2021年12月15日水曜日

GeoEssay 204 洞爺湖:紅葉と観光と火山と

 秋の洞爺湖にいきました。穏やかの湖面の背後の山には、過去の噴火の跡がいろいろと残っていました。火山の噴火が、洞爺に観光資源をももたらしていいます。火山との共存が必要なのでしょう。


 10月下旬、今年最後の野外調査として、道南にいきました。その目的地のひとつが洞爺湖でした。洞爺湖は、以前にも何度か訪れたことがありましたが、このエッセイで、まだ紹介したことがないことに気づきました。今回は洞爺湖を紹介してきます。
 洞爺湖は、2008年に日本ジオパーク、2009年には世界ジオパークにも認定されています。もともと洞爺湖は、湖やその中にある中島、外輪山からの景観など観光地として見ごたえがあり、加えて温泉街もあり保養地としても有名になています。
 訪れたのは秋の紅葉真っ盛りの頃でした。緊急事態宣言は解除されていましたが、まだコロナの影響がありました。観光客は戻りはじめていましたが、施設が閉館のところもありました。私が一番訪れたかった施設が三松記念館でしたが、閉館していたので残念でした。
 洞爺湖では、有珠山が活火山として強く印象に残っています。有珠山の最初の記憶は、1977年から1978にかけての噴火です。ちょうどその時期は大学生で、1978年夏に地質学を専攻とすることが決まったばかりでした。学科全体が騒然としていましたが、特に火山専攻の研究室や所属している大学院生などは、総出で有珠山への対応がなされていました。
 後に指導教員になる先生たちが中心となり、噴火への対応をされました。教授は、連日テレビに出て噴火状況を説明されていて、助手(現在の助教の職種)の先生も手伝いが、大学と有珠山を頻繁に往復されていました。助手の先生は、噴火の激しい時に、近くにいたため、自家用車が火山弾でボコボコになって買い替えたとのことです。
 1979年には、火山学の研究室に配属が決定し、助手の先生のもとで卒業論文を作成することになりました。研究テーマは、火山学ではあるのですが、大昔の海底で噴火した火山が対象となりましたが。
 次の2000年の噴火には、神奈川に住んでいたのですが、学会発表で札幌にいくために、家族同伴ででかけました。有珠山の噴火がみたかったので、洞爺湖に向かいました。激しい噴火で噴煙を上げている有珠山を見ました。子どもたちもまだ小さかったので覚えていませんが、私には強く印象に残っています。2003年には家族で噴火のおさまった有珠山に、ロープウェイで登りました。2002年には現在の大学に転職することは、2000年の噴火当時は、知るよしもありませんでした。
 洞爺湖の南側の湖畔は観光地なので設備も整っており、ジオパークにもなっているので、地質の案内も充実しています。ジオパークガイドも出版(全8巻)されているので、それを片手に観光名所とともに地質の見どころも回ることができます。
 有珠山の噴火では何度も溶岩ドームができる噴火がおこっています。有珠山の活動前には、違いう種類のマグマや火山活動が起こっており、非常に激しい噴火も起こっています。噴火の歴史をみておきましょう。
 11万年前(11.2万から11.5万年前)、洞爺湖は、大規模な火砕流を伴った流紋岩質マグマの噴火がおこりました。その時、直径約10km、水深最大179mの洞爺カルデラが形成されました。
 約5万年前、カルデラの中に火山活動が起こり中島が形成されました。中島は安山岩質マグマの活動で、主に3つのドームからなっていますが、水面下や小さな島として、合計11個のドームからできています。
 約2万年前からは、有珠山での火山活動がはじまります。玄武岩質マグマによる成層火山と周辺のドームなどから活動を開始し、その後も繰り返し噴火をしています。7000年前から8000年前には、山頂部が有珠湾側へ崩壊し(山体崩壊といいます)、麓に岩屑なだれが起こりました。その時、含まれていた大きな岩塊で、でこぼこした地形(流山地形といいます)が形成されました。
 いったん活動はおさまったのですが、1663年からは再度、火山活動が起こります。350年間で8回の噴火が起こっています。それが1977-1978年と2000年の噴火へとつながっています。いずれもデイサイト質から流紋岩質のマグマの活動で噴火して、溶岩ドームを形成しています。
 1977-1978年の噴火では、山頂から4回の噴火が起こり、火山灰が広く道内で降りました。この時、札幌に住んでいたのですが、雨まじりの火山灰が降ったのを覚えています。噴火で発生した泥流や火山灰、断層などで、洞爺湖周辺の大きな被害がでました。
 2000年は、噴火予測情報が出され、衆人環視のもと、噴火が起こりました。4日前の前兆現象(火山性地震)が多発したことで、火山噴火の予測がなされました。メディアが注目する中、噴火が起こりました。2000年の噴火予知とそれに基づいた避難が成功した世界でも稀な例となりました。その予知は、1977-1978年の噴火の経験が活かされた結果です。
 住民の事前避難がおこなわれました。家屋や施設には大きな被害がでましたが、直接の噴火による死傷者はでませんでした。火山学の成功した例となりました。
 さて、訪れた10月末の洞爺湖は、快晴でした。湖の周回道路を車で走りました。紅葉の赤や黄色、湖畔のキラメキ、青空の青、外輪山の向こうには白く冠雪した羊蹄山も見えます。絶好の調査日和でした。しかし、洞爺湖温泉の後ろの山麓を巡ると、噴火によって破壊された家屋、断層でずたずたにされた旧国道と交差点にできた池など、噴火の激しさを記録して残したジオパークの見学ポイントも設けられていました。
 洞爺湖は活火山と温泉と観光が密接し、共存しているところです。紅葉とドームの姿も、その地質学背景の現象を考えると、不思議な景観にみえてきます。

・師走の冷え込みと雪・
師走となりました。
放射冷却で冷え込みもあり
一面が真っ白の霜が下りること度々ありました。
先日も大荒れという予報でしたが、
わが町では少しの積雪で済みました。
何度もの積雪もあり、冬に入りました。
そろそろ根雪も近いのかもしれません。

・4年生・
4年生は12月の上旬になんとか卒業研究の提出も終わり、
あとは報告会の準備へと移りました。
今年卒業の4年生のために、学位記授与式が準備されています。
今年度こそは、無事開催されることを願っています。
一昨年は個別にばらばらに学位記を取りに来るだけでしたが、
昨年度は、学科ごとに集まって学位記を渡すことができました。
いずれも全学的な集まりはありませんでした。
今年は、例年のようにホールに集まり式典がおこなわれる予定です。
しかし、祝賀会などの飲食は中止です。
学科の式のあと、少し話すだけの時間はとれそうですが、
少々さみしい学位記授与式となりそうです。
でも、一昨年の比べるとよくなっています。
卒業する学生と保護者の方々にとって
学位記授与式は一期一会の機会です。
例年のように華やかに送り出せないので残念です。

