2018年6月15日金曜日

162 折戸浜:半遠洋性堆積物

 道南の折戸浜には、付加体の構成物の岩石が、海岸の砂の中にモニュメントのように点々と立っています。それは、不思議な光景です。私は、そこに海と陸の架け橋である半遠洋性堆積物を発見して感動しました。

 北海道の南、松前郡松前町館町に砂浜の海岸が続くところがあります。松前の町より少し北の海岸で、折戸浜(折戸浜)と呼ばれています。道南の海岸は岩礁が多いのですが、折戸浜のあたりだけが、広く砂浜が伸びています。それでも、砂浜の中に岩礁が、いたるところにモニュメントのように立っているのが見られます。その岩礁には興味深い地層が出ていました。
 一般に古く変形や変質の激しい地質地帯では、露頭があっても風化が激しく、産状がわかりにくいところが多くなります。それに比べて、海岸や河川沿いでは、きれいな露頭を見ることができます。例えば、海岸では、岩礁の表面は、波で日々洗われ、磨かれているので、非常にきれいな露頭となり、産状をよく見ることができます。
 私は、これまで道南で地質調査をしたことがないのですが、あまりきれいな露頭が少ないと思っていました。露出のいい露頭があるとすれば、海岸や河川沿いなど、限られているだろうと、海岸を中心の調査を進めました。折戸浜は、砂浜ですが、砂の中に岩礁として露頭がでていることは有名ですし、以前来たときも道路脇から確認していました。今年の道南の野外調査では、この岩礁を4月かこれまで3回、そして7月にもう一度見にいくことになりました。
 折戸浜の岩礁では、砂岩と泥岩の互層などの堆積岩が主体ですが、場所によっては、層状チャートも見られます。また、周辺では枕状溶岩となっている玄武岩やその破砕した玄武岩なども見られます。これらの岩石類は、エッセイでは何度も紹介している付加体の構成物です。松前層群と呼ぼれるジュラ紀に付加したものです。
 砂岩泥岩の互層は、タービダイト層とも呼ばれるものです。付加体の砂岩泥岩互層は、タービダイト流が起源となります。タービダイト流とは、沿岸に堆積した堆積物が、ある時、大陸斜面での海底地すべりなどで土石流のようになり、一気に深い海(海溝付近)へ流れ下ったものです。この流れをタービダイト流(重力流、乱泥流など)と呼びます。一度のタービダイト流で、粒度が大きく重い砂から小さな泥へと粒度変化してたまり、一層の地層となります。このような粒度変化を、級化(きゅうか)といいます。一度の堆積作用は数日でおさまります。それ以外の時間は、ほとんど堆積物もたまらない、変化の少ない海底へともどります。
 タービダイト流は、その発生メカニズムを考えると、数十年や数百年に一度にしか起こらない現象です。しかし、地球の時間の流れで考えると、地質変動の激しいところでは、繰り返しタービダイト流が発生して、タービダイト層が堆積することになります。これが、砂岩泥岩の互層からできているタービダイト層の起源です。
 一方、枕状溶岩は海底でできる火山岩の特徴的な産状です。玄武岩の化学的特徴や産状から、中央海嶺で噴出した海洋底でのマグマ活動が起源だと考えられています。海洋地殻の最上部を構成していた岩石です。
 また、層状チャートは、海洋性の珪質殻をもつプランクトンが死んで、その殻が深海底に沈んで溜まったものです。小さなプランクトンの殻ですから、溜まる量は少なく、非常ゆっくり(千年で数ミリメートルほど)としかできません。しかし、これも地球時間で考える厚い層となっていきます。それが層状チャートです。深海底の堆積物です。玄武岩の上に深海底で付け加わった層状チャートがたまります。
 玄武岩から層状チャートという岩石の構成は、もともとは海洋地殻の最上部の構成物だったことになります。この海洋地殻が、プレート運動によって、列島にぶつかり、海溝で沈み込んでいきます。そのとき海洋地殻の上の部分が剥ぎ取られて、列島に付加体として取り込まれます。それがタービダイトと混在する枕状溶岩や層状チャートです。折戸浜では、海と陸の構成物が、はらばらにされて、詰め込まれているのです。
 陸起源のタービダイトと海起源の玄武岩と層状チャートは、もともとは、海溝で隔てられてはいるのですが、海溝を超えるタービダイト流があることも知られています。層状チャートの中に、陸のタービダイト起源の堆積物が混じることは知られているのですが、私は、見たことがありませんでした。それを、この折戸浜で見つけることができました。
 ある岩礁で層状チャートを見つけました。その中に黒っぽい泥岩の層があることに気づきました。最初は、不思議だなあと思っていました。もし一層だけなら巨大なタービダイトがあれば、海溝を越えて遠くの深海底にまで達すことは知られていたので、それが起源かと思っていました。しかし、その層状チャートをよくよく観察していくと、層状チャートの間には泥岩が厚さはさまざまですが何層かありました。薄ければそれは層状チャートの層間にある粘土層ともかんがえられるのですが、黒いのと、さらにチャートに似た白っぽい色ですが、細粒ですが砂岩と呼べるものまで見えてきました。これらは、「半遠洋性堆積物」と呼ばれるものだと判断できました。文献でしかみたことがなかったのですが、海と陸をつなぐ架け橋となるものでした。はじめて見つけて、感動しました。
 私にとっては、折戸浜の半遠洋性堆積物の露頭は、忘れがたいものになりました。機会があれば、これからも何度が訪れたいものです。アプローチも楽ですし、露頭もきれいなので、いいところです。

・ボランティア・
砂浜が広がるので海水浴場にもなっています。
私が行ったときに、広い駐車場があるのですが、
そこに車が一杯停まっていました。
なにか行事あるのかと思っていたら、
海岸の一斉清掃が行われていて
ちょうど終わったところでした。
きれいな砂浜を維持するため、
地元の人が、多分ボランティアでしょうが
努力されているのを見ることができました。

