新冠川の河口の右岸には、切り立った崖があり、垂直の地層がでています。崖は線路も通っているのですが、トンネルが穿れています。そんな地層を眺めながら、運休中の線路と判官に思いを馳せました。
先日、襟裳岬を回る野外調査に出ました。札幌圏からは、自動車道の日高道を通り、日高厚賀までスムースにいくことができます。しかし、9月6日の地震の影響でしょうか、高速道路ですが、段差が多数あり、あまり高速では走れなくなっていました。高速道路が伸びているので、静内や浦河方面へは、行きやすくなりました。以前なら、静内まで車で半日かかっていたのですが、今なら高速に乗れば、2時間ほどで行くことができます。
交通手段としては、JR北海道の日高本線があるのですが、しばらく運休状態が続いています。日高本線は、2015年1月、爆弾低気圧が発生して高波によって線路の土が各所で流され、列車が運行できず、鵡川から様似の間が運休しました。その後、2015年9月には台風によってさらに被害が増大し、2016年にも台風が連続して襲来して、またも被害が増えました。2018年9月6日には、北海道胆振東部地震で厚真川の橋が壊れて、苫小牧から鵡川の間も運休しました。苫小牧から鵡川の間は、12月には復旧するとの見込みですか、それより先の復旧がどうなるかは未定ですが、なかなか難しそうです。
日高の調査では、まず新冠に立ち寄ることにしていました。着いたのは8時前でしたが、天気がよかったので、判官館(はんがんだて)森林公園にいくことにしました。ここには何度か来ていたのですが、岬の先端まではいったことがなかったので、好天につられて、でかけることにしました。
判官とは源義経のことで、史実では奥州の衣川の戦い(現在の岩手県平泉)で破れ自害したことになっていますが、北海道まで逃れてきたという伝説があります。蝦夷地で最初の上陸がこの地で、「判官館」と呼ばれています。伝説では、しばらここに住んでいて、連れてきていた鷹で「静御前」に手紙を送ったところ、頼朝にバレたため、この地から逃げたとされてます。北海道には、いくつか、そのような義経伝説の地がありますが、ここもそのひとつです。
公園の道路を進んでいくと、公園を抜けて最も奥にいくと、地域の墓地があります。そこに車を止めて、岬の先端までいく散策道を歩きました。散策道は林の中や湿原を通ります。紅葉の終わりで、静かな心地よい天気でした。土曜日でしたが、朝も早かったためでしょうか、それともここはもともと人があまり来ないのでしょうか、誰にも会いませんでした。岬には休憩所があり、景観を眺めることができました。私は、海岸沿いの地層が見えないかと期待していたのですが、線路の上の崖にあたるため、コンクリートが巻かれていて、地層をみることはできませんでした。
次に、海岸へ向かいました。判館舘の海岸へ向かうには、国道235号線(浦河街道)から、新冠川沿いの道に入ります。道を奥まで行くと、行き止まりになっていますが、そこから歩いて海岸へいけます。海岸では、崖があり露頭が見られます。ただし、JRの線路を越えて海岸に出ることになります。鉄橋の下を通ることもできますが、今は鉄道が運休中なので、線路を横ぎる踏み跡もあります。そこを越えていくと、崖をくり抜いたトンネルがあります。
線路を越えているとき、トンネルを通り抜けてくる人がいました。声を掛けると、この線は復旧の見込みはなさそうだといいます。トンネルを通り抜けて釣り人がしょっちゅう通っており、向こう側も釣り場となっているとのことです。ただし、今日は誰もいないとのことでした。
私もトンネルと通り、向こう側にいきました。しばらく線路を歩きましたが、ここの線路も波に洗われて浮いているところ、曲がっているところなども見えました。それれ加えて、使われなくなって雑草が生い茂る線路は、侘しさを一段と増しました。私は、線路をあることで、判館岬の上からが見ることができなかった崖を間近に見ることができました。ただし、地層自体は海岸からのほうがよく見えます。
新冠は、泥火山が有名で、以前このエッセイでも紹介しました。今回は海岸の地層を見ました。海岸は、急な崖になっています。線路も崖の脇を海岸を通ったり、トンネルを通ったりします。新冠ではこの付近だけが険しい地形となっています。海の波によって侵食されて、海食崖と呼ばれるものになっているためです。
侵食された崖のおかげで、地層をよく見ることができます。1300万年前(中新世中期)に海底で堆積したもので、元神部(もとかんべ)層と呼ばれるものです。それほど硬くない堆積岩です。一枚一枚が厚い地層になっています。ほとんどが、礫岩や砂岩からできています。斜交葉理が発達する礫岩から砂岩の層、平行葉理のある砂岩の層、厚い砂質礫岩の層などが見られます。この地層は、日高山脈が上昇したとき、山脈から運ばれてきた土砂が当時の扇状地から沿岸で堆積したものだと考えれれています。
ここの地層は、ほぼ垂直に立っています。地層はもともとは水平に溜まってきます。日高山脈の上昇にともなって、周辺地域では、地層にいくつもの褶曲ができました。その褶曲で、ここでは直立しているところに当たります。
新冠川沿いの道には、ユースホステル(ファンホース新冠)があるのですが、現在は閉館しています。卒業研究で静内川上流を調査しているとき、原付バイクで何度か往復したので、長い時間かかりました。その行き帰りには、このユースホステルをよく利用させていただきました。さらにその奥には、新冠町日高判官館青年の家があります。なつかしさもありましたが、高速道路が伸びたので、新冠も近くなり、判官の見たかもしれない地層が非常に近くなったという感慨がありました。
・カメラ・
新冠川の河口では、釣り人以外にも
定期的に来られている方がいました。
私が車に戻ったき、
超望遠レンズをつけたカメラを持った人にも会いました。
その方から、鳥ですか、と聞かれました。
私も露頭写真を取るために
一眼レフカメラをぶら下げています。
そのために聞かれたのでしょう。
そしてこの地が鳥の撮影にいいのでしょうか。
私は、景色です、といいました。
ここには自然が豊富に残っているところです。
・サケの遡上・
サケの遡上がまだ続いているようです。
この時期、大きな河川沿いを歩いていると、
大きな魚が跳ねます。
新冠川の河口でも大きな魚がはねていました。
また、静内川の中流にもいきましたが、
そこでも大きな魚なの影がみえるところがありました。
またサケが遡上し産卵しているようです。
新冠川も静内川も上流に大きなダムがあるので、
あまり上流にはいけないはずですが、
どこからの支流で産卵しているでしょうね。
大地の景観には、
さまざまな自然の驚異、素晴らしさ、不思議が隠されています。
そんな大地の景観を地形や地質のデータから地質学者が眺めたら、
どう見えるでしょうか。
皆さんどうか、大地の造形に隠された仕組みに
目を向けてください。そして楽しんでください。
2018年11月15日木曜日
2018年10月15日月曜日
166 青空と赤い黒岳へ
台風の隙間を縫って、層雲峡から三国峠へいきました。青空があまりにきれいなので、黒岳の途中までロープウェイとリフトで登りました。非常に素晴らしい紅葉を見ることができました。帰りは台風の影響とかけっこになりました。
9月末に大雪山の黒岳、層雲峡から三国峠にでかけました。自宅を6時頃に出発し、高速道路を経由して上川から層雲峡に向かいました。初日は層雲峡周辺から上流を見ていくつもりでした。9時頃には層雲峡温泉に着きました。抜けるような青空がきれいでした。朝早かったのですが、ロープウェイも運営していた(6時から運転していた)ので、青空に誘われて、黒岳に上がってみることにしました。
ロープウェイの待合は、外国人観光客で一杯でしたが、次に来たロープウェイに乗ることができました。窓に近いところに位置取りできたので、限られた方向だけですが、窓にへばり付いて景色を眺めることができました。ロープウェイで黒岳の5合目まで上がって、リフトも動いていたので、それにも乗って7合目まで上りました。ロープウェイやリフトからの眺めは、特にリフトは林の中をひとりで眺めることができるので、この時期は最高です。木々は、紅葉の盛で、標高が上がるほど、紅葉が深まることが体験できます。青空と紅葉の色合いが、非常に綺麗でした。
今回は、黒岳に登る予定はしていませんでしたので、7合目と5合目の周辺の景観をみるだけです。7合目では、紅葉だけでなく、以前来たときにはなかった「黒岳カムイの森のみち」というものができていました。この道は、2016年8月に完成したそうです。この道をしばらく歩ていくと「あまりょうの滝展望台」に着きました。赤石川にある「あまりょうの滝」と呼ばれるものが遠くに見えました。あまりに遠くて、感動はあまりなかったのですが、周辺の景観には感動しました。紅葉とともに、黒岳山頂への登山ルートはよく見えます。黒岳の裏側の崖がよく見えるのですが、黒岳はやはり山頂から周辺の景色を見下ろすところでしょうかね。
これまでロープウェイから先のリフトは、冬のスキーのためなのでしょうが、夏場は観光用でもあり、黒岳に登ることが主だったのですが、「黒岳カムイの森のみち」ができたので、リフトで登ってきた観光に来た人たちでも、歩いて周辺の景色を楽しむことができるようになりました。ただし、この道は山を切り拓いた状態なので、沢やぬかるみなど自然に近い状態でつくられているので、山歩きに慣れていない人は、注意が必要です。私は楽しめました。
さて、大雪山は、北海道の中央に位置する火山の集合体で非常の大きな地域を指しています。中央部に御鉢平(おはちだいら)と呼ばれる直径2kmほどの大きな火口があります。この火口は3万年前に大きな噴火でできたもので、その周辺に多数の山頂があります。これらの山々を巡る縦走路や周回ルートなどがあり、登山を楽しむための入山ルートにもなっています。
このときの噴火によって、この周辺に大量の火砕流が発生し、熱い火山灰で埋められてしまいました。その結果、平坦な地形(雲の平)ができ、熱い火山灰が大量に溜まったところでは、溶けて溶結凝灰岩となりました。溶結凝灰岩は、長い時間をかけて、石狩川の流れによって侵食され、層雲峡付近では箱状の侵食地形になっています。層雲峡では、柱状節理として、奇異な景観となり、観光地になっています。
この大雪山の火山の下には、噴火が起こる前に分布していた基盤岩類として日高類層群と呼ばれている地層があります。その中には、付加体で形成された地層が、石狩川の上流、三国峠付近に分布しています。それをみることが、2、3日の目的でした。
初日の午後は、天候を伺いながら、石狩川の遡っていきました。それは、台風の影響が気になっていたからです。当初の予定では、1日目は層雲峡に宿泊し、2泊目は糠平で宿泊する予定にしていました。しかし、出発前日の天気予報で、台風24号は非常に強力なので、注意を促す報道が繰り返されていました。2日目の糠平の宿泊はキャンセルし、2日目も台風や現地の天候を見ながら行動することにしていました。三国峠の付加体の地質調査は、今回は予察とすることにしました。初日も石狩川上流でも三国峠付近までいって、露出状態を見ておくことにしました。天候次第では、2日目に来たルートである上川方面から帰ることも考えていたためです。
2日目、時々雨がぱらついていましたが、荒れ模様ではなさそうなので、予定通りに、三国峠を通り、糠平へ抜けました。帯広から高速道路に乗ったのですが、日高の峠周辺では、激しい雨になっていました。石狩側に抜けると、雨は降っていませんでした。あとで知ったのですが、三国峠付近は、かなりの雨になっていて、私が通ったあとに通行止めになっていたようです。間一髪に通り抜けることができていたようです。
現在は、天気予報の精度が上がっているので、警報にも説得力があります。近年、頻発する災害により、天気予報や出される注意勧告もわかりやすく改善されてきて、参考にしていくべきでしょう。今回の調査は、事前に予定変更で一泊分をキャンセルしたのですが、それでよかったと思います。調査にはいくらでも次がありますが、命や体はひとつです。命あっての物種です。予定変更しましたが、早目に行動していたので、青空に映える紅葉をみることができました。
・里の紅葉・
10月の半分が過ぎて、里でも紅葉が進んでいます。
木々の葉が次々と色を染めて、葉を落としていきます。
秋の深まりを感じています。
紅葉の落ち葉を利用する授業をしています。
毎年、学生と大学の林を散策しながら
秋の深まりを感じることができます。
・いくところは尽きず・
今年の地質調査は、天災によって、度々、予定変更をしています。
こんなこともあるのだと、受け入れるしかありません。
今年の中止は、山陰調査が一番大きなものでした。
大雪・三国峠の調査は、その代替として計画したものでした。
今回も、途中で断念しています。
懲りることになく、次は、道南と襟裳周辺の調査を予定しています。
講義の合間をぬっての調査なので、日程も限られています。
それでも調べたいところは、いくらでもあります。
日程さえ確保できれば、いくろとろは尽きません。
9月末に大雪山の黒岳、層雲峡から三国峠にでかけました。自宅を6時頃に出発し、高速道路を経由して上川から層雲峡に向かいました。初日は層雲峡周辺から上流を見ていくつもりでした。9時頃には層雲峡温泉に着きました。抜けるような青空がきれいでした。朝早かったのですが、ロープウェイも運営していた(6時から運転していた)ので、青空に誘われて、黒岳に上がってみることにしました。
ロープウェイの待合は、外国人観光客で一杯でしたが、次に来たロープウェイに乗ることができました。窓に近いところに位置取りできたので、限られた方向だけですが、窓にへばり付いて景色を眺めることができました。ロープウェイで黒岳の5合目まで上がって、リフトも動いていたので、それにも乗って7合目まで上りました。ロープウェイやリフトからの眺めは、特にリフトは林の中をひとりで眺めることができるので、この時期は最高です。木々は、紅葉の盛で、標高が上がるほど、紅葉が深まることが体験できます。青空と紅葉の色合いが、非常に綺麗でした。
今回は、黒岳に登る予定はしていませんでしたので、7合目と5合目の周辺の景観をみるだけです。7合目では、紅葉だけでなく、以前来たときにはなかった「黒岳カムイの森のみち」というものができていました。この道は、2016年8月に完成したそうです。この道をしばらく歩ていくと「あまりょうの滝展望台」に着きました。赤石川にある「あまりょうの滝」と呼ばれるものが遠くに見えました。あまりに遠くて、感動はあまりなかったのですが、周辺の景観には感動しました。紅葉とともに、黒岳山頂への登山ルートはよく見えます。黒岳の裏側の崖がよく見えるのですが、黒岳はやはり山頂から周辺の景色を見下ろすところでしょうかね。
これまでロープウェイから先のリフトは、冬のスキーのためなのでしょうが、夏場は観光用でもあり、黒岳に登ることが主だったのですが、「黒岳カムイの森のみち」ができたので、リフトで登ってきた観光に来た人たちでも、歩いて周辺の景色を楽しむことができるようになりました。ただし、この道は山を切り拓いた状態なので、沢やぬかるみなど自然に近い状態でつくられているので、山歩きに慣れていない人は、注意が必要です。私は楽しめました。
