2013年3月15日金曜日

99 鳥海山:活の符合

 鳥海山は大きな山です。西は海に流れ込み、北はなだらかな丘陵、南には平野があるので、独立峰として雄大な姿をみせます。雄姿は、活火山であることを忘れてしまいそうです。鳥海山の雄姿には、少し不思議なことがあります。

 昨年秋に、鳥海山(ちょうかいさん)を訪れました。秋田と山形の県境にある火山で、山頂は山形県側になっています。非常に大きな山で、日本海にまで裾野が広がる雄大が成層火山です。きれいな山容なので、出羽富士や秋田富士とよばれることもあります。
 鳥海山は、東西に延びた火山です。南北が14kmですが、東西が26kmほどで、西の裾野は日本海に面した断崖となっています。
 鳥海山には、ドライブするにはもってこいの鳥海ブルーラインが通っています。私のいった日は、遠くは少し霞んでいましたが、晴れの心地よい天気でした。鳥海山の5合目にあたる鉾立(ほこたて)まで鳥海ブルーラインできました。平日の午後も遅めであったせいでしょうか、あまり観光客もいなく、ゆっくりと見学することができました。
 鉾立の展望台の前には、奈曽(なそ)川が流れています。川の両岸は、谷が深く切れ込んで切り立った崖になっています。崖も緑が多いのですが、岩肌のでているところでは、溶岩流が多数見え、火山の山であることとがわかります。ただ、この渓谷の成因はよくわかっていないようです。
 雲がかかり山頂や渓谷が見えない時もあったのですが、天気がよかったので、気長に待つことにしました。雲が奈曽渓谷に流れこんだとき、ちょうど後ろからの太陽に光で、きれいないブロッケン現象を見ることができました。待ったかいがあり、奈曽川の源頭の稜線越しですが、鳥海山で最高峰である新山(しんざん、2236m)を見ることができました。もともと鳥海山に登る時間もなく、近くで山頂が見れればいいと思っていましたが、目的がかないました。
 新山は、鳥海山の最高峰であるとともに、現在の噴火の中心でもある中央火口丘になっています。新山の周囲は、切り立った崖となっています。この崖は、爆裂火口の一部で、北に馬蹄形にえぐれています。崖には多数の溶岩流がみえます。崩壊したあとは、東鳥海馬蹄形カルデラとよばれています。
 爆裂火口は、2500年前の噴火によって形成されたもので、噴火によって山体が大規模に崩壊しました。山体が崩壊したとき大量の堆積物が斜面を流れます。堆積物には大小さまざまな岩塊がまじっていました。大量の岩塊が、なだれのようにくずれていきます。爆裂火口の裾野には、そんな堆積物からできた流山(ながれやま)とよばれる特有の地形ができます。流山は、比較的なだらかで平らな地形なのですが、大きな岩塊がごつごつの小山をつくっています。
 なだれの堆積物は、象潟町や仁賀保町一帯に広く流れくだりました。流山の地形は、その後の火山活動による溶岩流などに覆われていて、だいぶ消されてしまいましたが、冬師(とうし)や象潟(きさかた)にかけて、残されています。この流山をつくっている火山堆積物を、「象潟岩屑なだれ」と呼んでいます。
 爆裂火口の周囲には、東から時計回りに、七高山(しちこうさん、2229m)、行者岳(ぎょうじゃだけ、2159m)、伏拝岳(ふしおがみだけ、2130m)、そして西側に文珠岳(もんじゅだけ、2005m)が、半円を描くように外輪山として並んでいます。
 新山は活火山で、1974(昭和49)年3月1日には、153年ぶりに噴火しました。新山を東西に横切る割れ目の上に、いくつかの火口ができ、マグマ水蒸気爆発が起こりました。数ヶ月の間、噴火が続きました。まだ積雪のあるころの噴火だったので、噴火による熱で雪が溶けて泥流(火山泥流といいます)が何度か起こりました。泥流が起こったのですが、幸いなことに、河川に流れこむことなく、大きな被害はありませんでした。
 新山と外輪山を東鳥海火山と呼んでいます。外輪山の文殊岳のすぐ西には鳥海湖(地形図では鳥海湖ですが、鳥ノ海という文献もあります)とよばれる池があります。鳥海湖は、噴火口に雨水がたまったもので、火口湖と呼ばれています。鳥海湖を中心として、鍋森(なべもり、1652m)や扇子森(せんすもり、1759m)を中央火口丘として、いくつかの火山があります。西に笙ヶ岳(しようがたけ)と東の月山森(がつさんもり)が外輪山となっています。南に開いた爆裂火口を囲むように外輪山があります。これらを、西鳥海火山と呼んでいます。
 西鳥海火山の地形は東鳥海火山と比べると侵食が進んでいます。東鳥海火山が新しく、西鳥海火山が古いものとなります。鳥海山の火山としての歴史の概略を紹介していきましょう。
 鳥海山では、大きく3の活動時期(ステージとよばれています)があると考えられています。古いものから順にみていきます。
 最初は、初期の火山体をつくったとされる鳥海ステージIとよばれる活動です。60万から55万年前の天狗森火山岩や鶯川玄武岩を出した火山活動です。55万から16万年前には古い火山体ができましたが、その実体はよくわかっていません。
 次に、鳥海ステージIIとして、西鳥海火山の活動がはじまります。鳥海ステージIIa/bが16万から9万年前、鳥海ステージIIcが9万から2万年前に活動します。
 2万年前から東鳥海火山の活動(鳥海ステージIII)がはじまります。2500年前(紀元前466年といわれています)の山体崩壊を起こし、象潟岩屑なだれができました。1801年や1974年には、溶岩ドームとして誕生した新山を中心とする活動が起こりました。現在も活火山として監視されています。
 火山の履歴は、過去に時間を広げた話ですが、次は空間を広げた話になります。
 秋田県の海岸付近には、南北方向に30kmほど延びる活断層である北由利(きたゆり)断層群があります。断層群とされているのは、同じ方向に延びる一連の多数の断層があるためです。また、活断層が動くということは、地震がおこるということです。このような浅い場所の断層の活動は、1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路地震)、2004年の新潟県中越地震と同じタイプで、マグネチュードに比べて震度が大きく、被害も大きなものになります。
 鳥海山のすぐ北には、北由利断層の一部だと考えられる仁賀保(にかほ)断層があります。山形県では、北由利断層の南延長にあたる庄内平野東縁断層(長さ38km)があり、いずれも活断層です。庄内平野東縁断層の北側では、1894(明治27年)に起こった庄内地震の原因となっています。鳥海山の地下にも、南北方向の断層がありそうなのですが、実体はまだよくわかりません。
 鳥海山は、全体として成層火山なのですが、新旧2つ火山群は東西に延びた火山活動をおこなってできています。マグマは東西方向の弱線にそって上昇してきていると考えられます。東北地方は、太平洋プレートの沈み込みともなう東西の圧縮の力(応力といいます)が、常にかかっているところです。そのような応力がかかる場では、応力の方向に並行な割れ目(東西方向)ができて、噴火することがあります。その原則にそって鳥海火山が活動していることになります。
 一方、大きな地質構造として、北米プレートとユーラシアプレートの境界が日本海を通っていて、南北の北由利断層や庄内平野東縁断層と並行しています。これらの南北断層は衝上断層で、日本海に対して陸側がせり上がる低角度の逆断層です。鳥海の火山は、新旧とも東西方向の構造に市内されて噴火をし、広域の断層は、南北方向で活動しています。この方向の違いは、少々不思議です。
 北由利断層は活断層なので、詳しく調べられています。北由利断層は過去に1万年前ころ、9600年前ころ、2800年前ころに活動したことがわかっています。時間スケールでみると、東鳥海火山の活動のスケールと符合します。断層の長さも30kmで、鳥海山の東西ののびも30kmほどえす。まったく次元の違った断層と火山のサイズが符合します。また、いずれも「活」のつく活動です。そして一旦活動をはじめると、人の生活に大きな影響を与えるものです。そのような偶然の「符合」が不思議でもあります。

