2013年12月15日日曜日

108 日の岬:夕日の枕状溶岩

 和歌山県の日の岬に枕状溶岩を見に行きました。何度も探した末に露頭を発見しました。もともと赤茶けた色の枕状溶岩は、夕日を浴びて、ますます地味な色合いになっていました。きれいなものではありませんが、発見の感動は大きいものでした。

 私は、野外で石を見るときは、資料を参考にしながら、一人で見てまわります。それには訳があります。
 地質関係の学会は、毎年、いろいろな場所で持ち回りで開催されます。学会の前後に、案内者つきで地質を見て回る巡検という行事があります。巡検を利用すると、代表的な岩石や露頭を効率的に見ることができます。その地を研究している専門家が案内してくれますので、さまざまな議論や最新情報を得ることができます。いいことずくめのようですが、私は、最近利用していません。
 自分が見たい時と学会がある時期とは一致しません。大学の校務の関係で、私は不規則な予定でしか調査の日程がとれませんので、学会の巡検ではなく、一人で見ることをし続けています。個人で行くことにも、それなりのメリットもあります。自分の予定で、好きなだけ、納得するまで見ることができます。必要なら、翌日も同じ所を見ることだってできます。
 ただし、位置が大雑把にしかわからない場合、その場所を見つけることができないことや、楽なルートがあったのにヤブの中を歩いていったりとロスも多くなります。目的の場所にたどりつけないこともあります。探して見つからなかったときは、再訪して露頭を探すこともありました。
 和歌山県日高郡美浜町には、日高川の河口付近から329mの西山、そして紀伊水道に突き出た日の岬などがあります。今回の目的地は、日の岬の付け根にあたる煙樹ヶ浜の近くです。
 まずは、日の岬に向かいます。国道42号線あるいは阪和自動車から外れて西に向かいます。そこにある国民宿舎をベースに、9月に調査をしました。2009年にもこの地に来て、この宿舎に泊まったことがあるので、土地勘がありました。以前来たとき、露頭が見つからずに断念したことがあるところなので、その露頭を探すことも目的でした。
 今回も、日の岬に到着早々、その露頭がありそうな場所をいくつか探しました。でも、見つかりませんでした。資料では位置が大雑把にしか示されていないため、正確な場所がわかりません。翌朝も探したのですが、見つからず諦めていました。次の日は別の場所に移動するので、夕方最後のチャンスで、新たな場所を探しました。道路脇から、狭い道を入りましたが、奥には人家もあり、広い原っぱに駐車もできるようなところありました。原っぱから、海岸に出る道もありました。その海岸を歩いていると、夕日を浴びている赤っ茶けた露頭がみつかりました。それが探していた露頭でした。何度かチャレンジしてやっと見つけたときの嬉しさは、格別でした。
 もったいぶっていいましたが、その露頭は枕状溶岩です。枕状溶岩は、このエッセイでも何度も取り上げていますし、今回見つけた露頭は、特別きれいなものでもありません。そのため案内書でもあまり重要視されていなかったようです。私自身、きれいな枕状溶岩は、これまでいくつも見ています。しかし、何度からチャレンジでやっとたどり着いたという達成感は、今までの枕状溶岩の中でも、随一かもしれません。
 さて、この枕状溶岩ですが、玄武岩が海底で噴出したものです。海洋プレートの一部として形成されたものが、海溝に沈み込む時に、陸側(日本列島)にはぎ取られたものです。付加体とよばれるものです。付加体がつぎつぎと形成されると、古い付加体は陸側に押しやられ、押し上げられて地表に顔をだします。
 日本列島は、いろいろな時代に形成された付加体からできています。太平洋側に向かって付加体のできた時代は新しくなります。付加体の中では、四万十帯とよばれるものが一番新しいものです。
 四万十帯は、いくつかの付加体、地層に区分されています。北(陸側)から、日高川層群(日高川帯と呼ばれることもあります)、音無川(おとなし)層群、牟婁(むろ)層群となります。それぞれの地層境界には、大きな断層があるため、区分されています。日高川層群と音無川層群に間には御坊-萩(あるいは十津川)断層、音無川層群と牟婁層群の間には本宮-皆地断層があります。
 枕状溶岩を含む付加体は、日高川層群になります。枕状溶岩を含む地層は、一番海側にあたり、すぐ南の海には坊-萩断層が通っています。岬になっているのは、断層の影響があるのでしょう。日高川層群の中ではもっとも新しくできた付加体になります。日高川層群の中には、海洋地殻(枕状溶岩)だけでなく、深海底に堆積した生物の遺骸からできたチャート(層状になっています)や、暖かい海の海山や海洋島にできるサンゴ礁に由来する石灰岩なども含まれています。一方、陸から川によって運ばれた土砂による堆積物もあります。これらの陸源の堆積物は、海溝付近にたまったものなので、付加した時代にもっとも近い年代となります。通常、付加体の形成年代とされています。
 日高川層群の付加した時代、つまり付加体の形成年代は、白亜紀後期です。付加体の中には、ジュラ紀から白亜紀前期にできた、より古いチャートや石灰岩が含まれています。
 これらの付加体の堆積物や、その中にある海洋でできた岩石類の時代を調べていくと、付加体の形成史、あるいは日本の形成史が解明できます。時代を決めるためには、化石を見つけなければなりません。チャートには大型の化石はなく、陸起源の堆積物にも非常に少なく、付加体の詳細な年代を調べることはできません。海洋起源の石灰岩には化石がありました。その年代は、サンゴ礁ができた年代であって、付加体が形成された年代ではありません。かつては石灰岩の年代が、地層の年代とされ、非常に古いものだとされていました。
 付加体の年代を決めるのに用いられたのは、大型の化石ではなく、プランクトンのような微生物の化石(微化石と呼ばれます)です。珪質の殻をもっている生物の遺骸が化石になれば、珪質の殻をうまく抽出すれば、殻から化石の種類を決め、種類から時代を決定できます。
 特殊な薬品を使って岩石の成分だけを溶かし、化石だけを残すという方法があります。日本の地質学者たちが、野外で大量の試料を採取し、岩石を処理して、抽出した微化石を電子顕微鏡で調べていきました。そして、地層や岩石の年代を決定してきました。
 その結果、上で述べたような付加体の構造や形成の歴史を明らかにしてきました。その重要な舞台となったのが、四国と紀伊半島に分布する四万十帯の付加体でした。日本の大地、日本の地質学者は、付加体の解明において、中心的な役割を果たしてきました。
 紀伊半島は海岸線沿いに付加体が分布しているので、露頭の見学には適しています。白浜温泉もあるので、観光地としての施設も充実しています。そんな便利なところが、日本の地質学者の付加体認定のための革命が起きた場なのです。もちろん、今もこの地を調査されている研究者はいますが。

・放散虫革命・
微化石は主には、放散虫と呼ばれるものが用いられました。
放散虫はチャートを形成しているもので、
チャートの年代を決めることができました。
ただし、チャートが付加する過程で再結晶をすることが多く
化石の保存はあまりよくありません。
しかし、注意深く探せば、化石が残っているところもあります。
放散虫を使って付加体の海洋地殻の年代を決め
陸源の堆積岩の年代のギャップを明らかにすることが、
付加体の実態解明に重要な証拠となりました。
付加体の形成の仕組みを示すことは、
プレートテクトニクスが働いているということを
証明でることになります。
日本の付加体で放散虫化石をみつけ
年代を決め、付加体やプレートテクトニクスの
メカニズムを解明していったことは、
「放散虫革命」と呼ばれています。
その革命を起こしたのが、
日本の古生物学者たちでした。
紀伊半島は、そんな革命の現場だったのです。

・振り返る・
本号が、今年最後のエッセイとなりました。
今年は私自身非常に忙しい思いをしました。
北海道は、12月の半ばなのに
雨が降ったと思ったら、また雪になったり、
11月にドカ雪がふったりと、
天候不順の1年でした。
体調はなんとか維持していますが、
本当に慌ただしい1年でした。
まだ、1年は終わってはいないのです。
4年生の卒業研究の提出まであと少し付き合う必要があります。
それが終われば、一年をふりかえる
気分にもなってくるはずなのですが。

2013年11月15日金曜日

107 白崎:白の異空間

(2013.11.15)
 和歌山県にある古くから知られる名勝に白崎があります。石灰岩が織りなす模様が、その景観を生んでいます。石灰岩の白の景観には、ダイナミックな大地の営みが働いています。白の脇に控える、黒の玄武岩や泥岩が、大地の営みの謎を解いてくれます。

 和歌山県由良町の海岸に突き出たところに、白崎(しらさき)があります。白崎は、周りの大地と比べて、明らかに異質ですが、美しさをもっています。そのような気持ちは、現代人だけが抱くだけでなく、古くから多くの人が抱いてきました。それが、白崎が名勝として知られている所以でもあるのでしょう。白崎は、万葉集にも何首か読まれています。
 由良町では国道177号線が内陸を通っているため、海岸に出るために少し道をそれなければなりません。そんなところに白崎はあるのですが、足を延ばす価値はあるところでないでしょうか。
 白崎は、その名前の通り白い岬です。岬を構成している岩石が、白いのです。大地を構成する色として、純白は珍しいものであります。白い岩石は、石灰岩です。白崎の石灰岩は、他の地にある大規模な秋吉台などの石灰岩地帯と比べると、限られた範囲にしかありません。しかし、石灰岩の岩体としては、大縮尺の地質図に載るほど、規模の大きいものです。
 青い海、青い空のもとで見ると、石灰岩の特異さは目立ちます。白崎の中にはいると、360度白の世界となります。特異ではあるのですが、異常さや暗さはなく、どことなく明るさを伴った不思議さがあります。石灰岩の白の色が、そうさせるのでしょうか。ふと、異空間に来たような奇妙な気持ちにさせられます。
 白崎の石灰岩からは、古生代のペルム紀(約2億5000万年前)の化石が見つかっています。米粒のような形をしたフズリナ(有孔虫の祖先)やウミユリなどが、化石として見つかっています。
 白崎の少し南には、立厳岩(たてごいわ)とよばれるところがあり、石灰岩に海食によって窓が開いています。立厳岩の陸側には、白っぽい石灰岩と黒っぽい玄武岩が断層で接しているところを見ることができます。また、石灰岩の中には、泥岩が見えます。石灰岩の間に泥が入り込んだようです。玄武岩は、海底の火山活動で形成されたものです。
 石灰岩は暖かい海の生き物の遺骸で、海底の火山活動できた岩石という、いずれも今の和歌山とは全く違った、遠くの赤道付近の海の環境を示しています。
 石灰岩は古生代末にできたものです。ところが、石灰岩のすぐ周りにある堆積岩(泥岩や礫岩)からは、中生代のジュラ紀(約1億5000万年前)の化石が見つかります。化石は、ウニや貝で、石灰岩の化石とは種類が違っています。ジュラ紀の泥岩のすぐそばに、古生代の石灰岩が接しているのは、奇異です。まったく別の時空間でできたのものが、大地の営みで、たまたま接しているのだと考えなければなりません。
 では、その仕組みを概観しましょう。
 紀伊半島西部は、紀伊水道を挟んでいますが、地質学的は四国と連続しています。紀伊半島の大部分は四万十帯とよばれる地層からできています。四万十帯は、沈み込み帯で形成される特有の堆積物である付加体からできています。それ以前の古い付加体も、北側にはあるのですが、紀伊半島では、西と東の海岸付近に分布するだけで、中央部は四万十帯が広がっています。
 紀伊半島の西の海岸側では、秩父帯、三波川帯、そして中央構造線という分布になっています。秩父帯は古い付加体で、その分布範囲はそれほど広くありません。秩父帯の中には、黒瀬川構造帯とよばれるものが狭いですがあります。黒瀬川構造帯は、古生代のシルル紀やデボン紀の大陸でできたような不思議な岩石を含む地帯があります。前回紹介した名南風鼻(なばえはな)でみられる岩石類がそれにあたります。
 白崎は、秩父帯に属します。従来の地層の名称としては、中紀層群、大弓(おおびき)層、立巌(たてご)部層になります。現在ではプレートテクトニクスの付加体による解釈になってきているので、かつての地層名称は適用できません。ですから、秩父帯として広く捉えるほうがいいのかもしれません。
 ただし、秩父帯は、黒瀬川構造帯を挟んで、南側(南帯と呼ばれる)と北側(北帯)が、違うものだという見方と、同じという見方もあるので、どこまで大括りにするかは、難しい問題となります。まだ決着をみていません。
 秩父帯は、付加体としてのでき方で、説明されています。ペルム紀の暖かい海の火山活動できた海洋島があります。その周りには石灰質の生物の遺骸がたまりまり、やがて石灰岩になります。その海洋プレートが、当時はユーラシア大陸の縁にあった日本列島に沈み込んでいきます。その時代は、まわりにあった泥から見つかる化石の年代であるジュラ紀です。海洋プレートの沈み込みとともに、海山と石灰岩の一部が泥の中にくずれます。これが付加体として大陸に付け加わります。以上が、白崎の石灰岩とその周辺の岩石の起源となります。
 白崎にも、石灰岩の侵食であるカルスト地形が、いくつかみられます。また、近くの戸津井(とつい)には、鍾乳洞もあります。近いのでいってみたのですが、平日で閉館していたので、残念ながら入ることはできませんでした。
 白崎の中央部の石灰岩は、人工的に掘られた跡があります。石灰岩はセメントの材料となるため、需要があったのでしょう。ただむやみに石灰岩を掘るでのはなく、観光名勝を守るため、周囲の石灰岩を残すように内側から採掘していたそうです。今では採掘はされていません。
 白崎は現在、道の駅になっています。他にも、レストランやダイビングクラブ、キャンプ場などがあるレジャー施設になっています。
 白崎は、やはりその白さが際立っています。夏の終わりの暑い日でしたが、白崎の石灰岩は、青空と海の青に映えます。その白と青のコントラスト、そして石灰岩の尖った山が、異空間にいるような錯覚を与えます。天気や季節が変わると、どのような感覚になるのでしょうか。白崎は、私には遠い場所なので、白崎のいろいろなバージョンを楽しむことはできません。できれば、もう一度行ってみたいところです。

