2023年4月15日土曜日

220 城川の地質:黒瀬川のほとりにて

 愛媛県南西部に位置する西予市に滞在しています。2010年にもサバティカル(研究休暇)で1年間滞在したのですが、今回は半年間を過ごします。滞在地でもある城川とその周辺の地質の概要を紹介しましょう。


 11年ぶりに西予市城川町に戻ってきました。サバティカルという大学の研究休暇の制度を利用して、4月から半年間、この町で過ごすことになります。できれば、1年間滞在して、季節や地域の行事など一周り堪能したかったのですが、大学の制度なので仕方がありません。前回は単身赴任でしたたが、今回は夫婦で滞在することになりました。西予市の城川支所の3階の部屋を借りて執務しています。
 家内は、2度ほど城川に来たことがあったのですが、もうかなり昔のことなので、ほとんど覚えていません。道などは全く覚えていないので、今回がはじめてのようなものです。半年間、車を借りているのですが、私は徒歩で通勤しているので、主に家内が車を使うことになります。家内は、店がある隣町までの道、執務室がある城川支所までの道などを覚えるのに、時間がかかっていました。北海道はまっすぐな道が多のですが、本州それも山里では、曲がりくねった道が多くなります。方向感覚が狂ってしまい、間違ったところを曲がってしまうこともあります。そのため、曲がるべき角の目印を見つけて覚えることが重要になります。さすがに2週間ほどしたら、家内もいつも通る道は覚えたようです。
 さて、前置きが長くなりました。地質調査には4月下旬には予定をしていますが、まだ調査には出ていません。そこで今回は、滞在している城川町を中心にした地質の概要を紹介していきましょう。
 城川町は、市町村合併で西予市となったのですが、古くから地質学では有名なところです。城川地域には、秩父帯と黒瀬川帯の地層が分布しています。この2つの帯の地層は、日本の初期地質学の発展の一翼を担ってきました。
 日本の地質学の黎明期から、秩父帯は四国でも調べられていて、1890年には原田が高知県領石、蔵法院、佐川の周辺の化石を、1891年には横山が徳島県勝浦川盆地の化石を調べています。そして、1910年には地質調査所から四国の20万分の1の地質図が発行されています。
 1920年代になると四国の各地で調査が進められました。1930年代になると小林の一連の研究で、佐川盆地でナップという考えで秩父帯の構造を説明し、1941年には、日本列島の地質構造の形成史を、佐川造山輪廻説としてまとめました。これは日本における、地向斜造山運動論という考えにおいて、ひとつの到達点ともなりました。
 1940年代は、戦争の影響で成果はあまり出ませんでした。終戦後すぐに、地質調査が再開され、精力的に研究が進められてきました。1950年代になると、1956年には市川ら、1959年には中川らが黒瀬川帯を調べました。1954年には山下らは、四国をもとにして秩父帯を北帯、中帯、南帯に区分しました。
 城川の黒瀬川帯に関する研究は、1933年に清水と神保によって城川町田穂から三畳紀のアンモナイトが、1952年に石井によって城川町岡成からシルル紀の三葉虫が発見されました。そして、1950年代には、城川を流れる黒瀬川地域が調べました。市川らの一連の研究によって、城川と野村が「黒瀬川構造帯」の典型的な地域(模式地といいます)として報告され、城川の「黒瀬川帯」の研究も進められてきました。この黒瀬川帯、特に黒瀬川構造帯が、城川を際立たせる地質学的特徴となっています。
 黒瀬川帯の中に黒瀬川構造帯はあります。その岩石類は、黒瀬川帯の岩石と比べて異質で、より古い岩石からできています。古生代の初期から中期の岩石で、火成岩類(三滝火成岩類と呼ばれています)と変成岩類(寺野変成岩類)、堆積岩類(岡成(おかなろ)層群)からできています。
 三滝火成岩類は、花崗閃緑岩類からなり斑レイ岩類を含んでいます。寺野変成岩類は、高温高圧の変成作用を受けた片麻岩、角閃岩、角閃岩からなり珪質片岩や石灰片岩を含んでいます。両岩石類は、大陸の地殻を構成していたと考えられます。岡成層群は、シルル~デボン紀の地層で、火山活動の活発な大陸の近くの暖かい浅海で溜まったものです。
 黒瀬川構造帯の岩石は、古生代に、大陸をつくっていた岩石やその周辺の大陸棚でたまった岩石となります。その分布は連続したものではなく、東西方向に複数の列をなして点在しています。四国では、東から点々と城川の滝山-辰ノ口-岡成まで分布しています。ところが、野村から三瓶の海岸までの間、約25kmにわたって黒瀬川帯の岩石が途切れます。そして、三瓶町周木で再び出現しますが、その先は豊後水道に消えていきます。
 黒瀬川構造帯以外の黒瀬川帯は、中生代の新しい時代に形成された付加体と大陸棚堆積岩からできています。付加体は、ペルム紀末~中生代初頭に形成されています。黒瀬川構造帯の北縁に分布する長崎層群、野村層群、窪川累層になります。
 大陸棚堆積岩は、礫岩層を含む粗い堆積岩や珪長質凝灰岩を挟む地層(砂岩泥岩互層)で、大陸から由来した堆積物(陸源堆積物と呼びます)からできています。宮成層群、土居層群、川内ヶ谷層群、嘉喜尾層群、成穂層があります。礫岩には、花崗岩、珪長質火砕岩類、石英斑岩、ヒン岩、砂岩の丸い大きな礫が含まれ、川で運ばれたことがわかります。地層の中からは、ペルム紀、三畳紀、ジュラ紀の化石が見つかっています。
 秩父帯は、黒瀬川帯で二分され、北側を北帯、南側を南帯(三宝山帯とも呼ばれています)となっています。いずれも付加体でできました。
 秩父帯北帯は、付加体の中の岩石には、石炭紀、ペルム紀、三畳紀、ジュラ紀などの岩塊がありますが、付加した年代は中期~後期ジュラ紀となります。秩父帯南帯は、前期~中期ジュラ紀に付加したものです。上には後期ジュラ~白亜紀の浅海性の地層が覆っています。野村では、野村層群、高川層群、古市累層、今井谷層群、菊野谷累層に区分され、宇和-三瓶地域では、板ケ谷層、三島層、田之浜層などに細分されています。
 秩父帯北帯も南帯もジュラ紀の付加体できていて、黒瀬川帯の付加体と比べて、新しい時代のものになります。
 城川の中央には東西に黒瀬川構造帯と黒瀬川帯が走り、その南北に秩父帯があります。これが城川の地質の概要となります。城川にはその中を流れる川があり、黒瀬川となります。城川の川津南の高知との県境の山を源流として、城川を流れ、野村の坂石で本流の肱川に合流します。黒瀬川が黒瀬川構造帯の名前の起こりとなっています。黒瀬川のほとりで、これから半年間、暮らしていきます。

