2020年12月15日火曜日

192 イスア:束の間の体感

 グリーンランドのイスアに、20年ほど前に訪れました。長い道中と高い費用をかけたのですが、短時間の滞在しかできませんでした。しかし、その時に味わった体験や感動、記憶の強さは、時間に比例するものではないようです。


 北海道は新型コロナウイルスの感染拡大が10月末からはじまり、現在も継続し、12月11日までの集中対策期間が12月25日まで延長され、そして1月15日まで注意喚起が延長されました。我が家も自粛生活を継続することになりました。もちろん外に出かけることも最小限にしています。わが町でも、毎日のように感染者がでています。ウイルスが身近に飛び交い、危険性も迫っている気がします。今回も、以前訪れたところを紹介していきます。

 さて今回は、グリーンランドの話題です。名前を聞いたことも、どこにどんな形の陸地であるのかも、知っている人も多いでしょう。しかし、観光地ではないので、実際に訪れた人は少ないでしょう。私が訪れたのは2000年7月ですから、20年ほどの前のことになります。その時の記憶や記録をもとにお送りします。かなり昔のこと経験なので、現在とは状況がかなり変わっていると思いますので、ご注意ください。

 グリーンランドには、2週間ほどの予定をとってでかけました。目的は、ひとつのところを見ることでした。そこは、イスア(Isua)というところで、人家もないのですが、地質学では有名なところでした。

 氷に覆われているグリーンランドですが、人が定住しています。グリーンランディックと自らを呼んでいる、イヌイット(エスキモー)とも共通する人たちです。黄色人種で、私たちにも似ており、どことなく親しみがあります。彼らの多くは、かつては海岸沿いの地で、漁労や狩猟の生活をしていました。訪れた時には、国の政策によって、都市部の大きなアパートなどに定住するようになっていました。

 グリーンランドは、デンマーク領になっており、デンマークから白人が移住してきています。グリーンランドの冬は長く厳しいので、仕事も余り多くはなさそうです。ですから、夏にだけこの地で暮らす人もかなりいるようです。

 地質学を専門とする人は、グリーンランドと聞くと、地球でも古い岩石や地層などから、古い記録の発見の報告でよく聞く地なっています。中でも約38億年前にできた岩石が、イスアに分布していることも、地質学者ならよく知っています。地質学者は、デンマークからはもとより、世界各地からこの地を訪れ、夏の間を地質調査をして過ごす人がいます。地質学者ならだれもがこの地に興味を持っているでしょうが、実際にその地を短時間で訪れることは多くはありません。なぜなら、時間も経費もかかるからです。

 日本からは、北極周りでデンマークまでいって、そこからジェット機でグリーンランドの大きな空港を経由して、再度プロペラ機に乗り換えてヌーク(Nuuk 半島の意味)までいきました。今では、コペンハーゲンからの直通便があるのでしょうか。知りません。ヌークは、デンマークの人は、ゴットホープ(Good hope よき希望)と呼んでいて、グリーンランドでは最大の都市で「首都」に当たります。日本からヌークまで、時間もかなりかかって行くことになるので、日程に余裕をもたなければなりません。イスアに行くために10日間の日程を組んでいました。

 当時ヌークのホテルは限られていて高額だったので、民泊をしました。看護師のおばさんの自宅の空いている部屋に滞在しました。おばさんは朝早くでかけるので、自分で作って朝食を食べ、夕食は作ってもらったのものを一緒に食べました。ヌークには、6日間(5泊)滞在しました。ヌークからイスアへは、ヘリコプターをチャーターしなければなりません。イスアにいくために、天候不良だとヘリコプターは飛べないので、4日間の日程を押さえていました。その経費もなかなかのものです。結局は初日に飛べたので、グリーンランドでは時間的には余裕がありました。海外旅行で同じ日程での2倍の費用がかかりました。

 以前勤めていた博物館には、イスアからの岩石が展示されていました。その実物、そしてイスアの映像も画像もみていました。しかし、本物を見たい、現地で体感したい思っていました。その希望がかなったのです。

 イスアには、そこにしかない古い地層と岩石がありました。38億年前の堆積岩と海洋底を構成していた岩石がありました。堆積岩も海洋底の岩石も、海があった証拠となるものです。イスアの堆積岩も海洋底の岩石も地球で最古のものです。地球最古の海の記憶を、肌で感じることができました。それが、遥かイスアへの旅の目的だったのです。

 ヘリコプターで飛んだとき、イスアに向かう草原で、霧の晴れるのを待つために1時間どの天候待ちをしました。もともと、現地では、5時間ほど滞在して目的の岩石や地層を転々と見ていく予定だったのですが、天候待ちによって、3時間ほどしか滞在できませんでした。

 イスアで驚いたことには、テント村があったことです。荒涼たる地に、夏の間だけ、地質学者たちが野外調査をするためにできたものでした。世界中から地質学者たちが集まっていました。日本人地質学者も訪れたことがありました。そのキャンプ村のリーダとして、デンマークの地質調査所の地質学者のアペルがいました。彼からは、数日ほどテント村に滞在すれば岩石がよく見れたのにといってくれました。そんな状況になっているとは知りませんでしたので、日帰りの予定を組んでいたので、時すでに遅しです。

 イスアに滞在したのは、結局3時間余りでした。調査というには、余りにも短い時間でした。ヘリコプターにアペルが同乗して案内してくれたおかげで、非常に効率的に目的の岩石を見ることができました。代表的な岩石を見、標本も採集しました。もちろん、何日も滞在して調査すれば、もっといろいろ調べることができたと思います。私が見残した大切な岩石や地層も一杯あったと思います。

 イスアでしたかったのは、地質調査もさることながら、現場を見て感じることでした。イスアという地で、風景の中に自分をおき、風や空気、温度などを五感を伴って、岩石や地層を肉眼で見て触りたかったのです。そして、感じたことを記憶に残したかったのです。3時間余りでしたが、イスアを感じることができました。そして、どんな調査旅行よりも濃密な印象に残っています。イスアの地には、今後二度と訪れることがないでしょうが、その記憶は一生残って忘れないでしょう。そんな記憶から、このエッセイも生まれました。


・民族の嘆き・

民泊させていただいた看護師のおばさんは、

グリーンランディックでした。

定職をもち、居住場所も確保している恵まれた人でした。

二人の子どもうち、ひとりはデンマークにいて、

ひとりは同居しているのでは、デンマークいっていました。

一日夕食のときにアルコールを飲んでいる時

おばさんは酔ってしまいました。

自分たちの民族の風習のビデオを見せてくれました。

そして自分の子どもの民族の言葉を話さないし

都会へ憧れていると嘆いていました。

自分のルーツともいえる風習や言語が

なくなっていくのは寂しいことです。

そのおばさんの嘆きは、

北海道のアイヌの人たちにも

共通するものなのでしょうね。


・自粛生活・

北海道は冬を迎えました。

新型コロナウイルスも猛威を奮っています。

我が家の自粛は、春と同様です。

家内が買い物や日常生活のことはしてくれています。

ですから、私は大学と自宅の往復だけで生活しています。

講義がすべて遠隔になり、会議も遠隔になっています。

大学でも研究室にいる限り誰とも会いません。

それでも、同じフロアーの先生には時々会いますし、

所要で職員と会うこともあります。

でも、大学では、講義も研究も食事も

すべて研究室ですませています。

淡々としているのですが、

なんとなくこんな生活にも慣れてきました。

いいことなのでしょうかね。

2020年11月15日日曜日

191 駒ヶ岳:噴火と景観の形成

 北海道の秋は足早です。10月下旬と11月上旬に校務で函館にでかけました。その時、大沼に立ち寄りました。大沼の背後には、駒ヶ岳がそびえています。大沼の景観は、駒ヶ岳なしには語れないところです。


 新型コロナウイルスの感染が、これまでにない広がりを見せています。しかし、以前のような厳しい自粛はまだ取られていません。そのため、コロナ対策のルールに従っていれば、市町村境界を越える移動も可能になっています。越境を伴う校務で、何度か出かけることになりました。近隣の市町村への出張もありましたが、最近、函館方面に連続して2度出かけることになりました。大学の講義や校務において、どうしても行かなければならない出張でした。

 函館周辺のエッセイは、何度か書いたのですが、今回も函館周辺になります。街中では、地質の話を書くのはなかなか大変のなので、今回も大沼での話題となります。大沼は、車で周囲を回れるので、時間があれば巡っています。今回も、紅葉の湖畔を巡りました。

