2017年6月15日木曜日

150 鳥取砂丘:ラッキョウ畑の砂

 鳥取は砂丘が有名です。日本のような緑の多い土地で、砂丘のような環境が長期にわたって維持されているのには、理由があるはずです。そのような砂地に暮らしている人もいます。

 鳥取県は、20世紀梨と砂丘が有名です。私は鳥取にしばらく住んでいました。梨は地元の農協などで、商品にならないものを安く売っていました。産地ならではの恩恵にあやかっていました。もうひとつの鳥取砂丘は、あまりに有名で、関連情報もいろいろありますし、実際に訪れた方も多いかと思います。
 これまで、砂丘は遠くからの友人やお客が来た時、お供で何度も訪れることがありました。自分の興味で砂丘を訪れたのは、今回が初めてでした。
 訪れたのはゴールデンウィーク中の昼前でした。危惧していたとおり駐車場は一杯で、止めるところがありません。仕方がないので、砂丘から少し離れたところに駐車場を見つけたので、そこに止めることにしました。そこからは道路を歩いて、砂丘に行くようでした。私は、砂丘は海岸にあるのだから、海岸沿いに行けるはずだと思い、歩いていくことにしました。遠わまりですが、だれも歩くことがない海岸を歩いて砂丘に向かいました。砂丘を堪能することができました。砂丘を昇り降りするという、ハードな醍醐味はなかったのですが。
 さて、そもそも鳥取のこの地で、なぜ砂丘があるのでしょうか。古くから砂丘が存在するためには、砂丘を維持するメカニズムが働いている必要があります。メカニズムとは、砂の供給と砂の集積機構が、常に働いている必要があります。砂の供給源としては、千代(せんだい)川があります。千代川からもたらされた大量の砂は、海流や波により海岸に打ち寄せられます。溜まった砂が、冬の日本海から強い吹く季節風によって集められます。これが砂丘が形成され、維持されるメカニズムだと考えられています。
 鳥取砂丘は、幅は2.4kmほどですが、長さが16kmもあります。そして西から末恒(すえつね)砂丘、湖山(こやま)砂丘、浜坂(はまさか)砂丘、福部(ふくべ)砂丘の4つに分かれています。鳥取砂丘として観光地になっているのは、浜坂砂丘です。
 冬の季節風は北西から吹きます。風の方向に対して砂の山が直交方向にできます。鳥取砂丘(浜坂砂丘)では南東に3列の砂丘が、季節風の方向に直行してできています。季節風が砂を集めるメカニズムとして重要な働きをしていることがわかります。
 3つの砂丘列のうち、北西側から2番目のものが第2砂丘列となり、「馬の背」とよばれています。馬の背は、標高46mの高さがあり、急な傾斜(約30度)で海に落ち込んでいます。馬の背の南側の第3砂丘列との間は、窪地になっており、池が出現することがあります。砂地で池ができるのは不思議ですが、砂の下にある火山灰層が水を通しにくいためです。降水量の多い、晩秋から春にかけて「オアシス」が出現するそうです。
 砂を供給し、集積する仕組みが、鳥取のこの地には古くからあったため、砂丘が継続的に維持されています。かなり古くから砂丘が存在していることがわかっています。新しい砂丘が古い砂丘の上に形成されています。
 砂丘は砂からでているだけなのに、古いものと新しいものをどのように見分けていくのでしょうか。古い砂丘は下にあり、色が黄色く、固くなっています。さらに、砂丘の砂の層の間には、火山灰がいくつか見つかっています。多くの火山灰は、その噴火年代が測定されていますので、どの火山灰かがわかれば、年代が決まります。
 砂丘からは、古い方から三瓶(さんべ)の火山灰(約10万年前)、阿蘇(約9万年前)、大山倉吉軽石(5万5000年前)、姶良丹沢(2万5000年前)などが知られています。大山倉吉軽石より下の砂の層が、「古砂丘」と呼ばれています。
 このような砂地の環境にも、人が住んで暮らしてきました。東側の福部砂丘の背後は、湿地帯になっていて、かつては湯山池がありました。江戸時代の終わりに、湯山池は干拓され水田にかわりました。砂丘の砂地での農作はなかなか困難でした、砂地に適したラッキョウが大正時代に栽培に成功しました。その後、砂防や機械化などにより畑作のための整備がおこなわれてきました。その努力の結果、現在では日本でも1、2位を争うほどのラッキョウの産地となっています。鳥取はラッキョウも名産だったのです。
 5月から6月にかけてがラッキョウの収穫時期ですが、私がいったときは、畑には濃い緑のラッキョウの葉が、一杯茂っていました。でもこのラッキョウの砂地には、いろいろな歴史やメカニズムが埋もれていました。
 砂丘のいいところは、どんなに多く人が訪れて砂を踏み荒らしても、風がふけばその跡は消えてします。私の海岸沿いから鳥取砂丘に向かったとき、人の足跡のない砂浜を歩きました。こんな体験は早朝の砂丘でしかできないはずです。しかし、人通りのない砂地でこんな貴重な体験ができました。もちろん遠くには、多くの観光客が海岸や砂丘の斜面など散策しています。そんな観光地にいっても、私は砂丘の仕組みや人と砂との戦いに思いをはせていました。

・砂の国からの来客・
鳥取の研究所にいるとき、海外から来客があり、
半日ほど観光旅行にいくことになりました。
鳥取の観光地といえば、鳥取砂丘ということで、
先生のお供で、鳥取砂丘にお連れしました。
ところが、お客は砂丘より、道中の森、田んぼ、
路傍の緑の雑草などに興味をお持ちでした。
思えば当たり前のことでした。
砂漠の国からきた人からすると、
緑や水田がいたるところある光景は
物珍しく、興味を惹かれる景色だったのでしょうね。

