2017年8月15日火曜日

152 生野銀山:露天掘りの跡に

 かつての日本の貨幣経済は、銀を中心として成り立っていました。それは、日本では銀がたくさん産出したためです。銀の重要な供給地に生野銀山があります。春に生野を訪れました。

 兵庫県の中央、中国山地の東部に朝来(あさご)市があります。かつては但馬(たじま)と呼ばれたところは、現在の兵庫県に北半分に当たります。但馬の南に生野(いくの)があります。山間の小さな町です。5月の調査のときに、生野を訪れました。
 生野は、古くから銀山が見つかっており、採掘されてきました。807(大同2)年に発見されたと伝えられています。931(承平元)年には、和名類聚抄に「生野は銀山、(中略)あり」と記載されています。その後、但馬の守護の山名家の時代になると、生野の銀山についての記録が残されています。
 古くから島根県の石見(いわみ)でも銀鉱床がみつかり、採掘されていました。しかし、鉱石は、朝鮮に送られ、精錬された銀を輸入していました。1533年、石見銀山に朝鮮から銀の精錬法として灰吹(はいふき)法が導入され、金・銀の生産量は増加し、安土桃山時代が花開くことになりました。
 1542(天文11)年に、石見銀山から渡来人の慶寿(けいじゅ)が来て、生野にも採掘や精錬技術が導入され盛んに採掘されたとの記録あります。天正6(1578)年には織田信長が、生野に代官を置き、秀吉も代官を、家康は奉行を置きました。生野銀山は時の権力者にとっても、重要な鉱山、資金源となっていたようです。ただし、江戸中期になると、銀の産出が減ってきたのですが、代わりに銅や錫をとるようになってきました。
 明治になると政府の官営の鉱山となり、フランスから近代技術を導入され、経営も近代化されました。運搬のために、生野から姫路まで馬車通りができ(1870年)、その後運搬用専用道路(1885年)、そして鉄道の開通(1895年)となりました。その後、1896(明治29)年に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。銀の他に、金、銅、鉛なども産出していました。現在はもう採掘はしていなのですが、三菱マテリアルは現在も生野事業所として工場があります。
 戦後になると、坑道延長が長くなり、坑道が突然崩落する「山ハネ」が起こりました(1970年)。危険資源の枯渇と採算コストの増加などによって、1973年に閉山となりました。
 生野銀山は、1200年におよぶ長い鉱山としての歴史を閉じましたが、その間、坑道の総延長は350km以上になり、深さは880mの深部に達しました。記録に残っている430年間で、銀は1723トン採掘され、年平均にすると4トンとなります。
 しかし、1974年史跡として公開され、2007年には近代化産業遺産に認定、2014年には国の重要文化財に選定され、テーマパークとして坑道の一部や、野外の鉱脈跡が見学できるようになっています。
 私も、鉱山内と野外の鉱山跡を見て周りました。5月1日のゴールデンウィーク中の平日でしたが、かなりの観光客が訪れていました。坑内では、江戸時代から近代の採掘までの様子をしめすジオラマがあり、近代化され機会が残されています。
 野外では、露天掘りの跡が見ることができます。野外の観光坑道の入り口は、代官の金香瀬(きんこうせ)番所の門を越えていくと、地表に顔を出していた鉱脈を深く掘り下げていた跡、あるいは抗口がいくつもみることができます。なかでも、慶寿樋(けいじゅひ)は、生野で最大のもので、品位の高い銀を産出しました。江戸末までの300年間休むことなく採掘され、地下200mまで掘られていきました。地表の採掘の跡が深々と残されています。
 生野の周辺は、第三紀の凝灰岩や泥岩などが厚く堆積していた盆状構造のところに、流紋岩や安山岩類のマグマが活動しました。噴出したものの他に、地下で貫入したマグマもあります。盆状の地層に、大小60本ほどの熱水性鉱脈が形成されており、それが生野の銀山となりました。
 野外の散策路は観光客は少なく、1時間ほど歩きましたが、2、3組しか会いませんでした。鉱山跡を見ながら進みました。散策路の終点に、断層の見える露頭がありました。断層は、鉱脈を切ってい走っています。その食い違いは、120mになります。落差がなく、横にだけずれているものです。断層には粘土がはさまっています。そんな断層の周辺の鉱脈も、昔の人が丹念に人力で掘りました。そんな昔の光景を思い浮かべることができました。

・口銀谷・
生野銀山は少し山に入ったところにあります。
町は口銀谷(くちがなや)景観地区と呼ばれ
少し谷を下ったところにあります。
その町並みにも、かつての銀山が栄えたころの
面影を残した建造物が転々とあります。
これらの中には国の重要文化財が多数含まれています。
歴史好きの人には、鉱山跡だけでなく、
町の中も散策するのもいいかもしれませんね。

・マムシ・
野外の施設は、春の新緑から緑へ変わる頃の山間を
整備された道を、小川に沿って散策するコースでした。
心地よい、散策だったのですが、
看板で「まむしに注意」と出ていました。
人の心地よいところは、
マムシにも心地よいのでしょうか。
幸いにも、私はマムシに会うことはありませんでした。

2017年7月15日土曜日

151 井倉洞:侵食と共生

 鍾乳洞は、石灰岩の大きな岩体が、流水によって侵食を受けたものです。鍾乳洞の構造して、縦と横の侵食があります。鍾乳洞の侵食構造は、偶然ではなく、ある仕組みがあったようです。