・第二の故郷・
久しぶりの城川町は、やはり居心地がいいです。
昔からの知人もいて、新しく知り合った人もいます。
北海道から来ても、馴染みやすく、親近感が持てる環境です。
山間であっても、住みよい環境に感じます。
何度も来ているので、戻ってきたという気がします。
城川は第二の故郷となっています。

・復習を兼ねて・
4月下旬にジオミュージアムで、
市民向けの講演を頼まれました。
このエッセイは、その準備のために、
過去の資料をひっくり返しながら
またいろいろ思い出しながら、
書き進めてきました。
お陰でいろいろと思い出してきました。

2023年3月15日水曜日

219 館の岬:自然の営みとしての変化

  道南の乙部町には、きれいな縞模様の見える海岸の崖が名所です。その崖が大雨のために崩落しました。生活道でもある国道が、崩落で使えなくなりました。なぜ崩落し、どう復旧していくのでしょうか。


 2020年から2022年にかけて、COVID-19で社会が振り回され、それ以外のニュースは、影を潜めていたように思えます。その期間にも、災害がいろいろ起こっていたはずなのですが、人身に及ばなけば、メディアでの扱いは大きくなりません。災害が地元の人にとって、長期にわたって苦労を強いるものであっても、世間から顧みられることは少なくなります。そんな災害が、道南の乙部町で起こりました。
 乙部町は、日本海に面した道南の町です。道南の日本海側には、観光名所もいろいろあるのですが、観光客がそれほど多くは訪れないようです。乙部町は、地質学的には見どころがある地域であるとともに、居心地がいい町なので、何度も訪れています。
 国道229号が海岸沿いに通っており、そのコースは心地よいドラブができます。北から向かうと、まずは鮪(しび)の岬で、見事な柱状節理が目に入ります。脇道にはいっていくと、柱状節理の上を歩いて、先端までいけます。
 国道をさらに進んでいくと、館の岬で海岸線の崖にたどり着きます。その崖には、見事な地層が見えます。現在、海岸沿いで崖があるということは、崖の切り立った面が常に更新されているということで、侵食が現在も進行しているということです。そのため、大雨などが降ると、割れ目などがあると崩落してしまいます。
 2021年6月に、館の岬の地層が崩落しました。5月16日から17日かけて大量の降雨があり、6月4日にも激しい降雨がありました。2021年は、4月から降雨量が多く、過去10年の平均の2倍ほどになっていました。この崖は、凍結融解による地盤の緩みがあったようで、そこに大量の降雨がありました。
 6月6日(日曜日)18時過ぎに、この崖が崩壊しているのが発見されました。崩壊規模は、幅35m×高さ40m×奥行き5mでした。崖と国道の間には防御壁もあったのですが、それを乗り越えて崩落してきました。
 幸い人的被害はなく、防御壁と道路の被害だけになりました。しかし、この崩壊で国道は通行できなく、迂回をしなければなりませんでした。もともとあった道を利用する迂回路は、17kmもあり、生活道として必要な人は使うでしょうが、国道を通るために、この迂回路を利用するのは面倒になります。
 この崖は、舘層(たてそう)と呼ばれれう地層からできています。新第三紀の中新世(2300万年前から250万年前)の地層です。
 これらの地層は、いずれも層状の互層になっているため、縞模様がきれいな崖となっています。「東洋のグランドキャニオン」とも呼ばれています。地質学的には興味深いところです。
 舘層は、火山砕屑岩(凝灰角礫岩、凝灰岩、軽石凝灰岩)と堆積岩(泥岩から砂岩)からできています。下には、泥岩から凝灰質砂岩があり、上に凝灰角礫岩から凝灰岩、軽石凝灰岩、凝灰岩などが重なっています。舘層の岩石は、それほど硬くないもので、雨や水に侵食されやすいものです。
 その上に第四紀の更新世(250万年前以降)に段丘堆積物が覆っています。舘層の上の段丘の堆積物は、砂や礫からできています。段丘の堆積物は、まだ固まっていないので、より侵食を受けやすくなります。段丘の地表の谷沿いには、地滑りも起こっています。
 崖の更新や侵食は、人の時間の流れよりずっとゆくりした、自然の時間の流れで進みます。人は防災として、自然の時間の流れを予測して対処していなければなりません。自然の営みを予測することは容易ではありません。同じ危険度が継続するのではなく、長い時間崩落がないときほど、崩落の危険性は大きくなるはずです。そのような時間変化も考慮しなければなりません。
 この崖の下の国道を復旧しようとしても、今後も似た崩壊が起こるような地層からできています。現状の国道を復旧しても、崩落の危険性は残るため、完全に復旧するためには、いろいろな検討がなされ、山側の新たに2kmのトンネルを掘削することが、もっとも安全だということで合意されました。そのためには、7年から10年の工期がかかることになります。
 完成までに長い時間がかかり、現状の迂回路ではあまりに不便で、生活にも支障をきたします。そこで、2022年4月に、崖の上を通る「応急復旧短絡路」がつくられました。
 2021年6月の崩落の直前、5月に乙部町を訪れています。その後、崩落が起こりました。2022年10月には再度訪れたときは、段丘の上に真新しい迂回路ができていました。この新しく整備された短絡路は、勾配もきつく、急カーブも連続します。大型車は通行できませんが、生活道として利用でるようになりました。ただし、夏場の応急道路なので、冬場の夜間は通行止めとなっているそうです。
 館の岬の崖は、現在での通行止めのところから、眺めることができます。崩落以降、トンネルの北側には近づけません。長いトンネルが完成すると、崖に近づくことはもっと難しくなるかもしれません。トンネルは地質学的には残念ですが、人の命、人の生活、安全が優先されるべきでしょうね。