・YOSAKOI・
6月になって、雨の日が多くなりました。
本州のような梅雨ではなく、肌寒い日が多くなりました。
その分、快晴の青空は心地よいものです。
快晴の日には、北海道では初夏の訪れを知らせる
エゾハルゼミの鳴き声が響くようになりました。
その頃になる北海道はYOSAKOIとなります。
先週後半にYOSAKOIがおこなれました。

2017年5月15日月曜日

149 三朝:投入堂、健在

 以前住んでいたことがある三朝に行きました。三徳山には、投入堂という国宝があります。投入堂は、安山岩の柱状節理の下に建てられているのですが、どうのようして作ったのか、見るたびに、その偉業に驚かされます。

 今年のゴールデンウィークの始まりに、私は鳥取から、兵庫にかけて調査をするために、一部岡山の方でも調査をする予定だったので、三朝(みささ)町を通ることにしました。
 東伯(とうはく)郡三朝町に、かつて5年間住んでいました。修士課程で2年間、ポスドクで3年間、三朝町にあった研究所にいました。以前、訪れたときは、研究所に顔をだして旧交を温めましたが、今回はお忍びで通り抜けるだけでした。
 今回の三朝での目的は、柱状節理をみることでした。もっとも見事に見えるのは、三徳山(三佛寺)の投入堂(なげいれどう)の直上の崖です。到着した日に、投入堂が見える「よう拝所」にいってみたのですが、遠すぎて、木の枝も邪魔で、少し霞んでもいましたので、十分観察することができませんでした。そこで意を決して、翌日、朝一番に投入堂まで柱状節理を見に行くことにしました。2時間もあれば、往復できるはずです。
 被害状況も少し見ていこうと思っていました。被害とは、鳥取県中部地震によるもので、その現状や復興状況は、北海道ではあまり報道されず、様子がよくわかりませんでした。それを少し見ておきたいと思っていました。
 本来の目的は、柱状節理なので、優先しました。宿では朝一番に朝食をとり、7時半ころには出ました。三徳山に向かいしました。土曜日でもあり、8時ころですが、すでに参拝者、観光客、そして山を登るような格好に方もいました。山を登る人に声をかけたところ、8時から入山ができ、投入堂に向かうには、一人ではだめでだということでした。そこには2名の登山者がおられ、声をかけて3名で行くことにしました。本堂にまでいってから、登山受付に向かいしました。3人で登る予定でしたが、一人の登山者がおられ、一緒に登るようにいわれました。私たちのにわかパーティなのですが、一緒に行くことにしました。登りだしてからは、各自のペースで行くことにしたのですが、結局は一緒に登る状態になりました。下りも別々に下りだしのですが、受付につく頃には一緒になっていました。不思議なものです。
 そのルートはなかなか険しく、もともとは修験道で、鎖場などの岩場もあります。途中には、崖の上に建てられた文殊堂、地蔵堂、鐘撞堂などがあります。投入堂は、柱状節理の崖の下に、大きくくぼんとところに建てられています。
 温泉街の周辺は花崗岩があるのですが、山にはっていくと違った石になります。この投入堂までの登山ルートで足下をよく見ていると、岩石の種類が変わっていくのがわかります。まず登山道に入るとすぐに溶結凝灰岩ができてきます。その後、凝灰岩、火山礫岩、凝灰角礫岩と、似た起源ですが見かけの違う石に変わっていきます。そして投入堂の直上では、安山岩の溶岩になります。
 一番最初にみられる溶結凝灰岩の地層は、「小鹿(おしか)凝灰角礫岩層」に区分されています。岩層変化が激しい火山砕屑岩類は、「投入堂凝灰角礫岩層」と呼ばれます。登山道の終わりの投入堂の上を覆う崖の安山岩は、「三徳山安山岩」と呼ばれています。三朝温泉周辺の花崗岩は、もっと古い(6000万年前)時代のものからできています。小鹿凝灰角礫岩層と投入堂凝灰角礫岩層は、新第三紀中新世後期(500万から1000万年前)の「鳥取層群」に属します。安山岩は、130万年前の「三朝層群」になります。
 安山岩が投入堂の上の崖を形成しており、柱状節理を持っています。溶岩の下にくぼみができています。そこに投入堂やその奥に愛染堂、手前に不動堂があります。投入堂の下は、安山岩と下の凝灰角礫岩との間に地層境界があり、地層境界の下側がくずれてくぼみとなっています。そこから水が染み出しているのでしょうか、いつもぬめぬめしている凝灰角礫岩の急斜面になっています。
 投入堂ですが、私は三朝に住んでいるときに、投入堂には何度も登っています。何度登っても、この堂は、昔の人は、どのようにして立てたのだろうかと考えてしみます。その労力、そして技術力には、毎度驚かされます。
 7~8世紀こと、修験道の開祖とされている役小角(えんのおづの)が三徳山を訪れ、山のふもとに堂をつくりました。そのとき法力で堂を小さくして断崖の岩窟に投入れたといわれています。まあ実査には宮大工が大勢の人手を用いて建築しただと思いますが、そのようだ伝説ができるのも納得できる作りとなっています。投入堂は、平安後期の材料が使用されていることがわかっています。ですから、古い建物が、修理、補修はされているのでしょうが、継続して維持されているのです。
 今回の鳥取県中部地震では、これらの古い建物は、大きな被害受けることなく残っています。今回一度だけではなく、近年だけでも、1943年に鳥取地震、1983年に鳥取県中部地震、2000年にも鳥取県西部地震など、多くの大きな被害を出した地震が起こっています。これまでもっと多くの大地震が起こったはずです。
 崖の上に支柱で支えられた幾つものお堂があるのですが、それらは何度も大きな揺れに耐えてきました。ただし、文殊堂の柱の下の岩盤に亀裂が入り、柱のうち2本が浮いた状態になっているそうです。しかし、建物自体は無事のようです。また、登山道の崖にも大きな亀裂が入って危険な状態であるとのことで、そのため登山ルートが変更されていました。新規の道もやはり厳しいルートなっていました。
 投入堂だけでなく、昔の人の知恵は、すごさですね。また、それを現在まで維持してきた努力にも驚かされます。