 岡山県の北部の井倉洞を訪れました。中国山地の中にあります。中国山地は、兵庫県から山口の海岸までつづき、1000から1300mほどの標高の穏やかな地形となっています。そんな、山中の大きな川が流れて、深い渓谷をつくっています。中国山地の中央部を縦断するように高梁川があり、その中に井倉洞があります。この周辺には似たような鍾乳洞が多数(200ほど)あり、その多くは阿哲台にあるそうです。
 井倉洞は阿哲台(あてつだい)と呼ばれる石灰岩地帯にあります。阿哲台は、東西15km、南北12kmにわたる標高400から500mのカルスト台地を形成しています。そこにはさまざまなカルスト地形がみられます。阿哲台の高原から高梁川まで200mほどの標高差があります。その間に、5つの地形的な面があり、そのいくつかのレベルに鍾乳洞が形成されています。
 これらの5つのレベルは河岸段丘のレベルと一致しており、段丘が形成される時期に石灰岩が侵食され鍾乳洞の横方向の侵食が起こります。周辺の河岸段丘の時期に、横方向への侵食が起こります。では、その過渡期は、河川や地下水の水位が変化するので、その時に侵食が縦に進むようです。これが縦の穴になっていきます。井倉洞は、75mから70mの高原の次のレベルの4つ目に横に伸びる穴が形成されました。竪穴は段丘面が移動している時に形成されることになります。
 鍾乳洞は侵食(溶解)によってできるのですが、成長はいくつの研究で見積もられています。サンゴの種ごとにスピートが推定されており、堆積速度すると年間0.5~1.5mm程度になります。予想以上に大きな速度になります。実際に、観光用に作られた洞内のコンクリートを流れる地下水で鍾乳石た堆積していますが。そこではこの程度のスピードが納得できるものです。
 井倉洞へは、以前にも訪れたはずですが、あまり記憶に残っていません。もしかしかしたら入ったことがないかもしれませんが。中国山地には、多数の鍾乳洞があります。井倉洞以外に、帝釈峡や秋芳洞なぜなら、記憶が曖昧になっているようです。それは、あとでも述べる日本の地質学的特徴によるものです。
 井倉洞などの鍾乳洞は、大きな石灰岩の台地が流水や地下水で侵食されたものです。そのような石灰岩は、かつて礁(しょう)を構成していた生物によるものです。礁といいましたが、礁をつくるのは、現在ではサンゴですが、時代が違うの礁をつくる生物(造礁性生物)も変わってきます。礁をつくってきた生物は、古盃類礁(カンブリア紀)、層孔虫ー四射サンゴ礁(デボン紀)、六射サンゴー層孔虫礁(ジュラ紀後期~白亜紀最前期)、厚歯二枚貝礁(白亜紀後期)、サンゴ礁(新第三紀~現在)が知られています。
 現在のサンゴは、動物の仲間(刺胞動物の一種)で、ポリプがひとつの生物の単位となっています。ポリプには、単体で生活するものと、集まって生活するものがあります。集まって生きているサンゴを、「群体」と呼びます。サンゴには、褐虫藻という藻類を体の中に住ませているものがいます。褐虫藻は家主(宿主といいます)から栄養と安定した環境を与えられ、自身は光合成をして栄養を生産します。その栄養を宿主に与えています。宿主から一方的に搾取していくものを寄生と呼びますが、両者に益があるばいを、相利共生あるいは単に「共生」といいます。
 サンゴは石灰質の体の外に骨格(外骨格)をもっています。骨格は石灰岩(方解石が成分)からできています。サンゴは、褐虫藻と共生しているため、光の届きやすい浅海に暮らすことになります。住む場所が制限されるのですが、褐虫藻との共生により、外骨格を早く成長させることができます。その結果、礁を形成するほど繁栄できます。
 過去に礁が発達した時代を統計的に調べていくと、大きく3つの時代があることがわかってきました。デボン紀後期、ジュラ紀後期、中新世中期です。日本列島の石灰岩の時代は、石炭紀からペルム紀のものです。ですから世界的に礁が発達史た時代とはずれています。
 それは、日本列島の特徴として、付加体が形成される場が継続していたことが挙げられます。日本列島があった場で礁が形成されたわけではないのです。海洋プレート上に形成された海山や火山島で生育に適した熱帯付近で礁ができます。その礁が、プレートテクトニクスで日本列島まで運ばれ、海洋プレートは沈み込むのですが、石灰岩の塊は、付加していきました。そのため、時代として造礁性生物が繁栄していなくても、成長する環境があり、集積するメカニズム(付加作用)さえあれば、大きな石灰岩地帯をつくることができます。日本列島はその場であったのです。
 井倉洞は、井倉の町から高梁川を挟んだ対岸にあります。大きな滝の下に入口があります。全長1200mに達する長い横穴がメインとなっていて、そこには地下の河川が流れています。また高低差も90mもあり、時に縦の穴が形成され高さ50mの滝もできています。1958年に発見され、翌年には観光開発が進められたものです。見どころと多い鍾乳洞です。

・共生・
宿主と寄生の関係は、
寄生する生物が、一方的に宿主から
栄養などを搾取することになります。
しかし、宿主の大きな影響を与えることは通常ありません。
そうしないと宿主が弱ったり死んだりすると
自分の住処をなくすることになるからです。
多分、生物は一方的に搾取するような生物は
少ないのではないかと思われます。
私たちが知らないだけで、
もしかすると生物とは、ある程度の共生関係が
存在するのかもしれません。

