2024年3月15日金曜日

231 エッセイ休刊のお知らせ

 このエッセイは、今回で休刊とします。開始したときには、それなりの目的、経緯があり、その後、いろいろもあったのですが、とりあえず区切りとします。長らくのご購読、ありがとうございました。


 このエッセイは、「空と人の狭間から 大地を眺める」(Earth's View beteen Human and Sky)として、地質や地形に関する市民向けの月刊の読み物として発行してきました。2005年1月3日に「00 創刊特別号」で告知をしてから、このメールマガジンを発行することにしました。1月15日、「01 有珠山:好奇心と倫理」という最初の号を発行しました。以降、国内だけでなく、海外への調査に出かけている時も、毎月欠かすことなく、15日に発行してきました。
 メールマガジン発行のきっかけは、北海道地図株式会社から10mメッシュ数値地図を購入したことからでした。その時旭川にある会社を訪れ、いろいろと話をしている時、共同研究を進めることにしました。共同研究として、各地の地質のを、エッセイと画像をセットにして月刊メールマガジンとして紹介することしました。
 共同研究としては、当初1年間の予定でしたが、結局まる3年間、2007年12月まで共同研究として公開してきました。共同研究は終了したのですが、このエッセイは継続していました。
 このエッセイには、さらに前身にあたるものがありました。ERSDACとの共同研究として、衛星画像を利用した地質の紹介を、2002年1月から月刊エッセイ「宇宙、地球、人:地球:宇宙と人のはざまにて」を1年間発行していました。こちらはきっちりと1年で終わりましたが、このエッセイの3編は、「宇宙から見た地質-日本と世界-」(加藤ほか編, 2006)に掲載されました。
 いずれも、官庁や企業といち研究者との共同研究の可能への実証実験も兼ねていました。これらの経験から、いち研究者が努力すれば、継続的な科学教育が可能だという手応えをえました。そして、このエッセイが18年以上にわたって継続してきました。
 そして前回のエッセイでもアナウンスしたのですが、今回の231号をもって、休刊とすることにしました。幸いながら、このエッセイをいろいろな方が参考にされてきたので、サーバが継続できる2025年3月まで残すことしました。
 定年退職することになるため、サーバも終了となります。このサーバは個人所有なのですが、大学のドメインをもらっているので、大学の計算機室に置かせてもらっています。サーバそしてドメインも、これが2代目になります。自宅にも試行のためも、サーバを一台置いていたのですが、使用頻度が低いので、だいぶ前に停止しました。
 定年退職すれば、大学に預けていたサーバは終了しなければなりません。大学の定年退職のための準備(定活というそうです)として考えていました。サーバが停止してもいいように、ブログに同じ内容の文章は公開していました。ただし、大量の画像の公開はできないので、どうしようかと悩んでいました。
 このサーバには、毎日撮影している「身近な自然誌」もあります。それも終了することになります。以前は、大学の講義資料やレポートもこのサーバにおいていました。COIDV-19で、遠隔授業で公式に大学の講義用サーバができ、現在も継続しています。そのサーバ上にすべて移行したので、個人のサーバの必要がなくなりました。
 少しずつですが、サーバがなくなってもいいような状態に移行していきました。来年3月までサーバは継続するのですが、その区切りとして今回廃刊することにしました。前回のエッセイでも述べたのですが、退職時にサーバを廃止すると、ある時、突然サイトが見ることができなくなります。事前にアナウンスしていたとしても、気づかない人には、突然サイトが消えることになります。そのため、1年間、サーバに休止の表示をしてから、廃止することにしました。
さて、このエッセイは、終わりますが、外にも週刊エッセイ
Earth Essay 地球のささやき
があります。エッセイは6つの項目に区分しています。その中の「地球地学紀行」がありますので、今後は、GeoEssayの内容は、このエッセイの中で展開していきます。文字数が半分から3分の1くらいになり、画像もありませんが、よろしければそちらを参考にしていください。
 また、地質哲学の実践として月刊エッセイ
Terra Incognita 地球のつぶやき
を公開しています。
 いずれも。もともとはサーバで展開していたのですが、2025年4月以降は、サーバはなくなります。今後はブログにて公開していきますので、そちらをみていただくことになります。
 まだ、独自のドメインをもっていて、毎日ホームページを更新するようにしています。
Inspirations 地質学者のひとりごと
こちらは、残す予定です。新しいことは、こちらからアナウンスできるかと思います。これも、ブログに同じ内容を
https://geo-mono.blogspot.com/
に公開しています。
 これまで、長年のご購読ありがとうございました。

・ご購読ありがとうございました。・
長らくの、メースマガジンのご購読いただき、
ありがとうございました。
これからも、似た内容のエッセイは、
上記の週刊エッセイやホームページ、ブログで
細々とながら発信していくつもりです。
このエッセイが、どれくらい役立ったのかわかりませんが、
私にとってはいろいろと勉強になり、
論文のネタにもなりました。
いずれにしても、日進月歩のICT全盛の時代
すべてが移ろいやすい時代に、
長く続けることは重要ではないでしょうか。
そして終わることも重要です。
長い人生ですから、
いつかの区切り、終わりがきます。
不可抗力や事故などで、
突然終わってしまうこともありえます。
終わりを自身で区切りとして設定できるのは
幸せなことだと思います。
そして、このような終わりの挨拶が
誌面でできるので、喜ばしいことです。
繰り返しなりますが、
最後までお付き合いただき、
本当にありがとうございました。