・精進料理・
三朝の研究所にいるとき、
海外からの賓客が来られたとき、
投入堂の登山と下のお寺での精進料理が
おもてなしのコースになっていました。
今回は早朝だったので、
登山だけでしたが、
次回チャンスがあれば、頂きたいのですが
いつになることでしょうかね。

・地震からの復興・
倉吉は車で通り抜けただけなので
被害状況はよくわかりませんでした。
しかし、三朝の温泉街を早朝散歩しました。
すると人が住めない状態の家や
ビニールシートで屋根を覆っている家などもありました。
また、各地で土砂崩れの補修もなされていました。
投入堂までの登山道も被害にあったため
4月18日に開山したばかりでした。
まだまだ地震からの復興は終わっていなようです。

2017年4月14日金曜日

148 津久見:国産資源としてみた石灰岩

 日本の資源で、輸入に頼ることのない資源として石灰岩があります。なぜ日本では、石灰岩が豊富なのか。そして大分県津久見市では、古くから現在まで優良な産地となっているのはなぜか。その謎を探っていきましょう。

 冬に九州へ野外調査にいきました。宮崎の空港から入り、大分に向かいました。大分は別府温泉で有名です。以前行ったときには、別府温泉に宿泊し、地獄めぐりもして、温泉を堪能しました。私は温泉は好きなので、出かけて機会があれば、温泉に入るように心がけています。ただし、今回は別府までは行かずに、もっと南にある津久見(つくみ)市まででした。そこで見た岩石に関する話題を紹介します。
 前のエッセイでも書いたのですが、冬の調査では、メランジュや海洋プレート層序など、付加体と呼ばれるもので形成された地質構造をみることが目的でした。今回紹介する津久見の岩石も、付加体の一部となります。近くにいってみることは難しい場所にあります。しかし、衛星画像からでも、その分布がわかるほどの大規模なものです。
 日本列島は、複雑な地質構造をしているため、同じ地層や岩石が、長く連続したり、広く分布することがあまりありません。ですから、多様性に富んではいるのですが、同じものが大量にはありません。資源という見方をしますと、多様な岩石・鉱物資源はあるのですが、量産することは難しくなります。まして、地表付近に顔をだして、掘りやすい資源は稀なものとなります。
 地下深くにあったとしても、金のように単価の高いものであれば、佐渡や鴻之舞のような金山として採算が取れ、採掘を継続できます。これは、単価の高い資源の場合です。石炭のように単価が安いものであれば、深部での掘削は採算がとれなくなります。単価の安いものは、地表で露天掘りが基本となります。
 日本で長く継続的に採掘できるような資源は少ないのですが、例外があります。石灰岩です。石灰岩は、日本列島の各地に分布しています。そして、その規模は大小さまざまですが、大きな石灰岩は、ひと山まるまる石灰岩からできていることがあります。そのような産地では、山がなくなるまで露天掘りで掘ることができます。石灰岩は、日本で100%自給できる特異な鉱物資源です。そして、輸出もしている資源となっています。
 ではなぜ、複雑な地質をもつ日本列島で、石灰岩を大量に採ることができるのでしょうか。それは、複雑な地質をつくるメカニズムにあります。日本列島は沈み込み帯にあたります。地質学では、島が弧状に並んでいるため、島弧とも呼ばれてます。島弧では、海洋プレートが海溝に沈み込み、付加体が形成されます。
 海洋プレート上にあった火山(海山や海洋島など)が熱帯付近にあったとすると、そこにはサンゴ礁が形成されます。サンゴ礁とは、サンゴ虫が炭酸カルシュウムの外骨格としたものが集まったものです。炭酸カルシュウムは分子名ですが、鉱物となると方解石、岩石名では石灰岩となります。小さいサンゴ虫なのですが、大量に長期にわかって生息していると、巨大な石灰岩の塊ができることになります。まさにチリも積もれば山となる。
 例えば赤道でできた海洋島がプレート運動で海溝まで運ばれてきたとしましょう。海洋地殻は出っ張りがないので、海溝では沈み込みやすくなっています。もちろん、一部は、付加体に取り込まれることもあります。一方、海洋地殻の上に出っ張っている海洋島、そしてその周辺に形成されたサンゴ礁は、沈み込みにくく、陸側に取り込まれて付加体になっていく可能性が大きくなります。つまり、付加体には、石灰岩が混じやすくなります。
 付加体に石灰岩がはいってくる理由は、このように説明できます。ただし、その条件として、赤道付近にまで広がっている海洋が存在すること、その海洋プレートが沈み込むこと、そしてそのような地質環境が長期に渡って維持されることです。そうすれば、付加体に大量の石灰岩が産することになります。この条件を、日本列島は満たしていたことになります。
 津久見には、太平洋セメント津久見工場があります。そこには、石灰岩を大規模に露天掘りをしている鉱山があります。人工衛星でみても露天掘りは、よくわかります。周りの山地が緑色をしてるのに、石灰岩を掘っているところは、白くなっており、白の中に道路が縱橫に走っているのが見えます。これが、露天掘りだと誰でもすぐにわかるものです。
 セメントの採掘には、単価が安い資源なので、産地が海に近く出荷しやすいこと、深度が深く良好な港ができることがなどの条件が必要です。津久見は、その条件を満たしていました。津久見周辺は、石灰岩が海の近くに分布し、地形がリアス式海岸となっており、水深も13メートルと深く、6万トンクラス貨物船が接岸できるような港ができました。
 古くから地の利に気づかれて、1917(大正6)年には桜セメント九州工場として採掘がはじまり、その後大分セメント、小野田セメント、秩父小野田セメント、現在の太平洋セメント大分工場津久見プラントへと名称は変わってきましたが、一貫して石灰岩の採掘がなされてきました。現在でも年間約1,100万トンの石灰岩を採掘しています。現在の石灰岩の埋蔵量から約40年間は稼働できると推定されています。そしてさらなる産地も考えているようです。工場付近には「セメント町」という名称もあるそうです。津久見はセメントで栄えてきた街です。
 日本では、各地に石灰岩の大きな採掘場がありますが、山奥だったりいい港がなかったりすることもあります。すると、輸送費や輸送設備などでコストが高くなり競争力が劣ります。津久見のように海岸近くで大規模な石灰岩の産地があるという地の利に恵まれたところは、そうそうないのかもしれませんね。
 今回は近くを通っただけで露頭に近づくことは、敷地内に入ることになるのでできませんでした。しかし外からでも、大規模な露天掘り、大きな工場、そして巨大な積み出し施設を眺めることできました。そしてその大きさには驚かされました。

