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2024年3月15日金曜日

231 エッセイ休刊のお知らせ

 このエッセイは、今回で休刊とします。開始したときには、それなりの目的、経緯があり、その後、いろいろもあったのですが、とりあえず区切りとします。長らくのご購読、ありがとうございました。


 このエッセイは、「空と人の狭間から 大地を眺める」(Earth's View beteen Human and Sky)として、地質や地形に関する市民向けの月刊の読み物として発行してきました。2005年1月3日に「00 創刊特別号」で告知をしてから、このメールマガジンを発行することにしました。1月15日、「01 有珠山:好奇心と倫理」という最初の号を発行しました。以降、国内だけでなく、海外への調査に出かけている時も、毎月欠かすことなく、15日に発行してきました。
 メールマガジン発行のきっかけは、北海道地図株式会社から10mメッシュ数値地図を購入したことからでした。その時旭川にある会社を訪れ、いろいろと話をしている時、共同研究を進めることにしました。共同研究として、各地の地質のを、エッセイと画像をセットにして月刊メールマガジンとして紹介することしました。
 共同研究としては、当初1年間の予定でしたが、結局まる3年間、2007年12月まで共同研究として公開してきました。共同研究は終了したのですが、このエッセイは継続していました。
 このエッセイには、さらに前身にあたるものがありました。ERSDACとの共同研究として、衛星画像を利用した地質の紹介を、2002年1月から月刊エッセイ「宇宙、地球、人:地球:宇宙と人のはざまにて」を1年間発行していました。こちらはきっちりと1年で終わりましたが、このエッセイの3編は、「宇宙から見た地質-日本と世界-」(加藤ほか編, 2006)に掲載されました。
 いずれも、官庁や企業といち研究者との共同研究の可能への実証実験も兼ねていました。これらの経験から、いち研究者が努力すれば、継続的な科学教育が可能だという手応えをえました。そして、このエッセイが18年以上にわたって継続してきました。
 そして前回のエッセイでもアナウンスしたのですが、今回の231号をもって、休刊とすることにしました。幸いながら、このエッセイをいろいろな方が参考にされてきたので、サーバが継続できる2025年3月まで残すことしました。
 定年退職することになるため、サーバも終了となります。このサーバは個人所有なのですが、大学のドメインをもらっているので、大学の計算機室に置かせてもらっています。サーバそしてドメインも、これが2代目になります。自宅にも試行のためも、サーバを一台置いていたのですが、使用頻度が低いので、だいぶ前に停止しました。
 定年退職すれば、大学に預けていたサーバは終了しなければなりません。大学の定年退職のための準備(定活というそうです)として考えていました。サーバが停止してもいいように、ブログに同じ内容の文章は公開していました。ただし、大量の画像の公開はできないので、どうしようかと悩んでいました。
 このサーバには、毎日撮影している「身近な自然誌」もあります。それも終了することになります。以前は、大学の講義資料やレポートもこのサーバにおいていました。COIDV-19で、遠隔授業で公式に大学の講義用サーバができ、現在も継続しています。そのサーバ上にすべて移行したので、個人のサーバの必要がなくなりました。
 少しずつですが、サーバがなくなってもいいような状態に移行していきました。来年3月までサーバは継続するのですが、その区切りとして今回廃刊することにしました。前回のエッセイでも述べたのですが、退職時にサーバを廃止すると、ある時、突然サイトが見ることができなくなります。事前にアナウンスしていたとしても、気づかない人には、突然サイトが消えることになります。そのため、1年間、サーバに休止の表示をしてから、廃止することにしました。
さて、このエッセイは、終わりますが、外にも週刊エッセイ
Earth Essay 地球のささやき
があります。エッセイは6つの項目に区分しています。その中の「地球地学紀行」がありますので、今後は、GeoEssayの内容は、このエッセイの中で展開していきます。文字数が半分から3分の1くらいになり、画像もありませんが、よろしければそちらを参考にしていください。
 また、地質哲学の実践として月刊エッセイ
Terra Incognita 地球のつぶやき
を公開しています。
 いずれも。もともとはサーバで展開していたのですが、2025年4月以降は、サーバはなくなります。今後はブログにて公開していきますので、そちらをみていただくことになります。
 まだ、独自のドメインをもっていて、毎日ホームページを更新するようにしています。
Inspirations 地質学者のひとりごと
こちらは、残す予定です。新しいことは、こちらからアナウンスできるかと思います。これも、ブログに同じ内容を
https://geo-mono.blogspot.com/
に公開しています。
 これまで、長年のご購読ありがとうございました。

・ご購読ありがとうございました。・
長らくの、メースマガジンのご購読いただき、
ありがとうございました。
これからも、似た内容のエッセイは、
上記の週刊エッセイやホームページ、ブログで
細々とながら発信していくつもりです。
このエッセイが、どれくらい役立ったのかわかりませんが、
私にとってはいろいろと勉強になり、
論文のネタにもなりました。
いずれにしても、日進月歩のICT全盛の時代
すべてが移ろいやすい時代に、
長く続けることは重要ではないでしょうか。
そして終わることも重要です。
長い人生ですから、
いつかの区切り、終わりがきます。
不可抗力や事故などで、
突然終わってしまうこともありえます。
終わりを自身で区切りとして設定できるのは
幸せなことだと思います。
そして、このような終わりの挨拶が
誌面でできるので、喜ばしいことです。
繰り返しなりますが、
最後までお付き合いただき、
本当にありがとうございました。

2024年2月15日木曜日

230 十勝三股カルデラ:常にセンス・オブ・ワンダーを

 十勝三股カルデラは、10数年前に新たに認定されたものです。以前からカルデラの可能性は指摘されていました。新たな検討を加えて、確定されました。自然の中には、まだまだ未知のものが、隠されています。


 北海道は、地質学的に非常に興味深い地域です。野外調査で、同じところを飽きることなく、何度でもみていくことができます。昨年10月に、層雲峡から三国峠を下りました。その年ははじめてですが、このコースは、毎年のように通っています。
 三国峠から十勝側を眺めるのは、心地いいものです。峠を少し越えると、緑深橋の手前に、以前から駐車できる空き地はありました。そこは、側溝が深く、気をつけないと、車の底を擦ってしまうようなところでしたが、今では、駐車場ができています。そこから緑深橋まで歩けるように、ポールで簡易的な歩道ができていました。安心して歩いて景色を見にいくことができます。
 その橋からは、S字の優雅な松見大橋と、その向こうに十勝三股盆地の森林を見ることできる、絶景スポットになっています。ここを通るときはいつも降りて景色を見ています。今回は、10月だったので、高山では紅葉が終わりかけていましたが、十勝三股あたりは、まだ紅葉が残っていました。この大森林の場所が、十勝三股カルデラと呼ばれるところです。
 北海道は、日本は火山と山脈が連なる列島となっていますが、このような地域を地質学では「島弧」と呼んでいます。日本列島はいくつかの島弧が組み合わさってできます。北海道は、東北地域を形成している東北日本弧と千島列島から知床阿寒まで伸びる千島弧があり、それらが道央で衝突しています。島弧会合部と呼ばれる特異な地質場となっています。
 新生代後半には、北海道周辺において北米プレートとユーラシアプレートのプレート境界で、ジャンプが起こっています。このような地域は、北海道中央部以外ではみられることなく、地質学的に非常に特異で重要なところになります。
 新生代後半にプレート境界のジャンプは起こり、その時期に大規模な花崗岩質マグマの噴火も起こっています。花崗岩質マグマの噴火は、大規模なものも多くなります。大規模な噴火では、大量の火砕流や火山噴出物が放出され、遠くまで飛んでいきます。噴火したあとには、カルデラができます。
 十勝三股も盆地になっています。以前(1970年代)から、火山噴火によるカルデラの可能性が指摘されていたのですが、確定していませんでした。重カ異常の測定とその解析によって、15個ほどのカルデラがあることがわかってきました。そのうちのいくつかでは1 kmほどの直径の丸い陥没構造があります。
 十勝三股の盆地は、2008年の北海道大学の石井英一さんたちの共同研究で、「十勝三股カルデラ」だと提唱されました。
 新しく形成されたカルデラは、地形からすぐに見分けられるのですが、古いものになると存在がわかりくくなります。侵食で地形が不明瞭になったり、他の堆積物によって盆地が埋められたりしてわかりにくくなっていきます。
 十勝三股カルデラは、約100万年前(鮮新世以前~前期更新世)に陥没が起こって形成されました。しかし古い時代なので、浸食されて地形が不明瞭になっていき、盆地が湖となり、そこに堆積した十勝三股層ができて埋められていきました。そのため、カルデラの地形がわかりにくくなっていました。
 十勝三股盆地は、重力の異常が見つかっています。異常は、北東-南西方向に伸びた長方形(10kmx6km)をしていますが。その地域は、盆地を囲む外輪山の内壁(14kmx10km)があり、もともとカルデラがあったところと考えてよさそうです。
 地質学的にカルデラと確定するには、このカルデラ噴火で噴出した火山砕屑物との時代、量などと対応している必要があります。
 周辺に分布している無加(むか)溶結凝灰岩層、芽登(めとう)凝灰岩層、屈足(くったり)火砕流堆積物、黒雲母石英安山岩質軽石流は、分布、地層の厚さ(層厚)、噴出年代(約100万年前)、マグマの性質(花崗岩質マグマ)や鉱物の組み合わせや特徴など、さまざまな点で同じ火砕流だということが明らかにされました。
 また、大規模な花崗岩質マグマの噴火(プリニー式噴火)によってはじまり、降下火砕堆積物が降り、その後火砕流が発生しました。噴火当時の地形によって、北東方向には無加火砕流と留辺蘂火砕流が、南東方向には芽登火砕流が、南西方向には屈足火砕流が流れたことが、明らかにされました。
 今回紹介したように、地質学、あるいはすべての科学は、まだ途上です。自然には、未知のものがいっぱいあり、それを新発見をするチャンスはどこにでも常にあります。ふだん目にしている当たり前のものの中にも、不思議が隠されているはずです。自然の中に不思議を見つけられるかどうかは、それを見る人の問題です。常にセンス・オブ・ワンダーを持ち続けている必要がありますね。

・論文と著書を・
現在、大学は、後期の終わりで
在学生への成績評価と卒業判定などがあり
新入生にむけては入試の判定、
そして新学期の準備もはじまります。
教員は、時間が取れるので
集中して研究するチャンスとなります。
現在、論文の執筆と著書の執筆に
取り掛かっています。
論文に手こずっているため、
本の執筆が滞っていますが、
淡々と進めていくしかありません。

・休刊のお知らせ・
来年(2025年)の3月で大学を退職します。
その時に大学設置しているサーバも停止することになります。
このエッセイは画像と文章をセットにしています。
そのため、退職時、サーバの停止時が
エッセイの区切りとなるので休刊します。
以前は、退職でサーバの停止が、
エッセイの終了時期だと考えていました。
しかし、退職時に、サーバを廃止すると
ある時、突然サイトが見ることができなくなります。
事前にアナウンスしていたとしても
気づかない人には、突然サイトが消えることになります。
そこで、次回の3月号をもって休刊して、
1年間サーバにアナウンスを表示することにしました。
他にも理由がいつくかありますが、
詳細は次回のエッセイで紹介しよう考えています。

2024年1月15日月曜日

229 鳴門海峡:渦潮のできる海峡

 鳴門海峡の渦潮は、世界でも有数で、有名な観光地ともなっています。見る手段も、陸地、橋、船からなど、いろいろとあります。渦潮は、海水の運動によるものです。しかしその背景には、地形や地質の条件が関与しています。


 サバティカルの中の昨年の9月に、淡路島と鳴門海峡にでかけました。四国と近畿の間に淡路島があり、淡路島と四国の間に鳴門海峡があります。鳴門海峡は狭く、瀬戸内海への潮が出入りするとき渦潮ができます。狭い海峡は多くあるのですが、ここでは大きな渦潮ができます。その条件を考えていきましょう。
 渦潮の様子は、徳島の鳴門側からも、淡路島側からの陸地かも見ることができます。淡路島の鳴門岬へは、工事中で入ることができませんでしたが、「道の駅うずしお」から眺めることができます。壮大の規模の大鳴門橋の下に見えるのですが、どしても遠目に見ることになります。
 渦潮だけを見たい時は、遠すぎます。大鳴門橋(全長1629m)から見るのが、上から見下ろすことになり、一番よく見えます。しかし、自動車道なので、止まることはできないので、車から横目で見るだけです。
 渦潮は、船から見るのが、なかなか迫力があります。大潮の日からは、少し遅れたのですが、渦がよく見える時間帯を選んで遊覧船に乗りました。残念がら当日は激しい雨でした。遊覧船には室内の窓からだけでなく、外で屋根がついたのデッキがあったので、そこから見ることができ、写真も撮影することもできました。近くでみるのは迫力満点です。しかし、近すぎて全貌がみれないという難点もあります。
 徳島側からは、鳴門大橋の内部に「渦の道」があります。そこでは、歩いて橋の下の渦潮を見学することができます。以前にも来たことがあったのですが、再度、訪れました。真上から渦潮を見ることができました。
 今回は、渦潮を、各所で別角度から、何度もみることができました。
 そもそも渦潮とは、潮の満ち引きが原因です。そのため、一日に二回、干潮と満潮があります。つまり、6時間ごとに干満が繰り返されます。
 大きな渦潮ができる理由は、地形にあります。鳴門海峡は、1.3kmほどしかなく、狭くなっています。北側の播磨灘では深度200m、南側では140mで、海峡の深度は90mです。広いところから、狭いところへ、海水が一気に流れ込むと、ベルヌーイの定理が働きます。ベルヌーイの定理とは、広いところから狭いところにいくと、流速が速くなるというものです。また、海峡でも中央部で流れが速くなり、周辺部で遅くなります。このような水の流れの速度差から、海峡の岸に近いところで渦潮ができます。渦は、鳴門側は右回転の渦ができ、淡路島側は左回転の渦となります。一方、満潮時の渦潮は、鳴門側に左回転の渦が。淡路島側は右回転の渦ができます。いずれの渦も、海峡の下流側にできます。
 渦潮の最大直径は20mにも達します。乗った遊覧船のサイズの同じ程の渦潮ができます。船から見ると、かなりの迫力になります。
 さらに、大きな海水の運動が起こっています。
 満潮の時、紀伊水道からの海水が、播磨灘へ入ろうとしますが、狭いためため、海水の流れが速くなります。このときにも渦潮ができます。ただし、広い海から狭いところに海水が入ろうとするのですが、入りきれず、淡路島の東へ回り込み、広い大阪湾から明石海峡へ回っていきます。海水が、淡路島の西の播磨灘へ到着するのに、5、6時間ほどかかります。その頃には、鳴門海峡は干潮になっています。紀伊水道側に海水が引き込まれる条件になっています。播磨灘の海水が、一気に鳴門海峡に流れ込むことになります。
 渦潮には、異なった運動周期も関係しています。干満のサイクルは、月の引力と地球の自転によって起こります。月に位置は、満月と新月の時期には、太陽と月、地球が一直線になるため、最も月の引力が強く働きます。その時、干満のもっとも大きな大潮になります。大潮は、一月に二度起こることになります。その時期には、より大きな渦潮ができます。渦潮には、一日のサイクルと、一月にサイクルもあることになります。
 次に、サイズと時間スケールをより大きくして、地質学的に見ていきましょう。
 中央構造線が淡路島の南側、紀伊水道側を通っています。中央構造線の南側に海があることから沈降していることになります。四国や南紀では、中央構造線の南側には、三波川変成岩があります。しかし、紀伊水道側は沈降していて、どのような石が分布しているかはわかりません。ただし、淡路島の南にある小さな沼島には、三波川変成岩が分布しています。ですから、紀伊水道になっているところも、沈降しているのですが、三波川変成岩があることがわかります。四国と紀伊半島の地質は、央構造線の南側でも連続していることがわかります。
 瀬戸内海には、四国や本州の出っ張りがあったり、島が多くあり、海が狭くなる「瀬戸」があります。また、海が広がる「灘」があります。それらが繰り返されていることを、以前のエッセイ「221 しまなみ海道:花崗岩の産状(2023.05.15)」で紹介しました。その原因は、花崗岩マグマが上昇しているところが瀬戸になっているといいました。花崗岩は、地殻の硬い岩石(基盤岩といいます)が、地上近くまで上がってきているところです。
 その原理が淡路島にも適用できます。淡路島にも花崗岩が分布しています。その両側が大阪湾と播磨灘になって沈降しています。大局的に見ると、中央構造線の北側は、隆起域と沈降域が繰り返されています。瀬戸内海の灘と瀬戸の繰り返しは、地下深部の花崗岩の上昇を生んだのは、中央構造線による沈降上昇運動が関係しているはずです。そこには、どのような仕組みがあるのでしょうか。
 海峡の周辺の鳴門や淡路島は、リアス式海岸の地形となっています。リアス式海岸は、この周辺が沈降していることを意味します。大きく見ると、東から播磨灘と大阪湾が沈降域、備讃瀬戸、淡路島、和泉山地が隆起域となっています。中央構造線の北側で、四国から近畿まで、そのような上下運動が起こっているようです。大きな斜め横ずれ断層があると、沈降域と隆起域が交互に繰り返されるという現象があります。そのような仕組みが、中央構造線の北側に働いのでしょう。花崗岩があるところが隆起域になり、花崗岩がないところが沈降域になっているようです。
 干満には一日と一月のサイクルがあります。瀬戸内には、隆起の沈降のサイクルが、長い地質学的時間と大きな規模で起こっています。鳴門海峡の渦潮には、両方の影響がみられ、いろいろなスケールの異なった原因で形成されているのです。

