2022年12月15日木曜日

216 フレペ滝:溶岩から流れる乙女の涙

  知床は、知床五湖、オシンコシンの滝、カムイワッカの滝、野生の自然など見どころもたくさんあり、多くの人が訪れます。観光地にはなっていますが、あまり人が訪れないフレペ滝を紹介します。


 8月末に北見で校務があったので、その終了後、続きで知床に調査にいきました。知床には、ここ最近、何度か来ています。知床は、国立公園で世界遺産でもあるので、自然保護がされていており、ヒグマなどの野生との共生のため、見て回るルートが限られています。ヒグマが目撃されたら、そのルートは入ることができなくなります。以前にも訪れたところを巡りました。知床は、何度でも見て周りたいところです。
 今回は、フレペ滝とその周辺の話題です。草原の中を通り抜ける散策道を突き当りまでいくと、木造の展望台があります。そこから、フレペ滝を見ることができます。滝は遠くからしか見ることができないのですが、なかなかきれいな滝です。大きな湾状のくぼみの奥の崖に、滝あり流れ落ちています。この滝について紹介しましょう。
 北東に伸びている知床半島は、中央部には知床連山の高まりがあり、海岸は断崖が続くところが多くなっています。海岸沿いが崖が多いため、人が近づきにくいところなので、自然が残されています。陸の自然、海の自然も豊富なところです。半島で少しだけある平らな海岸には、船がつけられるので番屋ができ、夏の間だけ漁がなされます。
 険しい崖になっているのは、知床半島が新しい火山からできているためです。知床連山は、付け根からみると、斜里岳、海別岳、遠音別岳、羅臼岳、硫黄岳、知床岳などの山が続きますが、いずれも90万年前からあとに活動した第四紀の火山からできています。
 火山の土台になっている岩石(基盤岩といいます)は、海底で堆積した地層からできています。900万から100万年前くらいまでの新第三紀に堆積したものです。基盤の地層は砂岩泥岩からできているのですが、火山砕屑岩類も含んでいます。いずれも海底でできたものです。
 古い方から順に、忠類層、奥蘂別(おくしべつ)層、ヌカマップ火山砕屑岩層、越川層、幾品層、知床岬層となっています。基盤岩の上に火山噴火による地層が重なっています。地質図を見ると、火山岩の下には、あちこちに点々と新第三紀の基盤の地層が顔を出しています。知床半島の付け根に近いほど古い地層をみることができます。
 火山は陸での噴火活動です。知床半島全体が、第四紀になってから陸化したことになります。知床半島は新しい大地となります。
 さて、フレペ滝です。この滝を海から見ると、奥まった湾の断崖から、静かに水が流れ落ちている滝がみます。陸からいくには、知床自然センターからはじまる散策路があり、平らな草原(幌別台地)の中を20分ほど歩きます。北側に灯台への道がありますが、南へのいくのが散策コースとなっています。散策路の先、崖に面したところに、滝を見るための展望台があります。
 平らな草原には、川の流れがないのですが、滝からはかなりの量の水が静かに流れ落ちています。「乙女の涙」と呼ばれる滝です。海側から見ると、平坦な草地から急な崖は、上部の斜面は草がついていのですが、そこには川の流れは見当たりません。崖の途中から、水が崖から直接流れでて、滝となっています。不思議な滝です。
 滝の水は、山にふった雨や雪が地中に浸透し、地下水になったものが、崖で直接流れ出ていることになります。崖では、海面近くに柱状節理が見えますが、内部の大部分は固そうな溶岩となっています。これは羅臼岳から流れ出た溶岩がみていることになります。溶岩は柱状節理などの割れ目ができて、水が染み込みやすいのですが、固い溶岩のところは水が流れにくくなっています。平らな草原に染み込んだ水が、固い溶岩の上部を地下水として流れ、崖で海に流れ落ちたのが、滝となっているようです。知床半島には似たような滝が多数あります。
 羅臼岳は15万年前から1万8000年前に活動した火山です。知床半島で最も高い山で、新しい火山でもあります。フレペの滝は、羅臼岳の古い時期の火山活動によるものだと考えられます。羅臼岳は、噴火の歴史的な記録は残っていません。研究が進んできたので、噴火の歴史がわかってきました。年代測定の結果、2300年前ころ、1600年前ころ、700年前ころに火山活動があったことがわかってきました。活火山は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と定義されているので、研究の進行により、1996年に活火山に指定されています。
 700年前ころの年代値は、690±50年と790±50年がでています。平均すると740年前ですから、西暦1280年ころになります。そのころは、ちょうど鎌倉時代後期にあたります。この時代であれば、火山活動があれば、記録に残っていてもいいはずです。知床は北海道でも最果て地ですし、海岸も崖で平地も少ないので人が住みにくいところでしょう。そのため、記録にも残りにくいところだったのかもしれません。なんといっても、元寇があった時期です。幕府や都の人の興味は、元寇のため西に向いていたのでしょう。
 今では、知床には多くの観光客が訪れています。知床は、国立公園でもあり、世界遺産にもなっています。そのため、限られた場所しか見て歩くことができません。また冬は寒さや雪もあるので、観光には適さない時期もありますが、夏には歩けないところや流氷などをみることできます。しかし、冬はなかなか厳しでしょうね。