・半遠洋性堆積物・
初回の調査では、層状チャートを発見して、
その産状をいつものように見ていました。
すると、一層だけ厚い泥が挟まれているのに気づきました。
その泥岩が目立っていたので、
それだけに注目して、詳しく見ていました。
そして、その泥岩を見つめながら、
どうしてできたのかを、いろいろ考えていました。
でもその時、起源を思いつきませんでした。
帰ってから、考えついたのが、
上の巨大タービダイトの異常な事件というアイディアでした。
いずれにしても重要な露頭なので、
今年の調査予定を変更して、
この周辺を何度か調査することにしました。
それを、きっかけにして
この露頭を詳しく調べることにしました。
その結果は、上のような半遠洋性堆積物だということが
判明してきたのでした。
思い出深い露頭となっています。

2018年5月15日火曜日

161 滝瀬海岸:シラフラの崖に

 道南乙部町のシラフラの崖には、圧倒される迫力があります。遠目には白く見えますが、近づくと整然とした縞模様が見えます。シラフラの崖に、大地の営みが残されていました。

 ゴールデンウィーク前半に、道南に調査にでかけました。3泊4日の間、幸い天気に恵まれて、予定通りに順調に調査を進めることができました。ただ雪解け時期だったので、川沿いの調査はだめで、主に海岸沿いの調査となりました。
 天候に恵まれたおかげで、いくつか収穫があり、再度精査する必要を感じました。今年は、道南の他に、山陰と東北の調査を予定していたのですが、急遽、調査予定の変更届けを出して、東北地方を中止して、その分を道南に振り向けることにしました。
 校務分掌が変わったので、出かけられることになりました。講義期間中であっても、うまく調整すれば、3日ほどの調査にいけることがわかりました。しばらく道南通いになりそうです。道南だと移動には時間がかかかりますが、自家用車でいけるので、費用はそれほどかかりません。短期間ですが、繰り返し行くことが可能となりました。5月、6月、7月に、三回に分けて短期で調査に出かけることにしました。今年だけの調査の研究費なので、目的は達成の予定です。来年は、どうなるかはもっと先に考えます。
 道南の乙部町、滝瀬海岸に、シラフラと呼ばれるところがあります。今回の調査ではじめて訪れたのですが、調べるとアイヌ語で「白い傾斜地」という意味だということで、江戸時代からこの地名が使われているそうです。その名の通りではないのですが、白い「崖」がそこには延びていました。
 シラフラは、15メートルほどの高さで切り立った崖が、海岸沿いに400、500メートルほど連続しています。白く延びた急峻な崖は、非常に壮観です。崖に近づくと圧倒されてしまいますが、ついその地層に触りたくなってしまいます。威圧感と親近感の両者が入り混じった気分になります。
 シラフラのあたりは、海岸で崖が切り立っています。柔らかい地層が波の侵食で削られた海食崖です。日本海に面しているため、侵食が激しい上に、地層が柔らかいために、その崖は峻立しています。シラフラのあたりだけが、海岸がゆるい弧状に侵食されて、くぼんでいます。
 シラフラの海岸線では、水平の地層が、遠目ではきれいな白色の絶壁になっているように見えます。シラフラの説明として、ドーバー海峡の白亜(チョーク)の崖という文章がありました。その白さと成層状態からでしょう。
 ドーバーのチョークは、あまり固まっていない石灰岩、炭酸カルシうムからできています。この炭酸カルシウムは、主に円石藻類の殻からできています。ところが、シラフラの地層は、チョークではなく、よくみると茶色っぽい黄色の細粒の粘土岩、白っぽい砂岩からでてきます。白っぽいとところは長石や石英などをたくさん含んでいます。白い地層には、珪藻や放散虫の化石がたくさん入っているとされています。化石から、その年代は500~140万年前(新第三紀鮮新世から第四紀にかけて)とされています。地層自体はすべては白いものではないのですが、色も淡いので、崖全体としては白っぽく見えています。
 シラフラの地層は、檜山層群の最上部にあたり館層(たてそう)と呼ばれています。内陸の厚沢部(あっさぶ)町の館(たて)周辺に、広くそして厚くたまっていて、ここは館堆積盆という海が入り込んでいたところだとされています。地層は海底に堆積した、海成層となります。
 シラフラ以外の周辺の地層では、白黒や白と濃い茶色の縞模様がよくみえます。シラフラの少し北側にでは、くぐり岩と呼ばれるところがあります。ここどえも白と濃い茶色の地層が見えます。ここでは、なぜか地層が峰となって海に突き出ています。不思議なことに、侵食に耐えて残っています。海沿いでは、その幅が2、3メートルほどしかないのですが、壁のように海岸を区切っています。この壁は、海岸を通るときに邪魔になるので、1600年ころに人の手で穴を開けたという説明がありました。そんなに古くから、ここには人が住んでいて、ニシン漁がなされてたそうです。
 くぐり岩で私が注目している点は、地層の乱れです。くぐり岩の下半分は成層構造がしっかりとあるのですが、その上半分で地層が「乙」の字形に曲がっています。このような乱れた地層を、スランプ構造と呼んでいます。スランプ構造は、もともとは成層として堆積していた地層が、まだ固まっていない時、なんらかのきっかけ(地震や洪水など)で、海底地すべりで地層が割れることなく、しかし堆積物がまったくばらばらになこともなく、地層の構造を残しながら、流動して乱れてしまったものです。
 さらに上の地層では、また成層構造にもどっています。ですから、ある地層の部分だけ乱れが発生していることになります。不思議な地球のダイナミックさを感じます。
 シラフラから南側の海岸の崖では、いたるところで白と黒の織りなす成層構造がきれいに見えるところがあります。これらも館層に属します。黒っぽいところは、礫岩からできているところです。これらの地層は、重力流堆積物と呼ばれるものでできたと考えられています。
 重力的に不安な状態の固まっていない地層が、なんらかの原因で、滑り出したものです。さきほどのスランプとは違って、地層の堆積物の粒子がバラバラになりながら、水より密度が大きい流体(これを重力流堆積物という)となり、流れていきます。重力流堆積物の典型として、タービダイト(turbidity current、混濁流とも呼ばます)があります。それらが繰り返さえされることで、成層構造ができたとされています。
 シラフラの崖の下を歩いていると、直立する崖に威圧されながらも、このような地層がまっていることの不思議さ、そして触れた見たくなる慈しみも感じていました。
 最後に余談を少々。
 シラフラという言葉が、アイヌ語で「白い傾斜地」が語源とありますが、私には、その意味がよくわかりませんでした。その原典を探していたのですが、とうとう見つかりませんでした。ネットでは、どれが最初の説明か、出典もわかりません。しかし、「白い傾斜地」という説明をあちこちで見かけます。アイヌ語事典で。「白い傾斜地」として入れても、シラフラという言葉になりません。どこから由来したものでしょうか。もっと丁寧に調べればわかるのかもしれませんが、時間切れとなりました。
 シラフラは、傾斜地というより、切り立った直立した崖です。アイヌの人が住んでいたときも同じ景観だったでしょう。どこが傾斜地なのでしょうか。確かに崖の直上は、別の砂丘堆積物のようなものが溜まっていますので、なだらかな傾斜があります。でも白いところは崖です。不思議が残ってしまいました。

