2019年12月13日金曜日

180 石見銀山:暮らしの中の世界遺産

 世界文化遺産の石見銀山を見学しました。雨の降り続く中での見学でした。そこに暮らしている人が、自身の生活を守りながら、観光客への接待、配慮もされていました。なかなかいい町並でした。

 石見(いわみ)銀山に、夏の調査でいきました。残念ながら、この調査の期間は、天候の最悪の時期となり、予定してたコースで周ることができず、石見銀山も予定外の時間に向かうことになりました。
 石見銀山世界遺産センターについたのは、オープンする9時より少し前だったので、駐車時に車を駐めて待っていました。雨は一向に止む気配はありませんでした。9時を過ぎてもセンターが開きません。中を覗くと、清掃をしているようで、人がいました。私が覗いているのをみて、人が出てきてくれました。その日は月に一度の休館日だとのことでした。チラシを貰い、別のところにある観光案内所を教えてもらいました。
 案内所にいって、案内パンフレットなどをもらって、石見銀山を見て回りました。見学の間、ずっと雨が降っていて残念でした、しかし、石見銀山で地質に関するところは、野外が多かったのですが、一回りすることができました。
 石見銀山は、島根県大田市大森町の仙ノ山(せんのやま)を中心としたところにあり、かつては「大森銀山」とも呼ばれていました。1526年(室町時代末期)には本格的な開発がはじまり、それ以約400年間にわたって銀が採掘されてきました。そのような歴史的価値から、2007年に世界文化遺産として登録されました。
 石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて、大量の銀が採掘されました。16世紀半ばから17世紀前半が全盛期に当たり、17世紀の最盛期には、年間67.5トンの銀を採掘してました。その量は、世界の総産出量の約1割を占めるに至ったといわれています。16世紀には、石見銀山はヨーロッパでも知られている存在となっていたようです。当時のヨーロッパの地図に、石見銀山がのっているとことです。それは、当時、銀が基軸通貨の役割を果たしていたため、国際的な交易では非常に重要な存在となっていたのです。
 石見銀山は、大江高山火山群と呼ばれるマグマの活動で形成されました。大江高山火山群は、160万~70万年前に活動しており、20数個の溶岩ドームができました。デイサイト質マグマの活動で溶岩ドームの他に火砕丘もできるような火山でした。
 この火山群の活動末期に、仙山火山が噴火し、その時、石見銀山を生み出しました。マグマに由来する熱水によってできたものです。ただし、石見銀山の鉱床には、2つのタイプがあります。鉱脈鉱床と呼ばれる永久(えいきゅう)鉱床、そして鉱染鉱床と呼ばれる福石(ふくいし)鉱床です。
 永久鉱床の鉱脈鉱床とは、母岩となる岩石に銀が溶けこんだ熱水が染み込んで、その熱水から鉱石ができたものです。鉱脈として銀の鉱石が産出します。岩石が柔らかくて、掘りやすく、地表にも近かったので多くの銀が産出しました。
 福石鉱床の鉱染鉱床とは、岩石に熱水が染み込んで銀鉱物が形成されるもので、鉱脈ではないでの、濃集度(品位という)は低くなります。一般には大規模な鉱床を形成するのですが、石見銀山では、永久鉱床が掘りやすいので先に掘られ、産出量が減ってくると、福石鉱床も掘られるようになってきました。
 火山群の下位には、鮮新世末から更新世に形成された都野津層群があります。その下には、中新世の火山岩類や堆積岩類が分布しています。火山岩類は、日本海形成期に海底で活動したもので、「グリーンタフ」と呼ばれるものです。グリーンタフには、金属・非金属鉱床が多くあり、黒鉱と呼ばれます。これらの鉱床もかつては採掘されていました。石見の地は、なんどもマグマによって鉱床を生み出すような活動があったことになります。
 石見銀山は、以前から見学したいと考えていたところでした。鉱山町は、山間にある小さいところです。世界遺産として、みるポイントが野外にいくつもあることも、事前に知っていました。でも、訪れなければわからないこともあります。
 雨でしたが、半日ほど歩いて回りました。観光客は多数来ているところですが、昔風の町並みを残してた町で人が暮らしています。観光と暮らしのバランスは絶妙に見えました。昔の町並み大切にしながら、観光地化せず。観光客には地域のよさを提示しながら、現在の暮らしを維持し、生活を営んでいます。
 一回りしたあと、古い民家を洒落た喫茶店にしているところがありました。そこでコーヒーを一杯いただきました。その店の内部だけでなく、中庭も癒やしの空間と取り入れられていました。
 石見銀山は、もう鉱山ではないのですが、町を上げて暮らしの中に世界遺産を取り込んでいました。そこになかつての銀山が見え隠れしました。なかなかいいところでした。

・気持ちが大切・
観光地、それも多くの観光客が来るような町は
いわゆる観光地化していくものです。
観光で出かければ、お土産を買うのを
楽しみにしている人も多いでしょう。
私も家内しか家族はいませんが、
各地で少しずつ小分けになった土産を買っていきます。
でも、観光地を点々と巡っていると
どこにでも、まんじゅう、せんべい、クッキーなど
パッケージに地名を入れれば
どこでも通用するお土産を多々見かけます。
観光地化していない町並みを、
住んでいる人が大切にしている気持ちが
今回は一番の土産でした。

・変動の天気・
北海道では、今週の前半は雨、後半は吹雪となりました。
雨で雪が全て融けて、防寒靴に水が染み込みました。
吹雪とともに冷え込みもきて、
ツルツルで歩きにくくなりました。
この時期になって、変わりやすい天気で戸惑います。
雨靴か防寒靴か、傘か雪よけフードか。
悩ましい日々が続きました。
体調を壊さないように、
気を付けなければなりませんね。

2019年11月1日金曜日

179 仁摩:砂のカオス

 仁摩(にま)は、きれいな砂浜で有名です。日本の各地に砂浜はありますが、仁摩の砂は、少々珍しい砂からできています。その珍しい砂に関する展示をしている、サンドミュージアムが仁摩にはあります。そこでカオスを考えました。

 人は、自然物に対して、どのような時に心地よさを感じるのでしょうか。生き物だけでなく、自然の造形にも心地よさを感じます。小は砂や石ころから、大は海岸線、水平線、山並み、地平線まで。そこにはかならずしも共通点があるようには思えません。同じものを見ていても、天候によって美しいと思えたり、恐ろしく思えたり、感じ方が左右されることもあります。すべての人がいいと思うものあるでしょうし、特定の人しかいいと思わないものもあるでしょう。その中で、すべての人の感動の共通項が、絵葉書になるような景色、観光地でしょうか。
 そうなってないところは、一部の人だけの興味になるのでしょう。みんながいいと思うところは、もちろん素晴らところなのですが、人が多すぎると少々興ざめをするのは私だけでしょうか。一時期流行った観光地で、今は人気がなくなっているところに、私は魅力を感じてしまいます。もちろん、そんなところばかりを選んで訪れているわけではありませんが。
 さて、美しい景色の中には、砂が重要な要素になっていることも多くあります。砂漠や砂丘、海岸の砂浜がその典型でしょう。海岸の砂浜にも、その色合いも美しさの重要な要素です。ハワイはワイキキの白い砂浜を思い浮かべますが、火山地帯では黒い砂からできた砂浜(玄武岩質の溶岩破片からできているところ)、緑がった砂浜(カンラン石を多く含む)があったりします。日本では、灰色の砂浜(火山地帯)や茶色い砂浜(堆積岩地帯)、白い砂浜(花崗岩地帯)が多いでしょうか。
 粒子のそろった細粒の砂が長くのびている砂浜は、心地良いものです。なにもない砂浜であっても、昔から子どもから大人まで、絶好の遊び場でもありました。乾いた砂で山をつくると、裾野と高さは一定しており、その高さだけを大きくすることはできません。これは砂の性質を反映しています。
 砂は、固体の粒子からできていますが、流体(液体)のような挙動をします。まるで水のように流れることがありますが、液体ではありません。液体とは異なり、山ができたり、表面の凹凸が残されたり、流体にはない性質もあります。しかし、集合体としては流体のような挙動をすることがあります。このような細粒の固体の集合物が、流体のように振る舞うものを粉粒体と呼びます。
 今年の夏の終りに、島根県大田市には仁摩(にま)という町に行きました。仁摩では、日本海に面したきれいな砂浜が広がっています。この浜は、琴ヶ浜(ことがはま)と呼ばれ、緑の林の前に白い砂浜が続く、まさに白砂青松と呼ぶにふさわしい海岸です。
 琴ヶ浜は、「日本の渚百選」と「日本の音風景百選」に選ばれています。「日本の渚百選」は、きれいな渚ですからわかるのですが、音風景に選ばれるとはどういうことでしょうか。
 波によく洗われた海岸の砂は、硬い鉱物だけた残り、粒のサイズもそろってきます。すると不思議な性質が生まれてきます。大きさと粒子の質が揃った砂で山を作ると、一般の砂より高い山になります。また、このような砂浜を歩くと、キュッキュときれいな音がすることがあります。このような砂を「鳴き砂」といいます。
 琴ヶ浜は、鳴き砂からできています。そのため、音風景百選になっています。かつて、日本には多くの砂浜に鳴き砂があったようですが、今では30箇所ほどになっているそうです。鳴き砂がある浜は、砂が綺麗に洗われていなければなりません。つまり、きれいな海岸でないと鳴らないということです。琴ヶ浜でも、海水浴シーズンになると鳴かなくなるようです。
 鳴き砂の条件は、かなり詳しく調べられてきました。0.2mmから0.6mm程度のサイズの石英の粒が多いこと、粒の形が丸いこと、ドロなどが混じらないこと、水でよく洗われていること、などが挙げられています。しかし、研究が進んできて、人工的に鳴き砂を作ってみると、必ずしも丸くなっている必要はないことが分ってきました。また、水で洗われている必要はなく、砂漠のようなところも鳴き砂がありますので、不純物がなくなるような仕組みがあればいいのでしょう。ただし、海岸の鳴り砂では、きれいな水で洗われている必要があるようです。
 琴ヶ浜の砂は、江の川を流れてきた砂が、海流で運ばれてきたものだとされています。周囲の山地を構成するのは、川合層の砂岩礫岩や久利層の泥岩、久利層のデイサイト質火砕岩などで構成されています。それらが、琴ヶ浜の鳴き砂とどのような関係があるのかは、まだ十分に解明されていないようです。
 今回、仁摩でサンドミュージアムを訪れました。そこで砂や、鳴き砂についていろいろ学びました。琴ヶ浜ですが、以前訪れた時は雨の後だったので、琴ヶ浜は鳴きませんでした。今回も、雨のために鳴きそうもありませんので、琴ヶ浜には行きませんでした。
 サンドミュージアムの訪問は2度目となります。サンドミュージアムでは、いくつかの装置に毎回見入ってしまいます。大きなオブジェがいつくかあります。定期的に回転する砂が、前回の様子が少し違っているため、次も違ってくるもの。定常的に流れ落ちる砂が、たまるところが少し異なることで不思議な動きをする装置。砂の上を重い振り子を揺らすと砂に不思議な模様ができる装置。これらは仕組みでは、砂や装置は、毎回同じ動きしたり、単純な構造なのですが。前の状態が少し異なっているため、毎回挙動が異なってきます。これは、カオスの不思議さを感じさせる装置となっているようです。私は、そのカオスに魅入ってしまいます。
 自然界では、カオスの多くは多様性に消されてしまいます。サンドミュージアムのように、砂に現れるカオスの状態だけを注目できる装置をつくると、カオスの不思議さを際立たせることができます。同じ装置内での砂の動きであっても、長時間見ていても、何度も見ても飽きないのでしょう。これがカオスの魅力ではないでしょうか。