・地質図・
日本中の地質図は、
産総研地質調査総合センターの地質図Navi
https://gbank.gsj.jp/geonavi/docdata/help/img/geonavi-image.jpg
で見ることができます。
GoogleMapや地形図や衛星画像などを
重ねることもできので見やすくできます。
なかなかすぐれたもので
市民でも簡単に利用できます。
ぜひ試してみてください。

・大雪・
このエッセイは予約配信しています。
月曜日に校務があるのですが、
もともと私用で一泊する予定でした。
近くの野外調査をしようと考えていました。
一気に降った雪のため
野外調査できなくなりました。
高速道路が雪で速度制限がかかっていると聞きました。
そのため、前泊して校務に望むことしました。
このエッセイも事前に配信しました。

2022年10月15日土曜日

214 青い池:複雑な連鎖

 十勝岳は活火山で、かつて火山噴火で大きな被害を出しました。防災対策として堤防がつくられました。火山の成分を含んだ川と防災によってできた池が、観光地となりました。複雑な連鎖が起こっています。


 9月中旬に十勝岳を訪れました。夏休みも終わり、紅葉にも早い時期、そして平日にでかけました。人が少なくなる時期を見計らってでかけました。ところが、有名な観光地では、多くの人が訪れていました。ここしばらく、コロナ禍で人出の少ない状態を見ていたので、より多く感じたのかもしれません。
 今回、十勝岳を訪れたのは、周辺の地質を見るためです。「青い池」という観光地も、目的のひとつにしていました。「青い池」は、その幻想的な色が魅力です。普通の水の色ではない、不思議な色合いになっています。写真をみてその色を確かめて欲しいのですが、本当にきれいな色合いです。今では、この付近ではもっと賑わう観光地となっていました。
 もうひとつの目的は、青色の源となっている「白ひげの滝」を見ることです。十勝岳周辺は、以前にも回ったことはあるのですが、青い池も白ひげの滝もみていませんでした。ですから、今回はじっくりと見学することにしました。
 「青い池」と呼ばれていますが、青より淡いコバルトブルーで、さらに濃淡もあり、光が当たれば淡くなり、影では濃く見えます。水底の状態でも色合いが変わります。
 青い池は、防災工事の後に水たまりできた池でした。1926(大正15)年5月の十勝岳の火山噴火で、大規模な水蒸気噴火が起こりました。その時、山頂にはまだ残雪があり、雪が溶けて大規模な火山泥流が発生して、美瑛川と富良野川に大きな被害をあたえました。火山泥流は、美瑛川では、上流の白金温泉街から美瑛の街までを襲い、多くの死者、行方不明者をだしました。
 十勝岳の火山噴火による被害を教訓にして、洪水や氾濫を防ぐために、美瑛川では砂防堤防がつくられました。1988(昭和63)年には、さらにブロック堤防もつくられました。ブロック堤防は、十勝岳の噴火で泥流が発生した時、それを食い止める目的でつくられました。
 ブロックの外側は、もともとは増水時に周辺への浸水を防ぐためにつくられた緩衝地帯でした。緩衝地帯に美瑛川の水がたまり、池となりました。水の出入りがあまりない池ですが、それが幻想的な青い色の池となっていました。
 もともとは立ち入りが禁止されていたところだったので、有名になり見学者が多くなったため、町おこしとして、遊歩道や駐車場を完備し、土産物屋もできました。今では、この付近では一大観光地となってきています。
 池の水の色は、普通の水の色ではありません。どのようにして、このようなコバルトブルーの色がついたのでしょうか。答えは、美瑛川の上流にあります。3kmほど上流に「白ひげの滝」と呼ばれものがあります。これは、尻無沢が合流しているところです。川から流れ出ているものもありますが、地層の間から湧水として流れ出しているものがあります。滝を注意して見ると、白っぽい乳白色の堆積物が出ているところあります。
 白ひげの滝は崖となっています。崖の下には、30万年前の土石流で流れ出た礫岩が溜まっています。その上には17万から25万年前の平ヶ岳溶岩が板状に見えています。下の砂礫から流れ出た水は酸性になっているため、乳白色の沈殿物がたくさんできて見えています。
 この色についは、福島大学の高貝・阿部(2014)で調べられていて、アルミニウムのサイズの不定形で、組成もバラバラのコロイド粒子になっていることがわかっています。その形状が短い波長の青い光をたくさん散乱するため、青く見えるようです。
 滝の下を流れている美瑛川の河原の中の石を見ると、乳白色の沈殿物ができています。沈殿物の周辺の水が、コバルトブルーに見えています。川全体がそのような状態になっています。さらに、白ひげの滝の上流を流れる水も青く見えています。上流でもやはり十勝岳から流れている硫黄沢川があります。そこでも乳白色の沈殿が起こっているようです。
 火山地帯を流れた川や地下水にはアルミニウムが多く含まれていて、それが中性で水量の多い美瑛川の水にふれることで、コロイド粒子ができるようです。下流の青い池の色も、この複雑な作用の連鎖が原因となります。
 青い池では流れることがないので、水面が穏やかなので、より水の色がより青く見えています。そこに立ち枯れの木が多数あるので、幻想的雰囲気をより醸し出しています。
 十勝岳の火山の成分のアルミニウムを含んだ水が、川に入り込んで青い水になました。十勝岳の噴火による被害の防災のために河川工事をしたところ、その緩衝地帯に思いがけず水たまりができました。青い川の水が流れ込んで青い池ができました。今では防災のための池が、観光にも利用されるようになりました。十勝岳では、このような自然災害と防災、そして観光の不思議な連鎖が起こっているようです。