・晩夏と冬・
白崎を含む和歌山の調査は、
台風の影響で調査日程を
大幅に狂わされました。
それは、ほんの2ヶ月前のことです。
エッセイを書きながら、
晩夏の白崎の思い出が、
遠い昔のように思えました。
それは、今、北海道は雪景色で、
一足先に冬が来たような気候だからでしょうか。

・人の営み・
石灰岩は付加体には大小、
さまざまなサイズで取り込まれています。
深海底に堆積したチャートもあります。
しかし、付加体の中に、まんべんなくあるのではなく、
石灰岩が多いよう見える地帯があります。
そのような特徴を捉えて、地質区分がなされます。
多いか少ないか、連続するか途切れるか
それは、見る人間の感性や感覚、思い込みなど
心理的側面があります。
だから、不確かなところでは、
人によって地帯区分が変わってくるのです。
科学も人がする営みですから、
しかたがないのでしょうね。

2013年10月15日火曜日

106 名南風鼻:太古を感じる

 和歌山県の名南風鼻は、人もあまり来ない小さな海岸から行くことができます。この名南風鼻には、黒瀬川構造帯の岩石がでているところです。和歌山県ではもっとも古い岩石が分布しているところでも、太古を感じることができるとこでもあります。

 9月中旬、和歌山県から三重県にかけ、調査に出かけました。しかし、日本各地に被害を出した台風15号が関東を直撃した時が、出発予定でした。東京羽田経由で南紀白浜空港に向かう日程で、乗る飛行機便は欠航でした。空港のカウンターで手続きをするつもりでに、一番列車でいったのですが、すでに長い行列ができています。アナウンスでは、ネットから便の変更や払い戻しができるとしていましたが、つながりません。1時間以上並んで、別の便に変更をしてもらいました。羽田から白浜への乗り継ぎのできる便は、2日後しかとれず、調査日程は大きく変更しなければなりません。しかたがありませんが、予定を変更することにしました。
 もともとは5泊6日の予定でしたが、3泊4日となり、乗り継ぎの移動日もあるので正味2日間が調査日となります。当初は、和歌山から山間部も通り三重の海岸をポイントを定めて周る予定をしていたのですが、時間的に無理になったので、少ない地点を、集中的に周ることにしました。一日2箇所、すべてで4箇所を、何があってもみることを決意して調査にでました。そのひとつが、今回紹介する、名南風鼻です。
 「名南風鼻」と書いて、「なばえ(の)はな」と読みます。南風は、通常であれば「みなみかぜ」や「なんぷう」と読みますが、「はえ、ばえ」という読み方をすることがあります。いずれの意味はおなじで、文字通り南方から吹く風のことです。漁師たちは、南風が吹いたら、天気が変わる前兆と考えていました。天気予報などがなかった時代には、このような言い伝え、経験則によって、行動していたのでしょう。地名にも用いられることもあります。
 また、「鼻」は、鼻のように突き出した地形、海では岬状の地形に対してつけられる名称です。ただし、半島や岬より小さな地形に対して用いられているようです。
 名南風鼻は、和歌山県有田郡広川町にあり、紀伊水道につきでた岬になります。紀伊半島に向かって西に突き出た細長い地形をしています。名南風鼻の南側は険しい地形となっています。名南風鼻は、南風がよく当たる「鼻」だったのでしょうか。
 国道や県道などの幹線道路からはずれた、あまり観光客がくるようなところでもない、目立たないところにあります。岩石を見るにも、小さな山道を歩き、ヤブをくぐり抜けて海岸に出てみることができます。ただし、地質学では少々有名なところでもあります。和歌山県では最も古い地層が出ているところです。
 名南風鼻の周辺には、いくつか黒瀬川構造帯の岩石が分布しています。名南風鼻の南にある「ばべ鼻」、鷹島、黒島の4つの岩体で、他の地層や海で分断されていて関係は不明です。しかし、和歌山の黒瀬川構造帯の分布はこの周辺だけいなります。ですから、小さい分布ですが、地質学的には重要なものとなります。
 名南風鼻とばべ鼻の間には、後期ジュラ紀から前期白亜紀の池ノ上層と前期白亜紀の西広層があります。いずれも陸から浅海でたまった地層で、大陸棚の斜面にたまったものです。黒瀬川構造帯の岩石より時代は新しいのですが、黒瀬川構造帯や秩父帯によく見られる堆積物です。
 名南風鼻とばべ鼻は、狭い海岸を隔てて隣り合った岩体なので、もともとは一連の黒瀬川構造帯であったと考えられます。
 ばべ鼻は、ペルム紀の砕屑岩類とシルル紀からデボン紀の酸性凝灰岩(チャートに見える)、花崗閃緑岩、そして少しですが片麻岩もあります。名南風鼻では、ペルム紀の砕屑岩類、石灰岩、トーナル岩、玄武岩の貫入岩、石英閃緑岩、片麻岩、角閃岩、蛇紋岩などがあります。鷹島と黒島にはいけなかったのですが、似た岩石が分布しています。
 このような岩石群の構成と特徴、時代などは、各地に分布する黒瀬川構造帯のものと同じです。和歌山の黒瀬川構造帯は、狭い範囲の分布しかないのですが、典型的な黒瀬川構造帯に連続することを意味しています。
 黒瀬川構造帯は常に秩父帯の中に存在します。周囲の秩父帯とは、断層で接するのですが、もともとの関係は不明です。
 黒瀬川構造帯は、周辺の秩父帯より明らかに古く、由来の違った岩石群をからできています。秩父帯は、海洋プレートの沈み込みともなって形成された中生代のジュラ紀から白亜紀の付加体で構成されています。一方、黒瀬川構造帯は、古生代初期から中期の大陸地殻を構成していた岩石やシルル紀からデボン紀の堆積物、ペルム紀の大陸斜面などにたまった堆積物などからできています。そして、黒瀬川構造帯は、長く連続することはないのですが、秩父帯の中に点在しているため、密接な関係があることは明らかです。
 紀伊半島は、一般的な西日本(地質学では西南日本といいます)の太平洋側(地質学では外帯といいます)の地質体の同じ構成となっています。外帯とは、中央構造線より海側の地帯をいいます。
 西南日本の地質構造は、四国で典型的な配列を見ることができるのですが、中央構造線から海に向かって、三波川帯、秩父帯、四万十帯という並びになります。三波川帯は低温高圧の変成作用を受けています。秩父帯と四万十帯は、付加体と呼ばれる沈み込み帯特有の地質体からなっています。秩父帯が古い付加体で、四万十帯は新しい付加体となっています。各帯の付加体の中でも、海に向かって構成岩石は新しいものになっています。
 黒瀬川構造帯の起源は、完全には解明されていません。いくつかモデルがあります。「黒瀬川古陸」が取り込まれたとするもの、巨大な横ずれ断層で遠くから移動してきたとするもの、大規模な褶曲により移動してきたというものです。いずれも、周りの地質とは明らかに異なった古い黒瀬川構造帯の地質体を持ってくるためのものです。その作用は、地質学で考えられる造構運動を用いてたもので、その根拠も示されています。
 どのモデルも一長一短があり決着をみていませんが、ここでは有力な褶曲によるモデルを紹介しておきましょう。
 非常の大きな褶曲による動きを想定するモデルは「クリッペ」説と呼ばれています。大陸地殻や付加体などからなる地質体が圧縮作用を受けると、激しく褶曲していきます。圧縮が継続すると、時に倒れた褶曲(ナップといいます)ができます。アルプス山脈などに実例があり、大規模な褶曲により長い距離を移動することが知られています。倒れた褶曲のうち、根本が侵食され、先だけが残ったものをクリッペといいます。クリッペは、周りの地層のと関係が不明まま、異質なものとなってしまうことがあります。クリッペは「根なし地塊」ともよばれることもあります。
 西南日本は、古くから沈み込み帯があり、圧縮する力がかかり続けている場です。「クリッペ」説は、内帯の黒瀬川構造帯を構成していた地質体(現在の地質体との対応は不明)が、激しい褶曲で海側に倒れてきて、やがて褶曲の根っこの部分が侵食され、先端部分が黒瀬川構造帯として残ったという考えです。ある時期、秩父帯が広く分布している上に黒瀬川構造帯がクリッペとして乗っかった、という歴史になります。その後、削剥によって黒瀬川構造帯が切れ切れになったとしています。このモデルであれば、異質な黒瀬川構造帯、秩父帯との関係も説明できます。ただし、このモデルもまだ検証されていないところがあります。
 秩父帯は、紀伊半島では和歌山の海岸付近に少し分布していますが、山間部で消え、三重で再び分布します。三重から東海にかけて、フォッサマグナまで分布は連続しています。四国から紀伊水道は挟んでいるのですが、連続している秩父帯が、和歌山で途切れます。和歌山の秩父帯にともなって黒瀬川構造帯がありますので、山間部に黒瀬川構造帯はなくなり、和歌山県の西と三重県の東部に細長く分布しています。
 秩父帯が消えているところは、北に四万十帯が張り出していることになります。分布が消えているのには、それなりの理由があるはずです。四万十帯には熊野酸性岩類が貫入しています。そのような貫入が四万十帯の高まりを生じ、秩父帯を消していったのかもしれません。このような分布の原因は、海溝に海山が沈み込んでいるためという考えもあります。
 名南風鼻へのルートは、資料があったので大体わかっていたのですが、狭いルートをいくことになっていました。山道は見つけたのですが、途中で森を降りる踏み跡があったので、そこを降りて行きました。もしかするともっといいコースがあったのかもしれません。最後は孟宗竹の藪こぎをして、海岸にでました。
 狭い海岸でしたが、苦労して辿り着いたところは、感慨もありました。ただし、帰りのことを考えると少々気も重いでしたが。やっと辿り着いた露頭ですから、じっくりと眺めよう思いもうまれます。南風もなく、穏やかな快晴の日です。ここでは、太古を感じることができます。
 本来ならもっとじっくりと時間をかけ、それこそぼんやりと佇(たたず)みたいたい気分のところでした。次の地点をめぐる予定もあったのと、食事も飲み物も用意していませんでしたので、見終わったらすぐに帰ることにしました。もちろん、同じコースを帰るときは、藪こぎをし、林の中の急斜面を登ることになりました。少々疲れましたが、達成感が湧いた調査となりました。

・デジャブ・
名南風鼻の露頭をみたとき、
景色は全く違っているのですが、
愛媛県西予市の須崎海岸の黒瀬川構造帯の露頭を思い出しました。
須崎海岸には、西予市にいたときや、
西予市の調査で何度か行ったことがありました。
岩相は似ているところもあるのですが、
露頭の様子は全く違います。
でも、デジャブ感があったのはなぜでしょうか。
なかなか再訪は難しいので、
その謎は解けないでしょうが気になります。

・キャンセル・
飛行機の欠航によって、予定が大幅に変わり、
レンターカー会社、旅館へのキャンセルなど
いろいろ連絡をしました。
荷物もすでに送っていますので、
連絡も早めにしなければなりません。
どうスケジュールを組み直すのか
早急に決めかねればなりません。
そんな連絡もいろいろ大変な思いをしました。
もちろん、費用はもどってきませんが、
旅館のキャンセル料もとられなかったので、
痛み分けというところでしょうか。

2013年9月15日日曜日

105 三内丸山:縄文への旅

 このエッセイでは、各地の地質や地形を紹介していますが、過去への旅を紹介しましょう。そんな気持ちを味わわせてくれる遺跡を見学しました。三内丸山遺跡です。今回は縄文時代に視点を移してみましょう。