 大沼は、「大沼国定公園」に指定されています。大沼は、沼があるだけでなく、背景に駒ヶ岳が聳えているために、その景観に変化や彩りを与えていることが大きな特徴となっています。駒ケ岳は、独立峰として聳えているのですが、その姿が奇異で特徴的です。火山の形を見ていると、もともとは富士山のようなきれいな成層火山であったと想像されます。ところが現在の姿は、山頂部が東にむかって壊されているため、角が2つ聳えるような姿になっています。大きな噴火によって、山頂部が吹き飛ばされてできたものです。そんな激しい噴火を想像させるような姿になっています。

 またその麓は、なだらかに波をうったような地形も見えます。また、周辺には、小さな火山(寄生火山と考えられています)もあります。これも火山によるものです。なんといっても大沼の景観も火山の賜物です。

 国道から大沼に入っていくと、JRの線路と道路が橋がかっているところにさしかかります。ここは、大沼と小沼の間の狭い水路になっているところです。「白鳥台セバット」と呼ばれています。セバットとは地形名なのですが、「狭戸」という漢字表記をすることがあります。外国語由来ではなく、アイヌ語由来の言葉で「狭い場所」という意味ではないかと考えられています。この地のみに使われている言葉です。冬期は、大沼も小沼も凍ってしまうのですが、このセバット周辺は、水の流れがあるため凍らないので、白鳥などの冬の渡り鳥の休息場所になっています。11月の出張で函館から帰る道すがら、高速道路を走っている時、白鳥の渡り鳥の群れを見かけました。大沼に向かっていたのでしょうか。

 大沼の他にも、周辺には蓴菜(じゅんさい)沼など、小さな沼がいくつもあります。また沼の中には、岩の小島があり、周辺にも小さな丘が転々とあります。沼の中の丘は、126個もあるそうです。このような地形は「流山(ながれやま)」と呼ばれています。

 流山とは、火山噴火(地震などで壊れることもある)によって火山が崩壊して、山を構成していた岩石や溶岩が麓に流れ下り、大小さまざまな塊が残ったものが丘を形成した地形をいいます。大沼は、流山の典型的な地形を持っているところで、沼の中に丘が点在するという素晴らしい景観を形づくっています。沼の背景には、駒ヶ岳の異様な山体が聳えています。

 これらの景観は、過去に起こった何度かの大噴火によって、現在の姿になったと考えられています。駒ヶ岳は歴史時代にも大きな噴火が何度もおこっており、古文書にも記録されてきました。1640年、1694年、1856年、1929年は、大量の軽石を噴出する大噴火を起こして、火砕流も発生しています。

 特に1640年の噴火では、大規模な山体崩壊(クルミ坂泥流とよばれる岩砕なだれ)が起こったことで津波が発生して700余名の死者が出たことが、古文書の記録(「松前年々記」など)に残っています。大沼も、もともとは河川があったところに、1640年の火山噴火で川がせき止められて、沼(堰止湖といいます)として形成されました。

 1929年(昭和4年)の噴火も大規模で、軽石噴火と火砕流が発生しました。人家や耕作地、漁場に被害を与え、2名の死亡も確認されています。駒ヶ岳は、活火山に指定されていますので、さまざまな観測装置で噴火の前兆を捉えるように観測網が敷かれています。また、ハザードマップも作成されています。現在は警戒レベルはもっとも低い1ですので、登山もできます。登ったことはないのですが、駒ヶ岳からの眺めも素晴らしいのでしょうね。

 噴火の間隔はいろいろで、噴火の規模もさまざまですが、繰り返し大きな噴火が起こっていますので、注意は必要です。しかし、噴火の起こっていない時の方が圧倒的に長い期間となります。そんな平時には、火山による素晴らしい景観も、周辺にある温泉も火山の恵みを味わっていきたいものです。


・積雪・

11月に函館に向かう前日まで雪でした。

予報で雪なるとわかっていたので、

出かけるために、いつもより早く、

スタットレスタイヤに交換しました。

しかし、凍った道は、スピードも出せないので、

約束の時間に間に合うようにとかなり早めにでました。

すると、一部、雪道はあったのですが、

無積雪期と同じ程の時間で着きました。

長く函館に滞在する時間がありました。


・五稜郭・

今回の校務は、函館の街中でした。

一度目は湯の川という温泉地に近いところでしたので、

温泉に宿をとりました。

こちらも早めに付きそうなので、雨模様でしたが、

紅葉の真っ盛りの大沼を巡りました。

2度目は、五稜郭に近いところでした。

時間があったので、五稜郭の見学をしました。

紅葉も終わりに近いでしたが、

五稜郭で、晴れた青空に映える

イチョウの大木の紅葉を

いくつも見ることができました。

2020年10月15日木曜日

190 スコットランド:ハットンの不整合

  2002年に訪れたスコットランドを紹介します。訪れたところは、ジェームス・ハットンが見つけた不整合の露頭です。この不整合は、斉一説という現在の地質学にとっても重要な概念を導入するものでした。


 今年は野外調査に出れないので、以前行った地域を紹介しています。今回は、イギリスのスコットランドです。2002年に訪れた時の話しですから、現状では変わっているところがあるかもしれません。ご了承ください。

 現在、本の執筆をしているため、その準備で地質学史の概略をまとめています。すると、地質学はイギリスで発祥したことがよくわかります。今回は、ジェームス・ハットンが地質学の重要な概念を示したイギリスのスコットランドを紹介します。

 スコットランドの地質図をみると、東-西から北東-南西に伸びる大きな断層が何本かあります。エディンバラの北には大グレン断層が、南にはハイランド境界断層があります。それらにはさまれた地が、エディンバラとなります。大グレン断層は、北東-南西方向に伸びて、アイルランド地域に大きなくびれをつくっています。この断層内には、ネッシーで有名なネス湖などがあります。ハイランド境界断層は、イングランドとスコットランドの境界付近にある断層です。この断層の北側には、シルル紀の地層を主としていますが、デボン紀の地層が不整合によって重なっています。南側はデボン紀から石炭紀の地層を中心としています。これらの地層は、カレドニア造山運動で形成されたものです。

 エディンバラの西方に不整合がみられる有名な露頭があります。ハットンが最初に不整合を記録したところです。シッカー・ポイント(Siccar Point)というところで、「ハットンの不整合」と呼ばれている露頭があります。ハットンは船でこの地を訪れましたが、私は道路から牧草地を歩いて、崖を下ってたどり着きいて、やっと見ることができました。初日は牧草地から、急な崖を降りて海岸にたどり着いたのですが、帰りにはこの海岸に降りる道を見つけ、2日目には楽に登り降りできました。

 さて、不整合とは、地層と地層の間に、堆積物がたまらず、侵食を受けたもので、地質学的には大きな異変が起こったことを意味します。その異変とは長い時間をかけて起こったものです。水中に地層がたまる環境がありました。その堆積場が上昇して陸になります。陸地になると風化や浸食により、地層が削られていきました。陸地が再び沈み海になり、新たな地層がたまってきます。その境界が不整合となります。その海で溜まっている地層が再度陸地になることで、私のたちの目に触れることになります。不整合の上下は、長い時間の間隙があり、時代も構造、岩質も異なる地層が接することになります。不整合とは、「証拠が消失した大きな地質学的異変」ことで、そして「証拠のない」証拠でもあるのです。

 このような不整合の存在とその地質学的意味を最初に示したのが、ジェースム・ハットンでした。不整合という地質現象を、上で述べたような科学的な解釈を示しました。そのため、ジェームス・ハットンは、近代地質学の祖と呼ばれています。

 「ハットンの不整合」は、シルル紀の地層の上に、デボン紀の地層が、不整合で重なっています。シルル紀とデボン紀の地層の境界は、イングランドやウェールズでは、不整合ではなく整合で重なっています。スコットランドでは、傾斜した不整合になっています。

 シルル紀の地層は、ぺらぺらとはがれやすい性質(葉理の一種)の粒の細かい砂岩から泥岩と、粒の粗い白っぽい砂岩との繰り返しの地層です。この地層は、海でできた地層で、褶曲し断層や割れ目がたくさん形成された色の濃い砂岩から泥岩からできています。この堆積物は、かつてスコットランドが属していた大陸ローレンシアという大陸の前面にあったイアペタス海の沿岸や海底にたまったものです。地層の最下部には、礫層(基底礫層といいます)があります。このような基底礫のあることも、不整合の有力な証拠となります。