さて、大雪山は、北海道の中央に位置する火山の集合体で非常の大きな地域を指しています。中央部に御鉢平(おはちだいら)と呼ばれる直径2kmほどの大きな火口があります。この火口は3万年前に大きな噴火でできたもので、その周辺に多数の山頂があります。これらの山々を巡る縦走路や周回ルートなどがあり、登山を楽しむための入山ルートにもなっています。
このときの噴火によって、この周辺に大量の火砕流が発生し、熱い火山灰で埋められてしまいました。その結果、平坦な地形(雲の平)ができ、熱い火山灰が大量に溜まったところでは、溶けて溶結凝灰岩となりました。溶結凝灰岩は、長い時間をかけて、石狩川の流れによって侵食され、層雲峡付近では箱状の侵食地形になっています。層雲峡では、柱状節理として、奇異な景観となり、観光地になっています。
この大雪山の火山の下には、噴火が起こる前に分布していた基盤岩類として日高類層群と呼ばれている地層があります。その中には、付加体で形成された地層が、石狩川の上流、三国峠付近に分布しています。それをみることが、2、3日の目的でした。
初日の午後は、天候を伺いながら、石狩川の遡っていきました。それは、台風の影響が気になっていたからです。当初の予定では、1日目は層雲峡に宿泊し、2泊目は糠平で宿泊する予定にしていました。しかし、出発前日の天気予報で、台風24号は非常に強力なので、注意を促す報道が繰り返されていました。2日目の糠平の宿泊はキャンセルし、2日目も台風や現地の天候を見ながら行動することにしていました。三国峠の付加体の地質調査は、今回は予察とすることにしました。初日も石狩川上流でも三国峠付近までいって、露出状態を見ておくことにしました。天候次第では、2日目に来たルートである上川方面から帰ることも考えていたためです。
2日目、時々雨がぱらついていましたが、荒れ模様ではなさそうなので、予定通りに、三国峠を通り、糠平へ抜けました。帯広から高速道路に乗ったのですが、日高の峠周辺では、激しい雨になっていました。石狩側に抜けると、雨は降っていませんでした。あとで知ったのですが、三国峠付近は、かなりの雨になっていて、私が通ったあとに通行止めになっていたようです。間一髪に通り抜けることができていたようです。
現在は、天気予報の精度が上がっているので、警報にも説得力があります。近年、頻発する災害により、天気予報や出される注意勧告もわかりやすく改善されてきて、参考にしていくべきでしょう。今回の調査は、事前に予定変更で一泊分をキャンセルしたのですが、それでよかったと思います。調査にはいくらでも次がありますが、命や体はひとつです。命あっての物種です。予定変更しましたが、早目に行動していたので、青空に映える紅葉をみることができました。
・里の紅葉・
10月の半分が過ぎて、里でも紅葉が進んでいます。
木々の葉が次々と色を染めて、葉を落としていきます。
秋の深まりを感じています。
紅葉の落ち葉を利用する授業をしています。
毎年、学生と大学の林を散策しながら
秋の深まりを感じることができます。
・いくところは尽きず・
今年の地質調査は、天災によって、度々、予定変更をしています。
こんなこともあるのだと、受け入れるしかありません。
今年の中止は、山陰調査が一番大きなものでした。
大雪・三国峠の調査は、その代替として計画したものでした。
今回も、途中で断念しています。
懲りることになく、次は、道南と襟裳周辺の調査を予定しています。
講義の合間をぬっての調査なので、日程も限られています。
それでも調べたいところは、いくらでもあります。
日程さえ確保できれば、いくろとろは尽きません。
2018年9月14日金曜日
165 北海道胆振東部地震
今回は、いつもの地質の旅行記とは違った内容にしました。北海道胆振東部地震で私が体験したことを中心に、地震状況をまとめ、そこから考えたことを書いていきます。
▼地震の概要
9月6日3時08分、北海道の胆振(いぶり)地方の中東部で、深度37km(暫定)を震源とする、マグニチュード6.7の地震が発生しました。海溝付近で発生する地震のマグニチュードと比べると、それほど大きくはないのですが、内陸の断層による地震であったため、大きな揺れとなりました。
厚真町(あつまちょう)では最大震度7を記録するような揺れとなりました。震度6強が安平(あびら)町とむかわ町で、震度6弱を千歳市、日高町、平取(びらとり)町、札幌市東区で観測しました。
厚真では、広い範囲で大規模な土砂崩れが発生していることを、電気が復旧したあとのニュース番組で知りました。火山灰地への台風による降雨の後、激しい地震の振動が、土砂崩れを誘発したようです。
▼地震発生前
日本海を北上した台風第21号が9月4日から5日にかけて、北海道の西を通過したため、激しい暴風雨により、建物の損壊や停電、樹木の倒壊が各地で発生し、6日は鉄道が運休し、高速道路などの通行止めもありました。
5日未明、我が家の窓の外でガタガタとうるさい音がしていました。その音の源がわかりませんでしたが、我が家の向かいの家のトタンが剥がれ飛んだものでした。その板が、我が家のベランダに飛んできてひかかって、音を立てていたようです。夜中の3時に家のチャイムがなり、隣の人と消防隊員が我が家に上がり込み、ベランダの柵に引っかかっているトタン板を、危ないから撤去してくださいました。我が家の前の高速道路沿いに立っていた大きな木が数本、高速側に倒れていました。道路にはかかっていなかったですが、すぐに撤去されました。
4日の夜、5日から札幌で学会があるため、大学の地質の同窓会が大規模にあり出席しました。その後続けて、地質の同期生との懇親会を開催し幹事をしました。函館や本州から多くの同級生が来ていたので、交通の乱れ、運休がったので、無事、帰宅できるかどうかを心配していました。
▼地震直後
我が街、江別市は、震度5強でした。ただし、私たち家族は3階で寝ていたので、より大きく揺れを感じました。
地震直後より、停電がはじまり、繰り返される地震で落ち着いて寝れませんでした。でも、私は無理に寝ました。朝起きても停電が回復しておらず、地震の影響の大きさに思い至ました。スマホを頼りに、情報を入れると、全道的に停電が起こっており、列車はすべて運休、信号も停止しているので、バズなどの公共交通機関もすべてストップしています。そんな状況が少しずつわかってきました。
私は、この日の朝、千歳から飛行機で山陰地方へ1週間の野外調査に出発する予定をしていたので、いつものように5時ころに起きていました。自家用車で移動するしかないと思い、家内にも同乗してもらい、車で帰ってもらいうので、準備をしてもらっていました。しばらくして、空港も被害を受けていること、やがて全便欠航という情報を、スマホから知ることができました。7時の時点で、調査の中止の決断をしました。
情報が少しずつですが入ってくることで、地震の被害の大きさを実感できるようになってきました。しかし、札幌市清田区で液状化現象があったのを知ったのは、もう少しあとになります。
停電も一時的なものではなく、北海道全体が停電する「ブラックアウト」状態になっていることがわかりました。その時のニュースでは、復旧に1週間ほどかかりそうだ、ということを知りました。もし、この情報が本当であれば、避難生活が、少なくとも1週間は必要になります。
停電はしていたのですが、ガス(我が家はプロパンにしてありました)と水道は通常どおり使えました。ですから、電気以外のライフラインは通常どおり使えそうです。冷蔵庫と冷凍庫は、ダメになるはずなので、冷凍庫はできるだけ開けずに、冷蔵庫のみを使用することにしました。避難所にいくことなく、自宅で過ごすことにしました。
同居している次男が、6時に近くのコンビニに、食料と飲み物を買い物にいくといって出ました。次男が買い物をしているときは、まだ食品類はいろいろ残っていたそうですが、次男が会計をしているとき、後ろに長蛇の列ができたといってました。タッチの差でした。今後、食料の供給は数日かかと考えられます。2、3日分の食料は、冷蔵庫やストックであるので、自宅で過ごすことができるだろうと考えました。
ところが、次男が友人から、SNSで、各地で水道が止まっているという情報、これから各地で断水するという情報を仕入れました。その根拠が不明なので、デマではと思いましたので、拡散するなと伝えました。しかし、様子がわからないので、水を貯めておきました。
▼その後
6日の午後には、大学のある地区は、停電が回復したことを、7日の朝、大学に連絡を入れて知りました。調査のの中止のため、予約していた、レンタカーや旅館のキャンセル、そして発送してたい荷物の返送、遠くの親族との連絡をしました。すべてスマオでした。電話は停電のため使えませんでした。
水と食材が心配なので、昼食後大にか鍋にカレーを作り置きました。そして冷凍食品を順番に食べていくことにしました。夕方明るいうちに、水でシャワーと体を拭きました。また、夕食は懐中電灯のもとでととり、ラジオを聞き、私はビールを飲みながら夜を過ごしましたが、精神的に疲れているのでしょうか、すぐに寝てしまいました。
7日9時過ぎ、大学の研究室の様子が心配なので、車で大学向かいました。すると、大学の周辺の2箇所だけ、信号がついていたのですが、それ以外の信号は消えていました。国道を走るのが怖かったです。交通量が少なかったので助かりました。途中の酪農学園大学や道立図書館で巨木が倒れて、道路を塞いでいるところが見えました。
大学に顔を出し、職員の人たちに様子を聞いたところ、大学は9日まで休校にすることなったそうです。職員も徒歩か車で来れる人、一部だけ出勤している状態でした。
私の研究室は最上階5階だったので、揺れが大きはずなので心配していたのですが、少しものが倒れているだけで、被害はありませんでした。研究室では、外付けのハードディスクが倒れていました。パソコンを立ち上げたところ、2つのハードディスクが止まっていたのですが、電源を入れなおしたら、動きだしました。助かりました。
家族の携帯やスマホの充電器を充電しながら、4日に札幌に集まっていた同級生に安否確認をメールでしました。
午後に帰宅し、ラジオなどで情報を聞きならが、避難生活しました。本を読もうとしたのですが、あまり集中できませんでした。6日とおなじように、早めに寝ることにしました。
7日21:45 我が家の周辺に電源が来たことを、街灯たともることでわかりました。ブレーカを入れて、電気機器の様子を見てながら、電源を入れていきました。テレビもつけて、被害の様子を映像で少しずつ知ることができました。
丸2日間の停電状態で、自宅での被災生活でしたが、精神的に疲れました。精神的に立ち直るのに、少し時間がかかりました。これが避難所などで、プライバナシーのない状態で、食事やトイレまで心配しながら、長期間過ごされる方は、大変な心労になるだろうと想像されました。
8日も午前中、大学でて、昼前に家内の迎えで帰宅しました。電気のありがたさを噛みしめることができました。そして、緊急事態への対応をいろいろ考える機会になりました。
9日、車で家内と電気が復旧した市内の様子を見て回りました。店もやっているところとやっていないところがありました。空いているホームセンターやスーパーにいって買い物をしましたが、食料品や生鮮品などの日持ちのしないもの、電池やラジオなどの防災用品は、ほとんど空っぽの状態です。
▼誤報
停電の期間、水道は断水することなく使うことができました。やはり、水道が止まるというのは、デマや流言の類だったようです。
北海道電力の苫東厚真火力発電所が被災し、いくつかの設備が破損し、装置が停止したとのことでした。そして、その影響で他の発電所も発電設備保護のために順次停止したとのことでした。水力発電所や被災していない火力発電所などが稼働をはじめて、8日の時点で99%の地域が停電状態から脱したとのことです。
ただし、当初、苫東厚真発電所の再稼働に1週間ほどかかるとの話があったのですが、実際には11月ころという発表がありました。これも公になった誤報でしょう。
▼考えたこと
現在(執筆は14日午前中)も、2度ほど大きな揺れがありました。このような大きな地震のあとの地震は、これまで「余震」という言葉を使っていたのですが、最近はメディアからは聞かなくなりました。
2016年の熊本地震で、大きな地震の後に、もっと大きな地震が発生したことから、本震、余震という今までの地震に対する考えた方が適用できなくなりました。その経験から、余震という言葉を使わないとうする取り決めが、2016年8月に地震調査研究推進本部地震調査委員会から「大地震後の地震活動の見通しに関する情報のあり方」として公表されました。余震というと、本震より小さいものという誤解を与えることになるからです。
このような誤解は、地震予測にもあるのではないでしょう。
個人の感想ですが、自然、特に大地を相手に予想・予測は、まだ時期尚早ではないでしょうか。複雑に入り組んだ岩石が応力によって破壊されることが、地震となります。そのような力と破壊の予測は難しいものです。
例えば、割り箸の両端をもって折ろうとすると、折れそうだと感じることはできます。これは予想ですが、ではいつ、どこか、どのように割れるかは、なかなか予想できないことは、直感としてわかると思います。加える力は自身の手で、割り箸の状態も自身の手で感じることができます。それでも、予想できないのです。
地下でプレート運動により加わる力が、地下の見えないところの岩石に圧力が加えられ破壊するのです。それを予測するのは、非常に難しいでしょう。
大きな地震あとに起こる地震(かつての余震)でも発生確率を出しているですが、信頼できるでしょうか。また活断層調査や詳しいい観測に基づいた地震の発生確率を発表していのですが、今まで当たったことがなく、その情報の利用方法もよくわかりません。
そんなことに力を注ぐよりも、防災教育や、被災直後の支援対策、体制づくりや人材、費用をつぎ込んだ方がいいのではないでしょうか。
以上、脈絡のない内容でしたが、台風と地震にあって考えたことを書きました。
・学生のストレス・
大学は、来週から講義が再開されます。
多くの学生には直接の被害はなかったようですが、
心の被害は不明です。
私のように自宅で家族とともに過ごしていても
かなりのストレスがたまっていたのですから、
一人暮らしで、電気もなく、食料も少ない状態に置かれた
学生がいたら心のケアが必要になるでしょう。
講義がはじまったらその対応になりそうです。
・研究計画の変更・
1週間の調査を取りやめました。
研究費を使用しての調査だったので、
変更願いをだして、
大学生協でチケットのキャンセルをしてもらいました。
1週間の調査日程をとることはもうできません。
ですから、北海道での調査になりまそうです。
しかし、道南、日高地方になりそうなのですが、
道南は台風の影響、日高は地震の影響を受けています。
少し落ち着いて研究計画を練り直す必要があります。
▼地震の概要
