2005年11月15日火曜日

11 層雲峡:溶結凝灰岩の柱状節理 2005.11.15

 北海道にはたくさんの火山がありますが、その中でも大雪山は、北海道の中心に位置し、規模も大きいものです。大雪山の入り口の一つ、層雲峡を訪れました。

 大雪山は北海道の中心部に位置する巨大な山です。大雪山の旧地名は「ヌタプ・カ・ム・シュペ」といい、アイヌ語で「川の曲がりめの陸地の上にいつもいるもの」という意味でした。「山の上にいつもいるもの」とはヒグマのことで、曲がった川とたくさんのヒグマがいるところという意味でした。古くから「大雪山」とアイヌ名「ヌタプカムシュウペ山」が併用されていました。しかし、現在では大雪山が定着しました。
 大正時代の文人、大町桂月が、層雲峡から黒岳、旭岳を経て天人峡に下った時の様子を、紀行文として紹介しました。その紀行文は、「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」で始まる有名なものです。この文章も、大雪山という名称の定着に一役かっていることでしょう。
 大雪山は、アイヌ語で「カムイミンタラ」と呼ばれのを耳にしますが、これは固有名詞ではなく、場所の様子を示す言葉です。北海道には、いくつものカムイミンタラがあります。アイヌ語でカムイは「神」(ヒグマを指すことがよくあります)で、ミンタラは「庭」で、カムイミンタラで「神の庭」という意味になります。山の神聖な祭場やカムイ(ヒグマ)の多いところに使われた地名です。大雪山は今もカムイミンタラです。
 大雪山という名前は有名ですが、大雪山という山頂があるわけでありません。最高峰は、旭岳で標高2290mあります。旭岳の北東には、直径2kmの御鉢平と呼ばれるカルデラがあります。そのカルデラを中心として、カルデラ壁や周辺には2000mを越える山だけでも20座以上あります。多数の山が集まった巨大な山塊を大雪山と総称して呼んでいるわけです。
 大雪山は、国立公園に指定されており、その広さは約23万ヘクタールあり、神奈川県ほどの広さがあります。国立公園としては日本一大きな規模です。
 大雪山が、いかに大きな山かを、私は、大学の研究生の頃、アルバイトで思い知りました。そのときは、7、8名の人がその地質調査に参加しており、環境庁の許可をもらっていたので、腕章をつけて、国立公園の中を、自由に目的のルートや場所をあることができました。そのときは、大雪山を一月近く歩るきまわったのですが、層雲峡にも1週間以上滞在して、何度も黒岳に登っては周辺を調査をしていました。いくら歩いても歩きつくせることはなく、大雪山の広さをつくづく感じました。そのとき以来、層雲峡や天人峡、大雪高原温泉などは、馴染みあるところで、懐かしい場所となりました。
 2005年9月下旬に大雪山の調査に行きました。旭川を通り層雲峡に入りました。大雪山、それも層雲峡には過去に何度来ていたのですが、20年近く前のことです。その記憶では、層雲峡の街は、狭いところに旅館や土産物屋などが立て込んでいた記憶がありました。
 しかし、今回訪れて驚きました。町並みがきれいに整備されていて、建物の色や姿も統一されていました。街の周りを周回道路があり、街の中心を歩道が通り、歩道の両側に店や旅館があるというつくりでした。まるでヨーロッパのように、きれいになっていました。層雲峡も観光の街ですから、来た人がいい思い出ができ、また来たいと思えるようなところにすることが重要なのでしょうか。
 層雲峡に来ると、いつも、その切り立った崖に圧倒されます。崖は、まるで岩石の柱を、何本も直立させ、くっつけたような形をしています。これが層雲峡の道路沿いに、延々と連続してあります。この崖は、柱状節理というものからできています。
 一般に柱状節理というと、マグマが冷却したときにできる柱状の割れ目(節理)のことです。マグマが、液体から固体になるときに、体積が少し小さくなります。その時、冷却する方向と垂直に割れ目ができていきます。例えば、水平な地層の間に、マグマが平行に入り込む(貫入(かんにゅう)と呼びます)と、柱状節理は垂直にできます。その柱状節理の断面は、多角形で4角形から7角形になっています。本来なら6角形が一番効率のよい形状なのですが、自然は、それほど規則的ではないようです。でも、遠目では、きれいに柱が何本も立っているように見えます。
 このような冷却の条件を満たすものは、マグマでなくてもあります。その代表的なものが、層雲峡の柱状節理です。層雲峡の柱状節理は、溶岩ではなく、溶結凝灰岩というものです。
 溶結凝灰岩とは、火山灰などの火山からの噴出物がまだ熱いままたまり、それが熱のために一部溶けて固まったものです。冷めてくるとマグマのときと同じで、体積が減っていき、節理ができます。これが、層雲峡の柱状節理のできかたです。
 層雲峡の柱状節理をつくっている火山噴出物は、約3万年前に活動したものです。大雪山の中央に位置する御鉢平のカルデラを形成した火山活動にでよって、大量の火山噴出物を放出し、溶岩を流しました。それが、北東の層雲峡と南東の天人峡の谷間を埋め、平らな台地にしました。
 層雲峡の溶結凝灰岩は、一度の噴火ではなく、いくつかの噴火によってできたことが、溶結凝灰岩の冷え方からわかっています。火山噴出物の厚さは、最大で200mにもなります。
 層雲峡は、石狩川の源流近くにあたりますが、まだ上流にも石狩川の流れが続いています。ですから、雪解け時には、大量の水が流れます。そのような石狩川の侵食によって、溶結凝灰岩が削られて層雲峡ができたのです。石狩川が長い時間をかけて削ってきた証が、層雲峡の柱状節理です。柱状節理の巨大な岩石が倒れて事故が起きています。3万年たった今でも、この侵食は続いているのです。
 層雲峡に行ったのは9月だというのに、黒岳では、すでに初雪の便りがありました。黒岳を登り始めると、木の葉は色づき、秋の気配が漂います。黒岳の上に近づくと紅葉真っ盛りとなっていました。大雪山の秋は、日本一、早く来ます。

・たいせつざん・
大雪山は、地元の人は、昔から「たいせつざん」と呼んでいます。
今もそう呼んでいます。
1924(大正13)年に国土地理院が5万分の1地形図で
ヌタプシュぺ山(大雪山)として
「だいせつざん」と表記するようになりました。
そのため、「だいせつざん」と読む人が多く、
マスコミなどでも「だいせつざん」を用いていることが多いようです。
私は、北海道生まれでもないのですが、
にごらないで「たいせつざん」と発音しています。
アイヌ語の地名で漢字が当てられたものは残っていますが、
カタカナ書きされたものは、たくさん消えていったようです。
1902年(明治35年)に、師範学校教師から
大雪山のアイヌ語表記の「ヌタプカムシュウペ山」は、
「民間私名」であるので、
北海道の最高峰にふさわしい立派な名前に改めよう
という意見書が道長官あてに出されたそうです。
しかし、大雪山という名称は残りました。

・大雪山の大きさを語る・
大町桂月が大雪山を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
当時、桂月は、全国をめぐっており、
北海タイムス(現在は北海道新聞)の記者が誘って、山行がかなったようです。
同じ年に、「中央公論」に本文で紹介した有名な紀行文が掲載されました。
「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」
というものです。
私は、大雪山の大きさはアルバイトの時に思い知らされました。
1988年の夏ことです。
そのアルバイトでは、大学の山岳部の後輩がいたので、
厳しいルートの調査となりました。
ある沢の最上流部を上り詰めて調査を終えました。
帰る登山道に出るために、道のないハイマツの中を歩かなければなりません。
1時間ほどのハイマツのヤブコギをして、へとへとになりました。
ヤブコギの最中は、ここで力尽きたら、どうなるだろうかと、
不安にかられながら、歩いていました。
その翌年の夏のことです。
ある遭難救助活動をしていた北海道警察のヘリコプターから
風倒木を組んで「SOS」の文字をつくっているのが発見されました。
捜索したところ、近くで人骨と見られる白骨と
カセットテープレコーダなどが入った
リュックサックなどの遺留品が見つかりました。
私たちが通ったところではないですが、同じ大雪山の中でした。
多分道に迷って身動きが取れなくなり、そのまま力尽きたのでしょう。
カセットテープなど遺留品から、
その人骨は、1984年に行方不明になっていた愛知県の会社員だと
1991年になってようやく断定されました。
私は、道なきところを歩いていたのですが、
道に迷ってはいませんでした。
ただただ歩けば登山道に出れるので、
道に迷っているという心配はありませんでした。
しかし、その白骨の発見のニュースを聞いて、
あたらめて大雪山の奥深さ、大きさを思い知らされたのを覚えています。

2005年10月15日土曜日

10 相模川の段丘:関東平野の西に住んで(2005.10.15)