・ゴールデンウィークの後半は・
ゴールデンウィークの前半は、
天気がよかったので調査にはうってつけでした。
ところが、後半は不順な天候で自宅にいました。
桜の満開の時期に不順な天候で残念でした。
後半はいつものように午前中は大学に出て、
午後には自宅にもどるという生活をしていました。
授業がない時の大学は、のんびりとしていて、好きです。
いつもこうなら仕事も捗るのでしょうが、
まあ、学生のいない大学は大学ではありません。
学生がいないと、それはそれで寂しいものです。

・地質学を満喫・
今まで月曜日は授業のないrスケジュールなのですが、
校務分掌上の会議がよく入っていました。
また、校務もいろいろあったので、
出かけている余裕もありませんでした。
でも4月からは、土日月曜日の3日間が休みにできるので、
調査にでるときは助かります。
また、金曜日の講義があるのですが、
なんらかの予定で講義スケジュールの変更があると、
その日も調査に充てられます。
1年、調査に専念できるの久しぶりです。
地質学を満喫したいと思っています。

2018年4月15日日曜日

160 瀞:記憶のお気に入りへ

 熊野川の支流、北山川は深い山あいを流れる川で、紀伊山地の奥深くまで入り込んでいます。かつては木材の筏が、現在ではウオータージェットが往来しています。そんな北山川の奥に瀞があります。

 私の野外調査は、テーマに合った地域、あるいは地層や岩石を選んで、典型的な露頭を見つけ、そこで詳細な観察をしていきます。このような手法で取り組んだのは、黒瀬川構造帯という不思議な岩石群ですが、なかなかいい露頭がないので、現在中断しています。次のテーマは、タービダイトと呼ばれる付加体でよく見られる地層を、対照になる沿岸の堆積物を四国と九州で調査しました。現在は層状チャートを中心にして調査を進めており、四国が一段落したので紀伊半島と、山陰を中心とした中国地方で調査を進めています。そして北海道も加え、できれば東北へも広げていければと思っています。もちろん、その地を訪れたら、次のテーマのメランジュや黒瀬川構造帯なども、一緒に見ていくようにしています。
 各地を巡っていくと、テーマに相応しい露頭だけでなく、気に入った地形や場所、露頭などもできてきます。そんなところへは、何度も訪れてしまいます。小さな露頭であっても、何度も通っていきますが、その度に新しい発見、感動がえられます。
 紀伊半島でも、そんな地がいくつかできました。その一つに瀞(どろ)があります。瀞は2度目で、2017年1月のエッセイでも取り上げました。前回訪れたのは、2016年夏でした。その時は、瀞までで、それより奥には進む予定をしていませんでした。2度目の2017年9月には、瀞まで川を船で遡上して、道路からも瀞へいくのと、2つのルートで地質を見ました。
 船は、熊野川と北山川の合流点の少し下流の志古が、発着所になります。ウォータジョットという高速船で2時間ほどかけて、川沿いの景観の変化や露頭を見学しながら、遡っていきます。砂岩泥岩互層の中を川が流れています。上流に進むに連れて、地形が険しくなってきます。その変化はなかなか面白いものでした。高速船で移動が早いため、つぎつぎと現れる露頭、地形の変化を楽しむことができます。船がもっとも遡ったところが瀞になります。瀞では、20分ほどの休憩時間があります。川原には小さな露店とトイレがありました。この休憩場所の川原が、瀞ホテルの真下にあたります。休息後、同じコースをウォータジョットで志古まで戻りました。
 その日は天気もよく、また川面すれすれから見る露頭はなかなか見ごたえがありました。上流に行くにつれて、地層が箱状に侵食されてゴージュになっていきます。そんなゴージュの中を船で遡ることになります。
 その後、車で169号線を遡っていきました。このルートは以前も来たことがあり、トンネルや拡張など道路が整備されて、車で走りやすいルートです。途中で昼食をとり、瀞へ向かいました。今回は、川と道の両方から、北山川から眺める紀伊山地が堪能できました。
 今回は瀞にある瀞ホテルに立ち寄りました。1917(大正6)年、木材を切り出し、北山川の筏にして流す人たち(筏師)の宿として開業したそうです。その後招仙閣と改名し、昭和初期に瀞ホテルという名称となったそうです。現在の建物にも、招仙閣という看板がかかっています。さらに、瀞ホテルという看板もかけられています。瀞ホテルは、だいぶ前に宿泊施設としては営業を終わったのですが、2013年6月に食堂と喫茶の瀞ホテルとして営業を再開していました。前回、私がいったときには営業を終わっていたのですが、今回は昼すぎだったので、営業をしていました。
 昼食は終わっていたので、ここではコーヒーだけを飲みました。すごく混んでいて、1時間ほど待つとのことでした。私は、基本的には行列までして店n入るのは嫌で、いつも敬遠しています。しかし今回だけは、瀞の景色が素晴らしいので、外でうろうろしながら待つことができました。
 瀞ホテルでは、1階部分を使って営業しているのですが、かつて宿として使っていた2階も見学することができます。店の部分だけでなく、瀞ホテルの建物全体、そして立地がなかなかいい空間で、そこにいるとなかなかいい時間を過ごすことができます。そんな心地よい時間と空間が、私には良い記憶となっています。前回は、閉まっていた店ですが、今回は、行列までして入りたいと思えるような場所となりました。
 さて、この北山川ですが、熊野川の合流部から東に向かって上流になります。少し妙な流れかたに思えました。
 紀伊山地は東西に山並みがあるので、川は山稜から南に流れていくるはずです。ところがこの北山川は、東から西に向かって流れています。もちろん真っ直ぐではなく曲がりくねっていますが、基本的に東西方向の流れとなっています。そこに妙さを感じました。
 さらに、川を遡って見えていた石は、砂岩泥岩の互層でした。列島の海側に堆積したもので、前弧海盆堆積物と呼ばれ、熊野層群となります。この地層はそれほど硬くないので、侵食を受けて削られやすいはずです。瀞付近では、何故か険しい地形なっています。これも妙です。
 南北に流れるはずの川は東西に流れ、柔らかいはずの地層が険しい地形となっているのです。
 その答えは、北山川沿いでは見ることのない、熊野酸性岩類でした。北山川より南側には、熊野酸性岩類が広く分布しています。それらを回り込むように北山川は流れています。しかし、北山川沿いには熊野酸性岩類は分布しています。地質図をみると熊野酸性岩類の周辺には、柔らかいはずの砂岩泥岩が分布しています。ただし、これらの堆積岩は、花崗岩類に貫入によって、熱の変成を受けて固くなっています。このような熱変成により固くなったものをフォルンフェルスといいます。
 川面から地層を見ながら、妙に思えたものは、実はこの地域の地質が生み出したものだったのです。瀞は、そんな妙さもお気に入りとなった理由でしょうか。ただ、人が多いので私は少々疲れてしまいますが。