・大学共通テスト・
先週末に大学共通テストが実施されました。
我が大学も、試験会場になっていました。
2日間、かなりの雪が降ったのですが、
除雪がされていたので、
大きな支障もなく、無事試験は実施されました。
担当の試験室では、受験者の真剣な姿、集中している姿は、
監督者側にも緊張感がひしひしと感じます。
この時期は、大学では入試があるので、
そのような緊張感を何度も味わいます。

・論文ページ超過・
現在書いている論文の文章量が大幅に増えました。
投稿規程の制限の3倍の量となりました。
投稿規程を破ることになるので、
心苦しいのですが、
なんとか編集委員長と相談して、
載せてもらえないかと陳情しました。
検討するとのことでしたが、
3つに分けることにしました。
この雑誌に、1部掲載か2部掲載は
現在、相談中です。

2023年12月15日金曜日

228 屋島と五色台:カンカンと鳴る石

 讃岐はうどん県として有名ですが、庵治石やカンカン石でも有名です。讃岐はカンカン石の産地で、古くからその特徴を活かして利用してきました。カンカン石は、特別なでき方をした大地の証拠になります。


 香川は、かつては讃岐(さぬき)と呼ばれていました。瀬戸内海に面したとこに、高松がある讃岐平野があります。讃岐平野の後ろには讃岐山地、東に五剣山や屋島の山並みがあり、西には五色台があり、その間に位置しています。讃岐平野は、もともと瀬戸内には雨が少ない上に、三方が山に囲まれているので雨がさらに少なくなります。そのため、農作物を作るために、多数のため池がつくられています。
 讃岐山地の南には、中央構造線沿いに吉野川があり、さらに南には四国山地が東西に長く伸びています。中央構造線は香川の西側では瀬戸内海に近づくため、香川と愛媛の高縄半島の部分が、瀬戸内海に突き出ています。
 この突き出た地域は、花崗岩が分布している地域になっていることに関係しています。四国で花崗岩が瀬戸内側に広がっている地域の南方には、室戸岬と足摺岬として、太平洋側に出っ張っている地域と対応しています。以前のエッセイ(221しまなみ海道:花崗岩の産状2023.05.15)で説明したように、花崗岩マグマが地表付近まで上昇している影響ではないかと考えられます。
 そこに、後に中央構造線が活動して(約300万年前から現在まで)、盛り上がって讃岐山地ができました。中央構造線の北側にある讃岐山地は、白亜紀末の海底で堆積した和泉層群からできています。約200万年前ころから隆起したと考えられています。
 讃岐平野の東西にある山地は、花崗岩と火山岩からできています。花崗岩は、領家帯に属し、白亜紀に活動した深成岩です。讃岐平野の東の小剣山の周辺には、庵治(あじ)と呼ばれ、良質の花崗岩がとれることから、現在でも石工が盛んです。
 火山岩は中新世に活動したもので、花崗岩に上に噴出しました。1300万年前に活動した火山岩は、屋島と五色台にあり、両者とも山の上部が平坦になっていて、周りは急な崖になっています。このような地形は、上にある水平な固い溶岩の部分は侵食には強く残っていき、周囲の柔らかい花崗岩の部分は激しく侵食されて急崖になっています。このように侵食差がある「差別侵食」によってテーブル状の地形をメサ(mesa、スペイン語でテーブルの意味)と呼びます。
 屋島では、花崗岩の上に一部は凝灰岩が挟んでいますが、安山岩質溶岩があります。五色台では花崗岩の上に安山岩質溶岩がありますが、間に凝灰角礫岩、凝灰角礫岩などを間に挟んでいます。
 これらの安山岩質マグマには特徴があり、サヌカイト(あるいは讃岐岩)や類似したものはサヌキトイドと呼ばれるもので、讃岐に特徴的に見つかったことから、明治時代のナウマンが命名したものです。地元では、サヌカイトや讃岐石と呼ばれ、各地で目にします。
 サヌカイトは、マグネシウム(Mg)が多い安山岩(高マグネシウム安山岩)と呼ばれます)で、古銅輝石(ブロンザイト bronzite)という鉱物を含んでいることも特徴です。一般に、マグネシウムが多いマグマは、珪酸(SiO2)が少ない玄武岩マグマなります。ところが、サヌカイトは、珪酸が多い安山岩の範囲(53から63%)にあるのに、マグネシウムが多いという特徴があります。このようなマグマは、マグネシウムの多い岩石(マントルのカンラン岩)が溶けてできたと考えられます。しかし、通常、マントルが溶けてできるのは玄武岩質マグマなので、安山岩質マグマができるためには、特別な条件が必要になりそうです。
 岩石を高温高圧にして溶かして結晶化させることで、どのような鉱物類(岩石)と一緒にあったかを調べることが実験(高温高圧実験)があります。その結果、高マグネシウム安山岩のマグマはカンラン岩と一緒にいること(共存といいます)できることがわかりました。さらに、カンラン岩に多くの水分が加わると、直接高マグネシウム安山岩のマグマができることも実験でわかってきました。
 高マグネシウム安山岩は、瀬戸内海に点々と見つかっていて、瀬戸内火山帯とも呼ばれています。他にも奈良の二上山も有名で、瀬戸内海沿いだけでなく、愛知県から四国、そして九州まで、中央構造線の北側に点々と活動しています。
 1700万年前ころ、日本海拡大が拡大して、大陸から日本列島が切り離され、フィリピン海プレートの海嶺(南北に伸びていた)の上にのし上がってきました。できてすぐの温かい海洋プレートに乗り上がりました。高マグネシウム安山岩のマグマは、水分を含んだ温かい海洋プレートが溶けてできたのではないかと考えられます。高マグネシウム安山岩は、非常に特異な地質条件が生まれた時にマントルでできました。
 サヌカイトは、結晶化をあまりせず、ガラス質の基質になっています。割れ口が鋭くなることから、縄文時代から弥生時代には石器として用いられてきました。非常に緻密で、叩くの金属質のカンカンといういい音がすることから「カンカン石」と呼ばれ、土産物にもなっています。
 サヌカイトは、もともと限られた地域に分布する火山岩です。さらに、いい音のするカンカン石の産地は限られています。カンカン石は特別な石です。カンカンという音には、古い時代の特別なマントルからの響きがあるのかもしれませんね。

・正式名称・
IUGA(が国際地質科学連合)では
化学組成にしたがって、
火成岩の分類はおこなうことにしました。
サヌカイトは、正式には、
単に安山岩か、高マグネシウム安山岩
という分類名になります。
また古銅輝石という鉱物名も
正式には使われなくなりました。
頑火輝石(エンタタイト)から
鉄珪輝石(フェロシライト)を
両端の成分として混じったもの(固溶体)として
表現されるようになりました。
科学において一般化や普遍化は、
重要になりますが、
過去の文化や歴史も消えるようで
少々寂しく感じます。

・石の民俗資料館・
庵治の近くに
石の民俗資料館もありましたので、
見学にいきました。
9月上旬の暑い時期の平日だったためか
見学する人も少なく、
落ち着いてみることができました。
昔の石工たちの技術の凄さを
感じることができました。

2023年11月15日水曜日

227 野島断層:地層の分裂と連続

 兵庫県南部地震で大地が動き、各地で地層が壊されきました。大地の動きは地表に現れ、断層として記録されました。淡路島は、かつては周辺地域と連続してたのですが、大きな断層で分断されてきました。


 夏の終わりに、兵庫県の淡路島にいきました。淡路島を訪れるのは、初めてのことでした。神戸淡路鳴門自動車道で徳島から、大鳴門橋を通り、淡路島の北方で降りました。明石海峡をみながら、淡路島を2日間かけて一周しました。
 淡路島は、明石海峡大橋で神戸と繋がっているので、京阪神からのドライブで多くの人がきているようです。若者が好むところも多数あるようで、行列ができている店が、東側の道路沿いにいくつもありました。
 淡路島の東側を回ったのは、北西にある淡路市にある野島断層を見学することが目的でもありました。野島断層を見る施設は、正式には「北淡震災記念公園 野島断層保存館」といいます。
 この断層は、1995年1月17日午前5時46分、日の出前に発生した兵庫県南部地震のときにできたものです。神戸の被害や火災、横倒しになった高速道路などニュース映像として、何度繰り返されています。神戸の被害が中心に流れることが多く、それ以外の地域は、あまり話題になることはありませんでした。しかし、「阪神・淡路大震災」の名称のとおり、淡路島の被害も、大きいものでした。
 震度7をはじめて適用された地震となりました。震度7も広域で記録されるような大きな地震でした。戦後から兵庫県南部地震までは、大きな被害をもたらす地震は少なかったでのすが、その後、2004年の新潟県中越地震、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2016年の熊本地震、2018年の北海道胆振東部地震で、次々と、震度7が観測されてきました。そのような傾向から、地震の活動期が入っているともいわれています。
 兵庫県南部地震のエネルギーは、マグニチュード7.3という大きなものでした。震源は、淡路島北部の明石海峡で、深さ16kmで起こったものでした。震源が神戸や淡路島に近いところで、活断層による直下型地震となりまします。新潟県中越地震、熊本地震、北海道胆振東部地震も直下型地震でした。このような活断層による直下型地震は、津波などの災害はあまりないのですが、激しい揺れによる被害が大きくなります。
 さて、野島断層保存館は、実際の断層をそのまま保存しています。横ずれと上下のズレによってできた地形ができ、保存館には、その断層が残され、保存されています。断層を掘ってあるトレンチも展示され、断層による地下までのずれが観察できました。
 野島断層の施設内には、断層でずれた花壇のレンガや塀、また家屋の中で起こったズレもそのまま保存されています。「神戸の壁」と呼ばれるものがありました。昭和2年頃に、神戸の公設市場で延焼防火壁として建てられた壁で、大震災でも倒れず、焼けずに残っていました。それが、ここに移設されています。
 淡路島は、ご存知のように、四国、中国、近畿の間、瀬戸内海と太平洋の間にあります。なぜここに島があるのでしょうか。淡路島の南北の長さが50kmほどですが、北部で幅が狭く5kmほどですが、南は広がっており20kmになります。北部には山地があり、南部にも山地が東西に広がっています。
 地形は地質を反映しています。淡路島の北の山地は、神戸の六甲山地を構成している後期白亜紀の花崗岩(新期領家帯)に連続しています。ただし、明石海峡の陥没したため分断されています。花崗岩は、淡路島の北部の基盤の岩石となっており、周辺には中新世の堆積岩(神戸層群)があります。
 淡路島の南側には、諭鶴羽(ゆづるは)山地があり、紀伊半島の和泉山地から四国の讃岐山地まで続く山並みがあります。この山地は白亜紀後期の堆積岩(和泉層群)が分布しています。そして、淡路島全域のすべてを不整合で覆っているより新しい地層(大阪層群)が広く分布しています。淡路島の和泉層群の南側の海の中には、中央構造線が通っています。
 淡路島は、今では橋によって神戸と四国に繋がっているのですが、地層では昔から神戸と四国、紀伊半島も連続していました。ただし、断層によって四国や本州と切り離されて島となりました。淡路島周辺には、昔から断層が形成され、現在も活動して地震を発生しています。
 兵庫県南部地震のとき、神奈川県の博物館準備室にいました。直接の被害はなかったのですが、朝のニュースで、大きな地震が神戸であったことはわかったのですが、実態がまだ不明でした。親族が京都にいたので、すぐに電話をしました。大きな揺れで驚いたが、家族も家も大丈夫であると聞いて一安心しました。しかし、その後で電話しようとすると、繋がらなくなりました。
 間接的な影響もありました。博物館で用いる特別な装置の部品の一部は、当時の大阪周辺の下請け工場で作られていたそうです。特別な技術を持った工場も多く、被害を受けていたら、製品の完成が遅れかもしれないといわれていました。しかし、幸い大きな被害がなく、予定通りに開館にこぎつけられました。
 その後も、震災は繰り返されています。その度に、人はこれまでの教訓を活かし、少しでも早い復興を目指してきました。自然災害による物質的な復興は費用と手間をかければできますが、人の心や傷ついた記憶の回復は難しいものです。人の心を癒やし、傷ついた記憶を治めるのには、人の心からの手当が必要なのでしょうね。

・今シーズン最後の調査・
先週末に調査にでかけたので、
予約配信としています。
今シーズンの調査は、これが最後になります。
晴れの日には大量の雪虫の発生、
曇の日には氷雨になり雪が降りそうな気配があります。
予約配信なので先週末の天気は不明ですが、
週末に寒波がきそうなので少々心配です。
事前に日程を組んでいるので、
出かけるしかありません。
心配しても仕方がありません。
せいぜい楽しんでいければ思っています。

・4年制大学・
11月は大学の後期の折返しとなります。
学生たちも、落ち着いて授業が受けられる時期でもあります。
3年生は就活が前倒しになってきています。
3年生には落ち着かない学生もいるかもしれません。
教職につく学生も、3年生のうちから
筆記試験が受けられる制度が
導入されるようになりました。
はじまったばかりなので、
どの程度の人数が受験をするか不明ですが、
落ち着かなくなってきています。
もう少しじっくりと大学での学びを続ける方が
4年制大学にいる意味がありそうなのですが。

