると、別の位置(層準とよびます)の地層面からも、漣痕が見つかることがよくあります。それは同じような条件が継続されいる堆積場が、長期にわたって存在したことを意味します。
見応えのある化石漣痕となると、そうそうはありません。現在、国の天然記念物になっているのは、宍喰浦の他に、和歌山県西牟婁郡の「白浜の化石漣痕」(1931年指定)と高知県土佐清水市の「千尋岬の化石漣痕」(1953年指定)の2ヶ所があります。他にも都道府県の指定の天然記念物もあります。ですから、綺麗な化石漣痕は、地質学的意義だけでなく、自然資産として保存すべき価値のあるものだといえます。
さて、宍喰の化石漣痕です。
宍喰浦のものが、最も後に国の天然記念物に指定されています。前の2つの化石漣痕に勝る綺麗さ、貴重さ、重要性があるということです。先ほど紹介したガケは、高さ約30m、幅20mにおよぶ、大きな一枚の地層面が露出しています。その面全体に化石漣痕がみられます。
地層は、四万十帯の室戸半島層群の奈半利川(なはりがわ)層になります。時代は始新世中期(4860万~4040万年前)頃に形成されたものだと考えられています。
化石漣痕の模様は、舌状の形状があります。舌を地層面の左下から右上に向かって出した形に積み重なったようになっています。これは、この地層面の漣痕をつくった流れが、左下から右上に流れたことがわかります。また、舌状の漣痕は、大陸斜面で、海底地すべりの堆積物がくるような比較的深い海底でできるものだと考えれられています。
また、別の地層面にも化石漣痕が見えています。天然記念物の指定にあたっても、いくつかの種類のものが、層をなしていることも特徴として挙げています。この地層がたまった海域は、漣痕ができ、保存される環境が長く維持されていたことになります。
宍喰の「宍」は動物の肉全般を意味し、「喰」は食べるという意味です。ですから宍喰とは肉を食うということになります。なぜこのような地名がついたのかはよく知りませんが、創拓社の「日本地名ルーツ辞典」によりますと、全国的に蛇喰、猿喰、宍喰などの地名は、侵食による崩壊地に使われていることが多いとされています。もしかすると、昔この地に大規模な地すべりが起こり、それが地名の起こりにとなったのかもしれません。化石漣痕がでているガケができたのも、その事件と関係があるのでしょうか。いやいや、地名はもっと古く、地層面ができたのはもっと新しことに見えます。出来事の時間が錯綜してきます。
ただいえることは、この道が国道から県道になったこと(1992年)も、天然記念物に指定されたこと(1979年)、ガケができた事件も、地名ができたことも、漣痕ができた時代からすると、つい最近のできごとです。漣痕の舌状の不思議な模様は、人類すらまだいない、4000万年も前のことなのです。

・錯綜する人生・
大学は入試も終わり、その合否判定が現在進行中です。
また、先週から今週にかけて、
学科によっては卒業研究の発表会がおこなれています。
4年生は最後の緊張の時間が流れています。
4年生にはもう就職が決まっている人、
まだ決まっていない人、
就職に意欲がない人などさまざまです。
現在卒業研究の発表会の隣では、
3年生のための企業説明会がおこなわれています。
リーマン・ショック以来、就職は低調ですが、
意欲の高い人は就職は決めています。
大学では並行して人生の山場が起こっています。
これも時間の錯綜、あるいは錯綜する人生でしょうか。

・雪国の悩み・
北海道は、もっとも厳しい寒さも一段落でしょうか。
暖かい日も時々来るようになりました。
暖かい日には路面の雪も溶け始めます。
我が家の屋根のひさしから落ちそうになっていた雪庇が
先日やっと落ちました。
家内が外で除雪をしていたようですが、
遠くにいたので被害はありませんでした。
雪庇ができにくいような工事をしているのですが、
今年のように雪が多いと
風下の方にどうしても雪庇ができてしまいます。
でも、我が家は雪下ろしをしなくても
なんとか耐えられます。
まわりの家では、一度か二度は雪庇を落とす作業がなされます。
今年は、雪下ろし中の事故が多くなっています。
雪下ろしをする人も注意をされているのですが、
それでも事故は起こります。
これが、雪国の悩みでもあります。

2012年1月15日日曜日

85 襟裳岬:山脈が海に没するところ


冬の襟裳岬は、雪と風の中にあるのでしょう。少ないながらも観光客が訪れているのでしょうか。昨年の秋、襟裳岬を訪れました。そこは、日高山脈が太平洋に没するところでもあります。襟裳岬の地層から、そのダイナミズムが感じられます。