・砂のデータ・
私は、砂も研究対象にしています。
砂を各地で集めています。
砂はだれもが親しんでいる自然中の素材です。
その素材を自然史として利用しようとするのが
もともとの狙いでした。
どう利用するのかというアイディアが浮かびません。
現在、700地点ほどの砂を収集しました。
その中に琴ヶ浜の砂があります。
2000年9月30日に採取したものです。
これは、博物館時代に訪れたときに
他の学芸員とともに採取したものです。

・小さな世界へ・
今回のエッセイでは、場所は仁摩でしたが、
仁摩の琴ヶ浜から、砂浜へ。
砂浜から砂の不思議な挙動へ。
そして鳴き砂に移動していきました。
砂の小さな世界に入り込んでいく旅となりました。
小さな砂が生み出す不思議な造形。
砂のカオスが生み出す魅力的な造形。
そんな世界への旅でした。

2019年10月15日火曜日

178 畳ヶ淵:龍が通った道

 山口県萩市の山奥に、龍が通った道があります。単独の龍が多数いたようです。龍は古来から何度も暴れたようです。山奥の龍とは、一体何だったのでしょうか。

 山口県萩市というと萩の城下町が、一番の観光地として有名です。また、近隣の地質の名所としては、南側にある美祢(みね)市に秋吉台があり、秋芳洞を中心としたみねジオパークが認定されています。
 萩も、ジオパークとなっています。萩市と阿武(あぶ)町、そして山口市阿東地域(旧阿東町で2010年に山口市に編入されたところも含まれていますが、もともとの一つの地区となっていたところ)が萩ジオパークの範囲となっています。萩ジオパークは、2018年9月20日に日本ジオパークに認定されました。昨年出かける予定をしていたのですが、北海道の胆振東部地震のため中止したのを、今年、調査にでかけました。そのおかげで、ジオパークに指定されたので、地質の見学地点(ジオサイトと呼ばれています)のルート整備や案内板なども設置されることになります。私のように地質現象の典型的な露頭を見ていくものにとっては、非常に助かります。
 今年の8月に九州北部で洪水を起こした豪雨にも晴れ間があり、その時間帯に、誰一人いない畳ヶ淵(たたみがふち)ジオサイトを訪れることができました。
 このジオサイトに着くと、広い駐車場もあり、地質の説明の看板もありました。田んぼの脇を通るのですが、道は整備されており、途中にトイレも完備され、川には橋もかかっています。非常にアプローチがしやすく、見学には適しています。
 畳ヶ淵は、奥阿武の地区に属し、田万川(たまがわ)沿いにある露頭です。川で岩が洗われているので、表面もきれいで見学には最適です。ここは非常にきれいな柱状節理がみられるところになっています。橋を渡って対岸には、きれいない柱状節理の断面を上からが見られます。角柱の断面が敷き詰められて畳ヶ淵と呼ばれているのも、頷けます。上流にも柱状節理が続いています。また、下流に向かうと崖があり、そこには直立した柱状節理が見ることができます。
 柱状節理は、大きなマグマの流れがあると、表面が冷えて固まっているのですが、内部のマグマはゆっくりと冷えていきます。液体のマグマと比べ固体の岩石(溶岩)は体積が少し縮みます。ゆっくり冷えると、岩石には割れ目ができます。その割れ目が内部にむかって進み、その断面は六角形になり、柱状節理ができます。断面は六角形が多いのですが、五角形やいびつな形になるものもあります。柱状節理のいろいろな断面が、畳ヶ淵では観察できます。すると六角形がおおいころ、しかしそれ以外の形やいびつなものもあることもよくわかります。
 伊良尾(いらお)山(641 m)から流れてきたマグマが、田万川に流れ込み、川沿いに「上の原台地」まで流れました。畳ヶ淵の柱状節理は、溶岩流の真ん中に当たります。この溶岩の流れたところを「龍が通った道」と地元では呼んでいるそうです。柱状節理が龍のウロコに見えたのでしょう。
 この溶岩は、伊良尾玄武岩と呼ばれるものです。この火山は一度しか噴火していません。このような火山を単成火山といいます。似たような単成火山は、奥阿武には約50個もみつかっています。多数の単成火山が活動しているので、「阿武火山群」と呼ばれています。阿武火山群のうち、伊良尾の溶岩は玄武岩質のマグマでしたが、玄武岩質から安山岩質までのマグマが活動しており、火砕丘、溶岩ドーム、溶岩台地を形成しています。いずれも小さな火山体となっています。
 伊良尾火山は、阿武火山群の中でも最も激しい活動をしたようです。まずスコリア丘ができ、その後溶岩を14kmに渡って流して「龍が通った道」となり、さらにスコリア丘が再度できたようです。
 この周辺では、190万から150万年前にすでに火山活動をしており(先阿武火山活動と呼ばれています)、その後しばらく活動を停止していました。活動を再開して、約80万年前から1万年前ころまで噴火をしていました。ところが、最新の噴火は8800年前であることがわかりました。その成果を受けて、2003年から、新たに活火山に指定されました。
 「龍が通った道」として最も下流側、伊良尾溶岩の最終地点には、龍鱗郷(りゅうりんきょう)と呼ばれるたジオサイトがあります。龍鱗郷は、地域に伝わる神楽にある蛇の舞や、柱状節理が龍の鱗のようみ見えることから、地元の中学生が考えて付けたそうです。龍鱗郷は、農免道路の工事しているとき見つかったものが保存されています。切り通しの崖が、道路の両側にでています。ここも駐車場があり、全景を見るために、崖の上に上がってみる展望台まで完備されています。
 展望台から全景を見ると、柱状節理がきれいに出ていますが、途中で節理の向きが変わっているのがよく見えます。コンクリートがあったり下草が覆っていて、道路や展望台からは見えにくのですが、解説板によれば、溶岩の下には、複雑な地質が見ることができるようです。
 柱状節理の溶岩の下には、200万から10万年前の溶岩があります。この溶岩は、古い田万川(古田万川といいます)沿いに流れ込んで、水の中で破砕されたもの(水中自破砕溶岩といいます)が薄い層をなして堆積しています。その下には、古田万川の河川の底にたまった礫や砂の層があります。さらに下流側の崖には、3000万年前に噴出した安山岩があります。
 この安山岩は、田万川カルデラと呼ばれる古い火成活動(白亜紀)のものです。田万川カルデラは、北東ー南西に14km長径をもち、短径が7kmの楕円形をしています。カルデラとは大規模なマグマの活動が起こったとき、大量のマグマが噴出したことで、マグマだまりが空になったとき、陥没してできら大きな窪地の地形です。この火成活動は、安山岩から流紋岩質の火山灰や火砕流堆積物を伴い、マグマ溜まりが固まった花崗岩も分布しています。ただし、古いものなので、カルデラ地形は残されていません。
 奥阿武地域では、田万川カルデラで激しい火成作用が起こり、続いて先阿武火山が活動し、現在は阿武火山群が活動を続けています。この周辺は、マグマの影響が、断続的に起こっていところだったようです。
 奥阿武の人たちは、溶岩が流れてできた柱状節理を見て、龍が残したものと考えました。龍とはマグマのことだったのでしょう。奥阿武では、何度が龍があばれ、通っていたのでした。今では、龍は神楽として地域で舞われています。