・ジオパーク・
ジオパークが各地にできてきたので、
その地域の典型的な地質をみるのに、
情報が増えたので便利になってきました。
南紀熊野ジオパークでも情報は
大いに活用させていただきました。
見たい露頭すべてが、ジオパークの地域、
見学ポイント(ジオサイトと呼ばれています)ではないので、
自力でいろいろ調べて、露頭を見つけていいくことになります。
いい露頭が見つからないこともあります。
そんな中で、素晴らしい露頭や景観にあうと、
記憶のお気に入りに登録されます。

・戸惑いと期待・
新学期の授業がはじまり、
1週間がたちました。早いものですね。
1年生は、戸惑いもあったろうし、
期待感もあったでしょう。
それらの戸惑いは解消されたでしょうか。
期待は満たされたでしょうか。
たぶん場面場面で両方を味わっていることでしょう。
できれは、合わせてプラスになっていればと思っています。
教員も、戸惑いも期待も与える存在でしょう。
心して接しなければなりませんね。

2018年1月15日月曜日

157 紀の松島:アンビバレントな景観

 和歌山の東の海岸に、知る人ぞ知る名所、「紀の松島」と呼ばれているがあります。関西からも中部からも、アプローチが遠いので、都市圏からはすぐには行きづらいところです。でも、そこには素晴らしい景観がありました。