 9月の上旬、校務で青森に出張しました。昼で校務が終わり、飛行機が夜の便だったので、午後から時間があきました。校務のあったホテル前から巡回バスがあったので、三内丸山遺跡にいくことにしました。少々蒸し暑い日だったのですが、幸い雨は降らずに、野外の遺跡を見ることができました。
 市街地は青森湾に面した平野に広がっています。三内丸山遺跡は、市街地から南西側へ少し登った丘に広がっています。遺跡は、青森平野を見下ろすところにあります。三内丸山遺跡では、縄文人の暮らしに関する興味深い知見が多数わかってきました。いろいろ語るべきことはあるのですが、縄文人の暮らしに焦点をしぼって見ていきましょう。
 三内丸山遺跡は、縄文前期から中期(5900~4000 B.C.)にかけての集落の跡です。1900年間にわたって定住生活が営まれた集落の遺跡です。時期としては、4大文明がはじまる直前のころでもあります。
 三内丸山遺跡は、6本の巨大な柱がシンボルといえるでしょう。この柱は、16mほどの高さがあり、ここを訪れた人はその大きさに圧倒されはずです。この柱が象徴しているのは、縄文人の暮らしが豊かであり、文化も高度であることではないでしょうか。
 この柱は復元されたものです。復元は、科学的根拠に基いてなされています。
 柱の一部、根っこの部分が残っていて、その大きが直径1mもあったことがわかります。木は腐らないように、焦がしてありました。柱の下面は石斧で削って整えられていました。巨大な柱ですが、繊細な加工がされていることが、高い技術と蓄積された知識、職人の技があったことを示しています。
 柱が埋まっている穴の深さは2mほどで、穴の直径は2.2mも広く掘られています。そこに柱を立てて、土砂で叩いて固定しています。土の固まりぐあいから、上にかかっていた加重がわかり、柱の高さも推定されています。各柱の間隔は4.2mで、柱は互いに向き合うように内側に少し傾いています。
 このような科学的データに基いて、6本の柱の復元がなされています。しかし、遺跡は柱の穴と根っこの部分だけで、上部構造は残っていません。どのような目的のものであったかは、推測の域をでません。建物であったのか、それとの象徴的に柱を立てていただけなのか。いろいろな説があるようですが、現在は、建物説に基いて、3層の高床式構造で復元されています。まだ屋根はできていないのですが、現在も復元途中であるためだそうです。
 6本の柱は、ロシアからクリの巨木を輸入して、現在の技術や重機を用いて再現されています。縄文時代は知恵と、動力は人手による人海戦術しかありません。ある建築会社の推定によると、大人200人ほどの協力がないと作ることができないとのことです。それだけ力をあわせ、労力をかける必然性があったのでしょう。
 立っている巨大な6本柱は、現代人が見ても圧倒されます。巨大な建築物を見慣れている現代人がみても驚くのですから、縄文人も同様かそれ以上に心を動かされたことでしょう。そこには、どんな意匠や意図が、込められていたのでしょうか。
 こんな巨大な建築物は、生活に必要なものではなさそうです。多分、巨大な建築物をつくる必然性を、縄文人は持っていたのでしょう。シンボル、宗教、あるいは現代人が知りえないなんらかの目的のために、多大な労力とはらったことになります。強力な指導力や団結力、あるいは強い信仰などが、背景にあったことになります。
 遺跡内には、遺跡を現場保存したものだけでなく、6本柱のように復元物もいくつもあります。6本柱についで、巨大な竪穴住居が圧巻です。長さ32m、幅10mのもの空間をもつ、太い柱が何本も並んだ長く広い建物が復元されています。少し掘りこまれているので竪穴式になっています。この建物は、共同作業をするため、あるいは共同生活をするためだと考えられています。しかし、本当のところはなんのためのかわかっていません。でも、この縄文の集落では、重要な役割を果たしていたはずです。
 縄文人が何を食べていたのかは、遺跡のゴミ捨て場から発掘からわかります。ムササビやノウサギなどを狩猟していたことがわかります。まさに縄文時代の暮らしにふさわしいものです。日本のもっと南方の縄文遺跡では、シカやイノシシが狩猟対象ですが、ここでムササビがたくさん食べられていたのは、地域性を反映したためでしょう。ブナの深い森が周りには広がり、多数のムササビが生息していたのでしょう。非常に豊かな森があったことがわかります。
 稲作こそしていませんでしたが、クリやクルミ、一年草のエゴマやヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった植物を栽培していたことがわかります。クリのDNAの解析から、多様性が少なく収斂していることから、長年栽培されていたと考えられています。村の周りには栗林が畑があったようです。
 実際に大きなクリの木を利用して6本柱などをつくていますので、林業や畑作もおこなっていたことになります。人手の入った林や畑が集落の周辺にはあり、その周囲には豊かな森があったのでしょう。
 また、サメやブリなどの海の魚も多数食べていたことがわかります。当時は今より暖かく海進があったので、海岸線がもっと近くまできていたはずです。サメやブリなどの海での漁ももっと近くでできたいたことが想像でします。ブリは大量にとれ、サメも大きいので、保存食としての役割を担っていたのかもしれません。
 果実酒を大量に作った痕跡も見つかっています。行事や儀式の日には、酒が飲まれて陽気に騒いでいたのでしょう。
 このような縄文人の食生活を見ていると、現代のようにコメやパンはないですが、かなり豊かな暮らしをしていたことが想像できます。現代人の口にも合ったのではないでしょうか。
 装飾品や道具も、多数発掘されています。平板の土偶も多数ありました。それらの素材として、ヒスイは富山県糸魚川から、コハクは岩手県久慈から、ヤジリを固定するのに用いられたアスファルトは秋田県から、黒曜石は北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰などからもってこられたことがわかっています。
 これらの素材は、縄文人が海を越え、あるいは海岸を伝って、広域で交易をしていたことがわかります。交易を生業とする専門家もいたかもしれません。東日本の各地の必需品や名産品を、交易していたことがわかります。ヒスイは産地が限られれているので、貴重であったはずです。ヒスイは装飾のためものですが、物々交換として相応の対価をはらったのでしょう。ここに住む人は、それほど余裕があり豊かであったことがわかります。そして装飾品をどうしても手に入れたいという、現代人に相通じる気持ちがあったようです。
 村には墓があり、大人の墓はメインストリートを挟むように両側に並んで整然とつくられています。500ほどの墓が発掘されています。道には側溝もあり、堆積物が重なることがないことから、常に維持され、清掃や手入れがされたいたことがわかります。子供の墓は、村の住居近くにあります。盛り土や環状列石などの装飾もされいたことから、死者を葬り、祭り、愛しむ気持ちもあったはずです。
 この集落は、長い期間、統一がとれ、きれいに整備され、人々も穏やかに、そして豊かに暮らしていたことが想像できます。小さい集落ですが、長く維持されたということは、縄文人がこのような集落を維持できる知性や文化レベルをもって、周辺の集落と協力して平和を維持していたことを意味します。多分、現代人と勝るとも劣らない能力をもっていたと考えられます。
 縄文時代の暮らしは、今より自然を身近に感じて生きていたので、雪や寒さなどの厳しさは住居や火、衣類と体力で耐えいたはずです。豊かで好奇心を満たせる暮らしであったことが想像できます。現代人がそこに入っていっても、それなりの満足感をもって暮らせたかもしれません。いや、現代の慌ただしい、金銭にしばられた暮らしを厭う人にとっては、ここの暮らしの方が過ごしやすいかもしれません。
 縄文人は、2000年近くもここに暮らしていたのですから、オアシス、楽園のようところだったのかもしれませんね。

・古くから知られる・
三内丸山遺跡は、江戸時代から知られている
有名な遺跡だったようです。
青森県が1992年に野球場を建設するときに
事前調査をしました。
その時、大規模な遺跡があることがわかり、
野球場建設を中止しました。
遺跡の発掘し、保存をすることにしました。
それが現在、三内丸山遺跡として
国の特別史跡に指定されています。
発掘は現在も続いているので
新たな発見も今後も続いていくでしょう。

・共同作業・
三内丸山遺跡は、保存するためだけでなく
大きな施設での展示も充実しています。
遺跡の中では、縄文時代の建物を復元しています。
復元作業は、市民たちがボランティアとして
共同してつくっているところも特徴です。
これは、この遺跡がかつて持っていた
精神に相通じるものでもあるかもしれません。
つぎつぎと新しい建物が復元され
増えていく野外展示となっています。
なかなか工夫が凝らされています。
そして、見応えのある施設でもありました。

2013年8月15日木曜日

104 北大:サクシュコトニ川の流れ

 先日、北大博物館を見学にいきました。蒸し暑い日でしたが、大きな木々の緑が、涼しさを感じさせてくれました。夏の北大は、観光客も多数訪れていました。今回は、そんな観光客にあまり知られていない、小さいなサクシュコトニ川を紹介しましょう。

 北大は、夏場になると観光地にもなり、多くの観光客も来ます。この8月に2度、北大に出かけました。2度目は、家族で博物館を見にいきました。正門を入るとすぐに中央ローンの緑が、目に入ります。8月の暑い時でしたが、緑の木立の中には入り、緑の中を流れる小川の付近に来ると、涼しさを感じることができます。
 札幌は、200万人弱の人口を有する政令指定都市です。地図をみると、街の広がりがわかります。大きな街で、これからもまだ増殖可能な平野にあります。
 地形をみると、札幌は、石狩川まで広がる豊平川の扇状地につくられた街であることがわかります。東に野幌丘陵、西に藻岩山から手稲の山地がありますが、広い扇状地になっています。豊平川は、札幌の北で石狩川に合流し、石狩湾で日本海に注ぎ込みます。豊平川の源流は深く、多くの山並みがあるので、豊かな水量があり、枯れることもありません。ここが大きな都市をつくるのに適した地であることがわかります。
 航空写真、人工衛星画像、あるいはGoole Earthなどで上空から眺めると、札幌の市街地は、かなり緑が少ないことがわかります。東西の山地、石狩川沿いには田畑があり緑がみえますが、市街地が広がる緑が少ない街になっています。ただ、札幌の駅の付近に大きな緑があります。それが、北海道大学(以下、北大と略します)のキャンパスを中心とした文教研究地域です。ただ、札幌競馬場や道庁、大通り公園などにも緑がみえますが。
 札幌は、北大を緑のオアシスのようにみえます。北大は、1876年開学の札幌農学校を前身としています。札幌の緑のオアシスは、市民の憩いの場であるとともに、夏には重要な観光地のひとつとなっています。
 北大の観光ポイントしては、中央ローンの北には古川講堂があります。1909年古河財閥が献金した資金の一部として建てられたネッサンス形式の洋館です。当初は農学部林学科、のちに教養部本館として、今でも文学研究科の研究室として利用されています。
 中央ローンの北西の角には、クラーク像があります。そこで北大を南北に走るメインストリートにぶつかります。メインストリートは、クラーク会館を南の始点として北18条まで通っています。その両側に多数の校舎が並んでいます。中でも、農学部、エルムの森、理学部と総合博物館、ポプラ並木、大野池、イチョウ並木などが観光客を集めています。
 さて、北大の中央ローンには小川が流れています。この小川の名称は、サクシュコトニ川といいます。サクシュコトニ川はアイヌ語で「サクシュ」は「浜の方を通る」、「コトニ」は「くぼち」という意味です。「くぼちの川で、豊平川に最も近い川」という意味だそうです。
 サクシュコトニ川は明らかに人工の水源で水が供給されています。なぜ、このようなことをしているのでしょうか。
 札幌は扇状地なので、湧水があちこちにあり、北大と北大植物園の間にもその一つがあり、そこが水源となりサクシュコトニ川が流れていました。かつては、自然の流れがあったのですが、1951年には、都市化によって地下水位の低下して、水源が枯れ、サクシュコトニ川の流れもなくなりました。
 北大の123周年記念事業の一つとして、2003年に再生したものが、今は流れています。中央ローンの南に、藻岩浄水場から放流水をもってきたものを流しているそうです。人工の水源ですが、流れは、もともとあった流れを使っています。サクシュコトニ川は、中央ローンからメインストリートとは違う裏道のコースを流れています。
 かつては、サクシュコトニ川が地形的な重要な要素だったので、農場を区分していたこともありました。2つの農場が現在の位置になったとき(1910年)から、北大を南北に延びるメインストリートが徐々に形成され、サクシュコトニ川をまたぐ橋もあったそうです。今では地下の水路となっています。
 サクシュコトニ川がメインストリートを交差して西に渡ったところに、大野池があります。
 大野池周辺は、1921年ころには農場で牛馬の水飲み場となっていましたが、その後ゴミ捨て場状態にになり、ドブのような湿地になっていました。工学部の大野和雄教授は、1963年から工学部の施設整備の一貫として、泥沼になっていたものを池にされました。いつしか大野池と呼ばれるようになりました。その後、1998年に整備されて、現在の姿になりました。
 サクシュコトニ川は、大野池から少し流れると、地下を通り、やがて工学部の裏の西側を流れて、サッカー場、陸上競技場わきを流れ、新川になります。新川は、明治時代につくられたもので、直線の流路で海に注ぎます。サクシュコトニ川は、大学の中では流路こそ自然ものを一部残していますが、水源も大学の外の流路も人工のものとなっています。時代の流れでしょう。必要があれば、古いものも残りまるが、必要でないものは消えていきます。
 大学も組織として生きて活動しているものは、新陳代謝をしています。ですから、古いもので保存の価値がないものは、どんなに思い入れがあっても、新しいものに更新されていくのは、宿命というべきでしょう。
 北大にいくたびに、新しいものができています。確かここにあれがあったはずだが・・・と、よく戸惑います。来る度に新しいものができているように感じます。特に自分に関係したものがなくなったり、変わっていきます。身近なものにそんな変化をみると、驚きと一抹の寂しさを感じます。ノスタルジーでしょうか。
 実は、北大は、私の母校です。間が2年間空きますが、学生から大学院、研究生まで、のべ10年間通っていました。その後、現在の職についてからも、3年間、非常勤講師として働き、大学にも恩返しができました。北大には、それなりの思い入れもあるのですが、ここ数年は足が遠のいています。スタッフになっている知り合いも何人もいるのですが、最近では家族で博物館にいくことが、数少ない訪問となっています。
 私が入学したときは、教養部の男子学生のための旧恵迪寮があり、そこに2年間いました。今では取り壊されて、1983年にはコンクリートの大きな新恵迪寮となりました。男女学部生や大学院生、留学生も入寮しています。恵迪寮の一部は開拓の村に保存されています。
 長年通い長い時間を過ごした理学部も博物館になっています。そこに今では家族で年に一度ほど企画展を見に来ています。ポプラ並木も台風で何本も倒れて、通りねけ禁止になっています。一時期、ポプラ並木が通学路になっていたこともありました。かつてはエルムの森でジンギスカン(北大はジンパよと呼んでいます)も自由できていたのですが、今では一部だけが許可されています。
そんな変化も時代の流れという代謝なのでしょう。
 北大には、いろいろみどころがあります。札幌にお越しの際には、ぜひ立ち寄ってみてください。