・暑さ・
北海道は7月になり、
気温が高い日が多くなりました。
30℃を越える真夏日が数日続きました。
夜も気温が下がらない日も数日ありました。
北海道に暮らす人は、暑さに弱いです。
もちろん私もです。
北海道の住宅には、暖房はきっちりとしているのですが、
冷房はほとんどありませんでした。
最近は、多くの家でエアコンも
当たり前になってきました。
でも、我が家ではないので
暑さにやられています。

2017年6月15日木曜日

150 鳥取砂丘:ラッキョウ畑の砂

 鳥取は砂丘が有名です。日本のような緑の多い土地で、砂丘のような環境が長期にわたって維持されているのには、理由があるはずです。そのような砂地に暮らしている人もいます。

 鳥取県は、20世紀梨と砂丘が有名です。私は鳥取にしばらく住んでいました。梨は地元の農協などで、商品にならないものを安く売っていました。産地ならではの恩恵にあやかっていました。もうひとつの鳥取砂丘は、あまりに有名で、関連情報もいろいろありますし、実際に訪れた方も多いかと思います。
 これまで、砂丘は遠くからの友人やお客が来た時、お供で何度も訪れることがありました。自分の興味で砂丘を訪れたのは、今回が初めてでした。
 訪れたのはゴールデンウィーク中の昼前でした。危惧していたとおり駐車場は一杯で、止めるところがありません。仕方がないので、砂丘から少し離れたところに駐車場を見つけたので、そこに止めることにしました。そこからは道路を歩いて、砂丘に行くようでした。私は、砂丘は海岸にあるのだから、海岸沿いに行けるはずだと思い、歩いていくことにしました。遠わまりですが、だれも歩くことがない海岸を歩いて砂丘に向かいました。砂丘を堪能することができました。砂丘を昇り降りするという、ハードな醍醐味はなかったのですが。
 さて、そもそも鳥取のこの地で、なぜ砂丘があるのでしょうか。古くから砂丘が存在するためには、砂丘を維持するメカニズムが働いている必要があります。メカニズムとは、砂の供給と砂の集積機構が、常に働いている必要があります。砂の供給源としては、千代(せんだい)川があります。千代川からもたらされた大量の砂は、海流や波により海岸に打ち寄せられます。溜まった砂が、冬の日本海から強い吹く季節風によって集められます。これが砂丘が形成され、維持されるメカニズムだと考えられています。
 鳥取砂丘は、幅は2.4kmほどですが、長さが16kmもあります。そして西から末恒(すえつね)砂丘、湖山(こやま)砂丘、浜坂(はまさか)砂丘、福部(ふくべ)砂丘の4つに分かれています。鳥取砂丘として観光地になっているのは、浜坂砂丘です。
 冬の季節風は北西から吹きます。風の方向に対して砂の山が直交方向にできます。鳥取砂丘(浜坂砂丘)では南東に3列の砂丘が、季節風の方向に直行してできています。季節風が砂を集めるメカニズムとして重要な働きをしていることがわかります。
 3つの砂丘列のうち、北西側から2番目のものが第2砂丘列となり、「馬の背」とよばれています。馬の背は、標高46mの高さがあり、急な傾斜(約30度)で海に落ち込んでいます。馬の背の南側の第3砂丘列との間は、窪地になっており、池が出現することがあります。砂地で池ができるのは不思議ですが、砂の下にある火山灰層が水を通しにくいためです。降水量の多い、晩秋から春にかけて「オアシス」が出現するそうです。
 砂を供給し、集積する仕組みが、鳥取のこの地には古くからあったため、砂丘が継続的に維持されています。かなり古くから砂丘が存在していることがわかっています。新しい砂丘が古い砂丘の上に形成されています。
 砂丘は砂からでているだけなのに、古いものと新しいものをどのように見分けていくのでしょうか。古い砂丘は下にあり、色が黄色く、固くなっています。さらに、砂丘の砂の層の間には、火山灰がいくつか見つかっています。多くの火山灰は、その噴火年代が測定されていますので、どの火山灰かがわかれば、年代が決まります。
 砂丘からは、古い方から三瓶(さんべ)の火山灰(約10万年前)、阿蘇(約9万年前)、大山倉吉軽石(5万5000年前)、姶良丹沢(2万5000年前)などが知られています。大山倉吉軽石より下の砂の層が、「古砂丘」と呼ばれています。
 このような砂地の環境にも、人が住んで暮らしてきました。東側の福部砂丘の背後は、湿地帯になっていて、かつては湯山池がありました。江戸時代の終わりに、湯山池は干拓され水田にかわりました。砂丘の砂地での農作はなかなか困難でした、砂地に適したラッキョウが大正時代に栽培に成功しました。その後、砂防や機械化などにより畑作のための整備がおこなわれてきました。その努力の結果、現在では日本でも1、2位を争うほどのラッキョウの産地となっています。鳥取はラッキョウも名産だったのです。
 5月から6月にかけてがラッキョウの収穫時期ですが、私がいったときは、畑には濃い緑のラッキョウの葉が、一杯茂っていました。でもこのラッキョウの砂地には、いろいろな歴史やメカニズムが埋もれていました。
 砂丘のいいところは、どんなに多く人が訪れて砂を踏み荒らしても、風がふけばその跡は消えてします。私の海岸沿いから鳥取砂丘に向かったとき、人の足跡のない砂浜を歩きました。こんな体験は早朝の砂丘でしかできないはずです。しかし、人通りのない砂地でこんな貴重な体験ができました。もちろん遠くには、多くの観光客が海岸や砂丘の斜面など散策しています。そんな観光地にいっても、私は砂丘の仕組みや人と砂との戦いに思いをはせていました。