2024年2月15日木曜日

230 十勝三股カルデラ:常にセンス・オブ・ワンダーを

 十勝三股カルデラは、10数年前に新たに認定されたものです。以前からカルデラの可能性は指摘されていました。新たな検討を加えて、確定されました。自然の中には、まだまだ未知のものが、隠されています。


 北海道は、地質学的に非常に興味深い地域です。野外調査で、同じところを飽きることなく、何度でもみていくことができます。昨年10月に、層雲峡から三国峠を下りました。その年ははじめてですが、このコースは、毎年のように通っています。
 三国峠から十勝側を眺めるのは、心地いいものです。峠を少し越えると、緑深橋の手前に、以前から駐車できる空き地はありました。そこは、側溝が深く、気をつけないと、車の底を擦ってしまうようなところでしたが、今では、駐車場ができています。そこから緑深橋まで歩けるように、ポールで簡易的な歩道ができていました。安心して歩いて景色を見にいくことができます。
 その橋からは、S字の優雅な松見大橋と、その向こうに十勝三股盆地の森林を見ることできる、絶景スポットになっています。ここを通るときはいつも降りて景色を見ています。今回は、10月だったので、高山では紅葉が終わりかけていましたが、十勝三股あたりは、まだ紅葉が残っていました。この大森林の場所が、十勝三股カルデラと呼ばれるところです。
 北海道は、日本は火山と山脈が連なる列島となっていますが、このような地域を地質学では「島弧」と呼んでいます。日本列島はいくつかの島弧が組み合わさってできます。北海道は、東北地域を形成している東北日本弧と千島列島から知床阿寒まで伸びる千島弧があり、それらが道央で衝突しています。島弧会合部と呼ばれる特異な地質場となっています。
 新生代後半には、北海道周辺において北米プレートとユーラシアプレートのプレート境界で、ジャンプが起こっています。このような地域は、北海道中央部以外ではみられることなく、地質学的に非常に特異で重要なところになります。
 新生代後半にプレート境界のジャンプは起こり、その時期に大規模な花崗岩質マグマの噴火も起こっています。花崗岩質マグマの噴火は、大規模なものも多くなります。大規模な噴火では、大量の火砕流や火山噴出物が放出され、遠くまで飛んでいきます。噴火したあとには、カルデラができます。
 十勝三股も盆地になっています。以前(1970年代)から、火山噴火によるカルデラの可能性が指摘されていたのですが、確定していませんでした。重カ異常の測定とその解析によって、15個ほどのカルデラがあることがわかってきました。そのうちのいくつかでは1 kmほどの直径の丸い陥没構造があります。
 十勝三股の盆地は、2008年の北海道大学の石井英一さんたちの共同研究で、「十勝三股カルデラ」だと提唱されました。
 新しく形成されたカルデラは、地形からすぐに見分けられるのですが、古いものになると存在がわかりくくなります。侵食で地形が不明瞭になったり、他の堆積物によって盆地が埋められたりしてわかりにくくなっていきます。
 十勝三股カルデラは、約100万年前(鮮新世以前~前期更新世)に陥没が起こって形成されました。しかし古い時代なので、浸食されて地形が不明瞭になっていき、盆地が湖となり、そこに堆積した十勝三股層ができて埋められていきました。そのため、カルデラの地形がわかりにくくなっていました。
 十勝三股盆地は、重力の異常が見つかっています。異常は、北東-南西方向に伸びた長方形(10kmx6km)をしていますが。その地域は、盆地を囲む外輪山の内壁(14kmx10km)があり、もともとカルデラがあったところと考えてよさそうです。
 地質学的にカルデラと確定するには、このカルデラ噴火で噴出した火山砕屑物との時代、量などと対応している必要があります。
 周辺に分布している無加(むか)溶結凝灰岩層、芽登(めとう)凝灰岩層、屈足(くったり)火砕流堆積物、黒雲母石英安山岩質軽石流は、分布、地層の厚さ(層厚)、噴出年代(約100万年前)、マグマの性質(花崗岩質マグマ)や鉱物の組み合わせや特徴など、さまざまな点で同じ火砕流だということが明らかにされました。
 また、大規模な花崗岩質マグマの噴火(プリニー式噴火)によってはじまり、降下火砕堆積物が降り、その後火砕流が発生しました。噴火当時の地形によって、北東方向には無加火砕流と留辺蘂火砕流が、南東方向には芽登火砕流が、南西方向には屈足火砕流が流れたことが、明らかにされました。
 今回紹介したように、地質学、あるいはすべての科学は、まだ途上です。自然には、未知のものがいっぱいあり、それを新発見をするチャンスはどこにでも常にあります。ふだん目にしている当たり前のものの中にも、不思議が隠されているはずです。自然の中に不思議を見つけられるかどうかは、それを見る人の問題です。常にセンス・オブ・ワンダーを持ち続けている必要がありますね。

・論文と著書を・
現在、大学は、後期の終わりで
在学生への成績評価と卒業判定などがあり
新入生にむけては入試の判定、
そして新学期の準備もはじまります。
教員は、時間が取れるので
集中して研究するチャンスとなります。
現在、論文の執筆と著書の執筆に
取り掛かっています。
論文に手こずっているため、
本の執筆が滞っていますが、
淡々と進めていくしかありません。