2021年11月15日月曜日

203 屈斜路カルデラのほとりで

 10月に屈斜路湖の周辺を巡りました。屈斜路湖、アトサヌプリ、摩周湖、いずれも人気の観光地ですが、訪れる人も少なめで、昔の火山と現在の活火山とを感じることができました。


 10月中旬、北海道はまだCOVID-19の感染の影響が残っていましたが、緊急事態は解除されていました。大学の校務による釧路への出張があったので、それと続けて野外調査にいきました。なかなか調査に出れなくて困っていたのですが、大学の危機管理レベルは高いままでした、調査に出ることができました。
 今回は、そんな調査地のひとつとして、屈斜路(くっしゃろ)湖にいきました。幸い天気がよく、晴れわたった空のもと、少し紅葉のはじまった湖畔を見て回りました。今回紹介するのは、屈斜路湖周辺の火山地帯です。何度か訪れているのですが、このエッセイで紹介するのは今回がはじめてです。
 屈斜路湖の南湖畔に和琴半島があります。そこを一周しました。付け根に露天風呂がありました。訪れたときは入っている人はいませんでした、キャンプで釣りをしている人にきくとなかなかいい温泉ですよとのことです。手をいれるとかなり熱いお湯なので、気持ちよさそうですが、朝なのと半島を巡るので遠慮しました。半島の先端には噴気の出ているところがあります。そこを見るのが目的でした。そこではカヌーでひとり来られた人が噴気のところにいました。散策路からは眺めるだけでしたが、激しい噴気と周囲には昔の噴気の名残ありました。1時間もかからず一周できたのですが、コロナでじっとしていたので、いい運動となりました。
 和琴半島の温泉や噴気をみると、火山の影響があることはわかります。屈斜路湖の地形をみると、カルデラのようにみえますが、半分しかなく、太めの三日月のような形で、湖の東半分には山があります。そして、さらに東には摩周湖がありますが、こちら小さなカルデラ湖になっています。
 このあたりは、どうも何度もカルデラをつくるような火山活動があったことをうかがわせます。この周辺の火山活動の歴史はかなり解明されています。
 160万年から100万年前に、最初の火山活動が起こりました。その活動で形成された名残が、屈斜路湖の北にある藻琴山です。その後、一旦、火山活動を休止していたようですが、再度、約40万年前から活動を再開します。大規模な火砕流を出すような噴火を10回ほど繰り返えしました。
 そして12万年前、もっとも激しい噴火を起こしました。安山岩から玄武岩マグマの活動で、大量の火山灰を放出し、札幌より西の道内全域で広く火山灰が降りました。このとき丸い形の屈斜路カルデラが形成されました。これは屈斜路湖より大きく、東西26km、南北20kmになるものでした。この大きさは、阿蘇カルデラを凌くもので、日本最大級となります。カルデラを取り囲む山は、険し傾斜をもった外輪山となっています。4万年前ころにも激しい噴火を起こし、火山灰を放出しました。
 その後も、小規模になりますが、屈斜路カルデラの中で、中島、アトサヌプリ、摩周火山がおこり、多数の丸い山(溶岩円頂丘)を形成する火山活動が起こっていきました。その結果、屈斜路カルデラの東半分がマグマや火山噴出物で埋められてしまったのです。現在の屈斜路湖は、屈斜路カルデラの名残なのです。
 4万年前からの活動では、主にデイサイトマグマが、多数の溶岩円頂丘を形成しました。古い時期のものとして、丸山、274m山、ヌプリオンド、オヤコツ山、トサモシベ、オプタテシュケがあり、新しいものには、リシリ、サワンチサップ、マクワンチサップ、そしてアトサヌプリがあります。
 和琴半島は、オヤコツ山溶岩円頂丘として古い時代(3万年前ころ)に活動したもので、屈斜路湖の中に小さな島となりました。やがて外輪山裾にある岸と砂州で繋がって半島状になりました。
 最も新しい時期に活動したのが、現在も噴気を出しているアトサヌプリ山(硫黄山)です。最近の2700年間で、7回の爆発的噴火がおこっており、1500年前から1000年前くらいが、活発に活動して、アトサヌプリ溶岩ドームが完成しました。最新の噴火は、400年から300年前とされています。
 アトサヌプリは、激しい噴気を出していますが、近くまで寄れって見学できる火山です。激しい噴気の音がします。噴気孔には、イオウのきれいな結晶が形成されます。アトサヌプリの日本名として硫黄山と呼ばれているのは、このイオウがとれるからです。かつて硫黄鉱山として採掘されていました。明治時代から、何度が採掘者が代わっていきますが、1970年まで操業が続けられました。
 アトサヌプリを見学して、摩周湖へと進みました。摩周湖は、霧がかかることで有名ですが、何度が訪れていますが、毎回天気がいいように記憶しています。今回もきれいに晴れた空の下で、神秘的な青い水(摩周ブルーと呼ばれています)をたたえた摩周湖を見ることができました。
 屈斜路湖、アトサヌプリ、摩周、いずれも有名な観光地なのですが、まだコロナ禍の影響で訪れている人は少な目でした。少な目と感じたのは、観光バスで移動する団体客が、チラホラとしか戻ってきていないためでしょうか。しかし、名所には個人での観光客はそれになりにいました。コロナ禍も下火になってきたことを感じました。

・里の雪はまだ・
11月になっても、里に雪が降るほどの
寒波はまだ来ていません。
荒天は何度かあったのですが、いずれも雨でした。
もうそろそろ里にも雪が降っていいころです。
我が家の車は、遠出をするとき
高い峠を越えることになるため、
早めにスタットレスタイヤにしていました。
10月下旬に訪れた北見峠では雪となりました。
ご近所もほとんどスタットレスにしたようです。
これから春まで、車は冬仕様のままです。

・臨場感・
いよいよ大学は入試の第2陣がスタートします。
来週末には入試がありあります。
また卒業研究のツメに時期になってきました。
12月はじめには卒業研究の提出があります。
教員も4年生もバタバタします。
実際に大学で、受験生や学生がバタバタするのも
1年ぶりなので、なんとなく懐かしい気がします。
昨年は遠隔だったのですが、忙しくはあるのですが、
バタバタがネットを介してなので
少々臨場感がなかったです。

2021年10月15日金曜日

202 硫黄山と知床五湖

 9月に世界自然遺産の知床にでかけました。2019年は、6月と10月に訪れたのですが、いくつか見れなかったところがありました。そこを見たいと思い、再度、訪れました。