9月6日3時08分、北海道の胆振(いぶり)地方の中東部で、深度37km(暫定)を震源とする、マグニチュード6.7の地震が発生しました。海溝付近で発生する地震のマグニチュードと比べると、それほど大きくはないのですが、内陸の断層による地震であったため、大きな揺れとなりました。
厚真町(あつまちょう)では最大震度7を記録するような揺れとなりました。震度6強が安平(あびら)町とむかわ町で、震度6弱を千歳市、日高町、平取(びらとり)町、札幌市東区で観測しました。
厚真では、広い範囲で大規模な土砂崩れが発生していることを、電気が復旧したあとのニュース番組で知りました。火山灰地への台風による降雨の後、激しい地震の振動が、土砂崩れを誘発したようです。
▼地震発生前
日本海を北上した台風第21号が9月4日から5日にかけて、北海道の西を通過したため、激しい暴風雨により、建物の損壊や停電、樹木の倒壊が各地で発生し、6日は鉄道が運休し、高速道路などの通行止めもありました。
5日未明、我が家の窓の外でガタガタとうるさい音がしていました。その音の源がわかりませんでしたが、我が家の向かいの家のトタンが剥がれ飛んだものでした。その板が、我が家のベランダに飛んできてひかかって、音を立てていたようです。夜中の3時に家のチャイムがなり、隣の人と消防隊員が我が家に上がり込み、ベランダの柵に引っかかっているトタン板を、危ないから撤去してくださいました。我が家の前の高速道路沿いに立っていた大きな木が数本、高速側に倒れていました。道路にはかかっていなかったですが、すぐに撤去されました。
4日の夜、5日から札幌で学会があるため、大学の地質の同窓会が大規模にあり出席しました。その後続けて、地質の同期生との懇親会を開催し幹事をしました。函館や本州から多くの同級生が来ていたので、交通の乱れ、運休がったので、無事、帰宅できるかどうかを心配していました。
▼地震直後
我が街、江別市は、震度5強でした。ただし、私たち家族は3階で寝ていたので、より大きく揺れを感じました。
地震直後より、停電がはじまり、繰り返される地震で落ち着いて寝れませんでした。でも、私は無理に寝ました。朝起きても停電が回復しておらず、地震の影響の大きさに思い至ました。スマホを頼りに、情報を入れると、全道的に停電が起こっており、列車はすべて運休、信号も停止しているので、バズなどの公共交通機関もすべてストップしています。そんな状況が少しずつわかってきました。
私は、この日の朝、千歳から飛行機で山陰地方へ1週間の野外調査に出発する予定をしていたので、いつものように5時ころに起きていました。自家用車で移動するしかないと思い、家内にも同乗してもらい、車で帰ってもらいうので、準備をしてもらっていました。しばらくして、空港も被害を受けていること、やがて全便欠航という情報を、スマホから知ることができました。7時の時点で、調査の中止の決断をしました。
情報が少しずつですが入ってくることで、地震の被害の大きさを実感できるようになってきました。しかし、札幌市清田区で液状化現象があったのを知ったのは、もう少しあとになります。
停電も一時的なものではなく、北海道全体が停電する「ブラックアウト」状態になっていることがわかりました。その時のニュースでは、復旧に1週間ほどかかりそうだ、ということを知りました。もし、この情報が本当であれば、避難生活が、少なくとも1週間は必要になります。
停電はしていたのですが、ガス(我が家はプロパンにしてありました)と水道は通常どおり使えました。ですから、電気以外のライフラインは通常どおり使えそうです。冷蔵庫と冷凍庫は、ダメになるはずなので、冷凍庫はできるだけ開けずに、冷蔵庫のみを使用することにしました。避難所にいくことなく、自宅で過ごすことにしました。
同居している次男が、6時に近くのコンビニに、食料と飲み物を買い物にいくといって出ました。次男が買い物をしているときは、まだ食品類はいろいろ残っていたそうですが、次男が会計をしているとき、後ろに長蛇の列ができたといってました。タッチの差でした。今後、食料の供給は数日かかと考えられます。2、3日分の食料は、冷蔵庫やストックであるので、自宅で過ごすことができるだろうと考えました。
ところが、次男が友人から、SNSで、各地で水道が止まっているという情報、これから各地で断水するという情報を仕入れました。その根拠が不明なので、デマではと思いましたので、拡散するなと伝えました。しかし、様子がわからないので、水を貯めておきました。
▼その後
6日の午後には、大学のある地区は、停電が回復したことを、7日の朝、大学に連絡を入れて知りました。調査のの中止のため、予約していた、レンタカーや旅館のキャンセル、そして発送してたい荷物の返送、遠くの親族との連絡をしました。すべてスマオでした。電話は停電のため使えませんでした。
水と食材が心配なので、昼食後大にか鍋にカレーを作り置きました。そして冷凍食品を順番に食べていくことにしました。夕方明るいうちに、水でシャワーと体を拭きました。また、夕食は懐中電灯のもとでととり、ラジオを聞き、私はビールを飲みながら夜を過ごしましたが、精神的に疲れているのでしょうか、すぐに寝てしまいました。
7日9時過ぎ、大学の研究室の様子が心配なので、車で大学向かいました。すると、大学の周辺の2箇所だけ、信号がついていたのですが、それ以外の信号は消えていました。国道を走るのが怖かったです。交通量が少なかったので助かりました。途中の酪農学園大学や道立図書館で巨木が倒れて、道路を塞いでいるところが見えました。
大学に顔を出し、職員の人たちに様子を聞いたところ、大学は9日まで休校にすることなったそうです。職員も徒歩か車で来れる人、一部だけ出勤している状態でした。
私の研究室は最上階5階だったので、揺れが大きはずなので心配していたのですが、少しものが倒れているだけで、被害はありませんでした。研究室では、外付けのハードディスクが倒れていました。パソコンを立ち上げたところ、2つのハードディスクが止まっていたのですが、電源を入れなおしたら、動きだしました。助かりました。
家族の携帯やスマホの充電器を充電しながら、4日に札幌に集まっていた同級生に安否確認をメールでしました。
午後に帰宅し、ラジオなどで情報を聞きならが、避難生活しました。本を読もうとしたのですが、あまり集中できませんでした。6日とおなじように、早めに寝ることにしました。
7日21:45 我が家の周辺に電源が来たことを、街灯たともることでわかりました。ブレーカを入れて、電気機器の様子を見てながら、電源を入れていきました。テレビもつけて、被害の様子を映像で少しずつ知ることができました。
丸2日間の停電状態で、自宅での被災生活でしたが、精神的に疲れました。精神的に立ち直るのに、少し時間がかかりました。これが避難所などで、プライバナシーのない状態で、食事やトイレまで心配しながら、長期間過ごされる方は、大変な心労になるだろうと想像されました。
8日も午前中、大学でて、昼前に家内の迎えで帰宅しました。電気のありがたさを噛みしめることができました。そして、緊急事態への対応をいろいろ考える機会になりました。
9日、車で家内と電気が復旧した市内の様子を見て回りました。店もやっているところとやっていないところがありました。空いているホームセンターやスーパーにいって買い物をしましたが、食料品や生鮮品などの日持ちのしないもの、電池やラジオなどの防災用品は、ほとんど空っぽの状態です。
▼誤報
停電の期間、水道は断水することなく使うことができました。やはり、水道が止まるというのは、デマや流言の類だったようです。
北海道電力の苫東厚真火力発電所が被災し、いくつかの設備が破損し、装置が停止したとのことでした。そして、その影響で他の発電所も発電設備保護のために順次停止したとのことでした。水力発電所や被災していない火力発電所などが稼働をはじめて、8日の時点で99%の地域が停電状態から脱したとのことです。
ただし、当初、苫東厚真発電所の再稼働に1週間ほどかかるとの話があったのですが、実際には11月ころという発表がありました。これも公になった誤報でしょう。
▼考えたこと
現在(執筆は14日午前中)も、2度ほど大きな揺れがありました。このような大きな地震のあとの地震は、これまで「余震」という言葉を使っていたのですが、最近はメディアからは聞かなくなりました。
2016年の熊本地震で、大きな地震の後に、もっと大きな地震が発生したことから、本震、余震という今までの地震に対する考えた方が適用できなくなりました。その経験から、余震という言葉を使わないとうする取り決めが、2016年8月に地震調査研究推進本部地震調査委員会から「大地震後の地震活動の見通しに関する情報のあり方」として公表されました。余震というと、本震より小さいものという誤解を与えることになるからです。
このような誤解は、地震予測にもあるのではないでしょう。
個人の感想ですが、自然、特に大地を相手に予想・予測は、まだ時期尚早ではないでしょうか。複雑に入り組んだ岩石が応力によって破壊されることが、地震となります。そのような力と破壊の予測は難しいものです。
例えば、割り箸の両端をもって折ろうとすると、折れそうだと感じることはできます。これは予想ですが、ではいつ、どこか、どのように割れるかは、なかなか予想できないことは、直感としてわかると思います。加える力は自身の手で、割り箸の状態も自身の手で感じることができます。それでも、予想できないのです。
地下でプレート運動により加わる力が、地下の見えないところの岩石に圧力が加えられ破壊するのです。それを予測するのは、非常に難しいでしょう。
大きな地震あとに起こる地震(かつての余震)でも発生確率を出しているですが、信頼できるでしょうか。また活断層調査や詳しいい観測に基づいた地震の発生確率を発表していのですが、今まで当たったことがなく、その情報の利用方法もよくわかりません。
そんなことに力を注ぐよりも、防災教育や、被災直後の支援対策、体制づくりや人材、費用をつぎ込んだ方がいいのではないでしょうか。
以上、脈絡のない内容でしたが、台風と地震にあって考えたことを書きました。
・学生のストレス・
大学は、来週から講義が再開されます。
多くの学生には直接の被害はなかったようですが、
心の被害は不明です。
私のように自宅で家族とともに過ごしていても
かなりのストレスがたまっていたのですから、
一人暮らしで、電気もなく、食料も少ない状態に置かれた
学生がいたら心のケアが必要になるでしょう。
講義がはじまったらその対応になりそうです。
・研究計画の変更・
1週間の調査を取りやめました。
研究費を使用しての調査だったので、
変更願いをだして、
大学生協でチケットのキャンセルをしてもらいました。
1週間の調査日程をとることはもうできません。
ですから、北海道での調査になりまそうです。
しかし、道南、日高地方になりそうなのですが、
道南は台風の影響、日高は地震の影響を受けています。
少し落ち着いて研究計画を練り直す必要があります。
2018年8月15日水曜日
164 小砂子:メランジュ
道南の海岸には、海に切り立つ崖が多くなっています。道路は、景色のきれいなところ走るのですが、露頭を見られる場所も限られています。そんな海岸に小砂子があります。
小砂子と書いて、「ちいさご」と読みます。道南、上ノ国町の南にある集落です。海岸沿いを走る国道228号線(追分ソーランラインと呼ばれています)からそれて、西へ海に向かうの道に入ると、小さな漁村があります。そこが小砂子という集落です。
国道228号線は、崖の上を切り拓いて通っています。国道は海岸より高い位置を走るので、眺めのいいルートとなります。険しい崖が連なっているので、海岸に平らなところや入江があると、時々集落があるような景観が続きます。小砂子もそのような集落のひとつです。
小砂子には、今年、3回来ています。漁港に車ととめて、海岸線を北に向かって歩いていきます。天気がいい時は、非常に快適な砂浜の続く海岸です。転々と露頭や岩礁があり、観察していけます。目的は層状チャートがでていなかどうかを確認して、いい層状チャートがあったら、詳しく調査するつもりでした。
海岸沿いには、崖や砂に埋れた岩礁など、さまざまな露頭があります。露頭には、岩石種として層状チャートがあるとどうかでした。変形した泥岩層、砂岩泥岩の互層などが、次々と、そして地質学的層状を保つことなくデタラメに出ています。岩礁になっているものには、崖から落ちてきた転石も紛れ込んでいるでしょうが、露頭でも断層が多数あり、異質の岩石が混在していることが観察できます。さらにそこに、白っぽくみえる火山岩(デイサイト)も貫入しています。非常に複雑な産状になっています。
海岸を1kmほど進んでいくと、メノコシ岬という小さな岬にたどり着きます。その岬の崖に、不思議な露頭があります。それは層状チャートや赤色頁岩などが破砕されたブロックと混在しています。やっと目的の層状チャートを見つけたのですが、ブロックになっています。
このような、成因の異なる岩石が、断層などで混在している産状は、メランジュと呼ばれるものです。メランジュは、このエッセイで何度も取り上げています。付加体によく見られる特徴的な産状でもあります。
海洋プレートが海溝で沈み込む時、陸側に海洋域の岩石が取り込まれて付加していった地質体を「付加体」と呼びます。付加体には、海洋域の岩石として、海洋地殻を構成している玄武岩、海洋底に堆積した層状チャート、ときには海洋島の玄武岩やサンゴ礁を形成していた石灰岩なども取り込まれることがあります。
付加体には、陸から由来した砕屑性の堆積物も取り込まれることもあります。その多くは「タービダイト層」と呼ばれるものです。沿岸の堆積物が、海底の土石流によって深い大陸棚へと運ばれた堆積物ができます。土石流のような流れを「タービダイト流」と呼び、堆積物を「タービダイト層」といいます。タービダイト層は、陸から由来した砕屑性の堆積物となり、砂岩や泥岩の互層として堆積します。
付加体が形成される時は、これらのさまざまな堆積物が、沈み込み帯で下に潜り込もうとする力、その圧縮する力により、海洋域の堆積物が、タービダイト層を巻き込みながら、多数うの斜めの断層で圧縮されながら、規則的な構造の地質体ができます。新しい付加体部分が、古いものの下に、断層で滑り込んでいきます。付加体が成長すると、上位に古い地質体ほど陸側に移動し、下位になるほど新しい付加体となります。
付加体は、このような海洋域と陸起源の堆積物が混在した産状が形成されます。当初は付加体固有の断層な構造で形成されていくのですが、付加が継続していくと、付加体の中にはさらに大きな断層ができます。そこでは、大小さまざまの多数の断層ができます。大きな断層帯では、成因関係のないさまざまな岩石が、複雑に入り混じった状態になることがあります。このようなものをメランジュと呼んでいます。