 かつて関東平野の西側の坂の多い街に、私は住んでいました。毎日、その坂を上り下りしながら、その坂道の起源に思いを馳せていました。

 私は、11年間、神奈川県に住んでいました。11年間、ずっと同じところに住んでいたのではなく、その間に4回も転居しました。その理由はさまざまですが、いずれにしても、移りたくて移ったのではなく、しかたなくという消極的な転居でした。この転居は、東から西へと住処を移していきました。そして住環境の変化のたびに、そこにどんな大地の歴史があるのかに思いを馳せました。
 最初は横浜市内の保土ヶ谷というところに、2年間、住んでいました。帷子(かたびら)川沿いに走る相模鉄線の保土ヶ谷駅から降りて、長い坂を上って登って帰途についていました。毎日登ったこの坂は、多摩丘陵が帷子川に侵食されてできたものでした。
 次に転居した先は、海老名市でした。相模鉄道の海老名駅は終着駅です。海老名駅に着く直前に、電車は山並みを抜けて平地に出ます。海老名市は、相模川の流域に広がる平地に発展してきました。私の住んでいたところは、電車が通り抜けてきた山並みの上にありました。ここでも毎日坂を登って帰宅しました。この坂道は、相模川がつくった低地から座間丘陵から相模原台地へと変化するところでした。
 私が身を持って体験していた急な坂には、大地の不思議が隠されていました。
 関東平野は有名な平野です。首都圏は、この関東平野を中心に発展してきました。関東平野は日本でも特別広い平野です。広さでは第2位である北海道の根釧平野と比べても、関東平野は3倍ほどの広さがあります。
 なぜこのような広い平地があるのでしょうか。
 それは、関東平野が、日本の他の平野とは違って、もともと海であったかところが平野になったためです。実際の海底でたまった堆積物が関東平野のいたるところから見つかっていることが証拠となります。ただし、地表に堆積物があちこちにでているのではなく、関東平野の地下をボーリングすると、海底で厚くたまった堆積物が見つかります。
 では、なぜ海が陸になったのでしょうか。3つの理由が考えられています。
 一つ目の理由は、大地の隆起です。
 関東平野のある地域は、ユーラシア大陸プレートに太平洋プレートとフィリピン海プレートの沈み込むとこです。また、丹沢山地や伊豆半島の陸地が衝突してきたところです。関東平野のあるところは、3つのプレートがせめぎあっている非常に複雑な位置にある場所となっています。詳細はまだ良くわかっていませんが、そのようなプレート境界の複雑な大地の運動によって、関東平野は第四紀に隆起してきました。今まで海底であったところが隆起したため陸になってきました。
 もう一つの理由は、海に大量の堆積物がたまり、海を埋めていったことです。
 第四紀になると、関東平野の北にある妙義山、浅間山、榛名山、赤城山、男体山、那須山などの火山と、西側にある伊豆箱根、富士山などで、激しい火山活動がおこります。このような火山活用によって、大量の火山噴出物が、関東平野に飛んできて、たまっていきます。関東ローム層も、これらの火山活動のよって飛んできた火山灰や、それが風で引き飛ばされてたまったものが、もととなっています。大磯丘陵では箱根と富士山の火山噴出物で300m以上の厚さのローム層があります。
 三つ目は、全地球的に起こる海水面の変動です。これは後で詳しく紹介しますが、その前にあらためて、関東平野の地形の概要をみていきましょう。
 関東平野の北側と西側には関東山地があり、北東には阿武隈山地があります。南は房総半島まで続く下総台地から上総丘陵があります。東京湾をはさんで、関東平野の南西部には、武蔵野台地があり、さらに南西に多摩丘陵から三浦半島の三浦丘陵へ連続する高まりがあります。その高まりのさらに西側には、相模原台地と座間丘陵があり、相模川流域の低地があります。
 地形の区分の名称として、山地、丘陵と台地、低地という言葉を使いましたが、それぞれ意味が違っています。
 山地とは、新しい時代の火山と古い時代(中・古生代、第三紀)の地層からできている地形的な高まりで。標高も高く険しい地形となっています。
 丘陵は、第四紀でも一番古い時代にできた、海でたまった地層、湖でたまった地層、扇状地の地層からできています。丘陵は、関東平野を取り囲むようにして山地と平野の間にあります。
 台地は、関東平野の中央に広くある高まりです。台地は、第四紀でも新しい時代にできた、海でたまった地層や、扇状地の堆積物からできます。
 これらの台地が河川によって削られたところが、低地となります。低地は現在の河川がつくった平らな平野です。川の侵食、運搬、堆積作用によってできたもので、現在もその作用は続いています。川が大地の高まりを削り、その削った土砂を運び、川の傾斜がゆるくなったとこで土砂を堆積します。時には、川が氾濫をして流路を変えると、新たな作用がその川の周辺で起こります。こんな繰り返しが、河川流域で低地として広がっていきます。
 河川は、現在も同じ作用を続けているのですが、人間は氾濫があると都会生活が成り立ちませんので、堤防や護岸をつくって、その流路が変わらないようにしています。ですから、都会周辺の河川の変化がなかなか起こらなくなりました。
 さて、今回取り上げた相模川流域では、さらに面白い地形が見られます。
 相模川が丹沢山地と小仏山地の間から城山付近で平野にできてます。山間から平野に出た川は、扇状地や氾濫原をつくります。その相模川の山間部や平野の扇状地付近には、いくつかの平らな面があります。平らな面は、急な崖で、次の平らに面に変わります。これらは段丘(だんきゅう)と呼ばれているものです。
 相模川は古くから段丘の研究がされており、日本でも段丘が典型的に発達する地域(模式地と呼ばれます)となっています。相模川流域では、火山灰の年代測定を利用して、細かく区分されています。段丘が9段あることがわかっています。
 ちなみに段丘の上の面(古い時代)から順に並べると、座間I面(約27万年前)、座間II面(約16万年前)、下末吉(しもすえよし)面(約13万年前)、善行(ぜんぎょう)面(約7万年前)、相模原面(約6万年前)、中津原(なかつはら)面(約3万年前)、田名原(たなはら)面群(群はひとつではないという意味)(約2万年前)、陽原(みなみはら)面群(約1.5万年前)、完新世段丘面群(約1万年前)となっています。
 段丘のでき方には、2通りあります。一つは川の作用によってできる河成段丘(河岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものと、もう一つは海の作用によってできる海成段丘(海岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものとがあります。
 河成段丘は、大地の上昇によって、川の浸食作用が再び強くなり、かつての川や谷底の平野部が再び侵食されていくことです。ですから、河成段丘は古いものが高い位置で外側にあり、新しいものが低く川に近い位置にできます。
 海成段丘は、海が侵食でつくった平坦地な地形が、海底が上昇することによって陸化しできた平坦な面です。海底が上昇しなくても、海が後退することでも海成段丘ができます。これは、海水面の上下変化と読み直すことができます。
 地球が温暖化が起き大陸の氷が解けると、海水が増え海が陸に侵入していきます(海進と呼びます)。逆に寒冷化すると、水は氷として大陸にたまり、海水が減り、海が後退していきます(海退と呼びます)。
 海成段丘が地球の気候変動なのか、地域の大地の上下運動なのかは、同時代の他の地域の平野を調べれば判明します。
 地域的大地の変動であれば、その地の大地の歴史を解き明かすことになります。もし、海進や海退が起こったがことがわかれば、地球の気候変動を読み取ることとなります。
 関東平野は、最初に述べましたように、大地の上昇運動が起こりました。しかし、実際には、海進と海退による変化も加わっています。このような複雑な大地の営みが、相模川流域の段丘をつくってきたのです。
 座間I面は、扇状地でたまった礫岩が河川によって浸食された河成段丘です。その上の座間II面は、内湾でたまった地層で海進によってたまったものが海の作用で侵食されたものです。次の下末吉面は、海食台の堆積物と三角州の堆積物からできている地層が海の作用で侵食されたものです。この面あたりから海とは関連がなくなっていきます。海退が起きたことになります
 善行面は、扇状地の堆積物が河川の浸食によってできたものです。相模原面、中津原面、田名原面群、陽原面群は、いずれも火山灰層をたくさん含む礫岩層からなり、川の作用によってできた河成段丘です。
 また、完新世段丘面群は、もっとも海退が起こったときに相模川が運んだ川の堆積物から、だんだん海進が進み、三角州や砂州から現在の川の堆積物になっていきます。しかし、相模湾付近の平野の多く谷や段丘は埋もれています。これは、関東地方の隆起が一様ではなく、かたよっていたことを示しています。
 以上のように、関東地方では、段丘から複雑な川と海、大地の関係や、地球の気候変動まで読み取られています。そんなことに思いを馳せながら、坂道を毎日登っていました。しかし、当たり前のことですが、そんな思いを巡らせても、登りが楽になるわけではありませんでした。

・その後の転居・
その後、私の転居は海老名市から、小田原市、湯河原町へと続きました。
関東平野から箱根の麓へと西へ西へと向かって進んでいったことになります。
小田原では、酒匂川がつくった低地に住んでいました。
湯河原に至っては、箱根の火山の山麓でした。
湯河原では標高190mの火山の中腹に住んでいました。
駅は標高30mでしたから、毎日標高差160mを登り下りしていました。
これは、通勤というより登山といった方がいいかもしれません。
おかげで足腰は強くなりましたが。
こうして神奈川での11年間の生活の場を考えていくと、
関東地方の生い立ちを探るためには、うってつけの場所であったわけです。
そんなことを、離れてから考えています。
現在は、北海道の野幌丘陵に住んでいます。
箱根の箱根の関所を越えることなく、北の地に来ました。
この北の丘陵の生い立ちにも、関東平野と似たところががありますが、
それは別の機会としましょう。

2005年9月15日木曜日

09 オホーツク海沿岸:丘陵と湖と湿原(2005.09.15)