 知床は、世界自然遺産の地として、自然の回復や、野生動物、特にクマやエゾシカとの共存などに力が入れられています。クマやシカをできるだけ駆除することなく、市民生活も観光も進めていこうとしています。例えば、観光客のキタキツネへの餌やり、クマの撮影ために近づきすぎるアマチュアカメラマンなど、いまだに人側の無理解のための事故も起こっています。そのような人間側への注意喚起も繰り返しおこなわれています。
 最初に訪れたのは、初夏でした。その時期は、クマが活発に動き回る時期で、遭遇の機会が多く、コースで痕跡があったら、すぐに閉鎖されます。また、知床五湖などの決められたコースであっても、その時期はガイドと共に歩くことになり、自由に観察しながら歩くことができません。
 秋であれば、レクチャーさえ受ければ、個人で自由に歩くことができます。知床、北海道の北にあるので、冬の訪れも早く、初雪や寒さもあります。10月にいったときは、山には冠雪がありました。風もあったので非常に寒い思いをしました。ですから、今回は、2度の訪問で見ることのできなかった知床五湖やフレペの滝、知床峠からの眺め、羅臼の間欠泉を見ることにしました。幸いにもいずれも見学できました。
 知床半島の西側にあるウトロ周辺の知床五湖を紹介しましょう。知床五湖は、名の通り5つの湖があり、観光の中心地で多くの観光客が訪れます。湖畔から眺める景観は、林に囲まれた湖面がきれいです。一番大きな一湖からみると、湖面の一方が林で、もう一方が笹原になっています。湖面越しに、知床の脊梁山脈が見えます。山脈と反対側には海が見えます。壮大な景観となりす。
 中央に脊梁山脈が走る知床半島の西側に、なぜかここだけ広く平らな土地が広がっています。そこの知床五湖は位置してます。
 この平坦地は、背後にある知床硫黄山の火山活動によってできたものです。知床硫黄山は、年代測定によって約24万年前から火山活動がはじまったことがわかっています。安山岩マグマが繰り返し活動して、溶岩や火山砕屑物を放出して、成層した火山として成長してきました。
 成層火山でしたが、西側にむかって山全体が崩れるような噴火を起こしました。このようは噴火を山体崩壊と呼び、流れ下った岩石を岩屑雪崩(がんさいなだれ)と呼びます。岩砕雪崩が流れ下ったところには、なだらかな地形になりますが、雪崩に含まれていた大量の大きな岩塊が混じった、ごつごつとした地形ができます。このような特徴的な地形を、流山(ながれやま)といいます。
 硫黄山の山体崩壊による流山地形によってできた平坦地に、できたものです。この岩砕雪崩の堆積物の直下にあった堆積物の年代測定が行われました。年代は3700年前(3740±40年前)でした。ナマコ山溶岩ドームからの火山灰の年代値(3700±60年前)とも一致していました。
 山体崩壊を起こした噴火は、硫黄山の山頂に2つある火口のうち、南側のものです。その後、2つの火口の間に、2つの溶岩ドーム(ナマコと南峰)ができまし。4000年前の山体崩壊で、この平坦地ができ、そこに水がたまって知床五湖ができました。
 大正から昭和の戦後にかけて、この地は開拓がなされました。最初、1914~1915年に、岩尾別に7家族が入植ました。その後、3度の入植があり、最大で60戸ほどの集落ができました。この地は、流山で畑作には向かないので、酪農がおこなわれました。しかし、自然環境も厳しく、農業には向いていないこともあり、1973年には最後の離農者がこの地を離れました。1970年代には、日本では土地への投機や買い占めが起こ、乱開発の危機となりました。
の影響が、ました。
 一方、1964年には国立公園に指定され、残された自然の豊かさも評価もされてきました。2005年に世界遺産に登録されました。国立公園指定地域外で進む、買い占めや乱開発から自然を守るために、1977年から「しれとこ100平方メートル運動」が起こりました。これは、市民からの寄付金で開拓跡地を買取り、自然の状態に戻していこうという運動でした。
 買取り予定の土地がすべて入手され、運動の目標は達成されました。運動が一段落して、1997年からは「100平方メートル運動の森・トラスト」という新たな組織になり、現在も活動が続いてきます。トラストは、開拓された土地を、自然の状態に戻すために、苗木の植え付けやエゾシカの食害防止策などをおこなっています。
 知床五湖の歴史を見てきましたが、知床は今も変貌しています。しかし、4000年前に火山噴火により大きな変貌を遂げ、現在の地形になりました。噴火直後は、植物もない、殺伐たる荒野だったはずです。その後、流山に見合った植生や野生動物が回復してきました。その豊かな自然を利用するために、人が入植して、50年ほどかかって開墾して農地にしました。しかし、知床の過酷な自然に負けて、開墾に失敗しました。そして人は、この地をもとの自然に戻そうと、20年かかって現状にまでしてきました。
 自然も、クマもエゾジカも、何も語りません。自然のままに生きています。しかし、ある時はクマは守るべき象徴となり、ある時は害獣になります。エゾジカもキタキツネも観光客にとっては自然の象徴に見えますが、この地に暮らす人にとっては、食害や病気をもたらす存在になります。
 知床は、24万年前から火山に翻弄され、加えてここ100年ほどは人に翻弄されているようです。どの姿が知床本来のものなのかはわかりませんが、美しい景観の背景に、そのような自然と人の歴史がありました。

・イオウ噴出・
硫黄山では、北西の中腹の火口(第1号火口)から、
イオウの溶岩が流出する噴火が、何度か起こりました。
イオウが、今でも岩陰から見つかることがあるようです。
大きな標本は大学の標本で見ました。
木の枝に黄色いイオウが固まった絡まっていました。
溶岩として飛び出した明らかの証拠でした。

・秋深し・
北海道は寒さが増してきました。
秋の紅葉も今年は不揃いで
あまりきれいにはなっていません。
北海道は家全体を温めるような
灯油ストーブを焚きます。
焚きはじめは、ホコリなどが燃えるために
変な匂いがするため、天気のいい日に
事前に一度炊いておきます。
先日、自宅で暖房のためにストーブを焚きました。
いよいよ秋も深まってきました。

2021年7月15日木曜日

199 新発見の地:新鮮な驚きと違いの理由

 海外で調査をする時、もっとも典型的、目的にもっとも合った場所を選定します。日本の露頭と比べると、どうしても見劣りしてしまいます。そこには、違いが生じる、地質学的理由のあるのかもしれません。

 今回紹介するのは、まだ調査にでれていませんので、以前いったとこの話題です。カナダのニューファンドランドです。2度、訪れました。一度目は、恩師と二人で、カナダの各地でオフィオライト(ophiolite)を見てまわった時、ニューファンドランドにもいきました。二度目は、一人で、時代境界の地層や、カレドニア造山帯を見るためにニューファンドランドにでかけました。

 ニューファンドランドは、カナダの北東の大西洋にある大きな島です。英語では、Newfoundlandと表記します。Newfoundlandを日本語に訳すると「新しく発見された土地」という意味です。この地は、古くは「Terra Nova」(ラテン語で新しい土地)と呼ばれていたため、それを英語にしたものです。