・休刊のお知らせ・
来年(2025年)の3月で大学を退職します。
その時に大学設置しているサーバも停止することになります。
このエッセイは画像と文章をセットにしています。
そのため、退職時、サーバの停止時が
エッセイの区切りとなるので休刊します。
以前は、退職でサーバの停止が、
エッセイの終了時期だと考えていました。
しかし、退職時に、サーバを廃止すると
ある時、突然サイトが見ることができなくなります。
事前にアナウンスしていたとしても
気づかない人には、突然サイトが消えることになります。
そこで、次回の3月号をもって休刊して、
1年間サーバにアナウンスを表示することにしました。
他にも理由がいつくかありますが、
詳細は次回のエッセイで紹介しよう考えています。

2024年1月15日月曜日

229 鳴門海峡:渦潮のできる海峡

 鳴門海峡の渦潮は、世界でも有数で、有名な観光地ともなっています。見る手段も、陸地、橋、船からなど、いろいろとあります。渦潮は、海水の運動によるものです。しかしその背景には、地形や地質の条件が関与しています。


 サバティカルの中の昨年の9月に、淡路島と鳴門海峡にでかけました。四国と近畿の間に淡路島があり、淡路島と四国の間に鳴門海峡があります。鳴門海峡は狭く、瀬戸内海への潮が出入りするとき渦潮ができます。狭い海峡は多くあるのですが、ここでは大きな渦潮ができます。その条件を考えていきましょう。
 渦潮の様子は、徳島の鳴門側からも、淡路島側からの陸地かも見ることができます。淡路島の鳴門岬へは、工事中で入ることができませんでしたが、「道の駅うずしお」から眺めることができます。壮大の規模の大鳴門橋の下に見えるのですが、どしても遠目に見ることになります。
 渦潮だけを見たい時は、遠すぎます。大鳴門橋(全長1629m)から見るのが、上から見下ろすことになり、一番よく見えます。しかし、自動車道なので、止まることはできないので、車から横目で見るだけです。
 渦潮は、船から見るのが、なかなか迫力があります。大潮の日からは、少し遅れたのですが、渦がよく見える時間帯を選んで遊覧船に乗りました。残念がら当日は激しい雨でした。遊覧船には室内の窓からだけでなく、外で屋根がついたのデッキがあったので、そこから見ることができ、写真も撮影することもできました。近くでみるのは迫力満点です。しかし、近すぎて全貌がみれないという難点もあります。
 徳島側からは、鳴門大橋の内部に「渦の道」があります。そこでは、歩いて橋の下の渦潮を見学することができます。以前にも来たことがあったのですが、再度、訪れました。真上から渦潮を見ることができました。
 今回は、渦潮を、各所で別角度から、何度もみることができました。
 そもそも渦潮とは、潮の満ち引きが原因です。そのため、一日に二回、干潮と満潮があります。つまり、6時間ごとに干満が繰り返されます。
 大きな渦潮ができる理由は、地形にあります。鳴門海峡は、1.3kmほどしかなく、狭くなっています。北側の播磨灘では深度200m、南側では140mで、海峡の深度は90mです。広いところから、狭いところへ、海水が一気に流れ込むと、ベルヌーイの定理が働きます。ベルヌーイの定理とは、広いところから狭いところにいくと、流速が速くなるというものです。また、海峡でも中央部で流れが速くなり、周辺部で遅くなります。このような水の流れの速度差から、海峡の岸に近いところで渦潮ができます。渦は、鳴門側は右回転の渦ができ、淡路島側は左回転の渦となります。一方、満潮時の渦潮は、鳴門側に左回転の渦が。淡路島側は右回転の渦ができます。いずれの渦も、海峡の下流側にできます。
 渦潮の最大直径は20mにも達します。乗った遊覧船のサイズの同じ程の渦潮ができます。船から見ると、かなりの迫力になります。
 さらに、大きな海水の運動が起こっています。
 満潮の時、紀伊水道からの海水が、播磨灘へ入ろうとしますが、狭いためため、海水の流れが速くなります。このときにも渦潮ができます。ただし、広い海から狭いところに海水が入ろうとするのですが、入りきれず、淡路島の東へ回り込み、広い大阪湾から明石海峡へ回っていきます。海水が、淡路島の西の播磨灘へ到着するのに、5、6時間ほどかかります。その頃には、鳴門海峡は干潮になっています。紀伊水道側に海水が引き込まれる条件になっています。播磨灘の海水が、一気に鳴門海峡に流れ込むことになります。
 渦潮には、異なった運動周期も関係しています。干満のサイクルは、月の引力と地球の自転によって起こります。月に位置は、満月と新月の時期には、太陽と月、地球が一直線になるため、最も月の引力が強く働きます。その時、干満のもっとも大きな大潮になります。大潮は、一月に二度起こることになります。その時期には、より大きな渦潮ができます。渦潮には、一日のサイクルと、一月にサイクルもあることになります。
 次に、サイズと時間スケールをより大きくして、地質学的に見ていきましょう。
 中央構造線が淡路島の南側、紀伊水道側を通っています。中央構造線の南側に海があることから沈降していることになります。四国や南紀では、中央構造線の南側には、三波川変成岩があります。しかし、紀伊水道側は沈降していて、どのような石が分布しているかはわかりません。ただし、淡路島の南にある小さな沼島には、三波川変成岩が分布しています。ですから、紀伊水道になっているところも、沈降しているのですが、三波川変成岩があることがわかります。四国と紀伊半島の地質は、央構造線の南側でも連続していることがわかります。
 瀬戸内海には、四国や本州の出っ張りがあったり、島が多くあり、海が狭くなる「瀬戸」があります。また、海が広がる「灘」があります。それらが繰り返されていることを、以前のエッセイ「221 しまなみ海道:花崗岩の産状(2023.05.15)」で紹介しました。その原因は、花崗岩マグマが上昇しているところが瀬戸になっているといいました。花崗岩は、地殻の硬い岩石(基盤岩といいます)が、地上近くまで上がってきているところです。
 その原理が淡路島にも適用できます。淡路島にも花崗岩が分布しています。その両側が大阪湾と播磨灘になって沈降しています。大局的に見ると、中央構造線の北側は、隆起域と沈降域が繰り返されています。瀬戸内海の灘と瀬戸の繰り返しは、地下深部の花崗岩の上昇を生んだのは、中央構造線による沈降上昇運動が関係しているはずです。そこには、どのような仕組みがあるのでしょうか。
 海峡の周辺の鳴門や淡路島は、リアス式海岸の地形となっています。リアス式海岸は、この周辺が沈降していることを意味します。大きく見ると、東から播磨灘と大阪湾が沈降域、備讃瀬戸、淡路島、和泉山地が隆起域となっています。中央構造線の北側で、四国から近畿まで、そのような上下運動が起こっているようです。大きな斜め横ずれ断層があると、沈降域と隆起域が交互に繰り返されるという現象があります。そのような仕組みが、中央構造線の北側に働いのでしょう。花崗岩があるところが隆起域になり、花崗岩がないところが沈降域になっているようです。
 干満には一日と一月のサイクルがあります。瀬戸内には、隆起の沈降のサイクルが、長い地質学的時間と大きな規模で起こっています。鳴門海峡の渦潮には、両方の影響がみられ、いろいろなスケールの異なった原因で形成されているのです。