 北海道のオホーツク海沿岸を車で走っていると、原生花園がたくさんあります。それこそ次々と出てきます。それに原生花園だけでなく、どうも似たような丘陵や湖、湿原が続いているように見えます。そんな景観に隠された謎を探ります。

 北海道のオホーツク沿岸は、流氷で有名です。しかし、それは冬のことです。春から秋にかけてが、やはり一番の行楽シーズンとなり、外での活動も活発になります。そんな時期に、私は北海道の北(道北)からオホーツク海沿岸にかけて調査に出かけました。それは、2004年の春のゴールデンウィークの頃と、秋の10月の渇水期の頃でした。
 そのとき、オホーツク海沿岸走りながら、海岸沿いに転々と湖や湿地、そして海岸に沿う丘陵が非常にたくさんあり、どことなく似た景観だと思いました。
 主だった湖を北から見ていくと、猿骨沼、ポロ湖、モケウニ湖、クッチャロ湖、コムケ湖、シブツナイ湖、サロマ湖、能取湖、網走湖、藻琴湖、涛沸湖、涛釣沼などがあり、知床半島へと続きます。そして湖周辺には湿地があり、原生花園もあります。丘陵も点々とですが、さまざまな高さのものがあります。
 なぜか、枝幸から雄武には丘陵はあるのですが、湖はありません。その他の海岸沿いには、丘陵や湖あります。この地域は、オホーツク海沿岸平野と呼ばれ、サロマ湖周辺はオホーツク海沿岸湖沼群と呼ばれています。
 丘陵には特徴があります。海岸線に沿って丘陵が延びているのですが、丘陵の上の面が平らになっています。そんな平坦面が丘陵には何段かあります。
 オホーツク海沿岸では、サロマ湖は大きくて有名です。サロマ湖は、東隣にある能取湖と共に、海につながった湖です。ですから、塩分を含んだ湖となり、汽水湖とよばれています。サロマ湖は、湖としては北海道では最大で、日本でも、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで3番目に大きなものです。
 では、オホーツク海沿岸に、なぜ湖や丘陵が多いのでしょうか。それは、大地を構成する地質と運動、地球に流れる長い時間と関係があります。
 地球の表面には、風が吹き、雨が降り、川ができます。このような作用は、程度の差はありますが、大地全体におよぶ作用です。つまり、大地は常に浸食を受けているます。例えば、大地が変動で盛り上がったとしましょう。そこは丘陵や山地になります。もし、硬い岩石や地層でできていたら、地球時間で見ても、ゆっくりとしか侵食されず、丘陵や山地として長く維持されるでしょう。もし、軟らかい岩石や地層でできていたら、侵食を受けると短い時間で低くなっていくでしょう。
 丘陵や山地をつくる岩石や地層の性質の違い、つまり地質の違いと、長い地球時間によって、地形の違いが生まれていきます。地球の地形とは、このような地質、変動、時間がつくり出したものなのです。もちろんオホーツク海沿岸の湖や湿地も同じ作用でつくられました。
 大地の変動には、実はさまざまな規模のもの、そしていろいろ原因によるものがありますが、今回のような広域的な特徴をつくるには、大規模な変動を考えなければなりません。大規模な変動は、大地自身の変動によるものと、全地球的規模の気候変化によるものに分けられます。
 大地の変動とは、プレートテクトニクスに由来するような地球内部の営力によるもので、広域的な変動が起こります。地下深くに由来する変動なので、岩質の違いや、それまでの地表の状態と関係なく起こる大規模なものです。必ずしも水平に上下運動するとは限りません。大地が傾いて、なだらかな斜面ができることがあります。
 もう一つの全地球的に起こった気候変化とは、どのようなものでしょうか。地球時間では新しい気候変動として、氷河期とその後の温暖な間氷期の変動があります。氷河期には地表の水が氷として陸地に蓄えられます。そのため、海水が減り、海面が下がります。このような状態を陸から見ていると海が退いていくように見えることから、海退と呼びます。今から1万8000年前頃の氷河期の終わり頃には、最も海退が進み、海面は現在よりも100mほど低かったことがわかっています。
 その後、1万4000年前から6000年前にかけて地球は暖かくなり、海面は100mも上昇し、現在と同じような位置に達しました。しかし、一様に海面上昇が起こったのではなく、何度か海面上昇が止まった時期があります。
 1万1200年前から1万年前には現在の海面より45mほど低く、8000年前頃には現在よりも30mほど低い時期が続きました。
 また、日本の縄文時代にあたる6000年前ころには、海面上昇が最大となり、現在よりも4mほど海面が高くなりました。これを、日本では縄文海進と呼んでいます。平野によっては、100kmも海岸線が内陸に進入しました。その後も、海面は数mの範囲で3回上下していることがわかっています。そして現在は、比較的高い海面になっています。関東地方では、海面変動による約40万年前からの段丘面が読み取られています。
 海面の変動が止まっている時期には、海水の量は変わらないので、海岸線沿いでは侵食が起こり、波打ち際では平らな面ができていきます。その後別の海面変動が起これば、平らな地形も侵食されていくでしょう。大地の変動とは違って、海面変動は水平は地形を形成する作用です。
 さて、このような気候変化による海面変動と大地の変動とが組み合わさるとどうなるでしょうか。もし、海底に平坦面ができているときに、大地の変動でその海岸付近が盛り上がったら、そこには平坦な面を持つ丘陵ができます。海水による侵食は起こりませんから、平坦な地形は残されます。
 氷河期以降何度か平坦な面をつくる時期がありました。それと大地の上昇が加わると、何段もの平坦面をもつ丘陵ができます。このような海でできた段を持つ丘陵を海成段丘(海岸段丘ともいいます)と呼んでいます。オホーツク海沿岸は、海成段丘が発達しているところで、それが似た景観をつくっていたようです。
 もし段丘の面が硬い岩石でできていれば、なかなか侵食されません。川はできるでしょうが、海岸線には平野もできず、湖も湿原もできないでしょう。そのような地域が、枝幸から雄武の地域だったのです。
 もし段丘が比較的侵食されやすい岩石でできていたら、平坦面が消されながら、川ができ平野ができます。海に近いとことでは、川は海につながるでしょう。川は海に流れ込み、土砂も一緒に運びます。沿岸には沿岸流と呼ばれる海水の流れがあります。川から海に達した土砂は沿岸流によって海岸沿いに運ばれます。それが海岸に砂浜をつり、時には、湾を囲うように砂浜が延びることがあるでしょう。これが砂嘴(さし)と呼ばれるものです。ときには湾を完全に閉じ込めることもあるでしょう。これを海跡湖といいます。
 このような侵食、堆積の繰り返しが、オホーツク海沿岸の湖や湿原、原生花園をつくってきたのです。地球の気候変動、大地の運動、大地の地質、そして地球に流れる長い時間が、オホーツク海沿岸の景観を似させていたのです。

・サロマ湖・
サロマ湖には、いくつかの川が流れ込んでいます。
川の出口がサロマ湖で、サロマ湖自身は海につながっています。
サロマ湖は、現在は、両側から延びる砂嘴があるように見えます。
しかし、もともとサロマ湖は海跡湖で、
秋の渇水期には砂で海と閉ざされ、冬の間中、その状態が続いていました。
春になると、川の流量が増え、
東端の涛沸(とうふつ)付近で、海とつながるところができました。
人が暮らすようになると、サロマ湖の水面変動は何かとも問題となります。
生活や漁業を考えると、
常に海とつながっているほうがいいことになります。
かつては、地域の人たちは、毎年融雪期になると
砂を掘り、海とつなげていました。
しかし1929年、三里番屋付近を大規模に開けたところ、
これがうまく閉じることなくつながっていました。
その状態が現在にいたっています。
サロマ湖は、人が少し手を加えて、
海跡湖から汽水湖にしたものなのです。
自然と人間が作り出しか、地形なのです。

・サンゴ草・
道北からオホーツク海沿岸にかけて2度、調査に出かけました。
それは、春の調査を失敗したからです。
私の調査の方法は、河川沿いの川原や河口、海岸などで
砂や石の採集をします。
海岸は雪さえなければ調査可能なのですが、
川は条件を満たさなければなりません。
それは、川原があるかどうかです。
川原が見えていて、なおかつそこに行けなければなりません。
ところが、ゴールデンウィークの時期は、
札幌近郊の雪解けによる増水は、
もうだいぶおさまっているのですが、
道北では、雪解けの増水で、河岸いっぱに水がありました。
川原の石ころなど、ほとんど見ることはできません。
つまり、目的の調査をできなかったということです。
しかたがないので、秋の渇水期に再度出かけました。
その調査の最終地点が、サロマ湖でした。
時期はもう終わりに近かったのですが、
サンゴ草の真っ赤な花を見ることができました。

2005年8月15日月曜日

08 沖縄:列島の縮図(2005.08.15)

 暑い夏ですが、北海道はもう盛りを過ぎたようで、爽快な気候になってきました。観光客も、夏には涼しい高原や北国を目指すのではないでしょうか。しかし、今回は沖縄の話題です。

