2011年12月15日木曜日

84 行頭:似て非なるもの

室戸ジオパークには、室戸岬のダイナミックさとは少々違う、非日常的な「動」を感じさせる地層群があります。同じ付加体でも、少々味の違う醍醐味があります。行頭(ぎょうとう)岬の少し北、新村の海岸で見た付加体の話題です。穏やかな海岸に、非日常と日常の織り成す、似て非なるものがあります。

 私が昨年度、1年間、滞在した愛媛の城川は、山ひとつ越えると高知になるような山あいの町でした。高知は、愛媛とは違ったより山村の風情、いいかえるとより自然の残っているところでした。高知は山だけでなく海岸もなかなか魅力的です。私はもともと自然が好きですから、そんな自然の残ったところばかりに出かけていました。
 秋の高知の調査で室戸岬に向かうとき、太平洋沿いに国道55号線を走りました。四国の地図を思い浮かべてください。四国は長方形をしているのですが、その長方形はいびつな形です。特に太平洋に面した海岸線は、弧状の湾(土佐湾と呼ばれています)になっています。その弧状の部分は、なだらかな海岸線のように思えるのですが、そうではありません。海岸線を走るとわかるのですが、実は、思った以上に変化に富んだ海岸線になっています。桂浜のような砂浜の海岸は、それほど多くはなく、岩場だったり、山が海岸まで迫っているところもかなりあります。変化に富む海岸線です。
 そんな岩場の一つに行頭(ぎょうとう)岬の周辺があります。行頭岬の少し北、新村(しむら)港から北にかけての海岸では、いろいろな地層を見ることができます。非常に整然と並んだ地層から、激しく曲がりくねった地層など、付加体でみられる多様な地層の特徴を、ひとつの海岸線で見ることできます。この地域は、室戸ジオパークでは行頭-黒耳(新村より少し北にある集落)サイトと呼ばれ、ジオサイトとして環境(駐車場、歩道、解説板など)も整備されています。
 ここで見られる地層の構成は、砂岩と泥岩が一組(互層(ごそう)と呼びます)なっています。一層の厚さはさまざまで、砂岩泥岩の量比や内部の構造は、層ごとに不規則で多様です。また激しく褶曲しているところもあります。褶曲にも、整然と並んだ地層の間(層間褶曲やスランプと呼びます)にできているものもあります。
 地層の基本は、砂岩から泥岩のセットで、これが一層(単層といいます)となります。薄いところもありますが、特別厚いは層はほとんどなく、ある平均的な砂岩泥岩の繰り返しになっています。互層として繰り返しがあり、どことなく似通った特徴があることも確かです。
 このような砂岩泥岩互層の繰り返しは、タービダイト(turbidite、混濁流堆積物)と呼ばれている仕組みで形成されます。タービダイトは、混濁流(tubidity current)によって形成されたものです。同じような環境で、同じメカニズムでできたため、砂岩泥岩の繰り返しの様子が、似ているのでしょう。
 タービダイトは、このエッセイでも何度も出てきていますが、再度説明しましょう。
 陸地付近の海岸近くでたまっていた土砂が、なんらかのきっかけ(地震や洪水、台風など)で海底地すべりが発生して、大量の土砂が流体として、大陸斜面に流れ込みます。それが混濁流となります。時には、混濁流は海溝をも越えて深海底にまで達することがあります。
 互層のひとつの砂岩泥岩のセットは、一度の混濁流によって形成されます。混濁流が海底で止まる(堆積時)と、粒の大きな小石や砂が先に沈降し、粒の小さい泥が後につもります。これが、一層の砂岩泥岩のセットになります。
 次の混濁流が来るまでは、泥が溜まった面が海底面がとなります。混濁流の堆積時間に比べると、穏やかに流れる時間の方が、圧倒的に多くなります。一時の激変と大半の平穏が、大陸斜面における日常となります。穏やかな日常において、堆積作用はほとんどおこりません。
 生物がいれば、その海底面に痕跡(這い跡や巣穴など)を残します。あるいは、波による漣痕(れんこん)も、海底面にできることもあります。生物の死骸も降り積もることもあるかもしれません。もちろん、場所によっては、火山灰や黄砂なども運ばれることもあるでしょう。
 混濁流の来るところは、大陸斜面から海溝あたりです。日本列島では、大陸斜面は付加体の直上で、海溝付近は付加体に取り込まれる場となります。タービダイトは、付加体における陸源の堆積物の主要構成要素となります。そして、混濁流のもととなる土砂は、日本列島では昔の付加体が侵食されたものです。堆積物としての物質の輪廻が起こっています。タービダイトとは、繰り返し土砂が海底に流れ込んで溜まったものです。このような繰り返しは、堆積という作用の輪廻が起こっているのです。
 タービダイトの多様性は、いろいろな要因がありますが、露頭でみる地層は、ひとつの断面にすぎません。その断面が、混濁流のどの部分にあたるかは、さまざまです。ひとつの混濁流で、中心軸がどこになるのかによって、定点(断面)における堆積物の様相は変わってきます。混濁流の規模によって、断面における砂岩泥岩の厚さや、量比、構造などの違いが生まれます。混濁流は、先に溜まっていた堆積物を削ったり、流れによる堆積構造などをつくることもあります。さらに、堆積後、堆積物が再流動したり、液状化、小規模の褶曲なども形成します。自然は、多様性を生む複雑なメカニズムを用意しています。
 行頭の海岸のタービダイトは、3700万年前に4000mもの深海に堆積したものです。整然とした砂岩泥岩の互層の見られる地域もあります。整然とした互層の中のひとつの砂岩の中を見ると、欄間のような幾何学的模様が見えます。ひとつの地層の中の模様も、追いかけていくと変化します。その変化も、隣の地層のものとは、明らかに違います。似て非なる模様が砂岩ごとに見られます。見飽きない不思議な模様です。
 砂岩の岩脈がみられるところもあります。砂岩の岩脈とは液状化によって砂岩が泥岩層や上の互層を突き抜けていったものです。何層にも及ぶ岩脈となっています。また、見事な漣痕があります。深海でこのような漣痕ができる波があったのかという驚きもあります。激しい褶曲(スランプ)があるとこもあります。その激しさは、地層がどこに連続しているのかを考えあぐねるほどです。生物の這い跡がたくさん見れる地層面もあります。そこには暗い深海底にあった生態系の多様さを感じます。
 タービダイトに刻まれたさまざまな模様に、いろいろな作用、「非日常」の異変、過去の時空間、穏やかさの中の変化などが、読み取ることができます。似ているのに、どこか違う。違っているのに、どこか似ている。タービダイトには、そんな不思議な、類似性と差異があります。
 私は、このような砂岩泥岩の互層をみると、なぜか心が騒ぎます。タービダイトがもつ似て非なるものが、心の琴線を鳴らすためかもしれません。

・訂正とお詫び・
前回のエッセイ「83 日沖:大地の静と動」において
日沖の枕状溶岩を、海嶺で形成された玄武岩として
それらが付加体の中に入りこんだと書いたのですが、
これは間違いでした。
室戸岬にみられる斑レイ岩と同じマグマで、
付加体の中の海溝付近で活動したマグマでした。
現地で、そのように案内を受け、
なおかつ説明も読んでいたのに、
なぜか、勘違いしました。
文章自体は大きな修正とななりませんでしたが、
間違っている部分を修正して
ホームページは更新しました。
メールマガジンで皆様に送ったものは
もう修正できませんので
訂正とお詫びを、ここでお伝えします。
申し訳ありませんでした。

・タービダイト・
タービダイトには
堆積物に対して用いる場合と
流れやメカニズムに対して用いる場合があります。
流れを意味する時、
英語では「tubidity current」が用いられます。
本エッセイでは、タービダイトは地層に
流れには混濁流を用いました。
以前は乱泥流ということばが使われていたのですが、
今では、使わなくなったようです。
私は研究対象として、しばらくタービダイトを
みていくつ予定でいます。

2011年11月15日火曜日

83 日沖:大地の静と動

発行が一日遅れました。お詫びします(言い訳は後で)。
 今回は、高知県室戸市の日沖というちいさな町の小さの漁港でみた枕状溶岩からの話です。小さい岩場なのですが、きれいな産状を残す枕状溶岩から読み取れる、大地の静と動の物語です。付加体やメランジェの説明から解き明かしていきます。

 今回も夏にいった室戸の話です。前回は室戸岬を中心に室戸ジオパークの話題を紹介しました。室戸ジオパークは、いろいろな見所があり、何日でも見て回れます。興味があれば、何度も足を運ぶことができるほど、コンパクトにまとまっています。今回は、室戸岬から6kmほど北にある日沖の紹介をします。私も、日沖には3回みにいきました。
 日沖には、小さな港があり、防波堤が3つの岩場を結んつくられています。その防波堤からは、見事な枕状溶岩がみることができます。非常に生々しいい産状を残しているもので、なかなか見応えがあります。初日は天気が良かったのですが、台風のうねりがまだ残っていて、激しい波が打ち寄せて防波堤の上を歩くことができず海岸から見ました。台風の影響で、ひどく港も破損していました。あと2度は別の日で、波は結構高かったのですが、防波堤からじっくりと見ることができました。やはりその産状は、素晴らしいものでした。
 そんな枕状溶岩を見ながら、由来の不思議さに思いを馳せました。
 室戸岬の周辺の地層は、四万十帯の南帯にあたり、菜生(なばえ)層群が分布しています。菜生層群は、四万十帯ではもっとも新しい中新世の付加体になります。日沖でみた枕状溶岩も、菜生層群に含まれています。
 四万十帯は付加体でできています。付加体でできたものを、地層名をつけて、地層の分類体系で呼ぶことがいいのかどうかは、判断が難しいところです。なぜなら、地層の概念と付加体の概念は大きく異なるものだからです。そのあたりについて、今回は紹介していきましょう。
 付加体については、このエッセイでも何度も紹介しました。付加体では、少々変わった堆積物や地質構造が形成されます。そのため、通常の堆積岩の分類を適用していいものかという問題が生じます。これは、日本の地質構造発達史を考える上でも、地質学の体系化をする上でも重要な課題です。
 堆積物には、通常の堆積作用(河川による侵食、運搬、堆積の作用)でたまったものと、特殊なメカニズム(通常の堆積作用でない)でたまったものがあります。通常の作用でできたものは正常堆積物と呼ばれ、特殊なものは異常堆積物と呼ばれています。
 通常堆積物は、河川沿いや河口、平野、河口付近の海底、湖底などにたまったものです。現在でも、ベンガル湾にはガンジス川から大量の堆積物がたまっていますし、日本列島でも海岸付近の大陸棚には正常堆積物が形成されています。もちろん過去にも同様の堆積物がたくさん形成されました。正常堆積物では、下にある地層は古く、上に重なる地層は新しくなるという「地層累重の法則」が守られています。さらに、ひとつの地層は同時期にできたものですから、地層内から見つかった化石の年代は、その地層全体が形成された年代とみなしていいことになります。
 異常堆積物は、付加体の概念の確立とともに、区別されるようになってきました。付加体の研究においては、日本人研究者が重要な役割を果たしました。また研究の場として、日本の舞台が多く登場しました。それは、日本列島が古くから沈み込み帯に位置していたので、常に付加体が形成される場となっていたからです。日本列島は、時期の違う何列もの付加体の連なりによって形成されたといってもいいほどです。
 付加体とは、海洋プレートが海溝で沈み込む時、その構成岩石を陸側のプレートに付加していく作用によってできたものです。海嶺で形成された玄武岩(その砕屑岩も含む)は、プレートの移動と共に、上に生物の遺骸がたまっていき、やがてチャートができます。海溝が近づくにつれて陸からの泥が加わり、純粋なチャートではなく珪質泥岩ができます。海溝に達すると陸からの砂岩が時々もたらされて、砂岩と泥岩の繰り返しの地層(互層(ごそう)といいます)が形成されます。このような層序は海洋プレート層序とよばれています。それぞれの堆積物の厚さは、移動時間や環境によって大きく変動しますが、岩石構成はいつの時代のどの海洋プレートでも一致しています。
 海洋プレート層序は、海洋地殻の多くが沈み込んでいくなか、一部が剥ぎ取られて陸側プレートに付加していきます。そのとき、もともとの層序は乱され、付加体特有の構造をもつものに再構成されていきます。その一番の特徴は、衝上断層(スラストと呼ばれる)が多数形成されることです。衝上断層とは、低角度の逆断層のことで、圧縮場(プレート同士が衝突したり、沈み込んだりするところ)で地層が短縮されるところに形成される断層です。衝上断層によって、新しい地層群が古い地層の下に付け加わっていきます。これが付加体の一番の特徴といえます。
 沈み込みに伴って、数mから数十mの厚さの地層にほぼ平行な衝上断層が多数形成されます。このような断層帯をデコルマン・ゾーン(decollement zone)と呼びます。衝上断層で挟まれた個々のシートは、下側(海側)に若いものが「底付け」されていきます。底付けはさまざまなサイズで起こり、大規模な繰り返しの構造は、デュープレックス(duplex)と呼ばれます。
 複雑ではありますが、付加体はある一定のメカニズムに基づいた構造をもっているのです。付加体の認定は、構成要素と付加機構の両者によってなされます。実際には、詳細な地質調査による地質構造の解明と、化石による年代決定が必要になります。
 付加体の中では、断層の繰り返しによる地層が整然と並ぶわけではなく、中には激しく乱れた構造になることもあります。その範囲が大規模な場合、メランジェ(混在岩、メランジ、メランジュとも呼ばれる)といいます。メランジェには、泥岩の中(基質と呼ばれる)に、数cmから数kmに及ぶサイズの起源の違っている岩石(異質岩塊、外来岩塊、異地性岩塊などとも呼ばれる)が、含まれています。
 菜生層群は、いくつかのメランジュがあります。北に日沖メランジェ、南に坂本メランジェがあります。その前後には比較的整然とした部分(アセンブレッジと呼ばれることもあります)もあります。アセンブレッジの部分は、砂岩泥岩互層を中心とした堆積岩からできていて、整然とした地層に見えることころもあります。時に大規模な褶曲や、一枚から数枚の地層内での小規模な褶曲(スランプとよびます)などが含まれています。付加体の異常堆積なので、形成年代は地層累重の法則には従いません。下位ほど新しくなります。
 日沖の枕状溶岩は、日沖メランジェの中にあります。ただし異質岩塊ではありません。日沖の溶岩は、室戸岬でみられた斑レイ岩マグマが、海底で噴出したものです。玄武岩が水中で噴出するとき枕状溶岩となります。激しい火山活動であったのに、その産状はあまりに優雅です。人間の大きさと比べれば、枕状溶岩は、非常に大きな岩塊です。こんな大きな岩が、付加体の中で活動したのです。一見整然とした地層、一見見事な枕状溶岩なのですが、付加体の形成される場、沈み込み帯が、激しい変化の場であることを物語っています。メランジェが形成される時には、想像を絶する地震が起こったかもしれません。なのに、枕状溶岩や砂岩泥岩互層がきれいに残っているのです。日沖の枕状溶岩は、大地の静と動を示しているのでしょう。