・観光・
外国人観光客もちらほら見かけました。
国内在住の人もいたでしょうが、
観光バスで海外旅行として
来られている人も含まれているようです
観光業界として望ましいことなのでしょう。
静かに露頭を見たにものには
少々騒がし感じました。
まあ、そんな希望は稀なものでしょうね。

・昔の訪問・
当時の記録をみると、
以前訪れたのは2005年7月でした。
天気は悪くはなく十勝岳は見えていたのですが
霞んでいたため、すっきりとしは見えていませんでした。
今回は晴れていたのできれいにみることができました。
青い池も当時は観光地にはなっていず、
白ひげの滝のところも通り過ぎただけでした。
まあ、知っていたとしても、
立ち入り禁止だったのでしょうから
みることはできなったでしょうが。

2022年9月15日木曜日

213 水無浜:幻の温泉

 秘湯というと、人があまり訪れないような、不便ところに多いのですが、今回紹介するのは、アプローチはしやすい温泉です。舗装された道もあり、設備も整っている無料の露天の温泉です。そこは、幻の温泉と呼ばれています。
 温泉に入ることが目的で出かけることありません。ただし、宿泊する時は、温泉旅館があれば、そちらを優先しますが。地質調査で奥地に入ると、秘湯と呼ばれるところへや、だれも知らないようなところで温泉や湧水も見つけたこともありました。調査中に、裸になって入ることはありません。今回も秘湯を訪れたのですが、入りませんでした。
 道南には椴法華(とどほっけ)という名の村がありました。2004年には函館市に併合されました。北海道に来てすぐに訪れた時は、椴法華村でした。その後、2007年に訪れた時には、函館市になっていました。今回、椴法華の幻の温泉を訪れたので、紹介しましょう。
 道南では函館が一番の都会ですが、少し外れると人家は少なくなっていきます。函館の西には、大千軒岳(だいせんげんだけ)を主峰とする深い山並みが広がります。東には、恵山(えさん)から駒ケ岳(こまがたけ)に続く活火山の山並みがあります。いずれも山深いなので、函館から少し離れると鄙びたところなります。
 海岸近くに恵山があるため、海岸は断崖になっており、道が途絶しているので、海岸を周回することはできません。道路は、恵山の西裾を通っています。恵山の東部は、行き止まりの道路となり、不便なところなります。しかし、そこには観光名所があり、恵山に由来する温泉もいくつかあります。
 南側から回ると、恵山に登るための登山道があります。北側からまわっていくと、道の一番奥が一方通行のループになっており行き止まりです。そこに無料の露天風呂があります。水無海浜温泉と呼ばれるもので、少々変わっています。
 水無海浜は、古くからその存在は知られているようで、椴法華村史(1989年発行)によれば、松浦武四郎の蝦夷日誌の1847(弘化4)年5月に、
「水無濱、少しの砂浜、水無より此名あるかと思う、昆布取小屋有、人家も二、三軒、近来漁事の便りなるが故にここに住すとかや」
と記されていることから、江戸時代には、水は出ない浜なのですが、ここに人が住んでいて、昆布取りや漁を営んでいたことがわかります。人が住んでいたのなら、温泉の存在も知られていたのでしょう。
 水無海浜温泉は、現在も無人の露天風呂で、だれでも自由に無料で入ることができます。夏場だと、時間外でも海水浴は可能でしょうが、岩場なので泳ぐよりは磯遊びをするところでしょうか。
 ただし、入浴できる時間帯が限られていて、日によって変わります。潮が満ちてくると、海水が風呂の縁を越えて、湯船に入り込むため冷たくなり、湯船も見えなくなります。また、干潮時には温泉そのものの温度になるのですが、源泉の温度50℃になるので、今度は熱くて入れなくなります。ですから、干潮の満潮の間の時間だけが適温となります。入れる時間帯が限られることもあって、「幻の温泉」と呼ばれています。
 潮の関係で、1日1回しか入れない日も、3回入れる日もあります。また、入浴可能な時間が10時間のこともあれば、2時間ほどしか入れない時間もあります。潮任せなので、温泉に入りたいのであれば、事前に調べておくべきでしょう。
 水無海浜温泉は、古くから知る人ぞ知る温泉です。1918(大正7)年の郷土誌には、
「恵山麓字水無ノ海岸ニ湧出ス此温泉ハ極メテ僻陬(ヘキスウ)ノ地ニアリ潮来レバ水ニ浸ルヲ以テ湯泉場トシテノ設備ナシ。」
と書かれています。当時は、温泉が出ていて、潮がひた時にしか利用できず、温泉場としての設備もなったようです。
 それと比べれば、現在は男女別の脱衣所もあります。湯船も2箇所で3つあり、縁の高さが変えてつくられています。そのため、温度に違いがあり、入れる時間が長くなっているのでしょう。今では入れる時間帯が示された表が、温泉の脱衣場の近くに掲示されています。ホームページでも確認できるようです。
 しかし、湯船は海岸に開放的にあり、男女の区別がない混浴で、「産まれたままが最高」と看板には書いてあります。ただし、水着をつけてもOKと書いてありますが。
 訪れた時はだれもいなかったのですが、露頭や温泉を観察していると、男性3名が来て、裸になって温泉に入りだしました。他には人はいなかったので、「産まれたままが最高」の気分だったでしょう。私は、もっと温泉や周りの景観を撮影するためだったのですが、それもできなくなり早々に切り上げることになりました。
 階段や波除け、駐車場や脱衣場など、周辺は整備されています。2007年に来た時はゴールデウィークだったので、磯遊びと温泉を兼ねた地元の家族連れが多数来ていました。ですから、地元では知られていたのでしょうが、知る人ぞ知る温泉だったのでしょうね。