・学位記授与式・
コロナ禍もおさまり
通常の生活もだいぶどってきました。
大学では学位記授与式が通常通りにおこなわれます。
ただし、3つに分散しておこなわれます。
飲食はできませんが、今年から3年ぶりに、
大学の公式の祝賀会も実施されます。
現在の4年生とはコロナ禍で、
まったく懇親会をすることができませんでした。
やっと緩和されたので、最後ですので
ゼミでの祝賀をしたい思っています。

・マスク着用の緩和・
13日から、マスク着用が緩和されました。
しかし、施設内や狭いところでは、
着用が推奨されています。
多くが個人の判断にまかされます。
これまでの風邪と同じ状態になりつつあります。
5月にはCOVID-19も2類から5類になり
インフルエンザの同じ扱いになります。
マスク着用はどうなるでしょうかね。

2022年12月15日木曜日

216 フレペ滝:溶岩から流れる乙女の涙

  知床は、知床五湖、オシンコシンの滝、カムイワッカの滝、野生の自然など見どころもたくさんあり、多くの人が訪れます。観光地にはなっていますが、あまり人が訪れないフレペ滝を紹介します。


 8月末に北見で校務があったので、その終了後、続きで知床に調査にいきました。知床には、ここ最近、何度か来ています。知床は、国立公園で世界遺産でもあるので、自然保護がされていており、ヒグマなどの野生との共生のため、見て回るルートが限られています。ヒグマが目撃されたら、そのルートは入ることができなくなります。以前にも訪れたところを巡りました。知床は、何度でも見て周りたいところです。
 今回は、フレペ滝とその周辺の話題です。草原の中を通り抜ける散策道を突き当りまでいくと、木造の展望台があります。そこから、フレペ滝を見ることができます。滝は遠くからしか見ることができないのですが、なかなかきれいな滝です。大きな湾状のくぼみの奥の崖に、滝あり流れ落ちています。この滝について紹介しましょう。
 北東に伸びている知床半島は、中央部には知床連山の高まりがあり、海岸は断崖が続くところが多くなっています。海岸沿いが崖が多いため、人が近づきにくいところなので、自然が残されています。陸の自然、海の自然も豊富なところです。半島で少しだけある平らな海岸には、船がつけられるので番屋ができ、夏の間だけ漁がなされます。
 険しい崖になっているのは、知床半島が新しい火山からできているためです。知床連山は、付け根からみると、斜里岳、海別岳、遠音別岳、羅臼岳、硫黄岳、知床岳などの山が続きますが、いずれも90万年前からあとに活動した第四紀の火山からできています。
 火山の土台になっている岩石(基盤岩といいます)は、海底で堆積した地層からできています。900万から100万年前くらいまでの新第三紀に堆積したものです。基盤の地層は砂岩泥岩からできているのですが、火山砕屑岩類も含んでいます。いずれも海底でできたものです。
 古い方から順に、忠類層、奥蘂別(おくしべつ)層、ヌカマップ火山砕屑岩層、越川層、幾品層、知床岬層となっています。基盤岩の上に火山噴火による地層が重なっています。地質図を見ると、火山岩の下には、あちこちに点々と新第三紀の基盤の地層が顔を出しています。知床半島の付け根に近いほど古い地層をみることができます。
 火山は陸での噴火活動です。知床半島全体が、第四紀になってから陸化したことになります。知床半島は新しい大地となります。
 さて、フレペ滝です。この滝を海から見ると、奥まった湾の断崖から、静かに水が流れ落ちている滝がみます。陸からいくには、知床自然センターからはじまる散策路があり、平らな草原(幌別台地)の中を20分ほど歩きます。北側に灯台への道がありますが、南へのいくのが散策コースとなっています。散策路の先、崖に面したところに、滝を見るための展望台があります。