札幌から襟裳岬にたどり着くには、苫小牧あたりから太平洋岸に出て、海岸沿いを進むことになります。JRでいくならば苫小牧から日高本線に乗ります。日高本線は、様似(さまに)まで、4時ほどかかります。日高本線は様似駅が終着で、そこからは一日数本の路線バスに乗り、1時間ほどで襟裳岬です。札幌からは5時間以上かけてたどりつける地となります。
私は、卒業論文で静内川上流域の地質調査をしていました。原付バイクで調査していたので、調査地まで札幌から一日かけてたどり着きました。卒論の調査中に、様似にあるアポイ岳に登るためにバイクで出かけたのですが、それより先は、なかなか原付バイクではいけませんでした。
車社会になり、道路さえあれば、行き着くことができます。大学院ころには、車をもっていた友人がいたので、何度か襟裳岬にいったことはあります。それでも私にとって、襟裳岬は、遠いところでした。
襟裳岬は、歌でもうたわれたので、北海道でも有名な地となりました。観光化はしていますが、今でも最果ての地の感じがします。駐車場に車を停めると、土産物屋が何軒かあります。さき進むと灯台のある断崖の岬の先端にたどり着きます。いつも風が強く、霧もよくかかります。霧のために灯台が設置されています。昨年秋、家族でいった時も、強い風が吹き、海面には霧がかかっていました。
観光客は襟裳岬の断崖に立ち、そこから眺望を楽しみます。そして「風の館(やかた)」を訪れる方もいるでしょう。ガラス越しに風景を見ることができます。冬には窓越しですが、迫力のある眺めとなるでしょう。
私は、襟裳岬に行くときは、いつも先端にある海岸に降ります。時には、観光地である灯台や土産物屋にはいかず、海岸だけに降りることもありました。東側の細い道を降りていきます。以前は漁師の民家があっただけでした、今では小さな駐車場ができていました。
海岸に降りるのは、日高山脈が海の没する大地のダイナミックさを体感するためです。海岸では、面白い地層がみれます。
岬の先端が切り立った崖になっているので、その崖の下は露頭として地層を見学できます。小さな入り江で漁港になっています。以前、昆布とりをしている光景を見たこともあります。海岸を北に向かって進むと日高山脈を構成している地層(日高累層群)を見ることができます。頁岩や砂岩頁岩互層となっています。南にいくと、日高累層群の上(新し時代)に重なる地層の襟裳層が出ています。
襟裳層でまず目につくのは、大きな礫をたくさん含んでいる礫岩です。礫岩は、礫が基質(周りを埋めている物質のことす)より多いところもあります。泥岩や砂岩の部分も混じっています。
礫岩には、大きな礫が多数入っています。時には人の背丈より大きなものもあります。礫の中でも白っぽい花崗岩の礫が目立ちます。他にも砂岩、火山岩、泥岩、頁岩、ホルンフェルス(接触変成岩の一種)などの礫もあります。非常に多様な礫の種類があります。
礫岩のつくりを詳しく見ると、礫の粒子のサイズが下が大きく上に小さくなっていくところ(級化層理)、逆のつくりをもっているところも見られます。礫の大きさが急激に変化するところもあります。非常に複雑な構造の礫岩であることがわかります。
襟裳層の泥岩から見つかった化石(渦鞭毛藻や貝)からは、後期漸新世(2500万年前ころ)に海底でたまったことがわかります。礫岩の構造からは、激しい浸食があったこと、不連続な堆積作用もあったことも推察されます。このような礫岩は、海底へ粗粒な礫を含む土石流などによってもたらされたと考えられます。このような礫岩は、点在して分布していることから、その成因はまだよくわかっていません。
礫として含まれていた花崗岩の年代測定がされていて、約3000万年前であることがわかります。この付近で3000万年前ころの年代を持つ花崗岩の産地は、日高山脈南部にあります。そこから由来したと考えるの一番妥当です。もし、礫岩の中の花崗岩が、日高山脈の構成岩石であれば、日高山脈の歴史に重要な情報をもたらすことになります。
深成岩は地下深部でマグマが固まったものです。その深成岩が2500万年前の堆積岩の礫として、含まれているということは、深成岩が500万年後(2500万年前の襟裳層の年代)には地上に顔を出して、侵食されていたことになります。その地は、日高山脈が太平洋に没する襟裳岬に当たります。
襟裳岬の礫岩は、日高山脈の成立を考える上で、非常に重要な素材です。なによりも、そんな大地のダイナミズムを感じさせてくれるものです。
10年ほどの前に、神奈川から北海道に転居してきて、車を使うようになってから、襟裳岬には何度かでかけました。家族で襟裳岬にいくので、最初の何度かは一般道でいっていたので、一日かけてたどり着き、遠いところという印象は変わりませんでした。あるとき、校務で浦川にいったとき、高速道路が富川まで延びていたので、とても早くつき、近く感じました。今までの印象と違ってきました。行程の半分が高速でいけるので、車での移動時間も大いに短縮できるようになったわけです。
昨年秋は、様似で泊まって翌日襟裳岬にいったのですが、様似にあまりに早く着いたので時間をもてあますくらいでした。襟裳岬では、観光地と海岸の両方にいきました。土産物屋で昼食もとりました。海岸から上がってくるとき、ゼニガタアザラシを何匹かみることができました。霧も見ることができました。襟裳岬を満喫できました。