メランジュの形成過程を考えると、海洋地殻の玄武岩が含まれるところや、タービダイトが多くなるところ、両者が混じるところなどができるはずです。小砂子付近には玄武岩見られません。道南にはメランジュの地質体が、ところどころに分布しています。場所によっては、玄武岩が出ているところもあります。しかし、小砂子からメノコシ岬までには、深海底や沿岸域の堆積物はあるのですが、玄武岩が見たりません。
ただし、小砂子の港付近には、大規模な岩礁帯があり、確認していなのですが、そこに枕状溶岩のように見えるとこもがあります。その岩礁に、行けないかと、何度がチャレンジしたのですが、まだたどり着けません。3回ほどいっているのですが、漁港からが一番近いのですが、4、5mほどもある高いコンクリートの壁が漁港を囲っているので近づけません。
また、小砂子に集落に向かう道路から、尾根伝いに一箇所踏み跡があり、岩礁地帯に降りれそうなのです。しかし、そこへは細い尾根を通って、最後に急な崖を下れば海岸に降りることができそうです。しかし、足がすくみそうなルートで、私には難しいルートです。
訪ねる度に、地元の人に岩礁に行く方法を聞くのですが、ある人は、コンクリートに長いはしごをかけていった、コンクリートに横に貼られている金網をよじ登った、細い尾根筋を降りていく人がいるなど、私が諦めている方法しか教えてくれません。機会があれば、岩礁にいきたのですが、どうなるでしょうかね。
・体幹の衰え・
年々、加齢のために、足腰が弱ってきています。
バランス感覚の衰え、足の踏ん張る力も落ちてきました。
これは体幹の筋肉が落ちているように感じます。
体幹を鍛える運動をすべきなのでしょうが、
なかなか実現できません。
腰痛予防のために、毎日ストレッチをしています。
大学への通勤を、徒歩で往復7kmを通っています。
これらの運動で、調査で通常のルートであれば
歩くことができるように体力維持をしています。
少々ハードなルートは、昔のようには歩けなくなりました。
残念ですが、野外調査の歩き方も、
年相応にしていかなければならないのでしょうね。
・執筆作用の終了・
やっと予定していた著書の執筆が終わりました。
明日、印刷屋さんに入稿します。
今回は、執筆に十分な時間が取れたので、
現状ではベストを尽くせたと思えます。
もちろん、あちこちの部分でもう少し調べたいこと、
取り入れたい内容も各所にあります。
しかし、全体の内容とバランスを考えると、
これで満足すべきでしょう。
7月下旬の最終稿の仕上げから、
編集作業でかなり集中していたので、
肩こりや腰痛が次々と発生しました。
執筆には、頭だけでなく、体も酷使していたようです。
小砂子と書いて、「ちいさご」と読みます。道南、上ノ国町の南にある集落です。海岸沿いを走る国道228号線(追分ソーランラインと呼ばれています)からそれて、西へ海に向かうの道に入ると、小さな漁村があります。そこが小砂子という集落です。
国道228号線は、崖の上を切り拓いて通っています。国道は海岸より高い位置を走るので、眺めのいいルートとなります。険しい崖が連なっているので、海岸に平らなところや入江があると、時々集落があるような景観が続きます。小砂子もそのような集落のひとつです。
小砂子には、今年、3回来ています。漁港に車ととめて、海岸線を北に向かって歩いていきます。天気がいい時は、非常に快適な砂浜の続く海岸です。転々と露頭や岩礁があり、観察していけます。目的は層状チャートがでていなかどうかを確認して、いい層状チャートがあったら、詳しく調査するつもりでした。
海岸沿いには、崖や砂に埋れた岩礁など、さまざまな露頭があります。露頭には、岩石種として層状チャートがあるとどうかでした。変形した泥岩層、砂岩泥岩の互層などが、次々と、そして地質学的層状を保つことなくデタラメに出ています。岩礁になっているものには、崖から落ちてきた転石も紛れ込んでいるでしょうが、露頭でも断層が多数あり、異質の岩石が混在していることが観察できます。さらにそこに、白っぽくみえる火山岩(デイサイト)も貫入しています。非常に複雑な産状になっています。
海岸を1kmほど進んでいくと、メノコシ岬という小さな岬にたどり着きます。その岬の崖に、不思議な露頭があります。それは層状チャートや赤色頁岩などが破砕されたブロックと混在しています。やっと目的の層状チャートを見つけたのですが、ブロックになっています。
このような、成因の異なる岩石が、断層などで混在している産状は、メランジュと呼ばれるものです。メランジュは、このエッセイで何度も取り上げています。付加体によく見られる特徴的な産状でもあります。
海洋プレートが海溝で沈み込む時、陸側に海洋域の岩石が取り込まれて付加していった地質体を「付加体」と呼びます。付加体には、海洋域の岩石として、海洋地殻を構成している玄武岩、海洋底に堆積した層状チャート、ときには海洋島の玄武岩やサンゴ礁を形成していた石灰岩なども取り込まれることがあります。
付加体には、陸から由来した砕屑性の堆積物も取り込まれることもあります。その多くは「タービダイト層」と呼ばれるものです。沿岸の堆積物が、海底の土石流によって深い大陸棚へと運ばれた堆積物ができます。土石流のような流れを「タービダイト流」と呼び、堆積物を「タービダイト層」といいます。タービダイト層は、陸から由来した砕屑性の堆積物となり、砂岩や泥岩の互層として堆積します。
付加体が形成される時は、これらのさまざまな堆積物が、沈み込み帯で下に潜り込もうとする力、その圧縮する力により、海洋域の堆積物が、タービダイト層を巻き込みながら、多数うの斜めの断層で圧縮されながら、規則的な構造の地質体ができます。新しい付加体部分が、古いものの下に、断層で滑り込んでいきます。付加体が成長すると、上位に古い地質体ほど陸側に移動し、下位になるほど新しい付加体となります。
付加体は、このような海洋域と陸起源の堆積物が混在した産状が形成されます。当初は付加体固有の断層な構造で形成されていくのですが、付加が継続していくと、付加体の中にはさらに大きな断層ができます。そこでは、大小さまざまの多数の断層ができます。大きな断層帯では、成因関係のないさまざまな岩石が、複雑に入り混じった状態になることがあります。このようなものをメランジュと呼んでいます。
メランジュの形成過程を考えると、海洋地殻の玄武岩が含まれるところや、タービダイトが多くなるところ、両者が混じるところなどができるはずです。小砂子付近には玄武岩見られません。道南にはメランジュの地質体が、ところどころに分布しています。場所によっては、玄武岩が出ているところもあります。しかし、小砂子からメノコシ岬までには、深海底や沿岸域の堆積物はあるのですが、玄武岩が見たりません。
ただし、小砂子の港付近には、大規模な岩礁帯があり、確認していなのですが、そこに枕状溶岩のように見えるとこもがあります。その岩礁に、行けないかと、何度がチャレンジしたのですが、まだたどり着けません。3回ほどいっているのですが、漁港からが一番近いのですが、4、5mほどもある高いコンクリートの壁が漁港を囲っているので近づけません。
また、小砂子に集落に向かう道路から、尾根伝いに一箇所踏み跡があり、岩礁地帯に降りれそうなのです。しかし、そこへは細い尾根を通って、最後に急な崖を下れば海岸に降りることができそうです。しかし、足がすくみそうなルートで、私には難しいルートです。
訪ねる度に、地元の人に岩礁に行く方法を聞くのですが、ある人は、コンクリートに長いはしごをかけていった、コンクリートに横に貼られている金網をよじ登った、細い尾根筋を降りていく人がいるなど、私が諦めている方法しか教えてくれません。機会があれば、岩礁にいきたのですが、どうなるでしょうかね。
・体幹の衰え・
年々、加齢のために、足腰が弱ってきています。
バランス感覚の衰え、足の踏ん張る力も落ちてきました。
これは体幹の筋肉が落ちているように感じます。
体幹を鍛える運動をすべきなのでしょうが、
なかなか実現できません。
腰痛予防のために、毎日ストレッチをしています。
大学への通勤を、徒歩で往復7kmを通っています。
これらの運動で、調査で通常のルートであれば
歩くことができるように体力維持をしています。
少々ハードなルートは、昔のようには歩けなくなりました。
残念ですが、野外調査の歩き方も、
年相応にしていかなければならないのでしょうね。
・執筆作用の終了・
やっと予定していた著書の執筆が終わりました。
明日、印刷屋さんに入稿します。
今回は、執筆に十分な時間が取れたので、
現状ではベストを尽くせたと思えます。
もちろん、あちこちの部分でもう少し調べたいこと、
取り入れたい内容も各所にあります。
しかし、全体の内容とバランスを考えると、
これで満足すべきでしょう。
7月下旬の最終稿の仕上げから、
編集作業でかなり集中していたので、
肩こりや腰痛が次々と発生しました。
執筆には、頭だけでなく、体も酷使していたようです。
2018年7月11日水曜日
163 鮪の岬:いろいろな方向から
この場所をエッセイで取り上げるのは、2度目となります。なかなか興味深いところです。いいところは何度も味わえます。そしてほんの少し足を伸ばせば、柱状節理をいろいろな方向から味わうことができます。
北海道でも6月の大雨で被害が出ていたのですが、7月になっても不順な天候が続き、日本各地に災害をもたらしました。雨が降ったり止んだりの不順な天気でしたが、そんな中事前に予定していたので、道南に4度目の野外調査に出ました。天候が悪かったので、なかなか思うように野外調査は進められませんでした。でも、天候が悪くても、外を動き回り、露頭を見ているといろいろ考えることがでてきます。
今回の調査予定地のひとつに、道南の乙部町がありました。この町には、毎回、通過するルートに当たっている地域になっています。いくつかの地質学的名所もあるのですが、その中に「鮪の岬」という場所があります。「鮪の岬」は「シビのさき」と読みますが、鮪は「マグロ」のことです。ですから、この地名は、マグロにちなんでつけられています。この岬にある崖の形が鮪の背に見えること、あるいは岩のつくりがマグロのウロコに似ていることから、このような名が付いたとされています。鮪の岬は、北海道の天然記念物に指定されています。
天然記念物なっているのは、柱状節理がきれいに見えるためです。柱状節理は、私はいろいろなところで見ています。ここも何度も見ているのですが、本当に見事で見飽きません。鮪の岬の柱状節理は、二層の構造になっています。下段は、海面から整然とした柱が無数に立って海岸の崖になっています。まさしく柱状です。柱は直方体ではなく、5、6角形の断面をしていますが、よくみると、その形にはばらつきがありますが、全体としては似通っており、遠目には整然として見えます。海岸に降りて、近づいて見上げると、大量の柱には圧倒されるような威圧感があります。
上段には、ウロコのようにゴツゴツとした岩石の割れ目が乱雑にある部分が、柱状節理に上に重なっています。上のゴツゴツした部分は、よく見ると5、6角形の断面をもっています。丸くはないのですが、柱の断面が多数あり、車岩と呼ばれています。車岩は、柱状の部分を断面を見ていることになります。下部は上部に比べて、のしかかる庇(ひさし)のように、手前にせり出しています。そのため上から覆いかぶさってくるようになり、威圧感を増す構造になっています。
柱状節理も上の車岩も同じ新第三紀の安山岩からできます。マグマが地層の中に貫入して冷え固まったものです。マグマが冷え固まる時、体積が少し小さくなるので、固化するときに隙間ができ、それが割れ目(節理)となっています。その節理が多数はいることで、柱状になっています。節理は、温度の勾配に対して垂直にできるので、ここのマグマは地層の中に貫入して、上下から冷却されたことになります。現在は、その上半分が露出していると考えられます。
鮪の岬では、整然とした節理と乱雑な断面との組み合わせは妙でもあり、壮観でもあります。道路沿いの整備された公園から見ると、ここまでです。しかし少し足を伸ばせば、この柱状節理が織りなす模様を、いろいろな方向から見ることができます。
国道229号線は、鮪の岬ではトンネルとなり、安山岩の柱状節理の中を通り抜けています。しかし、国道から離れて小さな道を車で登っていくと、安山岩の上の丘に出ます。ちょうと真上にあたるところには、「しびの岬公園」があります。その公園の中の遊歩道を西(岬の先端)に向かって進んでいくと、やがて岬の先端に至ります。そこはごつごつした岩が敷き詰められた海岸になっています。先程の北の海岸では柱状節理を横断面から見ていたのですが、岬の先端では上面から見ることになります。節理の表面は、波の侵食や風化で角がとれて丸くなっていますが、上面がよく観察できます。北側の立った節理を見よう思ったのですが、崖になているため、近づくことはできませんでした。この岬は釣り場になっていようで、何度がいったのですが、常に釣り人がいました。
岬の岩の途中にゆるい傾斜の斜面があり、南の海岸に降りることできます。南の海岸は海食台になっているので、歩きやすくなっています。そこにでは、柱状節理の反対側も見ることができます。侵食が激しいようで、あまりきれいではないのと、節理の規則性がやや崩れているように見えます。海食されているので、上面を形状を広い範囲に渡って観察することができます。ぐるっとひと回りするのがお進めです。
以前は、国道沿いでアプローチがしやすいので、柱状節理がよく見えるところからのみ見ていました。今回は、時間をかけて露頭を探しながら見ていくと、いろいろな角度から節理を眺めることができました。そして、自らの足で歩きながら見ていくことで、マグマの大きさを感じることもできました。
今回で2度目でしたが、天気の悪い時に当たっていたので、きれいな景観として見ることができなかったのが残念です。しかし、壮観さは感じることはできます。こんなにアプローチがいいところで、きれいない柱状節理に直に接することはできるのはいいものです。機会があれば、天気のいい時に、再訪したいものです。
・災害・
6月には大阪で大きな地震があり、
今回の大雨による災害では、京都でも被害が発生しました。
母の住んでいる地域では、幸いなことに、
地震で揺れ、大雨も降ったのですが、被害はでませんでした。
知り合いがいる、愛媛県西予市では大きな被害がでました。
私も2010年4月から1年間滞在したところでした。
役場に勤めている知り合いに連絡をしたのですが、
多分、忙しくてメールを見る暇はないようです。
ネットでいくつかのニュース画像をみましたが、
知っている町や河川が様変わりしていて驚きました。
道路も、あちこちで寸断されているようです。
微力ながら、ふるさと納税で
見舞金を送らせていただきました。
一日も早い復旧を願っています。
・マグロ・
日本人は縄文の遺跡から
マグロの骨もでているようで
食用として古くから
なじもある魚だったようです。
ですから、当時からマグロを取れるような
漁猟の技術も優れていたと考えられます。
古事記や万葉集にも
「シビ」という名称が記述されているそうです。
マグロは昔も今も、日本人には馴染み深いものでした。