・賜物・
メランジェの不思議な形態、擾乱、岩石は
その概念を持っていない人、
もちろん地質学者でも、大いに悩んだと思います。
まして、詳しい調査に年代によって
地層累重の法則が破れることを知れば、
混乱はさらに増すことでしょう。
今では付加体やメランジェの概念を持って
露頭を見ることができ、
その解釈に悩むことはありません。
だから、落ち着いて、大地の営みの
激しさ、雄大さに思いを馳せることができるのでしょう。
それも先人達の努力の賜物です。
大地の営みの賜物を
先人の努力の賜物から眺められるので、
不思議から感動が生まれるのでしょう。

・遅れのお詫びと言い訳・
1日遅れての発行となりました。
発行が遅くなったことをお詫び申し上げます。
理由は、論文の〆切と卒業研究の面談による推敲を
やっていた為、時間がとれなかったためです。
論文の〆切が15日でした。
それをなんとか〆切までに手放すことができました。
なかなかまとまった時間がとれないのと
書いていた原稿が長くなりすぎたので、
何割かけったりしました。
いつになく手こずりました。
西予市の地質をまとめた論文で、
パンフレットの原稿の基礎データとなるものでもあります。
手を抜くことができませんでした。
また卒業研究は12月8日に提出です。
9名の卒論を夏から添削を続けています。
今が佳境です。
空き時間に添削が次々に入ってきます。
OKを出したのはまだ3名です。
これからも添削は続きます。
このような状況で、発行が遅れました。
以上、言い訳でした。

2011年10月15日土曜日

82 室戸岬:海溝での邂逅

 室戸で思わぬ邂逅を味わいました。それは私にとっては人との出会いでもあり、付加体にとっては海溝でのマグマと堆積物の出会いでもあります。そんな、邂逅を、室戸岬は演出してくれました。どんな邂逅があったのか紹介しましょう。

 今年9月18日、「室戸ジオパーク」が世界ジオパークへの加盟が認定されました。北海道ではあまり大きなニュースにならなかったのですが、四国や高知県では大きなニュースとなったと思います。長年、室戸市と高知県が努力を積み重ねての朗報なので、関係者の喜びもさぞかし大きかったでしょう。
 9月の中旬、発表の直前の1週間、私は室戸岬周辺の調査に出かけました。そのときの様子を紹介しょうましょう。なかなか面白い出会いがありました。
 このエッセイで何度か紹介してきましたが、昨年度1年間、私は、大学の研究休暇で愛媛県西予市に滞在していました。その間、主だった四国の地質を見学するために、海岸沿いや主だった地質ポイントをひと周りする予定でいました。室戸岬は見所も多いので、1週間ほどの日程が必要になると見越していました。ところが、時間切れで、室戸岬をめぐるコースがすっぽり残ってしまいました。そのリベンジも今回の調査で果たそうと考えていました。
 滞在していた西予市では、市長の決断によってジオパークを目指すことになりました。当時、室戸は日本ジオパークになり、世界ジオパークに向けて邁進していることも刺激になったようです。西予市の友人で私の受け入れ担当のTさんも、市役所でジオパーク担当となりました。Tさんは、四国で先陣を切っている室戸市のジオパークの活動を見ておきたいというので、一緒に行く約束していました。お互いの時間の調整がつかないまま、時間切れとなりました。四国滞在中に室戸岬へは行けずに、私にとっては未踏で、無念さが残る地となりました。
 そこで今回、調査地として室戸岬を選んででかけることにしました。この時期の調査は、いつもは一人で見てまわるのですが、今回はいろいろな人と出会うことになりました。Tさんと現地で落ち合うことにしました。Tさんは1泊2日の予定ですが、初日に合流して同じ宿で過ごすことにしました。半年ぶりの再会となります。また、室戸のジオパークの関係者で高知大学の地質学者のYo先生が、わざわざ現地を案内してくださることになりました。Yo先生は、以前から論文で名前は知っていたのですが、お目にかかるのは初めてでした。いい機会となりました。
 室戸岬は付加体から構成されています。このエッセイでも付加体は何度も取り上げていますが、付加体とは、海溝に沈み込みむプレートによって、海洋の岩石や陸の岩石が、混じり合いながら陸側に付け加わったものです。そのとき、特有の構造を持つようになります。同時期の付加体は、海溝沿い陸側に長く延びて形成されます。付加体は、沈み込み帯で次々と形成さますので、海から離れるほど古い昔できた地質体になってきます。
 日本列島は、形成のほとんどの期間、海溝に面していました。ですから、日本列島の大地の骨格は、いろいろな時代の付加体からできているともみなせます。付加体の形成史を解明することが、日本の大地の生い立ちを探ることになります。また、付加体の解明は、地質学においても重要なテーマとなもなります。日本の地質学者は、地の利を活かし付加体を非常の詳しく調べて、そのメカニズムを解明していました。室戸岬もその舞台となりました。
 室戸岬は、足摺岬とともに南海トラフ(沈み込み帯)に向かって突き出ています。緯度でみると足摺岬のほうが南に位置しますが、南海トラフが東北東-西南西に延びていますから、沈み込み帯からの距離は似たものになっています。室戸岬と足摺岬とともに、付加体の陸地における最前線というべきところです。
 足摺岬はまわりが切り立った断崖になっており、調査が困難です。また、岬の大部分は火成岩からできています。それに対して室戸岬は、付加体がそのまま海岸に出ています。何段かの海岸段丘がありますが、地震による隆起地形や海食台などによって、段差なく海岸線で露出のよい露頭にアプローチできます。
 このような地質学的特徴やアクセシビリティを考えれば、ジオパークにふさわしい条件を持っているともいえます。ただし、ジオパークは地質学的条件だけでなく、他にも満たすべき要件がいろいろあります。室戸岬は、ジオパークになっているため、見るべきポイント(サイト)や説明、パンフレットなど整備さているため、手軽に見て回るには非常にいいところです。コンパクトにまとまった地域で、いろいろな地質現象を海岸の素晴らしい露頭や景色の中でみることができます。
 室戸岬の付加体は、室戸岬は付加体四万十帯に属します。四万十帯は、安芸(あき)構造線とよばれるもので、南北に2分されます。北側の古い付加体を四万十帯北帯、南側の新しいものを四万十帯南帯と区分しています。北帯は、おもに白亜紀の付加体(新荘川層群と安芸層群とよばれる地層とメランジェ)、南帯はおもに第三紀の付加体からできています。
 室戸半島のある南帯は、室戸半島層群と菜生(ほうらい)層群とよばれる地層からできています。室戸半島層群は礫岩から凝灰岩、砂岩、泥岩など変化にとむ地層で、メランジュもあります。それに比べて、奈半利川層は砂岩に富む砂岩と泥岩繰り返し(互層(ごそう)といいます)の単調な地層です。単調な地層ではあるのですが、一枚か数枚の地層内での激しい褶曲(スランプ褶曲と呼ばれている)が、多数見られます。スランプ褶曲による地層の異形が、室戸岬の重要な特徴でもあり、見応えのある景観をかもしだしています。
 菜生層群の中の地層(日沖複合層)には、きれいな枕状構造を残した玄武岩や水中自破砕(ハイアロクラスタイトと総称されます)火山角礫岩があります。このような玄武岩類は、緑色をしていることから緑色岩とも呼ばれ、付加体ではよく見られるのです。海洋プレート側の岩石が陸側に付加するときに、付加体の堆積物に紛れ込んだものです。
 室戸岬周辺にはスランプ、タービダイト、オリストリス、メランジェなど特徴的な地質現象の見所が多数あります。調査ではいろいろ見学しましたが、今回は少々マイナーな斑レイ岩を紹介しましょう。
 室戸岬には、斑レイ岩があります。化学組成は海嶺で形成される玄武岩(中央海嶺玄武岩、MORBと呼ばれています)に似ていますが、地質関係がそれでは説明できないものだったのです。
 付加体には上で述べたように海洋プレートの破片が入り込むことは、ごく当たり前に起こっています。ところがこの斑レイ岩は、まわりの地層(前期中新世の津呂層)に貫入している貫入岩であることがわかりました。
 付加体の中に見られる火成岩類は、マグマからできているのですが、冷え固まった岩石として混入しますから、まわりの付加体とは貫入関係はできません。このような岩石の起源を「異地性」と呼び、その固まりを「オリストリス(異地性岩塊)」といいます。ところが、室戸岬の斑レイ岩は、熱いマグマとして地層に入り込んでいます。熱いマグマが入ってくると熱の影響(接触変成作用といいます)をまわりの堆積岩に与えています。まわりの堆積岩は、熱を受けて変成岩(フォルンフェルスと呼ばれる)になっています。一部では、溶けているところすらあります。つまり、熱いマグマが地層に入ってきたのです。これこそマグマの貫入の様子です。
 さらに、斑レイ岩から派生した火成岩(グラノファイヤーと呼ばれる岩石)の形成年代は、1440万年前(中期中新世)で、斑レイ岩もほぼ同じ年代にできたと考えられます。この年代は、まわりの地層の年代(前期中新世)とは明らかに違っています。マグマに残された磁気(古地磁気といいます)の研究から、地層に水平に貫入したこともわかってきました。
 以上のことから室戸岬の斑レイ岩は、付加体が形成された後、あるいは形成している場の中で火成活動があったことを示しています。その場所は海溝付近です。それは、特異な火成活動(near-trench magmatismと呼ばれています)を意味します。
 従来のプレートテクトニクスの考え方では、なかなか位置づけられない(説明できない)火成作用となります。なぜかというと、沈み込み帯での火成作用の起こる場所は、海溝から一定の距離をおいたところです。現在の列島(島弧と呼ばれています)では、火山のできる場所は、列をなしており、火山前線と呼ばれています。島弧の火山のメカニズムは、ほぼ解明されてきました。ところが、室戸岬の斑レイ岩は、火山前線よりずっと前に位置します。そこは温度も低く「火のないところ」でもあります。そんな冷たい場所で、マグマができているのです。不思議です。
 実は、足摺岬にも潮岬にも、そのような不思議な火成岩類があります。これらの火成岩は、今後プレートテクトニクスをより深く理解するためにも、重要な役割をはたすことでしょう。
 私は、8日間の滞在のうち、徳島や安芸の周辺も調査していたので、室戸岬周辺には4日間滞在しました。毎日室戸岬にいはいって調査しました。暑い日が続きましたが、最終日以外は天気に恵まれ、日程を無駄にすることなく、調査を終えることができました。じっくり見るにたえる見所が、室戸岬にはいっぱいあります。アプローチもよく、コンパクトにまとまっていて、ジオパークとして解説や施設も整っています。チャンスがあれば、不思議なマグマとの邂逅を楽しまれてはいかがでしょうか。

・奇遇・
室戸をめぐっているとき、
道の駅があり、その横にジオパークを紹介する施設がありました。
朝早くから動いていたので、
一休みをかねて、開館時間をまって見学しました。
関係者のYuさんがおられ、
展示を丁寧に解説して頂きました。
Yuさんといろいろと話しながら
世間話なると、出身地や経歴の話になりました。
すると、Yuさんは、私が現在いる大学で、
前の所属学部で非常勤講師をされていたことがわかりました。
お互いに面識はなかったのですが、奇遇に驚きました。
また、Yo先生に室戸岬を案内いただいたあと、
室戸岬のジオパークの事務所に
先生と一緒に顔を出したとき、
再びYuさんがおられお目にかかりました。
再度の邂逅でした。
室戸が世界ジオパークになって本当によかったです。
そんな知りあった人の喜ぶ顔が浮かびます。

・思い残した地・
愛媛県八幡浜市に大島ということろがあります。
そこも地質的に面白いところなので、
Tさんと一緒に行こうという約束をしていました。
これもやはり叶いませんでした。
また、3、4日の日程で香川県小豆島(しょうどしま)にも
行こうと思っていたのですが、行けませんでした。
1年も滞在していたのに、
行けずに思い残した地がいくつもあります。
私の気持ちには終わりがありません。
そのうち、行こうと思っています。