・画像より実物を・
今年の調査は、大半が雨の中でした。
幸い須佐のフォルンフェルスと畳ヶ淵だけは晴れていました。
須佐のフォルンフェルスは、
有名な露頭なので何度も写真を見ていました。
岩石の実感や地層のスケールなど
実物からでないと感じられないものがありました。
しかし、はじめて見る壮大な露頭は感動します。
畳ヶ淵はそのような画像イメージが
ほとんどない状態での観察だったので、
非常に感動しました。
一人で堪能できたので、
感動はいやが上にも増しました。

・ストーブへのハードル・
北海道は、雪虫も飛びました。
寒い日も時々訪れます。
そんなときはストーブを炊いてしまいます。
北国では、ストーブを常設しているため、
灯油も大きなタンクに蓄えられていて
ポンプでストーブへ配給しています。
ストーブの点火は、元栓を開け、電源を入れれば、
簡単におこなえます。
ですから、ちょっと寒かったら
簡単にストーブをつけてしまいます。
本州よりのストーブ着火のハードルは低いようです。

2019年9月15日日曜日

177 須佐:フォルンフェルスの畳

 山口の須佐の海岸には、畳を重ねたような崖があります。積み重なった畳は、地層からできています。この地層はもともとの堆積岩から、少し変化をしています。小さな変化の露頭は、大きな変化の縁辺にあたります。

 9月上旬、島根から山口へと調査にいってきました。その目的の一つに「須佐のフォルンフェルス」と呼ばれる露頭を観察することがありました。須佐(すさ)は、山口県萩市の北東に位置しています。須佐の海岸に、特に「畳岩」と呼ばれる露頭があり、有名になっています。
 当日は幸い晴れていたので、じっくりと見ることができました。その露頭には、最初は誰も訪れている人はいなかったので、一人で静かにみることができました。露頭を詳しく観察していると、知らないうちにライダー服を人が後ろにいたので驚きました。そのうち、グループの客がバラバラと来るようになりました。ここは、萩ジオパークや地質百選などにも選ばれており、駐車場や遊歩道なども整備されているため、大型の観光バスも乗り入れています。やがてバスの団体がやってきたので、邪魔にならないように引き上げることにしました。1時間ほどは静かに観察できたので、引き上げることにしました。
 さて、この「須佐のフォルンフェルス」ですが、フォルンフェルス(hornfels)とは、変成岩の一種です。
 岩石のでき方(成因)には、大きく分けて火成岩、堆積岩、そして変成岩の3つがあります。火成岩は、何らかの固体(岩石)が溶けて液体(マグマ)が形成され、液体(マグマ)が再度固化してできたものです。堆積岩は、なんらかの岩石(マグマや水でもいい)が破砕(マグマの場合は火砕、水の場合は沈殿や蒸発)して、バラバラ(未固結)の固体の集合物が堆積して、時間をかけて固まったものです。一般には、固体物が破砕され、運搬され、堆積したものということができます。
 変成岩は、いずれかの成因の岩石(変成岩でもいい)が、高温や高圧、あるいは高温高圧に条件になり、もとの岩石(原岩という)とは異なった見かけ(組織)や構成(鉱物)になったものをいいます。変成作用の程度が弱ければ(低温や低圧)、もともとの岩石の見かけや構成が残され変成岩になり、強ければ(高温や高圧)、原岩の痕跡が少ない変成岩になります。変成条件の差、原岩の差などの組み合わせにより、さまざまな変成岩ができることになります。変成岩は、原岩から変化したものですが、一部が溶けても(マグマにならない)も一部が砕かれても(砕屑物にならない)も、もとの岩石の痕跡が残っていることが必須条件となります。
 変成作用の原因として、海洋プレートの沈み込みが重要になります。沈み込みにつれて、冷えた岩石が高圧条件にさらされます。沈み込み帯の深部では、低温高圧の条件で、帯状に変成岩が形成されます。このような変成岩は、構造作用で広く分布することがあるので、広域変成岩と呼ばれています。
 沈み込みに伴って多様な組成のマグマ(平均すると安山岩質の組成)の形成され、火成作用が活発におこります。これは島弧の火成活動とも呼ばれ、日本列島の火山列はこの作用によります。地表で火山が多数あるということは、深部にはマグマだまりも多数できていることになります。多数の火成作用や沈み込みによる圧縮により、列島には山脈が形成されていきます。このような沈み込みにともなう深部の火成作用が起こっている周辺では、高温中圧の変成条件となり、これも広域変成岩となります。高温中圧の広域変成岩は、地下深部の条件により変成作用を受けるため、マグマも形成されますが、そのマグマが変成作用を起こしているわけであはありません。非常に深部では、かなり高温高圧条件のものもできることがあります。しかし、低温高圧の広域変成岩とは、変成条件が明らかに異なったものになります。海洋プレートの沈み込みに伴って、低温高圧型と高温中圧型の広域変成岩が対をなすことになります。ただし、同時代にできた変成岩が、地表に並んで露出するとは限りません。
 変成岩にはその他にも、ある程度の大きさをもったマグマが貫入すると、接触されたり、近くにある岩石が高温になって変成作用を受けることがあります。このようにしてできたものを、接触変成岩といいます。高温中圧型の広域変成岩にも接触変成岩が形成される条件をもっていますが、接触変成岩は、一般に熱源となる火成岩の周辺にみられ、変成を受けた地域がはっきりと限定できるものをいいます。
 前置きが長くなりましたが、須佐ホルンフェルスは接触変成岩になります。畳岩の北にある高山(こうやま 標高532.8m)を中心に分布しているマグマが、斑レイ岩として固まった時、周りにあった堆積岩などが変成作用を受けました。高山斑レイ岩の貫入は、中新世(1400万年前)でした。変成岩の原岩は、山島火山岩、阿武層群や須佐層群などです。マグマに近いところでは変成作用の程度も強く、離れると弱くなります。
 畳岩は、マグマから一番離れたところで、変成作用の程度も弱く、堆積岩の特徴がそのまま残されています。変成鉱物ができているようであれば、変成岩と呼んでいいでしょうが、変成作用も弱いため、変成岩と呼ぶには少々問題があるかもしれません。ただし、熱によって岩石は固くなっているため、崖や海岸の平面も残りやすくなっていたのでしょうか。それが、見事な露頭となっているのでしょう。
 畳岩の原岩は1650万年前の須佐層群で、砂岩から泥岩の互層で、砂岩は白っぽく見え、泥岩は黒っぽく見え、白黒の縞模様がきれいに残されています。この縞模様が、畳を重ねたように見えるので、畳岩と呼んだそうです。
 畳岩は、一方が切り立った崖で、そこに白黒の縞模様の地層がみえます。崖の前面には、平らな面が広がっています。その平面には、大小様々なサイズの円摩された礫が見え、地層の境界の面(地層面)となっています。地層面が礫が多かったため、剥がれやすくなったと考えられます。この地層面が、波で侵食され、海食台となっています。フォルンフェルスには、節理も発達しているので、その節理で割れたものが、畳岩の海食崖を形成しているようです。
 畳岩は、事前の情報もたくさんあって、露頭写真もみていました。写真はたいてい同じような構図のものが多く、いって露頭を見ても既視感があます。遠景でみたり、露頭に近づいてみたときのほうが感動しました。
 目的地を探しているときは、あまり調べすぎると感動が減ってしまいます。しかし、調べなていかないと見落としもあります。その調べる程度が難しいものです。畳岩の次に高山も見たかったのですが、内陸の目的地が優先していたので、そちらを見るために移動することにしました。その目的地は、次回のエッセイとしましょう。

・荒天・
今回の調査では、山口が半分くらいありました。
そのため、8月下旬の北九州の豪雨の影響を
大きく受けてしまいました。
宿泊地を決めているので、予定通り進むしかありません。
進むところが、遠たところが、
次々と警報がでるような天候でした。
調査日程の3分の2は雨でした。
3分の1は豪雨で、車から出ることもできないほどでした。
泊まるところも大丈夫かと心配になるような荒天でした。
幸いすべて予定通りに宿泊でしました。
みることができなかったところが多数ありました。
残念なので、別のエッセイで紹介したいと思っています。

・論文再開・
大学は夏休み中ですが、来週から後期がはじまります。
その前に校務出張、授業開始直後に研究出張が
その間に祝日もあるので、
日程がつまってくるので、少々ばたばします。
まあ、休みは最低限にして、研究を進めていけばいいのです。
一番の優先は、書きかけの論文の執筆です。
8月下旬から、中断しているので
思い出すのに少々時間が必要かもしれません。

2019年8月15日木曜日

176 ウスタイベ:柱状節理の千畳岩

 道北のウスタイベ岬があります。岬は安山岩でできています。流理や節理があり、広い平面となっています。似たも火山岩類が、道北には点々と分布しいてます。しかし、その由来はよくわかっていません。

