2017年2月15日水曜日

146 四浦半島:珪石と仏像構造線

 大分南部の四浦半島は、狭く険しい海岸の道が多いのですが、そこには日本列島を代表する付加体と大きな断層があります。付加体には、層状チャートが分布しています。そんな付加体のチャートと断層を紹介します。

 1月末に、大分から宮崎にかけて、5日ほど野外調査にでました。大分県南部の四浦(ようら)半島が、最初の目的地でした。ここで見る予定は、層状チャートです。私は、ここ数年、層状チャートを追いかけています。いい露頭、代表的な露頭には、何度も通うことになります。四浦半島も、今回が2度目となります。
 網代(あじろ)島とその周辺で層状チャートのきれいな露頭で調査をすることでした。網代島には、きれいな層状チャートの露頭があり、調べる予定に入れていました。他にも、今まで訪れていないところにあるはずの露頭を調べるつもりでした。網代島の近くの江ノ浦と、半島の東北の高浜にあるはずの層状チャートの露頭でした。2つとも期待通り、よい露出で層状チャートを見ることができました。
 さらに今回、予想していなかった露頭と出会いがありました。江ノ浦から高浜へ移動している時、道路脇に人工的に削られた大きな崖があり、そこにきれいな層状チャートの地層面がみえました。急遽車を止めて見ました。
 その露頭は、明らかに採掘した跡です。削られた崖に、層状チャートが大規模に露出しています。人工的な露頭ですが、非常に見事でにチャートの褶曲が見えています。
 調べてみると、ここでは硅石が採掘されていることがわかりました。ただし私がみとところは、採掘は終わっているようで、道路側はコンクリートで被覆されていました。
 硅石とは、珪酸(SiO2)の多いもので、純度の高いものが鉱石として採掘されています。珪石の素材となるものには、火成岩起源や堆積岩起源のものあります。堆積岩起源のものは、珪藻土やチャートなどが、その主たるものとなります。四浦半島のものは、もちろん層状チャートが珪石として、掘られていました。
 四浦鉱山と呼ばれるもので、現在も、年間35~40万トンほどの硅石を生産しています。四浦鉱山の珪石の用途としては、セメントをつくりときに必要な成分となります。また、珪素鋼をつくる成分として利用されています。鉄鋼に、少量の珪素を混ぜると、磁気の性質(透磁率を上げる)を買えることがきます。珪素は、他にも、吸湿剤としてシリカゲルやガラスや陶芸の原料、珪素(シリコン)として高純度のものは、半導体の原料として使用されます。
 Google Earthでみると、四浦半島にはあちこちに人工的に削られた地形が見ることできます。これは、層状チャートを掘った跡のようです。ただし、津久見の町の南西にある巨大な削ったあとは、石灰岩を掘っているところです。石灰岩はセメントの主たる原材料ですから、その堀跡は大規模です。そしてセメントには欠かせない珪石が、近くから産するので、なかなか地の利を活かした鉱物資源となっています。
 地質図によると、四浦半島には層状チャートが点々とですが、広域に渡って分布しています。層状チャートや石灰岩の他にも、砕屑性堆積岩や玄武岩類などの種類の違う岩石も見つかります。このような岩石の組み合わせ(岩石群)は、このエッセイでよくでてくる付加体の構成物です。四浦半島は、付加体構成物からできているのです。
 四浦半島は、東の豊後水道に突き出た半島です。細長く伸びた半島です。ここには、実は大きな地質の境界があります。半島の南側には四万十帯と属する地質体がくっついています。そこより北側は秩父帯となります。両者とも付加体を構成しているのですが、秩父帯の方が古い時代に付加したものになります。ですから、両者の境界は、時代差だけでなく、地質学的に大きく違った付加体の境界となっています。これは第一級の断層で「仏像構造線」と呼ばれています。半島は仏像構造線に沿って延びていることになります。一方、愛媛県側では、仏像構造線は地形的には険しい崖をつくってはいるですが、あまり海には張り出していません。
 それより中央構造線が通る佐多岬が、豊後水道に大きく張り出しています。佐多岬の大分側は、四浦半島の北にある佐賀関の半島にあたります。あまり細長くはないのですが、佐多岬に対応するように出っ張っています。ここが、豊後水道でもっとも狭い部分となっています。ここには、西日本の地質構造を支配するような中央構造線が走っていのです。仏像構造線がつくる地形は、中央構造線ものとは違っているようです。
 今回見たのは、秩父帯(南帯、あるいは三宝山帯に区分されています)の層状チャートになります。四浦半島では、秩父帯の層状チャートが、海岸沿いの露頭としてあるので、きれいな状態で見ることができます。なかなかいい地域だということが、今回の調査でよくわかりました。秩父帯の層状チャートを見るときは、たびたび来ることになるかもしれませんね。

・巨大なもののシッポ・
四国の愛媛県で、仏像構造線は見ていましたが、
急な崖となってります。
そこで、かろうじて、仏像構造線の派生断層を
みることもできるます。
あまりきれいな露頭ではありませんでした。
これは、巨大断層の特徴なのです。
地形的にはっきりと現れてはいるのですが、
実際露頭を探すと小さな派生断層しかみえません。
まあ、巨大で得体の知れない存在は、
シッポ程度しか、姿を見せないのでしょう。

・リアス式海岸・
四浦とは、半島の北にかつては四浦があったことから
名付けられたそうです。
大分南部から宮崎の北部にかけて
いたるところに、港に向いていそうな地形があります。
それは、リアス式海岸が広がっているためです。
このリアス式海岸は四国側にもみられるものです。
似た地形が海を挟んであるということは、
大きな大地の変動を意味しています。