・大学共通テスト・
先週末に大学共通テストが実施されました。
我が大学も、試験会場になっていました。
2日間、かなりの雪が降ったのですが、
除雪がされていたので、
大きな支障もなく、無事試験は実施されました。
担当の試験室では、受験者の真剣な姿、集中している姿は、
監督者側にも緊張感がひしひしと感じます。
この時期は、大学では入試があるので、
そのような緊張感を何度も味わいます。

・論文ページ超過・
現在書いている論文の文章量が大幅に増えました。
投稿規程の制限の3倍の量となりました。
投稿規程を破ることになるので、
心苦しいのですが、
なんとか編集委員長と相談して、
載せてもらえないかと陳情しました。
検討するとのことでしたが、
3つに分けることにしました。
この雑誌に、1部掲載か2部掲載は
現在、相談中です。

2023年12月15日金曜日

228 屋島と五色台:カンカンと鳴る石

 讃岐はうどん県として有名ですが、庵治石やカンカン石でも有名です。讃岐はカンカン石の産地で、古くからその特徴を活かして利用してきました。カンカン石は、特別なでき方をした大地の証拠になります。


 香川は、かつては讃岐(さぬき)と呼ばれていました。瀬戸内海に面したとこに、高松がある讃岐平野があります。讃岐平野の後ろには讃岐山地、東に五剣山や屋島の山並みがあり、西には五色台があり、その間に位置しています。讃岐平野は、もともと瀬戸内には雨が少ない上に、三方が山に囲まれているので雨がさらに少なくなります。そのため、農作物を作るために、多数のため池がつくられています。
 讃岐山地の南には、中央構造線沿いに吉野川があり、さらに南には四国山地が東西に長く伸びています。中央構造線は香川の西側では瀬戸内海に近づくため、香川と愛媛の高縄半島の部分が、瀬戸内海に突き出ています。
 この突き出た地域は、花崗岩が分布している地域になっていることに関係しています。四国で花崗岩が瀬戸内側に広がっている地域の南方には、室戸岬と足摺岬として、太平洋側に出っ張っている地域と対応しています。以前のエッセイ(221しまなみ海道:花崗岩の産状2023.05.15)で説明したように、花崗岩マグマが地表付近まで上昇している影響ではないかと考えられます。
 そこに、後に中央構造線が活動して(約300万年前から現在まで)、盛り上がって讃岐山地ができました。中央構造線の北側にある讃岐山地は、白亜紀末の海底で堆積した和泉層群からできています。約200万年前ころから隆起したと考えられています。
 讃岐平野の東西にある山地は、花崗岩と火山岩からできています。花崗岩は、領家帯に属し、白亜紀に活動した深成岩です。讃岐平野の東の小剣山の周辺には、庵治(あじ)と呼ばれ、良質の花崗岩がとれることから、現在でも石工が盛んです。
 火山岩は中新世に活動したもので、花崗岩に上に噴出しました。1300万年前に活動した火山岩は、屋島と五色台にあり、両者とも山の上部が平坦になっていて、周りは急な崖になっています。このような地形は、上にある水平な固い溶岩の部分は侵食には強く残っていき、周囲の柔らかい花崗岩の部分は激しく侵食されて急崖になっています。このように侵食差がある「差別侵食」によってテーブル状の地形をメサ(mesa、スペイン語でテーブルの意味)と呼びます。
 屋島では、花崗岩の上に一部は凝灰岩が挟んでいますが、安山岩質溶岩があります。五色台では花崗岩の上に安山岩質溶岩がありますが、間に凝灰角礫岩、凝灰角礫岩などを間に挟んでいます。
 これらの安山岩質マグマには特徴があり、サヌカイト(あるいは讃岐岩)や類似したものはサヌキトイドと呼ばれるもので、讃岐に特徴的に見つかったことから、明治時代のナウマンが命名したものです。地元では、サヌカイトや讃岐石と呼ばれ、各地で目にします。