・砂の国からの来客・
鳥取の研究所にいるとき、海外から来客があり、
半日ほど観光旅行にいくことになりました。
鳥取の観光地といえば、鳥取砂丘ということで、
先生のお供で、鳥取砂丘にお連れしました。
ところが、お客は砂丘より、道中の森、田んぼ、
路傍の緑の雑草などに興味をお持ちでした。
思えば当たり前のことでした。
砂漠の国からきた人からすると、
緑や水田がいたるところある光景は
物珍しく、興味を惹かれる景色だったのでしょうね。

・YOSAKOI・
6月になって、雨の日が多くなりました。
本州のような梅雨ではなく、肌寒い日が多くなりました。
その分、快晴の青空は心地よいものです。
快晴の日には、北海道では初夏の訪れを知らせる
エゾハルゼミの鳴き声が響くようになりました。
その頃になる北海道はYOSAKOIとなります。
先週後半にYOSAKOIがおこなれました。

2017年5月15日月曜日

149 三朝:投入堂、健在

 以前住んでいたことがある三朝に行きました。三徳山には、投入堂という国宝があります。投入堂は、安山岩の柱状節理の下に建てられているのですが、どうのようして作ったのか、見るたびに、その偉業に驚かされます。

 今年のゴールデンウィークの始まりに、私は鳥取から、兵庫にかけて調査をするために、一部岡山の方でも調査をする予定だったので、三朝(みささ)町を通ることにしました。
 東伯(とうはく)郡三朝町に、かつて5年間住んでいました。修士課程で2年間、ポスドクで3年間、三朝町にあった研究所にいました。以前、訪れたときは、研究所に顔をだして旧交を温めましたが、今回はお忍びで通り抜けるだけでした。
 今回の三朝での目的は、柱状節理をみることでした。もっとも見事に見えるのは、三徳山(三佛寺)の投入堂(なげいれどう)の直上の崖です。到着した日に、投入堂が見える「よう拝所」にいってみたのですが、遠すぎて、木の枝も邪魔で、少し霞んでもいましたので、十分観察することができませんでした。そこで意を決して、翌日、朝一番に投入堂まで柱状節理を見に行くことにしました。2時間もあれば、往復できるはずです。
 被害状況も少し見ていこうと思っていました。被害とは、鳥取県中部地震によるもので、その現状や復興状況は、北海道ではあまり報道されず、様子がよくわかりませんでした。それを少し見ておきたいと思っていました。
 本来の目的は、柱状節理なので、優先しました。宿では朝一番に朝食をとり、7時半ころには出ました。三徳山に向かいしました。土曜日でもあり、8時ころですが、すでに参拝者、観光客、そして山を登るような格好に方もいました。山を登る人に声をかけたところ、8時から入山ができ、投入堂に向かうには、一人ではだめでだということでした。そこには2名の登山者がおられ、声をかけて3名で行くことにしました。本堂にまでいってから、登山受付に向かいしました。3人で登る予定でしたが、一人の登山者がおられ、一緒に登るようにいわれました。私たちのにわかパーティなのですが、一緒に行くことにしました。登りだしてからは、各自のペースで行くことにしたのですが、結局は一緒に登る状態になりました。下りも別々に下りだしのですが、受付につく頃には一緒になっていました。不思議なものです。
 そのルートはなかなか険しく、もともとは修験道で、鎖場などの岩場もあります。途中には、崖の上に建てられた文殊堂、地蔵堂、鐘撞堂などがあります。投入堂は、柱状節理の崖の下に、大きくくぼんとところに建てられています。
 温泉街の周辺は花崗岩があるのですが、山にはっていくと違った石になります。この投入堂までの登山ルートで足下をよく見ていると、岩石の種類が変わっていくのがわかります。まず登山道に入るとすぐに溶結凝灰岩ができてきます。その後、凝灰岩、火山礫岩、凝灰角礫岩と、似た起源ですが見かけの違う石に変わっていきます。そして投入堂の直上では、安山岩の溶岩になります。
 一番最初にみられる溶結凝灰岩の地層は、「小鹿(おしか)凝灰角礫岩層」に区分されています。岩層変化が激しい火山砕屑岩類は、「投入堂凝灰角礫岩層」と呼ばれます。登山道の終わりの投入堂の上を覆う崖の安山岩は、「三徳山安山岩」と呼ばれています。三朝温泉周辺の花崗岩は、もっと古い(6000万年前)時代のものからできています。小鹿凝灰角礫岩層と投入堂凝灰角礫岩層は、新第三紀中新世後期(500万から1000万年前)の「鳥取層群」に属します。安山岩は、130万年前の「三朝層群」になります。
 安山岩が投入堂の上の崖を形成しており、柱状節理を持っています。溶岩の下にくぼみができています。そこに投入堂やその奥に愛染堂、手前に不動堂があります。投入堂の下は、安山岩と下の凝灰角礫岩との間に地層境界があり、地層境界の下側がくずれてくぼみとなっています。そこから水が染み出しているのでしょうか、いつもぬめぬめしている凝灰角礫岩の急斜面になっています。
 投入堂ですが、私は三朝に住んでいるときに、投入堂には何度も登っています。何度登っても、この堂は、昔の人は、どのようにして立てたのだろうかと考えてしみます。その労力、そして技術力には、毎度驚かされます。
 7~8世紀こと、修験道の開祖とされている役小角(えんのおづの)が三徳山を訪れ、山のふもとに堂をつくりました。そのとき法力で堂を小さくして断崖の岩窟に投入れたといわれています。まあ実査には宮大工が大勢の人手を用いて建築しただと思いますが、そのようだ伝説ができるのも納得できる作りとなっています。投入堂は、平安後期の材料が使用されていることがわかっています。ですから、古い建物が、修理、補修はされているのでしょうが、継続して維持されているのです。
 今回の鳥取県中部地震では、これらの古い建物は、大きな被害受けることなく残っています。今回一度だけではなく、近年だけでも、1943年に鳥取地震、1983年に鳥取県中部地震、2000年にも鳥取県西部地震など、多くの大きな被害を出した地震が起こっています。これまでもっと多くの大地震が起こったはずです。
 崖の上に支柱で支えられた幾つものお堂があるのですが、それらは何度も大きな揺れに耐えてきました。ただし、文殊堂の柱の下の岩盤に亀裂が入り、柱のうち2本が浮いた状態になっているそうです。しかし、建物自体は無事のようです。また、登山道の崖にも大きな亀裂が入って危険な状態であるとのことで、そのため登山ルートが変更されていました。新規の道もやはり厳しいルートなっていました。
 投入堂だけでなく、昔の人の知恵は、すごさですね。また、それを現在まで維持してきた努力にも驚かされます。