2017年1月15日日曜日

145 瀞:北山川の静かなゴージュにて

 熊野川の支流にあたる北山川は、奥深い山地を流れています。北山川の入口からしばらく、川は箱状のゴージュになっています。瀞と呼ばれ、船でめぐる観光地になっています。しかし、私がいったときは人もいなくて、静かな佇まい瀞でした。

 瀞は、音読みでは「じょう」、訓読みでは「しずか」や「とろ」と読みます。意味は、「静かな様子のこと」で、サンズイがつくことで、川の流れが緩やかで、深くて淀んでいるところを指しています。三重と奈良の県境にあたる北山川では、瀞を普通は「とろ」と読むのですが「どろ」と濁っています。北山川は、和歌山と三重の県境を流れる熊野川の上流にあたります。北山川の河岸の切り立った崖に囲まれた、函状(ゴージュ)になった流域の呼び名になってます。
 北山へはいくつかのルートがあるのですが、私は和歌山の熊野川から入りました。上流には瀞八丁(とろはっちょう)と呼ばれるところがありましす。天気がいい日で、瀞は穏やかで、観光客は一人もおらず、一人でのんびりを見学しました。ただ、定期バスの運転手さんが、時間調整でバス停におられました。私は、途中の地層をみることが目的だったので、この地の観光をする気はなかったので、いろいろ話を伺いました。話では、県境が入り組んでいいるので、バズ会社も複雑になっているようでした。なかなか奥深い地ですが、興味を覚えました。私は瀞八丁までしか予定がなく、それ以上遡るのをやめましたが、北山川は、まだまだ奥深くまで続きます。
 北山川の源流は、紀伊山地の脊梁の一部の大台ケ原山になります。大台ケ原山は、紀伊山地の東端に位置しています。ところが、太平洋が熊野灘の海岸線で北北東にのび、なおかつ尾鷲(おわせ)で入りこんでいるため、紀伊山地が海に最も近づくところとなっています。このような地理的条件があるため、海からの湿った風が吹き付けて、雨を降らすため降水量が多い地域となっています。
 記憶にも新しいのですが、2011年8月25日に、台風第12号による豪雨で、西日本一帯に水害をもたらしたのですが、特に紀伊半島一帯に大きな被害があったため「紀伊半島大水害」とも呼ばれています。上北山村では72時間の雨量が国内の観測史上最大の1652.5mmに達し、総降水量も1808.5mmに達しました。場所によっては2000mmを超えたとされています。想像もつかない降水量です。他の地域の人にとっては、東日本大震災の影で薄れているかもしれませんが、紀州の人にとっては「紀伊半島大水害」は強烈な記憶として残っています。
 紀伊山地は、日本列島の重要な構造線である中央構造線とその南にある仏像構造線より前にできている山地です。これらの構造線にそって西日本の地質構造は並んでいます。紀伊半島の西半分もその構造があることが地質図をみるとよくわかります。ところが紀伊半島の東半分は、全く違った地質をもっています。それは、熊野層群と熊野火成岩類が存在するためです。
 瀞八丁は、四万十帯に属する日高川層群(約1億年前~6500万年前)がでています。これは、このエッセイでも何度も登場している付加体と呼ばれるものです。付加体は、海洋プレートが沈み込む海溝の陸側にできる特徴的な地質体です。紀伊半島は付加体が基本的に形づくっている地域だと考えられますが、東側では、別の地質体に覆われているため、違った地質となっています。
 瀞八丁より下流(南側)でも、北山川沿いの切り立った渓谷を形成しているのですが、その地質は熊野層群(約2200万年前~1500万年前)と呼ばれる地層からなります。熊野層群は、付加体を構成する地層を不整合で覆うことが知られています。つまり、熊野層群は、付加体が形成され、陸地で侵食を受けた後、再び海底になり、堆積物がたまったことになります。また地層の特徴から、通常の堆積作用でできたこともわかります。熊野層群が堆積した場所は、付加体の形成された位置からすると、海の比較的浅いところで、大陸棚の一部である前弧海盆と呼ばれるところだと考えられます。
 また瀞では見られないのですが、周辺には熊野の各地にみられる熊野酸性火成岩類も分布しています。前弧海盆でマグマが活動するのは、通常はあまりないことなのですが、形成間もない海洋プレートが沈み込んだときに起こる火成作用だと考えられています。
 深い渓谷の中を国道169号線で遡っていったのですが、2015年9月「奥瀞道路」として開通した、整備された道があり、アプローチがいいところでした。「奥瀞道路」をつかったのです。あっという間に瀞八丁に着きました。崖にへばり付くように瀞ホテルがありました。古い木造のホテルの看板がありますが、私がいったときは閉まっていました。
 後日、調べたところ、1917(大正6)年、もともとは「あづまや」として、「筏師(いかだし)」のための宿として開業したそうです。その後「招仙閣」と名を変え、昭和初期には「瀞ホテル」という名称となったそうです。瀞ホテルは、宿泊施設としては、一旦営業を終わったそうです。しかし、2013年6月に、息子夫婦が食堂・喫茶「瀞ホテル」として営業を再開しとのことです。私がいったときには、もう営業を終わっていました。
 また、時間がなくて、北山の村まで足を伸ばさなかったのですが、この山深く見える瀞八丁も、北山川ほんの入り口に過ぎず、もっと奥地の見たくなりました。次回、チャンスがあれば、ぜひこの地を再度訪れ、北山川の遡りたいと思います。可能であれば大台ケ原山までいきたいのですが・・・。

・宮崎へ・
1月末には宮崎に調査に行く予定です。
冬なので寒さが少々心配ですが、
北海道のように雪がないので
なんとか調査を終えたいと思っています。
それより悪天候によって、
飛行機が飛ぶかどうかの方が心配です。
定期試験の直後に出発して、
行事ある日の前に戻ってくることになります。
ぎりぎりの日程でいくことなります。