 デボン紀の地層は、赤から赤褐の色をもった砂岩からレキ岩の粒の粗い堆積岩からできています。赤い砂岩は、「旧赤色砂岩」と呼ばれる岩石です。旧赤色砂岩は、イギリスのカレドニア造山運動でデボン紀(4億850万~3億6250万年前)を象徴するもので、イギリスやアイルランドに広く分布しています。スコットランドでは、層厚が5000mに達するところもあるようです。このような堆積物は、山脈に囲まれた湖(オルカディ湖)で、川の浸食で多くの堆積物が運び込まれた環境でたまりました。石材としてよく利用されているので、エディンバラの建物は赤い石で建てられた、赤い町並みとなっています。

 ハットンは、不整合に代表されるような地質現象が、長い時間をかけて起こるため、地球の景観は、何百万年もかけてつくられたのだと論じました。これは、斉一説と呼ばれる考え方です。ハットンは、斉一説の考えで、地質学の基礎を構築しました。斉一説とは、現在起きている地質現象が、過去にも同じように起きていたという考えです。この説は、地球の歴史を調べるうえに、「現在」が有力な情報を与えてくれることになります。背一説を象徴する言葉として、「現在は、過去の鍵である」という言葉があります。

 ハットンの斉一説は、激変説(あるいは天変地異説)と対立しました。激変説は、フランスの博物学者キュビエらが中心となって唱えていました。激変説では、地球の歴史は4000年ほどで、その間、大洪水や大地震に何度もおそわれ、破壊が繰り返されたとする考え方です。斉一説か、激変説か、大いにもめましたが、ハットンの考えを踏襲したライエルが、斉一説を広めたことで、激変説は衰えました。

 激変説は、聖書にあるノアの洪水などにつながっていたので、斉一説の普及はキリスト教の力に陰りをもたらすことになりました。ライエルの斉一説に基づいて、ダーウィンは進化論を提示しました。進化論は自然選択という長い時間を要する変化によるものでした。その長い時間を、地質学の斉一説が保証してくれたのです。


・GoToキャンペーン・

GoToキャンペーンでさまざまなものに

ポイントや割引が適用されています。

ずるい使用やお金持ちの厚遇などの問題もあるようです。

このような税金のバラマキの使い方に

疑問を感じているのは、私だけでしょうか。

多くの人が多くの組織が、

コロナ禍で傷んでいることは事実です。

旅行業も宿泊業も傷んでいるでしょうが、

医療をもっとも最初に、手厚い手当を

していくべきではないでしょうか。

今回のコロナ禍を現状の程度でとどめているのは

医療従事者の努力のおかげです。

そこへの重点的手当は国民のだれもが

納得するものだと思うのですが。


・過度の適応・

大学の遠隔授業は継続しています。

小中高校では通常授業が再開されています。

小中高校は学習指導要領の縛りがあるため、

授業をしなければなりません。

それに遠隔授業をできる準備もできていません。

大学は遠隔授業への備えがあり、

急な対処にせまれましたが、なんとか持ちこたえています。

本来対面授業でするべきことを

遠隔授業でおこなっていては、

本来の学びの効果へは達しないように思えます。

それに学びだけが学校生活ではないはずで、

人間的な結びつきが希薄なままで

大学生活をすごしていいのでしょうか。

コロナ禍はすぐに終わりそうにありません。

このまま何年も続くようだと、

教師も学生も遠隔授業への過度適応がおこり

歪な大学生活になってくのではないでしょうかね。

2020年9月15日火曜日

189 宗谷:氷河のあった頃

 氷河期に周期性があることは、よく知られています。周期性を現在の気候変動に当てはめて考えることが、なぜかなされていません。宗谷の氷河地形から、氷河期に思いを馳せましょう。

 9月初旬にスケジュールを空けることができたので、道東に今年はじめて野外調査する予定を組んでいました。ところが、8月末に体調不良を起こし、短期間ですが入院しました。その体調不良のため、野外調査の中止も含めて当面の計画もすべて変更になりました。まあ、悪く考えるときりがないので、考え方を切り替えて休息できたと考えましょう。
 今回こそは、新しい調査の様子を紹介したかったのですが、昔いったところを紹介することになります。残念ですが、しかたがありません。ご了承ください。
 氷河期の話からはじめましょう。最も新しい氷期(ヴュルム氷期)は、最終氷期とも呼ばれているのですが、7万年前~1万年前までの期間です。日本列島では、日本海と太平洋の間の海峡が狭く浅いため、氷河期には太平洋からの暖流の流入がなくなりました。そのため日本列島はより寒冷化し、西日本にも亜寒帯の植生となっていました。降雪量が少なかったようで、氷河はあまり発達していませんでした。もちろん、高山地帯の日本アルプスや高緯度の日高山脈では、山岳氷河が形成されていました。氷河期の最盛期には列島だけでなく大陸とも陸続きになっていて、動植物の移動し、人類も歩いて来ていました。
 ヴュルム氷期が終わると、急激な温暖化の時代に入っていきます。日本では縄文時代となります。地質時代区分では、完新世(かんしんせい)と呼ばれる時代になります。完新世のはじまりは、1万1700年前とされています。この時期から急激な温暖化が起こります
 氷期と間氷期には周期があります。その周期は10万年が優勢だと考えられています。あまり規則正しい繰り返しではありませんが、ここ100万年間ほどは、10万年周期になっています。それ以前は4万年周期になっています。いずれにしても氷期と間氷期が、繰り返されることが、ここ2、300万年間の地球の気候変動の特徴となっています。ですから、10万年の周期性は今後も繰り返されそうです。
 この氷河期と間氷期の周期には、変動のパターンが決まっています。間氷期の温暖期は短く、1万年ほどで終わります。その後、一気に氷河期に入っていき、平均気温で10℃ほど下がります。氷河期に入ってもじわじわと気温が下がり続けて、氷河期の終わり頃にもっとも寒冷になります。そして、間氷期になり一気に温暖化が起こり、10℃ほど上がります。このようなパターンを、氷河期と間氷期で何度も繰り返してきました。
 現在の間氷期は、1万年ほど温暖な時期が続いています。現在もっとも暖かかった縄文期より2℃ほど下がっています。もし、これまでの変動のパターンが繰り返されるのなら、近うちに、再度、氷河期に入っていくと予想されます。これまで、氷河期への転換は短期間で起こってきました。ですから、いつ氷河期に転換し、寒冷化しても不思議ではありません。そして一旦、氷河期が訪れると、寒冷期は10万年間ほど続きます。
 地球温暖化が問題になっていますが、これは数10年、せいぜい百年間の単位での予測です。しかし、上で述べたように、数万年、数十万年、数百万年の単位で地球史を見ると、全く違った未来が見えてきます。
 この過去の歴史を地質学者はよく知っているので、温暖化というものはあったとしても、温度の変動幅や人類、生態系への影響を考慮すると、寒冷化の方を問題視、危険視しています。なかなか声高に主張する地質学者が少ないのですが。
 北海道では、氷河期に氷河のあった証拠がいくつも見つかっています。
 氷河は主には山岳地域にあったもので、山岳氷河の証拠になります。その痕跡が、山岳地形のカールとして残されています。本エッセイでも、幌尻岳のカール(36 幌尻岳:石を愛でる楽しみ 2007.12.15)として、取り上げたことがあります。カールとは、稜線に雪が貯まり、氷として固まって移動することで、山腹が丸くスプーンで削られたような地形ができていきます。カールの底は平坦になります。カールの周辺では、岩盤に氷河擦痕(氷河にけずられた痕跡)や、カールの先にはモレーン(氷河に運ばれ土砂のたまった地形)の堆積物などが見つかって、氷河あったことがわかります。
 このような氷河地形を見つければ、そこに山岳氷河があった証拠となります。幌尻のカースでは、モレーンの地形が2段あることから、2万年前と4~5万年前に氷河が成長したこともわかっています。
 また、氷河のあった地域には、適応した高山植物(ツクモグサ)や動物(北海道のナキウサギや本州の雷鳥など)が生息し、高山には現在も残っていてます。生きた化石、氷河期の生きた証拠となっています。
 さて、前置きが長くなりました。今回紹介するのは、山岳氷河ではなく、比較的平坦な丘陵地帯でできる氷河の周辺にできる地形です。周氷河地形と呼ばれる氷河期にできた地形です。
 日高山脈は北海道の中央部を南北に走る山脈です。襟裳岬から、道央の大雪山まで続きます。これが北海道の脊梁ともなっている山並みで、急峻な地形となっています。しかし、大雪山より北側では、急峻さはなくなり、宗谷岬まで穏やかな山並みが続きます。
 宗谷周辺の山並みには不思議な地形が広がっています。景色は、典型的な北海道の酪農地帯なのですが、ゆるい傾斜の丘が広がっています。しかし、谷は、急な切り込みとして船底状や皿状の谷(デレと呼ばれるもの)が刻まれています。このような不思議な丘陵地形は、酪農に適していて利用されています。
 宗谷の丘陵地帯は氷河の周辺にあたっていて、硬い岩盤ではなく土壌もあり、植生も少なかったため、このような周氷河地形ができました。 氷河期に終わって、宗谷には林がありましたが、明治に起こった山火事により、樹木がなくなりました。その後も低温と強風のため、樹木が回復せず、草原地帯になっています。そのため、周氷河地形がよく見れるようになっています。
 また、地中の温度が氷点下になり凍結して土壌に破砕が生じます。凍結と融解が繰り返されることで構造土、地表面が盛り上がったピンゴやパルサなどと呼ばれる丸い丘ができます。ピンゴが陥没してたアラスと呼ばれる凹地もできます。このような周氷河地形が宗谷周辺の丘陵にはあります。
 実は、宗谷へは、ここ2、3年、何度か周氷河地形を探して観察しにいったのですが、なかなかいい場所が見つかっていません。再度、訪れて、典型的なところを見つけたいものです。今年度は宗谷へいくことはできません。しかし、来年度には、もう一度でかけたいと思っています。