2023年10月15日日曜日

226 別子:海嶺からのキースラガー

 別子鉱山は、江戸時代から昭和まで、長期間、採掘され続けました。現在は稼働しておらず、鉱山は廃墟となっています。鉱山跡の巨大さ、壮大さから、かつての繁栄ぶりがうかがえます。


 夏は、暑さを避けて調査を中断していたのですが、8月下旬から再開しました。城川から近い、愛媛県内の石鎚山周辺を巡ってから、別子へと向かいました。別子へは何度か訪れていますが、再訪です。台風の影響で、時々激しい雨が降り、蒸し暑い日も続いていました。
 四国山地から流れてきている国領(こくりょう)川が、新居浜へ流れ込みます。国領川が、別子鉱山の精錬された粗鉱を送り出す経路になりました。今回は東平(とうなる)を訪れました。東平は、かつては鉱山町として栄えていたのですが、現在は観光施設として残されていますが、居住者はいません。
 県道44号から、脇道に入って東平へ向かう道は、狭いところばかりで、車がすれ違えるところが限られています。自家用車で向かうのは、注意するように書かれていました。その代わり、別子マイントピアから、ツアーバスが出ているので、それを使うことを推奨しています。
 東平ははじめてなので、ツアーに申し込んでいくことにしました。ツアーバスでは、対向車を待機させるために先導車が走ってくれます。当日は、台風の影響で時々激しい雨となりました。そのおかげで気温も低目で助かりました。ガイド付きのツアーだったので、東平の歴史や施設など、よくわかりました。
 別子鉱山は、長い歴史を持っています。岡山で鉱山を営んでいた住友が、1690(元禄3)年、四国山地に有望な鉱脈があることを聞きつけました。手代一行を派遣して探索したところ、銅山川の源流に、鉱脈を発見しました。銅山川は吉野川の大きな支流となっています。
 鉱脈は、あまりに有望なので、発見に歓喜したことから、「歓喜間歩(まぶ)」と呼ばれています。「間歩」とは坑道のことです。鉱山は、標高1200mの山奥でしたが、一気に体制を整えて、翌年から採掘が開始されました。発見から5年後の1695年には、2700人が暮らす町になっていきました。歓喜坑のすぐ脇に歓東坑もつくられ、鉱石は谷の下流で精錬されていました。
 別子鉱山は、中央構造線のすぐ北側の低温高圧条件の変成作用を受けた三波川変成帯の中にできています。別子の鉱床は、薄い層として銅を含んだ硫化鉱床(層状含銅硫化鉄鉱床、キースラーガーと呼ばれています)になっています。
 鉱床は、緑色片岩の片理面に平行にできています。地質構造(向斜と呼ばれるもの)の影響も受けています。鉱床も、同じ変成作用や変形作用を受けていることから、三波川変成岩ができる前にはすでに鉱床が形成されていたことになります。かなり初期からできていた鉱床となります。
 三波川変成岩のもと(原岩)は、海洋地殻とその上にたまった堆積岩です。オフィオライトと呼ばれているものです。玄武岩の海底火山活動に関連されたものではないかと推定できます。
 現在の海嶺では、活発に火山噴出が起こっています。それに伴って熱水噴出孔が多数できているのが、潜水艇で観測されています。熱水噴出によって硫化物の沈殿物が形成されていることから、これがキースラガーの起源だと考えられています。
 似たタイプの鉱床が、三波川変成帯の中だけでなく、秩父帯や四万十帯、他の地域の舞鶴帯、阿武隈帯など各地でも見つかっています。いずれも海洋地殻やオフィオライトが原岩となっている地域です。ただし、多くの鉱床は、銅の含有量が少ない(低品位と呼びます)ものがほとんどです。
 別子の鉱床は、銅や金属の含有量が多くなっていること(高品位と呼ばれる。数%程度、多いものだと20%)が大きな特徴となります。住友の鉱山として、1691年の開坑から1973(昭和48)年の閉山まで、283年間、掘り続けられました。非常に埋蔵量の豊富な鉱山だったことになります。世界的にも有名で、典型的な特徴をこっていることから「別子型鉱床」とも呼ばれています。
 東平は、別子鉱山のかつての中心地だったところで、1916(大正5)年から1930(昭和5)年まで採鉱本部がありました。東平でもっとも人口が多った時期は1926(昭和元年)で、930戸4180人が住んでいたそうです。鉱山関係者の住宅だけでなく、小・中学校や商店、神社、映画館もあったようです。現在では廃村となっていますが、繁栄の名残が各所に残されています。東平から見ると、遠くの山腹に、鉄道のためたに切り開かれた跡も残っています。
 残された鉱山跡や住居跡から、東平は「東洋のマチュピチュ」と呼ばれています。それが観光資源となっています。大規模に活動していた産業遺産は、その遺構の大きさが、かえって栄光盛衰の侘しさを増していくようです。兵(つわもの)どもが夢の跡、でしょうか。

・三大銅山・
日本では、足尾(栃木)、日立(茨城)、
そして別子が、三大銅山と呼ばれています。
大規模な鉱山があると、
周辺では環境問題が起こりがちです。
燃料として森林の伐採が進むと、
周りははげ山になります。
激しい雨や台風があると、
地すべり、土石流などの災害が起こります。
煙害や亜硫酸ガスによる大気汚染、酸性雨も起こります。
明治27年には、銅山支配人の伊庭貞剛は、
公害へ対処として、
大規模な造林を計画して植林しました。
で今では、はげ山の面影はありません。
別子は、早くから環境問題に取り組まれてきたところでした。

・別子銅山記念館・
当日は、台風による雨だったので、山間部の調査は諦め、
別子鉱山関係の観光施設を見て回りました。
マイントピア周辺にも施設が残されていて
観光できるようになっていました。
新居浜の近くには、大山積神社があり、
そのすぐ横には別子銅山記念館があります。
記念館の屋根は全面がサツキが、植栽されています。
別子鉱山の繁栄を象徴しながら
環境への歴史も反映しているようです。

2023年9月15日金曜日

225 石鎚コールドロン:多様な地質

 面河渓から石鎚へスカイラインと進み、瓶ヶ森へはUFOラインを通りました。車でいけるコースですが、中央構造線、石鎚コールドロン、火砕岩、花崗岩、礫岩、三波川変成岩など、多彩な地質を見ることができます。


 8月の下旬から後半の野外調査を再開しました。まずは、久万高原を通り県道12号西条久万線で面河渓に向かいました。山岳博物館は休館日だったので、さらに奥に向かい、一台しか通行できない狭い道を抜けて、行き止まりにある面河渓に到着しました。この日は、雲が流れていましたが、晴れ間が見える天気でしたが、観光客も少なく、落ち着いて散策できました。暑かったのですが、渓流沿いの涼やかな風が心地よかったです。
 石鎚のある地域は、大きな地質区分では、三波川変成帯になっているのですが、石鎚周辺は「石鎚コールドロン」と呼ばれる、新生代の約1500万~1400万年前(新第三紀中新世)の火成岩類と堆積岩が分布しています。
 コールドロンとは、地下深部にあったマグマだまりが陥没してできたもとと考えられるものをいいます。激しい火山活動でマグマだまりが空になってくると、地下に空洞ができ、そこが陥没していきます。それがカルデラとなります。新しい火山活動では、陥没地形が残されていて、カルデラと判別できます。ところが、時間が経過して、カルデラの地形が侵食されて明瞭でなくなり、陥没部の埋められていた部分が侵食されたり、深部のマグマだまりまで露出してくることがあります。そのように侵食されて地表にでてきたマグマだまりのうち、火山性の陥没構造をもったものをコールドロン(cauldron、大釜という意味)と呼びます。カルデラとは認めにくいものをコールドロンと呼んでいます。
 コールドロンには火山岩だけでなく、深成岩や火山噴出物も含まれているため、(火山‐深成)複合岩体となっていることもあります。火山岩と深成岩の関係やマグマだまりの形成過程の探求に重要な地質となります。カルデラの形成過程も、コールドロンから推定されてきたものです。
 石鎚コールドロンは有名で、その一部に四国最高峰の石鎚山(標高1982m)があります。形成過程は、1500万前ころから石鎚山周辺で火山活動からはじまります。環状に貫入したデイサイト質のマグマの岩脈を形成しながら、地表に噴出します。激しい火砕流を伴う大噴火がおこり、環状岩脈に沿って陥没が形成されます。それでカルデラが形成されたと考えられます。
 火山活動は継続して、カルデラは安山岩質マグマの火砕流堆積物(天狗岳火砕流堆積物)が埋めていました。この火砕流は分厚くたまり溶結凝灰岩となりました。石鎚山の西側に火砕流堆積岩が広域に分布しています。東側にはあまりありません。深部からまだマグマが上昇してきており、火砕流へと貫入していきます。それが花崗岩となりました。
 石鎚コールドロンは、きれいな丸い形状に分布しています。その中に、安山岩質の溶結火砕岩類と面河渓谷の花崗岩類があります。面河渓谷の河床をつくっている白っぽい岩石は、この花崗岩類です。この石鎚コールドロンから東の火砕堆積岩が広がっているのですが、その周辺には礫岩(久万層群)があちこちに分布しています。
 瓶ヶ森へ続く稜線は険しくなっていますが、瓶ヶ森山頂付近にはスプーンで削られたような、広く平らになってところがあります。礫岩の山なので、侵食には弱ためだと考えられます。それ以外の東側では、唐突に三波川変成岩に代わります。
 さて、瀬戸内海の面した西条から南側を眺めると、急傾斜の山並みが見えます。標高で1000mから2000m近くの山並みとなっています。そのような険しい地形は、中央構造線がつくった断層地形です。
 中央構造線は、1億年以上にわたって活動を断続的に続けている活断層です。ここ100万~200万年ほどは、右横ずれの運動をしていますが、垂直方向にも動いています。西条側から見ると石鎚は東に移動し、なおかつ隆起もしていることになります。石鎚周辺では、隆起速度は年間約2mmほどだと考えられています。
 面河渓からは、石鎚スカイラインを使って石鎚神社に向かいしました。早朝に出発したので、ここでやっと昼食となりました。その後、UFOラインと呼ばれる「いの町道瓶ケ森線」を通りました。UFOラインは、眺めがいいことで有名で、狭いところもあるのですが、多くの車、二輪車が通っています。しかし、土砂崩れの補修のため、通行できる時間が決まっており、タイミングが悪いと1時間近く待つことになります。店の人に、通行できる時間と確かめ、ちょうど昼休みで作業が中止され通行可能な時間のうちに、通るとにして進みました。噂通りの眺めのいい道でした。景色を楽しみにながら、ゆっくりといきたかったのですが、撮影だけを急いでして、通り抜けました。
 面河渓のルートから石鎚スカイライ、UFOラインは、石鎚コールドロンに関連した火成岩類と堆積岩、そして三波川変成岩、それらが中央構造線によって、落ち上げられている様子が見ていくことができます。

・調査再開・
8月は残暑が厳しく、天候も不順でしたが、
後半の野外調査を再開しました。
初日は、山の中なので天気を心配したのですが、
雲は時々かかっていたのですが、
山並みを眺めることができました。
山から降りたら、即座に
蒸し暑い空気が襲ってきました。
今年の夏は長く厳しいです。

・子持ち権現山・
子持ち権現山は、標高約1700mで、
険しい崖がUFO道路から見ることができます。
UFO道路は、瓶ヶ森へと続く
久万層群の分布域に沿って走っていきます。
約100mの崖は、久万層群に属する
礫岩からできているのが、遠目でもわかります。
そして途中からは三波川変成帯になります。
そこは土砂崩れ地帯になっていきます。

2023年8月15日火曜日

224 佐田岬:真夏の太陽と片岩

 佐田岬の先端にいく道には、海岸に出れるところや露頭が見られるところがあります。国道から県道になるとなかなか大変道でした。夏の真っ盛りに、佐田岬には、三波川変成岩を見るためにいきました。


 現在滞在している城川町の中心部には、国道197号線が通っています。この国道は、少々変わった道になっています。高知県高知市から大分県大分市までになっています。高知市、土佐市、須崎市、津野町、檮原町、鬼北町、そして西予市城川を通り、大洲市、八幡浜市から伊方町の佐田岬半島を通っています。ところが、伊方町三崎からは、海の道(海上区間)になっていきます。海の道は、民間の国道九四フェリーが運行していますが、夜間も動いています。海の道で九州の大分県佐賀関にいき、その先、大分市まで続きます。国道197号線は、海を通る道です。
 さて、国道197号を使って、7月の末、佐田岬にいきました。一番暑い時期ですが、晴れていたので、家内と一緒にでかけました。
 佐田岬半島の三崎までは、国道197号が使えます。三崎から先は、県道256号を進むことになります。佐田岬までは、県道256号の狭い道を進みます。そして行き止まりには、駐車場があり、そこからは1.8kmの山道を歩いて岬の先端までいくことになります。岬は観光地となっています。ところが、この山道も県道になっており、佐田岬のキャンプ場まで続いています。もちろん、歩道は車が通れる幅がない狭い山道です。
 この山道は、上り下りがあり、行きは下りが多いのですが、それでも暑い日なので、岬に着く頃には、汗だくになりました。帰りは、暑さでヘトヘトで駐車場に戻ってくることになります。サバティカルの最中に、佐田岬にはぜひ行きたかったのですが、再訪することはないはずです。暑かったのですが、先端までいってきました。
 以前来たときより、案内看板も充実しており、道もよくなっているように思えました。モニュメントや展望台などの施設も整備されていました。軍の施設の保存や維持もされています。道は整備されていましたが、春や秋の涼しい時なら良かったのですが、猛暑の時期の往復は厳しかったです。家内はヘトヘトになり、途中の道の駅で冷たいものを補給しました。
 佐田岬の先端は、御籠島(みかごじま)になっているのですが、島と半島の間を堤防でつなぎ、陸続きにされています。堤防の中には、「畜養池」という大きな生け簀のような施設になっています。ただし、この池は、2010年以降使われていないようです。現在もきれいな海水が溜まっており、いい施設なので、もったいないような気がしましたが。
 佐田岬半島の海岸は、切り立った崖になっていることが多いのですが、入江になっているところが、いくつもあります。そこには小さな港がつくられています。入江のあるところは、特徴的な地形になっています。
 佐田岬半島は、大まかに見ると、直線的な地形で東西に細長く伸びています。全長は40kmほどになっていますが、広いところで幅が約6kmで、狭いところで1kmほどしかなく、細い半島です。西側半分は細く伸びた地形になっており、東側の半島は入り組んで、特に北側の海岸は入り組んでいます。そこに港がいくつもあります。この地形は、リアス海岸の特徴となっています。リアス式海岸は沈降地形なので、地質変動を受けているはずです。
 大きな地質変動は、北の瀬戸内海側の8km沖に中央構造線が走っているために起こっているようです。中央構造線は、西南日本を代表する大きな構造線で、全長400kmを超える右横ずれ断層です。
 半島の北側の海底に、中央構造線があります。その周囲には、沈降域や隆起域を伴った凹凸がいくつもあります。リアス式海岸の先に、東西に伸びる海底谷があり、その先に中央構造線があります。
 中央構造線の北と南では、全く異なった地質となっているので、その変位は非常に大きなものだと考えられます。北側は和泉層群と領家帯に、南側には三波川変成帯になっています。
 半島は、三波川変成帯になっており、主に緑色片岩からできており、一部に石灰質や泥質、砂質の片岩ところもあります。いずれも片岩で、ペラペラした岩石なので、地すべりを起こしやすくなっています。
 佐田岬の先端の御籠島で、観光施設があり、そこは今でも手がいれられていました。行った日に作業されている方がおられました。聞いたら、先端に開けられた洞窟に、日本軍の砲台のレプリカがあり、それを補修しているそうです。海に面しているので、定期的に手入れが必要だそうです。この暑い中歩いてくるのが大変だと思ったのですが、許可をもらって原付きバイクで、近くまで来ているとのことです。
 瀬戸内海の伊予灘は、おだやかにみえる海ですが、その底には巨大な構造線があります。その構造線が、半島の地形、特徴をつくっています。三波川変成岩からできた半島。岬の海岸で三波川変成岩をみました。三波川変成岩は夏の太陽に輝いていました。触ることもできないほど、熱くなっていました。この時期ですから仕方がないのでしょう。あまり長居すると、熱中症になってしまうかもしれません。無理せずに戻ることにしました。伊方には、四国電力の原子力発電所が、北の海に面してあります。戻りは、暑さでもうろうとしながら、そんなことを考えながら帰路につきました。