・短い夏休み・
先週から今週にかけてバタバタしていました。
重要な会議がいくつかあり、
4年生の卒業研究の指導、
と、ここまでは通常の業務です。
他に、研究授業での指導、本の原稿の入稿、
科学研究費の学内締切り、
そして、野外調査が重なっていました。
すべて先週に終わらせて、
今週は野外調査に集中しました。
来週から、いよいよ後期の講義がはじまります。
短い夏休みも終わります。

・必要とならば・
野外調査に出ているところは、
ほとんどが以前にいったところでの再調査です。
同じところでも、目的が違うので見方が違います。
写真は構図は異なりますが、
被写体は同じ露頭や産状が多くなります。
それでもいいのです。
必要となれば、何度でも訪れます。

2022年6月15日水曜日

210 阿寒湖:ボッケとマリモと

 阿寒湖は、道東の中央、山の中にひっそりと佇んでいます。たどり着くには、険しい山道を進んでいきます。山の湖畔には小さな温泉街があります。ひっそりとボッケとマリモがあります。


 大学でも出張がかなり自由にできるようになり、これまであまりできなかった野外調査を再開しました。5月中旬には、道央で活火山を中心に調査をしていきました。
 最初に大雪山の黒岳の調査を考えていたのですが、ケーブルカーは動いていたのですが、標高の高いところには雪がまだあるようで、ロープウェイは調整中で運休していました。そのため、登るのは諦めました。その後、今まで通ったことのいない大空町の藻琴峠から小清水峠を通るコースで、斜路湖に入りました。これらの峠は、藻琴山の東山麓を超えるものです。
 藻琴山は、以前に紹介した屈斜路カルデラが、160万年から100万年前、最初に活動した火山活動によって形成された古い火山になります。そのためなだらかな山容となっています。峠からは、屈斜路カルデラの全貌を見ることができました。
 翌日、美幌峠へいこうとしていたのですが、霧がすごくて見通しがありそうもないので諦めました。屈斜路湖にくると、いつも見にいくアトサヌプリ(硫黄山)と摩周湖はちゃんと見学してきました。
 前置きがなくなりましたが、今回紹介するのは、屈斜路カルデラの西にある阿寒湖です。道東には火山が多数並んでいます。阿寒湖の西には大雪から十勝岳に続き、東には斜里岳から知床半島に続く火山列があります。北東から南西に伸びた火山列が、140kmにわたって続いています。ただし直線的に並ぶのではなく、「雁行状」と呼ばれるずれながら並んでいます。これは、太平洋プレートが千島海溝に斜めに沈み込んでいるため、斜めの力が陸側(北海道側)にかかって、斜めに割れ前ができ、そこに火山活動が起こるためです。
 さて、阿寒の火山は、雄阿寒岳と雌阿寒岳が大きな山体としてありますが、ひとつではなく他にもフレベツ岳やフップシ岳などの火山もあります。また、雌阿寒岳も、中マチネシリ、ポンマチネシリ、阿寒富士、南岳、西岳、北山、東岳、1042m峰の8つの火山があります。これらすべてを合わせ阿寒火山群と呼びます。
 阿寒火山群もカルデラを形成する火山でした。20万から15万年前に激しいカルデラ噴火を起こしました。その時、3度にわたって大規模な火砕流が流れました。その結果、古いほうから、阿寒下部火砕流堆積物、阿寒溶結凝灰岩、阿寒上部火砕流堆積物ができました。北東から南西に24kmの長さ、北西から南東には13kmの楕円形の阿寒カルデラができました。
 5万年前から2万年前に雌阿寒岳の噴火活動がおこり、デイサイトや安山岩の溶岩ドームとして中マチネシリ、南岳、東岳、1042m峰が形成されました.1万2000年前には中マチネシリで再び激しい噴火が起こり、山頂に火口ができました。9000年前にも火砕流が発生しています。この頃、安山岩マグマの活動で雄阿寒岳が形成され、大きな阿寒カルデラにあった「古阿寒湖」が埋めて立てられ、阿寒湖、パンケトー、ペンケトーに分かれました。
 その後、7000年前から3000年前には、安山岩からデイサイトマグマのポンマチネシリ、玄武岩の単成火山の西山、安山岩マグマの北山が形成されました。そして、2500から1100年前には玄武岩マグマの阿寒富士が形成されました。阿寒火山群は、最近も活動は続いており、小規模は水蒸気爆発や火山灰を降らしたりしています。
 阿寒湖は屈斜路湖や摩周湖と比べると小さく、周りに火山があるので山の奥に分けるようにしてきます。阿寒湖畔には温泉街があります。温泉街から少し歩くと、ボッケと呼ばれるところがあります。アイヌ語で「煮え立つ」という意味の「ポフケ」に由来するもので、泥火山のことです。熱くなったドロが火山ガスとともに噴出している沼があります。ドロは粘性があるので、丸く盛り上がって、不思議な模様が次々と形成されいきます。かつては、岸の近くに高温の温泉が湧いたいたようですが、ちょろちょろと温水が流れているにすぎません。今では、柵があり温度を確かめることができませんでした。
 阿寒湖は、マリモでも有名で国の特別天然記念物にもなっています。日本各地にマリモの生息は確認されていますが、最大では直径30cmにもなるような大きなものは阿寒湖にだけで確認されているそうです。大きなマリモは、5年から9年かけて成長していくそうです。
 阿寒湖でもマリモは北側だけにいます。マリモ保護のため、生息場へは近づけないのですが、阿寒湖の遊覧船でチュウルイ島にいくと、水槽にマリモが置かれており、見学することができます。夏の間だけ生息地からもってきて、冬には戻すとのことです。
 今では、黙って野外を歩くときはマスクが必要ではなくなってきたのですが、まだマスクなしで歩くようにはなれません。阿寒湖畔を歩いているときも、すべての人が、マスクをして外出していました。はやくマスクなしの生活に戻りたいのですが、いつになるのでしょうかね。