・訂正・
前回のエッセイで、鼠ヶ関の読みを
「ねずみがせき」とふりましたが、
「ねずがせき」の間違いでした。
何人かの方からご指摘をいただきました。
ブログとホームページは修正したのですが、
メールマガジンは修正できませんので
訂正してお詫び申し上げます。
私は誤字脱字が多いので
しょっちゅうこのようなミスを犯します。
今回は固有名詞なので、大きなミスでした。
発行前には何度か見直しているのですが、
見なおすたびに、修正していくので、
そこが新たに誤字脱字をすることもあります。
これからも注意しますが、
もし誤字脱字があれば、ご指摘ください。
本当に申し訳ありませんでした。

・神代杉・
先ほどの象潟岩屑なだれの年代を
「紀元前466年といわれています」としたのですが、
これは、埋もれていた神代杉の年輪を数えたものだそうです。
神代杉とは、噴火の岩砕なだれで埋もれた杉のことです。
銘木と有名で、今のも掘っているそうです。
もちろん埋めているのは
象潟岩屑なだれの堆積物です。

・温泉・
鳥海山は活火山でもあるのに、
少々不思議ですが、温泉があまりありません。
もちろん皆無ではなく、
猿倉温泉や湯の台温泉があるのですが、
数が他の火山に比べて非常に少ないのが特徴です。
大きな山体で熱源もあり、
高く深い山なので水源もあります。
なのに火山がないのはどうしてでしょうね。
もちろんボーリングすれば
あちこちで出てくるかもしれませんが。

2013年2月15日金曜日

98 温海ドレライト:板状節理と見方の変遷

 温海(あつみ)は地質学では、特徴のあるドレライトが産することで、有名です。温海ドレライトと呼ばれ、多くの地質学者が知っているところです。ただし、遠方の地質学者はそれほど訪れていないのが現状ではないでしょうか。そんな温海ドレライトに見方が変遷しています。

 山形県と新潟県の海岸沿いの境界は、鼠ヶ関(ねずがせき)です。鼠ヶ関は、東北と越後の境界ともなります。ここには古くから関所があり、大和民族が蝦夷に進出するときの拠点にもなっていました。鼠ヶ関は、白河関と勿来関とともに奥羽三関とされ、源義経が平泉に逃げる時に通った道だとされています。地元の資料では、歌舞伎の勧進帳の舞台となったともいわれていますが、他の資料では、加賀国の安宅の関(石川県小松市)での物語となっていますが・・・。
 山形と新潟の県境は葡萄山脈の花崗岩があり、険しい海岸沿いになります。山形県の新潟県よりの海岸沿いに、温海という町があります。温海と書いて「あつみ」と読みます。もともと山形県西田川郡温海町だったのですが、2005年の市町村合併によって、鶴岡市に併合されました。
 温海は、地質学では有名なところです。温海ドレライトと呼ばれる岩石が分布しているところだからです。英語のdoleriteの読みをそのまま用いたものです。ドレライトは、玄武岩マグマが、地下の比較的浅いところに貫入して、ゆっくり冷えてできた岩石です。
 温海地域には、ドレライトが、南北25km、東西1から4kmの範囲にわたり、シート状(岩床と呼びます)に、長く露出しています。シートの厚さは、場所によって変化していて、10mから300m以上になるところもあります。
 温海ドレライトが有名になったのでは、「マグマの化学的性質」と「取り込んでいるもの」の特徴、「節理の見事さ」でした。
 「マグマの化学的性質」とは、マグマが「アルカリ岩」と呼ばれるものである点でした。
 火山をつくるマグマには、大きく分けて、アルカリ、ソレアイト、カルクアルカリという3つの系列があります。アルカリ系列とは、アルカリ(ナトリウムとカリウム)を多く含み、カルクアルカリ系列はカルシウム(CaO)を多く含み、ソレアイト系列は鉄を多く含むマグマです。厳密にはいくつかの定義があるのですが、マグマの起源や組成、マグマの固化(固結といいます)過程の違いによって、系列が分けられています。日本列島の多くの火山は、ソレアイトとカルクアルカリのタイプが多いのですが、日本海側には、量は少ないのですが、アルカリ岩が分布しています。
 温海ドレライトは、その珍しいアルカリ岩でした。アルカリ岩のマグマの活動時期は、日本海が拡大した時期(中新世、1500万年前ころ)に活動したものです。その点で地質学的にも、興味深いマグマとなります。
 「取り込んでいるもの」とは、捕獲岩のことです。マグマが上昇してくる時、途中にあった地下の岩石を取り込んでくることがあります。温海ドレライトには、斑レイ岩を捕獲岩として取り込まれています。かつては、斑レイ岩は下部地殻を形成していると考えられていたました。
 1964年に久城育夫さんは、温海ドレライトが捕獲している斑レイ岩石が下部地殻を構成していたものであることを、詳細な岩石の検討で明らかにしたので、有名になっていました。
 「節理の見事さ」の節理とは、マグマが冷え固まった時、体積が少し小さくなります。そのとき角柱(多くは、5から6角)になることが多いのですが、温海ドレライトでは、層状の節理が見事に発達しています。このような節理を板状節理といいます。非常に綺麗な幾何学的な模様で、不思議な節理でもあります。ただ節理を横からの断面をみると、角柱状になっているのですが。
 以上のようなことから、温海ドレライトは、地質学者の間では有名になっていました。
 私も、名称だけはよく知っていましたが、昨年の秋にやっと訪れました。道の駅「あつみ」の海岸やいくつかのところで、岩石の様子をみることができました。少々風化はしていますが、見事な板状節理もあります。
 近年は、少々温海ドレライトに関する見方が変化してきているようです。岩手大学の土谷信高や室蘭工業大学の後藤芳彦さんたちは、新しい見方を示しています。その根拠は、新しい観察や記載に基づいたものです。
 まず、一番重要な観察は、温海ドレライトに下部地殻が捕獲されているのではなく、デイサイト~安山岩(以下デイサイトと呼びます)にのみ捕獲岩が含まれていると報告しています。デイサイトは、アルカリ系列ではなく、カルクアルカリ系列になります。久城さんの報告とは違っています。
 次に、デイサイトには、ドレライトが取り込まれていて不規則な形になっています。すでに固まっているドレライトに貫入していることも、わかってきました。これは、久城さんの考えでは説明できない、不思議なデイサイトの産状となります。
 3番目に、デイサイトにはカンラン石(いまでは変質して残っていない)があり、そのカンラン石には、クロムスピネルとよばれる鉱物が含まれています。さらに、取り込まれたドレライトにも、クロムスピネルが含まれてます。両者のクロムスピネルは、化学的には違うものだとわかりました。クロムスピネルは由来の違うもののようです。
 このような観察や記載から、久城さんのモデルは、変更を余儀なくされました。土谷さんたちのモデルは、少々複雑になりますが、紹介しましょう。
 アルカリ系列のドレライトのマグマは、マントルで形成され、上昇してきます。その途中の中部地殻にマグマだまりができました。マグマだまりから、マグマが上昇し、堆積物のなかにシート状に貫入していきます。一部は海底に噴出します。
 地殻下部にドレライトがあった時、その熱によって、下部地殻の岩石が溶けて、カルクアルカリ系列のデイサイトのマグマが形成されます。ドレライトとデイサイトのマグマが一部混じります。これをマグマ・ミキシングといい、このとき、スピネルをもつカンラン石を含んだ不思議な形のドレライトが取り込まれます。デイサイトのマグマが上昇してきて、周りにあった下部地殻の岩石を捕獲します。これが捕獲岩の起源となります。上昇したデイサイトマグマは、ドレライトのマグマだまりを貫きます。さらにデイサイトマグマは、地表付近のドレライトのシートや堆積物を貫入していきます。
 少々複雑なモデルですが、現状の証拠からこのようなシナリオがつくられました。本来であれば、もっと研究を進めて欲しいのですが、土谷さんたちの研究は、興味は別の方に向かっているようです。
 温海のドレライトは、海岸沿いの岩礁として点々と分布し、みることができます。ドレライトの板状節理が目を引くので、その存在はすぐにわかります。ドレライト自体は、観光化されていません。しかし、私は、あちこちにひっそりと佇む節理に、感動を覚えます。そして、節理の背景にあるものの見方の変遷をみることができました。