・軍の施設の記憶・
佐田岬の先端や御籠島には
第二次大戦時代の遺構が残されていました。
それらが観光用に整備されていました。
前回来たときは、三波川変成岩の記憶、
きれいな景観の記憶しかありません。
それは初春のせいだったのでしょうか。
今回は、暑い夏の日差しの中で見たためでしょうか。
昔の色褪せた映画のいち場面のように
記憶されていました。
すべて季節のせいなのでしょうか。

・お盆ですが・
お盆です。
今年は城川の自宅でじっとしています。
毎年、お盆だからといっても
なにもしないことが多いのですが、
コロナ禍もおさまり、
今年は人出が多くなっているようです。
あちこち、混んでいるので、
地元でのんびりとすることにしています。

2023年6月15日木曜日

222 土佐清水:足摺と唐人駄場

 土佐清水はジオパークに2021年に認定されました。新しいジオパークを見ることができました。土佐清水に分布するの花崗岩が、いくつかの名所をつくっています。その花崗岩には特別な特徴があります。


 ゴールデンウィーク明けの5月上旬に、高知の足摺岬を訪れました。この地は、何度も来ているのですが、久しぶりの気がします。この地は土佐清水がジオパークになりました。2015年から推進協議会が発足して活動をはじめて、2度の申請をしたのですが、認定が見送られて、2021年に3度目に日本ジオパークに認定されました。四国で3つ目、日本で44箇所目の認定地域となしました。
 ジオパークでは、いろいろな活動方法がありますが、地域の人たちが、身近な大地(地質)を理解して、行動や考え方を新たにして(教育)活動しきます。その魅力を訪れた人にも伝えていく観光活動にもつながっていくことになります。このような地質を中心に地域が活性化していくことが重要な目的となっています。
 土佐清水ジオパークは、「黒潮と共に生きる 漁師が生まれる大地の物語」をテーマとしています。中心となる施設が、足摺宇和海国立公園竜串ビジターセンター「うみのわ」が竜串にあり、その隣には足摺海洋館「SATOUMI(さとうみ)」も新しく開館しました。うみのわは、2020年5月に開館しています。しかし訪れたときに休館日だったので、見ることができず、残念な思いをしました。次の機会に訪れたいと考えています。
 パネルやパンフレットでは、市民にもわかりやすく土佐清水の全体的な歴史が示されています。大地の歴史には、大きく3つの段階があり、「深い海の記憶(3800万年前から)」、「浅い海の記憶(1700万年前から)」、「マグマの記憶(1300万年前から)」、そして現在へとつながると説明しています。
 「深い海の記憶」は、四万十層群の堆積の時代で、四国の南部に広く分布するフィリピン海プレートの沈み込みに伴う、付加作用でできた地層です。「浅い海の記憶」は、竜串の海岸に広がる三崎層群の堆積の時代で、浅海でできた地層です。そして「マグマの記憶」が、今回のテーマの花崗岩のことです。
 土佐清水の足摺岬周辺には、中新世の花崗岩が分布しています。この地は以前にも「21 足摺岬:岬の先端に不思議な石がある(2006年9月15日)」というエッセイを書いています。その中で、ラパキビ(rapakivi)花崗岩を紹介しています。
 ラパキビ花崗岩とは、アルカリ長石(割れ目の目立つ鉱物)の大きな結晶(斑晶といいます)の周りに斜長石(色や形状が異なった鉱物)が取り囲んでいる状態になっていることが特徴です。
 フィンランドで最初に記載され研究された岩石です。そのため、北欧の古い安定大陸に分布する岩石で、原生代中期(17億年前ころ)古いものが典型とされています。また、アルカリ長石が大きな斑晶(巨晶といいます)となっていて卵型になっています。他の地域でも同じ特徴をもった岩石が見つかっていますが、いずれの古い時代のものです。
 しかし、土佐清水では、新しい時代(新生代中新世)の岩石となります。また、アルカリ長石は、大きいのですが卵型ではなく、結晶本来の形(自形といいます)をしているようです。ただし、アルカリ長石が斜長石に囲まれているという特徴をもっているため、ラパキビ花崗岩と似ていると考えられます。
 このようなアルカリ長石の結晶の特徴は、結晶化した条件が変化し、ある時から結晶化できなくなり、マグマと反応して周りに斜長石が結晶化したことになります。
 そのようなできた方の説明として、2種類の組成の異なったマグマが混じった(マグマ・ミキシングと呼ばれます)というモデル、花崗岩マグマが圧力低下(温度は少し変化)によって結晶化の条件が変化したというモデル、マグマの流れでアルカリ長石の結晶が沈んで斜長石が付着したというモデルなどがあります。しかし、ラパキビ花崗岩の成因は、まだよくわかっていません。
 足摺岬周辺の火成岩は、全体としてみると、円形の分布をもった深成岩体(累帯状複合岩体)となっています。ただし、太平洋岸で南半分が切れています。火成岩ですが、何種類かのマグマが貫入していて、それが同心円状の構造をもっています。
 まず、中心部に花崗岩があります。そこでは種類や特徴の異なった花崗岩の仲間のマグマがいくつも貫入しています。ここでは、火山岩のアルカリ流紋岩や深成岩の閃長岩などがあり、マグマの活動の時期が何度かあったことがわります。しかし、いずれもアルカリ元素(KやNaのこと)が多いマグマからできた岩石になります。
 その外側に、鉄やマグネシウムの多いマグマからできた斑レイ岩やドレライトなどが、花崗岩に貫入している部分になります。白山洞門の付近ではドレライトが花崗岩に取り込まれているような産状が見られます。ここでは、内部にになかった玄武岩質のマグマが加わり、花崗岩質のマグマと一緒に活動しています。
 もっとも外側に、結晶の大きな(粗粒といいます)花崗岩があります。比較的均質な典型的な花崗岩からできています。このように足摺岬では、内側から外側へ3つの性質の異なった火成岩が分布しています。
 唐人駄場と呼ばれるところは、外側の花崗岩の分布地帯にあります。この地は、奥まって不便なところですが、風化して丸くなった花崗岩が、ゴツゴツと重なりたり割れていたりして、不思議な景観の地となっています。
 説明看板によりますと、海から見たとき、花崗岩が目印となっていたといわれています。千畳敷と呼ばれる平らに岩、鬼の包丁石と呼ばれる鋭角に切れた辺をもった岩、神の居場所など、奇岩があります。また縄文前期の遺跡があったそうです。昔の人もこの地を利用していたようです。このような丸い大きな石からできた地形は、花崗岩地帯にはよく見られます。花崗岩特有の風化によるものです。
 足摺岬は、土佐清水ジオパークの一部に過ぎません。四万十層群や三崎層群も、ジオパークでは重要なサイトになります。これらの地層のでき方はわかっていますが、足摺岬の複雑な花崗岩のでき方は、有名で多くの地質学者が見学に来ています。しかし、まだまだ謎が残されています。今後ジオパークが中心になって解明が進めばいいと思います。

・今後に期待・
土佐清水は、もともと足摺岬や竜串など
名所があるため、観光には有利な地でした。
加えて、地質に興味をもった人も訪れていました。
ジオパークに認定されると、露頭を見にいくとき、
駐車場や案内板、ビジターセンターなどの施設、
また、関連資料などが整っていきます。
地質を見て回るときに非常に便利になっていきます。
まだ、認定されて間もないので、
今後整備されていくことを期待してます。

・唐人・
唐人駄場の説明によると、
唐人とは光り輝く紙の居場所
という意味があると書かれていました。
沖からみると光り輝くことがあり
目印になったということだそうです。
唐人という意味を調べたのですが
いずれも唐の人、転じて異国人
という意味だと書かれているものばかりでした。
光り輝くという意味は
見つけることができませんでした。
特別な由来があるのでしょうね。

2023年5月15日月曜日

221 しまなみ海道:花崗岩の産状

 しまなみ海道を利用して、主に芸予諸島に分布する領家帯の花崗岩類を見てきました。瀬戸の島々には、それぞれに特徴があります。しかし花崗岩の島という共通点もありました。



 4月下旬に、しまなみ海道を使って、愛媛から広島へ野外調査に出ました。しまなみ海道は、鉄道は走っていません。本州と四国を結ぶ列車は、香川県坂出と岡山県倉敷をむすぶ、瀬戸中央自動車道の下を通る瀬戸大橋線です。そこは何度か通ったことがあります。今回、しまなみ海道をはじめて通りました。
 しまなみ海道のある愛媛の高縄半島と、瀬戸大橋のある香川と児島半島は、海が狭くなっています。ここだけでなく、瀬戸内海の地形は不思議な特徴があります。島の多いところと少ないところが、はっきりと分かれています。海が狭くなっていて「瀬戸」と呼ばれ、島が少ないところは「灘」と呼ばれています。
 島の多いところは、西から、防予諸島、芸予諸島、塩泡諸島、備讃諸島となっています。島が少ないところは、西から伊予灘、斎灘(いつきなだ)、燧灘(ひうちなだ)、播磨灘となっています。しまなみ海道は、大小の島が多数あるため、至る所に瀬戸があります。この瀬戸は海流が激しく、航海の難所となっています。
 さて、今回の調査の目的は、花崗岩類を見るためです。瀬戸内海沿岸から中国地方にかけて花崗岩類が広く分布しています。瀬戸内海での花崗岩の分布は不思議です。瀬戸内海の島は大部分が花崗岩からできています。瀬と灘が繰り返していているということは。花崗岩が広く、たくさん分布しているところが瀬で、花崗岩がないところが灘になっています。
 花崗岩は、大陸や列島をつくる岩石ですが、マグマが地下深部でゆっくりと固まった深成岩です。もともとは地下深部にあった岩石が、地表に出ているということは、上にあった表層の地層や岩石が大量に侵食されたことになります。そのためには、長い時間での侵食が必要になります。中国から瀬戸内は、古い岩石からできていますでの、激しい侵食があったことになります。
 さらに不思議なことは、四国の形が、瀬戸内海に花崗岩が瀬戸として分布しているところに対応して、海側にでっぱった地形になっています。防予諸島と芸予諸島の南側には足摺岬が、塩泡諸島、備讃諸島の南には室戸岬があります。四国の西部と東部が海にでっぱり、四国中部はくぼんでいます。四国の東西側は、豊後水道と紀伊水道と切れ目があります。
 このような特徴的な地形は、地下深部の地質が反映していると考えられます。多分、地下深部に花崗岩が広がっているところが、でっぱりとなり、あまり広がっていないところがくぼみとなっていのではないでしょうか。花崗岩は他の岩石(海洋地殻やマントルの岩石)と比べると、密度が小さくなっています。そのため、地下に花崗岩があれば、上昇する条件ができます。
 ただし、四国の中央部と東西に走る大断層である。中央構造線や仏像構造線があり、地下まで伸びているはずなので、それらと花崗岩の関係がどうなっているかも重要でしょう。
 さて、ここまで大局的で推測の話でしたが、次は花崗岩の調査の中で、いくつか興味を惹いたことがありました。石と人、そして10mほどの小さい露頭です。
 人が石(花崗岩)と密接に重なり合って生きているということです。花崗岩は、古くから石材としても利用されています。それは運搬しやすい島や海沿いの露頭が有利で、昔から今でも、石材採掘場が島々にはあります。花崗岩で風化に弱いところは、真砂化して白砂になってなだらか地形になります。風化に強い部分は、急な傾斜の地形となります。例えば尾道では、花崗岩の山から露岩がでている急な斜面になっています。海岸沿いには、少しの平野に広がっています。平野には住居や海運、造船の施設が密集しています。それでも人が生活するには足りないので、急斜面にも住居やお寺があります。有名な千光寺も、大きな花崗岩の岩を取り込んで建てられています。
 もうひとつ興味を惹いたのは、大久野島でみた露頭です。大久野島は周囲4kmほどの小さい島ですが、かつては日本軍が要塞化していた島です。広島や呉などの施設を守るためにだそうです。毒ガス工場の後や施設もありました。そこに花崗岩の切り立った10mほどの平面の露頭がありました。人が切り開いとところでしょうか。
 露頭は、花崗岩からできていますが、貫入岩がいくつかあり、その関係が面白かったです。
 粗粒の花崗岩の中に、細粒のデーサイトの岩脈が何本も貫入していました。地下でゆっくりと固まり冷えた花崗岩に、水平方向に40から50cmほどの幅のデーサイトが貫入していました。その貫入岩が冷えたあと、ほぼ垂直に、10から20cmほどの幅で、途中で枝分かれしたデーサイトと、数cmほどの細いデーサイトが貫入していました。
 このような貫入の後先が、なぜわかるのでしょうか。まず、岩石の結晶の大きさは、ゆっくりと冷えたマグマは粗粒になります。冷たいところに貫入したマグマは細粒になります。冷えた岩石に接する部分は、急冷され、結晶もできないガラス状(急冷縁といいます)になります。岩石は比熱が大きいので、熱が伝わりにくく、内部になっていくと温度が保たれ、結晶が大きくなってきます。しかし、深成岩ほどには大きな結晶となりません。また、細い貫入岩同士では、後の岩石が、先の岩石を通り抜けます。その通り道は割れ目(断層)なので、前の貫入岩が割れたように見えます。そして割れ目には急冷縁ができます。このような岩石同士の産状から、前後関係を読み取ることできます。
 雨の降る中でしたが、露頭の産状を観察して、貫入関係を読み取っていました。この露頭は、貫入関係を考えるのに適したものになっていました。

・水軍と海賊・
戦国時代には村上水軍と呼ばれる
海の民が暮らしていました。
因島(いんのしま)、能島(のしま)、
そして来島(くるしま)に分かれていました。
水軍は、もともとは「海賊」といっていました。
略奪もやっていたようですが、
瀬戸を通るときに通行料を徴収し、
従ったものは、無事に通行させたり
案内についたりしていたようです。
しまなみ海道には、
村上海賊の城や博物館もあり、
当時の様子を知ることができました。