北海道でも6月の大雨で被害が出ていたのですが、7月になっても不順な天候が続き、日本各地に災害をもたらしました。雨が降ったり止んだりの不順な天気でしたが、そんな中事前に予定していたので、道南に4度目の野外調査に出ました。天候が悪かったので、なかなか思うように野外調査は進められませんでした。でも、天候が悪くても、外を動き回り、露頭を見ているといろいろ考えることがでてきます。
今回の調査予定地のひとつに、道南の乙部町がありました。この町には、毎回、通過するルートに当たっている地域になっています。いくつかの地質学的名所もあるのですが、その中に「鮪の岬」という場所があります。「鮪の岬」は「シビのさき」と読みますが、鮪は「マグロ」のことです。ですから、この地名は、マグロにちなんでつけられています。この岬にある崖の形が鮪の背に見えること、あるいは岩のつくりがマグロのウロコに似ていることから、このような名が付いたとされています。鮪の岬は、北海道の天然記念物に指定されています。
天然記念物なっているのは、柱状節理がきれいに見えるためです。柱状節理は、私はいろいろなところで見ています。ここも何度も見ているのですが、本当に見事で見飽きません。鮪の岬の柱状節理は、二層の構造になっています。下段は、海面から整然とした柱が無数に立って海岸の崖になっています。まさしく柱状です。柱は直方体ではなく、5、6角形の断面をしていますが、よくみると、その形にはばらつきがありますが、全体としては似通っており、遠目には整然として見えます。海岸に降りて、近づいて見上げると、大量の柱には圧倒されるような威圧感があります。
上段には、ウロコのようにゴツゴツとした岩石の割れ目が乱雑にある部分が、柱状節理に上に重なっています。上のゴツゴツした部分は、よく見ると5、6角形の断面をもっています。丸くはないのですが、柱の断面が多数あり、車岩と呼ばれています。車岩は、柱状の部分を断面を見ていることになります。下部は上部に比べて、のしかかる庇(ひさし)のように、手前にせり出しています。そのため上から覆いかぶさってくるようになり、威圧感を増す構造になっています。
柱状節理も上の車岩も同じ新第三紀の安山岩からできます。マグマが地層の中に貫入して冷え固まったものです。マグマが冷え固まる時、体積が少し小さくなるので、固化するときに隙間ができ、それが割れ目(節理)となっています。その節理が多数はいることで、柱状になっています。節理は、温度の勾配に対して垂直にできるので、ここのマグマは地層の中に貫入して、上下から冷却されたことになります。現在は、その上半分が露出していると考えられます。
鮪の岬では、整然とした節理と乱雑な断面との組み合わせは妙でもあり、壮観でもあります。道路沿いの整備された公園から見ると、ここまでです。しかし少し足を伸ばせば、この柱状節理が織りなす模様を、いろいろな方向から見ることができます。
国道229号線は、鮪の岬ではトンネルとなり、安山岩の柱状節理の中を通り抜けています。しかし、国道から離れて小さな道を車で登っていくと、安山岩の上の丘に出ます。ちょうと真上にあたるところには、「しびの岬公園」があります。その公園の中の遊歩道を西(岬の先端)に向かって進んでいくと、やがて岬の先端に至ります。そこはごつごつした岩が敷き詰められた海岸になっています。先程の北の海岸では柱状節理を横断面から見ていたのですが、岬の先端では上面から見ることになります。節理の表面は、波の侵食や風化で角がとれて丸くなっていますが、上面がよく観察できます。北側の立った節理を見よう思ったのですが、崖になているため、近づくことはできませんでした。この岬は釣り場になっていようで、何度がいったのですが、常に釣り人がいました。
岬の岩の途中にゆるい傾斜の斜面があり、南の海岸に降りることできます。南の海岸は海食台になっているので、歩きやすくなっています。そこにでは、柱状節理の反対側も見ることができます。侵食が激しいようで、あまりきれいではないのと、節理の規則性がやや崩れているように見えます。海食されているので、上面を形状を広い範囲に渡って観察することができます。ぐるっとひと回りするのがお進めです。
以前は、国道沿いでアプローチがしやすいので、柱状節理がよく見えるところからのみ見ていました。今回は、時間をかけて露頭を探しながら見ていくと、いろいろな角度から節理を眺めることができました。そして、自らの足で歩きながら見ていくことで、マグマの大きさを感じることもできました。
今回で2度目でしたが、天気の悪い時に当たっていたので、きれいな景観として見ることができなかったのが残念です。しかし、壮観さは感じることはできます。こんなにアプローチがいいところで、きれいない柱状節理に直に接することはできるのはいいものです。機会があれば、天気のいい時に、再訪したいものです。
・災害・
6月には大阪で大きな地震があり、
今回の大雨による災害では、京都でも被害が発生しました。
母の住んでいる地域では、幸いなことに、
地震で揺れ、大雨も降ったのですが、被害はでませんでした。
知り合いがいる、愛媛県西予市では大きな被害がでました。
私も2010年4月から1年間滞在したところでした。
役場に勤めている知り合いに連絡をしたのですが、
多分、忙しくてメールを見る暇はないようです。
ネットでいくつかのニュース画像をみましたが、
知っている町や河川が様変わりしていて驚きました。
道路も、あちこちで寸断されているようです。
微力ながら、ふるさと納税で
見舞金を送らせていただきました。
一日も早い復旧を願っています。
・マグロ・
日本人は縄文の遺跡から
マグロの骨もでているようで
食用として古くから
なじもある魚だったようです。
ですから、当時からマグロを取れるような
漁猟の技術も優れていたと考えられます。
古事記や万葉集にも
「シビ」という名称が記述されているそうです。
マグロは昔も今も、日本人には馴染み深いものでした。
2018年6月15日金曜日
162 折戸浜:半遠洋性堆積物
道南の折戸浜には、付加体の構成物の岩石が、海岸の砂の中にモニュメントのように点々と立っています。それは、不思議な光景です。私は、そこに海と陸の架け橋である半遠洋性堆積物を発見して感動しました。
北海道の南、松前郡松前町館町に砂浜の海岸が続くところがあります。松前の町より少し北の海岸で、折戸浜(折戸浜)と呼ばれています。道南の海岸は岩礁が多いのですが、折戸浜のあたりだけが、広く砂浜が伸びています。それでも、砂浜の中に岩礁が、いたるところにモニュメントのように立っているのが見られます。その岩礁には興味深い地層が出ていました。
一般に古く変形や変質の激しい地質地帯では、露頭があっても風化が激しく、産状がわかりにくいところが多くなります。それに比べて、海岸や河川沿いでは、きれいな露頭を見ることができます。例えば、海岸では、岩礁の表面は、波で日々洗われ、磨かれているので、非常にきれいな露頭となり、産状をよく見ることができます。
私は、これまで道南で地質調査をしたことがないのですが、あまりきれいな露頭が少ないと思っていました。露出のいい露頭があるとすれば、海岸や河川沿いなど、限られているだろうと、海岸を中心の調査を進めました。折戸浜は、砂浜ですが、砂の中に岩礁として露頭がでていることは有名ですし、以前来たときも道路脇から確認していました。今年の道南の野外調査では、この岩礁を4月かこれまで3回、そして7月にもう一度見にいくことになりました。
折戸浜の岩礁では、砂岩と泥岩の互層などの堆積岩が主体ですが、場所によっては、層状チャートも見られます。また、周辺では枕状溶岩となっている玄武岩やその破砕した玄武岩なども見られます。これらの岩石類は、エッセイでは何度も紹介している付加体の構成物です。松前層群と呼ぼれるジュラ紀に付加したものです。
砂岩泥岩の互層は、タービダイト層とも呼ばれるものです。付加体の砂岩泥岩互層は、タービダイト流が起源となります。タービダイト流とは、沿岸に堆積した堆積物が、ある時、大陸斜面での海底地すべりなどで土石流のようになり、一気に深い海(海溝付近)へ流れ下ったものです。この流れをタービダイト流(重力流、乱泥流など)と呼びます。一度のタービダイト流で、粒度が大きく重い砂から小さな泥へと粒度変化してたまり、一層の地層となります。このような粒度変化を、級化(きゅうか)といいます。一度の堆積作用は数日でおさまります。それ以外の時間は、ほとんど堆積物もたまらない、変化の少ない海底へともどります。
タービダイト流は、その発生メカニズムを考えると、数十年や数百年に一度にしか起こらない現象です。しかし、地球の時間の流れで考えると、地質変動の激しいところでは、繰り返しタービダイト流が発生して、タービダイト層が堆積することになります。これが、砂岩泥岩の互層からできているタービダイト層の起源です。
一方、枕状溶岩は海底でできる火山岩の特徴的な産状です。玄武岩の化学的特徴や産状から、中央海嶺で噴出した海洋底でのマグマ活動が起源だと考えられています。海洋地殻の最上部を構成していた岩石です。
また、層状チャートは、海洋性の珪質殻をもつプランクトンが死んで、その殻が深海底に沈んで溜まったものです。小さなプランクトンの殻ですから、溜まる量は少なく、非常ゆっくり(千年で数ミリメートルほど)としかできません。しかし、これも地球時間で考える厚い層となっていきます。それが層状チャートです。深海底の堆積物です。玄武岩の上に深海底で付け加わった層状チャートがたまります。
玄武岩から層状チャートという岩石の構成は、もともとは海洋地殻の最上部の構成物だったことになります。この海洋地殻が、プレート運動によって、列島にぶつかり、海溝で沈み込んでいきます。そのとき海洋地殻の上の部分が剥ぎ取られて、列島に付加体として取り込まれます。それがタービダイトと混在する枕状溶岩や層状チャートです。折戸浜では、海と陸の構成物が、はらばらにされて、詰め込まれているのです。
陸起源のタービダイトと海起源の玄武岩と層状チャートは、もともとは、海溝で隔てられてはいるのですが、海溝を超えるタービダイト流があることも知られています。層状チャートの中に、陸のタービダイト起源の堆積物が混じることは知られているのですが、私は、見たことがありませんでした。それを、この折戸浜で見つけることができました。
ある岩礁で層状チャートを見つけました。その中に黒っぽい泥岩の層があることに気づきました。最初は、不思議だなあと思っていました。もし一層だけなら巨大なタービダイトがあれば、海溝を越えて遠くの深海底にまで達すことは知られていたので、それが起源かと思っていました。しかし、その層状チャートをよくよく観察していくと、層状チャートの間には泥岩が厚さはさまざまですが何層かありました。薄ければそれは層状チャートの層間にある粘土層ともかんがえられるのですが、黒いのと、さらにチャートに似た白っぽい色ですが、細粒ですが砂岩と呼べるものまで見えてきました。これらは、「半遠洋性堆積物」と呼ばれるものだと判断できました。文献でしかみたことがなかったのですが、海と陸をつなぐ架け橋となるものでした。はじめて見つけて、感動しました。
私にとっては、折戸浜の半遠洋性堆積物の露頭は、忘れがたいものになりました。機会があれば、これからも何度が訪れたいものです。アプローチも楽ですし、露頭もきれいなので、いいところです。
・ボランティア・
砂浜が広がるので海水浴場にもなっています。
私が行ったときに、広い駐車場があるのですが、
そこに車が一杯停まっていました。
なにか行事あるのかと思っていたら、
海岸の一斉清掃が行われていて
ちょうど終わったところでした。
きれいな砂浜を維持するため、
地元の人が、多分ボランティアでしょうが
努力されているのを見ることができました。
・半遠洋性堆積物・
初回の調査では、層状チャートを発見して、
その産状をいつものように見ていました。
すると、一層だけ厚い泥が挟まれているのに気づきました。
その泥岩が目立っていたので、
それだけに注目して、詳しく見ていました。
そして、その泥岩を見つめながら、
どうしてできたのかを、いろいろ考えていました。
でもその時、起源を思いつきませんでした。
帰ってから、考えついたのが、
上の巨大タービダイトの異常な事件というアイディアでした。
いずれにしても重要な露頭なので、
今年の調査予定を変更して、
この周辺を何度か調査することにしました。
それを、きっかけにして
この露頭を詳しく調べることにしました。
その結果は、上のような半遠洋性堆積物だということが
判明してきたのでした。
思い出深い露頭となっています。
北海道の南、松前郡松前町館町に砂浜の海岸が続くところがあります。松前の町より少し北の海岸で、折戸浜(折戸浜)と呼ばれています。道南の海岸は岩礁が多いのですが、折戸浜のあたりだけが、広く砂浜が伸びています。それでも、砂浜の中に岩礁が、いたるところにモニュメントのように立っているのが見られます。その岩礁には興味深い地層が出ていました。
一般に古く変形や変質の激しい地質地帯では、露頭があっても風化が激しく、産状がわかりにくいところが多くなります。それに比べて、海岸や河川沿いでは、きれいな露頭を見ることができます。例えば、海岸では、岩礁の表面は、波で日々洗われ、磨かれているので、非常にきれいな露頭となり、産状をよく見ることができます。
私は、これまで道南で地質調査をしたことがないのですが、あまりきれいな露頭が少ないと思っていました。露出のいい露頭があるとすれば、海岸や河川沿いなど、限られているだろうと、海岸を中心の調査を進めました。折戸浜は、砂浜ですが、砂の中に岩礁として露頭がでていることは有名ですし、以前来たときも道路脇から確認していました。今年の道南の野外調査では、この岩礁を4月かこれまで3回、そして7月にもう一度見にいくことになりました。
折戸浜の岩礁では、砂岩と泥岩の互層などの堆積岩が主体ですが、場所によっては、層状チャートも見られます。また、周辺では枕状溶岩となっている玄武岩やその破砕した玄武岩なども見られます。これらの岩石類は、エッセイでは何度も紹介している付加体の構成物です。松前層群と呼ぼれるジュラ紀に付加したものです。
砂岩泥岩の互層は、タービダイト層とも呼ばれるものです。付加体の砂岩泥岩互層は、タービダイト流が起源となります。タービダイト流とは、沿岸に堆積した堆積物が、ある時、大陸斜面での海底地すべりなどで土石流のようになり、一気に深い海(海溝付近)へ流れ下ったものです。この流れをタービダイト流(重力流、乱泥流など)と呼びます。一度のタービダイト流で、粒度が大きく重い砂から小さな泥へと粒度変化してたまり、一層の地層となります。このような粒度変化を、級化(きゅうか)といいます。一度の堆積作用は数日でおさまります。それ以外の時間は、ほとんど堆積物もたまらない、変化の少ない海底へともどります。
タービダイト流は、その発生メカニズムを考えると、数十年や数百年に一度にしか起こらない現象です。しかし、地球の時間の流れで考えると、地質変動の激しいところでは、繰り返しタービダイト流が発生して、タービダイト層が堆積することになります。これが、砂岩泥岩の互層からできているタービダイト層の起源です。