・精進料理・
三朝の研究所にいるとき、
海外からの賓客が来られたとき、
投入堂の登山と下のお寺での精進料理が
おもてなしのコースになっていました。
今回は早朝だったので、
登山だけでしたが、
次回チャンスがあれば、頂きたいのですが
いつになることでしょうかね。

・地震からの復興・
倉吉は車で通り抜けただけなので
被害状況はよくわかりませんでした。
しかし、三朝の温泉街を早朝散歩しました。
すると人が住めない状態の家や
ビニールシートで屋根を覆っている家などもありました。
また、各地で土砂崩れの補修もなされていました。
投入堂までの登山道も被害にあったため
4月18日に開山したばかりでした。
まだまだ地震からの復興は終わっていなようです。

2017年4月14日金曜日

148 津久見:国産資源としてみた石灰岩

 日本の資源で、輸入に頼ることのない資源として石灰岩があります。なぜ日本では、石灰岩が豊富なのか。そして大分県津久見市では、古くから現在まで優良な産地となっているのはなぜか。その謎を探っていきましょう。

 冬に九州へ野外調査にいきました。宮崎の空港から入り、大分に向かいました。大分は別府温泉で有名です。以前行ったときには、別府温泉に宿泊し、地獄めぐりもして、温泉を堪能しました。私は温泉は好きなので、出かけて機会があれば、温泉に入るように心がけています。ただし、今回は別府までは行かずに、もっと南にある津久見(つくみ)市まででした。そこで見た岩石に関する話題を紹介します。
 前のエッセイでも書いたのですが、冬の調査では、メランジュや海洋プレート層序など、付加体と呼ばれるもので形成された地質構造をみることが目的でした。今回紹介する津久見の岩石も、付加体の一部となります。近くにいってみることは難しい場所にあります。しかし、衛星画像からでも、その分布がわかるほどの大規模なものです。
 日本列島は、複雑な地質構造をしているため、同じ地層や岩石が、長く連続したり、広く分布することがあまりありません。ですから、多様性に富んではいるのですが、同じものが大量にはありません。資源という見方をしますと、多様な岩石・鉱物資源はあるのですが、量産することは難しくなります。まして、地表付近に顔をだして、掘りやすい資源は稀なものとなります。
 地下深くにあったとしても、金のように単価の高いものであれば、佐渡や鴻之舞のような金山として採算が取れ、採掘を継続できます。これは、単価の高い資源の場合です。石炭のように単価が安いものであれば、深部での掘削は採算がとれなくなります。単価の安いものは、地表で露天掘りが基本となります。
 日本で長く継続的に採掘できるような資源は少ないのですが、例外があります。石灰岩です。石灰岩は、日本列島の各地に分布しています。そして、その規模は大小さまざまですが、大きな石灰岩は、ひと山まるまる石灰岩からできていることがあります。そのような産地では、山がなくなるまで露天掘りで掘ることができます。石灰岩は、日本で100%自給できる特異な鉱物資源です。そして、輸出もしている資源となっています。
 ではなぜ、複雑な地質をもつ日本列島で、石灰岩を大量に採ることができるのでしょうか。それは、複雑な地質をつくるメカニズムにあります。日本列島は沈み込み帯にあたります。地質学では、島が弧状に並んでいるため、島弧とも呼ばれてます。島弧では、海洋プレートが海溝に沈み込み、付加体が形成されます。
 海洋プレート上にあった火山(海山や海洋島など)が熱帯付近にあったとすると、そこにはサンゴ礁が形成されます。サンゴ礁とは、サンゴ虫が炭酸カルシュウムの外骨格としたものが集まったものです。炭酸カルシュウムは分子名ですが、鉱物となると方解石、岩石名では石灰岩となります。小さいサンゴ虫なのですが、大量に長期にわかって生息していると、巨大な石灰岩の塊ができることになります。まさにチリも積もれば山となる。
 例えば赤道でできた海洋島がプレート運動で海溝まで運ばれてきたとしましょう。海洋地殻は出っ張りがないので、海溝では沈み込みやすくなっています。もちろん、一部は、付加体に取り込まれることもあります。一方、海洋地殻の上に出っ張っている海洋島、そしてその周辺に形成されたサンゴ礁は、沈み込みにくく、陸側に取り込まれて付加体になっていく可能性が大きくなります。つまり、付加体には、石灰岩が混じやすくなります。
 付加体に石灰岩がはいってくる理由は、このように説明できます。ただし、その条件として、赤道付近にまで広がっている海洋が存在すること、その海洋プレートが沈み込むこと、そしてそのような地質環境が長期に渡って維持されることです。そうすれば、付加体に大量の石灰岩が産することになります。この条件を、日本列島は満たしていたことになります。
 津久見には、太平洋セメント津久見工場があります。そこには、石灰岩を大規模に露天掘りをしている鉱山があります。人工衛星でみても露天掘りは、よくわかります。周りの山地が緑色をしてるのに、石灰岩を掘っているところは、白くなっており、白の中に道路が縱橫に走っているのが見えます。これが、露天掘りだと誰でもすぐにわかるものです。
 セメントの採掘には、単価が安い資源なので、産地が海に近く出荷しやすいこと、深度が深く良好な港ができることがなどの条件が必要です。津久見は、その条件を満たしていました。津久見周辺は、石灰岩が海の近くに分布し、地形がリアス式海岸となっており、水深も13メートルと深く、6万トンクラス貨物船が接岸できるような港ができました。
 古くから地の利に気づかれて、1917(大正6)年には桜セメント九州工場として採掘がはじまり、その後大分セメント、小野田セメント、秩父小野田セメント、現在の太平洋セメント大分工場津久見プラントへと名称は変わってきましたが、一貫して石灰岩の採掘がなされてきました。現在でも年間約1,100万トンの石灰岩を採掘しています。現在の石灰岩の埋蔵量から約40年間は稼働できると推定されています。そしてさらなる産地も考えているようです。工場付近には「セメント町」という名称もあるそうです。津久見はセメントで栄えてきた街です。
 日本では、各地に石灰岩の大きな採掘場がありますが、山奥だったりいい港がなかったりすることもあります。すると、輸送費や輸送設備などでコストが高くなり競争力が劣ります。津久見のように海岸近くで大規模な石灰岩の産地があるという地の利に恵まれたところは、そうそうないのかもしれませんね。
 今回は近くを通っただけで露頭に近づくことは、敷地内に入ることになるのでできませんでした。しかし外からでも、大規模な露天掘り、大きな工場、そして巨大な積み出し施設を眺めることできました。そしてその大きさには驚かされました。