・ストーブの暖かさ・
襟裳岬の2月ころに行ったことがあるのですが、
思ったより雪が少なく驚きました。
しかし風は強く、寒さは一層強く感じました。
雪が少ないのは風で飛ばされているのでしょう。
襟裳岬は、最果ての地の印象を強くもたらします。
土産物屋のストーブの暖かさが救いとなります。
そんな暖房の暖かさは今日もあるのでしょうか。
「悲しみを暖炉で燃やし」ているのでしょうか。

・センター入試・
大学のセンター入試の最中です。
私の大学も会場になっているので、
教職員総出で対応しています。
前日には全学休校にして、
職員は、準備をしていました。
教員は当時の運営に当たります。
最大限の努力をはらいなが、
受験生への対処をします。
無事試験が終わることを祈るのみです。

2011年12月15日木曜日

84 行頭:似て非なるもの

室戸ジオパークには、室戸岬のダイナミックさとは少々違う、非日常的な「動」を感じさせる地層群があります。同じ付加体でも、少々味の違う醍醐味があります。行頭(ぎょうとう)岬の少し北、新村の海岸で見た付加体の話題です。穏やかな海岸に、非日常と日常の織り成す、似て非なるものがあります。

 私が昨年度、1年間、滞在した愛媛の城川は、山ひとつ越えると高知になるような山あいの町でした。高知は、愛媛とは違ったより山村の風情、いいかえるとより自然の残っているところでした。高知は山だけでなく海岸もなかなか魅力的です。私はもともと自然が好きですから、そんな自然の残ったところばかりに出かけていました。
 秋の高知の調査で室戸岬に向かうとき、太平洋沿いに国道55号線を走りました。四国の地図を思い浮かべてください。四国は長方形をしているのですが、その長方形はいびつな形です。特に太平洋に面した海岸線は、弧状の湾(土佐湾と呼ばれています)になっています。その弧状の部分は、なだらかな海岸線のように思えるのですが、そうではありません。海岸線を走るとわかるのですが、実は、思った以上に変化に富んだ海岸線になっています。桂浜のような砂浜の海岸は、それほど多くはなく、岩場だったり、山が海岸まで迫っているところもかなりあります。変化に富む海岸線です。
 そんな岩場の一つに行頭(ぎょうとう)岬の周辺があります。行頭岬の少し北、新村(しむら)港から北にかけての海岸では、いろいろな地層を見ることができます。非常に整然と並んだ地層から、激しく曲がりくねった地層など、付加体でみられる多様な地層の特徴を、ひとつの海岸線で見ることできます。この地域は、室戸ジオパークでは行頭-黒耳(新村より少し北にある集落)サイトと呼ばれ、ジオサイトとして環境(駐車場、歩道、解説板など)も整備されています。
 ここで見られる地層の構成は、砂岩と泥岩が一組(互層(ごそう)と呼びます)なっています。一層の厚さはさまざまで、砂岩泥岩の量比や内部の構造は、層ごとに不規則で多様です。また激しく褶曲しているところもあります。褶曲にも、整然と並んだ地層の間(層間褶曲やスランプと呼びます)にできているものもあります。
 地層の基本は、砂岩から泥岩のセットで、これが一層(単層といいます)となります。薄いところもありますが、特別厚いは層はほとんどなく、ある平均的な砂岩泥岩の繰り返しになっています。互層として繰り返しがあり、どことなく似通った特徴があることも確かです。
 このような砂岩泥岩互層の繰り返しは、タービダイト(turbidite、混濁流堆積物)と呼ばれている仕組みで形成されます。タービダイトは、混濁流(tubidity current)によって形成されたものです。同じような環境で、同じメカニズムでできたため、砂岩泥岩の繰り返しの様子が、似ているのでしょう。
 タービダイトは、このエッセイでも何度も出てきていますが、再度説明しましょう。
 陸地付近の海岸近くでたまっていた土砂が、なんらかのきっかけ(地震や洪水、台風など)で海底地すべりが発生して、大量の土砂が流体として、大陸斜面に流れ込みます。それが混濁流となります。時には、混濁流は海溝をも越えて深海底にまで達することがあります。
 互層のひとつの砂岩泥岩のセットは、一度の混濁流によって形成されます。混濁流が海底で止まる(堆積時)と、粒の大きな小石や砂が先に沈降し、粒の小さい泥が後につもります。これが、一層の砂岩泥岩のセットになります。