・先輩後輩・
土谷さんは大学、大学院の先輩で
後藤さんは後輩にあたります。
当時は、よく一緒に飲んだものです。
しかし、私は地質学のプロパーを離れたので、
なかなか会う機会がなくなりました。
二人とも地質学プロパーの道を歩まれていますが
研究の興味は別のところにあるようです。
ところが、なぜか2002、2003年ころ、
温海ドレライトの研究を協同でされています。
きっかけは知りませんが、
できれば、研究を完成させて欲しいものでした。
今回参考にしたのは、学会講演の抄録で
「Goto and Tsuchiya」で論文の発表準備中だそうでしたが、
探したのですが、論文は発表されていないようです。
少々心残りですが、仕方がありません。
別の優先すべきテーマがあるのでしょうね。

・春近し・
北海道は寒さのピークが過ぎたのでしょうか、
寒さも、ここしばらくゆるんでいます。
朝夕は冷え込みますが、
昼間はかなり温度が上がるようになりました。
天気のいい日には、
道路の雪も溶けるようになって来ました。
まだ少し雪の季節は続きますが、
春が少し近づいていきた気がします。

2013年1月15日火曜日

97 笹川流れ:太古の花崗岩の不明瞭さ

 新潟県の北部で地形は、平野から山地へと変わります。山地が海までせり出しています。その一番の競り合うのが、「笹川流れ」とよばれているところです。山が海にぶつかっているので、海の流れも激しく、陸も険しいとこで、交通の難所ともなっています。そしてそこは、大地の構造線の錯綜するところでもありました。

 新潟県北部、越後平野がいったん途切れ、三面(みおもて)川の河口付近に広がる小さな平野に村上市があります。村上市は村上藩の城下町として栄え、その面影が町には残されています。
 村上から北への庄内平野の鶴岡市や酒田市へ向かう道は、どのルートも険しいものとなります。海岸線は、難所をたどる険しいものですが、JR羽越本線と国道345号線が通るルートです。海岸沿い道の他にもう一つ、山側の道があります。三面川を遡ろうとすると朝日山地が立ちはだかるので、支流で北へ向かう道は、高根川から、更に支流の大須戸川へと北上して遡る道ですが、やがては、勝木で日本海側に出て、海岸沿いを進む道があります。これが国道7号線が通るコースです。しかし、勝木はまだ道半ばで、険しい海岸を辿るルートになります。海路も使えるはずですが、冬の荒れた気候ではなかなか大変な航路となったと想像されます。
 昨年秋、この海岸沿いの道を通りました。国道345号線です。険しいところでは、トンネルが続いてあります。しかし、幸い道はすいていたので、景色を見ながら、のんびりと進むことができました。
 国道345号線が国道7号線に合流するところまで、3分2ほど進んだあたりを「笹川流れ」と呼ばれています。笹川流れは、国の名勝および天然記念物に指定されている(「笹川流」と表記されています)ところでもあります。
 天然記念物に指定されたときの解説文によると「黒雲母花崗岩ヨリ成ル葡萄山脈ノ西翼ヲ成セル」とあります。
 葡萄山脈という地名は、いまではあまり使われていないようですが、国道9号線と日本海の間の険しい山地のことで、その中の北に位置する蒲萄山(795.4m)からとった名前です。蒲萄山と新保岳(852.2m)の間に笹川という川があります。笹川が海の注ぐところに笹川の集落があります。ここから勝木までを笹川流れといいます。
 葡萄山地をつくる花崗岩が、そのまま海に突き出しているところが、笹川流れになります。花崗岩は風化されやすく、風化されると真砂(まさ)とよばれる、白っぽい砂になります。このあたりの海岸は白砂の綺麗な浜となっています。ただし、海岸線が険しいため、狭い海岸が多いのですが。
 海の激しい波によって海岸の花崗岩は侵食され、岩礁や洞窟なども奇岩多数あり、入り組んだ海岸となっています。そこを潮が激しく打ちよせることで、激しい流れのようになり、「笹川流れ」と呼ばれているそうです。
 観光地にもなっています。奇岩名勝をめぐる遊覧船があるので、乗りたかったのですが、朝早くたどり着いたので、2時間近くも待つのはできなので、諦めて、次への目的地へと向かいました。
 では、葡萄山地を構成している花崗岩は、葡萄山地だけでなく、周辺地域に広くみられます。その本体ともいうべき花崗岩類は、朝日山地を中心に広く分布します。
 花崗岩には、古い時代(白亜紀後期~中期)の活動した片麻状に圧砕された花崗岩(マイロナイト、myloniteとよばれています)と、新しい時代(白亜紀後期)の花崗岩があることがわかっています。片麻状の花崗岩は、朝日山地の中央部から北西の村上市山北(さんぽく)地区まで広がり、特徴があるため「日本国片麻岩」と呼ばれています。
 また花崗岩の分布地域には、ジュラ紀に形成された付加体だとされている岩石類もあります。付加体とは、海洋プレートが列島に沈み込む時、上に溜まっていた頁岩、砂岩、チャートが列島にはぎ取られて付加したものです。このような中生代の付加体を含むものが朝日山地にはあります。
 ここまでは、今見えている地質なのですが、事実なのですが。それぞれの岩石や地質やその所属や解釈は、研究者によって一致していません。
 なぜ論争をしているのかというと、「棚倉(たなくら)構造線」という非常に重要な地質境界の北方延長が通っているところだからです。そもそも棚倉構造線は、阿武隈地域で、東北日本(阿武隈帯)と西南日本(足尾帯)を区分する重要な構造線であると考えられ、定められました。棚倉構造線は、阿武隈地域では明瞭なのですが、北への延長が朝日山地付近を通っているはずなのですが、その連続が定かではありません。
 朝日山地付近の花崗岩類を中心とした地帯を「朝日帯」といい、朝日帯の西側の付加体を含む部分を「足尾帯」といいますが、付加体が複雑に分布しているので、その境界をどこにするかが問題になります。
 その考え方により、構造線も、「日本国-三面構造線」と「棚倉構造線」に区分したり、「三面-棚倉構造線」の連続させ一連と考えるものもあります。
 三面構造線あるいは棚倉構造線は、西南日本と東北日本を区分するものといいました。ところが、前回のエッセイで、フォッサマグナも西南日本と東北日本を区分するとを説明しました。フォッサマグナとは、西を糸魚川‐静岡構造線、東を新発田-小出構造線という大規模な断層によって、古い時代の岩石(基盤岩類)が、巨大な溝のような落ち込みができました。その溝に新しい時代の堆積物や火山岩類がたまったものです。フォッサマグナは日本列島の現在の地質構造の大きな区分となっています。
 ところが基盤岩類でみていくと、フォッサマグナの東側にも、西南日本と似た岩石があり、帯状に分布しているのがみられます。フォッサマグナは新しい時代の構造的な境界ではあるのですが、古時代の岩石に対して、大きな地質学的な境界となっていないことになります。
 古い時代の日本列島の地質は、棚倉構造線で切れています。つまり、棚倉構造線が、基盤岩類の境界となっているのです。そのもう一つの日本の境界の北方延長が、笹川流れのあたりを通っているのは確かです。
 葡萄山脈の花崗岩は、新しい時代の花崗岩にあたり、位置的には付加体を中心とする足尾帯の西側にあることになります。本来の地質区分でいえば、西南日本に属することになるかもしれません。しかし、その境界はまだ不明瞭なままであります。
 笹川流れの周辺の花崗岩は、古い時代の地質境界の外に押しやられるかのように、海にせり出しています。そのような太古と花崗岩と海の境界が笹川流れですが、その背景には不明瞭な太古の境界が隠されていたのです。
 幕末の志士で詩人でもあった頼三樹三郎(頼山陽の子)は、笹川流れを
  松島はこの美麗ありて此の奇抜なし
  男鹿もこの奇抜ありて此の美麗なし
と、讃えています。三樹三郎がいうように、笹川流れには、奇抜さ、そして美麗さがあります。そして、太古の不明瞭さも流れの中にあるのかもしれません。