 今年の春は、道北に2度ほどいっています。特にオホーツク側に海岸を中心にみています。秋にも、もう一度出かける予定です。内陸域もみたいので、あまりきれいな露頭は、すぐには見つかりそうもありません。そこで海岸の道路沿いをみていくことにしました。
 道北のオホーツク側にある枝幸(えさし)は、道南の江差(えさし)と同じ発音で、いずれもアイヌ語で「エシヤシやエサウシ」から由来しています。その意味は「するどく突き出した岬(崎)」というものだそうです。
 さて、今回紹介するのは、枝幸の町の少し北にあるウスタイベ岬です。この岬や北見神威岬などを含めて、1968年に北オホーツク道立自然公園に指定されています。ウスタイベ岬は、公園としてきれいに整備されています。
 ウスタイベの語源には諸説あるようです。枝幸町がウスタイベ岬に設置した看板には、アイヌ語の「ウス・タイ・ペ」で、「入り江の林の川」とされているが、松浦武四郎の西蝦夷日誌では、「湾に海草多く打上、腐りて臭きと云儀、ウシは深き、タイペは塵芥の事也」とされています。武四郎は、アイヌ語の「ウシ・タイペ」を語源としていると記しています。「ウシ」には「多い」という意味があり、「タイペ」は塵芥(チリやアクタのこと)という意味があり、あわせて大量の海藻が腐ったものが、湾に打上げられているということに由来する、としています。
 ウスタイベ岬は、「千畳岩」と呼ばれる観光名所となっています。「千畳」というのは、畳が1000枚も敷けるほど、平坦で広いところという意味で、よく使われる比喩です。以前「173 鴎島:火山砕屑物の守り」(2019.05.15)で、江差の鴎島(かもめ)にも、平坦な「千畳敷」と呼ばれるところがあるのを紹介しました。海岸で広く平らなところでした。鴎島のものは、比較的新しい凝灰質の岩石があり、柔らかくて波の侵食を受け、海食台になっていました。
 ウスタイベ岬の「千畳岩」は、海岸にありますが、海食台ではありません。固い岩石からできます。もともとの岩石が、そのような平坦面をもっている性質だったのです。ウスタイベ安山岩と呼ばれています。マグマは、中新世(1370万~1380万年前ころ)のもだと考えられています。この安山岩は、マグマが地層の中に貫入して、固まったものと考えられています。
 ここの安山岩は、岩石の固まり方によって、いろいろな見かけ(岩相といいます)になっています。ガラス質から真珠岩質、また斜長石の斑晶をもっているものあります。流理模様もあります。流理とは、マグマが流れたときに結晶やマグマの色の違い、結晶度の違いなどが、流れにそってできた模様です。この流理は、ここでは平らになっています。また、この貫入岩には、柱状節理もあり、節理に沿って割れ目もできています。ただし、六角柱状にはなっていません。流理や節理にそって割れ目がでています。節理は垂直で直線的なものと、水平にもあります。このような節理と流理が、ウスタイベ岬の千畳敷をつきっています。
 道北には、中新世のマグマの火山岩が点在します。それらの安山岩は、1400万~900万年前に活動したもので、500万年ほどの期間に、広範囲で大量の火山岩を放出しました。道北では、南北(正確には北北西-南南東)に点々と分布していますが、日本海からオホーツク海まで、日本海(礼文島、天売島、焼尻島)、西、中央、東の4つの火山列に区分されています。ウスタイベは東に位置しています。
 日本海は最も少なく、それ以外が格段に多くなります。西が少なく、中央が多く、次いで東が多くなっています。中部は島弧の特徴的な安山岩質マグマ(カルクアルカリ岩系列と呼ばれています)で、それ以外の地域では、安山岩だけでなく、玄武岩のマグマの活動もおこっています。
 しかし、これらのマグマの活動は、現在の太平洋プレートの沈み込みでは説明できない活動です。また、日本海の拡大時期(2000万~1500万年前)とも一致していません。非常に不思議なマグマの活動が、広域に起こったことになります。これらの火山群の活動の成因については、まだ完全には明らかになっていません。
 仮説として、オホーツク海(千島海盆と呼ばれています)の拡大に関連した活動ではないかと考えられています。千島海盆の拡大は、1500万~1400万年前にはじまります。それに伴って玄武岩質マグマの活動が起こり、その熱で島弧の安山岩質マグマが1400万年以降活動したのですが、それも900万年前には終わります。
 マグマの化学的特徴は、明らかに島弧のものです。しかし、活動時期や、いろいろな特徴は、典型的な島弧とは違ったものになっています。マグマの由来は、地名のような、これと限定できるものではなさそうです。ただいえることは、非常に特異な地質場での活動だったということです。
 今年の5月に訪れた時、晴れてはいたのですが、風が強く、海の波が荒いときでした。ウスタイベ岬には、今年だけでなく、10数年前にも来たことがあります。その時も、風が強く、ゆっくりと見れなかった記憶があります。また江差の鴎島の千畳敷では、晴れでしたが、風の強い日でした。秋にも訪れる予定ですが、そのときは穏やかな天気であることを願っています。

・穏やかなお盆・
北海道は、穏やかなお盆となりました。
北海道の暑さも一段落し、
秋を思わせるような快適な時期となりました。
大学はお盆は、休校になりますので、非常に静かになります。
こんな時こそ、研究に打ち込むと、はかどります。
我が家はお盆とはいっても、特別ことはしません。
ですから、淡々と静かに仕事をしていましょう。

・バタバタと・
8月下旬から9月中旬にかけて、講義のない時期です。
しかし、公私ともに、ばたばたと忙しくなります。
校務出張、入試、本州への調査、学生の実習指導、
京都への帰省などが、次々と続きます。
でも、じっくりと長期の調査をし、
そして英気も養いたいものです。

2019年7月15日月曜日

175 宗谷岬:林蔵の旅立ち

 日本最北の宗谷岬に立って、北の方を眺めると、海の先に陸の影が見えます。樺太(カラフト)です。海峡は狭いです。カラフトと大陸の海峡も狭い、ということを発見した間宮林蔵の話です。