・村上海賊の娘・
大島で村上海賊のミュージアムがあり、見学しました。
入口のモニュメントに「村上海賊の娘」の石碑があり
小説のことを、ふと思い出しましたた。
「村上海賊の娘」という小説は、
以前からこの本は知っていたのですが、
村上海賊の本拠地が
小さな能島であることははじめて知りました。
島は、瀬戸の中にあり、
潮流が激しく、島全体が要害とでき、
守りやすかったようです。
そんなことを知ったため、
小説を買って読みはじめました。

2023年4月15日土曜日

220 城川の地質:黒瀬川のほとりにて

 愛媛県南西部に位置する西予市に滞在しています。2010年にもサバティカル(研究休暇)で1年間滞在したのですが、今回は半年間を過ごします。滞在地でもある城川とその周辺の地質の概要を紹介しましょう。


 11年ぶりに西予市城川町に戻ってきました。サバティカルという大学の研究休暇の制度を利用して、4月から半年間、この町で過ごすことになります。できれば、1年間滞在して、季節や地域の行事など一周り堪能したかったのですが、大学の制度なので仕方がありません。前回は単身赴任でしたたが、今回は夫婦で滞在することになりました。西予市の城川支所の3階の部屋を借りて執務しています。
 家内は、2度ほど城川に来たことがあったのですが、もうかなり昔のことなので、ほとんど覚えていません。道などは全く覚えていないので、今回がはじめてのようなものです。半年間、車を借りているのですが、私は徒歩で通勤しているので、主に家内が車を使うことになります。家内は、店がある隣町までの道、執務室がある城川支所までの道などを覚えるのに、時間がかかっていました。北海道はまっすぐな道が多のですが、本州それも山里では、曲がりくねった道が多くなります。方向感覚が狂ってしまい、間違ったところを曲がってしまうこともあります。そのため、曲がるべき角の目印を見つけて覚えることが重要になります。さすがに2週間ほどしたら、家内もいつも通る道は覚えたようです。
 さて、前置きが長くなりました。地質調査には4月下旬には予定をしていますが、まだ調査には出ていません。そこで今回は、滞在している城川町を中心にした地質の概要を紹介していきましょう。
 城川町は、市町村合併で西予市となったのですが、古くから地質学では有名なところです。城川地域には、秩父帯と黒瀬川帯の地層が分布しています。この2つの帯の地層は、日本の初期地質学の発展の一翼を担ってきました。
 日本の地質学の黎明期から、秩父帯は四国でも調べられていて、1890年には原田が高知県領石、蔵法院、佐川の周辺の化石を、1891年には横山が徳島県勝浦川盆地の化石を調べています。そして、1910年には地質調査所から四国の20万分の1の地質図が発行されています。
 1920年代になると四国の各地で調査が進められました。1930年代になると小林の一連の研究で、佐川盆地でナップという考えで秩父帯の構造を説明し、1941年には、日本列島の地質構造の形成史を、佐川造山輪廻説としてまとめました。これは日本における、地向斜造山運動論という考えにおいて、ひとつの到達点ともなりました。
 1940年代は、戦争の影響で成果はあまり出ませんでした。終戦後すぐに、地質調査が再開され、精力的に研究が進められてきました。1950年代になると、1956年には市川ら、1959年には中川らが黒瀬川帯を調べました。1954年には山下らは、四国をもとにして秩父帯を北帯、中帯、南帯に区分しました。
 城川の黒瀬川帯に関する研究は、1933年に清水と神保によって城川町田穂から三畳紀のアンモナイトが、1952年に石井によって城川町岡成からシルル紀の三葉虫が発見されました。そして、1950年代には、城川を流れる黒瀬川地域が調べました。市川らの一連の研究によって、城川と野村が「黒瀬川構造帯」の典型的な地域(模式地といいます)として報告され、城川の「黒瀬川帯」の研究も進められてきました。この黒瀬川帯、特に黒瀬川構造帯が、城川を際立たせる地質学的特徴となっています。
 黒瀬川帯の中に黒瀬川構造帯はあります。その岩石類は、黒瀬川帯の岩石と比べて異質で、より古い岩石からできています。古生代の初期から中期の岩石で、火成岩類(三滝火成岩類と呼ばれています)と変成岩類(寺野変成岩類)、堆積岩類(岡成(おかなろ)層群)からできています。
 三滝火成岩類は、花崗閃緑岩類からなり斑レイ岩類を含んでいます。寺野変成岩類は、高温高圧の変成作用を受けた片麻岩、角閃岩、角閃岩からなり珪質片岩や石灰片岩を含んでいます。両岩石類は、大陸の地殻を構成していたと考えられます。岡成層群は、シルル~デボン紀の地層で、火山活動の活発な大陸の近くの暖かい浅海で溜まったものです。
 黒瀬川構造帯の岩石は、古生代に、大陸をつくっていた岩石やその周辺の大陸棚でたまった岩石となります。その分布は連続したものではなく、東西方向に複数の列をなして点在しています。四国では、東から点々と城川の滝山-辰ノ口-岡成まで分布しています。ところが、野村から三瓶の海岸までの間、約25kmにわたって黒瀬川帯の岩石が途切れます。そして、三瓶町周木で再び出現しますが、その先は豊後水道に消えていきます。
 黒瀬川構造帯以外の黒瀬川帯は、中生代の新しい時代に形成された付加体と大陸棚堆積岩からできています。付加体は、ペルム紀末~中生代初頭に形成されています。黒瀬川構造帯の北縁に分布する長崎層群、野村層群、窪川累層になります。
 大陸棚堆積岩は、礫岩層を含む粗い堆積岩や珪長質凝灰岩を挟む地層(砂岩泥岩互層)で、大陸から由来した堆積物(陸源堆積物と呼びます)からできています。宮成層群、土居層群、川内ヶ谷層群、嘉喜尾層群、成穂層があります。礫岩には、花崗岩、珪長質火砕岩類、石英斑岩、ヒン岩、砂岩の丸い大きな礫が含まれ、川で運ばれたことがわかります。地層の中からは、ペルム紀、三畳紀、ジュラ紀の化石が見つかっています。
 秩父帯は、黒瀬川帯で二分され、北側を北帯、南側を南帯(三宝山帯とも呼ばれています)となっています。いずれも付加体でできました。
 秩父帯北帯は、付加体の中の岩石には、石炭紀、ペルム紀、三畳紀、ジュラ紀などの岩塊がありますが、付加した年代は中期~後期ジュラ紀となります。秩父帯南帯は、前期~中期ジュラ紀に付加したものです。上には後期ジュラ~白亜紀の浅海性の地層が覆っています。野村では、野村層群、高川層群、古市累層、今井谷層群、菊野谷累層に区分され、宇和-三瓶地域では、板ケ谷層、三島層、田之浜層などに細分されています。
 秩父帯北帯も南帯もジュラ紀の付加体できていて、黒瀬川帯の付加体と比べて、新しい時代のものになります。
 城川の中央には東西に黒瀬川構造帯と黒瀬川帯が走り、その南北に秩父帯があります。これが城川の地質の概要となります。城川にはその中を流れる川があり、黒瀬川となります。城川の川津南の高知との県境の山を源流として、城川を流れ、野村の坂石で本流の肱川に合流します。黒瀬川が黒瀬川構造帯の名前の起こりとなっています。黒瀬川のほとりで、これから半年間、暮らしていきます。

・第二の故郷・
久しぶりの城川町は、やはり居心地がいいです。
昔からの知人もいて、新しく知り合った人もいます。
北海道から来ても、馴染みやすく、親近感が持てる環境です。
山間であっても、住みよい環境に感じます。
何度も来ているので、戻ってきたという気がします。
城川は第二の故郷となっています。

・復習を兼ねて・
4月下旬にジオミュージアムで、
市民向けの講演を頼まれました。
このエッセイは、その準備のために、
過去の資料をひっくり返しながら
またいろいろ思い出しながら、
書き進めてきました。
お陰でいろいろと思い出してきました。

2023年3月15日水曜日

219 館の岬:自然の営みとしての変化

  道南の乙部町には、きれいな縞模様の見える海岸の崖が名所です。その崖が大雨のために崩落しました。生活道でもある国道が、崩落で使えなくなりました。なぜ崩落し、どう復旧していくのでしょうか。


 2020年から2022年にかけて、COVID-19で社会が振り回され、それ以外のニュースは、影を潜めていたように思えます。その期間にも、災害がいろいろ起こっていたはずなのですが、人身に及ばなけば、メディアでの扱いは大きくなりません。災害が地元の人にとって、長期にわたって苦労を強いるものであっても、世間から顧みられることは少なくなります。そんな災害が、道南の乙部町で起こりました。
 乙部町は、日本海に面した道南の町です。道南の日本海側には、観光名所もいろいろあるのですが、観光客がそれほど多くは訪れないようです。乙部町は、地質学的には見どころがある地域であるとともに、居心地がいい町なので、何度も訪れています。
 国道229号が海岸沿いに通っており、そのコースは心地よいドラブができます。北から向かうと、まずは鮪(しび)の岬で、見事な柱状節理が目に入ります。脇道にはいっていくと、柱状節理の上を歩いて、先端までいけます。
 国道をさらに進んでいくと、館の岬で海岸線の崖にたどり着きます。その崖には、見事な地層が見えます。現在、海岸沿いで崖があるということは、崖の切り立った面が常に更新されているということで、侵食が現在も進行しているということです。そのため、大雨などが降ると、割れ目などがあると崩落してしまいます。
 2021年6月に、館の岬の地層が崩落しました。5月16日から17日かけて大量の降雨があり、6月4日にも激しい降雨がありました。2021年は、4月から降雨量が多く、過去10年の平均の2倍ほどになっていました。この崖は、凍結融解による地盤の緩みがあったようで、そこに大量の降雨がありました。
 6月6日(日曜日)18時過ぎに、この崖が崩壊しているのが発見されました。崩壊規模は、幅35m×高さ40m×奥行き5mでした。崖と国道の間には防御壁もあったのですが、それを乗り越えて崩落してきました。
 幸い人的被害はなく、防御壁と道路の被害だけになりました。しかし、この崩壊で国道は通行できなく、迂回をしなければなりませんでした。もともとあった道を利用する迂回路は、17kmもあり、生活道として必要な人は使うでしょうが、国道を通るために、この迂回路を利用するのは面倒になります。
 この崖は、舘層(たてそう)と呼ばれれう地層からできています。新第三紀の中新世(2300万年前から250万年前)の地層です。
 これらの地層は、いずれも層状の互層になっているため、縞模様がきれいな崖となっています。「東洋のグランドキャニオン」とも呼ばれています。地質学的には興味深いところです。
 舘層は、火山砕屑岩(凝灰角礫岩、凝灰岩、軽石凝灰岩)と堆積岩(泥岩から砂岩)からできています。下には、泥岩から凝灰質砂岩があり、上に凝灰角礫岩から凝灰岩、軽石凝灰岩、凝灰岩などが重なっています。舘層の岩石は、それほど硬くないもので、雨や水に侵食されやすいものです。
 その上に第四紀の更新世(250万年前以降)に段丘堆積物が覆っています。舘層の上の段丘の堆積物は、砂や礫からできています。段丘の堆積物は、まだ固まっていないので、より侵食を受けやすくなります。段丘の地表の谷沿いには、地滑りも起こっています。
 崖の更新や侵食は、人の時間の流れよりずっとゆくりした、自然の時間の流れで進みます。人は防災として、自然の時間の流れを予測して対処していなければなりません。自然の営みを予測することは容易ではありません。同じ危険度が継続するのではなく、長い時間崩落がないときほど、崩落の危険性は大きくなるはずです。そのような時間変化も考慮しなければなりません。
 この崖の下の国道を復旧しようとしても、今後も似た崩壊が起こるような地層からできています。現状の国道を復旧しても、崩落の危険性は残るため、完全に復旧するためには、いろいろな検討がなされ、山側の新たに2kmのトンネルを掘削することが、もっとも安全だということで合意されました。そのためには、7年から10年の工期がかかることになります。
 完成までに長い時間がかかり、現状の迂回路ではあまりに不便で、生活にも支障をきたします。そこで、2022年4月に、崖の上を通る「応急復旧短絡路」がつくられました。
 2021年6月の崩落の直前、5月に乙部町を訪れています。その後、崩落が起こりました。2022年10月には再度訪れたときは、段丘の上に真新しい迂回路ができていました。この新しく整備された短絡路は、勾配もきつく、急カーブも連続します。大型車は通行できませんが、生活道として利用でるようになりました。ただし、夏場の応急道路なので、冬場の夜間は通行止めとなっているそうです。
 館の岬の崖は、現在での通行止めのところから、眺めることができます。崩落以降、トンネルの北側には近づけません。長いトンネルが完成すると、崖に近づくことはもっと難しくなるかもしれません。トンネルは地質学的には残念ですが、人の命、人の生活、安全が優先されるべきでしょうね。

・学位記授与式・
コロナ禍もおさまり
通常の生活もだいぶどってきました。
大学では学位記授与式が通常通りにおこなわれます。
ただし、3つに分散しておこなわれます。
飲食はできませんが、今年から3年ぶりに、
大学の公式の祝賀会も実施されます。
現在の4年生とはコロナ禍で、
まったく懇親会をすることができませんでした。
やっと緩和されたので、最後ですので
ゼミでの祝賀をしたい思っています。

・マスク着用の緩和・
13日から、マスク着用が緩和されました。
しかし、施設内や狭いところでは、
着用が推奨されています。
多くが個人の判断にまかされます。
これまでの風邪と同じ状態になりつつあります。
5月にはCOVID-19も2類から5類になり
インフルエンザの同じ扱いになります。
マスク着用はどうなるでしょうかね。

2022年12月15日木曜日

216 フレペ滝:溶岩から流れる乙女の涙

  知床は、知床五湖、オシンコシンの滝、カムイワッカの滝、野生の自然など見どころもたくさんあり、多くの人が訪れます。観光地にはなっていますが、あまり人が訪れないフレペ滝を紹介します。