・北大博物館・
今回のの企画展のテーマは、
「巨大ワニと恐竜の世界」でした。
大きなワニの化石と、
巨大恐竜の化石が展示されていました。
大学博物館なので、企画展の場所は
大きなスペースでの展示ではないのですが、
見応えはありました。
企画展以外にも、周りの常設展示もあるので、
見て回るとそれなりの時間、楽しめます。
また、久しぶりにみると、
常設展の更新もされているので楽しめます。
いろいろな講座もされていたり
ボランティアの養成講座もあるので、
お近くの人はいろいろな楽しみ方ができます。

・七帝柔道記・
今回、北大の取り上げたのは、
増田俊也著「七帝柔道記」
(ISBN978-4-04-110342-5 C0093)
を読んでノスタルジーにかられたこともあります。
この本は、面白くて一気に読んでしまいました。
そこで描写されている柔道部は、
私が1年間しかいなったのですが、剣道部にいました。
剣道部の隣に柔道部の道場があり、
練習をしているのは、知っていたのですが、
その内実は知りませんでした。
過酷な練習は気づいていました。
恵迪寮の同期の友人が柔道部で、
彼が寮にいるときは、
食べているが寝ているかだけの
生活しているようにしか見えませんでした。
それは過酷な練習と、
強かった柔道部時代だったのでしょうか。

2013年7月15日月曜日

103 鹿部間欠泉;去勢された自然

 北海道茅部(かやべ)郡鹿部町(しかべちょう)に出かけました。校務なので、ゆっくりする時間はなかったのですが、間欠泉をみてきました。ここの間欠泉は、繰り返しの間隔とその勢いに圧倒されます。3度目の見学ですが、少々考えさせられたこともありました。

 6月中旬、大学の校務で鹿部町にいきました。日帰りの出張で、なおかつ午前の早い時間にある校務だったので、自宅を朝の5時にでました。霧が深かったので少々高速運転が怖かったのですが、途中で晴れてきたので通常に運転ができたの助かりました。
 私のカーナビが古いものだったので、高速が国縫までしか延びていいないことになっていました。かつてこちらにきた時も、国縫で高速を降りた記憶もありました。ところが高速は延びていました。時間がギリギリだったので、もう少し先のインターを目指して、カーナビでは道なきところを進みました。八雲インターを過ぎて落合インターまでいき、その先がわからないので高速を降りることにしました。道すがら森まで高速が延びていることとがわかったので、帰りは森インターから高速を利用しました。
 片道で300kmほどあり、高速を使っても4時間ほどかかるので、かなり疲れしましたが、帰りは高速がほとんどだったので、運転が苦手な私には助かりました。
 鹿部町は、渡島半島の付け根に当たります。噴火湾と太平洋に面した地域です。道南の幹線である国道5号線を、森から分かれて、国道278号線を30kmほど進んだところにあります。
 校務のあと少しの時間をとって、鹿部の間欠泉を見に行きました。鹿部の間欠泉を訪れるのは、今回で3度目になります。一度目は大学生のときの地質巡検で訪れた記憶があります。だいぶ昔です。二度目が家族で道南を回った数年前です。そして今回が3度目です。今回も二度目の時と同じ印象でした。整備された施設で、新鮮味を感じませんでした。多分、間欠泉を見せる施設が同じであったためでしょう。一度目はうろ覚えですが、唐突に激しく吹き上がる間欠泉を見た記憶だけあります。昔の写真をひっくり返してみたのですが、その写真もありませんでした。ただ記憶の中にだけあります。
 鹿部の間欠泉は、1924(大正13)年4月に、温泉を試掘している時に偶然発見されたそうです。間欠温泉「鶴の湯」と呼ばれていました。今では、「しかべ間歇泉公園」という施設内になり、間欠泉を見ることができます。この施設には、間欠泉の説明や、安全に間近に、あるいは2階からみることも可能となっています。整備されたきれいな施設です。でも私には・・・。
 鹿部の間欠泉の特徴は、なんといっても、その頻度と水量でしょう。約10分毎に温泉が勢いよく吹き上がります。少しいれば何度も見ることができます。足湯に入りながら、間欠泉を見ることができます。100℃の温泉が15mほどの高さに吹き上がります。すぐ横を国道が通っているので、交通への影響を防ぐために、10mのところにフタが付けられています。少々残念ですが、仕方がないのでしょう。
 間欠泉自体は、珍しいものではありますが、ここだけのというものでもありません。日本でもいくつかあり、宮城県の鬼首温泉の欠泉、山形県広河原温泉の湯ノ沢間欠泉、栃木県川俣温泉の間欠泉、大分県別府の柴石温泉の龍巻地獄などがあります。また、アメリカ合衆国のイエローストーン国立公園には200以上の間欠泉があり有名です。
 鹿部の間欠泉は、地下26mの深さから吹き上がってきます。その原理は、タテの穴(試掘坑)に、熱水脈が達しており、温泉が常に湧き出しています。熱水の温度は113℃もあるのですが、地下なので2.6気圧の圧力がかかっているので沸騰はしません。113℃の高温の熱水が、上にある100℃以下の温泉を、押し出しながら上がってきます。浅い所にくると圧力が低下します。すると、100℃以上の熱水は沸騰をはじめます。
 水が沸騰する状態だと、粘性が下がり流動しやすく、圧力も下がります。より下部にある100℃以上の部分も沸騰しはじめます。いわゆる、突沸(とっふつ)という現象が起こります。その結果、熱水が激しく吹き上げられます。これが間欠泉の噴出となります。
 一度に、500リットルもの熱水を吹き出します。タテの穴の熱水が一気に吹き出ると、温度も下がり突沸が終わります。再び、113℃の熱水が突沸するまでが、約10分ほどとなります。これが鹿部の間欠泉の原理です。
 鹿部温泉地域で、以前は温泉が地表に湧出していたようです。地下10mほどのところまで高温の温泉水がきています。調査では1mほどで40~50℃に達する地域も見つかっているようです。
 間欠泉の熱水は、近隣の鹿部温泉と同じで、マグマの熱源と考えられます。すぐ西には、北海道駒ヶ岳(こまがたけ)があります。標高1131mの活火山で、山頂の形が歪であることが特徴となっています。この火山活動を起こしているマグマが熱源となっていると考えられます。鹿部町は、何度か駒ケ岳の噴火による災害に見舞われています。
 駒ヶ岳のマグマは、安山岩質なのですが、軽石などの火山砕屑物を大量に噴出するのが特徴です。鹿部町にも厚く軽石が堆積しています。軽石は湿地帯の土地改良や、海底の昆布生育のために役立ているそうです。
 鹿部町は幹線道路、観光ルートからは少しずれていますが、私は、このよな静かなところが気に入っています。ただし、「しかべ間歇泉公園」での間欠泉は不自然な感じがして、どうもしっくり来ませんでした。これが、代わり映えの無さをかもしれだしたのかもしれません。最初に見た自然な間欠泉の記憶は深く残っています。雄大な自然は、何度行っても感動を新たに与えてくれはずです。
 最近の観光地は、温泉だけでなく、いろいろなレジャー施設、レクレーション、イベントなどを取りそろえています。そのせいか、どの観光地でも似たものがあり、あとで思い出すと、肝心のウリが記憶から薄れいてく気がします。道の駅のような施設は、車で旅行する人にとっては、一定の目的を達成できるので助かるものではありますが、個々の道の駅の記憶は薄れます。
 車社会だからこそ、移動が自由だからこそ、地域ごとに限られた個性、ウリが強調されたほうが、記憶に残り、また見に来たいということになるのではないでしょうか。
 鹿部の間欠泉ですが、パンフレットには、フタのない勇壮な噴出の写真があります。周辺の被害を考えるとフタもしかたがないのかもしれません。間欠泉は自然の脅威を見せつけられるものです。フタのない間欠泉を見たかった思いがあります。「去勢」されたのでは、少々興ざめするのは、私だけでしょうか。

・家族旅行・
北海道も暑い日が続きました。
しかし、夜は涼しくなるので、
昼間の暑ささえ耐えれば、夜には一息つけます。
大学の講義も、あと少しです。
2週間ほで講義が終わり、定期試験になります。
それが終われば、一息つけそうです。
できれば、家族旅行でもいきたのですが、
子供たちがクラブでいろいろ出るので、ままなりません。
行ける家族だけで出るという選択も可能なはずです。
「2、3日だったら自炊で大丈夫だろう」というと
高校生の長男が「できない」と言い切ります。
放っておいて炊事や洗濯をしれくれればいいのですが、
長男には無理なようです。
旅行ができないと、エッセイのネタができなくなります。
困ったものです。

・締め切り・
現在、論文の締め切りに追われています。
本当であれば、このエッセイを書く余裕はないのですが、
定期的に書くことを自分自身のノルマにしているので、
無理して書きました。
自己満足かもしれませんが、
何人か熱心な読者もおられるので、
なんとか書き続ける動機になっています。
今回もホームページの画像の更新は遅れますが、
メールマガジンだけは、なんとか発行しようと思いました。
まあ言い訳している暇があったら、
早く発行して論文にかかりましょう。

2013年6月15日土曜日

102 乙部:センス・オブ・ワンダーの導火線

 人は、自然のいろいろな素顔に感動をおぼえます。もちろん、人の側にその自然を感じる「心」が必要ですが。でも、だれもが感動する自然もあるように思えます。そんな多くの人のセンス・オブ・ワンダーに火をつける導火線のような自然として柱状節理があるのではないでしょうか。