・来年のこと・
今月上旬の道東への調査も、日程と、大学の許可で
なんとか出かける予定を組んだのですが、
都合で出かけられなくなりました。
今年は新型コロナウイルスで、
まったく野外調査ができてませんでした。
来年度は、新型コロナウイルスがどうなっているかはわかりませんが、
この様子ならば、道外への調査は難しいと考えています。
次年度の調査計画は、道内だけで組もうかと考えてます。
9月なのに来年年度のことを考えるのは、早すぎるでしょうか。
実は、9月下旬から、来年度の科研費の申請がはじまります。
そのため、来年度のことをついつい考えてしまいます。

・後期も遠隔授業が主・
来週の連休明けから、大学の後期の講義がはじまります。
対面授業も一部で復活します。
大人数の講義は、遠隔授業でおこなわれます。
遠隔授業も、ライブ授業は許可されていません。
対面授業が復活するため、
学生にとっては、大学と自宅での受講が混在するため、
遠隔でのライブ授業を、聞けない学生がでてくるためです。
なかなか悩ましいものです。

2020年8月15日土曜日

188 北アイルランドの道:ジャイアンツ・コーズウエイ

 自粛のため、未だに野外調査はいけてません。昔でかけた、北アイルランドの紹介をします。かなり前の訪問でしたが、多分、現在もそんなに変わっていない風景や生活があるのではないかと思えるところでした。

 自粛が長く続き疲弊している上に、お盆の帰省の抑制とGoToキャンペーンの遂行に空々しさを感じます。どこかにでかけることは、良識的に躊躇してしまいます。そのため、本エッセイも過去の調査を振り返りながら、何度かお送りしてきました。残念がながら、今回も以前の調査のエッセイになります。8月末から校務出張がはいってきますので、9月になったら、様子をみながら、道内で野外調査を実施したいと考えていますが、どうなることでしょう。
 北アイルランドのジャイアンツ・コーズウエイ(Gaiant's Causeway)というところを紹介します。かなり以前(2003年)にいったのですが、その光景は今も、強く心に残っています。我が家の玄関には、ジャイアンツ・コーズウエイの土産物屋で売られていた、白黒の点描画を飾っています。ですから、毎日目にしている光景になっています。
 ジャイアンツ・コーズウエイのジャイアンツ(Gaiant)は「巨人」で、コーズウエイ(Causeway)とは「敷石がひかれた道」という意味です。ですから、「巨人が石を敷いた道」という意味です。このような伝説ができたのは、大きな石が規則正しく、広域に広がっています。人が動かせないほどの大きな石が、規則正しく大量に並んでいます。ですから、「巨人が石を敷いた」と、昔の人は考えました。ケルト神話に登場するフィン・マックール(Fionn mac Cumhaill)という巨人にちなんでいるそうです。特に、海岸に伸びている部分は見事です。
 この敷石の道は、自然にできたもので、柱状節理でできています。柱状節理は、このエッセイでも何度も出てきましたが、節理(せつり)とは、岩石の中にできる割れ目のことです。不規則な割れ目を、亀裂(きれつ)と呼び、規則的なものを節理と呼びます。節理は、岩石が収縮したときや圧力が開放されたときできます。割れ方によって、柱状、板状、放射状、方状がありますが、ここでは柱状になっています。
 ジャイアント・コーズウエイの柱状節理は、5500万年前に、大きな溶岩が流れ、それが冷えたものです。マグマが固まるとき、液体より固体のほうが少し体積が縮みます。その時、岩石に規則正しい柱状の節理ができたものです。節理の柱の断面は、差し渡し30から50cmほど6角形から5角形をしています。正確な角形はないのですが、一個一個の形や大きさは似ていいます。でも良く見ると、どれひとつとして同じものはありません。不思議な幾何学的な模様で、それぞれ類似と差異があり、いくら眺めていても見飽きない面白さがあります。
 この柱状節理が大量にできるところでは、その規則性が故に、人工的なものに感じてしまいます。ですから、ケルトの人たちも、巨人が作ったと考えたのでしょう。
 ジャイアンツ・コーズウエイは、多くの人が簡単に訪れることできる場所にあり、300年以上前から観光名所として、イギリスでは知られていたようです。ここは、世界遺産に指定されています。各地で大小の柱状節理を見てきましたが、ここの節理は見応えがありました。
 ジャイアント・コーズウエイでよかったのは、観光案内が地質学的な説明を中心にしていた点です。観光案内書でも、地質学の詳しい内容が盛り込まれています。ビジターセンターでは、地質図が何種類も売っていました。地質図がそのまま観光案内にもなっていて、トレイル沿いでみられる岩石や節理の説明がついています。
 イギリスは、地質学も教養の一部で、玄武岩、ドレライト、岩脈、岩床など地質学的用語が当たり前に使われています。現在、日本でも世界自然遺産やジオパークなので、地質学も観光に取り入れられるようになってきた。イギリスでは古くから地質を楽しむことがなされていたようです。
 このような敷石の景観は、8kmほどの散策コースになっています。最初はジャイアンツ・コーズウエイの海岸沿いを歩き、途中から崖の上の牧場の柵沿いに歩くものです。ガイドブックでは3時間ほどのコースと書かれていましたが、観察をしながら歩いたためでしょうか、4時間半ほどかかりました。長い時間がかかりました。でも、5500万年前のマグマがつくったさまざなま節理を堪能しました。
 この周辺には自然道もいくつもかあり、その多くは海岸沿いの崖に見えるさまざなまな節理をみていくものです。地質のガイドブックにもいくつかコースが載っていました。イギリスは、ナショナル・トラストによって、そのような自然道がよく整備されています。
 もうひとつの違いは、日本の観光地にはきまって土産物屋や旅館などの観光施設が多数あります。地元の人が、観光を売り、観光客もそのような観光施設を利用します。しかし、ジャイアンツ・コーズウエイは、田舎のためでしょうか、観光地らしく見えませんでした。世界遺産になっていましたから、たくさんの観光客が、世界各地から訪れ、日本人の観光客にも会いました。それでも、観光客によって荒らされていない、自然を満喫できるようになっていました。
 ジャイアンツ・コーズウエイのそばにはビジターセンターがあり、中にはささやかな土産物もあります。そして、ひとつだけりっぱなホテルがありました。それだけでした。
 いちばん近くの町に泊まったのですが、古くからの観光地に最も近い町でしたが、土産物屋らしきものはありませんでした。ただ普通のアイルランドの田舎の町のたたずまいでした。夕食を食べるところも、いくつかしかない町でした。生活に必要な小さなスーパーマーケットが3つ、床屋や美容室などの専門店がいくつかあるような、ごく普通の田舎町でした。ここは、地元の人とたちが、生活に必要なものを手に入れるために集まる、町本来の意味を持っているところなのだという気がしました。でも、とても、静かな町でした。アイルランドの人たちは、観光客が来ても、我を忘れることがないのでしょうね。
 自分たちがすべきこと、そして通り過ぎていく人たちには、最低限のサービスで済ませている様な気がします。自分たちの生活を崩していない気がします。昔から生きてきた方法を守り、それが普遍性、恒久性を持っていることを知っているように見えました。
 もう一度訪れて、何日か滞在したいところです。