 8月末に北見で校務があったので、その終了後、続きで知床に調査にいきました。知床には、ここ最近、何度か来ています。知床は、国立公園で世界遺産でもあるので、自然保護がされていており、ヒグマなどの野生との共生のため、見て回るルートが限られています。ヒグマが目撃されたら、そのルートは入ることができなくなります。以前にも訪れたところを巡りました。知床は、何度でも見て周りたいところです。
 今回は、フレペ滝とその周辺の話題です。草原の中を通り抜ける散策道を突き当りまでいくと、木造の展望台があります。そこから、フレペ滝を見ることができます。滝は遠くからしか見ることができないのですが、なかなかきれいな滝です。大きな湾状のくぼみの奥の崖に、滝あり流れ落ちています。この滝について紹介しましょう。
 北東に伸びている知床半島は、中央部には知床連山の高まりがあり、海岸は断崖が続くところが多くなっています。海岸沿いが崖が多いため、人が近づきにくいところなので、自然が残されています。陸の自然、海の自然も豊富なところです。半島で少しだけある平らな海岸には、船がつけられるので番屋ができ、夏の間だけ漁がなされます。
 険しい崖になっているのは、知床半島が新しい火山からできているためです。知床連山は、付け根からみると、斜里岳、海別岳、遠音別岳、羅臼岳、硫黄岳、知床岳などの山が続きますが、いずれも90万年前からあとに活動した第四紀の火山からできています。
 火山の土台になっている岩石(基盤岩といいます)は、海底で堆積した地層からできています。900万から100万年前くらいまでの新第三紀に堆積したものです。基盤の地層は砂岩泥岩からできているのですが、火山砕屑岩類も含んでいます。いずれも海底でできたものです。
 古い方から順に、忠類層、奥蘂別(おくしべつ)層、ヌカマップ火山砕屑岩層、越川層、幾品層、知床岬層となっています。基盤岩の上に火山噴火による地層が重なっています。地質図を見ると、火山岩の下には、あちこちに点々と新第三紀の基盤の地層が顔を出しています。知床半島の付け根に近いほど古い地層をみることができます。
 火山は陸での噴火活動です。知床半島全体が、第四紀になってから陸化したことになります。知床半島は新しい大地となります。
 さて、フレペ滝です。この滝を海から見ると、奥まった湾の断崖から、静かに水が流れ落ちている滝がみます。陸からいくには、知床自然センターからはじまる散策路があり、平らな草原(幌別台地)の中を20分ほど歩きます。北側に灯台への道がありますが、南へのいくのが散策コースとなっています。散策路の先、崖に面したところに、滝を見るための展望台があります。
 平らな草原には、川の流れがないのですが、滝からはかなりの量の水が静かに流れ落ちています。「乙女の涙」と呼ばれる滝です。海側から見ると、平坦な草地から急な崖は、上部の斜面は草がついていのですが、そこには川の流れは見当たりません。崖の途中から、水が崖から直接流れでて、滝となっています。不思議な滝です。
 滝の水は、山にふった雨や雪が地中に浸透し、地下水になったものが、崖で直接流れ出ていることになります。崖では、海面近くに柱状節理が見えますが、内部の大部分は固そうな溶岩となっています。これは羅臼岳から流れ出た溶岩がみていることになります。溶岩は柱状節理などの割れ目ができて、水が染み込みやすいのですが、固い溶岩のところは水が流れにくくなっています。平らな草原に染み込んだ水が、固い溶岩の上部を地下水として流れ、崖で海に流れ落ちたのが、滝となっているようです。知床半島には似たような滝が多数あります。
 羅臼岳は15万年前から1万8000年前に活動した火山です。知床半島で最も高い山で、新しい火山でもあります。フレペの滝は、羅臼岳の古い時期の火山活動によるものだと考えられます。羅臼岳は、噴火の歴史的な記録は残っていません。研究が進んできたので、噴火の歴史がわかってきました。年代測定の結果、2300年前ころ、1600年前ころ、700年前ころに火山活動があったことがわかってきました。活火山は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と定義されているので、研究の進行により、1996年に活火山に指定されています。
 700年前ころの年代値は、690±50年と790±50年がでています。平均すると740年前ですから、西暦1280年ころになります。そのころは、ちょうど鎌倉時代後期にあたります。この時代であれば、火山活動があれば、記録に残っていてもいいはずです。知床は北海道でも最果て地ですし、海岸も崖で平地も少ないので人が住みにくいところでしょう。そのため、記録にも残りにくいところだったのかもしれません。なんといっても、元寇があった時期です。幕府や都の人の興味は、元寇のため西に向いていたのでしょう。
 今では、知床には多くの観光客が訪れています。知床は、国立公園でもあり、世界遺産にもなっています。そのため、限られた場所しか見て歩くことができません。また冬は寒さや雪もあるので、観光には適さない時期もありますが、夏には歩けないところや流氷などをみることできます。しかし、冬はなかなか厳しでしょうね。

・地質図・
日本中の地質図は、
産総研地質調査総合センターの地質図Navi
https://gbank.gsj.jp/geonavi/docdata/help/img/geonavi-image.jpg
で見ることができます。
GoogleMapや地形図や衛星画像などを
重ねることもできので見やすくできます。
なかなかすぐれたもので
市民でも簡単に利用できます。
ぜひ試してみてください。

・大雪・
このエッセイは予約配信しています。
月曜日に校務があるのですが、
もともと私用で一泊する予定でした。
近くの野外調査をしようと考えていました。
一気に降った雪のため
野外調査できなくなりました。
高速道路が雪で速度制限がかかっていると聞きました。
そのため、前泊して校務に望むことしました。
このエッセイも事前に配信しました。

2022年10月15日土曜日

214 青い池:複雑な連鎖

 十勝岳は活火山で、かつて火山噴火で大きな被害を出しました。防災対策として堤防がつくられました。火山の成分を含んだ川と防災によってできた池が、観光地となりました。複雑な連鎖が起こっています。


 9月中旬に十勝岳を訪れました。夏休みも終わり、紅葉にも早い時期、そして平日にでかけました。人が少なくなる時期を見計らってでかけました。ところが、有名な観光地では、多くの人が訪れていました。ここしばらく、コロナ禍で人出の少ない状態を見ていたので、より多く感じたのかもしれません。
 今回、十勝岳を訪れたのは、周辺の地質を見るためです。「青い池」という観光地も、目的のひとつにしていました。「青い池」は、その幻想的な色が魅力です。普通の水の色ではない、不思議な色合いになっています。写真をみてその色を確かめて欲しいのですが、本当にきれいな色合いです。今では、この付近ではもっと賑わう観光地となっていました。
 もうひとつの目的は、青色の源となっている「白ひげの滝」を見ることです。十勝岳周辺は、以前にも回ったことはあるのですが、青い池も白ひげの滝もみていませんでした。ですから、今回はじっくりと見学することにしました。
 「青い池」と呼ばれていますが、青より淡いコバルトブルーで、さらに濃淡もあり、光が当たれば淡くなり、影では濃く見えます。水底の状態でも色合いが変わります。
 青い池は、防災工事の後に水たまりできた池でした。1926(大正15)年5月の十勝岳の火山噴火で、大規模な水蒸気噴火が起こりました。その時、山頂にはまだ残雪があり、雪が溶けて大規模な火山泥流が発生して、美瑛川と富良野川に大きな被害をあたえました。火山泥流は、美瑛川では、上流の白金温泉街から美瑛の街までを襲い、多くの死者、行方不明者をだしました。
 十勝岳の火山噴火による被害を教訓にして、洪水や氾濫を防ぐために、美瑛川では砂防堤防がつくられました。1988(昭和63)年には、さらにブロック堤防もつくられました。ブロック堤防は、十勝岳の噴火で泥流が発生した時、それを食い止める目的でつくられました。
 ブロックの外側は、もともとは増水時に周辺への浸水を防ぐためにつくられた緩衝地帯でした。緩衝地帯に美瑛川の水がたまり、池となりました。水の出入りがあまりない池ですが、それが幻想的な青い色の池となっていました。
 もともとは立ち入りが禁止されていたところだったので、有名になり見学者が多くなったため、町おこしとして、遊歩道や駐車場を完備し、土産物屋もできました。今では、この付近では一大観光地となってきています。
 池の水の色は、普通の水の色ではありません。どのようにして、このようなコバルトブルーの色がついたのでしょうか。答えは、美瑛川の上流にあります。3kmほど上流に「白ひげの滝」と呼ばれものがあります。これは、尻無沢が合流しているところです。川から流れ出ているものもありますが、地層の間から湧水として流れ出しているものがあります。滝を注意して見ると、白っぽい乳白色の堆積物が出ているところあります。
 白ひげの滝は崖となっています。崖の下には、30万年前の土石流で流れ出た礫岩が溜まっています。その上には17万から25万年前の平ヶ岳溶岩が板状に見えています。下の砂礫から流れ出た水は酸性になっているため、乳白色の沈殿物がたくさんできて見えています。
 この色についは、福島大学の高貝・阿部(2014)で調べられていて、アルミニウムのサイズの不定形で、組成もバラバラのコロイド粒子になっていることがわかっています。その形状が短い波長の青い光をたくさん散乱するため、青く見えるようです。
 滝の下を流れている美瑛川の河原の中の石を見ると、乳白色の沈殿物ができています。沈殿物の周辺の水が、コバルトブルーに見えています。川全体がそのような状態になっています。さらに、白ひげの滝の上流を流れる水も青く見えています。上流でもやはり十勝岳から流れている硫黄沢川があります。そこでも乳白色の沈殿が起こっているようです。
 火山地帯を流れた川や地下水にはアルミニウムが多く含まれていて、それが中性で水量の多い美瑛川の水にふれることで、コロイド粒子ができるようです。下流の青い池の色も、この複雑な作用の連鎖が原因となります。
 青い池では流れることがないので、水面が穏やかなので、より水の色がより青く見えています。そこに立ち枯れの木が多数あるので、幻想的雰囲気をより醸し出しています。
 十勝岳の火山の成分のアルミニウムを含んだ水が、川に入り込んで青い水になました。十勝岳の噴火による被害の防災のために河川工事をしたところ、その緩衝地帯に思いがけず水たまりができました。青い川の水が流れ込んで青い池ができました。今では防災のための池が、観光にも利用されるようになりました。十勝岳では、このような自然災害と防災、そして観光の不思議な連鎖が起こっているようです。

・観光・
外国人観光客もちらほら見かけました。
国内在住の人もいたでしょうが、
観光バスで海外旅行として
来られている人も含まれているようです
観光業界として望ましいことなのでしょう。
静かに露頭を見たにものには
少々騒がし感じました。
まあ、そんな希望は稀なものでしょうね。

・昔の訪問・
当時の記録をみると、
以前訪れたのは2005年7月でした。
天気は悪くはなく十勝岳は見えていたのですが
霞んでいたため、すっきりとしは見えていませんでした。
今回は晴れていたのできれいにみることができました。
青い池も当時は観光地にはなっていず、
白ひげの滝のところも通り過ぎただけでした。
まあ、知っていたとしても、
立ち入り禁止だったのでしょうから
みることはできなったでしょうが。

2022年9月15日木曜日

213 水無浜:幻の温泉

 秘湯というと、人があまり訪れないような、不便ところに多いのですが、今回紹介するのは、アプローチはしやすい温泉です。舗装された道もあり、設備も整っている無料の露天の温泉です。そこは、幻の温泉と呼ばれています。
 温泉に入ることが目的で出かけることありません。ただし、宿泊する時は、温泉旅館があれば、そちらを優先しますが。地質調査で奥地に入ると、秘湯と呼ばれるところへや、だれも知らないようなところで温泉や湧水も見つけたこともありました。調査中に、裸になって入ることはありません。今回も秘湯を訪れたのですが、入りませんでした。
 道南には椴法華(とどほっけ)という名の村がありました。2004年には函館市に併合されました。北海道に来てすぐに訪れた時は、椴法華村でした。その後、2007年に訪れた時には、函館市になっていました。今回、椴法華の幻の温泉を訪れたので、紹介しましょう。
 道南では函館が一番の都会ですが、少し外れると人家は少なくなっていきます。函館の西には、大千軒岳(だいせんげんだけ)を主峰とする深い山並みが広がります。東には、恵山(えさん)から駒ケ岳(こまがたけ)に続く活火山の山並みがあります。いずれも山深いなので、函館から少し離れると鄙びたところなります。
 海岸近くに恵山があるため、海岸は断崖になっており、道が途絶しているので、海岸を周回することはできません。道路は、恵山の西裾を通っています。恵山の東部は、行き止まりの道路となり、不便なところなります。しかし、そこには観光名所があり、恵山に由来する温泉もいくつかあります。
 南側から回ると、恵山に登るための登山道があります。北側からまわっていくと、道の一番奥が一方通行のループになっており行き止まりです。そこに無料の露天風呂があります。水無海浜温泉と呼ばれるもので、少々変わっています。
 水無海浜は、古くからその存在は知られているようで、椴法華村史(1989年発行)によれば、松浦武四郎の蝦夷日誌の1847(弘化4)年5月に、
「水無濱、少しの砂浜、水無より此名あるかと思う、昆布取小屋有、人家も二、三軒、近来漁事の便りなるが故にここに住すとかや」
と記されていることから、江戸時代には、水は出ない浜なのですが、ここに人が住んでいて、昆布取りや漁を営んでいたことがわかります。人が住んでいたのなら、温泉の存在も知られていたのでしょう。
 水無海浜温泉は、現在も無人の露天風呂で、だれでも自由に無料で入ることができます。夏場だと、時間外でも海水浴は可能でしょうが、岩場なので泳ぐよりは磯遊びをするところでしょうか。
 ただし、入浴できる時間帯が限られていて、日によって変わります。潮が満ちてくると、海水が風呂の縁を越えて、湯船に入り込むため冷たくなり、湯船も見えなくなります。また、干潮時には温泉そのものの温度になるのですが、源泉の温度50℃になるので、今度は熱くて入れなくなります。ですから、干潮の満潮の間の時間だけが適温となります。入れる時間帯が限られることもあって、「幻の温泉」と呼ばれています。
 潮の関係で、1日1回しか入れない日も、3回入れる日もあります。また、入浴可能な時間が10時間のこともあれば、2時間ほどしか入れない時間もあります。潮任せなので、温泉に入りたいのであれば、事前に調べておくべきでしょう。
 水無海浜温泉は、古くから知る人ぞ知る温泉です。1918(大正7)年の郷土誌には、
「恵山麓字水無ノ海岸ニ湧出ス此温泉ハ極メテ僻陬(ヘキスウ)ノ地ニアリ潮来レバ水ニ浸ルヲ以テ湯泉場トシテノ設備ナシ。」
と書かれています。当時は、温泉が出ていて、潮がひた時にしか利用できず、温泉場としての設備もなったようです。
 それと比べれば、現在は男女別の脱衣所もあります。湯船も2箇所で3つあり、縁の高さが変えてつくられています。そのため、温度に違いがあり、入れる時間が長くなっているのでしょう。今では入れる時間帯が示された表が、温泉の脱衣場の近くに掲示されています。ホームページでも確認できるようです。
 しかし、湯船は海岸に開放的にあり、男女の区別がない混浴で、「産まれたままが最高」と看板には書いてあります。ただし、水着をつけてもOKと書いてありますが。
 訪れた時はだれもいなかったのですが、露頭や温泉を観察していると、男性3名が来て、裸になって温泉に入りだしました。他には人はいなかったので、「産まれたままが最高」の気分だったでしょう。私は、もっと温泉や周りの景観を撮影するためだったのですが、それもできなくなり早々に切り上げることになりました。
 階段や波除け、駐車場や脱衣場など、周辺は整備されています。2007年に来た時はゴールデウィークだったので、磯遊びと温泉を兼ねた地元の家族連れが多数来ていました。ですから、地元では知られていたのでしょうが、知る人ぞ知る温泉だったのでしょうね。

・短い夏休み・
先週から今週にかけてバタバタしていました。
重要な会議がいくつかあり、
4年生の卒業研究の指導、
と、ここまでは通常の業務です。
他に、研究授業での指導、本の原稿の入稿、
科学研究費の学内締切り、
そして、野外調査が重なっていました。
すべて先週に終わらせて、
今週は野外調査に集中しました。
来週から、いよいよ後期の講義がはじまります。
短い夏休みも終わります。

・必要とならば・
野外調査に出ているところは、
ほとんどが以前にいったところでの再調査です。
同じところでも、目的が違うので見方が違います。
写真は構図は異なりますが、
被写体は同じ露頭や産状が多くなります。
それでもいいのです。
必要となれば、何度でも訪れます。