一方、枕状溶岩は海底でできる火山岩の特徴的な産状です。玄武岩の化学的特徴や産状から、中央海嶺で噴出した海洋底でのマグマ活動が起源だと考えられています。海洋地殻の最上部を構成していた岩石です。
また、層状チャートは、海洋性の珪質殻をもつプランクトンが死んで、その殻が深海底に沈んで溜まったものです。小さなプランクトンの殻ですから、溜まる量は少なく、非常ゆっくり(千年で数ミリメートルほど)としかできません。しかし、これも地球時間で考える厚い層となっていきます。それが層状チャートです。深海底の堆積物です。玄武岩の上に深海底で付け加わった層状チャートがたまります。
玄武岩から層状チャートという岩石の構成は、もともとは海洋地殻の最上部の構成物だったことになります。この海洋地殻が、プレート運動によって、列島にぶつかり、海溝で沈み込んでいきます。そのとき海洋地殻の上の部分が剥ぎ取られて、列島に付加体として取り込まれます。それがタービダイトと混在する枕状溶岩や層状チャートです。折戸浜では、海と陸の構成物が、はらばらにされて、詰め込まれているのです。
陸起源のタービダイトと海起源の玄武岩と層状チャートは、もともとは、海溝で隔てられてはいるのですが、海溝を超えるタービダイト流があることも知られています。層状チャートの中に、陸のタービダイト起源の堆積物が混じることは知られているのですが、私は、見たことがありませんでした。それを、この折戸浜で見つけることができました。
ある岩礁で層状チャートを見つけました。その中に黒っぽい泥岩の層があることに気づきました。最初は、不思議だなあと思っていました。もし一層だけなら巨大なタービダイトがあれば、海溝を越えて遠くの深海底にまで達すことは知られていたので、それが起源かと思っていました。しかし、その層状チャートをよくよく観察していくと、層状チャートの間には泥岩が厚さはさまざまですが何層かありました。薄ければそれは層状チャートの層間にある粘土層ともかんがえられるのですが、黒いのと、さらにチャートに似た白っぽい色ですが、細粒ですが砂岩と呼べるものまで見えてきました。これらは、「半遠洋性堆積物」と呼ばれるものだと判断できました。文献でしかみたことがなかったのですが、海と陸をつなぐ架け橋となるものでした。はじめて見つけて、感動しました。
私にとっては、折戸浜の半遠洋性堆積物の露頭は、忘れがたいものになりました。機会があれば、これからも何度が訪れたいものです。アプローチも楽ですし、露頭もきれいなので、いいところです。
・ボランティア・
砂浜が広がるので海水浴場にもなっています。
私が行ったときに、広い駐車場があるのですが、
そこに車が一杯停まっていました。
なにか行事あるのかと思っていたら、
海岸の一斉清掃が行われていて
ちょうど終わったところでした。
きれいな砂浜を維持するため、
地元の人が、多分ボランティアでしょうが
努力されているのを見ることができました。
・半遠洋性堆積物・
初回の調査では、層状チャートを発見して、
その産状をいつものように見ていました。
すると、一層だけ厚い泥が挟まれているのに気づきました。
その泥岩が目立っていたので、
それだけに注目して、詳しく見ていました。
そして、その泥岩を見つめながら、
どうしてできたのかを、いろいろ考えていました。
でもその時、起源を思いつきませんでした。
帰ってから、考えついたのが、
上の巨大タービダイトの異常な事件というアイディアでした。
いずれにしても重要な露頭なので、
今年の調査予定を変更して、
この周辺を何度か調査することにしました。
それを、きっかけにして
この露頭を詳しく調べることにしました。
その結果は、上のような半遠洋性堆積物だということが
判明してきたのでした。
思い出深い露頭となっています。
2018年5月15日火曜日
161 滝瀬海岸:シラフラの崖に
道南乙部町のシラフラの崖には、圧倒される迫力があります。遠目には白く見えますが、近づくと整然とした縞模様が見えます。シラフラの崖に、大地の営みが残されていました。
ゴールデンウィーク前半に、道南に調査にでかけました。3泊4日の間、幸い天気に恵まれて、予定通りに順調に調査を進めることができました。ただ雪解け時期だったので、川沿いの調査はだめで、主に海岸沿いの調査となりました。
天候に恵まれたおかげで、いくつか収穫があり、再度精査する必要を感じました。今年は、道南の他に、山陰と東北の調査を予定していたのですが、急遽、調査予定の変更届けを出して、東北地方を中止して、その分を道南に振り向けることにしました。
校務分掌が変わったので、出かけられることになりました。講義期間中であっても、うまく調整すれば、3日ほどの調査にいけることがわかりました。しばらく道南通いになりそうです。道南だと移動には時間がかかかりますが、自家用車でいけるので、費用はそれほどかかりません。短期間ですが、繰り返し行くことが可能となりました。5月、6月、7月に、三回に分けて短期で調査に出かけることにしました。今年だけの調査の研究費なので、目的は達成の予定です。来年は、どうなるかはもっと先に考えます。
道南の乙部町、滝瀬海岸に、シラフラと呼ばれるところがあります。今回の調査ではじめて訪れたのですが、調べるとアイヌ語で「白い傾斜地」という意味だということで、江戸時代からこの地名が使われているそうです。その名の通りではないのですが、白い「崖」がそこには延びていました。
シラフラは、15メートルほどの高さで切り立った崖が、海岸沿いに400、500メートルほど連続しています。白く延びた急峻な崖は、非常に壮観です。崖に近づくと圧倒されてしまいますが、ついその地層に触りたくなってしまいます。威圧感と親近感の両者が入り混じった気分になります。
シラフラのあたりは、海岸で崖が切り立っています。柔らかい地層が波の侵食で削られた海食崖です。日本海に面しているため、侵食が激しい上に、地層が柔らかいために、その崖は峻立しています。シラフラのあたりだけが、海岸がゆるい弧状に侵食されて、くぼんでいます。
シラフラの海岸線では、水平の地層が、遠目ではきれいな白色の絶壁になっているように見えます。シラフラの説明として、ドーバー海峡の白亜(チョーク)の崖という文章がありました。その白さと成層状態からでしょう。
ドーバーのチョークは、あまり固まっていない石灰岩、炭酸カルシうムからできています。この炭酸カルシウムは、主に円石藻類の殻からできています。ところが、シラフラの地層は、チョークではなく、よくみると茶色っぽい黄色の細粒の粘土岩、白っぽい砂岩からでてきます。白っぽいとところは長石や石英などをたくさん含んでいます。白い地層には、珪藻や放散虫の化石がたくさん入っているとされています。化石から、その年代は500~140万年前(新第三紀鮮新世から第四紀にかけて)とされています。地層自体はすべては白いものではないのですが、色も淡いので、崖全体としては白っぽく見えています。
シラフラの地層は、檜山層群の最上部にあたり館層(たてそう)と呼ばれています。内陸の厚沢部(あっさぶ)町の館(たて)周辺に、広くそして厚くたまっていて、ここは館堆積盆という海が入り込んでいたところだとされています。地層は海底に堆積した、海成層となります。
シラフラ以外の周辺の地層では、白黒や白と濃い茶色の縞模様がよくみえます。シラフラの少し北側にでは、くぐり岩と呼ばれるところがあります。ここどえも白と濃い茶色の地層が見えます。ここでは、なぜか地層が峰となって海に突き出ています。不思議なことに、侵食に耐えて残っています。海沿いでは、その幅が2、3メートルほどしかないのですが、壁のように海岸を区切っています。この壁は、海岸を通るときに邪魔になるので、1600年ころに人の手で穴を開けたという説明がありました。そんなに古くから、ここには人が住んでいて、ニシン漁がなされてたそうです。
くぐり岩で私が注目している点は、地層の乱れです。くぐり岩の下半分は成層構造がしっかりとあるのですが、その上半分で地層が「乙」の字形に曲がっています。このような乱れた地層を、スランプ構造と呼んでいます。スランプ構造は、もともとは成層として堆積していた地層が、まだ固まっていない時、なんらかのきっかけ(地震や洪水など)で、海底地すべりで地層が割れることなく、しかし堆積物がまったくばらばらになこともなく、地層の構造を残しながら、流動して乱れてしまったものです。
さらに上の地層では、また成層構造にもどっています。ですから、ある地層の部分だけ乱れが発生していることになります。不思議な地球のダイナミックさを感じます。
シラフラから南側の海岸の崖では、いたるところで白と黒の織りなす成層構造がきれいに見えるところがあります。これらも館層に属します。黒っぽいところは、礫岩からできているところです。これらの地層は、重力流堆積物と呼ばれるものでできたと考えられています。
重力的に不安な状態の固まっていない地層が、なんらかの原因で、滑り出したものです。さきほどのスランプとは違って、地層の堆積物の粒子がバラバラになりながら、水より密度が大きい流体(これを重力流堆積物という)となり、流れていきます。重力流堆積物の典型として、タービダイト(turbidity current、混濁流とも呼ばます)があります。それらが繰り返さえされることで、成層構造ができたとされています。
シラフラの崖の下を歩いていると、直立する崖に威圧されながらも、このような地層がまっていることの不思議さ、そして触れた見たくなる慈しみも感じていました。
最後に余談を少々。
シラフラという言葉が、アイヌ語で「白い傾斜地」が語源とありますが、私には、その意味がよくわかりませんでした。その原典を探していたのですが、とうとう見つかりませんでした。ネットでは、どれが最初の説明か、出典もわかりません。しかし、「白い傾斜地」という説明をあちこちで見かけます。アイヌ語事典で。「白い傾斜地」として入れても、シラフラという言葉になりません。どこから由来したものでしょうか。もっと丁寧に調べればわかるのかもしれませんが、時間切れとなりました。
シラフラは、傾斜地というより、切り立った直立した崖です。アイヌの人が住んでいたときも同じ景観だったでしょう。どこが傾斜地なのでしょうか。確かに崖の直上は、別の砂丘堆積物のようなものが溜まっていますので、なだらかな傾斜があります。でも白いところは崖です。不思議が残ってしまいました。
・ゴールデンウィークの後半は・
ゴールデンウィークの前半は、
天気がよかったので調査にはうってつけでした。
ところが、後半は不順な天候で自宅にいました。
桜の満開の時期に不順な天候で残念でした。
後半はいつものように午前中は大学に出て、
午後には自宅にもどるという生活をしていました。
授業がない時の大学は、のんびりとしていて、好きです。
いつもこうなら仕事も捗るのでしょうが、
まあ、学生のいない大学は大学ではありません。
学生がいないと、それはそれで寂しいものです。
・地質学を満喫・
今まで月曜日は授業のないrスケジュールなのですが、
校務分掌上の会議がよく入っていました。
また、校務もいろいろあったので、
出かけている余裕もありませんでした。
でも4月からは、土日月曜日の3日間が休みにできるので、
調査にでるときは助かります。
また、金曜日の講義があるのですが、
なんらかの予定で講義スケジュールの変更があると、
その日も調査に充てられます。
1年、調査に専念できるの久しぶりです。
地質学を満喫したいと思っています。
ゴールデンウィーク前半に、道南に調査にでかけました。3泊4日の間、幸い天気に恵まれて、予定通りに順調に調査を進めることができました。ただ雪解け時期だったので、川沿いの調査はだめで、主に海岸沿いの調査となりました。
天候に恵まれたおかげで、いくつか収穫があり、再度精査する必要を感じました。今年は、道南の他に、山陰と東北の調査を予定していたのですが、急遽、調査予定の変更届けを出して、東北地方を中止して、その分を道南に振り向けることにしました。
校務分掌が変わったので、出かけられることになりました。講義期間中であっても、うまく調整すれば、3日ほどの調査にいけることがわかりました。しばらく道南通いになりそうです。道南だと移動には時間がかかかりますが、自家用車でいけるので、費用はそれほどかかりません。短期間ですが、繰り返し行くことが可能となりました。5月、6月、7月に、三回に分けて短期で調査に出かけることにしました。今年だけの調査の研究費なので、目的は達成の予定です。来年は、どうなるかはもっと先に考えます。
道南の乙部町、滝瀬海岸に、シラフラと呼ばれるところがあります。今回の調査ではじめて訪れたのですが、調べるとアイヌ語で「白い傾斜地」という意味だということで、江戸時代からこの地名が使われているそうです。その名の通りではないのですが、白い「崖」がそこには延びていました。
シラフラは、15メートルほどの高さで切り立った崖が、海岸沿いに400、500メートルほど連続しています。白く延びた急峻な崖は、非常に壮観です。崖に近づくと圧倒されてしまいますが、ついその地層に触りたくなってしまいます。威圧感と親近感の両者が入り混じった気分になります。
シラフラのあたりは、海岸で崖が切り立っています。柔らかい地層が波の侵食で削られた海食崖です。日本海に面しているため、侵食が激しい上に、地層が柔らかいために、その崖は峻立しています。シラフラのあたりだけが、海岸がゆるい弧状に侵食されて、くぼんでいます。
シラフラの海岸線では、水平の地層が、遠目ではきれいな白色の絶壁になっているように見えます。シラフラの説明として、ドーバー海峡の白亜(チョーク)の崖という文章がありました。その白さと成層状態からでしょう。
ドーバーのチョークは、あまり固まっていない石灰岩、炭酸カルシうムからできています。この炭酸カルシウムは、主に円石藻類の殻からできています。ところが、シラフラの地層は、チョークではなく、よくみると茶色っぽい黄色の細粒の粘土岩、白っぽい砂岩からでてきます。白っぽいとところは長石や石英などをたくさん含んでいます。白い地層には、珪藻や放散虫の化石がたくさん入っているとされています。化石から、その年代は500~140万年前(新第三紀鮮新世から第四紀にかけて)とされています。地層自体はすべては白いものではないのですが、色も淡いので、崖全体としては白っぽく見えています。
シラフラの地層は、檜山層群の最上部にあたり館層(たてそう)と呼ばれています。内陸の厚沢部(あっさぶ)町の館(たて)周辺に、広くそして厚くたまっていて、ここは館堆積盆という海が入り込んでいたところだとされています。地層は海底に堆積した、海成層となります。
シラフラ以外の周辺の地層では、白黒や白と濃い茶色の縞模様がよくみえます。シラフラの少し北側にでは、くぐり岩と呼ばれるところがあります。ここどえも白と濃い茶色の地層が見えます。ここでは、なぜか地層が峰となって海に突き出ています。不思議なことに、侵食に耐えて残っています。海沿いでは、その幅が2、3メートルほどしかないのですが、壁のように海岸を区切っています。この壁は、海岸を通るときに邪魔になるので、1600年ころに人の手で穴を開けたという説明がありました。そんなに古くから、ここには人が住んでいて、ニシン漁がなされてたそうです。