 自然には、いろいろな造形があり、大きいものから小さいもの、形状や色、繰り返しやシンメトリーの妙、孤高の美など、いろいろなものがあるでしょう。そのような自然の中にある不思議さに感動する心、センス・オブ・ワンダーは、多くの人に綿々と受け継がれているはずです。琴線は人それぞれで違っているでしょう。しかし、多くの人が感動するであろう(少なくとも私にはそう見える)ものがあると思います。地質学的造形として、柱状節理がその一つになるのではないでしょうか。マグマが織りなした造形の妙が、多くの人のセンス・オブ・ワンダーの導火線になりそうな気がします。そんな景観を紹介しましょう。
 前回に続いて、舞台は道南です。渡島半島の根とも、渡島半島が松前半島と亀田半島に分かれるところ、日本海側にあたる爾志郡(にしぐん)乙部(おとべ)町です。人口約4000人、2000戸ほどの小さな町です。かつてはニシン漁で栄えたところなのですが、現在は水産業や農業を中心とする町です。
 乙部の名は、アイヌ語の「オトウンペ」、「河口に沼のある川」という意味に由来しています。乙部岳(標高1017m)に端を発する姫川の河口に町の中心があります。日本の多くの地方の町同様に、人口の減少が続いています。
 渡島半島の西側の海岸沿いを走る国道229号線は、「追分ソーランライン」と呼ばれています。崖があったり、トンネルがあったり変化に富んだ海岸線を縫って走っています。松前半島から海岸沿いに国道229を北上すると、いくつもトンネルがあります。ある岬の付け根を通るトンネルを抜けたところが、今回取り上げる地です。その岬は、鮪(まぐろ)の岬、「鮪ノ岬」と書いて「しびのさき」と読みます。
 シビとは、マグロのことで、古くから使われている呼称のようです。本マグロは出世魚で、40kgあるいは1m越えるものをシビマグロとよばれたそうです。鮪ノ岬の景観は、北海道の天然記念物(1972年)に指定されており、岬の形がマグロの背に似ていること、岩の様子がマグロの肌に見えることなどから、名付けられたようです。近くには「潮見」や「豊浜」などの昔の漁業に関する地名もみられます。
 鮪の岬のトンネルと抜けると、トンネルの壁面に不思議な景観が広がります。北からトンネルに向かうと、その異様さは嫌でも目に飛び込んでくるでしょう。南から来ると、眼に入ることなく、見過ごすかもしれません。注意が必要です。
 「異様さ」と書きましたが、私にとっては異様ではなく馴染みのある、いや好きといっていいような景観です。柱状節理と呼ばれるものです。
 この景観は、上下2つに分かれています。下部は、長さ10mほどの柱がたくさん連なっている典型的な柱状節理です。上部は、多数の柱の断面が見える形で集まっています。上部が一部湾曲して見えることから、「車岩」とも呼ばれています。
 岬の付け根(トンネル)から、先端に向かって二段構造が整然と続いています。岬は海に向かってゆるく傾斜して、海に入り込むような形になっています。その傾斜は、マグマの形を反映したものだと思われます。鮪ノ岬の柱状節理は、日常みることのない異様さですが、壮観でもあり、センス・オブ・ワンダーを感じます。
 柱状節理の「節理」とは、岩石に見られる規則的な割れ目のことです。ただし、断層のようなズレがない割れ目のことをいいます。一般には、マグマからできている火山岩や熱い火山灰が厚くたまったところ(溶結凝灰岩と呼ばれます)に、節理がよく見られます。
 火山岩とはいっても、マグマが地表に噴出したものではなく、地表の近くですが、噴出することなくゆっくりと冷えていく条件が必要です。地下深部だと節理はできずに割れ目のない塊状の火成岩、深成岩になります。マグマの性質もある程度は関係します。玄武岩から安山岩の組成のマグマでよく見れられるようです。鮪ノ岬では、マグマは安山岩質です。
 このような条件を満たすものは、貫入岩と呼ばれるものが多くなります。マグマが、ある程度の大きさ、幅をもって、地下の比較的浅所に貫入し、地表よりはゆっくりと冷えていった場合、節理が発達した岩石になります。複雑な条件なので、どこにでもできるものではなく、できたとしても、ひと目に触れなければわかりませんから、それなりの侵食も必要になります。ですから、稀で珍しい景観といえます。
 特に綺麗なものは、鮪ノ岬のように天然記念物になることもあります。有名な所では、マグマによる節理は、福井県の東尋坊(とうじんぼう)や兵庫県の玄武洞、鳥取県の三徳山などで、溶結凝灰岩では北海道大雪の層雲峡、宮崎県の高千穂峡などがあり、いずれも国の名勝や天然記念物になっていて、観光の名所ともなります。
 節理ができる原因は、マグマが岩石として固まるとき体積が少し縮みます。その減った分が割れ目、節理となります。マグマが固まるときの形と冷えるときの冷え方によって割れ目のでき方が、いろいろな形状となります。一般に冷える面にたいして垂直方向に節理ができるようです。
 長く柱状になって節理ができたものを、柱状節理といいます。他にも板状、方状、放射状などの形状ができることがあります。
 鮪ノ岬では、下半分が柱状節理の典型となっています。上部は柱状の断面が見えているので、ものもとは水平方向に延びていた柱状節理だったはずです。もしかすると、柱状部分の長さも短かったのかもしれません。「車岩」と呼ばれることから、丸く車の一部もようだったかもしれません。それが、侵食や地殻変動によって切り取られて、現在の姿になったようです。節理は割れやすいので、トンネルの周辺はコンクリートで補強されていますが、海岸沿いは自然のままの姿を見ることができます。
 遠目で見ると、人工物のような不思議な景観をかもし出している柱状節理ですが、よく見るとその形はさまざまです。本来、マグマからの堆積収縮がおこれば、断面が6角形の柱状節理になりそうに思えるのですが、そうではありません。柱の形は、5角形が多いようですが、他にも4角形や6角形もあります。また、正4角形、正5角形、正6角形になっていものはひとつもなく、不規則なものが組み合わさっています。しかし、全体としてみると整然と柱が密集して並んでいるように見えます。不思議な景観です。
 私は、各地でこのような節理をたくさん見てきました。見たことのないものまだまだ多数あります。でも、どこの節理をみても、感動を覚えます。その背景にあるマグマや冷却のメカニズムを知っていたとしても、その不思議さは薄れることはありません。
 これからも、私はたくさんの柱状節理を見ることでしょう。そして多分同じように新鮮な驚きをもって、節理をみることでしょう。これは私の心の問題ではなく、節理には、センス・オブ・ワンダーの導火線が内在しているではないでしょうか。

・教員採用試験・
小学校の運動会も一段落して、
大学では、学祭が開かれています。
ただし、我が大学は、秋ですので、
春は穏やかなものです。
学部などの運動会やオープンキャンパスなどが
つぎつぎと催されていて、
大学で土・日曜日が、静かになることはなく
賑やかではあるのですが。
私の学科は、教育実習がつぎつぎとありました。
来週で一段落します。
今月末の日曜日には、教員採用試験があるためです。
4年生は落ちつかない日々が続きそうですが、しかたがありません。
就職活動をしている学生は、
もっと長い期間、頑張り続けているのですから。

・異常な天気・
嫌な日が数日続くと、すぐ今年異常な天候だと思いがちです。
とはいいなががら、
やはり今年は本当に異常な天候が続きます。
6月になって心地よい快晴がつづき、
日照時間が例年にないよさだったのですが、
曇りで、少し雨が降った日、
まるで梅雨のような蒸し暑さになりました。
エゾハルゼミも鳴いているせいか、
蒸し暑さがよけいに募ります。
今年の北海道は春が短く、
一気に夏になってしまいました。
そして、こなくてもいい梅雨のような天気もきました。
こうなると、異常気象という言葉がよぎります。
先日までの好天の連続を、
すぐに忘れてしまうんですね。

2013年5月15日水曜日

101 白神岬:錯綜の津軽海峡

 白神岬は、北海道の最南端です。本州と北海道の間には、津軽海峡があり、目と鼻の先ほどの距離しか離れていません。しかし、両者の間には、時空をこえて、さまざまなものが錯綜しているところです。

 今年の北海道は、春が遅く、ゴールデンウィークも天気が悪く、肌寒い日が続きました。その後も春の暖かい日は少なく、出かけることもままならず、今回は、昔行った白神岬の紹介をします。
 白神岬は、北海道の南部(道南)にあります。道南は渡島(おしま)半島と呼ばれています。渡島半島は、曲がりくねっています。北側はアルファベットのCの形で、南はYの字を逆さまにしたような形をしています。ただし、Yは左(西)に倒れています。Yの下側(南側)は、東に亀田(かめだ)半島、西に松前半島に分かれています。ただし西に倒れているので、松前半島の方が、南に下がっています。南の一番先端が白神岬です。文字で説明するとわかりにくですが、地図をみると白神岬の位置はすぐに分かります。
 今述べたような形をしているため、白神岬が北海道の最南端となります。ただし、渡島小島(おしまこじま)は、白神岬より、さらに南にありますが、無人の島なので除きます。北海道では最北端や最東端は、ロシアとの国境や北方四島の関係で、たびたび話題になることもありますが、最南端は話題になることはほとんどありません。
 最南端ということは、本州に一番近いところになります。ただし、本州の最北端は、下北半島の大間崎(おおまざき)で、そこは白神岬より北になります。北海道と本州が一番近いのは、亀田半島の戸井と下北半島の大間岬の間です。
 白神岬が向かい合っているのは、津軽半島の竜飛崎(たっぴざき)になります。そこまでの距離は、20kmほどです。天気が良ければ津軽半島がよくみえ、下北半島や亀田半島もみえます。
 そんな近い本州と北海道は、青森-函館を結ぶ青函連絡によって、1908(明治41)年から結ばれていました。船が列車をそのまま載せて運ぶ形式の運行でした。
 私が大学生の頃は、青函連絡を利用していました。海路は天候の影響を受けたり、人の移動も飛行機の利用が増えたことから、1988(昭和63)年に廃止されました。JRは運行していませんが、民間のフェリーが車や人を運んでいます。
 JRの列車は、現在、青函トンネルを利用して運行されています。青函トンネルは、竜飛崎からはじまり、白神岬の東を通って知内(しりうち)で終わります。
 青函トンネルのルートを決定するにあたり、2の候補がありました。津軽海峡は狭く、白神岬からは竜飛岬が、亀田半島からも大間崎が間近に見えるます。青函トンネルは当初、最も近い大間-戸井(とい)の間の東ルートが考えられていました。しかしこの東ルートは、水深も深く、地下の地質も安定していないので、西ルートとなる現在のルートが選択されました。
 作りやすい西ルートでも、青函トンネルは難工事の連続でした。
 1961(昭和36)年3月23日に北海道側から掘削がはじまりました。海峡は200m以上の深さがあり、その中でも浅いところを選んでの掘削でした。先進導坑で掘削技術の開発もしながら、本坑の他に作業坑の掘りながらの作業となりました。海底下にあたるところは23.30kmの長さなのですが、青函トンネルは、最深部は海面から240mも下を通っています。高速の列車が通るためには、傾斜を緩くしていかなければならず、トンネル部は、53.85kmと倍以上の長さになっています。本坑が貫通したのは1985(昭和60)年3月10日で、営業開始は1988(昭和63)年3月13日でした。工事だけでも、24年かかっています。
 最近、話題になった北海道新幹線も、在来線が通る青函トンネルを利用します。もともと青函トンネルは、新幹線の規格を考慮して作られており、のちにスーパー特急方式の新幹線の原型となりました。しかし、北海道新幹線の計画は休止されたままで、やっと新幹線が通ることになったのです。
 新幹線の速度が上がると、すれ違う貨物列車に損傷を与えるため、トンネル内は時速140km(現在時速200km以上を検討中)に落とさなくてはならず、時間短縮のためのボトルネックの一つになっています。
 さて、車で函館方面から白神岬に向かうには、国道228号線を進みます。知内町から福島町までは内陸を進みますが、福島町の町を抜けると、海岸を進むコースになります。白神岬に近づくと道路はトンネルが多くなり、険しい海岸線になります。海岸には岩礁も見えてきます。
 トンネルや覆道の連続する海岸沿いの道を進むと、覆道の途切れたところに駐車場があり、白神岬という石碑があります。白神岬とはいっても、駐車場と石碑があるだけの、ささやかのものです。しかしここも松前矢越道立自然公園の一部となっています。私が行った日は天気がよく、少々霞んでいましたが、遠くまでよく見ることができました。
 駐車場の一番奥に海岸に下りる階段があります。そこから海岸に下りると、岩場になっていて、岩石をみることができます。白神岬の駐車場には寄っても、海岸に人ははほとんど来ないようです。そんな人は非常に残念な気がします。白神岬では、ちょっと変わった岩石がみられるからです。
 露頭では、地層のようなものが見られます。ただしこの地層には、何種類かの岩石が複雑に入り乱れています。ぐにゃぐにゃに曲がったり、違った種類の岩石が入り混んでいたりと、複雑なつくりになっています。岩石は入り乱れて混沌としてますが、岩石の境界ははっきりとしています。
 階段付近にはチャートと呼ばれる岩石があります。黒っぽいもの、白っぽいもの、緑がかった灰色のものなど、さまざまな色のチャートがあります。少し離れたところには緑色の玄武岩があります。また、泥岩と砂岩の繰り返しの地層もあちこちみられます。
 これらの岩石は不思議な組み合わせです。玄武岩はマグマが固まったもの、チャートは深海底にたまった生物の死骸が固まってできたもの、泥岩と砂岩の地層は陸から運ばれた土砂がたまったものです。もう少し詳しくいうと、玄武岩は、海底の中央海嶺というところで、海底火山によってできました。海洋プレートが形成されているところです。チャートは、中央海嶺から離れた海底で静かに、玄武岩の上にたまったものです。海洋の真ん中、海洋プレートが移動中に長い時間をかけてたまったものです。泥岩と砂岩の地層は、陸から河川によって運ばれた土砂が海岸付近にたまったものです。さらにそれが、海底地すべりなどで、より深い大陸棚や海溝まで移動したものです。
 白神岬の岩礁は、いろいろな場所やいろいろな成因による岩石が、集まってがっちりと固まっているのです。硬くなっているということは、どこかで出会い、地下の深いところで圧し固められたということになります。
 海でできた岩石と陸付近でできた岩石が出会い、固まるような場所、それは海溝です。海溝は、沈み込み帯と呼ばれるところです。陸近くの大陸棚の下に、海から来た海洋プレートが海溝で沈み込みます。
 海洋プレートの玄武岩は海嶺でできす。海洋プレートが海嶺から海溝まで長い時間移動している間に、生物の死骸が玄武岩の上にたまり、チャートができます。海洋プレートが沈み込むときに、一部が陸側に剥ぎ取られることがあります。剥ぎ取られた海洋プレートの一部は、大陸側の岩石の中にまぎれこんでいきます。このような岩石の混合物からできた地質体を、付加体(ふかたい)と呼んでいます。
 付加体の形成は、地下浅所では岩石が割れることなく変形したり、条件によっては割れてくっついたり、複雑な状態になって固まっていきます。付加体はつぎつぎと形成され、古いものほど深く押し込まれていきます。やがて高い圧力がかかるようになり、硬い岩石となります。白神岬には、このようにしてできた付加体が顔を出しているのです。
 白神岬の岩場には、近くの斜面から転がってきたのでしょうか、火山砕屑岩がありました。似た岩石が付加体の中にはないことから、この岩石は付加体由来ではありません。岩石の種類は安山岩で、付加体とは関係のない新しい時期の火山活動から由来したものです。実は、白神岬周辺には、中新世(約2200万年前~1500万年前)に活動した火山噴出物が点々と分布しています。そんな火山岩の基盤となっている岩石が付加体なのです。
 付加体ができたのは、約2億年前~1億4600万年前(ジュラ紀前期から中期)のことだと考えられています。付加体を特徴づける昔の海溝、あるいは海洋プレートの上に広がっていた海は、今はみることはできません。付加体は、古い時代の海溝や沈み込みの名残りで、火山岩は、現状の沈み込み帯に由来する火山活動です。2つの沈み込み帯、そして沈み込み帯の活動の深部と表層の様子を、白神岬ではみることができます。
 津軽海峡が深いのは、もともと地形的低くなっているのと、侵食のためだと考えられています。断層があるためではありません。大きな断層がないのは、北海道と青森は地質学的には連続していることらかもわかります。ですから、津軽海峡は、今の日本海と太平洋より新しくできた海であることがわかります。そんな新しい海峡の下を、今は、日本人の長い時間をかけた叡智の結晶が、トンネルとしてあり、そこを新しい新幹線が通ろうとしています。白神岬からみえる津軽海峡は、さまざまな時代のさまざまな構造物が、錯綜している場なのです。