2022年6月15日水曜日

210 阿寒湖:ボッケとマリモと

 阿寒湖は、道東の中央、山の中にひっそりと佇んでいます。たどり着くには、険しい山道を進んでいきます。山の湖畔には小さな温泉街があります。ひっそりとボッケとマリモがあります。


 大学でも出張がかなり自由にできるようになり、これまであまりできなかった野外調査を再開しました。5月中旬には、道央で活火山を中心に調査をしていきました。
 最初に大雪山の黒岳の調査を考えていたのですが、ケーブルカーは動いていたのですが、標高の高いところには雪がまだあるようで、ロープウェイは調整中で運休していました。そのため、登るのは諦めました。その後、今まで通ったことのいない大空町の藻琴峠から小清水峠を通るコースで、斜路湖に入りました。これらの峠は、藻琴山の東山麓を超えるものです。
 藻琴山は、以前に紹介した屈斜路カルデラが、160万年から100万年前、最初に活動した火山活動によって形成された古い火山になります。そのためなだらかな山容となっています。峠からは、屈斜路カルデラの全貌を見ることができました。
 翌日、美幌峠へいこうとしていたのですが、霧がすごくて見通しがありそうもないので諦めました。屈斜路湖にくると、いつも見にいくアトサヌプリ(硫黄山)と摩周湖はちゃんと見学してきました。
 前置きがなくなりましたが、今回紹介するのは、屈斜路カルデラの西にある阿寒湖です。道東には火山が多数並んでいます。阿寒湖の西には大雪から十勝岳に続き、東には斜里岳から知床半島に続く火山列があります。北東から南西に伸びた火山列が、140kmにわたって続いています。ただし直線的に並ぶのではなく、「雁行状」と呼ばれるずれながら並んでいます。これは、太平洋プレートが千島海溝に斜めに沈み込んでいるため、斜めの力が陸側(北海道側)にかかって、斜めに割れ前ができ、そこに火山活動が起こるためです。
 さて、阿寒の火山は、雄阿寒岳と雌阿寒岳が大きな山体としてありますが、ひとつではなく他にもフレベツ岳やフップシ岳などの火山もあります。また、雌阿寒岳も、中マチネシリ、ポンマチネシリ、阿寒富士、南岳、西岳、北山、東岳、1042m峰の8つの火山があります。これらすべてを合わせ阿寒火山群と呼びます。
 阿寒火山群もカルデラを形成する火山でした。20万から15万年前に激しいカルデラ噴火を起こしました。その時、3度にわたって大規模な火砕流が流れました。その結果、古いほうから、阿寒下部火砕流堆積物、阿寒溶結凝灰岩、阿寒上部火砕流堆積物ができました。北東から南西に24kmの長さ、北西から南東には13kmの楕円形の阿寒カルデラができました。
 5万年前から2万年前に雌阿寒岳の噴火活動がおこり、デイサイトや安山岩の溶岩ドームとして中マチネシリ、南岳、東岳、1042m峰が形成されました.1万2000年前には中マチネシリで再び激しい噴火が起こり、山頂に火口ができました。9000年前にも火砕流が発生しています。この頃、安山岩マグマの活動で雄阿寒岳が形成され、大きな阿寒カルデラにあった「古阿寒湖」が埋めて立てられ、阿寒湖、パンケトー、ペンケトーに分かれました。
 その後、7000年前から3000年前には、安山岩からデイサイトマグマのポンマチネシリ、玄武岩の単成火山の西山、安山岩マグマの北山が形成されました。そして、2500から1100年前には玄武岩マグマの阿寒富士が形成されました。阿寒火山群は、最近も活動は続いており、小規模は水蒸気爆発や火山灰を降らしたりしています。
 阿寒湖は屈斜路湖や摩周湖と比べると小さく、周りに火山があるので山の奥に分けるようにしてきます。阿寒湖畔には温泉街があります。温泉街から少し歩くと、ボッケと呼ばれるところがあります。アイヌ語で「煮え立つ」という意味の「ポフケ」に由来するもので、泥火山のことです。熱くなったドロが火山ガスとともに噴出している沼があります。ドロは粘性があるので、丸く盛り上がって、不思議な模様が次々と形成されいきます。かつては、岸の近くに高温の温泉が湧いたいたようですが、ちょろちょろと温水が流れているにすぎません。今では、柵があり温度を確かめることができませんでした。
 阿寒湖は、マリモでも有名で国の特別天然記念物にもなっています。日本各地にマリモの生息は確認されていますが、最大では直径30cmにもなるような大きなものは阿寒湖にだけで確認されているそうです。大きなマリモは、5年から9年かけて成長していくそうです。
 阿寒湖でもマリモは北側だけにいます。マリモ保護のため、生息場へは近づけないのですが、阿寒湖の遊覧船でチュウルイ島にいくと、水槽にマリモが置かれており、見学することができます。夏の間だけ生息地からもってきて、冬には戻すとのことです。
 今では、黙って野外を歩くときはマスクが必要ではなくなってきたのですが、まだマスクなしで歩くようにはなれません。阿寒湖畔を歩いているときも、すべての人が、マスクをして外出していました。はやくマスクなしの生活に戻りたいのですが、いつになるのでしょうかね。

・道東の調査・
阿寒や屈斜路の地が気に入りました。
まだ、阿寒で見ていないところがいくつかあります。
その見残したところを見にいきたいのですが、
どうなるのでしょうか。
今週末には道東に調査にでかけます。
道東の調査がメインとなりますが、
帰り道として阿寒を通りますので
寄っていくことにしました。
見残したところを見学する時間があればいいのですが。

・初夏の風物・
6月になって天気の悪い日には
ひんやりとして肌寒く感じる日もあります。
それでも季節は巡り、初夏になってきました。
エゾハルゼミの鳴き声が聞こえます。
早朝には、カッコウの鳴き声も聞こえることもあります。
そんな鳴き声も北海道の初夏の風物となります。

2022年3月15日火曜日

207 北広島:丘陵の海と陸のせめぎ合い

 隣の街の紹介です。時々訪れるところなのですが、決まったルートや場所しかいっていませんでした。コロナ禍で野幌丘陵の南をウロウロしたことで、北広島をめぐりました。すると、思わぬ風景が見えてきました。


 北海道は3月21日まで、まん延防止等重点措置がとられています。その後は、解除になりそうですが、現時点ではまだ決定していません。1月末から3月中旬にかけて、何度目かの自粛生活をしてきました。この2年間、自粛が中心の生活となっていました。その間、校務と研究で、毎日、大学には出ていました。研究室にいるだけで、人に合うことは極端に少なくなっています。会議も、授業も学生指導も遠隔で進めてきました。いくつか教職などの資格で許可をえた授業だけは対面で進められています。3月にも対面授業をおこないました。4月から対面での授業の体制で予定されています。もともと冬場には地質調査にはでかけないのですが、コロナ感染拡大で出かけることはさらに困難になっています。
 さて、今回のエッセイですが、近場の北広島を紹介しましょう。
 高速道路に乗る時やJRで子どもの送迎に便利なので利用していました。隣町で近いところなのですが、これまでうろうろすることが少いでした。コロナ禍になって、野幌丘陵の中でいったことがないところを、散策したり、買い物にいったり、ホテルにも泊まったりもしました。その結果、少し身近な街になってきました。
 北広島は、名前の通り、この地に明治に広島県から入植したことに由来しています。北広島は、札幌の東にあたり、野幌丘陵の南から中央部に位置しています。野幌丘陵は、恵庭市との境界にある北広山(487.8m)から南にゆるく傾斜して江別市まで陸地の半島のように伸びた山並みです。丘陵は、石狩川の氾濫原でもある平野に消えていきます。
 丘陵の形は、南北に伸びる稜線を中心に東西に下っている形になっています。このような構造は地質の背斜を反映しています。背斜は、東西の圧縮を受けるとできる地形です。丘陵は侵食が進んでおり、稜線から東西に谷が網状に形成されています。このような地形ができるのは、野幌丘陵の地質とその形成史によります。
 野幌丘陵は第四紀更新世の堆積物からできています。地層は180万年(更新世前期)から1万年(完新世)くらいまで堆積したもので、いくつもの地層に区分されています。下(古い時代)から、裏の沢層、下野幌層、音江別川層、竹山礫層、もみじ台層、小野幌層、支笏火山噴出物、元野幌層、江別砂層、厚別砂礫層(広島砂礫層)、樽前降下火山灰層に区分されています。
 これらの地層には、化石も多数見つかっていまし。化石は生物の遺骸なので、その生物の生活環境から、昔、地層がたまった時の様子がわかります。
 かつてこのあたりは寒流の来ている海でした。その後、海水から汽水(干潟や河口などの淡水と海水が交じるような場所)、やがて淡水へと変化していったことがわかっています。
 裏の沢層が溜まっていた頃は、このあたりは沈降している地域だったのですが、更新世中頃(60万年前ころ)から、上昇に転じ、海から陸域に変わってきたと考えられます。
 これのような変化は、大きくみると、太平洋プレートの沈み込みによって北海道が圧縮されたことで起こったもので、ゆっくりとした変動でした。このような大きな地質変動で幾筋からの背斜や向斜ができてきました。
 堆積後まもなく堆積物が固化する前に、背斜が陸化しは丘陵となりました。そのため、柔らかい地層のまま侵食にさらされたため、開析が進んでいきます。
 ただし、海から陸への変動は一様ではありませんでした。下野幌層(100万年前ころ)や音江別川層(40万年前ころ)の下には、侵食を受けた地層(陸化したことになる)の上に堆積物がたまっています(不整合という)。音江別川層の最も高いところは当時の海面にあたり、現在より40mメートルは高かったと考えられます。
 それらの境界があることから、海になったり、陸になったりを繰り返していることがわかります。そのような変動が、化石から温暖化(海になる)と寒冷化(陸になる)と対応していることもわかります。氷河期と間氷期の繰り返しと、海と陸の変動が対応していると考えられます。
 夏に、野幌丘陵で車で入れる奥まったところへもでかけました。森の中の温泉や野菜の直場所、小されレストランなど、知らないところに興味深いところがあることを知りました。ですから、これからも時々訪ねたいと思いました。
 住んでいる身近な丘陵に見られる地形や地層から、過去の環境を探ることができます。そんな好例を、散策から知ることができました。

・オミクロン株・
ニュースによれば、北海道も含めて、
各地でまん延防止法等重点措置が終了しそうです。
しかし、オミクロン株(BA.2)は
より感染力も高くなっているようです。
感染者数は高止まりのままのようです。
措置が終了しても、注意が必要になりそうです。

・もう一つの丘陵の景観・
野幌丘陵の森の中にある温泉ホテルがあります。
子どもの行事があったとき
送迎で訪れたことはあったのですが、
これまで、全く中にはいることはありませんでした。
しかし、冬に宿泊にいったことがありました。
最上階に食堂があり、そこからの眺めが最高でした。
丘陵をさらに高いところから、
新雪の森を眺めることができました。
その景色は幻想的で今までみたことがない
丘陵の森の景観でした。

2022年2月15日火曜日

206 釧路湿原:氷河期と縄文海進

 日本各地で、まん延防止等重点措置の延長が起こっています。北海道は、現在、雪のシーズンなので、調査は冬眠中です。春から調査ができるかどうか不安です。今回は昨年、訪れた釧路湿原の紹介をしていきましょう。


 昨年は、COVID-19のまん延防止等重点措置や緊急事態事態宣言が、たびたび発令されましたが、その合間を縫って、道内だけですが、何度が野外調査に出ることができました。9月に釧路での校務のあと道東各地へ野外調査にいきました。また、11月にも校務でしたが釧路を訪れることができ、その後一日私用をとって阿寒を回りしました。西から釧路の街に入るときに、釧路湿原を通ることになります。今回は釧路湿原の紹介です。
 釧路湿原に水を供給しているのは釧路川です。巨大なカルデラ湖である屈斜路(くっしゃろ)湖に、釧路川は端を発します。弟子屈原野を流れるいくつかの支流と合流して、釧路湿原に入っていきます。そして久著呂(くちょろ)川、雪裡(せっつり)川などの支川が湿原内で合流します。釧路川が釧路湿原にとっては重要な河川となります。
 北海道では、石狩湿原(5.5万ha)がもっとも広い湿原ですが、釧路湿原(2.9万ha)はサロベツ湿原(2万ha)より広いものです。釧路川は154kmの長さですが、大正9年8月に大洪水が起こったことを契機として、洪水被害を防ぐ治水として、河川の直線化がなされてきました。農地開発や市街地の拡大などで、湿原は減少しててきました。釧路湿原に人手が入り出して変化してきています。
 しかし、北海道の他の湿原と比べると開発が遅れていたため、もとのままの状態で残されている地域も多くあります。そんな地域として中央北部は、天然記念物(5000ha)に指定されています。国内では最初のラムサール条約に登録された湿地ともなっています。
 釧路湿原は地質学的に見ると、新しい時代に形成されたものです。2万年前のビュルム氷期には、現在と比べて平均気温で10度も低く、海面も100mも低くなっていました。その後、縄文時代になると温暖化していきます。温暖化の時期には、海面が上がっていくので「海進」となります。縄文時代の海進を「縄文海進」と読んでいます。
 6000年前ころの海進では、海水が内陸(現在の釧路湿原のあるところ)に入り込んで、湾の状態(古釧路湾と呼ばれます)になっていきます。湾内では海成の泥(中部泥層と呼ばれます)が堆積します。その層の厚さは、10数mから30mに達するところもあります。中部泥層には、時々薄い砂の層がはさまれています。
 海面がもっとも高くなった頃には、貝が多数繁殖して、泥の層の上に、ホタテの密集している貝層ができています。そして、貝塚も発見されています。貝塚は、人が貝を採って食べてあとの貝殻を捨てたところです。釧路湿原の最初の貝塚は、7000年前(縄文早期)のもので小規模なものが見つかっています。6000年前(縄文前期初葉)になると最も規模が大きくなり、食べていた貝の種類も多くなっています。5000~4000年前(縄文中期)にはまた小規模になり、カキだけを食べていたことがわかっています。初めと後の小さな規模の貝塚は、湿原の東の台地だけに見つかっています。
 中部泥層と貝塚のさらに上には、1mほどの厚さの泥層と、さらに上に4mに達することもある泥炭層が、現在の表層まであります。泥炭は淡水で溜まったものです。
 これらの地層から、釧路湿原周辺の歴史が推定できます。縄文海進の時期に、湿原となるための地形ができていました。縄文時代の早期(7000~6000年前)には浅い海水の湾となり、泥層が溜まりはじめます。縄文早期から前期(6000~5000年前)には最も海水面が上昇し、泥が溜まるとともに多くの種類の貝も生息していました。そして豊富な貝を採る人たちも、湾の周辺に多数住みつきました。縄文中期(5000~4000年前)には、海水面が下がりだし(海退という)、住む人や貝を取る人はだんだんと少なくなっていきます。縄文晩期(3000年前)には、湿原が陸化していったと考えられます。
 湿原となる地形のおかげで、現在も泥炭が堆積し湿原形成が継続しています。泥炭の厚さは、1~4mとさまざまですが、湿原全体に分布しています。泥炭の厚いところは、基底部が低いところや地殻変動で地盤沈降などがおこっているところです。
 泥炭中に3層の火山灰が挟まっています。この火山灰があったことで、同一時間面が決めることができます。火山灰の中の放射性炭素(14C)による年代測定ができます。下(古いもの)から順に、325~210cmの深さに2280年前の火山灰が、60~30cmの深さに500年前のもの(雌阿寒から由来したMe-a3という火山灰)、35~15cmの深さに350年前のもの(同じく雌阿寒から由来したMe-a1)となっています。
 この時間軸と泥炭中の位置(層準といいます)によって、堆積速度が見積もれます。泥炭は3000年前くらいから形成されていますが、その堆積速度は1mm/年程度でした。速い(厚い)ところもでも、1.3mm/年と計算されます。非常に、ゆっくりとしたスピードでしか堆積していきません。
 ところが、水路の直線化や農地化などの結果、湿原の植生や生態系の変化も起こってきています。保護している地域に手を加えてないとしても、水系はその地域だけで閉鎖したものではなく、上流や流域全体につながっています。湿原の再生にも取り組まれています。
 人が成した区分どおりに、植生が切り取られたまま維持されたり、生態系が営まれているわけではありません。人の生活と自然との共存、ここでも切実な問題となっています。