 平らな草原には、川の流れがないのですが、滝からはかなりの量の水が静かに流れ落ちています。「乙女の涙」と呼ばれる滝です。海側から見ると、平坦な草地から急な崖は、上部の斜面は草がついていのですが、そこには川の流れは見当たりません。崖の途中から、水が崖から直接流れでて、滝となっています。不思議な滝です。
 滝の水は、山にふった雨や雪が地中に浸透し、地下水になったものが、崖で直接流れ出ていることになります。崖では、海面近くに柱状節理が見えますが、内部の大部分は固そうな溶岩となっています。これは羅臼岳から流れ出た溶岩がみていることになります。溶岩は柱状節理などの割れ目ができて、水が染み込みやすいのですが、固い溶岩のところは水が流れにくくなっています。平らな草原に染み込んだ水が、固い溶岩の上部を地下水として流れ、崖で海に流れ落ちたのが、滝となっているようです。知床半島には似たような滝が多数あります。
 羅臼岳は15万年前から1万8000年前に活動した火山です。知床半島で最も高い山で、新しい火山でもあります。フレペの滝は、羅臼岳の古い時期の火山活動によるものだと考えられます。羅臼岳は、噴火の歴史的な記録は残っていません。研究が進んできたので、噴火の歴史がわかってきました。年代測定の結果、2300年前ころ、1600年前ころ、700年前ころに火山活動があったことがわかってきました。活火山は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と定義されているので、研究の進行により、1996年に活火山に指定されています。
 700年前ころの年代値は、690±50年と790±50年がでています。平均すると740年前ですから、西暦1280年ころになります。そのころは、ちょうど鎌倉時代後期にあたります。この時代であれば、火山活動があれば、記録に残っていてもいいはずです。知床は北海道でも最果て地ですし、海岸も崖で平地も少ないので人が住みにくいところでしょう。そのため、記録にも残りにくいところだったのかもしれません。なんといっても、元寇があった時期です。幕府や都の人の興味は、元寇のため西に向いていたのでしょう。
 今では、知床には多くの観光客が訪れています。知床は、国立公園でもあり、世界遺産にもなっています。そのため、限られた場所しか見て歩くことができません。また冬は寒さや雪もあるので、観光には適さない時期もありますが、夏には歩けないところや流氷などをみることできます。しかし、冬はなかなか厳しでしょうね。

・地質図・
日本中の地質図は、
産総研地質調査総合センターの地質図Navi
https://gbank.gsj.jp/geonavi/docdata/help/img/geonavi-image.jpg
で見ることができます。
GoogleMapや地形図や衛星画像などを
重ねることもできので見やすくできます。
なかなかすぐれたもので
市民でも簡単に利用できます。
ぜひ試してみてください。

・大雪・
このエッセイは予約配信しています。
月曜日に校務があるのですが、
もともと私用で一泊する予定でした。
近くの野外調査をしようと考えていました。
一気に降った雪のため
野外調査できなくなりました。
高速道路が雪で速度制限がかかっていると聞きました。
そのため、前泊して校務に望むことしました。
このエッセイも事前に配信しました。

2022年10月15日土曜日

214 青い池:複雑な連鎖

 十勝岳は活火山で、かつて火山噴火で大きな被害を出しました。防災対策として堤防がつくられました。火山の成分を含んだ川と防災によってできた池が、観光地となりました。複雑な連鎖が起こっています。