 西暦1000年ころには、ノース人(ヴァイキング)が、すでに移住していたようです。その前にも、ベオスック族(Beothuk)と呼ばれる先住民がいました。北米大陸には、文字をもった先住民がいなく、狩猟や漁労の生活をしているため、遺跡も少なく、古い時代の解明が遅れているようです。

 中世の大航海時代にカボット(John Cabot)が、ヴァイキングの航路をたどりながら、1497年にカナダ東南岸のニューファンドランド島やラブラドル半島にたどり着いています。その少し前には、コロンブスが、1492年に中米のサン・サルバドル島に上陸しています。このようにヨーロッパの人たちによる北米大陸の再発見によって、北米大陸各地への入植をはじめました。ニューファンドランドにも入植者が入り込んだため、先住民は、漁労のための土地を奪われたり、争い、疫病などにより、激減しました。先住民のベオスック族の最後に一人は、1829年まで生きていた記録があるそうです。

 さて、ニューファンドランドですが、島といいましたが、本州の半分ほど、北海道の1.3倍ほどの面積を持っている広い島です。あれこれと目的をもって見ようとすると、移動距離が長くなるので注意が必要です。できるだけ一筆書きで進めるように目的を絞り、限られた時間で回る必要があります。

 恩師との見学では、ベッツ・コブ(Betts Cove)でオフィオライトを見学しました。幸いその時、調査している研究者がいたので、お願いして代表的なところを見せてもらうことにしました。そこはボートがないといけないところで、人も住んでいないので、その研究者は数人のグループでキャンプをして、長期間の調査をしてました。

 私たちが訪れたときは、残念ながら雨が降っていたのですが、ボートで海岸沿いの露頭と、陸地でも池の周辺で典型的なオフィオライトを案内してもらいました。海岸沿いはなんとか見学できる雨模様でしたが、陸地を見るときには、雨の降りも激しくなました。彼らのテントで小ぶりになるまで休ましてもらってから、回ることにしました。しかし、濡れた草むらを歩いて進むので、雨具をつけていたのですが、ぐっしょりと濡れてしまいました。夏だったので寒くはなかったのですが、全身が濡れたので意気消沈しました。

 オフィオライトは、このエッセイでは何度かでてきましたが、もとは中央海嶺で形成された海洋地殻が起源です。海洋地殻が海洋プレートとして海洋底を移動している時に、上に堆積した深海底堆積物も一緒にオフィオライトになります。海洋プレートは、通常は沈み込み帯でマントルに沈み込んでしまいます。しかし、特別な状態が出現すると、海洋地殻が陸側に取り込まれて、オフィオライトになります。

 日本列島のような沈み込み帯では、海洋プレートの一部が、陸側に剥ぎ取られるときに、断層により取り込まれる場合です。このようなオフィオライトは、断層によってバラバラになっており、変形も激しく、もとの火成岩の形成状況(産状と呼ばれます)や、もともとの岩石の並び(層序)が判別できなくなっています。このようにバラバラになったものは、ディスメンバード・オフィオライト(dismembered ophiolite)といいます。日高山脈や中国地方で調べていたオフィオライトは、すべてディスメンバード・オフィオライトでした。

 海洋地殻が陸側に大規模に乗り上げる場合があり、沈み込み帯に対して、オブダクト(obduct)することになります。このような地質体は、ナップ(nappe)呼ばる巨大な地質体ができます。ナップでは、比較的もとの層序が残されることになります。

 ニューファンドランドでは、恩師とともに、もともとの岩石の並び(層序と呼ばれます)でオフィオライトの下位にあるマントルの岩石や深成岩類は、テーブルマンウンテンなどで見ていました。ベッツ・コブでは、層序のより上位にあたる岩脈群、枕状溶岩、深海底堆積物の露頭を見学することにしました。

 深海底堆積物は、深海底で堆積した粘土岩や層状チャートになります。枕状溶岩は、玄武岩質マグマが海洋底に噴出したとき、丸い枕のような形状ができます。火山噴火が継続すると、次々と枕状の溶岩が積み重なっていきます。岩脈群とは、海底火山の溶岩を供給するためのマグマの通り道になったところが、噴出が終わると、マグマが岩脈になります。海洋底では継続的に噴出するので、岩脈群ができることになります。岩脈が並行しているため、海洋底が拡大している証拠にもなっています。

 ベッツ・コブの海岸でみたのは、いずれもまったく変形していない形成されたとき(初成といいます)のままの産状でした。日本では、変形が激しく、枕状溶岩の産状がみられるところは貴重なのですが、ベッツ・コブでは、露頭全体がほとん変形もなく、新鮮(風化していないという意味)な状態に見えました。もちろん、古い時代のものですから、変成作用は受けていて、もとの火成岩の造岩鉱物は変成鉱物に置き換えられています。そのことから、古い時代の海洋地殻でオフィオライトであることはわかります。

 深海底堆積物は赤色が特徴的なので、日本列島でもその色で識別しやすくなっています。その産状や層序は、大抵、乱れています。しかし、ベッツ・コブでは、その鮮やかの色合いと産状のなまなましさに驚きました。また、岩脈群や枕状溶岩の色こそ変質作用や変成作用で、玄武岩の色ではありませんでしたが、産状は初成のものが残されていました。

 日本でオフィオライトを研究していたのですが、産状や層序を復元するとに苦労していました。ここでは、産状も層序もきれいに残されいます。そんなことで悩む必要がないところを、非常にうらやましく思いました。その後、海外の産状のきれいなところを調べたいとも思い、各地を見て回ることになりました。

 しかし、最近では、地域や地質なによってそのような大局的な違いが生じているのは、なんらかの理由があるはずだと思うようになりました。なぜ、日本では、産状が乱されるのかを考えることで、その上昇メカニズムに違いあることがわかってきました。産状があまりに異なっていことが、地質学の本質的な違いに由来していることもわかってきました。より大きな違いの本質が、そこにはあったのです。


・野外調査へ・

北海道のまん延防止等重点措置が

今週から解除されました。

わが町、わが大学は、経過区域であったため、

先週から、対面授業が一部ですが復活しました。

研究活動として、道内であれば、

出張もできるようになりました。

5月下旬に予定していた調査を再度申請しました。

今年度から調査の2週間前に、

大学に届けるようにとの指示があるので、

明日(7月16日)からでかけます。

次回以降、新しい調査の様子を紹介できればと考えています。


・職域接種・

大学の危機管理レベルが下がったので

対面講義が一部復活しました。

私の場合、3つの講義が対面で実施できるようになりました。

これで、前期のスタートの状態に戻ったわけです。

前期は、この状態のままで終わります。

すべての講義が対面でできるようになるためには、

多くの人がワクチン接種を受けることでしょう。

職域接種を我が大学でも申請をしていたのですが、

本来ならば後期から対面授業が復活できたはずでした。

ところが、未だに国から連絡がないので、

いつ職域接種ができるのかも不明のままです。

2021年6月15日火曜日

198 長崎とハウステンボスと学芸員と

 長崎を紹介するかようですが、学芸員とハウステンボスもタイトルに加えています。関連のない3つのお題から、どう展開していくのでしょうか。今回は地域地質からは離れます。