・ライブ講義・
来週から集中講義があります。
15回分を4日で、リモートでの授業です。
ライブでの講義でおこなってきます。
受講生が少ないので、顔を見ながら、
対話をしながら進めるつもりです。
現在も、講義内容を練っています。
前期の授業が終わってすぐなので、
準備の時間が足りなくて困っています。
採点も遠隔での課題が大量にあり、
それぞれを評価しなければならないので大変です。
短時間ですべてをこなさなればなりません。

・老後のこと・
海外の野外調査には、この大学に来て数年は
行っていましたが、その後テーマの変更もあり、
まったくでかけていません。
多分、残された在任期間では
海外調査にはいけそうにありません。
退職したらと思っていますが、
高齢の上に海外での自家用車の運転は少々心配です。
特に欧米は時差ボケなどがあると事故が心配です。
ツアーにしょようかなどとも考えています。
もう、老後のことを考える時期になってきました。

2020年7月15日水曜日

187 澄江:なだらかな丘陵からのSSF

 今回は常春の街、昆明の近くの澄江(チェンジャン)の紹介です。澄江は、中国南部の雲南省の省都の昆明から南東にある町です。ここは古い時代の化石がでることで有名になったところです。

 新型コロナウイルスのため、まだどこにも出かけられません。3月以降、わが町を一歩も出ていません。基本的に自宅と大学の往復だけを日々繰り返しています。8月初めの校務(近隣市町村)での出張が最初の越境になりそうです。8月下旬にも校務出張があるので、その以降は道内の野外調査に出たいと考えています。今回も新しい話題が提供できないので、昔の海外調査を紹介しましょう。
 もう20年も前になりますが、2000年10月下旬に中国の澄江(チェンジャン)にいったときの様子を紹介します。Google Mapでみると、私がでかけた当時とは、かなり様変わりしているようです。そのため、以下の紹介は、当時の記憶と記録で紹介していきます。もしかすると記憶違いもあるかもしれません。ご了承ください。
 当時、私は研究テーマとして、大きな時代の境界、とくに原生代(エディアカラ紀、かつてはベント紀と呼ばれていました)と顕生代(カンブリア紀)の境界(V-C境界とも)が、どのような露頭で見られるのかを目的としていました。そのため、他にもカナダのバージェス、オーストラリアのエディアカラ、カナダのニューファンドランドのフォーチュン・ヘッドなどの露頭を見ては、比較していました。重要な露頭を観察することが一番の目的でした。当時、化石の産地や産状には興味がありましたが、化石や試料には執着はありませんでした。この傾向は今も継続しています。
 さて、中国、雲南省昆明の空港から車で2時間ほどいくと、撫仙(フーシエン)湖にたどり着きます。風光明媚なところで、小さいですが小綺麗なホテルが1軒あって、そこに泊まりました。Google Mapでは、現在、大きなホテルや都市化が進んだ町並みができているようです。
 翌日、北の山の方のなだらかな丘陵地帯に出かけました。丘陵の中のにある小さな崖が目的地でした。ここは、古い時代の化石がでることで有名になっており「澄江化石群」と呼ばれていました。この産地が、どのようなところかが、気になっていました。
 澄江へは、日本発で地質関係者向けの調査旅行があり、それに参加していきました。北京大学の地質先生が案内についてくださったので、一人ではなかなか入れないとろも見ることができました。
 澄江の帽天山周辺からは、20世紀初頭にはすでに軟体部をもった動物の化石の産地として報告されてました。しかし、注目されることはありませんでした。1984年に化石の軟体部が発見され、その量の多さと多様さで注目を浴びるようになりました。1990年ころまでに、次々と新たな化石の報告がされてきました。澄江化石群として、新種も多数見つかり、196種が記載され、多様性も多くの分類群に渡っていることもわかってきました。
 澄江が注目されているのは、カンブリア紀初期(5億3000年前こと)の化石がたくさん出るからです。一般に生物の多様な化石が出現するのは、カンブリア紀以降の顕生代と呼ばれる時代です。カンブリア紀は5億4100万年前からはじまるのですが、その直前から生物出現の兆しがあります。エディアカラ紀の化石は、いくつかの地域で見つかっていて「エディアカラ化石群」と呼ばれています。
 カンブリア紀初期になると、急激に多様な生物が大量に見つかることがわかってきました。古生物学者のシンプソン(G. G. Simpson)はそのような現象を「爆発(explosion)」と表現したことから、「カンブリアの大爆発」と呼ばれるようになりました。また、著名な古生物学者のグールド(S. J. Gould)が「ワンダフル・ライフ」という科学普及書で紹介したことから、「カンブリアの大爆発」という現象が、一気に有名になりました。最近では中国内でもいくつかの地域でカンブリア紀の化石が見つかってきましたが、当時、一番注目されているのが、澄江でした。
 丘陵地帯の道路を進むと、門があり、さらに進むと小さな露頭がありました。その小さなが露頭が、澄江化石群の産地だと紹介されました。そこに麦わら帽子をかぶり、竹の棒をもったおばさんが一人ポツンと立っていました。聞くとことによると、このおばさんは化石の出る露頭の盗掘を監視するために立っているとのことです。まったく人が来そうもないところですが、案内の方がそう説明されました。当時、中国では世界遺産として澄江を登録をする準備をしていたのでしょうが、ひとを雇って露頭を守っているというのには驚きました。
 案内の先生は、露頭からは試料は取れないが、落ちている石は保護対象ではないので採取可能だといったので、同行者たちはたくさん試料を拾っていました。専門の研究者が、すでに化石は採取しているので、ほとんど化石はなさそうでした。博物館用(当時は博物館に勤務していました)に、典型的な試料をひとつ採取しただけでした。
 露頭見学後、その道をさらに進むと、南京大学の研究所支所がありました。研究者用の宿舎もそなえた立派な研究施設が、丘陵の真ん中にぽつんとありました。そこで在住の研究者に会って話を聞きました。一通り話を聞いたあと、お土産にといって、好きな資料をお持ちくださいと試料がぎっしりつまったダンボールを出されました。いい化石の入ったものはありませんでしたが、化石の破片が見える試料も多数ありました。他の同行者は、喜んでその化石をもらっていきました。私はあまり興味がなかったので、博物館用に少しだけにしました。
 さて、露頭から丘陵側をみると、山を削って岩石を採取してトラックで運んでいるのが見えました。案内の人に聞いたら、この周辺にはリン鉱床があり、肥料として使うので採取しているとのことでした。リンは同時代のリン酸を殻としてもっている化石の集まりだとのことで、重要な化石の産地が消えていると嘆いておられました。
 この化石は、貝殻としては小さもの(small shelly fossils)でした。カンブリア紀のはじまりは、当時の貝殻の素材には、炭酸塩、リン酸塩、二酸化ケイ素が使われていました。ただし、必ずしも殻として体を守るためにではなく、体の一部となっているものもあるようです。
 現在多くの生物は、殻を炭酸カルシウム、あるいは二酸化ケイ素でつくっています。それは海洋生物にとっては手軽に入手できる素材だからです。カルシウムやケイ素は、大陸の侵食、風化があり、河川から定常的に海に供給されています。大気中の二酸化炭素や酸素は海水に溶けこみます。いずれも常に一定量海水にあります。現在の生物は、簡単に手に入る材料で殻を作っていることになります。
 ところが、カンブリア紀の生物には、リン酸という稀な成分で殻を形成していました。なぜでしょうか。リンはDNAには不可欠な成分です。それを確保するためであったものが、殻や体を支える骨格として利用されていったのではないでしょうか。その理由については、まだ解明されていないようです。
 帽天山周辺の地区は、当時、雲南省澄江国家地質公園という名称でジオパークに指定され、世界遺産に登録する手続き入ったところでした。2008年にはリンの採掘は禁止されたとのことです。14箇所もあった採掘場所がすべて閉鎖されました。土地をもとにもどす修復プロセスもおこなっているようです。
 澄江の露頭を見て、国際的なジオパークや世界遺産などへの登録を通じて、中国でも自然保護の意識が芽生えたことは重要でしょう。現在どうなっているか知りたいものですが、行けるのでしょうかね。

・梅雨前線・
活発な梅雨前線の影響で、
日本各地で大雨となっています。
非常に長い期間つづくので大変です。
特に、九州を中心に洪水被害が各所でています。
被災された方にはお見舞い申し上げます。
北海道は幸い今のところ、大雨にはなっていません。
このような大きな被害の時は、
政府の支援や自衛隊の救援も必要ですが
人手も必要なのでボランティア活動も重要です。
しかし、新型コロナウイルスの危険性もあり、
気軽には呼べばない事態にもなっています。
悪い事態が重なってしまいました。
一日も早い回復を願っています。