・説の評価・
地質の地帯区分は、大地の区分を意味します。
明瞭な線が大地に刻まれていれば簡単なのですが、
明瞭さに欠けていると、
単に線を引くだけではすみません。
詳細な野外調査に基づいて、線の根拠を探り、
その結果が一本の線になるのです。
そこには、人ぞれぞれの思惑が絡んできます。
いくつもの説がでてきたとき、
議論の強弱ではなく、
論理の確かさ、証拠との整合性が
評価の基準になるはずです。
それでも、なかなか決着を見ないのですが。

・大学の役割・
昨日の連休には、多くの地域で成人式がありました。
来週には、大学のセンター試験があります。
各地の私立中学校の入試ももう終わったでしょうか。
1月末には、大学の期末テストがあります。
2月には大学の一般入試がスタートし
来年春に向けての活動が本格化します。
企業説明会も2月から本格化しますが
これは3年生の次の年の春へ向けの活動です。
以前から問題になっていますが、
就活だけが、異常な速さでスタートします。
世間の動きがそうなのだから仕方がないのでしょうが、
4年制の大学が実質3年のようになってきています。
専門学校では専門だけを教えますが、
大学では教養や語学も教えます。
教養人養成としての役割を果たしているはずなのですが、
今では基礎力養成機関という位置づけが大きくなりつつあります。
大学の必要性や社会的役割を見直す動きもうなづけます。

2012年12月15日土曜日

96 フォッサマグナ:くぼちの変換域

 フォッサマグナという言葉は、中央構造線とともに、地学だけでなく、中学校の社会や高校の地理でもでてきました。中央構造線は日本語になっているのに、フォッサマグナだけカタカナ書きなのは、なぜでしょう。フォッサマグナという言葉も、英語の単語として聞いたことのないものです。フォッサマグナの秘密を見ていきます。