くぐり岩で私が注目している点は、地層の乱れです。くぐり岩の下半分は成層構造がしっかりとあるのですが、その上半分で地層が「乙」の字形に曲がっています。このような乱れた地層を、スランプ構造と呼んでいます。スランプ構造は、もともとは成層として堆積していた地層が、まだ固まっていない時、なんらかのきっかけ(地震や洪水など)で、海底地すべりで地層が割れることなく、しかし堆積物がまったくばらばらになこともなく、地層の構造を残しながら、流動して乱れてしまったものです。
さらに上の地層では、また成層構造にもどっています。ですから、ある地層の部分だけ乱れが発生していることになります。不思議な地球のダイナミックさを感じます。
シラフラから南側の海岸の崖では、いたるところで白と黒の織りなす成層構造がきれいに見えるところがあります。これらも館層に属します。黒っぽいところは、礫岩からできているところです。これらの地層は、重力流堆積物と呼ばれるものでできたと考えられています。
重力的に不安な状態の固まっていない地層が、なんらかの原因で、滑り出したものです。さきほどのスランプとは違って、地層の堆積物の粒子がバラバラになりながら、水より密度が大きい流体(これを重力流堆積物という)となり、流れていきます。重力流堆積物の典型として、タービダイト(turbidity current、混濁流とも呼ばます)があります。それらが繰り返さえされることで、成層構造ができたとされています。
シラフラの崖の下を歩いていると、直立する崖に威圧されながらも、このような地層がまっていることの不思議さ、そして触れた見たくなる慈しみも感じていました。
最後に余談を少々。
シラフラという言葉が、アイヌ語で「白い傾斜地」が語源とありますが、私には、その意味がよくわかりませんでした。その原典を探していたのですが、とうとう見つかりませんでした。ネットでは、どれが最初の説明か、出典もわかりません。しかし、「白い傾斜地」という説明をあちこちで見かけます。アイヌ語事典で。「白い傾斜地」として入れても、シラフラという言葉になりません。どこから由来したものでしょうか。もっと丁寧に調べればわかるのかもしれませんが、時間切れとなりました。
シラフラは、傾斜地というより、切り立った直立した崖です。アイヌの人が住んでいたときも同じ景観だったでしょう。どこが傾斜地なのでしょうか。確かに崖の直上は、別の砂丘堆積物のようなものが溜まっていますので、なだらかな傾斜があります。でも白いところは崖です。不思議が残ってしまいました。
・ゴールデンウィークの後半は・
ゴールデンウィークの前半は、
天気がよかったので調査にはうってつけでした。
ところが、後半は不順な天候で自宅にいました。
桜の満開の時期に不順な天候で残念でした。
後半はいつものように午前中は大学に出て、
午後には自宅にもどるという生活をしていました。
授業がない時の大学は、のんびりとしていて、好きです。
いつもこうなら仕事も捗るのでしょうが、
まあ、学生のいない大学は大学ではありません。
学生がいないと、それはそれで寂しいものです。
・地質学を満喫・
今まで月曜日は授業のないrスケジュールなのですが、
校務分掌上の会議がよく入っていました。
また、校務もいろいろあったので、
出かけている余裕もありませんでした。
でも4月からは、土日月曜日の3日間が休みにできるので、
調査にでるときは助かります。
また、金曜日の講義があるのですが、
なんらかの予定で講義スケジュールの変更があると、
その日も調査に充てられます。
1年、調査に専念できるの久しぶりです。
地質学を満喫したいと思っています。
2018年4月15日日曜日
160 瀞:記憶のお気に入りへ
熊野川の支流、北山川は深い山あいを流れる川で、紀伊山地の奥深くまで入り込んでいます。かつては木材の筏が、現在ではウオータージェットが往来しています。そんな北山川の奥に瀞があります。
私の野外調査は、テーマに合った地域、あるいは地層や岩石を選んで、典型的な露頭を見つけ、そこで詳細な観察をしていきます。このような手法で取り組んだのは、黒瀬川構造帯という不思議な岩石群ですが、なかなかいい露頭がないので、現在中断しています。次のテーマは、タービダイトと呼ばれる付加体でよく見られる地層を、対照になる沿岸の堆積物を四国と九州で調査しました。現在は層状チャートを中心にして調査を進めており、四国が一段落したので紀伊半島と、山陰を中心とした中国地方で調査を進めています。そして北海道も加え、できれば東北へも広げていければと思っています。もちろん、その地を訪れたら、次のテーマのメランジュや黒瀬川構造帯なども、一緒に見ていくようにしています。
各地を巡っていくと、テーマに相応しい露頭だけでなく、気に入った地形や場所、露頭などもできてきます。そんなところへは、何度も訪れてしまいます。小さな露頭であっても、何度も通っていきますが、その度に新しい発見、感動がえられます。
紀伊半島でも、そんな地がいくつかできました。その一つに瀞(どろ)があります。瀞は2度目で、2017年1月のエッセイでも取り上げました。前回訪れたのは、2016年夏でした。その時は、瀞までで、それより奥には進む予定をしていませんでした。2度目の2017年9月には、瀞まで川を船で遡上して、道路からも瀞へいくのと、2つのルートで地質を見ました。
船は、熊野川と北山川の合流点の少し下流の志古が、発着所になります。ウォータジョットという高速船で2時間ほどかけて、川沿いの景観の変化や露頭を見学しながら、遡っていきます。砂岩泥岩互層の中を川が流れています。上流に進むに連れて、地形が険しくなってきます。その変化はなかなか面白いものでした。高速船で移動が早いため、つぎつぎと現れる露頭、地形の変化を楽しむことができます。船がもっとも遡ったところが瀞になります。瀞では、20分ほどの休憩時間があります。川原には小さな露店とトイレがありました。この休憩場所の川原が、瀞ホテルの真下にあたります。休息後、同じコースをウォータジョットで志古まで戻りました。
その日は天気もよく、また川面すれすれから見る露頭はなかなか見ごたえがありました。上流に行くにつれて、地層が箱状に侵食されてゴージュになっていきます。そんなゴージュの中を船で遡ることになります。
その後、車で169号線を遡っていきました。このルートは以前も来たことがあり、トンネルや拡張など道路が整備されて、車で走りやすいルートです。途中で昼食をとり、瀞へ向かいました。今回は、川と道の両方から、北山川から眺める紀伊山地が堪能できました。
今回は瀞にある瀞ホテルに立ち寄りました。1917(大正6)年、木材を切り出し、北山川の筏にして流す人たち(筏師)の宿として開業したそうです。その後招仙閣と改名し、昭和初期に瀞ホテルという名称となったそうです。現在の建物にも、招仙閣という看板がかかっています。さらに、瀞ホテルという看板もかけられています。瀞ホテルは、だいぶ前に宿泊施設としては営業を終わったのですが、2013年6月に食堂と喫茶の瀞ホテルとして営業を再開していました。前回、私がいったときには営業を終わっていたのですが、今回は昼すぎだったので、営業をしていました。
昼食は終わっていたので、ここではコーヒーだけを飲みました。すごく混んでいて、1時間ほど待つとのことでした。私は、基本的には行列までして店n入るのは嫌で、いつも敬遠しています。しかし今回だけは、瀞の景色が素晴らしいので、外でうろうろしながら待つことができました。
瀞ホテルでは、1階部分を使って営業しているのですが、かつて宿として使っていた2階も見学することができます。店の部分だけでなく、瀞ホテルの建物全体、そして立地がなかなかいい空間で、そこにいるとなかなかいい時間を過ごすことができます。そんな心地よい時間と空間が、私には良い記憶となっています。前回は、閉まっていた店ですが、今回は、行列までして入りたいと思えるような場所となりました。
さて、この北山川ですが、熊野川の合流部から東に向かって上流になります。少し妙な流れかたに思えました。
紀伊山地は東西に山並みがあるので、川は山稜から南に流れていくるはずです。ところがこの北山川は、東から西に向かって流れています。もちろん真っ直ぐではなく曲がりくねっていますが、基本的に東西方向の流れとなっています。そこに妙さを感じました。
さらに、川を遡って見えていた石は、砂岩泥岩の互層でした。列島の海側に堆積したもので、前弧海盆堆積物と呼ばれ、熊野層群となります。この地層はそれほど硬くないので、侵食を受けて削られやすいはずです。瀞付近では、何故か険しい地形なっています。これも妙です。
南北に流れるはずの川は東西に流れ、柔らかいはずの地層が険しい地形となっているのです。
その答えは、北山川沿いでは見ることのない、熊野酸性岩類でした。北山川より南側には、熊野酸性岩類が広く分布しています。それらを回り込むように北山川は流れています。しかし、北山川沿いには熊野酸性岩類は分布しています。地質図をみると熊野酸性岩類の周辺には、柔らかいはずの砂岩泥岩が分布しています。ただし、これらの堆積岩は、花崗岩類に貫入によって、熱の変成を受けて固くなっています。このような熱変成により固くなったものをフォルンフェルスといいます。
川面から地層を見ながら、妙に思えたものは、実はこの地域の地質が生み出したものだったのです。瀞は、そんな妙さもお気に入りとなった理由でしょうか。ただ、人が多いので私は少々疲れてしまいますが。
・ジオパーク・
ジオパークが各地にできてきたので、
その地域の典型的な地質をみるのに、
情報が増えたので便利になってきました。
南紀熊野ジオパークでも情報は
大いに活用させていただきました。
見たい露頭すべてが、ジオパークの地域、
見学ポイント(ジオサイトと呼ばれています)ではないので、
自力でいろいろ調べて、露頭を見つけていいくことになります。
いい露頭が見つからないこともあります。
そんな中で、素晴らしい露頭や景観にあうと、
記憶のお気に入りに登録されます。
・戸惑いと期待・
新学期の授業がはじまり、
1週間がたちました。早いものですね。
1年生は、戸惑いもあったろうし、
期待感もあったでしょう。
それらの戸惑いは解消されたでしょうか。
期待は満たされたでしょうか。
たぶん場面場面で両方を味わっていることでしょう。
できれは、合わせてプラスになっていればと思っています。
教員も、戸惑いも期待も与える存在でしょう。
心して接しなければなりませんね。
私の野外調査は、テーマに合った地域、あるいは地層や岩石を選んで、典型的な露頭を見つけ、そこで詳細な観察をしていきます。このような手法で取り組んだのは、黒瀬川構造帯という不思議な岩石群ですが、なかなかいい露頭がないので、現在中断しています。次のテーマは、タービダイトと呼ばれる付加体でよく見られる地層を、対照になる沿岸の堆積物を四国と九州で調査しました。現在は層状チャートを中心にして調査を進めており、四国が一段落したので紀伊半島と、山陰を中心とした中国地方で調査を進めています。そして北海道も加え、できれば東北へも広げていければと思っています。もちろん、その地を訪れたら、次のテーマのメランジュや黒瀬川構造帯なども、一緒に見ていくようにしています。
各地を巡っていくと、テーマに相応しい露頭だけでなく、気に入った地形や場所、露頭などもできてきます。そんなところへは、何度も訪れてしまいます。小さな露頭であっても、何度も通っていきますが、その度に新しい発見、感動がえられます。
紀伊半島でも、そんな地がいくつかできました。その一つに瀞(どろ)があります。瀞は2度目で、2017年1月のエッセイでも取り上げました。前回訪れたのは、2016年夏でした。その時は、瀞までで、それより奥には進む予定をしていませんでした。2度目の2017年9月には、瀞まで川を船で遡上して、道路からも瀞へいくのと、2つのルートで地質を見ました。
船は、熊野川と北山川の合流点の少し下流の志古が、発着所になります。ウォータジョットという高速船で2時間ほどかけて、川沿いの景観の変化や露頭を見学しながら、遡っていきます。砂岩泥岩互層の中を川が流れています。上流に進むに連れて、地形が険しくなってきます。その変化はなかなか面白いものでした。高速船で移動が早いため、つぎつぎと現れる露頭、地形の変化を楽しむことができます。船がもっとも遡ったところが瀞になります。瀞では、20分ほどの休憩時間があります。川原には小さな露店とトイレがありました。この休憩場所の川原が、瀞ホテルの真下にあたります。休息後、同じコースをウォータジョットで志古まで戻りました。
その日は天気もよく、また川面すれすれから見る露頭はなかなか見ごたえがありました。上流に行くにつれて、地層が箱状に侵食されてゴージュになっていきます。そんなゴージュの中を船で遡ることになります。
その後、車で169号線を遡っていきました。このルートは以前も来たことがあり、トンネルや拡張など道路が整備されて、車で走りやすいルートです。途中で昼食をとり、瀞へ向かいました。今回は、川と道の両方から、北山川から眺める紀伊山地が堪能できました。
今回は瀞にある瀞ホテルに立ち寄りました。1917(大正6)年、木材を切り出し、北山川の筏にして流す人たち(筏師)の宿として開業したそうです。その後招仙閣と改名し、昭和初期に瀞ホテルという名称となったそうです。現在の建物にも、招仙閣という看板がかかっています。さらに、瀞ホテルという看板もかけられています。瀞ホテルは、だいぶ前に宿泊施設としては営業を終わったのですが、2013年6月に食堂と喫茶の瀞ホテルとして営業を再開していました。前回、私がいったときには営業を終わっていたのですが、今回は昼すぎだったので、営業をしていました。
昼食は終わっていたので、ここではコーヒーだけを飲みました。すごく混んでいて、1時間ほど待つとのことでした。私は、基本的には行列までして店n入るのは嫌で、いつも敬遠しています。しかし今回だけは、瀞の景色が素晴らしいので、外でうろうろしながら待つことができました。
瀞ホテルでは、1階部分を使って営業しているのですが、かつて宿として使っていた2階も見学することができます。店の部分だけでなく、瀞ホテルの建物全体、そして立地がなかなかいい空間で、そこにいるとなかなかいい時間を過ごすことができます。そんな心地よい時間と空間が、私には良い記憶となっています。前回は、閉まっていた店ですが、今回は、行列までして入りたいと思えるような場所となりました。
さて、この北山川ですが、熊野川の合流部から東に向かって上流になります。少し妙な流れかたに思えました。
紀伊山地は東西に山並みがあるので、川は山稜から南に流れていくるはずです。ところがこの北山川は、東から西に向かって流れています。もちろん真っ直ぐではなく曲がりくねっていますが、基本的に東西方向の流れとなっています。そこに妙さを感じました。