・雪の不順・
北海道では、4月中旬の雪に驚かされました。
4月の雪は稀ではありますが、
時々あることです。
しかし、そのような天候不順が繰り返されると
変な気候だなと思ってしまいます。
今回の冬シーズンは、積雪が不順でした。
11月初旬の大雪があったかと思えば、
厳冬期には雪が少なくなり、
春の雨のあとに積雪と、
雪にまつわる不順な状態が
強く記憶に残っています。
北海道は、これから一番いい季節になります。
春は、気候不順にならなければいいのですが。

・新年度のスタート・
大学の講義も始まり、一週間がたちました。
最初の講義は、何年やっても緊張感があります。
緊張感と慌ただしさが新学期、新年度にはあります。
これが新学期の営みでもあります。
大学だけでなく、すべての学校や組織でも
このような状態になっていることと思います。
皆さんの属しておられる組織では
無事に新年度をスタートできたでしょうか。

2017年3月15日水曜日

147 鶴見半島:海洋プレート層序とメランジュ

 大分県佐伯市の鶴見半島の大地は、四万十帯に属します。四万十帯の中でも、海洋プレート層序とメランジュの産状が、期待以上にきれいにみることができました。特に赤色頁岩の赤色は、鮮やかで印象に残りました。

 1月下旬に大分から宮崎へ短期間の野外調査にでました。鶴見半島での調査は、一日かけておこなう予定をしていました。予定の調査が終われば、次の宿泊地の延岡に行くだけのゆたっりとした予定を組んでいました。鶴見半島では、海洋プレート層序をみたいと思っていました。ただし、その層序は乱されており、メランジュになっています。露頭があるかどうかが不明だったので、ゆったりとした予定を組みました。
 ここで使った「海洋プレート層序」と「メランジュ」をいう言葉は後で紹介します。
 鶴見半島は、大分県の南の佐伯(さいき)市にあります。鶴見半島は、豊後水道に向かって東に突き出しています。この周辺は、リアス式海岸が広がっているところなので、海岸地形が非常に複雑になっています。平地が少ないので、半島内には大きな町はありません。また、道路も複雑に入り組んだ海岸にへばりつくように通っており、カーブの連続になります。道路は北の海岸線にそって通っているだけで、交通網も発達していません。まあ、集落もあまりなく、人口も少ない地域なのでしかたがないでしょう。
 このようなリアス式海岸では、海岸線が急な崖になっているところも多く、露頭が連続したとしても、近づけないところも多くなります。事前の文献調査では、露頭は小さかったのですが、私の興味をもっている岩石が写真で紹介されていました。しかし、その地点は、地図で見ると道からかなり離れた海岸線沿いにあり、海岸線を歩いて行くか、船でいくしかなそうです。もしかすると釣り人の道があるかもしれません。実際には行ってみないとわかりません。
 鶴見半島の予想通り、歩いて海岸を調査できるような海岸ではありませんでした。しかし、それは想定内のことでした。
 半島の北側を通る県道604号線は、くねくね道ではあるのですが、一部まだ整備されていないところはあるのですが、2車線ある道路になっていました。そのためでしょうか、新しく切られた道路沿いの露頭があちこちにありました。風化のない新鮮な露頭で、多様な岩石をみることができました。非常に地質学者としては、うれしいものでした。
 多様な岩石とは、玄武岩、層状チャート、赤色頁岩でした。これらは「海洋プレート層序」を形成している岩石です。海洋プレートは、海嶺でマントルで形成されたマグマが活動して海洋地殻ができます。マグマは、海嶺特有の組成をもった玄武岩(中央海嶺玄武岩と呼ばれています)となり、海底に噴出するマグマなので枕状の丸い形の溶岩が積み重なった産状になります。このような形状の溶岩を、枕状溶岩と呼びます。できたばかりの海洋地殻の最上部は枕状溶岩からなる玄武岩となります。
 海洋プレートが海嶺から深海底を移動していくと、表面に珪質プランクトンの死骸がたまり、層状チャートが形成されます。層状チャートは大洋の深海底で形成されたものです。
 海洋プレートが陸に近づいてくると、陸源の堆積物が届くようになってきます。ただし極細粒の堆積物が海流や深層の弱い流れによってもたらされ、赤色頁岩ができます。海洋プレートが陸に近づくほど、赤色頁岩の量が多くなってきます。