 今年の秋、長野県を中央から北部へ国道147号線を走って縦断しました。147号線は東西に高い山なみと並行に、姫川に沿って通っています。激しい雨に戸惑いながら、ただひたすら進むしかありませんでした。
 長野の147号線を走ると、気づくことがあります。それは、山なみの伸びる方向が、他の地域と違っているということです。中国、四国、近畿の山脈の多くは、東西にのびています。ところが、中部地方になると突然、山なみが南北にのびるようになります。日本アルプスとよばれる飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈は、ほぼ南北にのびています。そして関東に近づくと乱れていきます。そして東北地方では、南北にのびて安定します。
 地形ができる背景には、必ず地質学的原因があります。地質学的に、山脈をそのような向きに形成した必然性があるはずです。地形が大きければ大きいほど、地質学的原因も大きなものとなります。日本アルプスの形成は、第一級の地質原因といえます。だれもが学校で習ったことがあるフォッサマグナが地質学的原因となっています。
 フォッサマグナとは、ラテン語のFossa Magnaが語源となっています。Fossaは「みぞ」や「掘る」という意味で、Magnaは「大きい」という意味です。Fossa Magnaは「大きな溝」という意味で、日本語では「大地溝帯」や「中央地溝帯」と呼ばれることもありますが、ほとんど使われることなく、フォッサマグナとカタカナ書きされています。
 フォッサマグナと最初に名付けたのは、「お雇い外国人」でドイツの地質学者のナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854年~1927年)でした。ナウマンは、1886年にこの「くぼち」をフォッサマグナと呼びました。それ以降、境界や起源についての論議はまだ決着をみていませんが、フォッサマグナのまま使われています。その地質学的な重要性は、現在でも健在です。なぜなら、日本列島にとって、地質学的に、地形的にもっとも大きな構造の一つだからです。
 「くぼち」ですから、両側に高まり(山脈)があり、低地があることになります。フォッサマグナは、日本海側の長野と新潟から太平洋側の静岡から神奈川まで広い範囲を意味しています。西側の境界は比較的明瞭で、糸魚川‐静岡構造線(糸静線と略されることもあります)と呼ばれていますが、東縁は新発田小出構造線から柏崎千葉構造線とされていますが、諸説があります。それは、あまりその境界が明瞭ではないからです。
 フォッサマグナの南部にあたる関東山地には、西南日本や東北日本と同じ年代の地層を含む大きな地質体があるため、いろいろな解釈ができて、混乱が生じています。この異質な地質体は、フォッサマグナが活動を初めて開いたとき、西南日本か東北日本から切り離されました。その時、異質な地質体がフォッサマグナ内で残されたと考えられています。その後、フォッサマグナが閉じる活動に転じたときに、フォッサマグナ内にできた新しい地層とともに圧縮され混在したと考えられています。
 フォッサマグナは、ちょうど本州が東西に分けられるところで、地質学的には大きな境界になります。フォッサマグナの東西では、列島の孤の形態が変わります。そして地質の構成や連続性も断たれます。
 東側(東北日本と呼ばれます)では、地質構造は南北に伸び、太平洋プレートの沈み込みである日本海溝の並びに対応しています。北海道中央部で再び東西に曲がります。一方、西側(西南日本と呼ばれます)は、東西に伸び、フィリピン海プレートの沈み込み対応しています。九州から再び南北に地質構造は伸びます。
 フォッサマグナは、日本列島の大きなつなぎ目、あるいは変換域になります。フォッサマグナの溝の深さは、8000~9000mに達するとされています。このような地質の大きな境界の「くぼち」には、新しい時代(ネオジンから第四紀にかけて)の堆積岩がたまり、マグマ活動による深成岩や火山岩が形成されました。
 近年では、フォッサマグナは北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界になるという解釈がでてきました。かつては、両プレート境界は、北海道中軸部の日高山脈とされていました。しかし、1983年の日本海中部地震があってからは、日本海東縁部からフォッサマグナをプレート境界とする考えが支持されるようになりました。
 フォッサマグナは、西は糸魚川‐静岡構造線、東は新発田-小出構造線や柏崎-千葉構造線など、日本でも第一級の構造線が集まって形成されたものです。構造線とは、巨大な断層が多数集まって形成されます。構造線の両側の地層や岩石は、まったく違ったものになっていることがほとんどです。それは、断層によって大きな変位を生じたということです。断層の変位とは、水平方向や垂直方向に大きくずれて移動することです。
 構造線は、多数の断層が繰り返し活動することでその変位を蓄積していきます。そのような場は、地質学的に大きな力が働いているところです。日本列島は常に海洋プレートが沈み込んでいる場になっていました。ですから、沈み込むプレートによる圧縮の力が日本列島にかかってるので、山脈が一定の方向に並びます。そのプレートの沈み込みを乱す地質学的に大きな力が、フォッサマグナのあたりにはかかったことになります。それこそが、フォッサマグナの成因となります。
 約2000万年前ころ、ユーラシア大陸の縁にあった後に日本列島になる部分が分離します。分離後、日本列島とユーラシア大陸の間には日本海ができます。分離したとき、日本列島はフォッサマグナをはさんで2つの列島(東北日本と西南日本)に分かれていました。列島の間は海になっていて、そこに堆積物がたまりました。その後、フィリピン海プレートの沈み込み帯に、伊豆半島を乗せた小さい大陸地殻が、フォッサマグナ地域に、200万年前~100万年前に衝突しました。これによってフォッサマグナ地域が隆起し、陸化しました。
 非常に複雑な地質学的背景、そして歴史があります。今も、フィリピン海プレートの衝突は続いています。その影響で、伊豆大陸の前線の丹沢山地や日本アルプスなども上昇を継続しています。山なみの大きな変化には、大地の大きな営みがあるのです。

・派生断層・
広域の地形図では構造線が見えたとしても、
現地で主断層が確認できることはほとんどありません。
主断層は変位が大きすぎて見えなくなっています。
その断層から派生した断層が見えることがあります。
糸魚川ジオパークでも、その派生断層がみることができます。
この断層は、糸魚川‐静岡構造線の派生断層です。
少々手をかけすぎですが、
安全にアプローチでき、解説パネルもあります。
私がいったときは雨でしたが、
天気のいい日ならじっくり観察できるでしょう。

・フォッサマグナミュージアム・
糸魚川市にはフォッサマグナミュージアムがあります。
そこではフォッサマグナ地域に関する
展示と解説がなされています。
そしてヒスイに関する情報をいろいろ示されています。
糸魚川は青海(おうみ)ヒスイが有名ですが
それは別の機会に紹介します。

2012年11月15日木曜日

95 上高地:大地のレリーフ


 秋になる前に、上高地にいきました。半日の滞在でしたが、上高地の素晴らしい景観を味わうことができました。しかし、今回のエッセイは、その景観にではなく、小さいなレリーフから大地のレリーフに思いを巡らせましょう。