・雪の不順・
北海道では、4月中旬の雪に驚かされました。
4月の雪は稀ではありますが、
時々あることです。
しかし、そのような天候不順が繰り返されると
変な気候だなと思ってしまいます。
今回の冬シーズンは、積雪が不順でした。
11月初旬の大雪があったかと思えば、
厳冬期には雪が少なくなり、
春の雨のあとに積雪と、
雪にまつわる不順な状態が
強く記憶に残っています。
北海道は、これから一番いい季節になります。
春は、気候不順にならなければいいのですが。

・新年度のスタート・
大学の講義も始まり、一週間がたちました。
最初の講義は、何年やっても緊張感があります。
緊張感と慌ただしさが新学期、新年度にはあります。
これが新学期の営みでもあります。
大学だけでなく、すべての学校や組織でも
このような状態になっていることと思います。
皆さんの属しておられる組織では
無事に新年度をスタートできたでしょうか。

2017年3月15日水曜日

147 鶴見半島:海洋プレート層序とメランジュ

 大分県佐伯市の鶴見半島の大地は、四万十帯に属します。四万十帯の中でも、海洋プレート層序とメランジュの産状が、期待以上にきれいにみることができました。特に赤色頁岩の赤色は、鮮やかで印象に残りました。

 1月下旬に大分から宮崎へ短期間の野外調査にでました。鶴見半島での調査は、一日かけておこなう予定をしていました。予定の調査が終われば、次の宿泊地の延岡に行くだけのゆたっりとした予定を組んでいました。鶴見半島では、海洋プレート層序をみたいと思っていました。ただし、その層序は乱されており、メランジュになっています。露頭があるかどうかが不明だったので、ゆったりとした予定を組みました。
 ここで使った「海洋プレート層序」と「メランジュ」をいう言葉は後で紹介します。
 鶴見半島は、大分県の南の佐伯(さいき)市にあります。鶴見半島は、豊後水道に向かって東に突き出しています。この周辺は、リアス式海岸が広がっているところなので、海岸地形が非常に複雑になっています。平地が少ないので、半島内には大きな町はありません。また、道路も複雑に入り組んだ海岸にへばりつくように通っており、カーブの連続になります。道路は北の海岸線にそって通っているだけで、交通網も発達していません。まあ、集落もあまりなく、人口も少ない地域なのでしかたがないでしょう。
 このようなリアス式海岸では、海岸線が急な崖になっているところも多く、露頭が連続したとしても、近づけないところも多くなります。事前の文献調査では、露頭は小さかったのですが、私の興味をもっている岩石が写真で紹介されていました。しかし、その地点は、地図で見ると道からかなり離れた海岸線沿いにあり、海岸線を歩いて行くか、船でいくしかなそうです。もしかすると釣り人の道があるかもしれません。実際には行ってみないとわかりません。
 鶴見半島の予想通り、歩いて海岸を調査できるような海岸ではありませんでした。しかし、それは想定内のことでした。
 半島の北側を通る県道604号線は、くねくね道ではあるのですが、一部まだ整備されていないところはあるのですが、2車線ある道路になっていました。そのためでしょうか、新しく切られた道路沿いの露頭があちこちにありました。風化のない新鮮な露頭で、多様な岩石をみることができました。非常に地質学者としては、うれしいものでした。
 多様な岩石とは、玄武岩、層状チャート、赤色頁岩でした。これらは「海洋プレート層序」を形成している岩石です。海洋プレートは、海嶺でマントルで形成されたマグマが活動して海洋地殻ができます。マグマは、海嶺特有の組成をもった玄武岩(中央海嶺玄武岩と呼ばれています)となり、海底に噴出するマグマなので枕状の丸い形の溶岩が積み重なった産状になります。このような形状の溶岩を、枕状溶岩と呼びます。できたばかりの海洋地殻の最上部は枕状溶岩からなる玄武岩となります。
 海洋プレートが海嶺から深海底を移動していくと、表面に珪質プランクトンの死骸がたまり、層状チャートが形成されます。層状チャートは大洋の深海底で形成されたものです。
 海洋プレートが陸に近づいてくると、陸源の堆積物が届くようになってきます。ただし極細粒の堆積物が海流や深層の弱い流れによってもたらされ、赤色頁岩ができます。海洋プレートが陸に近づくほど、赤色頁岩の量が多くなってきます。