・センター試験・
このエッセイが発行されるときは、
センター試験の最中になります。
毎年のことですが、北国の受験生は
冬の寒波による交通手段の乱れが気になります。
このエッセイはセンター試験の前に書いて
発行していますので、実際の様子はわかりません。
しかし、寒波による大荒れの天気予報となっています。
無事に滞りなくとりおこなわれればいいのですが。

2016年12月15日木曜日

144 熊野酸性岩類:ジオパークの地

 熊野は和歌山と三重にまたがっています。熊野には奥深い山々が広がっています。そこには酸性火成岩が分布しています。島弧のマグマによって形成されたものです。しかし、形成のメカニズムは、まだ十分に解明されていません。

 熊野は、紀伊半島の南部の地域で、かつては牟婁(むろ)郡と呼ばれていました。牟婁郡は、東西南北に4つに分けられ、和歌山県には西牟婁郡と東牟婁郡が、三重県には北牟婁郡と南牟婁郡があります。
 熊野は、地質学的には付加体から構成されていますが、ほかにも列島固有(島弧といいます)のマグマの活動の多様性を知る上でも重要な地域です。島弧の火成活動は、海洋プレートの沈み込みによって引き起こされます。その典型が、東北日本、伊豆-小笠原諸島などの火山列となります。
 西日本(地質学では西南日本と呼びます)では、山陰地方と九州に火山は存在しているのですが、四国や近畿には古い時代に活動した火山はあるのですが、典型的な島弧の活火山はありません。
 西南日本の本来なら火山列あっていいところに、マグマの活動は起こっていました。潮岬(南紀)、足摺岬(四国)の海沿いから、海から少し離れた内陸でも、火成岩が点々と分布しています。火山岩から深成岩が分布しています。噴出したものもありますが、多くは地下でそれほど深くないところに貫入したマグマが固まった岩石が大半です。そして、より内陸側には深成岩が分布しています。
 ただし、これらの火成岩類は少々時代が古い時代の活動になります。時間が立てば、険しい山では、地表あったかもしれないマグマによる火山活動が、侵食を受けてなくなってしまった可能性があります。地下で活動したマグマでも、時間が立てば侵食で地表に現れることがあります。深成岩は、マグマが深いところでゆっくりと冷え固まったものです。深成岩が出ている場とは、かつて地下だったところを見ていることになります。
 熊野では深成岩は、より内陸にあるので、侵食が進んで深部のものが露出しているようです。少し海側には、地下ですが深成岩より浅いところで固まった貫入岩類が多くなります。
 紀伊山地には火成岩体が分布しているのですが、深成岩を大峰花崗岩類、海側のものは熊野酸性岩類と呼ばれています。紀伊山地の奥には、大峰花崗岩類が分布しています。
 酸性岩というのは、マグマの種類を示すもので、珪酸の多いがものをいいます。深成岩でいうと花崗岩となり火山岩でいうとデイサイトや流紋岩になります。これらの酸性火山岩は、島弧でもよく見られるものです。
 熊野酸性岩類は1400万年前に活動した花崗岩マグマの活動によるものです。紀伊半島の東部、和歌山から三重にかけて広く分布しています。この地域は、沈み込みに伴う付加体が形成された後、列島と沈み込み帯の間(前弧海盆と呼ばれている)にある、陸からの堆積物がたまるところになっていました。そこに、沈み込みに伴って、マグマの活動が起こりました。それが熊野酸性岩類です。
 熊野酸性岩類は、現在の沈み込みの配置から考えると、マグマの活動の場が、少々海に近すぎるという不思議が点があります。熊野酸性岩類には、同時代に活動してた古座川弧状岩脈と呼ばれる、もっと海に近い貫入岩類が活動しています。熊野酸性岩類よりもう少し古い1500万年前には、潮岬火成複合岩類が、もっと海側で活動しています。これらの火成岩類は、現在の島弧の火成作用を理解する上でも、重要な役割を持っているはずです。しかし、その解明はまだこれからです。
 熊野は山が奥深いので、海岸沿い以外は、川沿いにある道路からのアプローチが主となります。ですから、熊野川沿いで、これらの熊野酸性岩類が分布していますので、見て回ることにしました。それらのいくつかみることが今回の目的のひとつでした。
 熊野は宗教的な聖地として、世界遺産に登録されています。ほかにも、2014年8月に日本ジオパークとしても認定されていますので、地質学でも有名なところであります。
 世界遺産は、いろいろな遺産を保護することが主目的で、保護された遺産を観光資源としていますが、保護が最優先されます。ジオパークは、地質学的な特徴をもった地域の自然を、地域の文化や習慣も含めて、保全しながらも「活用」していくものです。活用の方法として、教育への利用、地質を楽しむ旅(ジオツーリズム)なども重要な要素としています。ジオパークは、保全(conservation)、教育(education)、ジオツーリズム(geotourism)を重視しています。それら3つの行うために、地域の人々が重要な役割を担いうことになります。ですからジオパークは世界遺産とは少々目的も手段も違っていることになります。
 ジオパークでは地質のポイント(ジオサイトと呼ばれる)が設定され、解説パネルなどが設置されるようになりますので歓迎です。露頭や景観の地質の説明を読みながら、見学することができるので、利用させてもらっています。
 熊野本宮大社から熊野川沿いの国道168号にも、いくつか有名なジオサイトがあるのですが、新宮市相賀で高田川が合流するところで、川の対岸(三重県南牟婁郡紀宝町浅里)に大きな岩の崖が見えてきます。そこには、見事な柱状節理が発達した花崗岩類が見えます。こんなに立派な崖があるのですが、対岸は、三重県なのでジオサイトになっていません。残念ですが。