 長野県の松本盆地の標高は、500メートルから800メートルもあります。秋でも、その分涼しさがあるようです。松本盆地の中心、松本市から西に向かって梓川を遡って行く国道158号線をすすむと、島々(しましま)あたりで急に梓川の谷は険しくなります。そしてつぎつぎとダムが現れます。
 沢渡(さわんど)まではマイカーで行けますが、そこから先、上高地へ向かう一般車の通行は規制されています。マイカーの人は沢渡で車を降りて、バスかタクシーでいくことになります。沢渡からも険しさや急傾斜が続き、中の湯で、国道158号線は安房(あぼう)トンネルに向かいますが、上高地へは釜トンネルの県道の方面へ向かいます。釜トンネルは、道幅も狭く、傾斜もきつく、交通量が多ければ、トラブルが多発したであろうことが想定されます。
 トンネルと抜けても、山は深まりますが、傾斜がおだやかになり、梓川の流れはゆるやかになります。焼岳の荒々しい山腹を右に見ながら進むと、濃い緑から濃い青の大正池が出現します。焼岳の火砕流が、周辺の険しいに地形のわかり、穏やかな梓川の流れを生んでいるのです(前回のエッセイで紹介)。
 更に進むと、日本でも有数の観光地、上高地にたどり着きます。上高地の標高は1500メートルになり、松本から一気に1000メートルも上がってきたことになります。たとえ観光客が多くても、上高地の空気感は、松本のものとは明らかに違うものです。標高の変化だけでない、異国の地に来たような非日常空間がそこには広がります。そんな異空間が上高地へと人を誘うのかもしれません。
 日本には30地域の国立公園がありますが、1934(昭和9)年3月16日から国立公園の指定がはじまり、1934年12月4日に中部山岳国立公園の一部として上高地も指定されました。穂高岳や立山などの3000メートル級の日本アルプスの山々があり、新潟、富山、長野、岐阜の四県にまたがる広大な公園となっています。特に上高地は、アプローチがいいことと景観の素晴らしさ、そして施設の充実もあって、登山客だけでなく観光客も多数集めています。
 上高地の観光名勝については、いろいろな人が多数書かれているでしょうから、少し違った視点で述べましょう。上高地の風光明媚とはかけ離れたある小さい場所からです。ウエストン碑からです。
 ウエストン碑は、上高地の中心である河童橋を渡り、右岸側を下流に少し歩くとあります。森の木々の影に隠れた岩場に、ひっそりとあります。ウエストンは、日本滞在中に、補高や槍ヶ岳などアルプスを歩き、近代的な登山を日本の持ち込ました。そして「日本アルプスの登山と探検」という紀行文で、日本アルプスを世界に紹介しました。ウエストンの喜寿(77歳)を祝って、レリーフがつくられました。現在のレリーフは二代目だそうです。
 ウエストン碑は短時間でめぐる観光コースでもあり、観光客も多数訪れるところです。今回、取り上げるのは、ウエストンには申し訳ありませんが、レリーフ本体ではなく、レリーフを埋め込んだ岩石です。レリーフが埋められているのは、滝谷花崗閃緑岩という岩石です。
 花崗閃緑岩とは、花崗岩と閃緑岩の中間の化学組成をもつ岩石です。花崗岩とくらべて有色の鉱物である黒雲母や角閃石などが多くなり、やや黒っぽくなります。
 信州大学の原山さんは、この滝谷花崗閃緑岩が、地表に顔を出している花崗岩類では、世界でもっとも若いことを、1992年に報告しています。形成年代は、140万年前です。日本でも、花崗岩類がいろいろなところから見つかっていますが、これほど若いものはありません。花崗岩類は大陸や列島の地殻を作っている岩石で、列島の形成史で重要な意味を持ちます。
 そもそも花崗岩は地下深部でマグマがゆっくりと冷え固まったものです。ですから、形成時には地下深部にあったものが、地表に顔をだすようになるには、それなりの地質学的作用が必要となります。
 日本の多くの花崗岩は、上にあった岩石類が浸食を受けて削剥される作用で露出します。削剥が激しい場は、大地が上昇し山が形成されているところです。現在険しい山脈があることろは、削剥が激しいところとなります。日本アルプスは、まさにそんなところです。
 原山さんたちは、日本アルプスは、230万~150万年前と130万年前以降の2度にわたって激しい隆起があったことも明らかにしてきました。
 上昇の要因のひとつは火山です。北アルプスの後立山連峰には200~160万年前に活動した火山があります。穂高岳は、火山岩(穂高安山岩と呼ばれる溶結凝灰岩)でできていますが、176万年前には超大型の火山噴火があり、東西に流れた火砕流(丹生川火砕流)が高山盆地や松本盆地を埋めてしまいました。
 上昇のもうひとつの要因は、断層などの地殻の運動です。もともと直立していたカルデラ(火山噴出にともなっておこる陥没)が、今では60°から70°も東に倒れていることがわかってきました。その傾斜を起こした運動は、東から西に低角度でずれていく衝上断層(スラスト)によるものだと考えられ、約130万年前には動き始めていたようです。
 その断層が活動したころ、激しい火山活動をこしていたマグマは、深部にまだ溶けたままありました。マグマの浅部や周辺の一部は冷え固まってたでしょうが、深部にはまだ固まっていないマグマがありました。
 衝上断層で切られ、持ち上げられた滝沢花崗閃緑岩ですが、その深部にはマグマがあり、地下3~4kmには熱いまま、まだ固まらなかったようです。衝上断層でマグマが上昇させら、上の花崗閃緑岩も持ち上げられてきたと考えられます。このマグマが固まったものが滝沢花崗閃緑岩だというのです。
 激しい火山活動とスラストによる運動、それに伴うマグマ自身の再上昇が、世界で最も若い滝沢花崗閃緑岩を露出させたようです。
 上高地は、あまりに観光地であり、そして景観が異質に見えるのですが、そこには大地の激しい活動、予想を裏切るような連鎖がありました。ウエストン碑のレリーフの土台になっている岩石には、そんな大地の歴史が刻まれていました。レリーフの土台の滝谷花崗閃緑岩は、大地の激しいレリーフを生み出す作用が働いていました。レリーフの土台は、大地のレリーフが顔を出したのです。

・当たり前・
今年の秋に上高地へいったのですが、2度目です。
一度目は上高地に宿をとってじっくりと見たのですが、
今回は、焼岳と、岳沢や梓川をみることが目的でした。
実は岳沢のカールの話を書く予定でした。
上高地でもっとも有名で目立つ景色は、
河童橋から梓川越しにながめた
前穂高の山並みでしょう。
その岩壁の前には、岳沢のカールが大きく広がっています。
この景観には誰もが息を呑みます。
でも、考えたた当たり前の題材すぎるような気がしました。
原山智・山本明著の『超火山「槍・穂高」
―地質探偵ハラヤマ 北アルプス誕生の謎を解く―』
(2003、山と渓谷社)
を思い出したので、
その話をもとに上高地の滝谷花崗閃緑岩を書くことにしました。

・雪虫・
思ったがほど気温が下がらない北海道です。
先日の日曜日は快晴で放射冷却で冷えそうでしたが、
それほどもでなく、昼間の日差しが暖かさをもたらします。
でも週末には、虫がいっぱい飛んでいるので
やっと雪虫が飛び始めたかと思いました。
よくみると綿毛がついていません。
雪虫は綿毛があるのに
先日の大量発生した虫にはありませんでした。
なんという種類なのでしょうか。

2012年10月15日月曜日

94 焼岳:主稜線上の火山

 北アルプスの主稜線をなす焼岳を見にいきました。予定通り、飛騨側から間近に眺めることができました。稜線上の安房峠からも眺めるつもりでしたが、予定を変更しました。信州側のから焼岳を眺めることにしました。