 海洋プレートが海溝に近くにくると、陸からのタービダイト流などによって、粗粒の物質が直接届くようになってきます。それはタービダイト層と呼ばれ、砂岩泥岩の繰り返している互層となります。海洋プレートがもっとも陸地近づくところが、海溝となります。
 以上のように、海洋プレート表層部の玄武岩、層状チャート、赤色頁岩、砂泥互層という岩石の並びを「海洋プレート層序」と呼んでいます。
 海溝まできた海洋プレートは、沈み込んでいきます。そのまま沈み込んだら、海洋プレート層序は見ることはできないのですが、日本列島のような地域では、海洋プレート層序が陸地に持ち上げられています。海洋プレートが陸地に持ち上げる作用を付加作用、持ち上げられたものを付加体と呼びます。
 付加作用は、プレートテクトニクスという大地の大きな力によるものです。しかし、きれいな海洋プレート層序が、そのまま持ち上げられることはありません。付加作用中に、多数の断層が形成され、層序はずたずたに乱れ、切り刻まれています。もちろん中には、層序がのこている部分、乱れている部分が混じっています。
 もっとも乱れている部分で、層状がまったくわからなくなっているもの、もともとの成因や形成場の違っている岩石が接しているような状態を「メランジュ」と呼びます。メランジュには、岩石の境界に断層があるものも、断層があるはずなのにピッタリくっついているものなど、境界にはいろいろな接し方があることがわかってきました。
 だから、メランジュという概念が導入されたことで、それまで多くの地質学者を悩ませていた、成因の異なる岩石がピッタリくっついてる現象に答えがでたわけです。付加体にはメランジュがあるので、どんな岩石くっついていても不思議ではないのです。
 例えば、海嶺の玄武岩と赤色頁岩と、層状チャートの砂泥互層が接していたりすると、通常の上で述べたように、まったく違った環境や場で形成されたものです。それぞれの岩石の成因がわかっていても、ピッタリくっついているとなると、その関係をもってできたという立場で考えると、理解不能になります。
 鶴見半島では、きれいな枕状溶岩、整然とした層状チャート、赤色頁岩がありました。また層状チャートと赤色頁岩の互層がありました。激しく乱れた層状チャート、メランジュなど、多様な付加体での海洋プレート層序を見ることができました。
 鶴見半島は、あまり観光化されていない地域です。四万十帯が分布している地域で、その中でも海洋プレート層序やメランジュが特別よくみることができました。赤色頁岩の赤い色が非常に鮮やかでした。そして赤色頁岩が層状チャートと複雑に混じり合っているところも見ることができ、感動的でした。観光地ではないですが、地質学者には見どころいっぱいの地でした。

・実りの多い調査・
鶴見半島では、メランジュになっているので、
どの程度露頭があるか不安でした。
もしかすると、期待する岩石が
ほとんど見れないかもしれないという
不安も持っていました。
でも、なんとか目的の露頭を見つけて
調査を無駄にしないようにと考えました。
どんなところでも、海岸線などをこまめに歩けば、
露頭は必ずあるはずだという信念でいきました。
空振りにならないようにという思いで、
1日の調査予定をもって望んでいました。
半島を進んでいくと、
つぎつぎと新鮮な露頭がでてきました。
露頭は、メランジュや海洋プレート層序を構成している岩石でした。
これは予想外のことで、悦びもひとしおでした。
その上、赤色頁岩の見事な色とその産状。
いろいろ実りの多い調査となりました。

・大学の行事・
今週から来月の初めまでは、
大学のいろいろな行事があり、
非常に多忙な時期となります。
私は、役職にもついているので、
いろいろ人前にでることが多くなります。
年度末から初めの大学の行事は
学生たちが主役のものがほとんです。
巣立つ学生たち、新しく迎える学生たち。
そんな学生の顔をみると
大変な行事であってもやりがいがあります。

2017年2月15日水曜日

146 四浦半島:珪石と仏像構造線

 大分南部の四浦半島は、狭く険しい海岸の道が多いのですが、そこには日本列島を代表する付加体と大きな断層があります。付加体には、層状チャートが分布しています。そんな付加体のチャートと断層を紹介します。