 サヌカイトは、マグネシウム(Mg)が多い安山岩(高マグネシウム安山岩)と呼ばれます)で、古銅輝石(ブロンザイト bronzite)という鉱物を含んでいることも特徴です。一般に、マグネシウムが多いマグマは、珪酸(SiO2)が少ない玄武岩マグマなります。ところが、サヌカイトは、珪酸が多い安山岩の範囲(53から63%)にあるのに、マグネシウムが多いという特徴があります。このようなマグマは、マグネシウムの多い岩石(マントルのカンラン岩)が溶けてできたと考えられます。しかし、通常、マントルが溶けてできるのは玄武岩質マグマなので、安山岩質マグマができるためには、特別な条件が必要になりそうです。
 岩石を高温高圧にして溶かして結晶化させることで、どのような鉱物類(岩石)と一緒にあったかを調べることが実験(高温高圧実験)があります。その結果、高マグネシウム安山岩のマグマはカンラン岩と一緒にいること(共存といいます)できることがわかりました。さらに、カンラン岩に多くの水分が加わると、直接高マグネシウム安山岩のマグマができることも実験でわかってきました。
 高マグネシウム安山岩は、瀬戸内海に点々と見つかっていて、瀬戸内火山帯とも呼ばれています。他にも奈良の二上山も有名で、瀬戸内海沿いだけでなく、愛知県から四国、そして九州まで、中央構造線の北側に点々と活動しています。
 1700万年前ころ、日本海拡大が拡大して、大陸から日本列島が切り離され、フィリピン海プレートの海嶺(南北に伸びていた)の上にのし上がってきました。できてすぐの温かい海洋プレートに乗り上がりました。高マグネシウム安山岩のマグマは、水分を含んだ温かい海洋プレートが溶けてできたのではないかと考えられます。高マグネシウム安山岩は、非常に特異な地質条件が生まれた時にマントルでできました。
 サヌカイトは、結晶化をあまりせず、ガラス質の基質になっています。割れ口が鋭くなることから、縄文時代から弥生時代には石器として用いられてきました。非常に緻密で、叩くの金属質のカンカンといういい音がすることから「カンカン石」と呼ばれ、土産物にもなっています。
 サヌカイトは、もともと限られた地域に分布する火山岩です。さらに、いい音のするカンカン石の産地は限られています。カンカン石は特別な石です。カンカンという音には、古い時代の特別なマントルからの響きがあるのかもしれませんね。

・正式名称・
IUGA(が国際地質科学連合)では
化学組成にしたがって、
火成岩の分類はおこなうことにしました。
サヌカイトは、正式には、
単に安山岩か、高マグネシウム安山岩
という分類名になります。
また古銅輝石という鉱物名も
正式には使われなくなりました。
頑火輝石(エンタタイト)から
鉄珪輝石(フェロシライト)を
両端の成分として混じったもの(固溶体)として
表現されるようになりました。
科学において一般化や普遍化は、
重要になりますが、
過去の文化や歴史も消えるようで
少々寂しく感じます。

・石の民俗資料館・
庵治の近くに
石の民俗資料館もありましたので、
見学にいきました。
9月上旬の暑い時期の平日だったためか
見学する人も少なく、
落ち着いてみることができました。
昔の石工たちの技術の凄さを
感じることができました。

2023年11月15日水曜日

227 野島断層:地層の分裂と連続

 兵庫県南部地震で大地が動き、各地で地層が壊されきました。大地の動きは地表に現れ、断層として記録されました。淡路島は、かつては周辺地域と連続してたのですが、大きな断層で分断されてきました。