・行政執行・
中国の自然保護の意識はどの程度でしょうか。
以前は、住民への保証はほとんどなく
強制的に強引に開発を進めているとも聞いていました。
澄江のリン鉱の採掘業者への保証は
どうなっていたのでしょうか。
他国のことながら気になります。
日本なら、たとえ行政執行をしたとしても
それなりの保証はあるかと思いますが。

2020年6月13日土曜日

186 竜宮の潮吹き:岩脈と信仰

 新型コロナウイルスの影響で、しばらくどこにも出かけられない日々がつづています。多分、多くの人が同じ思いを抱いていることでしょう。このエッセイで、少しでも旅に出た気分を味わっていただければと思います。

 今回は、山口県の北西部にある長門市の話題です。昨年8月末の調査は、悪天候に祟られていたのですが、大雨の秋吉台の翌日、数少なかった晴れた日に訪れた地でした。
 長門市は、下関市と萩市の間に位置しており、今回の目的地は、海岸の露頭です。長門市の海岸は、日本海に向かって、東には青海島(おおみじま)が、西には油谷(ゆや)半島から向津具(むかつく)半島が、牛の角のように、曲がりくねりながら突き出ています。今回訪れたのは、油谷半島の付け根にあたる油谷(ゆや)津黄(つおう)の海岸です。
 油谷津黄の海岸は、複雑な海岸線になっており、岩礁や洞、小さな入り江などの景観があり、北長門国定公園にも指定されています。高さ200mを越すところもあるような、切り立った崖の海岸になっています。この崖は、海での浸食でできた海食崖です。
 津黄の海食崖に「竜宮の潮吹き」と呼ばれるところがあります。崖の海面近くには、小さな穴(縦1m、横20cm)隙間が空いているそうです。海が荒れて波が激しくなって、この穴に波が当たり海水が入り込むと、中の空気が圧縮され、穴から一気に外に吹き出します。その時、一緒に音と立てて空気が飛び出すとともに、海水も吹き上がります。このような現象は「噴潮(ふんちょう)」と呼ばれています。条件(北東の風)が合えば、最大30mの高さにまで噴潮が上がっていくそうです。その様子は、龍が天に登るように見えるとのことです。残念ながら、私が訪れたときは、噴潮はありませんでした。この噴潮現象は国の天然年記念物及び名勝に指定されています。
 海岸の露頭は、津黄安山岩と呼ばれる火山岩からできています。そしてこの竜宮の潮吹きの起こる崖には、みごとな岩脈がみられます。典型的な貫入岩を観察することができました。岩脈は、幅15から20mで、少し陸側に傾いていますが、貫入面がきれいに見えています。ただし、岩石は安山岩ではなく、デイサイトと呼ばれる火山岩です。
 岩脈は変質していて、赤褐色や黄色、白っぽくなったりと、色合いが平行になっています。このような並行な色合いは、マグマが貫入した時、流れた様子をそのまま反映したもので、流理構造と呼ばれます。貫入面に近いところは、赤褐色になっており、緻密細粒で、急冷縁と呼ばれるものがよくわかります。これれらの特徴は、このデイサイトが貫入岩であることをよく表しています。
 この周辺には、前後して火山活動が多数起こっています。今岬玄武岩、津黄安山岩、デイサイト岩脈に区分されされています。今岬は、ここから6kmほど東にあり、海に1kmほど突き出たところを中心に、今岬玄武岩やその火砕物が分布しています。この貫入岩は、津黄安山岩の分布地域にあります。
 津黄安山岩は、安山岩溶岩を主としていますが、下部に巨礫岩、中部に火砕岩質の礫岩から砂岩、泥岩の地層があります。デイサイト岩脈は、この津黄安山岩類に貫入しています。貫入されている津黄安山岩類は、火山砕屑物を主としていますが、粗粒で淘汰の悪い堆積物(礫岩から砂岩)になっています。地層面が明瞭ですから、水中で堆積した地層のようです。デイサイトは、3500万年前ころに貫入したマグマだとわかっています。時代は、古第三紀始新世後期になります。
 岩脈を見に来たのですが、竜宮の潮吹きは、残念ながら噴潮現象は見られませんでした。この噴潮現象の海岸には、元乃隅(もとのすみ)神社という有名な観光地でもあります。当然ですが、この神社のほうが有名で観光地となっています。
 この神社は、貫入岩の崖よりさらに上の崖に建っています。神社から海岸まで曲がりくねった100m以上の急な坂道が参道になっています。そこに多数の鳥居(123基あるそうです)が並んでいます。その並ぶ鳥居が壮観で、観光名所となっています。
 昨年行った時も、平日にもかかわらず、駐車場には車がいっぱいで、歩いている観光客も多数いました。駐車場から海岸まで下って、岩脈をじっくりと観察しました。海岸を散策するのんびりと観光客は少なく、岩脈に興味を持っているのは私だけでした。まあ、地質や石というマイナーな興味なので、しかたがないのでしょう。でもこの岩脈はなかなか見応えがあったのですが。じっくりと岩脈を見た後、鳥居の列が見事な参道を登っていきました。
 元乃隅神社は、もともとは元乃隅稲成(もとのすみいなり)神社という名称だったそうですが、CNNが2015年に「Japan's 31 most beautiful places」(日本で最も美しいところ31)に選んだ中にはっていたことで、海外からも多数の観光客が来るようになりました。ところが、長い神社名は外国人にわかりにくいということで、2019年に現在のものに変更したそうです。外国人、観光のために、社名を変更とは驚きです。まあ、考え方はいろいろですが。
 ホームページをみたところ、元乃隅神社は新型コロナウイルスの感染防止のため、現在は「参拝中止」だそうです。境内と鳥居内には入れないとのことでです。ただ、龍宮の潮吹は、自由にいけるようです。

・リモートにて・
北海道、札幌も緊急事態宣言が解除されました。
札幌ではまだ新規感染者がでていますが、
だんだんと状況は好転しているので、
順次、レベルはゆるくなっていくようです。
大学でも先週からレベルもひとつゆるくなりました。
とはいっても、学生および部外者の入構禁止は継続中です。
現在、講義も会議も、すべてネット経由のリモートでの対応です。
私は、毎日、大学の研究室まで通っています。
研究とリモート授業の準備があるためです。
研究室内は一人きりなので、マスクはしていませんし、
通勤も人の少ない時間帯、場所しか通らないので
マスクは不要なのでしていません。
ただ、大学で人に会う時(少ないですが)のみ
マスクを使用することになります。
そんなときは、ついついマスクを忘れて、
研究室に取りに戻ることもあります。
休みも家内が買い物をしてくれるので、
出かける必要はありません。
まあ、いつもの日常の研究生活を同じですかね。

・調査へ行きたし・
調査に出れないことが辛いですね。
今年予定していた調査は、
四国、東北、北海道3箇所でした。
それが道内は今後可能かもしれませんが、
道外は予定が立たないので諦めることにしました。
でも、9月以降なら道内なら
調査にでることは可能かもしれません。
期待していますが、どうなるのでしょうかね。

2020年4月15日水曜日

184 石見畳ヶ浦:大地のずれ

 現在の島根県西部には、石見とついて地名や建物、店などがあります。石見は古い地名です。石見の小さな町の外れにある海岸。そこには大地のダイナミックな歴史が残されていました。