 1月末に、大分から宮崎にかけて、5日ほど野外調査にでました。大分県南部の四浦(ようら)半島が、最初の目的地でした。ここで見る予定は、層状チャートです。私は、ここ数年、層状チャートを追いかけています。いい露頭、代表的な露頭には、何度も通うことになります。四浦半島も、今回が2度目となります。
 網代(あじろ)島とその周辺で層状チャートのきれいな露頭で調査をすることでした。網代島には、きれいな層状チャートの露頭があり、調べる予定に入れていました。他にも、今まで訪れていないところにあるはずの露頭を調べるつもりでした。網代島の近くの江ノ浦と、半島の東北の高浜にあるはずの層状チャートの露頭でした。2つとも期待通り、よい露出で層状チャートを見ることができました。
 さらに今回、予想していなかった露頭と出会いがありました。江ノ浦から高浜へ移動している時、道路脇に人工的に削られた大きな崖があり、そこにきれいな層状チャートの地層面がみえました。急遽車を止めて見ました。
 その露頭は、明らかに採掘した跡です。削られた崖に、層状チャートが大規模に露出しています。人工的な露頭ですが、非常に見事でにチャートの褶曲が見えています。
 調べてみると、ここでは硅石が採掘されていることがわかりました。ただし私がみとところは、採掘は終わっているようで、道路側はコンクリートで被覆されていました。
 硅石とは、珪酸(SiO2)の多いもので、純度の高いものが鉱石として採掘されています。珪石の素材となるものには、火成岩起源や堆積岩起源のものあります。堆積岩起源のものは、珪藻土やチャートなどが、その主たるものとなります。四浦半島のものは、もちろん層状チャートが珪石として、掘られていました。
 四浦鉱山と呼ばれるもので、現在も、年間35~40万トンほどの硅石を生産しています。四浦鉱山の珪石の用途としては、セメントをつくりときに必要な成分となります。また、珪素鋼をつくる成分として利用されています。鉄鋼に、少量の珪素を混ぜると、磁気の性質(透磁率を上げる)を買えることがきます。珪素は、他にも、吸湿剤としてシリカゲルやガラスや陶芸の原料、珪素(シリコン)として高純度のものは、半導体の原料として使用されます。
 Google Earthでみると、四浦半島にはあちこちに人工的に削られた地形が見ることできます。これは、層状チャートを掘った跡のようです。ただし、津久見の町の南西にある巨大な削ったあとは、石灰岩を掘っているところです。石灰岩はセメントの主たる原材料ですから、その堀跡は大規模です。そしてセメントには欠かせない珪石が、近くから産するので、なかなか地の利を活かした鉱物資源となっています。
 地質図によると、四浦半島には層状チャートが点々とですが、広域に渡って分布しています。層状チャートや石灰岩の他にも、砕屑性堆積岩や玄武岩類などの種類の違う岩石も見つかります。このような岩石の組み合わせ(岩石群)は、このエッセイでよくでてくる付加体の構成物です。四浦半島は、付加体構成物からできているのです。
 四浦半島は、東の豊後水道に突き出た半島です。細長く伸びた半島です。ここには、実は大きな地質の境界があります。半島の南側には四万十帯と属する地質体がくっついています。そこより北側は秩父帯となります。両者とも付加体を構成しているのですが、秩父帯の方が古い時代に付加したものになります。ですから、両者の境界は、時代差だけでなく、地質学的に大きく違った付加体の境界となっています。これは第一級の断層で「仏像構造線」と呼ばれています。半島は仏像構造線に沿って延びていることになります。一方、愛媛県側では、仏像構造線は地形的には険しい崖をつくってはいるですが、あまり海には張り出していません。
 それより中央構造線が通る佐多岬が、豊後水道に大きく張り出しています。佐多岬の大分側は、四浦半島の北にある佐賀関の半島にあたります。あまり細長くはないのですが、佐多岬に対応するように出っ張っています。ここが、豊後水道でもっとも狭い部分となっています。ここには、西日本の地質構造を支配するような中央構造線が走っていのです。仏像構造線がつくる地形は、中央構造線ものとは違っているようです。
 今回見たのは、秩父帯(南帯、あるいは三宝山帯に区分されています)の層状チャートになります。四浦半島では、秩父帯の層状チャートが、海岸沿いの露頭としてあるので、きれいな状態で見ることができます。なかなかいい地域だということが、今回の調査でよくわかりました。秩父帯の層状チャートを見るときは、たびたび来ることになるかもしれませんね。

・巨大なもののシッポ・
四国の愛媛県で、仏像構造線は見ていましたが、
急な崖となってります。
そこで、かろうじて、仏像構造線の派生断層を
みることもできるます。
あまりきれいな露頭ではありませんでした。
これは、巨大断層の特徴なのです。
地形的にはっきりと現れてはいるのですが、
実際露頭を探すと小さな派生断層しかみえません。
まあ、巨大で得体の知れない存在は、
シッポ程度しか、姿を見せないのでしょう。

・リアス式海岸・
四浦とは、半島の北にかつては四浦があったことから
名付けられたそうです。
大分南部から宮崎の北部にかけて
いたるところに、港に向いていそうな地形があります。
それは、リアス式海岸が広がっているためです。
このリアス式海岸は四国側にもみられるものです。
似た地形が海を挟んであるということは、
大きな大地の変動を意味しています。

2017年1月15日日曜日

145 瀞:北山川の静かなゴージュにて

 熊野川の支流にあたる北山川は、奥深い山地を流れています。北山川の入口からしばらく、川は箱状のゴージュになっています。瀞と呼ばれ、船でめぐる観光地になっています。しかし、私がいったときは人もいなくて、静かな佇まい瀞でした。