・縛られずに・
9月にいった南紀の調査では、
いくつもの地点を見てきたのですが、
全部を紹介する前に、2016年が終わってしまいました。
まあ、興味の向くままで書いていくので、
どのような地域を取り上げるかは、
その月の執筆にならなければわかりません。
今回のように大きな地域を漠然と取り上げたり、
小さな地質、地理的な素材を取り上げることもあります。
何者、何事にも縛られずに
エッセイも来年も継続していきたいと思っています。

・残る自然・
熊野は、紀伊山地にあります。
紀伊山地は山が深く、河川も多数ありますが、
開析が進んでいるので、深い谷が多く、平地が少なく、
海岸沿いに小さな平地が点々と存在します。
小さな町が、そこに形成されています。
ただ、中央構造線に沿って流れる
紀の川には平地が広がっていますが。
山が海にまで迫っているので、
熊野は、開発が遅れていました。
そのために、自然が今に残されているのでしょう。

2016年11月15日火曜日

143 豊富温泉:効能と好悪と

 温泉に入るのは楽しいものです。一時、日頃の憂さを忘れて、のびのびできるのが、温泉の一番の効用ではないでしょうか。人によっては、特徴のある温泉が好む人もいます。そのような温泉に豊富温泉があります。

 どこかに一泊で出かけるときには、できれば温泉があるところに泊まりたいものです。本州だけでなく、北海道は温泉が多い地域であります。目的地の市町村内に温泉があったり、なくても探して近隣の温泉を見つけて宿泊したくなります。泊まったところの温泉が、変わった泉質であれば、好奇心もあり、すぐに入ってみたくなります。でも、個性のある泉質の場合は、自分に合う合わないがあるのです。通りすがりの旅人にすれば、温泉の好悪も、一興ではないでしょうか。
 さて、話しは変わります。先日の日曜日(2016年11月6日)、北海道は強烈な寒波に襲われ、各地で激しい吹雪を伴う積雪がありました。この時期に積雪することがあるのですが、吹雪くこと、そして積雪量もかなりで、除雪車がでるようなことはめったありません。そんな珍しい荒天でした。こんな日は自宅でじっとしているのが一番です。
 こんな日でも仕事の関係で、移動しなければならない人もいます。ご苦労なことだと思います。まさか自分が、そんな日に移動しなければならなくとは思いませんでした。高速道路を用いて、長距離、それも荒天の予想される海岸沿いを進む必要ありました。事故やトラブルがあると困るので、出張は中止にしようかと思いましたが、相手があることで、日曜日なので相手に連絡もできない状況でした。
 出かけるしかなく、覚悟を決めて、余裕をもって2時間ほど早目に自宅を出ることにしました。もしトラブルがあっても対応できるに備えました。目的地は、雪のない時に比べて1時間遅くなりましたが、幸いなことに予定より1時間早く3時過ぎにつくことができました。あとでニュースをみると、札幌近郊や峠越えの高速道路などは、あちこちが通行止があったようです。宿泊予定に着くことができ、翌日の用務は、無事、終えることができました。
 実は、秋のはじまる9月中頃にも、別の校用で、同じところに出張に来ていました。そして今回は、9月から2ヶ月後に再訪となりました。9月も11月も短い用務なのですが、遠いところなので、前泊することになります。9月に滞在した時には、町内にある温泉地に宿泊しました。
 その目的地は豊富町でした。道北の稚内市のすぐ南側にある街です。豊富は小さいですが、日本海側に広がるサロベツ原野が広かっていることで有名な町です。しかし、今回はサロベツ原野の話題ではありません。温泉の話しとなります。
 9月に豊富にいったときに宿泊したのが、豊富温泉でした。最北の温泉郷と謳っていますが、稚内温泉や利尻島にもいくつか温泉が見つかって最北ではありません。しかし、泉源や温泉施設がいくつか集まっているようなところとして温泉郷と呼べるのは豊富温泉が最北なのかもしれません。まあ、定義はさておき、豊富温泉が、有名なのはその泉質によります。
 私の到着してすぐに入りました。実は豊富温泉のことを詳しく知らずに、普通の温泉だと思って入浴しました。風呂場にはいるとすぐに、強烈な石油の匂いがすることに気づきました。豊富温泉は、温泉には石油の成分を含んでいることで有名です。
 豊富温泉は、1926(大正15)年、石油探査のためにボーリングしているとき、960mまで掘削したところ、高圧の天然ガスと共に43℃のお湯が噴き出しました。これが温泉の発見となりました。その温泉を、小屋をたてて地元の人が利用していました。1930(昭和5)年には、温泉旅館の営業がはじまりました。これが、豊富温泉のはじりだそうです。
 その後、温泉だけでなく、天然ガスも利用されてきました。天然ガスによる発電が行われ、広く供給され利用されていて、現在でも温泉地域で使われているそうです。ただ、設備の老朽化が進んでいるそうです。調べたところ、肝心の石油は、温泉以外には利用されていないようです。
 私が宿泊しているとき、温泉内であった人と話をしていたら、その人は旭川から毎月で湯治に来るとおしゃっていました。その人の奥さんがアトピーで、1、2年かよって、だいぶ良くなってきたそうです。
 豊富な油分が保湿や保温の効果に優れているそうで、皮膚病やヤケドに古くから効果があるとされているそうです。全国から湯治に来られる方がいるそうです。効果の実体験は、いろいろ報告されているのようですが、温泉の効能は医学的に実証されているものは、それほど多くありません。万人に効くとは限らないので、自分の責任で対応する必要があります。
 人によっては、症状が悪化することあるかもしれません。また、豊富温泉の一番の特徴である、石油の匂いや油分が苦手な人います。豊富温泉のように個性の強い温泉は、好悪がはっきりと分かれる温泉といえそうです。匂いが苦手な人とは、実は私なのですが、これは好みの問題ですので、致し方ありません。
 でも、温泉の一番の効能は、温泉に浸かったときにでる、ホッというため息に現れているのではないでしょうか。とくに露天風呂などで雪を見ながら、温泉に浸かっているときの、開放感と暖かさは、体も心も癒やされます。これが、一番の効能と思えます。それに加えて、美味しい食事と一杯のお酒は、薬ともなりそうですが、これは私だけでしょうかね。