 9月中旬に十勝岳を訪れました。夏休みも終わり、紅葉にも早い時期、そして平日にでかけました。人が少なくなる時期を見計らってでかけました。ところが、有名な観光地では、多くの人が訪れていました。ここしばらく、コロナ禍で人出の少ない状態を見ていたので、より多く感じたのかもしれません。
 今回、十勝岳を訪れたのは、周辺の地質を見るためです。「青い池」という観光地も、目的のひとつにしていました。「青い池」は、その幻想的な色が魅力です。普通の水の色ではない、不思議な色合いになっています。写真をみてその色を確かめて欲しいのですが、本当にきれいな色合いです。今では、この付近ではもっと賑わう観光地となっていました。
 もうひとつの目的は、青色の源となっている「白ひげの滝」を見ることです。十勝岳周辺は、以前にも回ったことはあるのですが、青い池も白ひげの滝もみていませんでした。ですから、今回はじっくりと見学することにしました。
 「青い池」と呼ばれていますが、青より淡いコバルトブルーで、さらに濃淡もあり、光が当たれば淡くなり、影では濃く見えます。水底の状態でも色合いが変わります。
 青い池は、防災工事の後に水たまりできた池でした。1926(大正15)年5月の十勝岳の火山噴火で、大規模な水蒸気噴火が起こりました。その時、山頂にはまだ残雪があり、雪が溶けて大規模な火山泥流が発生して、美瑛川と富良野川に大きな被害をあたえました。火山泥流は、美瑛川では、上流の白金温泉街から美瑛の街までを襲い、多くの死者、行方不明者をだしました。
 十勝岳の火山噴火による被害を教訓にして、洪水や氾濫を防ぐために、美瑛川では砂防堤防がつくられました。1988(昭和63)年には、さらにブロック堤防もつくられました。ブロック堤防は、十勝岳の噴火で泥流が発生した時、それを食い止める目的でつくられました。
 ブロックの外側は、もともとは増水時に周辺への浸水を防ぐためにつくられた緩衝地帯でした。緩衝地帯に美瑛川の水がたまり、池となりました。水の出入りがあまりない池ですが、それが幻想的な青い色の池となっていました。
 もともとは立ち入りが禁止されていたところだったので、有名になり見学者が多くなったため、町おこしとして、遊歩道や駐車場を完備し、土産物屋もできました。今では、この付近では一大観光地となってきています。
 池の水の色は、普通の水の色ではありません。どのようにして、このようなコバルトブルーの色がついたのでしょうか。答えは、美瑛川の上流にあります。3kmほど上流に「白ひげの滝」と呼ばれものがあります。これは、尻無沢が合流しているところです。川から流れ出ているものもありますが、地層の間から湧水として流れ出しているものがあります。滝を注意して見ると、白っぽい乳白色の堆積物が出ているところあります。
 白ひげの滝は崖となっています。崖の下には、30万年前の土石流で流れ出た礫岩が溜まっています。その上には17万から25万年前の平ヶ岳溶岩が板状に見えています。下の砂礫から流れ出た水は酸性になっているため、乳白色の沈殿物がたくさんできて見えています。
 この色についは、福島大学の高貝・阿部(2014)で調べられていて、アルミニウムのサイズの不定形で、組成もバラバラのコロイド粒子になっていることがわかっています。その形状が短い波長の青い光をたくさん散乱するため、青く見えるようです。
 滝の下を流れている美瑛川の河原の中の石を見ると、乳白色の沈殿物ができています。沈殿物の周辺の水が、コバルトブルーに見えています。川全体がそのような状態になっています。さらに、白ひげの滝の上流を流れる水も青く見えています。上流でもやはり十勝岳から流れている硫黄沢川があります。そこでも乳白色の沈殿が起こっているようです。
 火山地帯を流れた川や地下水にはアルミニウムが多く含まれていて、それが中性で水量の多い美瑛川の水にふれることで、コロイド粒子ができるようです。下流の青い池の色も、この複雑な作用の連鎖が原因となります。
 青い池では流れることがないので、水面が穏やかなので、より水の色がより青く見えています。そこに立ち枯れの木が多数あるので、幻想的雰囲気をより醸し出しています。
 十勝岳の火山の成分のアルミニウムを含んだ水が、川に入り込んで青い水になました。十勝岳の噴火による被害の防災のために河川工事をしたところ、その緩衝地帯に思いがけず水たまりができました。青い川の水が流れ込んで青い池ができました。今では防災のための池が、観光にも利用されるようになりました。十勝岳では、このような自然災害と防災、そして観光の不思議な連鎖が起こっているようです。

・観光・
外国人観光客もちらほら見かけました。
国内在住の人もいたでしょうが、
観光バスで海外旅行として
来られている人も含まれているようです
観光業界として望ましいことなのでしょう。
静かに露頭を見たにものには
少々騒がし感じました。
まあ、そんな希望は稀なものでしょうね。

・昔の訪問・
当時の記録をみると、
以前訪れたのは2005年7月でした。
天気は悪くはなく十勝岳は見えていたのですが
霞んでいたため、すっきりとしは見えていませんでした。
今回は晴れていたのできれいにみることができました。
青い池も当時は観光地にはなっていず、
白ひげの滝のところも通り過ぎただけでした。
まあ、知っていたとしても、
立ち入り禁止だったのでしょうから
みることはできなったでしょうが。