 夏の終わりに、兵庫県の淡路島にいきました。淡路島を訪れるのは、初めてのことでした。神戸淡路鳴門自動車道で徳島から、大鳴門橋を通り、淡路島の北方で降りました。明石海峡をみながら、淡路島を2日間かけて一周しました。
 淡路島は、明石海峡大橋で神戸と繋がっているので、京阪神からのドライブで多くの人がきているようです。若者が好むところも多数あるようで、行列ができている店が、東側の道路沿いにいくつもありました。
 淡路島の東側を回ったのは、北西にある淡路市にある野島断層を見学することが目的でもありました。野島断層を見る施設は、正式には「北淡震災記念公園 野島断層保存館」といいます。
 この断層は、1995年1月17日午前5時46分、日の出前に発生した兵庫県南部地震のときにできたものです。神戸の被害や火災、横倒しになった高速道路などニュース映像として、何度繰り返されています。神戸の被害が中心に流れることが多く、それ以外の地域は、あまり話題になることはありませんでした。しかし、「阪神・淡路大震災」の名称のとおり、淡路島の被害も、大きいものでした。
 震度7をはじめて適用された地震となりました。震度7も広域で記録されるような大きな地震でした。戦後から兵庫県南部地震までは、大きな被害をもたらす地震は少なかったでのすが、その後、2004年の新潟県中越地震、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2016年の熊本地震、2018年の北海道胆振東部地震で、次々と、震度7が観測されてきました。そのような傾向から、地震の活動期が入っているともいわれています。
 兵庫県南部地震のエネルギーは、マグニチュード7.3という大きなものでした。震源は、淡路島北部の明石海峡で、深さ16kmで起こったものでした。震源が神戸や淡路島に近いところで、活断層による直下型地震となりまします。新潟県中越地震、熊本地震、北海道胆振東部地震も直下型地震でした。このような活断層による直下型地震は、津波などの災害はあまりないのですが、激しい揺れによる被害が大きくなります。
 さて、野島断層保存館は、実際の断層をそのまま保存しています。横ずれと上下のズレによってできた地形ができ、保存館には、その断層が残され、保存されています。断層を掘ってあるトレンチも展示され、断層による地下までのずれが観察できました。
 野島断層の施設内には、断層でずれた花壇のレンガや塀、また家屋の中で起こったズレもそのまま保存されています。「神戸の壁」と呼ばれるものがありました。昭和2年頃に、神戸の公設市場で延焼防火壁として建てられた壁で、大震災でも倒れず、焼けずに残っていました。それが、ここに移設されています。
 淡路島は、ご存知のように、四国、中国、近畿の間、瀬戸内海と太平洋の間にあります。なぜここに島があるのでしょうか。淡路島の南北の長さが50kmほどですが、北部で幅が狭く5kmほどですが、南は広がっており20kmになります。北部には山地があり、南部にも山地が東西に広がっています。
 地形は地質を反映しています。淡路島の北の山地は、神戸の六甲山地を構成している後期白亜紀の花崗岩(新期領家帯)に連続しています。ただし、明石海峡の陥没したため分断されています。花崗岩は、淡路島の北部の基盤の岩石となっており、周辺には中新世の堆積岩(神戸層群)があります。
 淡路島の南側には、諭鶴羽(ゆづるは)山地があり、紀伊半島の和泉山地から四国の讃岐山地まで続く山並みがあります。この山地は白亜紀後期の堆積岩(和泉層群)が分布しています。そして、淡路島全域のすべてを不整合で覆っているより新しい地層(大阪層群)が広く分布しています。淡路島の和泉層群の南側の海の中には、中央構造線が通っています。
 淡路島は、今では橋によって神戸と四国に繋がっているのですが、地層では昔から神戸と四国、紀伊半島も連続していました。ただし、断層によって四国や本州と切り離されて島となりました。淡路島周辺には、昔から断層が形成され、現在も活動して地震を発生しています。
 兵庫県南部地震のとき、神奈川県の博物館準備室にいました。直接の被害はなかったのですが、朝のニュースで、大きな地震が神戸であったことはわかったのですが、実態がまだ不明でした。親族が京都にいたので、すぐに電話をしました。大きな揺れで驚いたが、家族も家も大丈夫であると聞いて一安心しました。しかし、その後で電話しようとすると、繋がらなくなりました。
 間接的な影響もありました。博物館で用いる特別な装置の部品の一部は、当時の大阪周辺の下請け工場で作られていたそうです。特別な技術を持った工場も多く、被害を受けていたら、製品の完成が遅れかもしれないといわれていました。しかし、幸い大きな被害がなく、予定通りに開館にこぎつけられました。
 その後も、震災は繰り返されています。その度に、人はこれまでの教訓を活かし、少しでも早い復興を目指してきました。自然災害による物質的な復興は費用と手間をかければできますが、人の心や傷ついた記憶の回復は難しいものです。人の心を癒やし、傷ついた記憶を治めるのには、人の心からの手当が必要なのでしょうね。

・今シーズン最後の調査・
先週末に調査にでかけたので、
予約配信としています。
今シーズンの調査は、これが最後になります。
晴れの日には大量の雪虫の発生、
曇の日には氷雨になり雪が降りそうな気配があります。
予約配信なので先週末の天気は不明ですが、
週末に寒波がきそうなので少々心配です。
事前に日程を組んでいるので、
出かけるしかありません。
心配しても仕方がありません。
せいぜい楽しんでいければ思っています。

・4年制大学・
11月は大学の後期の折返しとなります。
学生たちも、落ち着いて授業が受けられる時期でもあります。
3年生は就活が前倒しになってきています。
3年生には落ち着かない学生もいるかもしれません。
教職につく学生も、3年生のうちから
筆記試験が受けられる制度が
導入されるようになりました。
はじまったばかりなので、
どの程度の人数が受験をするか不明ですが、
落ち着かなくなってきています。
もう少しじっくりと大学での学びを続ける方が
4年制大学にいる意味がありそうなのですが。

2023年10月15日日曜日

226 別子:海嶺からのキースラガー

 別子鉱山は、江戸時代から昭和まで、長期間、採掘され続けました。現在は稼働しておらず、鉱山は廃墟となっています。鉱山跡の巨大さ、壮大さから、かつての繁栄ぶりがうかがえます。