・道東の調査・
阿寒や屈斜路の地が気に入りました。
まだ、阿寒で見ていないところがいくつかあります。
その見残したところを見にいきたいのですが、
どうなるのでしょうか。
今週末には道東に調査にでかけます。
道東の調査がメインとなりますが、
帰り道として阿寒を通りますので
寄っていくことにしました。
見残したところを見学する時間があればいいのですが。

・初夏の風物・
6月になって天気の悪い日には
ひんやりとして肌寒く感じる日もあります。
それでも季節は巡り、初夏になってきました。
エゾハルゼミの鳴き声が聞こえます。
早朝には、カッコウの鳴き声も聞こえることもあります。
そんな鳴き声も北海道の初夏の風物となります。

2022年3月15日火曜日

207 北広島:丘陵の海と陸のせめぎ合い

 隣の街の紹介です。時々訪れるところなのですが、決まったルートや場所しかいっていませんでした。コロナ禍で野幌丘陵の南をウロウロしたことで、北広島をめぐりました。すると、思わぬ風景が見えてきました。


 北海道は3月21日まで、まん延防止等重点措置がとられています。その後は、解除になりそうですが、現時点ではまだ決定していません。1月末から3月中旬にかけて、何度目かの自粛生活をしてきました。この2年間、自粛が中心の生活となっていました。その間、校務と研究で、毎日、大学には出ていました。研究室にいるだけで、人に合うことは極端に少なくなっています。会議も、授業も学生指導も遠隔で進めてきました。いくつか教職などの資格で許可をえた授業だけは対面で進められています。3月にも対面授業をおこないました。4月から対面での授業の体制で予定されています。もともと冬場には地質調査にはでかけないのですが、コロナ感染拡大で出かけることはさらに困難になっています。
 さて、今回のエッセイですが、近場の北広島を紹介しましょう。
 高速道路に乗る時やJRで子どもの送迎に便利なので利用していました。隣町で近いところなのですが、これまでうろうろすることが少いでした。コロナ禍になって、野幌丘陵の中でいったことがないところを、散策したり、買い物にいったり、ホテルにも泊まったりもしました。その結果、少し身近な街になってきました。
 北広島は、名前の通り、この地に明治に広島県から入植したことに由来しています。北広島は、札幌の東にあたり、野幌丘陵の南から中央部に位置しています。野幌丘陵は、恵庭市との境界にある北広山(487.8m)から南にゆるく傾斜して江別市まで陸地の半島のように伸びた山並みです。丘陵は、石狩川の氾濫原でもある平野に消えていきます。
 丘陵の形は、南北に伸びる稜線を中心に東西に下っている形になっています。このような構造は地質の背斜を反映しています。背斜は、東西の圧縮を受けるとできる地形です。丘陵は侵食が進んでおり、稜線から東西に谷が網状に形成されています。このような地形ができるのは、野幌丘陵の地質とその形成史によります。
 野幌丘陵は第四紀更新世の堆積物からできています。地層は180万年(更新世前期)から1万年(完新世)くらいまで堆積したもので、いくつもの地層に区分されています。下(古い時代)から、裏の沢層、下野幌層、音江別川層、竹山礫層、もみじ台層、小野幌層、支笏火山噴出物、元野幌層、江別砂層、厚別砂礫層(広島砂礫層)、樽前降下火山灰層に区分されています。
 これらの地層には、化石も多数見つかっていまし。化石は生物の遺骸なので、その生物の生活環境から、昔、地層がたまった時の様子がわかります。
 かつてこのあたりは寒流の来ている海でした。その後、海水から汽水(干潟や河口などの淡水と海水が交じるような場所)、やがて淡水へと変化していったことがわかっています。
 裏の沢層が溜まっていた頃は、このあたりは沈降している地域だったのですが、更新世中頃(60万年前ころ)から、上昇に転じ、海から陸域に変わってきたと考えられます。
 これのような変化は、大きくみると、太平洋プレートの沈み込みによって北海道が圧縮されたことで起こったもので、ゆっくりとした変動でした。このような大きな地質変動で幾筋からの背斜や向斜ができてきました。
 堆積後まもなく堆積物が固化する前に、背斜が陸化しは丘陵となりました。そのため、柔らかい地層のまま侵食にさらされたため、開析が進んでいきます。
 ただし、海から陸への変動は一様ではありませんでした。下野幌層(100万年前ころ)や音江別川層(40万年前ころ)の下には、侵食を受けた地層(陸化したことになる)の上に堆積物がたまっています(不整合という)。音江別川層の最も高いところは当時の海面にあたり、現在より40mメートルは高かったと考えられます。
 それらの境界があることから、海になったり、陸になったりを繰り返していることがわかります。そのような変動が、化石から温暖化(海になる)と寒冷化(陸になる)と対応していることもわかります。氷河期と間氷期の繰り返しと、海と陸の変動が対応していると考えられます。
 夏に、野幌丘陵で車で入れる奥まったところへもでかけました。森の中の温泉や野菜の直場所、小されレストランなど、知らないところに興味深いところがあることを知りました。ですから、これからも時々訪ねたいと思いました。
 住んでいる身近な丘陵に見られる地形や地層から、過去の環境を探ることができます。そんな好例を、散策から知ることができました。