2011年9月15日木曜日

81 歴舟川:一攫千金

 十勝平野の主たる河川は十勝川です。平野の南に歴舟川という目立たない川があります。しかし、歴舟川は、昔、多くの人が夢を追いかけた川です。そしてその夢は今も継続しています。そんな夢を私も見に出かけました。

 歴舟(れきふね)川は、十勝平野の南側を沿うように流れています。大樹町は、町域のほとんどが、歴舟川の流域にある街です。流域面積は、558.5平方㎞です。歴舟川は、短い川(全長64.7km)で、二級河川です。歴舟川の名前は、アイヌ語のペ・ルプネイに由来しているという説があります。「ペ・ルプネイ」とは、「水が大きくなる川」ということで、「嵐や西南の風が吹く時は、急に出水する」という意味だそうです。
 源流は、北はヤオロマップ岳からペテガリ岳を経て、神威岳、豊似岳へと続く、日高山脈の南部の主峰に端を発します。上流部は日高山脈・襟裳国定公園になっています。短いながらも水量豊かな清流です。
 清流とは、清い水のことですが、水質で清らかさを示すことがあります。環境省は毎年、全国の河川や湖沼の水質測定結果を公表しています。全国の3335の水域(内訳は河川2561、湖沼184、海域590)を対象として、検査しています。河川は生物化学的酸素要求量(BOD)を、湖沼では化学的酸素要求量(COD)を基準に調査しています。環境省の調査で、歴舟川は水質の良さで、全国で一番に7回輝いています。歴舟川は、河川全体で、1リットル当たりBODが0.5mg以下という清流です。
 そんな清流、歴舟川に今年の夏、家族でいきました。目的は砂金探しでした。歴舟川は、実は今でも砂金の堀りが体験できるところとして有名です。以前も、歴舟川き来たことがあるのですが、下流で砂を採取しただけで、通り過ぎてしまいました。今回は、家族で砂金堀りしてみたいと、砂金堀り用の皿(パンニング・パン)も用意してでかけました。小学校5年生の次男は、「一攫千金」という言葉を何度も口にして、楽しみにしてました。
 午後を砂金掘りにあてていたのですが、午後から小雨が降り出しました。まあ、行くだけは行こうということになり、情報集めも兼ねて、道の駅「コスモール大樹」にいきました。「雨だから砂金が堀りができるでしょうかね」といわれました。採取できる場所を聞いて、とりあえず出かけました。その場所は、道の駅からは10kmほど上流にさかのぼります。
 歴舟川中流にあるカムイコタンキャンプ場にたどり着きました。途中前も見えないような激しい雨になりました。たどり着いたときは少し小降りになりましたが、まだ雨は降っています。河原にはキャンプしている家族、カヌーなどで川遊びしている家族などがいましたが、雨やどりをしたり、カヌーは雨の中を出かける準備をしていました。
 広い河原でした。「こんなとこでは、砂金は取れないだろうな」と思ってたのですが、キャンプ場の上流をみると怪しい一群がいました。彼らは、かなり大規模に川底を掘っています。たぶんそれが、砂金堀の現場だと思って、小雨の中、家族と共に行きました。
 年配のいかにも砂金を掘っているぞという感じの年配の方が3名、その人達に指導しているもらっている家族が2グループいました。参加するために、道の駅の人に聞いてここにきたこと、私たちも砂金堀がしたいこと、道具は持ってきたこと、などを説明しました。
 そのグループは、専門家を頼んで砂金掘りの体験を申し込んだ人たちと、それを指導する人たちでした。その体験は、有料でおこなわれているものです。ですから、私たちのような飛び込みのものは、参加できそうもありません。
 まあ、せっかく来たのですから、年配の方に挨拶をしたら、「自由にとっていいですよ」といってくださいました。「初めての人は、見てやり方を真似しなさい」ということなので、真似をしていました。でも、「カッチャ(砂れきをすくうスコップ)がないと難しいよ」と、いわれましたが、体験ですから、やってみました。家族で見よう見まねでしばらくやっていると、長男がそれらしきものを見つけました。おじいさんたちに聞くと、「砂金だ。そんなところでよく見つけたね」と褒めてもらっていました。最初の砂金を、持参したビニール袋にいれました。
 長男が本当に砂金を見つけたので、次男はライバル心をむき出し、家内もヤル気なりました。私は、時々、おじいさんたちに、話をしに行きました。やがて、自慢気に以前とった砂金を見せてくれました。かなり大きなものもあるようです。すべて、歴舟川でとったそうです。
 何度か話をしていると、おじいさんが今掘っているところをカッチャを貸してやるから泥をすくっていいと言ってくれました。砂金掘りの体験の人たちも、すでに砂金を結構とっているためでしょう、黙認してれくるようです。
 何度か泥をもらい、洗っていくと、家族でそれぞれが数粒の砂金を見つけることができました。その後も、砂金を入れる入れ物や、そこへの入れ方など、いろいろ教わりました。すべて、体験に裏打ちされたノウハウでした。雨にぐっしょりになりながらも、家族全員満足しました。
 さて、大樹町の砂金ですが、じつは古くからその存在は知られ採取されていました。1635(寛永12)年から海岸付近で採取されていたといわれています。寛永といえば、江戸時代の初期です。その頃から、北海道、蝦夷(えぞ)の地で、砂金が見つかっていました。
 明治時代になると、採掘が本格化してきます。次男ではありませんが、一攫千金を目指して、全国から砂金を掘りに人が集まりました。ゴールドラッシュが起こりました。周辺の海岸や川で砂金堀りが盛んにおこなわれ、多い時には1日で100gもとれる日が何日も続いたということです。
 金の相場は、変動が激しいものです。グラム当たりの価格は安い時では1000円、現在急騰中の高い時には5000円ほどになります。当時としても、かなりの現金収入になったのでしょう。まさに一攫千金の夢だったのでしょう。
 最盛期は明治30年から大正にかけてまで、歴舟川には、100人近くの掘り師がいたようです。専門の掘り師は、1971(昭和46)年を最後にいなくなったそうです。愛好家によって、歴舟川では、今も砂金掘りがおこなわています。砂金の指導者のおじいさんたちは、そんな愛好だったのでしょう。しかし、素人が2、3時間パンニングをするだけで、それなりに採れるということは、やはり砂金が豊富にあるのでしょう。
 江戸時代に見つかった海岸の砂金は、もともとは歴舟川から流された砂金が海岸で洗われてたまったものです。それほど歴舟川には、砂金が多かったのでしょう。歴舟川の源流の山並みは、日高変成岩類や深成岩類などです。その構成物には花崗岩類があり、金が含まれることがあります。
 毎年、雪解け水や洪水など、少しは流れてくるでしょうが、その量は微々たるものでしょう。しかし、長い期間をかけて、河川の侵食、運搬、堆積作用によって、砂金として蓄積したものです。砂金も掘りつくしてしまえば、やがては限りある資源と同じようになくなるのでしょう。しかし、専門の掘り師がなきあとなら、市民が楽しむ程度には流され、蓄積されていくのでしょう。
 砂金探しは、かつては一攫千金の夢を見させてくれるものでした。この夢は、昔、この地で砂金を掘った人達の夢でもあったのですが、今では、子供も楽しめる夢となっています。機会があれば、また砂金堀りにいきたいものです。一攫千金を夢見て。

・弥永金博物館・
札幌の北海道大学の近くに弥永(やなが)博物館があります。
館長の弥永芳子さんは、古銭の収集から、
道内の砂金採取の歴史なども研究され、
著書「北海道の砂金と砂白金」もあります。
そして砂金も実際に集められています。
以前見学に行ったのですが、
なかなか見ごたえのある資料がいろいろありました。
私設の博物館ですが、砂金や金に興味がある方は
一見の価値はあります。

・パンニング・パン・
以前カナダに行った時、
山師たちが使う砂金用の皿(パンニング・パン)を
購入したことがありました。
重鉱物を採取するつもりで購入したものですが、
ほとんど使うことなく、
以前所属していた博物館に寄付してきました。
3年ほど前、博物館の友人と北海道を調査した時、
博物館では今、砂金を集めているとのことで、
夕張川でパンニングをしたら、あっさりと見つかりました。
私もやってみたのですが、ダメでしたが。
私も、砂金に興味が出てきたのでパンだけは、
家族分購入していました。
この夏まで行く機会がなく、
使ったこともありませんでした。
パンは四国にも持っていったのですが、
一度も使うことはありませんでした。
ですから、今年の夏、やっと使りました。
なかなか良い成果をあげることができました。
専門家がいる近くで、専門家の力を借りながら
やったおかげでしょう。
いい経験をしました。

2011年8月15日月曜日

80 蓬莱山:切り離された記憶

 新ひだか町三石(みついし)には、蓬莱山(ほうらいさん)と呼ばれる小さな切り立った山があります。その姿は威容ではあるのですが、周りを圧倒するようなことはなく、ただ佇(たたず)んでいるようにみえます。そんな佇む姿は、周囲から切り離され孤立しているためなのかもしれません。

 先日、夏休みをとって2泊3日の家族旅行をしました。家族はどこといっていきたいところはなく、子供たちは水辺で遊ぶことを希望しています。日数もあまりないので、このエッセイの題材になりそうな地域へ行くことにしました。
 日高の海岸沿いに襟裳岬までいき、黄金道路を北上して、十勝平野に行き、もどるというコースです。宿泊施設も、以前から何度か泊まっているお気に入りところです。
 さて、今回紹介するのは、三石(新ひだか町三石)の蓬莱山(ほうらいさん)です。私は、ここにくるのは3度目で、家族で来るのも2度目となります。でも、子供たちはほとんど覚えていないようです。
 蓬莱山は、山と川の間の河原にポツリと突き出た地形をしています。三石川を河口から遡ると、目立った地形なので、その存在はすぐにわかります。目立ちはするのですが、周りを威圧するような姿ではなく、ただひっそりと佇むようにあります。
 蓬莱山の対岸(右岸)にも少し切り立った崖があります。蓬莱山とその対岸の切り立った崖自体は目立ちますが、周囲の山はなだらかなので、余計に蓬莱山などの険しさが目立つようです。その険しさは、神秘的にも感じられます。昔の人もそれを感じていたのでしょうか、蓬莱山の麓には小さな祠が祀られています。北海道の文化財にも指定されています。
 私が蓬莱山で石を見ている間、家族は川で水遊びをしていました。本当なら磯で遊びたかったのですが、台風の影響で波が高く、満潮の時間でもあったのでかなり危なそうに見えたので、川で遊ぶことにしました。天気が続いていたので、三石川の水は澄んでいて、川遊びをするのに絶好でした。幸い天気にも恵まれ、子供たちは2時間ほど心置きなく水遊びをしました。
 7月には、蓬莱山から対岸まで大きな注連縄(しめなわ)が渡され、祭りを催されます。残念ながら祭りの時期に行ったことはありませんが、以前、注連縄が飾られているのは、見たことがあります。
 蓬莱山と山並の間には、切れ込みがあり、JR日高本線と道道が通っています。JRが海岸から離れて、内陸に大きく迂回しているところです。蓬莱山と山との間の狭いところを道路も線路も通っていることになります。
 線路脇には崩れた露頭が見えます。線路越しに見ると、露頭には蛇紋岩が崩れているのが見えます。
 この蛇紋岩は、神居古潭帯と呼ばれる地質帯に属しています。神居古潭帯は、蛇紋岩と共に高圧の変成作用を受けた変成岩からできています。蛇紋岩は、もともとはマントルを構成していたカンラン岩ですが、変質作用で水をたくさん含んで蛇紋岩になっています。
 蛇紋岩は、カンラン岩が変わったものですが、性質はかなり違っています。蛇紋岩は、割れ目が多く、割れ目ですべりやすく、すぐに崩れてしまいます。水が加わると、さらに滑りやすくなっていきます。ですから、蛇紋岩の露頭は、侵食されて崩れ、削られていきます。蛇紋岩があって侵食され窪地になったところを、道路と線路が通っているようです。
 蓬莱山や線路より奥に続く山並み(軍艦山)、対岸の山(写万部山)は、神居古潭帯の高圧変成岩が分布しているところです。蛇紋岩に比べて高圧変成岩のあるところは、険しい山となっています。蓬莱山や対岸の崖は、角閃岩と呼ばれている縞状構造をもった高圧変成岩からできています。
 角閃岩とは、角閃岩相(主に角閃石が形成されます)の変成作用を受けた変成岩で、原岩は幾種類かの岩石からなり、変成作用で縞状構造あるいは片麻状構造をもつようになっています。高圧変成岩とは、温度はそれほど高くなく、圧力が高い条件をいいます。それは、海洋プレートの沈み込み帯(海溝のあるところ)の深部で起こる変成作用です。神居古潭帯は、昔の海洋プレートの沈み込み帯の存在を示しています。日本列島、あるいは北海道の大地の生い立ちを知る上で、重要な情報をもたらします。
 神居古潭帯は、三石から北へ、沙流川流域、夕張岳、神威古潭峡谷、幌加内、猿払などに断続的に分布しています。さらに北への延長は、サハリンまで続いています。三石の軍艦山より南方で、蛇紋岩の分布は途切れてしまいます。神居古潭帯は、海に入り込んでいます。
 この付近には断層帯があり、断層に沿って蓬莱山が押し出され、蓬莱山地塁帯ができたとされていますが、なんといっても蛇紋岩と高圧変成岩の硬さの違いが重要です。蛇紋岩は簡単に侵食されますが、高圧変成岩はなかなか侵食されません。三石川に浸食されずに残ったもの(残丘と呼ばれます)が蓬莱山となったのでしょう。
 蛇紋岩は、地表に露出すると比較的短い期間で侵食されてしまうため、露頭が地表にはなくても地下に蛇紋岩があることもよくあります。土木工事をすると、地下にあった蛇紋岩が露出するようになります。蛇紋岩は、滑りやすい岩石で、水が加わると膨張し崩れていくという性質があるので、土木工事では非常に嫌われものになっています。
 蓬莱山以外にも、いくつか高圧変成帯の岩石がこの地域にはでており、露頭がなくても周辺に蛇紋岩が潜在していること感じさせます。神居古潭帯の蛇紋岩は、土木工事では厄介ものです。しかし、深部で形成された高圧変成岩を、持ち上げてくる作用をしていることにもなります。この作用は地質学者にとっては、深部の岩石、大地の生い立ち知る上で重要な情報をもたらします。
 我が家の子供達が水遊びをしていると、川に来られた家族連れがおられました。声をかけると、北海道は旧暦で七夕をするので、七夕(たなばた)飾りを川に流しに来られたとのことです。この河原なら遠くまで笹飾りが流れていくからと、わざわざここまで来られてようです。都会の川ならゴミになるかとか言われそうですが、ここでは、昔からおこなっている風習のほうが優先します。そして三石川にはそんな風習をきれいにしてしまう浄化力がまだ残っています。遊んでいた河原の淵には、大きなニジマスがいたということです。何度もここに親子で釣りをしにきていると話されていました。
 霊を安置して、幡(笹飾り)をするのが7日の夕方なので、「七夕」というようなったそうです。七夕は、もともとお盆行事の一環だったようなので、お盆は旧暦で行われるのですから、七夕も旧暦でするべきでしょう。それが、いつの間にかお盆と七夕、旧暦と新暦が切り離され、祭りや儀式のみが残っています。まるで蛇紋岩が侵食され、高圧変成岩だけが残っているように。佇む蓬莱山のように。