 長崎には、3度ほど訪れたことがありました。最初は、高校時代の修学旅行ですから、かなり昔のことです。九州を広くバスで巡り、長崎市内では平和公園とグラバー邸が記憶に残っている程度です。2度目は2006年1月で、家族で九州旅行で訪れた時、長崎空港からレンタカーでスタートしました。天草に向かってから、熊本から阿蘇へいって宮崎に抜けて鹿児島に南下しました。そのため、空港から北へは全くいっていませんでした。

 3度目は、2018年6月に学芸員課程をもった私立大学の関係者の集まり(全国大学博物館学講座協議会)に出席した時でした。この協議会は長崎国際大学にて開催されました。大学代表して参加することになりました。学芸員の資格をとれる大学の担当者(教員と職員)が集まって、情報交換する会です。各地の大学が持ち回りで催しています。

 学芸員資格とは、博物館の専門的職員のための文部科学省の認定する国家資格のことです。資格をとるためには、(1)大学の学位と資格に必要な科目を取得、(2)単位を取得し3年以上の学芸員補を経験、(3)上と同等以上の学力や経験が認められるもの(学芸員資格認定)、という3つの方法があります。最後の学芸員資格認定には、試験認定と審査認定があります。協議会は、(1)や(2)の課程を持っている大学の集まりです。

 以前、博物館に勤務し、博士の学位をもっており、学芸員補と同等の経験(博物館で実務経験)が2年以上あったので、(3)の学芸員資格認定の審査認定(無試験認定とも呼ばれます)で申請すれば、学芸員の資格をとることができました。しかし、煩雑な申請書類の作成と新設の博物館の開設の準備でバタバタしている時期が重なったのと、資格を持っていても実働や待遇に差がありませんので、申請を見送りました。私がいた県立博物館では、学芸員資格をもっていれば主任学芸員という肩書になり、持っていなかったので主任研究員という肩書になりました。

 私の大学には考古学を専門とする先生が何人かおられ、古くから学芸員の資格がとれる課程がありました。博物館法(1955年施行)が2009年に一部改正され、学芸員に関する資格の科目や単位が変更されましたが、新しい課程でも資格が取得できるようになっていました。私も科目を担当しており、現在も継続中です。毎年、10数名程度の学生が受講し資格を取得しています。長年資格課程を持っているので、博物館に就職している学生も、それなりの人数になっています。

 2013年、我が大学で全国大学博物館学講座協議会が開催された時、見学会の小樽コースの案内者を申し付けられたことがありました。

 今回の長崎国際大学での協議会には、大学からは私だけが参加することになりました。長崎国際大学は、佐世保市に位置しているのですが、はじめて訪れるところでした。大学の近くに3泊したのですが、大規模なホテル、高級なホテルなどがあります。それらはすべて、ハウステンボスを訪れる観光客のためのものでした。大学にも近いので、そこの一つに宿泊することにしました。なかなか立派なホテルで、さすが日本での有数の観光地でした。

 学会は、研究報告と総会があり、夜には懇親会が行われました。懇親会で名産品がいろいろ提供されました。印象に残ったのは、ハーゲンダッツのイチゴに地域のものが使われているとのことで、大量に供されていました。

 地質学や自然科学の分野を専門としているのですが、学会参加者の多くは、人文系を中心とする研究者や職員でした。懇親会でいろいろと話しをしていたのですが、なかなか話が合わないので、なかなか深い話で盛り上がることはできませんでした。でも、懇親会は楽しいので満喫できました。

 長崎国際大学はいくつかの特徴をもっており、近所にあるハウステンボスと提携しており、もうひとつのキャンパスと位置づけて、授業などにも活用しているようです。学生は、学生証を見せ記帳すれば、ハウステンボスに無料で入場することができるとのことです。羨ましいですね。ところが、学会を手伝っていた学生に聞くと、入学当初はうれしくて何度も入場するそうですが、やがて飽きてしまい、ほとんどいかなくなるとのことです。高い入場料を払っている一般人からみると、もったいないように思えます。

 学会の主催校が、いろいろな見学会が企画してくれます。そのひとつに懇親会のあとに、夜のハウステンボスの見学があったので、それに申し込んでいました。懇親会のときのアナウンスでは、ハウステンボスでは提携している大学で行われる学会の行事なので、それを祝して見学する夜、花火大会も催してくれるとのことでした。観光シーズンからはずれた時期、それも平日の夜にかかわらず、ハウステンボスで花火が開催されることになりました。

 その時期は、イルミネーションも行われていたので、幻想的で華やかな夜のハウステンボスを見ることができました。もちろん、花火もです。はじめてのハウステンボスの体験でした。

 翌日の見学会は、2つのコースがあり、ひとつは「日本の近代化を支えた産業遺産」になっている軍艦島と、もうひとつは平戸周辺の見学でした。軍艦島に行きたかったのですが、荒れると上陸できないこともよくあると聞いていました。上陸できないと残念なので、確実な平戸を選びました。

 佐世保駅集合で、バスで巡りました。平戸は、この学会の開かれた翌月の2018年7月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産へ登録されたところです。その直前のタイムリーな時期に観察会で訪れることになりました。平戸では、平戸オランダ商館や松浦史料博物館を訪れ、生月島(いきつきしま)にも渡りました。いろいろとキリシタン関係の資料や教会などを見学しました。

 もっとも印象に残ったのは、小さな白石漁港にある「あやか水産」の漁師の食堂「母々の手(かかのて)」で昼食をとったことです。見学会の昼食をそこで摂ることになりました。各自で食事をするのですが、バイキングコースを勧められました。漁師のお母さんたちが、手料理で作っている食材を振る舞うもので、その日獲れた魚の刺身が食べ放題で、食べても食べても次々と新しい皿が出されていました。すべて美味しく、満喫できました。