2022年9月15日木曜日

213 水無浜:幻の温泉

 秘湯というと、人があまり訪れないような、不便ところに多いのですが、今回紹介するのは、アプローチはしやすい温泉です。舗装された道もあり、設備も整っている無料の露天の温泉です。そこは、幻の温泉と呼ばれています。
 温泉に入ることが目的で出かけることありません。ただし、宿泊する時は、温泉旅館があれば、そちらを優先しますが。地質調査で奥地に入ると、秘湯と呼ばれるところへや、だれも知らないようなところで温泉や湧水も見つけたこともありました。調査中に、裸になって入ることはありません。今回も秘湯を訪れたのですが、入りませんでした。
 道南には椴法華(とどほっけ)という名の村がありました。2004年には函館市に併合されました。北海道に来てすぐに訪れた時は、椴法華村でした。その後、2007年に訪れた時には、函館市になっていました。今回、椴法華の幻の温泉を訪れたので、紹介しましょう。
 道南では函館が一番の都会ですが、少し外れると人家は少なくなっていきます。函館の西には、大千軒岳(だいせんげんだけ)を主峰とする深い山並みが広がります。東には、恵山(えさん)から駒ケ岳(こまがたけ)に続く活火山の山並みがあります。いずれも山深いなので、函館から少し離れると鄙びたところなります。
 海岸近くに恵山があるため、海岸は断崖になっており、道が途絶しているので、海岸を周回することはできません。道路は、恵山の西裾を通っています。恵山の東部は、行き止まりの道路となり、不便なところなります。しかし、そこには観光名所があり、恵山に由来する温泉もいくつかあります。
 南側から回ると、恵山に登るための登山道があります。北側からまわっていくと、道の一番奥が一方通行のループになっており行き止まりです。そこに無料の露天風呂があります。水無海浜温泉と呼ばれるもので、少々変わっています。
 水無海浜は、古くからその存在は知られているようで、椴法華村史(1989年発行)によれば、松浦武四郎の蝦夷日誌の1847(弘化4)年5月に、
「水無濱、少しの砂浜、水無より此名あるかと思う、昆布取小屋有、人家も二、三軒、近来漁事の便りなるが故にここに住すとかや」
と記されていることから、江戸時代には、水は出ない浜なのですが、ここに人が住んでいて、昆布取りや漁を営んでいたことがわかります。人が住んでいたのなら、温泉の存在も知られていたのでしょう。
 水無海浜温泉は、現在も無人の露天風呂で、だれでも自由に無料で入ることができます。夏場だと、時間外でも海水浴は可能でしょうが、岩場なので泳ぐよりは磯遊びをするところでしょうか。
 ただし、入浴できる時間帯が限られていて、日によって変わります。潮が満ちてくると、海水が風呂の縁を越えて、湯船に入り込むため冷たくなり、湯船も見えなくなります。また、干潮時には温泉そのものの温度になるのですが、源泉の温度50℃になるので、今度は熱くて入れなくなります。ですから、干潮の満潮の間の時間だけが適温となります。入れる時間帯が限られることもあって、「幻の温泉」と呼ばれています。
 潮の関係で、1日1回しか入れない日も、3回入れる日もあります。また、入浴可能な時間が10時間のこともあれば、2時間ほどしか入れない時間もあります。潮任せなので、温泉に入りたいのであれば、事前に調べておくべきでしょう。
 水無海浜温泉は、古くから知る人ぞ知る温泉です。1918(大正7)年の郷土誌には、
「恵山麓字水無ノ海岸ニ湧出ス此温泉ハ極メテ僻陬(ヘキスウ)ノ地ニアリ潮来レバ水ニ浸ルヲ以テ湯泉場トシテノ設備ナシ。」
と書かれています。当時は、温泉が出ていて、潮がひた時にしか利用できず、温泉場としての設備もなったようです。
 それと比べれば、現在は男女別の脱衣所もあります。湯船も2箇所で3つあり、縁の高さが変えてつくられています。そのため、温度に違いがあり、入れる時間が長くなっているのでしょう。今では入れる時間帯が示された表が、温泉の脱衣場の近くに掲示されています。ホームページでも確認できるようです。
 しかし、湯船は海岸に開放的にあり、男女の区別がない混浴で、「産まれたままが最高」と看板には書いてあります。ただし、水着をつけてもOKと書いてありますが。
 訪れた時はだれもいなかったのですが、露頭や温泉を観察していると、男性3名が来て、裸になって温泉に入りだしました。他には人はいなかったので、「産まれたままが最高」の気分だったでしょう。私は、もっと温泉や周りの景観を撮影するためだったのですが、それもできなくなり早々に切り上げることになりました。
 階段や波除け、駐車場や脱衣場など、周辺は整備されています。2007年に来た時はゴールデウィークだったので、磯遊びと温泉を兼ねた地元の家族連れが多数来ていました。ですから、地元では知られていたのでしょうが、知る人ぞ知る温泉だったのでしょうね。

・短い夏休み・
先週から今週にかけてバタバタしていました。
重要な会議がいくつかあり、
4年生の卒業研究の指導、
と、ここまでは通常の業務です。
他に、研究授業での指導、本の原稿の入稿、
科学研究費の学内締切り、
そして、野外調査が重なっていました。
すべて先週に終わらせて、
今週は野外調査に集中しました。
来週から、いよいよ後期の講義がはじまります。
短い夏休みも終わります。

・必要とならば・
野外調査に出ているところは、
ほとんどが以前にいったところでの再調査です。
同じところでも、目的が違うので見方が違います。
写真は構図は異なりますが、
被写体は同じ露頭や産状が多くなります。
それでもいいのです。
必要となれば、何度でも訪れます。

2022年6月15日水曜日

210 阿寒湖:ボッケとマリモと

 阿寒湖は、道東の中央、山の中にひっそりと佇んでいます。たどり着くには、険しい山道を進んでいきます。山の湖畔には小さな温泉街があります。ひっそりとボッケとマリモがあります。