・オミクロン株・
ニュースによれば、北海道も含めて、
各地でまん延防止法等重点措置が終了しそうです。
しかし、オミクロン株(BA.2)は
より感染力も高くなっているようです。
感染者数は高止まりのままのようです。
措置が終了しても、注意が必要になりそうです。

・もう一つの丘陵の景観・
野幌丘陵の森の中にある温泉ホテルがあります。
子どもの行事があったとき
送迎で訪れたことはあったのですが、
これまで、全く中にはいることはありませんでした。
しかし、冬に宿泊にいったことがありました。
最上階に食堂があり、そこからの眺めが最高でした。
丘陵をさらに高いところから、
新雪の森を眺めることができました。
その景色は幻想的で今までみたことがない
丘陵の森の景観でした。

2022年2月15日火曜日

206 釧路湿原:氷河期と縄文海進

 日本各地で、まん延防止等重点措置の延長が起こっています。北海道は、現在、雪のシーズンなので、調査は冬眠中です。春から調査ができるかどうか不安です。今回は昨年、訪れた釧路湿原の紹介をしていきましょう。


 昨年は、COVID-19のまん延防止等重点措置や緊急事態事態宣言が、たびたび発令されましたが、その合間を縫って、道内だけですが、何度が野外調査に出ることができました。9月に釧路での校務のあと道東各地へ野外調査にいきました。また、11月にも校務でしたが釧路を訪れることができ、その後一日私用をとって阿寒を回りしました。西から釧路の街に入るときに、釧路湿原を通ることになります。今回は釧路湿原の紹介です。
 釧路湿原に水を供給しているのは釧路川です。巨大なカルデラ湖である屈斜路(くっしゃろ)湖に、釧路川は端を発します。弟子屈原野を流れるいくつかの支流と合流して、釧路湿原に入っていきます。そして久著呂(くちょろ)川、雪裡(せっつり)川などの支川が湿原内で合流します。釧路川が釧路湿原にとっては重要な河川となります。
 北海道では、石狩湿原(5.5万ha)がもっとも広い湿原ですが、釧路湿原(2.9万ha)はサロベツ湿原(2万ha)より広いものです。釧路川は154kmの長さですが、大正9年8月に大洪水が起こったことを契機として、洪水被害を防ぐ治水として、河川の直線化がなされてきました。農地開発や市街地の拡大などで、湿原は減少しててきました。釧路湿原に人手が入り出して変化してきています。
 しかし、北海道の他の湿原と比べると開発が遅れていたため、もとのままの状態で残されている地域も多くあります。そんな地域として中央北部は、天然記念物(5000ha)に指定されています。国内では最初のラムサール条約に登録された湿地ともなっています。
 釧路湿原は地質学的に見ると、新しい時代に形成されたものです。2万年前のビュルム氷期には、現在と比べて平均気温で10度も低く、海面も100mも低くなっていました。その後、縄文時代になると温暖化していきます。温暖化の時期には、海面が上がっていくので「海進」となります。縄文時代の海進を「縄文海進」と読んでいます。
 6000年前ころの海進では、海水が内陸(現在の釧路湿原のあるところ)に入り込んで、湾の状態(古釧路湾と呼ばれます)になっていきます。湾内では海成の泥(中部泥層と呼ばれます)が堆積します。その層の厚さは、10数mから30mに達するところもあります。中部泥層には、時々薄い砂の層がはさまれています。
 海面がもっとも高くなった頃には、貝が多数繁殖して、泥の層の上に、ホタテの密集している貝層ができています。そして、貝塚も発見されています。貝塚は、人が貝を採って食べてあとの貝殻を捨てたところです。釧路湿原の最初の貝塚は、7000年前(縄文早期)のもので小規模なものが見つかっています。6000年前(縄文前期初葉)になると最も規模が大きくなり、食べていた貝の種類も多くなっています。5000~4000年前(縄文中期)にはまた小規模になり、カキだけを食べていたことがわかっています。初めと後の小さな規模の貝塚は、湿原の東の台地だけに見つかっています。