・断層・
津軽海峡はもともとの地形的低まりと
侵食によってできたものです。
もし大きな活断層あったら、
青函トンネルも危険にさらされるでしょう。
幸いなことに、大きな活断層は見つかっていません。
ただし、大間崎沖には東西方向に延びる
「活断層」が推定さています。
この「活断層」をめぐっては、
大間原発建築の可否の鍵を握ることになるかもしれないので
大きな議論となっています。

・監視・
かつて北海道の北方にはソビエト連邦があり、
アメリカとの冷戦状態の時がありました。
軍港のウラジオストックから太平洋に出るためには
津軽海峡を通ることになります。
日本は日米安保条約にもとづき、
ソビエトを仮想敵国としていました。
そのため、津軽海峡が戦略的要路となっていました。
白神岬のすぐ上の山には、
今も、海上自衛隊の松前警備所白神支所があります。
津軽海峡側の竜飛警備所と対になり、
津軽海峡を監視、警戒していました。
この場所が選ばれたのは、
旧陸軍の津軽要塞白神砲台跡があったためでしょう。
白神岬と竜飛崎からみれば
津軽海峡が監視できるということです。

2013年4月15日月曜日

100 ひすい峡:自然と人の守り

 ヒスイといえば青梅(おうみ)や姫川が、産地として御存知の方も多いでしょう。糸魚川周辺の土産物屋さんでも、販売しています。今回は姫川の上流、ひすい峡のヒスイの話です。ヒスイの巨大な転石をいくつも見ることができます。その巨石が、そこに存在し続けているのは、自然の妙と人手によっていました。

 「翡翠」と書いて、「カワセミ」と読みます。もうひとつの読みとして「ヒスイ」があります。色の綺麗な鳥のカワセミです。「翡」はオスのカワセミ、「翠」はメスのカワセミを指しているそうです。古代中国では、翡翠といえばカワセミを指していたのですが、時代が下るについて、石のヒスイを意味するようになってきました。ヒスイの色合いが、カワセミに似ていることに由来しているのではないかとされています。
 ヒスイは、世界各地で古くから宝石として利用されていました。神秘的な半透明さと緑がかった色合いからでしょうか、東洋では「玉(ぎょく)」と呼ばれて、珍重されてきました。
 古代日本でも勾玉(まがたま)として、ヒスイは利用されてきました。しかし、勾玉が作られなくなってくると、ヒスイやその産地は忘れさられてしまいました。1938(昭和13)年に、新潟県糸魚川市、姫川(ひめかわ)の支流である小滝川のひすい峡からヒスイが再発見されました。
 発見にまつわる経緯は、フォッサマグナミュージアムの「よくわかるフォッサマグナとひすい」という冊子に、いろいろ紆余曲折があったと紹介されています。現在の結論からすると、糸魚川市生まれの歌人、詩人の相馬御風(ぎょふう)氏の助言によって、小滝村在住の伊藤栄蔵氏が小滝川の上流を調査して発見しました。最初、土倉沢との合流にある滝壺の中からヒスイが発見し、その後ひすい峡の巨大ヒスイが発見されています。
 ひすい峡は、1569(昭和31)年、国の天然記念物に指定されました。日本で最初に発見されたヒスイの産地として記念、保護されました。実際には古代人が見つけていたので再発見になります。しかし、科学的な記述がされていますので、これを発見としていもいいのでしょう。
 ひすい峡は、「学習護岸」となり、今でもヒスイの巨大が転石をみることができます。指定区域以外のヒスイは、採取かのうですが、採り尽くされているようで、ほとんど見つからなくなったようです。ところが、指定されているひすい峡では、巨大なヒスイの転石が多数集まっていて、今でもみることができます。
 昨年秋に、ひすい峡を訪れました。小雨の降るなか、案内板にしたがって巨大ヒスイをみました。先客もおられたのですが、私と入れかわりだったので、一人でじっくり見ることができました。巨大なヒスイの転石は、なかなか壮観でした。
 ひすい峡の北側には大岩壁があり、威圧感のある景色となっています。岩壁は石灰岩でできています。石灰岩は巨大な岩体で、北へ日本海まで続いています。小滝川は、この石灰岩の岩壁に挟まれた狭いところを流路としています。
 岩壁の少し上流にヒスイの巨大転石がいくつかあります。ヒスイの転石は、上流(西側)から流れてきたのものではなく、北にあるサカサ沢から崩れてきたものだそうです。もともとは蛇紋岩の中に取り込まれたブロックとしてあったと考えられています。
 蛇紋岩は、侵食に弱く、すぐに崩れてしまう性質があります。蛇紋岩が、何度も地すべりによって小滝川に崩れてきました。そのたびに、蛇紋岩自体は、水に洗われ流れさったのですが、堅固なヒスイはそのまま残ったようです。蛇紋岩の地すべりが繰り返されたので、巨大なヒスイの転石が集まったのだと考えられています。
 蛇紋岩の地すべりによってヒスイが集められ、下流の石灰岩の岩壁によって狭められた流路によって、大きなヒスイが流れる出ることなく、ひすい峡に留まったのでしょう。いい条件がそろっていたから今の景観があるのでしょう。
 一方、道路からのアプローチとしてある「学習護岸」が、あまりに大きな規模で、周りの景色にそぐわず、不思議だったのですが、そこにも経緯があったようです。
 小滝川の南側にあたる赤禿山周辺も地すべりの激しいところで、斜面が全体が地すべり堆積物でできていました。1990年代に、その地すべり堆積物が動く兆候がありました。天然記念物の産地やヒスイの転石を、地すべりの被害から守るために、大規模な護岸工事をおこなわれました。これおが、「学習護岸」の由来です。今では、いろいろな時代の岩石、いろいろな種類の岩石をならべて、学習できる護岸となっています。道もよくなり、だれでも気軽にここまで来ることができるので、巨大なヒスイを見ることができます。
 さて、ヒスイの地質学的な話もしておきましょう。
 ヒスイは、ヒスイ輝石という鉱物を指しています。見かけが似ているネフライトと呼ばれる鉱物も、古くからヒスイと呼ばれてきました。しかし、古くからその違いは知られていて、ヒスイ輝石を硬玉と呼び、ネフライトを軟玉として区別されてきました。
 ヒスイ輝石もネフライトも小さな結晶の集合体になっているため、割れにくく、衝撃にも強いという特性、「靭性(じんせい)」を持っています。ダイヤモンドは硬度はあるのですが、ある方向からの衝撃には弱いという性質もあります。ヒスイには靭性があることから、玉として珍重されたのでしょう。
 ヒスイ輝石は、ナトリウムやアルミニウムを含む輝石(化学組成:NaAlSi2O6)であるのに対して、ネフライトは、カルシウムと鉄、マグネシウムを含む角閃石(化学組成:Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2)の一種です。ヒスイ輝石とネフライトは、鉱物学的にはかなり違う結晶です。そのため、物性も違っています。ヒスイ輝石が硬く(モース硬度:6.5から7)、重く(比重:3.25から3.35)、ネフライトはやや柔らかく(モース硬度:6から6.5)、やや軽く(比重:2.9から3.1)なっています。もちろん、少しの差ですので、両者はよく似ています。
 ヒスイ輝石は低温高圧の条件でできる鉱物です。そのような条件は、海洋プレートの沈み込みむ、日本列島のような地質環境の深部で形成されます。それが蛇紋岩に取り込まれて上昇してきたと考えられています。蛇紋岩の上昇地帯も、よく日本列島にはよくみられます。日本列島は、ヒスイがあってもいい場所といえます。
 姫川だけでなく西の青梅(おうみ)川や、その周辺から富山県にかけての海岸でも見つかっています。日本では、兵庫県、鳥取県、静岡県、群馬県、岡山県、熊本県などからもヒスイが発見されています。いずれも、かつての沈み込み帯であったと考えられます。
 蛇紋岩に含まれている変成岩類の年代が3億から4億年前だったので、ひすい峡のヒスイも同じ頃にできたとされていました。最近、2つヒスイの中に含まれている小さな鉱物(ジルコン)の年代測定がされました。これは、厳密にヒスイの形成年代を示していることなります。約5億年前(5億1900万年前と5億1200万年前)という年代が求められました。別々のヒスイから似た年代が得られたということは、ヒスイの年代が、他の変成岩の年代より明らかに古くなります。ヒスイの由来は、他の変成岩とは違って、より複雑な履歴があったことになります。
 そうなると、いくつかの疑問が出てきます。変成岩にも、もっといろいろな年代に形成されたものがあるのではないか、ヒスイにも、もしかしたらもっといろいろな年代があるのではないか、時代の違う岩石がどうして地表で混在しているのか・・・・。それは、今後の研究によって明らかになってくるでしょう。
 ひすい峡の巨大なヒスイは、自然の采配ともいうべき地質や地形によって集まり、流れることなく守られています。さらに、巨大なヒスイが土砂に埋もれることなく、人手によって保存されています。これからもずっと守られてほしいものです。
 保護区域以外のところは、ヒスイはかなり採り尽くされていますが、海岸ではまだ見つけることができるようです。海が荒れたあとには、海岸にヒスイが打ち上げられといいます。昔、川から海に運ばれたヒスイを含む礫が、海岸付近に堆積します。ヒスイ以外の岩石は、長い間、波に洗われると、けずられて小さくなって、やがては海流でどこかに運ばれます。ヒスイは硬いので、摩耗をあまりしないため、海岸付近の海底に残っているのでしょう。海底に長年にわたって溜まったヒスイが、嵐があるたびに、打ち上げられるのでしょう。ただし、今では海岸のヒスイは人が拾って帰ります。「人手による侵食」が海岸では進んでいます。こうして、限りあるヒスイが消えてきます。これもヒスイが神秘的できれいだからでしょう。
 土産物屋さんで、姫川の大型の標本と、ヒスイの小粒をいくつか買ってきました。海岸では、いくつかのヒスイらしきものを拾ってきましたが、本当にヒスイでしょうか。手にした小さいなヒスイのかけらから、自然の妙を感じることができます。

・海底ヒスイ・
糸魚川の沿岸では、船で海底のヒスイを採取しているのでしょうか。
それとも何かの工事だったのでしょうか。
海岸のすぐ脇に、小舟があり、
どうも潜水士が潜って作業をしているようでした。
ヒスイ採取では採算が合うとは思えない陣容なので、
なんらかの工事だったのでしょう。
自分も含めて海岸でヒスイを探す人がいるので、
ついそんな想像をしてしまいました。