 和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦(なちかつうら)町に、「紀の松島」と呼ばれる半島があります。紀の松島は、南の森浦湾と北の那智湾の間に位置します。17kmほどの周囲に、なんと大小130ほどの島があります。多くの島があるという景観が、日本三景の宮城県の松島に似ていることから、「紀の松島」と呼ばれているそうです。宮城の松島には、260ほどの島があるようなので、数では及びません。しかし、紀の松島は外洋に面しているため切り立った岩礁になっています。宮城の松島は穏やかさ、雅さが売りですが、紀の松島は峨々とした岩礁や激しい波浪など、荒々しさが売りとなるようです。
 紀の松島は隆起海岸のようで、断崖があり、洞や島、アーチなどが見れられます。紀の松島は、海岸線が入り組んでいるのですが、場所によっては歩きやすい海岸もあります。そんな海岸には松島を構成している岩石の露頭がでています。海岸は、見学するのに都合がいいところです。
 昨年の9月上旬の調査で訪れました。その日は、風が強く波も高かったので、少々渡るのに苦労したところもありましたが、予定通り見て回ることができました。ここには、2016年秋にも来ているので、2度目となります。同じところを調査したのですが、飽きることなく見てまわることができました。時間とお金があれば、グルージングで、この周辺の奇岩類の景観を巡ることができます。私は、石をじっくり見ることが目的なので、船には乗りませんでした。機会があれば、巡りたいものです。
 紀の松島の北東には、お蛇浦(おじゃうら)遊歩道があります。狭い道を車で入ってくので少々わかりにくいのですが、トンネルを抜けると、広い駐車場も完備されています。しかし、人があまり来ないところのようです。静かに露頭を眺めることができました。
 以前に紹介した宇久井半島(142 宇久井半島 2016.10.15)が北東にあるのですが、3kmほどしか離れていません。しかし、構成している岩石は、だいぶ見かけが違っています。宇久井半島は、大部分が熊野火成岩類の火山岩(枕状溶岩)からできていて、少しだけ牟婁層群よばれる付加体で形成された地層が分布しています。この牟婁層群には、大陸内で形成されたオルソクォーツァイト(orthoquartzite)と呼ばれる不思議な礫が含まれていました。
 紀の松島は、層をなす堆積岩からできています。この地層は熊野層群と呼ばれています。1400万年前に浅海で堆積した堆積岩です。この地層には石炭も産し、かつて新宮市(熊野川町)では採掘されていました。石炭は植物から由来するので、陸に近い堆積物である証拠ともなります。
 熊野層群と対を成すように、紀伊半島の西側、白浜周辺に同時代に似た環境で堆積した田辺層群もあります。そこも同じような砂岩や泥岩、礫岩などの堆積岩からできています。浅海でできた堆積物です。
 海岸を歩くと、地層が織りなす景観は、非常に奇異なもので一見の価値があります。規則正しい互層からできているのですが、この整然とした地層が海岸に広がっています。峨々と切り立った断崖が、整然とした地層からできいます。この険しさと整然さのアンビバレントな景観が、不思議さを醸し出しているのかもしれません。
 半島の北のはずれにある弁天島の周辺では、面白い現象がみることできます。海岸に岩礁があり、上部はお蛇浦(おじゃうら)遊歩道の海岸で見た、きれいな成層構造をもった地層です。しかし、下部には層がはっきりしない泥岩からできています。その泥岩には角ばった礫をたくさん含まれています。また一部では、貫入岩のように上の層上の地層に入り込んでいます。
 この泥岩が、マグマのように貫入した泥ダイアピル(mud diapir)と呼ばれるものです。泥ダイアピルはマグマとは違って熱く溶けたものではありません。しかし、液体として振る舞う点で似ています。泥ダイアピルは、まだ固まっていない泥が、地震で液状化したものです。上の層が固まった地層に、地震でできた割れ目(断層)にそって、液状化した泥が上昇したものです。液状化した泥には、周辺の岩石で固まったものが割れて取り込まれています。ここにも、アンビバレントな関係がありました。
 熊野層群が堆積していた同じ時代に、古座川弧状岩脈というマグマが貫入しました。古座川弧状岩脈は、幅500mほどで、22kmもの長さをもった岩脈です。この巨大な岩脈は、もともと巨大カルデラの南の縁だったと考えられています。古座川弧状岩脈は、古座川から大地町まで延びています。その延長線上の少し北に紀の松島があります。地下には岩脈があるのでしょう。熱による変成作用を受けた地層もあり、この周辺にある温泉も、その火成岩の熱によるものだと考えられています。
 紀の松島は、白浜と比べると、少し知名度が落ちるかもしれません。しかし、自然や景観に関しては、勝るとも劣ることはないと思います。白浜は、北海道からいくとき、飛行機の離着陸地となります。ですから、かならず寄ることろになるので、私には身近になっています。紀伊半島の海岸を調査で巡る時は、紀の松島も温泉付きの宿泊施設も充実しているので、今度は温泉とクルージングを楽しみたいものです。

・今年の野外調査は?・
9月に調査に出て以来、
しばらく調査にはでていません。
毎年恒例のことなのですが、
昨年の後半は、
非常に忙しい思いをして過ごしたので、
少々気分転換をしたいものです。
来年の調査予定はまだ未定ですが、
9月の調査は毎年することにしています。
もし研究費が当たれば、
ゴールデンウィークにも調査にでたいと考えています。
研究テーマを近々整理する予定なので、
その結果により、どこになるかを決めことにしています。
でも、研究費が当たればの話ですが。

・時の移ろい・
1月になり、不順な天候が続いていたのですが、
センター試験の時期は、
安定した天気となりました。
センター試験は現在では、
年中行事のひとつになっています。
近うちに、センター試験も改革で変わるようです。
もしなくなると、
この時期の時の移ろいは
成人式だけとなります。
ただ、北海道では、冬休みが終わり、
15日から小・中学校がはじまるので
通学路になっている歩道は、除雪がはりました。
通勤する人にも歩きやすくなりました。
こんな除雪に、時の移ろいを
感じることができる北海道でした。

2017年12月15日金曜日

156 神倉神社:コトビキ岩

 太平洋沿岸では、和歌山の北東の端は熊野川で三重と接しています。熊野川の河口にあるのが、新宮の町です。ここは熊野速玉大社の前町として盛えたところです。そんな新宮の町の自然にも、面白いところがありした。