 中部泥層と貝塚のさらに上には、1mほどの厚さの泥層と、さらに上に4mに達することもある泥炭層が、現在の表層まであります。泥炭は淡水で溜まったものです。
 これらの地層から、釧路湿原周辺の歴史が推定できます。縄文海進の時期に、湿原となるための地形ができていました。縄文時代の早期(7000~6000年前)には浅い海水の湾となり、泥層が溜まりはじめます。縄文早期から前期(6000~5000年前)には最も海水面が上昇し、泥が溜まるとともに多くの種類の貝も生息していました。そして豊富な貝を採る人たちも、湾の周辺に多数住みつきました。縄文中期(5000~4000年前)には、海水面が下がりだし(海退という)、住む人や貝を取る人はだんだんと少なくなっていきます。縄文晩期(3000年前)には、湿原が陸化していったと考えられます。
 湿原となる地形のおかげで、現在も泥炭が堆積し湿原形成が継続しています。泥炭の厚さは、1~4mとさまざまですが、湿原全体に分布しています。泥炭の厚いところは、基底部が低いところや地殻変動で地盤沈降などがおこっているところです。
 泥炭中に3層の火山灰が挟まっています。この火山灰があったことで、同一時間面が決めることができます。火山灰の中の放射性炭素(14C)による年代測定ができます。下(古いもの)から順に、325~210cmの深さに2280年前の火山灰が、60~30cmの深さに500年前のもの(雌阿寒から由来したMe-a3という火山灰)、35~15cmの深さに350年前のもの(同じく雌阿寒から由来したMe-a1)となっています。
 この時間軸と泥炭中の位置(層準といいます)によって、堆積速度が見積もれます。泥炭は3000年前くらいから形成されていますが、その堆積速度は1mm/年程度でした。速い(厚い)ところもでも、1.3mm/年と計算されます。非常に、ゆっくりとしたスピードでしか堆積していきません。
 ところが、水路の直線化や農地化などの結果、湿原の植生や生態系の変化も起こってきています。保護している地域に手を加えてないとしても、水系はその地域だけで閉鎖したものではなく、上流や流域全体につながっています。湿原の再生にも取り組まれています。
 人が成した区分どおりに、植生が切り取られたまま維持されたり、生態系が営まれているわけではありません。人の生活と自然との共存、ここでも切実な問題となっています。

・豪雪の交通障害・
1月からの何度も豪雪があり、
北海道、特に札幌とその周辺では
交通に大きな障害がでています。
あまりに多い積雪で、除雪や排雪が間に合わず、
道路が半分ほどの幅しかなくなっています。
我が家の家の周りでも経験したことのない
雪山の高さになっています。
バスの運休、間引き運転になっています。
今も、家の近くではバスが運休しています。

・来年度の調査・
今年になって、COVID-19のオミクロン株が、
世界、そして国内でも感染爆発が起こっています。
今年の野外調査はどうなるのか、
なかなか見通しが立ちません。
研究は止めるわけにはいきません。
来年度の競争的研究費の申請を出す時、
調査についても考えました。
野外調査ができるものとして申請しました。
ただし、道内だけでの野外調査として、
まん延防止や緊急事態など措置がとられたら、
大学や行政の指示に従うことで申請しました。

2022年1月15日土曜日

205 知床岬:段丘と断崖

 知床半島の先端に知床岬があります。岬までは道路もなく、たどり着くのは困難です。しかし、遊覧船を利用すると、上陸はできませんが、だれでも知床岬を眺めることができます。