 道北(北海道北部)には、ノシャップ岬と宗谷岬が、2本の角のように北に突き出しています。西がノシャップ岬、東が宗谷岬になり、宗谷岬が日本最北端の地なります。そこが観光地として有名です。道北を訪れた人の多くは、宗谷岬へいくことになります。そして、「日本最北端の地」という三角のモニュメントがつくられています。そこから海をみると、天気が良ければ、陸が見えます。樺太(カラフト)です。以外に近く感じます。宗谷海峡は狭いということです。
 モニュメントでは、多くの人が記念写真を撮っています。私も宗谷岬には何度がいっていますが、そのたびに撮影しています。今年5月にも宗谷岬に訪れました。そのときに、はじめて気づいたものがあります。三角のモニュメントの近くに像がありました。像は、間宮林蔵です。何度も来ていて、見ているはずなのですが、注目していませんでした。記憶にもありませんでした。
 間宮林蔵は、北海道には関わりが深いので、大学生のときに伝記を読んだ記憶があります。そのときにはある程度間宮林蔵のことを知っていてました。そして、何度か宗谷岬に来ています。ですから、知識のある人の像を見ているはずです。目に入っていたのでしょうが、記憶に残っていませんでした。この林蔵の像は、生誕200年を記念して、1980年7月に建てられたものです。
 宗谷岬から少し西にいった稚内市宗谷村清浜には、「間宮林蔵 渡樺(とかば)出港の地」という石碑と案内板があります。樺(かば)とは樺太のことです。ここも何度か訪れているはずですが、まったく記憶にありません。今回はじめて、その内容に気づきました。北海道の中でも、宗谷岬は林蔵とはゆかりが深い地のようです。訪れた時は、波がありましたが、穏やかな波であれば、カラフトまですぐに行けそうな距離です。
 今回は、宗谷岬ではなく、間宮林蔵が主役となります。
 林蔵は、江戸時代後期の1780(安永9)年に、常陸国筑波郡(現在の茨城県筑波郡)で農民の子として生まれました。数学の才能があったので、幕臣の村上島之丞(しまのじょう)に見いだされて、1799年19歳の時、幕府に雇われることになりました。そして、1800(寛政12)年に蝦夷地御用掛雇(えぞちごようがかりやとい)となり、村上に従って北海道に渡りました。以降、1822年で43歳までの23年間、北海道で活動していました。
 林蔵の有名な成果は、樺太が島であることを発見したことでしょう。それを讃えて樺太と大陸の間を「間宮海峡」と呼ばれています。これは探検的成果といえるでしょう。林蔵は、そのために2度にわたって樺太の調査をしています。
 一度目は、松田伝十郎の従者として1808年4月13日(新暦5月8日 日付は稚内市教育委員会の碑の説明による)から6月20日(新暦8月11日)まで、探索しています。宗谷岬から樺太の南端のシラヌシ岬(現在のクリリオン岬)に渡りました。松田は樺太の西岸を、林蔵は東岸を手分けして進みました。しかし、林蔵はタカラ湾のシャークコタン(現在のポロナイスキー・ガスダールストヴェンニ・プリロドニ・ザポヴェドニクあたり)で先に進めなくなりました。まだ緯度でいうと、樺太の半分も進んでいなかったのですが、仕方なく引き返しました。
 樺太の一番細くなっているマーヌイ(現在のフスモリエあたり)で西海岸へむけて樺太を横断して、クシュンナイ(現在のイリンスコエあたり)へ出ました。そこから北上して、松田を追いかけ、ノテト(現在のトラムバウスあたり)で合流しました。合流後、ラッカ(現在の地名は不明あたり)まで進みました。その当たりは、樺太と大陸がもっとも近くなる海峡の入り口に当たります。そこで調査をして、樺太が島だと推定して、「大日本国国境」の標柱を建てました。林蔵は樺太が島だとの確信が、必ずしも持てなかったのでしょうか。不明ですが。そして、二人は宗谷岬に戻ってきました。3ヶ月弱の調査でした。
 林蔵は、報告をすませた後すぐに、さらに奥地の探索を願い出ています。それが許されると、20日ほどあとの7月13日(新暦9月3日)には、単身で樺太に2度目の調査に向かいました。
 樺太についてすぐに、現地のアイヌ人を雇い、西海岸を進みました。黒竜江(アムール川)の河口の対岸にあたるカラフトの北海岸のナニオー(現在の地名は不明)までいき、広い海になることを確かめ、樺太が島であることを確認しました。
 その冬は樺太のトンナイ(現在のネヴェリスク)に留まり、越冬した後、春に再度調査に向かいました。現地に住む人から、黒竜江(アムール川)下流の町のデレンに清国の役所があることを聞きました。海峡を渡ってアムール川下流を調査しました。1809年9月(新暦11月)に宗谷に戻りもどりました。1年以上樺太に滞在し、単独(アイヌ人従者やギリヤーク人の案内は同行)で、樺太と黒竜江周辺の調査をしました。すごい精神力です。
 これが林蔵の樺太の探検的調査の概要です。
 林蔵は、地理上の重要な成果として、北海道の地図のための測量があります。精密な日本の実測地図は、伊能忠敬(いのう ただたか)によってつくられました。忠敬は、日本のほぼ全体を測量しながら歩ききり、正確な地図にまとめたのですが、北海道の測量図の一部は林蔵によるものだとされています。
 林蔵は、蝦夷地御用掛雇になった1800年、箱館に来ていた忠敬に会い、師事し、天測術(緯度測定法)を学びました。林蔵は、その技術で、国後場所(国後島、択捉島、ウルップ島)に派遣された1803年には西蝦夷地を測量し、1806年には択捉(えとろふ)を測量しています。樺太の探索が終わった1812年からは、蝦夷地で忠敬の未測量地域の海岸を実測しています。
 1821年に完成した忠敬の「大日本沿海輿地(よち)全図」には、林蔵の測量が活かされているといわれています。一説によると、北海道のかなりの部分は、林蔵の測量図を、忠敬が利用していたともいわれています。また精度も忠敬より高かったとされています。北海道以北は、忠敬と林蔵の合作ともいえます。林蔵は、北海道の地理においては、非常に重要な役割を果たしたことになります。現在なら、弟子の成果を師が奪ったと問題にされるでしょうね。
 林蔵は、19歳から42歳まで、青年期から壮年期まで、北海道に捧げたといってもいいでしょう。林蔵にとって忠敬は師であり、測量技術を学んでいます。忠敬が十分測量できなかった部分を、林蔵が測量しました。恩師の偉業の一端を弟子として担えたのです。それは大きな喜びだったのではないでしょうか。林蔵たちが生きていた時代は、自身の業績よりも純粋に学問を楽しんだり、目的を達成することに満足感を持っていたのではないでしょうか。今の日本、世界は、自身がどれだけの業績を上げたかを示すことが、重要視されています。その権利として主張しています。せちがない世の中です。
 若き林蔵にとって、特に2度目の樺太の単独調査は、自身の実力を確かめる大きな契機となったと思います。宗谷岬での旅立ちのとき、自身の単独での探索への不安と緊張があったことでしょう。探索を終えて戻ってきたときは、自身の探査の能力の確信と達成感は、大きかったに違いありません。宗谷岬は林蔵にとって想い出深い地だったのでしょう。

・間宮林蔵・
間宮林蔵の本は、手元にないので確認できません。
小説で読んだような気がしますが、
ノンフィクションだったかもしれません、
記憶が不確かです。
検索してみると、吉村昭の「間宮林蔵」という小説があります。
これかもしれませんが、覚えていません。
1回目の樺太で林蔵が単独だったとき
それ以上、進めなくなったときの苦境が
書かれていたのをぼんやりと覚えています。
機会があれば、読んでみたいと思います。

・冷夏・
全国的にエルニーニョの影響で各地で
平年にない異常気象が起こっています。
北海道は冷夏です。
昼間、暑くて窓を開けていますが、
朝夕には寒くなるので窓を閉めます。
しっかりと布団かけて寝ます。
暑いのが苦手なので、
私には過ごしやすくていいですが、
農業への影響が気になります。
日照時間は、大丈夫のようですが、
気温が低い状態がつづています。
農作物にどのような影響があるのか少々心配です。

・夏休み・
大学は、前期の講義も終盤となります。
学生は、そろそろ夏休みのことを考えていることでしょう。
3年生と4年生のゼミ学生との飲み会が
講義の終わりに設定されています。
学生には、前期の打ち上げとなるでしょう。
教員は、8月のお盆前までは、校務が続きます。
私は、長期の野外調査はすでに手配しています。
8月下旬から9月上旬にかけて出かけます。
ただし、土、日曜日は大学の校務の分担があり、
空き時間が限られているので
予定は早めに決めて、その日程をおさえています。
9月の帰省も手配しています。
いつもの夏休みになりそうです。

2019年6月12日水曜日

174 知床半島:雁行の並び

 露頭や地形を見に知床半島にいきました。今回の重要な目的として、船から、半島の先端までの海岸の観察することでした。でも、思いは、海岸から千島列島にまで広がっていました。

 旅が好きな人には、行きたいと思っていても行けてない場所が、多数あるかと思います。時間をかけてじっくりと見てみたいと思っている場所も、多数あるはずです。私も、地元の北海道に、じっくりと見たいところが何箇所かあります。日本海にあるいくつかの離島もそうなのですが、交通の便もよく観光地ともなっている場所でも、行っていないところもあります。そこは、遠くてある程度時間をかけていく必要がある知床半島の周辺です。
 道東には何度もいっているのですが、知床半島には、近くまでいっていたのですが、十分な時間をかけて、じっくりと見たいと思っているうちに、何年もたっていました。そこで今回、知床半島をじっくりと見たいと思い、調査に訪れました。一番の目的は、半島の地形や露頭を見ることです。半島の先端の知床岬までみたかったのですが、道路はないのと、世界遺産でもあるので、観光船でクルーズとしていくしかありません。今回、ウトロからのクルーズを予約していました。
 今回予約したのは、海岸に近づけるそうなので小型船で予約しました。ただし、天気次第で欠航になることもあるとのことでした。幸い、今回は出港できた見学することができました。ただし、曇がかかっていたので、半島の山並みは見れなかったのですが、海岸はしっかりと見えました。
 知床半島と千島列島にかけて、不思議な地形があります。
 知床半島から千島列島、カムチャッカ半島まで、火山の連なった山並みからでてきます。このような火山はすべて、千島ーカムチャッカ海溝で太平洋プレートが沈み込んでいて、それに沿って島弧の火山ができています。道東でも、代表的なものでも、阿寒、屈斜路(くっしゃろ)、摩周(ましゅう)、斜里岳、海別岳、遠音別(おんねべつ)岳、羅臼(かざん)岳、知床硫黄岳、知床岳と火山が連なっています。
 さらに面白いことに、島の並びには特徴があります。知床半島から千島列島のウルップ島あたりまで、半島や島の地形と並びが、雁行(がんこう)状に連なっています。雁行状とは、雁(かり、がん)が飛んでいる時の様子を意味していて、「杉」のつくり「彡」の形に並んでいることです。島の並びは、火山の並びでもあります。
 通常の沈み込み帯では、海溝に並行して火山が分布し島弧となっています。ところが知床から千島にかけては、その並びが雁行しています。その理由は、太平洋プレートが海溝に斜めに沈み込んでいるためです。海洋プレートの斜め沈み込みで、圧縮方向が斜めになっています。すると、圧縮だけでなく、横ずれの力もかかっていくことになります。知床周辺では、右横ずれの力がかかっています。右横ずれとは、太平洋プレートから見ると、陸側が右にずれていくことです。そのために雁行状に火山ができたと考えられています。雁行状は、知床半島、国後島、択捉島あたりが、非常にきれいに並んでみえます。教科書的な雁行だとされています。
 ところが、択捉島より先にいくと、雁行状の配列が、不明瞭になって、海溝の並行になっていきます。これは、海溝が弧状に曲がっているため、沈み込む方向が直行するようになるため、圧縮の力だけで、横ずれの力が働かなくなるためです。
 海溝や火山の並び、火山列島などは弧状になっていることが多くなっています。なぜでしょうか。地球は多数のプレートで覆われており、活発な活動はプレート境界で起こります。プレート境界、海嶺は直線的ですが、海溝や島弧はほとんどが弧状になっています。それは、地球が球体であるため、プレートは球面上での運動となり、球体の大円や小円として現れます。海嶺は深くにあるマグマの上昇によるため大円に近くなり、海溝や島弧は表層の運動に基づく小円になるため弧状になるためです。海嶺では海洋プレートが形成されているため、その運動や力のベクトルは直線的ですので、弧状の海溝では斜めの力がかかるところができます。それが知床の付近の雁行配列を生み出しています。船上から、そんな大地形と火山の成因に思いを馳せながら眺めていました。
 クルーズでは、雲がかかっていたため知床の火山の山並みに見ることはできませんでした。しかし、火山がつくったさまざまな地形、火山岩の産状などもみることもできました。また、幸いなことに前日に、雲の切れ間から主だった山を見ることができました。
 今回は知床半島の一部しか、訪れることができませんでした。ですから、近い内に再訪したいと考えています。知床半島内には、他にもいろいろめずらしい地質現象があり、観光地にもなっているところも多数あり訪れたいものです。それは別の機会にしましょう。