・サロベツ原野・
豊富の一番の観光は、何といってもサロベツ原野です。
サロベツ原野の話題は、以前にも
このエッセイで取り上げたことがあります。
「GeoEssay 24 サロベツ原野:時間以上になくしたもの」
として紹介しました。
もし興味をお持ちでしたら、ご一読いただければと思います。
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2006/24.html
9月は、豊富に前泊でしたので、早目に到着して、
サロベツ原野や丘陵地帯の大農場を見て周りました。
平日でもあったので、観光地だというのに人気の少ない状態でした。
そんな湿原や酪農地帯は、少々侘しさを感じました。
多分、これは曇った天気のせいもあったのでしょうね。

・温泉の油分・
温泉から上がってから、旅館の女将さんと、
温泉についていろいろと話をしました。
石油の油分についても話を聞きました。
以前は油分を流さずにでると、
シャツが茶色く染まるほど油分が豊富だったそうです。
今でも、匂いや油分はあるのですが、
その量はだいぶ減ったそうです。
温泉上がりに、体についていた油分が
ずっと残っているようで、この匂いがダメでした。
ですから、次回の宿泊地は、別の町の温泉に泊まりました。
そこは油分はなかったのですが、石油臭がすることろでした。
やはりその匂いがダメでした。
どうも石油の匂いは、私には合わないようです。

2016年10月15日土曜日

142 宇久井半島:あれもこれも

 宇久井半島は小さいのですが、日本列島の縮図というべきほど、あれもこれもといろいろな地質が見ることができます。観光コースからは外れていますが、なかな見どころ満載で、地質に興味のある人にはいいところです。

 和歌山県の那智勝浦町と新宮(しんぐう)市の間に、太平洋に小さく突き出た宇久井(うぐい)半島があります。宇久井半島は那智勝浦町の東はずれにあたります。那智勝浦というと、那智大社や那智滝が有名で、多くの観光客が訪れるところです。
 宇久井半島も吉野熊野国立公園に含まれているので、きれいな景観があるはずです。今回、宇久井半島にある宿舎に泊まったのですが、この半島は、国立公園でもあり、ジオパークのジオサイトにもなっています。そこまでは知っていたのですが、あまり注目していませんでした。ところが訪れてはじめて、ここが地質学的になかなか興味深いところであることがわかりました。さすがにジオサイトになるだけの内容があります。訪れてから予定を変更して、宇久井半島をじっくりと見ることにしました。
 そもそもは、宿舎に行く道の途中に、「宇久井ビジターセンター」に立ち寄ったことがきっかけでした。その日は、熊野本宮から新宮、そして那智の滝周辺にかけて、点々と地質を見てきて、天気もよくかなり歩き回ったので、少々疲れていました。しかし、ビジターセンターでの宇久井半島のジオパークの説明を見ているとなかなか見どころがあります。
 宇久井半島が、もともとは島でした。ところが縄文の海進により、本島と島の間に砂州が発達したそうです。海進が終わると、砂州が陸化して、陸繋砂州(トンボロ)となり陸続きなったそうです。その地形が展望台からみえるそうです。また、ホテルのすぐ近く浜(半島の東)には、見事な柱状節理があり、そして半島の反対側(半島の西側)には少々変わった石があるということです。
 センターの人と話をしていると、そんな多数の見どころが、すぐに行けることがわかりました。これはじっくりと見なければならないところです。その日は疲れていたので、翌日に見て回ることにしました。
 翌朝、宿舎の脇の道を下って「外の取(そとのとり)」の海岸にでました。台風の影響で風の強い日でしたが、見事な柱状節理がありました。この節理は、熊野火成岩類からできています。通常、柱状節理は玄武岩などの塩基性マグマで見られることが多いのですが、ここでは酸性マグマからできています。風化面も淡い色で、岩石の表面を見ると大きな長石の斑晶を多数含んでいる酸性火成岩であることがわかります。
 半島の大地の大部分は、熊野酸性岩類からできているのですが、少しだけですが牟婁層群が、宇久井半島の西南の地玉(ちごく)の浜の海岸沿いにですが分布しています。牟婁層群は付加体として形成されたものです。その牟婁層群の中に、オルソクォーツァイト(orthoquartzite)とよばれる礫が含まれているのです。
 オルソクォーツァイトとは、正珪岩と呼ばれることがありますが、ほぼ石英だけからできている岩石です。顕微鏡で詳しく見るとわかるのですが、オルソクォーツァイトは、丸い石英の粒が集まってできています。粒子の間も石英です。これは石英の礫からできた堆積岩なのです。しかし石英だけからできている堆積岩は、日本ではみかけません。大量にあるのは、大陸地域です。
 大陸を形成している深成岩である花崗岩の仲間が風化を受けます。すると花崗岩を構成している長石や黒っぽい鉱物(雲母、角閃石など)は溶融、侵食でなくなったり、小さくなり、頑丈な石英だけが残ります。砂漠などそのいい例です。風化をうけた石英は丸くなっていきます。このような石英が集まると、オルソクォーツァイトができます。ただし他の礫や鉱物が混じらないということは、大きな大陸で風化で石英だけが残っているところが礫の供給源となっているということです。大陸内部の湖や、大きな大陸の縁で堆積したものだと考えられます。
 このオルソクォーツァイトは、大陸縁でできた堆積岩が、砕かれて牟婁層群がたまっている環境(海溝近く付加体)にまでたどり着いたのです。オルソクォーツァイトの地層は大陸にはよく見られる岩石ですが、現在の日本列島には地層としては全くありません。ですから、ここのオルソクォーツァイトは、ユーラシア大陸から流れてきたもので、日本列島が大陸の縁にあった証拠となると考えられています。
 地玉の浜では、地層の分布はそれほど広くはないのですが、多数のオルソクォーツァイトの礫をみることができます。なかなか興味をそそる履歴をもった礫岩です。
 半島の尾根には展望台がつくられており、そこからは宇久井半島の付け根をみることができます。木があって少々見づらいのですが、付け根が、平らな低地になっていることがわかり、砂州からトンボロになった地形であることがよくわかります。
 宇久半島は、日本列島に履歴の不思議、酸性マグマの柱状節理、新しい時代の地質現象まで、いろいろな時代、いろいろな履歴をもった岩石や景観が見ることができます。小さい半島なのですが、ビジターセンターもあり、人も常駐しています。見どころへのアプローチも整備されており、地質を見学するにいいところです。
 今回はもともとは、宿泊だけの予定でしたが、いろいろな地質の見どころも味わうことができて、儲かりました。