 大学でも出張がかなり自由にできるようになり、これまであまりできなかった野外調査を再開しました。5月中旬には、道央で活火山を中心に調査をしていきました。
 最初に大雪山の黒岳の調査を考えていたのですが、ケーブルカーは動いていたのですが、標高の高いところには雪がまだあるようで、ロープウェイは調整中で運休していました。そのため、登るのは諦めました。その後、今まで通ったことのいない大空町の藻琴峠から小清水峠を通るコースで、斜路湖に入りました。これらの峠は、藻琴山の東山麓を超えるものです。
 藻琴山は、以前に紹介した屈斜路カルデラが、160万年から100万年前、最初に活動した火山活動によって形成された古い火山になります。そのためなだらかな山容となっています。峠からは、屈斜路カルデラの全貌を見ることができました。
 翌日、美幌峠へいこうとしていたのですが、霧がすごくて見通しがありそうもないので諦めました。屈斜路湖にくると、いつも見にいくアトサヌプリ(硫黄山)と摩周湖はちゃんと見学してきました。
 前置きがなくなりましたが、今回紹介するのは、屈斜路カルデラの西にある阿寒湖です。道東には火山が多数並んでいます。阿寒湖の西には大雪から十勝岳に続き、東には斜里岳から知床半島に続く火山列があります。北東から南西に伸びた火山列が、140kmにわたって続いています。ただし直線的に並ぶのではなく、「雁行状」と呼ばれるずれながら並んでいます。これは、太平洋プレートが千島海溝に斜めに沈み込んでいるため、斜めの力が陸側(北海道側)にかかって、斜めに割れ前ができ、そこに火山活動が起こるためです。
 さて、阿寒の火山は、雄阿寒岳と雌阿寒岳が大きな山体としてありますが、ひとつではなく他にもフレベツ岳やフップシ岳などの火山もあります。また、雌阿寒岳も、中マチネシリ、ポンマチネシリ、阿寒富士、南岳、西岳、北山、東岳、1042m峰の8つの火山があります。これらすべてを合わせ阿寒火山群と呼びます。
 阿寒火山群もカルデラを形成する火山でした。20万から15万年前に激しいカルデラ噴火を起こしました。その時、3度にわたって大規模な火砕流が流れました。その結果、古いほうから、阿寒下部火砕流堆積物、阿寒溶結凝灰岩、阿寒上部火砕流堆積物ができました。北東から南西に24kmの長さ、北西から南東には13kmの楕円形の阿寒カルデラができました。
 5万年前から2万年前に雌阿寒岳の噴火活動がおこり、デイサイトや安山岩の溶岩ドームとして中マチネシリ、南岳、東岳、1042m峰が形成されました.1万2000年前には中マチネシリで再び激しい噴火が起こり、山頂に火口ができました。9000年前にも火砕流が発生しています。この頃、安山岩マグマの活動で雄阿寒岳が形成され、大きな阿寒カルデラにあった「古阿寒湖」が埋めて立てられ、阿寒湖、パンケトー、ペンケトーに分かれました。
 その後、7000年前から3000年前には、安山岩からデイサイトマグマのポンマチネシリ、玄武岩の単成火山の西山、安山岩マグマの北山が形成されました。そして、2500から1100年前には玄武岩マグマの阿寒富士が形成されました。阿寒火山群は、最近も活動は続いており、小規模は水蒸気爆発や火山灰を降らしたりしています。
 阿寒湖は屈斜路湖や摩周湖と比べると小さく、周りに火山があるので山の奥に分けるようにしてきます。阿寒湖畔には温泉街があります。温泉街から少し歩くと、ボッケと呼ばれるところがあります。アイヌ語で「煮え立つ」という意味の「ポフケ」に由来するもので、泥火山のことです。熱くなったドロが火山ガスとともに噴出している沼があります。ドロは粘性があるので、丸く盛り上がって、不思議な模様が次々と形成されいきます。かつては、岸の近くに高温の温泉が湧いたいたようですが、ちょろちょろと温水が流れているにすぎません。今では、柵があり温度を確かめることができませんでした。
 阿寒湖は、マリモでも有名で国の特別天然記念物にもなっています。日本各地にマリモの生息は確認されていますが、最大では直径30cmにもなるような大きなものは阿寒湖にだけで確認されているそうです。大きなマリモは、5年から9年かけて成長していくそうです。
 阿寒湖でもマリモは北側だけにいます。マリモ保護のため、生息場へは近づけないのですが、阿寒湖の遊覧船でチュウルイ島にいくと、水槽にマリモが置かれており、見学することができます。夏の間だけ生息地からもってきて、冬には戻すとのことです。
 今では、黙って野外を歩くときはマスクが必要ではなくなってきたのですが、まだマスクなしで歩くようにはなれません。阿寒湖畔を歩いているときも、すべての人が、マスクをして外出していました。はやくマスクなしの生活に戻りたいのですが、いつになるのでしょうかね。

・道東の調査・
阿寒や屈斜路の地が気に入りました。
まだ、阿寒で見ていないところがいくつかあります。
その見残したところを見にいきたいのですが、
どうなるのでしょうか。
今週末には道東に調査にでかけます。
道東の調査がメインとなりますが、
帰り道として阿寒を通りますので
寄っていくことにしました。
見残したところを見学する時間があればいいのですが。

・初夏の風物・
6月になって天気の悪い日には
ひんやりとして肌寒く感じる日もあります。
それでも季節は巡り、初夏になってきました。
エゾハルゼミの鳴き声が聞こえます。
早朝には、カッコウの鳴き声も聞こえることもあります。
そんな鳴き声も北海道の初夏の風物となります。