 秋の調査で新宮を訪れました。和歌山県新宮市は、熊野川の右岸にできた町です。新宮は以前にも来ていたのですが、その時は、夕方、熊野速玉大社を参拝しただけで、移動時に渋滞に巻き込まれたので、他のところをじっくり見る時間がありませんでした。今回は新宮の町の中で、見たいものが2つありました。渋滞に巻き込まれないように昼に巡りました。ひとつは「浮島の森」で、もうひとつは「ゴトビキ岩」でした。
 浮島の森は、建て込んだ町の中にあるので、カーナビがなければたどり着けないようなところでした。でも、その一角は公園になっていて、整備がされ、散策路もあり、管理人の方もおられました。現在は、浮島と知らなければ単なる池の中にある森に見えます。
 浮島の森は、新宮藺沢浮島植物群落として国の天然記念物になっているものです。浮島とは、沼に浮かている島のことで、泥炭でできているため、軽くて浮いています。1945年(昭和20年)頃までは、本当に浮いていたそうですが、今では土砂が流入して多くが固定してしまったいるそうですが、今でも西側が浮いていると考えられています。島の中の散策路に踏み入れると湿原の植相に見ます。小さいですがなかなか見ごたえのあるとこでした。でも雨上がりで蒸し暑さが印象に残っています。
 小さいところなので、浮島の森は、すぐに見終わりました。次なる目的のゴトビキ岩に向かうつもりでしたが、管理小屋には、見事は神社の写真がありました。管理の人と話をすると、ここから見えるとのことです。丁寧にここに来ればと、見える位置を教えて下さいました。そこから次なる目的地のコトビキ岩が山の上に見えました。
 そこは、車ですぐでした。神倉神社の前の小さな駐車場に車を止め、神社に入ると、鬱蒼した木の生えた杜が押し寄せてきます。9月の暑い時期でしたが、境内にはいるとひんやりと感じるところでした。鳥居は石段のはじまりに立っています。この石段も、自然石を組み合わせてつくった「鎌倉積み」と呼ばれるもので、急な階段となっています。
 大汗を書きながら急な石階段を登っていくと、やがて少し勾配が緩やかになります。そこには、巨大な手水鉢(ちょうすばち)があり、沢から引かれた水が流れていきます。ここで一息入れなさということでしょうか。この手水鉢は、石段や山全体を形成している岩石と同じ、花崗斑岩をくり抜いて作られています。
 やがて長い朱色の柵が見えてきます。柵と花崗斑岩のすべり面の間の狭い道を進むと、岩肌にへばりつくように、神倉神社が見えてきます。狭いところにある神社ですが圧倒されます。最後の神社までも石段が続いています。神社も石積みの上に建てられています。
 神社の山側には、例のコトビキ岩が聳え立っています。神倉神社にコトビキ岩が御神体としてあります。まるで神社を押しつぶさんばかりの巨石が、神社のすぐ脇に鎮座しています。地震でもあると、ごろりと動き、神社を押しつぶしそうな危うさがあります。迫力満点です。コトビキとは、ヒキガエルのことだそうで、この巨石がヒキガエルににていることから付けられたそうです。
 地震の多い地域なのに、神社の石積みも階段も崩れることなく、そしてコトビキ岩も転がることなく残っているものだと思えます。境内から下を見ると、新宮の町から海までが一望できます。非常に気持ちのいいところで、少々長めに滞在をしました。
 さて、ここまで石の名前を出しただけで、説明をしないできました。花崗斑岩(granite porphyry)とは、花崗岩の一種で、大きな斑晶をともなっています。黒いですが風化でくぼんでしまっている黒雲母、白い斜長石、透明の石英が多く、すこしピンク色のカリ長石の斑晶が、少ないですあります。このような結晶が肉眼でもよく見えます。
 この花崗斑岩は、熊野酸性火成岩類の一部をなしているものです。熊野酸性火成岩類は、付加体とともに、和歌山から三重にかけての地形や地質で重要な要素となっています。熊野酸性火成岩類は、1400万年前の酸性のマグマの活動で、深部で固まったものが深成岩の花崗斑岩になりましたが、一部にはマグマの噴出相もあり、流紋岩や凝灰岩となっています。
 花崗斑岩(花崗岩の仲間)は風化をうけると、外側からマサ状に崩れていき、中の部分が残って丸い岩(コアストーン)となります。このコトビキ岩もこのような花崗斑岩の風化の産物だと考えれます。
 神倉神社も熊野の世界遺産の一部なのですが、ひっそりとしていました。数人の観光の人も訪れていますが、少なかったです。地元の人が信仰のためにポツリと訪れていました。
 新宮では、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)が重要な観光地となっていますが、私には熊野速玉大社の摂社にあたる神倉神社の方が好みに合っていました。ひっそりとした名所ですが、地質学的見どころがあるところで、インパクトあるところがいいですね。新宮を訪れたら神倉神社がおすすめですよ。ただし、少々きつい登りがありますが、その果に見どころがありますので、頑張ってください。

・継続すること・
12月も早半分過ぎてしまいました。
相変わらず忙しくしています。
つぎつぎと仕事はこなしているのですが、
仕事量が多すぎて、なかなか終わりが見えない状態です。
ですから、優先順位をつけて、
ひたすらこなしていくしかありません。
このエッセイも、書くべき場所は一杯あるので、
場所選びには困りません。
しかし、書く時間を作り出すのに困っています。
時間がないので、一気に書いてしまうことになりました。
本来なら、もう少し詳しく調べてから書きたいのですが、
行く前の予察と行った時の情報で
ほとんど書くことになりました。
私はメールマガジンは、連載を休まないこと、
時間を守って定時には出すことを心がけています。
楽しんでいただけたかどうか心配ですが。

・卒業研究・
今年の卒業研究を着実に進めていた人は
順調に早目に終えることができました。
みんな、それぞれに苦労はしたのですが、
達成感を味わたようです。
いい経験となればと願っています。
ただし、残念ながら諦めた人が一部いたのですが、
他の単位も足りなかったので、
無理せずに、これから来年度にかけて
進めていくことになりました。

2017年10月14日土曜日

154 楯ヶ崎:貫入岩に立つ

 三重の海岸には、素晴らしい景観をもつ地があります。しかし、あまり人が訪れません。アプローチが少々遠いのですが、その道中も自然が豊かで楽しめます。なにより景観をつくる岩が素晴らしいです。