 私はひなびたところが好きなので、平戸の風情を堪能できました。また、案内の先生が豪快な女性で、説明も面白かったです。そして地元の名産の味が堪能できました。


・緊急事態宣言・

前回は、急な配信中止でご迷惑をかけました。

ゴールデンウィークに出かけ

その直後に緊急事態宣言が発令されました。

エッセイの内容がその時のものだったので、

緊急事態宣言の直後に出かけたという内容のエッセイは

ふさわしくないのではと思い

配信を、急遽、取りやめました。

ブログとホームページでのみ

エッセイを掲載することにしました。

北海道の田舎で、ルールも守って感染予防もし

人の多い所へは避けて、野外を見て歩きました。

毎日、スーパーで地元の美味しいものを

買い物をし、午後の早目にもどって、

購入した名産品を食べていました。

家内は毎日のように大好きな刺し身三昧でした。

北海道は、まだ緊急事態宣言が継続中です。


・継続する施設・

この協議会の見学会で、博物館に関連した施設や場所をめぐります。

今回の緊急事態宣言で、多くの博物館相当施設が

閉館となっているのではないでしょうか。

民営の博物館では、開館して通常営業できないと

経営的に非常に大変だと思います。

博物館には、公営のものも多いかと思います。

公営では営利目的ではないとしても、

入館料収入と入場者実績がないとなると

今後の継続も大変になるであろうと想像されます。

それに入館者がいなくても、維持管理経費、人権費、

将来に備えての準備作業などは継続しているはずです。

コロナ禍が早く収まるのを願うしかありません。

2021年5月15日土曜日

197 くぐり岩からシラフラへ

 道南の海岸には、穏やかな春の時間が流れていました。岩をくり抜いた窓からは、冬の名残の山並みと、春の海岸が見えました。春の海岸を散歩して、気分転換をはかりました。


 今年のゴールデンウィークは、わが町では自粛要請は出ていなかったので、夫婦で旅行を考えました。ただし、コロナ予防とコロナ疲れを癒やすことを考えて、場所は道南の檜山地域にいくことにしました。檜山は、野外調査で度々訪れていたので、馴染み深いところです。観光客のあまり訪れないところで、のんびりと過ごすことにしました。

 檜山は以前訪れたときは、ゴールデンウィークでも人がほとんど来ていない地域でした。そこに、自炊しながら宿泊できるところに、1週間ほど滞在しました。滞在中は、午前中、どこか自然の中を散歩がてら歩いて、昼食は手作りのサンドイッチを食べて、午後からは日替わりで温泉にひたって、その日の食べ物を地元のスーパーマーケットで買って帰る、という穏やかな日々を繰り返していました。

 今回、紹介するのは、散歩にも最適な、心地よい滝瀬海岸です。ここは、以前も「161 滝瀬海岸:シラフラの崖に」(2018年5月発行)として紹介していたところです。

 今回は散歩で、くぐり岩から海岸に入りました。くぐり岩とは、海に突き出た2、3mほどの幅しかない薄い板状の尾根があり、海岸を仕切っていました。そこに人が通れる穴を、江戸時代には、人が行き来きでるようにくり抜いたものです。

 この尾根をつくっている地層は、白と濃い茶色の岩石からできています。岩石とはいっても、柔らかいので、崩れやすくなっています。成層構造が見えるのですが、その構造は一部で乱れています。

 この地層は、檜山層群最上部の館層(たてそう)というものです。厚沢部(あっさぶ)町の館(たて)周辺で広く分布しているので、館層という名称になっています。

 今年のゴールデウィークは寒く、山では積雪がありました。くぐり岩から、北を眺めると、遠くの山並みが白く見えました。くくり岩が窓や額縁のようになり、遥かなる山並みがきれいに見えました。うららかな春の海岸から冬の名残を眺めることができました。

 くぐり岩から南をみると、江差方面のなだらかな山並みが見えます。海岸を南に方に向かって歩いてくと、急斜面の崖のあり、その前に砂浜が続いています。しばらく歩くと、小さな船着き場があります。その先に進むと、シラフラがはじまります。シラフラは、白い切り立った崖になっています。それまでの崖とは様相が異なっています。まず、その白さが目立ちます。また、崖もほぼ垂直の崖になっています。

 崖の面は、白っぽい崖は、波によって侵食を受けた海食崖(かいしょくがい)です。白っぽい崖は、淡い茶色っぽい細粒の粘土と、白っぽい砂岩からできます。白っぽい砂岩は、長石や石英が多くなっています。

 小さな化石も入っているので、年代が決められています。500~140万年前(新第三紀鮮新世から第四紀にかけて)となっています。また、化石の種類からは海底に堆積した、海成層だとわかります。この地層も、館層です。

 シラフラの海岸を、朝、夫婦で往復しました。距離はそれほどではないのですが、2時間以上かけてのんびりと散歩しました。風もあり、肌寒かったのですが、心地よい晴れの日でした。地元の人も、散歩に使われているようで、何名かの人に会いました。地元の人も、この海岸の心地よさを味わっているようでした。

 今回、本来ならば、いくつかの露頭で野外調査を少しするつもりでした。家内と一緒なので、少し手伝ったもらって、と思っていました、しかし、予定していた日は、晴れてはいたのですが、風が強くて、じっとしていると寒く感じる日でした。そのため、全く調査はできませんでした。別の機会にする必要がありました。

 訪れたときは、今年は桜の開花が早かったので、満開の直後ぐらいでした。以前も同じ頃訪れたことがあるのですが、ちょうど満開の頃でした。各種の桜が多数植えられている公園があるので、何度か訪れました。桜のきれいな公園なのですが、時々、見学に来られている地元の人はいましたが、ほとんど人のいない状態で、桜を満喫しました。


・心と体の休息・

今回、久しぶりに、旅にでました。

この旅では、人混みにはいかないように心がけていました。

午前中は人気のない野外をうろうろしているいました。

午後は、買い物や温泉以外は、ほとんど宿舎にいました。

檜山地域では、ぽつりぽつり感染が報告されていますが、

私が行った町は感染者は出ていませんでした。

今回は、心と体の休息が目的でしたが、

頭では感染の危険性(感染させる、感染する)を

常に考えて行動していました。

コロナ感染を気しないで過ごせる日が来るのは

いつのことでしょうかね。


・生活パターン・

休暇中でも、私は早朝に目が覚めるので、

そのまま起きて、ルーティンワークを少ししていました。

メールやニュース、天気のチェック、

画像の整理、メモの作成、その日に行く予定の確認など。

家内が起きてきて、朝食を食べると、

6時半ころには、行動できるようになります。

私にすれば、少々遅めですが、家内には早めの行動となります。

日常の起床時間の違いがそのまま出ていました。

夫婦でも、それぞれの生活パターンがあるので

旅先でもそれが出まていましたね。

まあ、のんびりとしてきました。

2021年4月15日木曜日

196 ハワイ:火山の連なり

 新型コロナウイルスの蔓延で、各地へ旅行することもままならない日々が、まだ続いています。まして海外旅行ともなると、かなり難しい状態です。今回も、昔にいったハワイを紹介します。


 かつてハワイは、多くの日本人が訪れる海外の観光地でした。近年は、安上がりにいけるアジア諸国が人気になってきたようです。ハワイはいくつかの島から成り立っているため「ハワイ諸島」と呼ばれています。北西に向かって、ハワイ島、マウイ島、ラナイ島、モロカイ島、オアフ島、カウアイ島などが続き、小さな島もあります。