・豪雪の交通障害・
1月からの何度も豪雪があり、
北海道、特に札幌とその周辺では
交通に大きな障害がでています。
あまりに多い積雪で、除雪や排雪が間に合わず、
道路が半分ほどの幅しかなくなっています。
我が家の家の周りでも経験したことのない
雪山の高さになっています。
バスの運休、間引き運転になっています。
今も、家の近くではバスが運休しています。

・来年度の調査・
今年になって、COVID-19のオミクロン株が、
世界、そして国内でも感染爆発が起こっています。
今年の野外調査はどうなるのか、
なかなか見通しが立ちません。
研究は止めるわけにはいきません。
来年度の競争的研究費の申請を出す時、
調査についても考えました。
野外調査ができるものとして申請しました。
ただし、道内だけでの野外調査として、
まん延防止や緊急事態など措置がとられたら、
大学や行政の指示に従うことで申請しました。

2022年1月15日土曜日

205 知床岬:段丘と断崖

 知床半島の先端に知床岬があります。岬までは道路もなく、たどり着くのは困難です。しかし、遊覧船を利用すると、上陸はできませんが、だれでも知床岬を眺めることができます。


 知床岬を、年頭に紹介したいと、以前から思っていました。北海道の中でも知床は、私にとってもっとも興味があるところで、以前から訪れるからには、じっくりと時間をかけて見て回りたいと考えていました。見たところが見れた時、紹介しようを考えていたのですが、3年越しになりました。それは、見たいポイントへ、なかなかたどり着けなくて、何度も訪れることになったためです。
 2019年6月、最初の訪問で、いきたい場所として、知床岬、知床峠、知床五湖、フレべの滝、オシンコシンの滝、カムイワッカの滝、知床硫黄山と考えていました。もちろん優先順位がりました。知床岬と知床五湖でした。
 知床五湖とフレべの滝は、クマの出現で入れなくなり、知床峠へは2度も訪れたのですが、霧で全く展望がありませんでした。見れたのは、知床岬とオシンコシンの滝でした。
 時期を選ぶ必要があると考え、クマの出没が落ち着いている2019年10月に訪れました。カムイワッカの滝へはマイカーで入れましたが、フレべの滝、知床五湖がクマの出現で、または入れませんでした。知床峠も霧で眺望はありませんでした。
 2020年は新型コロナウイルスで出かけられませんでしたが、2021年に出かけられるようになった時、9月の訪問で、知床五湖、フレべの滝、そして晴れた知床峠の景色を眺めることができました。
 知床硫黄山は断念したのですが、それ以外の知床でいきたいところは、足掛け3年かけて、やっと訪れることができました。その結果は、2019年6月の「174 知床半島:雁行の並び」と2021年10月の「202 硫黄山と知床五湖」として、このエッセイで紹介しました。
 以前から知床岬をエッセイで取り上げたいと考えていました。しかし、それは見たいところ一通りみてからと決めていました。そして、念願を叶えるのは年のはじめと考え、今回のエッセイにしました。
 知床にいったら、テレビなどで象徴的に示される知床岬の先端にある、きれいな海岸段丘を、自分の目で見たいと考えていました。いきつくためには、数日間のキャンプをしながら、かなりのアップダウンの道のりを進まければなりません。私にはそのような体力はありません。
 知床岬へのもうひとつのアプローチとして、上陸はできませんが、遊覧船で先端までいって遠くから眺めるという方法があります。2019年6月、最初に知床を訪れたときに、知床岬までいく遊覧船に乗って見ることにしていました。
 この遊覧船は、ウトロから出航して、岬近くまで海岸を見学しながら進むものでした。幸い、波も穏やかで、晴れていはいませんでした、眺望のきく航海日和でした。私のメインの目的は知床岬の海岸段丘ですが、途中で海食崖、火山地帯、溶岩などを遠望できました。運がよければ、ヒグマも見ることができとのことでしたが、幸い3箇所でみることができました。
 半島の先端の知床岬では海岸段丘がありますが、半島の両側の海岸線は切り立った断崖が連なっています。半島の崖の連なる険しい景色から、先端に着くと、突然、海岸段丘の穏やかな景観が見えるという、コントラストが魅力になっています。半島の崖沿いには少しでも浜があれば、番屋が建っています。人の営みのたくましさと、知床の海の豊かさを感じさせます。
 知床の地質はすでに紹介していますが、概要を復習しておきましょう。活火山も含んだ火山が列をなしています。多数の峰がありますが、主だったものとして、知床半島の付け根(南西側)から斜里(しゃり)岳、海別(うなべつ)岳、遠音別(おんねべつ)岳、知西別岳(ちにしべつ)、羅臼(らうす)岳、知床硫黄岳、知床岳が連なります。第四紀の火山で、90万年前から現在にかけて活動した火山です。中でも、羅臼岳は1660mの標高があり、知床半島で最も高い標高をもつ活火山となっています。
 知床半島は、火山だけでなく、その下(基盤)には、900万から100万年前(新第三紀の中新世から更新世にかけて)の泥岩、砂岩、海底火山噴出物の地層があります。この地層は、海底で溜まったもの(海成層といいます)で、古いものから、忠類(ちゅうるい)層、奥蘂別(おくしべつ)火砕岩層、ヌカマップ火砕岩層、越川層、幾品層、知床岬層に区分されています。長い火山活動と海成層の堆積の時代がありました。
 知床半島の形成は、プレートの斜め沈み込みによって押されたためにできました。圧縮で中央部(知床山脈の部分)が持ち上げられ(背斜構造とよばれるもの)、その軸方向(知床半島の伸びる方向)の中心は引っ張られることになり、割れ目ができます。そこに沿って火山噴火が起こります。このような地質環境ができたため、海底での火山活動による火山砕屑物と堆積物が、継続的に海底にたまりました。それが基盤となりました。
 背斜による上昇が継続したため、半島周辺に深い海底ができます。その境界には切り立った崖ができます。崖が今も切り立っているということは、知床半島は今も上昇を続けていることになります。知床半島の上昇と火山活動が継続することで、やがて陸地での火山活動へと変わってきました。そのすべての原動力は、太平洋プレートが斜めに沈み込んでいるためです。
 岬の先端付近にだけに、海岸段丘があり狭いですが平野となっています。知床岬の段丘面が、穏やかな景観を形作っています。地形解析によると、100m前後(高位段丘面)、70m前後(中位段丘面)、20m~30m(低位段丘面)が見分けられています。これは、何度かの断続的な上昇運動があったことを意味しています。低段丘面が知床岬の先端に広がっていますが、地図では、岬周辺の海中には波食棚の地形もみられます。
 知床半島の先端が持ち上げられる力が、今も働きつづいてることになります。もし隆起活動が起これば、さらに段丘面がひとつ加わりることになります。
 知床岬だけにある何段か海岸段丘の存在は、知床半島、あるいは北海道の生い立ちを示していたのです。

・繰り返される大雪・
明けましておめでとうございます。
北海道は12月末から1月中旬にかけて、
何度も寒波が襲来しました。
そして今週も寒波が襲いました。
その度に、道路も雪で狭くなり、
JRも空の便でも交通が乱れました。
大量の積雪で除雪もおっつかない状態が
繰り返し起こっています。
久々に大雪に何度も悩まされる冬になっています。

・大学入学共通テスト・
このエッセイが届く時は、
大学入学共通テストが実施されています。
我が大学も会場になっています。
教職員総出で、試験に対応しています。
コロナ対策に加え、大雪への対処も
必要になるかもしれません。
全国統一して、さまざまな対象が
細かく規定されています。
そんな事態にならないことを
願うしかありませんが。

2021年12月15日水曜日

GeoEssay 204 洞爺湖:紅葉と観光と火山と

 秋の洞爺湖にいきました。穏やかの湖面の背後の山には、過去の噴火の跡がいろいろと残っていました。火山の噴火が、洞爺に観光資源をももたらしていいます。火山との共存が必要なのでしょう。


 10月下旬、今年最後の野外調査として、道南にいきました。その目的地のひとつが洞爺湖でした。洞爺湖は、以前にも何度か訪れたことがありましたが、このエッセイで、まだ紹介したことがないことに気づきました。今回は洞爺湖を紹介してきます。
 洞爺湖は、2008年に日本ジオパーク、2009年には世界ジオパークにも認定されています。もともと洞爺湖は、湖やその中にある中島、外輪山からの景観など観光地として見ごたえがあり、加えて温泉街もあり保養地としても有名になています。
 訪れたのは秋の紅葉真っ盛りの頃でした。緊急事態宣言は解除されていましたが、まだコロナの影響がありました。観光客は戻りはじめていましたが、施設が閉館のところもありました。私が一番訪れたかった施設が三松記念館でしたが、閉館していたので残念でした。
 洞爺湖では、有珠山が活火山として強く印象に残っています。有珠山の最初の記憶は、1977年から1978にかけての噴火です。ちょうどその時期は大学生で、1978年夏に地質学を専攻とすることが決まったばかりでした。学科全体が騒然としていましたが、特に火山専攻の研究室や所属している大学院生などは、総出で有珠山への対応がなされていました。
 後に指導教員になる先生たちが中心となり、噴火への対応をされました。教授は、連日テレビに出て噴火状況を説明されていて、助手(現在の助教の職種)の先生も手伝いが、大学と有珠山を頻繁に往復されていました。助手の先生は、噴火の激しい時に、近くにいたため、自家用車が火山弾でボコボコになって買い替えたとのことです。
 1979年には、火山学の研究室に配属が決定し、助手の先生のもとで卒業論文を作成することになりました。研究テーマは、火山学ではあるのですが、大昔の海底で噴火した火山が対象となりましたが。
 次の2000年の噴火には、神奈川に住んでいたのですが、学会発表で札幌にいくために、家族同伴ででかけました。有珠山の噴火がみたかったので、洞爺湖に向かいました。激しい噴火で噴煙を上げている有珠山を見ました。子どもたちもまだ小さかったので覚えていませんが、私には強く印象に残っています。2003年には家族で噴火のおさまった有珠山に、ロープウェイで登りました。2002年には現在の大学に転職することは、2000年の噴火当時は、知るよしもありませんでした。
 洞爺湖の南側の湖畔は観光地なので設備も整っており、ジオパークにもなっているので、地質の案内も充実しています。ジオパークガイドも出版(全8巻)されているので、それを片手に観光名所とともに地質の見どころも回ることができます。
 有珠山の噴火では何度も溶岩ドームができる噴火がおこっています。有珠山の活動前には、違いう種類のマグマや火山活動が起こっており、非常に激しい噴火も起こっています。噴火の歴史をみておきましょう。
 11万年前(11.2万から11.5万年前)、洞爺湖は、大規模な火砕流を伴った流紋岩質マグマの噴火がおこりました。その時、直径約10km、水深最大179mの洞爺カルデラが形成されました。
 約5万年前、カルデラの中に火山活動が起こり中島が形成されました。中島は安山岩質マグマの活動で、主に3つのドームからなっていますが、水面下や小さな島として、合計11個のドームからできています。
 約2万年前からは、有珠山での火山活動がはじまります。玄武岩質マグマによる成層火山と周辺のドームなどから活動を開始し、その後も繰り返し噴火をしています。7000年前から8000年前には、山頂部が有珠湾側へ崩壊し(山体崩壊といいます)、麓に岩屑なだれが起こりました。その時、含まれていた大きな岩塊で、でこぼこした地形(流山地形といいます)が形成されました。
 いったん活動はおさまったのですが、1663年からは再度、火山活動が起こります。350年間で8回の噴火が起こっています。それが1977-1978年と2000年の噴火へとつながっています。いずれもデイサイト質から流紋岩質のマグマの活動で噴火して、溶岩ドームを形成しています。
 1977-1978年の噴火では、山頂から4回の噴火が起こり、火山灰が広く道内で降りました。この時、札幌に住んでいたのですが、雨まじりの火山灰が降ったのを覚えています。噴火で発生した泥流や火山灰、断層などで、洞爺湖周辺の大きな被害がでました。
 2000年は、噴火予測情報が出され、衆人環視のもと、噴火が起こりました。4日前の前兆現象(火山性地震)が多発したことで、火山噴火の予測がなされました。メディアが注目する中、噴火が起こりました。2000年の噴火予知とそれに基づいた避難が成功した世界でも稀な例となりました。その予知は、1977-1978年の噴火の経験が活かされた結果です。
 住民の事前避難がおこなわれました。家屋や施設には大きな被害がでましたが、直接の噴火による死傷者はでませんでした。火山学の成功した例となりました。
 さて、訪れた10月末の洞爺湖は、快晴でした。湖の周回道路を車で走りました。紅葉の赤や黄色、湖畔のキラメキ、青空の青、外輪山の向こうには白く冠雪した羊蹄山も見えます。絶好の調査日和でした。しかし、洞爺湖温泉の後ろの山麓を巡ると、噴火によって破壊された家屋、断層でずたずたにされた旧国道と交差点にできた池など、噴火の激しさを記録して残したジオパークの見学ポイントも設けられていました。
 洞爺湖は活火山と温泉と観光が密接し、共存しているところです。紅葉とドームの姿も、その地質学背景の現象を考えると、不思議な景観にみえてきます。

・師走の冷え込みと雪・
師走となりました。
放射冷却で冷え込みもあり
一面が真っ白の霜が下りること度々ありました。
先日も大荒れという予報でしたが、
わが町では少しの積雪で済みました。
何度もの積雪もあり、冬に入りました。
そろそろ根雪も近いのかもしれません。

・4年生・
4年生は12月の上旬になんとか卒業研究の提出も終わり、
あとは報告会の準備へと移りました。
今年卒業の4年生のために、学位記授与式が準備されています。
今年度こそは、無事開催されることを願っています。
一昨年は個別にばらばらに学位記を取りに来るだけでしたが、
昨年度は、学科ごとに集まって学位記を渡すことができました。
いずれも全学的な集まりはありませんでした。
今年は、例年のようにホールに集まり式典がおこなわれる予定です。
しかし、祝賀会などの飲食は中止です。
学科の式のあと、少し話すだけの時間はとれそうですが、
少々さみしい学位記授与式となりそうです。
でも、一昨年の比べるとよくなっています。
卒業する学生と保護者の方々にとって
学位記授与式は一期一会の機会です。
例年のように華やかに送り出せないので残念です。