・七夕・
北海道では旧暦で七夕をします。
七夕の夜に、子供たちが
「出せ、出せ、ローソク出せ、出さねば、かっちゃくぞ」
と掛け声を出し、家々をまわります。
「かっちゃく」とは北海道弁で「ひっかく」という意味です。
声をかけ、お菓子などをもらうという風習があります。
我が地区でも数年前からこの行事が復活して、
子供たちが、夜、家々を巡りっています。
地区が大きいので、あらかじめルートを決め、
家を決めて回ることになります。
現代的な対処でしょう。
でも、このような伝統行事があることは
重要なことだと思います。
その重要性を四国に滞在して強く感じました。
子供たちがその風習に参加して、
地域のコミュニティに属していることを
肌で感じることが必要です。

・砂金探し・
三石川で砂金探しをしてみましたが、
予想どうり、砂金は見つかりませんでした。
場所が悪すぎました。
砂金は場所さえよければ、見つかるはずです。
砂金探しにもコツがあるので、
見つけるのはなかなか大変です。
歴舟川で砂金堀体験をしましたが、
それは別の機会にしましょう。

2011年7月15日金曜日

79 静内:秘境にかえる

 今回は私にとっての古戦場である静内川です。上流の高見ダムが卒業論文の調査地でありました。しかし、かつて高見あたりは、秘境と呼ぶべき奥地でした。そして、ダムができて30年ほどたった現在、再び秘境の地になりました。そんな秘境に河口から思いを馳せました。

 先日、教育実習の指導のため、静内へでかけました。実習指導は、受け入れ小学校があるので、失礼のないように、目的地には早めつくようにしています。約束の時までは、近所で時間を潰すことにしています。今回は、9時前後に訪問すればよかったのですが、8時頃に静内に到着しました。時間を潰すのは苦ではなく儲けものと思うことにしています。静かな自然のあるようなところを探して、ボケーっとすることにしています。
 静内は噴火湾に面した静内川の氾濫原に街があります。街の南側に、静内川があり、西側の海へ注いでいます。静内川河口の左岸には公園があり、のんびりと時間を過ごしました。朝の散歩をされているおじさんと、静内川について話しをしました。上流のことについても話しが及び、私にとっては懐かしく思い出されました。
 静内川の上流は、私が卒業論文のための野外調査をした思い出の地でもあります。思い出の地への再訪については、別のエッセイ(EarthEssay 4_65 古戦場の静内川へ 2005.10.20)で、書いたことがあります。6年前のことでした。思い出の卒論の調査地に行こうとしたのですが、下流側の静内ダムで通行止で入れませんでした。
 私の調査地は、上流側の高見ダム周辺とさらに上流でした。今回は、上流にいく時間がなかったので、思いを馳せるだけです。
 静内川の上流域は人跡も少ないところで、かつては川を遡上していく道はありませんでした。高見地区という集落があったのですが、南の三石の元浦川から、林道を通ってしか入ることができない秘境というべきところでした。
 私が卒業研究で調査に入ったのは、1979年の夏でした。高見ダムの工事の真っ最中でした。1978年から工事がはじまり、1983年7月30日にダムは完成しました。当時は「奥高見ダム」という名称でしたが、現在は高見ダムとなっています。「奥高見ダム」という名称は、高見という地区よりさら上流にあたるために、つけられた名称です。しかし、後に只見川にある「奥只見ダム」と混乱を避けるために、「高見ダム」に変更されたようです。
 私が入った頃には、ダム工事が本格化していましたので、静内川沿いに立派な道ができていました。道路は舗装こそされていませんでしたが、立派な道路がありました。ダムサイトは、2車線もある立派な道でした。ダンプや大型作業車がいっぱい走ってホコリを舞い上げていました。ホコリがたたないように、一日に何度も散水車が往復していましたが。
 ダムサイトにいる限り、多くの人がいて、作業車も動き回っているので、人里はなれたところにいる気配はしませんでした。売店もあり、簡易郵便局もガソリンスタンドもあり、ちょっとした村並でした。ただ、一歩奥まったところにいくと、そこには手付かずの自然が残されていました。私は、原付バイクで沢沿いを調査をしていました。そんな沢では、野生も身近にありました。エゾシカはもちろん、エゾクロテンやヒグマなどとの遭遇もありました。
 ダム現場から静内の街まで用事で往復するためには、原付バイクでは半日仕事になり、奥地にいることを実感させられました。そんな奥高見のダムの作業飯場に3ヶ月泊めていただき、調査をしました。
 このエッセイを書くために、当時の私の卒業論文「静内川中流域、高見周辺の緑色岩類について」を読み返しました。手書きで書かれた卒論は、本論が102ページ、付録として「オフィオライト問題について」が31ページありました。読み返すまで、細かい内容は殆ど覚えていませんでした。しかし読み返していくと、作成当時の苦労や、それなりの達成感など、いろいろ思い出しました。そして、この卒論の野外調査は、私が地質学の道を目指すきっかけとなったものでもあります。
 静内川の高見ダム周辺には、オフィオライトと呼ばれる岩石がでます。当時は海洋地殻を構成していた玄武岩は、変成作用を受けて、緑色になっていることが多く、緑色岩類というフィールドネームが、そのまま論文でも使用されていました。
 卒業研究の少し前までは、変成作用のせいではなく、緑色岩(スピライト、spirite)や輝緑岩(diabase)、ケラトファイア(keratophyre)と呼ばれる岩石を形成したマグマが存在していたと信じられていました。今では、スピライトは変成作用を受けた玄武岩で、輝緑岩はゆっくりと冷えて粗粒になった玄武岩(ドレライトとも呼ばれます)、ケラトファイアは変成作用を受けた酸性火山岩類であるとされています。私が卒論を書く頃には、そのモデルがやっと浸透する時期でもありました。
 そのころ、もう一つ重要な話題がありました。卒論の付録にあったオフィオライトに関する成因についてでした。スピライト問題は過去の間違いを正す議論でしたが、オフィオライト問題とは、未来に向かった議論でした。
 オフィオライトとは、海洋底を構成する岩石(海洋プレート側の岩石)で、プレートテクトニクスの作用で陸地の中(大陸プレート)に取り込まれたものです。ただし、この考えは当時広まってきた見解で、スピライト問題の反省から、すべてのオフィオライトは海洋地殻の断片であるという考えに先進的な研究者が囚われていました。ですから、オフィオライトをみれば、充分な検討もなされず、すべて海洋地殻起源と短絡的に考えられていました。
 オフィオライトの典型的な分布地としてキプロス島のトルードス・オフィオライトがありました、その起源について論争が繰り広げられました。すべてのオフィオライトは海洋底でできるという考えに異論が唱えられたのです。
 異を唱えた研究者、それは故都城秋穂さんでした。都城さんは、化学組成に基づいて、マグマの起源(形成場)を考えていこうとしました。化学分析値、現在の列島のマグマや海洋底のマグマなどのデータを集めて、形成場の違いによってマグマの組成が同変化するかをグラフとして示しました。非常に客観性のある分かりやすい姿勢でした。都城さんの論文は数々の議論を呼び、都城さん自身も何度も反論を受けて立たれました。その一連の議論をまとめたものが、卒論の付録でした。議論の結末は、現在では、都城さんに軍配が上がったと考えられています。
 この議論以降、化学組成に基づいてグラフにプロットして形成場を考えるという手法が、通常の手法として、広く使われるようになりました。さまざまな化学組成によって、いろいろなグラフが提案されています。
 当時の私がいた大学では、緑色岩が玄武岩マグマに由来するものとか、海洋地殻の構成岩石であるということも認めていない先生もおられました。私は、それらの説を覆すために、深海底でできた証拠、玄武岩マグマに由来すること、海洋の玄武岩に似ている証拠などをいろいろ探しました。卒論当時、化学分析をすることはできかなったので、決定的証拠を出すことはできませんでした。今では、当たり前に化学分析をして、簡単に決着を見ることができるのでしょうが、当時はそれもできませんでした。隔世の感があります。
 ダム工事も終わり、立派な道路があったのですが、高見ダムは、現在、再び秘境の地になりました。というもの、静内ダムより上流への道は通行止めとなっているためです。2003年に発生した十勝沖地震で、道路ががけ崩れで破損したそうですが、復旧されていないためといわれています。しかし、ダムの保守の人はどうしているのでしょうか。人事ながら心配です。河口から上流の秘境に思いを至らせる旅でした。

・ペテガリ岳・
静内川の上流には、
ペテガリ岳という山があります。
その山自体も上り下りが激しく
途中の眺望もあまりよくなく、
過酷な登山になります。
私も卒業研究のとき、
一日ペテガリ岳への登山をしました。
大変疲れましたが、
無事登頂をして帰ってきました。
ところが、今では、非常のアプローチの長い
川の渡渉が必要な難しいルートになっているようです。
私が調査していたことには、
ペテガリ山荘という無人の山小屋があり、
そこまで車で入ることができました。
山荘からペテガリ岳へは日帰りできるルートでした。
地質の巡検でも、ペテガリ山荘をベースにして、
地質学者を何度か案内したこともありました。
でも、今ではそれもできなくなりました。
非常に素晴らしい景観の秘境を手軽に楽しむことができました。
それも遠い過去の事になりました。

・夏休みの計画・
7月も半ば、夏休みの計画は立てられたでしょうか。
我が家の夏休みの旅行はできそうもありません。
私の大学の仕事が8月第1週まで定期試験があります。
その後、採点と評価があります。
でも提出はお盆明けですので時間は取れそうです。
ところが、長男がクラブあり、
さらに10日には日韓試合の観戦をするので、
お盆前には出かけられそうにありません。
お盆明けは、学校にが始まります。
お盆に動く気がしません。
さあ、どうしたものでしょう。
近くの川か海の穴場にでも、
ゲリラ的に日帰りで出かけましょうか。

2011年6月15日水曜日

78 黄金岬:暑寒別を眺めながら

 留萌の黄金岬には、玄武岩の柱状節理がみられる磯があります。6月に留萌にいったとき、少し時間があったので、黄金岬に立ち寄りました。晴れた朝の海岸からは、暑寒別の山並みきれいに見え、短いながらも、大地の歴史に思いを馳せることができました。