さらに、川を遡って見えていた石は、砂岩泥岩の互層でした。列島の海側に堆積したもので、前弧海盆堆積物と呼ばれ、熊野層群となります。この地層はそれほど硬くないので、侵食を受けて削られやすいはずです。瀞付近では、何故か険しい地形なっています。これも妙です。
南北に流れるはずの川は東西に流れ、柔らかいはずの地層が険しい地形となっているのです。
その答えは、北山川沿いでは見ることのない、熊野酸性岩類でした。北山川より南側には、熊野酸性岩類が広く分布しています。それらを回り込むように北山川は流れています。しかし、北山川沿いには熊野酸性岩類は分布しています。地質図をみると熊野酸性岩類の周辺には、柔らかいはずの砂岩泥岩が分布しています。ただし、これらの堆積岩は、花崗岩類に貫入によって、熱の変成を受けて固くなっています。このような熱変成により固くなったものをフォルンフェルスといいます。
川面から地層を見ながら、妙に思えたものは、実はこの地域の地質が生み出したものだったのです。瀞は、そんな妙さもお気に入りとなった理由でしょうか。ただ、人が多いので私は少々疲れてしまいますが。
・ジオパーク・
ジオパークが各地にできてきたので、
その地域の典型的な地質をみるのに、
情報が増えたので便利になってきました。
南紀熊野ジオパークでも情報は
大いに活用させていただきました。
見たい露頭すべてが、ジオパークの地域、
見学ポイント(ジオサイトと呼ばれています)ではないので、
自力でいろいろ調べて、露頭を見つけていいくことになります。
いい露頭が見つからないこともあります。
そんな中で、素晴らしい露頭や景観にあうと、
記憶のお気に入りに登録されます。
・戸惑いと期待・
新学期の授業がはじまり、
1週間がたちました。早いものですね。
1年生は、戸惑いもあったろうし、
期待感もあったでしょう。
それらの戸惑いは解消されたでしょうか。
期待は満たされたでしょうか。
たぶん場面場面で両方を味わっていることでしょう。
できれは、合わせてプラスになっていればと思っています。
教員も、戸惑いも期待も与える存在でしょう。
心して接しなければなりませんね。
2018年1月15日月曜日
157 紀の松島:アンビバレントな景観
和歌山の東の海岸に、知る人ぞ知る名所、「紀の松島」と呼ばれているがあります。関西からも中部からも、アプローチが遠いので、都市圏からはすぐには行きづらいところです。でも、そこには素晴らしい景観がありました。
和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦(なちかつうら)町に、「紀の松島」と呼ばれる半島があります。紀の松島は、南の森浦湾と北の那智湾の間に位置します。17kmほどの周囲に、なんと大小130ほどの島があります。多くの島があるという景観が、日本三景の宮城県の松島に似ていることから、「紀の松島」と呼ばれているそうです。宮城の松島には、260ほどの島があるようなので、数では及びません。しかし、紀の松島は外洋に面しているため切り立った岩礁になっています。宮城の松島は穏やかさ、雅さが売りですが、紀の松島は峨々とした岩礁や激しい波浪など、荒々しさが売りとなるようです。
紀の松島は隆起海岸のようで、断崖があり、洞や島、アーチなどが見れられます。紀の松島は、海岸線が入り組んでいるのですが、場所によっては歩きやすい海岸もあります。そんな海岸には松島を構成している岩石の露頭がでています。海岸は、見学するのに都合がいいところです。
昨年の9月上旬の調査で訪れました。その日は、風が強く波も高かったので、少々渡るのに苦労したところもありましたが、予定通り見て回ることができました。ここには、2016年秋にも来ているので、2度目となります。同じところを調査したのですが、飽きることなく見てまわることができました。時間とお金があれば、グルージングで、この周辺の奇岩類の景観を巡ることができます。私は、石をじっくり見ることが目的なので、船には乗りませんでした。機会があれば、巡りたいものです。
紀の松島の北東には、お蛇浦(おじゃうら)遊歩道があります。狭い道を車で入ってくので少々わかりにくいのですが、トンネルを抜けると、広い駐車場も完備されています。しかし、人があまり来ないところのようです。静かに露頭を眺めることができました。
以前に紹介した宇久井半島(142 宇久井半島 2016.10.15)が北東にあるのですが、3kmほどしか離れていません。しかし、構成している岩石は、だいぶ見かけが違っています。宇久井半島は、大部分が熊野火成岩類の火山岩(枕状溶岩)からできていて、少しだけ牟婁層群よばれる付加体で形成された地層が分布しています。この牟婁層群には、大陸内で形成されたオルソクォーツァイト(orthoquartzite)と呼ばれる不思議な礫が含まれていました。
紀の松島は、層をなす堆積岩からできています。この地層は熊野層群と呼ばれています。1400万年前に浅海で堆積した堆積岩です。この地層には石炭も産し、かつて新宮市(熊野川町)では採掘されていました。石炭は植物から由来するので、陸に近い堆積物である証拠ともなります。
熊野層群と対を成すように、紀伊半島の西側、白浜周辺に同時代に似た環境で堆積した田辺層群もあります。そこも同じような砂岩や泥岩、礫岩などの堆積岩からできています。浅海でできた堆積物です。
海岸を歩くと、地層が織りなす景観は、非常に奇異なもので一見の価値があります。規則正しい互層からできているのですが、この整然とした地層が海岸に広がっています。峨々と切り立った断崖が、整然とした地層からできいます。この険しさと整然さのアンビバレントな景観が、不思議さを醸し出しているのかもしれません。
半島の北のはずれにある弁天島の周辺では、面白い現象がみることできます。海岸に岩礁があり、上部はお蛇浦(おじゃうら)遊歩道の海岸で見た、きれいな成層構造をもった地層です。しかし、下部には層がはっきりしない泥岩からできています。その泥岩には角ばった礫をたくさん含まれています。また一部では、貫入岩のように上の層上の地層に入り込んでいます。
この泥岩が、マグマのように貫入した泥ダイアピル(mud diapir)と呼ばれるものです。泥ダイアピルはマグマとは違って熱く溶けたものではありません。しかし、液体として振る舞う点で似ています。泥ダイアピルは、まだ固まっていない泥が、地震で液状化したものです。上の層が固まった地層に、地震でできた割れ目(断層)にそって、液状化した泥が上昇したものです。液状化した泥には、周辺の岩石で固まったものが割れて取り込まれています。ここにも、アンビバレントな関係がありました。
熊野層群が堆積していた同じ時代に、古座川弧状岩脈というマグマが貫入しました。古座川弧状岩脈は、幅500mほどで、22kmもの長さをもった岩脈です。この巨大な岩脈は、もともと巨大カルデラの南の縁だったと考えられています。古座川弧状岩脈は、古座川から大地町まで延びています。その延長線上の少し北に紀の松島があります。地下には岩脈があるのでしょう。熱による変成作用を受けた地層もあり、この周辺にある温泉も、その火成岩の熱によるものだと考えられています。
紀の松島は、白浜と比べると、少し知名度が落ちるかもしれません。しかし、自然や景観に関しては、勝るとも劣ることはないと思います。白浜は、北海道からいくとき、飛行機の離着陸地となります。ですから、かならず寄ることろになるので、私には身近になっています。紀伊半島の海岸を調査で巡る時は、紀の松島も温泉付きの宿泊施設も充実しているので、今度は温泉とクルージングを楽しみたいものです。
・今年の野外調査は?・
9月に調査に出て以来、
しばらく調査にはでていません。
毎年恒例のことなのですが、
昨年の後半は、
非常に忙しい思いをして過ごしたので、
少々気分転換をしたいものです。
来年の調査予定はまだ未定ですが、
9月の調査は毎年することにしています。
もし研究費が当たれば、
ゴールデンウィークにも調査にでたいと考えています。
研究テーマを近々整理する予定なので、
その結果により、どこになるかを決めことにしています。
でも、研究費が当たればの話ですが。
・時の移ろい・
1月になり、不順な天候が続いていたのですが、
センター試験の時期は、
安定した天気となりました。
センター試験は現在では、
年中行事のひとつになっています。
近うちに、センター試験も改革で変わるようです。
もしなくなると、
この時期の時の移ろいは
成人式だけとなります。
ただ、北海道では、冬休みが終わり、
15日から小・中学校がはじまるので
通学路になっている歩道は、除雪がはりました。
通勤する人にも歩きやすくなりました。
こんな除雪に、時の移ろいを
感じることができる北海道でした。
和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦(なちかつうら)町に、「紀の松島」と呼ばれる半島があります。紀の松島は、南の森浦湾と北の那智湾の間に位置します。17kmほどの周囲に、なんと大小130ほどの島があります。多くの島があるという景観が、日本三景の宮城県の松島に似ていることから、「紀の松島」と呼ばれているそうです。宮城の松島には、260ほどの島があるようなので、数では及びません。しかし、紀の松島は外洋に面しているため切り立った岩礁になっています。宮城の松島は穏やかさ、雅さが売りですが、紀の松島は峨々とした岩礁や激しい波浪など、荒々しさが売りとなるようです。
紀の松島は隆起海岸のようで、断崖があり、洞や島、アーチなどが見れられます。紀の松島は、海岸線が入り組んでいるのですが、場所によっては歩きやすい海岸もあります。そんな海岸には松島を構成している岩石の露頭がでています。海岸は、見学するのに都合がいいところです。
昨年の9月上旬の調査で訪れました。その日は、風が強く波も高かったので、少々渡るのに苦労したところもありましたが、予定通り見て回ることができました。ここには、2016年秋にも来ているので、2度目となります。同じところを調査したのですが、飽きることなく見てまわることができました。時間とお金があれば、グルージングで、この周辺の奇岩類の景観を巡ることができます。私は、石をじっくり見ることが目的なので、船には乗りませんでした。機会があれば、巡りたいものです。
紀の松島の北東には、お蛇浦(おじゃうら)遊歩道があります。狭い道を車で入ってくので少々わかりにくいのですが、トンネルを抜けると、広い駐車場も完備されています。しかし、人があまり来ないところのようです。静かに露頭を眺めることができました。
以前に紹介した宇久井半島(142 宇久井半島 2016.10.15)が北東にあるのですが、3kmほどしか離れていません。しかし、構成している岩石は、だいぶ見かけが違っています。宇久井半島は、大部分が熊野火成岩類の火山岩(枕状溶岩)からできていて、少しだけ牟婁層群よばれる付加体で形成された地層が分布しています。この牟婁層群には、大陸内で形成されたオルソクォーツァイト(orthoquartzite)と呼ばれる不思議な礫が含まれていました。
紀の松島は、層をなす堆積岩からできています。この地層は熊野層群と呼ばれています。1400万年前に浅海で堆積した堆積岩です。この地層には石炭も産し、かつて新宮市(熊野川町)では採掘されていました。石炭は植物から由来するので、陸に近い堆積物である証拠ともなります。
熊野層群と対を成すように、紀伊半島の西側、白浜周辺に同時代に似た環境で堆積した田辺層群もあります。そこも同じような砂岩や泥岩、礫岩などの堆積岩からできています。浅海でできた堆積物です。
海岸を歩くと、地層が織りなす景観は、非常に奇異なもので一見の価値があります。規則正しい互層からできているのですが、この整然とした地層が海岸に広がっています。峨々と切り立った断崖が、整然とした地層からできいます。この険しさと整然さのアンビバレントな景観が、不思議さを醸し出しているのかもしれません。
半島の北のはずれにある弁天島の周辺では、面白い現象がみることできます。海岸に岩礁があり、上部はお蛇浦(おじゃうら)遊歩道の海岸で見た、きれいな成層構造をもった地層です。しかし、下部には層がはっきりしない泥岩からできています。その泥岩には角ばった礫をたくさん含まれています。また一部では、貫入岩のように上の層上の地層に入り込んでいます。
この泥岩が、マグマのように貫入した泥ダイアピル(mud diapir)と呼ばれるものです。泥ダイアピルはマグマとは違って熱く溶けたものではありません。しかし、液体として振る舞う点で似ています。泥ダイアピルは、まだ固まっていない泥が、地震で液状化したものです。上の層が固まった地層に、地震でできた割れ目(断層)にそって、液状化した泥が上昇したものです。液状化した泥には、周辺の岩石で固まったものが割れて取り込まれています。ここにも、アンビバレントな関係がありました。
熊野層群が堆積していた同じ時代に、古座川弧状岩脈というマグマが貫入しました。古座川弧状岩脈は、幅500mほどで、22kmもの長さをもった岩脈です。この巨大な岩脈は、もともと巨大カルデラの南の縁だったと考えられています。古座川弧状岩脈は、古座川から大地町まで延びています。その延長線上の少し北に紀の松島があります。地下には岩脈があるのでしょう。熱による変成作用を受けた地層もあり、この周辺にある温泉も、その火成岩の熱によるものだと考えられています。
紀の松島は、白浜と比べると、少し知名度が落ちるかもしれません。しかし、自然や景観に関しては、勝るとも劣ることはないと思います。白浜は、北海道からいくとき、飛行機の離着陸地となります。ですから、かならず寄ることろになるので、私には身近になっています。紀伊半島の海岸を調査で巡る時は、紀の松島も温泉付きの宿泊施設も充実しているので、今度は温泉とクルージングを楽しみたいものです。
・今年の野外調査は?・
9月に調査に出て以来、
しばらく調査にはでていません。
毎年恒例のことなのですが、
昨年の後半は、
非常に忙しい思いをして過ごしたので、
少々気分転換をしたいものです。
来年の調査予定はまだ未定ですが、
9月の調査は毎年することにしています。
もし研究費が当たれば、
ゴールデンウィークにも調査にでたいと考えています。
研究テーマを近々整理する予定なので、
その結果により、どこになるかを決めことにしています。
でも、研究費が当たればの話ですが。
・時の移ろい・
1月になり、不順な天候が続いていたのですが、
センター試験の時期は、
安定した天気となりました。
センター試験は現在では、
年中行事のひとつになっています。
近うちに、センター試験も改革で変わるようです。
もしなくなると、
この時期の時の移ろいは
成人式だけとなります。
ただ、北海道では、冬休みが終わり、
15日から小・中学校がはじまるので
通学路になっている歩道は、除雪がはりました。
通勤する人にも歩きやすくなりました。
こんな除雪に、時の移ろいを
感じることができる北海道でした。
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