・春まだ浅く・
大学の春は、入学式と新学期の授業の開始からです。
ところが、暖かくなりかけてきたと思ったら、
氷がはったり、雪の降る寒い日が訪れます。
まるで、3月中旬の天候のようです。
今年の春は遅いのですが、でも着実に訪れています。
早く、春の森を散策したいものです。

2013年3月15日金曜日

99 鳥海山:活の符合

 鳥海山は大きな山です。西は海に流れ込み、北はなだらかな丘陵、南には平野があるので、独立峰として雄大な姿をみせます。雄姿は、活火山であることを忘れてしまいそうです。鳥海山の雄姿には、少し不思議なことがあります。

 昨年秋に、鳥海山(ちょうかいさん)を訪れました。秋田と山形の県境にある火山で、山頂は山形県側になっています。非常に大きな山で、日本海にまで裾野が広がる雄大が成層火山です。きれいな山容なので、出羽富士や秋田富士とよばれることもあります。
 鳥海山は、東西に延びた火山です。南北が14kmですが、東西が26kmほどで、西の裾野は日本海に面した断崖となっています。
 鳥海山には、ドライブするにはもってこいの鳥海ブルーラインが通っています。私のいった日は、遠くは少し霞んでいましたが、晴れの心地よい天気でした。鳥海山の5合目にあたる鉾立(ほこたて)まで鳥海ブルーラインできました。平日の午後も遅めであったせいでしょうか、あまり観光客もいなく、ゆっくりと見学することができました。
 鉾立の展望台の前には、奈曽(なそ)川が流れています。川の両岸は、谷が深く切れ込んで切り立った崖になっています。崖も緑が多いのですが、岩肌のでているところでは、溶岩流が多数見え、火山の山であることとがわかります。ただ、この渓谷の成因はよくわかっていないようです。
 雲がかかり山頂や渓谷が見えない時もあったのですが、天気がよかったので、気長に待つことにしました。雲が奈曽渓谷に流れこんだとき、ちょうど後ろからの太陽に光で、きれいないブロッケン現象を見ることができました。待ったかいがあり、奈曽川の源頭の稜線越しですが、鳥海山で最高峰である新山(しんざん、2236m)を見ることができました。もともと鳥海山に登る時間もなく、近くで山頂が見れればいいと思っていましたが、目的がかないました。
 新山は、鳥海山の最高峰であるとともに、現在の噴火の中心でもある中央火口丘になっています。新山の周囲は、切り立った崖となっています。この崖は、爆裂火口の一部で、北に馬蹄形にえぐれています。崖には多数の溶岩流がみえます。崩壊したあとは、東鳥海馬蹄形カルデラとよばれています。
 爆裂火口は、2500年前の噴火によって形成されたもので、噴火によって山体が大規模に崩壊しました。山体が崩壊したとき大量の堆積物が斜面を流れます。堆積物には大小さまざまな岩塊がまじっていました。大量の岩塊が、なだれのようにくずれていきます。爆裂火口の裾野には、そんな堆積物からできた流山(ながれやま)とよばれる特有の地形ができます。流山は、比較的なだらかで平らな地形なのですが、大きな岩塊がごつごつの小山をつくっています。
 なだれの堆積物は、象潟町や仁賀保町一帯に広く流れくだりました。流山の地形は、その後の火山活動による溶岩流などに覆われていて、だいぶ消されてしまいましたが、冬師(とうし)や象潟(きさかた)にかけて、残されています。この流山をつくっている火山堆積物を、「象潟岩屑なだれ」と呼んでいます。
 爆裂火口の周囲には、東から時計回りに、七高山(しちこうさん、2229m)、行者岳(ぎょうじゃだけ、2159m)、伏拝岳(ふしおがみだけ、2130m)、そして西側に文珠岳(もんじゅだけ、2005m)が、半円を描くように外輪山として並んでいます。
 新山は活火山で、1974(昭和49)年3月1日には、153年ぶりに噴火しました。新山を東西に横切る割れ目の上に、いくつかの火口ができ、マグマ水蒸気爆発が起こりました。数ヶ月の間、噴火が続きました。まだ積雪のあるころの噴火だったので、噴火による熱で雪が溶けて泥流(火山泥流といいます)が何度か起こりました。泥流が起こったのですが、幸いなことに、河川に流れこむことなく、大きな被害はありませんでした。
 新山と外輪山を東鳥海火山と呼んでいます。外輪山の文殊岳のすぐ西には鳥海湖(地形図では鳥海湖ですが、鳥ノ海という文献もあります)とよばれる池があります。鳥海湖は、噴火口に雨水がたまったもので、火口湖と呼ばれています。鳥海湖を中心として、鍋森(なべもり、1652m)や扇子森(せんすもり、1759m)を中央火口丘として、いくつかの火山があります。西に笙ヶ岳(しようがたけ)と東の月山森(がつさんもり)が外輪山となっています。南に開いた爆裂火口を囲むように外輪山があります。これらを、西鳥海火山と呼んでいます。
 西鳥海火山の地形は東鳥海火山と比べると侵食が進んでいます。東鳥海火山が新しく、西鳥海火山が古いものとなります。鳥海山の火山としての歴史の概略を紹介していきましょう。
 鳥海山では、大きく3の活動時期(ステージとよばれています)があると考えられています。古いものから順にみていきます。
 最初は、初期の火山体をつくったとされる鳥海ステージIとよばれる活動です。60万から55万年前の天狗森火山岩や鶯川玄武岩を出した火山活動です。55万から16万年前には古い火山体ができましたが、その実体はよくわかっていません。
 次に、鳥海ステージIIとして、西鳥海火山の活動がはじまります。鳥海ステージIIa/bが16万から9万年前、鳥海ステージIIcが9万から2万年前に活動します。
 2万年前から東鳥海火山の活動(鳥海ステージIII)がはじまります。2500年前(紀元前466年といわれています)の山体崩壊を起こし、象潟岩屑なだれができました。1801年や1974年には、溶岩ドームとして誕生した新山を中心とする活動が起こりました。現在も活火山として監視されています。
 火山の履歴は、過去に時間を広げた話ですが、次は空間を広げた話になります。
 秋田県の海岸付近には、南北方向に30kmほど延びる活断層である北由利(きたゆり)断層群があります。断層群とされているのは、同じ方向に延びる一連の多数の断層があるためです。また、活断層が動くということは、地震がおこるということです。このような浅い場所の断層の活動は、1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路地震)、2004年の新潟県中越地震と同じタイプで、マグネチュードに比べて震度が大きく、被害も大きなものになります。
 鳥海山のすぐ北には、北由利断層の一部だと考えられる仁賀保(にかほ)断層があります。山形県では、北由利断層の南延長にあたる庄内平野東縁断層(長さ38km)があり、いずれも活断層です。庄内平野東縁断層の北側では、1894(明治27年)に起こった庄内地震の原因となっています。鳥海山の地下にも、南北方向の断層がありそうなのですが、実体はまだよくわかりません。
 鳥海山は、全体として成層火山なのですが、新旧2つ火山群は東西に延びた火山活動をおこなってできています。マグマは東西方向の弱線にそって上昇してきていると考えられます。東北地方は、太平洋プレートの沈み込みともなう東西の圧縮の力(応力といいます)が、常にかかっているところです。そのような応力がかかる場では、応力の方向に並行な割れ目(東西方向)ができて、噴火することがあります。その原則にそって鳥海火山が活動していることになります。
 一方、大きな地質構造として、北米プレートとユーラシアプレートの境界が日本海を通っていて、南北の北由利断層や庄内平野東縁断層と並行しています。これらの南北断層は衝上断層で、日本海に対して陸側がせり上がる低角度の逆断層です。鳥海の火山は、新旧とも東西方向の構造に市内されて噴火をし、広域の断層は、南北方向で活動しています。この方向の違いは、少々不思議です。
 北由利断層は活断層なので、詳しく調べられています。北由利断層は過去に1万年前ころ、9600年前ころ、2800年前ころに活動したことがわかっています。時間スケールでみると、東鳥海火山の活動のスケールと符合します。断層の長さも30kmで、鳥海山の東西ののびも30kmほどえす。まったく次元の違った断層と火山のサイズが符合します。また、いずれも「活」のつく活動です。そして一旦活動をはじめると、人の生活に大きな影響を与えるものです。そのような偶然の「符合」が不思議でもあります。

・訂正・
前回のエッセイで、鼠ヶ関の読みを
「ねずみがせき」とふりましたが、
「ねずがせき」の間違いでした。
何人かの方からご指摘をいただきました。
ブログとホームページは修正したのですが、
メールマガジンは修正できませんので
訂正してお詫び申し上げます。
私は誤字脱字が多いので
しょっちゅうこのようなミスを犯します。
今回は固有名詞なので、大きなミスでした。
発行前には何度か見直しているのですが、
見なおすたびに、修正していくので、
そこが新たに誤字脱字をすることもあります。
これからも注意しますが、
もし誤字脱字があれば、ご指摘ください。
本当に申し訳ありませんでした。

・神代杉・
先ほどの象潟岩屑なだれの年代を
「紀元前466年といわれています」としたのですが、
これは、埋もれていた神代杉の年輪を数えたものだそうです。
神代杉とは、噴火の岩砕なだれで埋もれた杉のことです。
銘木と有名で、今のも掘っているそうです。
もちろん埋めているのは
象潟岩屑なだれの堆積物です。

・温泉・
鳥海山は活火山でもあるのに、
少々不思議ですが、温泉があまりありません。
もちろん皆無ではなく、
猿倉温泉や湯の台温泉があるのですが、
数が他の火山に比べて非常に少ないのが特徴です。
大きな山体で熱源もあり、
高く深い山なので水源もあります。
なのに火山がないのはどうしてでしょうね。
もちろんボーリングすれば
あちこちで出てくるかもしれませんが。

2013年2月15日金曜日

98 温海ドレライト:板状節理と見方の変遷

 温海(あつみ)は地質学では、特徴のあるドレライトが産することで、有名です。温海ドレライトと呼ばれ、多くの地質学者が知っているところです。ただし、遠方の地質学者はそれほど訪れていないのが現状ではないでしょうか。そんな温海ドレライトに見方が変遷しています。