・クルーズ・
今回のクルーズは小型船でしたが、
幸い海はまったく荒れることなく、
落ち着いて地形を眺めることができました。
小さ船ですが、船の屋上の屋外に座席があり、
そこから景色を眺めることができました。
一番いい席を確保して、見ることができ
大量の写真も撮ることもできました。
露頭や地形を見ることが目的でしたが、
他の観光客はヒグマを見ることが
大きな目的としていました。
幸い2頭のヒグマを見ることができました。
ドトも見ることができました。
行きは崖や岸によりながらなので
船はゆっくりと進むのですが、
帰りはまっすぐ帰るので
屋上の席は風が当たり、非常に寒くなります。
かなり着込んでいたのですが、それでも寒かったです。
多くの人は船内に戻っていったのですが、
私は最後まで外で頑張って半島を眺めていました。
3時間以上船に乗っていたので、
船を降りて方も寒さと陸が揺れていて困りました。

・知床岬・
これまで知床半島の先端の知床岬に
興味をもっていました。
それは、非常にきれいな海岸段丘が
広がっている草原が目についていたためです。
そこは、一般の人は入ることはできません。
これまで映像や写真でしか見ることができませんでした。
しかし、今回、知床岬の段丘を
船からですが、見ることができました。
感動しました。

2019年4月15日月曜日

172 日豊海岸:リアス式海岸

 リアス式海岸は風光明媚な海岸線になり、国立公園や国定公園などに指定されています。そのような複雑な海岸線ができる背景には、大地の大きな変動があったことを物語っています。

 宮崎平野の海岸は、冬でも温暖で、2月から3月の野球やサッカーなど各種のスポーツのキャンプ地として賑わいます。そのような風物詩を見ていると、穏やかで砂浜の広がる、なだらかな海岸線が続いています。しかし、宮崎平野より北や南を見ていくと、海岸線の景色は一変します。入り組んだ複雑な海岸線となります。このような海岸をリアス式と呼んでいます。リアス式海岸というと三陸海岸を思うかべますが、実は似たような海岸は、西日本には連続してあります。
 日南海岸は有名ですが、リアス式海岸であることがあまり知られていなのではないでしょうか。しかし、北の方の日豊海岸(にっぽうかいがん)は、もっと典型的なリアス式海岸で、知名度も少々低いようです。日豊とは、大分の中南部から宮崎北部にかけての地域です。今回の話題は、日豊海岸です。
 大分から宮崎にかけて、何度が調査にでかけました。そのときの様子も何度か紹介したことがあります。その目的は、岩石や露頭を見ることが中心となっていました。この周辺も何度か通っていて、海岸の地図もみていたのですが、リアス式海岸であることを、ほとんど意識していませんでした。
 大分県と津久見から宮崎県延岡に抜けるには、国道18号線も東九州自動車道も内陸を走っています。2017年に行ったときは、宮崎から自動車道で北上し、戻るときに海岸を通りながら南下しました。海岸線は、険しくくねくねしているので、早く目的地にたどり着くためには、幹線道路のある内陸を通ることになります。海岸線を通るとは急な断崖、半島など入り組んだ海岸線で、小さい島が点在しています。海岸の沿いの道路はありますが、曲がりくねり時間がかかります。海岸付近の生活道は、さらに狭くなっていて、車でも時間がかかります。徒歩で歩いていた時代は時間がかかったろうなと思います。海から船で行くことをしていたのでしょう。
 このような海岸の地形をみていると、海沿いにあるのですが、まるで山地のような谷や峰になっています。山並みがそのまま海に沈んだように見えます。見たとおり、この地域はリアス式海岸となっています。宮城県の松島に並び称されるそうです。リアス式海岸はもともと山地が海になっているので、陸地は起伏が多く、急な傾斜の山地が海岸にまで迫ることもあり、平地が少ないため、陸路での移動は不便になります。さらに平地が少ないので稲作には適しません。耕作地にするためには、水や交通の便も不便なところでした。
 ところが良い点もありました。深く切り込んだ谷が沈み込んでいるので、入江の水深も深く、入り組んでいるため、波も穏やかで、港には適したところが多数あります。古くから港が多数ありました。海岸が入り組んでいるということは、漁場も多くなり、外海は四国との間の豊後水道で狭くなっていて海流も激しく、黒潮の影響で水温も高くサンゴなどもあり、魚の種類も多くなっているそうです。そのため、漁業が盛んな地域となっています。
 さて、リアス式海岸ができるには、大きく2つのでき方があります。ひとつは、海面が上がって山地が海に没するものです。海岸線が上がるこということは、海水準が上昇することで、「海進」と呼ばれるものになります。海進は、地球の気候変動によるもので、温暖な時期に陸の氷が溶けたときに起こります。縄文時代の海進が、このような現象に当たります。海進は、世界的なもので、現在のように氷床ができると、海が退き「海退」となります。日豊海岸のリアス式海岸は、この仕組みでできたものではなさそうです。
 もう一つのでき方として、陸地が沈降してもリアス式海岸になります。陸地が沈降するのは、その地域の固有の地質現象になります。ただし、局所的にでも、なんらかの沈降する地質作用が必要になります。
 広域にリアス式海岸を作るような陸地の沈降には、大きな大地の営みが働いていることになります。この地はそのような大きな大地に営みが起こったようです。その証拠は、豊後水道の東側の四国にもリアス式海岸ができていることが挙げられます。四国側の愛媛県の西予、宇和島、愛南にも似た地形や似たようは海岸線があります。もっと広域に見ると、四国東部の徳島県の阿南や、紀伊半島西部の和歌山の有田から御坊、紀伊半島東部の三重県の伊勢志摩まで、海岸は複雑に入り組み、リアス式海岸が一列に並ぶようにできています。これは、九州から四国、紀伊半島にかけて、広く上昇したことを示しています。
 では、なぜ西日本の東西の海岸線にリアス式海岸できたのでしょうか。何があるのでしょうか。日豊海岸の北には日本列島を代表する重要な仏像構造線があり、さらに北には中央構造線が通っています。西日本を東西に横切る2つの大きな構造線が、リアス式海岸の北を通っていいることになります。
 このような構造線は、多数の断層が一連の地域でできることによって形成されています。つまり大地に大きな力が働いていることを示しています。断層とは、大地がずれてできるもので、横にずれる成分と、上下にずれる成分があります。リアス式海岸の存在を考えると、構造線の南側が大きく沈降していると考えられます。山が海になっているのですから、その沈降の大きさは想像以上のものになるのでしょう。
 リアス式海岸は、陸地では不便さと恵みをもたらしました。その背景には日本列島を横切る大地の大きな営みあったのです。

・夏タイヤ・
北海道も一気に暖かくなってきました。
この週末に車のタイヤを夏タイヤに交換しました。
だいぶ古くなっていたので、
新しい夏タイヤを購入して、交換していもらいました。
非常に混んでいていて、2時間ほど待たなければなりませんでした。
私は新しいタイヤを購入したので2時間でしたが、
タイヤ交換だけなら、7時間待ちとなっていました。
北海道の暖かくなると一気にタイヤ交換となります。

・アクティブ・ラーニング・
大学の講義が始まって1週たちました。
最初の1週は、やはり気持ちが重くなります。
今年から新しい授業が前期に2つ始まるので、大変です。
ひとつはアクティブ・ラーニングで進めるために、
いろいろ工夫や準備が必要になります。
学生も能動的になりますが、
教員も能動的に動くことになります。
新しい授業体制の導入もなかなか大変です。

2019年3月15日金曜日

171 エディアカラ:爆発した動物たち

 南オーストラリアのフリンダース山地は、巨大な山脈です。荒涼たる半砂漠のような大地で、太古の化石が見つかっています。これまで正体が不明だった化石なのですが、最近その実態が解明されました。