 山陰の石見(いわみ)は、昔の呼び名ですが、現在の島根県西部に当たります。石見は、東から大田、江津、浜田、益田が主な町として、日本海側に連なっています。山陰地方は、北側が日本海に、南側は中国山地に続く山並みが海岸近くまで迫っているところが多くなっています。そのため、町も海岸に点々とあります。石見の日本海側に面した町の多くは、河川によってできた小さな沖積平野や山沿いにつくられています。
 石見といえば、世界遺産となっている石見銀山が有名です。以前にも、エッセイ「180 石見銀山:暮らしの中の世界遺産」(2019.12.15)で紹介しました。石見銀山は、東の大田市に位置しています。
 今回紹介する浜田は、石見でも西に位置しています。浜田もいくつかの地区に市街地が別れています。浜田市の中心街は、浜田川の河口付近や山地を削って拓かれています。そこから北東にある下府(しもこう)は、下府川の河口の小さな沖積平野に拓かれた町です。町の周辺は、侵食の進んだ山地になっています。
 今回、紹介する石見畳ヶ浦は、浜田市下府の町の北はずにあります。畳ヶ浦へは、昨年の秋に訪れました。行きには浜田の山の方でアルカリ火山岩を見るために登ったのですが、大雨のために諦めました。帰りに浜田を通ったときは、旅行日程の内、唯一とっていいほどの数少ない晴れ間でした。
 畳ヶ浦は、平坦な岩が海岸沿いに広がっているところで、国指定の天然記念物となっています。いくつかの地質学的特徴があるための指定なのですが、そのひとつに、浜田地震によって海岸隆起が起こった地形で天然記念物の指定の理由として、「有史後ノ隆起海床トシテ模範的ノモノナリ」とされています。
 浜田地震は、1872(明治5)年3月14日の夕方、浜田を中心にマグネチュード7.1と推定される地震が発生しました。それまで畳ヶ浦は馬の背と呼ばれる山地から延びた尾根の部分が、海岸に少し顔を出してる程度でした。この地震により、国分(こくぶ)海岸一帯が、1.5mほど上昇しました。その結果、畳ヶ浦が現在の姿になりました。
 ただし、地震の上昇に関して疑問も提示されています。その理由は、1845年頃の作成されたとされている江戸時代(1845年ころ)の沿岸絵図に、明治5年に隆起して現れたとされる地形が、すでに描かれているということです。もしこの絵図の制作年が正しければ、地震により突然現れたのではなく、以前から干潮のときに見えていて、地震によって完全に陸化したことになります。ですから、地震で一気に1.5mも上昇したというのは、大きすぎる値だったかもしれません。
 上昇の原因や時期はさておき、畳ヶ浦には、海岸での隆起地形があります。波によって平らに侵食された平坦な波食棚(波食台、海食ベンチとも呼ばれます)が広がっています。その広い波食棚を千畳敷と呼んでいます。海岸沿いには、波食棚だけでなく、海食崖や波食窪、波食溝など、海での侵食地形を観察するには適しています。海食崖には礫岩層と砂岩層の地層がよく見られます。
 畳ヶ浦で海食地形ができているのは、波で削れられるほどの柔らかい地層であるためです。畳ヶ浦周辺の地層は、1500万年前ころ(中新世中期)にたまったもので、唐鐘(とうがね)層と呼ばれています。地層の下位に大きな礫を含む礫岩層があり、その上位が砂岩層になっています。このような地層の配列は、陸に近いところで礫岩が堆積した後、沈降して沖合の海になり砂岩はたまったと考えられます。
 また、地層から産出する化石の特徴から、海の環境であることが推定されています。化石には貝類が40種ほど見つかっており、その大部分が暖流の影響を受けた熱帯から亜熱帯の気候に棲んでいたものだったことがわかっています。他の化石として、クジラの骨、フナクイムシの巣穴、木などが見つかっています。
 千畳敷の地層には割れ目が発達していて、ある地層の中に丸い石が連なっているのが観察できます。その丸い石の並びは、11列あるそうです。このような丸い石は、ノジュール(団塊)と呼ばれています。化石の多く集まっているとこでは、化石の成分から滲み出た石灰分(炭酸カルシウム)が周りの砂岩を固めて丸くなりました。ノジュールは、石灰分が多く含まれているため、周りより固くなっているます。固いため、周りが侵食されても残ったと考えられています。そのため、ノジュールの中に、化石が多数集まっているのが観察できます。
 畳ヶ浦の後ろには、「馬の背」と呼ばれる山が迫っているのですが、見ると崖がいくつか見えます。その崖では、本来であれば礫岩層がつながっているべきところに、砂岩層が見ます。もともと礫岩の上に砂岩が重なっているのですが、海側の砂岩側の崖が下がっていることになります。その間には、くぼんだ谷が見えます。これは、断層によって地層がずれて、その断層のところが谷になっていと考えられています。この断層の形成は、明治の海岸上昇よりずっと前の出来事になります。畳ヶ浦の地層には、他にも断層がいくつか見ることができます。
 畳ヶ浦周辺は、地域の人たちの散歩や魚釣などのレジャーの場となっているようで、多くの人が歩いていました。気軽に来れる散策コースですが、地質も見どころもいろいろあります。なかなか見ごたえがある海岸でした。

・調査中止・
ゴールデンウィークに予定していた調査日程が、
大学の方針で中止になりました。
また、5月中の実習指導の出張と兼ねて
周辺地域への調査へ行く予定を組んでいたのですが、
それも5月なのでキャンセルとなります。
すべての予定が変更となってきました。
世界的な疫病ですから、自粛は仕方がありません。
このエッセイのネタも、
新しいものが仕入れられなくなります。

・自粛ストレス・
自粛が多くの人にストレスをもたらしていると思います。
私は通勤時の歩行で運動ができています。
また、大学の研究室には人があまりこないので
隔離状態で研究ができます。
いつものように淡々と研究すればいいとなります。
またテレワークはできません。
関係資料やデータが研究室においているため、
自宅では本格的な研究は難しくなります。
本来であれば、この時期は、
新学期の授業に忙殺されているはずなのですが、
4月中は大学の講義は休講です。
5月から再開しますが、
5月中はWEB講義をおこなうことになります。
どう講義をすればいいのかわからず、
教員は右往左往しています。
6月以降については通常講義になるはずですが、
まだ未確定となっています。

2020年3月15日日曜日

183 築別炭鉱跡:夏草や兵どもが・・・

 かつて、石炭は主要なエネルギー源でした。エネルギー革命で、石炭から石油に代わりました。今でも、石炭の需要はあり、日本でも採掘しているところもあります。閉山したところも多数あります。今回は閉山した炭鉱です。

 北海道でも、景色のいい道はいろいろありますが、留萌から日本海側沿岸を北上していく国道232号線が気に入っています。天塩から国道は内陸入りますが、道は海岸沿い道道106号となり稚内まで続いています。昨年は、調査でこの道を何度も通ることになりました。
 羽幌は、留萌の北に位置しています。日本海側にある街で、国道232号線沿いにあります。天売島、焼尻島へ向かうフェリーの発着の港もあります。今では、天売焼尻の観光が重要な産業ともなっています。しかし羽幌は、もともとは炭鉱の町として栄えてきところでした。今でも、その名残が残っています。
 昨年秋の道北への調査からの帰り、雨になったので、炭鉱跡を訪れることにしました。そこへな、海岸沿いの国道から山間にかなり入ってきます。山間にある炭鉱跡には、多くの施設跡が放置されていました。すべての施設は、草に覆われ、廃墟となっていました。「夏草や兵どもが夢の跡」という言葉が浮かぶようなところでした。
 かつて北海道各地で、石炭が採掘されていました。北海道には、第三紀の地層には石炭があり、採掘されていました。主なものに、天北炭田、苫前炭田、留萌炭田、石狩炭田、釧路炭田などがあり、それぞれの炭田で、多くの炭鉱が稼働していました。現在では、ほとんどの炭鉱が閉山しました。
 1960年代からエネルギーが石炭から石油に転換ししていくという「エネルギー革命」が起こり、1973年の石油危機で決定的になりました。石油と比べて、石炭はエネルギー効率が劣り、採掘経費がかかることなどで、立地条件が悪く採算がとれない炭鉱が、多数閉山していきました。
 ところが、近年の原油高と、原発の危険性の認識により、石炭の需要が戻ってきました。2011年3月11日の福島原発事故から早9年もたちましたが、原子力発電所を止めて、再生可能エネルギーに切り替える動きが世界の潮流となりました。再生可能エネルギーに移行するまでのつなぎとして、石炭火力も重要なエネルギー資源となってきました。皮肉なこと、石炭採掘からほぼ撤退した日本でも、石炭火力発電所の需要が増えています。
 現在の日本でも、少いですが、炭鉱が稼働しています。ただし、海外の石炭に対抗するため、コスト削減に成功し、価格で対抗できる露天掘りが主となっています。
 稼働しているのは、留萌炭田では吉住炭鉱が、石狩炭田では新旭炭鉱、空知新炭鉱、北菱美唄炭鉱、北菱産業埠頭美唄炭鉱などがあります。釧路炭田では、「釧路コールマイン」(かつての太平洋炭鉱)が稼働しています。少々脱線しますが、釧路コールマインは、現在、国内では唯一の坑内で掘っている炭鉱になります。掘っている場所は、釧路沖の太平洋の300m以上の海底下です。コストが見合わない立地条件となります。この鉱山は、アジアからの研修生受入と技術者派遣をして日本の進んだ採炭技術や保安技術を海外に伝えたり(炭鉱技術海外移転)、新たな炭鉱技術の開発(石炭産業高度化)が、稼働の目的になっています。その過程で、年間55トンほどの石炭を掘っています。
 さて、築別炭鉱です。この地域の新第三紀層は、下部から原の沢層、羽幌層、三毛別層、築別層、古丹別層に分けられています。石炭を挟在している地層(夾炭層といいます)は、中新世の羽幌層になります。夾炭層の上下には、カラスガイ、タニシなどの化石がでることから、淡水で堆積したものであることがわかります。羽幌層の上には、海成層の三毛別層に不整合に覆っています。
 築別炭鉱は、南北25km、東西20kmに渡って分布している苫前炭田に属していました。苫前炭田は、羽幌炭鉱(羽幌本坑と上羽幌抗)と築別炭鉱に分けられていました。しかし、その開発には、時間が必要でした。
 明治時代(1874年)には、アメリカの地質学者ライマンが調査し、北海道庁も1888年に築別炭鉱を調査しています。その頃から、石炭の存在は知られていたことになるのですが、内陸からの運搬手段がないため、経済的条件が合わたないため、開発が遅れました。1949年からは本格的に開発され、国内有数の炭鉱となり、年間100万トン以上も採掘していました。鉄道が敷かれ、国鉄(当時)も乗り入れることになりました。築別炭鉱の石炭は、水分が少なく、燃えやすく(高カロリーといいます)、良質(亜瀝青炭)で、発電や家庭の暖房用として用いられていました。
 1960年代のエネルギー革命が起こっていた時、1969年、全体の6割を賄っていた築別抗が、断層にぶつかり採掘ができず、一気に経営が悪化し、追い打ちをかけました。会社は1970年11月2日に会社更生手続を申請し、31年間の築別炭鉱の歴史を閉じました。あっという間の閉山劇でした。その時、まだ採掘できる石炭(可採炭といいます)は、3000万トン以上あったとされています。また、7500人余りの炭鉱関係者がいましたが、放り出されることになりました。
 築別炭砿の跡地には、炭鉱アパート、小学校、貯炭場(ホッパーと呼ばれています)、病院、消防団庁舎、発電所などの遺構がありました。天候が悪いときに訪れたせいもあったのか、鉱山跡はより寂しさがありました。