2022年3月15日火曜日

207 北広島:丘陵の海と陸のせめぎ合い

 隣の街の紹介です。時々訪れるところなのですが、決まったルートや場所しかいっていませんでした。コロナ禍で野幌丘陵の南をウロウロしたことで、北広島をめぐりました。すると、思わぬ風景が見えてきました。


 北海道は3月21日まで、まん延防止等重点措置がとられています。その後は、解除になりそうですが、現時点ではまだ決定していません。1月末から3月中旬にかけて、何度目かの自粛生活をしてきました。この2年間、自粛が中心の生活となっていました。その間、校務と研究で、毎日、大学には出ていました。研究室にいるだけで、人に合うことは極端に少なくなっています。会議も、授業も学生指導も遠隔で進めてきました。いくつか教職などの資格で許可をえた授業だけは対面で進められています。3月にも対面授業をおこないました。4月から対面での授業の体制で予定されています。もともと冬場には地質調査にはでかけないのですが、コロナ感染拡大で出かけることはさらに困難になっています。
 さて、今回のエッセイですが、近場の北広島を紹介しましょう。
 高速道路に乗る時やJRで子どもの送迎に便利なので利用していました。隣町で近いところなのですが、これまでうろうろすることが少いでした。コロナ禍になって、野幌丘陵の中でいったことがないところを、散策したり、買い物にいったり、ホテルにも泊まったりもしました。その結果、少し身近な街になってきました。
 北広島は、名前の通り、この地に明治に広島県から入植したことに由来しています。北広島は、札幌の東にあたり、野幌丘陵の南から中央部に位置しています。野幌丘陵は、恵庭市との境界にある北広山(487.8m)から南にゆるく傾斜して江別市まで陸地の半島のように伸びた山並みです。丘陵は、石狩川の氾濫原でもある平野に消えていきます。
 丘陵の形は、南北に伸びる稜線を中心に東西に下っている形になっています。このような構造は地質の背斜を反映しています。背斜は、東西の圧縮を受けるとできる地形です。丘陵は侵食が進んでおり、稜線から東西に谷が網状に形成されています。このような地形ができるのは、野幌丘陵の地質とその形成史によります。
 野幌丘陵は第四紀更新世の堆積物からできています。地層は180万年(更新世前期)から1万年(完新世)くらいまで堆積したもので、いくつもの地層に区分されています。下(古い時代)から、裏の沢層、下野幌層、音江別川層、竹山礫層、もみじ台層、小野幌層、支笏火山噴出物、元野幌層、江別砂層、厚別砂礫層(広島砂礫層)、樽前降下火山灰層に区分されています。
 これらの地層には、化石も多数見つかっていまし。化石は生物の遺骸なので、その生物の生活環境から、昔、地層がたまった時の様子がわかります。
 かつてこのあたりは寒流の来ている海でした。その後、海水から汽水(干潟や河口などの淡水と海水が交じるような場所)、やがて淡水へと変化していったことがわかっています。
 裏の沢層が溜まっていた頃は、このあたりは沈降している地域だったのですが、更新世中頃(60万年前ころ)から、上昇に転じ、海から陸域に変わってきたと考えられます。
 これのような変化は、大きくみると、太平洋プレートの沈み込みによって北海道が圧縮されたことで起こったもので、ゆっくりとした変動でした。このような大きな地質変動で幾筋からの背斜や向斜ができてきました。
 堆積後まもなく堆積物が固化する前に、背斜が陸化しは丘陵となりました。そのため、柔らかい地層のまま侵食にさらされたため、開析が進んでいきます。
 ただし、海から陸への変動は一様ではありませんでした。下野幌層(100万年前ころ)や音江別川層(40万年前ころ)の下には、侵食を受けた地層(陸化したことになる)の上に堆積物がたまっています(不整合という)。音江別川層の最も高いところは当時の海面にあたり、現在より40mメートルは高かったと考えられます。
 それらの境界があることから、海になったり、陸になったりを繰り返していることがわかります。そのような変動が、化石から温暖化(海になる)と寒冷化(陸になる)と対応していることもわかります。氷河期と間氷期の繰り返しと、海と陸の変動が対応していると考えられます。
 夏に、野幌丘陵で車で入れる奥まったところへもでかけました。森の中の温泉や野菜の直場所、小されレストランなど、知らないところに興味深いところがあることを知りました。ですから、これからも時々訪ねたいと思いました。
 住んでいる身近な丘陵に見られる地形や地層から、過去の環境を探ることができます。そんな好例を、散策から知ることができました。

・オミクロン株・
ニュースによれば、北海道も含めて、
各地でまん延防止法等重点措置が終了しそうです。
しかし、オミクロン株(BA.2)は
より感染力も高くなっているようです。
感染者数は高止まりのままのようです。
措置が終了しても、注意が必要になりそうです。

・もう一つの丘陵の景観・
野幌丘陵の森の中にある温泉ホテルがあります。
子どもの行事があったとき
送迎で訪れたことはあったのですが、
これまで、全く中にはいることはありませんでした。
しかし、冬に宿泊にいったことがありました。
最上階に食堂があり、そこからの眺めが最高でした。
丘陵をさらに高いところから、
新雪の森を眺めることができました。
その景色は幻想的で今までみたことがない
丘陵の森の景観でした。