 私は沖縄には、2度、訪れたことがあります。一度目はずいぶん前ですが3月末に学会発表のためで、二度目は2月末から3月はじめにかけて調査のためでした。いずれも春のシーズンでした。いずれも北海道に住んでいる時のことでしたので、季節が一気に冬から夏へ突然変わったきがしました。北国から来た者にとっては、沖縄は楽園に来たような気がしたものでした。しかし、帰ってくると、春まだ遠い北国の寒さが一層こたえました。
 このような気候変化を見ていると、日本が南北に伸びる長い列島であることが体感できます。これは日本が南北に長いため、風土が多様になっているのでしょう。
 沖縄は、日本という国の一部です。しかし、北海道や本州と比べると、沖縄は明らかに小さな島です。南西諸島としてみると、いくつもの島が連なっていますが、大きな面積を持つ陸地ではありません。ところが、大地のようすを見ていくと、日本列島の持つ特徴と同じであることがわかります。日本列島の地質と沖縄(南西諸島)の地質と共通性をみていきましょう。
 まずは、日本列島の特徴をみていきましょう。日本列島をよくみると、いくつかの弧状の陸や島を連ねた形をしています。そのひとつひとつの弧の中身は、日本列島の大地の形成を物語っています。
 日本列島の代表として、本州を見ていきましょう。本州は大きな2つの弧がくっついています。その接合部は本州の中央部、長野県のあたりになります。長野県内には南北に延びる大断層があります。この大断層はフォッサマグナと呼ばれるもので、北は日本海にから、南は静岡県を通り抜け太平洋に達します。地質学ではフォッサマグナより北東側を東北日本、南西側を南西日本と呼びます。
 西南日本で日本の代表的な大地のつくりをみていきましょう。西南日本は典型的な列島形成のメカニズムでつく上げられています。そのメカニズムとは、海洋プレートが海溝で陸側のプレートの下に沈み込むときにできるものです。海溝とは海洋プレートと大陸プレートが出会い、消滅する地質学的には非常に「活発な場所」であり、「多様な岩石」が集まり形成される場所であります。そのような作用が、何度か起こって、西南日本の大地が形成されてきたのです。
 「活発な活動」とは、海洋プレートの沈み込みによって起こる「地震」や「火山活動」のことです。いすれも、沈み込むプレートによって起こる現象でますから、陸側の地下深部で起こります。
 沈み込むプレートは、年間10数cmで移動する硬い岩石の板のようなものです。硬い岩石が沈む込むときに、その境に強い力が加わります。やがて周囲の岩石やプレートの岩石はこらえ切れなくなって壊れてしまいます。それが地震となります。
 地震は、規模(マグニチュード)が大きくても、深いところで起こったのであれば、地表の揺れ(震度)は小さく、被害が少なくなります。しかし、浅いところでこる地震は、規模が小さくても、地表での揺れは大きく、被害も大きくなります。北海道の釧路から十勝や東北、関東、東海、南海などの太平洋側では大きな地震が起こり、大きな被害を与えます。
 海洋プレートの押す力は、地表へも力を加えます。そのような力に地表付近の岩石が耐え切れないと、断層としてあわられます。地表近くの大きな断層による地震は規模が小さくても大きな被害を与えます。兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、新潟中越地震は活断層による地震です。
 沈み込む海洋プレートは、海の底にあったので、水をたくさん含んでいます。海洋プレートが沈み込む時、水はしぼり出されます。しぼり出された水分は、軽いので地表に上がっていこうとします。沈み込むプレートは列島の地下深くまで沈み込みます。深いところでしぼり出された水分は、列島の地下のマントルに入り込みます。暖かいマントルに水分が入ってくると、それまで固体であったマントルが溶け始めます。これがマグマとなります。マグマが地表で活動したら火山となります。列島の火山はこのような仕組みでできます。
 「多様な岩石」とは、海で形成された岩石と陸で形成された岩石の両方があります。海からは、海洋プレート自身の岩石(玄武岩や斑レイ岩、かんらん岩)や、海洋プレートの上の深海底にたまった堆積物(チャートと呼ばれる岩石)、海底火山や海洋島の火山活動によってできた岩石(海洋底のものとは少し違った性質の玄武岩)や、それらの島の周辺にできたサンゴ礁などの岩石(石灰岩)が集まります。一方、陸からは、列島をつくっていた岩石が河川によって堆積物として大陸棚に運ばれてきます。時には列島の火山から火山灰などが飛んできて堆積します。
 海と陸の岩石が、海溝の陸側の地下で混じって付け加わっていきます。海と陸の岩石が海溝に沿って次々と付け加わっていきます。このような特徴を持つ岩石でできた地質体を付加体と呼んでいます。付加体が、沈み込み帯で形成される特徴的な地質となります。
 付加体を貫くようにしてマグマの活動が起こります。そのようなマグマの活動の記録は、マグマが地下で固まった深成岩や、マグマが地表に噴出した火山岩からみることができます。
 深成岩は、付加体の深部で固まったものです。ですから、現在の地表で見ることができるようになるには、隆起して、上を覆っていた岩石や地層が侵食によって削剥されなければなりません。列島では深成岩が地表に出て見ることができるので、隆起し、侵食の激しいところとなります。
 古い沈み込み帯には、結果として、付加体と多数の断層や火山が残されていきます。このような古い付加体が西南日本にいくつかあります。付加体を構成する岩石や地層を広域で見ると、大きな時代区分の違いがあり、大断層(構造線と呼ばれています)で境されています。そのような時代や構造の境界を利用して、日本列島の地質構造を区分しています。有名な中央構造線も付加体の境界と位置づけられます。
 日本列島では、中央構造線を境にして、太平洋側を外帯、日本海側を内帯とよんでいます。外帯の中でも重要な境界として、仏像(ぶつぞう)構造線というものがあります。仏像構造線とは、内帯側に傾斜した大きな逆断層で、中央構造線側に古生代後期から中生代中期の付加体(三波川変成帯と秩父帯とよばれる2つの帯があります)があり、海側に中生代後期より新しい付加体(四万十帯とよばれます)があります。
 さて、沖縄の話です。本州、四国、九州から連続した構造をもった地質が、沖縄にもあります。沖縄を含む南西諸島では、太平洋側(正確にはフィリピン海)には、沈み込み帯である琉球海溝があります。その内帯側(西側)には、列島があり、縁海にあたる東シナ海(正確には沖縄トラフといます)という構造をもっています。
 また、南西諸島は、3つの構造帯が列をなしています。東シナ海側、つまりいちばん内帯側に、新しい火山島列があります。硫黄島、口永良部島、中之島、諏訪之瀬島、硫黄鳥島などで、現在も活動中の火山がたくさんあります。
 列島の中央は、古い時代の付加体で、奄美大島、沖縄島北部などと、南西諸島の一番南にあたる石垣島、西表島、与那国島も、古い時代の付加体です。ペルム紀とみられる化石が見つかっていますが、多くはジュラ紀から白亜紀にかけての付加体です。本州でいう三波川変成帯と秩父帯に相当するものです。
 最後に、太平洋側、つまり一番外帯側には、白亜紀から第三紀の堆積岩からなる付加体があり、種子島や隆起サンゴ礁の沖永良部島や宮古島など低平な島が多い。本州でいう四万十帯に相当するものです。
 深成岩の活動も見られます。深成岩は主に花崗岩で、すべて第三紀に活動したものです。北から、屋久島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、渡名喜島、沖縄島、石垣島などで、規模はさまざまですがみられます。
 このように見ていくと、南西諸島は、狭い範囲に日本列島の内帯を除く地質の要素と同じようなものが、出ていることになります。沖縄周辺も地質学的は日本列島と同じような構造を持っているのです。

・弧状列島・
なぜ、弧状の地形ができのでしょうか。
不思議に思うことがあります。
しかし、これは、地球が平面ではなく立体であること
それも球体であることが重要な意味があります。
海洋プレートと大陸プレートがぶつかり、
海洋プレートが沈み込むときの形態です。
これは硬い球体に、押し込まれたくぼみができるという現象です。
ピンポン玉を押してへこませたときでききる窪みは、小さな弧状のものです。
これが大規模に地球でも起きているのです。
ピンポン玉の窪みの反対側には、弧状の高まりができます。
これが列島の陸側に隆起が生じます。
日本列島は、今も、いくつもの沈み込み帯があります。
過去にもあったことが知られています。
それぞれが弧状の形態となっています。
日本列島は弧状の地形の集まりでもあるのです。
これは日本列島だけの特徴でなく、
多くの沈み込み帯では、ごく普通にみられる地形的形態です。
日本列島のような島が集まっているところを
弧状列島(島弧ともいいます)と呼ぶことがあります。
南西諸島も立派な島弧なのです。

2005年7月15日金曜日

07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて(2005.07.15)

 断崖から海覗き込むと、海に吸い込まれそうに感じることはありませんか。海の色が深いコバルト・ブルーならなおさらです。夏の積丹半島の海は、特有の鮮やかなブルーとなります。そんな海の色を、シャコタン・ブルーと呼んでいます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。