 オーストラリアは大きな大陸なので、車による移動もかなり時間を要します。すごいスピードで、長距離を走らなければならないので疲れます。舗装道路なら高速で進むのも容易なのですが、未舗装の道路も多く、高速で運転するとなると、長時間の緊張も強いられます。もし、カンガルーでも飛び出してきたら、大事故になってしまいます。そのためでしょうレンタカーには、バンパーの前に丈夫なフレームがつけられています。高速で大型のカンガルーにぶつかったらどうなるのでしょか。無事では済まないでしょう。オーストラリアでは、何度かレンタカーを使って旅行したことがありますが、幸い事故にもあわなかったので、衝突の衝撃は経験していません。
 さて、オーストラリアの荒野の化石の話です。1月のエッセイでバージェスの化石を紹介しました。バージェス頁岩で見つかった化石は、カンブリア紀中期の「カンブリア大爆発(Cambrian explosion)」の直後のものでした。「カンブリア大爆発」とは、カンブリア紀になって一気に生物の多様性が出現したことをいいます。
 古生物の研究は、当初、大型の化石を元に進められていました。大型化石はカンブリア紀まで遡れて、サンゴ類や貝類、腕足類、三葉虫などの動物化石が見つかっていました。時間を古い方から見ていくと、カンブリア紀に多様な大型の動物が、突然出現したようにみえます。連則的に生物が進化ということからすると、非常に不思議な現象にみえました。そのため、「カンブリア大爆発」と呼ばれ、その原因を探ることが、古生物学の重要なテーマでもありました。
 少し前(20世紀前半)までは、カンブリア紀以前からは、ほとんど化石が見つかっていませんでした。20世紀後半になると、カンブリア紀直前の時代からも、そしてもっと古い時代からも、保存のよい化石が多数、各地から見つかるようになりました。その結果、カンブリア紀やその直前に時代の生物進化がわかるようになってきた。
 オーストラリア、南オーストラリア州に、エディアカラ丘陵(Ediacara Hill)という地域があります。Google Mapをみてもこの地名は見つかりませんが、地質学ではかなり有名な地です。この地名を冠した化石群があるためにです。「エディアカラ生物群」と呼ばれています。「生物群」とされているのは、動物なのか植物なのか、それたも他の種(菌類や原生生物などの説もある)の可能性もあるからです。
 「エディアカラ生物群」は、カンブリア紀より前の時代(原生代)でエディアカラ紀(6億3500万~5億4100年前)の化石とされています。エディアカラ紀は、エディアカラ生物群が出現する時代ともいえます。エディアカラでは、保存のいい化石を多数産します。楕円形をしたパンケーキ状の化石「ディッキンソニア」やキノコ状の化石(ネミアナ)、同心円・放射状の構造のクラゲのような外形(シクロメデューサ)など多様で、サイズも数10cmにまで達する大型の化石が見つかっています。
 2018年9月のアメリカの科学雑誌Science誌に、「ディッキンソニア」についての報告がありました。ディッキンソニアは、120cm以上もあるのですが、この報告で、軟体動物であることが判明しました。これまでエディアカラの化石は印象化石であったので、生物の分類群を判別する決め手がありませんでした。形態だけでは、なかなか判別できなかったのです。
 軟体部しかない生物だったので、土砂に埋められたときは組織をもっていたのですが、固化するまでに有機物はなくなってしまいました。そのため、形態の痕跡だけが残って化石となっています。このような化石を「印象化石」と呼んでいます。印象化石だったので、生物の分類群を定めることができませんでした。
 この報告ではステロールという生物分子(バイオマーカーと呼ばれています)に着目して、成分から生物としての特徴を調べました。ステロールが非常に多く含まれている(最大93%)ので、動物であると判断されました。周囲の海底の地層には、ステロールはほとんど含まれていないことも確認されています。動物が作るステロールは、コレステロールと呼ばれるものです。
 これまでエディアカラ生物群は種類が不明だったのですが、少なくともディッキンソニアは動物であることが判明したことになります。今後、このようなバイマーカーを用いる研究で、生物の種類が判別されていくことが期待されます。
 カンブリア大爆発より前、エディアカラ生物群ですでに大型生物が出現していたことになります。それにしても、大型生物が突然出現するのは不思議なことです。それにはどうも理由がありそうです。
 エディアカラ紀の始まり(6億3500万前)より少し前(6億6000万年前)に、地球全体が凍るような「全球凍結」と呼ばれる氷河期がありました。サターティアン氷河期と呼ばれ、6000万年間続きました。氷河期から回復した直後が、エディアカラ紀となっています。氷河期を耐え忍び、住みよい環境が戻ってきた時、生物が一気に進化したように見えます。
 エディアカラ化石は、もともとエディアカラ丘陵(Ediacara Hill)で見つかったものです。アウトバックハイウエイB83がアデレードから北に伸びています。B83の東側には大きなフリンダース山地あり、西側にエディアカラ丘陵があります。エディアカラ丘陵は私有地の中にあるので、入るのには持ち主の許可が必要になります。許可をもらって柵を通り中に入りましたが、案内もなく向かっていたので、どこにエディアカラ丘陵があるかわからず探し回りました。地図にも丘陵の位置が不明だったため、荒野をうろうろたのですが、見つからずに時間切れで、捜索は断然せざる得ませんした。
 エディアカラ山の西にあるフリンダース山地でも、エディアカラの化石が見つかっています。フリンダース山地は、国立公園になっているので整備されており、化石の見学もコースに沿ってできます。

・大爆発・
本エッセイで述べたように、エディアカラ紀に
生物の大型化、多様化が起こっていることになります。
もしこの大型化、多様化を重視して
「大爆発」と呼ぶことにするのであれば、
「エディアカラ大爆発」というべきでしょう。
全球凍結という環境の激変があったからこそ、
生物の大爆発的進化が起こったことになります。
しかし、その検証作業は必要ですが。

・時代名称・
時代名称は従来の時代名があるときは
それがそのまま使われています。
新しく定義される時代の場合は、
時代境界となる標準模式層(GSSP)のある地域名が
使われることになっています。
先日ニュースにもなったチバニアンはその例となります。
エディアカラ紀のGSSPは、
エノラマクリーク(Eonrama Creek)にあります。
ここは、フリンダース山地の中にあります。

2019年2月15日金曜日

170 潮岬:トンボロの先のマグマ

 本エッセイに潮岬を取り上げるのは、二度目となります。前回は10年前になりますが、橋杭岩を中心に紹介しました。今回は、すぐ近くなのですが、潮岬を中心に紹介していきます。

 紀伊半島の南紀へは、何度か調査にいっていますが、機会があれば橋杭岩だけでなく、更に南の潮岬へも足を伸ばすことがあります。それは潮岬の先端には、見事な露頭があるからです。
 まずは潮岬について概要を紹介しておきましょう。潮岬は、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡串本町の南に位置しています。串本町自体も、紀伊半島の南端にある街で、役場は潮岬がある島のようにみえる地形のところと、本州が繋がっている平坦なところにあります。
 島のように見える地形のところは、実はもともとは本州とは離れていた島でした。いろいろ調べたのですが、島としての名称はないようですので、仮に「潮岬島」としておきましょう。沿岸の流れによって、海岸沿いの土砂が運ばれ、間の海に堆積していきます。やがて「潮岬島」と陸が繋がっていきました。このような地形をトンボロ(陸繋島)と呼んでいます。ですから、もともとは島だったので、島のように見えて当たり前なのです。
 「潮岬島」の東には、一回り大きな本当の島、紀伊大島があります。紀伊大島と「潮岬島」は、橋でつながっているので陸続きともいえます。くしもと大橋と呼ばれていますが、間にある苗我島(みょうがじま)があり、その手前で標高を稼ぐためにループ橋になっています。なかなか面白いところです。
 「潮岬島」と本州の繋がっているところは、平地になっているので家が立て込んでいます。平地の両側は海に面しているので、両側に港ができています。「潮岬島」と紀伊大島が、太平洋からの風や波を防いでくれるので、港としては地の利のあるところになります。
 潮岬は本州最南端とされていますが、地形図を見ると、灯台(潮岬灯台)があるところは御崎(みさき)という地名になっています。ですから灯台が最南端ではありません。灯台よりやや東に本州最南端の碑があり、その先の海岸にクレ崎と呼ばれるところがあります。地理的には、クレ崎が最南端にあたります。
 さて今回は、灯台付近の海岸に出ている露頭についてです。海岸の露頭は波に洗われて風化の少ない岩石になっています。露頭では、見事な枕状溶岩がみることができます。枕状溶岩だけなら、日本各地でよく見られるのですが、ここでは他の岩石との関係をみることができます。
 枕状溶岩に貫入している岩脈が見事です。この貫入岩は、枕状溶岩だけでなく、細粒の溶岩や水中破砕岩などの多様な産状の玄武岩に貫入しています。また、貫入岩も粗粒のドレライトや花崗斑岩、細粒のフェルサイト岩脈、また化学組成も塩基性から酸性までと、多様です。玄武岩は海嶺で活動するマグマに似た化学組成をもっていることが知られています。しかし、活動の場は、海底ではあるのですが、中央海嶺でないことはわかっています。
 多様なマグマの活動は、1500万年前~1400万年前に起こっており、潮岬火成複合岩類と呼ばれています。紀伊半島は四万十帯と呼ばれる付加体(四万十層群)と、その付加体を不整合に覆う熊野層群と呼ばれる地層が分布しています。
 潮岬火成複合岩類は、四万十層群や熊野層群を貫入しています。「潮岬島」の北部や紀伊大島では、熊野層群が堆積しているところにマグマが貫入していることとが見られます。堆積場でマグマの活動が起こったことになります。火成岩の中でも、化学組成が異なるマグマは玄武岩質と花崗岩質の少なくとも2種類ありました。玄武岩質マグマも花崗岩質マグマも互いに、貫入したり、貫入されたり、の関係がみられます。これは、同時期に2つのマグマだまりが存在し、活動していたことになります。そのため「火成複合岩類」と呼ばれることになっています。潮岬の露頭は、マグマの組成が多様で、複雑な堆積作用の場であったことを示しています。
 この時期、紀伊半島から四国、九州にかけて、似たような火成作用が広範囲で起こっています。海側(前弧海盆と呼ばれるところ)の付加体が形成されているところで起こっています。日本列島は複雑な地質状態になっていたことが知られています。日本海が形成され拡大している時期にあたり、拡大に伴って西南日本が回転していました。さらに、フィリピン海プレートが、新たに西南日本に沈み込みはじめます。このフィリピン海プレートは、活動中の海嶺が沈み込んだと考えられています。
 大陸の縁にあった日本の原型が、日本海ができることで大陸から切り離され、列島が形成されていく最後の時期にあたります。非常に活発な地質変動の時代で、特に西南日本は、通常の海洋プレートの沈み込み帯とは異なった状態に置かれていたことになります。
 かつて西南日本は、典型的な沈み込み帯、付加体と考えれられていたのですが、どうもそうではないことが明らかにされてきました。典型ではなく、特異な地質環境であったことも頭に入れておく必要あります。少なくとも始新世(3000万年前)以降、日本海が形成される頃から、通常の地質場とは異なった環境に置かれることになります。その上で、何が特異で何が普遍なのかを見極めていく必要があります。
 「潮岬島」の南側で海を眺められるところは、平坦な面になります。平坦面に車を置いて、海へは急な断崖を降りていくことになります。この平坦面は海岸段丘です。この付近では、2つの面があります。海岸段丘の形成は、第四紀の新しい時代の異変によるものです。帰りは、平坦面まで異変によってできた崖を登ることになりなかなか大変です。海岸には、もっと古い時代の、もっと激しい異変が記録されていますので、帰りは苦労しても、一見の価値があります。