 海洋プレートが海溝に近くにくると、陸からのタービダイト流などによって、粗粒の物質が直接届くようになってきます。それはタービダイト層と呼ばれ、砂岩泥岩の繰り返している互層となります。海洋プレートがもっとも陸地近づくところが、海溝となります。
 以上のように、海洋プレート表層部の玄武岩、層状チャート、赤色頁岩、砂泥互層という岩石の並びを「海洋プレート層序」と呼んでいます。
 海溝まできた海洋プレートは、沈み込んでいきます。そのまま沈み込んだら、海洋プレート層序は見ることはできないのですが、日本列島のような地域では、海洋プレート層序が陸地に持ち上げられています。海洋プレートが陸地に持ち上げる作用を付加作用、持ち上げられたものを付加体と呼びます。
 付加作用は、プレートテクトニクスという大地の大きな力によるものです。しかし、きれいな海洋プレート層序が、そのまま持ち上げられることはありません。付加作用中に、多数の断層が形成され、層序はずたずたに乱れ、切り刻まれています。もちろん中には、層序がのこている部分、乱れている部分が混じっています。
 もっとも乱れている部分で、層状がまったくわからなくなっているもの、もともとの成因や形成場の違っている岩石が接しているような状態を「メランジュ」と呼びます。メランジュには、岩石の境界に断層があるものも、断層があるはずなのにピッタリくっついているものなど、境界にはいろいろな接し方があることがわかってきました。
 だから、メランジュという概念が導入されたことで、それまで多くの地質学者を悩ませていた、成因の異なる岩石がピッタリくっついてる現象に答えがでたわけです。付加体にはメランジュがあるので、どんな岩石くっついていても不思議ではないのです。
 例えば、海嶺の玄武岩と赤色頁岩と、層状チャートの砂泥互層が接していたりすると、通常の上で述べたように、まったく違った環境や場で形成されたものです。それぞれの岩石の成因がわかっていても、ピッタリくっついているとなると、その関係をもってできたという立場で考えると、理解不能になります。
 鶴見半島では、きれいな枕状溶岩、整然とした層状チャート、赤色頁岩がありました。また層状チャートと赤色頁岩の互層がありました。激しく乱れた層状チャート、メランジュなど、多様な付加体での海洋プレート層序を見ることができました。
 鶴見半島は、あまり観光化されていない地域です。四万十帯が分布している地域で、その中でも海洋プレート層序やメランジュが特別よくみることができました。赤色頁岩の赤い色が非常に鮮やかでした。そして赤色頁岩が層状チャートと複雑に混じり合っているところも見ることができ、感動的でした。観光地ではないですが、地質学者には見どころいっぱいの地でした。

・実りの多い調査・
鶴見半島では、メランジュになっているので、
どの程度露頭があるか不安でした。
もしかすると、期待する岩石が
ほとんど見れないかもしれないという
不安も持っていました。
でも、なんとか目的の露頭を見つけて
調査を無駄にしないようにと考えました。
どんなところでも、海岸線などをこまめに歩けば、
露頭は必ずあるはずだという信念でいきました。
空振りにならないようにという思いで、
1日の調査予定をもって望んでいました。
半島を進んでいくと、
つぎつぎと新鮮な露頭がでてきました。
露頭は、メランジュや海洋プレート層序を構成している岩石でした。
これは予想外のことで、悦びもひとしおでした。
その上、赤色頁岩の見事な色とその産状。
いろいろ実りの多い調査となりました。

・大学の行事・
今週から来月の初めまでは、
大学のいろいろな行事があり、
非常に多忙な時期となります。
私は、役職にもついているので、
いろいろ人前にでることが多くなります。
年度末から初めの大学の行事は
学生たちが主役のものがほとんです。
巣立つ学生たち、新しく迎える学生たち。
そんな学生の顔をみると
大変な行事であってもやりがいがあります。

2017年2月15日水曜日

146 四浦半島:珪石と仏像構造線

 大分南部の四浦半島は、狭く険しい海岸の道が多いのですが、そこには日本列島を代表する付加体と大きな断層があります。付加体には、層状チャートが分布しています。そんな付加体のチャートと断層を紹介します。