 積丹半島は、小樽の西部にあり、北海道の南西部にあたります。日本海に対して北西に突き出た半島です。半島の周りは、断崖が多く、交通の難所となっています。でも、そんなところだからこそ、素晴らしい手付かずの自然が残されているのかもしれません。2004年9月に私は積丹半島を一周する調査に出かけました。
 台風18号は、九州をかすめて日本海に出て、2004年9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を通過しました。日本海で勢力を強めた台風は、北海道を直撃して、多くの被害をもたらしました。台風18号の影響で、半島を周回する国道229号線が、半島の西に位置する神恵内村の大森から柵内間で、高波によって橋が壊され、途中で通行不能になっていました。この台風18号は、死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える大きな被害を出しました。
 北海道には台風があまり来ないために、台風が来ると被害が大きくなります。今回は、日本海で成長するという予想に反する台風の挙動が、災害を大きくしたのかもしれません。
 私は、台風通過の直後に積丹半島に出かけました。積丹半島の西側の海岸沿いでは、高波による被害の様子を生々しくみました。この調査の予定は、台風が来る以前に立てていたものです。当初の目的は、海岸沿いで古い火山の地形やマグマが固まるときにつくるさまざまな岩石の形態など見るつもりでした。
 周回道路の通行は、遮断されていますが、そこを迂回すれば予定通り地質を見ることはできます。なにも災害直後に出かけなくてもいいのではないかという気もしましたが、私は、出かけました。それには、理由があったのです。
 災害直後の様子を、自分自身が専門とする地質学の目で見ること、そしてそれらの様子を少しでも記録して、何らかの形でアウトプットすることが必要ではないかと考えたからです。2003年の台風10号のときも、洪水直後の鵡川と沙流川の調査をそのような目的をもって出かけました。
 災害はできれば避けたいものです。でも、どうしても起こる災害もあります。その災害から学ぶことがあるはずです。ですから、私は自分の範囲で、現場の邪魔にならない範囲で、地質学的情報の収集に協力し、貢献したいと考えています。私が被災者、被災地に貢献ができるのは、ボランティアとして働くことよりも、私の身に付けた専門知識や経験、見る目、持っているアウトプットの方法を提供することではないかと考えています。
 私の専門は地質学です。直接、台風災害と関係がないかもしれません。しかし、まったく関係ないこともありません。ですから、地質学者の目で災害の地を見ると、他の分野の専門家とは違った見方や情報収集ができるかもしれません。まして、災害直後しか手に入らない情報であったら、二度と手に入らない情報であったら、という思いがあります。
 このように思うに至ったのは、次のような出来事があったからです。
 2003年の十勝沖地震で、札幌でも液状化現象がおこり、傾いた家がでたことがニュースになりました。誰か専門家が調査しているだろうと、専門家みんなが思っていました。しかし、誰も調査していないことに産業技術総合研究所北海道センターの地質学者のOさんは気づかれました。液状化現象を、Oさんは記録するために、急遽現地に赴き、調査されました。そして緊急調査の内容は、地質学者にメーリングリストとホームページを使って公開されました。
 このメールとホームページを見て、これは、非常に重要なことだと感じました。直後に専門家でないと収集できない情報を、収集して、記録に残すことは大切です。公的機関の人間としてOさんが、それを責務と考え、急遽調査され、報告されたことは、素晴らしいことだと思います。このような情報は、今度の対策に不可欠なデータとなるはずです。
 私もそのような意図で、せっかく出かけるのであれば、許される範囲で、現場を見てこようと考えています。もちろん専門家が、仕事として現地で調査をしているでしょう。しかし、上で述べたように、情報は多くの専門家が、さまざまな視点で収集しておくべきだと考えています。
 もちろん、一市民としていくわけですから、一般の人と同じように制限されているところにはいきませんし、許されている範囲で見ることになります。そんな立場からでも、災害の記録はそれなりにできるかも知れません。そして、その感想を人に話したり、学生に紹介したり、公的な場で意見を述べることもできるでしょう。
 それが私にできる災害地へのボランティア活動だと考えています。
 積丹半島の被災地の様子は、すざましく、生々しいものでした。積丹半島の西側の中央に位置する神恵内村では、大森から柵内間が通行止めで、大森大橋が高波で壊されていました。ここは、事前に通行止めにしていたため、死傷者がなったということも聞いていました。しかし、高波に破壊された家、浸水した家がたくさんありました。私が行ったときは台風後の快晴の日でした。被害受けた住民の方が、復旧に懸命でした。
 2004年12月には、神恵内の復旧道路は開通しました。安全を図るために、今では、新たなトンネルが掘られています。完成はだいぶ先のようですが、より安全な対策がなされてきたわけです。災害の教訓が活かされたのです。
 このような災害が起きたのは、台風による高波が予想以上でもあったのですが、積丹半島の周辺の海岸は険しい崖の多いことが、一番の理由ではないでしょうか。
 そのため道路の整備も遅れ、古い狭くて険しい道も多いのです。トンネルも多く、昔の人が苦労してつくったトンネルが今も使われているようなものも見られます。特に東部の海岸沿いは細い道が多く、夏ともなると交通量が多く、通行が恐ろしい道となります。雨がたくさん降ると通行止めになるところもたくさんあります。積丹半島は、札幌や小樽からも近いのですが、観光地とはいえ、開発が遅れているのです。
 積丹半島の海岸は、険しい海岸地形で切り立った崖が多く、崖崩れがよく起こる場所でもあります。1996年2月の古平町豊浜トンネル付近の大規模な崩落は、今も記憶に残っているものです。激しい降雨による通行規制も、雨による崖崩れの被害を事前に防ぐことが目的です。
 なぜ、積丹半島の地形が、海岸から切り立ったようになっているのでしょうか。同じ北海道の日本海側海岸でも、石狩湾では砂浜が広がるようなところもあります。何がその差を生んでいるのでしょうか。
 北海道の南から見ていくと、熊石町から大成町にかけての海岸、瀬棚町から島牧村の海岸、寿都町の海岸、岩内町の雷電の海岸、雄冬の海岸と、転々と険しい海岸があります。そのどれもが海に突き出るような地形となっています。北海道の日本海側の南西部で切り立った海岸線は、いずれも新第三紀や第四紀に活動した火山でできているということが共通しています。積丹半島でも、全体が新第三紀の火山があり、中央部には余別岳や天狗岳の第四紀ころに活動した新しい火山があます。
 一方、なだらか海岸地域は、新しい時代に形成された堆積岩でできていたり、大きな川の河口周辺に平野部に多く見られます。同じ堆積岩でも、松前の海岸では、古くて硬い地層であるために、険しい崖となっています。もちろん望来海岸のように新しい堆積岩でも切り立ったところがあり、例外があります。まあ、それはそれで理由があるのですが。
 新しい時代の火山は、できてあまり間がありません。もともと現在の海岸付近で活動したものですから、火山自体が侵食を受けやすい地域にあます。海の波の作用で激しく侵食されます。火山では溶岩や貫入岩だけでなく、火山噴出物や砕屑物など軟らかい堆積物も含まれています。すると、軟らかいところと硬いところでは、侵食の程度が違っていきます。軟らかいところは激しく侵食されます。硬いところは侵食を免れて、できたまま切り立った荒々しい状態の地形として残ります。
 積丹半島の先端には、西に神威岬、東に積丹岬があります。いずれも険しい崖ですが、火山噴出がたくさん含まれている地層(野塚層と呼ばれています)があります。この新しい地層は、半島の西部の海岸ではよく見られるものです。堆積岩でできた地域は比較的やわらかいので、海の波による侵食を受けます。その結果、新しいものでは海食崖、古いものでは海岸段丘などの地形ができます。海岸段丘は積丹半島の西側で、海抜50mあたりによく見られ、最後の間氷期のものであることがわかっています。弱いがために侵食を受け、段丘と海食崖で険しい崖となっています。
 このような地質の背景が、積丹半島の海岸の景観をつくっています。険しい崖は交通を困難にしています。しかし、その侵食が生み出した奇岩や荒々しい地形が、素晴らしい景観をつくっています。自然の荒々しさを味わう観光地として人を集めています。
 積丹半島を囲む海は透明感が高く、魅惑的なブルーとなっています。このブルーは、シャコタン・ブルーと呼ばれます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。海と大地の織り成す景観が、神秘さを増します。

・積丹マグロ・
積丹半島は、きれいな海を背景にした漁業が盛んで、
泊まったところは海の幸がいろいろあって
それもおいしかったです。
とりわけマグロの刺身には感動しました。
宿のご主人の話では、積丹沖でとれたもので、
積丹マグロと呼んでいました。
冷凍ではなく生なので、よりおいしく食べました。
たった3切れしかありませんでした。
でも、これくらいがいいのでしょう。
堪能しました。
北海道だけではないのですが、
海沿いの民宿や旅館に泊まると、
海の幸が豊富で素晴らしいです。
しかし、シャコタンブルーの海で獲れたマグロはやはり格別でした。

・サケ・
朝、旅館の前を散歩していると
多くの釣り人が、河口付近の海で釣りをしています。
何をつっているの見ていると
どうもサケを釣っているようです。
川ではサケは禁猟で捕れないのですが、
遡上前の海は、禁猟になっていないようです。
川にかかる橋から見ると、サケが何匹も川の中に見えました。
でも、それはまだ遡上のピークではないのでしょう。
北海道の田舎のきれいな川に秋に出かけると、
多くの場所でサケの遡上を見ることができます。
もちろん積丹半島でも、何箇所でもサケを見ることができました。
サケは台風の影響を受けなかったのでしょうか。