 9月9日から野外調査にでました。最近、大学の校務が非常に忙しくなり、1週間の調査期間をとるのがやっとでした。校務が厳しいほど、気分転換も必要だと思って、忙しさの隙間を縫って出かけました。準備もほどほどに、9月9日、千歳空港から富山空港に飛びました。富山空港からは、レンタカーでの移動です。
 私が調査に出るときは、その地域で主にみたい地質の地点を決めて、それらをめぐるコースを決めて、日程にあわせて宿泊する宿を決めます。しかし、事前準備も、コースの様子も詳しく調べません。天候に左右されることもあるし、あまりコースを決めすぎると、無理してめぐってしまったり、予定外の見所や、思わぬ発見があっても、融通がきかなくなるからです。なんといっても先入観を持たないで、実物をみたいということがあります。ですから、最低限の情報しか収集しません。
 最初の目的地は、北アルプスの焼岳(やけだけ)を見ることでした。もともと登ることは予定していません。見るだけです。ですから、西側(新穂高温泉側)の眺めのいいところからと、できれば安房峠の稜線から見れればと思っていました。時間や天候、交通手段に都合で、安房峠を行くか安房トンネルをいくか悩ましいところでした。まあ、現地で決めるつもりでした。上高地は当初、予定していませんでした。以前にもいったことがあるからです。
 飛騨側から焼岳を見るために、岐阜県飛騨市神岡の宿をたって、新穂高温泉のロープウェイの駅に向かいました。平日でもあり、朝一番であったこと、紅葉には早く行楽シーズンとはずれていたので、道路は空いていました。しかし、海外からの団体客がバスで来ていたので、ロープウェイはかなり混んでいました。
 ロープウェイの終点は西穂高への登山口にもなっていて、展望台もあります。展望台からの眺めはいいのですが、周囲を散策したのですが、木々があり展望が開けていません。展望台からの眺めがベストです。いった日は、あまり天気がよくなく、山には雲がかかって北側がよく見えませんでした。ですから穂高や槍ヶ岳を眺めることはできませんでした。しかし、展望台から東から南方向はよく見えました。目的である焼岳は間近に見ることできました。噴気も明瞭に見ることができました。
 北アルプスは、飛騨山脈のことで、南の乗鞍岳から北に焼岳をとおり、穂高連峰から槍ヶ岳、烏帽子岳までが主稜線となります。そほこかに、立山連峰、後立山連峰、常念山脈などの山並みになります。焼岳は、主稜線の一部となっています。そして、アプローチのいい地となっています。
 焼岳は、周辺に分布する火山群の一つであり、焼岳火山群と呼ばれています。安房(あぼう)峠(標高1790m)の北に位置するアカンダナ山(標高2019m)から、白谷(しらたに)山(標高2188m)、大棚(おおだな)山、焼岳(標高2455m)山、岩坪(いわつぼ)山(標高1899.5m)、割谷(わるだに)山(標高2224m)の火山からなります。
 もちろんは主峰は、最高峰である焼岳です。焼岳は、信州(長野)側での呼び名であって、飛騨(岐阜)側では硫黄岳と呼ばれていました。しかし、近年では焼岳が定着しています。
 焼岳火山群の中で、焼岳とアカンダナ火山では、噴火の記録も残っており、活火山になります。
 アカンダナ火山は、1万年前よりあとに活動を始めました。この噴火によってたくさんの噴出物がでたため、山体が崩れて地すべりが起こりました。山頂の溶岩ドーム(アカンダナ円頂丘溶岩)と溶岩流(安房谷溶岩や安房峠溶岩)が見つかっています。さらに、6500年前までの活動によって、川がせき止められて、平湯の東にある安房平に湖ができました。
 アカンダナ山は、2003年に活火山の見直し作業で、1万年前以降の火山活動があったことがわかったので、焼岳とは区別して活火山に指定された。
 焼岳は、約2万年前から活動を開始し、現在も活動中の活火山です。溶岩ドームと溶岩流、それらの崩落に伴う火砕流堆積物が見つかっています。岩屑なだれ(黒谷岩屑なだれ堆積物)が起こったこともわかっています。
 焼岳は、マグマが噴出したのは約2300年前です。この時の噴火は、上高地側から見える焼岳の部分や山頂の溶岩ドーム(焼岳円頂丘溶岩)ができました。周囲には、火山噴出物(中尾火砕流堆積物)がゆるやかな傾斜ができました。岐阜側の中尾温泉は、この火砕流の上にできています。
 焼岳は、20世紀初頭(1907年から1939年にかけて)になって、激しい噴火をとなう活動を何度もしました。その後、1962年から翌年にかけて噴火では、焼岳の小屋が噴火で壊れて、小屋番をしていた数名が大けがを負いました。この噴火では、松本市でも火山灰が降りました。また、安房トンネルの工事に関連した道路工事で、中の湯で1995年に水蒸気爆発が起こり、その直後に泥流が発生して、作業員4名が亡くなっています。
 焼岳の東側は、一大観光地である上高地が広がります。上高地の景観に、焼岳は少なからず影響を与えています。
 焼岳の東のすぐ下には、上高地から流れる梓川(あずさかわ)があります。上高地から大正池までのゆったりとした流れが、そこより下流では急峻な地形となります。そのような大きな変化は、焼岳の噴火によってできました。
 焼岳が噴火して、東に噴出物が流れると、梓川をせき止めることになります。有名なのは、1915(大正4)年の噴火で、現在の梓川がせき止められて、現在の大正池ができました。また、1962年や1995年の噴火でも、梓川を一時的ですがせき止めました。大正池のたおやかさは、焼岳の荒々しさによってできたのです。
 焼岳は、規模は小さいですが、噴火を続けている活発な火山です。現在も山頂からは、噴気が出ています。
 午前中は焼岳を西側からみました。午後は、悩んだ末、レンタカーを平湯の駐車所にとめて、バスで安房トンネルを通り、上高地にいきました。その途上に焼岳を東側から眺めました。そして、車窓から焼岳の姿を眺めました。
 観光地として有名な大正池ですが、その名称は、大正4年の焼岳の噴火によってできたからです。今も噴気を上げている荒々しい焼岳が、大正池の西側に峻立しています。上高地に向かう険しい道も、焼岳の火山噴出物によるものです。北アルプスの奥深く上高地にも、火山があるのです。上高地の観光客や登山者のうち何人が、火山の存在に気づいているでしょうか。
 上高地を見学した後、バスで平湯にもどりました。レンタカーで再度安房トンネルを通り、焼岳のふもとの中の湯温泉に泊まりました。残念ながら、翌日は雨で、焼岳をもう眺めることはできませんでした。

・巡検・
ある地域の地質を見て回ることを巡検と呼んでいます。
学会などでは、その地域を研究している地質学者が
案内者となって、めぐることが多いのですが、
私は、主に一人で巡検しています。
このエッセイでも何度か紹介したかと思いますが、
私は、代表的な地質の現場で、
事前に資料を集めることなくでかけます。
それは、先入観なしにじっくり眺めてたいと
考えてのことです。
帰ってきてから、資料を収集します。
まずは、個人で心ゆくまで
眺めていることにしています。
効率は悪いのですが、
新鮮な味わいができます。
見逃した場所やもっと優先度が高いところもあったりもします。
でも、そんな場がいくつもあるのなら、
再度そこに行けばいいだけです。
富山には何度がいっていますが、
今回のコースを富山からはじめたのは、
そんな見残しがあったからです。
もちろん、今回もいくつか見残していますが。

・上高地再訪・
実は今回の調査には、上高地の訪問は
予定に入っていませんした。
もともと、安房峠を通って、焼岳を眺めたいと考えていました。
しかし、山並みを見るには天気も悪そうだし、
トンネルも通りたいしというので、
午後は思い切って予定を変更して、
上高地に出かけることにしました。
翌日チャンスがあれば、
安房峠に戻ることも考えていましたが、
残念ながら雨でした。
まあ、次の機会ということで。

2012年9月15日土曜日

93 恵庭:保護と破壊

 軽石を求めて、ある夏の日に、清流を遡りました。河原では火山噴出物が多く、望んているような軽石が見つかりませんでした。清流沿いの崖から、軽石を大量に含んでいる地層がありました。軽石から、人による自然保護と自然による自然破壊について考えました。