 夏は、暑さを避けて調査を中断していたのですが、8月下旬から再開しました。城川から近い、愛媛県内の石鎚山周辺を巡ってから、別子へと向かいました。別子へは何度か訪れていますが、再訪です。台風の影響で、時々激しい雨が降り、蒸し暑い日も続いていました。
 四国山地から流れてきている国領(こくりょう)川が、新居浜へ流れ込みます。国領川が、別子鉱山の精錬された粗鉱を送り出す経路になりました。今回は東平(とうなる)を訪れました。東平は、かつては鉱山町として栄えていたのですが、現在は観光施設として残されていますが、居住者はいません。
 県道44号から、脇道に入って東平へ向かう道は、狭いところばかりで、車がすれ違えるところが限られています。自家用車で向かうのは、注意するように書かれていました。その代わり、別子マイントピアから、ツアーバスが出ているので、それを使うことを推奨しています。
 東平ははじめてなので、ツアーに申し込んでいくことにしました。ツアーバスでは、対向車を待機させるために先導車が走ってくれます。当日は、台風の影響で時々激しい雨となりました。そのおかげで気温も低目で助かりました。ガイド付きのツアーだったので、東平の歴史や施設など、よくわかりました。
 別子鉱山は、長い歴史を持っています。岡山で鉱山を営んでいた住友が、1690(元禄3)年、四国山地に有望な鉱脈があることを聞きつけました。手代一行を派遣して探索したところ、銅山川の源流に、鉱脈を発見しました。銅山川は吉野川の大きな支流となっています。
 鉱脈は、あまりに有望なので、発見に歓喜したことから、「歓喜間歩(まぶ)」と呼ばれています。「間歩」とは坑道のことです。鉱山は、標高1200mの山奥でしたが、一気に体制を整えて、翌年から採掘が開始されました。発見から5年後の1695年には、2700人が暮らす町になっていきました。歓喜坑のすぐ脇に歓東坑もつくられ、鉱石は谷の下流で精錬されていました。
 別子鉱山は、中央構造線のすぐ北側の低温高圧条件の変成作用を受けた三波川変成帯の中にできています。別子の鉱床は、薄い層として銅を含んだ硫化鉱床(層状含銅硫化鉄鉱床、キースラーガーと呼ばれています)になっています。
 鉱床は、緑色片岩の片理面に平行にできています。地質構造(向斜と呼ばれるもの)の影響も受けています。鉱床も、同じ変成作用や変形作用を受けていることから、三波川変成岩ができる前にはすでに鉱床が形成されていたことになります。かなり初期からできていた鉱床となります。
 三波川変成岩のもと(原岩)は、海洋地殻とその上にたまった堆積岩です。オフィオライトと呼ばれているものです。玄武岩の海底火山活動に関連されたものではないかと推定できます。
 現在の海嶺では、活発に火山噴出が起こっています。それに伴って熱水噴出孔が多数できているのが、潜水艇で観測されています。熱水噴出によって硫化物の沈殿物が形成されていることから、これがキースラガーの起源だと考えられています。
 似たタイプの鉱床が、三波川変成帯の中だけでなく、秩父帯や四万十帯、他の地域の舞鶴帯、阿武隈帯など各地でも見つかっています。いずれも海洋地殻やオフィオライトが原岩となっている地域です。ただし、多くの鉱床は、銅の含有量が少ない(低品位と呼びます)ものがほとんどです。
 別子の鉱床は、銅や金属の含有量が多くなっていること(高品位と呼ばれる。数%程度、多いものだと20%)が大きな特徴となります。住友の鉱山として、1691年の開坑から1973(昭和48)年の閉山まで、283年間、掘り続けられました。非常に埋蔵量の豊富な鉱山だったことになります。世界的にも有名で、典型的な特徴をこっていることから「別子型鉱床」とも呼ばれています。
 東平は、別子鉱山のかつての中心地だったところで、1916(大正5)年から1930(昭和5)年まで採鉱本部がありました。東平でもっとも人口が多った時期は1926(昭和元年)で、930戸4180人が住んでいたそうです。鉱山関係者の住宅だけでなく、小・中学校や商店、神社、映画館もあったようです。現在では廃村となっていますが、繁栄の名残が各所に残されています。東平から見ると、遠くの山腹に、鉄道のためたに切り開かれた跡も残っています。
 残された鉱山跡や住居跡から、東平は「東洋のマチュピチュ」と呼ばれています。それが観光資源となっています。大規模に活動していた産業遺産は、その遺構の大きさが、かえって栄光盛衰の侘しさを増していくようです。兵(つわもの)どもが夢の跡、でしょうか。

・三大銅山・
日本では、足尾(栃木)、日立(茨城)、
そして別子が、三大銅山と呼ばれています。
大規模な鉱山があると、
周辺では環境問題が起こりがちです。
燃料として森林の伐採が進むと、
周りははげ山になります。
激しい雨や台風があると、
地すべり、土石流などの災害が起こります。
煙害や亜硫酸ガスによる大気汚染、酸性雨も起こります。
明治27年には、銅山支配人の伊庭貞剛は、
公害へ対処として、
大規模な造林を計画して植林しました。
で今では、はげ山の面影はありません。
別子は、早くから環境問題に取り組まれてきたところでした。

・別子銅山記念館・
当日は、台風による雨だったので、山間部の調査は諦め、
別子鉱山関係の観光施設を見て回りました。
マイントピア周辺にも施設が残されていて
観光できるようになっていました。
新居浜の近くには、大山積神社があり、
そのすぐ横には別子銅山記念館があります。
記念館の屋根は全面がサツキが、植栽されています。
別子鉱山の繁栄を象徴しながら
環境への歴史も反映しているようです。

2023年9月15日金曜日

225 石鎚コールドロン:多様な地質

 面河渓から石鎚へスカイラインと進み、瓶ヶ森へはUFOラインを通りました。車でいけるコースですが、中央構造線、石鎚コールドロン、火砕岩、花崗岩、礫岩、三波川変成岩など、多彩な地質を見ることができます。