・北海道の自然・
ついつい話題が秋のものになりました。
今は夏ですから、夏の話をしましょう。
今度の連休に私は、富良野を中心に3泊4日で調査をします。
家族も一緒です。
富良野はテレビドラマの舞台ともなっているので、
田園風景が素晴らしいところです。
私の目的は、観光名所よりも、
地質学的に興味のあるところを見ることです。
石狩川支流の空知川と幾春別川の調査と
十勝岳の火山が目的です。
北海道は、なんといっても、春から秋にかけてが、いい季節です。
こんな時期は、北海道に住んでいてよかったとつくづく思います。
もちろん、時には今回紹介したような災害もあります。
それに、冬の寒さや雪も、北海道の自然です。
すべて丸ごと北海道の自然です。
地域の自然とは、いいことも悪いこともすべて含めて考えるべきです。
北海道の冬の厳しさがあるから
より一層夏のありがたさが味わえるのだと思います。
さて、北海道の夏はまだまだ続きます。
もっともっといいところを味わっていきましょう。

2005年6月15日水曜日

06 仏像構造線:断層と大地の営み(2005.06.15)

 断層によってもともと違ったところになったものが接したり、あるいは今まであった関係がずれることがおこります。そんな断層をみていると、人間の営みと大地の営みは、時間でも大きさでもスケールの違いがありますが、どこか似たようなものを感じます。

 愛媛県西予(せいよ)市は2004年4月1日に、明浜町・宇和町・野村町・城川町・三瓶町の5つの町が合併して、誕生しました。合併したそれぞれの町も、「昭和の大合併」で市町村合併をしたものです。愛媛県はかつては伊予と呼ばれ、この町は伊予の西にあるため、西予市と名づけられました。市町村合併は、今まで別であったものが、ひとつものにまとまっていくということです。そのようなことが、自然界にもよく起こっています。それは断層というもので、断層は私たちがよく知っている地震と密接な関係があります。そんな断層を見ていきましょう。
 市町村合併をした西予市のうち、城川町は私のよく知っている町です。城川町に、私は、1991年以来、毎年のように通っています。城川町には地質館という博物館があります。その設立に協力して以来、博物館の展示だけでなく、インタネットを使った博物館情報の公開、市民教育のための普及講座、博物館のネットワーク化など、さまざまな共同作業をしながら、何度も訪れるようになりました。今では、第二の故郷のように思えるほどです。新しい市長さんにも、2度ほどお目にかかり、私たちの成果や目的を紹介しました。
 愛媛県の山間の小さな町である城川町に地質館ができたのは、この地が地質学的に有名なところだからです。地質学を勉強をした人なら、日本の地質の名称として、黒瀬川構造帯、寺野変成岩、三滝火成岩類などという名称を聞いたことがあるはずです。たとえそれらがどの町にあるかわからなくても、聞き覚えのある名称です。これらは、城川町にある地名から由来しています。ですから、城川町という地名を聞いたことがない地質学者でも、城川町にある地名を知っているのです。
 城川町から西予市になって、一気に面積が広がりました。海から四国脊梁の四国カルストまで、多様な自然をかかえる市となりました。私も新しい市の全域の地質をみるために、いろいろなところを巡りはじめました。そんな調査の折に、仏像構造線が見ることができるということを、知りました。さっそく、その断層が見ることのできる崖(露頭(ろとう)といいます)を訪れました。
 四国には東西方向に延びる大きな断層が、2本あります。ひとつは中央構造線で四国の北側を東西に走り、もうひとつが仏像構造線で四国の中央を東西に走ります。仏像構造線は、北側にある秩父帯が南側の四万十帯に押し上げているような構造の断層(逆断層と呼ばれています)です。仏像構造線は、秩父帯と四万十帯の境界になっています。仏像構造線という名前は、高知県土佐市にある地名にちなんで、小林貞一という地質学者が、1931年に命名したものです。残念ながら、城川由来の地名ではありませんが。
 秩父帯も四万十帯も、南にあった海洋プレートが海溝に沈み込むのに伴って、陸側にいろいろな堆積物が押し付けられ、くっついてできたものです。このようにしてできた地層群を付加体と呼びます。四国では、常に南側に沈み込み帯がありましたので、北から南に向かって新しい地質体が付加しています。
 秩父帯が付加したのはジュラ紀で、四万十帯は白亜紀から第三紀にかけてです。さらに南側にはもっと新しい付加体があります。ここで示した時代は付加体が形成された時代で、付加体の中には、海洋プレートが運んできた石も一緒に出てきます。ですから、付加体ができた時代よりもっと古い石も含まれています。秩父帯には、3億1000万年前(石炭紀後期)~1億5000万年前(ジュラ紀後期)の石がみつかり、四万十帯には1億3000万年前(白亜紀前期)~2200万年前(中新世初期)の石が混じっています。
 秩父帯を構成する石は、砂岩や泥岩を主としますが、海山を構成していた石(玄武岩や石灰岩)や深海底に溜まったチャートと呼ばれる堆積岩などを含んでいます。四万十帯も同様に、砂岩や泥岩を主とした石の中に、海山や海嶺できてた石(玄武岩)やチャートなどが混っています。その秩父帯と四万十帯の一番の違いは、付加した時代です。
 また、秩父帯の中には、黒瀬川構造帯と呼ばれる異質な石をいろいろ含む地帯があります。これも一種の大きな断層帯とみなせます。黒瀬川構造帯は、連続性はよくないのですが、断続的に分布しています。中には、シルル紀からデボン紀の地層や花こう岩類、変成岩が含まれています。シルル紀からデボン紀の地層は、岡成(おかなろ)層群と呼ばれ、この地層名は城川にある地名に由来しています。角閃岩や片麻岩などの変成岩は寺野変成岩と呼ばれ、砕かれた花こう岩類は三滝火成岩とよばれ、いずれも城川にある地名に由来しています。
 仏像構造線は、時代の違った付加体が接しているため、地質学的に見て第一級の大断層になります。ランドサットなどの人工衛星から見ると、中央構造線は、明瞭な大地形としてみることができます。仏像構造線もよく見ると大地形としてその連続を追いかけることができます。四国の東西に延びる山並みは、仏像構造線などの付加体の構造をそのまま反映した地形なのです。
 このような大きな断層は、一本の大きな断層がきれいに地層や岩石を割っているのではありません。多数の大小の断層が複雑に入り混じって、大断層を構成しています。大断層の本体を露頭で近くから見ることはできませんが、人工衛星から遠めで見ると巨大断層はよく見えるのです。
 第一級の大断層を見ようとしても、断層の本体はなかなか見ることができません。見ることのできるのは、いくつもある大断層を構成するひとつの小さな断層になります。同じ意味を持つ断層かどうかは、断層の両側にある地層が、秩父帯と四万十帯の地層であれば、それは仏像構造線の一部をなす断層とみなせます。
 それでも、このような一級の大断層を見ることはなかなか難しいのです。なぜなら、断層とは、地層や岩石が割れた場所のことです。そしてその断層が大きければ大きいほど、断層の幅は大きくなり、中には砕けた石ができます。このような部分を断層破砕帯と呼びます。断層破砕帯は、砕けた石でできているので、まわりの石と比べると弱い部分となります。断層が地表付近にあると、断層破砕帯は弱いですから、風化や浸食を受けやすくなります。破砕帯が大きければ、そこは谷となるでしょう。四国の中央構造線は、大きな川(吉野川)や平野(新居浜平野、松山平野)、海(伊予灘)、半島(佐多岬半島)になっているところがあるほどです。
 大きな断層を露頭で見るのはなかなか大変なのですが、仏像構造線が西予市でみることができるのです。私が見ることのできたのは、海岸沿いの道路の露頭や工事中の露頭でした。第一級の大断層にしてはあまりにも、さりげなく、みすぼらしいような気がします。
 しかし、断層の北側には、秩父帯の特徴的な石である石灰岩があり、断層破砕帯をはさんで南側には、四万十帯の砂岩と泥岩の地層がありました。明らかに、仏像構造線の特徴をもっています。この断層は、かろうじて、露頭として残っています。断層破砕帯があるのですから、崩れやすいところとなっています。もし、道路拡張や落石防止のためにコンクリートを吹きつけられたら、明日にも見ることができなくなります。
 近くに工事中の露頭があり、そこの石を見ると、激しく砕かれた石からなる大きな破砕帯がありました。一部でかろうじて石を見分けることができましたが、大半の石はぐしゃぐしゃに砕かれています。近くにこのような大きな破砕帯があるということは、やはり仏像構造帯がこのあたりを走っていることは確かです。考えてみると、海岸沿いのこの小さい露頭に、断層が残っていることの方が、不思議なぐらいです。
 直接断層を見ることは、なかなか困難なのです。ほんの小さいな露頭で垣間見るだけです。しかし、そんな小さな露頭でも、周囲には大断層の痕跡がたくさん見つかります。
 この海岸の露頭よりさらに東の陸側では、断層がそのまま山の崖をつくっているところが見ることができます。このような断層のずれによってできた崖を、断層崖と呼びます。途中で別の断層に切られて南北にずれていますが、20kmほどにわたって断層崖が連続します。しかし、断層崖で断層を直接見ることはできませんでした。
 さて、今までは、第一級の断層の話でしたが、小さな断層であれば、地層や石ころの中に、身近にみることができます。断層とは、石が破壊されてできる割れ目(断層面といいます)で、ズレ(変位といいます)があることをいいます。断層はその規模を問いません。ですから、小さなものであれば、手軽に断層を見ることができるのです。
 石や地層を見ると、さまざまなサイズの割れ目があり、固まっていることがあります。もしその割れ目で左右の石や地層が別のものだったり、模様がずれていたりとすると、その割れ目は小さいながら断層といえます。石がずれて固まった割れ目は、いってみれば、大地の動いた跡、大地の変動の化石といえます。そのような断層を持つ石や地層は探せばいっぱい見つかります。
 断層は、それほど珍しいものではないのです。しかし、断層が持つ意味を考えると、実は重要なことを、小さいな断層が物語っていることに気づきます。
 断層とは、まず石が割れることから始まります。石が割れるということは、大地に働く力が岩石の強度を上回り、岩石に破壊が起こるということです。そのような破壊がおこると、地表で感じるような振動が起こることがあります。それを、地震と呼んでいます。一度の地震でいくつもの断層ができます。小さな断層は、大きな地震によってできた多数の破壊のひとつにすぎないかもしれません。大きな断層は何度も地震を起こします。ですから、断層の数と地震の数とは、一致するわけではありません。どんな規模のものであっても断層があるということは、規模はわかりませんが、地震が起こったことを示しています。
 地層や石の中にみられる断層とは、地震の化石ともみなせるのです。石に記録された断層がいつの時代に起こったものかを特定するのは、なかなか難しものです。特別な場合を除いて、いつかを特定することはできません。しかし、多数の断層が石や地層に記録されているということは、大地では、いたるところで地震が起こっていることを意味します。
 日本では、いや大地には、いたるところに断層が見つかります。その断層とは、大地の営みといえます。大地の営みとは、断層つまり地震を伴うことなのです。そして大地の営みが継続することによって、その規模は、想像を絶するほどのものとなります。山脈をつくり、海溝をつくり、海と陸など地球表層の構造すべてをつくっていくことが、大地の営みなのです。その営みには、岩石の破壊という断層が不可分な作用として伴います。断層があること、それは地球の営みが、起こっている証でもあるのです。
 小さな今にもなくなりそうな露頭にみらる第一級の大断層から、手のひらに乗る小さな石ころの中の断層まで、大地の営みの記録なのです。