 残念なことですが、3月末に四国から北海道に戻ってきてから、野外調査には一度も出ていません。仕事の関係で、仕方がないことなのかもしれませんが、地質学に興味をもっている者にとっては、非常に欲求不満が溜まっていきます。少しの時間を見ては、石をみるように心がけています。
 6月上旬に、日帰りの出張で留萌へ出かけたとき、現地に早く着きすぎたので、留萌を少し見て回ることにしました。そこで出かけたのは、留萌の町外れにある黄金岬でした。黄金岬には以前にも来たことがあるのですが、今回は、短時間の寄り道となりました。
 訪れたときは、風の強い日でしたが、晴れの空気の澄んだ朝でした。海岸から沖を見ると、暑寒別の山並みが良く見えました。暑寒別は、暑寒別岳(1491m)を主峰とする山塊が、海岸までせり出していて、峰々にはまだ雪が残っていました。くっきりと見えたので、2時間ほどのドライブの疲れを癒してくれました。暑寒別一帯の山塊は、火山からできています。裾野の海岸線にある露頭では、マグマがつくった構造や、マグマが海に入ったときできる構造などが見ることができます。
 黄金岬の岩石も、実はマグマがつくったものです。柱状節理(せつり)の発達した溶岩が露出しています。マグマが固まるときに、体積が少し減ります。すると溶岩は縮むことになり、割れ目がいくつも形成されます。このような割れ目を節理と呼んでいます。節理は、溶岩のかたちや冷え方によって、さまざまな形状のものができます。溶岩が固まるときにできる割れ目が柱のようになっているものを柱状節理、放射状になっている放射状節理などと呼ばれるものができます。黄金岬では、柱状節理の発達している溶岩が見られます。
 黄金岬の岩石は、だいぶ風化が進んでいるので、かなり長く風雪や海食にさらされてきたものと思われます。留萌港の建材としても利用されてきたようで、かなり人手が入っていますので、浸食の激しい場所なのでしょう。それでも、このような節理が残っているのは、深くそして陸地の奥まで分布しているのでしょう。切り立った尖った岩場ではないので、磯遊びをするのには、なかなかよさそうなところです。
 ただ、黄金岬の玄武岩は、少々気になるところがあります。それは、今手にしているデータからは、どうもしっくりこないことがあるからです。
 暑寒別の火山は、安山岩マグマの活動を主としています。新第三紀鮮新世から中期更新世(第四紀)にかけての活動だと考えられています。年代測定では、207万~317万年前の年代が得られています。暑寒別の火山と留萌の玄武岩の間は別の地層が分布していて不明です。地層としては、深川層群留萌層(鮮新世)が分布しています。珪藻土を含んでいます。珪藻土とは、珪藻が集まってできたもので、日本海沿いによく見られる堆積物です。火山岩の関係を、私はよく知らないのですが、もしかすると一連の活動なのかもしれません。ただ、マグマの性質が少し違うのが気になりますが。
 鮮新世の時代には、暑寒別から東に向かって、イルケップ山(250万年前)、米飯(べいぱん)山(350万年前)、丸山、旧期然別(しかりべつ)火山(然別湖の西に分布するもの)が点々と連続して分布しています。いずれの火山も、マグマは安山岩質のものです。なぜ、このような東西の火山の並びになっているのでしょうか。現在のプレート配置からしても少々奇異な気がします。その理由は、まだよくわかっていないようです。
 留萌の黄金岬の溶岩は、活動した時期は400万年前(鮮新世)と看板にありました。どれくらい正確な表記なのかわかりませんが、400万年前も鮮新世ですから、暑寒別の火山活動に時期になるのでしょうか。
 また、黄金岬は、鮮新世の火山列より少し北にずれています。分布が暑寒別の火山から途切れているのも、少々気になります。まあ、これくらは、地質現象だから誤差範囲と考えてもいいのでしょうか。
 さらに、マグマの組成が少々違います。留萌の黄金岬の溶岩は、カンラン石玄武岩(結晶が粗粒なのでドレライトとも呼ばれます)で、暑寒別から然別までの火山は安山岩を主としています。大きな火山の活動では、マグマに多様性があるので、これくらいの組成差は起こりうることであったのかもしれません。
 時代、分布、組成といずれも気になるのところですが、私の疑問は、まだ解決できていません。この黄金岬の玄武岩について資料をいくつかあたったのですが、詳しいものが見つかっていません。なにせ我が大学では、地質学の文献はほとんどありませんので、文献を探すのに手間がかかります。もう少し探せば詳しい文献が見つかるかもしれません。その時は、改めて紹介することができるでしょう。
 留萌周辺では、海岸段丘の面がいくつか見られますが、段丘面から海岸へは段差があります。海岸の柱状節理は、海食台のように平らになっています。黄金岬は、日本海に向かって西に突き出ています。黄金岬から見る夕陽は、「日本の夕陽百選」にも認定されていて、夕日がきれいに見えるようです。かつては、岬は、ニシンの群れが夕陽を反射しながら、黄金色に輝いて岸に来たそうです。それにちなんで「黄金岬」と呼ばれるようになったそうです。
 今ではニシンはほとんど獲れなくなりましたが、そんな日がいつか再び来るでのしょうか。黄金岬の玄武岩の節理には、そんな人の歴史も刻まれているのかもしれません。

・大学祭・
北海道も暖かくなってきました。
もう朝でも、ヤッケも要らなくなりました。
日中では、天気さえよければ、
半袖でも過ごせるようになってきました。
朝夕は、まだ涼しい日がありますが、
いい季節となりました、
小学校の運動会シーズンも終わり、
これからは、大学祭のシーズンが始まります。
もう早々と大学祭が終わったところもありますが、
これからのところもあります。
子供が小さいうちは、他大学の大学祭にも参加しています。
今年もまだ参加できそうです。

・暗い将来・
最近、野外調査に出ていません。
夏休みには少し出かける予定ですが、
しばらくは、ストックを漁って
このエッセイを書き綴ることになります。
行きたいところは山ほどありますが、
時間と費用がありません。
それが苦しいところです。
本務の仕事が優先ですので、
なかなか出歩けなくなりました。
大学評価への対応や規則通りの授業の執行義務、
オフィスアワーなどの学生へのサービスの設定など
かつてと比べて、なにかと時間的余裕が少なくなってきました。
こんなことで、創造的な仕事ができるのでしょうか。
文部科学省は大学教員に何を求めているのでしょうか。
研究成果でしょうか、教育効果でしょうか。
それともサラリーマン的な業務でしょうか。
研究、教育の両立も可能でしょうが、
心の余裕のない人に良い成果を望めるのでしょうか。
大学教員で余裕のある人は、どれほどいるのでしょうか。
その中で研究、教育ともに成果を挙げている人は
ほんの一握りではないでしょうか。
日本の大学の総体として、このような締め付けによって、
明らかに以前の能力、あるいは潜在力を
なくしてきているような気がします。
これが、国力を下げる方に向かっていかければいいのですが。
日本の行政は至るとこで間違い犯しつつあるのは
万人の認めるとこです。
いつ、だれが、その間違いを修正するのでしょうか。
これからも将来は暗いのでしょうか。

2011年5月15日日曜日

77 龍安寺:石庭の宇宙

 今回は、地域を取り上げるのではなく、ある寺院内の石庭が舞台です。非常に小さい石庭から、地域の地質の特性を見出すことができます。宇宙すら感じることができます。この石庭を眺めてきた多くの人の視線や思念が、ここには、こもっている気がします。庭を作った人の作為、維持している人の努力、眺める観光客の視線や思念が、この石庭をより深いものにしているのかもしれません。

 昨年、愛媛県に滞在しているとき、京都の実家まで帰省をなんどかしました。朝のJRの特急に乗れば、昼過ぎには京都に着きました。料金もそれほど高くないので、親孝行のつもりもあって帰省しました。
 帰省して時間があれば、昼間は京都の街をぶらぶらと散策しました。夜は、母や兄弟、親戚の人たちと会い話をしたり、母の代わりの祭りの手伝い役などもこなしました。まあ、特別な目的があって帰省してるわけでも、母以外に連絡しているわけでもありませんので、私が帰っているというのを聞きつけて、ぽっつりぽっつり訪問者がいるていどで、のんびりと過ごしました。そして訪れた人と、じっくりと話をしました。
 京都の散策で、あるとき衣笠(きぬがさ)にでかけました。京都の西の金閣寺や仁和寺があるあたりです。観光地ですが、観光シーズンからも外れで、梅雨の時期でもあったので、観光客も少なく、比較的のんびりと見て歩くことができました。衣笠では、金閣寺や仁和寺の有名なところも見ましたが、龍安寺の石庭をみることも目的でした。龍安寺には、以前にも2、3度来ているところなのですが、久しぶりに訪れました。
 金閣寺から龍安寺にまでの道(きぬかけの路と呼ばれています)を歩いていくのですが、立命館大学沿いの道に崖があり、その崖には層状チャートが見ることができます。衣笠付近には、層状チャートが分布しているようです。
 このように私は、地質学を初めて以来、石があれば、その石を見ることが習い性となっています。崖があればそこの地層を見、庭石があればその由来を考え、石段があれば石の種類を調べ、石積みがあれば近くの採石場を想像してしまいます。観光地でもあっても同じことをしてしまいます。まあ、いつものことですから、私自身はそれが通常なのですが。
 龍安寺は、小さな寺ですが、石庭が有名で、世界遺産にも登録されています。石庭は狭いのですが、禅における世界観を感じさせる静逸さが魅力です。龍安寺は、禅宗のひとつの臨済宗(りんざいしゅう)の寺院です。
 訪れた人の多くは、縁に腰おろし、庭を眺めます。庭を眺めながらも、無言のまま、自分自身の思いの世界に浸りこんでいきます。極限まで単純化された石庭に何をみるでしょうか。内省するのでしょうか。未来を考えるのでしょうか。宇宙を見るのでしょうか。私は、石をみます。
 石は、白砂のなかに、ぽつりぽつりと置かれています。白砂の中に点在している石は、コケが周辺には生えていて、島のように見えます。石の配置には、対称性も規則性もありません。不規則なようですが、何かの調和があるような不思議な配置をもっています。それが作者の意匠なのでしょう。
 縁側に座り込んで、石庭を眺めました。もの思いにふけるより前に、石が何かをじっくりと見ていきました。
 白砂には、ほとんど丸みがないごつごつしたものなので、川砂ではないようです。角閃石や黒雲母のような黒っぽい鉱物のつぶつぶが見えます。透明感のある石英らしきものも量は少ないですが見えます。白っぽく見えるのは、長石が多いためです。白砂の原岩は、花崗岩のようです。花崗岩の破片だけからできている砂なので、「マサ(真砂とも書かれます)」かもしれません。マサとは、花崗岩が風化して壊れたものです。
 花崗岩からできてる山で風化が起こると、侵食・運搬などの川の作用を受けることなくても、大量の砂(マサ)が、花崗岩の山の周辺に形成されます。このマサが、龍安寺では白砂として利用されているようです。
 島をなしている石と比べて、マサは新しそうです。白さが鮮やかなので、いつかはわかりませんが、最近入れられたものかもしれません。となれば、時々砂は入れ替えている可能性があり、近くにマサを採取できるところがあるのかもしれません。
 実は、京都の周辺には、点々と花崗岩が分布しています。近いところでは、比叡山や比良山が花崗岩からできています。
 京都の南部から奈良にかけては、広く花崗岩が分布しています。南部の花崗岩は、領家帯に属します。領家帯とは、中央構造線より北側で、花崗岩を主として、変成岩を伴っている地帯のことをいいます。白亜紀の花崗岩の活動が特徴的で、古期(1億2000万から9000万年前)と新期(1億1000万から7000万年前)の活動時期があり、古期のほうには片麻状構造があるとされています。
 京都市周辺の花崗岩は、山陽帯に属しています。領家帯より北側に当たる地帯になります。山陽帯の花崗岩は、3つの活動時期が区別されていますが、琵琶湖周辺の花崗岩は、一番新しい時代(6500万から5800万年前)の活動だと考えられています。これらの花崗岩は、あとで説明する丹波帯の堆積岩類を貫いています。つまり、丹波帯より花崗岩のほうが、新し時代にできたことを意味します。
 白い砂の海に浮かぶ島は、7つあります。島は1個の石からできているものもあれば、複数個からなるものもあります。高低もさまざまです。置かれている石の数は、全部で15個です。15個の石が、一見無造作に7か所においてありますが、縁や座敷の座る位置によって、石や島の見え方が異なるようになっています。また、15個の石は、どこから見てもすべてが見えないように巧みに配置されているとされています。本当は見える場所があるのですが。
 そんな石庭の石ですが、よくみると石の種類を窺い知ることができます。層状チャートと玄武岩質砕屑岩(いわゆるハイアロクラスタイトとよばれているもの)がいくつか使われているようです(注を参照)。そして、砂岩や礫岩もあるようです。
 層状チャート、玄武岩、ハイアロクラスタイト、砂岩や礫岩などの組み合わせは、日本列島ではごく普通に見られる岩石種です。このような岩石の組み合わせは、付加体とよばれる列島固有の地質体を構成している岩石種でもあります。
 付加体は、このエッセイでは何度も出てきていますが、海洋プレートが海溝に沈み込むことで形成されます。海洋プレートの沈み込みにともなって、海洋地殻の破片(玄武岩やハイアロクラスタイト)や海洋底の堆積物(層状チャート)が、陸側に剥ぎ取られます。それらが陸から運ばれてきた堆積物(砂岩)と混ります。丹波帯はこのような付加体からできています。
 石庭をつくりあげている岩石は、丹波帯の付加体を構成している岩石種と一致しています。衣笠のきぬかけの路沿いの崖でみた層状チャートも、付加体のメンバーです。
 龍安寺には、もう一つ私がいつもみるものとして、石でできた蹲踞(つくばい)があります。蹲踞とは、茶室に入る前に手を洗うために手や口を清めるための水を入れるものです。蹲踞は、吾唯足知(吾唯足るを知る)という文字がデザインされています。4つの漢字は、すべて口という字が使ってあります。その口を共有して、蹲踞の水を貯めるところにしています。すばらしいデザインではないでしょうか。
 龍安寺の蹲踞は、徳川光圀の寄進だとされていますが、本当のところは不明だそうです。現在では、置かれているものは、レプリカですが、多分そっくりなものなのでしょう。
 この蹲踞は花崗岩からできています。マサも花崗岩由来でしたが、どうも種類が違うようです。マサは白っぽくするために、石英や有色の鉱物が少なく、長石の多いものが利用されています。蹲踞の花崗岩は、石英が結構含まれています。ですから、花崗岩の分類でいえば、マサと蹲踞では、花崗岩でも、違った名前がつきそうです。産地の違う花崗岩かもしれません。レプリカですから、石の産地や細かい種類まで一致させているかどうかは不明です。
 石庭の石は、京都の周辺でみられるものばかりです。石庭には、実は京都の地質が凝縮されていることになります。でも、実際にはこれらの石が本当に京都から持ってこられたかどうかはわかりません。庭石は川の転石で姿のいいものが採取されて、利用されます。また、大量のマサは、近くの比叡山からではなく、どこかの採石所から持ってこられたかもしれません。でも、昔は今ほど流通がなかったはずだから、近場にある素材を利用していたのではないだろうか・・・・・・・などなど、縁側で、そんなことに思いを思いを馳せていました。
 石庭の小さいな宇宙を眺めて、心のなかのでいろいろな思念が、次々と移っていきます。そんな空想の宇宙を羽ばたいているうちに、時間が過ぎ去ってきます。