 8月の下旬から後半の野外調査を再開しました。まずは、久万高原を通り県道12号西条久万線で面河渓に向かいました。山岳博物館は休館日だったので、さらに奥に向かい、一台しか通行できない狭い道を抜けて、行き止まりにある面河渓に到着しました。この日は、雲が流れていましたが、晴れ間が見える天気でしたが、観光客も少なく、落ち着いて散策できました。暑かったのですが、渓流沿いの涼やかな風が心地よかったです。
 石鎚のある地域は、大きな地質区分では、三波川変成帯になっているのですが、石鎚周辺は「石鎚コールドロン」と呼ばれる、新生代の約1500万~1400万年前(新第三紀中新世)の火成岩類と堆積岩が分布しています。
 コールドロンとは、地下深部にあったマグマだまりが陥没してできたもとと考えられるものをいいます。激しい火山活動でマグマだまりが空になってくると、地下に空洞ができ、そこが陥没していきます。それがカルデラとなります。新しい火山活動では、陥没地形が残されていて、カルデラと判別できます。ところが、時間が経過して、カルデラの地形が侵食されて明瞭でなくなり、陥没部の埋められていた部分が侵食されたり、深部のマグマだまりまで露出してくることがあります。そのように侵食されて地表にでてきたマグマだまりのうち、火山性の陥没構造をもったものをコールドロン(cauldron、大釜という意味)と呼びます。カルデラとは認めにくいものをコールドロンと呼んでいます。
 コールドロンには火山岩だけでなく、深成岩や火山噴出物も含まれているため、(火山‐深成)複合岩体となっていることもあります。火山岩と深成岩の関係やマグマだまりの形成過程の探求に重要な地質となります。カルデラの形成過程も、コールドロンから推定されてきたものです。
 石鎚コールドロンは有名で、その一部に四国最高峰の石鎚山(標高1982m)があります。形成過程は、1500万前ころから石鎚山周辺で火山活動からはじまります。環状に貫入したデイサイト質のマグマの岩脈を形成しながら、地表に噴出します。激しい火砕流を伴う大噴火がおこり、環状岩脈に沿って陥没が形成されます。それでカルデラが形成されたと考えられます。
 火山活動は継続して、カルデラは安山岩質マグマの火砕流堆積物(天狗岳火砕流堆積物)が埋めていました。この火砕流は分厚くたまり溶結凝灰岩となりました。石鎚山の西側に火砕流堆積岩が広域に分布しています。東側にはあまりありません。深部からまだマグマが上昇してきており、火砕流へと貫入していきます。それが花崗岩となりました。
 石鎚コールドロンは、きれいな丸い形状に分布しています。その中に、安山岩質の溶結火砕岩類と面河渓谷の花崗岩類があります。面河渓谷の河床をつくっている白っぽい岩石は、この花崗岩類です。この石鎚コールドロンから東の火砕堆積岩が広がっているのですが、その周辺には礫岩(久万層群)があちこちに分布しています。
 瓶ヶ森へ続く稜線は険しくなっていますが、瓶ヶ森山頂付近にはスプーンで削られたような、広く平らになってところがあります。礫岩の山なので、侵食には弱ためだと考えられます。それ以外の東側では、唐突に三波川変成岩に代わります。
 さて、瀬戸内海の面した西条から南側を眺めると、急傾斜の山並みが見えます。標高で1000mから2000m近くの山並みとなっています。そのような険しい地形は、中央構造線がつくった断層地形です。
 中央構造線は、1億年以上にわたって活動を断続的に続けている活断層です。ここ100万~200万年ほどは、右横ずれの運動をしていますが、垂直方向にも動いています。西条側から見ると石鎚は東に移動し、なおかつ隆起もしていることになります。石鎚周辺では、隆起速度は年間約2mmほどだと考えられています。
 面河渓からは、石鎚スカイラインを使って石鎚神社に向かいしました。早朝に出発したので、ここでやっと昼食となりました。その後、UFOラインと呼ばれる「いの町道瓶ケ森線」を通りました。UFOラインは、眺めがいいことで有名で、狭いところもあるのですが、多くの車、二輪車が通っています。しかし、土砂崩れの補修のため、通行できる時間が決まっており、タイミングが悪いと1時間近く待つことになります。店の人に、通行できる時間と確かめ、ちょうど昼休みで作業が中止され通行可能な時間のうちに、通るとにして進みました。噂通りの眺めのいい道でした。景色を楽しみにながら、ゆっくりといきたかったのですが、撮影だけを急いでして、通り抜けました。
 面河渓のルートから石鎚スカイライ、UFOラインは、石鎚コールドロンに関連した火成岩類と堆積岩、そして三波川変成岩、それらが中央構造線によって、落ち上げられている様子が見ていくことができます。

・調査再開・
8月は残暑が厳しく、天候も不順でしたが、
後半の野外調査を再開しました。
初日は、山の中なので天気を心配したのですが、
雲は時々かかっていたのですが、
山並みを眺めることができました。
山から降りたら、即座に
蒸し暑い空気が襲ってきました。
今年の夏は長く厳しいです。

・子持ち権現山・
子持ち権現山は、標高約1700mで、
険しい崖がUFO道路から見ることができます。
UFO道路は、瓶ヶ森へと続く
久万層群の分布域に沿って走っていきます。
約100mの崖は、久万層群に属する
礫岩からできているのが、遠目でもわかります。
そして途中からは三波川変成帯になります。
そこは土砂崩れ地帯になっていきます。