・そうは見えない・
このエッセイでは、断層を見るたびに、
いつも感じていること書きました。
第一級の断層をあちこちで見てきたのですが、
どれを見ても、ついついこれがあの有名な断層なのか、
という気持ちがいつも沸きます。
中央構造線でもフォッサマグナでも同じ気持ちを味わりました。
何箇所も見ています。
それよりも名前もない見事な断層が、
大きな露頭の地層では見ることができます。
名もないけれども断層らしい断層、
有名だけれども見栄えのしない大断層があります。
もちろん大断層とは多数の断層からできていること、
見えている断層は、本体の一部に過ぎないことも知っています。
でも、やはりそんな大断層を見るとがっくりしてしまいます。
理性的にはそれが第一級の大断層であること、
地質学的にはそこに大きな不連続があること、
そしてそこに重要な地質学的意味があること、
すべて理解しています。
でも、見ると、やはりそう感じないのも事実です。
人知れず、ひっそりと目立つことなくあるからでしょうか。
断層とは地震の写し身で、
人にとっては害をなすものだからでしょうか。
どうもそうではなさそうです。
第一級の大断層とは、規模も大きく見えてい欲しいという
願望があるからなのかもしれません。
そんな願望が満たされないから、
みすぼらしく感じるのかもしれません。
論理がないと理性は納得しません。
しかし、人が感動するのは感性です。
感性は見た目や大きさなど、
理屈ではないものから発生するようです。
さてさて人の心とは、断層を解明するより難解なものですね。

・市町村合併・
ここ数年、市町村合併で、新しい町の名称が生まれています。
昭和30年頃にあった「昭和の大合併」以来、
50年を経て、今、新たな市町村合併が起こっています。
国の構造改革の一環で打ち出された政策です。
合併でより大きな行政単位となり、
施設の効率化や人員の合理化、
10年間の交付税の確保、
合併のために補助金、
などなどが大きなメリットがあるため、
多くの市町村で進んでいるようです。
一方で、古い町の名称がなくなることへの抵抗、
地域の伝統が消えること、
過疎化の促進への不安、
補助金亡き後の財政危機、
などなど、問題もいろいろありそうです。
しかし、市町村合併の最終判断は、
そこに住む住民たちが下します。
ある地域では、市町村合併をやめ、
ある地域では市町村合併が進んだり、終わったりしています。
いずれにしても、平成の大合併は進行中です。

2005年5月15日日曜日

05 樽前山:過去を知る重要性(2005.05.15)