・冬の足音・
北海道は、冷え込んだ日が何度もあり、
大学もとうとう暖房が入りました。
我が家では、もちろんとっくに暖房をたいています。
私の外出着も、手袋にマフラーと冬仕様になってきました。
里への雪はまだですが、山並みは何度か冠雪がありました。
今はまだ秋なのですが、
いよいよ冬の訪れを感じさせる季節になりました。

・代償として・
大学は、授業がはじまると、日々の流れや早くなります。
講義数が多くて、毎日、毎週、慌ただしく過ごしていて、
なかなか息抜きをする時間がありません。
その隙間時間をぬって、研究をしています。
時間がない中で仕事しているのですが、
集中しているせいでしょうか。
それとも詰めが甘いまま手放すためでしょうか。
とりあえず形だけは整えて、
結果として成果の数だけが増えます。
研究は数より質、内容だと思っているので
少々不安も不満もあります。
でも、ないよりある方がいいのは確かです。
忙しさの代償を持っているような気もします。
でも忙しさの影では、心がすり減っているような気がします。
私の世代では、しかたない状況なのでしょうかね。

2016年8月15日月曜日

140 平取:イザベラの見たオキクルミ

 今回は、平取への旅です。平取は、アイヌ文化が継承されいている地です。この旅では、平取を訪れるとともに、過去の旅人の足跡をたどり、旅をする人の気持ちや旅への思いを馳せる旅でもありました。