 知床岬を、年頭に紹介したいと、以前から思っていました。北海道の中でも知床は、私にとってもっとも興味があるところで、以前から訪れるからには、じっくりと時間をかけて見て回りたいと考えていました。見たところが見れた時、紹介しようを考えていたのですが、3年越しになりました。それは、見たいポイントへ、なかなかたどり着けなくて、何度も訪れることになったためです。
 2019年6月、最初の訪問で、いきたい場所として、知床岬、知床峠、知床五湖、フレべの滝、オシンコシンの滝、カムイワッカの滝、知床硫黄山と考えていました。もちろん優先順位がりました。知床岬と知床五湖でした。
 知床五湖とフレべの滝は、クマの出現で入れなくなり、知床峠へは2度も訪れたのですが、霧で全く展望がありませんでした。見れたのは、知床岬とオシンコシンの滝でした。
 時期を選ぶ必要があると考え、クマの出没が落ち着いている2019年10月に訪れました。カムイワッカの滝へはマイカーで入れましたが、フレべの滝、知床五湖がクマの出現で、または入れませんでした。知床峠も霧で眺望はありませんでした。
 2020年は新型コロナウイルスで出かけられませんでしたが、2021年に出かけられるようになった時、9月の訪問で、知床五湖、フレべの滝、そして晴れた知床峠の景色を眺めることができました。
 知床硫黄山は断念したのですが、それ以外の知床でいきたいところは、足掛け3年かけて、やっと訪れることができました。その結果は、2019年6月の「174 知床半島:雁行の並び」と2021年10月の「202 硫黄山と知床五湖」として、このエッセイで紹介しました。
 以前から知床岬をエッセイで取り上げたいと考えていました。しかし、それは見たいところ一通りみてからと決めていました。そして、念願を叶えるのは年のはじめと考え、今回のエッセイにしました。
 知床にいったら、テレビなどで象徴的に示される知床岬の先端にある、きれいな海岸段丘を、自分の目で見たいと考えていました。いきつくためには、数日間のキャンプをしながら、かなりのアップダウンの道のりを進まければなりません。私にはそのような体力はありません。
 知床岬へのもうひとつのアプローチとして、上陸はできませんが、遊覧船で先端までいって遠くから眺めるという方法があります。2019年6月、最初に知床を訪れたときに、知床岬までいく遊覧船に乗って見ることにしていました。
 この遊覧船は、ウトロから出航して、岬近くまで海岸を見学しながら進むものでした。幸い、波も穏やかで、晴れていはいませんでした、眺望のきく航海日和でした。私のメインの目的は知床岬の海岸段丘ですが、途中で海食崖、火山地帯、溶岩などを遠望できました。運がよければ、ヒグマも見ることができとのことでしたが、幸い3箇所でみることができました。
 半島の先端の知床岬では海岸段丘がありますが、半島の両側の海岸線は切り立った断崖が連なっています。半島の崖の連なる険しい景色から、先端に着くと、突然、海岸段丘の穏やかな景観が見えるという、コントラストが魅力になっています。半島の崖沿いには少しでも浜があれば、番屋が建っています。人の営みのたくましさと、知床の海の豊かさを感じさせます。
 知床の地質はすでに紹介していますが、概要を復習しておきましょう。活火山も含んだ火山が列をなしています。多数の峰がありますが、主だったものとして、知床半島の付け根(南西側)から斜里(しゃり)岳、海別(うなべつ)岳、遠音別(おんねべつ)岳、知西別岳(ちにしべつ)、羅臼(らうす)岳、知床硫黄岳、知床岳が連なります。第四紀の火山で、90万年前から現在にかけて活動した火山です。中でも、羅臼岳は1660mの標高があり、知床半島で最も高い標高をもつ活火山となっています。
 知床半島は、火山だけでなく、その下(基盤)には、900万から100万年前(新第三紀の中新世から更新世にかけて)の泥岩、砂岩、海底火山噴出物の地層があります。この地層は、海底で溜まったもの(海成層といいます)で、古いものから、忠類(ちゅうるい)層、奥蘂別(おくしべつ)火砕岩層、ヌカマップ火砕岩層、越川層、幾品層、知床岬層に区分されています。長い火山活動と海成層の堆積の時代がありました。
 知床半島の形成は、プレートの斜め沈み込みによって押されたためにできました。圧縮で中央部(知床山脈の部分)が持ち上げられ(背斜構造とよばれるもの)、その軸方向(知床半島の伸びる方向)の中心は引っ張られることになり、割れ目ができます。そこに沿って火山噴火が起こります。このような地質環境ができたため、海底での火山活動による火山砕屑物と堆積物が、継続的に海底にたまりました。それが基盤となりました。
 背斜による上昇が継続したため、半島周辺に深い海底ができます。その境界には切り立った崖ができます。崖が今も切り立っているということは、知床半島は今も上昇を続けていることになります。知床半島の上昇と火山活動が継続することで、やがて陸地での火山活動へと変わってきました。そのすべての原動力は、太平洋プレートが斜めに沈み込んでいるためです。
 岬の先端付近にだけに、海岸段丘があり狭いですが平野となっています。知床岬の段丘面が、穏やかな景観を形作っています。地形解析によると、100m前後(高位段丘面)、70m前後(中位段丘面)、20m~30m(低位段丘面)が見分けられています。これは、何度かの断続的な上昇運動があったことを意味しています。低段丘面が知床岬の先端に広がっていますが、地図では、岬周辺の海中には波食棚の地形もみられます。
 知床半島の先端が持ち上げられる力が、今も働きつづいてることになります。もし隆起活動が起これば、さらに段丘面がひとつ加わりることになります。
 知床岬だけにある何段か海岸段丘の存在は、知床半島、あるいは北海道の生い立ちを示していたのです。

・繰り返される大雪・
明けましておめでとうございます。
北海道は12月末から1月中旬にかけて、
何度も寒波が襲来しました。
そして今週も寒波が襲いました。
その度に、道路も雪で狭くなり、
JRも空の便でも交通が乱れました。
大量の積雪で除雪もおっつかない状態が
繰り返し起こっています。
久々に大雪に何度も悩まされる冬になっています。

・大学入学共通テスト・
このエッセイが届く時は、
大学入学共通テストが実施されています。
我が大学も会場になっています。
教職員総出で、試験に対応しています。
コロナ対策に加え、大雪への対処も
必要になるかもしれません。
全国統一して、さまざまな対象が
細かく規定されています。
そんな事態にならないことを
願うしかありませんが。