・自然現象・
冬の前半は、雪が少ないなと思っていました。
しかし、後半には例年になく厳しい冬となっています。
1月から2月にかけては、
何度かの冷え込み、かなりの降雪・積雪もありました。
今では、排雪が間に合わず、
道の脇にうず高く雪の山ができて
すべての道が、狭く見通しが悪くなっています。
季節ごとの変化は受け入れていくしかありません。
自然現象は、黙々と対処していくしかありませんね。

・帰省・
2月下旬に、故郷に帰省します。
毎年この頃に、帰省するようになってきました。
大学が一番休みの取りやすい時期で
野外調査に適さない時期でもあります。
私は1週間ほど滞在して、母に関することを
いろいろ処理する予定です。
また今年は、我が家の家族が
母の実家に集合する予定をしています。
子どもが家を離れると
なかなか全員で集まる機会が
少なくなってきます。
今回は、貴重な機会になります。

2019年1月15日火曜日

169 バージェス:高き峰から遠き過去へ

 明けましておめでとうございます。昨年は、道内の話題が多くなりました。今年最初のエッセイは、カナダのロッキー山脈にある小さい露頭です。ロッキーの高き峰にある露頭で見た、遠き過去への旅です。

 今回は、海外調査に行っていた頃の昔話です。博物館にいた時期の海外調査です。2001年7月にカナダの露頭の調査です。
 現在もそうですが、当時から地層境界に興味を持っていました。その興味は、地層に地球の時間記録がどのように記録されているのかという、現在の興味にちながっています。当時は、時代境界を示す典型的な露頭を調査するというプロジェクトを自身で組んでいました。その一環でカナダにも数箇所、調査にいきました。
 顕生代の地層境界で一番大きな区分は、古生代と中生代の境界(P-T境界と呼ばれます)、中生代と新生代の境界(K-Pg境界)になります。これらの境界は、その前後で生物種が大きく変わっていることが、重要な区分の根拠となっています。過去の生物種の変化は、化石によって決めることになります。研究が進むにつれ多数の化石が見つかることで、古生代、中生代、新生代の中も非常に細かく区分されてきました。
 生物種が大規模に変化するということは、生物の大絶滅があったことを示唆しています。生物の大絶滅があっということは、地球規模で環境の変化、天変地異といっていいようなものが起こったことを示唆しています。このシナリオが正しいのなら、時代境界は、環境変化の著しいものほど、大区分の時代境界になるべきでしょう。
 当時の私の興味は、生物がいない先カンブリア紀の区分を、どう論理的に整合性を持っているのか、持たせるべきかということを考えることでした。現在では、研究が進み、先カンブリア紀のいろいろな時代にも生物の痕跡があることがわかってきました。ですから、それらの痕跡から時代区分することも将来はできるかもしれません。
 顕生代の生物のように殻や骨など化石に残りやすいすい組織を先カンブリア紀の生物は持っていません。ですから現状では、大きな環境異変を大雑把に捉えて、そこで生物が大局的にどう変化したかを、少ない化石から検証することになります。
 その中でも、一番検証しやすい時代は、先カンブリア紀(エディアカラ紀、かつてはベント紀と呼ばれていました)とカンブリア紀の境界(E-C境界)です。この境界では、それまで化石がほとんどない時代(先カンブリア紀)から、突然化石が大量に見つかるカンブリア紀になります。これは大きな異変です。化石に残る生物一気に進化してきたことになります。その時代境界に何が起こったのか、それが地層にどう記録されているのか、に当時は興味をもっていました。
 日本ではその地層境界はありません。そして訪れたのが、カナダのバージュスト山(Burgess)でした。長い前置きでした。古い話なので今は状況がどう変わっているのかわかりませんが、当時の話として読んでください。
 日本からインターネットでバージェス山へのツァーが申し込めました。1日15名が上限で1グループしかその露頭へは入れないとされていました。それは、この露頭が、世界遺産として保護されているためでした。日本から、ツァーを申し込んでおきました。約10kmほどの行程ですが、目的地は標高2280mにあり、その標高差は700mもあり、時間にして約10時間かかるツアーでした。
 そもそも、なぜここを訪れたのかというと、カンブリア紀に生物の大発生が起こったことがわかった露頭がある地だったからです。ここで、カンブリア紀中期(5億1500万年前)、バージェス動物化石群が見つかっています。
 午後2時ころ、目的地に着きました。そこはあまりに小さい露頭でした。絶壁にへばりつくように、幅数m、長さ10mもないような石切場として、露頭はありました。こんな小さな露頭が、世界的に有名なところで、世界遺産にまで指定されているのです。そして、化石は、この小さな露頭からだけからしか見つかりません。
 その小さな露頭を、ウォルコットの石切り場(Walcott's Quarry)と呼んでいます。ウォルコットとは、スミソニアン研究所のウォルコットのことで、1909年に発見し、何度か発掘して石切場のようになっていることにちなんでいます。ウォルコットは、65,000個の標本を採集しました。露頭が小さいので、時々調査をして化石を発掘しています。保存にいい多種の化石が見つかっており、「カンブリアの大爆発」と呼ばれる由来ともなりました。その後も、何度か発掘調査がされています。
 この露頭の岩石は、バージェス頁岩とよばれる細粒の堆積岩なので、化石の形が残りやすくなっています。私もそこで多数の化石を見ることができました。私たちが行っても、石の割れた面に変わった化石を一杯見つけることができました。多くは破片ですが、変わった化石であるということは、化石の専門家でない私でも分かりました。その最たるものがアノマノカリスと呼ばれる怪物のような生き物でした。腕(キバ?)の化石でした。今からは想像もつかない、奇妙でまさに怪物と呼ぶべき生き物たちの化石が見つかっています。もちろん持ち出し禁止で、撮影のみです。
 健脚の人が歩けば10時間ほどでいけるそうですが、露頭からの帰りは、自由に降りていいいことになりましたので、私は11時間ほどで降りてきました。かなり年配の方もいたので、最終的に全員が降りてきたは、もっと後のことでしょう。
 ウォルコットの石切り場は、カナディアン・ロッキー山脈のヨーホー国立公園の中にあります。ヨーホー国立公園の中心地のフィールド(Field)という小さな村から出かけました。当時はまだ体力もあったのですが、もう二度と行けない場所になっています。

・バージェス頁岩・
バージェス頁岩は、スティーヴン・ジェイ・グールドが著した
「ワンダフル・ライフ バージェス頁岩と生物進化の物語」
で大変な反響を呼びました。
私もその本を読んで、行きたいと思っていました。
まだ若かった頃のことでしたので、
なんの問題もなくたどり着きましたが、
今では無理でしょう。
そんなまだ見ぬ地で、面白いところが
世界にいっぱいあることでしょう。
残念ですが、現在はとりあえず日本だけです。
日本でも、そんな地がまだまだいっぱいあるはずなので
見つけていこうと思っています。

・ステファン山・
当時、もうひとつの世界遺産にいきました。
ステファン山へのツァーでした。
こちらも大変ハードなもので、800mの標高差を、
2時半くらいで一気に登っていくことになります。
しかし、その地は仰天しました。
散乱している岩にすべて三葉虫が
うじゃうじゃ入っていました。
疲れも吹き飛ぶ露頭でした。