 6月下旬に校務で平取(びらとり)にいきました。平取は、苫小牧から日高に向かう途中にある町です。日高自動車道が通じているので、札幌からでも高速道路を使えば、比較的短時間にたどり着けます。1時間ほど早く着いたので、平取の町を少しぶらぶらしました。
 沙流(さる)郡平取町は、沙流川ぞいに東西に長くのびる町で、最東部には日高山脈の主峰、幌尻岳があります。平取にはだいぶ前に何度か訪れたことがありますが、今回久しぶり訪れると、中心部に町のいろいろな機能が集約された街づくりがなされており、きれいな景観の町並みとなっていました。少々驚きました。
 平成の大合併の折り、平取にもいくつかの町との合併案があったようなのですが、どことも合併しない方針を定めました。財政的には厳しい選択をしたことになるのですが、自分たち自身で、単独でまちづくりをすることを決断したのです。自立心の強い町の人たちが多いようです。
 平取は、二風谷(にぶたに)とよばれるアイヌの伝統や伝承が色濃く残る地でもあります。アイヌの伝承地がいくつもあり、口承文芸を知る上に重要な地となっています。1983年から1985年にかけて二風谷の遺跡が発掘されました。その結果、17世紀ころのアイヌの暮らしが解明されてきています。
 沙流川流域の平取はアイヌを研究するひとつの拠点となっています。古くは明治時代のバチェラーや金田一京助をはじめ、昭和初期にはマンローが二風谷へ移住して研究をおこないました。
 現在では、アイヌの家(チセ)と集落(コタン)復元され、定期的に儀礼が行われ、継承活動がなされています。そして、アイヌ文化として模様をあしらわれた工芸品も作り続けられています。
 さて、今から100年以上前、この地を旅をし、それを紀行文として残した外国人女性がいました。この女性は、イギリス生まれのイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831年10月15日-1904年10月7日)といいます。23歳のときに北米を旅してから、人生の多くを旅に過ごした人でした。日本を訪れたのは47歳の時で、1878(明治11)年6月に日本に着きました。その後、精力的に日本を歩きまわり、北海道(当時は蝦夷)にも足を伸ばしています。日本の旅の様子は、講談社学術文庫の「イザベラ・バードの日本紀行」(上・下)として、現在でも読むことができます。私も入手しました。
 イザベラは8月12日に函館に着き、函館から森に抜けて、往路は森から室蘭まで海路をすすみ、海岸沿いの陸路を白老から佐瑠太(現在の富川)、そして平取へと進んでいます。そして8月23日には平取に着き、アイヌ部落の小屋に数日間滞在しています。その際、アイヌの文化や風習、木造のお堂(現在の義経神社)での様子などを、事細かに妹や友人に向けての手紙としてしたためています。
 イザベラにとっては、平取がもっとも奥地の目的となったようで、あとはすねて陸路をたどり、9月12日に函館にもどっています。まる一ヶ月をかけて北海道を旅したことになります。函館以外は、人があまりいかないところをあえていっています。
 道中、ひど目にあったことも、あるいは原住民に対して無意識な偏見を示す文章もあります。当時の社会情勢を考えるとしかたがないことかと思われます。イザベラの紀行文は、当時のアイヌの生活や風習を知り、西洋人の目線、女性の目線で明治の日本を見聞した貴重な記述となっています。イザベラは、日光以外はどのような地でも、外国人が行かないところをあえて旅することにしていました。好奇心が旺盛な女性だったようです。未知の地へ旅をする心を持ち続けた人だったようです。
 私は、平取では義経神社にいきました。だれもいない静かな神社でした。長い階段を登った先に神社がありました。実は、イザベラもここを訪れています。イザベラに親切にしてもらったアイヌによって神社に案内されます。
「崖のまさに縁、ジクザグ道を上がったてっぺんに、木造のお堂が建っています。本州のどこの森や小高い場所でも見られるようなお堂で、明らかに日本式の建て方ですが、この件に関してはアイヌの伝承はなにも語っていません」
と記述しています。アイヌの信仰と神社の信仰は違ったもののはずですが、アイヌたちは神社で礼をしたと記述しています。少々不思議な気がしますが、実はいろいろな歴史が秘められています。
 義経神社は、名前からして義経伝説にまつわるもののように思えますが、実は違います。江戸時代後期(1798年)に、幕臣の近藤重蔵が北方調査をしてこの地を訪れた時、アイヌたちが祀っていたオキクルミを源義経と混同してしまいました。そして、1799年、仏師に源義経像を作らせ、アイヌに与えたのが始まりだそうです。神社は日本式ですが、祀っていたのは、アイヌに神、オキクルミだったのです。
 義経神社は、現在では整備されて、階段もしっかりあるので、簡単にたどり着くことができます。でも、人気のない境内は、荘厳さがありました。このような雰囲気は、100年前にも同じようものであった気がしました。でも、私は、苦労せずに平取まできた、整備された階段を登ってきたのですが。
 人には旅に出たい気持ち、その気持ちにつられて気軽に旅に出てしまうことがあるようです。私は、デスクワークが多くて疲れてくると、旅に出たくなります。もちろん調査や校務として出かけることもあるのですが、単純に無目的な旅をしたくなります。でも、なかなか旅に出たい気持ちがあり、その気持ちを満たすだけの旅はしなくなりました。いやできなくなりました。心も時間も余裕がなくなっているからでしょうか。目的ありきの旅しかしていません。目的をもった旅でも、旅から帰ると、体は疲れているのですが、次はどこどこに行きたいなと思ってしまいます。旅にはそんな人の心に強く働きかける何かがあるようです。
 イザベラのように西洋の旅行家ではなくでも、人は旅をしてきました。芭蕉や山頭火のように、地方をさすらいながら、俳句や紀行文を書きながら過ごす作家たちもいました。また、お伊勢参りのように、長い道のりを徒歩で進んだ人も多くいました。古くは、アフリカで誕生した人類は、何度かアフリカを旅立っています。そして極東にまでたどり着き、氷河期には凍ったベーリング海を渡り、北米大陸までたどりついています。豊かな北米大陸に満足することなく、南米大陸の南端にまで旅を続けます。また海路に乗り出した人たちもいました。風と海流を頼り、星を標にして、海をも旅しました。そんな衝動的な心が、人類には埋め込まれているようです。
 イザベラは、原注に次のように書いています。
「その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイル〔約一九二〇キロ〕を危険な目に逢うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。」
明治だけでなく、江戸末期に日本に来た外国人も多くも同じような感想を述べています。これは、今の日本でも変わらないところだと思います。日本は危険を感じずに旅ができる恵まれた地です。そんな地の利をもっと一杯活用したいのですが・・・。
 私はイザベラ以上に通りすがりのものです。ですから、町の景観からしか感じることができませんでしたが、平取町には、合併問題や町づくりについての姿勢をみると、強い自立心や、逆境にもめげない強い意志を感じました。それは、もしかすると、オキクルミを祀っていたアイヌの伝統にまで遡るのかもしれませんね。

・オキクルミ・
オキクルミというアイヌの神があります。
アイヌ伝承における神はアイヌラックルと呼ばれ
オキクルミとも呼ばれています。
荒々しく混沌とした大地に
初めて誕生した神がオキクルミです。
地上と人間の平和を守るための神として誕生ました。
オキクルミは、大鹿や魔神を退治して、
地上の脅威を取り除き、平和をもたらした神です。
北大の昭和2年度の寮歌「蒼空高く翔らむと」に
「若き勇者のオキクルミ 熊をはふりて饗宴せし」
という歌詞があり、
それでオキクルミの名前を覚えていました。

・義経神社・
義経神社という義経伝説を思い浮かべますが、
上述のようにアイヌの神と混同した結果のようです。
北海道には義経伝説の地がいくつかりますが、
もしかすると近藤重蔵の間違ったように
オキクルミの勇者の伝説が、
義経伝説と誤解されたのかもしれませんね。

2016年7月15日金曜日

139 大沼:穏やかさの中の激しさ

 北海道の道南の大沼公園は、もともとは荒々しい火山地形だったものが、今では素晴らしい湖沼の景観になっていました。激しい噴火で一気にできたものですが、穏やかな佇まいから、激しさは想像できません。