 国道から海岸へ向かう遊歩道です。道は整備されてはっきりとしているのですが、道中は長いです。天気が悪そうなので、傘を携えての単独行です。国道311号の駐車場に車を止めて、目的地に向かいます。遊歩道に入ろうとすると、今年、クマの目撃情報があり注意を促す張り紙がありました。天気がすっきしないので、少々暗くて、クマができてそうな雰囲気です。私は、北海道に住んでいるせいでしょうか、クマの恐怖より、こんなところにクマがいることに驚きました。
 目的地まで遊歩道を、1.9km歩くことになります。山道ですので40、50分はかかりそうです。照葉樹林の中の自然に満ちた遊歩道を進みました。駐車場には車が1台停まっていたのですが、同じ地を目指しているのでしょうか。観光地になっているのですが、歩く人影はまったくありません。一人で自然の中を歩くのは私の好むとことです。
 静かな森の中をしばらく歩いていると、ガサゴソと草むらを移動する音がします。クマかと思って、立ち止まると音も止まりました。しばらくじっとしていると、またガサゴソと音がし、突然遊歩道を数頭のシカが横切りました。横切ったシカも私に気づいたようで、斜面を少し登って離れた草むらから、こちらの様子をジッと伺っています。私がカメラを向けても逃げませんでした。
 遊歩道を進みました。途中で戻ってくる老夫婦に会いました。奥さんから、シカを見ませんでしたか、と聞かれました。見た、と伝えると少々残念がっていました。自分たちだけが見たのを、確かめたかったのでしょうか。ここのシカは人馴れしているのかもしれません。
 自然豊かな遊歩道で行く先は、三重県熊野市甫母(ほぼ)町にある楯ヶ崎(たてがさき)です。あまり目立たないところなのですが、ここの景観は一見の価値があります。楯ヶ崎は、名前の通り盾のように切り立った柱状節理が見事なところです。吉野熊野国立公園の一部で、県指定の名勝および天然記念物にもなっています。
 楯ヶ崎は、高さ約80m、周囲約550mの崖で、この崖が柱状節理からできています。節理の太さが1~2mほどもあり、巨大な柱が林立しています。岩は花崗岩の仲間からできています。長石や石英などの斑晶状の組織があるので、花崗斑岩と呼ばれます。
 この花崗斑岩は、約1500~1400万年前(中期中新世)に活動した熊野酸性岩類になります。熊野灘には、あちこちに熊野酸性岩類の痕跡があります。楯ヶ崎の花崗斑岩は、熊野酸性岩類の本体にあたります。熊野酸性岩類の大きな岩体は、新宮から尾鷲(おわせ)にかけての海岸沿いに広く分布しています。岩体の分布は、七里御浜あたりでいったん細くクビレています。細いところには、噴出した火山岩の流紋岩と火砕流としてたまった凝灰岩が分布しています。このクビレを境に、花崗岩体は北と南に分けられます。楯ヶ崎は北岩体にあたります。
 研究によりますと、両岩体にほとんど岩石の性質に違いはないようです。マグマだまりが固まったものではなく、巨大な貫入岩体として、シート状に貫入したと考えられています。一部は流紋岩質マグマとして噴出しています。ですから火山ー深成複合岩体となり、その深部相がでてきたと考えられています。
 楯ヶ崎は、柱状節理が見事ですが、その景観を見る場所として展望所のようなところがあります。最初その展望台かと思いました。道沿いにベンチがあり、海側で楯ヶ崎を見えるとように木が伐採されています。しかし、木々が邪魔をして、全貌をみるのに苦労をします。なんとか撮影したのですが少々興ざめしていました。
 しばらく進むと広い平坦面がありました。そこは、英虞崎(あござき)の千畳敷と呼ばれています。広い花崗斑岩の柱状節理の断面が広がって平坦面になっています。少々海に向かて傾いていますが、千畳敷と呼べるほどの広さになっています。千畳敷と呼ばれる貫入岩の断面から、貫入岩の別の断面である楯ヶ崎の柱状節理を眺めることができます。ですから千畳敷からは、熊野酸性岩類貫入岩の本体の花崗岩体をいろいろな方向から味わうことができます。
 千畳敷からの楯ヶ崎は最高の眺めでした。長い道のりを来たかいがありました。観光地となっている所以がわかりました。千畳敷とそこからみる楯ヶ崎は、なかなか見事なもので、一度は苦労して見に来る価値があります。
 英虞崎の千畳敷は、日本書紀で、神武東征の際、上陸した地とされているとのことです。平安の増基法師は、日本書紀の神武東征の故事を引いて、
  神のたたかひたる処とて、楯をつらねたるやうな巌どもあり
と詠んでいるそうです。歴史的にもなかなか興味深いところです。道中には、小さな入江に神社がありました。阿古師(あこし)神社とよばれています。社殿は趣はないのですが、由来はなかなか古いようです。
 楯ヶ崎や千畳敷は、船で見に来ることができるようです。船だと海岸沿いの「ガマの口」(別名熊野の青の洞窟)や海金剛など、もっと面白い花崗斑岩の露頭もみることができるようです。機会があれば海からも見てみたいものです。でも、歩いてい苦労してこの景観を見るとその感動な大きくなります。負け惜しみでしょうか。2時間ほどでぐるりと一回りして見ることができました。予定通りでしたが、少々時間が遅くなりました。次の目的地に急ぎました。

・英虞・
英虞(あご)は伊勢の国の古い郡の呼び名です。
この地が英虞に属していたことから
神社の名称として阿古(あこ)が用いられたそうです。
また、ここは伊勢の端になっていました。
ですから、仁木島湾を挟んで向かいにある神社は
無古(むろこ)神社とよばれています。
伊勢の隣の熊野に属していました。
熊野の古い郡の名称である牟婁(むろ)にちなんでいます。

・厳しい日程・
実はこの日は、朝から時々激しい雨が降る日でした。
別の目的地に、朝一番にいったのですが、
雨でなかなかじっくりと見ることができませんでした。
諦めて楯ヶ崎に移動したのですが。
前のところで時間を使いすぎたので
昼過ぎにここにつきました。
あまりゆっくりする時間はなかったのですが、
雨もあがっているので、見に行きことにしました。
このあとに向かうのは、紀伊山地の最深部なので
少々時間がかかりそうだからです。

2017年9月4日月曜日

153 玄武洞:30年ドラマ

 地質学的な観光地は、景観を見るところとしてもいいのですが、学問上で起こったドラマも見られることがあります。そんなドラマが、玄武洞にもありました。解決に30年以上の年月を要する、壮大なドラマでした。