(注)遠目でながめて推定した岩石種(番号は画像の番号に対応しています)島のアルファベットは、左のものから順につけました。ホームページに写真があります。
1:礫岩(島A)
2:玄武岩質礫岩(ハイアロクラスティック角礫岩)(島B)
3:層状チャートか珪質角礫岩(島B)
4:層状チャート(島B)
5:玄武岩質礫岩(ハイアロクラスティック角礫岩)と砂岩(島C)
6:枕状溶岩の玄武岩(ハイアロクラスティック角礫岩)(島D)
7:砂岩(島D)
8:玄武岩質砂岩(ハイアロクラスティック砂岩)(島E)
9:砂岩(島E)
10:玄武岩質砂岩(ハイアロクラスティック砂岩)(島E)
11:層状チャート(島F)
12:砂岩(島F)
13:砂岩(島G)
14:層状チャート(島G)
15:礫岩(島G)

・桜・
今年の春は、どんよりした天気が多いようです。
気温も例年より低そうです。
桜の開花も遅れいているようです。
そんな遅い北海道の春ですが、
今週末が桜の満開になりそうです。
ただ、天気があまりよくないので
どうなることでしょうか。
桜には青空が似合います。

・矛盾・
大学の教員は学生の教育と自分自身の研究を
進めることが主要な任務です。
その比率は人それぞれでしょう。
それ以外に大学の教員には
大学という組織を円滑に運営するための
仕事(校務)も不可欠になってきます。
校務は自分たちの組織を維持することにもつながるので
しなければならない仕事となります。
教育の対象は学生です。
学生の入学者数が大学の命運を握る時代になってきました。
そのために、学生の供給先である
高校へのさまざまなアプローチが必要になり、
すべての大学で熱心に取り組んでいます。
その担当は大学の教員や職員となります。
大学の教育は学生への教養や専門的学問を
身につけさせることです。
その重要な最終目標は就職です。
就職先を多数用意するために、
企業へのアプローチも必要になります。
それも教員と職員の仕事となります。
昔の大学は、黙ってても大学に学生が来て、
企業からは求人がきました。
しかし、時代は変わりました。
大学への入口も出口も
大学側が世話をしなければならない時代です。
大学の教職員のリソースは
華やかかりしころと変化はありません。
いや、むしろ減っています。
特に非常勤講師は激減させています。
そのしわ寄せは、教員に及び、
研究や教育の質に反映するはずです。
研究や教育の質を落として、
学生へのサービスが向上するのでしょうか。
そこに矛盾はないのでしょうか。
そんなことを考えさせられました。

2011年4月15日金曜日

76 周木:思惑外の凝灰岩

 西予市の滞在の終に、行き残していていた地域をいくつか巡りました。三瓶の周木もそのひとつでした。二度目の訪問でしたが、今度はひとりでじっくり眺めましまた。そして、その地質学的背景に思いを馳せました。

 愛媛県西予市三瓶町の周木(しゅうき)と長早(ながはや)の間に、須崎観音があります。地元の人以外には、あまり知られていないところですが、なかなか景色がいいところです。
 須崎観音は周木の少し南にある半島の先端にあります。幹線道路から入って半島に向かいます。道は狭いですが、舗装されたしっかりしたルートがあります。観音の入口付近には、駐車場やトイレも完備されています。海岸に降りれば、家族連れでも一日磯遊びができそうな、なかなかいいところです。
 春まだ浅い3月に、この地を訪れました。
 須崎観音の駐車場の近くに、海岸に降りる細い道があります。少々坂が急で階段が長いですが、コンクリートでできた、しっかりとした道です。入り口さえわかれば、あとは、迷うことはありません。その道を降りると、海岸の防波堤沿いに歩くことができます。
 防波堤の一方は海で、もう一方は崖になっています。その崖には、地層が連なっています。この地層を見るのが、今回の目的でした。
 以前に一度、観察会で神奈川県と城川町の子どもたちを連れてきたことがあります。ですから周木のこの海岸は、二度目の訪問となります。
 子どもたちは、磯が大好きです。珍しい磯の生物たちがいろいろ見ることができます。本当は、地層を観てもらうことが目的で連れてきたのですが、やはり海や磯の魅力に地層は負けるようです。まあ、子どもたちが自然の中で遊ぶのはいいことです。
 私には、この切り立った地層の魅力で、ここに再訪したのです。最初に、この地層を見たとき、層状チャートではないかと思いました。チャートも酸性凝灰岩も珪酸(SiO2)を主成分としており、いずれも層状に堆積することもあり、似たような見かけや形状(産状といいます)になる岩石でもあります。まあ、慎重に観察したり、顕微鏡で調べれば、判別はできますが。
 もう少し近寄ってみていくと、緻密な岩石だけでなく、礫岩や粗粒の砂岩などもあります。砕屑性堆積岩の性質がみえてきます。主には、酸性の火山灰(白っぽい透明感のある凝灰岩になります)を含む堆積岩からなり、中には火山岩の角礫を含む地層や、チャートにように見える細粒の凝灰岩、あるいは普通の砕屑性堆積岩に見えるところあります。
 層状チャートという先入観をもったのは、層状チャートと砕屑性堆積岩の組み合わせは、日本列島ではよくあるものだからです。もしそうなら、堆積構造に特徴的なものがあったり、特徴的な岩石も伴うはずです。よく伴われる岩石とは、石灰岩、玄武岩溶岩やその破砕岩、ありは赤色頁岩などが、ブロック状にも近くにあってもいいはずです。これらは、沈み込み帯で形成される固有の岩石群と構造で、付加体とよばれています。このような付加体が、周辺には広く分布しています。秩父帯(秩父累帯とも呼ばれています)に属する地層で、特有の構造をもっています。
 ですから、チャートと砕屑性堆積岩があったとしても不思議ではなく、周辺の関係からそのような付加体であると考えたくなります。問題は、付加体の構造をもっているかどうかです。層状チャートにみえる地層も砕屑性堆積岩も、あまりにも整然と成層しています。この整然さが、少々不思議です。なぜなら両者の生成環境が全く違っているからです。
 付加体を構成しているチャートは、深海底に降り積もった微生物の遺骸が固まってできたものです。一方、砕屑性堆積岩は、陸から運ばれてきた土砂が沈み込み帯(海溝)でたまったものが起源です。それがプレート移動によって沈み込み帯で混在することになります。ですから、両者がぴったりと接していても、その境界には断層があり、年代の違い(数百万年や数千万年のギャップ)もあります。いくつかの境界で、たまたまぴったりとくっつくことがあっても、いたるところで、きれいにくっつくことはありません。でも、ここの地層では整然の地層が連続して積み重なっています。この連なり方は、もともとの堆積構造に見えます。
 地層をさらによくみると、砕屑性堆積岩には、構成粒子が大きくよくみえる礫岩もあります。礫には、火山岩の破片ばかりからできているものもあります。砂岩にも火山岩の破片を多数含むものもあります。さまざまな粒子サイズの火山性堆積岩があります。すべてではありませんが、ここの地層は火山岩起源の砕屑岩を主としていることは確かです。火山岩の粒子の細かいものは凝灰岩となっているはずです。そんな目で見直すと、やはり層状チャートにみえた岩石も、チャートではなく凝灰岩のようです。
 周木のこの地層はすでに詳しく調べられており、秩父帯のものとは明らかに違っていることがわかっています。
 まず、火山岩の性質が、違います。秩父帯のものは、海底の中央海嶺や、海山をつくる火山で形成された玄武岩類です。それに対して周木の凝灰岩は、酸性(デイサイトや流紋岩などの珪酸の多いマグマからできた)で、列島や大陸で活動する火山に由来するものです。軽石の礫も見つかっています。軽石とは、酸性の火山噴火でできる白っぽい穴の多数あいた岩石です。以上のことから、両者の火山岩の起源やでき方の違いがわかります。
 秩父帯の玄武岩は、海洋域で形成され、周木の凝灰岩は、大陸もしくは列島の火山活動でできたことになり、形成環境が明らかに違ってています。また、秩父帯の火山岩は、遠くの海でできた岩石が、沈み込み帯で陸から由来する堆積岩と堆積作用ではなく、プレートの移動に伴って混じった(構造的やテクトニックという)ことになります。このような別の場所から由来した岩石を、異地性と呼びます。一方、周木の火山は、大陸や列島で活動していた火山から直接由来してたまったものになりまします。このようなでき方を現地性とよびます。
 次に、時代が違うことが分かっています。周木の地層の中から化石が見つかっています。礫岩中の石灰岩の礫からサンゴ化石が見つかり、下部デボン紀(約4億年前)のものであることがわかっています。秩父帯の岩石では、せいぜい石炭紀(古くても3億5000万年前)が最古で、多くは中生代に形成されています。明らかに形成年代が違っています。
 このような古い現地性の岩石は、近くにはなく、同じ西予市ですが、少し離れた野村町や城川町にある黒瀬川構造帯の堆積岩に似ています。城川などの黒瀬川構造帯では、岡成層群と呼ばれ、同じ時代、似た岩石構成になっています。周木の地層は、離れていますが、同じ来歴をもった黒瀬川構造帯のメンバーであると考えられます。
 さらに、周木の近くには、トーナル岩や斑レイ岩があります。トーナル岩は、圧力によって潰されて(圧砕といいます)いますが、花崗岩の仲間です。この花崗岩や斑レイ岩は年代は求められていませんが、黒瀬川構造帯の三滝火成岩類(約4億5000万年前の花崗岩類)に対応しています。これらの岩石類の存在も、周木に黒瀬川構造帯があることを支持します。
 そうなると、野村町までで、一旦途切れていた黒瀬川構造帯の分布が、豊後水道に消えなんとする半島の先端に、ほんの少しだけ、顔を出していることになります。たまたまここに残っていだけでしょうか。それとも、そこに深い理由があるのでしょうか。それは、まだ不明です。そんな謎に地質学者たちは挑んでいます。
 磯に切り立った崖に連なる地層を眺め、不思議な地質学的背景に思いを馳せていました。春の周木の地層の崖を眺めが、西予市では最後の調査になりました。

・あるがまま・
最初、周木のこの地層をみたとき、
凝灰岩だと知識で知っていたのですが、
層状チャートではないかと思いました。
よく見て、通常の層状チャートではないことを悟り、
その変化したものではないかと思いました。
でも、よく見て、よくよく考えると、
層状チャートではないという結論になります。
そういう先入観があったのは、
上で述べたような理由もあったのですが、
単調な地層が連続するところを
調べたいと考えてい時期でもありました。
周木の連続露頭を一目見たとき、
その候補になると考えました。
でも、人間の思惑など、自然は配慮しません。
あるがままが自然です。
あるがままの自然に対しては、
先入観を持たず、
あるがままを受け入れる心が必要なのでしょう。
そんなことも学びました。

・力を抜いて・
西予市から北海道にもどってきて
半月がたちました。
大学の新学期にあるいろいろな行事を
つぎつぎとこなしているうちに
あっという間に日々が過ぎていきます。
今回の1年間の研究休暇によって、
脱力することを学びました。
授業やゼミをするとき、
力まずに等身大の自分で行くことにしました。
そして、それは手抜きではなく、
自分の身の丈にあった、
力相応の態度で望むことにしました。
背伸びもせず、出し惜しみのせず、
という感じです。
どれくらい続くかわかりません。
まだ新学期は始まったんばかりです。
新入生より先に力尽きることはできません。
のんびりと、でもそれなりの力で、
急がずに、でも止まることなく、
気楽に、でも誠意を持って、
そんなやり方をしています。

2011年3月15日火曜日

75 佐多岬半島:菜の花の下の片岩

(注)
 このエッセイは、金曜日午前中にほとんどを書き終わっていて、校正をするのみになっていました。発行日の15日より前に校正をして発行をすればいい上智兄していました。ですから、11日の昼には、一仕事が終わったので、外出して午後3時頃に帰ってきました。しばらくして、メーリングリストで東北地方太平洋沖地震があったことを知りました。ですから、このエッセイは、地震とは全く関係のない内容を書いていました。このメールマガジンを発行しようかどうか迷いました。
 地震の情報を知ったあと、家族や親族の安否確認を急ぎました。さらに友人、教え子や関係のある者の情報を収集するため、13日まで没頭していました。その間、何も手につきませんでした。まだ、安否のわからない人も多数います。
 ニュースや情報を集めながら、私にできることをいろいろ考えていました。できることの多くは、多数の中のひとりとしてできることでした。それもしなればなりませんが、私にだけしかできないことは、何かないか考えました。その結果、メールマガジンを配信をすることが私だけができることだと思いました。
 以下のエッセイでは、災害や原子力発電について書いてある部分あります。過激な内容、不適切な内容は修正しましたが、基本的には元のままの状態であります。なぜこの時期にという批判があるかもしれませんが、通常通りに発行することにしました。

(以下メールマガジン本体)
 春の到来はなんだから、うきうきさせるものです。根雪のない地域の春は、花の色で感じるのではないでしょうか。佐田岬半島は、菜の花の映える景色が広がっていました。その下には、三波川変成帯の色とりどりの片岩がありました。