 1月末に、大分から宮崎にかけて、5日ほど野外調査にでました。大分県南部の四浦(ようら)半島が、最初の目的地でした。ここで見る予定は、層状チャートです。私は、ここ数年、層状チャートを追いかけています。いい露頭、代表的な露頭には、何度も通うことになります。四浦半島も、今回が2度目となります。
 網代(あじろ)島とその周辺で層状チャートのきれいな露頭で調査をすることでした。網代島には、きれいな層状チャートの露頭があり、調べる予定に入れていました。他にも、今まで訪れていないところにあるはずの露頭を調べるつもりでした。網代島の近くの江ノ浦と、半島の東北の高浜にあるはずの層状チャートの露頭でした。2つとも期待通り、よい露出で層状チャートを見ることができました。
 さらに今回、予想していなかった露頭と出会いがありました。江ノ浦から高浜へ移動している時、道路脇に人工的に削られた大きな崖があり、そこにきれいな層状チャートの地層面がみえました。急遽車を止めて見ました。
 その露頭は、明らかに採掘した跡です。削られた崖に、層状チャートが大規模に露出しています。人工的な露頭ですが、非常に見事でにチャートの褶曲が見えています。
 調べてみると、ここでは硅石が採掘されていることがわかりました。ただし私がみとところは、採掘は終わっているようで、道路側はコンクリートで被覆されていました。
 硅石とは、珪酸(SiO2)の多いもので、純度の高いものが鉱石として採掘されています。珪石の素材となるものには、火成岩起源や堆積岩起源のものあります。堆積岩起源のものは、珪藻土やチャートなどが、その主たるものとなります。四浦半島のものは、もちろん層状チャートが珪石として、掘られていました。
 四浦鉱山と呼ばれるもので、現在も、年間35~40万トンほどの硅石を生産しています。四浦鉱山の珪石の用途としては、セメントをつくりときに必要な成分となります。また、珪素鋼をつくる成分として利用されています。鉄鋼に、少量の珪素を混ぜると、磁気の性質(透磁率を上げる)を買えることがきます。珪素は、他にも、吸湿剤としてシリカゲルやガラスや陶芸の原料、珪素(シリコン)として高純度のものは、半導体の原料として使用されます。
 Google Earthでみると、四浦半島にはあちこちに人工的に削られた地形が見ることできます。これは、層状チャートを掘った跡のようです。ただし、津久見の町の南西にある巨大な削ったあとは、石灰岩を掘っているところです。石灰岩はセメントの主たる原材料ですから、その堀跡は大規模です。そしてセメントには欠かせない珪石が、近くから産するので、なかなか地の利を活かした鉱物資源となっています。
 地質図によると、四浦半島には層状チャートが点々とですが、広域に渡って分布しています。層状チャートや石灰岩の他にも、砕屑性堆積岩や玄武岩類などの種類の違う岩石も見つかります。このような岩石の組み合わせ(岩石群)は、このエッセイでよくでてくる付加体の構成物です。四浦半島は、付加体構成物からできているのです。
 四浦半島は、東の豊後水道に突き出た半島です。細長く伸びた半島です。ここには、実は大きな地質の境界があります。半島の南側には四万十帯と属する地質体がくっついています。そこより北側は秩父帯となります。両者とも付加体を構成しているのですが、秩父帯の方が古い時代に付加したものになります。ですから、両者の境界は、時代差だけでなく、地質学的に大きく違った付加体の境界となっています。これは第一級の断層で「仏像構造線」と呼ばれています。半島は仏像構造線に沿って延びていることになります。一方、愛媛県側では、仏像構造線は地形的には険しい崖をつくってはいるですが、あまり海には張り出していません。
 それより中央構造線が通る佐多岬が、豊後水道に大きく張り出しています。佐多岬の大分側は、四浦半島の北にある佐賀関の半島にあたります。あまり細長くはないのですが、佐多岬に対応するように出っ張っています。ここが、豊後水道でもっとも狭い部分となっています。ここには、西日本の地質構造を支配するような中央構造線が走っていのです。仏像構造線がつくる地形は、中央構造線ものとは違っているようです。
 今回見たのは、秩父帯(南帯、あるいは三宝山帯に区分されています)の層状チャートになります。四浦半島では、秩父帯の層状チャートが、海岸沿いの露頭としてあるので、きれいな状態で見ることができます。なかなかいい地域だということが、今回の調査でよくわかりました。秩父帯の層状チャートを見るときは、たびたび来ることになるかもしれませんね。

・巨大なもののシッポ・
四国の愛媛県で、仏像構造線は見ていましたが、
急な崖となってります。
そこで、かろうじて、仏像構造線の派生断層を
みることもできるます。
あまりきれいな露頭ではありませんでした。
これは、巨大断層の特徴なのです。
地形的にはっきりと現れてはいるのですが、
実際露頭を探すと小さな派生断層しかみえません。
まあ、巨大で得体の知れない存在は、
シッポ程度しか、姿を見せないのでしょう。

・リアス式海岸・
四浦とは、半島の北にかつては四浦があったことから
名付けられたそうです。
大分南部から宮崎の北部にかけて
いたるところに、港に向いていそうな地形があります。
それは、リアス式海岸が広がっているためです。
このリアス式海岸は四国側にもみられるものです。
似た地形が海を挟んであるということは、
大きな大地の変動を意味しています。