 瀞は、音読みでは「じょう」、訓読みでは「しずか」や「とろ」と読みます。意味は、「静かな様子のこと」で、サンズイがつくことで、川の流れが緩やかで、深くて淀んでいるところを指しています。三重と奈良の県境にあたる北山川では、瀞を普通は「とろ」と読むのですが「どろ」と濁っています。北山川は、和歌山と三重の県境を流れる熊野川の上流にあたります。北山川の河岸の切り立った崖に囲まれた、函状(ゴージュ)になった流域の呼び名になってます。
 北山へはいくつかのルートがあるのですが、私は和歌山の熊野川から入りました。上流には瀞八丁(とろはっちょう)と呼ばれるところがありましす。天気がいい日で、瀞は穏やかで、観光客は一人もおらず、一人でのんびりを見学しました。ただ、定期バスの運転手さんが、時間調整でバス停におられました。私は、途中の地層をみることが目的だったので、この地の観光をする気はなかったので、いろいろ話を伺いました。話では、県境が入り組んでいいるので、バズ会社も複雑になっているようでした。なかなか奥深い地ですが、興味を覚えました。私は瀞八丁までしか予定がなく、それ以上遡るのをやめましたが、北山川は、まだまだ奥深くまで続きます。
 北山川の源流は、紀伊山地の脊梁の一部の大台ケ原山になります。大台ケ原山は、紀伊山地の東端に位置しています。ところが、太平洋が熊野灘の海岸線で北北東にのび、なおかつ尾鷲(おわせ)で入りこんでいるため、紀伊山地が海に最も近づくところとなっています。このような地理的条件があるため、海からの湿った風が吹き付けて、雨を降らすため降水量が多い地域となっています。
 記憶にも新しいのですが、2011年8月25日に、台風第12号による豪雨で、西日本一帯に水害をもたらしたのですが、特に紀伊半島一帯に大きな被害があったため「紀伊半島大水害」とも呼ばれています。上北山村では72時間の雨量が国内の観測史上最大の1652.5mmに達し、総降水量も1808.5mmに達しました。場所によっては2000mmを超えたとされています。想像もつかない降水量です。他の地域の人にとっては、東日本大震災の影で薄れているかもしれませんが、紀州の人にとっては「紀伊半島大水害」は強烈な記憶として残っています。
 紀伊山地は、日本列島の重要な構造線である中央構造線とその南にある仏像構造線より前にできている山地です。これらの構造線にそって西日本の地質構造は並んでいます。紀伊半島の西半分もその構造があることが地質図をみるとよくわかります。ところが紀伊半島の東半分は、全く違った地質をもっています。それは、熊野層群と熊野火成岩類が存在するためです。
 瀞八丁は、四万十帯に属する日高川層群(約1億年前~6500万年前)がでています。これは、このエッセイでも何度も登場している付加体と呼ばれるものです。付加体は、海洋プレートが沈み込む海溝の陸側にできる特徴的な地質体です。紀伊半島は付加体が基本的に形づくっている地域だと考えられますが、東側では、別の地質体に覆われているため、違った地質となっています。
 瀞八丁より下流(南側)でも、北山川沿いの切り立った渓谷を形成しているのですが、その地質は熊野層群(約2200万年前~1500万年前)と呼ばれる地層からなります。熊野層群は、付加体を構成する地層を不整合で覆うことが知られています。つまり、熊野層群は、付加体が形成され、陸地で侵食を受けた後、再び海底になり、堆積物がたまったことになります。また地層の特徴から、通常の堆積作用でできたこともわかります。熊野層群が堆積した場所は、付加体の形成された位置からすると、海の比較的浅いところで、大陸棚の一部である前弧海盆と呼ばれるところだと考えられます。
 また瀞では見られないのですが、周辺には熊野の各地にみられる熊野酸性火成岩類も分布しています。前弧海盆でマグマが活動するのは、通常はあまりないことなのですが、形成間もない海洋プレートが沈み込んだときに起こる火成作用だと考えられています。
 深い渓谷の中を国道169号線で遡っていったのですが、2015年9月「奥瀞道路」として開通した、整備された道があり、アプローチがいいところでした。「奥瀞道路」をつかったのです。あっという間に瀞八丁に着きました。崖にへばり付くように瀞ホテルがありました。古い木造のホテルの看板がありますが、私がいったときは閉まっていました。
 後日、調べたところ、1917(大正6)年、もともとは「あづまや」として、「筏師(いかだし)」のための宿として開業したそうです。その後「招仙閣」と名を変え、昭和初期には「瀞ホテル」という名称となったそうです。瀞ホテルは、宿泊施設としては、一旦営業を終わったそうです。しかし、2013年6月に、息子夫婦が食堂・喫茶「瀞ホテル」として営業を再開しとのことです。私がいったときには、もう営業を終わっていました。
 また、時間がなくて、北山の村まで足を伸ばさなかったのですが、この山深く見える瀞八丁も、北山川ほんの入り口に過ぎず、もっと奥地の見たくなりました。次回、チャンスがあれば、ぜひこの地を再度訪れ、北山川の遡りたいと思います。可能であれば大台ケ原山までいきたいのですが・・・。

・宮崎へ・
1月末には宮崎に調査に行く予定です。
冬なので寒さが少々心配ですが、
北海道のように雪がないので
なんとか調査を終えたいと思っています。
それより悪天候によって、
飛行機が飛ぶかどうかの方が心配です。
定期試験の直後に出発して、
行事ある日の前に戻ってくることになります。
ぎりぎりの日程でいくことなります。

・センター試験・
このエッセイが発行されるときは、
センター試験の最中になります。
毎年のことですが、北国の受験生は
冬の寒波による交通手段の乱れが気になります。
このエッセイはセンター試験の前に書いて
発行していますので、実際の様子はわかりません。
しかし、寒波による大荒れの天気予報となっています。
無事に滞りなくとりおこなわれればいいのですが。

2016年12月15日木曜日

144 熊野酸性岩類:ジオパークの地

 熊野は和歌山と三重にまたがっています。熊野には奥深い山々が広がっています。そこには酸性火成岩が分布しています。島弧のマグマによって形成されたものです。しかし、形成のメカニズムは、まだ十分に解明されていません。