 樽前山は、支笏湖カルデラの縁にできた火山です。樽前山に登って、噴煙とドームを間近かに見ながら、科学的に探る歴史の重要性を考えたことがあります。

 私のいる大学は、札幌の隣町の江別市というところにあります。そこは、野幌丘陵と呼ばれる小高い丘になっているところです。天気にいい日に、大学の高い建物から眺めると、遠くの山並みが見えます。
 北側には暑寒別の山塊、東には馬追丘陵と遠くの夕張山地、西から南に向かっては手稲山、藻岩山、無意根山、恵庭、漁岳、樽前山へと山並みが連続します。
 中でも、樽前山は、その山の形が変わっていることから、すぐに見分けられます。その変わった形とは、江別から見ると台形に見え、冬でも黒々として雪の少ない姿が眺められます。横から見ると台形ですが、立体的に見ると、円錐を途中でちょん切ったような薄いプリンのような形になっています。
 これは、ラバードームと呼ばれるものです。このラバードームのラバー(lava)とは溶岩のことで、ドーム(dome)とはおわんを伏せたような丸い状をいいます。日本語では溶岩円頂丘(えんちょうきゅう)や溶岩ドームと呼ばれています。
 ラバードームは名前のとおり、マグマによってできたものです。流れにくい(粘性が大きいといいます)性質のマグマが、地表に出て、流れることなく、そのまま固まったときにできるものです。
 樽前山は、支笏湖の南湖畔に面して聳える風不死(ふっぷし)火山の南南東側に約3kmのところにあります。支笏湖畔には、東側に支笏湖温泉、西側には小さいですが伊藤温泉、丸駒温泉、オコタン温泉があります。支笏湖周辺は、支笏洞爺国立公園にも指定されていて、風光明媚な観光地です。しかし、それらの名所は、火山活動によってつくられたものなのです。
 今は一見穏やかにみえる樽前山ですが、火山活動は現在も活発で、噴気も出ていますし、火山性地震もあり、噴火の危険性があるため常に監視されています。
 ラバードームは、1909年(明治42年)の噴火活動によってできたものです。その時の様子を、少しみていきましょう。
 樽前山は、1909年の1月から小規模な噴火をはじめていました。3月30日と4月12日には、激しい噴火を起こして、火山灰を降らしました。その火山灰は札幌にも届いて、降りました。4月17日の夕方から山頂には雨や雲がかかり、それ以降の様子は観察されていません。しかし、19日の夕方に山頂が見えたときには、ドームが見えたそうです。これが現在もあるラバードームの誕生の物語です。神秘的な誕生なのですが、長くても48時間、少なければもっと短時間で、このドームが形成されたことになります。
 現在、ラバードームは直径が300から400m、高さが130mほどあり、体積は約2000万立方mあります。このようなラバードームが、たったの2日足らずでできたのです。火山活動の脅威、あるいは威力を見せ付けらる気がします。
 このラバードームは、マグマの出口をフタをするようにできました。下にはまだ熱いマグマが残っていました。そのため、ラバードーム近くの火口では、火山のガスを噴出すような小規模な噴火をたびたび繰り返してきました。
 札幌管区気象台火山監視・情報センターの観測では、火口の中は、2005年3月でも約600℃という高温であることがわかっています。火山性地震や噴気も続いています。100年たってもまだ、熱いマグマがラバードームの下にはあるのです。樽前山は活火山なのです。そして、いつ噴火してもおかしくないのです。
 樽前山のラバードームには、以前は近くまでいけたのですが、今では噴火の危険があるので、立ち入り禁止になっています。火口縁の登山道までは、許可されていますが、残念ながらドームに近づくことはできません。私もラバードームを眺めたのは、火口縁からでした。
 しかし、100年も続く活動をしているラバードームの形成は、樽前山の噴火の歴史では、小規模なものと位置づけられているのです。それは、火山の歴史を探ることからわかってきたものです。
 1909年のラバードームをつくった火山活動は、多くの人が見て、記録をしていたので、私たちはその活動を知ることができのです。もっと古い時代の火山の噴火の歴史は、近くに人が住んでいれば、古文書などが残っていることがあります。それを手がかりにして、火山噴火の記録を探ることができます。
 そのような記録によると、樽前山の噴火は、1874年(明治7年)、1867年(慶応3年)、1804-1817年(文化1-14年間)、1739年(元文年)、そして最古の記録が1667年(寛文年)のものです。北海道にはアイヌの人が住んでいたのですが、記録は残していませんでした。ですから樽前山に関する最古の1667年(寛文年)の文書は、津軽での記録となてっています。
 古文書の記録から、樽前山噴火の概略を紹介しましょう。
 1667年(寛文年)の噴火は、記録のあるものの中では最大のもので、大量の火山噴出物(火砕物と呼びます)が放出されました。この噴火はプリニー式噴火と呼ばれるもので、大噴火とともに噴煙が成層圏まで上がり、噴煙はきのこ雲となり、大量の火砕物を風下に降らします。爆発で吹き上がった火砕物は東向きの風に乗り、苫小牧ではなんと2mの厚さの火砕物が降ってきました(降下火砕物といいます)。また、火山の近くでは、火砕物が流れ下りました(火砕流や火砕サージと呼ばれます)。このときの噴火の音が津軽まで聞こえたというのが、上の古文書の記録に残ったいたのでした。
 火砕流とは、プリニー式の噴火で立ち上がった噴煙柱が崩れて、火砕物が落ちて流れ下るときにおこるものです。火砕サージとは、火砕物を含む希薄な流れで、爆発的な噴火の時に横に方向に流れていくものです。サージはそれほど遠くまで流れず(約3km以内)、堆積物も薄いもので、断面で見るとレンズ状に消えていくように見えます。サージは、一度の噴火活動で、爆発のたびに起こり、堆積物が何層も積み重なっていきます。それは砂丘で見られるような波状の地形となります。
 1739年(元文年)には、再びプリニー式の大噴火が起こりました。東側の山麓は、この噴火で、3日間ほど昼でも暗かったと記録に残されています。20km東方の千歳では、今での1mの厚さの降下火砕堆積物が溜まっています。
 1804-1817年(文化1-14年間)、1867年(慶応3年)、1874年(明治7年)は、前の2回の噴火と比べると、小規模でした。1804年-1817年にかけての噴火では、火口の中に小さな火砕物でできた丘(火砕丘と呼びます)ができました。1867年の噴火では、その火砕丘の上にラバードームが形成されました。1874年の噴火はプリニー式で、このラバードームが破壊されてしまいました。
 これが、記録に残っている記述の実際の噴出物から探った火山の歴史です。これが樽前山の火山活動のすべてでしょうか。もちろん、人が記録をしてないもっと前から活動をしていました。では、人がつけた記録のない場合は、どうすれば、火山活動の歴史を読み取ることができるでしょうか。
 私は、2004年秋、初雪の降った樽前山に登りました。ラバードームの不思議さに目をうばれてしまいますが、山麓に眼を向けると。西と南の山麓に、不思議に地形が見えてます。その地形は、波を打ったような、魚のうろこ状の模様が規則的にあるように見えます。この地形は、実は火砕サージがつくったものでなのです。さまざまな景観の中にも、火山の記録が残されています。そのような火山活動によってできた地形、あるいはその地形をつくっている火山噴出物や溶岩などの調査から、火山活動の様子を探っていけばよいのです。
 時期の違う火山活動が読み取れたとしたら、それぞれの活動でできた溶岩や火砕物に埋もれた植物片などから年代測定をして、時代を決めていきます。溶岩や火山灰などの火山噴出物から正確な年代を決めるのはなかなか大変ですが、火山の周辺には火山噴出物が堆積して残っていることがよくあります。そのような火山噴出物を詳細に調べれば、年代は少々不確かでも、火山の噴火の順序による歴史は、かなり詳細に編むことができます。樽前山でも地質学者たちは、地道な野外調査から、その歴史を割り出してきました。
 そのような調査の結果、樽前山は、9000年前から火山活動をはじめたことがわかりました。9000年前の最初の噴火は、爆発的なプリニー式で大量の降下火砕物を降らし、火砕流や火砕サージなどの流れました。
 その後、6000年ほどの活動の記録がなく、3000年前にやはりプリニー式の噴火が起こりました。そして、また1500年の休止期を経て、上で述べた記録に残っている噴火として、活動を再開したのです。
 以上のように樽前山の噴火の歴史の全貌は、解明されています。このような長い休止期の後、大規模な噴火が起こった例は、他には知られていません。樽前山は、少々変わった活動の歴史を持っている火山のようです。江戸時代以降は、70年から30年ほどの間隔で、頻繁に噴火を繰り返しています。しかし、1909年の噴火以降、96年が過ぎようとしているのに、まだ噴火はありません。噴火の間隔に何らかの科学的根拠が見つかっているわけではないですが、不気味です。もし、マグマがある時間間隔で供給されるメカニズムがあれば、ある時間間隔で噴火をしてもおかしくはありません。
 樽前山は、今後も活動の可能性の高い活火山で、さまざまな観測方法で監視をされています。これは、火山の今の状態を観測することで、未来の噴火に備えるものです。一方、噴火の歴史を探ることによって、その火山がどのような噴火の歴史を持っていることが知ることができます。そして、有珠山のように規則正しい噴火をすることが多い火山だと、その噴火の記録は噴火予知に役立てることができます。また、他の似た火山の歴史を参考にして、目的の火山の噴火を考えることができます。樽前山の次の噴火について、小規模、中規模、大規模の噴火の3つの可能性が、勝井義雄北海道大学名誉教授によって考えられています。
 現在のラバードームを破壊する小規模な噴火(1874年に似た噴火)、噴煙柱と降下火砕流、火砕流、サージなどを伴う小規模なプリニー式噴火(1874年と1739年の中間的なもの)、大規模なプリニー式噴火(1667年や1739年の大規模な噴火)の3つです。どのような噴火がいつ起こるかは、まだわかりません。しかし、周辺の自治体ではプリニー式噴火を想定したハザードマップを作成して防災に努めています。

・節理と地形・
前回の屋久島のエッセイに対して
Hirさんから、花崗岩の方状節理について質問がありました。
私がエッセイの中で
「花崗岩による方状節理による地形の特徴をよく表している」
と書いたのですが、
「その特徴がよくつかめません」という質問でした。
その質問に対して、私は次のような返事を書きました。
「数値地図を使って地形解析をすると、
その地の地形の特徴を明瞭にすることができるのが大きなメリットです。
屋久島の特徴として、直交する2方向の直線的地形がみられます。
そのような地形的特長とは、
谷や尾根(谷の反映とみなせます)、河川などの形状として
あわられています。
地形的特長を岩石の性質から探ったものが、
今回のエッセイのひとつの目的でした。
方状節理とは、3次元的に直行する3つの割れ目ができることです。
それが、屋久島では、水平方向は明瞭ではないのですが、
垂直の2方向は、明瞭に見えます。
もちろん、等間隔に正方形として見えるものではありません。
自然の造詣ですから、さまざまな条件のため、
一筋縄ではいかない、複雑なものとなっています。
しかし、地形解析としてみると、
大づかみに見ることができるということです。」

この返事に対して、再びHirさんから、
「安房川の中流あたりに見られる地形が典型ですか」、
という質問がありました。
それに対して、私は再度次のような返事を書きました。
「節理が地形としてどう見えるかという質問だと思います。
エッセイでは、さらりと書いて、詳しく説明しなかったので、
わかりにくかったと反省しております。
花崗岩に見られる方状節理と、地形をつくる要素とは規模の違うものです。
地形とは、一般には数百mあるいは数kmの規模のものいうと思います。
一方、節理とは、もっと小規模なもので、
数十cmからせいぜい数mの規模のものです。
ホームページで示した地形解析のスケールはkmのものですから、
節理が今回示した地形から直接見られることはないと思います。
もし方状節理を見るなら、
崖で直接目で見てるようなスケールになると思います。
私は、実際に屋久島で、そのような規模の節理をたくさん見ました。
ですから、Hirさんがご指摘された地形は、
方状節理を直接見ているのではなく、
節理によってできた「地形」を見ていることになると思います。
いってみれば、方状節理を地形から間接的に見ていることになります。
Hirさんがご指摘されたは、本当の方状節理ではありません。
ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、
節理が発達している地域で、
もし節理に、広域的に似たような方向性があれば、
その節理は侵食されやすいでしょうから、
侵食地形として際立ってくると思います。
最終的には広域的に地形に反映されていくはずです。
実際に屋久島の地形を大づかみにみていくと、
北西-南東方向の直線的地形、北東-南西方向の直線的地形が
地形解析の画像ではみえます。
このような直線的地形がどうしてでき方を考えるとき、
花崗岩の方状節理に規制されているのではないかというのが、私の考えです。
実際の節理が地形に与えている影響を統計的に示す手法もありますが、
私は実際に節理と地形の関係を調査したわけではありません。
しかし、人間の目は結構正確で、そのような傾向があるように見えるものは、
統計的にもそのような結果が出てくることがよくあります。
多分、そうなるであろうなという予測で、このエッセイを書きました。
書き方が、はっきりしなかったのでわかりにくかったかもしれませんが、
いかがでしょうか。」
このような説明で、節理と地形の関係について、
Hirさんも、ご理解いただけたようです。
画像や形状など視覚的状況を表現するときは、なかなか難しいものです。
自分には「こう見える」ということで、説明をしても、
他の人には「そう見えない」ことがあるのです。
そんな当たり前のことに気づかされた、質問でした。

・恩師・
上のエッセイ中で出てきた勝井先生は、
大学の学部と博士課程での恩師にあたります。
勝井先生は、高齢にもかかわらず、現在も元気に活動されておられます。
不思議な縁で、私は、勝井先生が北海道大学の定年後
しばらく教鞭をとられた大学の教員としての同じポストにいます。
直接の後任ではないのですが、不思議な縁を感じています。
時々お目にかかることがあるのですが、
そのたびに、元気で活動されているのをみて励みとしています。
先生の下を独立して長い時間がたちます。
本当は恩師に成長した自分をお見せしたのですが、
なかなか意に沿わず不肖の弟子と映っていることでしょう。
先生とは専門は違っているのですが、
なんとかがんばっているところをお見せしたいものです。
日々反省をしております。