 さらに北西にも小さな島や環礁が続いていて、北西ハワイ諸島と呼ばれています。北西ハワイ諸島のうち、ミッドウェー環礁は、数十人の住民がいてアメリカ領太平洋諸島に属しています。それ以外の島々は、すべてアメリカ合衆国のハワイ州に属しています。

 これらの島々で、多くの人が訪れるのは、ハワイ諸島の中程にあるオアフ島です。オアフ島には、ハワイ州の州都であるホノルルがあり、政治や経済の中心で観光の中継地にもなっています。ハワイ諸島でもっとも人口が多くなっています。ハワイへ観光でいくと、まずはダニエル・K・イノウエ国際空港に到着します。そこから各島へ渡ることになります。

 ハワイ諸島の中で一番面積の大きいのは、南にあるハワイ島です。ハワイ島で、最も高い山はマウナ・ロア山で、活火山です。ニュースでも時々報じられますが、活発な火山活動をしています。現在活動中の火山には、他にもキラウエア火山があるですが、ハワイ島の南東に30km沖には、ロイヒ海山という海底火山が活動しています。

 現在、ハワイ諸島で活動しているのは、ハワイ島の火山だけです。ハワイ島の北西部には、活動をやめていますが、コハラ、マウナ・ケア、フアラーライなどの火山があります。ハワイ島自体が、すべて火山岩からできています。

 ハワイ島のマウナ・ロアは、4169mの標高を持っています。深海底の5000mの太平洋の真ん中にできた火山なので、火山体として考えると、海水がなかったとしたら、9000mを超える巨大な火山となります。このような膨大なマグマを噴出する活動があったということになります。

 ハワイ島全体が、火山の島なのですが、実は、ハワイ諸島から、北西ハワイ諸島、そしてさらにその先に続く、天皇海山列へと続く島や海山が、すべて火山からできています。火山の活動の時代は、ハワイ島から離れるつれて古くなっていきます。ハワイ諸島では現在から510万年前まで、北西ハワイ諸島は720万年前から2770万年前に活動しています。天皇海山列は3900万年から8500万年前になります。

 このような火山の連なりとその活動年代の変化は、現在の太平洋の深部の位置に、マグマを形成する場がマントルの中に固定されており、その上を海洋プレートが移動していると考えると説明できます。このような観察事実は、プレートが移動しているという証拠にされました。

 ハワイ諸島から北西ハワイ諸島までは直線的に火山は連なっているのですが、北西ハワイ諸島と天皇海山列の間には、角度で60度ほどの屈曲があります。この曲がりは、海洋プレートの移動の方向が変わったと考えれば、わかりやすくなります。

 天皇海山列でもっとも古いのは、明治海山と呼ばれるもので、アリューシャン列島の西、カムチャツカ半島の東の千島海溝に近いところに位置しています。その年代は8500万年前です。形成後、1億年近くも、太平洋プレートが移動し、3900万年から2770万年の間に拡大方向が変わった証拠になります。

 ハワイ島では、噴火の規模や場所によって、その被害状況は変わってきますが、私が訪れた時は溶岩を流している時期でした。その噴火以前は、チェーン・オブ・クレータ・ロードとして、海岸沿いを道路でめぐることができたのですが、溶岩に覆われて、現在でも通行不能になっていました。クレータ・ロードをめぐるために来ていた観光客は、溶岩のため通行止めになっているところで、流れる溶岩を見ていました。

 私も、滞在中、何度かそこを見にいっていたのですが、ある時そこに国立公園のレインジャーがやってきました。溶岩の状態を確認しにきていたようです。観光客に向かって、「私は、これから溶岩が海に流れ込んでいる状況を確認にいく。そこまで歩いていけるルートがある。下には溶岩が流れていることを理解して、自己責任でについてきてもいい。ただし暑いので水を持参するように」とをいって、観光客に声をかけました。もちろん、私はついて見にいくことにしました。

 黒くて凸凹した溶岩の上を歩いていくと、ゴムの匂いがしてきました。表面の岩石が、熱を持っているため、靴底が溶けたしたのです。歩いている下には、溶岩が流れているようです。

 レインジャーについていくと、やがて海岸に面した崖の縁にたどり着きました。そこは崖が眺められるところでした。赤い溶岩が、崖の上から流れ落ちるところを見ることができました。落ちた先は、かつては海だったところでしょうか、溶岩が固まって陸になっています。その少し先が海岸となっていて、水蒸気を激しく出していました。

 溶岩が流れている上を歩くということができたのは、ハワイの溶岩の性質のためです。玄武岩質マグマでも、サラサラ(粘性が小さい)ものは、流路ができれば、水のように流路にそって流れていきます。マグマが崖を流れ落ちるような流路が定まっていたため、表面が固まっていれば、歩くことができます。

 サラサラのマグマは、流れる時、表面に編んだ縄のような模様ができます。このようなものは、パホイホイ溶岩と呼ばれます。マグマから揮発成分が抜けると粘性が大きくなり、岩の塊がゴロゴロの崩れたような溶岩(クリンカー)になります。このようなものをアア溶岩といいます。一見、溶岩に見えないものですが、実際に流れているところが観察されています。ハワイでは、両タイプの溶岩が隣り合わせに流れることもあります。

 パホイホイ溶岩もアア溶岩も、高温のマグマですので、流れてくるのを止めるのは困難です。日本の火山ように爆発的噴火はありませんので、噴火自体の被害は多くありません。ハワイでは、マグマが飛び散ることもありますが、それも火口付近だけで、被害の範囲は決まったところで噴火します。ただし、マグマが道や人家に向かって流れてくると、道や家は諦めるかしかありません。流れる溶岩はゆっくりと進むことが多いので、家財道具を持ちだせる余裕はあります。それが日本の激しい噴火をする火山との違いです。

 ハワイは、日本人にとっては観光地のイメージになっているでしょうが、実は荒々しい側面ももっています。その荒々しさはハワイ島の南東部でみることができます。


・天皇海山列・

アメリカのディーツが、

太平洋で連続する海底火山のそれぞれに

日本の天皇の名前を付けました。

それらに、天皇海山列という総称も与えました。

ただし、天皇の即位順と並び順は対応していません。

明治海山が、海溝に近く、最も古いものです。


・ヒロ・

ハワイ諸島には、場所によって、

大都会、観光地、そして田舎もあります。

かつては、芸能人が正月になるとよく訪れる所した。

ハワイの空港での取材は、

年末の風物詩になっていたこともありました。

今では、それも昔の物語となりました。

ハワイ島は風光明媚でいいところです。

定年後には、ハワイ島へは再度訪れたいです。

できれば、のんびりとハワイ島の火山を

また見て回りたいものです。

前回はハワイ島のカウアイに泊まったのですが、

次回はヒロに泊まりたいですね。

2021年2月15日月曜日

194 キプロス:島弧のオフィオライト

 地中海の東にあるキプロス島は、地質学ではオフィオライトが有名なところです。オフィオライトの成因について大きな議論が起こった主戦場になったところでもあります。キプロスは思い入れがあるところです。