 熊野は、紀伊半島の南部の地域で、かつては牟婁(むろ)郡と呼ばれていました。牟婁郡は、東西南北に4つに分けられ、和歌山県には西牟婁郡と東牟婁郡が、三重県には北牟婁郡と南牟婁郡があります。
 熊野は、地質学的には付加体から構成されていますが、ほかにも列島固有(島弧といいます)のマグマの活動の多様性を知る上でも重要な地域です。島弧の火成活動は、海洋プレートの沈み込みによって引き起こされます。その典型が、東北日本、伊豆-小笠原諸島などの火山列となります。
 西日本(地質学では西南日本と呼びます)では、山陰地方と九州に火山は存在しているのですが、四国や近畿には古い時代に活動した火山はあるのですが、典型的な島弧の活火山はありません。
 西南日本の本来なら火山列あっていいところに、マグマの活動は起こっていました。潮岬(南紀)、足摺岬(四国)の海沿いから、海から少し離れた内陸でも、火成岩が点々と分布しています。火山岩から深成岩が分布しています。噴出したものもありますが、多くは地下でそれほど深くないところに貫入したマグマが固まった岩石が大半です。そして、より内陸側には深成岩が分布しています。
 ただし、これらの火成岩類は少々時代が古い時代の活動になります。時間が立てば、険しい山では、地表あったかもしれないマグマによる火山活動が、侵食を受けてなくなってしまった可能性があります。地下で活動したマグマでも、時間が立てば侵食で地表に現れることがあります。深成岩は、マグマが深いところでゆっくりと冷え固まったものです。深成岩が出ている場とは、かつて地下だったところを見ていることになります。
 熊野では深成岩は、より内陸にあるので、侵食が進んで深部のものが露出しているようです。少し海側には、地下ですが深成岩より浅いところで固まった貫入岩類が多くなります。
 紀伊山地には火成岩体が分布しているのですが、深成岩を大峰花崗岩類、海側のものは熊野酸性岩類と呼ばれています。紀伊山地の奥には、大峰花崗岩類が分布しています。
 酸性岩というのは、マグマの種類を示すもので、珪酸の多いがものをいいます。深成岩でいうと花崗岩となり火山岩でいうとデイサイトや流紋岩になります。これらの酸性火山岩は、島弧でもよく見られるものです。
 熊野酸性岩類は1400万年前に活動した花崗岩マグマの活動によるものです。紀伊半島の東部、和歌山から三重にかけて広く分布しています。この地域は、沈み込みに伴う付加体が形成された後、列島と沈み込み帯の間(前弧海盆と呼ばれている)にある、陸からの堆積物がたまるところになっていました。そこに、沈み込みに伴って、マグマの活動が起こりました。それが熊野酸性岩類です。
 熊野酸性岩類は、現在の沈み込みの配置から考えると、マグマの活動の場が、少々海に近すぎるという不思議が点があります。熊野酸性岩類には、同時代に活動してた古座川弧状岩脈と呼ばれる、もっと海に近い貫入岩類が活動しています。熊野酸性岩類よりもう少し古い1500万年前には、潮岬火成複合岩類が、もっと海側で活動しています。これらの火成岩類は、現在の島弧の火成作用を理解する上でも、重要な役割を持っているはずです。しかし、その解明はまだこれからです。
 熊野は山が奥深いので、海岸沿い以外は、川沿いにある道路からのアプローチが主となります。ですから、熊野川沿いで、これらの熊野酸性岩類が分布していますので、見て回ることにしました。それらのいくつかみることが今回の目的のひとつでした。
 熊野は宗教的な聖地として、世界遺産に登録されています。ほかにも、2014年8月に日本ジオパークとしても認定されていますので、地質学でも有名なところであります。
 世界遺産は、いろいろな遺産を保護することが主目的で、保護された遺産を観光資源としていますが、保護が最優先されます。ジオパークは、地質学的な特徴をもった地域の自然を、地域の文化や習慣も含めて、保全しながらも「活用」していくものです。活用の方法として、教育への利用、地質を楽しむ旅(ジオツーリズム)なども重要な要素としています。ジオパークは、保全(conservation)、教育(education)、ジオツーリズム(geotourism)を重視しています。それら3つの行うために、地域の人々が重要な役割を担いうことになります。ですからジオパークは世界遺産とは少々目的も手段も違っていることになります。
 ジオパークでは地質のポイント(ジオサイトと呼ばれる)が設定され、解説パネルなどが設置されるようになりますので歓迎です。露頭や景観の地質の説明を読みながら、見学することができるので、利用させてもらっています。
 熊野本宮大社から熊野川沿いの国道168号にも、いくつか有名なジオサイトがあるのですが、新宮市相賀で高田川が合流するところで、川の対岸(三重県南牟婁郡紀宝町浅里)に大きな岩の崖が見えてきます。そこには、見事な柱状節理が発達した花崗岩類が見えます。こんなに立派な崖があるのですが、対岸は、三重県なのでジオサイトになっていません。残念ですが。

・縛られずに・
9月にいった南紀の調査では、
いくつもの地点を見てきたのですが、
全部を紹介する前に、2016年が終わってしまいました。
まあ、興味の向くままで書いていくので、
どのような地域を取り上げるかは、
その月の執筆にならなければわかりません。
今回のように大きな地域を漠然と取り上げたり、
小さな地質、地理的な素材を取り上げることもあります。
何者、何事にも縛られずに
エッセイも来年も継続していきたいと思っています。

・残る自然・
熊野は、紀伊山地にあります。
紀伊山地は山が深く、河川も多数ありますが、
開析が進んでいるので、深い谷が多く、平地が少なく、
海岸沿いに小さな平地が点々と存在します。
小さな町が、そこに形成されています。
ただ、中央構造線に沿って流れる
紀の川には平地が広がっていますが。
山が海にまで迫っているので、
熊野は、開発が遅れていました。
そのために、自然が今に残されているのでしょう。