 春の調査で、玄武洞を訪れました。兵庫県豊岡市を流れる円山川の右岸に、玄武洞公園があります。玄武洞は、ひとつの洞(ほら)ではなく、いくつかの洞が連なってあります。玄武洞、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞の、5つの洞があります。それぞれが特徴がある観光ポイントとなっています。
 以前にも、私は玄武洞に来たことがあります。博士課程で長期にわたって野外調査をしているとき、詳しく見ました。地質学を学んでいるものにとっては、近くに来た時は、見学すべきところでもあります。玄武洞の景観を楽しむだけでなく、地質学史に残る場所でもあったことを、噛みしめるところでもあるのです。
 玄武洞は、柱状節理が見事に発達していることで有名です。そもそも玄武とは、中国の四つの神の一つにあたります。長い足の亀に蛇が巻きついている様子として描かれることがあります。玄武は、北方を守り、玄は黒も意味しています。玄武岩は黒い色しているのですが、その色から由来した名称です。そして、玄武洞は、もちろん玄武岩からできています。
 玄武洞は、柱状節理の不思議で見事な奇岩から、古くから観光地になっています。5つの洞のうち玄武洞と青龍洞が、国の天然記念物に指定されています。国の天然記念物に指定され(1931年)ました。1963年には山陰海岸国立公園にも指定されました。その後、2009(平成21)年にm山陰ジオパークとして日本ジオパークとして認定され、2010(平成22)年には世界ジオパークの認定を受けました。
 通常ジオパークは、ある地域の地質学的な遺産を認定して、そこを保全しながらも、教育や観光などで、持続可能な開発を進めようとするものです。ある限定された地域のことが多いのですが、山陰ジオパークは、「日本海形成に伴う多様な地形・地質・人々の風土と暮らし」をテーマにしています。東西100km、南北約30kmで、西は鳥取県から東は京都府までに及ぶ広い地域に点在しています。その中でも地質学的にも重要性があり、ジオパークの重要な地点はジオサイトと呼ばれています。玄武洞は、もちろんジオサイトになっています。
 玄武洞は、地質学的にも古くから調べられており、その重要性が指摘されていました。ただし、市民にはあまり知られていないようですが、ジオサイトとして注目されればと思います。
 玄武洞は、明治時代、日本の地質学が生れた時代の地質学者の一人、小藤文次郎によって、1884(明治17)年、玄武岩として記載されました。その後、松山基範が、岩石に磁気の研究に玄武洞の岩石を1926年に測定して、その結果を、1929(昭和4)年に発表しました。他にも、東アジア各地の岩石の古地磁気も一緒に測定していました。その成果は今からすると画期的なものだったのですが、評価はずっとあとになってからでした。
 マグマが玄武岩として固まる時に、岩石中の磁気を持った鉱物は、その時に地磁気と同じ方向に並んで固化します。岩石に残された古い時代の地磁気(残留磁気)の記録を、「古地磁気」といいます。松山が、玄武洞の岩石で古地磁気を測定したところ、現在の磁場とは逆転していたことを発見しました。松山以前にも、地磁気の逆転は知られていたのですが、地層の層序の組み立てに適用できるということを、松山が初めて示しました。これは、古地磁気層位学の最初の提唱となります。
 松山の成果は、当時の学界からは、まだ学問的な課題があり、重要視されませんでした。残留している磁化の由来について、信頼性のあるデータが不足していること、統計処理の方法などに問題があり、まだ確信されるに至っていませんせんでした。1960年代前半にこれらの課題がやっとすべて解決され、古地磁気の逆転があったことが認められました。
 古地磁気の逆転は、何度も起こったことがわかって、古地磁気層位学が確立されてきました。松山の功績をたたえて、一番最後(最近)の古地磁気の逆転(逆磁極期)は、「松山逆磁極期」と名付けれられました。その期間は、249万〜72万年前とまります。
 玄武洞の岩石は、約160万年前のマグマ活動によってできたものです。活動時期が、松山逆磁極期のちょうど真ん中に当たっていました。多分、松山にとっては、古地磁気の逆転は予期していなかった結果であったと思います。ですから、いろいろ検証を繰り返したはずだと思います。松山は自分の研究の結果を信じて発表したはずです。信念をもって出した結果は、やがて報われ、時代名として松山を残すことになりました。ただし、その松山の成果が受け入れられるのに、30年以上を要しました。
 そのあたりの経緯は、山崎俊嗣(2005)「地磁気の逆転」に紹介されています。興味ある方は一読を。
 海洋底の古地磁気の正と逆が、繰り返されている模様を船から観測できる技術が開発されました。古地磁気の逆転の繰り返しを詳細に記載した古地磁気層位学の結果は、海洋プレートが移動をしていることを、はじめて証明することになりました。松山の成果は、その魁となったのです。
 地下にあった厚い溶岩層が、河川の侵食により、いつのころか川岸に柱状節理として見えるようになりました。ある時、地質学者がその地の玄武岩を分析しました。その成果が、30年という長い年月をかけて、プレートテクトニクスの証明という大きな成果に繋がっていったのです。でも、そんな壮大な学問の歴史を感じさせることなく、玄武洞は、今日もひっそりと節理を見せてくれいることでしょう。

・試料採取の倫理・
私は、磁気についてはまったく研究したことがありません。
でも、古地磁気の調査した後は、すぐにわかります。
岩石にドリルで穴を開けて円筒状の試料をくり抜きます。
チェックのために、何個も試料は採取されています。
試料採取された後の露頭には、
丸い円筒形の穴がいくつもあいているのを時々みかけます。
人が来ない観光地であれば、いいのですが、
このような人為の跡は、なかなか消えません。
慎重に試料採取の場所を選ばなくてはなりません。
多分、今では、そのような試料採取に関する倫理は
共通認識となっていることと思います。
私は詳しくなくて知らないのですが。

・南紀調査中・
現在、南紀の調査中です。
天候が心配ですが、
今日が最終日で帰宅のために移動日であります。
今回の調査では、いろいろ見て回る予定です。
いままでいったところもいくつかありますが、
四万十層群がメインです。
熊野火成岩類も少し見る予定です。
紀伊山地は、山間部を見ていこうすると、
奥深い山なのでアプローチに時間がかかりす。
さて調査はどうなったのでしょうか。
次回以降のエッセイで紹介できればと思っています。