 山形県と新潟県の海岸沿いの境界は、鼠ヶ関(ねずがせき)です。鼠ヶ関は、東北と越後の境界ともなります。ここには古くから関所があり、大和民族が蝦夷に進出するときの拠点にもなっていました。鼠ヶ関は、白河関と勿来関とともに奥羽三関とされ、源義経が平泉に逃げる時に通った道だとされています。地元の資料では、歌舞伎の勧進帳の舞台となったともいわれていますが、他の資料では、加賀国の安宅の関(石川県小松市)での物語となっていますが・・・。
 山形と新潟の県境は葡萄山脈の花崗岩があり、険しい海岸沿いになります。山形県の新潟県よりの海岸沿いに、温海という町があります。温海と書いて「あつみ」と読みます。もともと山形県西田川郡温海町だったのですが、2005年の市町村合併によって、鶴岡市に併合されました。
 温海は、地質学では有名なところです。温海ドレライトと呼ばれる岩石が分布しているところだからです。英語のdoleriteの読みをそのまま用いたものです。ドレライトは、玄武岩マグマが、地下の比較的浅いところに貫入して、ゆっくり冷えてできた岩石です。
 温海地域には、ドレライトが、南北25km、東西1から4kmの範囲にわたり、シート状(岩床と呼びます)に、長く露出しています。シートの厚さは、場所によって変化していて、10mから300m以上になるところもあります。
 温海ドレライトが有名になったのでは、「マグマの化学的性質」と「取り込んでいるもの」の特徴、「節理の見事さ」でした。
 「マグマの化学的性質」とは、マグマが「アルカリ岩」と呼ばれるものである点でした。
 火山をつくるマグマには、大きく分けて、アルカリ、ソレアイト、カルクアルカリという3つの系列があります。アルカリ系列とは、アルカリ(ナトリウムとカリウム)を多く含み、カルクアルカリ系列はカルシウム(CaO)を多く含み、ソレアイト系列は鉄を多く含むマグマです。厳密にはいくつかの定義があるのですが、マグマの起源や組成、マグマの固化(固結といいます)過程の違いによって、系列が分けられています。日本列島の多くの火山は、ソレアイトとカルクアルカリのタイプが多いのですが、日本海側には、量は少ないのですが、アルカリ岩が分布しています。
 温海ドレライトは、その珍しいアルカリ岩でした。アルカリ岩のマグマの活動時期は、日本海が拡大した時期(中新世、1500万年前ころ)に活動したものです。その点で地質学的にも、興味深いマグマとなります。
 「取り込んでいるもの」とは、捕獲岩のことです。マグマが上昇してくる時、途中にあった地下の岩石を取り込んでくることがあります。温海ドレライトには、斑レイ岩を捕獲岩として取り込まれています。かつては、斑レイ岩は下部地殻を形成していると考えられていたました。
 1964年に久城育夫さんは、温海ドレライトが捕獲している斑レイ岩石が下部地殻を構成していたものであることを、詳細な岩石の検討で明らかにしたので、有名になっていました。
 「節理の見事さ」の節理とは、マグマが冷え固まった時、体積が少し小さくなります。そのとき角柱(多くは、5から6角)になることが多いのですが、温海ドレライトでは、層状の節理が見事に発達しています。このような節理を板状節理といいます。非常に綺麗な幾何学的な模様で、不思議な節理でもあります。ただ節理を横からの断面をみると、角柱状になっているのですが。
 以上のようなことから、温海ドレライトは、地質学者の間では有名になっていました。
 私も、名称だけはよく知っていましたが、昨年の秋にやっと訪れました。道の駅「あつみ」の海岸やいくつかのところで、岩石の様子をみることができました。少々風化はしていますが、見事な板状節理もあります。
 近年は、少々温海ドレライトに関する見方が変化してきているようです。岩手大学の土谷信高や室蘭工業大学の後藤芳彦さんたちは、新しい見方を示しています。その根拠は、新しい観察や記載に基づいたものです。
 まず、一番重要な観察は、温海ドレライトに下部地殻が捕獲されているのではなく、デイサイト~安山岩(以下デイサイトと呼びます)にのみ捕獲岩が含まれていると報告しています。デイサイトは、アルカリ系列ではなく、カルクアルカリ系列になります。久城さんの報告とは違っています。
 次に、デイサイトには、ドレライトが取り込まれていて不規則な形になっています。すでに固まっているドレライトに貫入していることも、わかってきました。これは、久城さんの考えでは説明できない、不思議なデイサイトの産状となります。
 3番目に、デイサイトにはカンラン石(いまでは変質して残っていない)があり、そのカンラン石には、クロムスピネルとよばれる鉱物が含まれています。さらに、取り込まれたドレライトにも、クロムスピネルが含まれてます。両者のクロムスピネルは、化学的には違うものだとわかりました。クロムスピネルは由来の違うもののようです。
 このような観察や記載から、久城さんのモデルは、変更を余儀なくされました。土谷さんたちのモデルは、少々複雑になりますが、紹介しましょう。
 アルカリ系列のドレライトのマグマは、マントルで形成され、上昇してきます。その途中の中部地殻にマグマだまりができました。マグマだまりから、マグマが上昇し、堆積物のなかにシート状に貫入していきます。一部は海底に噴出します。
 地殻下部にドレライトがあった時、その熱によって、下部地殻の岩石が溶けて、カルクアルカリ系列のデイサイトのマグマが形成されます。ドレライトとデイサイトのマグマが一部混じります。これをマグマ・ミキシングといい、このとき、スピネルをもつカンラン石を含んだ不思議な形のドレライトが取り込まれます。デイサイトのマグマが上昇してきて、周りにあった下部地殻の岩石を捕獲します。これが捕獲岩の起源となります。上昇したデイサイトマグマは、ドレライトのマグマだまりを貫きます。さらにデイサイトマグマは、地表付近のドレライトのシートや堆積物を貫入していきます。
 少々複雑なモデルですが、現状の証拠からこのようなシナリオがつくられました。本来であれば、もっと研究を進めて欲しいのですが、土谷さんたちの研究は、興味は別の方に向かっているようです。
 温海のドレライトは、海岸沿いの岩礁として点々と分布し、みることができます。ドレライトの板状節理が目を引くので、その存在はすぐにわかります。ドレライト自体は、観光化されていません。しかし、私は、あちこちにひっそりと佇む節理に、感動を覚えます。そして、節理の背景にあるものの見方の変遷をみることができました。

・先輩後輩・
土谷さんは大学、大学院の先輩で
後藤さんは後輩にあたります。
当時は、よく一緒に飲んだものです。
しかし、私は地質学のプロパーを離れたので、
なかなか会う機会がなくなりました。
二人とも地質学プロパーの道を歩まれていますが
研究の興味は別のところにあるようです。
ところが、なぜか2002、2003年ころ、
温海ドレライトの研究を協同でされています。
きっかけは知りませんが、
できれば、研究を完成させて欲しいものでした。
今回参考にしたのは、学会講演の抄録で
「Goto and Tsuchiya」で論文の発表準備中だそうでしたが、
探したのですが、論文は発表されていないようです。
少々心残りですが、仕方がありません。
別の優先すべきテーマがあるのでしょうね。

・春近し・
北海道は寒さのピークが過ぎたのでしょうか、
寒さも、ここしばらくゆるんでいます。
朝夕は冷え込みますが、
昼間はかなり温度が上がるようになりました。
天気のいい日には、
道路の雪も溶けるようになって来ました。
まだ少し雪の季節は続きますが、
春が少し近づいていきた気がします。

2013年1月15日火曜日

97 笹川流れ:太古の花崗岩の不明瞭さ

 新潟県の北部で地形は、平野から山地へと変わります。山地が海までせり出しています。その一番の競り合うのが、「笹川流れ」とよばれているところです。山が海にぶつかっているので、海の流れも激しく、陸も険しいとこで、交通の難所ともなっています。そしてそこは、大地の構造線の錯綜するところでもありました。

 新潟県北部、越後平野がいったん途切れ、三面(みおもて)川の河口付近に広がる小さな平野に村上市があります。村上市は村上藩の城下町として栄え、その面影が町には残されています。
 村上から北への庄内平野の鶴岡市や酒田市へ向かう道は、どのルートも険しいものとなります。海岸線は、難所をたどる険しいものですが、JR羽越本線と国道345号線が通るルートです。海岸沿い道の他にもう一つ、山側の道があります。三面川を遡ろうとすると朝日山地が立ちはだかるので、支流で北へ向かう道は、高根川から、更に支流の大須戸川へと北上して遡る道ですが、やがては、勝木で日本海側に出て、海岸沿いを進む道があります。これが国道7号線が通るコースです。しかし、勝木はまだ道半ばで、険しい海岸を辿るルートになります。海路も使えるはずですが、冬の荒れた気候ではなかなか大変な航路となったと想像されます。
 昨年秋、この海岸沿いの道を通りました。国道345号線です。険しいところでは、トンネルが続いてあります。しかし、幸い道はすいていたので、景色を見ながら、のんびりと進むことができました。
 国道345号線が国道7号線に合流するところまで、3分2ほど進んだあたりを「笹川流れ」と呼ばれています。笹川流れは、国の名勝および天然記念物に指定されている(「笹川流」と表記されています)ところでもあります。
 天然記念物に指定されたときの解説文によると「黒雲母花崗岩ヨリ成ル葡萄山脈ノ西翼ヲ成セル」とあります。
 葡萄山脈という地名は、いまではあまり使われていないようですが、国道9号線と日本海の間の険しい山地のことで、その中の北に位置する蒲萄山(795.4m)からとった名前です。蒲萄山と新保岳(852.2m)の間に笹川という川があります。笹川が海の注ぐところに笹川の集落があります。ここから勝木までを笹川流れといいます。
 葡萄山地をつくる花崗岩が、そのまま海に突き出しているところが、笹川流れになります。花崗岩は風化されやすく、風化されると真砂(まさ)とよばれる、白っぽい砂になります。このあたりの海岸は白砂の綺麗な浜となっています。ただし、海岸線が険しいため、狭い海岸が多いのですが。
 海の激しい波によって海岸の花崗岩は侵食され、岩礁や洞窟なども奇岩多数あり、入り組んだ海岸となっています。そこを潮が激しく打ちよせることで、激しい流れのようになり、「笹川流れ」と呼ばれているそうです。
 観光地にもなっています。奇岩名勝をめぐる遊覧船があるので、乗りたかったのですが、朝早くたどり着いたので、2時間近くも待つのはできなので、諦めて、次への目的地へと向かいました。
 では、葡萄山地を構成している花崗岩は、葡萄山地だけでなく、周辺地域に広くみられます。その本体ともいうべき花崗岩類は、朝日山地を中心に広く分布します。
 花崗岩には、古い時代(白亜紀後期~中期)の活動した片麻状に圧砕された花崗岩(マイロナイト、myloniteとよばれています)と、新しい時代(白亜紀後期)の花崗岩があることがわかっています。片麻状の花崗岩は、朝日山地の中央部から北西の村上市山北(さんぽく)地区まで広がり、特徴があるため「日本国片麻岩」と呼ばれています。
 また花崗岩の分布地域には、ジュラ紀に形成された付加体だとされている岩石類もあります。付加体とは、海洋プレートが列島に沈み込む時、上に溜まっていた頁岩、砂岩、チャートが列島にはぎ取られて付加したものです。このような中生代の付加体を含むものが朝日山地にはあります。
 ここまでは、今見えている地質なのですが、事実なのですが。それぞれの岩石や地質やその所属や解釈は、研究者によって一致していません。
 なぜ論争をしているのかというと、「棚倉(たなくら)構造線」という非常に重要な地質境界の北方延長が通っているところだからです。そもそも棚倉構造線は、阿武隈地域で、東北日本(阿武隈帯)と西南日本(足尾帯)を区分する重要な構造線であると考えられ、定められました。棚倉構造線は、阿武隈地域では明瞭なのですが、北への延長が朝日山地付近を通っているはずなのですが、その連続が定かではありません。
 朝日山地付近の花崗岩類を中心とした地帯を「朝日帯」といい、朝日帯の西側の付加体を含む部分を「足尾帯」といいますが、付加体が複雑に分布しているので、その境界をどこにするかが問題になります。
 その考え方により、構造線も、「日本国-三面構造線」と「棚倉構造線」に区分したり、「三面-棚倉構造線」の連続させ一連と考えるものもあります。
 三面構造線あるいは棚倉構造線は、西南日本と東北日本を区分するものといいました。ところが、前回のエッセイで、フォッサマグナも西南日本と東北日本を区分するとを説明しました。フォッサマグナとは、西を糸魚川‐静岡構造線、東を新発田-小出構造線という大規模な断層によって、古い時代の岩石(基盤岩類)が、巨大な溝のような落ち込みができました。その溝に新しい時代の堆積物や火山岩類がたまったものです。フォッサマグナは日本列島の現在の地質構造の大きな区分となっています。
 ところが基盤岩類でみていくと、フォッサマグナの東側にも、西南日本と似た岩石があり、帯状に分布しているのがみられます。フォッサマグナは新しい時代の構造的な境界ではあるのですが、古時代の岩石に対して、大きな地質学的な境界となっていないことになります。
 古い時代の日本列島の地質は、棚倉構造線で切れています。つまり、棚倉構造線が、基盤岩類の境界となっているのです。そのもう一つの日本の境界の北方延長が、笹川流れのあたりを通っているのは確かです。
 葡萄山脈の花崗岩は、新しい時代の花崗岩にあたり、位置的には付加体を中心とする足尾帯の西側にあることになります。本来の地質区分でいえば、西南日本に属することになるかもしれません。しかし、その境界はまだ不明瞭なままであります。
 笹川流れの周辺の花崗岩は、古い時代の地質境界の外に押しやられるかのように、海にせり出しています。そのような太古と花崗岩と海の境界が笹川流れですが、その背景には不明瞭な太古の境界が隠されていたのです。
 幕末の志士で詩人でもあった頼三樹三郎(頼山陽の子)は、笹川流れを
  松島はこの美麗ありて此の奇抜なし
  男鹿もこの奇抜ありて此の美麗なし
と、讃えています。三樹三郎がいうように、笹川流れには、奇抜さ、そして美麗さがあります。そして、太古の不明瞭さも流れの中にあるのかもしれません。

・説の評価・
地質の地帯区分は、大地の区分を意味します。
明瞭な線が大地に刻まれていれば簡単なのですが、
明瞭さに欠けていると、
単に線を引くだけではすみません。
詳細な野外調査に基づいて、線の根拠を探り、
その結果が一本の線になるのです。
そこには、人ぞれぞれの思惑が絡んできます。
いくつもの説がでてきたとき、
議論の強弱ではなく、
論理の確かさ、証拠との整合性が
評価の基準になるはずです。
それでも、なかなか決着を見ないのですが。

・大学の役割・
昨日の連休には、多くの地域で成人式がありました。
来週には、大学のセンター試験があります。
各地の私立中学校の入試ももう終わったでしょうか。
1月末には、大学の期末テストがあります。
2月には大学の一般入試がスタートし
来年春に向けての活動が本格化します。
企業説明会も2月から本格化しますが
これは3年生の次の年の春へ向けの活動です。
以前から問題になっていますが、
就活だけが、異常な速さでスタートします。
世間の動きがそうなのだから仕方がないのでしょうが、
4年制の大学が実質3年のようになってきています。
専門学校では専門だけを教えますが、
大学では教養や語学も教えます。
教養人養成としての役割を果たしているはずなのですが、
今では基礎力養成機関という位置づけが大きくなりつつあります。
大学の必要性や社会的役割を見直す動きもうなづけます。