・学生がいない大学・
新型コロナウイルスの流行はまだ継続中です。
あいからわず、大学の研究室に毎日来ています。
学生は入構禁止なので、
メールでの連絡が主になります。
教職員の打ち合わせが時々ありますが、
行事の取りやめとともに、かなり減っています。
学生がいない大学は、寂しいところです。
3月末からは入構禁止がとけますので、
学生たちも戻っていきます。
もちろん何事もなければの話ですが。

・推敲中・
現在、本の執筆しています。
初稿ができて、推敲を進めている最中です。
新型コロナウイルスで学生対応や行事が減ったおかげで
研究や執筆がはかどっています。
うまくすれば、今月中に原稿ができそうです。
まあ、原稿ができても、印刷まで推敲は続けていきます。
でも、2回目の推敲で一段落となりそうです。

2020年2月15日土曜日

182 大沼:火山と沼の関係

 大沼国定公園は、駒ケ岳と大沼が象徴的な景観となっています。駒ケ岳の火山活動があったため、大沼ができました。そして、駒ケ岳の山頂のいびつなギザギザとも深い関係がありました。

 大沼と名付けられた湖沼は、日本各地にあります。中でも北海道の道南にある大沼は、国定公園にも指定されていて有名です。なんといっても、大沼は風光明媚な地です。古くはリゾート地としても親しまれていました。大沼には何度か訪れており、函館への交通路にもなっているため、JRや高速道路などを使っていると、駒ケ岳とその裾野の大沼は、何度も目にすることになります。大沼には、駒ヶ岳は欠かせない存在になっています。大沼と駒ケ岳の関係を見ていましょう。
 昨年秋の調査の途中で、大沼に立ち寄りましました。それまで何度か訪れていたのですが、その時はじめて遊覧船に乗って大沼をめぐりました。湖面からみると、駒ヶ岳の姿が美しく見え、沼にある島の様子もよくわかります。
 駒ヶ岳は活火山です。山頂の姿は少々奇異な形状になっているのが大きな特徴です。なだらかな裾野があるのに、山頂部はイビツなギザギザに削られたような形をしているので、そのコントラストが目立った山容となっています。大沼からみて、左側(西)に見える峰は剣ヶ峰(標高1131m)で、右側(北)に見えるのが砂原岳(1112m)です。それら2つのピークが、険しい山容の特徴を生み出しています。
 このような山容は、噴火によって山頂部分が吹き飛ばされためにできました。吹き飛ばされる前は、裾野のなだらかな傾斜を山頂に向けて延ばしていけば、きれいな成層火山が見えてきます。その高さは1700mに達していたのではないかと推定されています。大沼側からみると、馬がいななく姿に見えるとため、命名されたともいわれています。私にはその姿は見てこないのですが。
 駒ケ岳は、見る方向によってもその姿が変化していきます。大沼側から見ると、山頂はイビツですが、裾野はなだらかに見え、緑も豊かで、優雅が山容に見えます。ところが、鹿部の東側からは、険しい傾斜と荒々しい岩肌になり急峻な山容に見えます。
 先程、駒ケ岳は、もともとは成層火山が見えるといったのですが、その成層火山ができたのは、少なくとも数万年前と考えられていますが、時代はわかっていません。その時の成層火山の山体形成が、I期となります。I期の終わりは、2万2500年前に起こった最初の山体崩壊です。山体崩壊とは、噴火によって、山体の一部が崩れていくことです。ただし、火山噴火と関係なく、地震や風化による地すべりなどで崩れることでも、山体の崩壊は起こります。ただし、今回の駒ケ岳の山体崩壊は、火山噴火によるものにします。
 II期の崩壊後も噴火を繰り返し、大きな崩壊もありました。活動と休止を繰り返しながら、5000年前頃から再び活動期のIII期に入ります。そして、また2750年間には休止期に入ります。1640年に再び活動を開始して、IV期に入ります。この1640年の活動は、激しいもので山体崩壊を起こしました。この山体崩壊が、現在の山容を形作りました。そこ後も繰り返し火山活動は続けています。最新の噴火活動は1996年から2000年にかけてものになります。
 1640年の噴火では、山体崩壊による岩屑なだれが発生しました。岩屑なだれとは、形成されていた岩石が、噴火による大規模な土石流として流れていくものです。大量の堆積物が流れるため、麓の地形も大きく変えてしまいます。1640年の岩屑なだれは、東や南に流れ下りました。東に流れたものは、海に流れ込み、大規模な津波が発生し700名ほどの犠牲者と出したと記録されています。南の流れは、川(折戸川)がせき止められました。その結果、水がたまり大沼や小沼などができました。
 岩屑なだれには、大小さまざまなサイズの岩石が含まれていますが、中には数m以上の大きな岩も含まれています。大きな岩が残って、小さい丘のようなものが多数できる地形、流山(ながれやま)ができます。大沼に多数の島がありますが、これらは岩屑なだれによる流山地形です。
 大沼には多少多数の島があります。その島は今では木々に覆われていますが、よく見ると火山岩からできます。これらの島も、流山の地形の一部です。湖面を見ていると、わからないのですが、島が流山だとすると、納得ができます。岸にも火山岩が転がっています。
 大沼と駒ケ岳は、池と山で異なった地形なのですが、火山活動によって山体が形作られ崩され、ずくされたもので大沼ができました。そんな不思議な関係が、湖面が見ることができました。
 船で大沼を遊覧した時、突然のにわか雨で、一時的窓越しにしか景色を見ることできませんでした。そして、にわか雨のあと、きれいな虹がかかっていました。その虹では、二重虹の副虹が黒っぽい雲があったのでよく見えました。ラッキーでした。

・二重虹・
二重虹は、通常の虹の上に淡い虹が見えたものです。
色が濃く下側にあるものが主虹です。
主虹(一般の虹)は、上空の水滴に光が入ったとき、
波長により屈折率が異なるため、
水滴を通り抜けた光は、上が赤、下が青に
分離されています。
それが虹として見えます。
一方、高いところにある水滴には、
光が2回反射することも起こります。
その光は、青が上に赤が下になります。
これが副虹です。
副虹は2回反射するので光量は少なく
かなり薄い虹となります。
ですから、明るい空では見にくくなります。

・遊覧船・
遊覧船に乗っていると、
解説をいろいろしてくれます。
島が火山岩できていることも
船頭さんが教えてくれました。
また、周辺の山で大沼や駒ケ岳が
きれいに見える場所も教えてくれました。
残念ながら、別の目的地があったので、いけませんでした。
次の機会にしたいと思っています。