 以前、海外の学会に出席した時に、地質巡検による紹介です。「巡検」とは、地質学における観察会のことで、典型的な地点や露頭を野外で見ていくことです。地質関係の学会では、いくつかの巡検コースが設けられています。多数の地質学者が重要な露頭を見ることになるので、露頭の前でいろいろな議論が起こります。なかなか面白いものです。また、その地域を調査し研究している地質学者が案内をしてくれるので、典型的な露頭やルートを見学することができます。その地域を、非常に効率的に見ることができます。

 さて、その地は、地中海の東にあるキプロス(Cyprus)島です。巡検は、かなり前になりますが、1987年の9月から10月にかけての学会の後にでかけました。少々古い情報なので、風景や露頭の様子は変わっているかもしれませんので、ご了承下さい。

 キプロス島の南の3分の2は、キプロス共和国となっています。北の3分の1は、トルコ共和国だけが承認している独立国になっています。キプロスには、もともとギリシア系の民族が住んでいました。オスマン帝国時代に、イスラム教徒のトルコ民族が入ってきました。多数派はもともと住んでいたギリシア系の住民でした。第二次大戦後、1974年にギリシア系の住民がクーデターが起こしました。トルコはトルコ系住民を守るためにキプロスに侵攻し、以降北がトルコ系住民が、キプロス連邦トルコ人共和国を作りました。そのため、首都のニコシアの街の中に国境線が引かれ、訪れたときも銃をもった軍が警備していました。現在も分割された状態が続いています。

 さて、キプロスには、オフィオライト・コンファレンスとよばれる国際学会があり参加しました。オフィオライトとは、かつて海洋地殻を構成していた岩石が、陸地に持ち上げられたものです。

 オフィオライトは、古くは、蛇紋岩、玄武岩質の枕状熔岩、層状チャートがセットになってでることから、なんらかの成因関係があると考えられ、スタインマンの三位一体(Steinmann's trinity)と呼ばれていました。その後、海洋調査が進むにつれて、海洋地殻の実態がわかってきました。海洋地殻は下位から、カンラン岩(変質を受けると蛇紋岩となります)、斑レイ岩、玄武岩の貫入岩、玄武岩の枕状溶岩、そして深海底堆積物の珪質粘土(固化すると層状チャートになります)、大陸に近づくと砂岩泥岩の互層(タービダイト層と呼ばれています)が堆積するという層序があることがわかってきました。それが、オフィオライトの層序と一致することで、オフィオライトが過去の海洋地殻と考えられるようになりました。

 1970年代前半、オフィオライトの研究は、過去の海洋地殻の研究ともなっていました。そして、もっとも典型的な海洋地殻の特徴をもっているのが、キプロス島のトルドス・オフィオライトだとされ、当時研究が参加に進められていました。ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸が衝突し、間にあったテチス海が狭まり、その時、海洋地殻が持ち上げられたものだと説明されていました。

 ところが、1973年に都城秋穂氏が、トルドス・オフィオライトの化学組成を調べ、海洋地殻ではなく島弧の典型的な特徴を持っていることを示しました。この論文は大きな反響を呼び、多数の反論が出てきました。都城氏は、反論に答える論文をいくつも出されていました。

 学部学生のとき、この都城氏の論文を中心に、いくつもの討論の論文を読みました。この時、世界の大半の地質学が信じていた仮説に対して、ひとりで反論を示し、立ち向かった姿勢、また多くの反論に対して真摯に証拠をもって対応する態度は、科学者として素晴らしいものでした。なにより、ひとりで多数派に立ち向かう勇気に感服しました。今思えば、古い科学から新しい科学が生まれる瞬間を目撃していたことにあり、幸いでした。

 訪れたこともないキプロスやトルドスだったのですが、論文の地質図や露頭写真などでみているので、実物を見たいという気持ちはありました。そんな時、学会があり巡検に参加することができました。期待に胸が膨らんでいました。

 そんな気持ちで見た露頭は、変質や風化は受けていましたが、形成されたときの様子(初成産状といいます)はきれいに残しており、確かにオフィオライトの典型と呼ぶべき岩石群とその産状をもっています。ですから、これを海洋地殻の典型と考えるのは、よく理解できました。それまで、日本でオフィオライトを見ていたのですが、露出が悪く、露出していても変成や変形を受けているため、初成産状が残されていることはまれでした。露頭では部分的な産状を見つけ出し、それらを集めて、全体をみるという作業をしていかなければなりませんでした。ですから、キプロスの産状は羨ましいと思いました。

 地質学では産状が重要ですが、都城氏が主張した客観的で定量性のある化学組成からの検討も重要です。類似性をたくさん見つけることは確かさを増すことになりますが、仮説が完全に証明されることにはなりません。これは自然の帰納法の限界というものです。もしそんな仮説にひとつでも反例があれば、その仮説は再検討をしなければなりません。都城氏は、その反例を示したわけです。

 現在では、オフィオライトには、海嶺で形成された海洋地殻だけでなく、沈み込み帯に関連した島弧や火山弧、プルームや大陸のリフトに関連したものがあると考えられるようになってきました。つまり、オフィオライトには、海洋地殻だけでなく、多くの地質場でできる可能性がわかってきました。そして、オフィオライトの形成場を知るためには、化学組成だけでなく、それぞれの産状や形成場の違いも考慮されるようになってきました。

 キプロスは乾燥した地中海性の風景ですが、トルドス山は2000m級の山もあり、地中海ですが雪も降るようです。巡検中には、古いギリシアの遺跡もあり、観光としてもよさそうですが、当時はまだ観光化していませんでした。かなり昔の訪問でしたが、今でも記憶に残る印象深いところでした。


・ワクチン・

緊急事態宣言が10都府県で、3月7日まで延長されました。

北海道も集中対策期間を国に合わせて3月まで延長しました。

これまでの状況を見ていると、

すぐにおさまることは難しそうです。

ワクチンが承認されたので、

ワクチンの効果が期待されます。

日本では、医療関係からはじまり、

高齢者、疾患を持った人、そして市民となります。

国民全体へのワクチン接種はまだ先になりそうです。

まだ、しばらく自粛が必要でしょう。


・卒業式・

大学は、現在、授業はない時期なのですが、

2月一杯はレベル2の状態で、遠隔授業の状態となっています。

学生は学内への立入禁止となっています。

そのため、窓口業務も中止となっています。

ただし、教職員は、大学で執務もしていますし

校務も継続しています。

教員には図書館の利用が認められています。

現状であれば、卒業式はおこなう予定ですが、

どうなるのでしょうかね。