 先日、初春の佐多岬(さだみさき)半島にでかけました。先週行こうと思って天気の回復を待っていたら、行けなかったことがあるので、今回は、朝ひと仕事して、8時過ぎには出ました。幸いなことに晴れが続きました。
 佐田岬半島の三崎までは以前もいったことがあるのですが、今回は、それより先、佐田岬まで行くことにしました。ただ、先端の佐田岬灯台では、吹き飛ばされそうなほど風が強く、寒く感じました。
 さて、佐田岬半島を見ると非常に不思議な形をしています。豊後水道を遮るように、西北西に向かって40km近く伸びています。広いところでも幅約6km、狭いところでは800mほどしかありません。このような形状は、半島だけでなく、付け根の海岸からつづています。松山に向かって、保内、長浜、双海、伊予へと続く海岸も、直線的になっています。
 この直線は中央構造線によるものです。中央構造線は、この直線の海岸の北側の海底を通っています。中央構造線によって、南側の地帯が持ち上げられ、北側が沈んでいきます。そのため佐田岬半島の南側は入り組んだリアス式海岸となっていて良港となっています。三崎港はその中心でもあります。ただ、北側の海岸線は、海食崖の岸壁になっており、海を渡る北風を強く受けるため、集落は少なくなっています。
 中央構造線を堺にして日本海側を内帯、太平洋側を外帯と呼んでいます。中央構造線の南側には三波川変成帯があります。佐多岬半島は三波川変成帯にあたります。一部に御荷鉾(みかぶ)帯に属する岩石もありますが、半島の大部分は三波川変成帯の岩石からできています。
 では、三波川変成帯とは、どんなものでしょうか。大雑把にいうと、付加体を構成していた岩石が変成作用を受けたものです。
 付加体(以前にも説明していますが何度でも説明します)とは、海洋プレートが海溝で沈み込むとき、削ぎ取られ、陸側のプレートにくっついた岩石群のことです。海洋底や海山・海洋島を構成していた玄武岩やその破砕岩類、海洋底堆積物であるチャートや頁岩(赤色頁岩になることが多い)、海洋島の礁をつくっていた石灰岩、さらに陸からもたらされた砂岩や泥岩の陸源の堆積物などを原岩としています。
 その起源を考えるとわかりますが、付加体を構成する岩石は、形成年代の幅が広いものとなります。1億年以上の期間の構成物を含むこともあります。原岩の年代は幅は、海洋プレートとして存在した期間、言い換えると海洋プレートの大きさ、海の広さを示しています。そして、一番若い岩石の年代が、最終的に付加体の形成年代と近似できます。
 岩石群が海溝にもぐり込みはじめたときに溜まっていた、陸からの砕屑性堆積岩、なかでも岩石群の基質になっていることの多い泥岩の年代が、付加体形成年代とみなされてます。ですから、付加体の研究では、付加体の基質となっている泥岩から化石を見つけることが重要となります。
 付加体を構成している岩石群が、海洋プレートにつられて沈み込み、深くに持って行かれます。岩石ですので、熱の伝導性はよくないので、深くもっていかれても温度はさほど上がることなく、圧力だけ上昇していきます。このような圧力を中心とした変成作用が三波川変成帯の岩石は受けています。
 佐田岬半島の三波川変成岩は、白亜紀最前期(1億4500万年前)ころの付加体を原岩としています。そして変成作用は白亜紀中期頃(1億2000万から1億1000万年前)に一番強い変成条件に置かれました。その後、上昇してきました。
 高圧の変成作用を受けた岩石は、剥離性の強い、片岩とよばれる状態になります。片岩は、剥離性が強いため、地すべりを起こしやくすい地域もあります。玄武岩質の岩石は緑色の片岩、泥岩質の岩石は黒色の片岩、砂岩質の岩石や凝灰岩は白っぽい片岩、頁岩は赤色の片岩になる。つまり片岩でも、原岩の種類を反映した色や特徴をもった岩石になります。色のコントラストが印象に残っています。
 三波川変成岩がでているということは、中央構造線によって、深くにあった岩石も持ち上げられたということです。まあ古い岩石ですから昔持ち上げられたのかもしれません。でも、地質運動の状態が綺麗に地形に反映されているということは、その運動が最近まで活動していたか、これからも活動していくということになります。中央構造線は、非常に変動の激しいところであることを意味します。
 佐多岬半島の付け根付近の北向きの海岸近くに、四国電力による伊方原子力発電所があります。3機の原子炉で発電されています。その発電やトラブルについても情報は、ホームページで公開されています。私が先日訪れたときは、非常に強い風が吹いていました。佐田岬半島は、常時、風の強いところのようで、風力発電の塔がいくつもあり、プロペラが回っていました。自然の発電と原子力発電のコントラストも印象的でした。
 路傍に咲く菜の花は、花の咲く時期が非常に早いようで、私がいる山里でも、1月には陽だまりで咲いていました。佐多岬半島では、晴れた青空の下で、多数の菜の花の黄色が印象的でした。青と黄色のコントラストも記憶に残っています。佐多岬半島は、色だけでなくさまざまなコントラストが特徴的でした。

・被災地におらる方々へ・
被災地の方々、頑張ってください。
救援、援助はきっと届きます。
ですから、あと少しがんばってください。
救援の方々、寒さや二次災害の危険の中、
大変なご苦労だと思いますが、
健闘をお祈りします。
届かないメッセージだとは思いますが
自分にも、何かできないかと日本中の人々が思っています。
そして世界中が無事を祈っています。
神戸や新潟の教訓が少しでも役に立って
一日も早い回復を愛媛からお祈りします。

・日本の方々へ・
日本では最大級のマグニチュード9、
そして震度7、度重なる余震。
さらに巨大な津波が大きなダメージを与えました。
それに呼応するような各地の地震。
みなさんの地域は被害はなかったでしょうか。
親族や友人は大丈夫だったでしょうか。
私は、地震当日、家族も親族ともまったく連絡が取れず
翌朝なんとか連絡ができ、無事を確認できました。
しかし、友人や教え子など、
まだ消息が確認できない人もいますので、心配です。
でも、諦めることなく、希望を持って情報収集を続けます。
日本中で今回の災害を見守っておられる方が、
マイナス(批判や不満)の情報や
未確認情報や不注意な情報の発信は控えましょう。
はげましや援助などプラスだけを発信しましょう。

・メディアの方々へ・
多くの方々が、危険なところや大変な思いをして
情報を発信をされていると思います。
ご苦労様です。
その情報はどんなものであっても、
貴重で誰かが欲しているはずです。
ですから、これからも情報の供給をよろしくお願いします。
ただ、くれぐれも慎重な情報発信をお願いします。
時には発信しないことも重要な場合もあるかもしれません。
時には誤情報もあるかもしれません。
被災者は非常にナーバスになっています。
時には発言に感情的なものあるかもしれません。
情報の取捨選択や充分配慮をお願いします。

・数学の日・
(これはすでに書いていたものなので掲載します)
3月14日は数学の日だというのご存知でしょうか。
私も最近知りました。
円周率の近似値3.14にちなんで
日本数学検定協会が制定したものだそうです。
円周率はコンピュータの性能を誇示するのに用いられますが
ギネスの記録では、近藤茂とAlexander J. Yeeが
パソコンで5兆桁まで計算しているのがきろくです。
現在10兆桁を目指しているようです。
22TBのハードディスクや最高速のCPU(3.33GHz)など、
パソコンとしては最高級の設備で計算されています。

2011年2月15日火曜日

74 四国カルスト:南の海からきた石灰岩

四国カルストは、四国山地の西に形成された石灰岩台地です。その石灰岩から、日本列島の生い立ちと、熱帯の海、海洋底、海溝などを垣間見ることができます。四国カルストの奇異な景観は、そんな不思議な大地の生い立ちによっているのでしょう。

今年の冬は、愛媛の山奥にも雪が何度も降り、交通障害を起こしています。昨日(2月14日)も大雪が降りました。これで、今年の西予での大雪も、4度目でしょうか。雪は、地域的に降る量が大きく変わります。同じ西予市内でも、多いところと少ないところの違いが現れます。昨日は私が住んでいる地域に雪がたくさん降りました。こんな時は、じっとしているに限ります。まあ、これは口実で、冬場は寒いので、ついつい出不精になるためでしょう。
私の住む地域よりさらに標高の高い山はどうなっているのでしょうか。愛媛のニュースでは、久万高原がよく雪の様子が報道されるのですが、実は大野ヶ原のほうが雪はすごいはずです。でも、私は、冬場になっていかなくなったので、様子はよくわかりません。多分今年は大野ヶ原も大雪に中に、ひっそりとしていることでしょう。
大野ヶ原へは、夏場によくいっていたのですが、秋が深まったらまた行こうと思っているうちに、冬になり、そろそろ春の気配が近づく今日にまで至ってしまいました。心残りとなっています。
冬場は、四国カルストの東にはスキー場もあり、四国でもウインタースポーツを楽しめる数少ないところとなっています。四国カルストは、標高が高く雪も降る地域だということです。
大野ヶ原は、四国カルスト一部でもあります。以前に紹介した秋吉台(02 秋吉台:想像力がつくる世界 2005.02.15)もカルストですが、四国カルストは、四国山地の稜線付近に連なっているので、秋吉台とは違った魅力を持っています。
四国カルストは、現在私が住んでいる西予市の大野ヶ原から東に広がる石灰岩台地のことです。大野ヶ原、五段高原、姫鶴平(めづるだいら)、天狗高原と稜線が続きます。高知県の梼原町や津野町まで、幅は1kmほどですが、東西に25kmほどにわたって長く広がっています。四国カルストは、まるでヨーロッパや北米大陸のような不思議な景観です。その中の道を走ると、心地よりを異空間に浸れます。ですから、私は同じ市内にある大野ヶ原が好きなのです。
カルストとは、ドイツ語の「Karst」から由来しています。「Karst」は、イタリアからユーゴスラビア北西部にまたがる石灰岩高原の地方名の「カルスト」に由来しています。
炭酸カルシウム(CaCO3)からできている石灰岩は、大気中の二酸化炭素(CO2)を含む雨水(炭酸という酸性の性質をもつ液体となります)、その雨が流れる川、地下水によって溶されます。そのために石灰岩地帯は、通常の流水による侵食とは違った地形(溶食地形といいます)が形成されます。
石灰岩は、不思議なことに、化学的侵食には弱いのですが、物理的侵食に強く、でっぱった岸壁や峰などをつくることがよくあります。そのため、リッジメーカーと呼ばれています。このような石灰岩の特徴が、四国カルストという特有の景観を生み出しました。
四国カルストの東延長として鳥形山(とりがたやま)まで、ほぼ連続的に石灰岩地帯があります。石灰岩が大量に出るところは、セメントの材料として利用されています。鳥形山もその例で、現在でもセメントが採取されています。
大野ヶ原から、県道36号を少し東にいくと道が狭くなり、片側は崖になります。崖には玄武岩からできた枕状溶岩をみることができます。枕状溶岩は、水中で噴火した溶岩に特徴的に出来る形態です。秩父帯北帯の石灰岩の付近には玄武岩を伴っていることがよくあります。
石灰岩と玄武岩は、成因の全く違う岩石です。一緒に出るのは、たまたまでしょうか。実は、それには理由があるのです。
四国カルストの石灰岩は、秩父帯北帯に属します。秩父帯北帯は砂岩や泥岩からできている地帯です。だたし、秩父帯北帯の石灰岩は、石炭紀からペルム紀までのいろいろな時代の化石が見つかります。他にも、石灰岩と玄武岩だけでなく、チャートもよく見つかります。秩父帯北帯は、いろいろな岩石もふくむ不思議な地帯となっています。
一般に日本列島の石灰岩は、サンゴ礁やその破片の化石を含むことが多いのですが、サンゴ(礁をつくるサンゴを造礁サンゴと呼びます)の他にも、紅藻類である石灰藻、オルドビス紀後期からデボン紀後期には層孔虫(古生代オルドビス紀に現れ中生代の終わりころまで生存)なども、造礁生物として繁栄し、石灰岩を構成しています。
礁をつくっていた石灰岩が見つかれば、サンゴでなくても、熱帯から亜熱帯の温暖で浅い海域でできたことがわかります。このように化石からは、時代(示準化石といいます)だけでなく、環境(示相化石と呼んでいます)を読み取ることもできます。秩父帯北帯の石灰岩も、巨大な礁をつくっていた浅い熱帯付近の海でできました。
では、広い海洋(3000mより深い海となります)の真ん中で、浅い海とは、いったい、どのようなところでしょうか。現在の熱帯付近の海をみていくと、点々とサンゴ礁をもつ島々があることがわかります。今も昔と似たような地球の営みがあるということです。
そのような島は、すべて火山によってできています。ハワイのように、今も活動している火山もあります。海上に顔を出している島は海洋島とよばれ、海に顔を出していない火山は海山と呼ばれます。海面付近にある海山で礁をもっているものもあります。
このような海洋島や海山は、スーパーホットプルームと呼ばれる深くにある暖かいマントル部分にその起源をもっている火山です。海洋島や海山での火山活動は、主として玄武岩マグマによるものです。海洋島といっても、最初は海洋底から活動は始まりますから、海洋島になる前は、海面下で活動した溶岩が積み重なっていることになります。もちろんその溶岩は、枕状溶岩です。
海洋底の山脈ともいうべき中央海嶺でできた火山も、玄武岩マグマの活動できました。そして溶岩の形態は、枕状溶岩を主としています。しかし、海洋島のものと海嶺のものは、マグマの性質が少し違っています。ですから、見分けることも可能です。ただし、できてから長い時間といろいろな変遷を経てきているので、変質や変成を受けて化学組成が変わっていることが多いので、性質を見わけるのは、なかなか難しいのですが。秩父帯北帯の玄武岩は、両方の起源のものがあるようです。
さて、赤道付近の海洋島が日本列島にたどりつくまでのシナリオは、次のようなものです。
赤道付近で形成された礁をもった海洋島が、海洋プレートの移動にともなって北上します。やがて、海溝に海洋プレートは沈みこみます。しかし、出っ張った海洋島は、表層にたまった堆積物が、沈み込む時、一部剥ぎ取られて、陸側に取り込まれます。このような作用を付加作用といい、このような仕組みでできたものを付加体と呼びます。
海洋島の礁の部分が石灰岩として、溶岩の部分が玄武岩として、付加します。それらが、周りにあった堆積物の中に取り込まれます。ですから、石灰岩と玄武岩が一緒にでるのは、もともと同じ場所でできたものだからです。
海山以外の深海底にたまった生物の遺骸は、やがてチャートになります。海洋地殻は海嶺の玄武岩からできています。それらも付加されることがあります。
いろいろな起源や時代の違うものが、このような付加体というメカニズムで考えれば、うまく説明できます。石灰岩が、石炭紀からペルム紀までのいろいろな時代のものがあるのは、付加体になった海洋プレートがそのような時代に形成されたものだったことになります。
これが秩父帯北帯の形成メカニズムだと考えられています。秩父帯北帯は、ジュラ紀に付加しましたが、残念ながらその当時は、日本列島はまだできていないで、大陸の縁にありました。
四国カルストの石灰岩は、温かい海で形成されたものです。日本列島の構成物が、赤道付近で形成された石灰岩というのは、ちょっと想像しにくいのですが、それが大野ヶ原の景観の不思議な魅力となっているのかもしれません。四国カルストは、日本にいながらにして、熱帯や海洋島、深海底をみることができるところです。
滞在期間が終わるまでには、四国カルストには、もう一度、行こうと思っています。