 以前、恵庭の漁川(いざりがわ)の上流に出かけました。ある小学校の出前授業を依頼されたためです。授業の教材に使うために、軽石を採ってくる必要があったからです。
 軽石(pumice)は、火山噴出物の一種で、穴が多数あいている石です。岩石の部分の比重は、水より大きいのですが、穴が多数あいていると、浮力が大きくなり浮きます。名前の通り、見かけよりずっと軽く、水に浮くものもあります。海岸を歩いていると、場所によっては、多数の軽石が打ち上げられていることがあります。そんな軽石を漁川で探そうとしました。源流は恵庭(えにわ)岳です。
 軽石は、マグマにガスの成分が多く含まれていて、マグマが地表に飛び出した時、地下の圧力から開放されたのと、マグマが岩石として固まる時、気体の成分が分離し石の中にガスの部分として残ります。火山岩に、ガスの穴が空くことを発砲といいます。ガスの成分は、主に水蒸気や二酸化炭素などです。しかし、時間がたてば、ガスは抜けていき、穴だけが残ります。
 ガスが多すぎると、噴火時に岩石がばらばらに壊れてしまうことがあります。このようなものが細かい火山灰となります。
 軽石は、白っぽいものにたいして用います。黒っぽいものには、スコリア(scoria)という名称があります。火山岩の色は、マグマの性質によっています。マグマの主成分である二酸化珪素(SiO2)が、多ければ白っぽくなり、少ないと黒っぽくなります。中間だと灰色になります。岩石の名称としては、白っぽいものは流紋岩やデイサイトと呼び、灰色を安山岩、黒っぽいものを玄武岩といいます。
 軽石も詳しくみると、いろいろな模様が織りなす世界(岩石組織と呼びます)があることがわかります。岩石の部分にも、いろいろなサイズ、種類の結晶がみえます。
 マグマが地下のマグマだまりにあったとき、ゆっくりと冷えていくと、マグマの中の結晶が生まれ、成長していきます。結晶は、マグマだりの冷却過程を記録しています。また、マグマのまま飛び出した部分は、急激にできた結晶や、結晶化する暇もなく非晶質(ガラスと呼びます)のまま固まることがあります。そして、ガラスが繊維上に引き伸ばされていることもあります。まるでマグマが液体から固体へ変化するときの状態を反映しているような模様となっています。
 火山噴火の様子をかいま見るために、軽石はおもしろい素材です。風化を受けていない軽石を手に入れるためには、「最近」噴火した火山の麓にいく必要があります。「最近」とは、火山地質学では、1万年前くらいから現在までの間を意味します。これは、活火山の定義にもなっていますが、1万年以内に活動したか、現在活動中の火山を「活火山」と定義しています。日本には、現在の110個の「活火山」が指定され監視されています。
 北海道には、いくつも活火山がありますが、我が家から近いところで、風化を受けていない軽石を採るために、漁川で軽石を探すことにしました。
 恵庭岳は、支笏カルデラをつくった巨大の火山の一部になっています。もちろん恵庭岳の火山活動も、支笏カルデラ火山の一連の活動といえます。
 支笏カルデラ火山は、大量の火砕流を放出し、周辺に火砕流台地を形成しました。安山岩からデイサイト、流紋岩までの性質で、軽石をつくるマグマです。4~5万年前に、現在支笏湖になっているカルデラができました。その後も、火山活動が継続して、樽前、風不死、恵庭岳の火山が形成されました。
 恵庭岳は、約1万5000年前には山体は形成されていたと考えられていますが、あまり詳しく調べられていません。1994年に中川光弘たちの研究によって、「ほんの最近」まで活動していたことがわかってきました。
 中川さんたちの論文によれば、2200~2000年前に火山灰の放出しています。これだけでも、活火山の条件を満たしています。さらに、17世紀には山頂の東側からの水蒸気爆発と山体を崩壊するような噴火をおこしています。その後も150年間に、少なくとも2回の水蒸気爆発と土石流が起こっていることがわかってきました。
 そして、恵庭岳は1991年に活火山に指定されました。
 ちなみに17世紀には、支笏カルデラ火山の樽前山、洞爺湖この有珠山、道南の駒ケ岳もそれぞれ長い休止期をへて、噴火活動を開始しています。北海道の火山全体が非常に活発になった時期でもありました。
 恵庭岳は、今も山頂から噴気を出しています。火口は、17世紀の火山噴火によってできたものです。噴火の後、300年ほどの間に、ほとんどの場所は、植生が回復しています。ただし、新しい火山噴出物でできた急斜面は侵食が激しく地肌を剥きだしています。もちろん火口は、今も植生は殆どありません。
 1972年に札幌でおこわれた冬季オリンピックのとき、恵庭岳の山頂から南西に向きの斜面が、アルペンスキーの滑降のコースとなりました。コース設営のために、樹木が伐採されました。その後は植林をすることで造成が許可された経緯があります。オリンピックで環境問題が表沙汰になった最初の例となりました。
 滑降コースも30年たった今では、植林によって深い緑に覆われて、その痕跡はほとんどみえません。ただし、Googleの航空写真で見ると、植林のあとが色の違いとして少し見え隠れしますが。
 地質学の時間スケールから見ると、30年前の人為的な破壊より、300年前の破壊のほうが大きく思えます。人為的営為など、ひとつの噴火で、もろくも崩れ去ります。
 恵庭岳は、大都市札幌からも近く、外輪山の北西側は札幌市域になっています。噴火口から札幌の中心街まで、30kmほどしか離れていません。もし、噴火があれば、周辺都市で大きな被害が出ると考えられます。恵庭岳の麓や支笏湖畔には温泉旅館もあります。恵庭市、千歳市もすぐ近くです。
 これは、札幌だけの状況ではありません。日本では、大きな都市が活火山の影響を受ける位置にあることは、地図をみればすぐに分かります。
 その現状に目をそむけてはいけません。火山噴火を止めることはできません。しかし、噴火予知が進めば、災害から避難することができるはずです。一番大事な人命を守ることは、可能になるはずです。火山などの自然災害とも共存するしかないところに私たちは住んでいるのです。
 漁川沿いの崖で、軽石の堆積物の地層があったので、その地層から「これぞ軽石」とよべるものを、いくつか採取しました。それらは軽石らしく水に浮きます。他にも、軽石にもいろいろあることを示すための試料も採取しました。穴がすべてつながるほど開いたものは、軽く最初は浮きますが、しばらくすると水が内部に入り込んで沈んでしまいます。また、発砲が少ないものも、岩石の大きな比重のために沈みます。そんな軽石の多様性を見えるように選びました。
 軽石をとった崖も人為でつくられらものです。取り尽くせばその崖の軽石はなくなりますが、火山噴火で飛び散った火山噴出物は大量です。掘り尽くすことはできません。場所を変えればもっと大量の軽石はあります。
 人の営為など、一つの噴火であったというまに消してしまいます。植林のあとさえあっという間に消えることでしょう。これは自然による「自然破壊」と呼ぶべきものでしょうか。自然現象というべきでしょうか。人による自然保護、自然による「自然破壊」、悩ましい問題です。


・悩ましい問題・
大地(地質学的)の歴史。
自然の歴史。
今も読み取られ続ける噴火の歴史。
過去の人為の歴史。
過去に犯した失敗の歴史。
失敗の補修の歴史。
あったというまの破壊の歴史。
「歴史」という言葉にも
いろいろな時間、空間のスケールがあります。
それをごっちゃにして考えると混乱してきます。
別々に考えると連携できません。
悩ましい問題です。

・予約システム・
14日まで信州、新潟、山形まで調査に出ていました。
富山空港から入り秋田空港から帰ってきます。
その間はレンタカーを使用します。
このエッセイは、実際には調査に出る前に、書いておいて、
発送手続きを発行しています。
まぐまぐのシステムで2週間先の予約が
できるので助かります。