 先日、校務で大沼にいってきました。時間があったんで、周辺を見て回りました。下り坂の天気でしたが、最初は晴れていたので、駒ヶ岳を望むことができました。駒ケ岳は、尖ったぎざぎざの山頂が特徴となっています。そして、青空のもと、大沼ごしにみる駒ケ岳はなかなか見応えのある景観です。また、函館本線の車窓からみる駒ケ岳もなかなかいいものです。車窓の駒ケ岳でも、冬の雪景色も特別いいものです。
 大沼公園の周辺には、札幌から延びている道央自動車が、大沼公園インターまで来ているので、高速道路で一気に来れるようになっていました。ただし、4時間もかかるので、一人で運転していくには少々疲れますが。
 それに加えて、今年の春には北海道新幹線も開通したので、本州からも便利になりました。新幹線の北海道の玄関口である新函館北斗駅は、大沼の近くにできため、今後、ますます観光地化されていくことでしょう。私が訪れた時も、7月最初の金曜日だったのですが、多くの観光バスで外国人観光客が来ていました。それに混じって、日本人の年輩の観光客も見られました。
 大沼は、道南の亀田(かめだ)郡七飯(ななえ)町にあり、国定公園にも指定されています。大沼国定公園には、大沼と小さい小沼、そして蓴菜(じゅんさい)沼があり、その他にも小さな沼もあります。大沼と小沼はつながっており、大沼と小沼はセバット(狭戸)と呼ばれる狭い部分でつながっています。大沼の水位が高いので、セバットを通って小沼側に水が流れ込んでいます。セバットは狭いので、橋がかけられ、そこをJR函館本線や道々43号線が通っています。
 それぞれの沼には、小さな島が多数あります。ある資料によると126個の島があるといいます。さらに沼の中だけでなく、小高く小さな丘が、周辺に多数、点在してます。いくつかの大きな沼と多数の小島、多数の小さな丘が、大沼公園を特徴づけています。
 この小さい島や丘は、「流れ山(ながれやま)」地形と呼ばれているものです。
 大沼周辺の流れ山地形は、5万分の1地形図ではあまりよく表現されていないのですが、2万5000分の1地形図では、ごつごつした小山が表現されています。また、5mメッシュの数値標高は、大沼周辺がすべてデータが揃っているわけではないのですが、一部あって、それをみると小さな小山がかろうじて見えています。現地ではよく分かるのですが、地形図でみると、小さすぎてよく見えないようです。しかし、10mメッシュの数値標高を使った地形解析の傾斜量図でみると、小さな丘がよく見えてきます。
 流れ山地形とは、火山の裾野にできる特徴的な地形です。大沼の近くの火山として、北にそびえる駒ケ岳(剣ケ峰山頂の標高は1131m)があります。駒ケ岳は活火山で、何度も激しい噴火をしています。その中でも、1640(寛永17)年の噴火は、非常に激しいものでした。この噴火の様子は、「松前年々記」などの古文書にも残されており、その激しさが詳しく記録されています。
 7月31日正午ころ、山頂が崩壊(山体崩壊といいます)して、広範囲に崩れ落ち、飛び散りました。噴火湾になだれこんだ大きな崩壊物が、巨大な津波を起こしました。この津波によって、沿岸で700名あまりが溺死したと記録されています。
 南側にも山体崩壊が起こりました。この山体崩壊によって、南魔の流れ山地形ができました。そのときの堆積物は、「クルミ坂岩屑なだれ堆積物」と名付けられています。
 山体崩壊が起こると、山体を構成していた堆積物が、噴火によって破壊されて、裾野を流れ下ります。岩塊は、数mから100mを超すものまでいろいろなサイズものが混在して流れていきます。斜面の傾きがゆるくなると、崩壊物の流れが止まり、細粒のものは流れ去ったり、空気が抜けて体積が縮まり、大きな岩塊だけが残って、地表に出っ張ていきます。この出っ張りが流れ山地形となります。
 崩壊物が流れこんだところに河川があると、河川がせき止められることになります。川がせき止められると、上流には池や沼ができます。大沼は、このようにしてできた堰止湖と考えられています。ただし、小沼と蓴菜沼は、地盤の陥没が起こってできたとされています。
 1640年の噴火まで、駒ケ岳はきれいな成層火山(標高1700m)の形をしていました。ところが、激しい噴火によって、成層火山の上部600m分が吹き飛ばされて、ぎざぎざの山頂になってしまいました。この年夏に始まった激しい噴火も、約70日後の秋には治まってしまいました。非常に短い噴火だったようです。
 この短い噴火の中でも、岩砕なだれは最初の噴火で発生しました。つまり、1640年7月31日の噴火によって、津波だけでなく、大沼周辺の流れ山地形や堰止湖も一気にできたことになります。この噴火のあとには、荒々しい山頂をもつ駒ケ岳ときれいな景観となった大沼公園が残されました。
 農道から駒ケ岳の写真をとっていたら、近くの農家の方が、「○○へいったら、もっときれいに写真が撮れるよ」と教えてくれました。多分、大沼とともに駒ケ岳が撮れる絶好のポイントがあるのでしょう。また湖畔の道路脇でまたもや撮影をしていたら、カヌーから降りてきた人が、「○○から撮れば、駒ケ岳も入るよ」と親切に教えてくれました。大沼は、北海道の美しい景観と、人よさも合わせ持っていいました。しかし、その背景には、荒々しい火山噴火が隠されていました。

・陥没湖・
大沼は堰止湖で、小沼と蓴菜沼は陥没湖である
という記述があるのですが、
その出典がわからず、深くは述べませんでした。
どのようなメカニズムに陥没したのかが
よくわかりませんでした。
もう少し探せば、見つかるのかもしれませんが、
時間切れで断念しました。
そんな悩みは、湖面に映える夏の緑で吹き飛びます。
短い時間でしたが、非常に心地よい思いをしました。
帰りの長距離運転は疲れましたが、リフレッシュできました。

・計画変更・
今年の研究のための調査計画を変更しています。
ゴールデンウィークにでかける予定の
熊本での野外調査が地震で中止になったので、
その代替の調査を現在検討中です。
秋の南紀の調査はもともと計画にあったのですが、
中止になった分の計画の変更届をだしています。
持ち認められたら、短い調査を
2、3回行く予定です。
その一部な道内になりそうです。
道央と道南を考えていますが、
どうなるかは、変更届が受付られるかどうかにもよりますので。