・革命前夜・
付加体のメカニズムは、
日本がその研究の舞台となり、
日本の研究者が主役となりました。
当時、地質学はいろいろな発見で沸き立っていました。
そして、今地質学では、
再度熱い時代がきつつあります。
それは、技術と概念の導入によっています。
新しい技術による今までになり質のデータが大量にでています。
また新しい概念で、野外の地質の見直しがされています。
それは本当に革命を起こすのでしょうか。
それとも、一時のブームに終わってしまうのでしょうか。
それは革命に関わる人々の動員力によるでしょう。
その動員力を左右するのは、
革命家の熱意によるのかもしれません。

・大野ヶ原・
雪の降りしきる窓を眺めると、
山の方はもっとすごい雪に
なっているのだろうなと思ってしまいます。
海岸沿いの人からみると、
私がいる城川も山奥なのですが、
大野ヶ原はもっと山奥です。
でも、大野ヶ原は
私が住むことろからはすぐ近くです。
そして好きな地でもあります。

2011年1月15日土曜日

73 興津:先入観を壊した断層

今年最初のエッセイは、地質学の常識を覆した断層の話です。人里はなれた険しい断崖に囲まれた海岸にある露頭から見つかりました。その断層は古いものですが、「断層の化石」とよばれている岩石が見つかりました。その岩石が、シュードタキライトと呼ばれています。

今年最初のエッセイは、高知県高岡郡四万十町小鶴津です。小鶴津を「こづるつ」と読める人はあまりいないと思います。また、行ったことのある人も少ないでしょう。小鶴津はかつての窪川町ですが、今では四万十町になっています。しかし、地質学では、付加体のメランジュ(下の注を参照)のあるところで有名なので、学会で巡検でいっている人も結構いるはずです。
小鶴津へは、志和(しわ)から細い道を入っていくのですが、地図を見ると、細い道が書いてありますが、カーナビでは道は出てきません。地図の道は、もっと先まで行ってますが、行き止まりの道になっています。まあ、地図に地名があり、道が書いてあるで、行ってみることにしました。人が住んでいるかどうかもわかりません。
志和で「車でいけますか」と聞いたのですが、「昔行ったことがあるので、多分行けるんじゃないと」という不確かで不安を誘う答えでした。「人は住んでいるのですか」と聞くと、「住んでいる」とのことです。車で行けるかどうか少々不安でしたが、行けるところまで行ってみようと思い、車を進めました。
志和の町を外れるとすぐに山道に入り、やがて海沿いの道になります。そこに通行注意やがけ崩れ注意の看板があります。でも、車は進めそうです。道路を進むと、車が一台ぎりぎり通れるような、道が続いています。そして小鶴津へはいけそうです。どうも人がやはり住んでいて、生活道になっているようです。
ただし一方は崖が迫まり、一方は海に落ち込んでいます。危なければすぐに引き返すつもりで進みました。Uターンできるようなところがありません。退避場所もほとんどありません。狭い危険な道を長くバックできるような技術は、私にはありません。不安におののきながら進みましたが、もう戻れません。
対向車が来たら、お手上げです。しばらく行っても、もうこうなったら通り抜けるしかありません。覚悟を決めて進みました。長く感じながらもやっと、小鶴津の集落に着きました。そこには、数軒の人家があり、やはりこの道は生活道になっているようです。
集落に入っても狭い道ですが、車を停めておけるスペースはありました。車を止めて、海岸に出て露頭を見に来ました。そんな苦労の末みた露頭はひとしおの感激がありました。ところが、苦労してきたところでは、釣り人が二人のんびりと釣りをしていました。多分同じ道を通ってきたのでしょう。釣り人は本当にいろいろなところへいきます。地質学者が苦労してたどり着いたところでも、釣り人がいたりします。そっちの方も驚かされます。閑話休題。
さてそもそも、小鶴津に来たのは、興津メランジュをみるためです。興津と書いて「おきつ」と読みます。小鶴津からもう少し奥の大鶴津(おおつるつ)までの海岸沿いで興津メランジュが見れます。アプローチがすごく大変ですが。
前回紹介した横浪(よこなみ)メランジュも、四万十帯の中にできた付加体を特徴付けるものでした。今回の興津メランジュも、四万十帯の付加体の中にあります。位置は、横浪メランジュがより北東側(陸側というほうがいいでしょう)にあるのに対し、興津メランジュは南西側(海側)になります。その間の位置に、久礼(くれ)メランジュもあります
沈み込み帯では、海から陸に向かっての付加作用が起こります。日本列島は、過去も同じような環境にあったことが分かっています。日本列島の西側(地質学では西南日本と呼びます)の太平洋側(中央構造線より海側を外帯といいます)では、海側ほど新しい時代の付加体を見ることになります。現在もプレートの沈み込みが続いている四国沖では、付加体が形成されています。
現在の付加体の形成場は、海域や地下なので、直接観察することは困難です。ただし、四万十帯は地表に露出した過去の付加体なので、手軽に歩いて観察して、調査することができます。四万十帯は、今まで付加体の解明には重要な役割を果たしてきました。今もまだ重要性はあり、新しい発見が続いています。
横浪メランジュは、北側(陸側)を新荘川層群(白亜紀前期に付加)の須崎層、南側を大正層群(白亜紀後期に付加)の下津井層に挟まれた地域で、久礼メランジュは、大正層群の下津井層と野々川層の間にあります。興津メランジュは、大正層群内の野々川層と中村層の間にあります。白亜紀末にそれぞれのメランジュが形成されますが、形成年代は海側ほど新しくなっています。
メランジュですから、中身にはいろいろな時代のいろいろな種類の岩石が混じっています。ただ、興津メランジュは、チャートが少なく玄武岩が多いという特徴があり、四万十帯の他のメランジュとは違っています。
実は、興津メランジェの特徴は、メランジュを構成する異質岩塊の違いだけでなく、なんといってもシュードタキライトが見つかったことです。シュードタキライトとは、英語のpseudotachylite(pseudotachylyteとも書くことがあります)を、そのまま読んだものです。pseudoとは「偽」という意味で、tachyliteという岩石があり、それに「似ているが違うもの」という意味です。
タキライト(tachylite)とは、火山岩の一種で、玄武岩溶岩が急激に固まってできたものです。結晶があまりできず、ガラス質の溶岩をタキライトといいます。タキライトは火山活動によるマグマに由来したものです。
ところが、シュードタキライトは、玄武岩質のガラスはあるのですが、その起源が火山活動ではないということです。断層帯で見つかる玄武岩質ガラスが、シュードタキライトと呼ばれました。マグマなどの熱源がないところで、岩石が溶けるようなことが起こっているわけです。まあ「火ないところで煙」のようなものですが、実は断層運動がその熱源だということが1970年代ころにわかってきました。
断層が急激に動くと、岩石間に起こる摩擦によって高温になり、溶けることがあります。しかし、断層の動きがおさまると、すぐに冷却してしまいます。そのような成因の岩石をシュードタキライトと呼ぶようになりました。シュードタキライトは日本でも各地で見つかってきました。
断層は、地震を引き起こします。あるいは、地震が起こるということは、岩石が割れる(断層形成)ことです。その断層運動がシュードタキライトとして残されるので、「地震の化石」とも呼ばれています。
シュードタキライトは、どこでもできるわけではありません。ある条件を満たさなければなりません。岩石が断層の摩擦で溶けるには、摩擦力が強く働く環境で、なおかつ高速でのズレが起こる必要があります。
地下深部は圧力と共に温度も高くなります。深度が浅いところでの断層では、岩石は角礫状(断層角礫と呼ばれます)になります。また深くなると、温度が上がり、岩石は柔らかく(強度の低下)なり、流動的な変形が起こり、マイロナイトという岩石(断層岩と呼ばれることがあります)ができます。
断層角礫とマイロナイトの条件の間(深度でいえば5~15kmくらい)でシュードタキライトが形成されます。さらに、日本列島のように逆断層のできる条件(水平圧縮場)のほうが、シュードタキライトが形成されやすくなります。そこは、内陸直下型の地震の起こる場でもあります。
沈み込み帯で地震はたくさん起こりますが、水の多いところでもあります。付加体内部では、堆積岩が潤滑材となる水を沢山含んでいるので、断層も滑りやすいので、岩石が溶けるような高温にはならないはずです。ですから、プレートの沈み込み帯のようなところでは、シュードタキライトはできないと考えられていました。
ところが、興津メランジェ内の断層(興津断層と命名されています)でシュードタキライトが2003年に見つかりました。これは、今までの常識をくつがえすものでした。今まで先入観で付加体にはシュードタキライトはないと思われていたのですが、深部で地震によって断層が形成されれば、付加体の中でも、シュードタキライトができるような条件が満たされることがあることになった訳です。現在進行中の付加体の中でも、シュードタキライトが形成されている可能性が示されたことになります。今後は付加体内で大きな断層を見るときは、シュードタキライトがないかという、新しい視点でも見る必要があります。
小鶴津に行ったのは別の日に、再度興津メランジュのシュードタキライトを見にいきました。シュードタキライトをみるためには、先程の狭く険しい道の入り口から、古い踏み跡と、非常に急激な崖を草木を手がかりに降りていきます。もちろん帰りは、そこを登らなければななりません。運動不足や体力のない人は帰ってこれないようなところです。
興津メランジュやシュードタキライトは、地質学の世界では、結構有名なところでもあります。そうそう行けるところではないのですが、興津メランジュは昨年、国の天然記念物に申請されています大変な思いをしてみた興津メランジュやシュードタキライトは、印象深いものでした。そしてなにより、常識にとらわれることなく自然を見ることは大切であることを、このシュードタキライトは、私たちに教えてくれました。

(注)メランジュとは(前回のエッセイの再録)
ぐしゃぐしゃに破砕された基質(細粒の部分)の中に、いろいろな種類、起源の礫や岩塊(大きなサイズのブロック)を含む構造をもつ地質体で、地質図上で表現できる大きさのものをいいます。含まれている岩塊は、堆積岩や変成岩、火成岩などさまざまなものがあり、その起源は問いません。

興津メランジュの範囲の地形図。赤点がシュードタキライトの見つかったところ。


上との同じ範囲を地質で示した。
地形解析の地下開度図。

地形解析の地下開度図。

地形解析の傾斜量図。

興津メランジュを南西側の小鶴津の海岸から眺めた景観

興津メランジュを南西側の小鶴津の海岸から眺めた景観。

興津メランジュの興津断層の遠景。赤線が断層の通るところ。

興津断層全景。赤っぽいところが、玄武岩の異質岩塊。

赤っぽいところが玄武岩で、白っぽところが断層破砕帯。赤っぽところの中にシュードタキライトが形成されている。

左半分が赤っぽい玄武岩の異質岩塊。枕状溶岩の産状がみえる。玄武岩の中で、赤っぽところが地震断層でできた炭酸塩鉱物アンケライト(ankerite)で黒っぽいところがシュードタキライトの濃集部。

興津断層の破砕の激しいろころ。

玄武岩と断層破砕を上から眺めたところ


・運動不足・
2度の興津メランジュは、いじれもひとりで行きました。
2度目のシュードタキライトへは
別のところを見たあとだったので、
だいぶ疲れていたました。
最後の崖の上りは
非常に疲れ、へとへとになりました。
運動不足を痛感しました。
毎日プールで泳いでいるのですが、
それでは足りないようでした。
いやもしかしたら、年齢のせいかもしれませんが。

・時間との勝負・
2005年1月にスタートしたこのエッセイも、
今年で7年目に入ります。
エッセイも73回目ですから、
日本各地を紹介してきました。
このエッセイは、
私がいったところをネタにしています。
ホームページの地図を
見ていただけるとわかりますが、
紹介した地域にはムラがあります。
中国地方や関東、東北なども書いていません。
それは、最近いってないためです。
まだエッセイにしていないところを
順番に出かけようと思っているのですが、
なかなか思うように出かけられません。
まあ、ライフワークとして巡りたいと考えています。
そして、できればエッセイも続けれればと思っています。
あとは、体力の様子をみながらですね。
それと、私に残された時間との勝負も必要ですね。