 次の混濁流が来るまでは、泥が溜まった面が海底面がとなります。混濁流の堆積時間に比べると、穏やかに流れる時間の方が、圧倒的に多くなります。一時の激変と大半の平穏が、大陸斜面における日常となります。穏やかな日常において、堆積作用はほとんどおこりません。
 生物がいれば、その海底面に痕跡(這い跡や巣穴など)を残します。あるいは、波による漣痕(れんこん)も、海底面にできることもあります。生物の死骸も降り積もることもあるかもしれません。もちろん、場所によっては、火山灰や黄砂なども運ばれることもあるでしょう。
 混濁流の来るところは、大陸斜面から海溝あたりです。日本列島では、大陸斜面は付加体の直上で、海溝付近は付加体に取り込まれる場となります。タービダイトは、付加体における陸源の堆積物の主要構成要素となります。そして、混濁流のもととなる土砂は、日本列島では昔の付加体が侵食されたものです。堆積物としての物質の輪廻が起こっています。タービダイトとは、繰り返し土砂が海底に流れ込んで溜まったものです。このような繰り返しは、堆積という作用の輪廻が起こっているのです。
 タービダイトの多様性は、いろいろな要因がありますが、露頭でみる地層は、ひとつの断面にすぎません。その断面が、混濁流のどの部分にあたるかは、さまざまです。ひとつの混濁流で、中心軸がどこになるのかによって、定点(断面)における堆積物の様相は変わってきます。混濁流の規模によって、断面における砂岩泥岩の厚さや、量比、構造などの違いが生まれます。混濁流は、先に溜まっていた堆積物を削ったり、流れによる堆積構造などをつくることもあります。さらに、堆積後、堆積物が再流動したり、液状化、小規模の褶曲なども形成します。自然は、多様性を生む複雑なメカニズムを用意しています。
 行頭の海岸のタービダイトは、3700万年前に4000mもの深海に堆積したものです。整然とした砂岩泥岩の互層の見られる地域もあります。整然とした互層の中のひとつの砂岩の中を見ると、欄間のような幾何学的模様が見えます。ひとつの地層の中の模様も、追いかけていくと変化します。その変化も、隣の地層のものとは、明らかに違います。似て非なる模様が砂岩ごとに見られます。見飽きない不思議な模様です。
 砂岩の岩脈がみられるところもあります。砂岩の岩脈とは液状化によって砂岩が泥岩層や上の互層を突き抜けていったものです。何層にも及ぶ岩脈となっています。また、見事な漣痕があります。深海でこのような漣痕ができる波があったのかという驚きもあります。激しい褶曲(スランプ)があるとこもあります。その激しさは、地層がどこに連続しているのかを考えあぐねるほどです。生物の這い跡がたくさん見れる地層面もあります。そこには暗い深海底にあった生態系の多様さを感じます。
 タービダイトに刻まれたさまざまな模様に、いろいろな作用、「非日常」の異変、過去の時空間、穏やかさの中の変化などが、読み取ることができます。似ているのに、どこか違う。違っているのに、どこか似ている。タービダイトには、そんな不思議な、類似性と差異があります。
 私は、このような砂岩泥岩の互層をみると、なぜか心が騒ぎます。タービダイトがもつ似て非なるものが、心の琴線を鳴らすためかもしれません。

・訂正とお詫び・
前回のエッセイ「83 日沖:大地の静と動」において
日沖の枕状溶岩を、海嶺で形成された玄武岩として
それらが付加体の中に入りこんだと書いたのですが、
これは間違いでした。
室戸岬にみられる斑レイ岩と同じマグマで、
付加体の中の海溝付近で活動したマグマでした。
現地で、そのように案内を受け、
なおかつ説明も読んでいたのに、
なぜか、勘違いしました。
文章自体は大きな修正とななりませんでしたが、
間違っている部分を修正して
ホームページは更新しました。
メールマガジンで皆様に送ったものは
もう修正できませんので
訂正とお詫びを、ここでお伝えします。
申し訳ありませんでした。

・タービダイト・
タービダイトには
堆積物に対して用いる場合と
流れやメカニズムに対して用いる場合があります。
流れを意味する時、
英語では「tubidity current」が用いられます。
本エッセイでは、タービダイトは地層に
流れには混濁流を用いました。
以前は乱泥流ということばが使われていたのですが、
今では、使わなくなったようです。
私は研究対象として、しばらくタービダイトを
みていくつ予定でいます。